明史

志第六十九 刑法一

志第六十九 刑法一

原文志第六十九 刑法一

漢代以来、刑法の沿革は一様でない。隋は五刑の条項を改め、三奏の令を設けた。唐は律令を撰し、一に礼を基準として、出入の根拠とした。宋はこれを採用したが、重視したのは勅であった。律に載せないものは、勅に従って裁断した。ゆえに時に軽く時に重く、一定の帰趨がなかった。元の制度は、一時的に行われた例を取り上げて条格としたに過ぎない。明初、丞相李善長らが言うには、「歴代の律は、皆漢の『九章』を根本とし、唐に至って初めてその大成を集めた。今の制度は唐の旧制を遵奉すべきである」。太祖はその言に従った。

原文自漢以來,刑法沿革不一。隋更五刑之條,設三奏之令。唐撰律令,一準乎禮,以為出入。宋採用之,而所重者敕。律所不載者,則聽之於敕。故時輕時重,無一是之歸。元制,取所行一時之例為條格而已。明初,丞相李善長等言:「歷代之律,皆以漢《九章》為宗,至唐始集其成。今制宜遵唐舊。」太祖從其言。

初め、太祖は元の弛緩した後の弊を懲らしめ、刑には重典を用いたが、これは特に一時の決断によるもので、恒例とすべきものではなかった。後にたびたび詔を下して改正し、洪武三十年に至って、初めて画一の制度を明示した。斟酌損益するところは、極めて細かく詳悉であり、子孫にこれを守らせた。群臣に少しでも変更を議論する者は、直ちに祖制を変乱する罪に処せられた。しかし後に弊害が生じたのは、人が律を知らず、妄りに律は大綱を挙げるに過ぎず、情偽の変を尽くすに足りないと考え、ここに律に基づいて例を起こし、例によって例を生じ、例がますます紛雑になり、弊害がますます窮まりないものとなったからである。初め詔して内外の風憲官に、講読律令の一条をもって、有司を考校させた。明晰でない者には、差等を設けて罰した。これによって人は律の趣旨を知るようになった。因循日久し、具文と見なされるようになった。ここから奸吏が法を曲げ、任意に軽重を加えた。例えば律に「上裁を取る」「臨時に処治する」とあるものは、罪が八議に在るため擅自に勾問できず、また一切の疑獄で罪名が定め難く、及び律に正文がない場合に設けられたもので、朝廷が任情に生殺を行えるという意味ではない。英宗・憲宗以後、欽恤の意は微となり、偵伺の風は盛んとなった。巨悪大憝の案件は山のように積もり、詔旨が中から下され、それに従って問わない。あるいは本来死罪の理がないのに、一片の紙をもって詔獄に付され、禍害が特に甚だしかった。ゆえに明代の刑法の大略を綜べ、廠衛をもってこれを終える。廠の宦官の姓名は、伝に備えて載せていないが、ここに列挙し、考証の資とさせる。

原文始,太祖懲元縱弛之後,刑用重典,然特取決一時,非以為則。後屢詔釐正,至三十年,始申畫一之制,所以斟酌損益之者,至纖至悉,令子孫守之。羣臣有稍議更改,即坐以變亂祖制之罪。而後乃滋弊者,由於人不知律,妄意律舉大綱,不足以盡情偽之變,於是因律起例,因例生例,例愈紛而弊愈無窮。初詔內外風憲官,以講讀律令一條,考校有司。其不能曉晰者,罰有差。庶幾人知律意。因循日久,視為具文。由此奸吏骫法,任意輕重。至如律有取自上裁、臨時處治者,因罪在八議不得擅自勾問、與一切疑獄罪名難定、及律無正文者設,非謂朝廷可任情生殺之也。英、憲以後,欽恤之意微,偵伺之風熾。巨惡大憝,案如山積,而旨從中下,從之不問。或本無死理,而片紙付詔獄,為禍尤烈。故綜明代刑法大略,而以廠衛終之。廠豎姓名,傳不備載,列之於此,使有所考焉。

明の太祖は武昌を平定すると、直ちに律令を議した。呉元年冬十月、左丞相李善長を律令総裁官とし、参知政事楊憲・傅瓛、御史中丞劉基、翰林学士陶安ら二十人を議律官と命じ、諭して言った。「法は簡当を貴び、人をして容易に理解させるべきである。もし条緒が繁多で、あるいは一事に両端があり、軽くも重くもできれば、吏がこれに因縁して奸を行うことになり、法の本意ではない。網が密であれば水に大魚なく、法が密であれば国に全き民なし。卿らは心を尽くして参究し、日ごとに刑名条目を具して上奏せよ。我が親しく斟酌議するから」。毎に西楼に御し、諸臣を召して座を賜い、従容として律義を講論した。十二月、書が成り、凡そ令一百四十五条、律二百八十五条となった。また小民が周知できないことを恐れ、大理卿周楨らに命じて定めた律令を取り、礼楽・制度・銭糧・選法の外、凡そ民間に行われるべき事柄を類聚して編と成し、その義を訓釈し、郡県に頒布して、名づけて『律令直解』とした。太祖はその書を覧じて喜び言った。「我が民は過ちを少なくすることができるであろう」。

原文明太祖平武昌,即議律令。吳元年冬十月,命左丞相李善長為律令總裁官,參知政事楊憲、傅瓛,御史中丞劉基,翰林學士陶安等二十人為議律官,諭之曰:「法貴簡當,使人易曉。若條緒繁多,或一事兩端,可輕可重,吏得因緣為奸,非法意也。夫網密則水無大魚,法密則國無全民。卿等悉心參究,日具刑名條目以上,吾親酌議焉。」每御西樓,召諸臣賜坐,從容講論律義。十二月,書成,凡為令一百四十五條,律二百八十五條。又恐小民不能周知,命大理卿周楨等取所定律令,自禮樂、制度、錢糧、選法之外,凡民間所行事宜,類聚成編,訓釋其義,頒之郡縣,名曰《律令直解》。太祖覽其書而喜曰:「吾民可以寡過矣。」

洪武元年、また儒臣四人を命じ、刑官とともに『唐律』を講じ、日に二十条を進講させた。五年、宦官禁令及び親属相容隠律を定めた。六年夏、『律令憲綱』を刊行し、諸司に頒布した。その冬、詔して刑部尚書劉惟謙に『大明律』を詳定させた。毎に一篇を奏上するごとに、両廡に掲示し、親しく裁酌を加えた。成ると、翰林学士宋濂が表を為して進め、言った。「臣は洪武六年冬十一月に詔を受け、明年二月に書を成しました。篇目は一に唐を基準とします。衛禁・職制・戸婚・廄庫・擅興・賊盗・闘訟・詐偽・雑律・捕亡・断獄・名例と称します。旧律二百八十八条を採用し、続律百二十八条、旧令を改めて律としたもの三十六条、事に因って律を制したもの三十一条、『唐律』を掇拾して遺漏を補ったもの百二十三条、合わせて六百六条、三十巻に分けました。或いは損じ、或いは益し、或いはその旧に仍り、務めて軽重の宜しきに合わせました」。九年、太祖は律条に未だ当らざるものがあるのを覧て、丞相胡惟庸・御史大夫汪広洋らに詳議を命じ、十三条を釐正した。十六年、尚書開済に詐偽律条を定めさせた。二十二年、刑部が言うには、「近年条例の増損が一様でなく、獄を断ずるに失当を来たします。編類して頒行し、中外をして遵守すべきところを知らしめたい」。ここに翰林院に命じて刑部官とともに、近年増加したものを取り、類を以て附入させた。『名例律』を改めて篇首に冠した。

原文洪武元年,又命儒臣四人,同刑官講《唐律》,日進二十條。五年,定宦官禁令及親屬相容隱律,六年夏,刊《律令憲綱》,頒之諸司。其冬,詔刑部尚書劉惟謙詳定《大明律》。每奏一篇,命揭兩廡,親加裁酌。及成,翰林學士宋濂為表以進,曰:「臣以洪武六年冬十一月受詔,明年二月書成。篇目一準於唐:曰衛禁,曰職制,曰戶婚,曰廄庫,曰擅興,曰賊盜,曰鬥訟,曰詐偽,曰雜律,曰捕亡,曰斷獄,曰名例。採用舊律二百八十八條,續律百二十八條,舊令改律三十六條,因事制律三十一條,掇《唐律》以補遺百二十三條,合六百有六條,分為三十卷。或損或益,或仍其舊,務合輕重之宜。」九年,太祖覽律條猶有未當者,命丞相胡惟庸、御史大夫汪廣洋等詳議,釐正十有三條。十六年,命尚書開濟定詐偽律條。二十二年,刑部言:「比年條例增損不一,以致斷獄失當。請編類頒行,俾中外知所遵守。」遂命翰林院同刑部官,取比年所增者,以類附入。改《名例律》冠於篇首。

巻は凡そ三十、条は四百六十である。『名例』一巻、四十七条。『吏律』二巻、職制十五条、公式十八条。『戸律』七巻、戸役十五条、田宅十一条、婚姻十八条、倉庫二十四条、課程十九条、銭債三条、市廛五条。『礼律』二巻、祭祀六条、儀制二十条。『兵律』五巻、宮衛十九条、軍政二十条、関津七条、廄牧十一条、郵駅十八条。『刑律』十一巻、盗賊二十八条、人命二十条、闘毆二十二条、罵詈八条、訴訟十二条、受贓十一条、詐偽十二条、犯奸十条、雑犯十一条、捕亡八条、断獄二十九条。『工律』二巻、営造九条、河防四条。

原文為卷凡三十,為條四百有六十。《名例》一卷,四十七條。《吏律》二卷,曰職制十五條,曰公式十八條。《戶律》七卷,曰戶役十五條,曰田宅十一條,曰婚姻十八條,曰倉庫二十四條,曰課程十九條,曰錢債三條,曰市廛五條。《禮律》二卷,曰祭祀六條,曰儀制二十條。《兵律》五卷,曰宮衛十九條,曰軍政二十條,曰關津七條,曰廄牧十一條,曰郵驛十八條。《刑律》十一卷,曰盜賊二十八條,曰人命二十條,曰鬥毆二十二條,曰罵詈八條,曰訴訟十二條,曰受贓十一條,曰詐偽十二條,曰犯奸十條,曰雜犯十一條,曰捕亡八條,曰斷獄二十九條。《工律》二卷,曰營造九條,曰河防四條。

五刑の図は凡そ二つある。第一の図は五つ。笞・杖・徒・流・死という。笞刑五等、一十より五十まで、毎に十を以て一等とし加減する。杖刑五等、六十より一百まで、毎に十を以て一等とし加減する。徒刑五等、徒一年は杖六十、一年半は杖七十、二年は杖八十、二年半は杖九十、三年は杖一百、毎に杖十及び徒半年を以て一等とし加減する。流刑三等、二千里・二千五百里・三千里、皆杖一百、毎に五百里を以て一等とし加減する。死刑二等、絞・斬。五刑の外に、徒には総徒四年(例に遇えば一年を減ずる)があり、準徒五年(斬・絞・雑犯が減等されたもの)がある。流には安置があり、遷徙(郷里を去ること一千里、杖一百、準徒二年)がある。口外為民があり、その重いものを充軍という。充軍は、明初にはただ辺方の屯種に限った。後に定制として、極辺・煙瘴・辺遠・辺衛・沿海・附近に分けた。軍には終身のものと永遠のものがある。二死(絞・斬)の外に、凌遅があり、大逆不道などの諸罪を処するのに用いた。充軍・凌遅は五刑の正ではないので、図には列挙しない。凡そ徒流の再犯者は、流者は原配の処所において、工・楽戸留住の法に依る。三流は併せて杖一百を決し、拘役三年とする。拘役とは、流人は初めはただ安置したが、今は居作を加えたもので、即ち唐・宋の所謂加役流である。徒者は原役の所において、犯した杖数・年限に依って決し終え、応役は四年を過ぎてはならない。

原文為五刑之圖凡二。首圖五:曰笞,曰杖,曰徒,曰流,曰死。笞刑五,自一十至五十,每十為一等加減。杖刑五,自六十至一百,每十為一等加減。徒刑五,徒一年杖六十,一年半杖七十,二年杖八十,二年半杖九十,三年杖一百,每杖十及徒半年為一等加減。流刑三,二千里,二千五百里,三千里,皆杖一百,每五百里為一等加減。死刑二,絞、斬。五刑之外,徒有總徒四年,遇例減一年者,有準徒五年,斬、絞、雜犯減等者。流有安置,有遷徙,去鄉一千里,杖一百,準徒二年。有口外為民,其重者曰充軍。充軍者,明初唯邊方屯種。後定制,分極邊、煙瘴、邊遠、邊衛、沿海、附近。軍有終身,有永遠。二死之外,有淩遲,以處大逆不道諸罪者。充軍、淩遲,非五刑之正,故圖不列。凡徒流再犯者,流者於原配處所,依工、樂戶留住法。三流並決杖一百,拘役三年。拘役者,流人初止安置,今加以居作,即唐、宋所謂加役流也。徒者於原役之所,依所犯杖數年限決訖,應役無得過四年。

