総叙
昔、元胎には形がなく、太素が流動して形を成し、天に対越して元首と為した。これは記録にいう、冬は営窟に住み、夏は橧巣に住み、血を飲み毛を茹で、麻や絹がまだなかった時代である。燧人が火を鑽り出し、庖犧が震(東方)から現れ、風宗(黄帝)が武を継ぎ、炎帝の胤が基を昌んじたが、土地を画して区別することは聞かれず、その帰するところは同じであった。黄帝は東は海、南は江に至り、空(崆峒山)に登り岱(泰山)を踏み、崑崙の峰で轡を振るい、崆山で道を訪ねた。これらは竹帛に記されており、深く偽りとすることはできない。高陽(顓頊)は地に任せ神に依り、帝嚳は天に順い義を行った。東は蟠木を越え、西は流沙を渡り、北は幽陵に至り、南は交阯を撫でた。日月の経る所、舟車の至る所、ことごとく王臣でなくして、この領域を越えることはなかった。帝堯の時、禹が水土を平らげ、九州とした。虞舜が登用されると、その功績はますます盛んとなり、提(堤防)や類(丘陵)を標示して区宇を分け、山河を判別して疆域を考証した。冀北には并部の名を創始し、燕斉には幽営の号が起こった。これが書にいう、十二州を肇め、十二山を封じたものである。夏の功績は唐堯の時にあり、殷はこれに因襲して損益はなかった。周の武王が商を克ち、豊から鎬に移った。成王の時に至り、禹貢を改作し、徐・梁を青・雍に入れ、冀の野を幽・并に分けた。職方は天下の土を掌り、その利を周らせた。保章は九州の野を弁別し、それぞれ分星を持った。東南を揚州、正南を荊州、河南を豫州、正東を青州、河東を兗州、正西を雍州、東北を幽州、河内を冀州、正北を并州といった。始皇帝が初めて天下を併合し、戦国の弊害を懲らしめ、列侯を削って罷め、天下を三十六郡に分けた。〈三川、河東、南陽、南郡、九江、鄣郡、会稽、潁川、碭郡、泗水、薛郡、東郡、琅邪、斉郡、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東、代郡、鉅鹿、邯鄲、上党、太原、雲中、九原、雁門、上郡、隴西、北地、漢中、巴郡、蜀郡、黔中、長沙、合わせて三十五郡。内史と合わせて三十六郡である。〉ここに於いて師を興して江を越え、百越を平らげて取り、また閩中、南海、桂林、象郡を置き、合わせて四十郡とし、各郡に守一人を置いた。その地は西は洮に臨み北は沙漠に至り、東は縈り西は帯び、いずれも大海に臨んでいた。
光武帝が戈を投じた年は、凋耗の時であり、郡国は蕭条として、併合廃止されたものが八つあった。〈城陽、淄川、高密、膠東、六安、真定、泗水、広陽。〉建武十一年、州牧を廃止し、再び刺史とし、定員十三人、各々一州を掌った。明帝は一つを置いた。〈永昌である。〉章帝は二つを置いた。〈任城、呉郡。〉和帝・順帝の改作により、その名に九つの変更があった。〈和帝は済北、広陽を置き、順帝は淮陽を陳と改め、楚を彭城と改め、済東を東平と改め、臨淮を下邳と改め、千乗を六安と改め、信都を安平と改め、天水を漢陽と改めた。〉朔方刺史を廃止し、これを司隷に合併し、合わせて十三部となった。〈西漢と異なる点は、司隷校尉部の郡治が河南にあり、朔方は并部に隷属したことである。〉そして郡国は百八となった。〈前漢の八つを廃止し、五つを分置し、七つの旧名を改め、九十六は旧に因り、前漢より三つ少ない。〉桓帝・霊帝は前代よりかなり増やし、六郡を再置した。〈桓帝:高陽、高涼、博陵。霊帝:南安、鄱陽、廬陵。〉魏の武帝(曹操)が覇を定め、三方鼎立し、生民は動乱に陥り、関洛は荒廃した。