明史

志第六十九 刑法一

漢代以来、刑法の沿革は一様でない。隋は五刑の条項を改め、三奏の令を設けた。唐は律令を撰し、一に礼を基準として、出入の根拠とした。宋はこれを採用したが、重視したのは勅であった。律に載せないものは、勅に従って裁断した。ゆえに時に軽く時に重く、一定の帰趨がなかった。元の制度は、一時的に行われた例を取り上げて条格としたに過ぎない。明初、丞相李善長らが言うには、「歴代の律は、皆漢の『九章』を根本とし、唐に至って初めてその大成を集めた。今の制度は唐の旧制を遵奉すべきである」。太祖はその言に従った。

初め、太祖は元の弛緩した後の弊を懲らしめ、刑には重典を用いたが、これは特に一時の決断によるもので、恒例とすべきものではなかった。後にたびたび詔を下して改正し、洪武三十年に至って、初めて画一の制度を明示した。斟酌損益するところは、極めて細かく詳悉であり、子孫にこれを守らせた。群臣に少しでも変更を議論する者は、直ちに祖制を変乱する罪に処せられた。しかし後に弊害が生じたのは、人が律を知らず、妄りに律は大綱を挙げるに過ぎず、情偽の変を尽くすに足りないと考え、ここに律に基づいて例を起こし、例によって例を生じ、例がますます紛雑になり、弊害がますます窮まりないものとなったからである。初め詔して内外の風憲官に、講読律令の一条をもって、有司を考校させた。明晰でない者には、差等を設けて罰した。これによって人は律の趣旨を知るようになった。因循日久し、具文と見なされるようになった。ここから奸吏が法を曲げ、任意に軽重を加えた。例えば律に「上裁を取る」「臨時に処治する」とあるものは、罪が八議に在るため擅自に勾問できず、また一切の疑獄で罪名が定め難く、及び律に正文がない場合に設けられたもので、朝廷が任情に生殺を行えるという意味ではない。英宗・憲宗以後、欽恤の意は微となり、偵伺の風は盛んとなった。巨悪大憝の案件は山のように積もり、詔旨が中から下され、それに従って問わない。あるいは本来死罪の理がないのに、一片の紙をもって詔獄に付され、禍害が特に甚だしかった。ゆえに明代の刑法の大略を綜べ、廠衛をもってこれを終える。廠の宦官の姓名は、伝に備えて載せていないが、ここに列挙し、考証の資とさせる。

明の太祖は武昌を平定すると、直ちに律令を議した。呉元年冬十月、左丞相李善長を律令総裁官とし、参知政事楊憲・傅瓛、御史中丞劉基、翰林学士陶安ら二十人を議律官と命じ、諭して言った。「法は簡当を貴び、人をして容易に理解させるべきである。もし条緒が繁多で、あるいは一事に両端があり、軽くも重くもできれば、吏がこれに因縁して奸を行うことになり、法の本意ではない。網が密であれば水に大魚なく、法が密であれば国に全き民なし。卿らは心を尽くして参究し、日ごとに刑名条目を具して上奏せよ。我が親しく斟酌議するから」。毎に西楼に御し、諸臣を召して座を賜い、従容として律義を講論した。十二月、書が成り、凡そ令一百四十五条、律二百八十五条となった。また小民が周知できないことを恐れ、大理卿周楨らに命じて定めた律令を取り、礼楽・制度・銭糧・選法の外、凡そ民間に行われるべき事柄を類聚して編と成し、その義を訓釈し、郡県に頒布して、名づけて『律令直解』とした。太祖はその書を覧じて喜び言った。「我が民は過ちを少なくすることができるであろう」。

洪武元年、また儒臣四人を命じ、刑官とともに『唐律』を講じ、日に二十条を進講させた。五年、宦官禁令及び親属相容隠律を定めた。六年夏、『律令憲綱』を刊行し、諸司に頒布した。その冬、詔して刑部尚書劉惟謙に『大明律』を詳定させた。毎に一篇を奏上するごとに、両廡に掲示し、親しく裁酌を加えた。成ると、翰林学士宋濂が表を為して進め、言った。「臣は洪武六年冬十一月に詔を受け、明年二月に書を成しました。篇目は一に唐を基準とします。衛禁・職制・戸婚・廄庫・擅興・賊盗・闘訟・詐偽・雑律・捕亡・断獄・名例と称します。旧律二百八十八条を採用し、続律百二十八条、旧令を改めて律としたもの三十六条、事に因って律を制したもの三十一条、『唐律』を掇拾して遺漏を補ったもの百二十三条、合わせて六百六条、三十巻に分けました。或いは損じ、或いは益し、或いはその旧に仍り、務めて軽重の宜しきに合わせました」。九年、太祖は律条に未だ当らざるものがあるのを覧て、丞相胡惟庸・御史大夫汪広洋らに詳議を命じ、十三条を釐正した。十六年、尚書開済に詐偽律条を定めさせた。二十二年、刑部が言うには、「近年条例の増損が一様でなく、獄を断ずるに失当を来たします。編類して頒行し、中外をして遵守すべきところを知らしめたい」。ここに翰林院に命じて刑部官とともに、近年増加したものを取り、類を以て附入させた。『名例律』を改めて篇首に冠した。

巻は凡そ三十、条は四百六十である。『名例』一巻、四十七条。『吏律』二巻、職制十五条、公式十八条。『戸律』七巻、戸役十五条、田宅十一条、婚姻十八条、倉庫二十四条、課程十九条、銭債三条、市廛五条。『礼律』二巻、祭祀六条、儀制二十条。『兵律』五巻、宮衛十九条、軍政二十条、関津七条、廄牧十一条、郵駅十八条。『刑律』十一巻、盗賊二十八条、人命二十条、闘毆二十二条、罵詈八条、訴訟十二条、受贓十一条、詐偽十二条、犯奸十条、雑犯十一条、捕亡八条、断獄二十九条。『工律』二巻、営造九条、河防四条。

五刑の図は凡そ二つある。第一の図は五つ。笞・杖・徒・流・死という。笞刑五等、一十より五十まで、毎に十を以て一等とし加減する。杖刑五等、六十より一百まで、毎に十を以て一等とし加減する。徒刑五等、徒一年は杖六十、一年半は杖七十、二年は杖八十、二年半は杖九十、三年は杖一百、毎に杖十及び徒半年を以て一等とし加減する。流刑三等、二千里・二千五百里・三千里、皆杖一百、毎に五百里を以て一等とし加減する。死刑二等、絞・斬。五刑の外に、徒には総徒四年(例に遇えば一年を減ずる)があり、準徒五年(斬・絞・雑犯が減等されたもの)がある。流には安置があり、遷徙(郷里を去ること一千里、杖一百、準徒二年)がある。口外為民があり、その重いものを充軍という。充軍は、明初にはただ辺方の屯種に限った。後に定制として、極辺・煙瘴・辺遠・辺衛・沿海・附近に分けた。軍には終身のものと永遠のものがある。二死(絞・斬)の外に、凌遅があり、大逆不道などの諸罪を処するのに用いた。充軍・凌遅は五刑の正ではないので、図には列挙しない。凡そ徒流の再犯者は、流者は原配の処所において、工・楽戸留住の法に依る。三流は併せて杖一百を決し、拘役三年とする。拘役とは、流人は初めはただ安置したが、今は居作を加えたもので、即ち唐・宋の所謂加役流である。徒者は原役の所において、犯した杖数・年限に依って決し終え、応役は四年を過ぎてはならない。

