晉書

卷一 帝紀第一

卷一 帝紀第一

晉書

原文晉書

卷一 帝紀第一

原文卷一帝紀第一

宣皇帝は諱いみなを懿といい、字あざなは仲達、河内かうち郡温県孝敬里の人で、姓は司馬氏である。その先祖は帝高陽の子である重黎にさかのぼり、夏官祝融を務めた。唐、虞、夏、商の時代を経て、代々その職務を継承した。周代になると、夏官は司馬と改称された。その後、程伯休父が周の宣王の時代に、世襲の官職として徐方を平定し、官族としての称号を賜り、それによって氏とした。楚漢の争いの時代、司馬卬は趙の将軍となり、諸侯とともに秦を討伐した。秦が滅亡すると、殷王に立てられ、河内に都を置いた。漢はその地を郡とし、子孫はそこで家を構えた。司馬卬から八代目に征西将軍の司馬鈞が生まれ、字は叔平といった。鈞は豫章太守の司馬量を生み、字は公度といった。量は潁川太守の司馬儁を生み、字は元異といった。儁は京兆尹の司馬防を生み、字は建公といった。宣皇帝は司馬防の次子である。若い頃から非凡な節操があり、聡明で大略に富み、博学で見聞が広く、儒学を深く信奉した。漢末の大乱にあたり、常に慨然として天下を憂うる心を持っていた。南陽太守で同郡の楊俊は人を見抜くことで知られていたが、皇帝(司馬懿しばい)を見て、まだ弱冠にも満たないのに、並々ならぬ器量と認めた。尚書しょうしょの清河の崔琰は皇帝の兄の司馬朗と親しく、朗に言った。「あなたの弟は聡明で明らか、公正で、剛毅果断、英邁にして卓越しており、あなたの及ぶところではない」。

原文宣皇帝諱懿,字仲達,河內溫縣孝敬里人,姓司馬氏。其先出自帝高陽之子重黎,為夏官祝融。歷唐、虞、夏、商,世序其職。及周,以夏官為司馬。其後程伯休父,周宣王時,以世官克平徐方,錫以官族,因而為氏。楚漢間,司馬卬為趙將,與諸侯伐秦。秦亡,立為殷王,都河內。漢以其地為郡,子孫遂家焉。自卬八世,生征西將軍鈞,字叔平。鈞生豫章太守量,字公度。量生潁川太守儁,字元異。儁生京兆尹防,字建公。帝即防之第二子也。少有奇節,聰朗多大略,博學洽聞,伏膺儒教。漢末大亂,常慨然有憂天下心。南陽太守同郡楊俊名知人,見帝,未弱冠,以為非常之器。尚書清河崔琰與帝兄朗善,亦謂朗曰:「君弟聰亮明允,剛斷英特,非子所及也。」

建安

原文建安

漢の建安六年、郡が上計掾に推挙した。魏の武帝(曹操)が司空しくうであった時、その名を聞いて召し出そうとした。皇帝(司馬懿)は漢の運命が衰えつつあることを知り、曹氏に節を屈することを望まず、中風の麻痺を理由に辞退し、起居もできないと称した。魏武帝は人を夜に遣わして密かに刺しに行かせたが、皇帝は堅く臥して動かなかった。魏武帝が丞相となった時、また文学掾に召し出し、使者に命じて言った。「もしまたぐずぐずするようなら、すぐに捕らえよ」。皇帝は恐れて職に就いた。そこで太子(曹丕)と交遊させることとし、黄門侍郎に昇進し、議郎、丞相東曹属に転じ、まもなく主簿しゅぼに転じた。

原文漢建安六年,郡舉上計掾。魏武帝為司空,聞而辟之。帝知漢運方微,不欲屈節曹氏,辭以風痹,不能起居。魏武使人夜往密刺之,帝堅臥不動。及魏武為丞相,又辟為文學掾,敕行者曰:「若復盤桓,便收之。」帝懼而就職。於是使與太子游處,遷黃門侍郎,轉議郎、丞相東曹屬,尋轉主簿。

張魯討伐に従軍し、魏武帝に言った。「劉備は詐術と武力で劉璋を虜にし、蜀の人々はまだ心服していないのに遠く江陵を争おうとしています。これは好機を逃すべきではありません。今もし漢中に威光を輝かせれば、益州は震動し、進軍して臨めば、その勢いは必ず瓦解するでしょう。このような情勢を利用すれば、労力をかけずに成果を上げることが容易です。聖人といえども時機に逆らうことはできず、また時機を失うこともありません」。魏武帝は言った。「人は満足を知らないことを苦しむ。すでに隴右を得たのに、また蜀を得ようとするのか!」結局、この意見は採用されなかった。その後、孫権討伐に従軍し、これを撃破した。軍が帰還すると、孫権は使者を遣わして降伏を請い、上表して臣下を称し、天命について述べた。魏武帝は言った。「この小僧は私を炉の炭火の上に座らせようというのか!」皇帝は答えた。「漢の運命はまさに終わろうとしており、殿下は天下の十分の九を有しながら、それに服従して仕えておられます。孫権が臣下を称するのは、天と人の意思です。虞、夏、殷、周が謙譲しなかったのは、天を畏れ、天命を知っていたからです」。

原文從討張魯,言於魏武曰:「劉備以詐力虜劉璋,蜀人未附而遠爭江陵,此機不可失也。今若曜威漢中,益州震動,進兵臨之,勢必瓦解。因此之勢,易為功力。聖人不能違時,亦不失時矣。」魏武曰:「人苦無足,既得隴右,復欲得蜀!」言竟不從。既而從討孫權,破之。軍還,權遣使乞降,上表稱臣,陳說天命。魏武帝曰:「此兒欲踞吾著爐炭上邪!」答曰:「漢運垂終,殿下十分天下而有其九,以服事之。權之稱臣,天人之意也。虞、夏、殷、周不以謙讓者,畏天知命也。」

魏国が建国されると、太子中庶子に昇進した。大きな謀議があるたびに、奇策を献じ、太子から信頼され重用され、陳羣、呉質、朱鑠とともに四友と称された。

原文魏國既建,遷太子中庶子。每與大謀,輒有奇策,為太子所信重,與陳羣、吳質、朱鑠號曰四友。

軍司馬に昇進し、魏武帝に言った。「昔、箕子が献策した時、食糧を第一とした。今、天下で耕作しない者はおよそ二十余万におよび、国家経営の長遠な計画とは言えません。戦いはまだ終わっていませんが、自ら耕しながら守るべきです」。魏武帝はこれを受け入れ、農業に力を入れ穀物を蓄積したので、国家の財用は豊かになった。皇帝はまた、荊州刺史ししの胡脩は粗暴であり、南郷太守の傅方は驕慢で奢侈であり、ともに辺境の任にはふさわしくないと進言した。魏武帝はこれを考察しなかった。後に蜀の将軍関羽が樊城で曹仁を包囲し、于禁らの七軍がすべて壊滅すると、胡脩と傅方は果たして関羽に降伏し、曹仁の包囲は非常に切迫した。

原文遷為軍司馬,言於魏武曰:「昔箕子陳謀,以食為首。今天下不耕者蓋二十餘萬,非經國遠籌也。雖戎甲未卷,自宜且耕且守。」魏武納之,於是務農積穀,國用豐贍。帝又言荊州刺史胡脩麤暴,南鄉太守傅方驕奢,並不可居邊。魏武不之察。及蜀將關羽圍曹仁於樊,于禁等七軍皆沒,脩、方果降羽,而仁圍甚急焉。

この時、漢の皇帝は許昌きょしょうに都を置いていたが、魏武帝は賊(関羽軍)に近いと考え、河北への遷都を考えた。皇帝は諫めて言った。「于禁らは水害によって壊滅したのであり、戦闘や防衛の失敗によるものではなく、国家の大計にはまだ損害はありません。すぐに遷都すれば、敵に弱さを見せることになり、また淮水・沔水の流域の人々を大いに不安に陥れます。孫権と劉備は表面上は親密でも内実は疎遠であり、関羽が得意になることは、孫権の望むところではありません。孫権に伝えて、背後を牽制させれば、樊城の包囲は自然に解けるでしょう」。魏武帝はこれに従った。孫権は果たして将軍の呂蒙を派遣して西進し公安を襲撃して陥落させ、関羽はついに呂蒙に捕らえられた。

原文是時漢帝都許昌,魏武以為近賊,欲徙河北。帝諫曰:「禁等為水所沒,非戰守之所失,於國家大計未有所損,而便遷都,既示敵以弱,又淮沔之人大不安矣。孫權、劉備,外親內疏,羽之得意,權所不願也。可喻權所,令掎其後,則樊圍自解。」魏武從之。權果遣將呂蒙西襲公安,拔之,羽遂為蒙所獲。

魏武帝は、荊州の残された民衆や潁川で屯田している者たちが南方の敵寇に近いため、すべて移住させようと考えた。皇帝は言った。「荊楚の地の民は軽薄で落ち着きがなく、動揺させやすく安定させにくいものです。関羽が新たに敗れたばかりで、悪事を働いていた者たちは潜伏して様子をうかがっています。今、善良な者たちを移住させれば、彼らの心情を傷つけるだけでなく、去った者が二度と戻ろうとしなくなるでしょう」。この意見に従った。その後、逃亡した者たちはすべて元の生業に戻った。

原文魏武以荊州遺黎及屯田在潁川者逼近南寇,皆欲徙之。帝曰:「荊楚輕脫,易動難安。關羽新破,諸為惡者藏竄觀望。今徙其善者,既傷其意,將令去者不敢復還。」從之。其後諸亡者悉復業。

魏武帝が洛陽らくようで崩御すると、朝廷内外は危惧に陥った。皇帝(司馬懿)が喪事を取り仕切り、内外は厳粛となった。そして御棺を奉じて鄴に還った。

原文及魏武薨于洛陽,朝野危懼。帝綱紀喪事,內外肅然。乃奉梓宮還鄴。

魏の文帝(曹丕)が即位すると、河津亭侯に封じられ、丞相長史に転じた。ちょうど孫権が兵を率いて西進してきたため、朝廷の議論では樊城と襄陽じょうように食糧がなく、敵寇を防ぐことができないとされた。当時、曹仁が襄陽を鎮守しており、曹仁を宛に召還するよう請願があった。皇帝は言った。「孫権は関羽を新たに破ったばかりで、これは自ら(魏に)結びつこうとする時であり、必ずや禍患を起こすことはないでしょう。襄陽は水陸の要衝であり、敵寇を防ぐ要害です。放棄すべきではありません」。結局、この意見は採用されなかった。曹仁はついに二城を焼き捨てて撤退したが、孫権は果たして侵攻せず、魏の文帝は後悔した。魏が漢から禅譲ぜんじょうを受けると、皇帝を尚書とした。まもなく、督軍、御史中丞に転じ、安国郷侯に封じられた。

