巻十五 志第五 地理下
青州
『禹貢』によれば海岱の地であり、舜が十二牧を置いたとき、その一つであった。舜は青州が海を越えているため、さらに分けて営州としたので、 遼東 は本来青州であった。『周礼』には「正東を青州という」とある。おそらく土地が少陽の位置にあり、その色が青であることから名づけられたのであろう。『春秋元命包』には「虚危が流れて青州となる」とある。漢の武帝が十三州を置いたとき、旧名に因み、後漢から晋に至るまで改められなかった。州は六つの郡国を統轄し、三十七県、五万三千戸を管轄した。
齊国〈秦が郡を置き、漢は国とした。景帝は北海郡とした。五県を統轄し、一万四千戸。〉
済南郡〈漢が設置。五県を統轄し、五千戸。ある説では、魏が蜀を平定したとき、その豪族や将軍の家を済水の北に移したため、済岷郡と改称したという。しかし『太康地理志』にはこの郡名はなく、詳細は不明である。〉
楽安国〈漢が設置。八県を統轄し、一万一千戸。〉
城陽郡〈漢が設置し、北海に属した。魏から晋にかけて、北海から分離して設置された。郡は十県を統轄し、一万二千戸。〉
東萊国〈漢が郡を設置。六県を統轄し、六千五百戸。〉
長広郡〈咸寧三年に設置。三県を統轄し、四千五百戸。〉
恵帝の元康十年、さらに平昌郡を設置した。また城陽郡の黔陬、壮武、淳于、昌安、高密、平昌、営陵、安丘、大、劇、臨朐の十一県を分けて高密国とした。永嘉の喪乱以来、青州は石氏に陥落した。東萊の人曹嶷が 刺史 となった。広固城を築いたが、後に 石季龍 に滅ぼされた。季龍の末年、遼西の段龕が自ら斉王を称し、青州を占拠した。 慕容恪 が趙を滅ぼし、青州を攻略した。苻氏が燕を平定し、その地をすべて領有した。苻氏が敗れた後、 刺史 の苻朗が州を挙げて降伏した。朝廷は幽州を置き、別駕の辟閭渾を 刺史 として広固に鎮守させた。隆安四年、慕容徳に滅ぼされ、ここに都を置いた。これが南燕であり、再び青州と改称した。徳は 并 州牧を陰平に、幽州 刺史 を発幹に、徐州 刺史 を莒城に、青州 刺史 を東萊に、兗州 刺史 を梁父に鎮守させた。慕容超は青州を東萊郡に移したが、後に劉裕に滅ぼされ、長史の羊穆之を青州 刺史 として残し、東陽城を築いてそこに居住させた。元帝が江を渡って以来、広陵に僑置として青州を置いていた。この時になって初めて北青州を設置し、東陽城に鎮守し、僑立の州を南青州とした。その後、南青州を廃止し、北青州を単に青州と呼ぶようになった。
徐州
『禹貢』によれば海岱および淮の地であり、舜の十二牧の一つであった。周代には青州の領域に入る。『春秋元命包』には「天 氐 が流れて徐州となる」とある。おそらく舒緩(ゆるやか)の意味から取ったものであろう。あるいは徐丘に因んで名づけられたともいう。秦が天下を兼ねたとき、泗水、薛、琅邪の三郡を置いた。楚漢の際、東陽郡を分置した。漢はさらに東海郡を分置し、泗水を沛と改め、薛を魯と改め、沛を分けて楚国を置き、東陽を呉国に属させた。景帝は呉を江都と改め、武帝は沛と東陽を分けて臨淮郡を置き、江都を広陵と改めた。十三州が置かれると、その地を徐州とし、楚国および東海、琅邪、臨淮、広陵の四郡を統轄した。宣帝は楚を彭城郡と改め、後漢は彭城国と改め、沛郡の広戚県を属させ、臨淮を下邳国と改めた。太康元年、さらに下邳国に属する淮南にある県を分けて臨淮郡を置き、琅邪を分けて東莞郡を置いた。州は合わせて七つの郡国を領し、六十一県、八万一千二十一戸を管轄した。
