明史

志第六十七 兵三

元人は北に帰り、しばしば興復を謀る。永楽帝が都を北平に遷すと、三方が塞に近く、正統以後は敵の患い日増しに多し。故に明の世の終わりまで、辺防は甚だ重し。東は鴨緑より起こり、西は嘉峪に抵り、万里に綿亘し、地を分けて守禦す。初めに遼東・宣府・大同・延綏の四鎮を設け、継いで寧夏・甘肅・薊州の三鎮を設け、而して太原総兵は偏頭を治め、三辺制府は固原に駐し、亦た二鎮と称す、是れを九辺と為す。

初め、洪武六年、大将軍徐達等に命じて山西・北平の辺を備えさせ、各々上方略を上るを諭令す。淮安侯華雲龍の言に従い、永平・薊州・密雲より西に迆る二千余里、関隘百二十有九、皆戍守を置く。紫荊関及び蘆花嶺に千戸所を設けて守禦す。又詔して山西都衛に雁門関・太和嶺並びに武・朔諸山谷の間、凡そ七十三の隘に、俱に戍兵を設けしむ。九年、燕山前・後等十一衛を敕し、兵を分けて古北口・居庸関・喜峯口・鬆亭関の烽堠百九十六箇所を守らしめ、南北の軍士を参用す。十五年、又北平都司の所轄する関隘二百に於て、各衛の卒を以て守戍せしむ。諸王に詔し、塞に近き者は、毎歳秋に兵を勒して辺を巡らしむ。十七年、徐達に命じて北平の将校士卒を籍上せしむ。復た将をして遼東・定遼等九衛の官軍を核せしむ。是れより後、毎に諸公・侯を遣わして沿辺の士馬を校し、以て籍上せしむ。二十年、北平行都司を大寧に置く。其の地は喜峯口の外に在り、故の遼西郡、遼の中京大定府なり。西は大同、東は遼陽、南は北平。馮勝の納哈出を破り、師を還し、之に城し、因って都司及び営州五屯衛を置き、而して皇子権を封じて寧王と為し、各衛の兵を調べて往き守らしむ。是に先立ち、李文忠等元の上都を取り、開平衛及び興和等千戸所を設け、東西各四驛、東は大寧に接し、西は獨石に接す。二十五年、又東勝城を河州東受降城の東に築き、十六衛を設け、大同と相望む。遼より以西、数千里声勢聯絡す。

建文元年、文帝兵を起こし、大寧を襲い陥し、寧王権及び諸軍を以て帰る。及び即位し、寧王を江西に封ず。而して北平行都司を大寧都司と改め、之を保定に徙す。営州五屯衛を順義・薊州・平谷・香河・三河に調し、大寧の地を兀良哈に畀う。是より是れ、遼東と宣・大の声援阻絶し、又東勝は孤遠にして守り難しと以て、左衛を永平に調し、右衛を遵化に調し、而して其の地を墟とす。是に先立ち興和も亦た廃し、開平は獨石に徙し、宣府遂に重鎮と称す。然れども帝は辺備に甚だ謹みあり。宣府より西に迆り山西に迄るまで、縁辺皆峻垣深濠、烽堠相接す。隘口車騎に通ずる者は百戸之を守り、樵牧に通ずる者は甲士十人之を守る。武安侯鄭亨総兵官に充て、其の敕書に云く、「各処の煙墩、務め高厚を増築し、上に五月の糧及び柴薪薬弩を貯え、墩の傍に井を開き、井の外に牆を囲みて墩と平らかにし、外より望めば一の如くせよ」と。重門暴を御するの意、常に凜凜たり。

洪熙改元、朔州の軍士白栄、東勝・高山等十衛を故地に還すを請う。興州の軍士範濟も亦た言う、朔州・大同・開平・宣府大寧は皆籓籬の要地、其の土は耕す可く、将を遣わし兵を率い、城堡を修め、屯種を広むべしと。皆用いる能わず。

正統元年、給事中硃純、塞垣を修むるを請う。総兵官譚廣言う、「龍門より獨石及び黒峪口に至る五百五十余里、工作甚だ難く、墩臺を益して守るに若かず」と。乃ち赤城等堡の煙墩二十二を増す。寧夏総兵官史昭言う、「所轄の屯堡、俱に河外に在り、河より東に迆り察罕腦兒に至り、綏德州に抵るまで、沙漠曠遠、守備並びに無し。花馬池に哨馬営を築くを請う」と。大同総兵官方政継いで馬営を以て請い、半嶺紅寺兒の廃営に就き修築せんと欲す。宣大巡撫都御史李儀、大同は平衍なるを以て、巡哨宜しく謹むべく、副総兵を以て東路を主とし、参将を以て西路を主とし、而して迆北は則ち之を総兵官都指揮に属すべしと請う。並びに議の如く行わる。後三年、紫荊関諸隘口を塞ぎ、守備軍を増すを詔す。時に瓦剌漸く強く、成国公硃勇の請いに従うなり。既にして也先塞に入り、英宗土木に陥る。景帝即位、十余年の間、辺患日増しに多く、索来・毛裡孩・阿羅出の属、相継いで入犯し、寧歳無し。

