卷二 帝紀第二
景帝
景皇帝は 諱 を師といい、 字 は子元、宣帝の長子である。風采に優れ、沈着で剛毅、大略を多く有していた。若い頃から美誉が流布し、夏侯玄、 何晏 と並び称された。何晏は常に称えて言った。「幾微を察して天下の務めを成し遂げられるのは、司馬子元である」と。魏の景初年間、 散騎常侍 に任じられ、累進して中護軍となった。官吏選抜任用の法を定め、推挙は功績を越えず、官吏に私心はなかった。宣穆皇后が崩御すると、喪に服して至孝をもって知られた。宣帝が 曹爽 を誅殺しようとした時、深謀秘策は、ひそかに帝と謀議をめぐらし、文帝( 司馬昭 )でさえも知らなかった。発動前夜になってようやく告げると、その後人をやって様子を窺わせたところ、帝は普段通り寝ており、文帝は安座できなかった。朝、兵を司馬門に集めて会し、内外を鎮静させ、陣を整然と布いた。宣帝は言った。「この子は結局大丈夫だ」。初め、帝はひそかに死士三千を養い、民間に散在させていたが、この時一朝にして集結し、人々はその出所を知らなかった。事が平定され、功により長平郷侯に封ぜられ、食邑千戸を与えられ、まもなく衛将軍を加えられた。宣帝が薨じると、議する者は皆「伊尹が既に卒し、伊陟が事を嗣いだ」と言い、天子は帝に撫軍大将軍として輔政を命じた。
嘉平四年
魏の嘉平四年春正月、大将軍に遷り、侍中を加えられ、節を持ち、中外諸軍を 都督 し、 尚書 事を録した。百官に命じて賢才を推挙させ、年少・年長の区別を明らかにし、窮乏孤独を救恤し、廃滞した事柄を処理させた。 諸葛誕 、毌丘儉、王昶、陳泰、胡遵が四方を 都督 し、王基、州泰、 鄧艾 、石苞が州郡を管掌し、盧毓、李豐が選挙を掌握し、傅嘏、虞松が計謀に参与し、 鍾会 、夏侯玄、王粛、陳本、孟康、趙酆、張緝が朝議に参与し、四海の注目を集め、朝野は粛然とした。ある者が制度の改易を請うたが、帝は言った。「『知らず識らず、帝の則に順う』とは、詩人の賞賛するところである。三祖(魏の武帝・文帝・明帝)の典制は、遵奉すべきである。軍事でない限り、妄りに改革してはならない」。
嘉平五年
五年夏五月、呉の太傅 諸葛恪 が新城を包囲した。朝議は、彼が分兵して淮泗を寇すことを憂慮し、諸水口を守備しようとした。帝は言った。「諸葛恪は呉で新政権を得たばかりで、一時の利を求め、兵力を合わせて合肥に集中し、万一の勝利を望んでいる。青州・徐州を患う余裕はない。しかも水口は一つではなく、多く守備すれば兵力を多く使い、少なく守備すれば寇を防ぐのに足りない」。恪は果たして全力を合肥に集中し、ついに帝の推測の通りとなった。帝はそこで鎮東将軍毌丘儉、揚州 刺史 文欽らにこれを防がせた。儉と欽は出戦を請うたが、帝は言った。「恪は甲を巻き深く侵入し、兵を死地に投じている。その鋒鋭は容易に当たるべきではない。しかも新城は小さいが堅固で、攻めても陥とすことはできない」。そこで諸将に命じて高く塁を築き、彼らを疲弊させた。数か月相持するうちに、恪は城を攻めて力尽き、死傷者が大半に及んだ。帝はそこで文欽に命じて鋭卒を督して合榆に急行させ、その帰路を遮断し、毌丘儉に諸将を率いて後続とさせた。恪は恐れて逃走し、文欽が迎撃して大破し、首級一万余を斬った。
正元元年
正元元年春正月、天子は中書令李豊、皇后の父である光禄大夫張緝、黄門監蘇鑠、永寧署令楽敦、冗従 僕射 劉宝賢らと謀り、太常夏侯玄に代わって帝が輔政することを企てた。帝は密かにこれを知り、舎人王羨に車で李豊を迎えさせた。李豊は迫られて王羨に従って来ると、帝はその罪状を数え上げた。李豊は禍が及ぶことを知り、そこで悪言を吐いた。帝は怒り、勇士に命じて刀の環で撲殺させた。夏侯玄、張緝らを逮捕し、皆三族を誅滅した。三月、天子をそそのかして皇后張氏を廃し、そこで 詔 を下して言った。「奸臣李豊らは讒言を弄し、邪悪で、陰に凶悪な企てを構えていた。大将軍が天の刑罰を糾明し、誅罰に至らしめた。周勃が呂氏を制し、 霍光 が上官桀を捕らえたことにも、どうして及ばないことがあろうか。邑九千戸を増やし、以前の分と合わせて四万戸とする」。帝は辞退して受けなかった。天子は夏侯玄、張緝の誅殺により、深く不安を感じた。帝もまた難事が起こることを憂慮し、ひそかに廃立を謀り、密かに魏の永寧太后をそそのかした。
秋九月甲戌の日、太后は命令を下して言った。「皇帝は年齢もすでに長じているのに、万機を親らせず、内寵に耽溺し、女徳を軽んじ、日々倡優に近づき、その醜悪な行いをほしいままにしている。六宮の家人を迎えて内房に留め置き、人倫の秩序を壊し、男女の節度を乱している。また、群小に迫られて、 社稷 を危うくしようとしており、宗廟を承奉することはできない。」帝は群臣を召して会議を開き、涙を流して言った。「太后の命令がこのようなものである。諸君は王室をどうするつもりか。」皆が言った。「伊尹は太甲を放逐して殷を安んじ、 霍光 は昌邑王を廃して漢を安んじ、権をもって 社稷 を定め、四海を清めた。二代の古事が行われ、明公が今これに当たる。今日のことは、ただ命令に従うのみである。」帝は言った。「諸君の見る望みが重い。どうして避けることができようか。」そこで群公卿士とともに太后に上奏して言った。「臣は聞く。天子というものは、群生を済い育て、万国を永く安んずるものである。皇帝は年齢もすでに長じているのに、万機を親らせず、日々小優の郭懐・袁信らに裸で淫らな戯れをさせている。また、広望観の下で 遼東 の妖婦の真似をし、道行く人は目を覆わない者はいない。