彭城国〈漢は郡とした。七県を統轄し、四千一百二十一戸。〉
下邳国〈漢が臨淮郡として設置。七県を統轄し、七千五百戸。〉
東海郡(漢代に設置。統轄する県は十二、戸数は一万一千百。)
琅邪国(秦代に郡を設置。統轄する県は九、戸数は二万九千五百。)
東莞郡(太康年間に設置。統轄する県は八、戸数は一万。)
広陵郡(漢代に設置。統轄する県は八、戸数は八千八百。)
臨淮郡(漢代に設置。章帝の時に下邳と合併したが、太康元年に再び設置。統轄する県は十、戸数は一万。)
太康十年、青州城陽郡の莒・姑幕・諸・東武の四県を東莞に属させた。元康元年、東海郡を分割して蘭陵郡を設置した。七年、また東莞郡を分割して東安郡を設置し、臨淮郡を分割して淮陵郡を設置し、堂邑に堂邑郡を設置した。永嘉の乱の時、臨淮・淮陵はともに石氏に陥落した。元帝が長江を渡った後、徐州で得たのは半分のみであり、そこで僑置として淮陽・陽平・済陰・北済陰の四郡を設置した。また、琅邪国の人で帝に従って長江を渡った者たちのために、懐徳県および琅邪郡を設置して統轄した。この時、幽・冀・青・ 并 ・兗の五州および徐州の淮北からの流民が相率いて長江・淮河を渡り、帝はともに僑立の郡県を設置して彼らを統治した。呉郡の海虞の北境を割き、郯・朐・利城・祝其・厚丘・西隰・襄賁の七県を立て、曲阿に寄居させ、江乗に南東海・南琅邪・南東平・南蘭陵などの郡を設置し、武進を分割して臨淮・淮陵・南彭城などの郡を立て、南徐州に属させ、また頓丘郡を設置して北徐州に属させた。明帝はまた南沛・南清河・南下邳・南東莞・南平昌・南済陰・南濮陽・南太平・南泰山・南済陽・南魯などの郡を立て、徐・兗二州に属させた。当初は江南に居住したり、江北に居住したり、あるいは兗州が州を管轄したりした。郗鑒が青兗二州諸軍事・兗州 刺史 を 都督 し、徐州 刺史 を加官され、広陵に駐屯した。蘇峻の乱平定後、広陵から京口に戻って駐屯した。また、漢代の旧九江郡の境界に鐘離郡を設置し、南徐州に属させ、江北にもまた僑立として幽・冀・青・ 并 の四州を設置した。穆帝の時、南東海の七県を移して京口に居住させた。義熙七年、初めて淮北を分割して北徐州とし、淮南はただ徐州とし、彭城・沛・下邳・蘭陵・東莞・東安・琅邪・淮陽・陽平・済陰・北済陰の十一郡を統轄し、盱眙に盱眙郡を立て、考城・直瀆・陽城の三県を統轄し、また広陵の境界を分割して海陵・山陽の二郡を設置した。後にまた幽州と冀州を合わせて徐州とし、青州と 并 州を合わせて兗州とした。
荊州