置かれたものは十二、〈新興、楽平、西平、新平、略陽、陰平、帯方、譙、楽陵、章武、南郷、襄陽。〉廃止されたものは七、〈上郡、朔方、五原、雲中、定襄、漁陽、廬江。〉そして文帝は七つを置いた。〈朝歌、陽平、弋陽、魏興、新城、義陽、安豊。〉明帝および少帝は二つを増した。〈明帝:上庸。少帝:平陽。〉漢の郡を得たものは五十四となった。蜀の先主(劉備)は漢の建安年間に初めに九郡を置いた。〈巴東、巴西、梓潼、江陽、汶山、漢嘉、朱提、宕渠、涪陵。〉後主は二つを増した。〈雲南、興古。〉漢の郡を得たものは十一となった。呉の主・大皇帝(孫権)は初めに五郡を置いた。〈臨賀、武昌、珠崖、新安、廬陵南部。〉少帝、景帝は各々四郡を置いた。〈少帝:臨川、臨海、衡陽、湘東。景帝:天門、建安、建平、合浦北部。〉帰命侯(孫皓)もまた十二郡を置いた。〈始安、始興、邵陵、安成、新昌、武平、九徳、呉興、東陽、桂林、滎陽、宜都。〉漢の郡を得たものは十八となった。
昔、庖犧氏は成紀に生まれ、天子となり、陳に都した。神農氏は陳に都し、別に曲阜に営んだ。黄帝は寿丘に生まれ、涿鹿に都した。少昊は窮桑から始まり、曲阜に遷都した。顓頊は窮桑から始まり、商丘に邑を移した。高辛が即位すると、亳に都を建てた。孫卿子は言う。「高山に登らなければ、天の高さを知らず、深い谷に臨まなければ、地の厚さを知らない。」偉大なるかな大地の象よ、万物はこれによって生を資る。崑崙山や華山を載せても墜ちず、黄河や海を傾けても漏れ出さない。占いをして王たるにふさわしい地を求め、飛ぶがごとき車を停め、山々を眺めて銘を刻み、重なる城を覧めて玩んだ。時に洪水の浸食に遭い、道は衰微に接し、平王が東遷すると、星のように離散し豆のように割れ、当塗(魏)が天下を治めると、瓜や鼎のように分割して並び立った。世祖武皇帝は千年の余緒を受け継ぎ、八人の堯のような禅譲に当たり、先王の故郷は、天下を挙げて帰順した。これはまさに語るに足ることであろう。恵皇は不慮の事態に遭い、中原をことごとく失い、永嘉の乱で南渡し、建鄴に朝廷を行い、天下の九分の二を有するに至った。
昔、大禹は濁河(黄河)を観て緑字(洛書)を受け、寰瀛(天下)の内について語ることができた。天には七星があり、地には七表がある。天には四維があり、地には四瀆がある。八紘の外は、八極と呼ばれる。地は東南に不足し、天は西北に不足する。八極の広さは、東西二億三万一千三百里、南北二億三万一千三百里である。地から天までは、八極の距離の半分であり、下からも同様である。昔、黄帝が豎亥に命じて東極から西極まで歩かせたところ、五億十万九千八百八歩であった。史臣が考えるに、周天の全周は百七万九百一十三里、直径は三十五万六千九百七十里である。いわゆる南北を経とし、東西を緯とする。天には十二次があり、日月の運行する道である。地には十二辰があり、王侯の封国とする所である。あるいは生まれによって姓を得、功績によって土地を命じられ、祁・酉・燕・齊などは、この領域にある。
『司馬法』は三代(夏・殷・周)の制度を広く述べており、こう言っている。古くは六尺を一歩とし、百歩を一畝とし、百畝を一夫とし、三夫を一屋とし、三屋を一井とした。一井は一里四方であり、これは九夫に相当し、八家でこれを共有した。一夫一婦が私田百畝と公田十畝を受け、合わせて八百八十畝となり、残りの二十畝は住居(廬舎)に充てた。人々は出入りして互いに友とし、見張りをして助け合い、病気や災難があれば互いに救った。民は田を受け、上田の夫は百畝、中田の夫は二百畝、下田の夫は三百畝を受け、毎年耕作し、それぞれの場所から始めた。