三法司とは、刑部・都察院・大理寺をいう。刑部は天下の刑名を受け、都察院は糾察し、大理寺は駁正する。太祖はかつて言った、「凡そ大獄あるときは、面と向かって訊問すべし、構陷鍛煉の弊を防ぐためである」と。故にその時は重案は多く親しく鞠問し、法司に委ねなかった。洪武十四年、刑部に命じて両造の言葉を聴かせ、議定して奏上させた。既に奏上した後、下された旨を記録し、四輔官・諫院官・給事中に送って覆核させ、異議がなければ、それから覆奏して施行した。疑獄があるときは、四輔官が封駁した。一年を過ぎて四輔官が廃止されると、乃ち獄を議することを一たび三法司に帰することを命じた。十六年、刑部尚書開済らに命じ、五六日旬時三審五覆の法を議定させた。十七年、太平門外鐘山の北に三法司を建て、之を貫城と名付けた。勅を下して言った、「貫索七星は貫珠の如く、環となって象を成し天牢と名づく。中虚なれば則ち刑平らかで、官に邪私なく、故に獄に囚人無し;貫内の空中に星あるもの或いは数枚あるは即ち刑繁く、刑官その人に非ざるなり;星有りて明らかなるは、貴人罪無くして獄せらるるなり。今天道に法って法司を置く、爾ら諸司は各々慎んで乃ち事を行い、天道に法って之を行い、貫索の中を虚しくせしめよ、庶幾くは朕が肇建の意に背かざらん」と。また法司官に諭して言った、「布政・按察司の擬する刑名、その間の人命重獄は、具奏して刑部・都察院に転達し参考させ、大理寺に詳擬させる。令と為せ」と。
刑部には十三清吏司があり、各布政司の刑名を治め、また陵衛・王府・公侯伯府・在京諸曹及び両京州郡も、分かれてこれに隷属した。按察は提刑と称し、蓋し在外の法司であり、副使・僉事を参じて、各府県の事を分治した。京師では笞以上の罪は、悉く部の議に由った。洪武初年に獄を決するには、笞五十の者は県がこれを決し、杖八十の者は州がこれを決し、一百の者は府がこれを決し、徒以上の者は獄を具えて行省に送り、移駁繁にして賄賂行なわれた。乃ち中書省・御史台に詳讞させ、月報を改めて季報とし、季報の数をもって、類して歳報とした。凡そ府州県の軽重の獄囚は、律に依って決断する。違枉する者は、御史・按察司が糾劾した。二十六年に至り定制とし、布政司及び直隸府州県では、笞杖は就きて決し;徒流・遷徙・充軍・雑犯死罪は部に解送し、審録して下し行い、死囚の坐する罪名を具えて上部し詳議して律の如き者は、大理寺が擬覆して平允とし、監収して決を待つ。その決を時を待たざる重囚は、報可すれば、即ち官を遣わして往きてこれを決す。情詞明らかならず或いは出入を失う者は、大理寺が駁回して改正させ、再び問うて三度まで駁し、改擬当たらずば、当該官吏を奏問する、これを照駁という。若し亭疑讞決して、囚に番異あれば、則ち隔別の衙門に改調して問擬させる。二次番異して服さざれば、則ち具奏し、九卿を会してこれを鞫く、これを円審という。三四訊して服さず、而る後に請旨してこれを決す。
正統四年、直省の決遣の制を稍々改め、徒流は彼処で決遣し、死罪は聞奏することとした。成化五年、南京大理評事張鈺が言う、「南京法司は多く厳刑を用い、囚を迫って誣服させ、その糾された者も止むるに改正するのみで罪無し、甚だ律意に非ず」と。乃ち詔して大理寺が刑部を参問する制を申し明かさせた。弘治十七年、刑部主事硃瑬が言う、「部の囚を大理に送るのは、第に駁正すべきであり、刑を用いるべきではない」と。大理卿楊守隨が言う、「刑具は永楽年間に設けられたもので、廃すべからず」と。帝はその言を是とした。