『禹貢』によれば荊および衡陽の地であり、舜が十二牧を設置した時、その一つである。『周礼』には「正南を荊州という」とある。『春秋元命包』には「軫星が散じて荊州となる」とある。荊とは強の意味で、その気質が荒く強いことを言う。また警の意味でもあり、南蛮がたびたび寇逆をなすため、その人々は道ある者には後れて服従し、道なき者には先んじて強くなるので、常に警戒備えすることを言う。また、荊山から名を取ったとも言われる。戦国時代、その地は楚であった。秦の時代、楚の鄢郢を取って南郡とし、また巫中の地を取って黔中郡とし、楚の漢北をもって南陽郡を立て、楚を滅ぼした後、黔中を分割して長沙郡とした。漢の高祖は長沙を分割して桂陽郡とし、黔中を武陵郡と改め、南郡を分割して江夏郡とした。武帝はまた長沙を分割して零陵郡とした。十三州を設置するに及んで、旧名に因って荊州とし、南郡・南陽・零陵・桂陽・武陵・長沙・江夏の七郡を統轄した。後漢の献帝建安十三年、魏の武帝が荊州の地をことごとく得て、南郡以北を分割して 襄陽 郡を立て、また南陽の西界を分割して南郷郡を立て、枝江以西を分割して臨江郡を立てた。赤壁で敗れた後、南郡以南は呉に属し、呉は後に蜀と荊州を分割した。ここにおいて南郡・零陵・武陵以西は蜀とし、江夏・桂陽・長沙の三郡は呉とし、南陽・襄陽・南郷の三郡は魏とした。そして荊州の名は、南北に二つ立つこととなった。蜀は南郡を分割して宜都郡を立てたが、劉備の没後、宜都・武陵・零陵・南郡の四郡の地はことごとく再び呉に属した。魏の文帝は漢中の遺民をもって魏興・新城の二郡を立て、明帝は新城を分割して上庸郡を立てた。孫権は江夏を分割して武昌郡を立て、また蒼梧を分割して臨賀郡を立て、長沙を分割して衡陽・湘東の二郡を立てた。孫休は武陵を分割して天門郡を立て、宜都を分割して建平郡を立てた。孫皓は零陵を分割して始安郡を立て、桂陽を分割して始興郡を立て、また零陵を分割して邵陵郡を立て、長沙を分割して安成郡を立てた。荊州は南郡・武昌・武陵・宜都・建平・天門・長沙・零陵・桂陽・衡陽・湘東・邵陵・臨賀・始興・始安の十五郡を統轄し、その南陽・江夏・襄陽・南郷・魏興・新城・上庸の七郡は魏の荊州に属した。武帝が呉を平定すると、南郡を分割して南平郡とし、南陽を分割して義陽郡を立て、南郷を順陽郡と改め、また始興・始安・臨賀の三郡を広州に属させ、揚州の安成郡を移して属させた。州は二十二郡を統轄し、県は百六十九、戸数は三十五万七千五百四十八。
江夏郡(漢代に設置。統轄する県は七、戸数は二万四千。)
南郡(漢代に設置。統轄する県は十一、戸数は五万五千。)
襄陽郡(魏が設置。統轄する県は八、戸数は二万二千七百。)
南陽国(秦代に郡を設置。統轄する県は十四、戸数は二万四千四百。)
順陽郡(太康年間に設置。八県を統轄、戸数は二万百。)
義陽郡(太康年間に設置。統轄する県は十二、戸数は一万九千。)
新城郡(魏が設置。統轄する県は四、戸数は一万五千二百。)
魏興郡(魏が設置。統轄する県は六、戸数一万二千。)
上庸郡(魏が設置。統轄する県は六、戸数一万一千四百四十八。)
建平郡(呉と晋がそれぞれ建平郡を置き、太康元年に合併。統轄する県は八、戸数一万三千二百。)
宜都郡(呉が設置。統轄する県は三、戸数八千七百。)
南平郡(呉が設置し、南郡としたが、太康元年に南平と改称。統轄する県は四、戸数七千。)
武陵郡(漢が設置。統轄する県は十、戸数一万四千。)
天門郡(呉が設置。統轄する県は五、戸数三千一百。)
長沙郡(漢が設置。統轄する県は十、戸数三万三千。)
衡陽郡(呉が設置。もとは長沙郡に属した。統轄する県は九、戸数二万三千。)
湘東郡(呉が設置。もとは長沙郡に属した。統轄する県は七、戸数一万九千五百。)
