明史

志第七十一 刑法三

志第七十一 刑法三

原文志第七十一 刑法三

刑法には明において創始され、古制に拠らないものがある。廷杖・東西廠・錦衣衛・鎮撫司獄がこれである。この数者は、人を殺すこと甚だ惨く、しかも法に照らされない。これを踏襲して行い、末世に至って極まった。朝廷と民間の命運を、すべて武夫や宦官の手に委ねるとは、まことに嘆かわしいことである。

原文刑法有創之自明,不衷古制者,廷杖、東西廠、錦衣衛、鎮撫司獄是已。是數者,殺人至慘,而不麗於法。踵而行之,至末造而極。舉朝野命,一聽之武夫、宦豎之手,良可歎也。

太祖は常に侍臣と大臣を待遇する礼について論じた。太史令劉基が言うには、「古より公卿に罪あれば、盤水に剣を加え、請室に詣でて自ら裁断し、軽々しく折辱を加えず、もって大臣の体面を保った」と。侍読学士詹同はそこで『大戴礼』および賈誼の上疏を取り上げて進言し、かつ言うには、「古より刑は大夫に上らず。これをもって廉恥を励ますのである。必ずこのようにして、君臣の恩礼が初めて両立する」と。帝は深くこれを然りとした。

原文太祖常與侍臣論待大臣禮。太史令劉基曰:「古者公卿有罪,盤水加劍,詣請室自裁,未嘗輕折辱之,所以存大臣之體。」侍讀學士詹同因取《大戴禮》及賈誼疏以進,且曰:「古者刑不上大夫。以勵廉恥也。必如是,君臣恩禮始兩盡。」帝深然之。

洪武六年、工部尚書王肅が法に坐して笞刑に当たった。太祖は言う、「六卿は貴重である。些細なことで辱めるべきではない」と。俸禄をもって罪を贖うことを命じた。後に群臣が過失を犯した際、俸禄をもって贖うことを許したのは、ここに始まる。しかし永嘉侯朱亮祖父子はともに鞭打ち死に、工部尚書薛祥は杖の下に斃れた。故に上書する者は、大臣は誅殺すべきであっても辱めを加えるべきではないと主張した。廷杖の刑もまた太祖に始まる。宣徳三年、御史厳皚・方鼎・何傑らが酒色に沈湎し、久しく朝参しないことに怒り、枷をかけて示衆することを命じた。ここより言官に枷を負う者が現れた。正統年間に至り、王振が権を擅にすると、尚書劉中敷、侍郎呉璽・陳瑺、祭酒李時勉が相次いでこの辱めを受け、殿陛で杖を行うことが慣例となった。成化十五年、汪直が侍郎馬文升・都御史牟俸らを誣告して陥れた。詔して給事中・御史李俊・王浚ら五十六人を容隠したと責め、廷杖を加え、人二十杖を打った。正徳十四年、南巡を諫めて止めさせようとしたことで、舒芬・黄鞏ら百四十六人に廷杖を加え、死者十一人。嘉靖三年、群臣が大礼を争い、豊熙ら百三十四人に廷杖を加え、死者十六人。中年以降、刑法は益々峻烈となり、大臣といえども笞辱を免れなかった。宣大総督翟鵬・薊州巡撫朱方は防備を早く撤収したことで、宣大総督郭宗皋・大同巡撫陳燿は敵が大同に入ったことで、刑部侍郎彭黯・左都御史屠僑・大理卿沈良才は丁汝夔の獄を緩やかに議したことで、戎政侍郎蒋応奎・左通政唐国相は子弟が功を冒したことで、いずれも捕らえて杖打ちにした。朱方・陳燿は杖の下に斃れ、彭黯・屠僑・沈良才らは杖が終わると、すぐに職務に就かせた。公卿の辱めは、これ以前にはなかった。また正旦の朝賀の際、六科給事中張思静らに怒り、皆に朝服のまま杖刑を加え、天下これに驚愕しない者はなかった。四十余年の間に、朝士を杖殺すること、前代の数倍に及んだ。万暦五年、張居正の奪情を争い、呉中行ら五人に杖刑を加えた。その後、盧洪春・孟養浩・王徳完らは皆杖刑を受け、多いものは百杖に至った。後に帝は益々言事者を厭い、上疏は多く中留めとし、廷杖は次第に用いられなくなった。天啓の時、太監王体乾が赦を奉じて大審を行い、戚畹李承恩を重く笞打ち、魏忠賢を喜ばせた。ここにおいて万燝・呉裕中が杖の下に斃れ、台省が力を尽くして争ったが叶わなかった。閣臣葉向高が言う、「数十年行われていなかった弊政が、十日ほどの間に三度も現れた。万万にも再び行ってはならない」と。忠賢はそこで廷杖を罷めたが、殺したい者をすべて鎮撫司に下し、士大夫はますます生き残る者がいなくなった。

原文洪武六年,工部尚書王肅坐法當笞,太祖曰:「六卿貴重,不宜以細故辱。」命以俸贖罪。後羣臣罣誤,許以俸贖,始此。然永嘉侯朱亮祖父子皆鞭死,工部尚書薛祥斃杖下,故上書者以大臣當誅不宜加辱為言。廷杖之刑,亦自太祖始矣。宣德三年,怒御史嚴皚、方鼎、何傑等沈湎酒色,久不朝參,命枷以徇。自此言官有荷校者。至正統中,王振擅權,尚書劉中敷,侍郎吳璽、陳瑺,祭酒李時勉率受此辱,而殿陛行杖習為故事矣。成化十五年,汪直誣陷侍郎馬文升、都御史牟俸等,詔責給事御史李俊、王浚輩五十六人容隱,廷杖人二十。正德十四年,以諫止南巡,廷杖舒芬、黃鞏等百四十六人,死者十一人。嘉靖三年,羣臣爭大禮,廷仗豐熙等百三十四人,死者十六人。中年刑法益峻,雖大臣不免笞辱。宣大總督翟鵬、薊州巡撫朱方以撤防早,宣大總督郭宗皋、大同巡撫陳燿以寇入大同,刑部侍郎彭黯、左都御史屠僑、大理卿沈良才以議丁汝夔獄緩,戎政侍郎蔣應奎、左通政唐國相以子弟冒功,皆逮杖之。方、燿斃於杖下,而黯、僑、良纔等杖畢,趣治事。公卿之辱,前此未有。又因正旦朝賀,怒六科給事中張思靜等,皆朝服予杖,天下莫不駭然。四十餘年間,杖殺朝士,倍蓰前代。萬曆五年,以爭張居正奪情,杖吳中行等五人。其後盧洪春、孟養浩、王德完輩咸被杖,多者至一百。後帝益厭言者,疏多留中,廷杖寢不用。天啟時,太監王體乾奉赦大審,重笞戚畹李承恩,以悅魏忠賢。於是萬燝、吳裕中斃於杖下,臺省力爭不得。閣臣葉向高言:「數十年不行之敝政,三見於旬日,萬萬不可再行。」忠賢乃罷廷仗,而以所欲殺者悉下鎮撫司,士大夫益無噍類矣。

南京での行杖は、成化十八年に始まる。南京御史李珊らが凶年に救済を請うた。帝はその上疏中の誤字あざなを摘み、錦衣衛に命じて南京午門前に赴かせ、人二十杖を打たせ、守備太監に監視させた。正徳年間に至り、南京御史李熙が貪吏を弾劾して劉瑾の怒りに触れ、矯旨により三十杖を打たれた。当時南京の禁衛は久しく刑を行っておらず、兵卒を選んで数日間練習させ、ようやく杖打ちし、ほとんど死に至らしめた。