凡そ刑部が問い発する罪囚は、所司が通じて問い掛けた囚人の数を、罪名の軽重を問わず、南北の人各若干に分け、山東司に送り、堂に呈して奏聞する。これを歳報という。毎月、現監の罪囚を以て奏聞する。これを月報という。その做工・運炭等の項は、五日毎に工科に開送し、精微冊に記入し、月終に六科に分けて輪番に報告する。凡そ法官が囚人を治めるには、皆成法があり、人を提げ事を勘えるには、必ず精微批文を齎す。京外の官五品以上で犯す者あれば必ず奏聞して旨を請い、擅に勾問して罪とすべからず。八議に在る者は、実封して以て聞かせる。民間の獄訟は、通政司が部に転達せずしては、刑部は聴理すべからず。誣告する者は反坐し、越訴する者は笞し、登聞鼓を撃って不実な者は杖す。問官を訐告する者は、必ず核実して乃ち逮問す。罪囚の打ち断ち起ち発つには定期あり、刑具には定器あり、停刑には定月日あり、屍傷を検験するには定法あり、囚を恤れるには定規あり、籍没するにも定物あり。ただ復讐する者には明文無し。
成化の時、六品以下の官に罪あれば、巡按御史は輒ち府官に提問させた。陝西巡撫の項忠が言うには、「祖制では、京外の五品以上の官に犯す者あれば奏聞し、擅に勾問すべからず。今、巡按が輒ち六品官を提問するは、甚だ律意に乖き、朝に聞くべきであり、御史・按察司に提問させるのが是である」。乃ち部に下して議せしめ、之に従った。凡そ罪が八議に在る者は、実封して奏聞し旨を請う。ただ十悪は此の例を用いず。所属の官が上司に非理に淩虐せられるも、亦実封して径ちに奏することを聴す。軍官が罪を犯せば、都督府が旨を請う。諸司の事で軍官に涉り、及び軍官の不法を呈告する者は、俱に密かに実封して以て奏し、擅に勾問するを得ず。嘉靖の中、順天巡按御史の鄭存仁が府県に檄し、凡そ法司が追取する所あれば、輒ち発すべからずとした。尚書の鄭曉が故事を考うるに、民間の詞訟は自ら通政司が転達せずしては、聴くべからず。而して諸司に応に問うべき罪人あれば、必ず刑部に送り、各々相侵さず。曉は乃ち言う、「刑部が人を追取するに、府縣は當に卻すべからず。存仁は制に違い、宜しく罪すべし」。存仁も亦た自下而上の律を執り、曉の欺罔を論じた。乃ち命じて、外に在る者は有司に属し、京に在る者は刑部に属させた。然るに曉が去位してより、民間の詞訟を、五城御史は輒ち受け、復た祖制を遵わなくなった。
洪武の時、謀反を告げる者ありて勘問して実ならず、刑部は當に罪に抵すべしと言った。帝以て秦裕伯に問う。對えて言うには、「元の時は此の如き者は罪は杖一百に止まり、蓋し来たる告げの路を開くに以てなり」。帝曰く、「奸徒が抵せずんば、善人の誣かれる者多からん。自今より謀反を告げて実ならざる者は、罪に抵せ」。學正の孫詢が稅使の孫必貴を胡党と訐り、又た元の參政の黎銘が常に自ら老豪傑と称し、朝廷を謗訕すと訐った。帝は告訐は儒者の為す所に非ずとして、問わずに置いた。永楽年間に制を定め、三四人を誣うれば杖徒、五六人を誣うれば三千里に流し、十人以上を誣うれば淩遲し、家屬を化外に徙した。
洪武の末年、小民多く京師に越訴し、及びその事を按ずるに、往々にして実ならず、乃ち越訴の禁を厳しくす。老人に命じて一郷の詞訟を理め、里胥と会してこれを決せしめ、事重きもの始めて官に白す、然れども卒に止むること能わず、越訴する者日増す。乃ち重法を用い、これを辺に戍らしむ。宣徳の時、越訴して実を得る者は罪を免じ、実ならざれば仍って辺に戍らしむ。景泰の中、虚実を問わず、皆口外に発して軍に充て、後に以て例とせず。