その家の余分な男子(余夫)も、同様に口数に応じて田を受けた。士・工・商の家が田を受ける場合は、五口で農夫一口分に相当した。賦と税があり、税とは公田の十分の一の収穫と、工・商・衡・虞(山林川沢の管理)からの収入を指す。賦は車馬・甲冑・兵器・兵士の従軍などの役務を供出した。民は二十歳で田を受け、六十歳で田を返した。穀物を植える時は必ず五種類を混植し、災害や干ばつに備えた。田の中には木を植えず、五穀の妨げにならないようにした。住居の周りに桑や柘を植え、野菜は畝を作り、瓜・瓢・果物・蔓草は境界に植え、鶏・豚・犬・猪の飼育は時期を失わないようにした。里には序があり、郷には庠があり、序は教えを明らかにし、庠は礼を行った。司馬の法では、官は六軍の兵を設け、井田制に基づいて軍制を定めた。土地の一里四方を一井とし、十井を通とし、十通を成とし、成は十里四方である。十成を終とし、十終を同とし、同は百里四方である。十同を封とし、十封を畿とし、畿は千里四方である。よって四井を邑とし、四邑を丘とし、丘は十六井で、軍馬一匹と牛三頭を有した。四丘を甸とし、甸は六十四井で、軍馬四匹、兵車一乗、牛十二頭、甲士三人、歩卒七十二人を有した。これを乗車の制という。一同は百里四方で、総面積は一万井であり、山川・坑岸・城池・邑居・園囿・街路の三千六百井を除き、賦を出すのは六千四百井と定め、軍馬四百匹、兵車百乗を出す。これは卿・大夫の采地の中で大きなものであり、これを百乗の家という。一封は三百六十六里四方で、総面積は十万井であり、賦を出すのは六万四千井と定め、軍馬四千匹、兵車千乗を出す。これは諸侯の中で大きなものであり、これを千乗の国という。天子の畿内は千里四方で、総面積は百万井であり、賦を出すのは六十四万井と定め、軍馬四万匹、兵車万乗、兵卒七十二万人を出す。よって天子は万乗の主と称されるのである。
司州
『禹貢』に基づけば豫州の地である。漢の武帝の時、初めて司隸校尉を設置し、管轄は三輔、三河の諸郡であった。その境界は西に雍州の京兆、馮翊、扶風の三郡を得、北に冀州の河東、河内の二郡を得、東に豫州の弘農、河南の二郡を得、合わせて七郡であった。地位と声望は牧伯よりも高く、銀印青綬を帯びた。光武帝が洛陽に都を置くと、司隸の管轄は前漢と変わらなかった。魏が禅譲を受けると、すぐに漢の宮殿を都とし、司隸の管轄は河南、河東、河内、弘農に冀州の平陽を加えた五郡とし、司州を設置した。晋は引き続き魏の都に居を構え、三輔を雍州に返還し、河南を分割して滎陽を立て、雍州の京兆を分割して上洛を立て、東郡を廃して頓丘を立て、ついに司州と名を定め、司隸校尉がこれを統轄した。州は十二郡を統べ、百県、四十七万五千七百戸を管轄した。
河南郡(漢代に設置。十二県を統轄し、十一万四千四百戸。尹を置く。)
弘農郡(漢代に設置。六県を統轄し、一万四千戸。)
平陽郡(もとは河東に属したが、魏が分割して設置。十二県を統轄し、四万二千戸。)
河東郡(秦代に設置。九県を統轄し、四万二千五百戸。)
河内郡(漢代に設置。九県を統轄し、五万二千戸。)
広平郡(魏が設置。十五県を統轄し、三万五千二百戸。)
陽平郡(魏が設置。七県を統轄し、五万一千戸。)
魏郡(漢代に設置。八県を統轄し、四万七百戸。)
