明史

志第五十八 食貨六

採造の事は、累朝侈儉同じからず。およそ英宗に靡き、憲宗・武宗に継ぎ、世宗・神宗に至りて極まれり。その事目繁瑣にして、徴索紛紜たり。最も巨にして且つ難きは、採木と曰う。歳造最大のものは、織造・焼造と曰う。酒醴膳羞は則ち光禄寺これを掌り、採辦成就は則ち工部四司・内監司局或いは専差これを職とし、柴炭は則ち惜薪司これを掌る。而して最も民害たるものは、率ね中官より由る。

明初、上供簡省なり。郡県香米・人参・葡萄酒を貢す。太祖以て民を労すと為し、これを却く。仁宗初、光禄卿井泉奏す、歳例正官を遣わし南京に往きて玉面狸を採る、と。帝これを叱して曰く、「小人政体に達せず。朕方に詔を下し、尽く不急の務を罷めて以て民を息まんとす。豈に口腹の細故を以て、大信を失わんや」と。宣宗の時、永楽中河州官乳牛を買い上供の酥油を造る者を罷め、その牛を屯軍に給す。御史二人を命じて光禄寺を察視せしめ、凡そ内外官多支及び需索する者は、執奏せしむ。英宗初政、三楊軸に当たり、南畿孳牧黄牛四万を減じ、糖蜜・果品・腒脯・酥油・茶芽・稉糯・粟米・薬材皆減省差等あり、諸処の捕魚官を撤す。即位数月、多所撙節す。凡そ上用の膳食器皿三十万七千有奇は、南工部造り、金龍鳳白瓷諸器は、饒州造り、鵜硃紅膳盒諸器は、営膳所造り、以て宮中の食物を進むるに、尚膳監率ね乾没す。帝帖を備え書を具えて、数に如く還給せしむ。景帝の時、于謙の言に従い、真定・河間の野味を採り、直沽海口に乾魚を造る内使を罷む。

天順八年、光禄果品物料凡そ百二十六万八千余斤、旧額の四分の一を増す。成化初、光禄寺牲口十万を過ぐべからずと詔す。明年、寺臣李春増加を請う。礼部尚書姚夔言す、「正統間、鶏鵝羊豕歳費三四万。天順以来四倍を増し、暴殄過多なり。前詔に従わんことを請う」と。後二年、給事中陳鉞言す、「光禄物を市うに、概ね勢を以て取る。負販これに遇うて、劫掠せらるるが如し。夫れ光禄の供する所、昔は皆用に足れり、今然らざるは、宣索過額にして、侵漁妄費するなり」と。大学士彭時も亦言す、「光禄寺小人を委用して買辦せしむるに、公を仮り私を営み、民利尽くこれが奪わる所と為る。宣徳・正統間の例に照らし、供用を斟酌し、買辦を禁止せんことを請う」と。ここに於いて魚果歳額十分の一を減ず。弘治元年光禄に命じ増加の供應を減ぜしむ。初め、光禄俱に官銭を預支して物を市う。行頭吏役ここに因りて侵蝕す。乃ち諸行に先ず報納せしめて後に価を償わしむ。ここに於いて遊手報頭と号し、供應を名と仮り、価を抑え倍取し、以て私橐を充つる者有り。御史李鸞以て言う。帝禁止を命ず。十五年、光禄卿王珩、内外官役の酒飯及び飼養する禽獣の料食の数を列上す、凡そ百二十事。乃ち旨を降し、仍旧の者有り、減半の者有り、停止の者有り。ここに於いて乾明門の虎・南海子の猫・西華門の鷹犬・御馬監の山猴・西安門の大鴿等を放ち去り、減省差等あり、存する者はその食料を減ず。成化の時より、坐家長随八十余員を添え、湯飯中官百五十余員を伝添す。天下の常貢用に足らず、乃ち京師の鋪戸に責めて買わしむ。価直時に給せず、市井累を負う。兵部尚書劉大夏天変に因りてこれを言う。乃ち中官を裁減し、歳に銀八十余万を省く。

武宗の世、各宮日進・月進、天順時の数倍なり。厨役の額、仁宗の時に当たり僅かに六千三百余名、憲宗に及び四分の一を増す。世宗初、四千一百名に減じ、歳額銀撙節十三万両に至る。中年復た四十万に増す。額派足らず、太倉を借支す。太倉又足らず、乃ち原供の司府に令し数に依り増派せしむ。ここに於いて帝その乾没を疑い、礼部に下して状を問わしめ、光禄寺を責めて数を持して奏せしむ。帝復た旨を降して詰責し、乃ち御史を命じて月進の掲帖を稽覈せしむ。両月の間に銀二万余両を省く。是より歳を以て常と為す。

先ず是れ上供の物は、土に任せて貢を為し、歳辦と曰う。給せざれば、則ち官銭を出だして以て市い、採辦と曰う。その後本折兼ねて収め、採辦愈々繁し。ここに於いて商を召して置買せしむ。物価多く虧き、商賈跡を匿す。二十七年、戸部言う、「京師商を召して貨を納れ直を取るに、富商規避し、応役する者は皆貧弱の下戸なり。実を核し編審せんことを請う」と。給事中羅崇奎言う、「諸商の重困する所以は、物価賤ければ則ち減じ、而して貴ければ則ち敢えて増さず。且つ収納時にあらず、一たび風雨に遭えば、遂に用いるべからず、多く賠累を致す。既に収めたるの後、所司更代常ならず、直を即ち給せず、或いは竟に沈閣す。幸いに直を給うとも、官司上に折閲し、番役下に齮齕す。名は平估と雖も、得る所半ば能わず。諸弊若し除かば、商自ら赴くを楽しまん。何ぞ編審を用いん」と。帝其の言を納るるも、而も仍ね戸部の議の如く編審す。