凡そ原問の官司を訐告する者は、成化の間定議し、核究して実を得、然る後に逮問す。弘治の時、南京御史王良臣指揮周愎等の勢を怙りて貨を黜くを按ず、愎等遂に良臣を訐る。詔して南京法司に下し、逮繫して会鞫せしむ。侍郎楊守隨言う、「これは旧章に合わず。請う自今以後、官吏軍民奏訴し、別事に牽縁し、原問官を摭拾するは、立案して行わず。奏する所の事仍って問結せしめ、虚詐なる者は罪を擬し、原問官枉断する者も亦た罪す。」乃ちその議を三法司に下す。法司覆奏して請う所の如くし、これに従う。洪武二十六年以前、刑部は主事廳に令して御史・五軍断事司・大理寺・五城兵馬指揮使官と会し、罪囚を打斷せしむ。二十九年、並びに錦衣衛官を差す。その後惟だ主事御史と会し、笞杖の罪を打斷廳に将ちて決し訖り、巻に附し、旨を奉ずる者は次日に覆命す。万暦の中、刑部尚書孫丕揚言う、「獄を折ること速ならざるは、文移牽制の故なり。議断既に成り、部・寺各長単を立て、刑部審に送り掛號し、次日即ち大理に送る。大理審允し、次日即ち本部に還す。参差する者は究処し、庶く事体一にすべし。打斷相驗に至りては、御史に三・六・九日に例に遵いて会同せしめ、余日は寺官を会するのみとして以て遣わしを速にす。徒流以上は、部・寺詳しく鞫し、笞杖の小罪は、堂部の処分を聴かしむ。」命じて議の如く行わしむ。
凡そ獄囚已に審錄し、決断すべき者は三日を限り、起発すべき者は十日を限り、限を逾ゆれば日を計りて以て笞す。囚淹滯して死に至らしむる者は徒を罪す、これは旧例なり。嘉靖六年、給事中周曁郎言う、「比者獄吏苛刻にして、犯軽重無く、一概に幽繋を加え、案新故無く、動もすれば歳時を引く。意を喩し色を授けるの間、論奏未だ成らず、囚の骨已に糜す。又況んや偏州下邑、督察及ばず、奸吏悍卒獄を倚りて市と為し、或いはその飲食を扼して以てこれを困し、或いはこれを穢溷に徙して以てこれを苦しめ、諸の痛楚を備え、十にして一生せず。臣律令の載する所を観るに、凡そ囚犯を逮繫するは、老疾必ず散収し、軽重類を以て分ち、枷杻薦席必ず時にして飭し、涼漿暖匣必ず時にして備え、家無き者には衣服を与え、疾有る者には医薬を与え、淹禁には科有り、疏決には詔有り。これは祖宗の良法美意、宜しく臣下に勅して同じく奉行せしむべし。凡そ逮繫の日月並びに已竟・未竟・疾病・死亡する者は、各文冊に載せ、長吏に申報し、その結竟の遅速を較べ、病故の多寡を以て功罪と為し而して黜陟す。」帝深くその言を然り、且つ中外に用法深刻にして、民命を致戕する者有れば、即ち民として斥け、才守観るべくとも、推薦を得ざらしむ。
凡そ内外の問刑官、惟だ死罪並びに窃盗の重犯にのみ、始めて拷訊を用い、余は止だ鞭撲の常刑なり。酷吏輒ち挺棍・夾棍・脳箍・烙鉄及び一封書・鼠弾箏・攔馬棍・燕児飛を用い、或いは鼻を灌ぎ・指を釘し、径寸の懶杆・棱節を去らざる竹片を用い、或いは脊背・両踝を鞭ちて傷を致す以上は、俱に奏請し、罪充軍に至る。
停刑の月は、立春以後より、春分以前に至る。停刑の日は、初一・初八・十四・十五・十八・二十三・二十四・二十八・二十九・三十、凡そ十日なり。屍傷を検驗するは、照磨司部印の屍図一幅を取り、五城兵馬司に委ねて法の如く検驗せしめ、府は則ち通判・推官、州県は則ち長官親しく檢し、下僚に委ねること毋かれ。