永嘉の乱の後、司州は劉聡に陥落した。劉聡は洛陽を荊州としたが、石勒の時、再び司州とした。石季龍はまた司州の河南、河東、弘農、滎陽と、兗州の陳留、東燕を分けて洛州とした。元帝が長江を渡ると、徐州に僑置として司州を置いたが、本来の地ではなかった。後に、尋陽に流寓した弘農の人々のために僑置として弘農郡を立てた。また、南方に寓居した河東の人々のために、漢の武陵郡孱陵県の界にある上明の地に僑置として河東郡を立て、安邑、聞喜、永安、臨汾、弘農、譙、松滋、大戚の八県を統轄した。いずれも寄居の地であった。永和五年、桓温が洛陽に入ると、再び河南郡を設置し、司州に属させた。
兗州
『禹貢』によれば、済水と黄河の間の地域であり、舜が十二牧を設置したとき、その一つであった。『周礼』には「河東を兗州という」とある。『春秋元命包』には「五星が流れて兗州となる。兗とは端であり、信である」とある。また「おそらく兗水の名を取って名付けたのであろう」ともいう。漢の武帝が十三州を設置し、旧名の兗州としたが、それ以来変わっていない。州は八つの郡国を統轄し、五十六県、八万三千三百戸を管轄する。
陳留国(漢代に設置。十県を統轄し、三万户。魏の武帝が封じた。)
濮陽国(もとは東郡に属したが、晋の初めに東郡を分割して設置。四県を統轄し、二万一千戸。)
済陰郡(漢代に設置。九県を統轄し、七千六百戸。)
高平国(もとは梁国に属したが、晋の初めに山陽郡を分割して設置。七県を統轄し、三千八百戸。)
任城国(漢代に設置。三県を統轄し、一千七百戸。)
東平国(漢代に設置。七県を統轄し、六千四百戸。)
済北国(漢代に設置。五県を統轄し、三千五百戸。)
泰山郡(漢代に設置。十一県を統轄し、九千三百戸。)
恵帝の末年、兗州は全土が石勒に占領された。後に石季龍が陳留郡を建昌郡と改め、洛州に属させた。この時、生き残った民衆が南に渡り、元帝が兗州を僑置し、京口に仮住まいさせた。明帝が郗鑒を刺史とし、広陵に仮住まいさせ、濮陽、済陰、高平、太山などの郡を設置した。後に南兗州と改称し、時には江南に戻り、時には盱眙に、時には山陽に居を置いた。後にようやく土地を割いて境界を定め、常に広陵に駐在し、南は京口と対岸となった。咸康四年、北譙の境界内に陳留郡を設置した。安帝が広陵郡の建陵、臨江、如皋、寧海、蒲濤の五県を分割して山陽郡を設置し、南兗州に属させた。
豫州
『禹貢』によれば、荊州と黄河の間の地域である。『周礼』には「河南を豫州という」とある。豫とは舒の意味で、中和の気を受け、性質や道理が安らかでゆったりしていることを言う。『春秋元命包』には「鉤鈐星が別れて豫州となる」とある。その地界は、西は華山から、東は淮水に至り、北は済水から、南の境界は荊山である。秦が天下を統一すると、三川、河東、南陽、潁川、碭、泗水、薛の七郡とした。漢は三川を河南郡と改め、武帝が十三州を設置した際、豫州の旧名は改めず、河南、河東の二郡を司隸に属させ、また南陽を荊州に属させた。これ以前に、泗水を沛郡と改称し、碭郡を梁と改称し、薛を魯と改称し、梁と沛を分割して汝南郡を設置し、潁川を分割して淮陽郡を設置した。後漢の章帝が淮陽を陳郡と改称した。魏の武帝(曹操)が沛を分割して譙郡を設置し、魏の文帝(曹丕)が汝南を分割して弋陽郡を設置した。そして武帝(司馬炎)が天命を受けると、また潁川を分割して襄城郡を設置し、汝南を分割して汝陰郡を設置し、陳郡を梁国に合併した。州は十の郡国を統轄し、八十五県、十一万六千七百九十六戸を管轄する。
潁川郡(秦代に設置。九県を統轄し、二万八千三百戸。)
汝南郡(漢代に設置。十五県を統轄し、二万一千五百戸。)
梁国(漢が設置した。統轄する県は十二、戸数は一万三千。)
沛国(漢が設置した。統轄する県は九、戸数は五千九十六。)
