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明史
志第五十七 食貨五
貨幣の興りは、九府の圜法に始まり、歴代これを用いる。紙幣は唐の飛銭に始まり、宋の交会、金の交鈔となる。元の世は終始紙幣を用い、銭貨はほとんど廃れた。
太祖は初め応天に宝源局を置き、「大中通宝」銭を鋳造し、歴代の銭貨と併用した。四百文を一貫とし、四十文を一両、四文を一銭とした。陳友諒を平定すると、江西行省に貨泉局を置くことを命じ、大中通宝銭を頒布し、大小五等の銭の様式を定めた。即位すると、「洪武通宝」銭を頒布し、その制度は五等あり、「当十」、「当五」、「当三」、「当二」、「当一」という。「当十」銭は重さ一両、以下は順次減じて重さ一銭までとした。各行省は皆宝泉局を設け、宝源局とともに鋳造し、私鋳を厳禁した。洪武四年、大中・洪武通宝の大銭を小銭に改鋳した。初め、宝源局の銭は背面に「京」の字を鋳出したが、後には多く鋳出さず、民間では「京」字のないものは通用しなかったため、小銭に改鋳して便宜を図った。まもなく私鋳銭を廃銅として官に送れば、銭で償うことを命じた。この時、役人は民に銅を出すことを求め、民は器皿を壊して官に納め、大いに苦しんだ。一方、商人は元の旧習に従って紙幣を用い、銭貨を用いることは不便であった。
七年、帝は宝鈔提挙司を設けた。翌年、中書省に大明宝鈔を造るよう詔を下し、民間での通行を命じた。桑の皮を原料とし、その形は方形、高さ一尺、幅六寸、質は青色で、外側に龍文の花欄がある。横にその額を題して「大明通行宝鈔」とする。その内側の上部両傍に、また篆文八字を記し、「大明宝鈔、天下通行」という。中央に銭貫を図示し、十串をもって一貫とする。その下に「中書省奏準印造大明宝鈔与銅銭通行使用、偽造者斬、告捕者賞銀二十五両、仍給犯人財産」とある。五百文の場合は銭文を五串に描き、その他はその制度に従って順次減ずる。その等級は六つあり、一貫、五百文、四百文、三百文、二百文、一百文という。毎鈔一貫は、銭千文、銀一両に相当し、四貫は黄金一両に相当する。民間で金銀や物品で取引することを禁じ、違反者は罰し、金銀で紙幣と交換することは許した。そこで宝源局・宝泉局を廃止した。二年後、再び宝泉局を設け、小銭を鋳造して紙幣と併用し、百文以下は銭のみを用いた。商税は銭と紙幣を併せて徴収し、銭三割、紙幣七割とした。十三年、紙幣が長く用いられて破損したため、倒鈔法を立て、各地に行用庫を置き、軍民商人に破損紙幣を納庫して新紙幣と交換することを許し、工墨直(手数料)を若干徴収した。中書省が廃止されると、紙幣製造を戸部に属させ、銭貨鋳造を工部に属させ、宝鈔の文面「中書省」を「戸部」に改め、旧紙幣と併用した。十六年、戸部に宝鈔広源庫・広恵庫を設置した。収入は広源庫が掌り、支出は広恵庫が掌った。地方の衛所の軍士には、月の塩を全て紙幣で支給し、各塩場には工本鈔を支給した。十八年、天下の役人の禄米は全て紙幣で支給し、二貫五百文をもって米一石に相当させた。
二十二年、銭貨の様式を改定する詔を下した。生銅一斤で小銭百六十枚を鋳造し、折二銭はその半分、「当三」から「当十」まではこれに準じて差等をつけた。小額紙幣を新造し、十文から五十文までとした。二十四年、徴税官吏に諭し、紙幣に字貫が判別できるものは、破損を問わず、ただちに収受して京師に送るよう命じ、強制したり偽物を混ぜたりする者は罰した。二十五年、東市に宝鈔行用庫を設け、三庫とし、各々に三万錠の紙幣を鈔本として与え、旧紙幣を回収して内府に送った。大明宝鈔と歴代の銭貨を併用し、紙幣一貫は銭千文に相当させ、提挙司は三月以内に印造し、十月で止め、造った紙幣は内府に送って賞賜に充てた。翌年、行用庫を廃止し、また宝泉局を廃止した。当時、両浙・江西・福建・広東の民は銭貨を重んじて紙幣を軽んじ、銭百六十文で紙幣一貫に折る者があり、これにより物価が高騰し、紙幣制度はますます壊れて通用しなくなった。三十年、交易に金銀を用いる禁令を改めて申し渡した。
成祖の初め、違反者は奸悪の罪に論じたが、装飾品や器皿を造ることは禁例に含めなかった。永楽二年、違反者は死罪を免じて家族もろとも興州に配流する詔を下した。陝西都司僉事の張豫は、官鈔を不正交換した罪で配流に論じられた。江夏の民が父の死に際し、銀を用いて葬具を整えたため、辺境に配流すべきところ、帝は葬儀のためやむを得ず行ったもので、法を弄んだものではないとして、特に哀れんで赦した。都御史陳瑛が言うには、「近年紙幣制度が通じないのは、朝廷が紙幣を発行しすぎて、回収する方法がないため、物価が高く紙幣が軽くなるからである。戸口食塩法を暫定的に行うのがよい。天下の人民は千万戸を下らず、官軍は二百万家を下らない。誠に人口に応じて紙幣を納めて食塩を受け取らせれば、五千余万錠を回収できる」。帝は戸部に命じて群臣を集めて議させた。大口は月に食塩一斤、紙幣一貫を納め、小口はその半分とした。その議に従った。北京宝鈔提挙司を設け、税糧・課程・贓罰は全て紙幣で折納させ、その価値は洪武初年の十分の一に減じた。後にまた塩官に旧紙幣を納めて塩を受け取らせ、南京抽分場の積薪や龍江提挙司の竹木を軍民に売り、その紙幣を回収した。応天の歳辦蘆柴は、紙幣で十の八を徴収した。帝が即位した初め、戸部尚書夏原吉が紙幣の版の篆文を「永楽」に改めるよう請うたが、帝は旧来のままにしておくよう命じた。以後、明一代を通じて皆洪武の年号を用いたという。
仁宗が監国した時、笞杖の刑に当たる者に紙幣を納めさせた。即位すると、紙幣が通用しないことについて原吉に諮った。原吉は言う、「紙幣は多ければ軽くなり、少なければ重くなる。民間で紙幣が通用しないのは、放出が多く回収が少ないためで、法を設けて回収すべきである。市肆の門攤などの諸税を、軽重を量ってその課程を加増するよう請う。紙幣が官に入れば、官は破損軟化したものを全て焼却する。今後、官の紙幣は少なく出すべきで、民間で紙幣を得ることが難しければ、自然と重くなる」。そこで下令して言う、「増加した門攤課程は、紙幣制度が通じれば即座に旧に復する。金銀布帛で取引する者も、また暫く禁止する」。しかしこの時、民は結局紙幣を軽んじた。宣徳初年に至り、米一石に紙幣五十貫を用いるようになり、布帛米麦の取引の禁令を解除した。金銀で取引した者及び貨物を隠して価値を増した者は紙貨を罰し、府県衛所の倉糧が十年以上蓄積されたものは、塩糧は全て紙幣で収め、秋糧も三分を紙幣で折納させ、門攤課鈔を五倍に増やし、塌房・店舗は月に紙幣五百貫を納めさせ、果園・驘車も全て紙幣を納めさせた。戸部が言うには、民間の取引は金銀のみを用い、紙幣は滞って通用しない。そこでますますその禁令を厳しくし、取引に銀一銭を用いた者は紙幣千貫を罰し、汚吏が銀一両を受けた者は紙幣一万貫を追徴し、さらに免罪鈔として同額を追徴した。
