明史

志第六十八 兵四

明初、垛集の令が行われ、民は一丁を出して軍と為し、衛所に欠伍なく、且つ羨丁有り。未だ幾ばくもせず、大都督ととく府言う、呉元年十月より起り、洪武三年十一月に至るまで、逃亡した軍士四万七千九百余。ここに於いて追捕の令を下し、法を立てて懲戒す。小旗が所属の三人を逃がせば、降格して軍と為す。上は総旗・百戸・千戸に至るまで、皆逃軍の多寡に視て、俸を奪い降格・免職す。其の従征して外に在る者は、罰尤も厳し。十六年、五軍府に命じて外衛所に檄を飛ばし、欠伍の士卒を速やかに逮捕せしめ、給事中潘庸等を分遣してこれを清理せしむ。明年、兵部尚書俞綸の言に従い、京衛の軍戸で絶えた者は、同姓及び同姓の親を冒して取ることなく、有司に命じて実を核して発補せしめ、府衛は特に人を派遣することを恃まず。二十一年、詔して衛所に軍伍を核実せしめ、己が子を匿して養子を以て代えしむる者あれば、これを許さず。其の秋、衛所に令して軍士の姓名・郷貫を籍に著し、丁口を具載して以て取補に便ならしむ。又軍籍勘合を置き、内外に分給し、軍士点閲に遇うとき以て験と為す。

成祖即位し、給事等の官を遣わして天下の軍を分閲せしめ、垛集軍の更代法を重ねて定む。初め、三丁已上は、正軍一を垛し、別に貼戸有り、正軍死すれば、貼戸の丁補う。ここに至り、正軍・貼戸に更代せしめ、貼戸単丁の者は免ず;当軍の家は其の一丁の徭を蠲む。

洪熙元年、興州左屯衛の軍範濟、勾軍の擾を極言す。富峪衛百戸銭興奏言す:「祖は本より涿鹿衛の軍にて、死し、父継ぎ、功を以て百戸を授かる。臣已に父職を襲ぐも、而るに本衛猶以て臣が祖を逃軍と為し、屡々勾取を行ふ」。帝、尚書張本に謂ひて曰く:「軍伍清からず、弊多く此の類なり」。已にして宣宗立ち、軍弊益々滋く、黠なる者は往々其の籍を匿し、或は良民を誣攘して伍に充つ。帝、兵部に諭して曰く:「朝廷軍民に於いては、舟車の任載の如く、偏重すべからず。有司宜しく審実して混ずることなかれ」。乃ち吏部侍郎黄宗載等を分遣して天下の軍衛を清理せしむ。三年、給事・御史に勅して清軍せしめ、十一条例を定め、天下に榜示す。明年復た二十二条に増す。五年、尚書張本の請に従ひ、天下の官吏・軍旗に令して公に洪・永以来勾軍にして蹤無き者を勘し、これを豁免す。六年、勾軍に親老疾の独子ある者は、これを近地に編し、余丁工に赴きて逋亡する者は例に依り口外に発す、これを改めて一年の罰工と為し、優恤を示す。八年、蘇州衛抑配の軍百五十九人を免じ、已に糧を食みて只だ其の身を終わらしむるを令する者、千二百三十九人。是に先立ち、蘇・常の軍戸絶ゆる者、族党を株累し、動もすれば千計を以てす、知府況鐘朝に言ひ、又常州の民抑へられて軍と為されるを訴ふる者七百有奇、故に特に巡撫侍郎周忱に勅して清理せしむ。

正統初、勾軍の家丁尽くる者は、籍を除く;逃軍死亡及び事故の者、或は家本より軍籍にして而も偶々姓名同じく、裏胥讎を挟み妄りに報じて冒解し、或は已に解きて部に赴き声冤する者は、皆と豁免を与ふ。例を定む、補伍は皆極辺に発し、而して南北の人互いに易ふ。大学士楊士奇、風土宜を異にし、夭折に瀕すと謂ひ、宜しきに従ひて発戍せんことを請ふ。兵部侍郎を署す鄺埜、祖制を紊すと以為ひ、これを寝す。成化二年、山西巡撫李侃復た近衛に補ふことを請ひ、始めて議を行ふことを議す。十一年、御史十一人に命じて分道清軍せしめ、十分を率と為し、三分に及ぶ者を最とし、及ばざる者を殿とす。時に罪を以て謫せられし者逃故す、亦其の家丁を勾す。御史江昂、「罰嗣に及ばず」の義に非ずと謂ひ、乃ちこれを禁ず。

嘉靖初、捕亡の令愈々苛く、数十家を株累し、勾摂数十年を経る者有り、丁口已に尽き、猶移覆紛紜として已まず。兵部尚書胡世甯請ふ「屡々清報を経る者は勾を免ぜよ。又役を避くる人は必ず緩急倚り難く、急ぎ原籍に改編せよ。衛所に缺伍あらば、則ち別に舍余及び犯罪者を選び充補せよ。重きを犯して辺衛に発する者は、家産を売ることを責め、闔房遷発し、顧念を絶たしめよ。庶幾くば衛卒皆土著にして、而して逃亡益々鮮少ならん」。帝其の言を是とす。其の後、主事王学益の議を用ひ、勾単を制し、法を立てて詳善なり。久しくして、清軍御史の差を停め、逃軍を管解する及び軍の衛に赴く違限の科を寛む。清軍官日々玩愒し、文卷磨滅し、議者復た申飭を請ふ。

万暦三年、給事中徐貞明言ふ:「軍を勾するに東南にては、資装は戸丁より出で、解送は裏遞より出づ、毎軍百金に下らず。大いに東南の民を困し、究むるに軍政に補ふこと無し。班匠の例に視て、其の解補を免じ、而して班銀を重く徴し、以て召募に資し、東南をして永く勾補の擾無からしめ、而して西北の行伍も亦充実せしむべし」。鄖陽巡撫王世貞因りて四便有りと言ふ:応勾の戸は、近きに就くを楽み、避匿を図らず、便一;各水土に安んじ、困絶に至らず、便二;近ければ則ち逃げず、逃ぐるも亦追ひ易く、便三;解戸破家に至らず、便四。而るに兵部卒に貞明の議を格し、行はれず。後十三年、南京兵部尚書郭応聘復た各近地に就き、南北改編を請ふ。又言ふ:「応勾の軍、南直隸に至りては六万六千余、株連二三十万人に至る、天順以前の者は竟に与に釈免せんことを請ふ」。報可す、遠近皆悦ぶ。然れども改編の令下り、改めんことを求むる者相継ぐ。明年、兵部言ふ:「什伍漸く耗し、辺鎮の軍人且つ脱伍を希図す」。旨有りて旧に復し、而して応聘の議復た行はれず。

