明史

志第六十四 河渠六

三代の水土を疆理する制は甚だ詳なり。井田廃れてより、溝遂は堙れ、水常に其の治を得ず、ここに渠塘井陂を穿鑿し、以て灌溉を資す。明初、太祖は詔して所在の有司に、民水利を条上する者あれば、即ち陳奏せしむ。二十七年を越え、特に関部に諭し、陂塘湖堰旱潦に備うるに蓄泄すべきものは、皆其の地勢に因りて修治せしむ。乃ち国子生及び人材を分遣し、遍く天下に詣り、水利の修督せしむ。明年の冬、郡邑交えて奏す。凡そ塘堰を開くこと四万九百八十七処、其の民を恤うること至れり。嗣後興築すること有るや、或いは本境を役し、或いは隣封を資し、或いは官料を支え、或いは山場を採り、或いは農隙に工を鳩し、或いは時に随い事を集め、或いは大臣を遣わして成を董す。明世終わるまで水政屡修し、具列すべきなり。

洪武元年、和州の銅城堰閘を修す。周回二百余里。四年、興安の霊渠を修す。陡渠たるもの三十六。渠水は海陽山に発し、秦の時に鑿り、田万頃を溉ぐ。馬援之を葺う、後ちに圮つ。是に至りて始めて復す。六年、松江・嘉興の民夫二万を発し、上海の胡家港を開く。海口より漕涇に至るまで千二百余丈、以て海船を通じ、且つ海塩の澉浦を浚う。八年、登州の蓬莱閣河を開く。耿炳文に命じ、涇陽の洪渠堰を浚わしめ、涇陽・三原・醴泉・高陵・臨潼の田二百余里を溉ぐ。九年、彭州の都江堰を修す。十二年、李文忠言う、「陝西は鹹鹵を病む。請う、城中に渠を穿ち、遥かに龍首渠を引き東に注がしむ。」其の請に従い、石を以て甃く。十四年、海塩の海塘を築く。十七年、磁州の漳河の決堤を築く。荊州の嶽山壩を決ちて以て民田を灌ぐ。十九年、長楽の海堤を築く。二十三年、崇明・海門の決堤二万三千九百余丈を修し、夫役二十五万人を役す。四川永寧宣慰使言う、「轄する所の水道百九十灘、江門大灘八十二、皆石に塞がる。」詔して景川侯曹震をして往きて之を疏せしむ。二十四年、臨海の横山嶺水閘を修し、寧海・奉化の海堤四千三百余丈を修す。上虞の海堤四千丈を築き、石閘に改めて建つ。定海・鄞の二県の東銭湖を浚い、田数万頃を灌ぐ。二十五年、溧陽の銀墅東壩河道を鑿る。十字港より沙子河の胭脂壩に抵るまで四千三百余丈、夫役三十五万九千余人を役す。二十七年、山陽の支家河を浚う。鬱林州の民言う、「州の南北二江相去ること二十余里、乞うらくは鑿通し、石陡諸閘を設けん。」之に従う。二十九年、河南の洛堤を修築す。復た興安の霊渠を興す。時に尚書唐鐸軍興に以て其の地に至り、渠の状を図して以て聞く。深広を浚い、官舟を通じて以て軍に餉せんことを請う。御史厳震直に命じ、陡澗の石を焼鑿せしめ、餉道果たして通ず。三十一年、洪渠堰圮つ、復た耿炳文に命じ之を修治せしむ。且つ渠十万三千余丈を浚う。建文四年、呉淞江を疏す。

永楽元年、安陸京山の漢水塌岸、章丘の漯河東堤、高密・濰の決岸、安陽河堤、福山の護城決堤、浙江の赭山江塘、餘幹の龍窟壩塘岸、臨潁の褚河決口、濰県の白浪河堤、潛山・懐寧の陂堰、高要の青岐・羅婆圩、通州の徐竈・食利等港、平遥の広済渠、句容の楊家港・王旱圩等堤、肇慶・鳳翔の遥頭岡決岸、南陽の高家・屯頭二堰及び沙・澧等河堤、夏県の古河決口三十余里を修す。和州の保大等圩百二十余里を修築し、水を蓄える陡門九。昌邑の河渠五所を浚い、嘉定の小横瀝を鑿りて以て秦・趙の二涇を通じ、崑山の葫蘆等河を浚う。

夏原吉に命じ蘇・鬆・嘉興の水患を治めしめ、華亭・上海の運塩河、金山衛閘及び漕涇分水港を浚わしむ。原吉言う、「浙西諸郡、蘇・鬆最も下流に居り、嘉・湖・常は頗る高し。太湖を環繞し、綿亘五百里。杭・湖・宣・歙の溪澗の水を納れ、澱山諸湖に散注し、以て三泖に入る。頃に浦港堙塞し、漲溢して稼を害す。拯治の法は、呉淞諸浦を浚うに在り。按ずるに呉淞江は袤二百余里、広百五十余丈、西は太湖に接し、東は海に通ず。前代常に之を疏す。然れども潮汐の沖に当たり、旋りに疏し旋りに塞がる。呉江の長橋より下界浦に抵るまで、百二十余里、水流通ずと雖も、実に多くは窄浅なり。浦より上海の南倉浦口に抵るまで、百三十余里、潮汐淤塞し、已に平陸と成り、灩沙遊泥、施工に難し。嘉定の劉家港は即ち古の婁江、径に海に入り、常熟の白茆港は径に江に入る。皆広川急流なり。宜しく呉淞の南北両岸・安亭等浦を疏べく、太湖諸水を引き劉家・白茆の二港に入れ、其の勢を分からしむべし。松江の大黄浦は乃ち呉淞に通ずる要道、今下流遏塞し浚い難し。旁に範家浜有り、南倉浦口より径に海に達す。宜しく深闊に浚い、上は大黄浦に接し、泖湖の水に達せしめ、庶幾くば《禹貢》「三江海に入る」の旧に復せん。水道既に通ずれば、乃ち地勢を相し、各石閘を置き、時を以て啓閉すべし。毎歳水涸む時、預め圩岸を修め、以て暴流に防がん。則ち水患息むべし。」帝は民丁を発して開浚せしむ。原吉は昼夜徒歩し、身を以て之に先んじ、功遂に成る。

二年、泰州の河塘一万八千丈、興化の南北堤、泰興の沿江圩岸、六合の瓜歩等屯を修す。丹徒の通潮旧江を浚い、又た象山の茭湖塘岸、海康・徐聞の二県の那隠坡・調黎等港堤岸、黄厳の混水等十五閘・六陡門、孟津の河堤、分宜の湖塘、武陟の馬田堤岸、香山の竹径水陂を修し、復た興安の分水塘を興す。興安に江有り、源は海陽山に出づ。江中に横に石埭を築き、南北渠を分ち、民田を溉ぐこと甚だ溥し。埭上に石を鱗の如くに疊み、以て沖溢を防ぐ。厳震直石を撤して埭を増し、水迫りて泄する所無く、塘岸を沖し、尽く北渠に趨り、南渠浅澀、民利を失う。是に至りて修復して旧の如くす。

海門の民、請う淮安・蘇・常の民丁を発し協りて張墩港・東明港の百余里の潰堤を修せんと。帝曰く、「三郡の民方に水患に苦しむ、重ねて労すべからず。」官を遣わし行視せしめ、揚州の民を以て協りて之を築かしむ。当塗の民言う、「慈湖は江に瀕し、上は宣・歙に通じ、東は丹陽湖に抵り、西は蕪湖に接す。久雨浸淫し、潮漲して農を傷む。宜しく勘し遣わし修築すべし。」帝其の請に従い、且つ工部に諭し、安・徽・蘇・鬆、浙江・江西・湖広、凡そ湖泊卑下し、圩岸傾頹するものは、亟に有司を督めて之を治めしむ。夏原吉復た命を受け水を治むることを蘇・鬆にし、旧河港を尽く通ず。又た蘇州の千墩浦・致和塘・安亭・顧浦・陸皎浦・尤涇・黄涇合わせて二万九千余丈、松江の大黄浦・赤雁浦・範家浜合わせて一万二千丈を浚い、以て太湖の下流を通ず。

先に、含山の崇義堰を修築した。間もなく、和州の民が言うには、「銅城閘は上流は巣湖に達し、下流は揚子江に至るが、堤岸が七十余箇所決壊している。修治を乞う。」その吏目張良ちょうりょう興もまた言うには、「水が麻湖・澧湖の二湖の田五万余頃を水没させた。堤防を築き、桃花橋から始めて含山の境界に至る三十里を修築すべきである。」ともにこれに従った。