穆宗朝、光禄少卿李鍵十事を奏す。帝乃ちこれを可とし、頗る減省する所あり:承天の香米・外域の珍禽奇獣を停止し、宝坻の魚鮮を罷む。凡そ新を薦ぐるの物は、光禄寺に領せしめ、中官を遣わすこと勿れ。又太監李芳の請に従い、加増の細稉米・白青塩の徴を停め、成化・弘治間の例に一に依らしむ。御史王宗載加派の停止を請う。部議悉く原額に準い、果品百七万八千余斤、牲口銀五万八千余両、加派銀二万余を免ず。未だ行わざるに、神宗立ち、詔してこれを免ず。世宗末年、歳用止むこと十七万両、穆宗二万を裁し、止むこと十五万余、経費省約たり。万暦初年、益々減じて十三四万に至り、中年漸く増し、幾くば三十万、而して鋪戸の累滋く甚だし。時に中官進納し賂を索む、名づけて鋪墊銭と曰い、費計うべからず。支うる所相い抵うに足らず、民命に堪えず、相率いて避匿す。乃ち京師の富戸を僉して商と為す。令下るや、僉せらるる者死に赴くが如く、重賄して免れんことを営む。官司蜜に鉤し、奸盗を緝むるが若し。宛平知県劉曰淑言う、「京民一たび商に僉せらるれば、これを取るに毫髪を遺さず、貲本悉く罄く。厚く估し先ず発して、以て民困を蘇らんことを請う」と。御史王孟震その越職を斥く。曰淑自ら劾し官を解きて去る。熹宗の時に至り、商の累益々重く、物を官に輸するも終に一銭を得ざる者有り。

洪武の時、宮禁中に物を市うに、時価を視て率ね十銭を加え、その上を損じ下を益するはかくの如し。永楽初め、五色石を採る者を斥言し、かつ温州の礬を輸して民を困らすを以て、染色布を罷む。然れども内使の出づるは、是の時に始まる。工役繁興し、徴取稍急にして、土の所有に非ざれば、民は産を破りて之を購う。軍器の需は尤も算無し。仁宗の時、山場・園林・湖池・坑冶・果樹・蜂蜜、官守禁を設くる者は、悉く民に予う。宣宗は閘辦の金銀を罷め、他の紙靛・糸寧絲・紗羅・BF緞・香貨・銀鵜硃・金箔・紅花・茜草・麂皮・香蠟・藥物・果品・海味・鵜硃紅戧金龍鳳器物、多く罷減す。副都御史弋謙言う、「有司買辦の物料価を給するに、十も一に償わず、空しく取るに異ならず」と。帝嘉し之を納れ、工部に諭して察し懲らしむ。又泰安州税課局大使郝智の言に因り、遣わしたる官を悉く召還し、勅して自今より更に輒に遣わすを許さず、軍器・軍需の外、凡そ買辦する者は尽く停止せしむ。然れども寬免の詔屡下り、内使屡勅して撤還すと雖も、奉行実ならず、宦者は輒ち名を採辦とし、民に虐取す。袁琦・阮巨隊等十余人を誅し、患乃ち稍息む。英宗立ち、諸処の採買及び下西洋船木を造るを罷め、諸の冗費多く勅して省く。正統八年、買辦の民を擾すを以て、始めて存留銭糧内に折納し、近く両京に解するを令す。

先ず是れ仁宗の時、中官を令して辺塞を鎮守せしめ、英宗復た各省の鎮守を設け、又守備・分守有り、中官天下に布列す。憲宗の時に及びて益甚だしく、書を購い薬を採るの使、珍玩を搜取し、孑遺有ること靡し。塩引を抑売し、禽鳥を私採し、官帑を糜し、私賂を納れ、動もすれば巨万を以て計す。太嶽・太和山の降真諸香、三歳を通じて用うる七千斤、是に至りて之を倍す。内府の物料、五六倍に至る者有り。孝宗立ち、頗る減省す。甘粛巡撫羅明言う、「鎮守・分守の内外官競いて貢獻を尚び、各使を遣わし辺衛に属して方物を搜し、名は採辦と曰うと雖も、実は軍士の月糧馬価を扣い、或いは巧みに番人の犬馬奇珍を取る。且つ膳乳諸房を設け、厨役を僉して酥油諸物を造らしむ。比及起運するに、沿途騷擾し、乞うらくは之を悉く罷めよ」と。報可す、然れども其の後靡費漸く多し。武宗に至り劉瑾を任じ、漁利厭うこと無し。鎮守中官率ね銀を貢すること万計、皇店諸名一ならず、歳辦多く土産に非ず。諸布政使朝に来り、各進貢の害を陳ぶも、皆省みず。

世宗初め、内府の供應正徳の什九を減ず。中年以後、営建齋醮し、木を採り香を採り、珠玉宝石を採り、吏民奔命暇あらず、黄白蠟を用うること三十余万斤に至る。又召買有り、折色有り、正数の三倍を視る。沈香・降香・海漆諸香十余万斤に至る。又分道して龍涎香を購い、十余年未だ獲ず、使者因りて海舶の澳に入るを請い、久しくして乃ち之を得。方澤・朝日壇、爵は紅黄玉を用う、求めて得ず、之を陝西辺境に購い、使を遣わして阿丹に覓む、土魯番の西南二千里を去る。太倉の銀、頗る承運庫に取り入れて、金宝珍珠を辦ず。ここに於いて猫児睛・祖母碌・石緑・撤孛尼石・紅剌石・北河洗石・金剛鑽・硃藍石・紫英石・甘黄玉、購わざる所無し。穆宗之を承け、珠寶を購うこと益急なり。給事中李己・陳吾德疏を上て諫む。己は獄に下り、吾德は籍を削らる。是より供億浸く多し。