成化元年、延綏総兵官張傑言う、「延慶等の境広袤千里、所轄二十五の営堡、毎処僅か一二百人、敵に応じ難く、宜しく精鋭九千を選び六哨と為し、分かって府谷・神木の二県、龍州・榆林の二城、高家・安辺の二堡に屯し、庶幾くは緩急に備え有らん」と。又鄜・慶の防秋軍二千余人を分佈して沿辺の要害に於かしむるを請う。之に従う。七年、延綏巡撫都御史餘子俊大いに辺城を築く。是に先立ち、東勝は衛を設けて河外を守り、榆林は綏徳を治む。後東勝内遷し、険を失い、米脂・魚河の地幾三百里を捐つ。正統間、鎮守都督ととく王禎始めて榆林城を築き、縁辺の営堡二十四を建て、歳に延安・綏徳・慶陽の三衛軍を調べて分戍す。天順中、阿羅出河套に入り駐牧し、毎に諸部を引きて内犯す。是に至り、子俊乃ち治を榆林に徙す。黄甫川より西に定辺営に至る千二百余里、墩堡相望み、横に套口を截ち、内復た山を塁み谷を堙み、夾道と曰い、東は偏頭に抵り、西は寧・固に終わる。風土勁悍、将勇士力、北人は之を橐駝城と呼ぶ。十二年、兵部侍郎滕昭・英国公張懋条に辺備を上り、言う、「居庸関・黄花鎮・喜峯口・古北口・燕河営に団営馬歩軍万五千人戍守す、軍五千を益し、永平・密雲に分駐して以て遼東に策応すべしを請う。涼州鎮番・庄浪・賀蘭山より西に迆り、雪山より河を過ぎ、南は靖虜に通じ、直ちに臨・鞏に至るまで、俱に敵の入犯の路、陝西の官軍を調べ、甘・涼・臨・鞏・秦・平・河・洮の兵を以て益し、安定・会寧を戍り、警に遇えば截撃せんことを請う。

涼州の鋭士五千を以て、要を扼して屯駐し、彼此策応せしむ」と。詔して可とす。二十一年、各辺の軍士を敕し、毎歳九月より明年三月に至るまで、俱に常に操練せしめ、仍て操過の軍馬及び風雪免の日を奏報せしむ。辺備頗る修飭す。

弘治十四年、固原鎮を設く。是に先立ち、固原は内地と為り、備うる所惟だ靖虜のみ。及び火篩河套に入り拠るに及び、遂に敵衝と為る。乃ち平涼の開成県を固原州と改め、四衛を以て隷し、総制府を設け、陝西三辺の軍務を総べしむ。是の時陝辺惟だ甘肅稍々安んずるも、而して哈密屢々土魯番に擾さるるを以て、乃ち嘉峪関を修むるを敕す。

正徳元年春、三辺総制都御史楊一清が東勝を守備に復することを請うた。「黄河を固めとし、東は大同に接し、西は寧夏に属し、河套の千里の沃土を我が耕牧に帰せしめれば、陝右もなお肩を休めることができよう」。ここに定辺営等六事の修築を上奏した。帝はその奏を許可した。やがて中官劉瑾に逆らい罷免され、築いた塞垣は僅か四十余里に過ぎなかった。武宗は武を好み、辺将江彬らが寵を得て、遼東・宣府・大同・延綏の四鎮の軍は多く内調され、また京軍六千を以て宣府軍六千と春秋に番換させた。十三年、宣府・大同・延綏の三鎮の応援節度を定めて頒布した。敵が河を渡らなければ、延綏は宣府・大同の調に従い、河を渡れば、宣府・大同は延綏の調に従う。兵部尚書王瓊の議に従ったのである。

初め、大寧を棄てた時、その地を朵顔・福餘・泰寧の三衛に与えた。これは兀良哈が帰附した者である。間もなく、遂に靖まらず。宣宗はかつて田猟に因り、親しく師を率いてこれを破り、これより畏服した。故に喜峯・密雲にはただ都指揮を設けて鎮守させた。土木の変に、三衛が逆を助けたと多く伝わり、後に太監参将等の官を添設した。ここに至り、朵顔のみが盛んで、情は測り難かった。

嘉靖初め、御史丘養浩が小河等の関を外地に復することを請い、以てその要を扼せんとした。また多く火器を鋳造し、沿辺州県に給し、商を募りて粟を輸送させ、各辺衛所を充実させることを請うた。詔して皆これを行わせた。初め、太祖の時、辺軍の屯田が足らず、商を召して辺粟を輸送させてこれに塩を与えた。富商大賈は皆自ら財力を出し、民を募って塞下に田を墾かせたので、辺儲は匱乏しなかった。弘治の時、戸部尚書葉淇が初めて法を変え、商に銀を太倉に納めさせ、各辺に分給させた。商は皆業を撤して帰り、辺地は荒蕪し、米粟は価格が高騰し、辺軍は遂に日に困窮した。十一年、御史徐汝圭が辺防の兵食を条上し、「延綏は石州・保徳の粟を漕運し、黄河を上り、楚の粟は鄖陽より、汴の粟は陝・洛より、沔の粟は漢中より、以て陝右に達すべし。宣府・大同は二麦を産す、宜しく多方に収□すべし。紫荊・倒馬・白羊等の関は、宜しく商を招き車を賃して運ばしむべし」と言った。また「宣府の遊兵を右衛懐来に駐屯させ、以て大同を援わしむ。順聖西城に遊兵を選補して臨期の応援とし、永寧等処の遊兵は宣府を衛り、調遣に備う。直隷八府に勇敢を召募して団練させ、辺関の遠近に警急に赴かしむ。榆林・山・陝の遊兵は、本処に於いて策応すべし」と請うた。報可されたが、また行うことができなかった。