清商令の令狐景が帝を諫めたが、帝は鉄を焼いて彼を炙った。太后が合陽君の喪に遭ったとき、帝は嬉び楽しんで平然としていた。清商丞の龐熙が帝を諫めたが、帝は聞き入れなかった。太后が北宮に戻り、張美人を殺したとき、帝は非常に恨みを抱いた。熙が諫めると、帝は怒り、再び弾丸で熙を撃った。文書が入るたびに、帝は目を通さない。太后が帝に式乾殿で講学するよう命じたが、帝はまた従わなかった。天の序列を承けることはできない。臣は、漢の 霍光 の故事に依って、皇帝の 璽綬 を収め、斉王を藩国に帰らせることを請う。」上奏は許可され、そこで有司が太牢をもって宗廟に策告し、王は乗輿の副車に就き、群臣は従って西掖門まで至った。帝は泣いて言った。「先臣は歴代の殊遇を受け、先帝は臨終に際し、遺 詔 を託された。臣はまた重任を辱うけ、善を献じて悪を替えることができなかった。群公卿士は、遠く旧典を思い、 社稷 のために深く計らい、聖躬に背くことを選び、宗廟の血食を保った。」そこで使者に節を持たせて護送させ、 河内 の重門に宿泊させ、郭懐・袁信らを誅殺した。この日、群臣と誰を立てるかを議した。帝は言った。「今、宇宙は未だ清まらず、二虜が覇を争い、四海の主は、ただ賢哲にある。彭城王の曹拠は、太祖の子であり、賢さでは仁聖明允であり、年齢では皇室の長である。天位は極めて重く、その才を得なければ、六合を安んじ済わすことはできない。」そこで群公とともに太后に上奏した。太后は、彭城王が先帝の諸父であり、昭穆の順序では順番が合わず、そうすると烈祖の世は永遠に承継者がいなくなると考えた。東海定王は明帝の弟であり、その子の高貴郷公曹髦を立てたいと考えた。帝は固く争ったが得られず、太后の命令に従い、使者を元城に遣わして高貴郷公を迎え立て、元号を正元と改めた。天子が 璽綬 を受けるとき怠惰で、足取りが高ぶっていたので、帝は聞いて憂慮した。大会が行われるにあたり、帝は天子を訓戒して言った。「聖王は始めを重んじ、本を正し初めを敬い、古人が慎んだところである。明日大会が開かれ、万衆が穆穆たる容姿を仰ぎ見、公卿が玉振の音を聴く。《詩経》に『人に示すに軽薄でなく、これに則りこれに倣う』とある。《易経》に『その言い出すことが善ければ、千里の外でもこれに応ずる』とある。礼儀が周到に備わっていても、なお祗恪を加えるべきであり、四海の仰ぎ望む思いに応えるべきである。」癸巳の日、天子は 詔 して言った。「朕は聞く。創業の君は、必ず股肱の臣を要し、守文の主もまた匡佐の輔けに頼る。それゆえ文武は呂尚・召公によって受命の功を顕彰し、宣王は仲山甫を頼りに中興の業を享受した。大將軍は代々明徳を載せ、期に応じて輔けとなった。天が険難を降し、帝室に多難が生じ、斉王が政に臨んでも、典範に従わなかった。公は義を履み忠を執り、区夏を安んじ、百辟をこれに則らせ、庶事を総べ斉えた。内には寇虐を摧き、外には姦宄を静め、日が傾いても憂い勤め、夙夜にわたり労した。徳声は上下に光り、勲烈は四方に施された。大議を深く思い、まず明策を建て、権をもって 社稷 を定め、朕を援け立て、宗廟を安んじ、億兆が慶び頼った。伊尹が殷邦を保ち治めたこと、周公旦が周室を安んじ寧らせたことにも、これに勝るものはない。朕は甚だこれを嘉する。徳が茂る者は位が尊く、功が大いなる者は禄が厚い。これは古今の通義である。位を相国に登らせ、邑を九千戸増やし、以前の分と合わせて四万戸とする。号を大 都督 に進め、黄鉞を仮授し、朝に入るに趨らず、奏事するに名を称せず、剣を帯び履を履いて殿上に上がることを許す。銭五百万、帛五千匹を賜い、元勲を顕彰する。」帝は固く相国を辞退した。また、天子に上書して訓戒して言った。「荊山の璞玉は美しいが、琢がなければ宝とならない。顔回・冉耕の才は茂っているが、学ばなければその器量を広げない。仲尼が言う。『私は生まれながらにして知っている者ではない。古を好み、敏に求める者である。』仰ぎ見るに、黄帝から五帝の主は、みな何らかの則りを受けた。顓頊は緑図に学びを受け、高辛は柏招に道を問うた。周の成王に至っては、周公旦・太公望が輔けとなったので、経を離れ志を弁じ、道を安んじ業を楽しむことができた。そうであるからこそ、上には君道が明らかになり、下には兆庶が従う。刑措の隆盛は、実にこれによるのである。先王の下問の義に従い、講誦の業をしばしば耳にし、典謨の言を日々側に陳べるべきである。」当時、天子は華美な飾りをかなり修めていたので、帝はまた諫めて言った。「履端の初政は、玄樸を崇めるべきである。」天子はともに敬って受け入れた。十一月、白気が天を横切った。
正元二年