英宗が即位すると、賦税を収める際に米麦を銀に折納する法令があり、諸々の紙幣納入を減らし、米・銀・銭をもって紙幣に代え、銀使用の禁令を解除した。朝廷と民間は概ね銀を用い、小額のものには銭を用い、官俸を折納する場合のみ紙幣を用いたため、紙幣は滞留して通用しなかった。十三年、再び禁令を申し渡し、紙幣を阻害する者は一万貫を追徴し、家族もろとも辺境に配流した。天順年間になって、ようやくその禁令を解除した。憲宗は内外の課程で銭貨と紙幣を併せて収めさせ、官俸や軍餉も銭貨と紙幣を併せて支給させた。この時、紙幣一貫は銭一文の価値もなく、紙幣で民に徴収する計算では、毎貫につき銀二分五厘を徴収したため、民は大いに困窮した。
弘治元年、京城の税課司、順天・山東・河南の戸口食塩は、いずれも鈔を収め、各鈔関は銭と鈔を兼ねて収めた。その後、いずれも銀に改折して用いるようになった。洪武・永楽・宣徳の銭は積んで用いられず、詔を発してこれを用い、歴代の銭と兼用することを命じた。戸部が鼓鑄を請うたので、再び局を開いて銭を鋳造した。贖罪を納め税を収める際は、歴代銭と制銭をそれぞれ半分ずつ収め、制銭がなければ旧銭を収め、二文をもって一文に当てた。制銭とは、国朝の銭である。旧制では、工部の鋳造した銭は太倉庫と司鑰庫の二庫に入れ、諸関税の銭も司鑰庫に入れた。合わせて数千万の銭を貯蔵し、中官がこれを掌り、京衛の軍の秋糧はこれから支給され、七百文をもって銀一両に当てた。武宗の初め、部臣が侵蝕を察覈することを請い、また銭をもって俸糧に当てる者は、銀の数のわずか三分の一にしか及ばないので、承運庫から銀を給することを請うた。当時中官がまさに権勢を振るっており、いずれも聞き入れられなかった。やがて司鑰庫太監の龐鄶が言うには、「弘治年間より関税を銀に折じて承運庫に入れて以来、銭鈔が欠乏し、支放が給せず、成化の旧制に従い、銭鈔を兼ねて収めることを請う」と。これに従った。正徳三年、太倉の積んだ銭をもって官俸を給することとし、十分を率として、銭一に対し銀九とした。また太監張永の言に従い、天財庫及び戸部・布政司の庫銭を発し、関給と徴収に用い、七十文ごとに銀一銭を徴し、かつ私鋳の禁を申し立てた。嘉靖四年、宣課分司に税を収めることを命じ、鈔一貫は銀三厘に折じ、銭七文は銀一分に折じた。この時、鈔は久しく行われず、銭も大いに滞り、ますます専ら銀を用いるようになった。
明の初め、洪武銭を鋳造した。成祖九年、永楽銭を鋳造した。宣徳九年、宣徳銭を鋳造した。弘治十六年以後、弘治銭を鋳造した。世宗嘉靖六年に至り、大いに嘉靖銭を鋳造した。毎文の重さは一銭三分で、かつ累朝の未鋳のものを補鋳した。三十二年、洪武より正徳に至る九号の銭を鋳造し、毎号百万錠、嘉靖銭は千万錠、一錠は五千文とした。そして税課抽分諸廠は、専ら嘉靖銭を収めた。民は銭の少ないことを患い、内庫の新旧の銭八千一百万文を発して俸糧に折給した。また歴代銭を通行することを命じ、新旧の銭を銷し、あるいは銅をもって像や器物を造る者は、盗鋳に比する罪とした。これに先立ち、民間では濫悪の銭が行われ、おおよそ三四十銭をもって銀一分に当てた。後にはますます鉛錫を混ぜ、薄く劣悪で形制がなく、六七十文をもって銀一分に当てるに至った。紙を切り挟んでおり、弁別できない。給事中李用敬の言により、制銭と前代の雑銭とを相兼ねて行い、上品のものはいずれも七文をもって銀一分に当て、その余は銭の高下によって三等とし、下のものは二十一文をもって銀一分に当てた。私造の濫悪銭はすべて禁じて行わず、犯す者は法に置いた。小銭が長く行われ、急にこれを革すると、民は甚だ不便であった。また内庫の銭を出して文武官の俸を給し、新旧・美悪を論ぜず、すべて七文をもって折算した。諸々俸銭をもって市易する者も、すべて七文をもって民に抑勒したので、民もまた騒然とした。
連年大いに凶作に属し、四方の流民が京師に就食し、死者が枕を並べた。論者は銭法が通じないためであると言う。ここにおいて御史何廷鈺が条奏し、民に小銭を用いることを許し、六十文をもって銀一分に当てることを請うた。戸部は執って従わなかった。廷鈺は尚書方鈍及び郎中劉爾牧を訐奏した。帝は怒り、爾牧を斥け、廷鈺の議を採り、民の便に従うことを命じた。かつ嘉靖銭七文、洪武諸銭十文、前代銭三十文をもって銀一分に当てることを定めた。しかし諸々の濫悪小銭は、初めの禁令が厳しかったため、詔旨を奉じて間に行われたが、ついに用いられず、民間では競って嘉靖通宝銭を私鋳し、官銭と並行した。
給事中殷正茂が言うには、「両京の銅価が甚だ高く、銭を鋳造しても費用を償わない。雲南の銅を採り、岳州に運んで鼓鑄すべきである。工本銀三十九万を費やせば、六万五千万文の銭を得ることができ、銀九十三万余両に値し、少し国家の急を助けるに足る」と。戸部が覆言して言うには、「雲南は地僻く事簡であるから、山に即いて鼓鑄するのが便利である」と。そこで巡撫に勅して塩課銀二万両を工本とした。間もなく、巡撫王昺が費多く入少ないと言い、鋳造を罷めることを請うた。帝は小費を惜しむに当たらずとして、なおこれを行わせた。数年を経て、巡按王諍がまた鋳造を罷めるべきであると言った。部議は、「銭法が壅滞するのは、宣課司が税を収めるに七文をもって一分に当てるためである。奸民が機に乗じて阻撓し、銭が多ければ悪濫して相欺き、銭が少なければ価値を増して利を罔る。故に禁が愈々繁くして銭が愈々滞る。今よりは准折は民の便に聴き、必ずしも文数を定めず、課税及び官俸はかつともに銀を用いる」と。そこで雲南の銭鋳造を罷め、戸部の議に従った。