十八年、三辺制府を花馬池に移鎮した。この時、俺答諸部は強横で、屡々大同・太原の境に深く入り、晋陽の南北は、煙火蕭然たり。巡撫都御史陳講が「兵六千を以て老営堡東界の長峪を戍らせ、山西兵を以て大同を守らしむ。三関の形勢は、寧武は中路にして、神池より要なるは莫く、偏頭は西路にして、老営堡より要なるは莫し。皆参将を改設すべし。雁門は東路にして、北楼諸口より要なるは莫し。把総・指揮を増設すべし。而して神池守備を利民堡に移し、老営堡遊撃を八角所に移し、各々軍を増し設備すべし」と請うた。帝は悉くこれを許した。規画は密ではあったが、然し兵将は率ね怯弱で、その健者は僅かに自守するのみであった。

二十二年、詔して宣府兵に塞に乗ぜしめた。旧制では、総兵は夏秋の間に分かれて辺堡に駐屯し、これを暗伏と称した。ここに至り、有司が建議し、入秋すると悉く辺に赴かせ、地を分けて拒守させ、九月中に罷めて帰らせ、帑金を以て犒労した。久しくして、労費のため罷められた。二十四年、山西巡按御史陳豪が言う。「敵は三たび山西を犯し、百萬を傷殘し、餉銀六十億を費やしながら、曾て尺寸の功も無し。請うらくは計を定めて決戦し、尽く套地を復せんことを」。明年、敵は延安を犯し、三辺総督侍郎曾銑が力めて套地回復を主張し、十八事を条上した。帝はこれを嘉奨した。大学士厳嵩は帝の兵を憚る意を窺い、かつ旧閣臣夏言を殺さんと欲し、ここに因って銑を劾し、言と共に誅死させた。これより辺事を言う者無し。

二十九年、俺答が古北口を攻め、間道の黄榆溝より入り、直ちに東直門に迫った。諸将は敢えて戦わず。敵が退くと、大将軍仇鸞が力めて貢市の議を主張した。明年、大同に馬市を開いたが、然し寇掠は旧の如し。又明年、馬市は罷められた。

先に翁萬達が宣府・大同を総督した時、辺事を籌謀すること甚だ悉くしていた。その言に曰く。「山西保德州の河岸、東は老営堡に尽きるまで、凡そ二百五十四里。西路丫角山より北に迤いで来たり、中北路を歴て、東路の東陽河鎮口臺に抵るまで、凡そ六百四十七里。宣府西路、西陽河より東に迤い、中北路を歴て、東路の永寧四海冶に抵るまで、凡そ千二十三里。皆巨寇に逼臨し、険は外にあるもの、所謂極辺なり。老営堡より南に転じて東し、寧武・雁門・北楼を歴て平刑関の境に尽きるまで、約八百里。又南に転じて東し、保定界となり、龍泉・倒馬・紫荊・呉王口・插箭嶺・浮図峪を歴て沿河口に至るまで、約千七十余里。又東北は順天界となり、高崖・白羊を歴て居庸関に抵るまで、約百八十余里。皆峻嶺層岡にして、険は内にあるもの、所謂次辺なり。敵が山西を犯すには必ず大同よりし、紫荊に入るには必ず宣府よりす。外辺を経ずして内辺に入ることは未だ有らざるなり」。ここに請うて宣府・大同の辺牆千余里を修築し、烽堠三百六十三所を築かせた。後、通市の故に、防がず、遂に半ば敵に毀たれた。ここに至り、兵部が辺将に修補を敕することを請うた。科臣もまた言う、垣上に宜しく高臺を築き、廬を建てて火器を棲まわすべしと。これに従った。時、俺答は益々強く、朵顔三衛がこれに向導となり、遼・薊・宣・大は連年兵災に遭った。三十四年、総督軍務兵部尚書楊博は、大同右衛の囲みを解いた後、ここに因って牛心諸堡を築き、烽堠二千八百有余を修めた。宣府・大同間は稍々寧息したが、薊鎮の患いは已まなかった。

薊が鎮と称されるのは、二十七年より始まる。時に鎮兵は未だ練られず、ここに因って詔して各辺の入衛兵を往きて戍らせた。既にして兵部が言う。「大同の三辺、陝西の固原、宣府の長安ちょうあん嶺、延綏の夾牆は、皆重険に拠る。惟だ薊のみ無し。渤海所の南、山陵の東、蘇家口有り、寨籬村に至るまで七十里、地形平漫なり。宜しく牆を築き臺を建て、兵を設けて守り、京軍と相夾制すべし」。報可された。時に兵力は孱弱で、警有れば徴召して四方より集まるが、議者は惟だ険に拠ることを以て事とし、敢えて戦を言う者無し。その後、薊鎮の入衛兵は、俱に宣府・大同の督・撫の調遣を聴き、防禦は益々疎かになった。朵顔は遂に虚に乗じて歳々入った。三十七年、諸鎮が建議し、各々本鎮の戍卒を練り、徴発の費を十の六を省くべしと。然し戍卒は選懦にして戦に任ぜず、歳練もまた費やすること萬余、而して臨事の徴発は旧の如し。隆慶の間、総兵官戚継光が薊・遼を総理し、練兵の事を任じ、ここに因って浙兵三千人を調して勇敢を倡えんことを請うた。及んで至れば、郊にて命を待ち、朝より日中に至るまで、天雨すれども、軍士は跬歩も移さず、辺将は大いに駭いた。これより薊兵は精整を以て称された。

俺答はすでに朝貢を通じ、順義王に封ぜられ、その子孫が封を襲うこと累世に及んだ。万暦の末に至り、西部は遂に振るわず、土蛮部落の虎燉兎・炒花・宰賽・□爰兎らが東西に煽動し、将士は奔命に疲れ、未だ嘗て安枕を得たことがなかった。