神宗初め、内承運庫太監崔敏金珠を買わんことを請う。張居正敏の疏を封じて還し、事遂に寝す。久しくして、帝日々貨を黷し、開採の議大いに興り、費鉅万を以て計し、珠寶の価旧の二十倍を増す。戸部尚書陳蕖言う、庫蔵已に竭き、宜しく撙節を加うべしと。中旨切責す。而して順天府尹大珠鴉青の購買旨の如くならざるを以て、級を鐫らる。末年に至り、内使雑出し、採造益繁し。内府匱を告げ、至っては辺を済うの銀を移して之を供す。熹宗一たび中官に聴き、採造尤夥し。荘烈帝立ち、始めて務めて釐剔節省すと雖も、而して庫蔵已に耗竭せり。

永楽中、後軍都督ととく府柴炭を供し、宣府十七衛所の軍士を役して之を辺関に採らしむ。宣宗初め、辺木を以て敵騎を扼し、且つ辺軍他役に宜しからずとて、詔して其の採伐を免じ、歳に銀二万余両を納めしめ、後府商を召して買納せしむ。四年易州山廠を置き、工部侍郎を命じて之を督せしめ、北直・山東・山西の民夫を僉して転運せしめ、而して後府銀を輸して商を召すは故の如し。

初め、歳用の薪止だ二千万余斤。弘治中、四千万余斤に増す。転運既に艱しく、北直・山東・山西乃ち悉く銀を輸して以て商を召す。正徳中、用うる薪益多く、直三万両余を増す。凡そ柴炭を受くるに、耗を十の三を加う、中官輒ち私に数倍を加う。逋負日々積み、至っては三年の正供を以て一年の耗を補う。尚書李鐩議い、正耗相準ぜしめ、而して主収する者復た私に加う、乃ち四万斤を以て万斤と為し、又輸納の浮費有り、民堪え能わず。世宗登極し、乃ち之を酌減す。隆慶六年、後府採納艱苦、兵部武庫司に改属す。万暦中、歳柴価銀三十万両を計り、中官自ら諸商を徴比するを得、酷刑悉く索し、而して人以て惜薪司を陷阱と為すと云う。

採木の役は、成祖北京宮殿を繕治し始むるより始まる。永楽四年尚書宋礼を遣わして四川に如かしめ、侍郎古樸を遣わして江西に如かしめ、師逵・金純を遣わして湖広に如かしめ、副都御史劉観を遣わして浙江に如かしめ、僉都御史史仲成を遣わして山西に如かしむ。礼言う、数本の大木有り、一夕自ら大谷より浮かびて江に達すと。天子以て神と為し、其の山を名づけて神木山と曰い、官を遣わして祠祭す。十年復た礼を命じて四川に木を採らしむ。仁宗立ち、已に其の役をやむ。宣徳元年南京天地山川壇の殿宇を修し、復た侍郎黄宗載・呉廷用を命じて湖広に木を採らしむ。未だ幾ばくもせず、旱災に因りて之を已む。尋いで復た湖広に大木を採り、而して工部に諭して酌省せしむ、未だ幾ばくもせず復た罷む。他の処も亦た時に採り時に罷む。弘治の時、内帑を発して清甯宮を修し、四川の採木を停む。

正徳の時、湖広・川・貴に木を採り、侍郎劉丙を命じて運を督せしむ。太監劉養其の樑棟に中らざるを劾し、丙を責めて状を陳べしめ、工部尚書李鐩俸を奪わる。嘉靖元年神木千戸所及び衛卒を革す。二十年、宗廟災あり、工部侍郎潘鑒・副都御史戴金を遣わして湖広・四川に於いて大木を採辦せしむ。二十六年復た工部侍郎劉伯躍を遣わして川・湖・貴州に採らしむ、湖広一省の費三百三十九万余両に至る。又官を遣わして諸処の遣留大木を核せしむ。郡県の有司、大工を遅誤するを以て逮治褫黜せらるること一に非ず、並河の州県尤も之を苦しむ。万暦中、三殿の工興り、楠杉諸木を湖広・四川・貴州に採り、費銀九百三十万余両、之を民間に徴し、嘉靖の年の費に較べて更に倍す。而して鷹平条橋諸木を南直・浙江に採るに、商人の逋直二十五万に至る。科臣督運官の遅延侵冒を劾すと雖も、報ぜず。虚に糜し乾没し、公私交困す。

広東の珠池は、おおよそ数十年に一度採珠する。宣宗の時、中官に東莞の珠池を採らせようと請うた者がいたが、獄に繋がれた。英宗が初めて中官に監守させ、天順年間に一度採珠した。弘治十二年に至り、年久しく珠が老熟し、最も多く得られ、銀一万余両を費やし、珠二万八千両を獲て、遂に監守の中官を罷めた。正徳九年にまた採珠し、嘉靖五年にまた採珠したが、珠は小さく未熟で、また甚だ少なかった。八年に再び詔して採珠し、両広巡撫林富が言うには、「五年の採珠の役では、死者五十余人にして、得た珠は僅かに八十両、天下は人をもって珠に易えると言う。恐らく今日は人をもって珠に易えようとも、得られないであろう」。給事中王希文が言うには、「雷州・廉州の珠池は、祖宗が官を設けて監守したのは、民の争奪を防ぐに過ぎない。正徳年間、逆豎が権を握り、伝奉して採取し、海浜に毒を流した。陛下が御極し、珠池少監を革したが、未だ久しからずしてまた復した。辜なき民を駆り、測り難き危険に蹈ませ、必ず得られぬ物を求め、難くして足し難き数を責むるは、聖政の宜しく有る所に非ず」。皆聴かなかった。隆慶六年、詔して雲南に宝石二万塊を進めさせ、広東に珠八千両を採らせた。神宗が即位し、停罷した。既にして太后の進奉、諸王・皇子・公主の冊立・分封・婚礼のため、歳辦の金珠宝石を命じた。再び中官李敬・李鳳を広東に遣わし、珠五千一百余両を採らせた。給事中包見捷が力諫したが、納れられなかった。三十二年に至って初めて採珠を停めた。四十一年、指揮倪英の言により、再び開いた。

