明史

志第五十五 食貨三

歴代以来、漕粟は都に至り、官府の廩食を給するに、各道里の遠近を視て以て準と為す。太祖は金陵に都し、四方の貢賦は、江より以て京師に達し、道近くして易し。成祖の燕に遷るより、道里遼遠にして、法凡そ三変す。初めは支運、次に兌運・支運相参じ、遂に支運悉く長運に変じて制定す。

洪武元年北伐し、浙江・江西及び蘇州等九府に命じ、糧三百万石を汴梁に運ぜしむ。已にして大将軍徐達、忻・崞・代・堅・台五州に令し糧を大同に運ぜしむ。中書省、符を下し山東行省に、水工を募り萊州洋海倉を発して永平衛に餉る。其の後海運以て北平・遼東に餉るを定制と為す。其の西北辺は則ち開封漕河を浚り陝西に餉り、陝西より転じて寧夏・河州に餉る。其の西南は川・貴に令し米を納めて中塩と為し、以て遠運を省く。当時各路皆近きに就き輸し、利便を得たり。

永楽元年戸部尚書鬱新の言を納れ、始めて淮船三百石以上を受くる者を用い、道は淮及び沙河より陳州潁岐口跌坡に抵り、別に巨舟を以て黄河に入り八柳樹に抵り、車運して衛河に赴き北平に輸し、海運と相参ず。時に駕数臨幸し、百費仰ぎ給するも、辺に餉るのみに止まらず。淮・海運道凡そ二、而して臨清倉は河南・山東の粟を儲け、亦以て北平に輸し、合して之を計れば三運と為す。惟だ海運は官軍を用い、其の余は則ち皆民運なり。

会通河を浚うより、帝都督ととく賈義・尚書宋礼に命じ舟師を以て運せしむ。礼は海船の大なる者千石、工窳にして輒ち敗るを以て、乃ち浅船五百艘を造り、淮・揚・徐・兗の糧百万を運び、以て海運の数に当つ。平江伯陳瑄之を継ぎ、頗る増して三千余艘に至る。時に淮・徐・臨清・德州各倉有り。江西・湖広・浙江の民は糧を運び淮安倉に至り、官軍を分遣し近きに就き輓運す。淮より徐に至るまでは浙・直の軍を以てし、徐より徳に至るまでは京衛の軍を以てし、徳より通に至るまでは山東・河南の軍を以てす。次を以て遞運し、歳凡そ四回、三百万余石に可く、名づけて支運と曰う。支運の法は、支する者は必ずしも当年の民納を出さず、納する者は必ずしも当年の軍支に供せず。数年を通じて以て裒益と為し、常額を失わざるを期して止む。是に由り海陸二運皆罷み、惟だ遮洋船を存し、毎歳河南・山東・小灘等の水次に於て、糧三十万石を兌し、十二は天津に輸し、十八は直沽より海に入り薊州に輸するのみ。数年を経ず、官軍多く調遣有り、遂に復た民運と為り、道遠くして数期に愆る。

宣徳四年、瑄及び尚書黄福議を建て復た支運法と為し、乃ち江西・湖広・浙江の民に令し百五十万石を淮安倉に運し、蘇・鬆・寧・池・廬・安・広徳の民に令し糧二百七十四万石を徐州倉に運し、応天・常・鎮・淮・揚・鳳・太・滁・和・徐の民に令し糧二百二十万石を臨清倉に運し、官軍に令し接運して京・通二倉に入れしむ。民糧既に近きに就き倉に入り、力大いに減省せらる。乃ち地の近遠、糧の多寡を量り、民船の十一或いは十三・五の一を抽り以て官軍に給す。惟だ山東・河南・北直隸は則ち径ち京倉に赴き、支運を用いず。尋いで南陽・懐慶・汝寧の糧を運び臨清倉に、開封・彰徳・衛輝の糧を運び德州倉にせしめ、其の後山東・河南皆德州倉に運ぶ。