明一代の刑法の大略。太祖が開国の初め、元末の貪冒を懲らしめ、贓吏を重く縛り、諸司の犯法者を申明亭に掲げて戒めを示した。また刑部に命じ、官吏に犯す者あれば、罪を宥して職に復し、過ちを書いてその門に榜示し、自ら省みさせる。悔い改めなければ、律の如く論ず。累ねて犯諭、戒諭、榜諭を頒ち、悉く刑を以て象り、誥して天下に示した。十八年に『大誥』が成ると、序して曰く、「諸司敢えて公を急がずして私に務むる者は、必ずその原を窮め搜してこれを罪す」。三『誥』に列挙する凌遅、梟示、種誅の者は、慮るに千百、棄市以下の者は万数に及ぶ。貴溪の儒士夏伯啓叔姪が指を断って仕えず、蘇州の人才姚潤、王謨が徴されて至らず、皆誅してその家を籍没した。「寰中の士夫、君に用いられざる」の科が設けられた所以である。その『三編』はやや寛容であるが、記すところの進士監生の罪名、一犯より四犯に至る者なお三百六十四人。幸いに死せずして職に還る者は、率い斬罪を戴いて事を治む。中外の貪墨の起こる所を推原し、六曹を罪魁とし、郭桓を誅首とす。郭桓とは、戸部侍郎である。帝は北平二司の官吏李彧、趙全徳らが桓と奸利を為すことを疑い、六部の左右侍郎以下皆死に、贓七百万、詞は直省の諸官吏に連なり、繋死する者数万人。贓を核する所の寄借は天下に遍く、民の中産の家は大抵皆破れた。時に皆謗りを御史の余敏、丁廷挙に帰した。ある者がこれを以て言上すると、帝は手詔して桓らの罪を列挙し、右審刑の呉庸らを極刑に論じて、天下の心を厭わしめ、言うには、「朕は有司に奸を除かしむるを詔す。顧みれば復た奸を生じて吾が民を擾す。今後この如き者有らば、赦に遇うとも宥さず」。先に、十五年に空印の事発す。毎年、布政司、府州県の吏が戸部に詣でて銭糧、軍需の諸事を核するに、道遠きを以て、予め空印の文書を持ち、部の駁に遇えば即ち改め、常と為す。ここに至り、帝は奸有りと疑い、大いに怒り、諸長吏を死に論じ、佐貳を榜百して辺境に戍らしむ。甯海の人鄭士利が上書してその冤を訟うたが、復た杖して戍らしむ。二獄の誅殺は既に当を過ぎた。而して胡惟庸、藍玉の両獄は、株連して死する者四万に及ぶ。
しかし時に大綱を引き、放免する場合があった。沅陵知県張傑は労役に服すべきところ、自ら母の賀氏が元末の乱離の際に節を守り、今は年老いて養いを失っていると訴えた。帝は風俗を励ますに足るとし、特にこれを赦し、張傑に官位を与えて終生養わせた。給事中彭与民が投獄された時、その父が上表して哀訴した。直ちに釈放し、かつ同獄の十七人も免じた。死囚の妻妾が夫の冤罪を訴えた時、法司は彼女らに黥刑を加えるよう請うた。帝は婦人が夫のために訴えるのは本分であるとして、罪に問わなかった。都察院が死罪に当たる囚人二十四名を決した時、群臣に審理させ、冤罪のある者数名を減刑した。真州の民十八名が謀反を企てたが、彼らを処刑し、連座すべきその母子は赦免した。深文吏を用いた開済・詹徽・陳寧・陶凱らは、後にいずれも罪に問われ誅殺された。またしばしば仁愛の言葉を述べ、純粋に刑罰に頼ろうとはしなかった。かつて郊壇に行幸した時、皇太子が従い、道端の荊の木を指して言った、「古人はこれを用いて撲刑とし、風邪を去る効能を取った。寒くても傷つけないのである」と。尚書開済が法を厳密にすることを議すると、諭して言った、「池の水を汲み尽くして魚を獲れば、小魚まで害が及ぶ。林を焼いて狩りをすれば、子鹿や雛に禍が及ぶ。法があまりに巧妙で厳密では、民はどうして自らを全うできようか」。開済は恥じて謝罪した。参政楊憲が重法を望むと、帝は言った、「重い法典で生きる道を求めようとするのは、釜の中で魚を探すようなもので、生きることは難しい」。御史中丞陳寧が「法が重ければ人は軽々しく犯さず、吏が厳しく監察すれば下に隠れた事情はない」と言うと、太祖は言った、「そうではない。古人が刑を定めたのは悪を防ぎ善を守るためである。故に唐・虞の世には衣冠に模様を描き、章服を異ならせて刑戮の代わりとし、民は犯さなかった。秦には鑿顛・抽脅の刑や三族誅殺の罰があり、獄舎は市のようになり、天下は怨み反乱した。商鞅・韓非の法を用いて堯・舜の治世を実現できたとは聞かない」。陳寧は恥じて退いた。またかつて尚書劉惟謙に言った、「仁義は民を養う膏粱(美食)であり、刑罰は悪を懲らしめる薬石である。仁義を捨てて専ら刑罰を用いるのは、薬石で人を養うようなもので、どうして善政と言えようか」。およそ太祖は一時を懲らしめるために重典を用い、後世に示すために中正な制度を斟酌した。故に猛烈な治め方と寛仁な詔勅は相輔いで行われ、偏って廃することはなかった。