当時鋳造した銭には金背・火漆・鏇辺があった。議者は銭鋳造が艱難で工匠が労費するとし、鏇車を革して鑢鐋を用いた。ここにおいて鑄工は競って鉛錫を混ぜて剉治に便とし、輪郭は粗糲で、色沢は黯黲であった。奸偽がこれを仿效し、盗鋳は日々滋長し、金背銭はかえって阻まれて行わなかった。死罪の報が日に上がったが、ついに止めることができなかった。帝はこれを患い、大学士徐階に問うた。階は五害を陳べ、宝源局の銭鋳造を停め、銭を支給すべきものはすべて銀を与えることを請うた。帝は工匠の料を侵し工を減ずる罪を鞫治し、鼓鑄を停めた。以後、課税は銀を徴して銭を徴さず。かつ民間では制銭のみを用い古銭を用いず、私鋳する者が多かった。
隆慶初め、銭法が行われず、兵部侍郎譚綸が言うには、「民を富まさんと欲すれば、必ず布帛菽粟を重んじて銀を賤しめ、銀を賤しめんと欲すれば、必ず銭法を制して銀の不足を補うべきである。今、銭はただ天下に布くだけで、上に輸しないので、その権は市井にある。民に銭をもって官に輸することを許すよう命じれば、銭法は自ずから通ずる」と。ここにおいて課税銀三両以下は再び銭を収め、民間交易一銭以下は銭を用いることのみを許した。当時、銭八文をもって銀一分に折じ、民が任意に低昂することを禁じた。直隸巡按楊家相が大明通宝銭を鋳造することを請うたが、年号を識さない。部議が格して行われなかった。高拱が再び相となり、言うには、「銭法は朝に議し夕に改まり、ついに成説がない。小民は今日銭を得て明日用いられなくなることを恐れる。これによって愈々改まるほどに乱れ、愈々禁ずるほどに疑う。一に民の便に従い、多く制して人の耳目を乱すことなかれ」と。帝は深くこれを然りとした。銭法は再び少しずつ通ずるようになった。宝鈔は用いられず垂ること百余年、課程も鈔を収めることは鮮かであったが、ただ俸銭のみは鈔を支給することを旧の如くとした。四年、初めて新鋳の隆慶銭をもって京官の俸を給したという。
萬曆四年(1576年)、戸部と工部に命じて嘉靖銭の様式に準じて「萬曆通寶」の金背銭及び火漆銭を鋳造させた。一文の重さは一銭二分五厘。また鏇辺銭を鋳造し、一文の重さは一銭三分とし、天下に頒布して施行し、俸給と糧米はすべて銀と銭を併せて支給した。雲南巡按の郭庭梧が言上した。「国初には京師に宝源局があり、各省には宝泉局があったが、嘉靖年間に省の局が停止廃止されて以来、民間の用に窮している。雲南は銅を産出するのに、鋳造を行わず、かえって高価で海(外)から購入するのは利益にならない。」そこで局を開いて銭を鋳造させた。まもなく十三布政司すべてに局を開くよう命じた。工部の上言を採用し、五銖銭を基準とし、四火黄銅を用いて金背銭を、二火黄銅を用いて火漆銭を鋳造し、粗悪なものを作った者は罪に処した。費用が多く利益が少なければ私鋳は自然に止むからである。しばらくして、戸部が言上した。「銭の軽重は一定せず、軽ければ回収し、重ければ流通させるので、滞りや不足の憂いがない。鋳造を始めた頃は、金背銭十文が銀一分に相当したが、今では萬曆金背銭五文、嘉靖金背銭四文がそれぞれ銀一分に相当し、火漆銭・鏇辺銭も同様である。わずか十年余りで、軽重は半ばも違わないほどになった。銭が重くなり物価が高騰しているので、庫蔵を放出してその価値を平準すべきである。」これに従った。当時、王府はいずれも私銭を鋳造しており、官吏は誰も告発しようとしなかった。古銭は流通が阻害され、国家の用が足りなくなったので、南北の宝源局に土地を拡張し炉を増設して鋳造を命じた。北方の銭は南方の銭より価値が三分の一高く、南方の鋳造は概して軽薄であった。しかしそれぞれ旧来の通りに従い、併行して廃止されなかった。
天啓元年(1621年)、泰昌銭を鋳造した。兵部尚書の王象乾が、当十・当百・当千の三等の大銭を鋳造し、龍文を用い、白金三品の制度にやや倣うことを請うた。そこで両京(北京と南京)でともに大銭を鋳造した。後に大銭の弊害を言上する者があり、詔して両京の大銭鋳造を停止し、大銭を回収して局に送り改鋳させた。この時、鋳銭局は天下に遍く開設され、銭の利息(鋳造益)を重く課した。
崇禎元年(1628年)、南京では鋳造元手が七万九千余両で、利息銀三万九千有余を獲得した。戸部の銭鋳造では利息銀二万六千有余を獲得した。その鋳造した銭は、いずれも五十五文を銀一銭に相当させ、利息の取り分を満たすように計算したため、工匠の賠償補填、流通時の割引(価値下落)に耐えられなくなった。宝泉局の銅の元手は四十万両で、旧例では銭が完成すると本銀を太倉に返還し、翌年また借りていたが、この時から永久に鋳造元手とするよう命じた。三年(1630年)、御史の鐃京が言上した。「銭鋳造のために局を開くのは、本来天下に通行させるためである。今では利息(利益)が無いことを苦にして、開いてはすぐに止め、南北両局のほかは、湖広・陝西・四川・雲南および宣府鎮・密雲鎮の二鎮のみが残っている。しかも鋳造による利息は朝廷に帰するものではなく、また鋳造元手が無いことを苦にしている。これは銅を買うのであって採掘しないからである。洪武初年および永楽九年(1411年)、嘉靖六年(1527年)の例に従い、官を各省に派遣して銭を鋳造させ、産銅の地で銅を採掘し、官吏を置き兵を駐屯させ、銀鉱法に倣って十分の三を徴収するよう乞う。銅山の利益は朝廷が独占し、庶民が採掘したものは、依然として価値を与えて買い取るべきである。」帝はこれに従った。この時、鋳造所は併せて開かれ、用いる銅がますます多くなり、銅が到着するのはますます少なくなった。南京戸部尚書の鄭三俊が専任の官を置いて銅を買い付けることを請うた。戸部が議して、原籍が産銅地の者を鎮遠・荊州・常州など銅鉛が集まる場所に駐在させることとし、いわゆる産銅の地で銅を採ることとした。帝はいずれもこれに従った。その後、また絳州・孟県・垣曲県・聞喜県などの州県の銅鉛を採掘した。荊州抽分主事の硃大受が言上した。「荊州は上は貴州・四川に接し、下は江西・広東に連なり、商人が銅鉛を販売してすべて集まるので、一年に四回鋳造できる。四回鋳造の利息は、南方の二倍、北方の三倍である。」そこで便宜四事を陳述し、ただちに大受に専らこれを監督させた。そこで銭の様式を定め、一文の重さを一銭、一千文の価値を銀一両とした。南京の銭は軽薄で、たびたび厳しく戒める旨の命令があったので、ついに一文の重さを八分と定めた。初め、嘉靖銭が最も精巧で、隆慶・萬曆銭は半銖重くしたが、天啓・崇禎の新銭が鋳造されると、旧銭はすべて廃棄された。しかし日々に悪く薄くなり、大半は鉛や砂を混ぜ、百文でも一寸に満たず、投げつければすぐに破損した。末年には当五銭の鋳造を命じたが、鋳造に至らないうちに明は滅亡した。