原文南京行杖,始於成化十八年。南御史李珊等以歲祲請振。帝摘其疏中訛字,令錦衣衛詣南京午門前,人杖二十,守備太監監之。至正德間,南御史李熙劾貪吏觸怒劉瑾,矯旨杖三十。時南京禁衛久不行刑,選卒習數日,乃杖之,幾斃。

東廠の設置は、成祖に始まる。錦衣衛の獄は、太祖がかつて用いたが、後に禁止され、その再使用もまた永楽の時からである。廠と衛は互いに頼り合うので、言う者は併せて廠衛と称する。初め、成祖が北平より起ち、宮中の事を刺探するに、多く建文帝の左右を耳目とした。故に即位後は専ら宦官を頼りとし、東安門の北に東廠を立て、寵愛する者にその提督を命じ、謀逆・妖言・大奸悪などを緝訪させ、錦衣衛と権勢を均しくした。遷都後のことであろう。しかし衛指揮の紀綱・門達らが大いに寵愛され、代わる代わる権勢を振るい、廠の権力は及ばなかった。憲宗の時に至り、尚銘が東廠を領し、また別に西廠を設けて事を刺探させ、汪直にこれを督させた。率いる緹騎は東廠の倍であった。京師から天下に至るまで、縦横に偵察し、王府といえども免れなかった。汪直は一旦廃されたが再び用いられ、前後合わせて六年、冤死者が相次ぎ、その勢いは衛をはるかに上回った。ちょうど汪直がたびたび辺境に出て監軍したので、大学士万安は言う、「太宗が北京を建て、錦衣官校に緝訪を命じたが、なお外官が情に徇ることを恐れ、故に東廠を設け、内臣に提督させ、行うこと五六十年、事に定規あり。かつて妖狐が夜に出て、人心驚惶し、聖慮を煩わせたため、西廠を添設し、特に汪直に督緝を命じ、不虞を戒め、もって一時の宜しきに権り、人心を慰安した。以前の紛擾については、臣は繰り返し述べない。今、汪直は大同に鎮し、京城では衆口一辞に、西廠を革去することが便宜であるとする。伏して望む、聖恩により特旨をもって革罷し、官校を悉く原衛に戻されんことを。宗社の幸いこれに過ぎるはなし」と。帝はこれに従った。尚銘は専ら権勢を振るったが、間もなくまた罷免された。弘治元年、員外郎張倫が東廠廃止を請うた。返答はなかった。しかし孝宗は仁厚であり、廠衛は横暴を敢えてせず、廠を司る者羅祥・楊鵬は、職務を奉ずるのみであった。

原文東廠之設,始於成祖。錦衣衛之獄,太祖嘗用之,後已禁止,其復用亦自永樂時。廠與衛相倚,故言者並稱廠衛。初,成祖起北平,刺探宮中事,多以建文帝左右為耳目。故即位後專倚宦官,立東廠於東安門北,令嬖暱者提督之,緝訪謀逆妖言大奸惡等,與錦衣衛均權勢,蓋遷都後事也。然衛指揮紀綱、門達等大幸,更迭用事,廠權不能如。至憲宗時,尚銘領東廠,又別設西廠刺事,以汪直督之,所領緹騎倍東廠。自京師及天下,旁午偵事,雖王府不免。直中廢復用,先後凡六年,冤死者相屬,勢遠出衛上。會直數出邊監軍,大學士萬安乃言:「太宗建北京,命錦衣官校緝訪,猶恐外官徇情,故設東廠,令內臣提督,行五六十年,事有定規。往者妖狐夜出,人心驚惶,感勞聖慮,添設西廠,特命直督緝,用戒不虞,所以權一時之宜,慰安人心也。向所紛擾,臣不贅言。今直鎮大同,京城眾口一辭,皆以革去西廠為便。伏望聖恩特旨革罷,官校悉回原衛,宗社幸甚。」帝從之。尚銘專用事,未幾亦黜。弘治元年,員外郎張倫請廢東廠。不報。然孝宗仁厚,廠衛無敢橫,司廠者羅祥、楊鵬,奉職而已。

正徳元年、東廠太監王嶽を殺し、丘聚を代わりに命じ、また西廠を設けて穀大用を命じた。いずれも劉瑾の党である。両廠は争って権勢を振るい、邏卒を四方に遣わして事を刺探させた。南康の呉登顕らが龍舟競渡の戯れをしたことで、身を死に家を籍没された。遠州僻壤において、鮮やかな衣を着て怒った馬に乗り京師の言葉を話す者を見ると、互いに避け隠れた。役人は風聞すると、密かに賄賂を行った。ここにおいて無頼の徒が機に乗じて奸を為し、天下は皆重ね足を立てて立つばかりであった。そして衛使石文義もまた劉瑾の私的な者であり、廠衛の勢力は合流した。劉瑾はまた惜薪司の外薪廠を改めて辦事廠とし、栄府の旧倉の地を内辦事廠とし、自らこれを領した。京師ではこれを内行廠と呼び、東西廠といえども皆その伺察の中にあり、より酷烈を加えた。かつて例を創り、罪の軽重に関わらず皆決杖し、永遠に辺境に戍らせ、あるいは枷項して発遣した。枷の重さは百五十斤に至り、数日も経たずして死んだ。尚宝卿顧璿・副使姚祥・工部郎張瑋・御史王時中らも免れず、死に瀕してから謫戍された。御史柴文顕・汪澄は微罪で凌遲に至った。官吏軍民で法によらずに死んだ者は数千に及んだ。劉瑾が誅殺されると、西廠・内行廠はともに革罷されたが、東廠のみは従前の如くであった。張鋭がこれを領し、衛使強尼とともに緝事を以て恣に羅織した。廠衛の称はここに著しくなった。

原文正德元年,殺東廠太監王嶽,命丘聚代之,又設西廠以命穀大用,皆劉瑾黨也。兩廠爭用事,遣邏卒刺事四方。南康吳登顯等戲競渡龍舟,身死家籍。遠州僻壤,見鮮衣怒馬作京師語者,轉相避匿。有司聞風,密行賄賂。於是無賴子乘機為奸,天下皆重足立。而衛使石文義亦瑾私人,廠衛之勢合矣。瑾又改惜薪司外薪廠為辦事廠,榮府舊倉地為內辦事廠,自領之。京師謂之內行廠,雖東西廠皆在伺察中,加酷烈焉。且創例,罪無輕重皆決杖,永遠戍邊,或枷項發遣。枷重至百五十斤,不數日輒死。尚寶卿顧璿、副使姚祥、工部郎張瑋、御史王時中輩並不免,瀕死而後謫戍。御史柴文顯、汪澄以微罪至淩遲。官吏軍民非法死者數千。瑾誅,西廠、內行廠俱革,獨東廠如故。張銳領之,與衛使強尼並以輯事恣羅織。廠衛之稱由此著也。

嘉靖二年、東廠の芮景賢が千戸陶淳を任用し、多く誣告して陥れた。給事中劉最が執奏したが、広徳州判に左遷された。御史黄徳用が駅伝で赴かせた。時に顔如環という者が同行し、黄袱で荷物を包んでいた。景賢は即座に奏上し、逮捕して獄に下し、劉最らを流罪に処した。給事中劉済が言うには、「劉最の罪は流刑に至らない。かつ、緝捕は宦官の門で行われ、鍛錬は武夫の手に委ねられ、裁決は内降の旨による。どうして天下に示せようか」と。返答はなかった。この時、天下の鎮守太監をことごとく罷免したが、大臣は旧例に拘り、東廠は祖宗の設けたもので廃すべからずと言い、太祖の制度でないことを知らなかった。しかし世宗は宦官を厳しく統御し、恣にさせず、廠の権勢は衛使陸炳に遠く及ばなかった。