二年春正月、彗星が呉と楚の境界に現れ、西北の空を横切った。鎮東大将軍 毌丘倹 と揚州 刺史 文欽が兵を挙げて乱を起こし、太后の命令を偽って檄文を郡国に伝え、西門の外で壇を築いて盟を結び、それぞれ四人の子を呉に人質として送り、救援を請うた。二月、毌丘倹と文欽は六万の兵を率いて淮水を渡り西進した。帝( 司馬師 )は公卿を集めて征討の策を謀り、朝廷の議論では多くが諸将を派遣して撃つべきだとし、王粛や尚書傅嘏、中書侍郎鍾会が帝自らの出陣を勧めた。戊午の日、帝は中軍の歩兵騎兵十余万を統率して征討に向かった。道を倍加して急行し、三方の兵を召集し、陳と許の郊外で大いに会合した。甲申の日、隠橋に駐屯すると、毌丘倹の部将史招と李績が相次いで降伏してきた。毌丘倹と文欽は項城に移った。帝は荊州 刺史 王基を派遣して南頓を占拠させ、毌丘倹を脅かした。帝は深く塹壕を掘り高い塁を築き、東方の軍勢が集結するのを待った。諸将は進軍して城を攻めるよう請うたが、帝は言った。「諸君は一を知って二を知らない。淮南の将士は元々反逆の志はなかった。しかも毌丘倹と文欽は合従連衡の跡を踏み、張儀や蘇秦の説を習い、遠近必ず応じると考えた。しかし事が起こった日、淮北は従わず、史招と李績が前後して瓦解した。内は乖離し外は叛き、自ら必ず敗れると知り、窮した獣は闘おうと考える。速戦すればかえって彼らの志に合致する。必ず勝てるとは言え、傷つく者も多い。しかも毌丘倹らは将士を欺き騙し、詭計は万端に及ぶ。少し持久戦に持ち込めば、偽りの情勢は自ずから露見し、これこそ戦わずして勝つ方法だ。」そこで諸葛誕を派遣して 豫 州の諸軍を督させ、安風から 寿春 に向かわせ、征東将軍胡遵を派遣して青州・徐州の諸軍を督させ、譙と宋の間から出撃させ、その帰路を断った。帝は汝陽に駐屯し、兗州 刺史 鄧艾を派遣して泰山の諸軍を督させ、楽嘉に進駐させ、弱さを示して誘い出した。文欽は進軍して鄧艾を攻めようとした。帝は密かに軍を進め、枚を銜ませ、軽装で楽嘉に至り、文欽と遭遇した。文欽の子の文鴦は十八歳で、その勇猛は三軍に冠たるもので、父に言った。「彼らが陣を整える前に、城に登って鬨の声を上げ、撃てば破ることができます。」謀り終えて実行に移し、三度鬨の声を上げたが文欽は応じられず、文鴦は退き、共に軍を率いて東へ向かった。帝は諸将に言った。「文欽は逃げた。」精鋭部隊を発して追撃するよう命じた。諸将は皆言った。「文欽は古参の将であり、文鴦は若くて鋭く、軍を率いて内に入り、まだ不利な状況にはなっておらず、必ず逃げはしません。」帝は言った。「一鼓作気、再び衰え、三にして竭きる。文鴦が三度鬨の声を上げ、文欽が応じなければ、その勢いは既に屈しており、逃げないで何を待つというのか。」文欽が逃げようとした時、文鴦は言った。「先にその勢いを挫かなければ、去ることができません。」そこで十余騎の 驍 騎を率いて敵陣の先鋒を破り陣に突入し、向かうところ全てをなぎ倒し、遂に軍を引き去った。帝は左長史司馬璉を派遣して 驍 騎八千を督させて側面から追撃させ、将軍楽綝らに歩兵を督させてその後を継がせた。沙陽に至るまで、頻繁に文欽の陣を陥落させ、弩の矢が雨のように降り注ぎ、文欽は楯で身を守りながら疾走した。その軍を大いに破った。兵士たちは皆、戈を投げ出して降伏し、文欽父子は麾下を率いて項城に逃げ込み守りを固めた。毌丘倹は文欽の敗北を聞き、兵士たちを捨てて夜逃げし淮南へ向かった。安風津の都尉が毌丘倹を追撃し、斬り、その首を都に伝送した。文欽は遂に呉に奔り、淮南は平定された。
初め、帝(司馬師)は目に瘤の病気があり、医者に切開させた。文鴦が攻めて来た時、驚いて目が飛び出した。六軍が恐れるのを懼れ、布で覆い隠したが、痛みが甚だしく、布を噛み破ったが左右の者は誰も知らなかった。閏月に病状が重篤になり、文帝(司馬昭)に諸軍を総統させた。辛亥の日、 許昌 で崩御した。時に四十八歳。二月、帝の遺骸が許昌から到着すると、天子(曹髦)は喪服を着て臨弔し、 詔 を下して言った。「公(司馬師)には世を救い国を安んじる功績があり、禍乱を平定した功績がある。さらに王事のために死んだことを重ねて考えれば、殊礼を加えるべきである。公卿に制度を議論させよ。」有司が議論し、 社稷 に忠誠を尽くし、天下に功績を施したので、 霍光 の故事に依るべきであり、大司馬の称号を追贈して大将軍の上に冠し、封邑を五万戸増やし、諡を武公とすることを提案した。文帝(司馬昭)は上表して辞退して言った。「臣の亡父は丞相・相国の九命の礼を受けようとせず、亡兄は相国の位を受けようとしませんでした。誠に太祖( 司馬懿 )が常に経てこられた階梯であるからです。今、諡が二祖(司馬懿・司馬師)と同じであれば、必ず畏れ多いことです。昔、蕭何・張良・ 霍光 は皆、補佐する功績がありましたが、蕭何の諡は文終、張良の諡は文成、 霍光 の諡は宣成です。必ず文武を以て諡とするならば、蕭何らに倣って加えることを請います。」 詔 はこれを許し、諡を忠武とした。晋国が建てられると、景王と追尊された。武帝( 司馬炎 )が 禅譲 を受けると、尊号を景皇帝とし、陵を峻平とし、廟を世宗と称した。
文帝
文皇帝は諱を昭といい、字を子上といい、景帝(司馬師)の同母弟である。魏の景初二年、新城郷侯に封ぜられた。正始の初め、 洛陽 典農中郎将となった。魏の明帝の奢侈の後に当たり、帝は煩雑な取り締まりを免除し、農時を奪わず、百姓は大いに喜んだ。 散騎常侍 に転じた。
大将軍曹爽が蜀を伐つ時、帝を征蜀将軍とし、夏侯玄の副将として駱谷から出撃し、興勢に駐屯した。蜀の将軍王林が夜に帝の陣営を襲撃したが、帝は堅く臥して動かなかった。王林が退くと、帝は夏侯玄に言った。「費禕は険阻な地を拠って守り、進んでも戦いを得られず、攻めてもならず、急いで軍を返し、後の図りとすべきです。」曹爽らは軍を引き返した。費禕は果たして兵を馳せて三嶺に向かい、険阻な地を争ってようやく通過できた。遂に帰還し、議郎に任ぜられた。曹爽が誅殺された時、兵を率いて二宮(皇太后と少帝)を守衛し、功績により封邑を千戸増やされた。蜀の将軍姜維が隴右を侵した時、征西将軍郭淮が 長安 からこれを防いだ。帝は安西将軍に進み、節を持ち、関中に駐屯し、諸軍の節度となった。郭淮が麴で姜維の別将の句安を攻めたが、長く決着がつかなかった。帝は進んで長城を占拠し、南へ駱谷に向かって進軍し、姜維を疑わせた。姜維は懼れ、南鄭に退いて守りを固めた。句安の軍は援軍を絶たれ、兵を率いて降伏してきた。安東将軍に転じ、節を持ち、許昌に鎮した。