次に図七を掲ぐ:笞、杖、訊杖、枷、杻、索、鐐と曰う。笞は、大頭の径二分七厘、小頭は一分を減ず。杖は、大頭の径三分二厘、小頭は笞の数と同じく減ず。笞と杖は共に荊条を以て作り、皆臀に受く。訊杖は、大頭の径四分五厘、小頭は笞・杖の数と同じく減じ、荊条を以て作り、臀と腿に受く。笞・杖・訊は、皆長さ三尺五寸、官降の式を用いて較勘し、筋・膠等の諸物を以て装釘せざるべし。枷は、十五斤より二十五斤に至るまでとし、其上に長短軽重の数を刻す。長さ五尺五寸、頭の広さ一尺五寸、杻の長さ一尺六寸、厚さ一寸、男子の死罪の者之を用う。索は、鉄を以て作り、軽罪の者を繋ぐに用い、其の長さ一丈。鐐は、鉄を連環とし、以て足を縶ぎ、徒罪の者は之を帯びて輸作に従い、重さ三斤。

また喪服の図凡そ八を為す:族親に犯有るは、服の等差を視て刑の軽重を定む。礼に因りて義を起す者は、養母・継母・慈母は皆三年の服を着す。之を毆殺するは、嫡母を毆殺すると同じ罪とす。兄弟の妻は皆小功の服を着し、互いに容隠する者は、罪は遞減を得。舅姑の服は皆斬衰三年、之を毆殺罵詈する者は、夫が毆殺罵詈するの律と同じ。姨の子・舅の子・姑の子は皆緦麻、是を表兄弟と曰い、相為に婚姻することを得ず。

大悪は十有り:謀反と曰い、謀大逆と曰い、謀叛と曰い、悪逆と曰い、不道と曰い、大不敬と曰い、不孝と曰い、不睦と曰い、不義と曰い、内乱と曰う。常赦に雖も原さず。貪墨の贓は六有り:監守盗と曰い、常人盗と曰い、窃盗と曰い、枉法と曰い、不枉法と曰い、坐贓と曰う。議に当る者は八有り:議親と曰い、議故と曰い、議功と曰い、議賢と曰い、議能と曰い、議勤と曰い、議貴と曰い、議賓と曰う。

太祖、太孫に諭して曰く、「此の書は首に二刑図を列ね、次に八礼図を列ぬるは、礼を重んずるなり。顧みるに愚民は無知なり、若し本条の下に即ち寛恤の令を注せば、必ず易くして法を犯さん、故に広大なる好生の意を以て、総じて《名例律》の中に列ぬ。法を用いるに善き者は、其の意を会する可し。」太孫、更に五条以上を定めんことを請う、太祖之を覧めて善しとす。太孫又請うて曰く、「明刑は以て教を弼うる所以なり、凡そ五倫に相渉る者は、宜しく皆法を屈して情を伸ぶべし。」乃ち命じて七十三条を改定せしめ、復た之に諭して曰く、「吾は乱世を治む、刑は重からざるを得ず。汝は平世を治む、刑は自ら軽かるべし、所謂く刑罰は世に軽く世に重しと謂うなり。」二十五年、刑部言う、律条と条例と異なる者は宜しく更定すべしと。太祖、条例は特なる一時の権宜なりとし、定めたる律は改むべからずとして、従わず。

三十年、《大明律誥》を作り成る。午門に御し、群臣に諭して曰く、「朕は古に倣いて治め、礼を明らかにして民を導き、律を定めて頑を縄し、刊して令と為す。行うこと既に久しく、犯す者猶お衆し、故に《大誥》を作りて民に示し、吉に趨き兇を避くるの道を知らしむ。古人、刑を祥刑と謂う、豈に民をして天地の間に並び生ぜしめんと欲せざらんや!然れども法は有司に在り、民は周く知らず、故に刑官を命じて《大誥》の条目を取り、其の要略を撮り、律に附載せしむ。凡そ榜文の禁例は悉く之を除き、謀逆及び《律誥》に該載するを除く外、其の雑犯大小の罪は、悉く贖罪の例に依りて論断し、編次して書を成し、中外に刊布し、天下をして遵守すべき所を知らしむ。」

《大誥》は、太祖、民の元の習に狃り、私に徇りて公を滅し、戾の日に滋むを患え、十八年、官民の過犯を採輯し、条として《大誥》と為す。其の目十条:攬納戸と曰い、安保過付と曰い、詭寄田糧と曰い、民人経該不解物と曰い、灑派拋荒田土と曰い、倚法為奸と曰い、空引偷軍と曰い、げい刺在逃と曰い、官吏長解売囚と曰い、寰中士夫不為君用と曰う。其の罪は抄劄に至る。次年、復た《続編》、《三編》を為し、皆学宮に頒して以て士を課し、里に塾師を置きて之を教う。囚に《大誥》有る者は、罪減等す。時に当り、天下に《大誥》を講読する師生来朝する者十九万余人有り、並びに鈔を賜い遣還す。《律誥》出づるより、《大誥》に載する所の諸の峻令は未だ嘗て軽く用いず。其の後、罪人は率ね《大誥》を援りて以て減等し、亦復た其の有無を論ぜず。

蓋し太祖の律令に於けるや、草創は呉元年に在り、更定は洪武六年に在り、整斉は二十二年に在り、三十年に至りて始めて天下に頒示す。日久くして慮精しく、一代の法始めて定まる。中外の獄を決するは、一に三十年の頒する所に準ず。其の洪武元年の令に、律に載せずして令に具わる者は、法司之を援りて以て証と為し、上に請いて後に行うことを得。凡そ令に違う者は罪笞す、特旨に臨時に罪を決し、律令として著さざる者は、此の例に在らず。有司輒ち比律を引き、致して罪に軽重有らしむるは、故入を以て論ず。罪に正条無くば、則ち律を引きて比附し、罪名を定め擬し、部に達して議定し奏聞す。若し輒ち断決し、致して罪に出入有らしむるは、故失を以て論ず。

大抵明律は唐に比し簡核なるも、寛厚は宋に如かず。其の惻隠の意に至りては、各条に散見し、一を挙げて以て推す可し。如し罪応に加うるは、必ず贓数に満ちて乃ち坐す。如し監守自盗は、贓四十貫に至りて絞す。若し止むこと三十九貫九十九文に在りては、一文を欠くも坐さず。加うるは流三千里に極まり、以て次第に増重すれども、終に死に至ることを得ず。而して流に減ずるは、死よりして生に之き、絞と斬の別無し。即ち唐律の加えて重き条に就くを称するなり。日を称するは百刻を以てし、年を称するは三百六十日を以てす。如し人命の辜限及び各文書の違限は、稍々一時刻に及ばざるも、仍ほ以て所限の年月を以て罪を科することを得ず、即ち唐例の日を称するは百刻を以てする条なり。未だ老疾ならずして犯罪し、而して事老疾に発するは、老疾を以て論ず;幼小にて犯罪し、而して事長大に発するは、幼小を以て論ず。即ち唐律の老小廃疾の条なり。死罪を犯し、常赦の原さざる所に非ざれども、祖父母・父母老いて養う者無きは、奏聞して上裁を取ることを得。徒流を犯す者は、余罪収贖を得、存留して親を養う。即ち唐律の罪十悪に非ざる条なり。功臣及び五品以上の官獄に禁ぜらるる者は、親人の入侍を許し令し、徒流の者は並びに随行を聴す、違う者は罪杖す。同居の親属罪有るは、互いに相容隠することを得。即ち唐律の同居相容隠の条なり。奴婢は主を首することを得ず。凡そ人を告ぐるは、人の祖父を告ぐるは其の子孫を指して証と為すことを得ず、弟は兄を証せず、妻は夫を証せず、奴婢は主を証せず。文職は法を奉ずるに責在り、杖を犯せば則ち叙せず。軍官徒流に至るも、世功を以て猶お擢用を得。凡そ此の類の若きは、或いは間々唐律を採り、或いは更に新制を立て、所謂く父子の親を原り、君臣の義を立てて以て之を権る者なり。