成祖は靖難の師を起こし、忠臣をことごとく奸党と指弾し、甚だしい場合は族誅を加え、墳墓を掘り、妻女を浣衣局・教坊司に没官し、親族・与党は流刑・戍辺に処し、隆慶・万暦の間までなお伍籍を追及して絶えなかった。反抗違逆者は既に殺戮し尽くし、人が密かに議論するのを恐れ、誹謗を特に憎んだ。山陽の民丁鈺がその郷里の誹謗を告発し、数十人が罪に問われた。法司は上意を迎え、丁鈺は才能があると述べ、直ちに刑科給事中に任じた。永楽十七年、再びその禁令を申し渡した。そして陳瑛・呂震・紀綱らが先後して権力を握り、専ら苛酷さをもって寵愛を固めた。ここにおいて蕭議・周新・解縉ら多くが無罪のまま死んだ。しかし帝は苛法の非を内心知っており、時に寛大を示した。ある千戸が桐油を皮鞭に塗り込んで人を決断した時、刑部は杖刑に当たるとしたが、命じてその職を罷免した。法司が官糧を詐取した者を奏上すると、命じて直ちに誅殺せよとしたが、刑部が覆奏した。帝は言った、「これは朕の一時の怒りであり、過ちである。律に依れ。今後、犯罪はすべて五度の覆奏を行え」。
仁宗は性質が非常に仁恕であり、即位するとすぐに金純・劉観に言った、「卿らは皆国の大臣である。朕が法の処断を誤ったならば、必ず改めて執奏せよ。朕は善に従うことを難しとしない」。そこで学士楊士奇・楊栄・金幼孜を御前の榻前に召し、諭して言った、「近年の法司の濫用は、朕が知らないわけではない。彼らが擬する大逆不道の罪は、往々にして文飾によるものであり、先帝はたびたび厳しく戒められた。故に死刑は必ず四五度覆奏するが、法司は少しも意を用いず、甘んじて酷吏となることを恥じない。今後、重囚を審理するには、卿ら三人は必ず同席して審議し、冤屈・抑圧のある者は、些細な事柄でも必ず奏上せよ」。洪熙に改元した二月、都御史劉観・大理卿虞謙に諭して言った、「かつて法司は誣告・陥穽を功績とし、人が一言でも国事に言及すれば、すぐに誹謗と論じ、身家を破滅させ、再び弁明の機会もなかった。ここ数ヶ月の間、この風潮がまた芽生えている。治道の急務は言論を求めるところにあり、患いは言論を忌諱とすることにある。どうして誹謗を禁じることができようか」。そこで士奇らを顧みて言った、「このことは必ず詔書をもって行わねばならない」。ここにおいて士奇が旨を承け、帝の言葉を己丑の詔書に載せた、「もし朕が一時に過ぎて悪を憎み、律の外で籍没や凌遅の刑を用いることがあれば、法司は再三執奏し、三度奏上しても許されなければ五度まで、五度奏上しても許されなければ、三公及び大臣とともに執奏し、必ず許されるまでとし、永く定制とする。文武諸司もまた暴虐に鞭背などの刑を用いたり、みだりに宮刑を用いて人の子孫を絶やしてはならない。自ら宮刑を行う者は不孝をもって論ずる。謀反及び大逆を除き、その他の犯罪は本人のみを罰し、一切連坐法を用いてはならない。誹謗を告発する者は処罰しない」。在位一年に満たずして、仁恩は広く行き渡った。