初め、太祖は辺境に沿って衛を設け、ただ土着の兵および罪を得て戍に謫せられた者のみであった。警報に遇えば、他の衛の軍を調発して往って戍らせ、これを客兵と称した。永楽年間に至り、始めて内地の軍を番戍させ、これを辺班と称した。その後、役に占め逃亡する数多く、乃ち召募あり、改撥あり、修守民兵・土兵ありて、辺防は日に益々壊れた。洪武の時、宣府の屯守官軍は殆ど十万であった。正統・景泰の間、すでに定額に及ばず。弘治・正徳以後、官軍の実有する者は僅かに六万六千九百余り、而して召募と士兵がその半を占めた。他の鎮も率ねこれを見る。

正統初め、山西・河南の班軍が偏頭・大同・宣府の塞を守り、代わることを得なかった。巡撫于謙が言うには、「毎年九月より二月に至るまで、水冷く草枯れ、敵騎出没し、障に乗ずる卒は宜しく多きべし。若し三月より八月に至るまで、辺守自ら足る。乞うらくは両班軍を、毎年一班とし、期の如く放遣せんことを」と。甘粛総兵官蒋貴もまた言うには、「沿辺の墩台を、守了軍が更番するには例あり、ただ事に坐して謫発せられた者は許さず、困苦甚だし。乞うらくは例の如く踐更せんことを」と。並びにこれに従う。五年、山西総兵官李謙が偏頭関守備軍を大同の例の如く、半歳ごとに更番することを請う。部議して、毎番皆十月とし、而して戍卒は仍お率ね歳を期とし、久しくして後に遣わされる者あり。弘治中、三辺総制秦紘が言うには、「延綏を備御する官軍は、十二月より辺に赴き、既に一歳を週り、次年二月に至りて始めて代わることを得る。軍に在る日多し、請うらくは歳一更とし、上下俱に三月初めに在らんことを」と。辺軍これを便とした。

嘉靖四十三年、延綏巡撫胡志夔が戍軍を三年免じ、毎軍銀五両四銭を徴収し、募兵の用に供することを請う。万暦初めに至り、大同督撫方逢時らが修築の費を請う。詔して河南応戍班軍を、四年より六年に至るまで概ね免じ、尽く班価を扣留して発給し、これを折班と謂い、班軍は遂に消耗した。久しくして、徴ずる所も亦得られず。寧山・南陽・穎上の三衛、延綏鎮への折班銀の積逋が五万余両に至る。是より後、諸辺の財力俱に尽き、弊極まる。

初め、辺政厳明にして、官軍皆定職あり。総兵官は総鎮軍を総べて正兵と為し、副総兵は三千を分領して奇兵と為し、遊撃は三千を分領して往来防禦し遊兵と為し、参将は各路を分守して東西策応し援兵と為す。営堡墩台は極沖・次沖に分ち、軍を設くる多少を為す。平時、陣を走り、哨探し、守□□し、荒を焚く諸事、敢えて惰る者なし。稍々制に違えば、輒ち軍法に按ず。而してその後皆廃壊すと云う。

沿海の地は、楽会より安南の界に接し、五千里にして閩に抵り、又二千里にして浙に抵り、又二千里にして南直隸に抵り、又千八百里にして山東に抵り、又千二百里にして宝坻・盧龍を逾えて遼東に抵り、又千三百余里にして鴨緑江に抵る。島寇倭夷、在在に出没す、故に海防も亦重し。

呉元年、浙江行省平章李文忠の言を用い、嘉興・海塩・海寧皆兵を設けて戍守す。洪武四年十二月、靖海侯呉禎に命じ、方国珍の部したる温・台・慶元三府の軍士及び蘭秀山の田糧なき民を籍し、凡そ十一万余人、各衛に隷して軍と為す。且つ沿海の民の私かに出海するを禁ず。時に国珍及び張士誠の余衆多く島嶼の間に竄き、倭を勾いて寇と為す。五年、浙江・福建に命じて海舟を造り倭を防がしむ。明年、徳慶侯廖永忠の言に従い、広洋・江陰・横海・水軍の四衛に命じ多櫓快船を増置し、事無きときは則ち巡徼し、寇に遇えば大船を以て薄戦し、快船を以てこれを逐わしむ。詔して禎を総兵官に充て、四衛の兵を領せしめ、京衛及び沿海諸衛の軍悉く節制を聴かしむ。毎春、舟師を以て海に出で、路を分かちて倭を防ぎ、秋に至りて乃ち還る。十七年、信国公湯和に命じて海上を巡視せしめ、山東・江南北・浙東西沿海の諸城を築かしむ。後三年、江夏侯周徳興に命じ、福建の福・興・漳・泉の四府の三丁の一を抽き、沿海戍兵と為し、一万五千人を得しむ。衛所を要害の処に移置し、城十六を築く。復た定海・盤石・金郷・海門の四衛を浙に置き、金山衛を松江の小官場に、及び青村・南匯嘴城の二千戸所を置き、又た臨山衛を紹興に、及び三山・瀝海等の千戸所を置き、而して寧波・温・台の並海の地は、先に已に八千戸所を置き、平陽・三江・龍山・霩戺・大鬆・銭倉・新河・松門と曰い、皆兵を屯し守りを設く。二十一年、又た和に命じて閩粤を行視せしめ、城を築き兵を増す。福建沿海指揮使司五を置き、福寧・鎮東・平海・永寧・鎮海と曰う。千戸所十二を領し、大金・定海・梅花・万安・莆禧・崇武・福全・金門・高浦・六鰲・銅山・玄鐘と曰う。二十三年、衛卒陳仁の言に従い、蘇州太倉衛の海舟を造る。旋ちに浜海の衛所に令し、毎百戸及び巡検司皆船二を置き、海上の盗賊を巡らしむ。後に山東都司周彦の言に従い、寧海衛に五総寨を建て、萊州衛の八総寨と共に小寨四十八を轄せしむ。已にして、重臣勳戚魏国公徐輝祖らを覆命して分かち沿海を巡らしむ。帝素より日本の詭譎を厭い、その貢使を絶つ、故に終に洪武・建文の世、患いと為らず。