建文帝が即位し、刑官に諭して曰く、「『大明律』は皇祖が親しく定められ、朕に細かに閲させられたものであるが、前代に比べて往々にして重くなっている。これは乱国を刑する典であって、百世を通じて行うべき道ではない。朕が以前に改定したものは、皇祖が既に施行を命じられた。しかし罪に矜疑の余地がある者は、なおこれに止まらない。そもそも律は大法を設け、礼は人情に順う。民を刑で斉えるよりは、礼をもってするに如かず。天下の有司に諭し、礼教を崇めることに務め、疑獄を赦し、朕が万方を嘉し与える意に称えよ」。成祖は法司に詔して囚人を訊問するに、一に『大明律』に依って擬議し、妄りに榜文条例を引いて深文と為すことなからしむ。永楽元年、誣告の法を定む。成化元年、また讞囚する者は一に正律に依り、所有の条例を尽く革すべしと令す。十五年、南直隸巡撫王恕言う、「『大明律』の後、『会定見行律』百八条あり、その起こりを知らず。例えば『兵律』の多支廩給、『刑律』の制使を罵り及び本管長官を罵る条は、皆軽重倫を失う。四方に流伝し、官守を誤らしむ。乞う、板を追って焚毀せしめよ」。命じて即時にこれを焚ぜしめ、この律に依って人罪を出入する者あらば、故をもって論ず。十八年、挟詐して財を得る罪例を定む。

弘治の中頃、定律してより既に百年を去り、法を用いる者日弛む。五年、刑部尚書彭韶等、鴻臚少卿李鐩の請いに以って、『問刑条例』を刪定す。十三年に至り、刑官復た上言す、「洪武末、『大明律』を定め、後また『大誥』を申明し、罪有れば減等し、累朝遵用す。その法外の遺奸は、列聖時に因りてこれを推広して例有り、例は律を輔くるを以ってし、律を破るを以ってせず。乃ち中外の巧法の吏或いは便己の私を借り、律浸く格用いられず」。ここに於いて尚書白昂等に下し、九卿を会して議せしめ、歴年の問刑条例の経久して行うべきもの二百九十七条を増す。帝その中の六事を摘み、再議して以って聞かしむ。九卿執奏す、乃ち果たして改めず。然れども是より以後、律例並行して網も亦た少しく密なり。王府の禁例六条、諸王故なくして城を出づれば罰有り、その法特に厳し。嘉靖七年、保定巡撫王応鵬言う、「正徳の間、新たに問刑条例四十四款を増し、情法に深く中る、皆編入すべし」。従わず。惟だ詔して印信を偽造し及び窃盗三犯する者は可矜の例を用いることを得ざらしむ。刑部尚書胡世甯また断獄新例を編するを請う、亦た律文及び弘治十三年の欽定したるものに依るべしと命ず。二十八年に至り、刑部尚書喻茂堅言う、「弘治の間例を定めてより、五十年を垂んず。乞う、臣等に勅して三法司と会同し、『問刑条例』及び嘉靖元年以後の欽定事例を申明し、永く遵守せしめよ。弘治十三年以後、嘉靖元年以前の事例は、詔を奉じて革除せられたりと雖も、顧みるに事に因りて条陳し、擬議精当にして採るべきもの有り、亦た詳かに検すべし。若し官司妄りに条例を引き、故に人罪に入るる者は、当に黜罰を議すべし」。会す茂堅官を去る、詔して尚書顧応祥等に定議せしめ、二百四十九条に増す。三十四年、また尚書何BIの言に因り、九事を増入す。万暦の時、給事中烏昇条例を続増するを請う。十三年に至り、刑部尚書舒化等乃ち嘉靖三十四年以後の詔令及び宗籓軍政条例、捕盗格、漕運議単と刑名に関わるものを輯め、律を正文とし、例を附註とし、共に三百八十二条、世宗の時の苛令を刪ること特に多し。崇禎十四年、刑部尚書劉沢深復た『問刑条例』を議定するを請う。帝は律は応に恪く遵うべく、例は上下有り、事同じくしてその例を二三にするものは、刪定して画一と為すを是とす。然れども時に方に法を急にし、百司過ちを救うに暇あらず、議未だ行わるるに及ばず。

太祖の律文を定むるや、歴代相承し、敢えて軽く改むる者無し。その一時の変通は、或いは詔令に由り、或いは廷臣の奏議に発し、治体に関わり、言施行を獲るものは、詳ならざるべからず。

洪武元年、省臣に諭して曰く、「獄を鞫むるは平恕なるべし。古は大逆不道に非ざれば、罪身に及ぶに止まる。民に犯す者有らば、連坐することを得ず」。尚書夏恕嘗て漢法を引き、律に著すを請い、反する者は三族を夷す。太祖曰く、「古は父子兄弟罪相及ばず、漢は秦の旧に仍り、法重きに過ぐ」。その奏を却して行わず。民の父誣を以って逮えられ、その子刑部に訴う。法司越訴を以って坐す。太祖曰く、「子父の枉を訴うるは、至情より出づ、罪すべからず」。子法を犯し、父賄を以って免れんことを求むる者あり。御史並びに父を論ぜんと欲す。太祖曰く、「子論死し、父これを救うは、情なり。但だその子を論じ、その父を赦せ」。十七年、左都御史詹徽民の妊婦を毆ちて死に至らしむる者を奏す。律当に絞すべし。その子代わるを乞う。大理卿鄒俊議して曰く、「子父の死に代わるは、情矜るべし。然れども死婦は二人の命に係り、犯人は二死の条に当たる。犯法の人を存するに、いずくんぞ辜なき子を全うするに若かんや」。詔して後議に従う。二十年、詹徽言う、「軍人に犯す有りて杖すべく、その人嘗て両たび罪を得て免る。宜しく前罪を並び論じ、これを誅すべし」。太祖曰く、「前罪既に宥し、復たこれを論ずれば則ち信ならず」。杖してこれを遣わす。二十四年、嘉興通判龐安私塩を鬻ぐ者を獲て京師に送り、而して塩を以って獲る者に賞す。戸部その例に違うを以ってし、塩を償って官に入るるを罰し、且つ罪状を取るを責む。安言う、「律は万世の常法、例は一時の旨意なり。今例に依って行わんと欲すれば、則ち律内の応に捕うる人に賞を与うるの言に非ず、自ら相違悖し、天下に信を失わん」。太祖その言然りとし、詔して律の如くせしむ。