凡そ軍衛は職方に掌られ、而して勾清は則ち武庫之を主る。勾摂すべきこと有れば、衛所より開報し、先ず郷貫居止を核し、内府批を与へ、下して有司に本軍を提せしむ、之を跟捕と謂ふ;家丁を提するを、之を勾捕と謂ふ。間に恩恤にて開伍する者有り。洪武二十三年、応補軍役の生員は、帰り遣はして卒業せしむるを令す。宣徳四年、上虞の人李志道楚雄衛の軍に充てり、死し、孫宗皋有りて継ぐに宜し。時に已に郷試に中り、尚書張本帝に言ひ、免かることを得たり。此の如き者は絶えて少なし。戸に軍籍有れば、必ず兵部尚書に仕え至りて始めて除かることを得。軍士応に起解すべき者は、皆妻を僉す;津給軍装・解軍行糧・軍丁口糧の費有り。其の冊単編造は皆恒式有り。初め戸口・収軍・勾清の三冊を定む。嘉靖三十一年、又四冊を編み、曰く軍貫、曰く兜底、曰く類衛・類姓。其の勾軍は別に軍単を与ふ。蓋し明の世を終わるまで、軍籍に於いて最も厳し。然れども弊政漸く叢生し、而して民を擾す日々甚だし。

明の太祖は布衣より起り、群力を用いて天下を取った。即位後、しばしば元勲宿将に命じて分道して兵を練らせたが、その制度は定まらなかった。洪武六年、中書省・大都督府・御史臺・六部に命じて軍士を教練する律を議させた。「騎卒は必ず馳射・槍刀に長じ、歩兵は必ず弓弩・槍に長じなければならない。射は十二矢のうち半分を、遠くに届き、近くに的中することを基準とする。遠くに届くとは、将弁は百六十歩、軍士は百二十歩。近くに的中するとは、五十歩である。弩を彀うのは十二矢のうち五矢を、遠くに届き、蹶張は八十歩、劃車は百五十歩。近くに的中するとは、蹶張は四十歩、劃車は六十歩である。槍は必ず進退に熟達しなければならない。在京の衛所では、五千人を率としてその五分の一を取り、指揮以下の官が率いて御前に赴き検試し、残りは順次番試する。在外の都司衛所では、毎衛五千人、その五分の一を取り、千戸以下の官が率いて京に赴き検試する。残りは順次番試する。軍士が歩騎ともに優れている場合、将領はそれぞれその能力に応じて賞を受け、そうでなければ罰せられる。軍士には道中費として銭六百を給する。将領は指揮使以下、統べる軍士の三分から六分が的中しない者は、次第に俸禄を奪い、七分以上は、次第に官を降格し、軍士にまでなる。都指揮の軍士が四分以上不中なら、俸禄を一年奪い、六分以上なら罷職する。」

その後、十六年、天下の衛所で射に優れる者を十人に一人選び、農閑期に分番して京に赴き較閲させ、優劣によって千百戸の賞罰とし、辺軍は本衛で較射させた。二十年、衛士に命じて午門丹墀で習射させた。翌年、また令して「天下の衛所の馬歩軍士を、それぞれ十班に分け、将弁は蔭叙により久しく在任し昇進した者が統率し、冬月に京に至り閲試する。指揮・千百戸で、年功深く戦いに慣れ、また屯田する者は免除する。なお先に操練法を下し、遵守させる。法に従わず、また熟達しない者は罰する。」とさせた。

翌年、五軍府に詔して「軍士を比試し、三等に分けて賞として鈔を与え、またそれぞれ路費として鈔三錠を与え、不中者にもこれを給する。翌年再び試みて規定に合わなければ、軍士は雲南に移戍し、官は従征に謫し、総旗・小旗は降格して軍士とする。武臣の子弟が職を襲ぐ場合、騎射・歩射を試みて規定に合わなければ、衛に還して署事させ、半俸を与え、二年後もなお試みて前と同じなら、これも降格して軍士とする。」とした。

文皇(成祖)が即位し、五度北征し、六師はしばしば自ら較閲した。また秦・晋・周・粛諸王に勅して、それぞれ護衛軍五千を選び、命官を督して真定に赴き操練させ、陝西・甘粛・寧夏・大同・遼東の諸守将、及び中都留守・河南等都司、徐・宿等衛は、将を遣わして馬歩軍を統率し、分駐して真定・德州で操練させ、京に赴き閲視を待たせた。

景泰初年、十団営を立てた。給事中鄧林が『軒轅図』を進上した。これは古の八陣法であり、これを用いて軍を教えた。成化年間、団営を増やして十二とし、月に二度会操することを命じ、仲春十五日より始め、仲夏十五日に止め、秋・冬もまたこれに倣った。弘治九年、兵部尚書馬文升が洪武・永楽の操法を申明し、五日のうち、二日は陣を走り営を下し、三日は武を演じた。武宗は武勇を好み、しばしば提督坐営官に操練させ、また自ら金鼓を執って四鎮の卒を演じた。しかし大要は馳騁を恣にし、嬉戯に供するものであり、実のあるものではなかった。

嘉靖六年に定め、下営布陣は、ただ三疊陣及び四門方営を用いるのみとした。また令して、毎営に槍・刀・箭・牌・銃の手各一二人を選んで教師とし、転相して教習させた。また営制を改め、兵を三十枝に分け、将三十員を設け、各々三千人を統率して訓練させ、精鋭を選んで選鋒と名付け、その校芸の賞を厚くした。総督大臣は一月に会操すること四度、残りの日は営将が分練した。協理大臣及び巡視給事・御史は随意に一営に入り、校閲賞罰し、これによって選鋒を選んだ。帝はまた内教場に内営を置き、諸内使を練った。

隆慶初年、各営の将領に、軍士を教練する分数の多寡によって黜陟することを命じた。全営を教練する者は都督僉事を加え、次第に減じる。全く教練しない者は祖職一級を降格し、任を革めて衛に還す。三年内に教練して成果あれば、操協大臣が賞諭して恩録し、功績なき者は罰を議する。規制は立てられたが、しかし将卒は概ね怠惰で、操演は徒らに具文に過ぎなかった。

先に、浙江参将戚継光は善く士を教えることで聞こえ、嘗て士兵を調発し、鴛鴦陣を制して倭を破った。この時には既に総兵官となっていた。穆宗は給事中呉時来の請いに従い、戚継光に命じて薊門で兵を練らせた。薊兵は精整すること数十年に及んだ。継光は嘗て『練兵実紀』を著して士を訓んだ。一に伍を練る。まず騎、次に歩、次に車、次に輜重。先ず伍を選び、次に芸を較べ、総じて合営をもってする。二に胆気を練り、作止進退及び上下統属・相友相助の義を明らかにさせる。三に耳目を練り、号令を明らかにさせる。四に手足を練り、技芸に熟達させる。五に営陣を練り、布陣起行・結営及び交鋒の正変を詳しくする。終わりに将を練る。後世多くこれに従って用いた。