零陵郡(漢が設置。統轄する県は十一、戸数二万五千一百。)
邵陵郡(呉が設置。統轄する県は六。戸数一万二千。)
桂陽郡(漢が設置。統轄する県は六、戸数一万一千三百。)
武昌郡(呉が設置。統轄する県は七、戸数一万四千八百。)
安成郡(呉が設置。統轄する県は七、戸数三千。)
恵帝は桂陽・武昌・安成の三郡を分けて江州を立て、新城・魏興・上庸の三郡を梁州に属させ、また義陽を分けて随郡を立て、南陽を分けて新野郡を立て、江夏を分けて竟陵郡を立てた。懐帝はさらに長沙・衡陽・湘東・零陵・邵陵・桂陽および広州の始安・始興・臨賀の九郡を分けて湘州を置いた。当時蜀が乱れていたため、また南郡の華容・州陵・監利の三県を割いて別に豊都を立て、四県を合わせて成都郡を置き、成都王司馬穎の封国とし、華容県に居らせた。愍帝の建興年間に、これらはすべて南郡に戻され、豊都も監利に併合された。元帝が長江を渡ると、また新興・南河東の二郡を僑置した。穆帝の時、また零陵を分けて営陽郡を立て、南郡にいる義陽の流民を集めて義陽郡を立てた。また広州の臨賀・始興・始安の三郡および江州の桂陽、益州の巴東、合わせて五郡を分けて属させ、長沙・衡陽・湘東・零陵・邵陵・営陽の六郡を湘州に属させた。 桓温 はまた南郡を分けて武寧郡を立てた。安帝はまた南義陽・東義陽・長寧の三郡を僑置した。義熙十三年、湘州を廃止し、長沙・衡陽・湘東・零陵・邵陵・営陽を荊州に戻した。
揚州
『禹貢』に基づけば淮海の地であり、舜が十二牧を置いた時の一つである。『周礼』には「東南を揚州という」とある。『春秋元命包』には「牽牛星の流れが揚州となり、越国に分かれた」とある。江南の気質は躁勁で、その性質は軽揚であるからだという。また、州の境界には水が多く、水波が揚がるからだともいう。古くは荒服の国であり、戦国時代にはその地は楚に分属した。始皇帝が天下を併合し、鄣・ 会稽 ・九江の三郡を置いた。項羽は英布を九江王に封じ、その地をすべて有させた。漢は九江を淮南と改称し、すぐに英布を淮南王に封じた。六年、淮南を分けて 豫 章郡を置いた。十一年、英布が誅殺され、皇子の劉長を淮南王に立て、劉濞を呉王に封じ、二国は揚州の地をすべて得た。文帝十六年、淮南を分けて廬江・衡山の二郡を立てた。景帝四年、皇子の劉非を江都王に封じ、鄣・会稽郡をも得たが、 豫 章は得られなかった。武帝は江都を広陵と改称し、皇子の劉胥を王に封じて徐州に属させた。元封二年、鄣を丹楊と改称し、淮南を再び九江とした。後漢の順帝は会稽を分けて呉郡を立て、揚州は会稽・丹楊・呉・ 豫 章・九江・廬江の六郡を統轄し、六安を廃止して廬江郡に併合した。献帝の興平年間、孫策が 豫 章を分けて廬陵郡を立てた。孫権はまた 豫 章を分けて鄱陽郡を立て、丹楊を分けて新都郡を立てた。孫亮はまた 豫 章を分けて臨川郡を立て、会稽を分けて臨海郡を立てた。孫休はまた会稽を分けて建安郡を立てた。孫皓は会稽を分けて東陽郡を立て、呉を分けて呉興郡を立て、 豫 章・廬陵・長沙を分けて安成郡を立て、廬陵を分けて廬陵南部都尉を立て、揚州は丹楊・呉・会稽・呉興・新都・東陽・臨海・建安・ 豫 章・鄱陽・臨川・安成・廬陵南部の十四郡を統轄した。長江西岸の廬江・九江の地は、合肥の北から 寿春 まですべて魏に属した。晋が呉を平定すると、安成を荊州に属させ、丹楊の宣城・宛陵・陵陽・安呉・涇・広徳・寧国・懐安・石城・臨城・春穀の十一県を分けて宣城郡を立て、治所を宛陵とし、新都を新安郡と改称し、廬陵南部を南康郡と改称し、建安を分けて晋安郡を立て、また丹楊を分けて毗陵郡を立てた。揚州は合わせて十八郡を統轄し、百七十三県、三十一万一千四百戸を管轄した。