三年、上虞の曹娥江の壩埂、温県の馱塢村の堤堰四千余丈、南海衛の蓮塘、四会県の鴉鵲水等の堤岸、無為州の周興等郷及び鷹揚衛の烏江屯の江岸を修築した。昌黎及び歴城の小清河の決壊堤防、応天府の新河口の北岸、大勝関から江東驛に至る三千三百丈を築いた。海州の北の旧河を浚渫し、上流は高橋に通じ、下流は臨洪場及び山陽の運塩河十八里に接続した。

四年、宣城の十九圩、豊城の穆湖圩岸、石首の臨江万石堤、溧水の決壊圩堤を修築した。懐寧の斗潭河・彭灘圩岸、順天府の固安、保定府の荊岱、楽亭の魯家套・社河口、吉水の劉家塘・雲陂、江都の劉家圩港を修築した。湖広広済県の武家穴等の江岸を築いた。新建の石頭岡圩岸、江浦の沿江堤を築いた。泰州の運塩河、普定の秦潼河、西渓南儀阡の三箇所の河口を開削し、流れを導いて興化・塩城の境界から海に入らせた。常熟の福山塘三十六里を浚渫した。

五年、長洲・呉江・崑山・華亭・銭塘・仁和・嘉興の堤岸を修築し、余姚の南湖壩を修築し、高要の銀岡・金山等の潰決堤防を築き、田五百余頃を灌漑した。杭州の江岸で陥没した箇所を治めた。六年、浙江平陽県の河を浚渫した。七年、安陸州の渲馬灘の決壊岸、海塩の石堤を修築し、泰興の攔江堤三千九百余丈を築いた。かつ大港の北の淤塞河を浚渫し、県南に至り、大江に出る四千五百余丈を浚った。八年、丹陽の練湖塘、汝陽の汝河堤岸、南陵の野塘圩・蚌蕩壩、鬆滋の張家坑・何家洲堤岸、平度州の濰水・浮糠河の決壊口百十二箇所、堤堰八千余丈、呉江の石塘官路橋梁を修築した。

九年、安福の丁陂等の塘堰、安仁の鐃家陂、寿光の堤防、安陸京山景陵の圩岸、長楽の官塘、長洲から嘉興に至る石土塘橋路七十余里、泄水洞百三十一箇所、監利の車水堤四千四百余丈、高安の華陂屯陂堤、仁和・海寧・海塩の土石塘岸万余丈を修築した。沂州の沭河口の決壊岸を築き、並びに述陽の述河を疏瀹した。直隷新城の張村等口の決壊堤防、仁和の黄濠塘岸三百余丈、孫家圍塘岸二十余里を築いた。濰県の幹丹河、定襄の故渠六十三里を浚渫し、滹沱水を引いて田六百余頃を灌漑した。福山の官渠を疏浚し、江陰の青陽河道を浚渫し、鄒平の白条溝河三十余里を浚った。

麗水の民が言うには、「県に通済渠があり、鬆陽・遂昌の諸渓水を截断してこれに入れる。上・中・下の三源があり、四十八派に分流し、田二千余頃を灌漑する。上流の民が水を泄らして自らの利益とし、下流の流れが絶え、砂が堆積して渠が塞がっている。旧の如く堤堰を修築することを請う。」部議はこれに従った。斉東知県張升が言うには、「小清河が洪水で決壊し、諸塩場及び青州の田を水没させた。上流を浚渫し、長堤を修築し、水を故道に行かせることを請う。」皇太子は官を遣わしてこれを経理させた。鄜州の民が言うには、「洛水が横に決壊して西流し、州城の東北隅を沖き崩している。故道を浚渫し、州の東山麓に沿って南流させることを請う。」これに従った。

十年、浙江平陽の潮を防ぐ堤岸、黄梅の臨江の決壊岸百二十余里、海門の潮を防ぐ堤防百三十里を修築した。新会の圩岸二千余丈、献県・饒陽の恭儉等の岸、安丘の紅河の決壊岸、安州の直亭等の河の決壊口八十九箇所、華容・安津等の堤の決壊口四十六箇所を築いた。上海の蟠龍江、濰県の白浪河を浚渫した。北京行太僕卿楊砥が言うには、「呉橋・東光・興済・交河及び天津等衛の屯田は、雨水が堤防を決壊させて作物を損なう。德州良店驛の東南二十五里に黄河の故道があり、州南の土河に通じる。渠を穿ち閘を置き、水勢を分かち殺せば、大いに民の便となる。」侍郎蘭芳を遣わしてこれを処理させた。

十一年、蕪湖の陶辛・政和の二圩、保定・文安二県の河口の決壊岸五十四箇所、応天府の新河圩岸、天長の福勝・戚家荘の二塘、滎沢の大濱河堤を修築した。崑山の太平河を浚渫した。十二年、鳳陽の安豊塘の水門十六座及び牛角壩・新倉鋪の崩壊岸、武陟の郭村・馬曲の堤岸、聊城の龍湾河、濮州の紅船口、範県の曹村河堤岸を修築した。三河の決壊堤防を築いた。海州の官河二百四十里を浚渫した。解州の民が言うには、「臨晋の涑水河が逆流し、姚暹渠の堰を決壊させ、砂地に入り、民田を水没させ、塩池に及ぼうとしている。」間もなくまた言うには、「硝池の水が溢れ、豁口を決壊させ、塩池に入った。」涑水渠と姚暹渠が並流するため、官を命じてその請いに従い修築させた。

十三年、興済の決壊岸、南京羽林右衛の刁家圩屯田堤を修築した。呉江県丞李升が言うには、「蘇州・鬆江の水害は、太湖が最も甚だしく、急いでその下流を泄らすべきである。常熟の白茆諸港、崑山の千墩等の河、長洲の十八都の港汊、呉県・無錫の湖に近い河道は、皆その故跡に従い、浚渫して深くすべきである。そして蔡涇等の閘を修築し、潮の往来を待ち、時に応じて啓閉する。そうすれば氾濫を免れ、民は耕種の利を得るであろう。」これに従った。十五年、固安の孫家口及び臨漳の固塚堤岸を修築した。十六年、魏県の決壊岸を修築した。

十七年、蕭山の民が言うには、「境内の河渠四十五里は、田万頃を灌漑するが、近年淤塞している。疏浚を乞い、なお閘を銭清小江壩の東に置けば、旱魃・水害の憂いが無かろう。」山東新城の民が言うには、「県東の鄭黄溝は淄川に源を発し、下流が塞がって沮滞し、霖雨が農を妨げる。陳家荘の南に乾河があり、上流は溝に接し、下流は烏江に通じる。浚治を乞う。」ともにこれに従った。十八年、海寧諸県の民が言うには、「潮が海塘二千六百余丈を没し、呉家等の壩に及んでいる。」通政嶽福もまた言うには、「仁和・海寧の長降等の壩が壊れ、海千五百余丈を陥没させた。東岸の赭山・厳門山・しょく山に旧に海道があったが、淤塞して久しい。故に西岸の潮がますます猛烈である。軍民をもって修築することを乞う。」ともにこれに従った。翌年、海寧等県の塘岸を修築した。

二十一年、嘉定から鬆江に至る潮で崩れた圩岸五千余丈、交趾順化衛の決壊堤防百余丈を修築した。文水の民が言うには、「文谷山の常稔渠は文穀河の流れを分引し、延長三十余里で、田を灌漑する。今、河が決壊して水を泄らしている。」その上奏に従い、これを修治した。二十二年、臨海の広済河閘を修築した。

洪熙元年、黄巖の濱海閘壩を修築した。永楽初年に比べ、府判一員を増員し、専らその事に当たらせた。献県・鐃陽の恭儉堤及び窯堤口を修築した。

宣徳二年、浙江帰安県知県華嵩が言うには、「涇陽の洪渠堰は五県の田八千四百余頃を灌漑する。洪武の時、長興侯耿炳文が前後して修浚したが、未だ久しからずして堰は壊れた。永楽の間、老人徐齢が朝廷に言上し、官を派遣して修築させたが、ちょうど営造のため果たせなかった。専ら大臣を命じて軍夫を起こし協力して治めさせてほしい。」これを従う。三年、灌県の都江等四十四堰を修める。臨海の民が言うには、「胡巉諸閘は水を貯えて田を灌漑するが、近年閘が壊れ、金鰲・大浦・湖淶・挙嶼等の河は遂に皆塞がり阻まれている。開き築いてほしい。」帝曰く、「水利は急務である。民をして自ら朝廷に訴えしめるのは、これ守令が人を得ないからである。」工部に命じて直ちに郡県を飭して秋収後に工を起こさせる。なお天下に詔して、「凡そ水利で興すべきものは、有司が即ち挙行し、緩やかに視ることなかれ。」