賞功の制度は、太祖の時、大いに中原平定・征南諸将及び雲南・越州の功を賞した。賞格は備わっていたが、しかし予め令としなかった。ただ二十九年に、沿海衛所の指揮千百戸が倭船一隻及び賊を獲た者は一級を昇進し、銀五十両、鈔五十錠を賞し、軍士が水陸で賊を擒殺した者は、銀を差等して賞することを命じた。

北方の辺境は、甘肅から東へ連なり、山海関に至る。成化十四年の定例では、「一人で首級一つを斬れば、一階進級し、三階までとする。二人で共に斬った場合は、首謀者は進級が同じ。壮年の男子には実授を、幼弱の婦女には署職を与える。従犯および四級以上は、すべて賞を与える。軍官が部下五百人を率いる者は、五級を獲れば一階進級。千人を率いる者は、これを倍とする。」正徳十年に定例を改め、「単独で首級一つを斬れば一階昇進。三人で共に斬った場合は、首謀者は署職一階、従犯は賞を与える。四五六人で共に斬った場合は、首謀者に賞を与え、従犯は酌量して賞を与える。二人で共に幼い敵を斬った場合は、首謀者は三人の例に準じ、従犯は酌量して賞を与える。昇進を望まない者は、実授一階ごとに銀五十両、署職には二十両を賞与する。」嘉靖十五年に定め、軍官の千総・把総は、加えて三階までとし、都指揮以上の者は、署職二級の昇進までとし、残りは賞を加える。

東北の辺境は、当初は三級を北方辺境の一級に相当と定めた。萬曆年間に、北方辺境と同じに改めた。

番寇・苗蠻も、三級で一階進級とし、実授・署職は北方辺境に準ずる。十級以上および数に満たない者は賞を与える。萬曆三年、陝西の番寇の功績は、成化年間の例に準じ、軍官の千総で五百人を率いる者は部下が三十級を斬り、千人を率いる者は六十級、把総で五百人を率いる者は十級、千人を率いる者は三十級を斬れば、いずれも一階進級し、三階までとする、と定めた。南方の蠻賊については、宣徳九年の例では、三級以上および首賊を斬り獲た者は、いずれも一階昇進し、残りは賞を加える。正徳十六年、軍官の部下が百級を斬れば署職一階、三百級で実授一階、四百級で一階昇進し、残りの功績には賞を加えると定めた。

倭賊については、嘉靖三十五年に「倭の首賊一級を斬れば、実授三階進級、望まない者は銀百五十両を賞与。従賊一級は一階授与。漢人の脅従者一級は署職一階。陣亡した者は、本人の軍籍および子に実授一階。海上で賊に遭遇して功績があれば、すべて奇功として論ずる」と定めた。萬曆十二年に改定し、旧例より少し変えて、賊の多寡および船の多少によって、功賞の差を設けた。また、海上での征戦については、倭寇・海賊を問わず、奇功と認められれば世襲を許すと定めた。雲南の夷賊については、生け捕り・斬殺の功績は倭賊の功績に準ずる。

内陸の反賊については、成化十四年の例では、六級で一階進級し、三階までとし、幼男・婦女および十九級以上と数に満たない者には賞を与える。正徳七年、流賊の例を定め、「名のある賊一級で一階授与、世襲、従犯には賞を与える。次賊一級で署職一階。従賊三級および陣亡者は、いずれも一階授与、世襲。重傷を負って帰営後に死亡した者は、署職一階。」また、耳を切り取った数の多寡によって功績を論じ、最も多い者は二階昇進、世襲とした。先に、五年の寧夏の功績、後に嘉靖元年の江西の功績は、いずれも流賊の例に準じた。崇禎年間、闖賊・献賊を万金で購い、侯爵に封じ、残りの賊にも差等を設けたが、賊の勢力が重いため、常例を変えたのである。

その捕獲した人畜・器械については、成化の例では、すべて獲得した者に与える。功績による昇級については、成化十四年の例では、軍士は一階昇進して小旗とし、舍人は一階昇進して冠帯を与え、以上類推する。嘉靖四十三年、都督などの官で階級を昇進できない者については、応襲の男子に冠帯を蔭叙すると定めた。萬曆十三年、都指揮使が昇級する者は、都督に任じず、銀五十両を賞与し、俸給を昇給する者はその半額と定めた。その有司の民兵については、隆慶六年、軍人の例に準ずると定めた。

洪熙・宣徳以後より、賞格はすべて斬った首級の多少によってあらかじめ定められた。条例が次第に多くなり、僥倖の弊害が日に日に開かれた。正徳年間、副使胡世寧が言うには、「両軍が格闘するとき、手と眼は瞬時にして、少しの差も許されず、どうして首級を切る暇があろうか。首級を獲た者は、すでに降伏した者を殺したか、あるいは良民を殺したか、あるいはたまたま単独で行動する賊や掠奪から逃げ出した人を得たのであって、真の功績ではない。強明剛正の員を選んで紀功官とし、この弊害を厳しく懲らしめるべきである。」当時は実行できなかった。故事では、鎮守官が奏帯する例は五名までであった。後に領兵官の奏請する者が三四百名に至り、斬った首級の列には属さず、別に名目を立てて、運送神槍、齎執旗牌、衝鋒破敵、三次當先、軍前效労などと言った。冒濫の弊害は、ここに極まったのである。

古でいう砲は、すべて機械で石を発射した。元初に西域の砲を得て、金の蔡州城を攻め、初めて火を用いた。しかし造法は伝わらず、後世も稀に用いるのみであった。

明の成祖が交阯を平定したとき、神機槍砲の法を得て、特に神機営を設置して習練させた。製造には生・熟の赤銅を間隔を置いて用い、鉄を用いる場合は、建鉄の柔らかいものが最も良く、西鉄がこれに次ぐ。大小さまざまで、大きいものは車で発射し、次いで小さいものは架・樁・託を用いる。大きいものは守りに、小さいものは戦いに利がある。状況に応じて用い、行軍の要器となった。永楽十年、開平から懐来・宣府・万全・興和などの諸山頂に、すべて五つの砲架を設置するよう詔を下した。二十年、張輔の請いに従い、山西の大同・天城・陽和・朔州などの衛に増設して敵に備えさせた。しかし利器は人に示すべからず、朝廷もまた慎重に惜しんだ。

