明史

志第五十六 食貨四

煮海の利は、歴代皆官これを領す。太祖初めに起つや、即ち塩法を立て、局を置き官を設け、商人に販売せしめ、二十に一を取って、以て軍餉に資す。既にしてこれを倍徴し、胡深の言を用い、初制に復す。丙午の歳、始めて両淮塩官を置く。呉元年に両浙を置く。洪武初め、諸産塩地次第に官を設く。都転運塩使司六:両淮と曰い、両浙と曰い、長蘆と曰い、山東と曰い、福建と曰い、河東と曰う。塩課提挙司七:広東と曰い、海北と曰い、四川と曰い、雲南と曰う;雲南提挙司凡そ四、黒塩井と曰い、白塩井と曰い、安寧塩井と曰い、五井と曰う。又陝西霊州塩課司一。

両淮の管轄する分司三、泰州と曰い、淮安と曰い、通州と曰う;批験所二、儀真と曰い、淮安と曰う;塩場三十、各塩課司一。洪武の時、歳に大引塩三十五万二千余引を辦す。弘治の時、小引塩に改めて辦し、これを倍す。万暦の時同じ。塩は直隷の応天・寧国・太平・揚州・鳳陽・廬州・安慶・池州・淮安の九府、滁・和の二州、江西・湖広の二布政司、河南の河南・汝寧・南陽の三府及び陳州に行わる。正統の中、貴州もまた淮塩を食す。成化十八年、湖広衡州・永州は海北塩を行わることを改む。正徳二年、江西贛州・南安・吉安は広東塩を行わることを改む。辺に輸する所は、甘粛・延綏・寧夏・宣府・大同・遼東・固原・山西神池諸堡なり。上供は光禄寺・神宮監・内官監なり。歳に入る太倉余塩銀六十万両。

両浙の管轄する分司四、嘉興と曰い、松江と曰い、寧・紹と曰い、温・台と曰う;批験所四、杭州と曰い、紹興と曰い、嘉興と曰い、温州と曰う;塩場三十五、各塩課司一。洪武の時、歳に大引塩二十二万四百余引を辦す。弘治の時、小引塩に改めて辦し、これを倍す。万暦の時同じ。塩は浙江、直隷の松江・蘇州・常州・鎮江・徽州の五府及び広徳州、江西の広信府に行わる。辺に輸する所は、甘粛・延綏・寧夏・固原・山西神池諸堡なり。歳に入る太倉余塩銀十四万両。

明初め、北平河間塩運司を置き、後に河間長蘆と称す。管轄する分司二、滄州と曰い、青州と曰う;批験所二、長蘆と曰い、小直沽と曰う;塩場二十四、各塩課司一。洪武の時、歳に大引塩六万三千一百余引を辦す。弘治の時、小引塩十八万八百余引に改めて辦す。万暦の時同じ。塩は北直隷、河南の彰徳・衛輝の二府に行わる。辺に輸する所は、宣府・大同・薊州なり。上供は郊廟百神の祭祀・内府の羞膳及び百官有司に給す。歳に入る太倉余塩銀十二万両。

山東の管轄する分司二、膠萊と曰い、濱楽と曰う;批験所一、濼口と曰う;塩場十九、各塩課司一。洪武の時、歳に大引塩十四万三千三百余引を辦す。弘治の時、小引塩に改めて辦し、これを倍す。万暦の時、九万六千一百余引。塩は山東、直隷徐・邳・宿の三州、河南開封府に行わる。後開封は河東塩を食することを改む。辺に輸する所は、遼東及び山西神池諸堡なり。歳に入る太倉余塩銀五万両。

福建の管轄する塩場七、各塩課司一。洪武の時、歳に大引塩十万四千五百余引を辦す。弘治の時、七百余引を増す。万暦の時、千引を減ず。その引を依山と曰い、附海と曰う。依山は折色を納む。附海は本色を行わる。神宗の時もまた折色に改む。塩は境内に行わる。歳に入る太倉銀二万二千余両。

河東の管轄する解塩、初め安邑に東場分司を設く。成祖の時、解州に西場を増設し、尋いで復た東に併す。正統六年復た西場分司を置く。弘治二年中場分司を増置す。洪武の時、歳に小引塩三十万四千引を辦す。弘治の時、万引を増入す。万暦の中、又二十万引を増す。塩は陝西の西安・漢中・延安・鳳翔の四府、河南の帰徳・懐慶・河南・汝寧・南陽の五府及び汝州、山西の平陽・潞安の二府、沢・沁・遼の三州に行わる。地に両見する者有れば、塩兼ねて行わることを得。隆慶の中、延安は霊州池塩を食することを改む。崇禎の中、鳳翔・漢中の二府もまた霊州塩を食することを改む。歳に入る太倉銀四千余両、宣府鎮及び大同代府の祿糧に給し、山西民糧銀を抵補し、共に十九万両有奇。

陝西霊州に大小の塩池有り、又漳県塩井・西和塩井有り。洪武の時、歳に塩を辦し、西和十三万一千五百斤有奇、漳県五十一万五千六百斤有奇、霊州二百八十六万七千四百斤有奇。弘治の時同じ。万暦の時、三処共に千二百五十三万七千六百余斤を辦す。塩は陝西の鞏昌・臨洮の二府及び河州に行わる。歳に寧夏・延綏・固原の餉銀三万六千余両を解す。

広東の管轄する塩場十四、海北の管轄する塩場十五、各塩課司一。洪武の時、歳に大引塩を辦し、広東四万六千八百余引、海北二万七千余引。弘治の時、広東は旧の如く、海北一万九千四百余引。万暦の時、広東小引生塩三万二百余引、小引熟塩三万四千六百余引;海北小引正耗塩一万二千四百余引。塩に生有り熟有り、熟は貴く生は賤し。広東塩は広州・肇慶・惠州・韶州・南雄・潮州の六府に行わる。海北塩は広東の雷州・高州・廉州・瓊州の四府、湖広の桂陽・郴の二州、広西の桂林・柳州・梧州・潯州・慶遠・南寧・平楽・太平・思明・鎮安の十府、田・龍・泗城・奉議・利の五州に行わる。歳に入る太倉塩課銀一万一千余両。

四川塩井は塩課司十七を管轄す。洪武の時、歳に塩一千十二万七千余斤を辦す。弘治の時、二千十七万六千余斤を辦す。万暦の中、九百八十六万一千余斤。塩は四川の成都・敘州・順慶・保寧・夔州の五府、潼川・嘉定・広安・雅・広元の五州県に行わる。歳に陝西鎮塩課銀七万一千余両を解す。

雲南黒塩井は塩課司三を管轄し、白塩井・安寧塩井は各塩課司一を管轄し、五井は塩課司七を管轄す。洪武の時、歳に大引塩一万七千八百余引を辦す。弘治の時、各井多寡一ならず。万暦の時は洪武と同じ。塩は境内に行わる。歳に入る太倉塩課銀三万五千余両。