巡按江西御史許勝が言うには、「南昌瑞河の両岸は低窪で、多くの良田がある。洪武の間、修築し、水は患いとならなかった。近年水が溢れ、岸は二十余箇所で崩れた。豊城安沙縄湾の圩岸三千六百余丈は、永楽の間に水が沖し、百三十余丈を改修した。近ごろ久しく雨が降り、江が漲り堤が壊れた。有司に命じて夫を募り修理させてほしい。」中書舎人陸伯倫が言うには、「常熟七浦塘は東西百里に及び、常熟・崑山の田を灌漑し、歳租二十余万石である。民に自ら浚わせることを聴いてほしい。」皆詔して可とする。

四年、献県柳林口の堤岸を修める。潜江の民が言うには、「蚌湖・陽湖は皆襄河に臨み、水が漲り岸が決し、荊州三衛・荊門・江陵諸州県の官民屯田を害すること算なし。軍民を発して築治させてほしい。」これを従う。福清の民が言うには、「光賢裏の官民田百余頃は、堤で海水を防ぐ。堤は壊れて久しく、田は尽く荒れた。永楽中、嘗て修治を命じたが、今に至るまで挙げず、民は耕すを得ない。」帝は有司を責めて急ぎ治めさせ、尚書呉中に諭して厳しく郡邑を飭し、陂池堤堰を時を移さず修浚し、怠る者は罪をもって治めさせた。

五年、巡撫侍郎成均が言うには、「海塩は海より二里離れ、石を嵌めた土岸二千四百余丈あり、水がその石を齧り、皆既に磨り減り壊れている。岸の内側に新たな石を築き、その旧きものを外障として存置することを議す。洪武中の如く嘉・厳・紹三府に協夫させて工を挙げてほしい。」これを従う。

六年、瀏陽・広済諸県の堤堰、豊城西北の臨江石堤及び西南の七圩壩、石首の臨江三堤を修める。余姚の旧河池を浚う。巡撫侍郎周忱が言うには、「溧水永豊圩は周囲八十余里で、丹陽・石臼諸湖を環とする。旧く埂壩を築き、陟門石塔に通じ、農は甚だこれを利した。今頽敗したので、修治を請う。」教諭唐敏が言うには、「常熟耿涇塘は、南は梅裏に接し、昆承湖に通じ、北は大江に達する。洪武中、浚って田を灌漑した。今壅塞しているので、疏導を請う。」並びにこれを従う。

七年、眉州新津の通済堰を修める。堰の水は彭山より出て、十六渠に分かれ、田二万五千余畝を灌漑する。河東塩運使が言うには、「塩池の近地姚暹河は、五星湖に流入し黄流河に転じ、両岸は窪下である。近年雨が溢れ水が漲り、解州まで沖至る。浪は益々急で、遂に南岸を潰し、民田三十余里を没し、塩池の護堤は皆壊れた。また下流の涑水河が高いため、壅淤して逆流し、姚暹河は決した。民夫を起こして疏瀹してほしい。」これを従う。蘇州知府況鐘が言うには、「蘇・鬆・嘉・湖には湖が六つあり、太湖・龐山・陽城・沙湖・昆承・尚湖という。永楽初、夏原吉が浚導したが、今また淤塞した。大臣を派遣して疏浚してほしい。」乃ち周忱に命じて鐘とこれを治めさせる。この歳、汾河が驟かに溢れ、太原の堤を敗った。鎮守都司李謙・巡按御史徐傑が便宜を以て修治し、然る後に馳せて奏上した。帝これを嘉奨した。

八年、湖広偏橋衛の高陂石洞を葺い、完県南関の旧河を修める。和州の銅城堰閘を復す。安陽の広惠等渠、磁州の滏陽河・五爪済民渠を修める。九年、江陵枝江の沿江堤岸を修める。薊州の決岸を築く。蘇・鬆の民が私に築いた堤堰を毀つ。十年、海塩の潮が決した海塘千五百余丈を築く。主事沈中が言うには、「山陰西小江は、上は金・厳に通じ、下は三江海口に接し、諸暨・浦江・義烏諸湖の水を引いて舟を通す。江口は近ごろ淤塞したので、臨浦戚堰を築いて諸湖の水を防ぎ、仍って小江に出させるべきである。」詔して部に覆奪させた。

正統元年、吉安の沿江堤を修める。海陽・登雲・都雲・歩村等の決堤を築く。陝西西安の灞橋河を浚う。二年、蠡県王家等の決口を築く。新会鸞台山から瓦塘浦までの頽岸、江陵・鬆滋・公安・石首・潜江・監利の近江決堤を修める。また湖広の老龍堤を修め、漢水の潰す所となったためである。三年、泰興順徳郷の三渠を疏き、湖を引いて田を灌漑する。潞州永禄等の溝渠二十八道を疏き、漳河に通ず。四年、容城杜村口の堤を修める。正陽門外に減水河を設け、並びに城内の溝渠を疏く。荊州の民が言うには、「城西の江水は城より十余丈高く、霖潦が堤を壊せば、水は即ち城に灌ぐ。先んじて修治してほしい。」寧夏巡撫都御史金濂が言うには、「鎮に五渠あり、これに資して行溉するが、今明沙州の七星・漢伯・石灰三渠は久しく塞がる。夫四万を用いて疏浚し、蕪田千三百余頃を灌漑してほしい。」並びにこれを従う。

五年、太湖堤、海塩海岸、南京上中下新河及び済川衛新江口の防水堤、漷県・南宮諸堤を修める。順天・河間及び容城杜村口・郎家口の決堤を築く。海寧蠣巌の決堤口を塞ぐ。塩城伍祐・新興二場の運河を浚う。初め、溧水に広通という鎮があり、その西は固城湖より大江に入り、東は三塔堰河より太湖に入る。中間相距すること十五里、洪武中に鑿って舟を通した。県地は稍高く、湖は寧国・広徳諸水を納め、潦に遇えば即ち溢れる。乃ち鎮に壩を築いてこれを防ぎ、堰水は壩下に至ることができなかった。この歳、葉家橋に壩を改築した。胭脂河は、溧水が秦淮に入る道である。蘇・鬆の船は皆これより以て達するが、沙石が壅塞したので、因って並びにこれを浚った。山陽涇河壩は、上は漕河に接し、下は塩城に達し、旧く絞関を置いて舟を通したが、歳久しく且つ壊れ、また水利を盗み泄らすことを恐れ、遂に河口を築塞した。この歳、民の請いに従い、壩を修め並びに絞関を復した。

六年、宣武門東城河南岸の橋を造る。江米巷玉河橋及び堤を修め、並びに京城西南の河を浚う。豊城沙月諸河堤・蕪湖陶辛圩の新埂を築く。海寧官河及び花塘河・硤石橋塘河を浚い、瓦石堰二所を築く。南京の江洲を疏き、その水勢を殺し、以て塌岸の修築を便ならしめる。高郵知州韓簡が言うには、「官河上下の二閘は皆崩れ、河もまた通じず、且つ子嬰溝は塞がり、減水陰洞は閉じ、旱澇を済す所なし。俱に浚治を請う。」詔して部に核実させて行わせた。

七年、江西広昌の江岸・蕭山長山浦の海塘・彭山の通済堰を修める。南京浦子口・大勝関の堤、九江及び武昌の臨江塌岸を築く。江陵・荊門・潜江の淤沙三十余里を浚う。八年、蘭溪卸橋浦口の堤、弋陽の官陂三所を修める。南京城河を浚う。