宣徳五年、宣府総兵官譚広に勅して「神銃は国家が重んじるものであり、辺境の墩堡では、酌量して与えて軍威を壮んにするが、軽々しく与えてはならない」とした。正統六年、辺将の黄真・楊洪が宣府独石に神銃局を設立した。帝は火器を外部で製造することを、伝習漏泄を恐れて、勅して止めさせた。正統末年、辺備が日に日に切迫し、御史楊善が両頭の銅銃を鋳造するよう請うた。景泰元年、巡関侍郎江潮が言うには、「真定に都督平安の火傘が蔵されており、上に鉄の槍頭を用い、響鈴を環らせ、火薬筒を三つ置き、発射すれば敵の馬を潰走させることができる。応州の民師翱が製造した銃には、機関があり、瞬時に三発発射し、三百歩の外に及ぶ。」いずれも試験した。天順八年、延綏参将房能が麓川で賊を破ったとき、九龍筒を用い、一つの導火線で燃やすと九本の矢が一斉に発射されたと言い、その様式を諸辺に頒布するよう請うた。

嘉靖八年に至り、初めて右都御史汪鋐の言に従い、仏郎機砲を造り、大将軍と称して諸辺鎮に配布した。仏郎機とは国名である。正徳末年、その国の船が広東に至った。白沙巡検何儒がその製法を得て、銅で造った。長さ五六尺、大きいものは千余斤の重さ、小さいものは百五十斤、大きな腹に長い頸、腹に長い孔がある。子銃五枚を用い、薬を腹の中に貯め、発射すると百余丈に及び、水戦に最も利がある。蜈蚣船に搭載し、撃つところはことごとく糜砕した。二十五年、総督軍務翁萬達が造った火器を奏上した。兵部が試験し、「三出連珠・百出先鋒・鉄捧雷飛は、いずれも使いやすい。母子火獣・布地雷砲は、夜間に営を襲うのみに適する」と言った。御史張鐸もまた十眼銅砲を進上し、大弾は七百歩に発射し、小弾は百歩、四眼鉄槍は弾四百歩に及ぶ。工部に造らせるよう詔を下した。

萬曆年間、通判華光大がその父の製造した神異火器を奏上し、兵部に下命した。その後、大西洋の船が来航し、また巨砲を得て、紅夷と称した。長さ二丈余、重いものは三千斤に至り、石城を貫通して裂き、数十里を震動させた。天啓年間、大将軍の号を賜り、官を遣わして祭祀した。

崇禎の時、大学士徐光啓が西洋人に製造させ、各鎮に配備するよう請うた。しかし将帥は多く適任を得ず、城の守りは堅固でなく、これを委ねて去る者もあった。流賊が京師を犯すに及んで、三大営の兵は戦わずして潰え、銃砲はすべて賊の有するところとなり、かえってこれを用いて城を攻めた。城上もまた砲を発して賊を撃った。時に宦官はすでに多く異志を抱き、皆空の器に薬を貯え、ただ音響を震わすのみであった。

明は兵仗局・軍器局の二局を置き、火器を分造した。将軍と号するものは大から五まであった。また奪門将軍大小二様・神機砲・襄陽砲・盞口砲・碗口砲・旋風砲・流星砲・虎尾砲・石榴砲・龍虎砲・毒火飛砲・連珠仏郎機砲・信砲・神砲・砲裏砲・十眼銅砲・三出連珠砲・百出先鋒砲・鉄棒雷飛砲・火獣布地雷砲・碗口銅鉄銃・手把銅鉄銃・神銃・斬馬銃・一窩鋒神機箭銃・大中小仏郎機銅銃・仏郎機鉄銃・木廂銅銃・筋繳樺皮鉄銃・無敵手銃・鳥嘴銃・七眼銅銃・千里銃・四眼鉄槍・各号双頭鉄槍・夾把鉄手槍・快槍および火車・火傘・九龍筒の類、凡そ数十種。正徳・嘉靖年間に造ること最も多し。また各辺鎮も自ら造り、正統十四年四川に始まる。その他の刀牌・弓箭・槍弩・狼筅・蒺藜・甲冑・戦襖は、内には兵仗・軍器・針工・鞍轡諸局があり、内庫に属し、宦官が掌り、外には盔甲廠があり、兵部に属し、郎官がこれを掌る。京省諸司衛所には、また皆雑造局がある。軍資器械の名目は繁夥であるが、具に載せず、ただ火器は前代に少なかったので、故に特に詳しくする。

中原では車戦を用い、東南では舟楫が利あり、この二つは兵事において最も重要である。騎兵が興って以来、車制は次第に廃れた。

洪武五年、独轅車を造り、北平・山東に千輛、山西・河南に八百輛を配した。永楽八年の北征では、武剛車三万輛を用いたが、皆ただ糧秣輸送に供するのみであった。

正統十二年に至り、初めて総兵官朱冕の議に従い、火車を用いて戦備とした。ここより車戦を言う者相継いだ。十四年、給事中李侃がCA車千輛を用い、鉄索で連絡し、騎卒を中に置き、毎車に刀牌手五人を翼とし、賊が陣を犯せば刀牌手がこれを撃ち、賊が退けば索を開いて騎を放つよう請うた。帝は造って祭った後に用いるよう命じた。車の様式を辺境に下し、七馬で駕する。寧夏は溝壑多く、総兵官張泰が独馬小車を用いるよう請い、時に便利とされた。箭工周四章が言うには、神機槍は一発すると継ぎ難いので、車に槍二十、箭六百を載せ、車首に五槍の架を置き、一人が推し、二人が扶け、一人が炊爨を執るよう請うた。試して可とされ、乃ち造った。

景泰元年、定襄伯郭登が古制に倣い偏箱車を作るよう請うた。轅の長さ一丈三尺、幅九尺、高さ七尺五寸、箱は薄板を用い、銃を置く。出れば左右相連なり、前後相接し、鉤環牽互す。車には衣糧・器械および鹿角二を載せる。屯する処では、十五歩外に籓を設く。毎車に銃砲・弓弩・刀牌甲士合わせて十人、事なき時は輪番で推輓す。外に長車二十を以て大小将軍銃を載せ、毎方五輛、転輸樵採は皆囲中にある。また四輪車一を以て五色旗を列ね、敵を視て指揮す。廷議では、これは守るには可なりとし、攻戦には難しとし、登に酌量して行うよう命じた。蘭州守備李進が独輪小車を造り、上に皮屋を施し、前に木板を用い、獣面を画き、口を鑿ち、碗口銃四、槍四、神機箭十四を置き、旗一を立てるよう請うた。行えば陣と為し、止まれば営と為す。二年、吏部郎中李賢が戦車を造り、長さ一丈五尺、高さ六尺四寸、四囲に箱板を設け、穴孔を穿ち銃を置き、上に小窓を開け、毎車前後五歩を占めるよう請うた。千輛を以て計れば、四方十六里となり、芻糧・器械輜重は皆ここより取給す。帝は速やかに行うよう命じた。