英宗以後、仁宗・宣宗の善政は衰えた。正統初め、三楊が国政を執り、なお祖法を恪守し、内外諸司に刑獄を鍛煉することを禁じた。刑部尚書魏源は災害と旱魃を理由に疑獄を上奏し、各巡撫に審録を命ずるよう請うた。帝はこれに従った。巡撫のないところは巡按に命じた。清軍御史・行在都察院も疑獄を上奏し、通じて審録を行った。御史陳祚が言うには、「法司が獄を論ずるに、多く定律に違背し、専ら深刻なことを務めている。例えば戸部侍郎呉璽が淫行ある主事呉軏を挙げた件は、貢挙非其人の罪に坐すべきところ、奏事に規避有りの律を加えて斬罪とした。また軏が自経して死んだ際、獄官卒の罪は、明らかに遞減する科条があるのに、不応為事理重者を援用し、一概に杖刑に処している。情状を斟酌して律を定めるのは、祖宗の防範が至って周到であるのに、法司がかくも軽きを抑えて重きに従うのは、聖朝の仁厚を広める所以ではない。今後妄りに重律を援用する者があれば、変乱成法の罪に処するよう請う」と。帝はその言を是とし、警戒を申しつけた。六年に至り、王振が初めて政を乱し、しばしば廷臣を辱め、刑章は大いに紊れた。侍講劉球が十事を条上し、その中で言うには、「天が災譴を降すは、多く刑罰の当を得ざることに感ずるのである。宜しく一任法司に、その徇私して当たらざる者を罪に処すべきである。たとえ触忤する事があっても、漢の犯蹕盗環の事の如きは、なお張釈之の執奏を聴き従うべきである」と。帝は用いなかった。そして球は即ちこの上疏で振の怒りに触れ、獄中に死した。しかし諸々の酷虐な事は、大率振が為したもので、帝の心は頗る寛平であった。十一年、大理卿俞士悦が毆闘殺人の類い百余りを上聞し、宥すよう請うた。皆減死して辺境に戍らせた。景泰中、陽谷主簿馬彦斌が斬に当たる時、その子震が代死を請うた。特に彦斌を宥し、震を編入して辺衛の軍と為した。大理少卿薛瑄が言うには、「法司が罪囚を発擬するに、多く参語を加えて奏請し、律意を変乱している」と。詔して法官に獄を問わしむるに、一に律令に依り、妄りに参語を加えることを許さず。六年、災異を以て中外の刑獄を審録し、全活する者甚だ衆かった。天順中、詔獄が盛んに起こり、三法司・錦衣獄に多く囚人が繋がれて未決であり、吏は往々にして獄情を漏らして奸を為した。都御史蕭維楨は徐有貞に附会し、枉くも王文・于謙等を殺した。而して刑部侍郎劉広衡は即ち詐って制文を撰したことを以て、有貞を斬罪に坐せしめた。その後緹騎が四方に出で、海内安からず。然れども霜降後に重囚を審録する実は、天順年間に始まる。成化初めに至り、刑部尚書陸瑜等が請うたことを以て、命じてこれを行わしめた。獄が上ると、その情状に矜疑すべき者を杖し、死を免じて戍に発した。列代これを行い奉り、人は法外の恩に沾うことを得た。
憲宗の即位に当たり、三法司に勅して言うには、「中外の文武群臣、贓罪を除く外、官に記録されたる所犯罪名は、悉く湔滌すべし」と。その後歳を以て常と為す。十年、囚を決すべき時、冬至節近し、特に命じて節を過ぎて行刑せしむ。既にして給事中が言うには、冬至後に行刑するは時に非ずと。遂に詔して来年の冬月を俟たしむ。山西巡撫何喬新が獄詞の遅延を劾奏した僉事尚敬・劉源を劾奏し、因って言うには、「凡そ二司が詞訟を決断せざる者は、半年以上、悉く奏請して執問すべし」と。帝曰く、「刑獄は重事なり、『周書』に曰く『要囚は、服念すること五六日より旬時に至る』と。特に未だ其の情を得ざる者のために言うのみ。苟くも其の情を得ば、即ち決断すべし。罪なくして幽に拘わるれば、往々にして瘐死す。是れ刑官の之を殺すなり。故に律は特に淹禁罪囚の条を著す。其れ即ち喬新の奏する所を以て、天下に通行せしめよ」と。又定制す、凡そ盗賊の贓仗未だ真ならず、人命の死傷未だ勘験を経ざるに、輒ち重刑を加えて獄中に致死せしむる者は、審勘して故失の有無明白にし、軍民職官を分かたず、俱に酷刑事例に視て民と為す。