次に図七を掲ぐ:笞、杖、訊杖、枷、杻、索、鐐と曰う。笞は、大頭の径二分七厘、小頭は一分を減ず。杖は、大頭の径三分二厘、小頭は笞の数と同じく減ず。笞と杖は共に荊条を以て作り、皆臀に受く。訊杖は、大頭の径四分五厘、小頭は笞・杖の数と同じく減じ、荊条を以て作り、臀と腿に受く。笞・杖・訊は、皆長さ三尺五寸、官降の式を用いて較勘し、筋・膠等の諸物を以て装釘せざるべし。枷は、十五斤より二十五斤に至るまでとし、其上に長短軽重の数を刻す。長さ五尺五寸、頭の広さ一尺五寸、杻の長さ一尺六寸、厚さ一寸、男子の死罪の者之を用う。索は、鉄を以て作り、軽罪の者を繋ぐに用い、其の長さ一丈いちじょう。鐐は、鉄を連環とし、以て足を縶ぎ、徒罪の者は之を帯びて輸作に従い、重さ三斤。

原文次圖七:曰笞,曰杖,曰訊杖,曰枷,曰杻,曰索,曰鐐。笞,大頭徑二分七釐,小頭減一分。杖,大頭徑三分二釐,小頭減如笞之數。笞、杖皆以荊條為之,皆臀受。訊杖,大頭徑四分五釐,小頭減如笞杖之數,以荊條為之,臀腿受。笞、杖、訊,皆長三尺五寸,用官降式較勘,毋以筋膠諸物裝釘。枷,自十五斤至二十五斤止,刻其上為長短輕重之數。長五尺五寸,頭廣尺五寸,杻長尺六寸,厚一寸,男子死罪者用之。索,鐵為之,以繋輕罪者,其長一丈。鐐,鐵連環之,以縶足,徒者帶以輸作,重三斤。

また喪服の図凡そ八を為す:族親に犯有るは、服の等差を視て刑の軽重を定む。礼に因りて義を起す者は、養母・継母・慈母は皆三年の服を着す。之を毆殺するは、嫡母を毆殺すると同じ罪とす。兄弟の妻は皆小功の服を着し、互いに容隠する者は、罪は遞減を得。舅姑の服は皆斬衰三年、之を毆殺罵詈する者は、夫が毆殺罵詈するの律と同じ。姨の子・舅の子・姑の子は皆緦麻、是を表兄弟と曰い、相為に婚姻することを得ず。

原文又為喪服之圖凡八:族親有犯,視服等差定刑之輕重。其因禮以起義者,養母、繼母、慈母皆服三年。毆殺之,與毆殺嫡母同罪。兄弟妻皆服小功,互為容隱者,罪得遞減。舅姑之服皆斬衰三年,毆殺罵詈之者,與夫毆殺罵詈之律同。姨之子、舅之子、姑之子皆緦麻,是曰表兄弟,不得相為婚姻。

大悪は十有り:謀反と曰い、謀大逆と曰い、謀叛と曰い、悪逆と曰い、不道と曰い、大不敬と曰い、不孝と曰い、不睦と曰い、不義と曰い、内乱と曰う。常赦に雖も原さず。貪墨の贓は六有り:監守盗と曰い、常人盗と曰い、窃盗と曰い、枉法と曰い、不枉法と曰い、坐贓と曰う。議に当る者は八有り:議親と曰い、議故と曰い、議功と曰い、議賢と曰い、議能と曰い、議勤と曰い、議貴と曰い、議賓と曰う。

原文大惡有十:曰謀反,曰謀大逆,曰謀叛,曰惡逆,曰不道,曰大不敬,曰不孝,曰不睦,曰不義,曰內亂。雖常赦不原。貪墨之贓有六:曰監守盜,曰常人盜,曰竊盜,曰枉法,曰不枉法,曰坐贓。當議者有八:曰議親,曰議故,曰議功,曰議賢,曰議能,曰議勤,曰議貴,曰議賓。

太祖、太孫に諭して曰く、「此の書は首に二刑図を列ね、次に八礼図を列ぬるは、礼を重んずるなり。顧みるに愚民は無知なり、若し本条の下に即ち寛恤の令を注せば、必ず易くして法を犯さん、故に広大なる好生の意を以て、総じて《名例律》の中に列ぬ。法を用いるに善き者は、其の意を会する可し。」太孫、更に五条以上を定めんことを請う、太祖之を覧めて善しとす。太孫又請うて曰く、「明刑は以て教を弼うる所以なり、凡そ五倫に相渉る者は、宜しく皆法を屈して情を伸ぶべし。」乃ち命じて七十三条を改定せしめ、復た之に諭して曰く、「吾は乱世を治む、刑は重からざるを得ず。汝は平世を治む、刑は自ら軽かるべし、所謂く刑罰は世に軽く世に重しと謂うなり。」二十五年、刑部言う、律条と条例と異なる者は宜しく更定すべしと。太祖、条例は特なる一時の権宜なりとし、定めたる律は改むべからずとして、従わず。

原文太祖諭太孫曰:「此書首列二刑圖,次列八禮圖者,重禮也。顧愚民無知,若於本條下即注寬恤之令,必易而犯法,故以廣大好生之意,總列《名例律》中。善用法者,會其意可也。」太孫請更定五條以上,太祖覽而善之。太孫又請曰:「明刑所以弼教,凡與五倫相涉者,宜皆屈法以伸情。」乃命改定七十三條,復諭之曰:「吾治亂世,刑不得不重。汝治平世,刑自當輕,所謂刑罰世輕世重也。」二十五年,刑部言,律條與條例不同者宜更定。太祖以條例特一時權宜,定律不可改,不從。

三十年、《大明律誥》を作り成る。午門に御し、群臣に諭して曰く、「朕は古に倣いて治め、礼を明らかにして民を導き、律を定めて頑を縄し、刊して令と為す。行うこと既に久しく、犯す者猶お衆し、故に《大誥》を作りて民に示し、吉に趨き兇を避くるの道を知らしむ。古人、刑を祥刑と謂う、豈に民をして天地の間に並び生ぜしめんと欲せざらんや!然れども法は有司に在り、民は周く知らず、故に刑官を命じて《大誥》の条目を取り、其の要略を撮り、律に附載せしむ。凡そ榜文の禁例は悉く之を除き、謀逆及び《律誥》に該載するを除く外、其の雑犯大小の罪は、悉く贖罪の例に依りて論断し、編次して書を成し、中外に刊布し、天下をして遵守すべき所を知らしむ。」

原文三十年,作《大明律》誥成。御午門,諭羣臣曰:「朕仿古為治,明禮以導民,定律以繩頑,刊著為令。行之既久,犯者猶眾,故作《大誥》以示民,使知趨吉避兇之道。古人謂刑為祥刑,豈非欲民並生於天地間哉!然法在有司,民不周知,故命刑官取《大誥》條目,撮其要略,附載於律。凡榜文禁例悉除之,除謀逆及《律誥》該載外,其雜犯大小之罪,悉依贖罪例論斷,編次成書,刊佈中外,令天下知所遵守。」

《大誥》は、太祖、民の元の習に狃り、私に徇りて公を滅し、戾の日に滋むを患え、十八年、官民の過犯を採輯し、条として《大誥》と為す。其の目十条:攬納戸と曰い、安保過付と曰い、詭寄田糧と曰い、民人経該不解物と曰い、灑派拋荒田土と曰い、倚法為奸と曰い、空引偷軍と曰い、黥刺在逃と曰い、官吏長解売囚と曰い、寰中士夫不為君用と曰う。其の罪は抄劄に至る。次年、復た《続編》、《三編》を為し、皆学宮に頒して以て士を課し、里に塾師を置きて之を教う。囚に《大誥》有る者は、罪減等す。時に当り、天下に《大誥》を講読する師生来朝する者十九万余人有り、並びに鈔を賜い遣還す。《律誥》出づるより、《大誥》に載する所の諸の峻令は未だ嘗て軽く用いず。其の後、罪人は率ね《大誥》を援りて以て減等し、亦復た其の有無を論ぜず。

原文《大誥》者,太祖患民狃元習,徇私滅公,戾日滋,十八年,採輯官民過犯,條為《大誥》。其目十條:曰攬納戶,曰安保過付,曰詭寄田糧,曰民人經該不解物,曰灑派拋荒田土,曰倚法為奸,曰空引偷軍,曰黥刺在逃,曰官吏長解賣囚,曰寰中士夫不為君用。其罪至抄劄。次年復為《續編》、《三編》,皆頒學宮以課士,裏置塾師教之。囚有《大誥》者,罪減等。於時,天下有講讀《大誥》師生來朝者十九萬餘人,並賜鈔遣還。自《律誥》出,而《大誥》所載諸峻令未嘗輕用。其後罪人率援《大誥》以減等,亦不復論其有無矣。

蓋し太祖の律令に於けるや、草創は呉元年に在り、更定は洪武六年に在り、整斉は二十二年に在り、三十年に至りて始めて天下に頒示す。日久くして慮精しく、一代の法始めて定まる。中外の獄を決するは、一に三十年の頒する所に準ず。其の洪武元年の令に、律に載せずして令に具わる者は、法司之を援りて以て証と為し、上に請いて後に行うことを得。凡そ令に違う者は罪笞す、特旨に臨時に罪を決し、律令として著さざる者は、此の例に在らず。有司輒ち比律を引き、致して罪に軽重有らしむるは、故入を以て論ず。罪に正条無くば、則ち律を引きて比附し、罪名を定め擬し、部に達して議定し奏聞す。若し輒ち断決し、致して罪に出入有らしむるは、故失を以て論ず。

原文蓋太祖之於律令也,草創於吳元年,更定於洪武六年,整齊於二十二年,至三十年始頒示天下。日久而慮精,一代法始定。中外決獄,一準三十年所頒。其洪武元年之令,有律不載而具於令者,法司得援以為證,請於上而後行焉。凡違令者罪笞,特旨臨時決罪,不著為律令者,不在此例。有司輒引比律,致罪有輕重者,以故入論。罪無正條,則引律比附,定擬罪名,達部議定奏聞。若輒斷決,致罪有出入者,以故失論。

大抵明律は唐に比し簡核なるも、寛厚は宋に如かず。其の惻隠の意に至りては、各条に散見し、一を挙げて以て推す可し。如し罪応に加うるは、必ず贓数に満ちて乃ち坐す。如し監守自盗は、贓四十貫に至りて絞す。若し止むこと三十九貫九十九文に在りては、一文を欠くも坐さず。加うるは流三千里に極まり、以て次第に増重すれども、終に死に至ることを得ず。而して流に減ずるは、死よりして生に之き、絞と斬の別無し。即ち唐律の加えて重き条に就くを称するなり。日を称するは百刻を以てし、年を称するは三百六十日を以てす。如し人命の辜限及び各文書の違限は、稍々一時刻に及ばざるも、仍ほ以て所限の年月を以て罪を科することを得ず、即ち唐例の日を称するは百刻を以てする条なり。未だ老疾ならずして犯罪し、而して事老疾に発するは、老疾を以て論ず;幼小にて犯罪し、而して事長大に発するは、幼小を以て論ず。即ち唐律の老小廃疾の条なり。死罪を犯し、常赦の原さざる所に非ざれども、祖父母・父母老いて養う者無きは、奏聞して上裁を取ることを得。徒流を犯す者は、余罪収贖を得、存留して親を養う。即ち唐律の罪十悪に非ざる条なり。功臣及び五品以上の官獄に禁ぜらるる者は、親人の入侍を許し令し、徒流の者は並びに随行を聴す、違う者は罪杖す。同居の親属罪有るは、互いに相容隠することを得。即ち唐律の同居相容隠の条なり。奴婢は主を首することを得ず。凡そ人を告ぐるは、人の祖父を告ぐるは其の子孫を指して証と為すことを得ず、弟は兄を証せず、妻は夫を証せず、奴婢は主を証せず。文職は法を奉ずるに責在り、杖を犯せば則ち叙せず。軍官徒流に至るも、世功を以て猶お擢用を得。凡そ此の類の若きは、或いは間々唐律を採り、或いは更に新制を立て、所謂く父子の親を原り、君臣の義を立てて以て之を権る者なり。