九年、德州耿家湾等の堤岸、杞県離溝堤を修築す。容城杜村堤の決口を築く。上虞菱湖の土壩を石閘に改む。無錫裏谷、蘇塘、華港、上村、李走馬塘諸河を浚い、東南は蘇州苑山湖塘に接し、北は揚子江に通じ、西は新興河に接し、水を引き田を灌漑す。杞県牛墓岡の旧河、武進太平・永興の二河を浚う。海塩永安省、茶市院新涇・陶涇塘諸河を疏す。都御史陳鎰言う、「朝邑は沙鹻多く、耕し難し。県治は洛河に在り、渭水と通ず。請う、渠を穿ちて之を灌がしむ」と。新安の民言う、「城南の長溝河は、西は徐・漕の二水に通じ、東は雄県直沽に連なり、沙土淤塞す。請う、丁夫を発して疏浚せしむ」と。海陽の民蕭瑤言う、「県に長溪有り、源は山麓に出で、流れて海口に抵り、周袤潮郡を廻り、故に登隆等都は皆溝を置きて通溉す。惟だ隆津等都は陸野にして水絶え、歳旱には頼む所無し。登隆の如く溝を開くを乞う」と。長楽の民劉彦樑言う、「厳湖二十余里、南は稠菴溪に接し、西は倒流溪に通じ、旱溢に備う可し。又張塘涵・塘前涵・大塘涵・陳塘港有り、其の利は厳湖の如し。請う、有司に疏浚せしむ」と。広済の民言う、「県は隣邑黄梅と、歳に糧三万石を望牛墩に運す。小車盤剝し、其の労に堪えず。連城湖港廖家口に溝有りて墩前に抵るも、淤浅にして船を行す能わず。請う、黄梅と合力して浚通し、以て水運を便にす」と。並びに之に従う。

十一年、洞庭湖の堤を修す。登州の河岸を築く。通州金沙場八里河を浚い、以て運渠を通ず。任丘の民言う、「淩城港は県を去ること二十五里、内に定安橋河有り、北十八里は流れ通じ、東七里は沙塞す。宜しく疏通して港と相接し、直沽張家湾に入るべし」と。巡撫周忱言う、「応天・鎮江・太平・寧国諸府、旧に石臼等湖有り。其中の溝港は、歳に魚課を弁ず。其の外の平圩浅灘は、民に牧放孳畜・菱藕採掘を聴し、種耕を許さず。故に山溪水漲するも、宣洩する所有り。近くは富豪圩田を築き、湖水を遏す。毎に泛溢に遇えば、害即ち民に及ぶ。宜しく悉く禁革すべし」と。並びに之に従う。

十二年、平度州大湾口の河道、荊州公安門外の河を疏し、以て公安・石首諸県の輸納を便にす。浙江聴選官王信言う、「紹興東小江は、南は諸暨七十二湖に通じ、西は銭塘江に通ず。近く潮水湧塞し、江と田平らかに、舟行する能わず、久雨すれば水溢れ、隣田輒ち其の害を受く。乞う、丁夫を発して疏浚せしむ」と。之に従う。

十三年、寧夏漢・唐壩の決口を築く。山西涑水河・南海県通海泉源を疏す。宣府の城濠を鑿ち、城北の山水を引きて南城大河に入る。湖広五開衛言う、「衛は苗と接し、山路峻険なり。衛を去ること三十里に水有りて靖州江に通ず、乱石沙灘なり。請う、疏して以て輸運を便にす」と。雲南鄧川州言う、「本州の民田は大理衛の屯田と湖畔に接壤し、毎歳雨水沙土壅淤し、禾苗淹沒す。乞う、州衛の軍民に命じて疏治せしむ」と。並びに之に従う。

十四年、南海潘埇の堤岸を浚い、水閘を置く。和州の民言う、「州に姥鎮河有り、上は麻・澧二湖に通じ、下は牛屯大河に接し、長さ七十里許、広さ八丈。又張家溝有り、銅城閘に連なり大江に通じ、長さは姥鎮の半に減じ、広さは之が如し、降福等七十余圩及び南京諸衛の屯田を灌漑す。近年河潰閘圮し、率ね皆淤塞す。請う、役を興して疏浚し、仍って姥鎮・豊山嘴・葉公坡の各に閘を建てて以て旱澇に備う」と。之に従う。

景泰元年、丹陽甘露等の壩を築く。二年、玉河東西の堤を修す。安定門東城河、永嘉三十六都河、常熟顧新塘を浚い、南は当湖に至り、北は揚子江に至る。三年、泰和信豊堤を修す。延安・綏徳の決河、綿州西岔河通江の堤岸を築く。常熟七浦塘、剣州海子を浚う。孟瀆河浜涇十一を疏す。工部言う、「海塩石塘十八里、潮水沖決し、浮土修築するも、久しからず」と。詔して別に石塘を築きて之を捍がしむ。

四年、江陰順塘河十余里を浚い、東は永利倉大河に接し、西は夏港及び揚子江に通ず。雲南総兵官沐璘言う、「城東に水南流する有り、源は邵甸に発し、九十九泉を会して一と為り、松花壩に抵りて二支に分かる:一は金馬山麓を繞りて滇池に入り、一は黒窯村より流れて雲沢橋に至り、亦た滇池に入る。旧に下流に堰を築き、軍民田数十万頃を溉ぎ、霖潦泄する所無し。請う、利を受くるの家に令し、自ら石閘を造り、時を以て啓閉せしむ」と。報じて可とす。五年、霊宝黎園庄渠を疏し、鴻瀘澗に通じ、田万頃を溉ぐ。六年、華容杜預渠を浚い、運船をして江に入らしめ、洞庭の険を避く。容城白溝河杜村口・固安楊家等口の決堤を修す。

七年、尚書孫原貞言う、「杭州西湖旧に二閘有り、近く皆傾圮し、湖遂に淤塞す。按ずるに宋の蘇軾云う『杭は本江海の故地、水泉鹹苦なり。唐の李泌湖水を引きて城に入れ六井と為してより、然る後に井邑日富み、人に佃種を許す可からず』と。周淙も亦た言う『西湖は深闊を貴ぶ』と。因りて兵二百を招き、専一に湖を撈す。其の後、豪戸復た佃を請い、湖日益く填塞し、大旱水涸る。詔して郡守趙与亹に開浚せしめ、芰荷茭蕩悉く去り、杭民利を以てす。此れ前代西湖を經理するの大略なり。其の後、勢豪侵佔已む無く、湖小浅狭く、閘石毀壞す。今民田灌漑の資無く、官河も亦た澀阻す。乞う、有司に勅して興浚せしめ、侵佔を禁じて以て軍民を利せしむ」と。之に従う。

天順二年、彭県万工堰を修し、千余頃の田を灌ぐ。五年、僉事李観言う、「涇水は涇陽仲山谷より出で、高陵を道り、櫟陽に至りて渭に入り、袤二百里。漢渠を開きて田を溉ぎ、宋・元俱に官を設けて之を主る。今瓠口鄭・白の二渠有りと雖も、堤堰摧決し、溝洫壅瀦し、民利を蒙らず」と。乃ち有司に命じて之を浚わしむ。

成化八年、永平の民が言うには、「漆河は城をめぐって西南に流れて海に入る。城の基部はすべて石であるから、水は決壊させることができない。その他の部分は砂土で崩れやすく、前人は東北に土堤を築き、西南に煉瓦の護岸を設けた。今は年月が経って日々崩れている。東流する部分に堤防を作り、横に堰を設けて水勢を激しくし、西流と合流させるようにすれば、おそらく流失の憂いはないであろう」。都御史項忠が言うには、「涇陽の瓠口にある鄭・白二渠は、涇水を引いて数万頃の田を灌漑し、元代に至ってもなお八千頃を灌漑した。その後、渠は日々浅くなり、利益もそれによって廃れた。宣徳初年、官を派遣して修鑿させたところ、一畝あたり四・三石を収穫した。間もなくまた塞がり、渠の傍らの田は旱魃に遭うと赤地となった。涇陽・醴泉・三原・高陵はいずれもこれを苦しんでいる。先ごろ涇水上流の龍潭左側を疏浚し、旧渠口まで至ることを請うたが、詔の例によって停止された。今はその工事を完成させるべきである。西安城西の井泉は塩辛く苦く、飲む者はしばしば病む。龍首渠は七十里にわたって水を引くが、修築は容易でなく、かつ利益は城東に及ぶのみである。西南の皁河は城から一舎(三十里)ほど離れており、これを鑿って水を引き、龍首渠と合流させれば、居民はことごとく利益を得るであろう」。邳州知州孟琳が言うには、「榆行などの諸社はいずれも沂河に臨み、長雨で岸が二十八箇所崩れ、低田はことごとく水没した。修築を願う」。いずれも従う。