大軍が 王淩 を討伐した時、帝は淮北諸軍事を督し、軍を率いて項で会合した。封邑を三百戸増やされ、金印紫綬を仮授された。まもなく 都督 に進号し、征東将軍胡遵と鎮東将軍諸葛誕を統率して呉を伐ち、東関で戦った。二軍は敗北し、侯位を失った。蜀の将軍姜維がまた隴右を侵し、狄道を攻めると言いふらした。帝を行征西将軍とし、長安に駐屯させた。雍州 刺史 陳泰は賊より先に狄道を占拠しようとしたが、帝は言った。「姜維は 羌 を攻め、その人質を収め、穀物を集めて邸閣を造り終えて、また転進してここまで来たのは、正に塞外の諸 羌 を片付け、来年の資糧としようとしているのだ。もし本当に狄道に向かうなら、どうして宣り露わし、外人に知らせるだろうか。今、出兵を言いふらしているのは、帰ろうとしているのだ。」姜維は果たして陣営を焼いて去った。新平の 羌 胡が叛いたので、帝はこれを撃破し、遂に霊州で兵を耀かせ、北方の虜は震え懼れ、叛いた者は悉く降伏した。功績により再び新城郷侯に封ぜられた。高貴郷公(曹髦)が即位した時、策定に参画した功績により、高都侯に進封され、二千戸を加増された。毌丘倹と文欽の乱の時、大軍が東征し、帝は中領軍を兼ね、洛陽に留まって鎮守した。景帝(司馬師)が病篤くなった時、帝は都から見舞いに行き、衛将軍に任ぜられた。景帝が崩御すると、天子は帝に許昌を鎮守させ、尚書傅嘏に六軍を率いて京師に還るよう命じた。帝は傅嘏と鍾会の策を用い、自ら軍を率いて還った。洛陽に至り、大将軍に進位し侍中を加えられ、中外諸軍を 都督 し、尚書事を録し、政を輔け、剣を帯び履を履いて殿上に上ることを許された。帝は固辞して受けなかった。
甘露元年
甘露元年春正月、大 都督 を加えられ、奏事する時に名を称しなくてよいとされた。夏六月、高都公に進封され、封土は七百里四方とされ、 九錫 を加えられ、斧鉞を仮授され、大 都督 に進号し、剣を帯び履を履いて殿上に上ることを許された。また固辞して受けなかった。秋八月庚申の日、仮黄鉞を加えられ、三県を加増された。
甘露二年
二年(甘露二年)の夏五月辛未の日、鎮東大將軍の諸葛誕が揚州 刺史 の樂綝を殺し、淮南で反乱を起こし、子の靚を呉に人質として送り救援を請うた。議論する者は速やかに討伐すべきと請うたが、帝(司馬昭)は言った。「誕は毌丘儉が軽率に行動して敗れたのを見て、今は必ず外で呉の賊と連合するだろう。これは事態が大きくなるが動きは遅い。私は四方と力を合わせ、完全な勝利をもってこれを制するつもりだ。」そこで上表して言った。「昔、黥布が叛逆した時、漢の高祖は自ら征伐された。隗囂が背いた時、光武帝は西征された。烈祖明皇帝(曹叡)も車駕を出された。これらは皆、威勢を奮い起こし、武威を輝かせるためであった。陛下は暫く軍務に臨まれ、将士に天子の威光を頼りとさせられるべきです。今、諸軍は五十万ほどあり、多勢で寡勢を撃てば、必ず勝てないことはありません。」秋七月、天子(曹髦)と皇太后を奉じて東征し、青州、徐州、荊州、 豫 州から兵を徴発し、関中の遊軍を分けて取り、皆を淮北に集結させた。軍は項に駐屯した。廷尉の何楨に節を与え、淮南に派遣して将士を慰撫し、逆順の道理を明らかにし、誅罰と賞賜を示させた。甲戌の日、帝は丘頭に進軍した。呉は文欽、唐咨、全端、全懌ら三万余人を派遣して諸葛誕を救援させた。諸将は迎撃したが、防ぐことができなかった。将軍の李広は敵に臨んで進まず、泰山太守の常時は病気と称して出陣しなかったため、共に斬って示しにした。八月、呉の将軍朱異が兵一万余人を率い、輜重を都陸に留め、軽兵で黎漿に至った。監軍の石苞と兗州 刺史 の州泰がこれを防ぎ、朱異は退いた。泰山太守の胡烈が奇兵をもって都陸を襲撃し、その糧食輸送を焼いた。石苞と州泰はさらに進んで朱異を撃ち、大破した。朱異の残兵はひどく飢え、葛の葉を食べて逃げ、呉人は朱異を殺した。帝は言った。「朱異が寿春に到着できなかったのは、彼の罪ではない。呉人が彼を殺したのは、ちょうど寿春(の諸葛誕)に詫びを入れ、誕の決意を固めさせ、まだ救援を望ませるためだ。もしそうでなければ、彼らは包囲を突破し、一か八かの命懸けの戦いを決行するはずだ。あるいは、我が大軍が長くは続かないと思い、食糧を節約し口数を減らし、他の変化を期待しているかもしれない。賊の事情を推し量ると、この三つのどれかから出ない。今は多方面から手を尽くして彼らを混乱させ、逃亡を防ぐのが勝利の策だ。」そこで包囲を完成させ、病弱な兵士を分遣して淮北で穀物を得させ、兵士たちに大豆を与え、一人あたり三升とした。文欽はこれを聞き、果たして喜んだ。帝はますます弱っている様子を見せかけ、多くの間諜を放ち、呉の救援がまさに来ると言いふらした。諸葛誕らはますくつろいで食糧を消費し、間もなく城中は食糧不足となった。石苞と王基は共に攻撃を請うたが、帝は言った。「誕の謀反は一朝一夕のことではない。食糧を集め守りを固め、外で呉人と結び、自ら淮南を占拠するに足ると考えている。文欽もまた悪事を共にしているので、必ずや簡単には逃げない。今もし急いで攻撃すれば、遊軍の力を損なう。外敵が突然来れば、内外で敵を受けることになり、これは危険な道だ。今、三つの反逆者が孤城の中に集まっている。天がおそらく彼らを共に滅ぼそうとしているのだ。私は長い策をもって彼らを繋ぎ止め、ただ三方を堅く守るべきだ。もし賊が陸路で来れば、軍糧は必ず少ない。私は遊兵の軽騎でその輸送を絶てば、戦わずして外賊を破ることができる。外賊が破られれば、文欽らは必ず捕らえられるだろう。」全懌の母は孫権の娘であったが、呉で罪を得た。全端の兄の子の禕と儀がその母を奉じて来奔した。儀の兄の靜は当時寿春にいた。鍾会の計略を用い、禕と儀の手紙を偽造して靜を欺いた。靜兄弟五人はその配下を率いて降伏してきたので、城中は大いに驚いた。