六年、瑄言う「江南の民糧を諸倉に運ぶに、往復殆ど一年、農業に誤る。民に令し淮安・瓜洲に運び至り、衛所と兌せしむ。官軍運載して北に至り、路費耗米を与うれば、則ち軍民両便なり」と。是を兌運と為す。群臣に命じ会議せしむ。吏部蹇義等上るに官軍兌運民糧加耗の則例を以てし、地の遠近を以て差と為す。毎石、湖広八斗、江西・浙江七斗、南直隸六斗、北直隸五斗。民に運び淮安に至り軍運と兌する者有れば、只四斗を加え、兌運尽さざる有れば、仍た民に令し自ら運び諸倉に赴かしめ、兌するを願わざる者も亦其の自運を聴く。軍は既に耗を加え、又軽齎銀を与えて洪閘盤撥の費と為し、且つ他物を附載するを得ば、皆事に従うを楽み、而して民も亦多く遠運を艱しと為す。是に於て兌運する者多く、而して支運する者少なし。軍と民米を兌するに、往々恃強して勒索す。帝其の弊を知り、戸部に勅し正官を委ね監臨せしめ、私兌を許さず。已にして頗る加耗米を減じ、遠き者は六斗を過ぎず、近き者は二斗五升に至る。三分を以て率と為し、二分は米とし、一分は他物を以て準ず。正糧は斛面鋭く、耗糧は俱に平概す。運糧四百万石、京倉十四を貯え、通倉十六を貯う。臨・徐・淮三倉各御史を遣わし監収せしむ。

正統初、運糧の数四百五十万石、而して兌運する者二百八十万余石、淮・徐・臨・徳四倉支運する者は十の三四のみ。土木の変、復た尽く山東・直隸の軍を留め操備せしむ。蘇・鬆諸府の運糧仍た民に属す。景泰六年、瓦剌貢に入り、乃ち復た軍運と為す。天順末、兌運法行わること久しく、倉入耗余を覬み、入庾率兌斛面し、且つ多く索めんことを求む。軍甚だ困す。憲宗即位し、漕運参将袁佑便宜を上言す。帝曰く「律令明言す、糧を収むるに令し納戸平準せしめ、石に耗を加うるは五升を過ぎずと。今運軍願わくは明らかに加えんとす、則ち倉吏の侵害過多なるを知るべし。今後軍に令し自ら概せしめ、毎石耗五升を加え、溢るる毋く、勒索する者は罪を治す」と。後督倉中官の言に従い、耗を加えて八升に至る。久しくして、復た溢収すること故の如く、屡禁して能く止むること無し。

初め、糧を京師に運ぶに、未だ定額有らず。成化八年始めて四百万石を定め、自後以て常と為す。北糧七十五万五千六百石、南糧三百二十四万四千四百石、其の内兌運する者三百三十万石、支運より改兌する者七十万石。兌運の中、湖広・山東・河南折色十七万七千七百石。通計して兌運・改兌に耗米を加えて京・通両倉に入るる者は、凡そ五百十八万九千七百石。而して南直隸正糧独り百八十万、薊州一府七十万、加耗は外なり。浙の賦は蘇に視て数万減ず。江西・湖広は又之に殺ぐ。天津・蘇州・密雲・昌平、共に米六十四万余石を与え、悉く兌運米を支う。而して臨・徳二倉は、預備米十九万余石を貯え、山東・河南の改兌米を取て之を充つ。災傷に遇えば、則ち二倉の米を撥ち以て運を補い、務めて四百万の額に足し、缺かしめざるなり。