原文大抵明律視唐簡核,而寬厚不如宋。至其惻隱之意,散見於各條,可舉一以推也。如罪應加者,必贓滿數乃坐。如監守自盜,贓至四十貫絞。若止三十九貫九十九文,欠一文不坐也。加極於流三千里,以次增重,終不得至死。而減至流者,自死而之生,無絞斬之別。即唐律稱加就重條。稱日者以百刻,稱年者以三百六十日。如人命辜限及各文書違限,雖稍不及一時刻,仍不得以所限之年月科罪,即唐例稱日以百刻條。未老疾犯罪,而事發於老疾,以老疾論;幼小犯罪,而事發於長大,以幼小論。即唐律老小廢疾條。犯死罪,非常赦所不原,而祖父母、父母老無養者,得奏聞取上裁。犯徒流者,餘罪得收贖,存留養親。即唐律罪非十惡條。功臣及五品以上官禁獄者,許令親人入侍,徒流者並聽隨行,違者罪杖。同居親屬有罪,得互相容隱。即唐律同居相容隱條。奴婢不得首主。凡告人者,告人祖父不得指其子孫為證,弟不證兄,妻不證夫,奴婢不證主。文職責在奉法,犯杖則不敘。軍官至徒流,以世功猶得擢用。凡若此類,或間採唐律,或更立新制,所謂原父子之親,立君臣之義以權之者也。

建文帝が即位し、刑官に諭して曰く、「『大明律』は皇祖が親しく定められ、朕に細かに閲させられたものであるが、前代に比べて往々にして重くなっている。これは乱国を刑する典であって、百世を通じて行うべき道ではない。朕が以前に改定したものは、皇祖が既に施行を命じられた。しかし罪に矜疑の余地がある者は、なおこれに止まらない。そもそも律は大法を設け、礼は人情に順う。民を刑で斉えるよりは、礼をもってするに如かず。天下の有司に諭し、礼教を崇めることに務め、疑獄を赦し、朕が万方を嘉し与える意に称えよ」。成祖は法司に詔して囚人を訊問するに、一に『大明律』に依って擬議し、妄りに榜文条例を引いて深文と為すことなからしむ。永楽元年、誣告の法を定む。成化元年、また讞囚する者は一に正律に依り、所有の条例を尽く革すべしと令す。十五年、南直隸巡撫王恕言う、「『大明律』の後、『会定見行律』百八条あり、その起こりを知らず。例えば『兵律』の多支廩給、『刑律』の制使を罵り及び本管長官を罵る条は、皆軽重倫を失う。四方に流伝し、官守を誤らしむ。乞う、板を追って焚毀せしめよ」。命じて即時にこれを焚ぜしめ、この律に依って人罪を出入する者あらば、故をもって論ず。十八年、挟詐して財を得る罪例を定む。

原文建文帝即位,諭刑官曰:「《大明律》,皇祖所親定,命朕細閱,較前代往往加重。蓋刑亂國之典,非百世通行之道也。朕前所改定,皇祖已命施行。然罪可矜疑者,尚不止此。夫律設大法,禮順人情,齊民以刑,不若以禮。其諭天下有司,務崇禮教,赦疑獄,稱朕嘉與萬方之意。」成祖詔法司問囚,一依《大明律》擬議,毋妄引榜文條例為深文。永樂元年,定誣告法。成化元年,又令讞囚者一依正律,盡革所有條例。十五年,南直隸巡撫王恕言:「《大明律》後,有《會定見行律》百有八條,不知所起。如《兵律》多支廩給,《刑律》罵制使及罵本管長官條,皆輕重失倫。流傳四方,有誤官守。乞追板焚毀。」命即焚之,有依此律出入人罪者,以故論。十八年,定挾詐得財罪例。

弘治の中頃、定律してより既に百年を去り、法を用いる者日弛む。五年、刑部尚書彭韶等、鴻臚少卿李鐩の請いに以って、『問刑条例』を刪定す。十三年に至り、刑官復た上言す、「洪武末、『大明律』を定め、後また『大誥』を申明し、罪有れば減等し、累朝遵用す。その法外の遺奸は、列聖時に因りてこれを推広して例有り、例は律を輔くるを以ってし、律を破るを以ってせず。乃ち中外の巧法の吏或いは便己の私を借り、律浸く格用いられず」。ここに於いて尚書白昂等に下し、九卿を会して議せしめ、歴年の問刑条例の経久して行うべきもの二百九十七条を増す。帝その中の六事を摘み、再議して以って聞かしむ。九卿執奏す、乃ち果たして改めず。然れども是より以後、律例並行して網も亦た少しく密なり。王府の禁例六条、諸王故なくして城を出づれば罰有り、その法特に厳し。嘉靖七年、保定巡撫王応鵬言う、「正徳の間、新たに問刑条例四十四款を増し、情法に深く中る、皆編入すべし」。従わず。惟だ詔して印信を偽造し及び窃盗三犯する者は可矜の例を用いることを得ざらしむ。刑部尚書胡世甯また断獄新例を編するを請う、亦た律文及び弘治十三年の欽定したるものに依るべしと命ず。二十八年に至り、刑部尚書喻茂堅言う、「弘治の間例を定めてより、五十年を垂んず。乞う、臣等に勅して三法司と会同し、『問刑条例』及び嘉靖元年以後の欽定事例を申明し、永く遵守せしめよ。弘治十三年以後、嘉靖元年以前の事例は、詔を奉じて革除せられたりと雖も、顧みるに事に因りて条陳し、擬議精当にして採るべきもの有り、亦た詳かに検すべし。若し官司妄りに条例を引き、故に人罪に入るる者は、当に黜罰を議すべし」。会す茂堅官を去る、詔して尚書顧応祥等に定議せしめ、二百四十九条に増す。三十四年、また尚書何BIの言に因り、九事を増入す。万暦の時、給事中烏昇条例を続増するを請う。十三年に至り、刑部尚書舒化等乃ち嘉靖三十四年以後の詔令及び宗籓軍政条例、捕盗格、漕運議単と刑名に関わるものを輯め、律を正文とし、例を附註とし、共に三百八十二条、世宗の時の苛令を刪ること特に多し。崇禎十四年、刑部尚書劉沢深復た『問刑条例』を議定するを請う。帝は律は応に恪く遵うべく、例は上下有り、事同じくしてその例を二三にするものは、刪定して画一と為すを是とす。然れども時に方に法を急にし、百司過ちを救うに暇あらず、議未だ行わるるに及ばず。

原文弘治中,去定律時已百年,用法者日弛。五年,刑部尚書彭韶等以鴻臚少卿李鐩請,刪定《問刑條例》。至十三年,刑官復上言:「洪武末,定《大明律》,後又申明《大誥》,有罪減等,累朝遵用。其法外遺奸,列聖因時推廣之而有例,例以輔律,非以破律也。乃中外巧法吏或借便己私,律浸格不用。」於是下尚書白昂等會九卿議,增歷年問刑條例經久可行者二百九十七條。帝摘其中六事,令再議以聞。九卿執奏,乃不果改。然自是以後,律例並行而網亦少密。王府禁例六條,諸王無故出城有罰,其法尤嚴。嘉靖七年,保定巡撫王應鵬言:「正德間,新增問刑條例四十四款,深中情法,皆宜編入。」不從。惟詔偽造印信及竊盜三犯者不得用可矜例。刑部尚書胡世甯又請編斷獄新例,亦命止依律文及弘治十三年所欽定者。至二十八年,刑部尚書喻茂堅言:「自弘治間定例,垂五十年。乞敕臣等會同三法司,申明《問刑條例》及嘉靖元年後欽定事例,永為遵守。弘治十三年以後、嘉靖元年以前事例,雖奉詔革除,顧有因事條陳,擬議精當可採者,亦宜詳檢。若官司妄引條例,故入人罪者,當議黜罰。」會茂堅去官,詔尚書顧應祥等定議,增至二百四十九條。三十四年,又因尚書何BI言,增入九事。萬歷時,給事中烏昇請續增條例。至十三年,刑部尚書舒化等乃輯嘉靖三十四年以後詔令及宗籓軍政條例、捕盜條格、漕運議單與刑名相關者,律為正文,例為附註,共三百八十二條,刪世宗時苛令特多。崇禎十四年,刑部尚書劉澤深復請議定《問刑條例》。帝以律應恪遵,例有上下,事同而二三其例者,刪定畫一為是。然時方急法,百司救過不暇,議未及行。

太祖の律文を定むるや、歴代相承し、敢えて軽く改むる者無し。その一時の変通は、或いは詔令に由り、或いは廷臣の奏議に発し、治体に関わり、言施行を獲るものは、詳ならざるべからず。

原文太祖之定律文也,歷代相承,無敢輕改。其一時變通,或由詔令,或發於廷臣奏議,有關治體,言獲施行者,不可以無詳也。

洪武元年、省臣に諭して曰く、「獄を鞫むるは平恕なるべし。古は大逆不道に非ざれば、罪身に及ぶに止まる。民に犯す者有らば、連坐することを得ず」。尚書夏恕嘗て漢法を引き、律に著すを請い、反する者は三族を夷す。太祖曰く、「古は父子兄弟罪相及ばず、漢は秦の旧に仍り、法重きに過ぐ」。その奏を却して行わず。民の父誣を以って逮えられ、その子刑部に訴う。法司越訴を以って坐す。太祖曰く、「子父の枉を訴うるは、至情より出づ、罪すべからず」。子法を犯し、父賄を以って免れんことを求むる者あり。御史並びに父を論ぜんと欲す。太祖曰く、「子論死し、父これを救うは、情なり。但だその子を論じ、その父を赦せ」。十七年、左都御史詹徽民の妊婦を毆ちて死に至らしむる者を奏す。律当に絞すべし。その子代わるを乞う。大理卿鄒俊議して曰く、「子父の死に代わるは、情矜るべし。然れども死婦は二人の命に係り、犯人は二死の条に当たる。犯法の人を存するに、いずくんぞ辜なき子を全うするに若かんや」。詔して後議に従う。二十年、詹徽言う、「軍人に犯す有りて杖すべく、その人嘗て両たび罪を得て免る。宜しく前罪を並び論じ、これを誅すべし」。太祖曰く、「前罪既に宥し、復たこれを論ずれば則ち信ならず」。杖してこれを遣わす。二十四年、嘉興通判龐安私塩を鬻ぐ者を獲て京師に送り、而して塩を以って獲る者に賞す。戸部その例に違うを以ってし、塩を償って官に入るるを罰し、且つ罪状を取るを責む。安言う、「律は万世の常法、例は一時の旨意なり。今例に依って行わんと欲すれば、則ち律内の応に捕うる人に賞を与うるの言に非ず、自ら相違悖し、天下に信を失わん」。太祖その言然りとし、詔して律の如くせしむ。

原文洪武元年,諭省臣:「鞫獄當平恕,古者非大逆不道,罪止及身。民有犯者,毋得連坐。」尚書夏恕嘗引漢法,請著律,反者夷三族。太祖曰:「古者父子兄弟罪不相及,漢仍秦舊,法太重。」卻其奏不行。民父以誣逮,其子訴於刑部,法司坐以越訴。太祖曰:「子訴父枉,出於至情,不可罪。」有子犯法,父賄求免者,御史欲並論父。太祖曰:「子論死,父救之,情也,但論其子,赦其父。」十七年,左都御史詹徽奏民毆孕婦至死者,律當絞,其子乞代。大理卿鄒俊議曰:「子代父死,情可矜。然死婦係二人之命,犯人當二死之條,與其存犯法之人,孰若全無辜之子。」詔從後議。二十年,詹徽言:「軍人有犯當杖,其人嘗兩得罪而免,宜並論前罪,誅之。」太祖曰:「前罪既宥,復論之則不信矣。」杖而遣之。二十四年,嘉興通判龐安獲鬻私鹽者送京師,而以鹽賞獲者。戶部以其違例,罰償鹽入官,且責取罪狀。安言:「律者萬世之常法,例者一時之旨意。今欲依例而行,則於律內非應捕人給賞之言,自相違悖,失信於天下也。」太祖然其言,詔如律。