永楽二年、刑部言う、河間の民その母を訟う。有司反って母の罪を擬す。詔してその子及び有司を執えてこれを罪す。三年、文職官及び中外の旗校軍民人等、凡そ重条を犯す者は、律に依って科断し、軽き者は決を免じ、罪を記す。その侵損すべからざる人等の項に応ぜず及び情犯重き者あれば、臨時に奏請す。十六年、贓を犯す官吏の禁を厳にす。初め、太祖貪吏を重く懲し、詔して贓を犯す者は貸すこと無からしむ。復た刑部に勅す、「官吏贓を受くる者は、並びに賄を通ずるの人を罪し、その家を辺に徙す。令と為して著せ」。日久しく法弛む。故に復たこれを申飭す。二十九年、大理卿虞謙言う、「誑騙の律は、当に杖して流すべし。今梟首すは、詔書の意に非ず」。命じて律の如く擬断せしむ。宣徳二年、江西按察使黄翰言う、「民間の無籍の徒、好んで詞論を興し、輒ち老幼残疾の男婦をして平人を誣告せしむ。必ず更に議して虚に涉るを加罰すべし」。遂に老幼残疾の男婦人の誣告する者鈔を罰して罪を贖う例を定む。その後孝宗の時、南京に十人以上を誣告するを犯す者あり。例に発して口外に為民とす。而して年七十を逾え、律応に収贖すべき者は、更に令を著し、凡そ年七十以上、十五以下及び廃疾の者は、律に依って論断す。例応に軍に充て暿愰哨し、口外に為民とすべき者は、仍た律に依って発遣す。若し年八十以上及び篤疾にして犯す有りて応に永戍すべき者は、子孫を以って発遣し、応に軍に充て以下はこれを免ず。

初めの制度では、官吏らが枉法贓(賄賂)を犯した者は、南北を問わず、全て北方の辺境の衛所に発遣して軍に充てた。正統五年、行在の三法司が言上した。「洪武年間に律を定めた時は、紙幣が高く物価が安かったので、枉法贓が百二十貫に至る者は、絞を免じて充軍とした。今は紙幣が安く物価が高い。もし物の価で紙幣に換算して百二十貫となる枉法贓を全て充軍に発遣すれば、軽重の均衡を失う。今後、文官の官吏らが枉法贓を受け、律に比照して絞に該当する者は、紙幣八百貫以上と見積もった場合に、全て北方の辺境の衛所に充軍とする。その贓が前の数に及ばない者は、現行の例によって処断する。」これを従った。八年、大理寺が言上した。「律には窃盗の初犯は右腕に刺字、再犯は左腕に刺字、三犯は絞と載せている。今、窃盗が赦に遇って再犯した者は、皆初犯として処し、あるいは依然として右腕に刺字し、あるいは刺字しない。例として定めることを請う。」上奏文を三法司に下して議させ、右腕に刺字した者が赦に遇って再犯した者は左腕に刺字し、左腕に刺字した者が赦に遇ってまた犯した者は刺字せず、記録を立てる。赦の後に三犯した者は絞とする。」帝は言った。「窃盗で既に刺字した者が赦に遇って再犯した者は、常例によって擬断し、赦を論ぜず、なお前後の犯した罪を通じて具申せよ。」後に憲宗の時、都御史李秉が旧例を援用して奏上して廃止した。間もなく南京の盗賊王阿童が五回犯しても皆赦に遇って免じられた。帝はこれを聞き、詔して依然として赦の前後を通じて三犯を令とする。神宗の時に至り、また議して奏請し改めて発遣することとなった。十二年、知県陳敏政の上言により、民が後妻が連れてきた前夫の娘を子の嫁とし、及び連れてきた前夫の子を婿とする者は、共に同父異母の姉妹の律に依り、減等して科断することとした。成化元年、遼東巡撫滕照が言上した。「『大明律』は一代の定法であるのに、武臣を決断する時は、独り律を捨てて例を用い、武臣は益々放縦で不謹慎となる。一切律を用いることを請う。」詔してこれに従った。武臣で罷免降格された者は、口を極めて誹謗し、役人は事を恐れ、また奏上してその令を廃止した。十九年に定め、窃盗三犯の罪例とした。法司は「南京に三犯の窃盗があり、贓を計算して百貫に満ちる者は、絞斬に当たる。罪は雑犯であるが、その情は頗る重い。三犯前の罪は、即ち悪を累ねて悔い改めない者であり、常例に準じ難い。その貫に満たない犯で、徒流以下の罪の者は、三犯に至っても、情を推し量れば実に軽く、特に常例に依ってこれを治めるべきである。」議を上し、允可された。

弘治六年、太常少卿李東陽が言上した。「五刑で最も軽いのは笞杖であるが、杖には分寸があり、数には多寡がある。今、地方の諸官庁では、笞杖の罪で往々にして死に至らしめる。仮に事が発覚しても、公務によるものとして職に戻るに過ぎない。極めて軽い刑罰で、再び生き返ることのない地に置き、多い者は数十、甚だしい者は数百、骸骨が獄に満ち、血が地を塗るは、傷心に堪えぬ。律には故意に無実の人を拷問した者は命に抵い、刑具が非法の者は除名するとあるが、偶々これに出なければ、便ち公という。一旦公の名があれば、多くても害はない。これは情が重くて律が軽いものであり、議しないわけにはいかない。請うに、軽罪を考訊して即時に致死し、累計二十人または三十人以上に及ぶ者は、本律の外、なお降格・転任を議して行い、あるいは病死が不実の者は、併せてその医師を治罪することを。」乃ち所管の官庁に下して議処させた。嘉靖十五年、時に手足で人を殴り傷を負わせ重く、辜限(保辜期限)を延ばして外で死なせた者がおり、刑部は闘殴殺人として絞を論じた。大理寺は嘉靖四年の例を執り、殴傷として笞を論ずべきと謂った。部臣が言った。「律は辜限を定め、『問刑条例』ではまた闘殴殺人で情実事実の者は、限外に延びても、なお死罪を擬し、奏請して定奪を請うとしている。臣の部が擬して上奏する毎に、宸断を奉じ、多くは充軍に発遣される。蓋し前の科条を執らなくとも、僅かに末減するのみである。殴傷で情実が限外の死に至り、即ち笞で断ずるのは、これは僥倖の兇人である。且つ兇器で人を傷つけ、平癒しても、例では充軍とする。実に人を殴り致死させ、偶々限外で死んだからといって、遂に一つの兇器傷人の罪に当たらないことがあろうか。況んや四年の例は既に廃止が報告されている。請うに中外に諭し、依然として『条例』のままが便宜である。」詔して部議の通りとした。以後、辜限外の人命を犯す者があれば、皆律例に遵って議擬し、奏請して定奪することとなった。

隆慶三年、大理少卿王諍が言上した。「問刑官が毎度律例に背き、独り己の見解を恣にする。例えば律文に謂う『凡そ制書を奉じて施行するに違う者は杖一百』とは、本来制誥を指す。今では軍を操練する期限に違反し、守備官軍が直番に入らず、賭博場を開くことまで、一概にこの例を用いる。律文の犯姦条下に謂う『買休売休、和娶人妻』とは、本来財を用いてその妻を買い求め、また彼にその妻を休ませ売らせ、それによってこれを娶る者を言う。故に律では離異して実家に帰し、財礼は没収すべきである。夫婦不和の者は、律では離異すべきであり、婦人が姦を犯した者は、律では嫁売に従う。則ち後夫が媒を憑み財を用いて娶って妻とする者は、元より姦情ではなく、律で禁じていない。今では一概に買休・売休・和娶の律を引用する。謂う『不応得為而為す者は、笞四十、重き者は杖八十』とは、蓋し律文に該当する記載が尽きていない場合に、初めてこの律を用いるのである。もし犯したことが明らかに正条があるなら、自ずと本条に依って科断すべきである。今、犯したことは人を殴って傷を負わせ、罪は笞に相当するのに、罪を議する者は『人を殴って傷を負わせたことは、律が軽く坐さない外、合せて不応得為而為す事理の重き者、律杖八十に依る』と言う。既に人を殴る軽罪を除いて坐さないなら、則ち坐すべき罪は無い。而又『不応得為』を坐す、臣は誠にその謂う所を知らない。」刑部尚書毛愷が力爭し、廷臣は皆王諍の議に賛同した。旨を得て「買休・売休は、本来姦条に属する。今後犯す者があれば、姦情に係らないものは引用してはならない。他のことは従前通り。」