原文魏文帝即位,封河津亭侯,轉丞相長史。會孫權帥兵西過,朝議以樊、襄陽無穀,不可以禦寇。時曹仁鎮襄陽,請召仁還宛。帝曰:「孫權新破關羽,此其欲自結之時也,必不敢為患。襄陽水陸之衝,禦寇要害,不可棄也。」言竟不從。仁遂焚棄二城,權果不為寇,魏文悔之。及魏受漢禪,以帝為尚書。頃之,轉督軍、御史中丞,封安國鄉侯。

黄初

原文黃初

黄初二年、督軍の官が廃止されると、侍中、尚書右僕射ぼくやに昇進した。

原文黃初二年,督軍官罷,遷侍中、尚書右僕射。

五年、天子(文帝)が南巡し、呉の国境で軍勢を閲兵した。皇帝(司馬懿)は許昌に留まって鎮守し、向郷侯に改封され、撫軍、仮節に転じ、兵五千を率い、給事中、録尚書事を加えられた。皇帝は固辞した。天子は言った。「私は諸々の政務を、夜を日に継いで行い、わずかな休息もない。これは栄誉のためではなく、憂いを分かち合うためである」。

原文五年,天子南巡,觀兵吳疆。帝留鎮許昌,改封向鄉侯,轉撫軍、假節,領兵五千,加給事中、錄尚書事。帝固辭。天子曰:「吾於庶事,以夜繼晝,無須臾寧息。此非以為榮,乃分憂耳。」

六年、天子(曹丕)は再び大規模な水軍を動員して呉を征伐することとし、再び帝(司馬懿)に留守を命じ、内では民衆を鎮め、外では軍需物資を供給させた。出発に際し、詔みことのり書で言った。「私は後方のことを深く案じているので、卿に任せる。曹参には戦功があったが、蕭何の方が重んじられた。私に西方への憂いがなくなるようにするのは、良くないか。」天子が広陵から洛陽に戻ると、帝に詔書を下して言った。「私が東にいるときは、撫軍(司馬懿)が西方のことを総括せよ。私が西にいるときは、撫軍が東方のことを総括せよ。」そこで帝は許昌に留まって鎮守した。

原文六年,天子復大興舟師征吳,復命帝居守,內鎮百姓,外供軍資。臨行,詔曰:「吾深以後事為念,故以委卿。曹參雖有戰功,而蕭何為重。使吾無西顧之憂,不亦可乎!」天子自廣陵還洛陽,詔帝曰:「吾東,撫軍當總西事;吾西,撫軍當總東事。」於是帝留鎮許昌。

天子(曹丕)の病が重くなると、帝は曹真、陳羣らと共に崇華殿の南堂で謁見し、共に遺命を受けて政務を補佐することになった。詔書で太子(曹叡)に言った。「この三公(司馬懿、曹真、陳羣)について間隙を生じさせることがあっても、慎んで疑ってはならない。」明帝(曹叡)が即位すると、舞陽侯に改封された。

原文及天子疾篤,帝與曹真、陳羣等見於崇華殿之南堂,並受顧命輔政。詔太子曰:「有間此三公者,慎勿疑之。」明帝即位,改封舞陽侯。

孫権が江夏を包囲し、配下の将軍である諸葛瑾と張霸を派遣して襄陽を攻撃した時、帝は諸軍を督率して孫権を討ち、これを敗走させた。進撃して諸葛瑾を破り、張霸を斬り、合わせて千余りの首級を挙げた。驃騎将軍に昇進した。

原文及孫權圍江夏,遣其將諸葛瑾、張霸并攻襄陽,帝督諸軍討權,走之。進擊,敗瑾,斬霸,并首級千餘。遷驃騎將軍。

太和

原文太和

太和元年(227年)六月、天子(曹叡)は詔書を下し、帝を宛に駐屯させ、荊州と豫州の諸軍事を監督することを加えた。

原文太和元年六月,天子詔帝屯于宛,加督荊、豫二州諸軍事。

当初、蜀の将軍孟達が降伏した時、魏の朝廷は彼を非常に厚遇した。帝は孟達の言行が傾いて巧みで信用できないと考え、繰り返し諫言したが聞き入れられず、結局孟達を新城太守に任じ、侯に封じ、仮節を与えた。孟達はそこで呉と結び、蜀と固く連携し、密かに中原を図ろうとした。蜀の丞相諸葛亮しょかつりょうは彼の反覆を憎み、また彼が禍患となることを憂慮した。孟達は魏興太守の申儀と不和であったため、諸葛亮は彼の行動を促そうと、郭模を遣わして偽装投降させ、申儀のところを通り過ぎる際に、その計画を漏洩させた。孟達は計画が漏れたと聞き、挙兵しようとした。帝は孟達が速やかに行動することを恐れ、手紙で彼を諭して言った。「将軍はかつて劉備を捨てて、国家(魏)に身を寄せられた。国家は将軍に国境の任を委ね、蜀を図ることを任せた。これは心が白日に通じるものと言えよう。蜀の人々は愚かな者も賢い者も、将軍に対して歯ぎしりしない者はいない。諸葛亮は将軍を破ろうとしているが、ただその手立てがないのを苦にしているだけだ。郭模の言ったことは小事ではない。諸葛亮がどうして軽んじて漏らすよう命じるだろうか。これはおそらく容易に知りうることだ。」孟達はこの手紙を得て大いに喜び、なおも決断しかねていた。帝は密かに軍を進めて討伐した。諸将は孟達が二つの賊国(呉・蜀)と交わり結託しているので、様子を見てから動くべきだと言った。帝は言った。「孟達に信義はない。今は互いに疑っている時だ。未だ定まらぬうちに急いで決着をつけるべきだ。」そこで倍の速度で昼夜兼行し、八日でその城下に到着した。呉と蜀はそれぞれ将軍を派遣して西城の安橋と木闌塞に向かい孟達を救援しようとしたが、帝は諸将を分けてこれを防がせた。

原文初,蜀將孟達之降也,魏朝遇之甚厚。帝以達言行傾巧不可任,驟諫不見聽,乃以達領新城太守,封侯,假節。達於是連吳固蜀,潛圖中國。蜀相諸葛亮惡其反覆,又慮其為患。達與魏興太守申儀有隙,亮欲促其事,乃遣郭模詐降,過儀,因漏泄其謀。達聞其謀漏泄,將舉兵。帝恐達速發,以書喻之曰:「將軍昔棄劉備,託身國家,國家委將軍以疆埸之任,任將軍以圖蜀之事,可謂心貫白日。蜀人愚智,莫不切齒於將軍。諸葛亮欲相破,惟苦無路耳。模之所言,非小事也,亮豈輕之而令宣露,此殆易知耳。」達得書大喜,猶與不決。帝乃潛軍進討。諸將言達與二賊交構,宜觀望而後動。帝曰:「達無信義,此其相疑之時也,當及其未定促決之。」乃倍道兼行,八日到其城下。吳蜀各遣其將向西城安橋、木闌塞以救達,帝分諸將以距之。

当初、孟達は諸葛亮に手紙を書いて言った。「宛は洛陽から八百里、私のところからは一千二百里離れている。私が挙兵したと聞けば、天子に上表するはずで、それが往復する間に一ヶ月はかかる。その頃には私の城はすでに堅固になり、諸軍も十分に準備が整うだろう。私のいる場所は険阻で、司馬公(司馬懿)は必ずや自らは来られまい。他の将軍たちが来たとしても、私は憂いない。」ところが兵が到着すると、孟達はまた諸葛亮に告げて言った。「私が挙兵して八日で、兵が城下に来たとは、なんと神速なことか。」上庸城は三方が水に阻まれ、孟達は城外に木柵を築いて自らを固守していた。帝は水を渡り、その柵を破り、まっすぐ城下に迫った。八方向から攻撃し、十六日目に、孟達の甥の鄧賢と部将の李輔らが城門を開いて降伏した。孟達を斬り、その首を都に送った。捕虜は一万余人に上り、軍を整えて宛に帰還した。そこで農桑を勧め、無駄な出費を禁じ、南方の地の人々は喜んで帰服した。

原文初,達與亮書曰:「宛去洛八百里,去吾一千二百里,聞吾舉事,當表上天子,比相反覆,一月間也,則吾城已固,諸軍足辦。則吾所在深險,司馬公必不自來;諸將來,吾無患矣。」及兵到,達又告亮曰:「吾舉事八日,而兵至城下,何其神速也!」上庸城三面阻水,達於城外為木柵以自固。帝渡水,破其柵,直造城下。八道攻之,旬有六日,達甥鄧賢、將李輔等開門出降。斬達,傳首京師。俘獲萬餘人,振旅還于宛。乃勸農桑,禁浮費,南土悅附焉。

当初、申儀は長く魏興におり、国境で威権を専らにし、しばしば詔命を承けたふりをして印を刻み、多くの官職を仮に授けていた。孟達が誅殺された後、申儀は自ら疑念を抱いた。当時、諸郡の太守たちは帝が新たに勝利したことを祝って礼を持って慶賀を求めたが、帝は皆これを受け入れた。帝は人を遣わして申儀にほのめかし、申儀が到着すると、詔命を承けたふりをした経緯を問い詰め、彼を捕らえて都に送った。また孟達の残党七千余家を幽州に移住させた。蜀の将軍姚静、鄭他らが配下七千余人を率いて降伏してきた。

原文初,申儀久在魏興,專威疆埸,輒承制刻印,多所假授。達既誅,有自疑心。時諸郡守以帝新克捷,奉禮求賀,皆聽之。帝使人諷儀,儀至,問承制狀,執之,歸于京師。又徙孟達餘眾七千餘家於幽州。蜀將姚靜、鄭他等帥其屬七千餘人來降。

当時、辺境の郡は新たに帰附したばかりで、戸籍名簿のない所が多く、魏の朝廷は実態を把握しようとした。ちょうど帝が都に参朝していた時、天子(曹叡)は帝に意見を求めた。帝は答えて言った。「賊(蜀)は密な網で下を縛りつけるので、下の者はこれを捨てるのです。大綱を広く示すべきで、そうすれば自然と安楽になります。」また二つの虜(呉と蜀)を討つべきか、どちらを先にするべきかと問うた。答えて言った。「呉は中国(中原)が水戦に慣れていないと思っているので、敢えて東関に散居しているのです。およそ敵を攻めるには、必ずその喉を扼し、その心臓を衝くべきです。夏口と東関は、賊の心臓と喉です。もし陸軍を以て皖城に向かわせ、孫権を東に引き下ろし、水軍を以て夏口に向かわせ、その虚に乗じて撃てば、これは神兵が天から落ちるようなもので、必ず破ることができます。」天子はその意見をすべて認め、再び帝を宛に駐屯させた。

原文時邊郡新附,多無戶名,魏朝欲加隱實。屬帝朝於京師,天子訪之於帝。帝對曰:「賊以密網束下,故下棄之。宜弘以大綱,則自然安樂。」又問二虜宜討,何者為先?對曰:「吳以中國不習水戰,故敢散居東關。凡攻敵,必扼其喉而摏其心。夏口、東關,賊之心喉。若為陸軍以向皖城,引權東下,為水戰軍向夏口,乘其虛而擊之,此神兵從天而墮,破之必矣。」天子並然之,復命帝屯於宛。