原文嘉靖二年,東廠芮景賢任千戶陶淳,多所誣陷。給事中劉最執奏,謫判廣德州。御史黃德用使乘傳往。會有顏如環者同行,以黃袱裹裝。景賢即奏,逮下獄,最等編戍有差。給事中劉濟言:「最罪不至戍。且緝執於宦寺之門,鍛煉於武夫之手,裁決於內降之旨,何以示天下?」不報。是時盡罷天下鎮守太監,而大臣狃故事,謂東廠祖宗所設,不可廢,不知非太祖制也。然世宗馭中官嚴,不敢恣,廠權不及衛使陸炳遠矣。

万暦初年、馮保が司礼監を兼ねて廠事を管掌し、廠を東上北門の北に建て、内廠と称し、初めに建てたものを外廠とした。馮保は張居正とともに王大臣の獄を起こし、高拱を族滅しようとしたが、衛使朱希孝が力を持ちこたえ、高拱は無罪を得た。衛はなお廠に大いに附かず。中年、鉱税使がたびたび出て害をなしたが、東廠の張誠・孫暹・陳矩はいずれも恬静であった。陳矩は妖書の獄を治め、株連の濫れがなく、当時はしばしば称賛された。時に帝もまた厳しく糾弾する意がなく、刑罰は用いることが稀で、廠衛の獄中には青草が生えるほどであった。天啓の時、魏忠賢が秉筆として廠事を領し、衛使田爾耕・鎮撫許顕純の徒を用い、専ら酷虐をもって中外を鉗制し、廠衛の毒害は極まった。

原文萬曆初,馮保以司禮兼廠事,建廠東上北門之北,曰內廠,而以初建者為外廠。保與張居正興王大臣獄,欲族高拱,衛使朱希孝力持之,拱得無罪,衛猶不大附廠也。中年,礦稅使數出為害,而東廠張誠、孫暹、陳矩皆恬靜。矩治妖書獄,無株濫,時頗稱之。會帝亦無意刻核,刑罰用稀,廠衛獄中至生青草。及天啟時,魏忠賢以秉筆領廠事,用衛使田爾耕、鎮撫許顯純之徒,專以酷虐鉗中外,而廠衛之毒極矣。

中官で司礼監印を掌る者は、その属下から宗主と称され、東廠を督る者は督主と称される。東廠の属官に専任の官はなく、掌刑千戸一人、理刑百戸一人、これも貼刑と称し、いずれも衛の官である。その隷役はすべて衛から供給され、最も軽薄狡猾で巧みな者を選んで充てる。役長を檔頭といい、帽は先が尖り、衣は青素の褶を着け、小絛を帯び、白皮靴を履き、専ら偵察を主とする。その下に番子数人がいて幹事となる。京師の亡命の徒は、財を騙し仇を挟み、幹事者を巣窟と見なす。陰事一つを得れば、これによって密かに檔頭に報告する。檔頭はその事の大小を見て、先に金を与える。事を起数といい、金を買起数という。事を得た後、番子を率いて犯人の家に至り、左右に座して打樁という。番子は即ち突入して捕らえ尋問する。証拠や文書がなく、賄賂が約束通りであれば、まっすぐ去る。少しでも意に沿わなければ、拷問を加え、乾醡酒といい、また搬罾児ともいい、痛み苦しみは官刑の十倍である。かつ、有力者を引き込むよう意を授ける。有力者が多額の金を与えれば、即ち事なきを得る。あるいは惜しんで与えず、与えても不足すれば、直ちに上聞に達し、鎮撫司の獄に下され、たちまち死ぬ。毎月の初め、廠役数百人が庭中で籤を引き、官府を分けて窺う。中府諸処での会審大獄や北鎮撫司での重犯考訊を見るのを聴記という。他の官府や各城門での訪緝を坐記という。某官が某の事を行い、某城門で某の奸を得たことを、胥吏が坐記者に疏白して廠に上るのを打事件という。東華門に至っては、深夜であっても、隙間から投げ入れて、即ち人を屏して至尊に達する。このため事の大小を問わず、天子はすべて聞くことができた。家人の米塩の猥雑な事も、宮中で笑い話として伝わり、上下惴惴として打事件を畏れない者はなかった。衛の法もまた廠と同じである。しかし疏を具する必要があり、ようやく上聞に達するので、その勢いは廠に遠く及ばない。四人が密室で夜飲みし、一人が酒に酣になって魏忠賢を罵った。他の三人は声を出さず。罵り終わらぬうちに、番人が四人を捕らえて忠賢の所に至り、即ち罵った者を磔にし、三人に金を労った。三人は魂を失って動けなかった。

原文凡中官掌司禮監印者,其屬稱之曰宗主,而督東廠者曰督主。東廠之屬無專官,掌刑千戶一,理刑百戶一,亦謂之貼刑,皆衛官。其隸役悉取給於衛,最輕黠獧巧者乃撥充之。役長曰檔頭,帽上銳,衣青素𧜽褶,系小絛,白皮靴,專主伺察。其下番子數人為幹事。京師亡命,誆財挾仇,視幹事者為窟穴。得一陰事,由之以密白於檔頭,檔頭視其事大小,先予之金。事曰起數,金曰買起數。既得事,帥番子至所犯家,左右坐曰打樁。番子即突入執訊之。無有佐證符牒,賄如數,徑去。少不如意,扌旁治之,名曰乾醡酒,亦曰搬罾兒,痛楚十倍官刑。且授意使牽有力者,有力者予多金,即無事。或靳不予,予不足,立聞上,下鎮撫司獄,立死矣。每月旦,廠役數百人,掣簽庭中,分瞰官府。其視中府諸處會審大獄、北鎮撫司考訊重犯者曰聽記。他官府及各城門訪緝曰坐記。某官行某事,某城門得某奸,胥吏疏白坐記者上之廠曰打事件。至東華門,雖夤夜,投隙中以入,即屏人達至尊。以故事無大小,天子皆得聞之。家人米鹽猥事,宮中或傳為笑謔,上下惴惴無不畏打事件者。衛之法亦如廠。然須具疏,乃得上聞,以此其勢不及廠遠甚。有四人夜飲密室,一人酒酣,謾駡魏忠賢,其三人噤不敢出聲。罵未訖,番人攝四人至忠賢所,即磔罵者,而勞三人金。三人者魄喪不敢動。