当初の制度では、歴代の銭(古銭)と制銭(当代の官銭)が通用した。神宗の初め、僉都御史の龐尚鵬の建議に従い、古銭は民間での流通のみを許し、租税納入や贖罪にはすべて制銭を用いることとした。天啓・崇禎の時に広く銭を鋳造し、初めて古銭をかき集めて廃銅に充て、民間の取引でも用いられなくなった。荘烈帝(崇禎帝)が即位した初め、平臺にて召し出して対面し、給事中の黄承昊の上疏に古銭を鋳潰すとの言葉があった。大学士の劉鴻訓が言った。「北方では皆古銭を用いている。もし急に廃止すれば、民に不便である。」帝はその通りだと思った。その後、御史の王燮の上言により、旧銭を回収して鋳潰し、新銭のみを流通させることとした。そこで古銭はたちまち鋳潰し尽くされた。隋代に古銭をすべて鋳潰して以来、これで凡そ二度目のことである。
紙幣(鈔)の法は弘治・正徳の間に廃止されたが、天啓の時、給事中の惠世揚がまた紙幣を造り流通させることを請うた。崇禎の末、蔣臣という者がその説を唱え、戸部司務に抜擢された。倪元璐がちょうど戸部を管掌しており、強くこれを主張したが、結局実行できずに止んだ。
坑冶(鉱山)からの課税は、金銀・銅鉄・鉛水銀・硃砂・青緑(顔料)であり、金銀鉱が最も民を害した。徐達が山東を平定した時、近臣が銀山の採掘を請うた。太祖は銀山の弊害は、官に利益があるのは少なく、民に損害を与えるのが多いとして、開くべきでないと言った。その後、陝州の銀鉱を開くことを請うた者がいたが、帝は言った。「土地の産物には、時に尽きることがある。年間の課税を定額とすれば、銀の徴収は止むことがない。利益を言う臣は皆、民を害する賊である。」臨淄の県丞が山海の蔵(鉱産)を開発して貨幣の流通を良くすることを乞うたが、帝はこれを罷免した。成祖は河池の民が鉱山採掘を言上した者を退けた。仁宗・宣宗の代も引き続き禁止し、番禺の坑洞を埋め、嵩県の白泥溝での鉱山開発を停止した。しかし福建の尤溪県銀屏山銀場局には炉が四十二座あり、洪武十九年(1386年)に始まった。浙江の温州・処州・麗水・平陽などの七県にも場局があった。年間の課税はいずれも二千余両であった。
永楽年間、陝西省商県鳳皇山に銀坑八所を開いた。官を湖広・貴州に派遣して金銀課を採辦させ、また中官・御史を派遣してこれを審査させた。また福建浦城県馬鞍等の坑三所を開き、貴州太平溪・交址宣光鎮に金場局を、葛容溪に銀場局を設け、雲南大理に銀冶を置いた。金銀を産しないところも、たびたび廃止された。しかし福建の歳額は三万余両に増加し、浙江は八万余に増加した。宣宗の初め、福建の課をかなり減らしたが、その後四万余に増加し、浙江も九万余に増加した。英宗は詔を下して坑穴を封鎖し、閘辦官を撤去したので、民は大いに息をついたが、歳額は除かれなかった。歳辦はすべて洪武の旧額である。閘辦は永楽・宣徳年間に新たに増設されたものである。やがて永煎を禁革した。奸民が私的に坑穴を開き、互いに殺傷し合い、厳禁しても止まらなかった。詔を下してこれを赦したが、改まらなかった。言事の者がまた銀場を開くことを請うと、利益は上に帰し、盗賊は身を置く所がなくなるという。そこで侍郎王質を派遣して経理させ、歳課を定めた。福建は銀二万余、浙江はその倍とした。また御史曹祥・馮傑を分遣して提督させたが、供億が公税を超え、民は困窮し盗賊はますます多くなった。鄧茂七・葉宗留の徒が浙江・福建に毒を流し、久しくしてようやく平定した。景帝はかつて封鎖したが、まもなく盗鉱者が多いため、兵部尚書孫原貞が浙江銀場を開くことを請い、これにより福建も開くこととし、中官戴細保にこれを提督させた。天順四年、中官羅永を浙江に、羅珪を雲南に、馮讓を福建に、何能を四川に派遣した。課額は浙江・福建はおおむね旧の如く、雲南は十万両余、四川は一万三千余、総計十八万三千余であった。成化年間、湖広金場を開き、武陵等十二県に合わせて二十一場を設け、歳に民夫五十五万を役し、死者は数えきれず、得た金はわずか三十五両であった。そこでまた閉鎖した。そして浙江銀鉱は不足額により量減し、雲南はたびたび開閉を繰り返した。
弘治元年、初めて雲南を二万両、温州・処州を一万両余減らし、浦城の廃坑銀冶を罷めた。十三年に至り、雲南巡撫李士実が言うには、「雲南九銀場のうち、四場は鉱脈が久しく絶えている。その課を免じていただきたい。」と。許可された。四川・山東の鉱穴も先後に封鎖された。武宗の初め、中官秦文等の上奏に従い、浙江・福建の銀鉱を再開した。まもなく浙江の守臣が鉱脈がすでに絶えたと上言したので、歳に銀二万両を進めることを命じたが、劉瑾が誅殺されてから止んだ。世宗の初め、大理鉱場を閉鎖した。その後、薊州・河南・山東・山西・四川・雲南の各地から鉱砂・金・銀を進め、また採開を議し、大工事を助けさせた。玉旺峪の鉱銀を獲得した後、帝は閣臣に広く採開するよう諭した。戸部尚書方鈍等は、四川・山東・河南の撫按に命じて所属を厳しく督させ、一つ一つ捜索訪求させ、天地が祥瑞を降す意にかなうようにすることを請うた。ここにおいて公私ともに鉱利を争い求め、浙江・江西の盗鉱者は徽州・寧国を劫略し、天下は次第に多事となった。