成化二年、寿州安豊塘を修築する。四年、石州城河を疏浚する。六年、平湖周家涇及び独山海塘を修築する。七年、潮が銭塘江岸及び山陰・会稽・蕭山・上虞、乍浦・瀝海の二所、銭清諸場を決壊させる。侍郎李顒に命じて修築させる。八年、襄陽の決壊した岸に堤防を築く。十年、廷臣が会議して言うには、「江浦北城圩の古溝は、北は滁河浦子口に通じ、城東の黒水泉古溝は、南は大江に入る。二つの溝は相望み、岡壟が中を遮っている。これを穿ち通して河とし、旱魃の時は引き、澇の時は泄すべきである」。従う。

十一年、杭州銭塘門の故渠を浚い、左は湧金門に属し、橋閘を建てて湖水を蓄える。巡撫都御史牟俸が言うには、「山東小清河は、上は済南趵突などの諸泉に接し、下は楽安沿海の高家港塩場に通じる。大清河は、上は東平坎河などの諸泉に接し、下は濱州海豊・利津、沿海の富国塩場に通じる。これらが淤塞し、陸送に苦しみ、雨水ではまた水没の患いがある。勧農参政唐虞が河を浚い閘を造ったので、水利を兼ねて治めるよう命じることを請う」。詔して可とする。

十二年、巡按御史許進が言うには、「河西十五衛は、東は莊浪に起こり、西は肅州に至るまで、連綿として二千里に及び、頼る水利は多く勢豪に奪われている。官を設けて専らこれを管理すべきである」。詔して屯田僉事にこれを兼ねさせる。

十四年、牟俸が言うには、「直隸蘇州・鬆江と浙西の各府は、頻年に旱澇があり、それは周囲を太湖にめぐらされているからで、東南で最も窪んだ地であり、しかも蘇州・鬆江は特に最も低い要衝である。故に積雨があるごとに、衆水が奔り潰え、湖や泖が漲り漫り、際限なく水没する。按ずるに太湖は即ち古の震澤であり、上は嘉興・湖州・宣州・歙州などの諸州の水を納め、下は婁江・東江・呉淞江の三江の流れに通じる。東江は今は見られず、婁江・呉淞江の海に入る故跡は具に存する。その地勢は常熟の福山・白茆の二塘とともに、いずれも太湖を導いて江海に入れ、民を溺れさせず、土を耕種できるようにし、歴代の開浚には成法が具わっている。本朝も常に官を命じて修治させたが、要を得なかった。そして濱湖の豪家はことごとく淤灘を栽蒔して利益としている。治水官は利害を詳らかにせず、率ね泄すところに石樑を置き、土を壅げて道とし、あるいは盗船の往来を慮って、木を釘して柵とする。これによって水道が堙塞し、公私ともに病んでいる。水利を深く知る大臣を選んで専らこれを管理させ、提督水利分司一員を設けて随時に修理させれば、水勢は疏通し、東南の厚利となるであろう」。帝は即ち牟俸に水利を兼ねて領することを命じ、浚築するに任せる。功が成って、乃ち専ら分司を設ける。

十五年、南京内外の河道を修築する。十八年、雲南の東西二溝を浚い、鬆華壩黒龍潭から西南の柳壩南村に至り、数万頃の田を灌漑する。居庸関の水関・城券及び隘口の水門四十九、楼鋪・墩臺百二を修築する。二十年、嘉興など六府の海田堤岸を修築し、特に京堂官を選んで往き督させる。二十二年、南京の中下二新河を浚う。

弘治三年、巡撫都御史丘鼐の言に従い、官を設けて灌県都江堰を専ら領させる。六年、撫民参政硃瑄に命じて河南の伊・洛、彰徳の高平・万金、懐慶の広済、南陽の召公などの渠、汝寧の桃陂などの堰を浚わせる。

七年、南京の天・潮二河を浚い、軍衛の屯田水利を備える。七月、侍郎徐貫と都御史何鑒に命じて浙西の水利を経理させる。明年四月に告成する。徐貫は初め命を受け、主事祝萃を従えることを奏上する。祝萃は小舟に乗って源委を究め悉くする。徐貫は乃ち蘇州通判張旻に各河港の水を疏かにし、大壩に瀦えさせる。間もなく白茆港の沙面を開き、潮の退くに乗じ、大壩の水を決して沖激させると、沙泥は刷り尽くされる。潮水が蕩き激するにつれ、日増しに闊く深くなり、水は海に達して阻まれることがない。また浙江参政周季麟に命じて嘉興の旧堤三十余里を修築し、石に替え、湖州長興の堤岸七十余里を増築する。徐貫は乃ち上言する。「東南は財賦の出づるところであるが、水患が多い。永楽初年、夏原吉に命じて疏浚させた。当時は呉淞江の灩沙が浮き蕩ぐため、施工に至らなかった。今に至るまで九十余年、港浦はますます塞がる。臣は官を督して行視し、呉江長橋を浚って太湖を導き散じて澱山・陽城・昆承などの湖泖に入らせる。また呉淞江並びに大石・趙屯などの浦を開き、澱山湖の水を泄して、呉淞江によって海に達させる。白茆港白魚洪・鯰魚口を開き、昆承湖の水を泄して、白茆港によって江に注がせる。斜堰・七鋪・塩鉄などの塘を開き、陽城湖の水を泄して、七丫港によって海に達させる。下流が疏通し、もはや壅塞しない。乃ち湖州の漊涇を開き、西湖・天目・安吉などの諸山の水を泄して、西南から太湖に入らせる。常州の百瀆を開き、溧陽・鎮江・練湖の水を泄して、西北から太湖に入らせる。また諸の陡門を開き、漕河の水を泄して、江陰によって大江に入らせる。上流もまた通じ、もはや堙滞しない」。この役において、河・港・涇・瀆・湖・塘・陡門・堤岸百三十五道を修浚し、役夫二十余万を動員し、祝萃の功が多い。

巡撫都御史王珣が言うには、「寧夏に古渠三道あり、東漢・中唐ともに通じた。ただ西の一渠は山に傍い、長さ三百余里、広さ二十余丈、両岸は危峻で、漢・唐の旧跡はことごとく堙れている。卒を発して浚鑿し、水を下流に引くべきである。即ち土をもって東岸を築き、営堡を建て兵を屯して寇の衝を遏す。帑銀三万両、並びに霊州六年分の塩課を請い、その費用に給する」。また霊州金積山河において、渠を開いて田を灌漑し、軍民に佃種させることを請う。いずれも従う。

十八年、常熟の塘壩を修築し、尚湖口から江に至り、及び黄・泗などの浦、新莊などの沙三十余箇所。杭州西湖を浚う。

正徳七年、広平滏陽河口の堤岸を修築する。十四年、南京新江口右河を浚う。十五年、御史成英が言うには、「応天などの衛の屯田で江北の滁・和・六合にあるものは、地勢が低く、屡々水害に遭う。金城港から濁河に至り烏江に達する三十余里を、旧跡に従って浚えば、水勢は泄れ屯田は利する」。詔して可とする。

嘉靖元年、束鹿・肥郷・献・魏の堤防と水路を築き浚う。初め、蘇州・松江の水路はすべて勢家に占拠されていた。巡撫李充嗣は水を井地に区画し、開鑿の法を示し、戸ごとに一区を占め、工事を計り日を刻んだ。浚川爬を造り、数百の巨筏を用い、木歯を曳き、潮の進退に従って、泥沙を撃ち汰った。小艇百余隻を置き、鉄帚を尾にしてこれを導いた。故道を浚い、新渠を穿ち、巨浦と支流は、灌漑されないものはなかった。帝はその労を嘉し、銀幣を賜う。二年、徳勝門東・朝陽門北の城垣と河道を修め、儀真・江都の官塘五区を築く。

十年、工部郎中陸時雍が言う、「良郷の盧溝河、涿州の琉璃・胡良の二河、新城・雄県の白溝河、河間の沙河、青県の滹沱河は、下流はみな淤塞している。時に応じて浚い、海に達するようにすべきである」。詔して巡撫に議わせる。

十一年、太僕卿何棟が畿封の河患を勘定して二つある。一つは滹沱河について論じる。その一つは言う、「真定の鴨・沙・磁の三河は、いずれも五台山に発源する。諸支流の水を合わせ、唐河の蘭家圈に至り、合流して河間に入る。東南に任丘・覇州・天津を経て海に入る、これが故道である。河間は東南が高く、東北が低いので、水が蘭家口を決壊し、粛寧・新安はみなその害を受ける。決壊口を築き、故道を浚うべきである。涿州の胡良河は、拒馬河から分流し、州の東で渾河に入る。良郷の琉璃河は、磁家務に発源し、地中に潜り、良郷の東で渾河に入る。近ごろ渾河が壅塞し、二河は流れない。しかし下流の淤沙はわずか四五里である、急いでこれを浚うことを請う」。部が覆勘して施行を允可する。