四年(230年)、大将軍に昇進し、大都督を加えられ、仮黄鉞を与えられ、曹真と共に蜀を討伐した。帝は西城から山を切り開いて道を作り、水陸併進で沔水を遡上し、朐䏰に至り、その新豊県を陥落させた。軍が丹口に駐屯した時、雨に遭い、撤兵した。

原文四年,遷大將軍,加大都督、假黃鉞,與曹真伐蜀。帝自西城斫山開道,水陸並進,泝沔而上,至於朐䏰,拔其新豐縣。軍次丹口,遇雨,班師。

翌年、諸葛亮が天水に侵攻し、将軍の賈嗣と魏平を祁山に包囲した。天子は言った。「西方の事態は、君以外に任せられる者はいない。」そこで帝を西の長安ちょうあんに駐屯させ、雍州と梁州の諸軍事を都督し、車騎将軍張郃、後将軍費曜、征蜀護軍戴淩、雍州刺史郭淮らを統率して諸葛亮を討伐させた。張郃は帝に、軍を分けて雍と郿に駐屯させ後方の拠点とするよう勧めた。帝は言った。「前軍だけで十分に対処できると見込むなら、将軍の言う通りだ。もし対処できず、前後に分かれてしまえば、これは楚の三軍が黥布に捕らえられた原因だ。」そこで進軍して隃麋に至った。諸葛亮は大軍がまさに来ると聞き、自ら兵を率いて上邽の麦を刈り取ろうとした。諸将は皆恐れたが、帝は言った。「諸葛亮は考えは多いが決断が少ない。必ずや陣営を安定させ自らを固めてから麦を刈るだろう。我々は二日間昼夜兼行すれば十分だ。」そこで鎧を巻きつけ昼夜を問わず急行した。諸葛亮は塵埃を見て逃げた。帝は言った。「我々は倍の速度で進んで疲労している。これは兵法に通じた者が狙うところだ。諸葛亮が渭水を占拠しようとしないのは、これが容易に対処できるからだ。」進軍して漢陽に駐屯し、諸葛亮と遭遇した。帝は陣を布いてこれを待ち受けた。将軍の牛金に軽騎兵を率いさせておびき寄せると、兵がようやく接触したところで諸葛亮は退却し、祁山まで追撃した。諸葛亮は鹵城に駐屯し、南北の二つの山を占拠し、水路を断って重囲を築いた。帝はその包囲陣を攻め落とし、諸葛亮は夜逃げした。追撃してこれを破り、捕虜と斬首は万単位に上った。天子は使者を遣わして軍を労い、封邑を増やした。

原文明年,諸葛亮寇天水,圍將軍賈嗣、魏平於祁山。天子曰:「西方有事,非君莫可付者。」乃使帝西屯長安,都督雍、梁二州諸軍事,統車騎將軍張郃、後將軍費曜、征蜀護軍戴淩、雍州刺史郭淮等討亮。張郃勸帝分軍住雍、郿為後鎮,帝曰:「料前軍獨能當之者,將軍言是也。若不能當,而分為前後,此楚之三軍所以為黥布禽也。」遂進軍隃麋。亮聞大軍且至,乃自帥眾將芟上邽之麥。諸將皆懼,帝曰:「亮慮多決少,必安營自固,然後芟麥,吾得二日兼行足矣。」於是卷甲晨夜赴之,亮望塵而遁。帝曰:「吾倍道疲勞,此曉兵者之所貪也。亮不敢據渭水,此易與耳。」進次漢陽,與亮相遇,帝列陣以待之。使將牛金輕騎餌之,兵才接而亮退,追至祁山。亮屯鹵城,據南北二山,斷水為重圍。帝攻拔其圍,亮宵遁,追擊破之,俘斬萬計。天子使使者勞軍,增封邑。

当時、軍師の杜襲と督軍の薛悌は皆、来年麦が熟す頃、諸葛亮が必ず侵攻してくるだろう、隴右には穀物がないので、冬のうちに前もって輸送すべきだと言った。帝は言った。「諸葛亮は二度祁山に出て、一度陳倉を攻めたが、挫折して引き返した。たとえその後また出てきても、もはや城を攻めることはせず、野戦を求めるだろう。それは必ず隴東におり、西にはいない。諸葛亮は毎度糧食が少ないことを恨みに思っているので、帰れば必ず穀物を蓄積する。私の見立てでは、三年は経たなければ動けないだろう。」そこで上表して冀州の農夫を上邽に移住させて耕作させ、京兆、天水、南安の監冶(鉱山・製鉄所)を興した。

原文時軍師杜襲、督軍薛悌皆言明年麥熟,亮必為寇,隴右無穀,宜及冬豫運。帝曰:「亮再出祁山,一攻陳倉,挫衄而反。縱其後出,不復攻城,當求野戰,必在隴東,不在西也。亮每以糧少為恨,歸必積穀,以吾料之,非三稔不能動矣。」於是表徙冀州農夫佃上邽,興京兆、天水、南安監冶。

青龍

原文青龍

青龍元年(233年)、成国渠を開削し、臨晉陂を築き、数千頃の田を灌漑し、国家はこれによって充実した。

原文青龍元年,穿成國渠,築臨晉陂,溉田數千頃,國以充實焉。

二年、諸葛亮はまた十数万の兵を率いて斜谷から出撃し、郿の渭水南岸の原野に陣を築いた。天子はこれを憂慮し、征蜀護軍の秦朗に歩兵と騎兵二万を統率させ、司馬懿の指揮下につけた。諸将は渭水の北岸に留まって待機しようとしたが、司馬懿は言った。「民衆の蓄えはすべて渭水の南にある。これは必ず争奪の地となるだろう。」そこで軍を率いて渡河し、川を背にして陣を築いた。そして諸将にこう言った。「諸葛亮が勇者ならば、武功から出て、山に沿って東進するはずだ。もし西の五丈原に登るならば、我が諸軍は何もする必要はない。」諸葛亮は果たして五丈原に登り、北へ渭水を渡ろうとした。司馬懿は将軍の周当を陽遂に駐屯させておびき寄せようとした。数日経っても諸葛亮は動かなかった。司馬懿は言った。「諸葛亮は原野を争おうとしているが、陽遂に向かおうとしない。その意図は明らかだ。」将軍の胡遵と雍州刺史の郭淮を派遣してともに陽遂を守備させ、諸葛亮と積石で対峙させた。原野に臨んで戦い、諸葛亮は前進できず、五丈原に引き返した。ちょうど長星(流星)が諸葛亮の陣営に墜ちるのを見て、司馬懿は彼が必ず敗れると知り、奇兵を派遣して諸葛亮の背後を牽制し、五百余りの首級を斬り、捕虜千余人を獲、降伏者は六百余人に及んだ。

原文二年,亮又率眾十餘萬出斜谷,壘于郿之渭水南原。天子憂之,遣征蜀護軍秦朗督步騎二萬,受帝節度。諸將欲住渭北以待之,帝曰:「百姓積聚皆在渭南,此必爭之地也。」遂引軍而濟,背水為壘。因謂諸將曰:「亮若勇者,當出武功,依山而東。若西上五丈原,則諸軍無事矣。」亮果上原,將北渡渭,帝遣將軍周當屯陽遂以餌之。數日,亮不動。帝曰:「亮欲爭原而不向陽遂,此意可知也。」遣將軍胡遵、雍州剌史郭淮共備陽遂,與亮會于積石。臨原而戰,亮不得進,還於五丈原。會有長星墜亮之壘,帝知其必敗,遣奇兵掎亮之後,斬五百餘級,獲生口千餘,降者六百餘人。

当時、朝廷では諸葛亮が遠征軍を率いて遠くから侵攻してきており、急戦が有利であると考え、常に司馬懿に慎重を期して、その変化を待つよう命じていた。諸葛亮はたびたび挑戦してきたが、司馬懿は出撃せず、そこで諸葛亮は司馬懿に女性の頭巾や飾り物を贈って侮辱した。司馬懿は怒り、決戦を上奏して請願したが、天子は許可せず、かわりに剛直な臣下である衛尉の辛毗に節を持たせて軍師とし、司馬懿を制御させた。後に諸葛亮がまた挑戦してくると、司馬懿は出兵して応じようとしたが、辛毗が節を持って軍門に立ちはだかったので、司馬懿はやめた。初め、蜀の将軍の姜維は辛毗が来たと聞き、諸葛亮に言った。「辛毗が節を持って来ました。賊(司馬懿)はもう出撃しません。」諸葛亮は言った。「彼はもともと戦う気などない。敢えて決戦を請願したのは、配下の兵士たちに武勇を示すためだ。将軍は軍中にあっては、君主の命令であっても従わないことがある。もし彼が本当に私を制御できるのなら、わざわざ千里の彼方から決戦を請願したりするだろうか。」

原文時朝廷以亮僑軍遠寇,利在急戰,每命帝持重,以候其變。亮數挑戰,帝不出,因遺帝巾幗婦人之飾。帝怒,表請決戰,天子不許,乃遣骨鯁臣衞尉辛毗杖節為軍師以制之。後亮復來挑戰,帝將出兵以應之,毗杖節立軍門,帝乃止。初,蜀將姜維聞毗來,謂亮曰:「辛毗杖節而至,賊不復出矣。」亮曰:「彼本無戰心,所以固請者,以示武于其眾耳。將在軍,君命有所不受,苟能制吾,豈千里而請戰邪!」

司馬懿の弟の司馬孚が手紙を送って軍事について尋ねてきた。司馬懿は返書でこう答えた。「諸葛亮は志は大きいが機を見る目がなく、謀略は多いが決断力に乏しく、兵を好むが権変を知らない。たとえ十万の兵を率いていても、すでに私の計略の中に陥っている。必ずや打ち破ってみせよう。」百余日にわたって対陣しているうちに、諸葛亮が病没した。蜀軍の諸将は陣営を焼いて逃走し、民衆が駆けつけて報告したので、司馬懿は出兵して追撃した。諸葛亮の長史である楊儀は旗を翻し太鼓を鳴らして、司馬懿を迎え撃つ構えを見せた。司馬懿は窮地に追い詰められた敵を無理に攻め立てず、楊儀は陣を整えて去っていった。一日経ってから、司馬懿は蜀軍の陣営跡を巡視し、残された様子を観察し、多くの地図・文書や食糧を鹵獲した。司馬懿は諸葛亮が確かに死んだと判断し、「天下の奇才であった」と言った。辛毗はまだ確かではないと考えた。司馬懿は言った。「軍の重んじるものは、軍中の文書や密計、兵馬や食糧である。今や彼らはこれをすべて捨てて去った。人が自分の五臓六腑を捨てて生きられるだろうか。急いで追撃すべきだ。」関中には多くの蒺藜(とげのある植物)があった。司馬懿は兵士二千人に柔らかい材木の平底の木履を履かせて先行させると、蒺藜はすべて木履に刺さり、その後で騎兵と歩兵がともに前進した。赤岸まで追撃して、ようやく諸葛亮の死が確かめられた。当時、民衆はこのことを謡って言った。「死せる諸葛、生ける仲達を走らす(死んだ諸葛亮が生きている司馬懿を追い払う)。」司馬懿はこれを聞いて笑い、「私は生きている者を推し量るのは得意だが、死んだ者を推し量るのは得意ではないからだ」と言った。