譙郡(魏が設置した。統轄する県は七、戸数は一千。)
魯郡(漢が設置した。統轄する県は七、戸数は三千五百。)
弋陽郡(魏が設置した。統轄する県は七、戸数は一万六千七百。)
安豊郡(魏が設置した。統轄する県は五、戸数は一千二百。)
冀州
『禹貢』『周礼』によればともに河内の地であり、舜が十二牧を置いたとき、その一つである。『春秋元命包』には「昴宿と畢宿が散じて冀州となり、趙国に分かれた」とある。その地には険しい所も平坦な所もあり、帝王の都が置かれた。乱れれば冀州は安らぎ、弱ければ冀州は強くなり、荒廃すれば冀州は豊かになる。舜は冀州が南北に広大であるため、衛の西を分割して并州とし、燕の北を幽州とした。周の人々はこれに従った。漢の武帝が十三州を置いたとき、その地を旧名のまま冀州とし、後漢から晋に至るまで改められなかった。州が統轄する郡国は十三、県は八十三、戸数は三十二万六千。
趙国(漢が設置した。統轄する県は九、戸数は四万二千。)
鉅鹿国(秦が設置した。統轄する県は二、戸数は一万四十。)
安平国(漢が設置した。統轄する県は八、戸数は二万一千。)
平原国(漢が設置した。統轄する県は九、戸数は三万一千。)
楽陵国(漢が設置した。統轄する県は五、戸数は三万三千。)
勃海郡(漢代に設置。統轄する県は十、戸数は四万。)
河間国(漢代に設置。統轄する県は六、戸数は二万七千。)
博陵郡(漢代に設置。統轄する県は四、戸数は一万。)
清河国(漢代に設置。統轄する県は六、戸数は二万二千。)
中山国(漢代に設置。統轄する県は八、戸数は三万二千。)
常山郡(漢代に設置。統轄する県は八、戸数は二万四千。)
幽州
范陽国(漢代に涿郡を設置。魏の文帝が范陽郡と改名。武帝が国を置き、宣帝の弟の子の綏を王に封じた。統轄する県は八、戸数は一万一千。)
燕国(漢代に設置。孝昭帝が広陽郡と改めた。統轄する県は十、戸数は二万九千。)
北平郡(秦代に設置。統轄する県は四、戸数は五千。)
上谷郡(秦代に設置。郡は谷の上流にあるため、この名による。統轄する県は二、戸数は四千七十。)
広寧郡(かつて上谷郡に属したが、太康年間に郡を設置し、都尉が駐在した。統轄する県は三、戸数三千九百五十。)
代郡(秦が設置した。統轄する県は四、戸数三千四百。)
遼西郡(秦が設置した。統轄する県は三、戸数二千八百。)
恵帝の後、幽州は石勒に占領された。穆帝の永和五年になると、慕容儁が薊で帝号を僭称し、これが前燕である。七年、儁は都を鄴に移した。儁が死ぬと、子の暐は苻堅に滅ぼされた。堅が敗れると、その地は再び慕容垂の手に入り、これが後燕である。垂が死ぬと、宝は和龍に遷都した。
平州
昌黎郡(漢代は遼東属国都尉に属し、魏が郡を設置した。統轄する県は二、戸数九百。)
遼東国(秦が郡として設置した。漢の光武帝は遼東などを青州に属させたが、後に幽州に戻した。統轄する県は八、戸数五千四百。)
楽浪郡(漢が設置した。統轄する県は六、戸数三千七百。)
玄菟郡(漢が設置した。統轄する県は三、戸数三千二百。)
帯方郡(公孫度が設置した。統轄する県は七、戸数四千九百。)
平州が設置された当初、慕容廆を刺史としたが、やがて永嘉の乱に遭遇し、廆は人々に推戴された。その孫の儁が都を薊に移した。その後、慕容垂の子の宝がまた和龍に遷都し、幽州から廬溥鎮以南の地は魏の領土となった。慕容熙は幽州刺史を令支に、青州刺史を新城に、并州刺史を凡城に、営州刺史を宿軍に、冀州刺史を肥如にそれぞれ鎮守させた。高雲は幽・冀二州牧を肥如に、并州刺史を白狼に鎮守させた。後に馮跋に簒奪され、跋は和龍で帝号を僭称し、これが後燕であるが、ついに魏に滅ぼされた。