侍郎楊宣の妻は悍妒にして、婢十余りを殺す。部は命婦の合坐する律に擬す。特に命じて決杖五十とす。時に帝は裨政多く、而して刑獄に於いては尤も之を慎み、失う所は惟一二事のみ。嘗て一囚を殺さんと欲し、覆奏を許さず。御史方佑が復た請うたので、帝怒り、佑を杖して謫す。吉安知府許総に罪有り、中官黄高が法司を嗾して斬を論ぜしむ。給事中白昂が未だ審録を経ざるを以て請うたが、聴かず、竟に夜に乗じて之を斬る。
正徳五年に重囚を会審し、死者を減ずること二人。時に冤濫獄に満ち、李東陽等が風霾を以て言うに因り、特に許して寬恤す。而して刑官は劉瑾の怒りに触るるを懼れ、上る所は此れに止まる。後に流賊趙鐩等を市に磔にし、魁たる者六人の皮を剝ぐ。法司が祖訓に禁有りと奏すも、聴かず。尋いで皮を以て鞍鐙を製し、帝毎に之に騎乗す。而して直言の臣を廷杖するも、亦武宗最も甚だし。
世宗が即位した七月、日精門の火災に因み、冤抑を疏理し、命じて再び問い、緩死すべき者三十八人あり、而して廖鵬・王瓛・齊佐等これに関わる。給事中李復禮等言う、「鵬等は皆江彬・強尼の党なり。王法の必ず誅すべき所なり」と。乃ち令して旧の如く禁ず。後皆次第に伏法す。大礼を争う諸臣を杖つことより、遂に廷臣を痛く折辱す。六年、張璁・桂萼・方獻夫に命じて三法司を摂せしめ、李福達の獄を変じ、馬録を奸党律に坐せんと欲す。楊一清力爭し、乃ち録を戍とし、而坐罪する者四十余人。璁等は己が功と為し、遂に帝に請うて『欽明大獄録』を編し天下に頒示せしむ。是の獄に坐する者は、大抵璁等三人の夙嫌ある者なり。祖宗の法を以て、権臣の排陷に供し、而して帝悟らざるなり。八年、京師の民張福、母を殺し、訴えて張柱の殺す所と為す、刑部郎中魏應召覆治して実を得たり。而して帝は柱は武宗の后家の僕なりとし、意有りて曲げて之を殺さんとし、侍郎許讚に命じて尽く讞詞を反らしめ、都御史熊浹及び應召を獄に下す。其の後、猜忌日甚だしく、冤濫する者多し、間寬恤を命ずるも、而して意は苛刻を主とす。嘗て輔臣に諭して曰く、「近歳連年災異に因り刑を免ず、今復た刑科三覆して旨を請うべし。朕思うに死刑は重事なり、陵殿等の物を盗み及び父母を毆罵し大いに倫理を傷つくる者を取って決せんと欲し、余は法司に再理せしめ、卿と共に論じ、慎むべし慎むべし」と。時に大體を得たりと為す。数年を越え、大理寺詔を奉じて獄囚の減死すべき者を讞奏す。帝諸囚の罪は皆赦すべからずと謂い、乃ち恩例を仮借して奸を縱え法を壊すとし、寺丞以下を黜降すること差有り。九年より秋謝醮を挙げて囚を決するを免じ、自後或は祥瑞に因り、或は郊祀大報に因り、停刑の典毎歳舉行す。然れども屡執法官を譴怒し、時に旨を請わずして、上冬至に迫り、義を廢して恩を市うと為す。遂に刑部尚書吳山の職を削り、刑科給事中劉三畏等を降調す。中年益々誅戮を肆にし、宰輔夏言より免れず。三十七年に至り、乃ち手諭を出し、言う、「司牧者未だ尽く人を得ず、情に任せて威を作す。湖廣の幼民吳一魁二命枉刑せられ、母又就捕し、情迫りて控うる無く、万里閽を叩く。此を以て之を推す、冤抑する者其の幾たを知らざるなり。爾等宜しく亟に朕が心を體し、意を加えて矜恤すべし。仍て天下に通行し、咸しく之を喻らしむべし」と。是の詔は、恤恤乎として哀痛の思有り。末年、主事海瑞上書して触忤し、刑部死を以て当てんとす。帝其の章を持して下さず、瑞長く繋がるるを得たり。穆宗立ち、徐階帝の意に縁りて遺詔を為し、諸逐臣を尽く還し、死亡を優恤し、幽繋を縱釋す。詔書を読む者歎息せざる無し。