原文帝弟孚書問軍事,帝復書曰:「亮志大而不見機,多謀而少決,好兵而無權,雖提卒十萬,已墮吾畫中,破之必矣。」與之對壘百餘日,會亮病卒,諸將燒營遁走,百姓奔告,帝出兵追之。亮長史楊儀反旗鳴鼓,若將距帝者。帝以窮寇不之逼,於是楊儀結陣而去。經日,乃行其營壘,觀其遺事,獲其圖書、糧穀甚眾。帝審其必死,曰:「天下奇才也。」辛毗以為尚未可知。帝曰:「軍家所重,軍書密計、兵馬糧穀,今皆棄之,豈有人捐其五藏而可以生乎?宜急追之。」關中多蒺䔧,帝使軍士二千人著軟材平底木屐前行,蒺藜悉著屐,然後馬步俱進。追到赤岸,乃知亮死審問。時百姓為之諺曰:「死諸葛走生仲達。」帝聞而笑曰:「吾便料生,不便料死故也。」

以前、諸葛亮の使者が来た時、司馬懿は尋ねた。「諸葛公のご健康はいかがか。食事は米をどれほど召し上がるか。」使者は答えた。「三、四升です。」次に政務について尋ねると、使者は言った。「二十回以上の罰則はすべてご自身でご覧になっておられます。」司馬懿は後に人に告げて言った。「諸葛孔明は長くは持たないだろう!」果たしてその言葉どおりになった。諸葛亮の部将である楊儀と魏延が権力を争い、楊儀が魏延を斬り、その兵を併せた。司馬懿はこの隙に乗じて進撃しようとしたが、詔勅が出て許可されなかった。

原文先是,亮使至,帝問曰:「諸葛公起居何如,食可幾米?」對曰:「三四升。」次問政事,曰:「二十罰已上皆自省覽。」帝既而告人曰:「諸葛孔明其能久乎!」竟如其言。亮部將楊儀、魏延爭權,儀斬延,并其眾。帝欲乘隙而進,有詔不許。

三年、司馬懿は太尉たいいに昇進し、封邑が累増された。蜀の将軍の馬岱が侵攻してきたので、司馬懿は将軍の牛金を派遣して撃退し、千余りの首級を斬った。

原文三年,遷太尉,累增封邑。蜀將馬岱入寇,帝遣將軍牛金擊走之,斬千餘級。

武都の氐族の王である苻雙と強端が配下六千余人を率いて投降してきた。

原文武都氐王苻雙、強端帥其屬六千餘人來降。

関東が飢饉に見舞われたので、司馬懿は長安の粟五百万斛を都に輸送した。

原文關東饑,帝運長安粟五百萬斛輸於京師。

四年、白い鹿を捕獲し、これを献上した。天子は言った。「昔、周公旦が成王を補佐した時、白い雉を献上した。今、卿は陝西の任を受け、白い鹿を献上した。これはまさに忠誠が符節に合い、千年を隔てて同じ契りを結び、国家を治めさせ、その善きことを永遠ならしめるものではないか。」

原文四年,獲白鹿,獻之。天子曰:「昔周公旦輔成王,有素雉之貢。今君受陝西之任,有白鹿之獻,豈非忠誠協符,千載同契,俾乂邦家,以永厥休邪!」

遼東りょうとう太守の公孫文懿(公孫淵)が反乱を起こした時、司馬懿は都に召還された。天子は言った。「これは卿を煩わせるほどのことではないが、事を必ず成功させたいので、煩わせることにした。卿は彼がどのような計略を立てると考えるか。」司馬懿は答えた。「城を捨てて事前に逃走するのが上策です。遼水を拠点として大軍を防ぐのが中策です。襄平に座して守るのは、捕らえられるだけです。」天子は言った。「彼はどの計略を採るだろうか。」司馬懿は答えた。「賢明な者だけが敵味方を深く見極め、事前に捨てるべきものを捨てることができます。これは彼の及ぶところではありません。今、我が軍は遠征しており、持久できないと思わせるべきです。彼は必ずまず遼水を防ぎ、その後で守りを固めるでしょう。これは中・下の策です。」天子は言った。「往復にどれほどの時を要するか。」司馬懿は答えた。「行きに百日、帰りに百日、攻撃に百日、六十日を休息に充てれば、一年で十分です。」

原文及遼東太守公孫文懿反,徵帝詣京師。天子曰:「此不足以勞君,事欲必克,故以相煩耳。君度其作何計?」對曰:「棄城預走,上計也。據遼水以距大軍,次計也。坐守襄平,此成擒耳。」天子曰:「其計將安出?」對曰:「惟明者能深度彼己,豫有所棄,此非其所及也。今懸軍遠征,將謂不能持久,必先距遼水而後守,此中下計也。」天子曰:「往還幾時?」對曰:「往百日,還百日,攻百日,以六十日為休息,一年足矣。」

この時、宮殿の大規模な造営が行われ、それに加えて軍役もあり、民衆は飢え疲弊していた。司馬懿は出征しようとして、諫言した。「昔、周公が洛邑を営み、蕭何が未央宮を造営しました。今、宮殿が未完成なのは、臣の責任です。しかし、黄河以北では民衆が困窮し、内外に労役があり、両方を同時に興すことはできません。内政を一時中断して、当面の急務を救うべきです。」

原文是時大修宮室,加之以軍旅,百姓饑弊。帝將即戎,乃諫曰:「昔周公營洛邑,蕭何造未央,今宮室未備,臣之責也。然自河以北,百姓困窮,外內有役,勢不並興,宜假絕內務,以救時急。」

景初

原文景初

景初二年、司馬懿は牛金、胡遵らを率い、歩兵と騎兵四万を率いて京都を出発した。天子の車駕が西明門まで見送り、詔勅により弟の司馬孚と子の司馬師しばしが温県まで送り届けさせ、穀物、布帛、牛、酒を賜り、郡守や典農以下の役人をすべて送別の場に参集させた。父老や旧知の人々に会い、連日宴会を開いた。司馬懿はため息をつき、感慨無量で歌を詠んだ。「天地開闢し、日月重光す。遭遇際会し、畢力遐方にす。将に羣穢を掃わんとし、還りて故郷を過ぐ。萬里を肅清し、八荒を總齊す。成りを告げて老いに歸り、舞陽に罪を待たん。」こうして進軍し、孤竹を経て、碣石を越え、遼水に駐屯した。公孫文懿は果たして歩兵と騎兵数万を派遣し、遼隧を防ぎ、堅固な陣壁を築いて守り、南北六七十里にわたって司馬懿を防いだ。司馬懿は大軍を集め、多くの旗幟を掲げて南側に出撃すると、賊軍は全力でこれに向かった。そこで船で密かに渡河して北側に出撃し、賊軍の陣営に接近し、船を沈め橋を焼き、遼水沿いに長い包囲陣を築き、賊軍を捨てて襄平に向かった。諸将が言った。「賊を攻撃せずに包囲陣を築くのは、兵士たちに示すものではありません。」司馬懿は言った。「賊は堅固な陣営と高い塁壁を築き、我が兵を疲弊させようとしている。攻撃すれば、まさに彼らの計略にはまる。これが王邑が昆陽で恥をかいた理由だ。古人は言う、敵が高い塁壁を築いていても、必ず我々と戦わざるを得なくなるのは、その必ず救わなければならないところを攻めるからだ、と。賊の大軍がここにいるなら、その本拠地は空虚だ。我々がまっすぐ襄平を目指せば、人々は内なる恐れを抱き、恐れて戦いを求める。必ずや打ち破れる。」こうして陣を整えて通過した。賊軍は背後に兵が出たのを見て、果たして邀撃しようとした。司馬懿は諸将に言った。「彼らの陣営を攻撃しなかったのは、まさにこれを引き起こすためだった。機を逃すな。」そこで兵を放って逆撃し、大破した。三度戦ってすべて勝利した。賊軍は襄平に籠城し、司馬懿は進軍して包囲した。

原文景初二年,帥牛金、胡遵等步騎四萬,發自京都。車駕送出西明門,詔弟孚、子師送過溫,賜以穀帛牛酒,敕郡守典農以下皆往會焉。見父老故舊,讌飲累日。帝歎息,悵然有感,為歌曰:「天地開闢,日月重光。遭遇際會,畢力遐方。將掃羣穢,還過故鄉。肅清萬里,總齊八荒。告成歸老,待罪舞陽。」遂進師,經孤竹,越碣石,次于遼水。文懿果遣步騎數萬,阻遼隧,堅壁而守,南北六七十里,以距帝。帝盛兵多張旗幟出其南,賊盡銳赴之。乃泛舟潛濟以出其北,與賊營相逼,沈舟焚梁,傍遼水作長圍,棄賊而向襄平。諸將言曰:「不攻賊而作圍,非所以示眾也。」帝曰:「賊堅營高壘,欲以老吾兵也。攻之,正入其計,此王邑所以恥過昆陽也。古人曰,敵雖高壘,不得不與我戰者,攻其所必救也。賊大眾在此,則巢窟虛矣。我直指襄平,則人懷內懼,懼而求戰,破之必矣。」遂整陣而過。賊見兵出其後,果邀之。帝謂諸將曰:「所以不攻其營,正欲致此,不可失也。」乃縱兵逆擊,大破之,三戰皆捷。賊保襄平,進軍圍之。

初め、公孫文懿は魏軍が出撃したと聞き、孫権に救援を求めた。孫権もまた出兵して遠くから声援を送り、公孫文懿に書簡を送って言った。「司馬公は用兵に巧みで、変化は神の如く、向かうところ敵なしだ。深く弟君のことを憂える。」

原文初,文懿聞魏師之出也,請救於孫權。權亦出兵遙為之聲援,遺文懿書曰:「司馬公善用兵,變化若神,所向無前,深為弟憂之。」

大雨が降り続き、平地に数尺の水が溢れ、三軍は恐れ、陣営を移そうとした。帝は軍中で移動を口にする者があれば斬ると命じた。都督令史の張静が命令に背いたので、斬り、軍中はようやく落ち着いた。賊は水を頼みにし、薪取りや放牧を平然と行っていた。諸将はこれを討ち取ろうとしたが、帝は皆聞き入れなかった。司馬の陳珪が言った。「かつて上庸を攻めた時は、八部隊が同時に進軍し、昼夜を分かたず攻めたので、十日と半分で堅城を陥落させ、孟達を斬ることができました。今は遠くから来ているのに、かえってゆっくり構えているのは、私には理解できません。」帝は言った。「孟達は兵が少なく食糧が一年分あった。我が将士は孟達の四倍いるが、食糧は一月分もない。一月で一年分の計画を立てるのだから、どうして速くしないでいられようか。四倍の兵力で一を撃つ場合、たとえ半分の成果でも、やる価値はある。だから死傷を顧みず、食糧と競争したのだ。今は賊が多く我々が少なく、賊は飢え我々は満腹で、水雨がこのようでは、工事も役に立たない。たとえ急いだとしても、何ができるというのか。都を出発して以来、賊の攻撃を心配したことはなく、ただ賊が逃げるのを恐れているだけだ。今、賊の食糧は尽きようとしており、包囲網はまだ完全ではない。牛馬を奪い、薪取りを襲えば、これはわざと賊を逃がすようなものだ。戦いとは詭道であり、事態の変化に巧みに対応するものだ。賊は兵の多さと雨を頼みにしているので、飢え苦しんでもまだ降伏しようとしない。我々は無能であるかのように見せて油断させ、小さな利益を取って驚かせるべきだ。軽率に攻めるのは良策ではない。」朝廷では軍が雨に遭ったと聞き、皆召還を請うた。天子は言った。「司馬公は危機に臨んで事態を制し、日数を数えて賊を捕らえるだろう。」やがて雨が止み、包囲を完成させた。土山や地下道を築き、盾や櫓、鉤や衝車を用い、矢や石を雨のように降らせ、昼夜を問わず攻撃した。