成化七年に至り、改兌の議が起こった。時に応天巡撫の滕昭は運軍に命じて江南の水次に赴き交兌させ、加耗の外に、更に一石につき米一斗を増して渡江の費用とした。数年後、帝は淮・徐・臨・徳の四倉の支運七十万石の米を、悉く水次交兌に改めるよう命じた。これにより悉く改兌に変わり、官軍の長運は遂に定制となった。しかしこの時、倉司の者は多く苛酷に取り立て、甚だしきは額外の罰まであり、運軍は転々と借金を重ねて支えきれなかった。弘治元年、都御史の馬文升が運軍の苦しみを上疏して論じ、言うには、「各直省の運船は、皆工部が価銀を給し、有司に監造させる。近頃、漕運総兵が価銀が時宜に給されないことを理由に、自ら価銀を請け領して造船することを求めた。ところが部臣は軍士が愛護を加えないことを慮り、本部が四分の材料を出し、軍衛が三分を負担し、旧船を三分に充当するよう議した。軍衛には措弁する術がなく、皆軍士が資産を売り、子女を売ってこれを供し、これが造船の苦しみである。正軍の逃亡は数多く、而して額数は減らず、皆余丁でこれを充て、一戸に三、四人が応役する者がある。春に兌し秋に帰り、艱辛は万状である。船が張家湾に至れば、又車を雇って盤撥し、多く借金を称して用を済ませ、これが往来の苦しみである。その称する借金に、運官はこれに因って侵漁し、倍の利息で償還を責める。而して軍士は或いは自ら土産を載せて薪米と交換しようとするも、又禁例に阻まれ、多く掠奪される。今宜しく造船費を毎艘に銀二十両加増し、而して運官及び有司の科害・捜検の弊を禁約すれば、庶幾く軍の困窮は少し緩和されよう。」詔してその議に従った。五年、戸部尚書の葉淇が言うには、「蘇・松諸府は、連年凶作で、民が漕米を買うのに、毎石銀二両である。而して北直隸・山東・河南は毎年宣府・大同の二辺に糧料を供し、毎石も銀一両である。去年、蘇州の兌運は既に五十万石を折徴し、毎石銀一両であった。今諸府にこれを推行し、而してその価額を少し差等をつけることを請う。災害の重い所は、石七銭、稍々軽い所は、石を仍一両とする。俱に部に解送して各辺に転発し、北直隸三処の歳供の数に充当し、而して三処の本色を収めて京倉に輸送すれば、費用は省け而して事は容易に成就しよう。」これを従った。以後歳に災害があれば、輒ち権宜に銀に折徴し、水次倉の支運の糧を以てその数を充て、而して折価は六、七銭を率とし、再び一両に至ることは無かった。

先に、成化年間に長運の法を行った。江南の州県は糧を南京に運び、官軍に命じて水次で兌支させ、加耗と輸輓の費用を省く計算で、余米十万石余りを得、預備倉に貯えて緩急の用に資した。ここに至り、巡撫都御史が兌支に弊害があるとして、旧の如く上倉して後に放支するよう命じることを請うた。戸部が言うには、「兌支の法は善く、変易すべからず。」詔して部の議に従い、余った分を就いて各衛倉に貯え、正として支銷に充当した。又戸部の言に従い、山東の改兌糧九万石は、仍く民に自ら臨・徳二倉に運ぶことを聴き、官軍に支運させた。正徳二年、漕運官が水次倉の儲蓄を疏通することを請い、言うには、「往時は民が淮・徐・臨・徳の四倉に運び、衛軍の支運を待ったが、後に附近の州県の水次交兌に改めた。已にして支運七十万石も亦改兌するよう命じた。但し七十万石の外に、猶交兌し尽くさないものがあり、民は仍く四倉に運び赴き、久しく支銷が無く、以て陳腐に至っている。請う、浙江・江西・湖広の正兌糧米三十五万石を、銀に折って京に解送し、而して三省の衛軍に臨・徳等の倉に赴き、折った数と同じだけ支運させよ。然らば諸倉の米は腐らず、三省の漕卒は支運に便であり、歳漕の額の外に、又三十五万の折銀を得、一挙にして数善が備わろう。」帝は部臣に議させ、その請いの如くにした。六年、戸部侍郎の邵宝が漕運の遅滞を以て、支運法を復することを請うた。戸部が議するに、支運法は廃れて久しく、卒然に復することはできず、事は遂に止んだ。