明の制、両京の織染は、内外皆局を置く。内局は上供に応じ、外局は公用に備える。南京に神帛堂・供應機房があり、蘇州・杭州等の府も各々織染局があり、歳造に定数がある。

洪武の時、四川・山西の諸行省、浙江紹興の織染局を置いた。また藍靛所を儀真・六合に置き、青藍を植えて染事に供した。未だ幾ばくもなく悉く罷めた。また天下の有司の歳織緞匹を罷めた。賞賚有れば、絹帛を給し、後湖に局を置いて織造した。永楽中、再び歙県織染局を設けた。陝西に駝毼を織造させた。正統の時、泉州織造局を置いた。天順四年、中官を蘇州・松江・杭州・嘉興・湖州の五府に遣わし、常額の外に、彩緞七千匹を増造した。工部侍郎翁世資がこれを減ずるよう請うたが、錦衣衛の獄に下され、衡州知府に貶謫された。増造の坐派はここに始まる。孝宗が初めに即位し、蘇州・杭州・嘉興・湖州・応天の織造を停免した。その後再び設け、乃ち中官に塩引を給し、淮で売って費用に供した。

正徳元年、尚衣監が言うには、「内庫に貯蔵する諸色の紵絲・紗羅・織金・閃色、蟒龍・斗牛・飛魚・麒麟・獅子の通袖・膝襴、並びに胸背の斗牛・飛仙・天鹿は、皆天順年間に織ったもので、欽賞は既に尽きた。応天・蘇州・杭州の諸府に式に依って織造させて下さるよう乞う」。帝はこれを許可した。乃ち一万七千余匹を造った。成化・弘治の時は、頒賜は甚だ謹んでいた。劉瑾が権を握ってから、幸璫の陳乞が漸く広がり、未だ束髪せずして僭越に章服を冒す者があり、濫賞は日増しに増えた。中官が塩引・関鈔を乞うて已まず、織造を監督し、威をもって官吏を劫した。世宗の時に至り、その禍は未だ終わらなかった。即位して未だ幾ばくもなく、即ち中官に南京・蘇州・杭州・陝西で監織させた。穆宗が登極し、詔して中官を撤したが、已にしてまた遣わした。

万暦七年、蘇州・松江に水災があり、給事中顧九思等が織造の内臣を取戻すよう請うたが、帝は聴かなかった。大学士張居正が年饑れて民疲れ、催督に堪えぬと力陳したので、乃ちこれを許した。未だ幾ばくもなく再び中官を遣わした。居正が卒すると、添織は漸く多くなった。蘇州・杭州・松江・嘉興・湖州の五府の歳造の外に、また浙江・福建、常州・鎮江・徽州・寧国・揚州・広徳の諸府州に分造させ、一万余匹を増やした。陝西の羊絨織造七万四千有余、南直隷・浙江の紵絲・紗羅・綾紬・絹帛、山西の潞紬は、皆旧制より丈尺を加えた。二三年の間、費用百万に至り、戸部・工部の二部から取り給し、庫蔵を蒐括し、軍国の需を扣留した。部臣・科臣が屡々争ったが、皆聴かなかった。末年、再び税監に兼管させ、奸弊日増しに滋えた。

明初に南北織染局を設け、南京に供應機房があり、各省直は歳造して供用し、蘇州・杭州の織造は、間に行い間を止めた。万暦中より、頻数に派造し、歳十五万匹に至り、相沿うこと日久しく、遂に常と為した。陝西の絨袍織造は、弘治・正徳の間偶に行い、嘉靖・隆慶の時再び遣わし、また遂に沿って常例と為した。

焼造の事は、外に臨清の磚廠、京師に琉璃廠・黒窯廠があり、皆磚瓦を造り、営繕に供する。宣宗が初めて中官張善を饒州に遣わし、奉先殿の几筵の龍鳳文白瓷祭器を造らせ、磁州に趙府の祭器を造らせた。一年余りして、善は罪に坐して誅され、その役を罷めた。正統元年、浮梁の民が瓷器五万余を進めたが、鈔で償った。黄・紫・紅・緑・青・藍・白地青花の諸瓷器の私造を禁じ、違う者は死罪に処した。宮殿が告成し、九龍九鳳の膳案諸器を造ることを命じ、既にしてまた青龍白地の花缸を造らせた。王振がこれに璺があるとして、錦衣指揮に提督官を杖たせ、中官を遣わして往き督し更に造らせた。成化年間、中官を浮梁の景德鎮に遣わし、御用の瓷器を焼造させたが、最も多く且つ久しく、費用は計り知れなかった。孝宗の初め、中官を撤回したが、尋ねてまた遣わし、弘治十五年再び撤した。正徳の末また遣わした。