甘露三年
三年(甘露三年)の春正月壬寅の日、諸葛誕と文欽らが出撃して包囲陣を攻撃したが、諸軍が迎撃してこれを敗走させた。初め、誕と欽は内部で協力していなかったが、窮地に陥ると、かえって互いに疑い合うようになった。ちょうど文欽が作戦を協議する際に諸葛誕と意見が対立し、誕は自ら刀を抜いて文欽を殺した。文欽の子の鴦が誕を攻撃したが、勝てず、城を越えて降伏した。(帝は)彼を将軍に任じ、侯に封じ、鴦に城の周りを巡らせて呼ばせた。帝は城の上で弓を持っている者が矢を放たないのを見て、諸将に言った。「攻撃できる!」二月乙酉の日、攻撃して城を陥落させ、諸葛誕を斬り、三族を滅ぼした。呉の将軍唐咨、孫曼、孫弥、徐韶らがその配下を率いて皆降伏した。(帝は)上表して彼らの爵位を加増し、飢えと病気の者に食糧を与えた。ある者が、呉兵は必ずや役に立たないだろうから、生き埋めにするよう請うた。帝は言った。「たとえ逃げ帰ったとしても、ちょうど中国(魏)の度量の大きさを見せることになる。」そこで彼らを三河の地に移住させた。夏四月、京師に帰還した。魏帝(曹奐)は命じて丘頭を武丘と改め、武功を顕彰した。五月、天子は 并 州の太原、上党、西河、楽平、新興、雁門、司州の河東、平陽の八郡、地方七百里をもって、帝を 晉 公に封じ、九錫を加え、位を相国に進め、 晉 国に官司を置くことを許した。(帝は)九度辞退して、やめさせた。そこで封邑一万戸を増やし、三県の租税を食み、諸子で爵位のない者を皆列侯に封じた。秋七月、先代の名臣や大功を立てた者の子孫を記録して上奏し、才能に従って任用した。
甘露四年
四年(甘露四年)の夏六月、荊州を分割して二つの 都督 を置き、王基を新野に鎮守させ、州泰を 襄陽 に鎮守させた。石苞を揚州 都督 に、陳騫を 豫 州 都督 に、鍾毓を徐州 都督 に、宋鈞を青州諸軍事監軍に任じた。
景元元年
景元元年の夏四月、天子は再び帝に以前と同様の爵位と俸禄を与えるよう命じたが、また辞退して受けなかった。天子は既に帝が三代にわたって宰相を補佐し、政権が自分から出ていないことに、心情的に安らぐことができず、また廃位や辱めを受けることを憂慮し、殿上に臨んで百官を召し出して放逐しようとした。五月戊子の夜、冗従 僕射 の李昭らに命じて陵雲臺で甲兵を発し、侍中の王沈、 散騎常侍 の王業、尚書の王経を召し出し、懐中の黄絹の 詔 書を見せ、戒厳して朝を待たせた。王沈と王業は帝のもとに馳せ告げた。帝は護軍の賈充らを召して備えさせた。天子は事が漏れたことを知り、側近を率いて相府を攻撃し、討伐すべきものがあると称し、敢えて動く者は族誅にすると言った。相府の兵将は止まって敢えて戦おうとしなかった。賈充が諸将を叱責して言った。「公(司馬昭)があなた方を養ってきたのは、正に今日のためだ!」太子舎人の成済が戈を抜いて天子の行列を犯し、刺した。刃は背中から出て、天子は車中で崩御した。帝は百官を召してその経緯を協議したが、 僕射 の陳泰は来なかった。帝はその舅の荀顗に車で彼を連れて来させ、奥の部屋に招き入れて言った。「玄伯(陳泰)、天下は私をどうするというのか?」陳泰は言った。「ただ賈充を腰斬し、わずかに天下に詫びるのみです。」帝は言った。「卿は次善の策を考えよ。」陳泰は言った。「ただその上策(賈充の処刑)が見えるだけで、次善の策は見えません。」そこで罪を成済に帰して彼を斬った。太后は令を下して言った。「昔、漢の昌邑王は罪により庶人に落とされた。この者(曹髦)もまた庶人の礼をもって葬るべきであり、内外にその行ったことを知らしめるように。」尚書の王経を殺した。私(司馬昭)に二心を抱いていたからである。戊申の日、帝は上奏して言った。「故・高貴郷公(曹髦)は従駕の兵を率い、刃を抜き鼓を鳴らして臣のいる所に向かって来られました。臣は兵刃が交わることを恐れ、即座に将士に命じて傷害を加えないよう、命令に違反する者は軍法によって処断するとしました。騎督の成倅の弟で太子舎人の成済が兵陣に入り込み、公(曹髦)を傷つけてお亡くしにしました。臣は聞きます。人臣の節義は、死ぬことがあっても二心を持つことはなく、主上に仕える義は、難を逃れようとはしないと。先の変事が突然起こり、禍は弩の引き金が発せられるように速やかで、誠に身を委ねて死を守り、ただ命の下されるままにしようと思いました。しかし、その本謀は、皇太后を危うくし、宗廟を覆そうとするものでした。臣は元輔の任に忝くし、国を安んずることを義としているので、即座に次々と命令を伝え、輿輦に近づかないよう申し渡しました。ところが成済が妄りに陣中に入り、大変事を招いたのです。哀痛と悔恨の念に、五内が引き裂かれる思いです。成済は国を犯し紀を乱し、その罪は誅殺をもってしても償えません。直ちに成済の家族を逮捕し、廷尉に引き渡します。」太后はこれに従い、成済の三族を滅ぼした。公卿と協議し、燕王曹宇の子の常道郷公璜を立てて帝とした。六月、元号を改めた。丙辰の日、天子は帝の位を相国に進め、 晉 公に封じ、十郡を増封し、以前と同様に九錫を加え、一族の子弟でまだ侯になっていない者を亭侯に封じ、銭千万、帛一万匹を賜った。(帝は)固く辞退したので、やめさせた。冬十一月、呉の吉陽督の蕭慎が書簡を送り、鎮東将軍の石苞のもとに偽って降伏し、迎えを求めてきた。帝はその詐りであることを知り、石苞に外では迎えるふりをさせ、内では備えをさせた。