永楽二年、刑部言う、河間の民その母を訟う。有司反って母の罪を擬す。詔してその子及び有司を執えてこれを罪す。三年、文職官及び中外の旗校軍民人等、凡そ重条を犯す者は、律に依って科断し、軽き者は決を免じ、罪を記す。その侵損すべからざる人等の項に応ぜず及び情犯重き者あれば、臨時に奏請す。十六年、贓を犯す官吏の禁を厳にす。初め、太祖貪吏を重く懲し、詔して贓を犯す者は貸すこと無からしむ。復た刑部に勅す、「官吏贓を受くる者は、並びに賄を通ずるの人を罪し、その家を辺に徙す。令と為して著せ」。日久しく法弛む。故に復たこれを申飭す。二十九年、大理卿虞謙言う、「誑騙の律は、当に杖して流すべし。今梟首すは、詔書の意に非ず」。命じて律の如く擬断せしむ。宣徳二年、江西按察使黄翰言う、「民間の無籍の徒、好んで詞論を興し、輒ち老幼残疾の男婦をして平人を誣告せしむ。必ず更に議して虚に涉るを加罰すべし」。遂に老幼残疾の男婦人の誣告する者鈔を罰して罪を贖う例を定む。その後孝宗の時、南京に十人以上を誣告するを犯す者あり。例に発して口外に為民とす。而して年七十を逾え、律応に収贖すべき者は、更に令を著し、凡そ年七十以上、十五以下及び廃疾の者は、律に依って論断す。例応に軍に充て暿愰哨し、口外に為民とすべき者は、仍た律に依って発遣す。若し年八十以上及び篤疾にして犯す有りて応に永戍すべき者は、子孫を以って発遣し、応に軍に充て以下はこれを免ず。

原文永樂二年,刑部言河間民訟其母,有司反擬母罪。詔執其子及有司罪之。三年,定文職官及中外旗校軍民人等,凡犯重條,依律科斷,輕者免決,記罪。其有不應侵損於人等項及情犯重者,臨時奏請。十六年,嚴犯贓官吏之禁。初,太祖重懲貪吏,詔犯贓者無貸。復敕刑部:「官吏受贓者,並罪通賄之人,徙其家於邊。著為令。」日久法弛,故復申飭之。二十九年,大理卿虞謙言:「誑騙之律,當杖而流,今梟首,非詔書意。」命如律擬斷。宣德二年,江西按察使黃翰言:「民間無籍之徒,好興詞論,輒令老幼殘疾男婦誣告平人,必更議涉虛加罰乃可。」遂定老幼殘疾男婦誣告人罰鈔贖罪例。其後孝宗時,南京有犯誣告十人以上,例發口外為民。而年逾七十,律應收贖者,更著令,凡年七十以上、十五以下及廢疾者,依律論斷。例應充軍暿愰哨、口外為民者,仍依律發遣。若年八十以上及篤疾有犯應永戍者,以子孫發遣,應充軍以下者免之。

初めの制度では、官吏らが枉法贓(賄賂)を犯した者は、南北を問わず、全て北方の辺境の衛所に発遣して軍に充てた。正統五年、行在の三法司が言上した。「洪武年間に律を定めた時は、紙幣が高く物価が安かったので、枉法贓が百二十貫に至る者は、絞を免じて充軍とした。今は紙幣が安く物価が高い。もし物の価で紙幣に換算して百二十貫となる枉法贓を全て充軍に発遣すれば、軽重の均衡を失う。今後、文官の官吏らが枉法贓を受け、律に比照して絞に該当する者は、紙幣八百貫以上と見積もった場合に、全て北方の辺境の衛所に充軍とする。その贓が前の数に及ばない者は、現行の例によって処断する。」これを従った。八年、大理寺が言上した。「律には窃盗の初犯は右腕に刺字あざな、再犯は左腕に刺字、三犯は絞と載せている。今、窃盗が赦に遇って再犯した者は、皆初犯として処し、あるいは依然として右腕に刺字し、あるいは刺字しない。例として定めることを請う。」上奏文を三法司に下して議させ、右腕に刺字した者が赦に遇って再犯した者は左腕に刺字し、左腕に刺字した者が赦に遇ってまた犯した者は刺字せず、記録を立てる。赦の後に三犯した者は絞とする。」帝は言った。「窃盗で既に刺字した者が赦に遇って再犯した者は、常例によって擬断し、赦を論ぜず、なお前後の犯した罪を通じて具申せよ。」後に憲宗の時、都御史李秉が旧例を援用して奏上して廃止した。間もなく南京の盗賊王阿童が五回犯しても皆赦に遇って免じられた。帝はこれを聞き、詔して依然として赦の前後を通じて三犯を令とする。神宗の時に至り、また議して奏請し改めて発遣することとなった。十二年、知県陳敏政の上言により、民が後妻が連れてきた前夫の娘を子の嫁とし、及び連れてきた前夫の子を婿とする者は、共に同父異母の姉妹の律に依り、減等して科断することとした。成化元年、遼東巡撫滕照が言上した。「『大明律』は一代の定法であるのに、武臣を決断する時は、独り律を捨てて例を用い、武臣は益々放縦で不謹慎となる。一切律を用いることを請う。」詔してこれに従った。武臣で罷免降格された者は、口を極めて誹謗し、役人は事を恐れ、また奏上してその令を廃止した。十九年に定め、窃盗三犯の罪例とした。法司は「南京に三犯の窃盗があり、贓を計算して百貫に満ちる者は、絞斬に当たる。罪は雑犯であるが、その情は頗る重い。三犯前の罪は、即ち悪を累ねて悔い改めない者であり、常例に準じ難い。その貫に満たない犯で、徒流以下の罪の者は、三犯に至っても、情を推し量れば実に軽く、特に常例に依ってこれを治めるべきである。」議を上し、允可された。

原文初制,凡官吏人等犯枉法贓者,不分南北,俱發北方邊衛充軍。正統五年,行在三法司言:「洪武定律時,鈔貴物賤,所以枉法贓至百二十貫者,免絞充軍。今鈔賤物貴,若以物估鈔至百二十貫枉法贓俱發充軍,輕重失倫矣。今後文職官吏人等,受枉法贓比律該絞者,估鈔八百貫之上,俱發北方邊衛充軍。其受贓不及前數者,視見行例發落。」從之。八年,大理寺言:「律載竊盜初犯刺右臂,再犯刺左臂,三犯絞。今竊盜遇赦再犯者,鹹坐以初犯,或仍刺右臂,或不刺。請定為例。」章下三法司議,刺右遇赦再犯者刺左,刺左遇赦又犯者不刺,立案。赦後三犯者絞。」帝曰:「竊盜已刺,遇赦再犯者依常例擬,不論赦,仍通具前後所犯以聞。」後憲宗時,都御史李秉援舊例奏革。既而南京盜王阿童五犯皆遇赦免。帝聞之,詔仍以赦前後三犯為令。至神宗時,復議奏請改遣云。十二年,以知縣陳敏政言,民以後妻所攜前夫之女為子婦,及以所攜前夫之子為婿者,並依同父異母姊妹律,減等科斷。成化元年,遼東巡撫滕照言:「《大明律》乃一代定法,而決斷武臣,獨舍律用例,武臣益縱蕩不檢。請一切用律。」詔從之。武臣被黜降者,騰口謗訕,有司畏事,復奏革其令。十九年定,竊盜三犯罪例。法司以「南京有三犯竊盜,計贓滿百貫者犯,當絞斬。罪雖雜犯,其情頗重。」三犯前罪,即累惡不悛之人,難準常例。其不滿貫犯,徒流以下罪者,雖至三犯,原情實輕,宜特依常例治之。」議上,報允。

弘治六年、太常少卿李東陽が言上した。「五刑で最も軽いのは笞杖であるが、杖には分寸があり、数には多寡がある。今、地方の諸官庁では、笞杖の罪で往々にして死に至らしめる。仮に事が発覚しても、公務によるものとして職に戻るに過ぎない。極めて軽い刑罰で、再び生き返ることのない地に置き、多い者は数十、甚だしい者は数百、骸骨が獄に満ち、血が地を塗るは、傷心に堪えぬ。律には故意に無実の人を拷問した者は命に抵い、刑具が非法の者は除名するとあるが、偶々これに出なければ、便ち公という。一旦公の名があれば、多くても害はない。これは情が重くて律が軽いものであり、議しないわけにはいかない。請うに、軽罪を考訊して即時に致死し、累計二十人または三十人以上に及ぶ者は、本律の外、なお降格・転任を議して行い、あるいは病死が不実の者は、併せてその医師を治罪することを。」乃ち所管の官庁に下して議処させた。嘉靖十五年、時に手足で人を殴り傷を負わせ重く、辜限(保辜期限)を延ばして外で死なせた者がおり、刑部は闘殴殺人として絞を論じた。大理寺は嘉靖四年の例を執り、殴傷として笞を論ずべきと謂った。部臣が言った。「律は辜限を定め、『問刑条例』ではまた闘殴殺人で情実事実の者は、限外に延びても、なお死罪を擬し、奏請して定奪を請うとしている。臣の部が擬して上奏する毎に、宸断を奉じ、多くは充軍に発遣される。蓋し前の科条を執らなくとも、僅かに末減するのみである。殴傷で情実が限外の死に至り、即ち笞で断ずるのは、これは僥倖の兇人である。且つ兇器で人を傷つけ、平癒しても、例では充軍とする。実に人を殴り致死させ、偶々限外で死んだからといって、遂に一つの兇器傷人の罪に当たらないことがあろうか。況んや四年の例は既に廃止が報告されている。請うに中外に諭し、依然として『条例』のままが便宜である。」詔して部議の通りとした。以後、辜限外の人命を犯す者があれば、皆律例に遵って議擬し、奏請して定奪することとなった。

原文弘治六年,太常少卿李東陽言:「五刑最輕者笞杖,然杖有分寸,數有多寡。今在外諸司,笞杖之罪往往致死。縱令事覺,不過以因公還職。以極輕之刑,置之不可復生之地,多者數十,甚者數百,積骸滿獄,流血塗地,可為傷心。律故勘平人者抵命,刑具非法者除名,偶不出此,便謂之公。一以公名,雖多無害。此則情重而律輕者,不可以不議也。請凡考訊輕罪即時致死,累二十或三十人以上,本律外,仍議行降調,或病死不實者,並治其醫。」乃下所司議處。嘉靖十五年,時有以手足毆人傷重,延至辜限外死者,部擬鬥毆殺人論絞。大理寺執嘉靖四年例,謂當以毆傷論笞。部臣言:「律定辜限,而《問刑條例》又謂鬥毆殺人、情實事實者,雖延至限外,仍擬死罪,奏請定奪。臣部擬上,每奉宸斷,多發充軍,蓋雖不執前科,亦僅末減之耳。毆傷情實至限外死,即以笞斷,是乃僥倖兇人也。且如以兇器傷人,雖平復,例亦充軍,豈有實毆人致死,偶死限外,遂不當一兇器傷人之罪乎?矧四年例已報罷,請諭中外仍如《條例》便。」詔如部議。自後有犯辜限外人命者,俱遵律例議擬,奏請定奪。

隆慶三年、大理少卿王諍が言上した。「問刑官が毎度律例に背き、独り己の見解を恣にする。例えば律文に謂う『凡そ制書を奉じて施行するに違う者は杖一百』とは、本来制誥を指す。今では軍を操練する期限に違反し、守備官軍が直番に入らず、賭博場を開くことまで、一概にこの例を用いる。律文の犯姦条下に謂う『買休売休、和娶人妻』とは、本来財を用いてその妻を買い求め、また彼にその妻を休ませ売らせ、それによってこれを娶る者を言う。故に律では離異して実家に帰し、財礼は没収すべきである。夫婦不和の者は、律では離異すべきであり、婦人が姦を犯した者は、律では嫁売に従う。則ち後夫が媒を憑み財を用いて娶って妻とする者は、元より姦情ではなく、律で禁じていない。今では一概に買休・売休・和娶の律を引用する。謂う『不応得為而為す者は、笞四十、重き者は杖八十』とは、蓋し律文に該当する記載が尽きていない場合に、初めてこの律を用いるのである。もし犯したことが明らかに正条があるなら、自ずと本条に依って科断すべきである。今、犯したことは人を殴って傷を負わせ、罪は笞に相当するのに、罪を議する者は『人を殴って傷を負わせたことは、律が軽く坐さない外、合せて不応得為而為す事理の重き者、律杖八十に依る』と言う。既に人を殴る軽罪を除いて坐さないなら、則ち坐すべき罪は無い。而又『不応得為』を坐す、臣は誠にその謂う所を知らない。」刑部尚書毛愷が力爭し、廷臣は皆王諍の議に賛同した。旨を得て「買休・売休は、本来姦条に属する。今後犯す者があれば、姦情に係らないものは引用してはならない。他のことは従前通り。」