荘烈帝が即位し、忠賢は誅殺されたが、王体乾・王永祚・鄭之恵・李承芳・曹化淳・王徳化・王之心・王化民・齊本正らが相次いで廠事を領し、告密の風は未だ止まなかった。之心・化淳は奸を緝捕した功績により、弟や甥を錦衣衛百戸に任じた。また徳化や東廠理刑の呉道正らは閣臣薛国観の陰事を偵察し、国観はこれによって死んだ。当時、衛使は廠の威に慴服すること久しく、おおむね俯首して用いられた。崇禎十五年、御史楊仁願が言うには、「高皇帝が官を設けた時、いわゆる緝事衙門というものはなかった。臣下が不法であれば、言官が直ちに糾弾し、陰に告発することはなかった。後に輦轂を粛清するため、東廠を建てた。臣が南城に待罪し、閲する詞訟は、多くが偽の番子を理由に冤罪を訴える。偽って東廠と称するだけで害はこのようである。まして真のものはどうか。これは積重の勢いによるものである。いわゆる積重の勢いとは、功令で事件を比較し、番役が常に価を懸けて事件を買い、買い受ける者が人を誘いて奸盗を行わせて売り、番役はその由来を問わず、誘った者は利を分けて去る。憤りを挟んで首告し、重法をもって誣いる。挟む者は志を遂げないことはない。伏して願わくは、東廠の事件を寛大にし、その後で東廠の比較を緩め、東廠の比較が緩んで、その後で番役の事件を買う者と売る者をともに止めさせ、積重の勢いをやや軽くすることを」。後にまた緹騎を派遣すべからざることを切言した。帝は東廠に諭し、緝捕するのは謀逆乱倫のみとし、その作奸犯科は有司が存するので、緝捕すべからずと言い、併せて錦衣校尉の横暴な索求を戒めた。しかし帝は廠衛をますます倚り頼み、国が滅ぶに至ってやんだ。

原文莊烈帝即位,忠賢伏誅,而王體乾、王永祚、鄭之惠、李承芳、曹化淳、王德化、王之心、王化民、齊本正等相繼領廠事,告密之風未嘗息也。之心、化淳敘緝奸功,廕弟侄錦衣衛百戶,而德化及東廠理刑吳道正等偵閣臣薛國觀陰事,國觀由此死。時衛使慴廠威已久,大抵俯首為所用。崇禎十五年,御史楊仁願言:「高皇帝設官,無所謂緝事衙門者。臣下不法,言官直糾之,無陰訐也。後以肅清輦轂,乃建東廠。臣待罪南城,所閱詞訟,多以假番故訴冤。夫假稱東廠,害猶如此,況其真乎?此由積重之勢然也。所謂積重之勢者,功令比較事件,番役每懸價以買事件,受買者至誘人為奸盜而賣之,番役不問其從來,誘者分利去矣。挾忿首告,誣以重法,挾者志無不逞矣。伏願寬東廠事件,而後東廠之比較可緩,東廠之比較緩,而後番役之買事件與賣事件者俱可息,積重之勢庶幾可稍輕。」後復切言緹騎不當遣。帝為諭東廠,言所緝止謀逆亂倫,其作奸犯科,自有司存,不宜緝,並戒錦衣校尉之橫索者。然帝倚廠衛益甚,至國亡乃已。

錦衣衛の獄は、世に詔獄と称されるものである。古くは獄訟は司寇が掌るのみであった。漢武帝が初めて詔獄二十六所を置き、歴代で沿革は一定しなかった。五代唐の明宗が侍衛親軍馬歩軍都指揮使を設け、これは天子自ら将となる名である。漢に至って侍衛司獄があり、凡そ大事はすべてここで決した。明の錦衣衛獄はこれに近く、幽閉惨酷、害はこれより甚だしいものはない。

原文錦衣衛獄者,世所稱詔獄也。古者獄訟掌於司寇而已。漢武帝始置詔獄二十六所,歷代因革不常。五代唐明宗設侍衛親軍馬步軍都指揮使,乃天子自將之名。至漢有侍衛司獄,凡大事皆決焉。明錦衣衛獄近之,幽系慘酷,害無甚於此者。

太祖の時、天下の重罪で京師に逮至された者は、獄中に収監し、数度の大獄を経て、多くはここで断罪し、誅殺した者は多かった。後に衛の刑具をすべて焼き、囚人を刑部に送って審理させた。二十六年、その禁令を申明し、詔して内外の獄は錦衣衛に上せず、大小ともに法司を経るべきと定めた。成祖は紀綱を寵愛し、錦衣親兵を治めさせ、また詔獄を管掌させた。紀綱はその党の荘敬・袁江・王謙・李春らを用い、縁故を借りて数百千の奸悪を行った。久しくして紀綱を族滅したが、錦衣が詔獄を管掌することは以前のままで、洪武の詔は用いられなくなった。英宗の初め、衛事を治める者劉勉・徐恭はいずれも謹飭であった。しかし王振が指揮馬順を用いて天下に毒を流し、李時勉に枷をはめ、劉球を殺したのは、いずれも馬順が行ったことである。景帝の初め、官校が緝事する弊害について言上する者があり、帝はその長を厳しく責め、緝捕した者は法司に送り、誣罔があれば重罪に処すよう命じた。英宗が復辟し、李賢を召し、左右を退けて時政の得失を問うた。李賢は官校が人を捕らえる害を極論した。帝はその言を是とし、密かに察するにすべて事実であったので、その長を召して戒めた。後に弋陽王の敗倫事を緝捕したが虚偽であったので、再び戒めを申し伝えた。しかしこの時、指揮門達・鎮撫逯杲が寵を恃み、李賢もまた羅織されたことが数度あった。門達は旗校を四方に派遣し、逯杲はまた程限を立てて督促し、多く捕らえることを主とした。千戸黄麟が広西に至り、御史呉禎を捕らえて来て、獄具二百余副を要求し、天下の朝覲官で罪に陥った者は甚だ多かった。逯杲が死ぬと、門達が鎮撫司を兼ねて治めた。指揮使袁彬を陥れ、捕らえて尋問し、五毒を次々に加えたが、辛うじて免れた。朝官の楊璡・李蕃・韓祺・李観・包瑛・張祚・程万鐘らはいずれも鎖で捕らえられ、道路上で冤号する者は記しきれなかった。およそ紀綱が誅殺されてから、その徒党はやや収まった。正統の時に再び張り、天順の末には禍害はますます熾烈となり、朝野相顧みて自ら保つことができなかった。李賢は極言したが、救うことができなかった。

原文太祖時,天下重罪逮至京者,收系獄中,數更大獄,多使斷治,所誅殺為多。後悉焚衛刑具,以囚送刑部審理。二十六年,申明其禁,詔內外獄毋得上錦衣衛,大小咸經法司。成祖幸紀綱,令治錦衣親兵,復典詔獄。綱遂用其黨莊敬、袁江、王謙、李春等,緣借作奸數百千端。久之,族綱,而錦衣典詔獄如故,廢洪武詔不用矣。英宗初,理衛事者劉勉、徐恭皆謹飭。而王振用指揮馬順流毒天下,枷李時勉,殺劉球,皆順為之。景帝初,有言官校緝事之弊者,帝切責其長,令所緝送法司,有誣罔者重罪。英宗復闢,召李賢,屏左右,問時政得失。賢因極論官校提人之害。帝然其言,陰察皆實,乃召其長,戒之。已緝弋陽王敗倫事虛,復申戒之。而是時指揮門達、鎮撫逯杲怙寵,賢亦為羅織者數矣。達遣旗校四出,杲又立程督並,以獲多為主。千戶黃麟之廣西,執御史吳禎至,索獄具二百餘副,天下朝覲官陷罪者甚眾。杲死,達兼治鎮撫司。構指揮使袁彬,系訊之,五毒更下,僅免。朝官楊璡、李蕃、韓祺、李觀、包瑛、張祚、程萬鐘輩皆鋃鐺就逮,冤號道路者不可勝記。蓋自紀綱誅,其徒稍戢。至正統時復張,天順之末禍益熾,朝野相顧不自保。李賢雖極言之,不能救也。