隆慶初年、薊鎮の採開を罷めた。南方の諸鉱山も、石碑を立てて禁止した。万暦十二年、奸民がたびたび鉱利をもって帝の心を動かそうとした。諸臣はその弊害を力説した。帝はこれに従ったが、心は快からなかった。二十四年、張位が政を執り、前衛千戸仲春が採鉱を請うたが、張位は止めることができなかった。採開の端緒が開かれると、廃官や無頼の徒が鉱峒を献じる者が日に日に至り、ここにおいて開かない土地はなくなった。中使が四方に出た。昌平には王忠、真定・保定・薊州・永平・房山・蔚州には王虎、昌黎には田進、河南の開封・彰徳・衛輝・懐慶・葉県・信陽には魯坤、山東の済南・青州・済寧・沂州・滕県・費県・蓬萊・福山・棲霞・招遠・文登には陳増、山西の太原・平陽・潞安には張忠、南直隷の寧国・池州には郝隆・劉朝用、湖広の徳安には陳奉、浙江の杭州・厳州・金華・衢州・孝豊・諸暨には曹金(後に劉忠が代わる)、陝西の西安には趙鑒・趙欽、四川には丘乗雲、遼東には高淮、広東には李敬、広西には沈永寿、江西には潘相、福建には高寀、雲南には楊栄である。皆に関防を与え、原奏官とともに赴いた。鉱脈は微細で得る所がなく、民に償わせた。そして奸人は採開の名を借りて、駅伝を利用して横暴に民財を求め、州県を陵轢した。民を憐れむ有司は、阻撓の罪に問われ、逮捕尋問され罷免された。当時中官は多く暴横であったが、陳奉は特に甚だしかった。富家巨族には盗鉱の罪を着せ、良田美宅にはその下に鉱脈があると指摘し、役人を率いて包囲捕縛し、辱めは婦女に及び、甚だしきは人の手足を断ち切り江に投げ入れた。その酷虐はこのようなものであった。帝はこれを放任して問わなかった。二十五年から三十三年まで、諸璫が進めた鉱税銀は三百万両に近く、群小は勢いに藉りて誅求し、数倍にも及び、民は生きるに聊かならなかった。山西巡撫魏允貞が上言した。「今、水旱が災いを告げ、天鳴地震し、星流れ気射ち、四方から日々報告がある。中外で軍興が起こり、百姓は困窮している。しかるに利を貪る小人が、採開を借りて飽くことなき貪欲をほしいままにしている。もし禍が内から起こるならば、鉱夫や冗役が禍いとなるのは特に激しいであろう。ここに至ってから、珠を投じ璧を抵すの説を用いても遅いのである。」河南巡按姚思仁も言った。「採開の弊害で、大いに憂慮すべきことが八つある。鉱盗が呼び集まって徒党を組み、乱を招きやすいこと、これが第一。鉱頭が累極まり、土崩の勢いとなること、これが第二。鉱夫が残害され、逼迫して流亡すること、これが第三。雇った民の糧食が欠乏し、飢餓して騒ぎ叫ぶこと、これが第四。鉱洞が遍く開かれ、益なく浪費すること、これが第五。鉱砂から得る銀が少なく、強いて民に買わせること、これが第六。民が皆採鉱に従い、農桑を失業すること、これが第七。奏官が強横で、淫刑を以て激変を招くこと、これが第八。今、鉱頭は賠累して死に、平民は強買されて死に、鉱夫は圧死し、争闘して死んでいる。今止めなければ、たとえ府庫の蔵を傾け、天下の力を尽くしても、存亡には役立たないであろう。」上疏があっても、いずれも省みられなかった。識者は明の滅亡はここに兆したと考えた。
鉄冶所は洪武六年に設置された。江西の進賢・新喻・分宜、湖広の興国・黄梅、山東の萊蕪、広東の陽山、陝西の鞏昌、山西の吉州に二か所、太原・沢・潞に各一か所、合わせて十三か所あり、毎年鉄七百四十六万余斤を輸納した。河南・四川にも鉄冶があった。十二年、茶陵を加えた。十五年、広平の吏王允道が言上した。「磁州は鉄を産出し、元の時代には官を置き、毎年百余万斤を収めました。旧例の通りにしてください。」帝は民の生活がようやく安定したところで、再設置すれば必ず重い煩いとなると考え、杖罰を加えて海外に流した。十八年、各布政司の鉄冶を廃止した。その後、工部が言上した。「山西の交城は雲子鉄を産出し、旧例では十万斤を貢納し、兵器を修繕製造していましたが、他処にはありません。」そこで再設置した。やがて武昌・吉州も順次再開された。末年、工部の言上により、再びすべてを開放し、民が自ら採掘・精錬することを許し、三十分の二を徴収した。永楽の時、四川の龍州、遼東都司の三万衛に鉄冶を設置した。景帝の時、办事吏が陝西・寧遠の鉄鉱を再開するよう請うたが、工部がその違法を弾劾し、獄に下した。給事中張文質は言路を塞ぐべきでないとし、釈放させた。弘治十七年、広東の帰善県が鉄冶の開設を請うたが、有司が定額外に賄賂を要求したため、唐大鬢らが乱を起こし、都御史劉大夏が討伐平定した。正徳十四年、広州に鉄廠を設置し、塩課提挙司に管轄させ、私販を塩法の如く禁止した。嘉靖三十四年、建寧・延平諸府の鉄冶を開いた。隆慶・万暦以後は、おおむね旧制に従い、特に開設することはなかったという。
銅場は、明初には江西の徳興・鉛山のみであった。その後、四川の梁山、山西の五台、陝西の寧羌・略陽及び雲南でいずれも水銀・青緑を採掘した。太祖の時、廉州巡検が言上した。「階州は西戎と境を接し、水銀の坑冶及び青緑・紫泥があります。兵を得てその地を取ることを願います。」帝は許さなかった。ただ貴州の大万山長官司に水銀・朱砂の場局があり、四川の東川府会川衛の山は青緑・銀・銅を産出したが、外番と境を接しているため、軍民がひそかに採取して事を起こすことを憂慮し、特に禁令を下して戒めた。成化十七年、雲南の路南州の銅坑を封鎖した。弘治十八年、板場坑の水銀場局を廃止した。正徳九年、軍士の周達が雲南の諸銀鉱の開採を請うた。ついで銅・錫・青緑にも及んだ。詔は許可し、順次開採した。嘉靖・隆慶・万暦の間、鼓鋳のため、たびたび雲南諸所の銅場を開いたが、久しくして得るものは次第に少なくなった。崇禎の時、ついに古銭を徴発して炉冶に供した。
関市の徴税は、宋・元ではかなり煩瑣であった。明初は簡約を務めたが、その後増設が次第に多くなり、行旅の携帯品や店舗での販売品、通過地や滞在地それぞれに税があった。その品目は官署に掲示して分析し、これに基づいて徴収した。ただ農具・書籍及びその他市場で売買しないものは算せず、徴収すべきものを隠匿した場合は半分を没収した。田宅・家畜の売買は必ず税を納め、契本には別に紙代を納めた。税を納める土地には店歴を置き、滞在する商人の氏名・品目・数量を記した。官司には都税・宣課・司・局・分司・抽分場局・河泊所があった。収める税課には、本色と折色があった。税課司局は、京城の諸門及び各府州県の市集に多くあり、合わせて四百余か所であった。その後順次削減・統合し、十の七まで減らした。抽分は南京にあるものを龍江・大勝港といい、北京にあるものを通州・白河・盧溝・通積・広積といい、外地にあるものを真定・杭州・荊州・太平・蘭州・広寧といった。また軍衛に自ら場分を設置させ、柴薪を収貯させた。河泊所は大河以南にのみあり、河北には塩山県だけあった。
凡そ税課は、商人の物貨の価値を徴し、抽分は竹木柴薪に課し、河泊は魚課を取った。また門攤課鈔があり、有司が管轄した。太祖の初め、酒酢の税を徴収し、官店銭を収めた。呉王の位に即くと、官店銭の徴収を減らし、在京の官店を宣課司と改め、府県の官店を通課司と改めた。