成祖の時、嘗て交阯提挙司を設く。其の後交阯失い、乃ち罷む。遼東塩場は官を設けず、軍余煎辦し、商を召して粟を易え、以て軍に給す。凡そ大引四百斤、小引二百斤。

塩の産出は地方により異なり、解州の塩は風水の結ぶ所、寧夏の塩は地を刮ぎて得、淮・浙の塩は波を熬り、川・滇の塩は井を汲み、閩・粵の塩は鹵を積み、淮南の塩は煎じ、淮北の塩は晒し、山東の塩は煎ずるものと晒すものとあり、これがおおよその違いである。

明朝の塩法は、開中に優るものはない。洪武三年、山西行省が言うには、「大同の糧儲は、陵県より太和嶺まで運ぶに路遠く費煩わしい。商人に大同倉に米一石、太原倉に米一石三斗を納めさせ、淮塩一小引を与えることを請う。商人が売り終えたら、直ちに原給の引目を以て所在の官司に赴きこれを納めさせよ。かくすれば転運の費は省かれ辺儲は充実する。」帝はこれに従った。商を召して糧を輸納させ塩を与えることを、開中と謂う。その後各行省の辺境は、多く商を召して塩を中納させ軍儲とした。塩法と辺計は、相輔いで行われた。

四年に中塩の例を定め、臨濠・開封・陳橋・襄陽・安陸・荊州・帰州・大同・太原・孟津・北平・河南府・陳州・北通州の諸倉に米を輸納し、道里の近遠を計り、五石より一石まで差等あり。先後増減し、則例一ならず、おおよそ時の緩急、米価の高下、中納者の利否を視る。道遠く地険なれば、則ち減じて軽くす。勘合及び底簿を編置し、各布政司及び都司・衛所に発す。商は糧を納め終わり、納めた糧及び応に支給すべき塩の数を書き、各転運提挙司に齎して赴き数に照らして塩を支給す。転運諸司も亦た底簿を以て比照し、勘合相符すれば、則ち数に如く給与す。塩を売るには定まった所あり、諸を銅版に刊し、私塩を犯す者は死罪に至り、引を偽造する者もまた同じく、塩と引と離るれば、即ち私塩を以て論ず。

成祖即位し、北京諸衛の糧乏しきを以て、天下の中塩を悉く停め、専ら京衛に開中す。惟だ雲南金歯衛・楚雄府、四川塩井衛、陝西甘州衛は、開中を旧の如くす。数年を経ずして、京衛の糧米充羨すれども、大軍安南を征するに多く費し、甘粛の軍糧敷かず、百姓転運に疲る。迨うに安南新たに附し、餉益ますます継ぎ難く、ここに於て諸所復た商を召して塩を中納せしめ、他の辺地も復た次第に及ぶ。

仁宗立ち、鈔法通ぜざるを以て、これを斂むるの道を議す。戸部尚書夏原吉、鈔有るの家に塩を中納せしむることを請う。ここに於て各塩司の中塩則例を定め、滄州は引三百貫、河東・山東はその半、福建・広東は百貫。宣徳元年、中鈔の例を停む。三年、原吉、北京の官吏・軍・匠の糧餉支えざるを以て、予備の策を条上し、言うには、「中塩の旧則重きに過ぎ、商賈少なきに至る。請うらくは更にこれを定めよ。」ここに於て毎引二斗五升より一斗五升まで差等ありと定め、商を召して北京に米を納めしむ。戸部尚書郭敦言うには、「中塩則例既に減ずれども、商来る者少なし。請うらくは十分を率とし、六分は米を京倉に納むる者に支給し、四分は遼東・永平・山海・甘粛・大同・宣府・万全に既に米を納めたる者に支給せよ。他の処の中納は悉くこれを停めよ。」また言うには、「洪武中、中塩の客商年久しく物故し、代わりに支給する者多く虚冒す。請うらくは引に按じて鈔十錠を与えよ。」帝は皆これに従い、而してその鈔を倍給することを命ず。甘粛・寧夏・大同・宣府・独石・永平は道険遠く、中に趨く者少なく、寓居の官員及び軍余の糧有るの家に米豆を納めしめて塩を中納することを許す。

正統三年、寧夏総兵官史昭、辺軍馬を缺くを以て、而して延慶・平涼の官吏軍民多く馬を養う。ここに於て馬を納めて塩を中納することを奏請す。上馬一匹に塩百引を与え、次馬は八十引。既にして辺諸衛は遞増して二十引。その後河州に中納する者は、上馬二十五引、中は五引を減ず。松潘に中納する者は、上馬三十五引、中は五引を減ず。久しくして、復た初めの制の如し。中馬の始めは、馬を験して乃ち塩を掣く。既にして銀を官に納めて以て馬を市す。銀は布政司に入り、宗祿・屯糧・修辺・振済に輾転支銷し、銀尽きて馬至らず、而して辺儲も亦たここよりより匱乏を告ぐ。ここに於て商を召して淮・浙・長廬の塩を中納してこれを納めしめ、甘粛に塩を中納する者に令して、淮塩十の七、浙塩十の三とす。淮塩は惟だ米麦を納め、浙塩は豌豆・青稞を兼ねて収む。淮塩の直貴きに因り、商多くこれに趨く。故に淮・浙を兼ねて中納せしむ。

明初は仍て宋・元の旧制に従い、竈戸を優恤する所以甚だ厚く、草場を与えて樵採を供し、耕すに堪うる者は開墾を許し、仍てその雑役を免じ、又工本米を与え、引一石。場に倉を置き、歳に附近の州県倉儲及び兌軍の余米を撥して以て給するを待ち、兼ねて銭鈔を支給し、米価を以て準とす。尋いで鈔数を定め、淮・浙は引二貫五百文、河間・広東・海北・山東・福建・四川は引二貫。竈戸雑犯死罪以上は止めて杖を与え、日を計りて塩を煎じて以て贖う。後に総催を設け、多く竈戸を朘削す。正統時に至り、竈戸貧困し、逋逃する者多く、松江所の負う課六十余万。民朝に訴う。直隷巡撫周忱に命じて兼ねて塩課を理せしむ。忱は鉄釜を鋳る・鹵丁を恤む・総催を選ぶ・私販を厳にするの四事を条上し、且つ請うらくは毎年の正課の外に、逋課を帯徴せよと。帝その請いに従う。逋課を分けて六とし、以て六載を以て畢徴せしむ。

当是の時、商人に永楽中より塩の支給を候い、祖孫相代わりて得ざる者有り。ここに於て洪武中の例に倣い、而して鈔錠を加えて以てこれを償うことを議し、支給を守ることを願う者は聴す。又商人の支給を守ること年久しく、開中を軽減すと雖も、上納する者少なきを以て、他の塩司は旧制の如くし、而して淮・浙・長蘆は十分を率とし、八分は支給を守る商に給し、常股と曰い、二分は官に収貯し、存積と曰う。辺警に遇いて、始めて商を召して中納せしむ。常股・存積の名ここより始まる。凡そ常股を中納する者は価軽く、存積を中納する者は価重し。然れども人甚だ支給を守るを苦しみ、争って存積に趨き、而して常股は壅る。景帝の時、辺圉多く故有り、存積六分に増す。辺糧を中納し、穀草・秋青草を兼ねて納め、秋青草三は穀草二に当つ。