鎮撫司は獄訟を掌理し、初めはただ一司を立て、外衛と同等であった。洪武十五年、北司を添設し、軍匠などの職掌を南鎮撫司に属させた。ここにおいて北司は詔獄を専ら掌理した。しかし大獄は訊問を経ると、ただちに法司に送って罪を擬定し、未だ獄詞を具えることはなかった。成化元年、初めて覆奏に参語を用いることを命じ、法司はますます掣肘された。十四年、北司の印信を増鋳し、一切の刑獄は本衛に関白せず、すなわち衛所が下達するものであっても、ただちに上請して可否を問い、衛使は与聞することを得なかった。故に鎮撫は職は卑しいがその権は日に重くなった。初め、衛獄は衛治に附設されていたが、門達が問刑を掌るに至り、また城西に獄舎を設け、拘禁して狼籍を極めた。達が敗れると、御史呂洪の言を用いてこれを破壊した。成化十年、都御史李賓が言うには、「錦衣鎮撫司は累ねて妖書図本を獲るが、皆荒唐無稽の言である。小民は無知であり、たちまち幻惑される。乞う、その旧名目を備えて録し、天下に榜示して、畏避することを知らしめ、刑辟に陥ることを免れしめよ。」と。報可された。しかし緝事者の誣告はなお止まなかった。十三年、甯晋の人王鳳らを捕らえ、瞽者と妖書を受け、偽職を署したと誣告し、併せてその郷官の知県薛方、通判曹鼎が通謀したと誣告し、卒を発してその家を囲み、拷掠して誣伏させた。方、鼎の家人が数え声をあげて冤罪を訴えたので、法司に下して検証させると実を得、妄報妖言の罪に坐して斬に当たった。帝は無辜を害さざるべしと戒めただけで、罪に問うことはできなかった。この年、錦衣衛副千戸の呉綬に鎮撫司において同様に問刑することを命じた。綬は性狡険で、汪直に附いて進んだ。後に公議が容れざるを知り、文臣で罪なくして獄に下る者には、再び箠楚を加えず、直の意に忤い、黜去された。この時、ただ衛使の朱驥のみが法を平らかに持ち、妖人の獄を治めて冤罪なき者あり。詔獄を所司に下すとき、ただ小杖を用い、嘗て中使を命中して詰責させたが、改めなかった。世はこれをもって彼を称えた。弘治十三年、法司に詔して、「凡そ廠衛の送る囚犯は、公に従って審究し、枉曲あれば即ち辨理し、成案に拘泥するなかれ。」と。正徳の時、衛使の石文義は張採と表裏して威福をなした。時に劉瑾の左右翼と称された。しかし文義は常に瑾に侍して事を治めず、事を治める者は高得林であった。瑾が誅せられると、文義は伏誅し、得林もまた罷免された。その後、強尼が管事となり、再び大いに恣にし、反逆の罪で誅せられた。

原文鎮撫司職理獄訟,初止立一司,與外衛等。洪武十五年添設北司,而以軍匠諸職掌屬之南鎮撫司,於是北司專理詔獄。然大獄經訊,即送法司擬罪,未嘗具獄詞。成化元年,始令覆奏用參語,法司益掣肘。十四年,增鑄北司印信,一切刑獄毋關白本衛,即衛所行下者,亦逕自上請可否,衛使毋得與聞。故鎮撫職卑而其權日重。初,衛獄附衛治,至門達掌問刑,又於城西設獄舍,拘繫狼籍。達敗,用御史呂洪言,毀之。成化十年,都御史李賓言:「錦衣鎮撫司累獲妖書圖本,皆誕妄不經之言。小民無知,輒被幻惑。乞備錄其舊名目,榜示天下,使知畏避,免陷刑辟。」報可。緝事者誣告猶不止。十三年,捕甯晉人王鳳等,誣與瞽者受妖書,署偽職,並誣其鄉官知縣薛方、通判曹鼎與通謀,發卒圍其家,扌旁掠誣伏。方、鼎家人數聲冤,下法司驗得實,坐妄報妖言,當斬。帝戒以不得戕害無辜而已,不能罪也。是年,令錦衣衛副千戶吳綬於鎮撫司同問刑。綬性狡險,附汪直以進。後知公議不容,凡文臣非罪下獄者,不復加箠楚,忤直意,黜去。是時惟衛使朱驥持法平,治妖人獄無冤者。詔獄下所司,獨用小杖,嘗命中使詰責,不為改。世以是稱之。弘治十三年,詔法司:「凡廠衛所送囚犯,從公審究,有枉即與辨理,勿拘成案。」正德時,衛使石文義與張採表裏作威福,時稱為劉瑾左右翼。然文義常侍瑾,不治事,治事者高得林。瑾誅,文義伏誅,得林亦罷。其後強尼管事,復大恣,以叛誅。

世宗が立つと、錦衣の伝奉官十六人を革し、旗校十五人を汰り、また緝事の官校に諭して、ただ不軌・妖言・人命・強盗の重事を察するのみとし、他の詞訟および在外州県の事には与るべからずとした。未だ幾ばくもなく、事多くは鎮撫に下し、鎮撫は内侍と結び、多く巧みに中った。時に太監崔文の奸利事が発覚し、刑部に下し、まもなく中旨をもって鎮撫司に送った。尚書林俊が言うには、「祖宗の朝は刑獄を法司に付し、事の大小を問わず、皆平らかに鞫くことを聴いた。劉瑾・強尼が用事してより、専ら鎮撫司を任用し、文致して冤獄をなし、法紀大いに壊れた。更化善治は今日にあり、復た小事をもって法を撓すべからず。」と。聴かなかった。俊はまた言うには、「この途一たび開かば、恐らく後には重情あり、即ち内降に夤縁して免れんと図り、実に乱階を長ずるなり。」と。御史曹懷もまた諫めて言うには、「朝廷が一鎮撫を専任すれば、法司は空曹と為し、刑官は冗員と為るなり。」と。帝はともに聴かなかった。六年、侍郎張璁らが言うには、「祖宗は三法司を設けて官邪を糾し、獄訟を平らかにし、東廠・錦衣衛を設けて盗賊を緝め、奸宄を詰む。今より貪官冤獄はなお法司に責め、その情に徇い法を曲げる有るは、乃ち廠衛の覚察を聴くべし。盗賊奸宄はなお廠衛に責め、また必ず法司に送って罪を擬せしむべし。」と。詔して議の如く行わせた。しかし官校の提人は恣なること旧の如し。給事中蔡経らがその害を論じ、罷めて遣わさざることを願った。尚書胡世甯はその議に従うことを請うた。詹事霍韜もまた言うには、「刑獄を三法司に付するは足る。錦衣衛が復た横にこれを撓す。昔、漢の光武は名節を尚び、宋の太祖は刑法を衣冠に加えず、その後、忠義の徒は争って死に節を効した。そもそも士大夫に罪あって刑曹に下るは、辱めなり。重罪あれば、これを廃し、これを誅するは可なり。乃ち官校をして衆を執らしめ、冠裳を脱がせ、桎梏に就かしむ。朝には清班に列し、暮には犴獄に幽せられ、剛心壮気、銷折殆く尽きん。及び覆案して罪に非ざれば、即ち冠帯して朝班に立ち、武夫捍卒これに指目して曰く、『某は、吾れこれを辱めし、某は、吾れこれを系執せし。』と。小人は忌憚する所なく、君子は遂に易行を致す。これ豪傑の山林の思を興す所以にして、変故に節を仗する士の罕なるなり。願わくは今より東廠は朝儀に与らず、錦衣衛は刑獄を典とせず。士大夫の罪謫廃誅には、笞杖鎖梏を加えず、以て廉恥を養い、人心を振い、士節を励ますべし。」と。帝は韜が出位妄言するとして、納れなかった。祖制に、凡そ朝会には、廠衛は属及び校尉五百名を率い、奉天門下に列侍して儀を糾す。凡そ失儀する者は、即ち衣冠を褫い、鎮撫司獄に執し下し、杖して乃ち免れる。故に韜はこれに言及したのである。万暦の時に至り、失儀者は初めて獄に付せず、罰俸のみとなった。世宗は張鶴齢・延齢を恨み、奸人劉東山らは乃ち二人が毒魘咒詛したと誣告した。帝は大いに怒り、詔獄に下し、東山は因って素より快からざる者を株引した。衛使王佐はその情を探り得て、誣罔の法に論じて反坐させた。佐は乃ち東山らを枷して闕門外に置き、旬日に及ばず悉く死に、人は佐を牟斌に比した。牟斌とは、弘治中の指揮である。李夢陽が延齢兄弟の不法事を論じて獄に下ったとき、斌は軽比を傅え、死なずに済んだという。世宗の中ごろ、衛使陸炳は忮みを為し、厳嵩と比して、夏言を傾けた。しかし帝は数え大獄を興したが、炳は多くこれを保全したので、士大夫は炳を疾まなかった。