丹陽郡(漢代に設置。統轄する県は十一、戸数は五万一千五百。)
宣城郡(太康二年に設置。統轄する県は十一、戸数は二万三千五百。)
淮南郡(秦が九江郡を設置。漢はこれを淮南国とし、漢武帝が九江郡を置いた。武帝が淮南郡に改めた。統轄する県は十六、戸数は三万三千四百。)
廬江郡(漢代に設置。統轄する県は十、戸数は四千二百。)
毗陵郡(呉が会稽の無錫以西を分けて屯田とし、典農 校尉 を置いた。太康二年、 校尉 を廃止して毗陵郡とした。統轄する県は七、戸数は一万二千。)
呉郡(漢代に設置。統轄する県は十一、戸数は二万五千。)
呉興郡(呉が設置。統轄する県は十、戸数は二万四千。)
会稽郡(秦が設置。統轄する県は十、戸数は三万。)
東陽郡(呉が設置。統轄する県は九、戸数は一万二千。)
新安郡(呉が設置。統轄する県は六、戸数は五千。)
臨海郡(呉が設置。統轄する県は八、戸数は一万八千。)
建安郡(もとは秦の閩中郡で、漢の高祖五年にこれをもって閩越王を立てた。武帝がこれを滅ぼすと、その民を移し、東冶と名付け、また東城と改称した。後漢は候官都尉と改め、呉が建安郡を置いた。統轄する県は七、戸数は四千三百。)
晉 安郡(太康三年に設置。統轄する県は八、戸数四千三百。)
豫 章郡(漢代に設置。統轄する県は十六、戸数三万五千。)
臨川郡(呉により設置。統轄する県は十、戸数八千五百。)
鄱陽郡(呉により設置。統轄する県は八、戸数六千一百。)
廬陵郡(呉により設置。統轄する県は十、戸数一万二千二百。)
南康郡(太康三年に設置。統轄する県は五、戸数一千四百。)
恵帝の元康元年、有司が上奏した。荊州と揚州は領土が広大で遠く、統治が特に困難である、と。そこで揚州の 豫 章、鄱陽、廬陵、臨川、南康、建安、 晉 安の七郡と、荊州の武昌、桂陽、安成の三郡、合わせて十郡を割き、長江の名に因んで江州を設置した。永興元年、廬江郡の尋陽県と武昌郡の柴桑県の二県を分離して尋陽郡を設置し、江州に属させた。また淮南郡の烏江県と歴陽県の二県を分離して歴陽郡を設置した。また、周玘が義兵を起こして石冰を討伐した功績により、呉興郡の陽羨県と長城県の北郷を割き、義郷、國山、臨津の三県と陽羨県を合わせた四県を設置し、さらに丹陽郡の永世県を分けて平陵県と永世県を置き、合わせて六県とし、義興郡を立てて周玘の功績を顕彰し、これらをすべて揚州に属させた。また、毗陵郡を東海王の世子司馬毗に封じたが、司馬毗の 諱 を避けて 晉 陵と改称した。懐帝の永嘉元年、 豫 章郡の彭沢県を尋陽郡に属させた。愍帝が即位すると、その諱を避けて建鄴を 建康 と改めた。元帝が長江を渡り、揚州に都を建てると、丹陽太守を丹陽尹に改め、江州には新蔡郡を設置した。尋陽郡には九江県と上甲県の二県を設置したが、まもなく九江県を廃止して尋陽県に編入した。