凡そ商税は三十分の一を取るものとし、これを超える者は違令として論じた。洪武の初め、在京の兵馬指揮に市司を管轄させ、三日ごとに街市の度量衡を校正し、牙儈の物価を査察させた。外地では、城門の兵馬にも兼ねて市司を管轄させた。彰徳税課司が、野菜果物・飲食・畜牧の諸物にまで税をかけた。帝はこれを聞いて罷免した。山西平遥の主簿成楽が任期満了で来朝し、その考課に「能く商税を恢辦す」と上奏した。帝は言った。「税には定額がある。もし恢辦を能とすれば、それは下民を削剥することであり、吏の職を失うものである。州の考課は正しくない。」吏部に命じて文書を送り問いたださせた。十年、戸部が奏上した。「天下の税課司局で、商税を定額通り徴収できないところが百七十八か所ある。」そこで宦官・国子生及び部の委任官を各一人ずつ派遣して実情を審査させ、定額を立てた。十三年、吏部が言上した。「税課司局で歳収の額米が五百石に満たないところが、合わせて三百六十四か所あり、廃止すべきです。」許可された。胡惟庸が誅殺されると、帝は戸部に諭して言った。「かつて奸臣が聚斂し、細微なものにまで税をかけたことは、朕は甚だ恥じるところである。今後は軍民の嫁娶喪祭の物品、舟車・絲布の類は、すべて税をかけてはならない。」天下の抽分竹木場を廃止した。翌年、野獣の皮で魚課を納めさせ、裘を製して辺卒に給するよう命じた。
初め、京師の軍民の居宅はすべて官が給与し、隣家との間に隙地がなかった。商貨が到着すると、あるいは舟の中に止め、あるいは城外に貯蔵し、駔儈がその価格を上下させたため、商人はこれを苦しんだ。帝はそこで三山の諸門外に、水辺に屋舎を建て、塌房と名付け、商貨を貯蔵させた。
永楽の初めに定制を定め、嫁娶喪祭の時節の礼物・自織の布帛・農器・食品及び既に税を納めた物品・車船で自己の貨物を運ぶもの・魚野菜雑果で市販でないものは、すべて免税とした。南京の例に準じ、京城に官店塌房を設置した。七年、御史・監生を収課処に派遣して課程を専売徴収させた。二十一年、山東巡按の陳済が言上した。「淮安・済寧・東昌・臨清・徳州・直沽は、商販の集まる所です。今、都を北平に置き、百貨は往時に倍します。その商税は人を派遣して一年間監榷させ、定額とすべきです。」帝はこれに従った。
洪熙元年、市肆の門攤課鈔を増やした。宣徳四年、鈔法が通じないのは、商人が貨物を置いて税を納めないためであるとして、これにより京省の商賈が集まる地、市鎮店舗の門攤税課を、旧額より凡そ五倍増加させた。両京の蔬果園は官私を問わず種を植えて売る者、塌房・庫房・店舗で商貨を置く者、騾驢車を雇って積載する者は、全て鈔を納めることを命じた。御史・戸部・錦衣衛・兵馬司の官各一名を委ね、城門で察収させた。舟船を雇って積載する者は、積載する料の多寡と路の近遠を計算して鈔を納めた。鈔関の設置はここに始まる。その勢いに倚り隠匿して報告しない者は、物は全て没官し、なお罪に処した。ここに漷県・済寧・徐州・淮安・揚州・上新河・滸墅・九江・金沙洲・臨清・北新の諸鈔関があり、舟の大小修広を量ってその額に差をつけ、これを船料と称し、その貨物には課税しなかった。ただ臨清・北新のみは貨税をも兼ねて収め、各御史及び戸部主事を差して監収させた。南京から通州まで、淮安・済寧・徐州・臨清を経る毎に、船百料ごとに鈔百貫を納めた。侍郎曹弘が言うには、「塌房の月鈔五百貫は甚だ苦しく、子女を売って課を納める者がある」と。帝はこれを核実して除くことを命じた。鈔法が通じるに及んで、北京の蔬地課鈔を半減し、船料百貫を六十貫に減じた。
正統初年、詔して凡そ課程門攤は、全て洪武の旧額に遵うべく、鈔法を口実に妄りに増やすことを得ずとした。間もなく、兵部侍郎于謙の上奏により、直省の税課司局を廃し、その税を有司に領せしめ、済寧・徐州及び南京上新河の船料鈔を罷め、漷県鈔関を河西務に移した。船料で六十貫を輸すべきものを二十貫に減じた。商民は便であると称した。九年、王佐が戸部を掌ると、彰義門に官房を置き、商税課鈔を収め、また直省税課司官を復設し、徴榷は次第に煩雑となった。景泰元年、于謙が国政を執ると、船料を十五貫に減じ、漲家湾及び遼陽の課税を半減した。大理卿薛瑄が言うには、「抽分薪炭等を隠匿して報告しない者は、舶商の番貨隠匿の罪に準じ、全て没収するのは過重である。匿税律に比することを得るよう請う」と。帝はこれに従った。成化七年、蕪湖・荊州・杭州の三箇所に工部官を増置した。初め抽分竹木は、ただ鈔を取るのみであったが、その後銀に易え、ここに至って漸く数万両にまで増加した。間もなく御史を遣わして税を榷した。孝宗の初め、御史陳瑤が言うには、「崇文門の監税官は掊克を能とすることを以てし、国体に非ず」と。ここに命じて客貨の外、車輛は捜索阻礙してはならないとした。また給事中王敞の言に従い、蕪湖・荊州・杭州の抽分御史を取回し、府州の佐貳官にその税を監収させた。十三年、再び御史を派遣した。正徳十一年、初めて泰山碧霞元君祠の香銭を収め、鎮守太監の言に従ったものである。十二年、御史胡文靜が新設の諸抽分廠を革新することを請うた。一年も経たないうちに、太監鄭璽が順徳・広平に復設することを請うた。工部尚書李鐩が依阿して両端を持し、横徴の端緒が再び起こった。間もなく中官李文・馬俊を湖広・浙江の抽分廠に命じ、主事と中分して税を榷させた。世宗の初め、抽分中官及び江西・福建・広東の税課司局は多く裁革され、また真定諸府の抽印木植中官を廃した。
京城九門の税は、弘治初年には歳入鈔六十六万余貫、銭二百八十八万余文であったが、末年には数大いに減じた。正徳七年以後より、鈔は四倍に増え、銭は三十万増加した。嘉靖三年、詔して弘治初年の例の如くとすることを命じ、なお銭三十万を減じた。直省の関税は、成化以来、銀に折収し、その後また銭鈔を収めた。八年、再び銀を収め、遂に定制となった。初め鈔関は船料を估して税を定めたが、やがて估料は核め難いとして、樑頭の広狭を度って基準とし、五尺から三丈六尺まで差等があった。帝は成尺を以て限とし、畸零を科さぬよう命じた。太監李能が山海関での商税榷収を請うて、数年行われたが、主事鄔閱が言うには、「広寧八里鋪前屯衛に既に榷場がある以上、再び榷すべからず」と。これを罷めた。その後山海関税を復し、八里鋪店銭を罷めた。四十二年、各関の歳額定数の外、余饒は悉く公帑に入れることを命じた。隆慶二年、初めて鈔関主事に関防勅書を与え、間もなく鈔関で府に近いものは知府が収解し、府から遠いものは佐貳官に命じて府庫に収貯し、季ごとに部に解送させた。主事は商人の報告する物数を掌核して税数を定め、収解には関与しないこととした。