原文世宗立,革錦衣傳奉官十六,汰旗校十五,復諭緝事官校,惟察不軌、妖言、人命、強盜重事,他詞訟及在外州縣事,毋得與。未幾,事多下鎮撫,鎮撫結內侍,多巧中。會太監崔文奸利事發,下刑部,尋以中旨送鎮撫司。尚書林俊言:「祖宗朝以刑獄付法司,事無大小,皆聽平鞫。自劉瑾、強尼用事,專任鎮撫司,文致冤獄,法紀大壞。更化善治在今日,不宜復以小事撓法。」不聽。俊復言:「此途一開,恐後有重情,即夤緣內降以圖免,實長亂階。」御史曹懷亦諫曰:「朝廷專任一鎮撫,法司可以空曹,刑官為冗員矣。」帝俱不聽。六年,侍郎張璁等言:「祖宗設三法司以糾官邪,平獄訟,設東廠、錦衣衛以緝盜賊,詰奸宄。自今貪官冤獄仍責法司,其有徇情曲法,乃聽廠衛覺察。盜賊奸宄,仍責廠衛,亦必送法司擬罪。」詔如議行。然官校提人恣如故。給事中蔡經等論其害,願罷勿遣。尚書胡世甯請從其議。詹事霍韜亦言:「刑獄付三法司足矣,錦衣衛復橫撓之。昔漢光武尚名節,宋太祖刑法不加衣冠,其後忠義之徒爭死效節。夫士大夫有罪下刑曹,辱矣。有重罪,廢之、誅之可也,乃使官校眾執之,脫冠裳,就桎梏。朝列清班,暮幽犴獄,剛心壯氣,銷折殆盡。及覆案非罪,即冠帶立朝班,武夫捍卒指目之曰:『某,吾辱之,某,吾系執之。』小人無所忌憚,君子遂致易行。此豪傑所以興山林之思,而變故罕仗節之士也。願自今東廠勿與朝儀,錦衣衛勿典刑獄。士大夫罪謫廢誅,勿加笞杖鎖梏,以養廉恥,振人心,勵士節。」帝以韜出位妄言,不納。祖制,凡朝會,廠衛率屬及校尉五百名,列侍奉天門下糾儀。凡失儀者,即褫衣冠,執下鎮撫司獄,杖之乃免,故韜言及之。迨萬歷時,失儀者始不付獄,罰俸而已。世宗銜張鶴齡、延齡,奸人劉東山等乃誣二人毒魘咒詛。帝大怒,下詔獄,東山因株引素所不快者。衛使王佐探得其情,論以誣罔法反坐。佐乃枷東山等闕門外,不及旬悉死,人以佐比牟斌。牟斌者,弘治中指揮也。李夢陽論延齡兄弟不法事,下獄,斌傅輕比,得不死云。世宗中年,衛使陸炳為忮,與嚴嵩比,而傾夏言。然帝數興大獄,而炳多保全之,故士大夫不疾炳。

万暦の中ごろ、建言および鉱税榼に忤う者は、輒ち詔獄に下された。刑科給事中楊応文が言うには、「監司守令および斉民で逮えられた者は百五十余人、すでに打問したといえども、未だ法司に送らず、獄禁森厳、水火入らず、疫癘の気、囹圄に充満す。」と。衛使駱思恭もまた言うには、「熱審は歳挙するも、俱に小満の前なり。今二年行わず。鎮撫司の監犯かつ二百、多く瓦を抛って声をあげて冤を訴う。」と。鎮撫司の陸逵もまた言うには、「獄囚怨恨し、刀を持ち指を断つ者有り。」と。俱に報いられなかった。しかしこの時は、告訐の風衰え、大臣が録される者は寡なかった。その末年、稍々逮繫の諸臣を寛め、錦衣の獄は漸く清まった。

原文萬曆中,建言及忤礦稅榼者,輒下詔獄。刑科給事中楊應文言:「監司守令及齊民被逮者百五十餘人,雖已打問,未送法司,獄禁森嚴,水火不入,疫癘之氣,充斥囹圄。」衛使駱思恭亦言:「熱審歲舉,俱在小滿前,今二年不行。鎮撫司監犯且二百,多拋瓦聲冤。」鎮撫司陸逵亦言:「獄囚怨恨,有持刀斷指者。」俱不報。然是時,告訐風衰,大臣被錄者寡。其末年,稍寬逮繫諸臣,而錦衣獄漸清矣。

田爾耕・許顕純は熹宗の時に魏忠賢の義子となり、その党の孫雲鶴・楊寰・崔応元がこれを佐け、楊漣・左光鬥らを拷問し、贓に坐して比較し、限を立てて厳しくこれを督した。両日を一限とし、金を輸して程に中らざる者は、全刑を受けた。全刑とは、械、鐐、棍、拶、夾棍をいう。五毒備わり具わり、呼BK声沸然たり、血肉潰爛し、宛転して死を求めても得られなかった。顕純は叱吒自若たり、しかし必ず忠賢の旨を伺い、忠賢の遣わす聴記者未だ至らざれば、敢えて訊かず。一夕、諸囚に命じて舎を分かち宿らしめた。ここにおいて獄卒曰く、「今夕に壁挺すべき者有り。」と。壁挺とは、獄中の死をいう。明日、漣死に、光鬥ら次第に皆鎖頭を拉がれて死んだ。一人死するごとに、数日停め、葦席に屍を裹んで牢戸を出ず、虫蛆体を腐らせた。獄中の事は秘められ、その家人あるいは死日を知らず。荘烈帝が逆党を擒え戮すと、冤死した家の子弟は獄門を望み稽顙哀号し、文を以て祭った。帝はこれを聞きて惻然とした。

原文田爾耕、許顯純在熹宗時為魏忠賢義子,其黨孫雲鶴、楊寰、崔應元佐之,拷楊漣、左光鬥輩,坐贓比較,立限嚴督之。兩日為一限,輸金不中程者,受全刑。全刑者曰械,曰鐐,曰棍,曰拶,曰夾棍。五毒備具,呼BK聲沸然,血肉潰爛,宛轉求死不得。顯純叱吒自若,然必伺忠賢旨,忠賢所遣聽記者未至,不敢訊也。一夕,令諸囚分舍宿。於是獄卒曰:「今夕有當壁挺者。」壁挺,獄中言死也。明日,漣死,光鬥等次第皆鎖頭拉死。每一人死,停數日,葦席裹屍出牢戶,蟲蛆腐體。獄中事祕,其家人或不知死日。莊烈帝擒戮逆黨,冤死家子弟望獄門稽顙哀號,為文以祭。帝聞之惻然。