郎中徐元祉が命を受けて災害を救済し、上言する、「河は本来水を泄すものであるが、今はかえって下流が塞がる。澱は本来水を貯えるものであるが、今はかえって上流が溢れる。故に畿輔は常に水害に苦しみ、順天は利害半ばし、真定は利が害より多く、保定は害が利より多く、河間は全くその害を受ける。弘治・正徳の間、嘗て長堤を築き、決壊口を排したが、すぐに潰敗した。今は疏浚のみが施すことができる。その策は凡そ六つある。一つは本河を浚い、河身を広く深くすること。九河は山西から来るもので、南は滹沱河に合流して真定諸郡を侵さず、北は白溝河に合流して保定諸郡を侵さない。これが第一の要義である。一つは支河を浚うこと。九河の流れを、大清河を経て紫城口から入れ、文都村を経て涅槃口から入れ、白洋澱を経て蘭家口から入れ、章哥AHを経て楊村河から入れる。直ちに遂げて細流を納めれば、水力が分散する。一つは決河を浚うこと。九河が安流の時は、本支二河で受けられるが、増水すると岸口が四方に衝く。毎衝に量って一口を存し、また浚って一渠に合成し、湍急を殺ぎ、淫溢に備える。一つは澱河を浚うこと。澱と澱とを相通じさせ、本支二河に達し、下流に泄すところがあるようにする。一つは淤河を浚うこと。九河が東に流れること、すべて故道による。高いところは下げ、低いところは通じる。曲防を占拠する者は罪に当たる。一つは下河を浚うこと。九河は一つは青県から出、一つは丁字沽から出、二流は苑家口で相匝する。故に施工は必ず苑家口から始め、漸く成效があれば、然る後に次第に施行し、諸郡の水害を減らすことを庶幾する」。帝は嘉してこれを納れる。

明年、香河の郭家莊が自ら新河一道を開く。長さ百七十丈、幅五十丈、旧河から十里余り近い。詔して河官に急いで繕治させる。

十三年、巡撫都御史周金が言う、「蘭家圈の決壊口は、塞げば東に溢れ、河間を病む。塞がなければ東流は漸く淤し、保定を病む。決壊口を存し、新河を広く浚い、水を東北平らかに流し、壅塞や涸渇の患いがないようにすべきである」。これに従う。

二十四年、南京の後湖を浚う。初め、胡體乾が呉を按察し、松江の氾濫により、六策を進める、「川を開く、湖を浚う、上流の勢いを殺ぐ、下流の壑を決する、潮漲の沙を排する、治田の規を立てる、という」。この年、呂光洵が呉を按察し、また蘇州・松江の水利について五事を奏す。

一つは、疏浚を広くして貯泄を備えること。三呉は沢国であり、西南は太湖諸沢を受け、水勢は特に低い。東北は海に接し、岡隴の地は、西南より特に高い。高いところは旱魃に苦しみ、低いところは澇害に苦しむ。昔の人は下流に塘浦を疏け、諸湖水を導いて北は江に入れ、東は海に入れ、また江潮を引いて岡隴の外に流衍させた。貯泄に法があり、水旱の患いがなかった。近来、縦浦横塘は多く埋もれて治めず、ただ黄浦・劉河の二江が頗る通じている。しかし太湖の水源は多く勢い盛んで、二江では泄すに足りない。岡隴の支河も多く壅絶し、灌漑に資するものがない。ここにおいて高低ともに病み、年々常に災害を告げる。まず要害を測り、澱山などの茭蘆地において、太湖水を導いて陽城・昆承・三泖などの湖に散入させる。また呉淞江及び大石・趙屯などの浦を開き、澱山の水を泄して海に達する。白茆・鯰魚などの口を浚い、昆承の水を泄して江に注ぐ。七浦・塩鉄などの塘を開き、陽城の水を泄して江に達する。また田間の水を導き、すべて小浦に入れ、大浦に納め、流れるものはすべて帰する所があり、貯えるものはすべて泄する所があるようにする。そうすれば下流の地は治まり、澇害は憂いがない。乃ち艾祁・通波を浚って青浦を灌漑し、顧浦・呉塘を浚って嘉定を灌漑し、大瓦などの浦を浚って崑山の東を灌漑し、許浦などの塘を浚って常熟の北を灌漑し、臧村などの港を浚って金壇を灌漑し、澡港などの河を浚って武進を灌漑する。凡そ隴岡の支河で埋塞して治めないものは、すべて深く広く浚い、その旧に復させる。そうすれば上流の地も治まり、旱魃は憂いがない。これが三呉水利の経である。

一つは、圩岸を修めて横流を固めること。蘇州・松江・常州・鎮江は東南の下流であり、而して蘇州・松江はまた常州・鎮江の下流で、貯えやすく泄し難い。たとえ河を導き浦を浚って江海に注ぎ引くも、秋霖の泛漲には風濤相搏ち、則ち河浦の水は逆行して田間に入り、沖齧して患いとなる。宋の転運使王純臣は嘗て蘇州・湖州に田塍を作って水を防がせ、民は甚だ便とした。司農丞郟もまた云う、「河を治めるには田を治めることを本とす」。故老は皆云う、前二三十年、民間は食に足り、余力をもって圩岸を治め、田は益々完璧であった。近ごろは皆空乏で、修繕する暇がなく、故に田圩は漸く壊れ、年々水災が多い。所在の官司に専ら圩岸を治めさせることを合わせて勅すべきである。岸が高ければ田は自ら固く、霖澇があっても害をなすことができない。且つ諸湖の水がすべて河浦中に帰することを制し足らしめれば、則ち決泄を待たずして自然に湍流する。而して岡隴の地もまた江水が稍高くなるに因り、また畝引を得て灌漑に資し、低田に利するのみでない。

一つは、板閘を復して汙澱を防ぐこと。河浦の水は皆平原から江海に流入し、水は緩やかで潮は急である。故に沙は浪に随って湧き、その勢いは淤し易い。昔の人はその便宜を権衡し、江海から十里許りの所で流を夾んで閘とし、潮に随って啓閉し、淤沙を防いだ。歳旱には則ち長く閉じてその流れを蓄え、歳澇には則ち長く開いてその溢れを宣べる。所謂閘を置くに三利ありというのは、蓋しこれを謂うのである。近ごろ多く埋塞し、ただ常熟の福山閘のみが尚存する。故老は河浦の海に入る地に、誠に皆閘を置けば、自ら久しく壅塞しないと為す。

一つは、緩急を量って工費を処すること。

一つは、委任を重ねて成功を責めること。

詔して悉く議の如くす。光洵は因りて巡撫歐陽必進に専ら委ねることを請う。これに従う。二十六年、給事中陳斐が江南の水田法に倣い、江北の溝洫を開き、以て水患を祛き、歳収を益すことを請う。報じて可とする。

三十八年、総督尚書楊博が宣府・大同の荒蕪地の水利を開くことを請うた。これを聴く。巡撫都御史翁大立が言うには、「東呉の水利は、震沢より源を浚って江に注ぎ、三江は流れを導いて海に入る。そして蘇州の三十六浦、松江の八匯、毘陵の十四瀆が共に旱魃と洪水を調節する。近年倭寇の衝突により、支流の交わる所には多く釘柵を打ち堤防を築いて防禦としたため、水流が停滞し、泥が日に日に堆積する。水路の間は高く仰ぎ見るほどに丘となる。また具区湖や湖泖には、水辺に住む者が雑多に茭や蘆を植え、泥を積んで沼沢とし、民間でも多く自ら圩岸を築く。上流は日に日に細り、水勢は日に日に衰える。黄浦・婁江の水はまた水軍が駐屯するため、下流もまた淤塞する。海潮は力なく、水利は興し難く、民田は次第に瘠せてゆく。呉淞・白茆・七浦などの処に石閘を造り、時を以て開閉すべきである。鎮江・常州の漕河を深く広く浚り、輸送に妨げなからしめるのは、公私の利益である。」詔して可とする。