原文會霖潦,大水平地數尺,三軍恐,欲移營。帝令軍中敢有言徙者斬。都督令史張靜犯令,斬之,軍中乃定。賊恃水,樵牧自若。諸將欲取之,皆不聽。司馬陳珪曰:「昔攻上庸,八部並進,晝夜不息,故能一旬之半,拔堅城,斬孟達。今者遠來而更安緩,愚竊惑焉。」帝曰:「孟達眾少而食支一年,吾將士四倍于達而糧不淹月,以一月圖一年,安可不速?以四擊一,正令半解,猶當為之。是以不計死傷,與糧競也。今賊眾我寡,賊飢我飽,水雨乃爾,功力不設,雖當促之,亦何所為。自發京師,不憂賊攻,但恐賊走。今賊糧垂盡,而圍落未合,掠其牛馬,抄其樵采,此故驅之走也。夫兵者詭道,善因事變。賊憑眾恃雨,故雖飢困,未肯束手,當示無能以安之。取小利以驚之。非計也。」朝廷聞師遇雨,咸請召還。天子曰:「司馬公臨危制變,計日擒之矣。」既而雨止,遂合圍。起土山地道,楯櫓鉤橦,發矢石雨下,晝夜攻之。

その時、長星が現れた。色は白く、光芒とたてがみのようなものがあり、襄平城の西南から東北へ流れ、梁水に墜ちた。城中は震え恐れた。文懿は大いに恐れ、配下の相国王建と御史大夫の柳甫を遣わして降伏を乞い、包囲を解いて縛りに出ることを請うた。許さず、王建らを捕らえ、皆斬った。文懿に檄を飛ばして告げた。「昔、楚と鄭は並立する国であったが、鄭伯はなおも肌を脱ぎ羊を引いて迎えた。私は天子の臣であり、位は上公である。それなのに王建らは私に包囲を解き兵を退けよと言う。これは楚と鄭の関係と同じと言えるか!二人は老いて耄碌しており、きっと伝言を誤ったのだ。すでに彼らのために斬ってやった。もし気持ちがまだ変わらないなら、もっと若くて明断な者を遣わしてくるがよい。」文懿はまた侍中の衛演を遣わし、期日を決めて人質を送ることを請うた。帝は衛演に言った。「軍事の要点は五つある。戦えるなら戦い、戦えないなら守り、守れないなら逃げる。残り二つは降伏と死だけだ。お前は縛りに出ようとしない。これは死を選ぶということだ。人質を送る必要はない。」文懿は南の包囲陣を攻撃して突破しようとしたが、帝は兵を放ってこれを撃破し、梁水のほとり、星が墜ちた場所で斬った。城に入ると、二つの標を立てて新旧を区別した。十五歳以上の男子七千余人を皆殺しにし、京観(首塚)とした。偽の公卿以下は皆誅殺され、その将軍の畢盛ら二千余人が殺された。戸数四万、人口三十万余りを収めた。

原文時有長星,色白,有芒鬣,自襄平城西南流于東北,墜於梁水,城中震慴。文懿大懼,乃使其所署相國王建、御史大夫柳甫乞降,請解圍面縛。不許,執建等,皆斬之。檄告文懿曰:「昔楚鄭列國,而鄭伯猶肉袒牽羊而迎之。孤為王人,位則上公,而建等欲孤解圍退舍,豈楚鄭之謂邪!二人老耄,必傳言失旨,已相為斬之。若意有未已,可更遣年少有明決者來。」文懿復遣侍中衞演乞剋日送任。帝謂演曰:「軍事大要有五,能戰當戰,不能戰當守,不能守當走,餘二事惟有降與死耳。汝不肯面縛,此為決就死也,不須送任。」文懿攻南圍突出,帝縱兵擊敗之,斬于梁水之上星墜之所。既入城,立兩標以別新舊焉。男子年十五已上七千餘人皆殺之,以為京觀。偽公卿已下皆伏誅,戮其將軍畢盛等二千餘人。收戶四萬,口三十餘萬。

初め、文懿は叔父の恭の位を簒奪して囚禁していた。反乱を起こそうとした時、将軍の綸直や賈範らが懸命に諫めたが、文懿は皆殺した。帝は恭の囚禁を解き、綸直らの墓を封じて、その遺族を顕彰した。命令を下した。「古くから国を伐つ時は、その巨悪(鯨鯢)を誅するだけであった。文懿に欺かれた者は皆、罪を許す。中原の者で故郷に帰りたい者は、自由に帰らせよ。」

原文初,文懿篡其叔父恭位而囚之。及將反,將軍綸直、賈範等苦諫,文懿皆殺之。帝乃釋恭之囚,封直等之墓,顯其遺嗣。令曰:「古之伐國,誅其鯨鯢而已,諸為文懿所詿誤者,皆原之。中國人欲還舊鄉,恣聽之。」

その時、兵士が寒さに凍え、襦(短い上衣)を乞うたが、帝は与えなかった。ある者が言った。「幸いにも古い襦がたくさんあります。彼らに賜ってもよいでしょう。」帝は言った。「襦は官の物である。人臣が私的に施すべきではない。」そこで、兵士で六十歳以上の者千余人を罷免して帰還させ、従軍中に死亡した将吏には喪を致して家に帰らせることを上奏した。そして軍を返した。天子は使者を薊に遣わして軍を労い、食邑を昆陽に増封し、前の二県と合わせた。

原文時有兵士寒凍,乞襦,帝弗之與。或曰:「幸多故襦,可以賜之。」帝曰:「襦者官物,人臣無私施也。」乃奏軍人年六十已上者罷遣千餘人,將吏從軍死亡者致喪還家。遂班師。天子遣使者勞軍于薊,增封食昆陽,并前二縣。

初め、帝が襄平に着いた時、天子が自分の膝を枕にしている夢を見た。天子が「私の顔を見よ」と言ったので、うつむいて見ると、普段と様子が異なり、心の中で嫌な気がした。以前、詔勅で帝に関中を鎮守するよう命じられていた。白屋に到着した時、詔勅で帝を召すとあり、三日の間に詔書が五度届いた。直筆の詔書には「近くで息をひそめて到着を待っている。到着したらすぐに宮門を押し開けて入り、私の顔を見よ」とあった。帝は大いに急ぎ、追鋒車に乗って昼夜兼行で進み、白屋から四百余里を一晩で到着した。嘉福殿の寝所に導かれ、御床に上がった。帝は涙を流して病状を尋ねた。天子は帝の手を握り、斉王を見て言った。「後事を託す。死はまだ耐えられる。私は死を耐えて君を待ち、会うことができた。もう何の恨みもない。」そして大将軍の曹爽そうそうと共に遺詔を受けて幼い君主を補佐することになった。

原文初,帝至襄平,夢天子枕其膝,曰:「視吾面。」俛視有異於常,心惡之。先是,詔帝便道鎮關中;及次白屋,有詔召帝,三日之間,詔書五至。手詔曰:「間側息望到,到便直排閤入,視吾面。」帝大遽,乃乘追鋒車晝夜兼行,自白屋四百餘里,一宿而至。引入嘉福殿臥內,升御牀。帝流涕問疾,天子執帝手,目齊王曰:「以後事相託。死乃復可忍,吾忍死待君,得相見,無所復恨矣。」與大將軍曹爽並受遺詔輔少主。

斉王が帝位に即くと、帝は侍中・持節・都督中外諸軍・録尚書事に遷り、曹爽とそれぞれ兵三千人を統率し、共に朝政を執り、殿中で交替で宿直し、車駕で殿中に入った。曹爽は尚書の上奏をまず自分を通すようにしたいと考え、天子に言って、帝を大司馬に転任させた。朝議では、前後の大司馬が相次いで任地で亡くなっているので、帝を太傅とし、殿中では小走りせず、拝礼時に名を呼ばれず、剣を帯び履を履いたまま殿上に上がることを許し、漢の蕭何の故事のようにした。嫁娶や喪葬の費用は官から支給され、世子の師は散騎常侍とし、子弟三人を列侯に、四人を騎都尉にした。帝は固く辞して子弟の官職を受けなかった。

原文及齊王即帝位,遷侍中、持節、都督中外諸軍、錄尚書事,與爽各統兵三千人,共執朝政,更直殿中,乘輿入殿。爽欲使尚書奏事先由己,乃言於天子,徙帝為大司馬。朝議以為前後大司馬累薨於位,乃以帝為太傅,入殿不趨,贊拜不名,劍履上殿,如漢蕭何故事。嫁娶喪葬取給於官,以世子師為散騎常侍,子弟三人為列侯,四人為騎都尉。帝固讓子弟官不受。

正始

原文正始

正始元年春正月、東の倭国が重訳(幾重もの通訳)を経て貢ぎ物を納め、焉耆えんぎ・危須などの諸国、弱水以南の鮮卑の名王たちが皆、使者を遣わして献上物を捧げた。天子は宰相の功績を称え、また帝の封邑を増やした。

原文正始元年春正月,東倭重譯納貢,焉耆、危須諸國,弱水以南,鮮卑名王,皆遣使來獻。天子歸美宰輔,又增帝封邑。

初め、魏の明帝は宮室を造営するのが好きで、その制度は華美を極め、百姓は苦しんでいた。帝が遼東から帰還した時も、労役者はなお一万余人おり、彫刻や珍玩の類は千単位で動いていた。この時、帝はこれらを全て廃止するよう上奏し、費用を節約して農業に努めさせた。天下は喜び頼りにした。

原文初,魏明帝好修宮室,制度靡麗,百姓苦之。帝自遼東還,役者猶萬餘人,雕玩之物動以千計。至是皆奏罷之,節用務農,天下欣賴焉。

二年夏五月、呉の将の全琮が芍陂しゃくひを侵し、朱然と孫倫が樊城を包囲し、諸葛瑾と歩騭が柤中を略奪した。帝は自ら討伐に向かうことを請うた。議論する者は皆、賊が遠くから来て樊城を包囲しているが、すぐには陥落させられない。堅城の下で挫折し、自滅する勢いがあるので、長期的な方策で防ぐべきだと言った。帝は言った。「辺境の城が敵を受けて苦しんでいるのに、朝廷で安座しているのは、国境が騒動し、人心が疑い惑うことになり、国家の大きな憂いである。」