弘治以来、焼造未完のもの三十余万器。嘉靖の初め、中官を督して遣わした。給事中陳皋謨がこれが大いに民害となると言い、罷めるよう請うたが、帝は聴かなかった。十六年、新たに七陵の祭器を作った。三十七年、官を江西に遣わし、内殿の醮壇の瓷器三万を造らせ、後に饒州通判を添設し、専ら御器廠の焼造を管せしめた。この時営建最も繁く、近京及び蘇州に皆磚廠があった。隆慶の時、詔して江西に瓷器十余万を焼造させた。万暦十九年、十五万九千を造ることを命じ、既にしてまた八万を増やしたが、三十八年に至っても未だ工を畢えなかった。その後役も漸く寝た。

国家の経費は、禄と餉にまさるものはない。洪武九年に諸王と公主の歳供の数を定めた。親王は、米五万石、鈔二万五千貫、錦四十匹、紵絲三百匹、紗・羅各百匹、絹五百匹、冬夏布各千匹、綿二千両、塩二百引、花千斤、これらはすべて歳支である。馬料草は、月に五十匹を支給する。その緞匹は、歳ごとに工匠の材料を給し、王府に付して自ら造らせる。靖江王は、米二万石、鈔一万貫、その他の物は親王の半分、馬料草は二十匹である。公主で未受封の者は、紵絲・紗・羅各十匹、絹・冬夏布各三十匹、綿二百両。既に受封した者は、荘田一か所を賜い、歳に糧千五百石、鈔二千貫を収める。親王の子で未受封の者は、公主に準ずる。女で未受封の者はその半分である。子が既に郡王に封ぜられた者は、米六千石、鈔二千八百貫、錦十匹、紵絲五十匹、紗・羅は紵絲の半分を減じ、絹・冬夏布各百匹、綿五百両、塩五十引、茶三百斤、馬料草十匹である。女が既に封を受け、また既に嫁した者は、米千石、鈔千四百貫、その緞匹は所在の親王国において造り給する。皇太子の次嫡子および庶子は、郡王に封ぜられた後、必ず出閣を待って歳賜し、親王の子で既に郡王に封ぜられた者と同じとする。女は嫁する年齢に至るのを待ち、親王の女で既に嫁した者と同じとする。凡そ親王の世子は、既に封ぜられた郡王と同じとし、郡王の嫡長子が郡王を襲封する者は、初封の郡王の半分とする。女が既に県主に封ぜられ、また既に嫁した者は、米五百石、鈔五百貫、その他の物は親王の女で既に受封した者の半分とする。郡王の諸子は年十五に至れば、各々田六十頃を賜い、租税を除いて永業とし、その生んだ子が世にこれを守るが、後に至ってただ禄米を給するのみとさせた。

二十八年、官吏と軍士の俸給が広く行き渡るにつれ、諸王の歳給を量り減じて、軍国の用に資することを詔した。ここに更めて親王を一万石、郡王を二千石、鎮国将軍を千石、輔国将軍・奉国将軍・鎮国中尉は二百石ずつ逓減し、輔国中尉・奉国中尉は百石ずつ逓減し、公主および駙馬は二千石、郡王および儀賓は八百石、県主・郡君および儀賓は二百石ずつ逓減し、県君・郷君および儀賓は百石ずつ逓減することを定めた。以後これを永制とした。仁宗が即位し、諸王の歳禄を増減したが、常典ではない。時に鄭・越・襄・荊・淮・滕・梁の七王は未だ藩国に就かず、暫く米歳三千石を給することを命じ、遂に例となった。正統十二年に王府の禄米を定め、将軍は賜名受封の日を始めとし、県主・儀賓は出閣成婚の日を始めとし、附近の州県の秋糧内から撥給することを定めた。景泰七年に郡王将軍以下の禄米を定め、出閣が先で受封が後の者は受封の日を始めとし、受封が先で出閣が後の者は出閣の日を始めとした。

宗室で罪を犯して爵を革められた者を庶人という。英宗の初め、頗る糧を給した。嘉靖の中ごろ、月に米六石を支給した。万暦の中ごろ、二石または一石に減じた。

初め、太祖は宗藩を大いに封じ、世々皆歳禄を食み、職任事を授けず、親親の誼甚だ厚かった。然るに天潢日々に繁くなり、民賦は限りがある。その初め禄米は全て本色を支給したが、既にして本と鈔を兼ねて支給した。中半のものあり、本が折よりも多いものあり、その則は同じではない。その後勢い給することができず、冒濫は転じて益々多くなった。奸弊百出し、究詰すべからず。弘治年間より、礼部尚書倪嶽が即ち条を上って節減を請い、民力を寛げんとした。嘉靖四十一年、御史林潤が言うには、「天下の事、極めて弊し大いに慮るべきものは、宗藩の禄廩にまさるものはない。天下歳に京師に供する糧四百万石、而して諸府の禄米凡そ八百五十三万石。山西を以て言えば、存留百五十二万石、而して宗禄三百十二万石。河南を以て言えば、存留八十四万三千石、而して宗禄百九十二万石。是れ二省の糧、仮令全く輸せしむるも、禄米の半を供するに足らず、況んや吏禄・軍餉皆その中より出ずるをや。故に郡王以上は、猶厚く享するを得るも、将軍以下は多く自ら存立できず、飢寒困辱、勢い必ず至る所、常に道路に号呼し、有司を聚詰する。守土の臣、毎に変を生ずるを懼る。夫れ賦は増すべからず、而して宗室日々に蕃衍す、寒心せざるべけんや。宜しく大臣科道をして朝に集議せしめ、且つ諸王に勢い窮まり弊極まるを諭し、通変せざるを得ざるの意を以てすべし。戸部に命じて賦額を会計せしめ、十年を率とし、兵荒の蠲免・存留及び王府の増封の数を通計せしめ、共に善後の良策を陳べ、宸衷より断じ、以て万世不易の規を垂るべし」と。下部して覆議し、これに従った。四十四年に至って乃ち宗藩条例を定めた。郡王・将軍は七分折鈔、中尉は六分折鈔、郡県主・郡県郷君及び儀賓は八分折鈔とし、他の冒濫する者は多く裁減した。ここにおいて諸王もまた歳禄を辞するを奏し、少ない者は五百石、多い者は二千石に至り、歳出稍々紓やかとなり、而して将軍以下は益々自ら存立できなくなった。