永楽六年、豊城侯李彬らに命じて海に縁りて倭を捕えしめ、復た島人・縻戸・賈豎・漁丁を招きて兵と為し、防備益々厳し。十七年、倭遼東を寇し、総兵官劉江これを望海堝に殲す。是より倭大いに懼れ、百余年の間、海上大なる侵犯無し。朝廷数歳を閲するごとに一たび大臣をして巡警せしむるのみ。

嘉靖年間に至り、倭寇の患いが次第に起こり始め、初めて浙江巡撫を設置し、福建海道提督軍務都御史を兼管させた。既にして、巡撫を巡視に改めた。間もなく、倭寇はますます横行した。そこで金山参将を増設し、蘇州・松江の海防を分守させ、まもなく副総兵に改め、江南・江北の徐州・邳州の官民兵を調達・募集して戦守に充て、また杭州・嘉興・湖州にも参将及び兵備道を増設した。三十三年、山東の民兵及び青州の水陸槍手千人を淮安・揚州に調撥し、総督南直軍務都御史張経の調用に従わせた。当時、倭寇は杭州・嘉興・蘇州・松江を縦横に掠奪し、柘林城を占拠して窟穴とし、大江南北は皆その擾乱を受けた。監司の任環がこれを破り、張経もまた王家涇の勝利を得たため、倭寇は海に出て逃れ、再び蘇州を侵犯した。ここにおいて南京御史の屠仲律が五事を上言した。そのうちの海口を守る件は言う、「平陽港・黄花澳を守り、海門の険要を占拠して、温・台を犯させぬようにすべし。寧海関・湖頭湾を守り、三江の口を扼して、寧・紹を窺わせぬようにすべし。鱉子門・乍浦峡を守り、杭・嘉に近づかせぬようにすべし。呉淞・劉家河・七丫港を守り、蘇・松を掩襲させぬようにすべし。また海舟を修繕整備し、大小を組み合わせ、あるいは百艘あるいは五十艘を一宗として連ね、慣熟した水夫を募集してこれを統率させ、原額の水軍をこれに充て、諸海口において緩急に応じて防備を置くべきである」と。部(兵部)はこの議を是とした。間もなく、兵部もまた言う、「浙江・南直隷・通州・泰州の間は水戦に最も利あり、往時は多く沙船を用いて賊を破った。厚く賞してこれを招き寄せることを請う。防御の法は、海島を守ることを上策とすべく、太倉・崇明・嘉定・上海の沙船及び福倉・東莞等の船をもって普陀・大衢を守らせるのがよい。陳錢山は浙江・南直隷の分路の始まりであり、狼山・福山の二山は首尾を約束し、江洋と交接する要害の地でもある。水師を督して固守させるべきである」と。詔はこれを許可した。既にして、また直隷の呉淞江・劉家河・福山港・鎮江・圌山の五総に遊兵を添設し、金山副総兵の調度に従わせることを命じた。

当時、胡宗憲が総督となり、海賊の徐海・汪直を誅殺した。汪直の配下三千人は、再び倭寇を誘い入れて寇掠し、福建・広東はますます騒然となった。三十七年、都御史の王詢が請う、「福建の福州・興化を一路に分け、参将に統率させ、福寧に駐屯させ、水防を流江・烽火門・俞山・小埕から南日山までとし、漳州・泉州を一路に分け、参将に統率させ、詔安に駐屯させ、水防を南日山から浯嶼・銅山・玄鐘・走馬溪・安辺館までとすべし。水陸の兵は皆その節制に従う。福建省城は南北の中間に位置し、海まで僅か五十里であるから、更に参将を設置し、精鋭を選抜募集して部を率い哨船とし、主客兵と互いに応援すべきである」と。部(兵部)の審議はこれに従った。広東の惠州・潮州にも参将を増設し、掲陽に駐屯させた。福建巡撫都御史の遊震得が言う、「浙江の温州・処州は福寧と接壤し、倭寇の出没する所である。戚継光を副総兵に進めてこれを守らせるのがよい。そして福寧守備を増設し、戚継光に隷属させる。漳州の月港にも守備を増設し、総兵官の俞大猷に隷属させる。延平・建寧・邵武は八閩の上流に当たり、兵を募って緩急に備えるべきである」と。皆許可されて施行された。既にして胡宗憲が逮捕され、総督官が廃止されると、浙江巡撫の趙炳然に軍事を兼任させた。趙炳然はこれに因み、定海総兵を浙江に属させ、金山総兵を南直隷に属させ、ともに水陸軍務を兼理させ、互いに策応させることを請うた。その後、莆田の倭寇が平定されると、五水寨の旧制を復活させた。

五寨とは、福寧の烽火門、福州の小埕澳、興化の南日山、泉州の浯嶼、漳州の西門澳(また銅山ともいう)である。景泰三年に鎮守尚書の薛希璉が奏請して建てたものであったが、後に廃された。ここに至り、巡撫の譚綸が上疏して言う、「五寨は外洋を守り扼するもので、その法は甚だ周到詳細である。旧制を復活させるのがよい。烽火門・南日・浯嶼の三宗を正兵とし、銅山・小埕の二宗を遊兵とすべし。