四十二年、給事中張憲臣が言うには、「蘇州・松江・常州・嘉興・湖州の五郡に水害が重なって現れる。支河を浚って潮水を通じ、圩岸を築いて急流を防ぐことを請う。その白茆港・劉家河・七浦・楊林及び凡そ河渠河蕩で淤塞し湿潤なものは、悉く疏導すべきである。」帝は江南が久しく倭寇の患いに苦しんだため、民に重い労役を課すべきでないとして、支河を斟酌して浚るのみと命じた。四十五年、参政淩雲翼が専ら御史を設けて蘇州・松江の水利を監督することを請うた。詔して巡塩御史にこれを兼ねさせた。

隆慶三年、湖広の竹筒河を開いて漢江を泄す。巡撫都御史海瑞が呉淞江下流の上海淤塞地一万四千丈余を疏浚する。江面は旧来三十丈であったが、十五丈を増やして開き、黄渡から宋家橋まで長さ八十里である。翌年春、海瑞が言うには、「三呉の海に入る道は、南は呉淞に止まり、北は白茆に止まり、中は劉河に止まる。劉河は通達して滞りなく、呉淞は今まさに疏浚中である。土地の者が白茆を開くことを請い、計五千余丈を浚り、役夫百六十四万余を要する。」また言うには、「呉淞の工事はまさに竣工せんとし、ただ東西二つの堰が未だ開かれない。父老は皆、崑山の夏駕口・呉江の長橋・長洲の宝帯橋・呉県の胥口及び凡そ流れを通じて呉淞に下るものを、逐一浚い終えて初めて堰を開くことができると言う。」共にこれを聴く。この年、海塩の海塘を築く。四年を経て、巡撫侍郎徐栻の議に従い、また海塩の秦駐山から南は澉浦に至る旧河を開く。

万暦二年、荊州の採穴、承天の泗港・謝家湾などの決壊した堤防口を築く。また荊州・岳州などの府及び鬆滋などの県の老いた垸堤を築く。

四年、巡撫都御史宋儀望が言うには、「三呉の水勢は、東南は嘉興・秀水より沿海を北へ向かい、皆松江に趨り、黄浦に沿って海に入る。西北は常州・鎮江より長江に沿って東へ向かい、皆江陰・常熟に趨る。その中に太湖が貯水し、巨浸に匯わり、龐山・瀆墅・澱山・三泖・陽城などの湖に流れ注ぐ。そこで浦を開いて湖を引き、北は常熟の七浦・白茆などの港を経て長江に入り、東北は崑山・太倉を経て劉家河を穿ち、東南は呉淞江・黄浦に通じ、各々海に入る。諸水は連絡し、四面は環護し、中は仰ぐ盂の如し。杭州・嘉興・湖州・常州・鎮江は勢い四隅を繞き、蘇州は中に居り、松江は諸水を受けて最も下に居る。水利僉事を専ら設けて国計を補うことを乞う。」部議して御史を遣わしてこれを監督させる。

六年、巡撫都御史胡執礼が先ず呉淞江の長橋・黄浦を浚うことを請うた。先に、巡按御史林応訓が言うには、

「蘇州・松江の水利は呉淞江の中段を開き、以て海に入る勢いを通ずるにある。太湖が海に入る道は三つあり、東北は劉河より、即ち古の婁江の故道、東南は大黄浦より、即ち古の東江の遺意、その中が呉淞江で、崑山・嘉定・青浦・上海を経て、太湖の正脈である。今劉河・黄浦は皆通じるが、中江のみが塞がるのは、江流が海潮と遇い、海潮は渾濁であるが、江水の迅疾な流れがこれを洗い流すに頼る。劉河は独り巴・陽などの湖を受け、また新洋江・夏駕浦が傍らより注ぎ、大黄浦は杭州・嘉興の水を総会し、また澱山・泖蕩が上より灌ぐ。それ故に流れは皆清く速く、潮に敵するに足り、淤塞しないのである。

ただ呉淞江は源を長橋・石塘の下より出で、龐山・九里の二湖を経て入る。今長橋・石塘は既に埋没し、龐山・九里はまた灘漲となり、その来る所は既に微かである。また新洋江・夏駕浦がその水を掣いて劉河に入れるため、勢いは益々弱く、海潮の洶湧たる勢いに勝ちて渾濁の流れを洗い流すことができず、日を積み月を重ねて淤塞し、僅かに一線を留めるのみである。水は故道を失い、時に淫濫を致す。支河小港もまた壅滞する。旧来の熟田は半ば荒畝となる。

前都御史海瑞が衆議を力破し、上海江口の宋家橋から嘉定の艾祁までの八十里を挑浚し、幸い尚通流する。艾祁から崑山の慢水港までの六十余里は則ち皆漲灘であり、急ぎ開浚すべきで、計九千五百余丈を浅く浚い、二十丈を広くする。この江を一旦開けば、太湖は直ちに海に入り、江に臨む諸渠は以て流れを引いて田を灌ぐことができ、青浦の積荒の区は皆開墾して熟田とすることができる。」

共にこれを聴く。ここに至り、工事は完成する。応訓はまた言うには、

「呉江県治は太湖の真東に位置し、湖水はここより下り呉淞に達して海に入る。宋の時は運河の経由地で、風を畏れ険阻を阻むため、長橋・石塘を建てて牽挽を通じた。長橋は百三十丈、洞は六十二ある。石塘には小さいものには竇があり、大きいものには橋があり、内外の浦涇は縦横に貫穿し、皆水を泄すためのものである。石塘の涇竇は半ば淤塞し、長橋の内外は共に崩壊し、僅かに一二の洞門のみが水を通す。もし疏浚しなければ、たとえ呉淞下流を開いても終に益はない。龐山湖口を開き、長橋より呉家港に至るべきである。そうすれば湖には泄す所があり、江には帰る所があり、源は盛んで流れは長く、利益は大いにある。

松江の大黄浦は西南は杭州・嘉興の水を受け、西北は澱山・泖などの蕩の水を受け、総会して浦に至り、秀州塘・山涇港などの処は実に黄浦の水源である。澱山湖が黄浦に入る道は次第に淤浅が多くなり、疏瀹すべきである。そして黄浦・横澇・洙涇より、秀州塘を経て南泖に入り、山涇港などの処に至る一万四千余丈は、浚うを待つこと特に急である。

その他、蘇州の茜涇・楊林・白茆・七浦などの港、松江の蒲匯・官紹などの塘、常州・鎮江の澡港・九曲などの河は、並びに法を設けて開導し、次第に修挙すべきである。」

八年、また言うには、「蘇州・松江などの諸郡の幹河支港は凡そ数百あり、大なるものは水を泄して海に入れ、次なるものは湖に通じて江に達し、小なるものは流れを引いて田を灌ぐ。今呉淞江・白茆塘・秀州塘・蒲匯塘・孟瀆河・舜河・青暘港は既に告成し、支河数十は宜しく尽く開浚すべきである。」俱にその請いを聴く。

長くして、儀望の議を用い、特に蘇州・松江の水利副使を設け、許応逵を以てこれを領せしむ。乃ち呉淞江を八十余里浚渫し、堤塘を九十余箇所築き、新河を百二十三道開き、内河を百三十九道浚渫し、上海の李家洪・老鴉嘴の海岸十八里を築き、国庫金二十万を発す。応逵はその半ばを以て工事を完了す。三十七、八年の間、長雨が浸溢し、水害日々に熾んず。数年を越え、給事中帰子顧言う、「宋の時、呉淞江は九里の広さあり。元末に淤塞す。正統年間、周忱は江心に標を立て、疏浚す。崔恭・徐貫・李充嗣・海瑞相継いで浚渫する者凡そ五度、今に至るまで四十余年、廃して講ぜず。宜しく江を広くし水を速やかにし、塘浦支河を分流して四方に達せしむべし」と。上疏は中に留まる。巡按御史薛貞復たびこれを行うを請い、下部議に下るも未だ行わず。天啓の中に至り、巡撫都御史周起元復たび呉淞・白茆の浚渫を請う。崇禎初、員外郎蔡懋徳・巡撫都御史李待問皆これを請うと為す。久しくして、巡撫都御史張国維は呉江長橋の七十二谼及び九里・石塘の諸洞を疏浚するを請う。御史李謨復たび呉淞・白茆の浚渫を請う。俱に下部議に下るも、能く行うこと能わず。