原文隆慶三年,大理少卿王諍言:「問刑官每違背律例,獨任意見。如律文所謂『凡奉制書,有所施行而違者杖一百』,本指制誥而言。今則操軍違限,守備官軍不入直,開場賭博,概用此例。律文犯奸條下,所謂『買休賣休、和娶人妻者』,本指用財買求其妻,又使之休賣其妻,而因以娶之者言也。故律應離異歸宗,財禮入官。至若夫婦不合者,律應離異;婦人犯奸者,律從嫁賣;則後夫憑媒用財娶以為妻者,原非姦情,律所不禁。今則概引買休、賣休、和娶之律矣。所謂『不應得為而為者,笞四十,重者杖八十』。蓋謂律文該載不盡者,方用此律也。若所犯明有正條,自當依本條科斷。今所犯毆人成傷,罪宜笞,而議罪者則曰『除毆人成傷,律輕不坐外,合依不應得為而為之事理,重者律杖八十』。夫既除毆人輕罪不坐,則無罪可坐矣。而又坐以『不應得為』,臣誠不知其所謂。」刑部尚書毛愷力爭之,廷臣皆是諍議。得旨:「買休、賣休,本屬奸條,今後有犯,非係姦情者,不得引用。他如故。」

萬曆年中、左都御史吳時來が律例六条を申明した:

原文萬曆中,左都御史吳時來申明律例六條:

一、律は庶人の家は奴婢を養うことを許さずと称す。蓋し功臣の家のみ奴婢を賞賜し、庶民は自ら勤労に服すべき故に、養うことを得ざるなり。犯す者有れば皆僱工人と称し、初め縉紳の家に言及せざるなり。縉紳の家、奴婢を養うは、勢い免れ難し。法司に令して酌議せしめ、官民の家を論ぜず、券を立てて値を用い、工作に年限有る者は、僱工人を以て論ずべし;値を受くる微少にして、工作を日月に計る者は、凡人を以て論ずべし。若し財を以て十五以下を買い、恩養日久しく、十六以上にて室家を配する者は、子孫を視るに同じく論ずべし。或いは恩養未だ久しからず、未だ配合せざる者は、庶人の家は仍て僱工人を以て論じ;縉紳の家は、奴婢律を視て論ずべし。一、律は諸衙門の印信を偽造する者を斬ると称す。惟だ銅鉄を私に鑄する者は、故に斬る。若し篆文印に似たれども、形質印に非ざる者は、偽造と謂うべからず、故に例また描摸の充軍の條を立てたり。以後偽造印信の人犯、木石泥蠟の類に係る如きは、止だ描摸の例を引き、若し再犯せば斬を擬すべし。偽造行使止だ一次にして、贓徒に満たざる者は、亦た竊盜を準じて論ずべし。再犯せば例を引き、三犯せば律を引くべし。一、律は竊盜三犯する者は絞と称し、曾て刺字を経るを以て坐とす。但し贓に多寡有れば、即ち軽重を擬す。以後凡そ竊盜に遇い、三犯俱に赦前に在り、俱に赦後に在る者は、律に依りて絞を論ずべし。或いは赦前後に犯し並びに三次を計る者は、皆得て奏請し定奪を請うべし。録官は矜疑辨問の疏内に附し、並びに改遣を与うべし。一、強盗肆に劫殺を行い、贓に按じて闢を擬し、決して時を待たず。但し其中豈に羅織し讎を扳げ、妄りに収めて罪に抵うる者無からんや?以後務めて参詳すべし。或いは贓證未だ明らかならず、遽かに懸断し難き者は、俱に秋後斬を擬すべし。一、律は同謀共に人を毆り、以て致命の傷重きに致すは、下手の者を絞を論じ、原謀餘人は各々其の罪を得ると称す。其れ両三人有りて一人を共に毆り、各々重傷を成し、下手及び造謀主令の人を定め難きに、監に在りて禁斃する者有るに遇えば、即ち以て抵を論ず。今恤刑官、家に在りて病故し、且つ数年之後に在る者に遇えば、即ち見監の下手の人を擬して矜宥に従わしむ。是れ病亡の軀を以て、毆死の命に抵うるなり、殊に縱濫に属す。以後一概に準抵することを得る毋かれ。一、京に在る惡逆と強盗の真犯は、刑を停むるの年と雖も、亦た時を失わず処決す。乃ち兇惡父を殺すに至れば、即時淩遲すと雖も、猶ほ餘憾有り。而して外に在りて此の類反って歳月を遷延するを得、以て故事類奏に当たり、単奏の例無きのみ。夫れ単奏は急詞なり;類奏は緩詞なり。此の獄の外に在りて数年、其の瘐死せしむるに、将に何を以てか神人の憤を快くせん!今後外に在りて、凡そ此れ有る者は、御史単に詳して院に到り、院寺単に奏し、決単一到れば、即時処決すべし。其の死者は府州県に下り其の屍を戮すべし。庶幾く典刑正しきを得ん。

原文一、律稱庶人之家不許存養奴婢。蓋謂功臣家方給賞奴婢,庶民當自服勤勞,故不得存養。有犯者皆稱僱工人,初未言及縉紳之家也。縉紳之家,存養奴婢,勢所不免。合令法司酌議,無論官民之家,立券用值、工作有年限者,以僱工人論;受值微少、工作計日月者,以凡人論。若財買十五以下、恩養日久、十六以上、配有室家者,視同子孫論。或恩養未久,不曾配合者,庶人之家,仍以僱工人論;縉紳之家,視奴婢律論。一、律稱偽造諸衙門印信者斬。惟銅鐵私鑄者,故斬。若篆文雖印,形質非印者,不可謂之偽造,故例又立描摸充軍之條。以後偽造印信人犯,如係木石泥蠟之類,止引描摸之例,若再犯擬斬。偽造行使止一次、而贓不滿徒者,亦準竊盜論。如再犯引例,三犯引律。一、律稱竊盜三犯者絞,以曾經刺字為坐。但贓有多寡,即擬有輕重。以後凡遇竊盜,三犯俱在赦前、俱在赦後者,依律論絞。或赦前後所犯並計三次者,皆得奏請定奪。錄官附入矜疑辨問疏內,並與改遣。一、強盜肆行劫殺,按贓擬闢,決不待時。但其中豈無羅織讎扳,妄收抵罪者?以後務加參詳。或贓證未明,遽難懸斷者,俱擬秋後斬。一、律稱同謀共毆人,以致命傷重,下手者論絞,原謀餘人各得其罪。其有兩三人共毆一人,各成重傷,難定下手及係造謀主令之人,遇有在監禁斃者,即以論抵。今恤刑官遇有在家病故,且在數年之後者,即將見監下手之人擬從矜宥。是以病亡之軀,而抵毆死之命,殊屬縱濫。以後毋得一概準抵。一、在京惡逆與強盜真犯,雖停刑之年,亦不時處決。乃兇惡至於殺父,即時淩遲,猶有餘憾。而在外此類反得遷延歲月,以故事當類奏,無單奏例耳。夫單奏,急詞也;類奏,緩詞也。如此獄在外數年,使其瘐死,將何以快神人之憤哉!今後在外,凡有此者,御史單詳到院,院寺單奏,決單一到,即時處決。其死者下府州縣戮其屍。庶典刑得正。

旨下部寺に下り酌議せしめ、俱に之に従う。惟だ印文を偽造する者は、何物を成造するを問わず、皆斬る。報じて可とす。

原文旨下部寺酌議,俱從之。惟偽造印文者,不問何物成造,皆斬。報可。

贖刑は本より《虞書》に在り、《呂刑》に大辟の贖有り、後世皆之を重んじて言う。宋時に至り、尤も贖罪を慎み、八議に非ざる者は与かることを得ず。明律頗る厳なり、凡そ朝廷矜恤する所有り、律に限られて伸ぶるを得ざる者は、一に之を贖例に寓す、以て法の太重なるを済わす所以なり。又国家時に其の入を得て、以て緩急を佐く。而して実辺・足儲・振荒・宮府頒給の諸大費は、往々にして贓贖の二者に取り給す。故に贖法歴代に比して特ち詳なり。凡そ贖法に二有り、律に収贖を得る者有り、例に納贖を得る者有り。律贖は敢えて損益無く、而して納贖の例は則ち時に因り権宜し、先後互いに異なり、其の端実に太祖に開かる。

原文贖刑本《虞書》,《呂刑》有大辟之贖,後世皆重言之。至宋時,尤慎贖罪,非八議者不得與。明律頗嚴,凡朝廷有所矜恤、限於律而不得伸者,一寓之於贖例,所以濟法之太重也。又國家得時藉其入,以佐緩急。而實邊、足儲、振荒、宮府頒給諸大費,往往取給於贓贖二者。故贖法比歷代特詳。凡贖法有二,有律得收贖者,有例得納贖者。律贖無敢損益,而納贖之例則因時權宜,先後互異,其端實開於太祖云。

律に凡そ文武官公事を以て笞罪を犯す者は、官は等に照らして贖銭を収め、吏は毎季類決し、各々職役に還り、過を附せず。杖以上は犯せる罪名を記し、毎歳類送して吏・兵二部に送り、九年満考を候ち、通じて犯せる次数を記し之を黜陟す。吏典も亦た銓選降敘を備う。私罪に至りては、其の文官及び吏典笞四十以下を犯す者は、過を附して職に還りて贖わず、笞五十の者は調用す。軍官杖以上は皆的決す。文官及び吏の杖罪は、並びに職を罷めて敘せず、至って厳なり。然れども洪武中年より已に三たび令を下し、贖を準じ及び雑犯死罪以下たり。三十年、部院に命じて贖罪事例を議定せしめ、凡そ内外の官吏、笞杖を犯す者は過を記し、徒流遷徙する者は俸を以て之を贖い、三犯は律の如く之を罪す。是より律と例互いに異同有り。及び《大明律》を頒行し、御製の序に「雑犯死罪・徒流・遷徙等の刑は、悉く今定の贖罪条例を視て科断す」と。是より例遂に律を輔けて行わる。

原文律凡文武官以公事犯笞罪者,官照等收贖錢,吏每季類決之,各還職役,不附過。杖以上記所犯罪名,每歲類送吏、兵二部,候九年滿考,通記所犯次數黜陟之。吏典亦備銓選降敘。至於私罪,其文官及吏典犯笞四十以下者,附過還職而不贖,笞五十者調用。軍官杖以上皆的決。文官及吏杖罪,並罷職不敘,至嚴也。然自洪武中年已三下令,準贖及雜犯死罪以下矣。三十年,命部院議定贖罪事例,凡內外官吏,犯笞杖者記過,徒流遷徙者俸贖之,三犯罪之如律。自是律與例互有異同。及頒行《大明律》,御製序:「雜犯死罪、徒流、遷徙等刑,悉視今定贖罪條例科斷。」於是例遂輔律而行。

仁宗初め即位し、都察院に諭して言う「罰を輸し工作の令行わるれば、財有る者悉く倖免す、宜しく一に律の如く論ずべし」と。久しきに及び、其の法復た弛む。正統間、侍講劉球言う「罪を輸するは古に非ず、公罪贖を許す外は、宜しく悉く律に依るべし」と。時に従う能わず。其の後太祖の例に循い、益々之を推広す。凡そ官吏公私雑犯準徒以下は、俱に運炭納米等の項を聴きて贖罪す。其の軍官軍人例に照らして徒流を免るる者は、例贖も亦た之の如し。

原文仁宗初即位,諭都察院言:「輸罰工作之令行,有財者悉倖免,宜一論如律。」久之,其法復弛。正統間,侍講劉球言:「輸罪非古,自公罪許贖外,宜悉依律。」時不能從。其後循太祖之例,益推廣之。凡官吏公私雜犯準徒以下,俱聽運炭納米等項贖罪。其軍官軍人照例免徒流者,例贖亦如之矣。