各寨に把総を設置し、汛地を分け、斥候を明らかにし、会哨を厳しくすべし。三路の参将を守備に改める。新たに募集した浙江兵を二班に分け、各九千人とし、春秋に番上させる。各県の民壮は皆精悍な者を補用し、各府ごとに武職一人に統率させ、兵備使者が時々閲視する」と。帝は皆これを是とした。狼山にはもと副総兵を設置していたが、ここに至り鎮守総兵官に改め、大江南北を兼轄させた。隆慶初年に至る頃には、倭寇は次第に患いとならなくなり、諸々の小寇がしばしばあるのみとなった。

万暦三年、広東南澳に総兵官を設置した。これはその地が漳州・泉州の要害を占めるからである。久しくして、倭寇が朝鮮を侵犯すると、朝廷は大いに兵を発して往援し、前後六年に及んだ。ここにおいて天津に巡撫官を設置し、畿甸を防備した。後十数年、南直隷巡按御史の顔思忠の言に従い、淮安大営の兵六百を分けて廖角嘴を守らせた。福建巡撫の丁継嗣の言に従い、浙江から福建に入る三江及び劉澳に兵を設置し、また海澄の団練営の土着軍を浙江兵と入れ替えた。

天啓年間、澎湖に城を築き、遊撃一、把総二を設置し、兵三千を統率させ、砲台を築いて守らせた。先だって、万暦年間に、許孚遠が福建を巡撫した時、福州の海壇山を築くことを奏請し、ついで澎湖諸嶼に及び、かつ言う、「浙東沿海の陳錢・金塘・玉環・南麂の諸山は皆経理すべきである」と。そこで南麂に副総兵を設置したが、澎湖には手が回らなかった。その地は海中に遥かに聳え立ち、蜿蜒として長蛇の如く、多くの岐港と零嶼があり、その中の空間は巨船を隠すことができる。初めは紅毛(オランダ人)が占拠していたが、ここに至り巡撫の南居益の言により、奪い取って守備したのである。

世宗朝の倭患以来、沿海の大都会には、それぞれ総督・巡撫・兵備副使及び総兵官・参将・遊撃等の官を設置した。そして諸々の防御は、広東においては東・中・西の三路に分け、三参将を設置し、福建においては五水寨を設け、浙江においては六総を設け、一は金郷・盤石の二衛、一は松門・海門の二衛、一は昌国衛及び銭倉・爵溪等の所、一は定海衛及び霩戺・大嵩等の所、一は観海・臨山の二衛、一は海寧衛であり、四参将に分統させ、南直隷においては乍浦以東は金山衛に参将を設置し、黄浦以北は呉淞江口に総兵を設置し、淮安・揚州においては総兵を通州に駐屯させ、遊撃を廟湾に駐屯させ、また揚州に陸兵遊撃を設置して調遣を待たせ、山東においては登州・萊州・青州の三府に巡察海道の副使、管理民兵の参将、総督沿海兵馬備倭の都指揮を設置し、薊州・遼東においては大沽海口に重兵を駐屯させ、副総兵に統率させ、また密雲・永平の両遊撃を応援とし、山海関外においては広寧中・前等五所の兵が各汛を守り、寧前参将を応援とし、また金州・復州・海州・蓋州の諸軍は皆海防を担当させ、三岔以東、九聯城外に鎮江城を創建し、遊撃を設置し、兵千七百を統率させて海上を哨戒させ、北は寛奠参将の陸営と相接し、合わせて凡そ七鎮を数え、守備・把総・分守・巡徼会哨の者は数百員に下らない。三・四・五月を大汛とし、九・十月を小汛とした。倭寇の被害が甚だ甚大であったため、防備もまた最も厳密に設けられたのである。

日本の地は福建と相対し、浙江の招宝関がその貢道に当たるため、浙江・福建が最も要衝である。南の寇は広東を、北の寇は江を経て留都(南京)・淮・揚を犯すので、海外を防ぐには、江を防ぐことが重要である。洪武初年、都城南の新江口に水兵八千を置いた。やがて、一万二千に増やし、舟四百艘を建造した。また北岸の浦子口に陸兵を設け、互いに犄角の勢いとした。管轄する沿江の諸郡は、上は九江・広済・黄梅から、下は蘇・松・通・泰に至り、中に安慶・池・和・太平を含み、すべて盗賊および私塩を販売する者を巡捕させ、倭寇の防備をも兼ねた。永楽時、特に勲臣を帥として江操を監督させ、その後は都御史を兼用した。成化四年、錦衣衛僉事馮瑤の上言に従い、江兵に地勢に応じて防備を設けさせ、瓜洲・儀真・太平に将領を置いて鎮守させた。六年後、守備定西侯蔣琬が奏上して、建陽・鎮江諸衛の軍を調発し、江兵の欠員を補った。十三年、武大臣一人を選んで江操を職掌させ、営務を兼務させないこととした。さらに五年後、南京都御史白昂の上言に従い、沿江の守備官に互いに応援することを命じ、併せて関防(印)を与えた。これを令として定めた。弘治年間、新江口の両班軍を京営の例に倣い、首班が休む時は即ち次班を操練させることとした。嘉靖八年、江陰の賊侯仲金らが乱を起こし、給事中夏言が鎮守江・淮総兵官の設置を請うた。やがて寇が平定されると、総兵は廃止して設けられなかった。十九年、沙賊の黄艮らが再び起こった。帝が兵部に総兵を廃止した理由を詰問したため、再び設置し、旗牌符敕を与えて沿江上下を提督させた。後にまた廃止された。三十二年、倭寇の被害が激しくなり、金山衛に副総兵を再設置し、沿海から鎮江までを管轄させ、狼山副総兵と水陸で相応じさせた。当時江北はことごとく倭寇に侵されたため、九江・安慶の官軍を量って京口・圌山などの地を守らせた。久しくして、給事中範宗吳が言うには、「旧例では、操江都御史は江を防ぎ、応天・鳳陽の二巡撫は海を防ぐ。後に倭寇の警報により、鎮江から下流の通常・狼山・福山などの諸処を操江の管轄としたため、二撫臣がその責任を推諉し得るようになった。操江もまた、元来の所属兵でないため、遠方から統制し難く、冷淡にこれを看過し、委任して責を成す意に適わない。圌山・三江会口を以て操江と巡撫の分界とすべきである」。奏上を許可した。その後、上下両江の巡視御史を増設し、有司将領を挙劾する権限を与え、南京歛都御史に操江を兼理させ、別に設けないこととした。