成化二年、郭登の言に従い、軍隊小車を制す。毎隊六輛、毎輛九人、二人が挽き、七人が番代し、車前に牌を置き猊首を画き、遠く望めば城壘の如し。八年、寧都の諸生何京が御敵車の様式を上る。上に鉄網を施し、網の穴より槍弩を発し、行けばこれを斂む。五十車を一隊と為し、士三百七十五人を用いる。十二年、左都御史李賓が偏箱車を造り、鹿角と参用するよう請う。兵部尚書項忠が検閲を請うたが、高きに登り険しきに渉るに不便として、これを止む。十三年、甘粛総兵官王璽の奏に従い、雷火車を造る。中に枢軸を立て、旋転して砲を発す。二十年、宣大総督余子俊が車五百輛を一軍と為し、毎輛卒十人、車の隙に鹿角を補う。既に成るも、遅重にして用い難く、時人はこれを鷓鴣軍と謂う。

弘治十五年、陝西総制秦紘が只輪車を用い、全勝と名付け、長さ一丈四尺、上下合わせて六人、敵陣を衝く可きことを請うた。十六年、閑住知府範吉が先鋒霹靂車を献ず。

嘉靖十一年、南京給事中王希文が郭固・韓琦の制に倣い、車を造り、前鋭後方、上に七槍を置き、櫓を三層と為し、各々九牛神弩を置き、傍らに卒を翼とするよう請うた。行には甲兵を載せ、止まれば営陣と為す。辺鎮に下して酌量して行わしむ。十五年、総制劉天和がまた全勝車の便利を言い、少しこれを損益し、四人で推輓し、載せる火器・弓弩・刀牌は百五十斤を基準とす。箱前に狻猊を画き、旁らに虎盾を列ねて騎士を護る。その制に従うよう命じた。四十三年、有司が奏準す。京営で兵車を教演し、合わせて四千輛、毎輛に歩卒五人、神槍・夾靶槍各二。正統以来、車戦を言う者はかくの如し、然れども未だ嘗て一たびも敵に当たらざりき。

隆慶中に至り、戚継光が薊門を守り、兵車七営を練ることを奏す。東西路副総兵及び撫督標合わせて四営を以て、建昌・遵化・石匣・密雲に分駐し、薊・遼総兵二営は三屯に駐し、昌平総兵一営は昌平に駐す。毎営に重車百五十有六、軽車は百を加え、歩兵四千、騎兵三千。十二路二千里の間、車騎相兼ねて、敵数万を禦ぐ可し。穆宗はこれを是とし、造費を与えるよう命じた。然れども特に衝突を遏ぎ、火器を施すのみで、未だ嘗て戦いに用いざりき。この後、遼東巡撫魏学曾が戦車営を設け、偏箱の制に倣い、上に仏郎機二を置き、下に雷飛砲・快槍六を置き、毎車歩卒二十五人を以てするよう請う。万暦末、経略熊廷弼が双輪戦車を造り、毎車に火砲二、十卒を翼とし、皆火槍を持つよう請う。天啓中、直隷巡按御史易応昌が戸部主事曹履吉の制する鋼輪車・小沖車等式を進め、敵を禦ぐに用いんとす。皆その用を得ること稀なり。およそ辺地は険阻にして、車戦に利あらず。而して舟楫の用は、則ち東南に適す。

舟の制、江と海は各々異なる。太祖は新江口に船四百を設く。永楽初、福建都司に命じて海船百三十七を造らせ、また江・楚・両浙及び鎮江諸府衛に命じて海風船を造らせた。成化初、済川衛楊渠が『槳舟図』を献ず。皆江舟なり。

海舟は舟山の烏槽を首とする。福船は風濤に耐え、且つ火を防ぐ。浙江の十装標号軟風・蒼山も、追撃に利あり。広東船は鉄栗木を以て造り、福船より更に巨大にして堅牢なり。その利する所は二つ、フランキ砲を発し、火球を投げ得る。大福船もまた然り、百人を容れ得。底は尖り上は広く、首は昂り尾は高く、舵楼は三重、帆檣は二本、傍らは板を以て護り、上に木女牆及び砲床を設く。中は四層と為す:最下は土石を実し、次は寝息の所、次は左右六門、中に水櫃を置き、帆を揚げ炊爨は皆ここに在り、最上は露台の如く、梯を穴として登り、傍らに翼板を設け、憑りて戦うべし。矢石火器は皆俯して発し、順風に航行すべし。海蒼は福船より稍小なり。開浪船は三五十人を容れ得、頭は鋭く、四槳一櫓、その行くこと飛ぶが如く、風潮の順逆に拘わらず。艟暃喬船は海蒼より更に小なり。蒼山船は首尾皆広く、帆櫓並用す。櫓は船傍近後に設け、毎傍五枝、毎枝五跳、跳に二人、板を以て跳上を閘し、首を外に露す。その制は上下三層、下は土石を実し、上は戦場と為し、中は寝処と為す。その帆を張り椗を下すは、皆上層に在り。戚継光曰く、「倭舟は甚だ小く、一たび裏海に入れば、大福・海蒼は入ること能わず、必ず蒼船を用いてこれを逐い、敵を衝くに便捷なり、温人はこれを蒼山鉄と謂う」と。沙・鷹二船は、相胥いて用を成す。沙船は接戦すべし、然れども翼蔽無し。鷹船は両端鋭く、進退飛ぶが如し。傍らに大茅竹を釘し、竹間に窓を設けて銃箭を発し、窓内舷外に人を隠して槳を蕩がしむ。先ずこれに駕して賊隊に入り、沙船随いて進み、短兵を接して戦えば、勝たざる無し。漁船は至って小く、毎舟三人、一は布帆を執り、一は槳を執り、一は鳥嘴銃を執る。波に随いて上下し、賊の不備を掩うべし。網梭船は、定海・臨海・象山に俱に之あり、形は梭の如し。竹桅布帆、僅かに二三人を容れ、風濤に遇えば輒ち山麓に舁き入れ、哨探すべし。蜈蚣船は、象形なり、フランキ銃を駕し得、底尖く面闊く、両傍に楫数十、行くこと飛ぶが如し。両頭船は、旋転は舵に在り、風に因って四馳し、諸船その速さに逾ゆる無し。蓋し嘉靖以来、東南日々倭に備うる故に、海舟の制、特詳備なりと云う。