贖罪の法、明初嘗て銅を納め、成化間嘗て馬を納め、後皆行われず、具に載せず。惟だ鈔を納め・銭を納め・銀を納むるは常に並び行わる。而して初制鈔を納むるを本とす。故に律贖する者は収贖律鈔と曰い、納贖する者は贖罪例鈔と曰う。永楽十一年、公罪は例に依りて記録収贖し、及び死罪情重き者は律に依りて処治し、其の情軽き者は、斬罪八千貫、絞罪及び榜例死罪六千貫、流徒杖笞は鈔を納むるに差有ると令す。力無き者は天寿山に発して樹を種わしむ。宣徳二年、笞杖罪囚を定む、毎十ごとに鈔二十貫を贖う。徒流罪名は、徒一等毎に杖二十を折り、三流並びに杖百四十を折る。其の罰する鈔は、悉く笞杖の定むる所の如し。力無き者は天寿山に発して樹を種わしむ;死罪は終身;徒流は各々年限に按ず;杖は五百株;笞は一百株。景泰元年、問擬笞杖罪囚、力有る者は鈔を納む。笞十は二百貫、毎十ごとに二百貫を以て遞加し、笞五十に至りて千貫と為す。杖六十は千八百貫、毎十ごとに三百貫を以て遞加し、杖百に至りて三千貫と為す。其の官吏の贓物も、亦た今例に視て鈔を折る。天順五年、罪囚鈔を納むるを令す、毎笞十ごとに鈔二百貫、餘の四笞は百五十貫を遞加し;杖六十に至りて千四百五十貫に増し、餘の杖は各々二百貫を遞加す。成化二年、婦人法を犯し罪を贖うを令す。

原文贖罪之法,明初嘗納銅,成化間嘗納馬,後皆不行,不具載。惟納鈔、納錢、納銀常並行焉,而以初制納鈔為本。故律贖者曰收贖律鈔,納贖者曰贖罪例鈔。永樂十一年,令除公罪依例紀錄收贖,及死罪情重者依律處治,其情輕者,斬罪八千貫,絞罪及榜例死罪六千貫,流徒杖笞納鈔有差。無力者發天壽山種樹。宣德二年定,笞杖罪囚,每十贖鈔二十貫。徒流罪名,每徒一等折杖二十,三流並折杖百四十。其所罰鈔,悉如笞杖所定。無力者發天壽山種樹;死罪終身;徒流各按年限;杖,五百株;笞,一百株。景泰元年,令問擬笞杖罪囚,有力者納鈔。笞十,二百貫,每十以二百貫遞加,至笞五十為千貫。杖六十,千八百貫,每十以三百貫遞加,至杖百為三千貫。其官吏贓物,亦視今例折鈔。天順五年,令罪囚納鈔,每笞十,鈔二百貫,餘四笞,遞加百五十貫;至杖六十,增為千四百五十貫,餘杖各遞加二百貫,成化二年,令婦人犯法贖罪。

弘治十四年、折収銀銭の制を定む。例難的決の人犯、並びに婦人力有る者は、毎杖百ごとに、応に鈔二千二百五十貫、銀一両に折る;毎十ごとに二百貫を以て遞減し、杖六十に至りて銀六銭と為す;笞五十は、応に減じて鈔八百貫と為し、銀五銭に折り、毎十ごとに百五十貫を以て遞減し;笞二十に至りて銀二銭と為す;笞十は応に鈔二百貫、銀一銭に折る。銅銭を収むるは、毎銀一両ごとに七百文に折る。其の律に依りて鈔を贖うは、過失殺人の外、亦た此の数に視て折収す。

原文弘治十四年,定折收銀錢之制。例難的決人犯,並婦人有力者,每杖百,應鈔二千二百五十貫,折銀一兩;每十以二百貫遞減,至杖六十為銀六錢;笞五十,應減為鈔八百貫,折銀五錢,每十以百五十貫遞減;至笞二十為銀二錢;笞十應鈔二百貫,折銀一錢。如收銅錢,每銀一兩折七百文。其依律贖鈔,除過失殺人外,亦視此數折收。

正徳二年、銭と鈔を兼ねて収める制度を定めた。例えば杖刑一百は、応に鈔二千二百五十貫を収めるべきところ、鈔千一百二十五貫と銭三百五十文を収める。嘉靖七年、湖広巡撫都御史朱廷聲が言上した。「収贖と贖罪は異なり、在京と在外では同じでなく、鈔貫は都下にのみ集まり、銭法は南方では行われない。旧例によれば、審有力及び命婦・軍職の正妻、及び例により的決が難しい者は、贖罪例鈔がある。老幼廃疾及び婦人の余罪には、収贖律鈔がある。贖罪例鈔は銭鈔を兼ねて収め、例えば笞刑一十は、鈔百貫を収め、銭三十五文を収め、その鈔二百貫は銀一銭に折る。杖刑一百は、鈔千一百二十五貫を収め、銭三百五十文を収め、その鈔二千二百五十貫は銀一両に折る。今、収贖律鈔は、笞刑一十で、ただ六百文を贖うのみで、例鈔に比べて銀に折れば一厘にも満たない。杖刑一百は、鈔六貫を贖い、銀に折れば一分にも満たず、あまりに軽すぎるようである。そもそも律鈔と例鈔は、貫数が既に同じでないから、銀に折ることもまた異なるべきである。請う、更に則を定め、凡そ収贖する者は、鈔一貫ごとに銀一分二厘五毫に折ることとせよ。例えば笞刑一十は、鈔六百文を贖うならば、銀七厘五毫に折り、罪の重軽に従って遞加して折り収贖すべし。」帝はその奏に従い、中外の問刑諸司に命じて、皆この例によって事を行わせた。

原文正德二年,定錢鈔兼收之制。如杖一百,應鈔二千二百五十貫者,收鈔千一百二十五貫,錢三百五十文。嘉靖七年,巡撫湖廣都御史朱廷聲言:「收贖與贖罪有異,在京與在外不同,鈔貫止聚於都下,錢法不行於南方。故事,審有力及命婦、軍職正妻,及例難的決者,有贖罪例鈔;老幼廢疾及婦人餘罪,有收贖律鈔。贖罪例鈔,錢鈔兼收,如笞一十,收鈔百貫,收錢三十五文,其鈔二百貫,折銀一錢。杖一百,收鈔千一百二十五貫,收錢三百五十文,其鈔二千二百五十貫,折銀一兩。今收贖律鈔,笞一十,止贖六百文,比例鈔折銀不及一釐;杖一百,贖鈔六貫,折銀不及一分,似為太輕。蓋律鈔與例鈔,貫既不同,則折銀亦當有異。請更定為則,凡收贖者,每鈔一貫,折銀一分二釐五毫。如笞一十,贖鈔六百文,則折銀七釐五毫,以罪重輕遞加折收贖。」帝從其奏,令中外問刑諸司,皆以此例從事。

この時、条例を重修し、贖例を奏定した。在京では則ち做工(毎に笞刑一十は、做工一月、銀三銭に折る。徒五年に至れば、銀十八両に折る)、運囚糧(毎に笞刑一十は、米五斗、銀二銭五分に折る。徒五年に至れば、五十石、銀二十五両に折る)、運灰(毎に笞刑一十は、一千二百斤、銀一両二銭六分に折る。徒五年に至れば、六万斤、銀六十三両に折る)、運磚(毎に笞刑一十は、七十個、銀九銭一分に折る。徒五年に至れば、三千個、銀三十九両に折る)、運水和炭五等(毎に笞刑一十は、二百斤、銀四銭に折る。徒五年に至れば、八千五百斤、銀十七両に折る)がある。運灰が最も重く、運炭が最も軽い。在外では則ち有力・稍有力の二等がある。初めは頗有力・次有力などがあったが、御史の言上によって廃止された。その有力は、在京の運囚糧に準じ、米五斗ごとに穀一石を納める。初めは銀に折って上庫したが、後に穀に折って上倉した。稍有力は、在京の做工の年月を以て折贖とする。婦人で審有力と、命婦・軍職の正妻、及び例により的決が難しい人で、贖罪に応じて銭鈔を兼ねて収めるべき者は、笞・杖毎に一十は、銀一銭に折って収める。その老幼廃疾婦人及び天文生の余罪を収贖する者は、笞刑一十毎に応に鈔六百文は、銀七厘五毫に折って収める。ここにおいて軽重適宜に均しく、天下これを便利とした。万暦十三年に至り、再びこれを申明し、遂に定制となった。

原文是時重修條例,奏定贖例。在京則做工、每笞一十,做工一月,折銀三錢。至徒五年,折銀十八兩。運囚糧、每笞一十,米五斗,折銀二錢五分。至徒五年,五十石,折銀二十五兩。運灰、每笞一十,一千二百斤,折銀一兩二錢六分。至徒五年,六萬斤,折銀六十三兩。運磚、每笞一十,七十個,折銀九錢一分。至徒五年,三千個,折銀三十九兩。運水和炭五等。每笞一十,二百斤,折銀四錢。至徒五年,八千五百斤,折銀十七兩。運灰最重,運炭最輕。在外則有力、稍有力二等。初有頗有力、次有力等,因御史言而革。其有力,視在京運囚糧,每米五斗,納穀一石。初折銀上庫,後折穀上倉。稍有力,視在京做工年月為折贖。婦人審有力,與命婦、軍職正妻,及例難的決之人,贖罪應錢鈔兼收者,笞、杖每一十,折收銀一錢。其老幼廢疾婦人及天文生餘罪收贖者,每笞一十應鈔六百文,折收銀七釐五毫。於是輕重適均,天下便之。至萬曆十三年,復申明焉,遂為定制。

凡そ律贖は、もし天文生で習業既に成り、能くその事に専らし、徒罪及び流罪を犯した者は、決杖一百し、余罪は収贖する。婦人が徒流罪を犯した者は、決杖一百し、余罪は収贖する。

原文凡律贖,若天文生習業已成、能專其事、犯徒及流者,決杖一百,餘罪收贖。婦人犯徒流者,決杖一百,餘罪收贖。

例えば杖六十、徒一年は、全贖鈔応に十二貫、決杖を準じて既に六貫を除き、余鈔六貫は銀七分五厘に折る。余はこれに倣う。

原文如杖六十,徒一年,全贖鈔應十二貫,除決杖準訖六貫,餘鈔六貫,折銀七分五釐,餘仿此。

その決杖一百は、審有力でまた例鈔二千二百五十貫を納め、応に銭三百五十文、鈔一千一百二十五貫を収める。

原文其決杖一百,審有力又納例鈔二千二百五十貫,應收錢三百五十文,鈔一千一百二十五貫。

凡そ年七十以上十五以下及び廃疾で流罪以下を犯した者は、収贖する。八十以上十歳以下及び篤疾で、盗及び人を傷つけた者も、また収贖する。凡そ犯罪時に老疾でなく、事発時に老疾の者は、老疾に依って論じ、犯罪時に幼小で、事発時に長大の者は、幼小に依って論じ、並びに収贖を得る。

原文凡年七十以上十五以下及廢疾犯流以下,收贖;八十以上十歲以下及篤疾、盜及傷人者,亦收贖。凡犯罪時未老疾,事發時老疾者,依老疾論,犯罪時幼小,事發時長大者,依幼小論,並得收贖。

例えば六十九以下で犯罪し、年七十で事発し、或いは無疾時に犯罪し、廃疾後に事発すれば、老疾に依って収贖を得る。他の例では七十九以下で死罪を犯し、八十で事発し、或いは廃疾時に犯罪し、篤疾時に事発すれば、上請に入ることを得る。八十九で死罪を犯し、九十で事発すれば、論ぜず、収贖の例に在らず。

原文如六十九以下犯罪,年七十事發,或無疾時犯罪,廢疾後事發,得依老疾收贖。他或七十九以下犯死罪,八十事發,或廢疾時犯罪,篤疾時事發,得入上請。八十九犯死罪,九十事發,得勿論,不在收贖之例。

もし徒年限内に老疾となれば、またこれと同じである。

原文若在徒年限內老疾,亦如之。

例えば杖六十、徒一年を犯し、一月の後に老疾となれば、全贖鈔十二貫を合計する。既に杖六十は、三貫六百文に準じ、残りの徒一年は、応に八貫四百文と計算する。徒罪一月毎に、鈔七百文を贖い、既に一月役すれば、七百文を贖うに準じる外、未贖の十一月は、応に七貫七百文を収贖する。余はこれに倣う。

原文如犯杖六十,徒一年,一月之後老疾,合計全贖鈔十二貫。除已杖六十,準三貫六百文,剩徒一年,應八貫四百文計算。每徒一月,贖鈔七百文,已役一月,準贖七百文外,未贖十一月,應收贖七貫七百文。餘仿此。

老幼廃疾の収贖は、ただ雑犯五年のみはなおこれを科する。そもそも明初においては、即ち真犯死罪は、徒罪を以て論ずることはできないのである。

原文老幼廢疾收贖,惟雜犯五年仍科之。蓋在明初,即真犯死罪,不可以徒論也。

その誣告の例では、二事以上を告げ、軽きは実で重きは虚、或いは一事を告げ、軽きを誣って重きとする者は、既に論決すれば全く剩罪を抵当し、未だ論決せざれば笞杖は収贖し、徒流は杖一百し、余罪もまた聴いて収贖する。