十年、雄県の横堤八里を増築し、滹沱河の暴漲を防ぐ。

十三年、尚宝少卿徐貞明を以て御史を兼ね、墾田使を領せしむ。貞明は給事中たりし時、嘗て西北の水利を興し、南人の圩田の制の如く、水を引いて田を成すを請う。工部が議を覆し、「畿輔の諸郡邑は、上流十五河の水が猫児湾一箇所に泄れ、海口また極めて束隘なれば、所在に横流す。必ず多く支河を開き、海口を挑浚して、然る後に水勢平らぎ、疏浚施すべし。然れども役は大なり費は繁く、今民は労し財は匱え、方に事を省くを務む。その議を罷むるを請う」と。乃ち已む。後に貞明は官を謫せられ、『潞水客譚』一書を著し、水利興すべきもの十四条を論ず。時に巡撫張国彦・副使顧養謙方に薊州・永平に水利を開き効果あり、ここにおいて給事中王敬民は貞明を薦め、特に召し還し、勅を賜い水利を勘せしむ。貞明は乃ち先ず京東の州邑を治め、密雲の燕楽荘、平谷の水峪寺・龍家務荘、三河の塘会荘・順慶屯の地の如し。薊州城北の黄崖営、城西の白馬泉・鎮国荘、城東の馬伸橋、夾林河に沿って下り別山鋪、夾陰流河に沿って下りて陰流に至る。遵化の平安城、夾運河に沿って下り沙河鋪の西、城南の鉄廠・湧珠湖より以下韭菜溝・上素河・下素河百余里。豊潤の南は、則ち大寨・剌楡坨・史家河・大王荘、東は則ち榛子鎮、西は則ち鴉紅橋、河に沿って五十余里。玉田の青荘塢・後湖荘・三里屯及び大泉・小泉、海に臨む地に至り、水道沽関・黒厳子墩より開平衛南宋家営に至るまで、東西百余里、南北百八十里。田三万九千余畝を墾る。真定に至り将に滹沱河の近堧の地を治めんとす、御史王之棟言う、「滹沱は人力以て治むべからず、徒らに財を耗し民を擾すのみ」と。帝その言を入れ、諸の建議する者を罪せんと欲す。申時行言う、「田を墾り利を興すを害民と謂うは、議甚だ舛なり。顧みるにこの説を為す者は、その故二つあり。北方の民は遊惰にして閑を好み、力作を憚る。水田には耕耨の労、胼胝の苦しみあり、不便一なり。貴勢有力の家は侵佔甚だ多く、耕作を待たず、坐して蘆葦薪芻の利を収む。若し開墾して田と成し、業戸に帰し、有司に隷せば、則ち已が利尽く失う、不便二なり。然れども国家の大計を以てこれを較ぶれば、不便なる者は小さく、便なる者は大なり。惟だ地勢を斟酌し、人情を体察し、沙堿は必ずしも尽く開かず、黍麦は改作を煩さず、用いる伕役は必ず官これを募り、民情に拂わず、地利を失わざるに在るのみ。乃ち国を謀るの長策なり」と。ここにおいて貞明は罪を得ず、而して水田の事は終に罷む。

巡撫都御史梁問孟は横城堡の辺牆を築き、寧夏に黄河の患いあるを慮り、西岔河に堤を築き、水を東流に障らんことを請う。これに従う。十九年、尚宝丞周弘禴言う、「寧夏河東に漢・秦二壩あり。河西の漢・唐の壩の如く石を以て築き、渠の外に大渠一道を疏き、北に鴛鴦諸湖に達せしむるを請う」と。詔して可とす。

二十三年、黄河・淮河漲溢し、淮安・揚州昏墊す。議する者多く高家堰を開きて淮を分たんことを請う。宝応知県陳煃は御史たりし時、高堰既に開かば、民産塩場を害するを慮り、興化・塩城より東に迤り、白塗河・石鵜達口・廖家港を疏きて数河と為し、分門して海に出で、然る後に下より上り、清水・子嬰の二溝を浚い、且つ多く瓜洲・儀真の閘口を開きて水を泄すを請う。給事中祝世禄もまた言う、「議する者は淮を放ちて広陽・射陽の二湖より海に入らしめんと欲す。広陽は闊僅かに八里、射陽は僅かに二十五丈、名は湖と雖も、実は河なり。且つ海より三百里を離れ、迂回浅窄、高郵・宝応等七州県の水は惟だこの一線を以て宣洩す。又た淮を注がしむれば、田廬塩場必ず幸い無からん。広陽湖の東に大湖あり、方広六十里、湖北口に旧官河あり、官蕩より塩城石鵜達口に至り、海に通ずること僅かに五十三里。これ淮を導きて海に入るる一の便なり」と。下部及び河漕の官に議し下すも、俱に阻まれて行わず。既にして総河尚書楊一魁言う、「黄水の倒灌は正に海口を阻むを以てす。分黄の工事成就すれば、則ち石鵜達口・廖家港・白駒場の海口、金湾・芒稻の諸河、急ぎ開刷すべし」と。乃ち命じて議の如くこれを行わしむ。

三十年、保定巡撫都御史汪応蛟言う、「易水は以て金台を溉ぎ、滹水は以て恒山を溉ぎ、溏水は以て中山を溉ぎ、滏水は以て襄国を溉ぎ、漳水は以て鄴下を溉ぐべく、而して瀛海は衆河の下流に当たり、故に河中と号し、江南の沢国と異ならず。山下の泉、地中の水に至っては、所在皆な有り。宜しく各々壩を設け閘を建て、渠を通じ堤を築き、高きは自ら灌ぎ、下りたるは則ち車にて汲むべし。南方の水田法を用い、六郡の内に水田数万頃を得ば、畿民これより饒かになり、永く旱澇の患い無からん。不幸にして河に濱して梗あるも、亦た南に於いて折納と改め、北に於いて糴を取り得べし。これ国家の窮まり無き利なり」と。報じて可とす。応蛟は乃ち天津の葛沽・何家圈・双溝・白塘に於いて、防海軍の兵丁に屯種せしめ、人に田四畝を授け、共に五千余畝を種えさせ、内水稻二千畝、収穫多く、因って上言す、「地七千頃を墾れば、歳に穀二百余万石を得べし。これ行いて効ある者なり」と。

この年、真定知府郭勉は大鳴・小鳴の泉四十余穴を浚い、田千頃を溉ぐ。邢台の達活・野狐の二泉は流れて牛尾河と為り、百泉は流れて澧河と為る。二十一の閘と二つの堤を建て、田五百余頃を灌ぐ。

天啓元年、御史左光斗は応蛟の策を用い、天津の屯田を復し、通判盧観象に屯田水利の管理を命じた。翌年、巡按御史張慎言が言うには、「枝河より西、静海・興済の間に、万頃の沃土あり。河の東には、なお塩水沽等の処に膏腴の田あり、惜しむらくは皆荒廃せり。今観象が寇家口以南の田三千余畝を開き、溝洫蘆塘の法、種植疏浚の方は、皆備わりて法あり、人は何を憚って為さざるや。およそ開種の法に五あり。一は官種。牛・種・器具・耕作・雇募は皆官より出で、官もまたその田の収入を尽く収むるを謂う。一は佃種。民は墾きて力を無くすを願い、その牛・種・器具は官に仰ぎ、稼を納むるの時に至り、官は十にしてその四を取るを謂う。一は民種。佃に力ある者、自ら若干を開墾すと認め、荒を開き既に熟するに及び、数歳の中を較べて以て常と為し、十一にしてこれを取るなり。一は軍種。即ち海防営軍に葛沽の田を種えしめ、人四畝を耕し、二石を収む。行糧・月糧有るに縁り、故に租を収むること重し。一は屯種。祖宗の衛軍に屯田有り、或いは五十畝、或いは百畝。軍屯種を為す者は、歳に十七を官に入れ、即ち以て所入を官軍歳支の用と為す。国初の兵農の善制なり。四法は已に行わるるも、惟だ屯種は則ち今日兵と軍と分かれ、屯は僅かにその名を存すのみ。各衛の屯余を選び、津門の沃土を墾き、官種の法の如くこれを行わんとすべし」。章は所司に下り、太僕卿董応挙に天津より山海に至る屯田を管せしめ、数年を規画し、田十八万畝を開き、穀を積むこと算無し。

崇禎二年、兵部侍郎申用懋言う、「永平濼河の諸水は、逶迤として寛衍にし、渠を疏きて以て旱潦を防ぐべし。山坡の隙地は、栽種に便なり。宜しく有司に地を相し源を察せしめ、民の為に利を興すべし」。これに従う。