神宗の初め、商貨で京に進むものは、河西務で紅単を与え、崇文門に赴いて正税・条税・船税の三税を併せて納め、京に進まないものは、河西務で正税のみを収め、条税・船税の二税を免じることを命じた。万暦十一年、天下の私設無名税課を廃した。しかし隆慶以来、凡そ橋梁・道路・関津で私かに擅に抽税し、利を罔り民を害するものは、累詔して察革するも、除くことができなかった。両宮三殿の災いに及び、営建費は資すべからざるに至り、初めて鉱山を開き税を増した。そして天津の店租、広州の珠榷、両淮の余塩、京口の供用、浙江の市舶、成都の塩茶、重慶の名木、湖口・長江の船税、荊州の店税、宝坻の魚葦及び門攤商税・油布雑税に至るまで、中官は天下に遍く、税を領せざれば即ち鉱を領し、官吏を駆脅し、務めて朘削した。
関税徴収の使者は、二十六年に千戸趙承勳が奏請したことに始まる。その後、高寀は京口に、暨祿は儀真に、劉成は浙江に、李鳳は広州に、陳奉は荊州に、馬堂は臨清に、陳増は東昌に、孫隆は蘇州・杭州に、魯坤は河南に、孫朝は山西に、丘乗雲は四川に、梁永は陝西に、李道は湖口に、王忠は密雲に、張曄は盧溝橋に、沈永寿は広西に派遣され、ある者は市舶税を徴収し、ある者は店舗税を徴収し、ある者は税務を専管し、ある者は採掘を兼管した。奸民が宦官に賄賂を納めると、ただちに指揮・千戸の札が与えられ、手足として用いられた。水陸で数十里進むごとに、旗を立て役所を建てた。商人のうち臆病な者を見ると、好き勝手に奪い取り、その全財産を没収した。荷物を背負って運ぶ者も、搜索を受けた。また土商という名目を立て、辺鄙な村々でも、米・塩・鶏・豚に至るまで、すべてに納税を命じた。その行く先々でたびたび民変を激発させたが、帝はいつも庇って問わなかった。諸々の進上する税は、遺税と称したり、節省銀と称したり、罰贖と称したり、額外の贏余と称したりした。また買い上げ・孝順と偽って、金珠・宝玉・貂皮・名馬などを雑然と進奉し、帝は彼らを有能だと思った。ついには税監劉成が災害・凶作のために一時的に商税を緩和するよう請うたが、中旨によって依然として四万両の課税を徴収し、そのように利を貪ったのである。三十三年になって初めて詔を下して採鉱を停止し、税務を役所に帰属させたが、税使は撤去されなかった。李道は役所が固く拒絶したと偽って申し立て、以前のようにするのが便宜であると請うた。帝はすぐにこれに従った。また福府承奉謝文銓の言葉を聞き入れ、崇文門外に官店を設けて福邸に供給させた。戸部尚書趙世卿がたびたび上疏したが、聞き入れられなかった。世卿はまた言うには、「崇文門・河西務・臨清・九江・滸墅・揚州・北新・淮安の各鈔関は、毎年、本銭と折納銀の合計で約三十二万五千余両を徴収し、万暦二十五年に八万二千両を増額し、これが定額である。ところが二十七年以後、毎年減少し、二十九年には総計二十六万六千余両を解送したに過ぎない。その原因を究めると、税使が苛酷に徴収したため、来る商人が少なく、連年の税使の供給は、すなわちこの各関の不足分に当たるのである。」上疏が入ったが省みられなかった。宝坻の銀魚廠は永楽年間に設置され、穆宗の時には、ただ価値を評価して廟祀の上供に充てるよう命じただけだった。この時になって初めて宦官を派遣して採捕させ、さらにその税を徴収し、後に武清など魚の産地でない県にも税をかけた。葦網などの諸税を増やし、さらに青県・天津にも及んだ。九門の税は特に苛酷で、挙子も免れず、ついには朝見の官吏を撃ち殺すことさえあった。事が聞こえると、詔して法司にこれを処罰させ、宦官は少しおとなしくなった。四十二年になって、李太后の遺命により天下の税額を三分の一減免し、近京の零細な小税を免除した。光宗が即位すると、初めて天下の額外税をすべて免除し、税監を撤回し、地畝・行戸・人丁・間架に割り当てられていたものは、すべて免除した。
天啓五年、戸部尚書李起元が水陸の要衝での関税徴収を復活させ、万暦二十七八年の例に依り、十分の一を適量徴収するよう請うた。これを許可して実行させた。崇禎初年、関税は毎両ごとに一銭を増額し、八つの関所で合わせて五万両を増加させた。三年にさらに二銭を増額したが、臨清だけは半額に留まり、崇文門・河西務はともに以前の通りだった。戸部尚書畢自厳は、南京宣課司の税額を一万両から三万両に増額することを議した。南京戸部尚書鄭三俊は、宣課司が収める落地税は僅かであるとして、蕪湖に課税して増加分に充てるよう請うた。自厳はそこで蕪湖に三万両を課税することを議し、宣課司は依然として一万両を増額することにした。三俊は後悔し、上疏して争ったが、やめることができなかった。九年に再び税課の項目を増やすことを議した。十三年に関税を二十万両増額し、商人と民衆はますます困窮した。
すべての諸課程(各種税収)は、初めは紙幣(宝鈔)で収め、時折米に折納し、やがて銅銭と紙幣を半々で収め、後に銀に折納して収めるようになり、折納(銀)と現物納は年ごとに交代で収め、現物納は内庫に帰属し、折納銀は太倉に帰属した。
明の初期、東には馬市があり、西には茶市があり、いずれも辺境を統御し守備の費用を節約するためであった。海外の諸国が入貢する際には、方物(地方の産物)を積載して中国と貿易することを許した。そこで市舶司を設け、提挙官を置いてこれを管轄させ、夷狄の情勢を通じさせ、奸商を抑制し、法禁の施行する所とし、もってその紛争の隙を消すためであった。洪武の初年、太倉の黄渡に設置したが、まもなく廃止した。再び寧波・泉州・広州に設置した。寧波は日本に通じ、泉州は琉球に通じ、広州は占城・暹羅・西洋諸国に通じた。琉球・占城諸国は皆恭順で、その時節に応じて入貢するに任せた。ただ日本は叛服常ならず、故に特にその期限を十年とし、人数を二百人、船を二艘と制限し、金葉勘合表文を証拠として、詐偽や侵犯を防いだ。後に市舶司が一時廃止されると、たびたび沿海の住民や守備の将卒が海外諸国と私通することを厳禁した。