并州
太原国(秦が設置した。統轄する県は十三、戸数一万四千。)
上党郡(秦代に設置。統轄する県は十、戸数は一万三千。)
西河国(漢代に設置。統轄する県は四、戸数は六千三百。)
楽平郡(泰始年間に設置。統轄する県は五、戸数は四千三百。)
雁門郡(秦代に設置。統轄する県は八、戸数は一万二千七百。)
新興郡(魏の時代に設置。統轄する県は五、戸数は九千。)
雍州
『禹貢』に照らすと、黒水、西河の地であり、舜が十二牧を設置したときの一つである。四方を山に囲まれた地であるため、雍という名が付けられた。また、西北の位置は陽気が届かず、陰気が塞がれる(雍閼)ところであるともいう。『周礼』には、西を雍州とするとある。おそらく禹の梁州の地も含んでいる。周は武王が殷を滅ぼしてから、酆・鎬に都を置き、雍州は王畿となった。平王が東遷して洛邑に都を置くと、岐・酆の地を秦の襄公に与え、それは秦の地となり、累代都とし、始皇帝の時に遂に六国を平定した。秦が滅びると、漢もまたここに都を置いた。武帝が十三州を設置すると、その地の西の部分は涼州とされ、残りはすべて司隸に属し、州の統轄には入らなかった。後漢の光武帝は洛陽に都を置き、関中に再び雍州を設置した。後に廃止し、再び司隸校尉を設置し、以前のように三輔を統轄した。献帝の時にまた雍州を設置し、三輔から西域までがすべてこれに属した。魏の文帝が即位すると、河西を分けて涼州とし、隴右を分けて秦州とし、京兆尹を太守と改称し、馮翊、扶風はそれぞれ左右の称号を除き、依然として三輔は司隸に属させた。晋の初め、長安に雍州を置き、七つの郡国を統轄し、三十九県、九万九千五百戸を管轄した。
京兆郡(漢代に設置。統轄する県は九、戸数は四万。)
扶風郡(漢の武帝が主爵都尉とし、太初年間に右扶風と改称した。統轄する県は六、戸数は二万三千。)
安定郡(漢代に設置。統轄する県は七、戸数は五千五百。)
北地郡(秦代に設置。統轄する県は二、戸数は二千六百。)
新平郡(漢代に設置。統轄する県は二、戸数は二千七百。)
恵帝が即位すると、扶風国を秦国に改め、都を移した。建興の後、雍州は劉聡に占領された。劉曜が長安に都を移し、国号を趙と改めると、秦・涼二州の牧を上邽に、朔州の牧を高平に、幽州刺史を北地に、并州の牧を蒲阪に鎮守させた。石勒が長安を攻略すると、再び雍州を設置した。石氏が敗れた後、苻健が関中を僭称して占拠し、また長安を都とし、これが前秦である。そこで雍州に司隸校尉を置き、豫州刺史を許昌に、秦州刺史を上邽に、荊州刺史を豊陽に、洛州刺史を宜陽に、并州刺史を蒲阪に鎮守させた。苻堅の時、司隸を分割して雍州とし、京兆を分割して咸陽郡とし、洛州刺史を陝城に鎮守させた。燕を滅ぼした後、幽州を分割して平州を設置し、龍城に鎮守させ、幽州刺史を薊城に、河州刺史を枹罕に、并州刺史を晋陽に、豫州刺史を洛陽に、兗州刺史を倉垣に、雍州刺史を蒲阪に鎮守させた。そこで洛州を豊陽に移し、許昌に東豫州を置き、荊州刺史を襄陽に、徐州刺史を彭城に鎮守させた。やがて姚萇が苻氏を滅ぼし、これが後秦である。姚萇の子の姚興が洛陽を攻略すると、并・冀二州の牧を蒲阪に、豫州の牧を洛陽に、兗州刺史を倉垣に鎮守させ、司隸を分割して北五郡を管轄させ、雍州刺史を安定に鎮守させた。姚泓が劉裕に滅ぼされると、その地はまもなく赫連勃勃の手に渡った。勃勃が統万で僭号を称え、これが夏である。大城に幽州の牧を置き、また長安で劉義真を討ち平らげ、子の赫連璝をそこに鎮守させ、南臺と号した。