原文其誣告例,告二事以上,輕實重虛,或告一事,誣輕為重者,已論決全抵剩罪,未論決笞杖收贖,徒流杖一百,餘罪亦聽收贖。

例えば人に笞三十を告げ、内ただ一十が実で既に決すれば、全く抵当し、剩二十の罪は未決で、一貫二百文を収贖する。

原文如告人笞三十,內止一十實已決,全抵,剩二十之罪未決,收贖一貫二百文。

例えば人に杖六十を告げ、内ただ二十が実で既に決すれば、全く抵当し、剩四十の罪は未決で、二貫四百文を収贖する。

原文如告人杖六十,內止二十實已決,全抵,剩四十之罪未決,收贖二貫四百文。

例えば人に杖六十、徒一年を告げ、内ただ杖五十が実で既に決すれば、全く抵当し、剩杖一十・徒一年の罪は未決で、徒一年は杖六十に折り、併せて杖は共に七十となり、四貫二百文を収贖する。

原文如告人杖六十,徒一年,內止杖五十實已決,全抵,剩杖一十、徒一年之罪未決,徒一年,折杖六十,並杖共七十,收贖四貫二百文。

例えば人に杖一百、流二千里を告げ、内ただ杖六十・徒一年が実で既に決すれば、総徒四年を以て論じ、全く抵当し、剩杖四十・徒三年の罪は未決で、連徒折杖流に加一等を以て論じ、共に計って杖二百二十、告実の杖六十・徒一年(杖六十に折る)を除き、剩杖一百は、鈔六貫を贖う。もし剩罪を計れば、杖一百以上を過ぎる場合は、須らく杖一百を決し終えて、余罪の方聴いて収贖する。

原文如告人杖一百,流二千里,內止杖六十、徒一年實已決,以總徒四年論,全抵,剩杖四十、徒三年之罪未決,以連徒折杖流加一等論,共計杖二百二十,除告實杖六十、徒一年,折杖六十,剩杖一百,贖鈔六貫。若計剩罪,過杖一百以上,須決杖一百訖,餘罪方聽收贖。

また過失により人を傷つけた者は、闘毆で人を傷つけた罪に準じ、律に依って贖銅を収める。死に至らしめた者は、雑犯の斬絞罪に準じて贖銅を収め、鈔四十二貫とする。内訳は鈔八分で三十三貫六百文、銅錢二分で八千四百文とし、その家に給付する。既に徒五年に処せられた者が再び徒罪を犯したときは、贖銅を収め、鈔三十六貫とする。もし徒流罪を犯した者が存留養親するときは、杖一百のみを決し、残りの罪は贖銅を収める。その法は実杖一百を決し、折贖を許さず、その後徒流の年限を計算し、老幼の例に一様に見てこれを贖う。この律は英宗の時に詔して有司に行わせ、後に制となった。天文生や婦女が徒流罪を犯し、決杖一百を決し、残りの罪を贖銅収める場合、たとえ罪が杖六十、徒一年に止まるものであっても、やはり決杖一百を決す。律に所謂「応加杖」というのがこれである。皆まず本律に依ってその犯した徒流の罪を議し、『大誥』によってこれを減ずる。臨決の時に至り、某は天文生、某は婦人であるとして、律に依って決杖一百を決し、残りは贖銅収める。決する杖が必ず一百でなければならないのは、五徒の数を包含するためである。しかし誣告で贖銅収める剩杖とは異なる。およそ残りの徒罪を贖銅収める者は決杖し、徒罪を贖い剩杖を収める者は、流を徒に折り、徒を杖に折り、数に照らしてこれを収めるのであり、その法はそれぞれ別である。婦人が徒流罪を犯した場合、成化八年に定例を定め、奸盗・不孝および楽婦を除き、もし審査して有力であれば決杖もまた納鈔によって贖罪することができるとした。例では毎に杖十を銀一銭に折ることを率とし、杖一百に至っては銀一両に折ることを止めとする。凡そ律に所謂収贖とは、残りの罪を贖うことである。その例によって贖罪を得る者は、決杖一百を贖うのである。徒・杖の両項を分けて科し、婦人を除き、その余の囚人の徒流は皆杖を決し贖わない。ただ弘治十三年に、楽戸の徒杖笞罪についても的決しないことを許した。これが律鈔の大凡である。

原文又過失傷人,淮鬥毆傷人罪,依律收贖。至死者,準雜犯斬絞收贖,鈔四十二貫。內鈔八分,應三十三貫六百文,銅錢二分,應八千四百文,給付其家。已徒五年,再犯徒收贖。鈔三十六貫。若犯徒流,存留養親者,止杖一百,餘罪收贖。其法實杖一百,不準折贖,然後計徒流年限,一視老幼例贖之。此律自英宗時詔有司行之,後為制。天文生、婦女犯徒流,決杖一百,餘罪收贖者,雖罪止杖六十,徒一年,亦決杖一百,律所謂應加杖者是也。皆先依本律議,其所犯徒流之罪,以《誥》減之。至臨決時,某係天文生,某係婦人,依律決杖一百,餘收贖。所決之杖並須一百者,包五徒之數也。然與誣告收贖剩杖不同。蓋收贖餘徒者決杖,而贖徒收贖剩杖者,折流歸徒,折徒歸杖,而照數收贖之,其法各別也。其婦人犯徒流,成化八年定例,除奸盜不孝與樂婦外,若審有力並決杖,亦得以納鈔贖罪。例每杖十,折銀一錢為率,至杖一百,折銀一兩止。凡律所謂收贖者,贖餘罪也。其例得贖罪者,贖決杖一百也。徒、杖兩項分科之,除婦人,餘囚徒流皆杖決不贖。惟弘治十三年,許樂戶徒杖笞罪,亦不的決,此律鈔之大凡也。

例鈔は嘉靖二十九年に定例を定めた。凡そ軍民諸色の人役および舍餘で審査して有力な者と、文武官吏・監生・生員・冠帯官・知印・承差・陰陽生・醫生・老人・舍人は、笞・杖・徒・流・雑犯死罪の別なく、皆に灰運び・炭運び・磚運び・納米・納料などの項目による贖罪を命じた。これは行止を損なわない者に係る。もし官吏人等で例によって職役を革去すべき者、これは行止を損なう者である。および軍民人等で審査して無力な者は、笞杖罪は的決し、徒・流・雑犯死罪は各々做工・擺站・哨暿愰・発充儀従とし、情状重い者は煎塩炒鉄とする。死罪は五年、流罪は四年、徒罪は年限に従う。在京の軍丁人等で差役に占められていない者と、例によって的決が難しい人は、笞杖もまた做工を命じる。当時の新例では、奸盗・贓物受け取りを犯し、行止を損なう人となった者は、一概に贖罪を許さない。ただ軍官で革職された者は、皆炭運び・納米などの項目で発落し、五刑条例の的決実配の条文を用いない。これは武夫を寛大にし、文吏を重く責めるためである。ここにおいて在京ではただ做工・運囚糧などの五項目のみを行い、在外ではただ有力・稍有力の二項目のみを行い、法令はますます簡略直截となった。

原文例鈔自嘉靖二十九年定例。凡軍民諸色人役及舍餘審有力者,與文武官吏、監生、生員、冠帶官、知印、承差、陰陽生、醫生、老人、舍人,不分笞、杖、徒、流、雜犯死罪,俱令運灰、運炭、運磚、納米、納料等項贖罪。此上係不虧行止者。若官吏人等,例應革去職役,此係行止有虧者。與軍民人等審無力者,笞、杖罪的決,徒、流、雜犯死罪各做工、擺站、哨暿愰、發充儀從,情重者煎鹽炒鐵。死罪五年,流罪四年,徒按年限。其在京軍丁人等,無差佔者與例難的決之人,笞杖亦令做工。時新例,犯奸盜受贓,為行止有虧之人,概不許贖罪。唯軍官革職者,俱運炭納米等項發落,不用五刑條例的決實配之文,所以寬武夫,重責文吏也。於是在京惟行做工、運囚糧等五項,在外惟行有力、稍有力二項,法令益徑省矣。

要するに論ずれば、律鈔は軽く、例鈔は重い。しかし律鈔は本来軽いものではない。祖制では毎に鈔一文を銀一釐に当て、所謂笞一十を鈔六百文に折り銀七釐五毫と定めたものは、即ち当時の銀六錢である。所謂杖一百を鈔六貫銀七分五釐に折ったものは、即ち当時の銀六両である。銀六錢を以て例鈔の折銀一釐に満たないものに比し、銀一両を以て例鈔の折銀一分に満たないものに比し、しかしてこれを以て犯罪者の心を懲らしめようとすれば、その勢い行なわれないところがあるのは当然である。特に祖宗の律文は改めることができないため、已むを得ず七釐五毫・七分五釐の制を定めた。しかし実際に定めた数は、なお贖う者の罪に相当するに足らず、その後例による変通が生じたのである。

原文要而論之,律鈔輕,例鈔重。然律鈔本非輕也。祖制每鈔一文,當銀一釐,所謂笞一十折鈔六百文定銀七釐五毫者,即當時之銀六錢也。所謂杖一百折鈔六貫銀七分五釐者,即當時之銀六兩也。以銀六錢,比例鈔折銀不及一釐,以銀一兩,比例鈔折銀不及一分,而欲以此懲犯罪者之心,宜其勢有所不行矣。特以祖宗律文不可改也,於是不得已定為七釐五毫、七分五釐之制。而其實所定之數,猶不足以當所贖者之罪,然後例之變通生焉。

洪武朝を考うるに、官吏軍民で罪を犯し贖うことを聴された者は、大抵罰役の令が多く、例えば鳳陽に発して屯種せしめ、滁州で苜蓿を植えさせ、農民の力役に代わり、米を運んで辺境に輸送して罪を贖うなどの類は、皆鈔納を用いない。律に載せるところ、笞若干を鈔若干文に、杖若干を鈔若干貫とするものは、一代の法を垂れたものである。しかし三十年の詔令を按ずるに、罪囚に米を運ばせて罪を贖わせ、死罪は百石、徒流は逓減し、その力及ばざる者は、死罪は自ら米三十石を備え、徒流は十五石とし、皆甘州・威虜に運納し、彼の地で充軍せしめた。その米価・運賃の費用を計算すれば、鈔数と大差ない。贖鈔の等級を定めたことは、固より後の例に軽くない。しかし罪は一定せず、鈔法の久しきに従い、日々変わり日々軽くなる。これは定律の時に予想し得なかったことである。即ち永楽十一年の「斬罪で情状軽き者は、鈔八千貫を贖い、絞罪および榜例の死罪は六千貫を贖う」との詔令を以て言えば、八千貫とは律の八千両であり、六千貫とは律の六千両である。下って杖罪千貫、笞罪五百貫もまた一千両・五百両である。革除の際とはいえ、用法が特に苛酷であったにせよ、どうして死罪で八千両、笞杖罪で一千両・五百両を納めて尚行なわれることがあろうか。則ち鈔法の弊は、永楽初年に於いて既に洪武時に比して十倍軽くなっているに止まらないことが知られる。

原文考洪武朝,官吏軍民犯罪聽贖者,大抵罰役之令居多,如發鳳陽屯種、滁州種苜蓿、代農民力役、運米輸邊贖罪之類,俱不用鈔納也。律之所載,笞若干,鈔若干文,杖若干,鈔若干貫者,垂一代之法也。然按三十年詔令,罪囚運米贖罪,死罪百石,徒流遞減,其力不及者,死罪自備米三十石,徒流十五石,俱運納甘州、威虜,就彼充軍。計其米價、腳價之費,與鈔數差不相遠,其定為贖鈔之等第,固不輕於後來之例矣。然罪無一定,而鈔法之久,日變日輕,此定律時所不及料也。即以永樂十一年令「斬罪情輕者,贖鈔八千貫,絞及榜例死罪六千貫。」之詔言之,八千貫者,律之八千兩也;六千貫者,律之六千兩也;下至杖罪千貫,笞罪五百貫,亦一千兩、五百兩也。雖革除之際,用法特苛,豈有死罪納至八千兩,笞杖罪納至一千兩、五百兩而尚可行者?則知鈔法之弊,在永樂初年,已不啻輕十倍於洪武時矣。