広東の塩は、例として出境せず、商人は率い関吏を市い、広西に越市す。巡撫葉盛、これを任せば則ち法を廃し、これを禁めば則ち商を病むと以為い、請うらくは米を入れて辺に餉えしむるを以て、乃ち出境を許せば、公私交わりて利すと。成化初め、歳災を洊え、京儲足らず、商を召して淮・徐・德州の水次倉に塩を中納せしむ。

旧例として中塩は、戸部が榜を出して商人を召し、直接奏請する者はなかった。富人呂銘らが権勢に依託して奏請し、両淮の存積塩を中納し、中旨がこれを許した。戸部尚書馬昂が正しく執ることができず、塩法の壊れるはここより始まる。勢豪多く中納に加わり、商人は既に利を失い、江南・江北の軍民は遮洋大船を造り、武器を列ねて塩を販売した。ここにおいて重法を為し、私販・窩隠ともに死罪と論じ、家屬は辺衛に徒し、夾帯して越境する者は充軍とした。しかし止めることができなかった。十九年、存積の数を頗る減じ、常股七分、存積三分とした。しかし商人は現塩を喜び、存積に報中する者が争いて至り、遂に仍六分に増す。淮・浙の塩猶給することができず、乃ち長蘆・山東を配支してこれに給す。一人数箇所を兼ね支え、道遠く親しく赴くに及ばず、辺商は輒ち近地の富人に引を売る。ここより辺商・内商の分有り。内商の塩速かに獲ること能わず、辺商の引また賤く売らず、報中は漸く怠り、存積の滞り遂に常股と等しくなる。憲宗の末年、閹宦勢を窃にし、淮・浙の塩を奏討すること算無く、両淮の積欠五百餘萬引に至り、商引壅滞す。

孝宗の時に至り、買補餘塩の議興る。餘塩とは、竈戸の正課外に餘れる塩なり。

洪武の初制、商の塩を支うるに定場有り、越場して買補するを許さず。勤竈に餘塩有れば場司に送り、二百斤を一引と為し、米一石を給す。その塩は商を召して開中し、資次に拘わらず給与す。成化の後、商に収買せしめ、米麥を勸借して貧竈を振る。ここに至り両淮の塩法を清理し、侍郎李嗣は商人に餘塩を買わしめて官引を補い、その勸借を免じ、且つ各辺の開中を停め、逋課の完むる日を俟ち、官をして塩を売らしめ、三分の価直、二を辺儲に充て、一を留めて商人の未だ交えざる塩価を補わんことを請う。ここより餘塩を以て正課を補充し、塩法一小変す。

明初、各辺開中の商人は、民を招き墾種せしめ、臺堡を築き自ら保聚し、辺方の菽粟甚だ貴き時無し。成化の間、始めて折納銀する者有り、然れども未だ令と為すに著さず。弘治五年、商人守支に困し、戸部尚書葉淇は商を召して運司に銀を納めしめ、類して太倉に解き、各辺に分給するを請う。毎引銀三四錢を輸すること差有り、国初の中米直に比し倍し、商に守支の苦無く、一時太倉の銀累ねて百餘萬に至る。然れども辺に赴き開中するの法廃れ、商屯撤業し、菽粟翔貴し、辺儲日々虚し。

武宗の初め、塩法日々壊るるを以て、大臣王瓊・張憲等をして分道して清理せしめ、慶雲侯周壽・壽甯侯張鶴各家人をして長蘆・両淮の塩引を奏買せしむ。戸部尚書韓文執して不可とす、中旨これを許す。織造太監崔杲また長蘆塩一萬二千引を乞うことを奏し、戸部半ばこれを予く。帝全く予えんと欲す、大学士劉健等力争し、李東陽の語尤切なり。帝悦ばず。健等復疏して争い、乃ち部議に従う。権要開中既に多く、又餘塩を買うを許し、一引十餘年を用いる者有り。正徳二年始めて旧引角を截つの令を申し、限を立てて追繳し、毎引紙価及び振済米麥を増納す。引価重くして課壅るること旧の如し。

先に成化の初め、都御史韓雍は肇慶・梧州・清遠・南雄に抽塩廠を立て、官塩一引に銀五分を抽き、餘塩四引を帯するを許し、引に銀一錢を抽く。都御史秦紘は餘塩六引を増帯するを許し、銀六錢を抽く。ここに至り九錢に増し、官引を抽かず。引目積滞し、私塩通行す、乃ち戸部郎中丁致祥の請を用い、紘の旧法に復す。而他処の商人餘塩を夾帯し、掣割して価を納め、三百斤に多きに至る者のみこれを罪す。

淮・浙・長蘆の引塩は、常股四分を以て各辺の主兵及び工役振済の需に給し、存積六分は国家の大事に非ず、辺境警有らざれば未だ妄りに開かず。開くには必ず辺臣の奏討を経、部の覆允を経、商人の擅請及び専ら淮塩を請う者有らず。弘治の間、存積塩甚だ多し。正徳の時、権幸遂に残塩を開くことを奏し、存積・常股を改めて皆正課と為し、且つ皆銀に折す。辺臣緩急に備無く、勢要中を占め窩を売り、価数倍に増す。商人引に銀八錢を納め、獲る利無く、多く中するを願わず、課日々耗絀す。奸黠なる者夾帯影射し、弊端百出。塩臣中璫の風旨を承け、復た零塩・所塩諸目を列ねて以てこれに仮す。世宗登極の詔、首に裁革を命ず。未だ幾ばくもせず、商人逯俊等近幸に夤縁し、増価を名として、残餘等の塩を奏買す。戸部尚書秦金執して允さず、帝特に両淮の額塩三十萬引を宣府に中するを令す。金言す、「奸人淮塩を占中し、窩を売り利を罔し、山東・長蘆等の塩別に搭配無く、積むも用無し。国用を虧き、辺儲を誤る、此れより甚しきは莫し」。御史高世魁もまたこれを争う。詔して淮引十万を減じ、両浙・長蘆の塩を分けてこれに給す。金復た言す、「宣・大倶に重鎮、宜しく奸商をして自ら便利を択ばしむべからず、但だ宣府に中せしむべし」。帝これを可す。已にして俊等十六人をして宣府に中し、十一人をして大同に中せんことを請い、竟にその請に従う。

嘉靖五年給事中管律の奏に従い、乃ち常股存積四六分の制に復す。然れども是の時餘塩盛行し、正塩守支日久しく、願って中する者少なく、餘塩第に勘合を領すれば即時に支売し、願って中する者多し。弘治の時餘塩を以て正課を補い、初め逋課を償い、後商人に価を納めしめて部に輸し辺を済す。嘉靖の時に至り、延綏兵を用い、遼左餉を缺き、尽く両淮の餘塩七萬九千餘引を二辺に発して開中す。ここより餘塩行わる。その始め未だ定額無く、未だ幾ばくもせず、両淮引一百四十餘萬を増し、毎引餘塩二百六十五斤を増す。引価は、淮南銀一兩九錢を納め、淮北一兩五錢、又処置・科罰の名色を設け、以て商財を苛斂す。ここにおいて正塩未だ派せず、先ず餘塩を估し、商竈倶に困す。奸黠なる者官の餘塩を買うを藉口し、私煎を夾販す。法禁施す所無く、塩法大いに壊る。