朔州の牧を三城に、秦州刺史を杏城に、雍州刺史を陰密に、并州刺史を蒲阪に、梁州の牧を安定に、北秦州刺史を武功に、豫州の牧を李閏に、荊州刺史を陝に鎮守させたが、その州郡の名称はすべて知ることができない。しかし元帝が長江を渡って以来、設置した州もすべて名目上の管轄に過ぎなかった。初め魏該を雍州刺史とし、酇城に鎮守させたが、まもなく廃止し、始平郡を仮に設置して武当城に寄居させた。秦国の流民が江南に至ると、堂邑を秦郡に改め、仮に尉氏県を設置してこれに属させた。康帝の時、庾翼が荊州刺史となり、鎮守地を襄陽に移した。その後、秦・雍の流民が多く樊・沔の南に出てきたため、孝武帝は襄陽に雍州を仮に設置し、引き続き京兆・始平・扶風・河南・広平・義成・北河南の七郡を置き、すべて襄陽に属させた。襄陽はもともと荊州に属していた。
涼州
『禹貢』によれば雍州の西の境界であり、周が衰えると、その地は狄のものとなった。秦が美陽甘泉宮を興すが、これはもともと匈奴が金人を鋳造して天を祭った場所である。匈奴が甘泉を失った後、また休屠王・渾邪王らを涼州の地に住まわせた。二王は後にその地を以て漢に降伏し、漢は張掖・酒泉・敦煌・武威の郡を置いた。その後さらに金城郡を置き、これを河西五郡と呼んだ。漢は周の雍州を涼州に改めたが、これは地が西方にあり、常に寒涼であるからであろう。地勢は西北に斜めに突き出て、南山の間にあり、南は西羌と隔たり、西は西域に通じ、当時は匈奴の右腕を断つと称された。献帝の時、涼州にたびたび乱があり、河西五郡は州から遠く隔たっていたため、そこで別に雍州とした。末年にまた古典に基づいて九州を定めると、関右を合わせて雍州とした。魏の時、再び分割して涼州とし、刺史が戊己校尉を兼ね、西域を護衛したのは、漢の故事の通りで、晋に至るまで変わらなかった。八郡を統轄し、四十六県、三万七百戸。
金城郡〈漢代に設置。五県を統轄、二千戸。〉
西平郡〈漢代に設置。四県を統轄、四千戸。〉
武威郡〈漢代に設置。七県を統轄、五千九百戸。〉
張掖郡〈漢代に設置。三県を統轄、三千七百戸。〉
西郡〈漢代に設置。五県を統轄、一千九百戸。〉
酒泉郡〈漢代に設置。九県を統轄、四千四百戸。〉
敦煌郡〈漢代に設置。十二県を統轄、六千三百戸。〉
元康五年、恵帝は敦煌郡の宜禾・伊吾・冥安・深泉・広至などの五県を分割し、酒泉の沙頭県を分割し、また別に会稽・新郷を立て、合わせて八県で晋昌郡とした。永寧年間、張軌が涼州刺史となり、武威に鎮守し、上表して秦・雍からの流民を姑臧の西北に集め、武興郡を設置し、武興・大城・烏支・襄武・晏然・新鄣・平狄・司監などの県を統轄させた。また西平の境界を分割して晋興郡を置き、晋興・枹罕・永固・臨津・臨鄣・広昌・大夏・遂興・罕唐・左南などの県を統轄させた。この時、中原は陥落し、元帝は江左に移り住んだが、張軌は河西を押さえて占拠し、晋の正朔を称え、これが前涼である。張寔の時、金城の令居・枝陽の二県を分割し、また永登県を立て、三県を合わせて広武郡を立てた。張茂は武興・金城・西平・安故を分割して定州とした。張駿は武威・武興・西平・張掖・酒泉・建康・西海・西郡・湟河・晋興・広武の合わせて十一郡を涼州とし、興晋・金城・武始・南安・永晋・大夏・武成・漢中を河州とし、敦煌・晋昌・高昌・西域都護・戊己校尉・玉門大護軍の三郡三営を沙州とした。張駿は涼州都督を仮授され、三州を統轄した。張祚はまた敦煌郡を商州とした。永興年間、漢陽県を設置して牧地を守らせ、張玄靚はこれを祁連郡に改めた。張天錫はまた別に臨松郡を置いた。張天錫が苻氏に降伏すると、その地はまもなく呂光に占拠された。呂光が姑臧に都した後、郭黁の言う讖に従い、昌松を東張掖郡に改めた。呂隆が姚興に降伏すると、その地は三分された。武昭王(李暠)が西涼となり、敦煌で国号を建てた。禿髪烏孤が南涼となり、楽都で国号を建てた。沮渠蒙遜が北涼となり、張掖で国号を建てた。そして河西五郡を分けて占拠した。