劉瑾が枷を創設して以来、錦衣衛の獄では常にこれを用いた。神宗の時、御史朱応轂がその惨状を詳しく述べ、これを除くよう請うたが、聞き入れられなかった。魏忠賢に至っては、さらに大枷を設け、また断脊・墜指・刺心の刑を設けた。荘烈帝(崇禎帝)が左右の者に問うて、「立枷は何のためか」と。王体乾が答えて、「罪の大きい奸悪な者を処するためです」と。帝は憂い顔で、「たとえそうであっても、やはり哀れむべきことだ」と言った。忠賢は首をすくめた。東廠の禍は、忠賢に至って極まった。しかし廠と衛が結びつかないことはなく、獄事の軽重は、廠が内廷で情報を得ることができた。そして外廷に抵抗する者がいれば、衛は東西両司房でその行跡を探り締め、北司で拷問し、罪状を捏造して周到に仕組んだ後、初めて法司に送った。すなわち東廠が捕らえた者でも、必ず鎮撫司に移して再び審問し、その後で刑部がその罪を擬定することができた。故に廠の勢力が強ければ、衛はこれに付き従い、廠の勢力がやや弱まれば、衛は逆にその上に立って威圧した。陸炳が司礼監の李彬や東廠の馬廣の陰事を探って、いずれも死に至らしめたのは、陸炳が内閣の厳嵩の意を得ていたからである。その後、宦官がますます重んじられ、内閣の勢力は日々軽んじられた。閣臣は逆に廠に比べてその下に立ち、衛使は競って廠の門に趨り、甘んじてその下僕となった。

原文自劉瑾創立枷,錦衣獄常用之。神宗時,御史朱應轂具言其慘,請除之。不聽。至忠賢,益為大枷,又設斷脊、墜指、刺心之刑。莊烈帝問左右:「立枷何為?」王體乾對曰:「以罪鉅奸大憝耳。」帝愀然曰:「雖如此,終可憫。」忠賢為頸縮。東廠之禍,至忠賢而極。然廠衛未有不相結者,獄情輕重,廠能得於內。而外廷有扞格者,衛則東西兩司房訪緝之,北司拷問之,鍛煉周內,始送法司。即東廠所獲,亦必移鎮撫再鞫,而後刑部得擬其罪。故廠勢強,則衛附之,廠勢稍弱,則衛反氣淩其上。陸炳緝司禮李彬、東廠馬廣陰事,皆至死,以炳得內閣嵩意。及後中官愈重,閣勢日輕。閣臣反比廠為之下,而衛使無不競趨廠門,甘為役隸矣。

錦衣衛の昇進・授与には、勲衛・任子・科目・功升の四つの途があった。嘉靖以前は、文臣の子弟は多く就くことを潔しとしなかった。万暦初め、劉守有が名臣の子として衛を掌り、その後は皆喜んでこれに就くようになった。士大夫は彼らと交際し、獄事が差し迫った時には、大いにその力を頼りにした。守有の子の劉承禧および呉孟明がその著名な者である。荘烈帝は臣下を疑い、王徳化が東廠を掌って、残酷苛烈をもってこれを補佐し、孟明が衛印を掌ったが、時に寛大な処置もあったものの、廠の意向を窺って敢えて違えることはなかった。そして鎮撫の梁清宏・喬可用は結託して悪事を働いた。あらゆる縉紳の家門には、必ず数人が往来してその行跡を探り、故に常に遅く起きて早く戸を閉ざし、敢えて立ち話をすることもなかった。旗校が門前を通れば、大盗に襲われたかのようで、官吏はその嚢橐(私腹)と化し、利益を均分した。京城に奸細が潜入し、雇い人や行商人が密かに流賊に派遣されても、一件も摘発せず、高門の富豪は身を縮めて安住の地がなかった。その徒党の狡猾な者は恣に請託を行い、少しでもその意に逆らえば、たちまち誣告をでっち上げ、書簡の一片の文字を摘まみ出しては、十数人をも株連した。姜採・熊開元が獄に下された時、帝は衛を掌る駱養性に密かに彼らを殺すよう命じた。養性は帝の言葉を漏らし、かつ言った。「二臣は死に当たるべき者ですが、付すべき所司に付し、その罪を書き記して、天下に明らかに知らしめるべきです。もし密かに臣に殺させれば、天下後世、陛下をどのような君主と言うでしょうか」。折しも大臣の多くが姜採らを弁護したため、遂に長期の拘禁に留まった。これは養性の称すべき点であるが、他の事では暴虐をほしいままにしたことも多かった。

原文錦衣衛升授勳衛、任子、科目、功升,凡四途。嘉靖以前,文臣子弟多不屑就。萬曆初,劉守有以名臣子掌衛,其後皆樂居之。士大夫與往還,獄急時,頗賴其力。守有子承禧及吳孟明其著者也。莊烈帝疑羣下,王德化掌東廠,以慘刻輔之,孟明掌衛印,時有縱舍,然觀望廠意不敢違。而鎮撫樑清宏、喬可用朋比為惡。凡縉紳之門,必有數人往來蹤跡,故常晏起早闔,毋敢偶語。旗校過門,如被大盜,官為囊橐,均分其利。京城中奸細潛入,傭夫販子陰為流賊所遣,無一舉發,而高門富豪跼蹐無甯居。其徒黠者恣行請託,稍拂其意,飛誣立構,摘竿牘片字,株連至十數人。姜採、熊開元下獄,帝諭掌衛駱養性潛殺之。養性泄上語,且言:「二臣當死,宜付所司,書其罪,使天下明知。若陰使臣殺之,天下後世謂陛下何如主?」會大臣多為採等言,遂得長系。此養性之可稱者,然他事肆虐亦多矣。

錦衣衛には旧例として功績に対する賞があり、不軌を探り締めた者だけがこれに当たった。その後は濫用がはなはだしく規律がなく、報告された事柄は百に一つも事実ではなかった。官吏・民衆は苦しめられたが、廠衛の上奏請願はすぐに聞き入れられた。隆慶初め、給事中欧陽一敬がその弊害を極言し、言うには、「緝事の員役は、その勢いを容易に振るうことができ、またそれぞれの類で捕らえた功績の回数を計算して、昇進・授与の基準とする。すると、振るうことのできる勢いを頼みに、必ず得られるはずの功績を求め、人を枉げて己を利すること、どこに至らないことがあろうか。盗賊が自首して免れた後、故意に多くの平民を引き入れて数を満たす者あり、家財をかき集めて盗賊の贓物とし、市井の豪族を脅して証人とする者あり、密かに図書をでっち上げ、偽の文書を懐に挟み、妖言や偽印の法律を用いて誣告陷害する者あり、あるいは姓名が似ているという理由で、曖昧なまま捕らえることもある。父が子の孝行を訴えれば、忤逆の罪に坐せられる。だから探られた家は、諺で『剗(根こそぎにされる)』と呼ばれ、その毒害たるや推して知るべしである。乞う、今より定制を設け、機密の重い情実で、憲典に関わる事柄については、廠衛は従前通り上奏請願することを認める。その情状・罪状が明らかでなく、未だ審理を経ていないものは、必ず法司が詳細に審議して獄案が成立した後、初めて功績に記録する。なお兵部・刑部の二部に命じて勘問を明らかにさせ、旨を請うて昇進・賞賜を行うこと。あるいは緝拿を経ても獄案が成立しなかった者は、虚偽の功績を擬定して比べることを許さず、また他の訴訟を一概に関与させて、有司の職務を侵すことのないようにすること。もし獄案が未成立のうちに、官校や鎮撫司が拷打して重傷を負わせ、あるいは死に至らしめた場合は、法司に参劾・処罰を許すこと。法司が容隠して同調するならば、科臣の併せての参劾に委ねること。このようにすれば、功績は必ず実態に照らして確認され、探りは必ず事柄に適い、刑罰に冤濫がなくなるであろう」。当時は採用されなかった。