十三年、給事中管懷理が言うには、「塩法の壊れたるは、その弊六つあり。開中(塩引交付)の時を定めず、米価騰貴し、召糴(米穀買い上げ)の難きなり。勢豪大家、利権を専擅し、報中(塩引申告)の難きなり。官司科罰し、吏胥侵索し、輸納の難きなり。下場(塩場)に挨掣(順番待ち)し、動もすれば数年を以てし、守支(塩引支給待ち)の難きなり。定価太だ昂く、息本を償わず、贏を取るの難きなり。私塩四出し、官塩行わず、市易の難きなり。この六難ありて、正課(正規の塩税)壅塞す。而して司計者(財政担当官)因りて余塩を設けて以てこれを佐く。余塩利厚く、商固より楽従う。然れども開辺(辺境の軍需調達)に以てせずして解部(戸部への納銀)に以てす。歳入巨万たりと雖も、軍需に益なし。嘗て祖宗の時を考うるに、商人中塩(塩引取得)して納価甚だ軽く、而して灶戸(製塩業者)煎塩の工本甚だ厚し。今塩価十倍於前、而して工本十一に能わず。何を以てか私塩を禁じて使わしめ行わざらしめんや。故に塩法を通ぜんと欲すれば、必ず先ず余塩を処し、余塩を処せんと欲すれば、必ず多く正価を減ずべし。大抵正塩賤ければ、則ち私販自ずから息む。今宜しく価を定め、毎引正塩銀五錢、余塩二錢五分とし、必ずしも太倉に解赴せず、俱に開中関支(辺境納入による塩引支給)を令し、余塩は尽く収むるを度とすべし。正塩価軽ければ、既に商に利あり、余塩収め尽くせば、又た灶に利あり。未だ商灶俱に利ありて、国課充たざるはあらざるなり」と。事下所司す。戸部覆し、以て余塩銀は仍り旧の如く部に解すべしと為し、而して辺餉益々虚し。二十年に至り、帝、塩法変乱するは余塩に由るとし、勅してこれを罷む。淮・浙・長蘆悉く旧法に復し、夾帯する者は割没して官に入れ、応に変売すべき者は時估を以て準とす。御史呉瓊又た各辺中塩する者は皆本色を輸すべしと請う。然れども令甫だ下るや、吏部尚書許讚即ち余塩を復開して以て辺用を足すべしと請う。戸部覆してこれに従う。余塩復た行わる。

先に、十六年、両浙の僻邑、官商行わざるの処に、山商(内陸商人)毎百斤銀八分を納め、票を給して塩を行わしむ。其の後多く正引を侵奪し、官商課欠け、引壅塞すること二百万、候掣(順番待ち)必ず五六載。ここに於いて預徴・執抵・季掣の法あり。預徴とは、先期に課を輸し、私に去留を為すを得ざるなり。執抵とは、現在の運塩水程を執り、復た一引を以て一引に抵うなり。季掣とは、則ち納課の先後を以て序とし、春は夏に遅るるを得ず、夏は春を超ゆるを得ざるなり。然れども票商納税すれば即ち掣売し、預徴諸法徒らに引商を厲するのみ。霊州塩池は、史昭中馬の議行わるるより、辺餉虧缺し、甘肅米直石銀五両、戸部因りて中馬を停め、商を召して米を納めしめ中塩せしむるを奏す。

二十七年、開中する者は止めて本色糧草を納むるを令す。三十二年、河東は六十二万引を以て額とし、正余塩を合して一と為し、而して余塩の名を革む。時に都御史王紳・御史黄国用議う、両淮灶戸余塩は、毎引官銀二錢を給し、以て工本に充て、三十五万引を增收し、名づけて工本塩と為す。商人に令し額塩二引を中し、工本塩一引を帯びて中せしめ、主兵年例十七万六千両有奇に抵あてしむ。其の請に従う。

初め、淮塩歳課七十万五千引、開辺報中を正塩と為し、後余塩を益し銀を納めて部に解す。ここに至り前額を通じ凡そ一百五万引、額三分の一を増す。之を数年行うも、積滞して售る所無く、塩法壅塞して行わず。言事者屡々工本塩を塩の贅疣と陳ず。戸部は国用方に絀しく、年例出す所無きを以て、因りて変ぜず。江西故に淮塩三十九万引を行い、後南安・贛州・吉安は広塩を行い改め、惟だ南昌諸府は淮塩二十七万引を行う。既にして私販盛行し、袁州・臨江・瑞州は則ち広塩を私食し、撫州・建昌は福塩を私食す。ここに於いて淮塩僅かに十六万引を行く。数年之間、国計大いに絀す。巡撫馬森其の害を疏し、峽江県に橋を建て関を設け、閩・広の要津を扼し、尽く淮塩額を復し、稍々四十七万引に増さるるを請う。未だ久しからずして橋毀ち、増額二十万引復た除かる。

三十九年、帝塩法を整えんと欲し、乃ち副都御史鄢懋卿を命じ淮・浙・山東・長蘆塩法を総理せしむ。懋卿は厳嵩の党なり、苞苴虚日無し。両淮額塩銀六十一万有奇、工本塩を設くるより、九十万を増し、懋卿復た之を増し、遂に百万に満つ。半年一解す。又た四司の残塩を蒐括し、共に銀幾二百万を得、一時奇功と詡る。乃ち克限法を立て、毎卒一人、季限私塩を獲ること定数あり、数に及ばざれば、輒ち其の僱役錢を削る。邏卒経歳一錢を支うるを得ざる者有り、乃ち共に私販を為し、以て大利をねらい、甚だしきに至りては估舶を劫い、塩盗を以て誣え之を執る。流毒海濱に遍し。嵩失勢し、巡塩御史徐爌言う、「両淮塩法に、常股・存積・水鄉と曰い、共に七十万引有奇。引二百斤、銀八分を納む。永楽以後、引粟二斗五升を納め、下場関支し、四散発売す。商人の利亦什五焉。近年、正塩の外に、余塩を以て加え、余塩の外に、又た工本を加え、工本足らざれば、乃ち添単有り、添単足らざれば、又た添引を加う。懋卿目前の利に趨り、其の後を顧みず、是れ国を誤り政を乱すの尤者なり。方今災荒疊告し、塩場淹沒す。若し百万を取らんと欲せば、必ず逃亡に至らん。弦急にして絶えんと欲するは、此れにはなはだしからずや」と。ここに於いて悉く懋卿の増したる所を罷む。