明の初め、勲戚は皆官田を賜って常禄に代えた。その後、田を還して禄米を給することを命じた。公は五千石から二千五百石、侯は千五百石から千石、伯は千石から七百石である。百官の俸は、洪武の初めより、丞相・御史大夫以下の歳禄の数を定め、官署に石に刻み、江南の官田より取って給した。十三年に内外文武官の歳給禄米・俸鈔の制を重ねて定め、雑流の吏典を附した。正従一二三四品官は、千石から三百石まで、毎階百石ずつ逓減し、皆俸鈔三百貫を給する。正五品は二百二十石、従は五十石を減じ、鈔は皆百五十貫である。正六品は百二十石、従は十石を減じ、鈔は皆九十貫である。正従七品は従六品に準じて十石ずつ逓減し、鈔は皆六十貫である。正八品は七十五石、従は五石を減じ、鈔は皆四十五貫である。正従九品は従八品に準じて五石ずつ逓減し、鈔は皆三十貫である。これを石に勒した。吏員の月俸は、一二品官司の提控・都吏は二石五斗、掾史・令史は二石二斗、知印・承差・吏・典は一石二斗。三四品官司の令史・書吏・司吏は二石、承差・吏・典はその半分。五品官司の司吏は一石二斗、吏・典は八斗。六品以下は司吏一石。光禄寺等の吏・典は六斗。教官の禄は、州学正は月米二石五斗、県教諭・府州県訓導は月米二石である。首領官の禄は、凡そ内外官司の提控・案牘・州吏目・県典史は皆月米三石である。雑職の禄は、凡そ倉・庫・関・場・司・局・鉄冶・遞運・批験所の大使は月三石、副使は月二石五斗、河泊所の官は月米二石、閘壩の官は月米一石五斗である。天下の学校の師生の廩膳米は人一日一升、魚肉塩醯の類は官がこれを給する。宦官の俸は、月米一石である。

二十五年に百官の禄を改めて定めた。正一品は月俸米八十七石、従一品から正三品までは、十三石ずつ減じて三十五石に至り、従三品は二十六石、正四品は二十四石、従四品は二十一石、正五品は十六石、従五品は十四石、正六品は十石、従六品は八石、正七品から従九品までは五斗ずつ減じて、五石で止まる。以後これを永制とした。

洪武の時、官俸はすべて米で支給し、時に銭と鈔を兼ねて給した。銭一千、鈔一貫は米一石に相当した。成祖が即位し、公・侯・伯はすべて米を全額支給するよう命じた。文武官の俸禄は米と鈔を兼ねて支給し、官の高い者は米を十の四・五、官の低い者は米を十の六・八支給し、ただ九品・雑職・吏・典・知印・総小旗・軍は、すべて米を全額支給した。鈔に折る場合は、米一石ごとに鈔十貫を給した。永楽二年に公・侯・伯を文武官吏と同様に、米鈔兼支とさせた。仁宗が立つと、官俸を鈔に折る場合、一石あたり二十五貫に至った。宣徳八年、礼部尚書胡濙が戸部を管掌し、一石あたり十貫減らし、十分を基準として、七分を絹に折り、絹一匹を鈔二百貫に相当させると議した。少師蹇義らは、仁宗が東宮に長くおられ、深く官員の折俸の薄さを憫まれ、故に即位して特に数倍に増やされた、これは仁政である、どうして違えようか、と考えた。胡濙は聞き入れず、ついに帝に請うてこれを実行し、低い官は日用が足りなくなった。正統の中頃、五品以上は米二・鈔八、六品以下は米三・鈔七とした。当時鈔の価値は日々下落し、一石十五貫のものが次第に二十五貫に増えていたが、戸部尚書王佐がまた奏上して十五貫に減らした。成化二年、戸部尚書馬昂の請いに従い、さらに五貫を省いた。旧例では、両京の文武官の折色俸は、上半期は鈔を給し、下半期は蘇木・胡椒を給した。七年に戸部尚書楊鼎の請いに従い、甲字形檔に積んだ布を評価して給し、布一匹を鈔二百貫に相当させた。この時は鈔法が行われず、一貫はわずか銭二三文に値し、米一石を鈔十貫に折ると、わずか二三十銭に値し、布の価値はわずか二三百銭で、布一匹が米二十石に折られるので、米一石はわずか十四五銭に値するのみであった。古来官俸の薄いこと、これほどのものはなかった。

十六年、また三梭布で米を折るよう命じ、一匹ごとに三十石に相当させた。その後、粗い広幅の綿布も三十石に相当し、梭布の極めて細かいものはなお銀二両に値したが、粗布はわずか三四銭に値するのみであった。久しくして、布一匹を銀三銭に折ると定めた。ここにおいて官員の俸給は凡そ二種となった。曰く本色、曰く折色である。その本色には三種ある。曰く月米、曰く折絹米、曰く折銀米である。月米は、官の大小を問わず、皆一石である。折絹は、絹一匹を銀六銭に相当させる。折銀は、六銭五分を米一石に相当させる。その折色には二種ある。曰く本色鈔、曰く絹布折鈔である。本色鈔は十貫で米一石に折り、後に二十貫に増えた。絹布折鈔は、絹は毎匹米二十石に折り、布一匹は米十石に折る。公侯の禄は、あるいは本折中半、あるいは折が本より多いなど差があった。文武官の俸禄は、正一品の者は、本色はわずか十の三で、次第に増えて従九品に至ると、本色は十の七となる。武職の府衛官は、ただ本色米を銀に折る例が、毎石二銭五分で、文臣と異なり、その他はすべて同じである。その三大営の副将・参将・遊撃・佐撃員は、毎月米五石、巡捕営の提督・参将もまた同じである。巡捕中軍・把総官は、月に口糧九斗を支給し、旗牌官はその半分である。