明の制、馬の属で内廄に在るものを御馬監と曰い、中官これを掌り、大壩に牧す、蓋し『周礼』十二閑の意に倣う。官に牧するものは、太僕寺・行太僕寺・苑馬寺及び各軍衛と為し、即ち唐の四十八監の意なり。民に牧するものは、南は直隷応天等府、北は直隷及び山東・河南等府と為し、即ち宋の保馬の意なり。その備養馬と曰うものは、正統末に始まり、馬を選び辺に給し、辺馬足りて、畿甸に寄牧するものなり。官牧は辺鎮に給し、民牧は京軍に給し、皆孳生駒あり。官牧の地を草場と曰い、或は軍民の佃種するを熟地と為し、歳に租を徴して牧人の市馬を佐く。牧の人を恩軍・隊軍・改編軍・充発軍・抽発軍と曰う。苑馬は三等に分ち、上苑は万、中は七千、下は四千。一夫は馬十匹を牧し、五十夫に圉長一人を設く。凡そ馬の肥瘠登耗、その毛歯を籍し時にこれを省みる。三年に、寺卿御史に偕い印烙し、その羸劣を鬻ぎて以て転市す。辺衛・営堡・府州県の軍民壮騎操馬は、則ち行寺卿に掌らしむ。辺用足らざれば、又茶を以て番に易え、貨を以て辺に市す。その民牧は皆丁田を視て馬を授け、始めは戸馬と曰い、既にして種馬と曰い、歳に按じて駒を徴す。種馬死し、孳生数に及ばざれば、輒ち賠補す。これその大凡なり。

初め、太祖金陵に都し、応天・太平・鎮江・廬州・鳳陽・揚州六府、滁・和二州の民に馬を牧せしむ。洪武六年、太僕寺を滁州に設け、兵部に統ぶ。後に滁陽五牧監を増し、四十八羣を領す。已にして四十監と為し、旋って罷め、惟だ天長・大興・舒城の三監を存す。草場を湯泉・滁州等地に置く。復た飛熊・広武・英武の三衛に令し、五軍に一馬を養わしめ、馬は歳に駒を生み、一歳にして京に解す。既にして監牧を有司に帰し、専ら民に牧せしむ。江南は十一戸、江北は五戸に一馬を養わしめ、その身を復す。太僕官は督理し、歳に正月より六月は定駒を報じ、七月より十月は顕駒を報じ、十一・十二月は重駒を報ず。歳終に馬政を考課し、法を以て府州県の官吏を治む。凡そ牡を児と曰い、牝を騍と曰う。児一・騍四を羣と為し、羣頭一人。五羣に、羣長一人。三十年、北平・遼東・山西・陝西・甘粛に行太僕寺を設け、牧馬草場を定む。

永楽初め、太僕寺を北京に設け、順天・山東・河南を掌る。旧設のものは南太僕寺と為し、応天等六府二州を掌る。四年、苑馬寺を陝西・甘粛に設け、六監を統べ、監は四苑を統ぶ。又北京・遼東の二苑馬寺を設け、統ぶ所は陝西・甘粛に視る。十二年、北畿の民に計丁して馬を養わしめ、居閑の官を選びてこれに畜牧を教う。民は十五丁以下は一匹、十六丁以上は二匹、事に為りて編発せらるる者は七戸に一匹、罪を除くを得。尋いで寺卿楊砥の言に以て、北方の人戸は五丁に一を養い、その田租の半を免じ、薊州以東より南海等衛に至るまで、戍守の軍の外、毎軍に種馬一を飼わしむ。又南方養馬の例を定む:鳳・廬・揚・滁・和は五丁に一、応天・太・鎮は十丁に一。淮・徐は初め馬を養い、亦た丁を以て率と為す。十八年、北京苑馬寺を罷め、悉くこれを民に牧せしむ。

洪熙元年、民に牧せしめて二歳に一駒を徴し、草糧の半を免ず。是より、馬日々蕃息し、漸く隣省に散ず。済南・兗州・東昌の民の馬を養うは、宣徳四年に始まる。彰徳・衛輝・開封の民の馬を養うは、正統十一年に始まる。已にして也先入犯し、馬二万を取って近京に寄養し、団営の騎操に充て、而して尽く故時の種馬を永平等府に給す。景泰三年、児馬十八歳・騍馬二十歳以上のものは、駒の算を免ず。

成化二年(1466年)、南方の地は馬を産しないため、銀を徴収することに改めた。四年、初めて太僕寺常盈庫を建て、備用の馬代銀を貯蔵した。この時、民は次第に馬の飼育に苦しむようになった。六年、吏部侍郎葉盛が言上した。「以前は毎年一駒を課したが、民が煩わされなかったのは、牧草地が広く、民が生計を立てられたからである。豪族の荘田が次第に増えるにつれ、馬の飼育が次第に不足するようになった。洪熙初年(1425年)、二年に一駒に改め、成化初年(1465年)、三年に一駒に改めた。馬はますます減り、民はますます貧しくなった。しかし馬は結局欠かせないため、再び二年に一駒の制度に戻したが、民はますます耐えられなくなった。辺境の鎮守に命じて、その地の風俗に適した方法で、辺境の馬を充足させ、軍民ともに利益を得られるようなことを、適宜処置させるよう請う。」この時、馬文升が陝西を巡撫していたが、また辺境の軍が馬を償う負担について極論し、屯田兵で田が多く人丁が少なく、馬を領有していない者に、毎年銀一銭を納めさせ、賠償の補助とさせるよう請うた。いずれも許可されて実行されたが、民の困窮は緩和されなかった。文升に続いて陝西を巡撫した蕭禎は、行太僕寺の廃止を請うた。兵部が審議して答えた。「洪武・永楽の時、行太僕及び苑馬寺を設け、茶馬や蕃人の貢馬をすべて寺や苑で収容して放牧し、常に数万匹おり、辺境の用に足りた。正統以後、北方の敵がたびたび侵入して掠奪し、馬は次第に消耗した。言上する者はしばしば廃止を請うが、これは小費を惜しんで大計を忘れるものである。」そこで禎に勅諭を下し、ただ注意して監督させることとした。一方、北畿(北京周辺)は永楽以来、馬が日々増殖し、常に民に牧養を責め、民は十五歳になれば馬を飼育した。太僕少卿彭礼は、戸丁には限りがあるのに、課す駒には限りがないとして、種馬の定額を定めるよう請うた。ちょうど文升が兵部尚書となり、その請願を実行するよう上奏したので、両京の太僕寺の種馬を、兒馬(雄馬)二万五千、騍馬(雌馬)はその四倍と定め、二年ごとに駒を納めさせることを法令として定めた。これは弘治六年(1493年)のことであった。