四十四年、巡塩御史硃炳如両淮工本塩を罷むるを奏す。葉淇変法より、辺儲多く缺く。嘉靖八年以後、稍々開中を復し、辺商中引し、内商守支す。末年、工本塩行わるるに及び、内商数年掣するを得ざる者有り、ここに於いて引を買うを楽しまず、而して辺商困し、因りて告掣河塩を営求す。河塩とは、廩囷に上らず、河に在りて逕自に超掣し、支え易くして利獲ること捷かなり。河塩行わるれば、則ち守支存積する者愈久しく、而して内商亦困し、引価弥賤し。ここに於いて奸人専ら辺引を収買するを事とし、名づけて囤戸と曰い、告掣河塩し、坐して厚利を規す。時に復た正塩の外に余塩を附帯し、以て工本の数に抵あてんことを議す。囤戸因りて余塩を賤売し而して之を貴售するを得、辺商と内商愈困す。隆慶二年、屯塩都御史龐尚鵬疏して言う、「辺商報中し、内商守支するは、事本相須つ。但だ内商安坐し、辺商遠輸し、労逸均しからず、故に河塩を掣するは以て辺商を恵むなり。然れども河塩既に行わるれば、淮塩必ず滞り、内商利を得る所無ければ、則ち辺商の引售れず。今宜しく河塩の掣を停め、但だ辺商引価を別ち、自ら見引及び起紙関引より司勘合に至るまで、別けて三等と為し、銀若干を定むべし。辺商倉鈔已に到れば、内商留難すべからず。蓋し河塩停まれば則ち淮塩速に行わり、引価定まれば則ち開中自ずから多く、辺商内商各其の願を得ん」と。帝これに従う。四年、御史李学詩官買余塩を罷むるを議す。報可す。

是の時広西古田平ぐ。巡撫都御史殷正茂官資本を出し広東塩を買い、桂林に至り発売するを請う。七万余包にして利二万二千有奇を得べしと。これに従う。

嘉靖の初めより、常股四分、存積六分の制を復した。後に各辺境に多事あり、常股・存積ともに開かれ、淮の額は歳課七十万五千余引、また各辺境の新引を歳二十万増やした。万暦の時、大工のため遠年の違没廃引六十余万を捜し、すべて課額の外に出し、正塩なく、ただ商人に余塩を買い補わせた。余塩は久しく尽き、ただ引に計り重く課し、加えて煎じ飛派するのみであった。時に両淮の引価余銀は百二十余万より百四十五万に増え、新引は日に日に増し、正引は日に日に滞った。千戸尹英は没官塩を配売すれば銀六万両を得られると請うた。大学士張位らが争った。二十六年、鴻臚寺主簿田応璧の奏により、中官魯保に両淮の没官余塩を売らせることを命じた。給事中包見捷は利害を極めて陳じた。聞き入れられず。保は既に視事し、遂に存積塩を開くことを議した。戸部尚書楊俊民は言う、「明旨は没官塩を核するもので、存積は没官にあらず。額外に加増すれば、必ず正課を損なう。保の奏は従うべからず」。御史馬従騁もまた争った。ともに聞き入れられず。保は乃ち存積八万引を開き、引は五百七十斤を重くし、次を越えて超掣し、正塩を行わず圧した。商民大いに擾り、奸人蜂起す。董璉・呉応麒らは塩利を争って言う。山西・福建の諸税監は皆塩課を領した。百戸高時夏は浙・閩の余塩は歳に三十万両に変価できると奏し、巡撫金学会は勘奏して皆虚偽であった。疏が入っても省みられず。ここにおいて福建は銀一万三千両余を解し、浙江は三万七千両余を解し、名を借りて苛斂し、商は困り引は滞った。戸部尚書趙世卿はその害は保に由ると指し、因って言う、「額外に一分多く取れば、則ち正課は一分少なく、国計は愈々絀す。請う、無名の浮課を悉く罷めん」。報いず。三十四年夏より明年の春まで、正額は百余万を逋り、保もまた惶懼し、存積引塩を罷めることを請うた。保は尋いで死す。旨ありてこれを罷め、而して引斤は減ずることができなかった。

李太后薨じ、帝は遺誥を用いて各運司の浮課を蠲し、商困は稍々蘇るも、旧引は滞った。戸部は塩法十議を上し、正に行うは見引、附けて積引を銷し、以てこれを疏通す。巡塩御史龍遇奇は塩政綱法を立て、旧引を附けて見引に行わしめ、淮南は十綱に編し、淮北は十四綱に編し、十余年を計れば、則ち旧引は尽く行わる。これに従う。天啓の時、利を言う者は恣に蒐括し、務めて引を増やし超掣す。魏忠賢の党郭興治・崔呈秀らは、巧みに名目を立ててこれを取り、入る所算無し。論者はこれを絶流して漁るに比す。崇禎の中、給事中黄承昊は塩政を条上し、頗る釐革せんと欲す。是の時兵餉まさに大いに絀し、行うこと能わず。

初め、諸王府は則ち近地に就き塩を支え、官民戸口の食塩は皆口を計りて鈔を納め、自ら関支す。而して官吏の食塩は多く口数を冒して増し、一官二千余斤を支え、一吏五百余斤を支うる者あり。乃ち吏典は十口を過ぎず、文武官は三十口を過ぎざるを限る。大口は鈔十二貫で塩十二斤を支え、小口はその半ば。景泰三年に始めて塩を以て官吏の俸糧に折給し、百四十斤を以て米一石に当てる。京官は歳に吏を遣わし場に下り、恣に奸利を為す。錦衣吏は益々暴なり、率い巨艦を聯ね私販し、有司詰むること能わず。巡塩御史は乃ち百司の食塩数を定め、攟束して吏に給し、場に下るを禁ず。鈔を納め、輓を僦うも、費出す所なく、吏多く亡ぶ。嘉靖の中、吏部郎中陸光祖は尚書厳訥に言い、疏を上りてこれを革さんことを請う。此れより後、百司は食塩の支給を停め、惟だ戸部及び十三道御史のみ歳支は旧の如し。軍民口を計りて鈔を納むる者は、浙江は月に米三升を納め、塩一斤を売り、而して商賈は塩を持ち官に赴き、官はこれを斂散し、追徴の急は租賦に過ぐ。正統の時、給事中鮑輝の言に従い、民に自ら商より食塩を買わしめ、納米の令を罷め、且つ十斤以下を売る者は私塩を論ぜず、而して塩鈔は除かず。後に一条鞭法行わる、遂に正賦に編入す。