天下の衛所の軍士の月糧は、洪武の中頃、京外の衛の馬軍は月に米二石を支給し、歩軍の総旗は一石五斗、小旗は一石二斗、軍は一石と命じた。城を守る者は数通りに給し、屯田する者はその半分である。民匠で軍に充てられた者は八斗、牧馬千戸所は一石、民丁で編入され軍操練する者は一石、江陰横海水軍の稍班・碇手は一石五斗である。陣亡・病故の軍には喪費一石を給し、営中で病故した者はその半分である。籍没されて死を免れ軍に充てられた者を恩軍という。家四口以上は一石、三口以下は六斗、家口のない者は四斗である。また軍士に月塩を給し、家口のある者は二斤、ない者は一斤、在外の衛所の軍士は鈔で準じた。永楽の中頃、始めて糧の多い地では、旗軍の月糧を、八分を米で、二分を鈔で支給するよう命じた。後に山西・陝西も皆そうなり、福建・両広・四川では米七・鈔三、江西では米鈔中半としたが、ただ京軍及び中都留守司、河南・浙江・湖広の軍は、なお米を全額支給した。やがて定制とし、衛軍で家屬のある者は、月米六斗、ない者は四斗五升とし、残りはすべて鈔に折った。

凡そ各衛から京に調至され操備し兼ねて工作する軍は、米五斗である。その後増減は一定せず、本折の則例は、各鎮で多寡が同じでなく、すべて挙げることはできない。凡そ各鎮の兵餉には、屯糧、民運、塩引、京運、主兵年例、客兵年例がある。屯糧とは、明初、各鎮に皆屯田があり、一軍の田は、一軍の用を足して贍い、衛所官吏の俸糧は皆ここから取って給した。民運とは、屯糧が不足するので、民糧を加えたものである。麦・米・豆・草・布・鈔・花絨を運んで戍卒に給するので、民運という。後多く銀に折ることを議した。塩引とは、商を召して粟を入れて開中させ、商屯が糧を出し、軍屯と表裏をなした。その後は銀を運司に納め、名は存して実は亡んだ。京運は、正統の中頃に始まった。後に屯糧・塩糧は多く廃れ、京運は日々増加した。主兵には常數があり、客兵には常數がない。初め、各鎮の主兵はその地を守るに足りたが、後次第に不足し、募兵を増やし、募兵が不足すると、客兵を増やした。兵は愈々多く、坐食する者は愈々多く、年例もまた日々増加したという。

明代の田税及び経費の出入の数は、掌故に現れ、皆略々考証できる。洪武二十六年、官民田総計八百五十万七千余頃。夏税は、米麦四百七十一万七千余石、銭鈔三万九千余錠、絹二十八万八千余匹。秋糧は、米二千四百七十二万九千余石、銭鈔五千余錠。弘治の時、官民田総計六百二十二万八千余頃。夏税は、米麦四百六十二万五千余石、鈔五万六千三百余錠、絹二十万二千余匹。秋糧は、米二千二百十六万六千余石、鈔二万一千九百余錠。万暦の時、官民田総計七百一万三千余頃。夏税は、米麦総計四百六十万五千余石、起運百九十万三千余石、残りはすべて存留、鈔五万七千九百余錠、絹二十万六千余匹。秋糧は、米総計二千二百三万三千余石、起運千三百三十六万二千余石、残りはすべて存留、鈔二万三千六百余錠。屯田六十三万五千余頃、花園倉基千九百余所、徴糧四百五十八万四千余石。糧草折銀八万五千余両、布五万匹、鈔五万余貫、各運司提挙大小引塩二百二十二万八千余引。

歳入の数は、内承運庫、慈寧・慈慶・乾清の三宮子粒銀四万九千余両、金花銀百一万二千余両、金二千両。広恵庫、河西務等七鈔関、鈔二千九百二十八万余貫、銭五千九百七十七万余文。京衛屯鈔五万六千余貫。天財庫、京城九門鈔六十六万五千余貫、銭二百四十三万余文。京・通二倉、並びに薊・密諸鎮の漕糧四百万石。京衛屯豆二万三千余石。太倉銀庫、南北直隸・浙江・江西・山東・河南の派剩麦米折銀二十五万七千余両。絲綿・税絲・農桑絹折銀九万余両、綿布・苧布折銀三万八千余両。百官禄米折銀二万六千余両。馬草折銀三十五万三千余両。京五草場折銀六万三千余両。各馬房倉麦豆草折銀二十余万両。戸口塩鈔折銀四万六千余両。薊・密・永・昌・易・遼東の六鎮、民運改解銀八十五万三千余両。各塩運提挙余塩・塩課・塩税銀百万三千余両。黄白蠟折銀六万八千余両。覇・大等馬房子粒銀二万三千余両。備辺並びに新増地畝銀四万五千余両。京衛屯牧地増銀一万八千余両。崇文門商税・牙税一万九千余両、銭一万八千余貫。張家湾商税二千余両、銭二千八百余貫。諸鈔関折銀二十二万三千余両。泰山香税二万余両。贓罰銀十七万余両。商税・魚課・富戸・暦日・民壮・弓兵並びに屯折・改折月糧銀十四万四千余両。北直隸・山東・河南解各辺鎮麦・米・豆・草・塩鈔折銀八十四万二千余両。諸雑物の条目煩瑣なるものは具載せず。載する所の歳入は、但だ起運京辺のものを計るのみにして、存留はこれに与からず。