萬曆年中、左都御史吳時來が律例六条を申明した:

一、律は庶人の家は奴婢を養うことを許さずと称す。蓋し功臣の家のみ奴婢を賞賜し、庶民は自ら勤労に服すべき故に、養うことを得ざるなり。犯す者有れば皆僱工人と称し、初め縉紳の家に言及せざるなり。縉紳の家、奴婢を養うは、勢い免れ難し。法司に令して酌議せしめ、官民の家を論ぜず、券を立てて値を用い、工作に年限有る者は、僱工人を以て論ずべし;値を受くる微少にして、工作を日月に計る者は、凡人を以て論ずべし。若し財を以て十五以下を買い、恩養日久しく、十六以上にて室家を配する者は、子孫を視るに同じく論ずべし。或いは恩養未だ久しからず、未だ配合せざる者は、庶人の家は仍て僱工人を以て論じ;縉紳の家は、奴婢律を視て論ずべし。一、律は諸衙門の印信を偽造する者を斬ると称す。惟だ銅鉄を私に鑄する者は、故に斬る。若し篆文印に似たれども、形質印に非ざる者は、偽造と謂うべからず、故に例また描摸の充軍の條を立てたり。以後偽造印信の人犯、木石泥蠟の類に係る如きは、止だ描摸の例を引き、若し再犯せば斬を擬すべし。偽造行使止だ一次にして、贓徒に満たざる者は、亦た竊盜を準じて論ずべし。再犯せば例を引き、三犯せば律を引くべし。一、律は竊盜三犯する者は絞と称し、曾て刺字を経るを以て坐とす。但し贓に多寡有れば、即ち軽重を擬す。以後凡そ竊盜に遇い、三犯俱に赦前に在り、俱に赦後に在る者は、律に依りて絞を論ずべし。或いは赦前後に犯し並びに三次を計る者は、皆得て奏請し定奪を請うべし。録官は矜疑辨問の疏内に附し、並びに改遣を与うべし。一、強盗肆に劫殺を行い、贓に按じて闢を擬し、決して時を待たず。但し其中豈に羅織し讎を扳げ、妄りに収めて罪に抵うる者無からんや?以後務めて参詳すべし。或いは贓證未だ明らかならず、遽かに懸断し難き者は、俱に秋後斬を擬すべし。一、律は同謀共に人を毆り、以て致命の傷重きに致すは、下手の者を絞を論じ、原謀餘人は各々其の罪を得ると称す。其れ両三人有りて一人を共に毆り、各々重傷を成し、下手及び造謀主令の人を定め難きに、監に在りて禁斃する者有るに遇えば、即ち以て抵を論ず。今恤刑官、家に在りて病故し、且つ数年之後に在る者に遇えば、即ち見監の下手の人を擬して矜宥に従わしむ。是れ病亡の軀を以て、毆死の命に抵うるなり、殊に縱濫に属す。以後一概に準抵することを得る毋かれ。一、京に在る惡逆と強盗の真犯は、刑を停むるの年と雖も、亦た時を失わず処決す。乃ち兇惡父を殺すに至れば、即時淩遲すと雖も、猶ほ餘憾有り。而して外に在りて此の類反って歳月を遷延するを得、以て故事類奏に当たり、単奏の例無きのみ。夫れ単奏は急詞なり;類奏は緩詞なり。此の獄の外に在りて数年、其の瘐死せしむるに、将に何を以てか神人の憤を快くせん!今後外に在りて、凡そ此れ有る者は、御史単に詳して院に到り、院寺単に奏し、決単一到れば、即時処決すべし。其の死者は府州県に下り其の屍を戮すべし。庶幾く典刑正しきを得ん。

旨下部寺に下り酌議せしめ、俱に之に従う。惟だ印文を偽造する者は、何物を成造するを問わず、皆斬る。報じて可とす。

贖刑は本より《虞書》に在り、《呂刑》に大辟の贖有り、後世皆之を重んじて言う。宋時に至り、尤も贖罪を慎み、八議に非ざる者は与かることを得ず。明律頗る厳なり、凡そ朝廷矜恤する所有り、律に限られて伸ぶるを得ざる者は、一に之を贖例に寓す、以て法の太重なるを済わす所以なり。又国家時に其の入を得て、以て緩急を佐く。而して実辺・足儲・振荒・宮府頒給の諸大費は、往々にして贓贖の二者に取り給す。故に贖法歴代に比して特ち詳なり。凡そ贖法に二有り、律に収贖を得る者有り、例に納贖を得る者有り。律贖は敢えて損益無く、而して納贖の例は則ち時に因り権宜し、先後互いに異なり、其の端実に太祖に開かる。

律に凡そ文武官公事を以て笞罪を犯す者は、官は等に照らして贖銭を収め、吏は毎季類決し、各々職役に還り、過を附せず。杖以上は犯せる罪名を記し、毎歳類送して吏・兵二部に送り、九年満考を候ち、通じて犯せる次数を記し之を黜陟す。吏典も亦た銓選降敘を備う。私罪に至りては、其の文官及び吏典笞四十以下を犯す者は、過を附して職に還りて贖わず、笞五十の者は調用す。軍官杖以上は皆的決す。文官及び吏の杖罪は、並びに職を罷めて敘せず、至って厳なり。然れども洪武中年より已に三たび令を下し、贖を準じ及び雑犯死罪以下たり。三十年、部院に命じて贖罪事例を議定せしめ、凡そ内外の官吏、笞杖を犯す者は過を記し、徒流遷徙する者は俸を以て之を贖い、三犯は律の如く之を罪す。是より律と例互いに異同有り。及び《大明律》を頒行し、御製の序に「雑犯死罪・徒流・遷徙等の刑は、悉く今定の贖罪条例を視て科断す」と。是より例遂に律を輔けて行わる。

仁宗初め即位し、都察院に諭して言う「罰を輸し工作の令行わるれば、財有る者悉く倖免す、宜しく一に律の如く論ずべし」と。久しきに及び、其の法復た弛む。正統間、侍講劉球言う「罪を輸するは古に非ず、公罪贖を許す外は、宜しく悉く律に依るべし」と。時に従う能わず。其の後太祖の例に循い、益々之を推広す。凡そ官吏公私雑犯準徒以下は、俱に運炭納米等の項を聴きて贖罪す。其の軍官軍人例に照らして徒流を免るる者は、例贖も亦た之の如し。