巡塩の官は、洪武・永楽の時、嘗て一再御史を命じて塩課を視せしむ。正統元年に始めて侍郎何文淵・王佐、副都御史朱与言を命じて両淮・長蘆・両浙の塩課を提督せしめ、中官・御史を命じて同往せしむ。未だ幾ばくもせず、塩法已に清しとし、勅を下して召還す。後に遂に御史に鹺を視せしめ、巡按の例に依り、歳に更代して以て常と為す。十一年に山東の諸塩場を長蘆巡塩御史に隷せしむ。十四年に副都御史耿九疇を命じて両淮塩法を清理せしむ。成化の中、特遣中官王允中・僉都御史高明を遣わし両淮塩法を整治せしむ。明は副使一人、判官二人の増設を請う。孝宗の初め、塩法壊れ、戸部尚書李敏は風憲大臣を簡し清理せんことを請い、乃ち戸部侍郎李嗣を両淮に、刑部侍郎彭韶を両浙に命じ、ともに都御史を兼ね、勅を賜い遣わす。弘治十四年、僉都御史王璟は両淮塩法を督理す。正徳二年、両淮には則ち僉都御史王瓊、閩・浙には則ち僉都御史張憲。後には惟だ両淮の賦重く、時に大臣を遣わす。十年には則ち刑部侍郎藍章。嘉靖七年には則ち副都御史黄臣。三十二年には則ち副都御史王紳。三十九年に至り、特に副都御史鄢懋卿を命じて四運司を総理せしめ、事権尤も重し。隆慶二年、副都御史龐尚鵬が両淮・長蘆・山東の三運司を総理して後、遂に特遣大臣の事無し。

番人は乳酪を嗜み、茶を得ざれば、則ち病を以て困す。故に唐・宋以来、茶を以て馬を易うる法を行い、以て羌・戎を制し、而して明の制は尤も密なり。官茶あり、商茶あり、皆辺境に貯えて馬を易う。官茶は間々課鈔を徴し、商茶は課を輸すること略々塩制の如し。

初め、太祖は商人に産茶地に於いて茶を買わしめ、銭を納めて引を請わしむ。引は茶百斤、銭二百を輸す。引に及ばざるを畸零と曰い、別に由帖を置きてこれを給す。由・引無く及び茶引相離るる者は、人告げ捕うるを得。茶局批験所を置き、茶引を称較して相応せざれば、即ち私茶と為す。凡そ私茶を犯す者は、私塩と罪を同じくす。私茶出境するは、関隘譏らざる者とともに、死を論ず。後に又た茶引一道は銭千を輸し、茶百斤を照す。茶由一道は銭六百を輸し、茶六十斤を照す。既にして、又た鈔を納めしむることを令し、毎引由一道に鈔一貫を納む。

洪武の初め、令を定む:凡そ茶を売る地は、宣課司に三十取一せしむ。四年、戸部言う、「陝西漢中・金州・石泉・漢陰・平利・西郷諸県、茶園四十五頃、茶八十六万余株。四川巴茶三百十五戸、茶二百三十八万余株。宜しく令を定め毎十株官その一を取るべし。主無き茶園は、軍士に薅採せしめ、十にその八を取り、以て番馬を易うべし」。これに従う。ここにおいて諸産茶地に茶課司を設け、税額を定む、陝西二万六千斤余、四川百万斤。茶馬司を秦・洮・河・雅諸州に設け、碉門・黎・雅より朵甘・烏思蔵に抵るまで、茶を行う地五千余里。山後帰徳諸州、西方諸部落、馬を売らざる無し。

碉門・永寧・筠・連の産する茶は、剪刀粗葉と称し、ただ西番のみが用い、商販は未だ境外に出ず。四川茶塩都転運使が言うには、「宜しく別に茶局を立て、その税を徴し、紅纓・氈衫・米・布・椒・蠟を易えて国用に資すべし。而して居民の収むる所の茶は、江南の引を給して販売する法に依り、公私両便なり」と。ここにおいて永寧・成都・筠・連に皆茶局を設く。

川人は故に茶をもって毛布・毛纓諸物を易え、以て茶課を償う。課額を定め、倉を立てて収貯し、専ら馬を市うに用いるより、民は敢えて私に採らず、課額毎に虧き、民多く賠納す。四川布政司以て言う、乃ち民に採摘を聴し、番と貨を易えしむ。又詔して天全六番司の民は、その徭役を免じ、専ら烏茶を蒸して馬を易えしむ。

初めの制、長河西等の番商は馬を以て雅州に入り茶を易うるに、四川厳州衛より黎州に入りて始めて達す。茶馬司価を定め、馬一匹に茶千八百斤、碉門茶課司に於いて之を与う。番商往復迂遠にして、而して与える茶多く。厳州衛以て言う、請う茶馬司を厳州に置き、而して碉門の茶を其の地に改めて貯え、且つ馬の高下を験して以て茶数を為さんと。詔して茶馬司は仍く旧の如く、而して上馬一匹に茶百二十斤、中馬七十斤、駒五十斤を与うるを定む。

三十年、秦州茶馬司を西寧に改設し、右軍都督ととくに勅して曰く、「近く私茶出境し、互市する者少なく、馬日々に貴くして茶日々に賤し、番人の玩侮の心を啓く。秦・しょくの二府に檄し、都司官軍を発して松潘・碉門・黎・雅・河州・臨洮及び西番関口外に入り、私茶の出境する者を巡禁せしめよ」と。又駙馬都尉謝達を遣わし蜀王椿に諭して曰く、「国家茶を榷むは、本馬を易えるに資す。辺吏譏を失い、私販出境し、ただ紅纓雑物を易うるのみ。番人をして坐して其の利を収めしめ、而して中国に入る馬少なし、豈に戎狄を制する所以ならんや!爾其れ布政司・都司に諭し、厳に防禁を為し、利を失うに致すことなかれ」と。

是の時に当たり、帝辺防を綢繆し、茶を用いて馬を易え、番人の心を固め、且つ以て中国を強くす。嘗て戸部尚書鬱新に謂いて曰く、「陝西漢中の茶三百万斤を用いれば、馬三万匹を得べく、四川松・茂の茶も之が如し。販鬻の禁、厳にせざるべからず」と。故を以て僉都御史鄧文鏗等を遣わし川・陝の私茶を察せしめ、駙馬都尉歐陽倫は私茶を以て死に坐す。又金牌信符を制し、曹国公李景隆を命じて番中に齎入し、諸番と要約せしむ。篆文上に「皇帝聖旨」と曰い、左に「合当差発」と曰い、右に「不信者斬」と曰う。凡そ四十一面:洮州火把蔵思囊日等の族、牌四面、馬三千五十匹を納む。河州必裏衛西番二十九族、牌二十一面、馬七千七百五匹を納む。西寧曲先・阿端・罕東・安定四衛、巴哇・申中・申蔵等の族、牌十六面、馬三千五十匹を納む。下号金牌を諸番に降し、上号を内府に蔵めて契と為し、三歳に一たび官を遣わし符を合わす。其の通道二あり、一は河州より出で、一は碉門より出づ。茶五十余万斤を運び、馬一万三千八百匹を獲たり。太祖の番を馭するや此の如し。

永楽中、帝遠人を懐柔し、茶斤を遞増す。ここにより馬を市する者多く、而して茶足らず。茶禁も亦稍く弛み、多く私に出境す。碉門茶馬司は至って茶八万余斤を用い、僅かに馬七十匹を易え、又多く瘦損す。乃ち茶禁を申厳し、洮州茶馬司を設け、又甘粛茶馬司を陝西行都司の地に設く。十三年、特に三御史を遣わし陝西の茶馬を巡督せしむ。