歳出の数は、公・侯・駙馬・伯禄米折銀一万六千余両。官吏・監生俸米四万余石。官吏折俸絹布銀四万四千余両、銭三千三百余貫。倉庫・草場・官攢・甲斗、光禄・太常諸司及び内府監局匠役本色米八万六千余石、折色銀一万三千余両。錦衣等七十八衛所官吏・旗校・軍士・匠役本色米二百一万八千余石、折色銀二十万六千余両。官員折俸絹布銀二十六万八千余両。軍士冬衣折布銀八万二千余両。五軍・神枢・神機三大営将卒本色米十二万余石、冬衣折布銀二千余両、官軍防秋三月口糧四万三千余石、営操馬匹本色料二万四千余石、草八十万余束。巡捕営軍糧七千余石。京営・巡捕営、錦衣・騰驤諸衛馬料草折銀五万余両。中都留守司、山東・河南二都司班軍行糧及工役塩糧折銀五万余両。京五草場商価一万六千余両。御馬三倉象馬等房、商価十四万八千余両。

諸辺及び近京鎮の兵餉。

宣府:主兵、屯糧十三万二千余石、折色銀二万二千余両、民運折色銀七十八万七千余両、両淮・長蘆・河東塩引銀十三万五千余両、京運年例銀十二万五千両;客兵、淮・蘆塩引銀二万六千余両、京運年例銀十七万一千両。

大同:主兵、屯糧本色七万余石、折色銀一万六千余両、牛具銀八千余両、塩鈔銀一千余両、民運本色米七千余石、折色銀四十五万六千余両、屯田及び民運本色草二百六十八万余束、折草銀二万八千余両、淮・蘆塩四万三千余引、京運年例銀二十六万九千余両;客兵、京運銀十八万一千両、淮・蘆塩七万引。

山西:主兵、屯糧二万八千余石、折色銀一千余両、草九万五千余束、民運本色米豆二万一千余石、折色銀三十二万二千余両、淮・浙・山東塩引銀五万七千余両、河東塩課銀六万四千余両、京運銀十三万三千余両;客兵、京運銀七万三千両。

延綏:主兵、屯糧五万六千余石、地畝銀一千余両、民運糧料九万七千余石、折色銀十九万七千余両、屯田及び民運草六万九千余束、淮・浙塩引銀六万七千余両、京運年例銀三十五万七千余両;客兵、淮・浙塩引銀二万九千余両、京運年例銀二万余両。

寧夏:主兵、屯糧料十四万八千余石、折色銀一千余両、地畝銀一千余両、民運本色糧千余石、折色銀十万八千余両、屯田及び民運草百八十三万余束、淮・浙塩引銀八万一千余両、京運年例銀二万五千両;客兵、京運年例銀一万両。

甘粛:屯糧料二十三万二千余石、草四百三十余万束、折草銀二千余両、民運糧布折銀二十九万四千余両、京運銀五万一千余両、淮・浙塩引銀十万二千余両。

固原:屯糧料三十一万九千余石、折色糧料草銀四万一千余両、地畝牛具銀七千一百余両、民運本色糧料四万五千余石、折色糧料草布花銀二十七万九千余両、屯田及び民運草二十万八千余束、淮・浙塩引銀二万五千余両、京運銀六万三千余両、犒賞銀百九十余両。

遼東:主兵、屯糧二十七万九千余石、荒田糧四百余両、民運銀十五万九千余両、両淮・山東塩引銀三万九千余両、京運年例銀三十万七千余両;客兵、京運年例銀十万二千余両。

薊州:主兵、民運銀九千余両、漕糧五万石、京運年例銀二十万六千余両;客兵、屯糧料五万三千余石、地畝馬草折色銀一万六千余両、民運銀一万八千余両、山東民兵工食銀五万六千両、遵化営民壮工食銀四千余両、塩引銀一万三千余両、京運年例銀二十万八千余両、撫賞銀一万五千両、犒軍銀一万三千余両。

永平鎮:主兵(常駐軍)については、屯田による糧料三万三千余石、民運による糧料二万七千余石、折色銀二万八千余両、民壮の工食銀一万二千余両、京運による年例銀十二万二千余両;客兵(臨時駐留軍)については、屯田による草の折銀三千余両、民運による草三十一万一千余束、京運銀十一万九千余両。

密雲鎮:主兵については、屯田による糧六千余石、地畝銀二百九十両、民運銀一万両余、漕糧十万四千余石、京運銀十六万両余;客兵については、民運銀一万六千余両、民壮の工食銀九百余両、漕糧五万石、京運銀二十三万三千余両。

昌平鎮:主兵については、屯田による糧の折色銀二千四百余両、地畝銀五百余両、草の折銀一百余両、民運銀二万両余、漕糧十八万九千余石、京運による年例銀九万六千余両;客兵については、京運による年例銀四万七千余両。

易州鎮:主兵については、屯田による糧二万三千余石、地畝銀六百余両、民運銀三十万六千余両;客兵については、京運銀五万九千両。

井陘鎮:主兵については、屯田による糧一万四千余石、地畝銀八千余両、民運による本色米麥一万七千余石、折色銀四万八千余両;客兵については、京運による年例銀三千余両。

その他の雑費は記載しない。