景元二年
二年の秋八月甲寅、天子は 太尉 高柔を使者として帝に相国の印綬を授けさせ、 司空 鄭沖に晋公の茅土と九錫を届けさせたが、帝は固辞した。
景元三年
三年の夏四月、粛慎が楛矢・石砮・弓甲・貂皮などを献上してきたので、天子はこれらを大将軍府に帰属させるよう命じた。
景元四年
四年の春二月丁丑、天子は前回と同様に帝に命じたが、またも固辞した。三月、 詔 により大将軍府に司馬一人、従事中郎二人、舎人十人を増設した。夏、帝は蜀を討伐しようとし、人々に謀を巡らせて言った。「寿春平定以来、兵役を休めて六年、兵を整え甲冑を修繕し、二つの敵(呉・蜀)に備えてきた。呉を攻略する計画を大まかに計算すると、戦船を作り水路を通すのに、千余万の労力が必要で、これは十万人が百数十日かかる仕事だ。また南方の土地は低湿で、必ず疫病が発生する。今はまず蜀を取るべきである。三年後、巴蜀の順流の勢いに乗じて、水陸両面から進軍すれば、これは虞を滅ぼし虢を定め、韓を呑み魏を併せる勢いである。蜀の戦士は九万、成都の守備と他郡の防備に四万は下らないとすれば、残りの兵は五万に過ぎない。今、姜維を沓中に釘付けにして東顧の暇を与えず、まっすぐ駱谷を指して進軍し、その空虚な地を出て漢中を襲えばよい。彼らが城に拠り険を守れば、兵力は必ず分散し、首尾は離断する。大軍を挙げて城を屠り、精鋭の兵を散らして野を略奪すれば、剣閣は険を守る暇がなく、関頭は自存できない。劉禅の暗愚さを考えれば、辺境の城が外から破られ、男女が内に震え上がれば、その滅亡は明らかである。」征西将軍鄧艾は、まだ隙がないと考え、たびたび異議を唱えた。帝はこれを憂い、 主簿 の師纂を鄧艾の司馬として派遣し諭させたところ、鄧艾はようやく命令に従った。そこで四方の兵十八万を徴発し、鄧艾に狄道から沓中の姜維を攻撃させ、雍州 刺史 諸葛緒に祁山から武街に軍を進めさせて姜維の帰路を断たせ、鎮西将軍鍾会に前将軍李輔・征蜀護軍胡烈らを率いて駱谷から漢中を襲撃させた。秋八月、軍は洛陽を出発し、将士に大いに賞を与え、軍を整え誓いを立てた。将軍鄧敦が蜀は討伐すべきでないと言ったので、帝は彼を斬って見せしめにした。九月、また天水太守王頎に姜維の陣営を攻撃させ、隴西太守牽弘にその前を遮らせ、金城太守楊頎に甘松へ向かわせた。鍾会は二隊に分かれ、斜谷から進入し、李輔に楽城で王含を包囲させ、また歩兵の将易愷に漢城で蔣斌を攻撃させた。鍾会はまっすぐ陽安を目指し、護軍胡烈が関城を陥落させた。姜維はこれを聞き、引き返したが、王頎が彊川で追撃して破った。姜維は張翼・廖化と合流して剣閣を守り、鍾会がこれを攻撃した。冬十月、天子は諸侯からの戦勝報告が相次いで届いたため、以前の命令を改めて述べた。
朕は寡徳をもって、天の序列を継承し、我が祖宗の大いなる功業を受け継いだ。家に多くの難が降りかかり、教訓を明らかにすることができなかった。かつて奸逆がたびたび起こり、四方の賊が内に侮り、四海が滅び失うことを大いに恐れ、三祖の大業を堕とすことを憂えた。ただ公(司馬昭)は経徳を履み哲に明らかで、明允広深であり、武と文を導き宣べ、代々保傅として、皇家を輔け治めてきた。風雨にさらされ、征伐に奔走し、王室のために労苦を重ねること二十余年。前人を輔翼し、ついに大政を断じ、不正をよく抑え、 社稷 を安んじた。及び、毌丘倹・文欽の乱では、公は衆を安んじ救援し、命を分けて軍を起こし、統治に方策があり、淮浦を平定した。その後、巴蜀がたびたび侵し、西方の地が平穏でなく、公は奇策を授け指示し、千里の彼方で勝利を収めた。ゆえに段谷の戦いでは、隙に乗じて大勝し、将を斬り旗を奪い、万単位の首級を挙げた。孫峻が夏を乱し、徐方に寇を招いた時、兵車を先に進め、威霊を先に示し、黄鉞がまだ開かぬうちに、鯨鯢(賊の首魁)は逃げ隠れた。孫壹が隙を作り、自ら疑い隔たりを生じた時、公の深い洞察と遠い照覧、奇策は微に入り、遠方の民は帰順し、南夏の藩屏となり、そこで鋭卒を授け、全力を軍務に尽くさせた。及び、諸葛誕が天を覆すほどの逆をなし、揚楚で兵を挙げ、文欽・唐咨が逃亡の罪人となり、悪を同じくして互いに助け合い、その害虫どもを率いて寿春に入り、淮山の険に拠り、敢えて王命に背いた。公は自ら甲冑を身に着け、天罰を謹んで行い、奥深い謀略と廟堂の計算をもって、時が暗い間は力を養った。奇兵が震え撃ち、朱異は打ち破られ、神変が機に応じ、全琮は服従し、乱を取って昧を攻め、高い城壁も守れなかった。九伐の大略を兼ね備え、五兵の正しい法度を究め、用兵によって戦いながらも武力を窮めず、大敵を殲滅潰走させた。旗をもう一度振るうこともなく、元凶は首を差し出した。強き呉の俊臣を捕らえ、逃亡の賊虜を縛り上げた。腕を組み膝を屈し、下吏に命を委ね、捕虜と斬首は十万に及び、積み重なった屍は京観となった。宗廟に滞った恥を雪ぎ、兆民の艱難を救った。区域を掃平し、威信を呉会に示し、ついに干戈を収め、我が疆土を靖んじた。天地鬼神、ことごとく治まらぬものはない。かつて王室の難は、蕭牆(内部)から変が起こったが、公の霊験に頼り、艱難を大きく救った。宗廟は危うくして安泰を得、 社稷 は墜ちて再び寧んじた。忠誠は皇天に通じ、功績は六合を救った。そこで古訓に諮り、諸々の典籍に照らし合わせ、公に高位の相国を命じ、群侯の上に加え、参墟の地を開き、晋の領域に封じた。これは斉・魯と並び軌を同じくし、帝室の屏翰とするためである。しかし公は遠く謙損を実践し、深く沖虚を履み譲り、策命を固辞すること八九回に及んだ。朕は譲りの徳を重んじるあまり、礼を抑え制度を損ない、公の志を彰わすこと、今や四年になる。上は昔の建侯の典に欠け、下は兆民の衆目が注ぐ望みに背いている。