贖罪の法、明初嘗て銅を納め、成化間嘗て馬を納め、後皆行われず、具に載せず。惟だ鈔を納め・銭を納め・銀を納むるは常に並び行わる。而して初制鈔を納むるを本とす。故に律贖する者は収贖律鈔と曰い、納贖する者は贖罪例鈔と曰う。永楽十一年、公罪は例に依りて記録収贖し、及び死罪情重き者は律に依りて処治し、其の情軽き者は、斬罪八千貫、絞罪及び榜例死罪六千貫、流徒杖笞は鈔を納むるに差有ると令す。力無き者は天寿山に発して樹を種わしむ。宣徳二年、笞杖罪囚を定む、毎十ごとに鈔二十貫を贖う。徒流罪名は、徒一等毎に杖二十を折り、三流並びに杖百四十を折る。其の罰する鈔は、悉く笞杖の定むる所の如し。力無き者は天寿山に発して樹を種わしむ;死罪は終身;徒流は各々年限に按ず;杖は五百株;笞は一百株。景泰元年、問擬笞杖罪囚、力有る者は鈔を納む。笞十は二百貫、毎十ごとに二百貫を以て遞加し、笞五十に至りて千貫と為す。杖六十は千八百貫、毎十ごとに三百貫を以て遞加し、杖百に至りて三千貫と為す。其の官吏の贓物も、亦た今例に視て鈔を折る。天順五年、罪囚鈔を納むるを令す、毎笞十ごとに鈔二百貫、餘の四笞は百五十貫を遞加し;杖六十に至りて千四百五十貫に増し、餘の杖は各々二百貫を遞加す。成化二年、婦人法を犯し罪を贖うを令す。

弘治十四年、折収銀銭の制を定む。例難的決の人犯、並びに婦人力有る者は、毎杖百ごとに、応に鈔二千二百五十貫、銀一両に折る;毎十ごとに二百貫を以て遞減し、杖六十に至りて銀六銭と為す;笞五十は、応に減じて鈔八百貫と為し、銀五銭に折り、毎十ごとに百五十貫を以て遞減し;笞二十に至りて銀二銭と為す;笞十は応に鈔二百貫、銀一銭に折る。銅銭を収むるは、毎銀一両ごとに七百文に折る。其の律に依りて鈔を贖うは、過失殺人の外、亦た此の数に視て折収す。

正徳二年、銭と鈔を兼ねて収める制度を定めた。例えば杖刑一百は、応に鈔二千二百五十貫を収めるべきところ、鈔千一百二十五貫と銭三百五十文を収める。嘉靖七年、湖広巡撫都御史朱廷聲が言上した。「収贖と贖罪は異なり、在京と在外では同じでなく、鈔貫は都下にのみ集まり、銭法は南方では行われない。旧例によれば、審有力及び命婦・軍職の正妻、及び例により的決が難しい者は、贖罪例鈔がある。老幼廃疾及び婦人の余罪には、収贖律鈔がある。贖罪例鈔は銭鈔を兼ねて収め、例えば笞刑一十は、鈔百貫を収め、銭三十五文を収め、その鈔二百貫は銀一銭に折る。杖刑一百は、鈔千一百二十五貫を収め、銭三百五十文を収め、その鈔二千二百五十貫は銀一両に折る。今、収贖律鈔は、笞刑一十で、ただ六百文を贖うのみで、例鈔に比べて銀に折れば一厘にも満たない。杖刑一百は、鈔六貫を贖い、銀に折れば一分にも満たず、あまりに軽すぎるようである。そもそも律鈔と例鈔は、貫数が既に同じでないから、銀に折ることもまた異なるべきである。請う、更に則を定め、凡そ収贖する者は、鈔一貫ごとに銀一分二厘五毫に折ることとせよ。例えば笞刑一十は、鈔六百文を贖うならば、銀七厘五毫に折り、罪の重軽に従って遞加して折り収贖すべし。」帝はその奏に従い、中外の問刑諸司に命じて、皆この例によって事を行わせた。

この時、条例を重修し、贖例を奏定した。在京では則ち做工(毎に笞刑一十は、做工一月、銀三銭に折る。徒五年に至れば、銀十八両に折る)、運囚糧(毎に笞刑一十は、米五斗、銀二銭五分に折る。徒五年に至れば、五十石、銀二十五両に折る)、運灰(毎に笞刑一十は、一千二百斤、銀一両二銭六分に折る。徒五年に至れば、六万斤、銀六十三両に折る)、運磚(毎に笞刑一十は、七十個、銀九銭一分に折る。徒五年に至れば、三千個、銀三十九両に折る)、運水和炭五等(毎に笞刑一十は、二百斤、銀四銭に折る。徒五年に至れば、八千五百斤、銀十七両に折る)がある。運灰が最も重く、運炭が最も軽い。在外では則ち有力・稍有力の二等がある。初めは頗有力・次有力などがあったが、御史の言上によって廃止された。その有力は、在京の運囚糧に準じ、米五斗ごとに穀一石を納める。初めは銀に折って上庫したが、後に穀に折って上倉した。稍有力は、在京の做工の年月を以て折贖とする。婦人で審有力と、命婦・軍職の正妻、及び例により的決が難しい人で、贖罪に応じて銭鈔を兼ねて収めるべき者は、笞・杖毎に一十は、銀一銭に折って収める。その老幼廃疾婦人及び天文生の余罪を収贖する者は、笞刑一十毎に応に鈔六百文は、銀七厘五毫に折って収める。ここにおいて軽重適宜に均しく、天下これを便利とした。万暦十三年に至り、再びこれを申明し、遂に定制となった。

凡そ律贖は、もし天文生で習業既に成り、能くその事に専らし、徒罪及び流罪を犯した者は、決杖一百し、余罪は収贖する。婦人が徒流罪を犯した者は、決杖一百し、余罪は収贖する。

例えば杖六十、徒一年は、全贖鈔応に十二貫、決杖を準じて既に六貫を除き、余鈔六貫は銀七分五厘に折る。余はこれに倣う。

その決杖一百は、審有力でまた例鈔二千二百五十貫を納め、応に銭三百五十文、鈔一千一百二十五貫を収める。

凡そ年七十以上十五以下及び廃疾で流罪以下を犯した者は、収贖する。八十以上十歳以下及び篤疾で、盗及び人を傷つけた者も、また収贖する。凡そ犯罪時に老疾でなく、事発時に老疾の者は、老疾に依って論じ、犯罪時に幼小で、事発時に長大の者は、幼小に依って論じ、並びに収贖を得る。

例えば六十九以下で犯罪し、年七十で事発し、或いは無疾時に犯罪し、廃疾後に事発すれば、老疾に依って収贖を得る。他の例では七十九以下で死罪を犯し、八十で事発し、或いは廃疾時に犯罪し、篤疾時に事発すれば、上請に入ることを得る。八十九で死罪を犯し、九十で事発すれば、論ぜず、収贖の例に在らず。

もし徒年限内に老疾となれば、またこれと同じである。

例えば杖六十、徒一年を犯し、一月の後に老疾となれば、全贖鈔十二貫を合計する。既に杖六十は、三貫六百文に準じ、残りの徒一年は、応に八貫四百文と計算する。徒罪一月毎に、鈔七百文を贖い、既に一月役すれば、七百文を贖うに準じる外、未贖の十一月は、応に七貫七百文を収贖する。余はこれに倣う。

老幼廃疾の収贖は、ただ雑犯五年のみはなおこれを科する。そもそも明初においては、即ち真犯死罪は、徒罪を以て論ずることはできないのである。

その誣告の例では、二事以上を告げ、軽きは実で重きは虚、或いは一事を告げ、軽きを誣って重きとする者は、既に論決すれば全く剩罪を抵当し、未だ論決せざれば笞杖は収贖し、徒流は杖一百し、余罪もまた聴いて収贖する。