太祖の私茶を禁ずるや、三月より九月に至るまで、月に行人四員を遣わし、河州・臨洮・碉門・黎・雅を巡視せしむ。半年以内に、二十四員を遣わし、往来旁午す。宣徳十年、乃ち三月に一たび遣わすを定む。永楽時に金牌信符を停止するより、是に至り復た給す。未だ幾ばくもせず、番人は北狄の侵掠する所となり、内に徙居し、金牌散失す。而して茶司も亦茶少なきを以て、ただ漢中の茶を以て馬を易え、且つ金牌を与えず、その馬を以て入貢するを聴くのみ。

是に先立ち、洪武末、成都・重慶・保寧・播州に茶倉四所を置き、商人に命じて米を納め茶を中納せしむ。宣徳中、官茶百斤に耗什一を加うるを定む。茶を中納する者は、自ら人を遣わし甘州・西寧に赴き、而して塩を淮・浙に於いて支取り以て費を償う。商人文憑を恃み恣に私販し、官課数年完からず。正統初、都御史羅亨信其の弊を言う、乃ち茶を運び塩を支取る例を罷め、官運を旧の如くせしめ、京官を以て之を総理せしむ。

景泰中、行人の遣わすを罷む。成化三年、御史を命じて陝西の茶を巡らしむ。番人御史を楽しまず、馬至る日少なし。乃ち御史を取回し、仍く行人を遣わし、且つ按察司に巡察せしむ。已にして巡察専らならず、兵部其の害を言う、乃ち復た御史を遣わし、歳一たび更え、令と為すに著す。又歳饑振を待つを以て、復た商人に粟を納め茶を中納せしめ、且つ茶百斤を銀五銭に折納せしむ。商課折色此より始まる。

弘治三年、御史李鸞言う、「茶馬司の積む所漸く少なく、各辺馬耗え、而して陝西諸郡歳に稔り、粟を易える事無し。請う西寧・河西・洮州の三茶馬司に於いて商を召し茶を中納せしめ、毎引百斤を過ぎず、毎商三十引を過ぎず、官其の十の四を収め、余る者始めて貨売せしめ、茶四十万斤を得べく、馬四千匹を易え、数足りて止む」と。之に従う。十二年、御史王憲又言う、「茶を中納する禁開くより、遂に私茶遏むること莫く、而して馬を易えるに利あらず。請う糧茶の例を停めよ。異時に或いは兵荒あらば、乃ち更に之を図らん」と。部覆して其の請に従う。四川茶課司旧に数十万斤を徴し馬を易う。永楽以後、番馬悉く陝西道よりす、川茶多く浥爛す。乃ち三分を率と為し、一分は本色を収め、二分は銀に折り、糧茶は二年を停む。延綏饑え、復た商を召し糧草を納め、四百万斤を中納せしむ。尋で御史王紹の言に以て、復た禁止し、並びに正額外に商を召し開中する例を罷む。

十六年、御史を取回し、督理馬政都御史楊一清を以て之を兼理せしむ。一清復た開中を議し、言う、「商を召し茶を買い、官其の三の一を貿す。毎歳茶五六十万斤、馬一万匹を得べし」と。帝請に従う。正徳元年、一清又建議す、商人価を領くるを願わざる者は、半を商に与え、自ら売らしむ。遂に例と為し永く行わるるに著す。一清又言う金牌信符の制復たすべく、且つ巡茶御史を復設し馬政を兼理せんことを請う。乃ち復た御史を遣わす、而して金牌は久しく廃するを以て、卒く復する能わず。後武宗番僧を寵し、西域人に例外に私茶を帯ぶるを許す。此より茶法遂に壊る。

番人の馬を市うるや、権衡を弁ずる能わず、ただ篦を訂して馬に中る。篦大なれば則ち官其の直を虧き、小なれば則ち商其の繁を病む。十年、巡茶御史王汝舟酌みて中制を為し、毎千斤を三百三十篦とす。

嘉靖三年、御史陳講は商茶が粗悪偽造であることを理由に、すべて黒茶を徴収し、産地の生産量には限りがあるため、茶を上中二品に分け、篦に印を押し、商人の名を記して検査した。まもなく四川茶引五万道を定め、二万六千道を腹引、二万四千道を辺引とした。芽茶の引は三銭、葉茶の引は二銭。中茶は八十万斤を限度とし、あまりに濫発しないこととした。

十五年、御史劉良卿が上奏して言う、「律例には『私茶が国境を越えることと関所の不覚察とは、ともに凌遅処死に処す』とある。そもそも西辺の藩籬として、諸番以上に重要なものはない。番人は茶に頼って生きているので、厳法でこれを禁じ、馬と交換して報いることで、番人の死命を制し、中国の藩籬を強固にし、匈奴の右腕を断つのであり、通常の法律で論ずべきではない。洪武初年の例では、民間の茶の備蓄は一月分を超えてはならなかった。弘治年間、商人を募って茶を納めさせ、あるいは救済の備えとし、あるいは辺境の備蓄としたが、内地の民が茶を飲むことを禁じたことはなかった。今、番地への密輸の罪を減じて、充軍に止めている。内地の茶を禁じて飲むことを許さず、さらに商人に課茶を私的に納めさせ、すべてを三茶馬司に集めている。茶司は番と隣接しており、密輸は容易であるのに、禁令は内郡より厳しい。これは民を密輸に駆り立て、その資を授けるようなものである。

このため、大奸は国境を越えて密輸しても罪を逃れ、小民はわずかな量を背負って法に触れる。今、三茶馬司の貯蔵量を計算すると、洮河は三年分に足り、西寧は二年分に足りるが、商茶・私茶・課茶は日増しに増加し、長く積んで腐敗して用をなさない。茶法の弊害はこのようである。番地には馬が多いが売る場所がなく、我が茶には禁令があって流通しない。その勢い互いに求め合うこと必定であり、これを制する機は我にある。今、茶司の住民はひそかに番馬を交換して商販に待ち、一年中絶える日がない。官が交換する時になると、かえって馬が減耗している。三茶馬司に命じて、二年分の用だけを留め、毎年交換すべき馬をいくらか発送させるよう請う。正茶のほかは、分毫たりとも持ち込ませない。茶価を高騰させ、番人を制すれば、良馬は用い尽くせないほどになるであろう。かつ、商茶を多く開き、内地に通行させ、官がその半分を専売して軍餉に備え、河州・蘭州・階州・岷州など番地に近い諸地では、従来通り販売を禁じ、さらに律例通り番地への密輸の刑を重くする。洮州・岷州・河州は辺備道に責任を負わせ、臨洮・蘭州は隴右分巡に、西寧は兵備に責任を負わせ、それぞれ官を選んで防守させる。不覚察の者は罷軟の罪に問う。」上奏がなされ、許可された。ここにおいて茶法はやや整えられた。