この時、司州、冀州、雍州、涼州、青州、 并 州、兗州、 豫 州、幽州、平州の諸州はすべて陥落し、江南で保持できたのは揚州、荊州、湘州、江州、梁州、益州、交州、広州のみであり、徐州は半分以上を保持し、 豫 州は譙城だけを得たに過ぎなかった。明帝の太寧元年、臨海郡を分けて永嘉郡を立て、永寧、安固、松陽、横陽の四県を移した。そして揚州は丹陽、呉郡、呉興、新安、東陽、臨海、永嘉、宣城、義興、 晉 陵の十一郡を統轄した。
中原が乱れて離散し、残った民衆が南に渡って以来、牧司を広陵や丹徒の南城に僑置したが、これは本来の土地ではない。胡の賊が南に侵攻すると、淮南の百姓は皆長江を渡った。成帝の初め、蘇峻と祖約が江淮で乱を起こし、胡の賊もまた大挙して到来したため、南に渡る百姓はますます多くなり、そこで江南に淮南郡および諸県を僑置し、また尋陽に松滋郡を僑置して、遠く揚州に隷属させた。咸康四年、魏郡、広川、高陽、堂邑などの諸郡を僑置し、それらが統轄する県もすべて京邑に寄居させ、陵陽を広陽と改称した。孝武帝の寧康二年、永嘉郡の永寧県を分けて楽成県を設置した。この時、上党の百姓が南に渡り、上党郡を僑立して四県とし、蕪湖に寄居させた。まもなく上党郡を廃止して県とし、また襄城郡を廃止して繁昌県とし、ともに淮南郡に属させた。安帝の義熙八年、尋陽県を廃止して柴桑県に編入し、柴桑は依然として郡治とした。後にまた上甲県を廃止して彭沢県に編入した。以前、江州は荊州の竟陵郡を監督していたが、何無忌が 刺史 となった時、竟陵は州から遠く離れ、江陵から三百里であり、荊州が設置した綏安郡の戸口が管轄区域内に入り、この郡を頼みに長江沿岸の防備を助けようとしているため、竟陵郡を荊州に返還すべきであると上表した。また、司州の弘農郡と揚州の松滋郡の二郡が尋陽に寄居しており、戸口が居住しにくいので、ともに監督を設置すべきである。安帝はこれに従った。後にまた松滋郡を廃止して松滋県とし、弘農郡を廃止して弘農県とし、ともに尋陽郡に属させた。
交州
『禹貢』によれば揚州の領域であり、これは南越の土地である。秦の始皇帝は揚越を平定すると、罪を犯した戍卒五十万人を五嶺に駐屯させて守らせた。北から南へ、越に入る道は必ず嶺嶠を通るが、当時は五箇所あったので五嶺と呼ばれた。後に任囂と趙佗を派遣して越を攻め、陸梁の地を攻略し、ついに南越を平定して、桂林、南海、象の三郡とした。これは秦の三十六郡の範囲には含まれず、南海尉を置いてこれを統轄させた。いわゆる東南一尉である。漢の初め、嶺南の三郡と長沙、 豫 章を以て呉芮を長沙王に封じた。十一年、南武侯の織を南海王とした。陸賈が使者から戻ると、趙佗を南越王に任命し、長沙の南の三郡を割いて彼に封じた。武帝の元鼎六年、呂嘉を討伐して平定し、その地を南海、蒼梧、郁林、合浦、日南、九真、交趾の七郡とした。これは秦の時代の三郡の地である。元封年間、さらに儋耳、珠崖の二郡を設置し、交趾 刺史 を置いて監督させた。昭帝の始元五年、儋耳を廃止して珠崖に併合した。元帝の初元三年、また珠崖郡を廃止した。後漢の馬援が交州を平定し、初めて城郭を整備し井邑を設置した。