先に、水兵六千を増募していた。隆慶初年、都御史吳時来の請いに従い、四分の一を留め、残りは悉く罷免・帰還させ、併せて中軍把総等の官を削減した。やがて、また分汛して守備を設け、上下南北が互いに策応することを責めた。また都御史宋儀望の言に従い、諸軍は皆江上に分駐し、城市に居住してはならないこととした。万暦二十年、倭寇の警報により、上言者が京口総兵の再設置を請うた。南京兵部尚書衷貞吉らは、既に呉淞総兵がある以上、両方を設けるのは適当でないと論じた。そこで兵備使者を設け、毎年春の汛期に、備倭都督を調発し、衛所の水・陸軍を統率して鎮江に赴かせた。七年後、操江耿定力が奏上して言うには、「長江千余里、上江に五営を列ね、兵備臣三人、下江に五営を列ね、兵備臣二人あり。簡閲訓練を委ね、その精鋭の有無を以て兵備臣の考課の上下とすべきである」。部議はこれを妥当とした。旧例では、南北総哨官は五日毎に適中の地で会哨し、将領官もまた月に二度江上に至って会哨した。その後多く行われなくなった。崇禎年間、再び勲臣に操江を任せたが、怠惰が習いとなり、会哨巡徼は皆虚名で、実を伴わなかった。

衛所の外に、郡県には民壮があり、辺境の郡には土兵があった。

太祖が江東を平定した後、元の制度に倣い、管領民兵万戸府を立てた。後に山西行都司の言に従い、辺境の民が自ら軍械を備え、団結して辺境を防ぐことを許した。福建・浙江は倭寇に苦しみ、指揮方謙が民丁の多い者を軍籍に編入することを請うた。まもなく郷里に害をなすとして、詔して福建・浙江の民を互いに移徙させた。当時既に民兵を用いていたが、召募によるものではなかった。正統二年、初めて所在の軍余・民壮で自ら効力を願う者を募り、陝西で四千二百人を得た。人ごとに布二匹、月糧四斗を与えた。景泰初年、使者を遣わして直隸・山東・山西・河南の民壮を分募し、山西の義勇を撥して大同を守らせ、また紫荊・倒馬の二関も民兵を用いて防守させ、事が平らぐと帰郷を免じた。

成化二年、辺境の警報により、二関の民兵を復活させた。御史を延安・慶陽に遣わし、精壮を選んで編伍させ、五千余人を得て、土兵と号した。延綏巡撫盧祥が辺民はぎょう勇果敢で、兵として訓練し、田畑と妻子を守らせることができると上言したため、この命があったのである。

弘治七年、民壮を徴収する法を立てた。州・県で七八百里以上の所は、里ごとに二人、五百里は三人、三百里は四人、百里以上は五人を徴収する。有司が訓練し、警報に際しては調発し、行糧を与え、役務を占拠し放免・売却する弊害を禁じた。富民で従わない者は、官に代価を納め、官が自ら募る。あるいは機兵と称し、巡検司に属する者は弓兵と称した。後に越境して冬を防ぐのは良策でないとして、大同巡撫劉宇がその班操を免除し、銀糧を徴収して大同に輸送し、代わりに威遠の屯丁・舍余を役務に補うことを請うた。給事中熊偉もまた応募の民を附近の衛所に編入することを請うた。共に従った。十四年、西北諸辺で募った士兵が多く五千に満たないため、使者を遣わして□銀二十万および太僕寺の馬価銀四万を持たせて募兵に赴かせた。指揮・千百戸は募兵の多寡によって差等をつけ、昇級を得、失官した者は復職し、即時に募った兵を統率させた。まもなく兵部が侍郎李孟暘の軍伍充実を請うた上疏を審議し、次のように述べた。「天下の衛所官軍の原額は二百七十余万であったが、歳月が経ち逃亡・死亡し、かつて民壮三十余万を選び、また衛所の舍人・余丁八十八万を審査し、西北諸辺で召募した士兵は数万に及ぶ。李孟暘の奏の通り、有司で民壮を操練せず、私的に雑差に使役する者を察し、軍人を役務占拠する罪に準じて処罰すべきである」。奏上を許可した。正徳年間、流賊が山東を擾乱し、巡撫張鳳が民兵を選び、自ら馬を買って団操させたため、民はその煩擾に耐えられなかった。兵部侍郎楊潭がこれを上言した。都御史寧杲の募った者は多く無頼の徒で、御史張璇に弾劾された。