原文二年夏五月,吳將全琮寇芍陂,朱然、孫倫圍樊城,諸葛瑾、步騭掠柤中,帝請自討之。議者咸言,賊遠來圍樊,不可卒拔。挫於堅城之下,有自破之勢,宜長策以御之。帝曰:「邊城受敵而安坐廟堂,疆埸騷動,眾心疑惑,是社稷之大憂也。」

六月、諸軍を督して南征し、天子の車駕が津陽門まで見送った。帝は南方が暑く湿気が多いため、長期戦は適さないと考え、軽騎兵で挑発したが、朱然らは動かなかった。そこで兵士を休ませ、精鋭を選び、先鋒を募り、号令を厳しくし、必ず攻める勢いを見せた。呉軍は夜中に逃げ出し、三州口まで追撃して、一万余人を斬り捕らえ、その舟船や軍需物資を収めて帰還した。天子は侍中や常侍を宛に遣わして軍を労った。

原文六月,乃督諸軍南征,車駕送出津陽門。帝以南方暑溼,不宜持久,使輕騎挑之,然不敢動。於是休戰士,簡精銳,募先登,申號令,示必攻之勢。吳軍夜遁走,追至三州口,斬獲萬餘人,收其舟船軍資而還。天子遣侍中常侍勞軍于宛。

秋七月、食邑を郾と臨潁に増封し、前の四県と合わせて一万戸とし、子弟十一人を皆列侯とした。帝の功績と徳は日増しに盛んになったが、謙虚で恭しい態度はますます深まった。太常の常林が郷里の旧長老であるため、会うたびに拝礼した。常に子弟を戒めて言った。「満ち溢れることは道家の忌むところである。四季でさえ移り変わるのに、私にどんな徳があってこれに耐えられようか。減らしてまた減らせば、おそらく免れることができるだろう。」

原文秋七月,增封食郾、臨潁,并前四縣,邑萬戶,子弟十一人皆為列侯。帝勳德日盛,而謙恭愈甚。以太常常林鄉邑舊齒,見之每拜。恆戒子弟曰:「盛滿者道家之所忌,四時猶有推移,吾何德以堪之。損之又損之,庶可以免乎!」

三年春、天子は皇考(亡父)の京兆尹を追封して舞陽成侯と諡した。

原文三年春,天子追封諡皇考京兆尹為舞陽成侯。

三月、広漕渠を開削し、黄河の水を汴水に引き入れ、東南の諸陂を灌漑することを上奏し、淮北での大規模な屯田を始めた。

原文三月,奏穿廣漕渠,引河入汴,溉東南諸陂,始大佃於淮北。

以前から、呉は将の諸葛恪しょかつかくを遣わして皖に駐屯させており、辺境は苦しんでいた。帝は自ら諸葛恪を撃とうとした。議論する者の多くは、賊が堅城を占拠し、穀物を蓄積しており、官軍を引き寄せようとしている。今、孤軍を遠くに懸けて攻めれば、その援軍は必ず来る。進退が容易でなく、利点が見えないと言った。帝は言った。「賊の長所は水戦である。今、その城を攻めて、その変化を見るのだ。もし賊がその長所を用いて城を棄てて逃走すれば、これは廟堂での勝利である。もし敢えて固守すれば、湖水は冬に浅くなり、船は航行できなくなる。必ずや水を棄てて陸路で救援に来るだろう。その短所を用いることになり、これも我々の利である。」

原文先是,吳遣將諸葛恪屯皖,邊鄙苦之,帝欲自擊恪。議者多以賊據堅城,積穀,欲引致官兵。今懸軍遠攻,其救必至,進退不易,未見其便。帝曰:「賊之所長者水也,今攻其城,以觀其變。若用其所長,棄城奔走,此為廟勝也。若敢固守,湖水冬淺,船不得行,勢必棄水相救,由其所短,亦吾利也。」

四年(正始四年)の秋九月、帝(司馬懿)は諸軍を督して諸葛恪を攻撃し、天子(曹芳)の車駕が津陽門まで見送った。軍は舒に駐屯したが、恪は蓄積した物資を焼き払い、城を捨てて逃げ去った。

原文四年秋九月,帝督諸軍擊諸葛恪,車駕送出津陽門。軍次於舒,恪焚燒積聚,棄城而遁。

帝は賊を滅ぼす要は穀物の蓄積にあると考え、大いに屯田を興し、淮陽と百尺の二つの水路を広く開削し、また潁川の南北に多くの池を修築し、一万余頃に及んだ。これより淮北には倉庫が相望み、寿陽から京師に至るまで、農官と屯兵が連なり属した。

原文帝以滅賊之要,在於積穀,乃大興屯守,廣開淮陽、百尺二渠,又修諸陂於潁之南北,萬餘頃。自是淮北倉庾相望,壽陽至於京師,農官屯兵連屬焉。

五年(正始五年)の春正月、帝は淮南から帰還した。天子は節を持たせた使者を遣わして軍を労った。尚書の鄧颺・李勝らは曹爽に功名を立てさせようとし、蜀を討伐するよう勧めた。帝はこれを止めたが、聞き入れられず、爽は果たして功なくして帰還した。

原文五年春正月,帝至自淮南,天子使持節勞軍。尚書鄧颺、李勝等欲令曹爽建立功名,勸使伐蜀。帝止之,不可,爽果無功而還。

六年(正始六年)の秋八月、曹爽は中壘・中堅の二つの営を廃止し、その兵を弟の中領軍曹羲に属させた。帝は先帝(曹叡)の旧制を理由にこれを禁じたが、聞き入れられなかった。

原文六年秋八月,曹爽毀中壘中堅營,以兵屬其弟中領軍羲。帝以先帝舊制禁之,不可。

冬十二月、天子は詔を下し、帝が朝会の際に乗輿に乗って殿上に昇ることを許した。

原文冬十二月,天子詔帝朝會乘輿升殿。

七年(正始七年)の春正月、呉が柤中を侵寇し、夷人と漢人一万余家が寇を避けて北へ沔水を渡った。帝は沔水の南は賊に近く、もし百姓が逃げ帰れば、必ず再び寇を招くとして、一時的に留め置くべきだと主張した。曹爽は言った。「今、沔南の守りを固められずに百姓を留め置くのは、長い計略ではない。」帝は言った。「そうではない。およそ物事は安らかな地に置けば安らかであり、危険な地に置けば危険である。故に兵書に『成敗は形なり、安危は勢いなり』とある。形勢は衆を御する要であり、慎重に考えねばならない。仮に賊が二万人で沔水を断ち切り、三万人で沔南の諸軍と対峙し、一万人で柤中を荒らし回ったならば、どうやって救うというのか。」爽は従わず、ついに南へ帰還させた。賊は果たして柤中を襲撃して破り、失ったものは万を数えた。

原文七年春正月,吳寇柤中,夷夏萬餘家避寇北渡沔。帝以沔南近賊,若百姓奔還,必復致寇,宜權留之。曹爽曰:「今不能修守沔南而留百姓,非長策也。」帝曰:「不然。凡物致之安地則安,危地則危。故兵書曰『成敗,形也;安危,勢也』。形勢,御眾之要,不可以不審。設令賊以二萬人斷沔水,三萬人與沔南諸軍相持,萬人陸梁柤中,將何以救之?」爽不從,卒令還南。賊果襲破柤中,所失萬計。

八年(正始八年)の夏四月、夫人の張氏が薨去した。曹爽は何晏かあん・鄧颺・丁謐の謀を用い、太后(郭太后)を永寧宮に移し、朝政を専断し、兄弟ともに禁兵を掌握し、多くの親党を立て、たびたび制度を改めた。帝はこれを禁じることができず、ここに至って爽と不和となった。

原文八年夏四月,夫人張氏薨。曹爽用何晏、鄧颺、丁謐之謀,遷太后於永寧宮,專擅朝政,兄弟并典禁兵,多樹親黨,屢改制度。帝不能禁,於是與爽有隙。

五月、帝は病気と称して政事に関与しなかった。当時の人々はこれについて謡を作った。「何・鄧・丁、京城を乱す。」

原文五月,帝稱疾不與政事。時人為之謠曰:「何、鄧、丁,亂京城。」

九年(正始九年)の春三月、黄門の張當が掖庭の才人石英ら十一人を密かに出し、曹爽に伎人として与えた。爽と晏は帝の病が重いと思い、ついに君主をないがしろにする心を抱き、當と密謀して社稷を危うくすることを図り、その期日を定めていた。帝もまた密かに備えをしていたが、爽の徒党もまた帝をかなり疑っていた。ちょうど河南尹の李勝が荊州に赴任することになり、帝を見舞いに来た。帝は重病を装い、二人の婢に侍らせ、衣服を持たせては落とさせ、口を指して渇いたと言い、婢が粥を進めると、帝は杯を持って飲まず、粥は皆流れ出て胸を濡らした。勝は言った。「皆は明公の旧病が発作したと思っていますが、まさか御体がこのような状態とは!」帝は声と息がかろうじて続くようにして、「年老いて病床に伏し、死は旦夕に迫っている。君は并州に赴任されるが、并州は胡に近いので、よく備えをなさるがよい。もう会うことはないだろうから、子の師・昭の兄弟を託す」と言った。勝は言った。「本州(荊州)に戻るのであって、并州ではありません。」帝はわざと言葉を錯乱させて言った。「君はまさに并州に着くところだ。」勝はまた言った。「荊州に戻るのです。」帝は言った。「年老いて心がぼんやりして、君の言うことがよくわからない。今、本州に戻られるとは、盛んな徳と壮烈な志、どうか功勲を立てられよ。」勝は退いて爽に告げた。「司馬公は死体同然で残る息、形と神は既に離れており、心配するに足りません。」後日、また言った。「太傅(司馬懿)はもう救いようがなく、人を悲しませる。」故に爽らは再び備えを設けなかった。

原文九年春三月,黃門張當私出掖庭才人石英等十一人,與曹爽為伎人。爽、晏謂帝疾篤,遂有無君之心,與當密謀,圖危社稷,期有日矣。帝亦潛為之備,爽之徒屬亦頗疑帝。會河南尹李勝將莅荊州,來候帝。帝詐疾篤,使兩婢侍,持衣衣落,指口言渴,婢進粥,帝不持杯飲,粥皆流出霑胸。勝曰:「眾情謂明公舊風發動,何意尊體乃爾!」帝使聲氣纔屬,說「年老枕疾,死在旦夕。君當屈并州,并州近胡,善為之備。恐不復相見,以子師、昭兄弟為託」。勝曰:「當還忝本州,非并州。」帝乃錯亂其辭曰:「君方到并州。」勝復曰:「當忝荊州。」帝曰:「年老意荒,不解君言。今還為本州,盛德壯烈,好建功勳!」勝退告爽曰:「司馬公尸居餘氣,形神已離,不足慮矣。」他日,又言曰:「太傅不可復濟,令人愴然。」故爽等不復設備。