原文錦衣舊例有功賞,惟緝不軌者當之。其後冒濫無紀,所報百無一實。吏民重困,而廠衛題請輒從。隆慶初,給事中歐陽一敬極言其弊,言:「緝事員役,其勢易逞,而又各類計所獲功次,以為升授。則憑可逞之勢,邀必獲之功,枉人利己,何所不至。有盜經出首倖免,故令多引平民以充數者;有括家囊為盜贓,挾市豪以為證者;有潛構圖書,懷挾偽批,用妖言假印之律相誣陷者;或姓名相類,朦朧見收;父訴子孝,坐以忤逆。所以被訪之家,諺稱為剗,毒害可知矣。乞自今定制,機密重情,事幹憲典者,廠衛如故題請。其情罪不明,未經讞審,必待法司詳擬成獄之後,方與紀功。仍敕兵、刑二部勘問明白,請旨升賞。或經緝拿未成獄者,不得虛冒比擬,及他詞訟不得概涉,以侵有司之事。如獄未成,而官校及鎮撫司拷打傷重,或至死者,許法司參治。法司容隱扶同,則聽科臣並參。如此則功必覆實,訪必當事,而刑無冤濫。」時不能用也。

宦官が法司と共に囚徒を録囚(審録)することは、正統六年に始まり、何文淵・王文に行在の疑獄を審理させ、内官の興安と共に行うよう勅命した。周忱・郭瑾を南京に派遣した時も、勅命は同様であった。当時はまだ五年ごとの大審の制度は定まっていなかったが、南北の宦官が三法司の刑獄に関与できるようになった。景泰六年、太監王誠に命じて三法司と共に在京の刑獄を審録させたが、南京は含まれなかった。これは災害に因む創始的な措置であった。成化八年、司礼太監の王高・少監の宋文毅に両京で会審を行わせ、また各省への恤刑(囚徒を憐れみ審査する)の派遣もこの年に定まった。十七年辛卯、太監の懐恩に命じて法司と共に囚徒を録囚させた。その後、審録は必ず丙辛の歳に行うこととなった。弘治九年は宦官を派遣しなかった。十三年、給事中丘俊の上言により、再び会審を行うよう命じた。大審録の際は、勅書を捧げて大理寺に黄蓋を張り、三尺の壇を設け、中に(宦官が)座り、三法司は左右に座り、御史・郎中以下は文書を捧げて立ち、唯諾して走り回り謹んで仕えるのみであった。三法司は既成の案文を見て、軽重を出入りさせる場合も、全て宦官の意向に従い、敢えて逆らわなかった。成化の時、会審で弟が兄の喧嘩を助け、人を殴打して殺した事件があり、太監の黄賜は末減(減刑)を望んだ。尚書の陸瑜らが認めなかったが、賜は言った。「同じ家で闘う者でも、まだ髪を振り乱し冠の紐を結び直す暇もなく救いに行くというのに、ましてやその兄であろうか」。瑜らは敢えて反論できず、結局は法を曲げた。万暦三十四年の大審では、御史の曹学程が建言のために長く拘禁され、群臣が赦免を請うたが、全て聞き入れられなかった。刑部侍郎の沈応文が尚書の事務を代行し、院寺の長官と共に、書簡を太監の陳矩に送り、学程の罪を寛大にするよう請うた。その後会審が行われ、獄案が整い、署名して共に上奏した。矩はさらに密かに啓上し、学程の母が年老いていることを憐れむべきだと述べた。帝の意が解け、彼を釈放した。この事は甚だ美談であるが、宦官の権力の重さがこのようなものであった。錦衣衛使もまた法司と共に午門外で囚徒を審問し、および秋後に承天門外で会審に参与したが、大審には参与しなかった。毎年囚徒を処刑した後、諸囚の罪状を衛の外壁に図示し、人々に見せて反省させた。内臣でかつて審録を命じられた者は、死ぬと墓室の壁に、南面して座り、傍らに法司の堂上官や、御史・刑部郎が囚徒を引き連れて鞠躬して命令を聴く様子を描き、後世に栄誉として示した。

原文內官同法司錄囚,始於正統六年,命何文淵、王文審行在疑獄,敕同內官興安。周忱、郭瑾往南京,敕亦如之。時雖未定五年大審之制,而南北內官得與三法司刑獄矣。景泰六年,命太監王誠會三法司審錄在京刑獄,不及南京者,因災創舉也。成化八年,命司禮太監王高、少監宋文毅兩京會審,而各省恤刑之差,亦以是歲而定。十七年辛卯,命太監懷恩同法司錄囚。其後審錄必以丙辛之歲。弘治九年不遣內官。十三年,以給事中丘俊言,復命會審。凡大審錄,齎敕張黃蓋於大理寺,為三尺壇,中坐,三法司左右坐,御史、郎中以下捧牘立,唯諾趨走惟謹。三法司視成案,有所出入輕重,俱視中官意,不敢忤也。成化時,會審有弟助兄鬥,因毆殺人者,太監黃賜欲從末減。尚書陸瑜等持不可,賜曰:「同室鬥者,尚被髮纓冠救之,況其兄乎?」瑜等不敢難,卒為屈法。萬曆三十四年大審,御史曹學程以建言久系,羣臣請宥,皆不聽。刑部侍郎沈應文署尚書事,合院寺之長,以書抵太監陳矩,請寬學程罪。然後會審,獄具,署名同奏。矩復密啟,言學程母老可念。帝意解,釋之。其事甚美,而監權之重如此。錦衣衛使亦得與法司午門外鞫囚,及秋後承天門外會審,而大審不與也。每歲決囚後,圖諸囚罪狀於衛之外垣,令人觀省。內臣曾奉命審錄者,死則於墓寢畫壁,南面坐,旁列法司堂上官,及御史、刑部郎引囚鞠躬聽命狀,示後世為榮觀焉。

成化二年、内官に命じて強盗の宋全を監斬させた。嘉靖年間、内臣が法を犯しても、詔を下して逮捕審問を免じ、ただ司礼監に下して処罰させた。刑部尚書の林俊が言うには、「宮中と官府は一体であり、内臣の犯した罪は、法司に下して、明らかにその罪を正すべきで、祖宗の法を廃すべきではない」。聞き入れられなかった。按ずるに、太祖の制度では、内官は文字を識ることを許されず、政事に預からず、掃除の役を備えるのみであった。末年には錦衣衛の刑具を焼き捨て、これを用いないことを示した。しかし成祖はこれに背き、遂に子孫に禍患を残した。君子はこれを惜しむ。

原文成化二年,命內官臨斬強盜宋全。嘉靖中,內臣犯法,詔免逮問,唯下司禮監治。刑部尚書林俊言:「宮府一體,內臣所犯,宜下法司,明正其罪,不當廢祖宗法。」不聽。按太祖之制,內官不得識字、預政,備掃除之役而已。末年焚錦衣刑具,蓋示永不復用。而成祖違之,卒貽子孫之患,君子惜焉。