ただ公は王の法度を厳かに敬い、大道を開き救済し、純朴を尊尚し、徭役を省き費用を節約し、農耕に努め分業を勧め、天下を康らかに治めた。老人は崇養の徳を負い、鰥寡は憐れみ救済の施しを受け、仁風は中夏に興り、流れる恵みは遠い辺境にまで布かれた。それゆえ東夷西戎、南蛮北狄、狂った狡猾な貪欲で凶悍な者で、代々寇讐となっていた者たちも、皆その義に感じ恵みを懐き、関門を叩いて内附し、あるいは命を委ね貢ぎ物を納め、あるいは官司の設置を求めた。九服の外、絶域の民で、長い世にも稀にしか来ない者たちも、皆海を渡って来朝し、王の徳に鼓舞され、前後して来た者は八百七十余万口に及んだ。海の隅の幽遠な辺境、服従せざる思いはなく、たとえ西旅が遠く貢ぎ、越裳が九重の通訳を経ようとも、その義はこれを超えるものはない。朕の身を輔翼し、下は万国を正し、異域を平定しようと念じ、八方を安んじ救済しようとする。庸蜀がまだ服従せず、蛮荊が悪事を働いているため、密かに謀をめぐらし独断で、軍を整え武を経営した。将帥を精選し、完成した策を授け、賊の境に足を踏み入れるや、時機に応じて打ち破った。狂った狡猾な者は敗走し、首尾は震え潰れ、その戎帥を捕らえ、その城邑を屠った。巴漢は震え恐れ、江源は雲が晴れるように明らかになり、地は平らかになり天は成る。誠にこの挙にある。公は六合を救済する勲功があり、それに茂徳を加え、実際に百揆を総べ、よく庶政を治めた。五品を敦めて仁を崇め、六典を恢めて訓を敷いた。しかも恭しく日夜を過ごし、労苦を厭わず謙虚に夜明け前から働き、たとえ尚父(呂尚)が文武を左右し、周公が王家のために勤労したとしても、これを超えるものはない。
昔、先王は明徳を選び建てて諸侯を開き、国を治め野を経営し、五等の爵を制定した。それは王畿を守り助け、百世にわたって福祚を伝えるためである。ゆえに斉や魯の封は、周においては広大であり、山川と土田、邦畿は七百里に及び、官司と典策は他の諸侯と異なっていた。恵王・襄王の難に際しては、桓公・文公が翼戴の功労を立てても、なお錫命の礼を受け、皆が大いなる徳を光栄とし、後世の模範となった。公の功績は前の功業を超えているのに、賞は旧式に欠けており、百官は憂い、人神ともに恨みを抱いている。どうして公の謙虚さゆえに、長く大典を滞らせることができようか。今、 并 州の太原・上党・西河・楽平・新興・雁門、司州の河東・平陽・弘農、雍州の馮翊の合わせて十郡を以て、南は華山に至り、北は陘山に至り、東は壷口に至り、西は黄河を越え、領域の広さは七百里四方、すべて晋の故地であり、唐叔がこれを受け、代々盟主として、実際に諸夏を統率し、旧職を果たしてきた。ここにこの地を賜り、公を晋公に封ずる。命じて使持節・兼 司徒 ・司隸 校尉 の陔に印綬と策書を授けさせ、金獣符第一から第五、竹使符第一から第十を与える。この黒土を賜り、白茅で包み、爾が国家を建て、永遠に魏室を守護せよ。
昔、周の周公・召公はともに公侯として、入って保傅となった。近代においては、酇侯の蕭何が実際に相国として漢朝を治めた。時勢に応じた制度であり、礼もまたこれにふさわしい。今、公の位を相国に進め、緑綟綬を加える。さらに公に九錫を加える。後の命を敬って聴け。公が大いなる謀略を広め、正しい典礼を尊び、模範を示し、四方を教訓するので、ここに公に大輅・戎輅を各一両、黒い牡馬八頭を賜る。公が陰陽を調和し、人時に敬って授け、嗇夫が本業に戻り、農産が豊かになるので、ここに公に袞冕の服を賜り、赤い舄を副える。公が顕著な徳を広く敷き、下に恵みを以て和らぎ、敬信と思順をもって、百官が皆和合するので、ここに公に軒懸の楽と六佾の舞を賜る。公が宇宙を鎮め安定させ、声教を広く伝え、海外は懐き服し、遠方の地は真心を込めて帰附し、異域は正義を慕って馳せ、諸夏は軌道に順うので、ここに公に朱戸を賜って住まわせる。公が賢者を選び人材を量り、俊逸を求め、多くの士を登用し、周行に置くので、ここに公に納陛を賜って登らせる。公が厳かに恭しく畏れ慎み、四国を平定し、寇虐を抑え、苛酷な悪政が起こらないので、ここに公に武賁の士三百人を賜る。公が刑を明らかに慎んで用い、大中を簡略に恤み、天威を顕わし、不虔を糾すので、ここに公に鈇鉞を各一つ賜る。公が六軍を整え、征伐を司り、命令に背き正道を侵す者を誅殺するので、ここに公に彤弓一、彤矢百、玈弓十、玈矢千を賜る。公が祭祀を盛んに行い、孝の思いを則とし、篤実な誠が極まり、神明に通じるので、ここに公に秬鬯一卣を賜り、珪瓚を副える。晋国に官司以下を置くのは、すべて旧式に従う。
往け、欽べよ。朕の命を敬って受け、訓典を広く敷き、庶方を光沢させ、爾の明徳を永遠に終わらせ、余一人の美しい命を大いに顕わすのだ。