順帝の永和九年、交趾太守の周敞が州の設置を求めたが、朝廷の議論は許さず、ただちに周敞を交趾 刺史 に任命した。桓帝は高興郡を分離設置し、霊帝はこれを高涼と改称した。建安八年、張津が 刺史 、士燮が交趾太守となり、ともに州の設置を上表したので、張津を交州牧に任命した。十五年、州治を番禺に移し、 詔 により辺境の州として使持節の権限を与え、郡には鼓吹を支給し、城鎮を重んじ、さらに 九錫 と六佾の舞を加えた。呉の黄武五年、南海、蒼梧、郁林の三郡を割いて広州を立て、交趾、日南、九真、合浦の四郡を交州とした。戴良が 刺史 となったが、乱に遭って赴任できず、呂岱がこれを撃破して平定し、再び交州に併合した。赤烏五年、再び珠崖部を設置した。永安七年、再び以前の三郡を以て広州を立てた。孫皓の時代になると、さらに新昌、武平、九徳の三郡を立てた。蜀は李恢を建寧太守とし、遠く交州 刺史 を兼任させた。晋が蜀を平定すると、蜀の建寧太守であった霍弋に遠く交州 刺史 を兼任させ、便宜上長吏を選任する権限を与えた。呉を平定した後、珠崖を廃止して合浦に編入した。交州は七郡、五十三県、二万五千六百戸を統轄した。
合浦郡(漢代に設置。統轄する県は六、戸数二千。)
交趾郡(漢代に設置。統轄する県は十四、戸数一万二千。)
新昌郡(呉により設置。統轄する県は六、戸数三千。)
武平郡(呉により設置。統轄する県は七、戸数五千。)
九真郡(漢代に設置。統轄する県は七、戸数三千。)
九徳郡(呉が設置。周代には越常氏の地であった。統轄する県は八、戸数はなし。)
日南郡(秦が象郡を設置し、漢の武帝が改名した。統轄する県は五、戸数は六百。)
広州
『禹貢』によれば揚州の領域であり、秦末には趙佗が占拠した地である。漢の武帝の時、その地を交阯郡とした。呉の黄武五年に至り、交州の南海・蒼梧・郁林・高梁の四郡を分けて広州を立てたが、まもなく旧に復した。永安六年、再び交州を分けて広州を設置し、合浦を分けて合浦北部を立て、都尉にこれを統轄させた。孫皓は郁林を分けて桂林郡を立てた。太康年間、呉が平定されると、荊州の始安・始興・臨賀の三郡を属させた。合わせて十郡を統轄し、六十八県、四万三千百二十戸。
南海郡(秦が設置。統轄する県は六、戸数は九千五百。)
臨賀郡(呉が設置。統轄する県は六、戸数は二千五百。)
始安郡(呉が設置。統轄する県は七、戸数は六千。)
始興郡(呉が設置。統轄する県は七、戸数は五千。)
蒼梧郡(漢が設置。統轄する県は十二、戸数は七千七百。)
郁林郡(秦が桂林郡を設置し、武帝が改名した。統轄する県は九、戸数は六千。)
桂林郡(呉が設置。統轄する県は八、戸数は二千。)
高涼郡(呉が設置。統轄する県は三、戸数は二千。)
高興郡(呉が設置。統轄する県は五、戸数は千二百。)
甯浦郡(呉が設置。統轄する県は五、戸数は千二百二十。)
武帝の後に高興郡を廃止した。懐帝永嘉元年、また臨賀・始興・始安の三郡、合わせて二十県を以て湘州とした。元帝は郁林を分けて 晉 興郡を立てた。成帝は南海を分けて東官郡を立て、始興・臨賀の二郡を荊州に帰属させた。穆帝は蒼梧を分けて 晉 康・新甯・永平の三郡を立てた。哀帝太和年間に新安郡を設置し、安帝は東官を分けて義安郡を立て、恭帝は南海を分けて新会郡を立てた。
校勘記