十五年(1502年)冬、尚書劉大夏が南京太常卿楊一清を副都御史に推薦し、陝西の馬政を督理させた。一清は上奏して言った。「我が朝は陝右が牧畜に適しているとして、監苑を設け、二千余里に跨っていた。後にすべて廃止され、長楽・霊武の二監だけが残った。今、牧地はわずか数百里だが、それでも西辺を供給するにはまだ不足はない。ただ、監牧の者が適任でなく、牧養に法がないことを苦しんでいるだけである。両監六苑のうち、開城・安定は水泉が便利で、上苑とすべきで、一万匹の馬を牧すべきである。広寧・万安は中苑とし、黒水の草場は狭く、清平は地が狭く土が瘠せているので、下苑とする。万安は五千匹、広寧は四千匹、清平は二千匹、黒水は千五百匹を牧すことができる。六苑は毎年軍に給与する以外に、常に三万二千五百匹の馬を牧養でき、三辺の用に足りる。しかし繁殖を広げようとすれば、必ず多くの種馬を蓄えなければならず、一万匹に満たすべきである。二年に一駒とすれば、五年で先の数に達する。太僕寺の馬価銀四万二千両を支給し、平涼・慶陽・臨洮・鞏昌で種馬七千匹を買うよう請う。また、養馬の恩隊軍が不足しているので、流亡の民や罪を問われて原籍に戻された者を編入し、かつ恩軍の例に倣い、辺衛に充軍として発遣される者を、各苑で馬を牧養させることに改め、三千人に増員するよう請う。また、地勢を見て城を築き商売を通じ、榆柳を植え、春夏は放牧し、秋冬は厩舎に戻すようにすれば、馬も安らかに過ごせ、敵が来ても収容して守ることができる。」孝宗はちょうど辺防を重視しており、大夏が兵部を掌っていたので、一清の上奏はすぐに実行された。一清は総制に昇進し、引き続き馬政を監督した。

諸監の草場は、元の額は十三万三千七百余頃であったが、存するものはすでに半ばに及ばなかった。一清がこれを調査し、荒地十二万八千余頃を得、さらに武安苑の地二千九百余頃を開墾した。正徳二年(1507年)、朝廷に報告した。一清が去官すると、まもなくまた廃止された。この時、御史王済が言った。「民は馬の飼育に苦しんでいる。一頭の繁殖用の馬が生まれると、すぐに害をなす。たまに定駒(妊娠確定)があれば、医者に賄賂を贈って隠し、顕駒(妊娠顕著)があれば堕胎させる。馬が不足しても銀二両を納めるだけで済み、すでに繁殖したと報告した後で倒れ死んでも、銀三両を納めるだけで済む。繁殖しても死ななければ飢えさせる。馬は日々痩せ衰え、実用に役立たない。今、種馬・地畝・人丁の歳取には定額がある。その額数に従って民に馬を買わせ、種馬の繁殖については、県官は関与しないようにするよう請う。」兵部はこの意見に同意した。以後、奏報があるたびに、王済の言う県官は種馬のことに関与せず、ただ民に駒を責めるという言葉を引き合いに出し、母を遺して子を求めるようなものだとした。

初め、辺境の臣が馬を請うと、太僕寺は現存の馬を与えた。銀を徴収することに改めてから、馬は日々少なくなり、請う者が相次いだため、価銀十万を与えて馬一万匹を買った。辺境の臣は良馬を買うことができず、馬は多く死んだ。太僕卿儲巏がこのことを言上し、再び馬を与えるよう請うた。また、各辺境の種馬の盗売や私借の弊害を指摘した。言葉は切実であったが、聞き入れられなかった。そして辺鎮への給発は日々繁雑になった。延綏の三十六の営堡は、弘治十一年(1498年)から始まり、十年の間に、太僕寺の銀二十八万余両を発し、四万九千余匹を買い補った。寧夏・大同・居庸関などの処は含まれていない。正徳七年(1512年)に至り、遂に納馬の事例を開き、全部で十二条あった。九年、再び太僕寺の銀を発し、山東・遼東・河南及び鳳陽・保定諸府で一万五千匹の馬を買った。

嘉靖元年(1522年)、陝西苑馬少卿盧璧が馬政について条陳を上奏し、滞納の督促、烙印の明示、医薬の訓練、地差の均等化を請い、当面を救い、牧場を開拓して広く蓄えることを長久の計とした。帝はこれを嘉納した。以後、馬事について言上する者はかなり多く、おおむね事に因って説を立て、一時を補救するだけであった。二十九年(1550年)、俺答が侵入し、太僕寺の馬が不足したため、再び正徳の納馬の事例を行った。やがて、少し増減した。四十一年(1562年)に至り、遂に事例を開いて、馬を捐(寄進)して職を授けることとなった。

隆慶二年(1568年)、提督四夷館太常少卿武金が言った。「種馬の設置は、専ら繁殖させて備えるためである。備用馬は別に買うのであれば、種馬は遂に省くことができる。今、備用馬はすでに三万匹に達している。各馬ごとに銀三十両に折納させ、太僕寺に送らせるべきである。種馬はすべて売却し、兵部に納めさせ、一馬十両とすれば、直隸・山東・河南の十二万匹で、銀百二十万両を得られ、かつ草豆銀二十四万両を収めることができる。」御史謝廷傑は「祖宗の定めた制度は、軍機に関わり、廃止できない」と言った。兵部は廷傑の意見に同意した。しかしこの時、内帑(宮廷の財庫)が乏しく、ちょうど使者を分遣して天下の滞納租税を取り立てていた。穆宗は武金の上奏を許可し、下部に議させた。部は飼育と売却を半々とするよう請い、これに従った。

太僕寺に銀があるのは、成化の時から始まったが、わずか三万余両であった。種馬が売却されてから、銀は日々増加した。この時、通貢や互市で貯蔵したものもわずかであった。張居正が輔政となると、種馬をすべて売却する議論を強く主張した。万暦九年(1581年)から始まり、上馬は八両、下は五両で、さらに草豆地租を折徴し、銀はますます多くなり、団営の買馬や各辺境の請求に供給した。しかし一頭の去勢馬に三十金を発するのに、州県は駑馬を進め、その価値はわずか数金に過ぎなかった。しかも依然として馬戸に寄養させ、民への害は以前に減らなかった。また、国家に土木工事や賞賜があると、しばしば太僕寺の銀を借り支えし、太僕寺の財庫はますます消耗した。十五年(1587年)、寺卿羅応鶴が借り支えを禁じるよう請うた。二十四年(1596年)、詔して太僕寺に陝西の賞功銀を給するよう命じた。寺臣が言上した。「以前は庫の積み立ては四百余万両あったが、東西の二つの役(寧夏の哱拜の乱と播州の楊応龍の乱)が起こってから、わずか四分の一しか残っていない。朝鮮での出兵で、百万の蓄積はすべて空になった。今残っているのは、わずか十余万両である。況んや本寺の寄養馬の歳額は二万匹であるが、今年は折色(銀納)を取っているので、馬の徴発は非常に少なく、東方への徴発や調達、特に兌換が多い。突然の警報があれば、馬も銀もともに枯渇し、どうしてこれに対応できようか。」上奏文は下部に下されたが、何らかの改革を行うことはできなかった。