例えば人に笞三十を告げ、内ただ一十が実で既に決すれば、全く抵当し、剩二十の罪は未決で、一貫二百文を収贖する。

例えば人に杖六十を告げ、内ただ二十が実で既に決すれば、全く抵当し、剩四十の罪は未決で、二貫四百文を収贖する。

例えば人に杖六十、徒一年を告げ、内ただ杖五十が実で既に決すれば、全く抵当し、剩杖一十・徒一年の罪は未決で、徒一年は杖六十に折り、併せて杖は共に七十となり、四貫二百文を収贖する。

例えば人に杖一百、流二千里を告げ、内ただ杖六十・徒一年が実で既に決すれば、総徒四年を以て論じ、全く抵当し、剩杖四十・徒三年の罪は未決で、連徒折杖流に加一等を以て論じ、共に計って杖二百二十、告実の杖六十・徒一年(杖六十に折る)を除き、剩杖一百は、鈔六貫を贖う。もし剩罪を計れば、杖一百以上を過ぎる場合は、須らく杖一百を決し終えて、余罪の方聴いて収贖する。

また過失により人を傷つけた者は、闘毆で人を傷つけた罪に準じ、律に依って贖銅を収める。死に至らしめた者は、雑犯の斬絞罪に準じて贖銅を収め、鈔四十二貫とする。内訳は鈔八分で三十三貫六百文、銅錢二分で八千四百文とし、その家に給付する。既に徒五年に処せられた者が再び徒罪を犯したときは、贖銅を収め、鈔三十六貫とする。もし徒流罪を犯した者が存留養親するときは、杖一百のみを決し、残りの罪は贖銅を収める。その法は実杖一百を決し、折贖を許さず、その後徒流の年限を計算し、老幼の例に一様に見てこれを贖う。この律は英宗の時に詔して有司に行わせ、後に制となった。天文生や婦女が徒流罪を犯し、決杖一百を決し、残りの罪を贖銅収める場合、たとえ罪が杖六十、徒一年に止まるものであっても、やはり決杖一百を決す。律に所謂「応加杖」というのがこれである。皆まず本律に依ってその犯した徒流の罪を議し、『大誥』によってこれを減ずる。臨決の時に至り、某は天文生、某は婦人であるとして、律に依って決杖一百を決し、残りは贖銅収める。決する杖が必ず一百でなければならないのは、五徒の数を包含するためである。しかし誣告で贖銅収める剩杖とは異なる。およそ残りの徒罪を贖銅収める者は決杖し、徒罪を贖い剩杖を収める者は、流を徒に折り、徒を杖に折り、数に照らしてこれを収めるのであり、その法はそれぞれ別である。婦人が徒流罪を犯した場合、成化八年に定例を定め、奸盗・不孝および楽婦を除き、もし審査して有力であれば決杖もまた納鈔によって贖罪することができるとした。例では毎に杖十を銀一銭に折ることを率とし、杖一百に至っては銀一両に折ることを止めとする。凡そ律に所謂収贖とは、残りの罪を贖うことである。その例によって贖罪を得る者は、決杖一百を贖うのである。徒・杖の両項を分けて科し、婦人を除き、その余の囚人の徒流は皆杖を決し贖わない。ただ弘治十三年に、楽戸の徒杖笞罪についても的決しないことを許した。これが律鈔の大凡である。

例鈔は嘉靖二十九年に定例を定めた。凡そ軍民諸色の人役および舍餘で審査して有力な者と、文武官吏・監生・生員・冠帯官・知印・承差・陰陽生・醫生・老人・舍人は、笞・杖・徒・流・雑犯死罪の別なく、皆に灰運び・炭運び・磚運び・納米・納料などの項目による贖罪を命じた。これは行止を損なわない者に係る。もし官吏人等で例によって職役を革去すべき者、これは行止を損なう者である。および軍民人等で審査して無力な者は、笞杖罪は的決し、徒・流・雑犯死罪は各々做工・擺站・哨暿愰・発充儀従とし、情状重い者は煎塩炒鉄とする。死罪は五年、流罪は四年、徒罪は年限に従う。在京の軍丁人等で差役に占められていない者と、例によって的決が難しい人は、笞杖もまた做工を命じる。当時の新例では、奸盗・贓物受け取りを犯し、行止を損なう人となった者は、一概に贖罪を許さない。ただ軍官で革職された者は、皆炭運び・納米などの項目で発落し、五刑条例の的決実配の条文を用いない。これは武夫を寛大にし、文吏を重く責めるためである。ここにおいて在京ではただ做工・運囚糧などの五項目のみを行い、在外ではただ有力・稍有力の二項目のみを行い、法令はますます簡略直截となった。

要するに論ずれば、律鈔は軽く、例鈔は重い。しかし律鈔は本来軽いものではない。祖制では毎に鈔一文を銀一釐に当て、所謂笞一十を鈔六百文に折り銀七釐五毫と定めたものは、即ち当時の銀六錢である。所謂杖一百を鈔六貫銀七分五釐に折ったものは、即ち当時の銀六両である。銀六錢を以て例鈔の折銀一釐に満たないものに比し、銀一両を以て例鈔の折銀一分に満たないものに比し、しかしてこれを以て犯罪者の心を懲らしめようとすれば、その勢い行なわれないところがあるのは当然である。特に祖宗の律文は改めることができないため、已むを得ず七釐五毫・七分五釐の制を定めた。しかし実際に定めた数は、なお贖う者の罪に相当するに足らず、その後例による変通が生じたのである。

洪武朝を考うるに、官吏軍民で罪を犯し贖うことを聴された者は、大抵罰役の令が多く、例えば鳳陽に発して屯種せしめ、滁州で苜蓿を植えさせ、農民の力役に代わり、米を運んで辺境に輸送して罪を贖うなどの類は、皆鈔納を用いない。律に載せるところ、笞若干を鈔若干文に、杖若干を鈔若干貫とするものは、一代の法を垂れたものである。しかし三十年の詔令を按ずるに、罪囚に米を運ばせて罪を贖わせ、死罪は百石、徒流は逓減し、その力及ばざる者は、死罪は自ら米三十石を備え、徒流は十五石とし、皆甘州・威虜に運納し、彼の地で充軍せしめた。その米価・運賃の費用を計算すれば、鈔数と大差ない。贖鈔の等級を定めたことは、固より後の例に軽くない。しかし罪は一定せず、鈔法の久しきに従い、日々変わり日々軽くなる。これは定律の時に予想し得なかったことである。即ち永楽十一年の「斬罪で情状軽き者は、鈔八千貫を贖い、絞罪および榜例の死罪は六千貫を贖う」との詔令を以て言えば、八千貫とは律の八千両であり、六千貫とは律の六千両である。下って杖罪千貫、笞罪五百貫もまた一千両・五百両である。革除の際とはいえ、用法が特に苛酷であったにせよ、どうして死罪で八千両、笞杖罪で一千両・五百両を納めて尚行なわれることがあろうか。則ち鈔法の弊は、永楽初年に於いて既に洪武時に比して十倍軽くなっているに止まらないことが知られる。