秦州
隴西郡〈秦代に設置。四県を統轄、三千戸。〉
南安郡(漢代に設置。管轄する県は三、戸数は四千三百。)
天水郡(漢の武帝が設置し、孝明帝の時に漢陽と改称されたが、晋が再び天水とした。管轄する県は六、戸数は八千五百。)
略陽郡(本来の名は広魏であり、泰始年間に改名された。管轄する県は四、戸数は九千三百二十。)
武都郡(漢代に設置。管轄する県は五、戸数は三千。)
陰平郡(泰始年間に設置。管轄する県は二、戸数は三千。)
梁州
漢中郡(秦代に設置。管轄する県は八、戸数は一万五千。)
梓潼郡(蜀漢が設置。管轄する県は八、戸数は一万二百。)
広漢郡(漢代に設置。管轄する県は三、戸数は五千一百。)
涪陵郡(蜀漢が設置。管轄する県は五、戸数は四千二百。)
巴郡(秦代に設置。管轄する県は四、戸数は三千三百。)
巴西郡(蜀漢が設置。管轄する県は九、戸数は一万二千。)
巴東郡(漢代に設置。統轄する県は三、戸数六千五百。)
太康六年九月、新都郡を廃止し広漢郡に併合した。恵帝は再び巴西を分割して宕渠郡を設置し、宕渠・漢昌・宣漢の三県を統轄し、さらに新城・魏興・上庸の四郡を合わせて梁州に属させた。まもなく梁州の郡県は李特に陥落し、永嘉年間にはまた楊茂搜に分割されて属した。梁州・益州に流寓した晋人は、依然として二州に南北二つの陰平郡を設置した。桓温が蜀を平定した後、巴漢の流民をもって晋昌郡を立て、長楽・安晋・延寿・安楽・宣漢・寧都・新興・吉陽・東関・永安の十県を管轄した。また益昌・晋興の二県を設置し、巴西郡に属させた。徳陽界の東南に遂寧郡を設置した。また晋寿に剣閣県を設置し、梁州に属させた。後に孝武帝は梓潼の北境を分割して晋寿郡を立て、晋寿・白水・邵歓・興安の四県を統轄した。梓潼郡は梓潼に移転し、剣閣県を廃止した。また別に南漢中郡を設置し、巴西・梓潼を分割して金山郡とした。安帝の時には、さらに新巴・汶陽の二郡を立て、また北新巴・華陽・南陰平・北陰平の四郡があった。その後さらに巴渠・懐安・宋熙・白水・上洛・北上洛・南宕渠・懐漢・新興・安康など十郡を立てた。
益州
蜀郡(秦代に設置。統轄する県は六、戸数五万。)
犍為郡(漢代に設置。統轄する県は五、戸数一万。)
汶山郡(漢代に設置。統轄する県は八、戸数一万六千。)
漢嘉郡(蜀が設置。統轄する県は四、戸数一万三千。)
江陽郡(蜀が設置。統轄する県は三、戸数三千一百。)
朱提郡(蜀が設置。統轄する県は五、戸数二千六百。)
越巂郡(漢代に設置。統轄する県は五、戸数五万三千四百。)
牂柯郡(漢代に設置。統轄する県は八、戸数一千二百。)
寧州
漢代・魏代には益州の領域であった。泰始七年、武帝は益州の地が広大であるため、益州の建寧・興古・雲南と、交州の永昌を分割し、合わせて四郡をもって寧州とし、四十五県、八万三千戸を統轄した。
雲南郡(蜀が設置。統轄する県は九、戸数は九千二百。)
興古郡(蜀が設置。統轄する県は十一、戸数は六千二百。)
建寧郡(蜀が設置。統轄する県は十七、戸数は二万九千。)
永昌郡(漢が設置。統轄する県は八、戸数は三万八千。)
校勘記