嘉平

原文嘉平

嘉平元年の春正月甲午、天子は高平陵に謁し、爽兄弟は皆従った。この日、太白星が月を襲った(月食があった)。帝はここにおいて永寧太后に上奏して爽兄弟を廃することを求めた。この時、景帝(司馬師)は中護軍として兵を率いて司馬門に駐屯していた。帝は闕の下に陣を列ね、爽の門前を通った。爽の帳下督の厳世が楼に上り、弩を引いて帝を射ようとしたが、孫謙が止めて言った。「事の成否はまだわからない。」三度狙いを定め三度止められ、皆その肘を引かれて発射できなかった。大司農の桓範が爽のもとへ出奔した。蔣済が帝に言った。「智囊が行ってしまいました。」帝は言った。「爽と範は内面的には疎遠で、範の知恵も及ばない。駑馬は短い豆に恋い慕う(目先の利益に執着する)もので、必ずや用いることはできない。」ここにおいて司徒しとの高柔に節を仮授し、大将軍の職務を行わせ、爽の営を統率させ、柔に言った。「君は周勃となったのだ。」太僕の王観に中領軍の職務を行わせ、曹羲の営を摂取させた。帝は自ら太尉の蔣済らを率いて兵を整え出迎えて天子を迎え、洛水の浮橋に駐屯し、上奏した。「先帝(曹叡)は詔して陛下と秦王(曹詢)及び臣を御床に昇らせ、臣の腕を握って『深く後事を念え』と言われました。今、大将軍爽は顧命に背き、国の典章を乱し、内では僭上のまねごとをし、外では威権を専断しています。群官の要職には皆、自分の親しい者を置き、宿衛の旧人たちは皆排斥されています。根を張り盤錯し、日増しにほしいままに振る舞っています。また黄門の張當を都監とし、専ら交際を取り持ち、神器(帝位)を窺っています。天下は騒然とし、人々は危惧を抱いています。陛下は寄り掛かるだけの存在となり、どうして長く安泰でいられましょうか。これは先帝が陛下と臣を御床に昇らせた本意ではありません。臣は老朽ではありますが、どうして以前の言葉を忘れましょう。昔、趙高が思いのままに振る舞い、秦はこれによって滅びました。呂氏・霍氏を早くに断ち切ったので、漢の国統は永く延びました。これは陛下の手本であり、臣が命を受ける時です。公卿群臣は皆、爽に君主をないがしろにする心があると考え、兄弟が兵と宿衛を掌握すべきではないとし、皇太后に上奏しました。皇太后は上奏の通り施行するようお命じになりました。臣はただちに主な者と黄門令に命じて爽・羲・訓の官吏と兵を罷免し、それぞれ本来の官職のまま邸宅に待機させます。もし車駕を引き留めるようなことがあれば、軍法に基づいて処置します。臣は力の限り病を押して兵を率いて洛水の浮橋に至り、異常の有無を伺っています。」爽は上奏を通さず、車駕を伊水の南に留めて宿泊させ、木を伐って鹿角とし、数千人の屯兵を動員して守らせた。桓範は果たして爽を勧めて天子を奉じて許昌に行幸させ、檄を飛ばして天下の兵を徴発するよう勧めた。爽はこれを用いることができず、夜に侍中の許允と尚書の陳泰を帝のもとに遣わし、意向を探らせた。帝はその過失を数え上げ、事は免官で済ませると言った。泰は戻って爽に報告し、上奏を通すよう勧めた。帝はまた爽が信頼する殿中校尉の尹大目を遣わして爽に諭し、洛水を指して誓いを立てたので、爽はその心を信じた。桓範らは古今の事例を引き合いに出し、あらゆる手段で諫言したが、ついに従わず、爽は言った。「司馬公はただ我が権力を奪いたいだけだ。私は侯のまま邸宅に戻ることができれば、富家の翁として失うものはない。」範は胸を打って言った。「卿のせいで、我が一族は滅びるだろう!」ついに帝の上奏を通した。まもなくして役人が黄門の張當を弾劾し、同時に爽と何晏らが謀反を企てたことを発覚させた。そこで爽兄弟とその党与の何晏・丁謐・鄧颺・畢軌・李勝・桓範らを捕らえて誅殺した。蔣済は言った。「曹真の勲功は、祭祀を絶つわけにはいきません。」帝は聞き入れなかった。

原文嘉平元年春正月甲午,天子謁高平陵,爽兄弟皆從。是日,太白襲月。帝于是奏永寧太后廢爽兄弟。時景帝為中護軍,將兵屯司馬門。帝列陣闕下,經爽門。爽帳下督嚴世上樓,引弩將射帝,孫謙止之曰:「事未可知。」三注三止,皆引其肘不得發。大司農桓範出赴爽,蔣濟言於帝曰:「智囊往矣。」帝曰:「爽與範內疏而智不及,駑馬戀短豆,必不能用也。」於是假司徒高柔節,行大將軍事,領爽營,謂柔曰:「君為周勃矣。」命太僕王觀行中領軍,攝羲營。帝親帥太尉蔣濟等勒兵出迎天子,屯于洛水浮橋,上奏曰:「先帝詔陛下、秦王及臣升於御牀,握臣臂曰『深以後事為念』。今大將軍爽背棄顧命,敗亂國典,內則僭擬,外專威權。羣官要職,皆置所親;宿衞舊人,並見斥黜。根據槃互,縱恣日甚。又以黃門張當為都監,專共交關,伺候神器。天下洶洶,人懷危懼。陛下便為寄坐,豈得久安?此非先帝詔陛下及臣升御牀之本意也。臣雖朽邁,敢忘前言。昔趙高極意,秦是以亡;呂霍早斷,漢祚永延。此乃陛下之殷鑒,臣授命之秋也。公卿羣臣皆以爽有無君之心,兄弟不宜典兵宿衞;奏皇太后,皇太后敕如奏施行。臣輒敕主者及黃門令罷爽、羲、訓吏兵,各以本官侯就第。若稽留車駕,以軍法從事。臣輒力疾將兵詣洛水浮橋,伺察非常。」爽不通奏,留車駕宿伊水南,伐樹為鹿角,發屯兵數千人以守。桓範果勸爽奉天子幸許昌,移檄徵天下兵。爽不能用,而夜遣侍中許允、尚書陳泰詣帝,觀望風旨。帝數其過失,事止免官。泰還以報爽,勸之通奏。帝又遣爽所信殿中校尉尹大目諭爽,指洛水為誓,爽意信之。桓範等援引古今,諫說萬端。終不能從,乃曰:「司馬公正當欲奪吾權耳。吾得以侯還第,不失為富家翁。」範拊膺曰:「坐卿,滅吾族矣!」遂通帝奏。既而有司劾黃門張當,并發爽與何晏等反事,乃收爽兄弟及其黨與何晏、丁謐、鄧颺、畢軌、李勝、桓範等誅之。蔣濟曰:「曹真之勳,不可以不祀。」帝不聽。

初め、爽の司馬であった魯芝と主簿の楊綜が関を斬って爽のもとに奔った。爽が罪に帰そうとした時、芝と綜は泣いて諫めて言った。「公は伊尹・周公のような任にあり、天子を擁し、天威を杖としているのです。誰が従わないことがありましょうか。これを捨てて東市(刑場)に行こうとなさるのは、なんと痛ましいことではありませんか。」役人が芝と綜を捕らえて罪に処すよう上奏したが、帝はこれを赦し、言った。「君主に仕える者を勧めるためだ。」

原文初,爽司馬魯芝、主簿楊綜斬關奔爽。及爽之將歸罪也,芝、綜泣諫曰:「公居伊周之任,挾天子,杖天威,孰敢不從?舍此而欲就東市,豈不痛哉!」有司奏收芝、綜科罪,帝赦之,曰:「以勸事君者。」

二月、天子は帝を丞相とし、潁川郡の繁昌・鄢陵・新汲・父城の四県を加増し、以前からの八県と合わせて、邑二万戸とし、上奏する際に名を称さなくてよいとした。帝は固辞して丞相を辞退した。

原文二月,天子以帝為丞相,增封潁川之繁昌、鄢陵、新汲、父城,并前八縣,邑二萬戶,奏事不名。固讓丞相。

冬十二月、九錫きゅうしゃくの礼を加えられ、朝会の際に拝礼しなくてよいとされた。帝は固辞して九錫を辞退した。

原文冬十二月,加九錫之禮,朝會不拜。固讓九錫。

二年の春正月、天子は帝に命じて洛陽に廟を立てさせ、左右の長史を置き、掾属と舍人を増員して十人とし、毎年掾属から御史と秀才を各一人ずつ推挙させ、官騎を百人増やし、鼓吹を十四人とし、子の司馬肜を平楽亭侯に、司馬倫を安楽亭侯に封じた。帝は長く病んでいて朝請に堪えられないとして、大事があるたびに、天子が自ら邸宅に行幸して諮問した。

原文二年春正月,天子命帝立廟于洛陽,置左右長史,增掾屬、舍人滿十人,歲舉掾屬任御史、秀才各一人,增官騎百人,鼓吹十四人,封子肜平樂亭侯,倫安樂亭侯。帝以久疾不任朝請,每有大事,天子親幸第以諮訪焉。

兗州刺史の令狐愚と太尉の王淩おうりょうが帝(司馬懿)に背き、楚王曹彪を立てようと謀った。

原文兗州刺史令狐愚、太尉王淩貳於帝,謀立楚王彪。

三年の春正月、王淩は呉人が涂水を塞いだと偽って報告し、討伐のための出兵を請うた。帝は密かにその計略を知り、聞き入れなかった。

原文三年春正月,王淩詐言吳人塞涂水,請發兵以討之。帝潛知其計,不聽。

夏四月、帝は自ら中軍を率い、船で川を下り、九日で甘城に到着した。王淩は手立てがなくなり、武丘に出迎え、水辺で縛られて面を伏せ、「私に罪があるなら、公は手紙一本で私を召喚すればよいのに、どうしてわざわざご自身で来られたのですか!」と言った。帝は「あなたは手紙一本で来られるような客人ではないからだ」と答えた。すぐに王淩を連れて京師に帰還した。道中、賈逵の廟の前を通ると、王淩は叫んだ。「賈梁道よ!王淩は大魏の忠臣である。ただあなただけが神としてこれを知っているはずだ」。項に至り、毒を仰いで死んだ。残党を捕らえ、皆三族を誅し、曹彪も殺した。魏の諸王公をことごとく捕らえて鄴に置き、役人に監視させ、交際することを禁じた。

原文夏四月,帝自帥中軍,汎舟沿流,九日而到甘城。淩計無所出,乃迎於武丘,面縛水次,曰:「淩若有罪,公當折簡召淩,何苦自來邪!」帝曰:「以君非折簡之客故耳。」即以淩歸于京師。道經賈逵廟,淩呼曰:「賈梁道!王淩是大魏之忠臣,惟爾有神知之。」至項,仰鴆而死。收其餘黨,皆夷三族,并殺彪。悉錄魏諸王公置于鄴,命有司監察,不得交關。