御史劉侖・総督尚書王以旂らは、諸番への金牌信符の再交付を請うた。兵部が議して、番族は変詐常なく、北狄は掠奪をやめない。金牌は急いで与えてもすぐに失われ、国体を大いに損なう。番人が馬を納めるのは、茶を得たいがためである。私販の禁を厳しくすれば、番人は自然に従順になり、金牌を与えなくても馬は集まる。もし私販が盛んに行われれば、我らはその心をつなぎとめ、その命を制する術がなく、金牌を与えても馬は来ない。そこで勘合を発給することを定めた。

その後、陝西が毎年凶作となり、茶戸は生計の資がなく、課税額をかなり滞納した。三十六年、戸部は陝西全土が災害と地震に見舞われ、辺境の兵糧が危急を告げ、国用が大きく不足していることを理由に上奏した、「以前は、正額の茶による馬交換のほか、多く開中を行って公家を補助し、五百万斤に達することもあった。近年、御史劉良卿も百万斤を開中したが、後には正額八十万斤のみを開中し、課茶・私茶を合わせてもわずか九十余万斤に過ぎない。巡茶御史に下して議させ、商人を募って多く中納させるべきである。」御史楊美益が言う、「凶作で民は貧しく、正額でさえ多く損なわれているのに、どうして余剰があろうか。今はただ毎年九十万斤で番を招き馬を交換する規程を守るべきである。内地に流通させて私販を止めさせ、開中を増やして凶作救済に備えることは、すべて停止し、馬の利益を分けさせないようにすべきである。」戸部は国庫がまさに空乏していることを理由に、弘治六年の例のように、馬交換のほかさらに百万斤を開中し、商人を募って辺鎮に納めさせ軍餉に備えることを請うた。詔してこれに従った。末年、御史潘一桂が言う、「商茶の増中はかなり滞っているので、十のうち四、五を削減すべきである。」また言う、「松潘は洮州・河州に近く、私茶がしばしば密輸されている。松潘の引目を停止し、番地への流入の禁令を厳しくすべきである。」いずれも許可された。

四川茶引が辺引と腹引に分かれるのは、辺茶は少なくて流通しやすく、腹茶は多くて常に滞るためである。隆慶三年に一万二千引を削減し、三万引を黎州・雅州に属させ、四千引を松潘など辺境に属させ、四千引を内地に留め、税銀合わせて一万四千余両とし、戸部に送って辺境を救済するのを常例とした。

五年、甘州に洮州・河州・西寧の事例にならわせ、毎年六月に開中を行い、二ヶ月のうちに馬八百匹を中納させることを命じた。賞罰の例を定め、商引を一、二年で売り尽くした者は差等に応じて賞し、三年を超えた者は罪に問い、付帯した茶を没収した。

万暦五年、俺答が塞ぎで和を請い、茶市の開設を求めた。御史李時成が言う、「番人は茶を命としている。北狄がこれを得れば、番人を制するのに利用し、番人は必ず狄に従い、禍患は小さくない。」部が議して百余篦を与えるが、その市易は許さないこととした。劉良卿が内地の禁令を緩めて以来、楊美益はこれを誤りとしたが、その後また禁止した。十三年、西安・鳳翔・漢中は番と隣接しないとして、その禁令を解き、商人を募って引を与え、十分の三を官に抽分し、残りは自由販売を許した。御史鐘化民は私茶の密輸が多いことを理由に、責任を分けて成果を上げることを請うた。陝西の漢中は関南道が監督し、府の佐官一人を魚渡壩に専駐させる。四川の保寧は川北道が監督し、府の佐官一人を雞猴壩に専駐させる。州・県の官兵を率いて防守させる。」これに従った。

中茶による馬交換は漢中・保寧のみであるが、湖南は茶を産し、その価格が安いため、商人は国境を越えて密輸することが多く、漢中・保寧で中納されるのはわずか一、二十引である。茶戸は本課を納めようとすれば、しばしば密輸して辺境を出る。番族は私茶の安さを利とし、それゆえ馬を納めようとしない。二十三年、御史李楠は湖茶の禁止を請い、言う、「湖茶が流通すれば、茶法・馬政ともに弊害が生じる。巡茶御史に商人を募り引を与え、漢中・興安・保寧・夔州に申告を希望する者を中納させるべきである。湖南に越境して下る者は禁止すべきである。かつ湖南には偽茶が多く、口を刺し腹を破るようなものを食べさせ、番人もその害を受ける。」まもなく御史徐僑が言う、「漢中・四川の茶は少なくて価格が高く、湖南の茶は多くて価格が低い。湖茶の流通は漢中に妨げない。漢茶は味が甘くて薄く、湖茶は味が苦く、酥酪に適しており、番人にも利益である。ただし法を定めて厳しく検査し、偽茶を防ぐべきである。」戸部は両者の意見を折衷し、漢茶を主とし、湖茶を補助とした。各商人が中引するには、まず漢中・四川分を与え終えてから、湖南分を与える。もし漢引が不足すれば、湖引で補う。」許可された。

二十九年、陝西巡按御史畢三才が言う、「課茶の徴収輸納は、毎年定額がある。以前は茶が余って積み、園戸が納入に難儀したため、これを折納に改めた。今は商人が絶え、五司の茶は空である。漢中の五州県に命じて依然として現物を納めさせ、毎年商人を募って五百引を中納させれば、馬一万一千九百余匹を得ることができる。」部が議して、西寧・河州・洮州・岷州・甘州・庄浪の六茶司で合わせて馬九千六百匹を交換することを令として定めた。天啓の時、中納する馬を二千四百匹増やした。

明初は私販を厳禁したが、時が経つにつれて奸弊が日増しに生じた。末造に至っては、商人は正引のほかに、多く賞由票を与えられ、私的な流通を許された。番人の上等の馬はすべて奸商の手に渡り、茶司が購入するのはその中下のものであった。番人は茶を得て、叛服を自由にし、将吏はまた私馬を番馬にすり替え、上等の茶を不正に支給した。茶法・馬政・辺防はここにおいてともに壊れた。

その他の産茶の地は、南直隸の常州、廬州、池州、徽州、浙江の湖州、厳州、衢州、紹興、江西の南昌、饒州、南康、九江、吉安、湖廣の武昌、荊州、長沙、宝慶、四川の成都、重慶、嘉定、夔州、瀘州であり、商人が茶引を請け負うのは応天、宜興、杭州の三つの批驗所において、茶課を徴収するのは応天の江東瓜埠においてである。蘇州、常州、鎮江、徽州、広徳及び浙江、河南、広西、貴州からは皆鈔を徴収し、雲南からは銀を徴収する。

上供する茶については、天下の貢額は四千余りあり、福建建寧の貢ぐものが最も上品であり、探春、先春、次春、紫筍及び薦新などの銘がある。旧来は皆採ってこれを碾き、銀板で押し固め、大小の龍団とした。太祖はその民を労することを以て、製造を罷め、ただ茶の芽を採って進上することを命じ、また上供戸五百家を復した。凡そ貢茶は、ただ額に按じて供するのみで、詳細には記載しない。