嘉靖二十二年に州県の民壮の定員を増やし、大は千人、次は六七百、小は五百とした。二十九年、京師が新たに寇に侵されたため、民兵を募ることを議し、二万を基準とした。毎年四月末に近京に赴いて防禦させた。五年後、兵部尚書楊博が老弱を淘汰し、精鋭を残し、外にいる者は各道に発して民兵とし、京にいる者は巡捕参将に隷属させ、逃亡者は補充しないことを請うた。帝は影占(虚偽登録)の数が多く、糧を消耗して無用であるとして、官を遣わして廃止すべきか帰還すべきかを審査させて報告させた。隆慶年間、張居正・陳以勤が再び畿甸の民兵を籍録することを請い、次のように述べた。

「直隸八府の人は多く健悍である。戸籍を総べて按じ、単丁の老弱者を除き、父子三人の場合は一子を、兄弟三人の場合は一弟を籍録し、州と大県では千六百人、小県では千人を得ることができる。これを二分して正兵・奇兵とし、名を尺籍に登録し、撫臣に隷属させて操練させる。一年に三月を超えず、一月に三回を超えず、練り終われば即ち帰農させ、その賦役を免除する。歳操の外は別に派遣してはならない」。命じて所司に議行させた。しかし嘉靖以後、山東・河南の民兵で薊門を戍る者は、多く銀を徴収して召募に充てた。万暘初年に至り、山東の徴収銀は五万六千両に達し、貧民は大いに困窮した。

治河の役において、給事中張貞観は兵士の募集を増やし、淮・揚・徐・邳を防衛するよう請うた。畿南に盗賊が起こると、給事中耿隨龍は民壮の旧制を復活させ、専ら賊盗を捕らえるよう請うた。播州の乱では、工部侍郎趙可懷は土着の兵を訓練するよう請い、兵部はこれに因って言うには、「天下に兵なきは、しょくのみにあらず。各省の官軍・民壮は、皆老幼を罷め、健卒と替えるべし。軍の操練は印官・操官に属し、民の操練は正官・捕官に属し、郡守・監司は牽制すべからず。営を立て伍を分ち、以て調発の憑とすべし」と。先後ともに議して行われた。

末年、募兵と措餉はますます急を要した。南京職方郎中鄒維璉は調募の害を陳じた。山西参政徐九翰は特に民兵の調発は不可であると極言した。崇禎の時、中原の盗賊が急を告げ、兵部尚書楊嗣昌は州県に命じて土着の民を訓練して兵とすべきことを議した。工部侍郎張慎言はその不便な点を数事挙げ、御史米壽圖はまたその害を十とし、民兵を簡練し、民壮・快手を増やして地方を備御する方が便利であると言った。後に嗣昌が死ぬと、練兵も行われなくなった。

郷兵とは、その風土の長ずる所に随って応募し、軍旅の緩急に調べて佐けるものである。軍籍に隷するものを浙兵といい、義烏が最も優れ、処州がこれに次ぎ、台州・寧波がまたこれに次ぐ。狼筅を善くし、時に叉槊を交える。戚継光が鴛鴦陣を制して倭を破り、及び薊門を守ったことが最も有名である。川兵・遼兵といい、崇禎の時、多くこれを調発して流賊を剿った。軍籍に隷さないものは、所在多くある。河南嵩県のものを毛葫蘆といい、短兵に習熟し、山を走るに長じる。そして嵩県及び盧氏・霊宝・永寧には並びに鉱兵が多く、角脳といい、また打手という。山東には長竿手がある。徐州には箭手がある。井陘には螞螂手があり、石を運ぶことを善くし、遠く百歩に及ぶ。福建漳州・泉州は鏢牌に習熟し、水戦に最も優れる。泉州永春の人は技撃に長ず。正統年間、郭栄六という者が、沙尤の賊を破って功があった。商竈の塩丁は私販を業とし、多く勁果である。成化初年、河東の塩徒千百の輩が、自ら火砲・強弩・車仗を備え、官軍に混じって寇を逐った。そして松江曹涇の塩徒は、嘉靖年間に倭を逐って島上に至り、その舟を焼いた。後に倭は民家に鹺囊あるを見ると、輒ち手を振って戒め合った。広東東部は蛮蜑が雑居し、長牌・斫刀に習熟し、新会・東莞の産が強半を占める。延綏・固原には辺外の土着民が多く、騎射に長じ、英宗は秋防に備えて簡練することを命じた。大藤峡の役では、韓雍がこれを用い、瑤・僮の牌刀を用いる者を摧いた。荘浪の魯家軍は、旧く随駕中に隷し、洪熙初年に、土指揮にこれを領することを命じた。万暦年間、部臣はその驍健を称え、敵の畏れる所であるから、鼓舞して辺用に儲うべきであると言った。西寧の馬戸八百は、嘗て自ら騎馬・器械を備えて敵に赴き、後に款貢によってこれを削った。万暦十九年、経略鄭雒はその旧に復することを請うた。また僧兵には、少林・伏牛・五台がある。倭乱の際、少林僧で応募した者は四十余人、戦いも多く勝利した。西南の辺服には各土司の兵がある。湖南永順・保靖の二宣慰の所部、広西東蘭・那地・南丹・帰順の諸狼兵、四川酉陽・石砫の秦氏・冉氏の諸司は、最も多く力を宣べた。末年、辺事が急を告げ、有司は専ら三省の土司を調発することを長策とし、その利害もまた常に半ばであったという。