永楽の初年、西洋の剌泥国の回回(ムスリム)ハッジ・マハンマド・奇らが来朝し、胡椒を積載して民衆と互市した。役所がその税を徴収するよう請うた。帝は言った、「商税とは、国家が末業に走る民を抑制するためのもので、利益を得るためではない。今、夷人が義を慕って遠くから来ているのに、その利益を侵すのは、得るところ幾何もなく、かえって大礼を損なうことが多い。」聞き入れなかった。三年、諸蕃の貢使がますます多くなったため、福建・浙江・広東の三市舶司に駅を設けて彼らを宿泊させた。福建を来遠、浙江を安遠、広東を懐遠といった。まもなく交址の雲屯に市舶提挙司を設け、西南諸国の朝貢者を接待した。初め、入貢の海船が到着すると、役所が封印し、上奏して報告を待ってから、ようやく運び出した。宣宗は到着次第すぐに馳せ奏上し、返答を待たずに随時京師に送るよう命じた。
武宗の時、提挙市舶太監畢真が言うには、「旧制では、海外に渡航する諸船はすべて市舶司が専管していたが、近頃は鎮巡官や三司官が管轄している。以前のようにするのが便宜であることを乞う。」礼部が議して、市舶司の職務は貢ぎ物の方を管理することで、海外渡航の客商や風で漂着した外国船は、勅旨に記載されていない限り、原則として関与すべきでないとした。中旨では熊宣の旧例通りに行うよう命じた。宣は以前市舶太監を務めており、かつて満剌加諸国の外国船の抽分(税)に関与できないことを理由に、兼管するよう奏請したが、礼部に弾劾されて罷免されていた。劉瑾は真に私心があり、誤ってこれを先例としたのである。
嘉靖二年、日本の使節宗設と宋素卿が別々の経路で入貢し、互いに真偽を争った。市舶司の中官(宦官)頼恩が素卿から賄賂を受け取り、素卿を擁護したため、宗設は大いに寧波を掠奪した。給事中夏言が倭寇の患いは市舶に起因すると言上した。そこでこれを廃止した。市舶司が廃止されると、日本の海商は自由に行き来し、海上の奸豪が彼らと通じ、法禁の施しようがなく、かえって寇賊と化した。二十六年、倭寇の船百艘が長く寧波・台州に停泊し、数千人が上陸して焼き掠奪した。浙江巡撫硃紈が探り知ったところ、船主は皆、貴官や大姓(名門)であり、外国の商品を買い付ける際には皆、虚偽の価格をつけ、転売して利益を得ていたが、代金をすぐに支払わないため、これが乱の原因となっていた。そこで海禁を厳しくし、余皇(大型船)を破壊し、大姓に戒めを刻んで諭すよう奏請したが、返答がなかった。二十八年、紈はまた言うには、「長澳の諸大侠林恭らが夷船を勾引して乱を起こし、大奸が関与して利を射るため、案内役となり、我が海浜を蹂躙している。正しい刑罰を加えるべきである。」部(兵部)の審議では許可されなかった。しかし通番の大悪党に対しては、紈はしばしば臨機の処置でこれを誅殺した。御史陳九徳が紈を弾劾し、措置が道理に外れ、専断で殺戮し、紛争を引き起こしたと訴えた。帝は紈を逮捕して取り調べさせた。紈が罷免されると、奸徒はますます畏れるところがなくなり、外国と交わり内で争い、禍患を醸成した。汪直・徐海・陳東・麻葉らが起こり、海上は安寧な日がなくなった。三十五年、倭寇が大いに福建・浙江・南直隷を掠奪した。都御史胡宗憲はその客(食客)蔣洲と陳可願を使者として倭に派遣し、宣諭させた。帰還して報告すると、倭は通貢と互市を望んでいるという。兵部が議して不可とし、そこで止めた。
三十九年、鳳陽巡撫唐順之が三市舶司の復活を建議した。部議はこれに従った。四十四年、浙江は巡撫劉畿の上言により、再び廃止した。福建は開かれまた禁じられた。萬曆年間、福建の互市を再開したが、硝黄の交易のみを禁じた。やがて両市舶司はすべて復活し、以前のように宦官が職務を管掌した。
永樂年間、馬市を三か所設置した。一つは開原南関で、海西女真を接待した。一つは開原城東五里、一つは広寧で、いずれも朶顔三衛を接待した。価格を四等に定めた。上等は絹八疋、布十二、次等はその半分、下二等はそれぞれ一等ずつ減じた。やがて城東・広寧の市は廃止され、開原南関の馬市のみが存続した。
大同の馬市は正統三年に始まり、巡撫盧睿が軍民に駝馬を平価で交易させるよう請願し、達官指揮李原らが通訳を務め、兵器・銅鉄の交易を禁じた。帝はこれを許可した。十四年、都御史沈固が山西行都司の庫銀を支出して馬を買うよう請願した。当時、也先が貢馬と互市を行っていたが、宦官王振がその馬価を削減したため、也先が大挙して侵入し、ついに土木の変を招いた。
成化十四年、陳鉞が遼東を巡撫し、三衛の馬市を再開した。通事の劉海・姚安が侵奪をほしいままにし、朶顔諸部は怨みを抱き、広寧を擾乱して、再び来市しなくなった。兵部尚書王越が参将・布政司官各一名に監視させ、侵奪克扣がないようにするよう請願した。そこで劉海・姚安の二人を処罰した。まもなく海西及び朶顔三衛の入市を許可し、開原では月一回、広寧では月二回の市とし、互市の税を撫賞に充てた。正徳年間、入市者の検証放行を命じ、期日に従って出境させ、弓矢を携帯せず、互市日でないときは勝手に塞垣に近づかないようにさせた。
嘉靖三十年、総兵仇鸞の上言により、詔して宣府・大同に馬市を開き、侍郎史道に総理させた。兵部員外郎楊継盛が諫めたが、聞き入れられなかった。俺答はすぐに侵入略奪し、大同で市が開かれると宣府を寇し、宣府で市が開かれると大同を寇した。幣帛がまだ出境しないうちに、警報が続いた。帝はようやく後悔し、史道を召還した。しかし諸部は馬市の利益を好み、公然と大挙することを言えず、辺臣も多くは畏懾し、互市をもって彼らを誘った。翌年、大同の馬市を廃止し、宣府はまだ絶たず、略奪が止まないので、ともに絶った。隆慶四年、俺答の孫把漢那吉が来降し、ここに封貢互市の議が起こった。そして宣府・大同の互市が再開され、辺境はやや静かになった。しかし撫賞は甚だ厚く、朝廷は客兵の兵糧・哨銀を減じてこれに充てた。頻年にわたり賞を加えたが、要求はますます甚だしく、司事者がまた中から着服し、辺費はかえって過当となった。
遼東義州の木市は、萬曆二十三年に開かれ、事柄は『李化龍伝』に詳しい。二十六年、巡撫張思忠の上奏により廃止し、ついで馬市もともに廃止した。その後、総兵李成梁が復活を強く請願し、薊遼総督萬世德も朝廷に上疏した。二十九年、馬・木の二市を再開し、以後これを常例とした。