宣徳の時、交易に銀を用いる禁令を申し、鈔法を通じさせようとした。弘治に至って鈔は遂に用いることができなくなり、準鈔折銀の例を開いた。嘉靖の新定条例に及んで、皆有力・稍有力の二科を以て贖罪とした。有力は米五斗、これは律の鈔六百文を納ずるに準じる。稍有力は工価三銭、これは律の做工一月に準じる。是れ則ち後の例鈔は、僅かに初めの律鈔に比するに足るのみである。況んや老幼廃疾など、諸々律贖にある者の銀七釐五毫(鈔六百文に準ず)、銀七分五釐(鈔六貫に準ず)をや。凡そ所謂律贖なるものは、初めの律鈔に比べて、その軽重の相去ること特に懸絶しているのではないか。ただ運炭・運石などの諸罪例は稍々重い。蓋しこれらの諸罪は、初め皆自ら赴役することを命じ、事が完了すれば家に帰り、元より納贖の例はなかった。その後法令は益々寛大となり、その折納を聴き、事の力を估算しても略々相当し、実に弊とはならないのである。

およそ贖罪の例は二つあり、一つは罰役、一つは納鈔であるが、その例はさらに三度変化した。罰役とは、後に多くは工賃を折り納鈔とし、鈔法が既に壊れると、納銀・納米に変わった。しかし運灰・運炭・運石・運磚・運碎磚の名目はなお残っていた。万暦中年に至り、中外で通行する有力・稍有力の二科となり、在京の諸例は施行されず、法はますます統一された。いわゆる通変して古の意を失わないというのはこれである。初め、罪人に力役をもって罪を贖うことを許した。死罪は終身拘役、徒流は年限に従い、笞杖は日月を計算した。あるいは修造に従事し、あるいは屯種し、あるいは煎塩炒鉄に従事し、満期になると疏放した。疏放とは、御橋に引いて赴かせ、叩頭を終えると、応天府に送り、引を与えて家に帰らせることである。充軍に該当する者は、陝西司に発付し、籍に照らして編発した。後には皆工価を折納するようになり、ただ御橋に赴くことは旧の如くであった。宣徳二年、御史鄭道寧が言うには、「米を納めて罪を贖うのは朝廷の寛典であるが、軍儲倉が罪囚を拘束し、米を輸納できず、去年二月から今に至るまで、死者九十六人である」と。刑部郎の俞士吉がかつて奏上した。「囚人で米がない者は、原籍において追納を請い、工匠はなお作役を輸し、軍士はなお操練に備え、もし軍匠でなければ、所属する州県に遣還してこれを追うべきである」と。詔してその奏に従った。

初めの制度では流罪は三等あり、地の遠近を基準とし、辺衛充軍には定所があった。およそ死罪を一等降げたものは、ただ流罪と充軍が重い。しかし『名例律』には二死三流は各々同じく一減と称している。もし二死が恩赦に遇って一等減ずれば、すなわち流三千里となり、流三等は『大誥』によって一等減ずれば、皆徒五年となる。流罪を犯す者は、徒罪に減ぜられない者はない。故に三流は常に設けられて用いられなかった。そして充軍の例が特に重かった。律における充軍は凡そ四十六条、『諸司職掌』内の二十二条は、洪武年間の例であり、皆律に載せられていないものである。その嘉靖二十九年の条例では、充軍は凡そ二百十三条あり、万暦十三年に定めたものと大略同じである。洪武二十六年に定めたところでは、充軍に応ずる者は、大理寺が審議を終え、陝西司に開き付し、本部は文簿を置き立て、姓名・年齢・籍貫・郷里を注記し、南北の籍に依って甲を編み二冊とし、一は内府に進め、一は該管百戸に付し、領いて充軍に赴かせる。例えば浙江、河南、山東、陝西、山西、北平、福建、直隷応天・廬州・鳳陽・淮安・揚州・蘇州・松江・常州・和州・滁州・徐州の人は、雲南・四川の属衛に発し、江西、湖広、四川、広東、広西、直隷太平・寧国・池州・徽州・広徳・安慶の人は、北平・大寧・遼東の属衛に発する。逃亡や死亡があれば、籍に照らして勾補する。その後、条例には煙瘴地面や極辺沿海の諸処に発するものがあり、例は各々異なる。そして軍には終身のものと永遠のものがある。永遠とは、罰が子孫に及び、皆実犯死罪を減等した者をこれに充てる。明初は法が厳しく、県単位で千数に及び、数代を経た後には万を数えるようになった。丁が尽き戸が絶え、ただ軍産のみが残る者、あるいは軍産すらなく、戸名が未だ除かれない者があり、朝廷は毎年御史を遣わして清軍を行い、欠員があれば必ず補充した。毎度勾丁する際には、族属や里長を逮捕し、他甲にまで及び、鶏犬も安らかでなかった。論者は、既に死罪を一等減じながら、法がかえって刀鋸の上に加わる、例えば革除の際に遣わされた謫戍は、国が滅ぶに至っても、戍籍にまだ存する者があり、刑はこれより惨いものはないと言う。嘉靖年間、贖軍の例を開くことを請う者があった。世宗は言った。「律が贖うことを聴すのは、徒杖以下の小罪のみである。死罪で矜疑あるものは、減じて謫発とするのであって、贖うことはできない」と。御史周時亮がまた贖例を広めることを請うた。部議して、審有力者は銀十両で三年以上の徒一年を贖うことができ、稍有力者はその半とすることとした。しかし贖軍の議はついに廃された。御史胡宗憲が言うには、「南方の人は兵革に耐えず、その辺軍に充てられる者は、銀を納めて自ら贖うことを許すべきである」と。部議はこれを然りとし、よって納例を擬して上奏した。帝は言った。「どうしてこの例を設けて犯罪の人を待つことができようか」と。またも允さなかった。

万暦二年、毎年清軍御史を遣わすことを廃し、巡按に併せ、民はやや安んじた。給事中徐桓が言うには、「死罪雑犯で徒罪に準じて充軍する者は、その例の如くすべきである」と。給事中厳用和が大審で矜れむべき人犯は、その永戍を免ずることを請うた。皆許されなかった。そして法司に命じて例を定めさせた。「特旨を奉じて処発する叛逆の家屬子孫は、ただ本犯の親枝内において勾補し、尽く絶えれば即ち開豁する。もし未だ発遣せずして病故したならば、その勾補を免ずる。実犯死罪で死を免じて充軍する者は、著伍後に生まれた子孫をもって役を替え、原籍の子孫を勾くことを許さない。その他の充軍及び口外に発する者は、皆終身に止める」と。崇禎十一年、兵部に諭して言うには、「編遣の事宜は、千里を以て附近とし、二千五百里を以て辺衛とし、三千里外を以て辺遠とし、その極辺煙瘴は四千里外を以て率とせよ。ただ本妻を拘るのみで、妻がなければそれまでとし、親鄰を擅に勾くことを許さない。もし衰痼老疾ならば、口外に発して民とすることを準ずる」と。十五年、また諭して言うには、「例を引いて充軍する者に、その罪を贖うことを準じさせたい」と。時に天下は既に乱れており、議はついに行われなかった。

明の制度では充軍の律は最も厳しく、犯す者も最も苦しんだ。親族には軍装の費用を科斂され、里遞には長途の押解の煩わしさがあった。至る所充の衛では、衛官は必ず常例を要求した。しかしその逃走を利して、口糧を着服できるため、毎度私かにこれを放った。その後律は次第に弛み、発解する者は十に一にも及ばなかった。極辺に発する者は、長解はしばしば兵部に賄賂し、勘合を持って衛に至り、虚に収管を出し、軍犯はかえって家で安息していたという。