崇禎初年、戸部・兵部・工部の三部を査定したところ、太僕寺の馬価を借り支払った額が一千三百余万に至った。蓋し万暦以来、冏政は大いに壊れ、辺境の牧政は廃れて弛み、ますます問うべからざるに至った。既にして遼東督師袁崇煥は馬の不足を以て、両京州県に寄養する馬の中から、三千匹分の価を折り払い西辺で買うことを請うた。太僕卿塗國鼎が言うには、「祖宗が民に養馬を命じたのは、専ら京営の騎兵操練に供し、都城を防護するためであって、辺境のためではない。後に改折となったのは、平時には馬を銀に換えて納めさせ、警報あれば銀を出して馬を買うためであり、依然として京師の備えとする意である。今、折銀は既に多く各鎮に給しており、もしこの馬まで悉く折銀とすれば、万一変事が生じたならば、どうするのか」と。帝はその言を是とし、崇煥の請を退けた。

按ずるに、明代の馬政は、法久しく弊叢生ず。その始め盛んで終わり衰えた故は、大率草場の興廃による。太祖は既に大江南北に草場を設け、更に北辺の牧地を定めた。東勝より西は寧夏・河西・察罕脳児に至り、東は大同・宣府・開平に至り、又東南は大寧・遼東に至り、鴨緑江に抵り、更に北千里、南は各衛の分守地に至る。又、雁門関より西は黄河の外に抵り、東は紫荊・居庸・古北を歴て山海衛に至る。荒れて閑き平野で、軍民の屯種に供さないものは、諸王・駙馬より近辺の軍民に至るまで、樵採牧放を聴し、辺境の藩府は自ら占拠することを得ず。永楽年間、また畿甸に草場を置く。尋いで順聖川より桑乾河に至る百三十余里は水草美しく、太僕の千騎を以て、懐来衛の卒百人に分牧させ、後に一万二千匹に増加した。宣徳初年、また保安州に九馬坊を置く。ここにおいて兵部が奏上するに、馬は大いに蕃息し、色によって区別して名付け、その毛色二十五等、その種三百六十。その後、荘田日増し、草場日削がれ、軍民ともに孳養に困窮した。弘治初年、兵部主事湯冕・太僕卿王霽・給事中韓祐・周旋・御史張淳、皆清査を請う。而して周旋は言う、「香河諸県の地は勢家に占拠され、覇州等処には皆仁寿宮皇荘あり、これを罷めて牧地に益すことを乞う」と。允行されたが、占佃既に久しく、遂に清められず。南京諸衛の牧場もまた久しく廃れ、兵部尚書張鎣がこれを復することを請うた。御史胡海が地利を遺す恐れあると言い、遂に止む。京師団営の官馬一万匹と、旗手等衛の上直官馬は、皆草場に分置された。歳の春末、用に供さない馬は、坐営官が率いて下場に放牧し、草豆の支給を止め、秋末に戻る。給事中・御史が巡視し、馬が斃れ軍が逃げた者を以て上聞する。後に上直馬は出牧せず、騎操馬は依然として例の如く歳に出した。嘉靖六年、武定侯郭勳が辺警を口実に、これを免ずることを奏し、各場の租を徴収して公費に充て、余りは太僕に貯えて馬を買う。ここにおいて営馬は専ら司農の秣に仰ぎ、歳費十八万に至り、戸部は詘り、草場はますます廃れる。議者は争って租佃で利を得ようとし、侵淫して神宗の時に至り、弊壊極まった。

茶馬司は、洪武年間、川・陝に立てられ、西番に馬を納め茶と交換することを聴し、金牌信符を賜って詐偽を防いだ。三年毎に、廷臣を遣わして諸番を召し符を合わせて交易させ、上馬は茶百二十斤、中馬七十斤、下馬五十斤。私茶を持ち出す者は死罪に処し、勲戚といえども赦さず。末年、易馬一万三千五百余匹に至る。永楽年間、禁は稍弛み、易馬少ない。乃ち辺関の茶禁を厳しくし、御史を遣わして巡督させよと命ず。正統末年、金牌を罷め、歳に行人を遣わして巡察するが、辺氓が禁を冒して私販する者多し。成化年間、御史一員を差し定め、勅を領して専らこれを管理させる。弘治年間、大学士李東陽が言う、「金牌の制廃れ、私茶盛んとなり、有司はまた屡々敝茶を以て番族を欺き、番人は憾みを抱き、往々にして羸馬を以て応ずる。宜しく厳しく陝西官司に勅し、榜を掲げて招諭し、金牌の制を復し、良茶を厳しく収め、馬価を稍増すべし。然らば得る馬必ず蕃んぜん」と。楊一清が苑馬を督理するに及び、遂に塩・茶をも併せて管理することを命ず。一清は旧制を申し立て、私販を禁じ、官茶を植える。四年間に易馬九千余匹、而して茶は尚四十余万斤を積む。霊州塩池の課を五万九千増し、慶陽・固原の庫に貯え、以て馬を買い辺に給す。又、後々専官無きを懼れ、制終に廃れんことを思い、正徳初年、巡茶御史に馬政を兼ねて管理させ、行太僕・苑馬寺の官はその提調を聴かしむることを請い、報可される。御史翟唐は歳に茶七十八万余斤を収め、易馬九千余匹。後、法また弛む。嘉靖初年、戸部が榜を掲げて私茶を禁じ、凡そ茶引は皆南京戸部が印発し、府州県は擅に印することを得ざることを請う。三十年、番族に勘合を与えることを詔す。然れども初めの制は遂に復する能わず。

馬市は、永楽年間に始まる。遼東に市を三つ設け、二つは開原に、一つは広寧にあり、各々城より四十里を去る。成化年間、巡撫陳鉞がまたこれを施行することを奏す。後、万暦初年に至るまで廃れず。嘉靖年間、大同に馬市を開き、陝辺・宣鎮相継いで行う。隆慶五年、俺答が上表して貢を称す。総督王崇古が馬七千余匹を市し、価九万六千余り。その価は、遼東は米・布・絹を以てし、宣・大・山西は銀を以てす。市易の外に貢馬する者あれば、鈔幣を加えて賜う。

初め、太祖江左より起り、急務とするは惟馬のみ、屡々四方に使いを遣わして市う。正元寿節には、内外の藩封将帥皆馬を幣とす。外国・土司・番部は時に応じて入貢し、朝廷は毎に厚く賜予を加え、招携懐柔する所以備至たり。文帝は遠略に勤め、使いを絶域に遣わす。外国来朝する者甚だ衆し。然れども急務とするは馬に在らず。その後、承平に狃れ、駕馭の権失い、馬は外より増えず、惟だ孳生の歳課に恃む。重ねて官吏の侵漁を以てし、牧政荒廃し、軍民交えて困窮す。蓋し明は宣徳以後、祖制漸く廃れ、軍旅特に甚だしく、而して馬政はその一つなり。