宣徳の時、交易に銀を用いる禁令を申し、鈔法を通じさせようとした。弘治に至って鈔は遂に用いることができなくなり、準鈔折銀の例を開いた。嘉靖の新定条例に及んで、皆有力・稍有力の二科を以て贖罪とした。有力は米五斗、これは律の鈔六百文を納ずるに準じる。稍有力は工価三銭、これは律の做工一月に準じる。是れ則ち後の例鈔は、僅かに初めの律鈔に比するに足るのみである。況んや老幼廃疾など、諸々律贖にある者の銀七釐五毫(鈔六百文に準ず)、銀七分五釐(鈔六貫に準ず)をや。凡そ所謂律贖なるものは、初めの律鈔に比べて、その軽重の相去ること特に懸絶しているのではないか。ただ運炭・運石などの諸罪例は稍々重い。蓋しこれらの諸罪は、初め皆自ら赴役することを命じ、事が完了すれば家に帰り、元より納贖の例はなかった。その後法令は益々寛大となり、その折納を聴き、事の力を估算しても略々相当し、実に弊とはならないのである。

原文宣德時,申交易用銀之禁,冀通鈔法。至弘治而鈔竟不可用,遂開準鈔折銀之例。及嘉靖新定條例,俱以有力、稍有力二科贖罪:有力米五斗,準律之納鈔六百文也;稍有力工價三錢,準律之做工一月也。是則後之例鈔,才足比於初之律鈔耳。而況老幼廢疾,諸在律贖者之銀七釐五毫,準鈔六百文,銀七分五釐,準鈔六貫。凡所謂律贖者,以比於初之律鈔,其輕重相去尤甚懸絕乎?唯運炭、運石諸罪例稍重,蓋此諸罪,初皆令親自赴役,事完甯家,原無納贖之例。其後法令益寬,聽其折納,而估算事力,亦略相當,實不為病也。

およそ贖罪の例は二つあり、一つは罰役、一つは納鈔であるが、その例はさらに三度変化した。罰役とは、後に多くは工賃を折り納鈔とし、鈔法が既に壊れると、納銀・納米に変わった。しかし運灰・運炭・運石・運磚・運碎磚の名目はなお残っていた。万暦中年に至り、中外で通行する有力・稍有力の二科となり、在京の諸例は施行されず、法はますます統一された。いわゆる通変して古の意を失わないというのはこれである。初め、罪人に力役をもって罪を贖うことを許した。死罪は終身拘役、徒流は年限に従い、笞杖は日月を計算した。あるいは修造に従事し、あるいは屯種し、あるいは煎塩炒鉄に従事し、満期になると疏放した。疏放とは、御橋に引いて赴かせ、叩頭を終えると、応天府に送り、引を与えて家に帰らせることである。充軍に該当する者は、陝西司に発付し、籍に照らして編発した。後には皆工価を折納するようになり、ただ御橋に赴くことは旧の如くであった。宣徳二年、御史鄭道寧が言うには、「米を納めて罪を贖うのは朝廷の寛典であるが、軍儲倉が罪囚を拘束し、米を輸納できず、去年二月から今に至るまで、死者九十六人である」と。刑部郎の俞士吉がかつて奏上した。「囚人で米がない者は、原籍において追納を請い、工匠はなお作役を輸し、軍士はなお操練に備え、もし軍匠でなければ、所属する州県に遣還してこれを追うべきである」と。詔してその奏に従った。

原文大抵贖例有二:一罰役,一納鈔,而例復三變。罰役者,後多折工值納鈔,鈔法既壞,變為納銀、納米。然運灰、運炭、運石、運磚、運碎磚之名尚存也。至萬曆中年,中外通行有力、稍有力二科,在京諸例,並不見施行,而法益歸一矣。所謂通變而無失於古之意者此也。初,令罪人得以力役贖罪:死罪拘役終身,徒流按年限,笞杖計日月。或修造,或屯種,或煎鹽炒鐵,滿日疏放。疏放者,引赴御橋,叩頭畢,送應天府,給引寧家。合充軍者,發付陝西司,按籍編發。後皆折納工價,惟赴橋如舊。宣德二年,御史鄭道寧言:「納米贖罪,朝廷寬典,乃軍儲倉拘繫罪囚,無米輸納,自去年二月至今,死者九十六人。」刑部郎俞士吉嘗奏:「囚無米者,請追納於原籍,匠仍輸作,軍仍備操,若非軍匠,則遣還所隸州縣追之。」詔從其奏。

初めの制度では流罪は三等あり、地の遠近を基準とし、辺衛充軍には定所があった。およそ死罪を一等降げたものは、ただ流罪と充軍が重い。しかし『名例律』には二死三流は各々同じく一減と称している。もし二死が恩赦に遇って一等減ずれば、すなわち流三千里となり、流三等は『大誥』によって一等減ずれば、皆徒五年となる。流罪を犯す者は、徒罪に減ぜられない者はない。故に三流は常に設けられて用いられなかった。そして充軍の例が特に重かった。律における充軍は凡そ四十六条、『諸司職掌』内の二十二条は、洪武年間の例であり、皆律に載せられていないものである。その嘉靖二十九年の条例では、充軍は凡そ二百十三条あり、万暦十三年に定めたものと大略同じである。洪武二十六年に定めたところでは、充軍に応ずる者は、大理寺が審議を終え、陝西司に開き付し、本部は文簿を置き立て、姓名・年齢・籍貫・郷里を注記し、南北の籍に依って甲を編み二冊とし、一は内府に進め、一は該管百戸に付し、領いて充軍に赴かせる。例えば浙江、河南、山東、陝西、山西、北平、福建、直隷応天・廬州・鳳陽・淮安・揚州・蘇州・松江・常州・和州・滁州・徐州の人は、雲南・四川の属衛に発し、江西、湖広、四川、広東、広西、直隷太平・寧国・池州・徽州・広徳・安慶の人は、北平・大寧・遼東の属衛に発する。逃亡や死亡があれば、籍に照らして勾補する。その後、条例には煙瘴地面や極辺沿海の諸処に発するものがあり、例は各々異なる。そして軍には終身のものと永遠のものがある。永遠とは、罰が子孫に及び、皆実犯死罪を減等した者をこれに充てる。明初は法が厳しく、県単位で千数に及び、数代を経た後には万を数えるようになった。丁が尽き戸が絶え、ただ軍産のみが残る者、あるいは軍産すらなく、戸名が未だ除かれない者があり、朝廷は毎年御史を遣わして清軍を行い、欠員があれば必ず補充した。毎度勾丁する際には、族属や里長を逮捕し、他甲にまで及び、鶏犬も安らかでなかった。論者は、既に死罪を一等減じながら、法がかえって刀鋸の上に加わる、例えば革除の際に遣わされた謫戍は、国が滅ぶに至っても、戍籍にまだ存する者があり、刑はこれより惨いものはないと言う。嘉靖年間、贖軍の例を開くことを請う者があった。世宗は言った。「律が贖うことを聴すのは、徒杖以下の小罪のみである。死罪で矜疑あるものは、減じて謫発とするのであって、贖うことはできない」と。御史周時亮がまた贖例を広めることを請うた。部議して、審有力者は銀十両で三年以上の徒一年を贖うことができ、稍有力者はその半とすることとした。しかし贖軍の議はついに廃された。御史胡宗憲が言うには、「南方の人は兵革に耐えず、その辺軍に充てられる者は、銀を納めて自ら贖うことを許すべきである」と。部議はこれを然りとし、よって納例を擬して上奏した。帝は言った。「どうしてこの例を設けて犯罪の人を待つことができようか」と。またも允さなかった。

原文初制流罪三等,視地遠近,邊衛充軍有定所。蓋降死一等,唯流與充軍為重。然《名例律》稱二死三流各同為一減。如二死遇恩赦減一等,即流三千里,流三等以《大誥》減一等,皆徒五年。犯流罪者,無不減至徒罪矣。故三流常設而不用。而充軍之例為獨重。律充軍凡四十六條,《諸司職掌》內二十二條,則洪武間例,皆律所不載者。其嘉靖二十九年條例,充軍凡二百十三條,與萬曆十三年所定大略相同。洪武二十六年定,應充軍者,大理寺審訖,開付陝西司,本部置立文簿,注姓名、年籍、鄉貫,依南北籍編排甲為二冊,一進內府,一付該管百戶,領去充軍。如浙江,河南,山東,陝西,山西,北平,福建,直隸應天、廬州、鳳陽、淮安、揚州、蘇州、松江、常州、和州、滁州、徐州人,發雲南、四川屬衛;江西、湖廣,四川,廣東,廣西,直隸太平、甯國、池州、徽州、廣德、安慶人,發北平、大寧、遼東屬衛。有逃故,按籍勾補。其後條例有發煙瘴地面、極邊沿海諸處者,例各不同。而軍有終身,有永遠。永遠者,罰及子孫,皆以實犯死罪減等者充之。明初法嚴,縣以千數,數傳之後,以萬計矣。有丁盡戶絕,止存軍產者,或並無軍產,戶名未除者,朝廷歲遣御史清軍,有缺必補。每當勾丁,逮捕族屬、裏長,延及他甲,雞犬為之不寧。論者謂既減死罪一等,而法反加於刀鋸之上,如革除所遣謫,至國亡,戍籍猶有存者,刑莫慘於此矣。嘉靖間,有請開贖軍例者。世宗曰:「律聽贖者,徒杖以下小罪耳。死罪矜疑,乃減從謫發,不可贖。」御史周時亮復請廣贖例。部議審有力者銀十兩,得贖三年以上徒一年,稍有力者半之。而贖軍之議卒罷。御史胡宗憲言:「南方之人不任兵革,其發充邊軍者,宜令納銀自贖。」部議以為然,因擬納例以上。帝曰:「豈可設此例以待犯罪之人?」復不允。

万暦二年、毎年清軍御史を遣わすことを廃し、巡按に併せ、民はやや安んじた。給事中徐桓が言うには、「死罪雑犯で徒罪に準じて充軍する者は、その例の如くすべきである」と。給事中厳用和が大審で矜れむべき人犯は、その永戍を免ずることを請うた。皆許されなかった。そして法司に命じて例を定めさせた。「特旨を奉じて処発する叛逆の家屬子孫は、ただ本犯の親枝内において勾補し、尽く絶えれば即ち開豁する。もし未だ発遣せずして病故したならば、その勾補を免ずる。実犯死罪で死を免じて充軍する者は、著伍後に生まれた子孫をもって役を替え、原籍の子孫を勾くことを許さない。その他の充軍及び口外に発する者は、皆終身に止める」と。崇禎十一年、兵部に諭して言うには、「編遣の事宜は、千里を以て附近とし、二千五百里を以て辺衛とし、三千里外を以て辺遠とし、その極辺煙瘴は四千里外を以て率とせよ。ただ本妻を拘るのみで、妻がなければそれまでとし、親鄰を擅に勾くことを許さない。もし衰痼老疾ならば、口外に発して民とすることを準ずる」と。十五年、また諭して言うには、「例を引いて充軍する者に、その罪を贖うことを準じさせたい」と。時に天下は既に乱れており、議はついに行われなかった。

原文萬曆二年,罷歲遣清軍御史,並於巡按,民獲稍安。給事中徐桓言:「死罪雜犯準徒充軍者,當如其例。」給事中嚴用和請以大審可矜人犯,免其永戍。皆不許。而命法司定例:「奉特旨處發叛逆家屬子孫,止於本犯親枝內勾補,盡絕即與開豁。若未經發遣而病故,免其勾補。其實犯死罪免死充軍者,以著伍後所生子孫替役,不許勾原籍子孫。其他充軍及發口外者,俱止終身。」崇禎十一年,諭兵部:「編遣事宜,以千里為附近,二千五百里為邊衛,三千里外為邊遠,其極邊煙瘴以四千里外為率。止拘本妻,無妻則已,不許擅勾親鄰。如衰痼老疾,準發口外為民。」十五年,又諭:「欲令引例充軍者,準其贖罪。」時天下已亂,議卒不行。

明の制度では充軍の律は最も厳しく、犯す者も最も苦しんだ。親族には軍装の費用を科斂され、里遞には長途の押解の煩わしさがあった。至る所充の衛では、衛官は必ず常例を要求した。しかしその逃走を利して、口糧を着服できるため、毎度私かにこれを放った。その後律は次第に弛み、発解する者は十に一にも及ばなかった。極辺に発する者は、長解はしばしば兵部に賄賂し、勘合を持って衛に至り、虚に収管を出し、軍犯はかえって家で安息していたという。

原文明制充軍之律最嚴,犯者亦最苦。親族有科斂軍裝之費,裏遞有長途押解之擾。至所充之衛,衛官必索常例。然利其逃走,可干沒口糧,每私縱之。其後律漸弛,發解者不能十一。其發極邊者,長解輒賄兵部,持勘合至衛,虛出收管,而軍犯顧在家偃息云。