公卿や将校は皆、府に赴いて旨を伝えたが、帝は礼をもって辞退した。 司空 の鄭沖が群官を率いて勧進し、言った。
伏して見るに、嘉命が明らかに至ったが、窃かに聞くに明公が固く辞退されるとのこと、沖らは心を寄せ、実に愚かな考えがある。聖王が制度を作り、百代同じ風であり、徳を褒め功を賞することは、古くからあった。昔の伊尹は、有莘氏の媵臣に過ぎなかったが、一旦成湯を補佐すると、遂に阿衡の号を担った。周公は既成の勢いを借り、既に安定した業績に基づき、曲阜に光り輝き、亀山・蒙山を覆った。呂尚は磻溪の漁師であったが、一朝指揮を執ると、営丘に封じられた。これ以来、功績は薄いのに賞は厚い者は数え切れないが、賢哲の士はなお美談としている。ましてや先の相国以来、代々明徳があり、魏室を輔翼し、天下を安んじ、朝廷に悪政がなく、人に誹謗の言葉がない。以前、明公が西征して霊州に臨み、北は沙漠に臨み、榆中以西は風を望んで震え服し、 羌 戎は馳せ参じ、振り返って内向き、東では叛逆を誅し、全軍が独りで勝利した。闔閭の将を捕らえ、軽鋭の兵卒を万単位で虜にし、威は南海に加わり、名は三越を脅かし、宇内は康寧で、苛酷な悪事が起こらない。それゆえ時俗は畏れ慕い、東夷は舞を献じた。故に聖上は昔からの礼典旧章を覧て、開国して光り輝く地とし、この太原を顕わされた。明公は聖旨を承け奉じ、この大福を受け、天と人にふさわしくあるべきである。大功と盛勲は、あのように光り輝き、国土と嘉祚は、このように高く大きい。内外は協同し、過ちも違背もない。これによって征伐すれば、朝服のまま長江を渡り、呉会を掃除し、西は江源を塞ぎ、岷山を望んで祭祀を行える。戈を返し節を止め、天下を指揮すれば、遠くは服さないものなく、近くは粛然としないものはない。大魏の徳を、唐虞よりも光らせ、明公の盛勲を、桓文よりも超えさせる。それから滄海に臨んで支伯に謝し、箕山に登って許由に揖するのは、何と盛んなことか。至公至平であり、誰が隣り合えよう、どうして小さな辞退に勤しむ必要があろうか。
帝はついに命を受けた。十一月、鄧艾が一万余人を率いて陰平から絶険を越えて江由に至り、綿竹で蜀の将軍諸葛瞻を破り、瞻を斬り、首を伝送した。進軍して雒県に至り、劉禅が降伏した。天子は晋公に相国として百揆を総括するよう命じ、ここに上節伝し、侍中・大 都督 ・録尚書の号を除いた。鄧艾を 太尉 に、鍾会を 司徒 に上表した。会は密かに叛逆を謀り、密かに使者を遣わして艾を讒言した。
咸熙元年
咸熙元年春正月、檻車で鄧艾を召還した。乙丑、帝は天子を奉じて西征し、長安に駐屯した。この時、魏の諸王侯はすべて 鄴城 にいたが、命じて従事中郎の山濤に行軍司事を行わせ、鄴に鎮めさせ、護軍の賈充に節を持たせ、諸軍を督させ、漢中を占拠させた。鍾会は遂に蜀で反乱を起こしたが、監軍の衛瓘と右将軍の胡烈が会を攻め、斬った。初め、会が蜀を伐つ時、西曹属の邵悌が帝に言った。「鍾会は信用しがたく、行かせるべきではありません。」帝は笑って言った。「蜀を取るのは掌を指すが如くで、人々は皆できないと言うが、ただ会だけが我が意に同じである。蜀を滅ぼした後は、中国の将士は各自帰国を思い、蜀の残った民はなお震え恐れている。たとえ異志があっても、為すことはできない。」果たして量った通りになった。丙辰、帝は長安から帰還した。三月己卯、帝の爵を王に進め、封邑を増やして前と合わせて二十郡とした。夏五月癸未、天子は舞陽宣文侯を追って晋宣王とし、舞陽忠武侯を晋景王とした。秋七月、帝は 司空 の荀顗に礼儀を定めさせ、中護軍の賈充に法律を正させ、尚書 僕射 の裴秀に官制を議させ、太保の鄭沖に総括して裁断させた。五等爵を初めて建てた。冬十月丁亥、呉人の相国参軍の徐劭と 散騎常侍 水曹属の孫彧を遣わして呉に使わし、孫皓に平蜀のことを告げ、馬や錦などの物を贈り、威と懐柔を示すよう上奏した。丙午、天子は中撫軍新昌郷侯の炎を晋の世子とするよう命じた。
咸熙二年
二年春二月甲辰、朐䏰県が霊亀を献上し、相府に帰した。夏四月、孫皓が紀陟を使者として来聘させ、方物を献上した。五月、天子は帝に十二旒の冕を与え、天子の旌旗を立て、出入りに警蹕を行い、金根車に乗り、六馬を駕し、五時の副車を備え、旄頭と雲罕を置き、楽舞は八佾とし、鍾虡の宮懸を設け、位は燕王の上とした。王妃を王后に、世子を太子に進め、王女や王孫の爵命の号はすべて帝者の儀礼と同じとした。諸々の禁網の煩雑苛酷や法式で時勢に不便なものは、帝はすべて上奏して除いた。晋国に御史大夫・侍中・常侍・尚書・中領軍・衛将軍の官を置いた。
秋八月辛卯の日、帝は露寢において崩御された。時に五十五歳であった。九月癸酉の日、崇陽陵に葬られ、諡を文王とされた。武帝が禅譲を受けると、追尊して文皇帝と号し、廟号を太祖と称した。
史評
史臣が言う。世宗(司馬師)は聡明な謀略をもって基業を創始し、太祖(司馬昭)は雄大な才覚をもって事業を成し遂げた。殷に仕えたような事跡は空しく残り、商を討つ志はますます遠大で、天下を三分し、功業はここにあった。そして剣閣を越えて妖気を消し、淮水を渡って乱を静め、桐宮に幽閉されたような怨み(周公旦の故事)も、あるいは耐えがたいものがあった。もし名臣の体をなし、端揆(宰相)の格をもってすれば、周公がこの年に流連し、魏武帝(曹操)がこの日に得意としたようなものである。軒懸の楽は大いに南陽に開かれ、師摯の図(音楽の盛んな様)はここにおいて北面した。壮麗であることよ、天と人とを包み挙げる者である!帝王となる君主たることは、また難しくはないか。