天子(魏帝)は侍中の韋誕を使者として五池に派遣し、節を持たせて軍を慰労させた。帝が甘城から帰還すると、天子はまた大鴻臚と太僕を兼ねる庾嶷を使者とし、節を持たせて、帝を相国に任命し安平郡公に封じ、孫と兄の子それぞれ一人を列侯とし、前後の食邑合わせて五万戸、侯に封じられた者は十九人に及んだ。帝は固く辞して相国と郡公の位を受けなかった。

原文天子遣侍中韋誕持節勞軍于五池。帝至自甘城,天子又使兼大鴻臚、太僕庾嶷持節,策命帝為相國,封安平郡公,孫及兄子各一人為列侯,前後食邑五萬戶,侯者十九人。固讓相國、郡公不受。

六月、帝は病に臥せり、賈逵と王淩が祟りをなす夢を見て、非常に嫌った。秋八月戊寅、京師で崩御した。時に七十三歳。天子は喪服を着て弔問し、葬儀の威儀は漢の霍光の故事に倣った。相国・郡公を追贈された。弟の司馬孚が上表して生前の意志を述べ、郡公の位と轀輬車を辞退した。

原文六月,帝寢疾,夢賈逵、王淩為祟,甚惡之。秋八月戊寅,崩於京師,時年七十三。天子素服臨弔,喪葬威儀依漢霍光故事,追贈相國、郡公。弟孚表陳先志,辭郡公及轀輬車。

九月庚申、河陰に葬られ、諡は文とされた。後に宣文と改諡された。以前より、終焉の制を予め定め、首陽山に土葬の墓を造り、墳丘も樹木も設けず、顧命の三篇を作り、当時の衣服で納棺し、副葬品を設けず、後に死ぬ者は合葬しないこととした。すべて遺命の通りであった。晋国が初めて建てられた時、宣王と追尊された。武帝が禅譲を受けると、上尊号して宣皇帝とし、陵を高原、廟を高祖と称した。

原文九月庚申,葬于河陰,諡曰文,後改諡宣文。先是,預作終制,於首陽山為土藏,不墳不樹;作顧命三篇,斂以時服,不設明器,後終者不得合葬。一如遺命。晉國初建,追尊曰宣王。武帝受禪,上尊號曰宣皇帝,陵曰高原,廟稱高祖。

帝は内心では猜疑心が強かったが、外見は寛大で、猜忌心が強く権謀術数に長けていた。魏の武帝(曹操)は帝に雄大な志があると察し、狼顧の相(振り返るときに体を動かさずに顔だけ後ろを向ける相)があると聞き、試そうとした。そこで呼び出して前を歩かせ、振り返らせたところ、顔はまっすぐ後ろを向いたが体は動かなかった。またかつて三頭の馬が同じ槽から餌を食べる夢を見て、非常に嫌った。そこで太子の曹丕に言った。「司馬懿は人臣の器ではない。必ずやお前の家の事に干渉するだろう」。太子は平素から帝と親しく、常に庇っていたので、難を免れた。帝はこれより吏職に励み、夜も寝るのを忘れ、飼料や牧畜の事に至るまで、すべて自ら視察した。これによって魏武帝の疑念はようやく収まった。公孫文懿を平定した時は、大規模な殺戮を行った。曹爽を誅殺した際には、その一派を皆三族に及ぶまで誅し、男女の別なく老若を問わず、嫁いだ姑や姉妹、娘たちまでも殺した。その後、ついに魏の鼎(政権)を移したのである。明帝(東晋の明帝司馬紹しばしょう)の時、王導おうどうが侍坐していた。帝が前世(西晋)がどうして天下を得たかを問うと、王導は宣帝(司馬懿)の創業の始めと、文帝(司馬昭しばしょう)の末の高貴郷公(曹髦)の事件を述べた。明帝は顔を床に伏せて言った。「もしあなたの言う通りなら、晋の国祚がどうして長く続けようか!」その猜疑心と残忍さの跡は、狼顧の相に符合するものがあった。

原文帝內忌而外寬,猜忌多權變。魏武察帝有雄豪志,聞有狼顧相,欲驗之。乃召使前行,令反顧,面正向後而身不動。又嘗夢三馬同食一槽,甚惡焉。因謂太子丕曰:「司馬懿非人臣也,必預汝家事。」太子素與帝善,每相全佑,故免。帝於是勤於吏職,夜以忘寢,至於芻牧之間,悉皆臨履,由是魏武意遂安。及平公孫文懿,大行殺戮。誅曹爽之際,支黨皆夷及三族,男女無少長,姑姊妹女子之適人者皆殺之,既而竟遷魏鼎云。明帝時,王導侍坐。帝問前世所以得天下,導乃陳帝創業之始,及文帝末高貴鄉公事。明帝以面覆牀曰:「若如公言,晉祚復安得長遠!」迹其猜忍,蓋有符於狼顧也。

評

原文評

制(史臣の論評)に曰く、天地の広大さにおいては、民衆がその根本である。国家の尊さにおいては、君主がその先駆けである。治乱は常ならず、興亡には運がある。それゆえ五帝より以前は、万乗の位にあっても憂いとし、三王以来は、その憂いの中にあって楽しみとした。智と力を競い、利害を争い、大小が互いに併呑し、強弱が互いに襲い合った。魏の時代に至って、三方に鼎立し、干戈が止まず、戦雲が飛び交った。宣皇(宣帝司馬懿)は天与の優れた資質を持ち、時に応じて天命を助け、文をもって治績を継ぎ、武をもって威厳を示した。人を用いることは己を用いるが如く、賢を求めることは及ばざるが如くであった。情は深く阻まれて測りがたく、性質は寛大で包容力があった。光を和らげ塵に同じ、時とともに伸縮し、鱗を収め翼を潜めて、風雲に属することを思った。己の詐りの心に忠を飾り、危うくされんとする命を安んじ延ばした。その雄大な謀略は内で決断し、英明な計画は外で決行し、公孫(淵)を百日で滅ぼし、孟達を十日余りで生け捕りにし、自ら兵を動かすこと神の如く、謀り事に再考の余地なしと思った。

原文制曰:夫天地之大,黎元為本;邦國之貴,元首為先。治亂無常,興亡有運。是故五帝之上,居萬乘以為憂;三王已來,處其憂而為樂。競智力,爭利害,大小相吞,強弱相襲。逮乎魏室,三方鼎峙,干戈不息,氛霧交飛。宣皇以天挺之姿,應期佐命,文以纘治,武以棱威。用人如在己,求賢若不及;情深阻而莫測,性寬綽而能容。和光同塵,與時舒卷,戢鱗潛翼,思屬風雲。飾忠于已詐之心,延安于將危之命。觀其雄略內斷,英猷外決,殄公孫於百日,擒孟達於盈旬,自以兵動若神,謀無再計矣。

その後、軍勢を擁して西に進み、諸葛亮と対峙した。その甲兵を抑え、もともと戦う意志がなかったが、女物の頭巾を送られて、ようやく憤りの心を発した。節を持って門前に立ち、雄図はたちまち屈し、千里を隔てて戦いを請い、偽って威を示そうとした。しかも秦(魏)と蜀の兵士は、勇猛さと臆病さが敵ではなく、険しい道と平坦な道では、労苦と安楽が同じでない。これをもって功を争えば、その利は明らかである。しかし返って軍を閉ざし陣を固め、敢えて鋒先を争わず、生きている時は敵の実力を恐れて進まず、死んだ後は敵の虚を疑ってなお逃げた。良将の道は、ここに失われたのではないか。

原文既而擁眾西舉,與諸葛相持。抑其甲兵,本無鬭志,遺其巾幗,方發憤心。杖節當門,雄圖頓屈,請戰千里,詐欲示威。且秦蜀之人,勇懦非敵,夷險之路,勞逸不同,以此爭功,其利可見。而返閉軍固壘,莫敢爭鋒,生怯實而未前,死疑虛而猶遁,良將之道,失在斯乎!

文帝(司馬昭)の世には、補佐として権勢が重く、許昌においては蕭何の委任と同じく、崇華殿においては霍光の寄託に勝っていた。当時は誠を尽くし節を全うし、伊尹や傅説に並ぶと謂うべきであった。明帝(曹叡)が終わりを迎えようとした時、棟梁として嘱託され、二主(曹叡、曹芳)の遺命を受け、三朝(曹丕、曹叡、曹芳)に仕えて天命を助けた。すでに死を忍ぶ託けを受けながら、かつて生を殉ずる報いがなかった。天子(曹芳)が外におり、内で甲兵を起こし、陵墓の土も乾かぬうちに、急いで誅殺し合った。貞臣の在り方として、どうしてこのようでありえようか。完全に善である方法は、これをもって惑わされる。

原文文帝之世,輔翼權重,許昌同蕭何之委,崇華甚霍光之寄。當謂竭誠盡節,伊傅可齊。及明帝將終,棟梁是屬,受遺二主,佐命三朝,既承忍死之託,曾無殉生之報。天子在外,內起甲兵,陵土未乾,遽相誅戮,貞臣之體,寧若此乎!盡善之方,以斯為惑。

征討の策は、どうして東(対呉・対公孫淵)は智謀があり西(対蜀)は愚かだったのか。補佐の心は、どうして以前は忠であり後には乱れていたのか。それゆえ晋の明帝は顔を覆い、欺瞞と偽りで成功したことを恥じた。石勒せきろくは言葉を放ち、奸邪と裏切りで業を定めたことを笑った。古人が言う、「善を三年積めば、知る者は少ない。悪を一日なせば、天下に聞こえる」。まさにその通りと言えようか。たとえ当時は過ちを隠しても、結局は後世に嘲笑される。それはちょうど鐘を盗んで耳を塞ぎ、人々が聞かないと思い込むようなものであり、ひたすら金を盗もうとし、市場の中では誰も見ていないと思い込むようなものである。それゆえ、近くの利益に貪る者は遠くのものを失い、利に溺れる者は名を傷つけることを知るべきである。もし己を損ねて人を益さないならば、人に禍をもたらして己を福すことになる。道理に順って行動すれば力が要らず、時勢に背いて動けば功を成し難い。ましてや未だ成らざる晋の基盤をもって、余力ある魏の国祚を逼迫したのか。たとえ再びその道が天下に及び、その徳が民衆を覆ったとしても、天が時を開示せず、宝の位はなお阻まれていた。智謀で競うべからず、武力で争うべからず。たとえその慶びが子孫に流れたとしても、自身はついに臣下のままで終わったのである。

原文夫征討之策,豈東智而西愚?輔佐之心,何前忠而後亂?故晉明掩面,恥欺偽以成功;石勒肆言,笑姦回以定業。古人有云,「積善三年,知之者少;為惡一日,聞于天下」,可不謂然乎!雖自隱過當年,而終見嗤後代。亦猶竊鍾掩耳,以眾人為不聞;銳意盜金,謂市中為莫覩。故知貪于近者則遺遠,溺于利者則傷名;若不損己以益人,則當禍人而福己。順理而舉易為力,背時而動難為功。況以未成之晉基,逼有餘之魏祚?雖復道格區宇,德被蒼生,而天未啟時,寶位猶阻,非可以智競,不可以力爭,雖則慶流後昆,而身終於北面矣。

校勘記

原文校勘記