臨・徳二倉の貯米は、凡そ十九万石で、十年で百九十万石となる計算である。世宗の初めより、災傷による撥補が日に多くなり、而して山東・河南は凶作のため、数々軽減を請い、且つ二倉の囤積は多く朽腐した。ここにおいて改折の議が屡々起こり、而して倉儲は漸く消耗した。嘉靖元年、漕運総兵の楊宏が、軽齎銀を運官に道中支用させ、舟車を雇う費用とし、必ずしも鞘に装して印封せず、羨余を計算して、漕卒を苦しめないよう請うた。給事中・御史が交互にこれを駁した。戸部が言うには、「科道官の論は、奸を防ぐことを主とし、是である。但し軽齎は本来転般の費用に資するもので、今官軍の侵耗を慮り、その贏余を尽く取り太倉に帰するならば、則ち脚価を正糧とするもので、立法の初意ではない。」乃ち議して運船が通州に至れば、巡倉御史が核験し、酌量して支用の実数を定め、定規として著す。羨余があれば、太倉に輸送せず、即ち以て船を修繕し、官旗で漁蠹する者は重罪に処す。軽齎銀とは、憲宗が諸倉を改兌するに当たり、路費を給し、始めて各々耗米を有し、兌運米は俱に一平一鋭で、故に鋭米があり、船に随って給運される四斗の外に、余りを銀に折ったもので、これを軽齎と謂う。凡そ四十四万五千余両。後頗る太倉に入った。隆慶年間、運道が艱難で阻害され、議者は膠萊河を開き、海運を復することを欲した。淮安の清江浦口より、新壩・馬家壕を経て海倉口に至り、直沽に直行し、只海套に循るだけで、大洋を泛ばない。上疏して遣わされ、官が勘して報告したが、水多く沙磧であることを以て止んだ。

神宗の時、漕運総督の舒応龍が言うには、「国家は両都を並建し、淮・徐・臨・徳は実に南北の咽喉である。兌運が久しく行われて以来、臨・徳には尚歳積があるが、而して淮・徐の二倉には粒米も無い。請う、今より山東・河南が全く豊作の時は、尽く本色を徴して倉に上納させよ。計算すると臨・徳は既に五十余万に足りるならば、則ち二倉に納めさせ、亦五十万石を積んで止めよ。」これを従った。当の時、折銀は漸く多くなった。万暦三十年、漕運が京に抵るのは、僅か百三十八万余石であった。而して撫臣が漕米を載留して河工を済すよう議し、倉場侍郎の趙世卿がこれを争い、言うには、「太倉は入るが当に出ず、二年後の計算では、六軍万姓は新漕を待って炊事するに至り、倘し輸納が期に遅れれば、復た京師有る無からん。」蓋し災傷による折銀は、本来漕糧を折って京軍の月俸に充当するものである。その時混支して辺餉に給したので、遂に銀米両空に至り、故に世卿が争ったのである。以後倉儲は漸く匱乏し、漕政も亦益々弛緩した。啓・禎の頃に至っては、天下蕭然として煩費し、歳供は愈々支えるに足らなくなった。

運船の数は、永楽から景泰まで、大小定まらず、数は極めて多かった。天順以後、船一万一千七百七十隻、官軍十二万人と定めた。附載して土宜を運ぶことを許し、税鈔を免徴した。孝宗の時は十石に制限し、神宗の時は六十石に至った。

憲宗は運漕船の北京到着期限を定め、北直隸・河南・山東は五月初一日、南直隸は七月初一日とし、長江を渡って支兌する者は一月延長、浙江・江西・湖廣は九月初一日とした。通算して三年で考課とし、期限に違反した者は運官を降格・処罰した。武宗は水行程の図表を作り、日ごとに進止した駅地を記入させ、期限に遅れた米は德州などの倉に貯蔵し、これを寄囤と称した。世宗は淮河通過の行程期限を定め、江北は十二月、江南は正月、湖廣・浙江・江西は三月とし、神宗の時に二月に改めた。また北京到着期限を五月としていたものを一月短縮し、七・八・九月としていたものはそれぞれ二月短縮した。後にはさらに一律に一月短縮した。神宗の初め、十月に開倉、十一月に兌竣(徴収完了)と定め、大県は船の到着後十日、小県は五日を期限とした。十二月に船団を出発させ、二月に淮河を通過、三月に洪(徐州洪)を過ぎ閘に入る。すべて事前に様米を戸部に呈出し、運糧が到着した日に照合して同じであれば収受した。

災害による損傷を奏請して改折(米納を銀納に変更)する者は、七月を過ぎてはならない。題議(上奏審議)が後期になったものや臨時に改題したものは、案を立てて覆審を免除する。漂流したものは、食米と抵換する。長江での漂流は大患、河道での漂流は小患とし、二百石を超えるものは大患、二百石以内は小患とした。小患は把総が検分して報告し、大患は具奏したが、その後は多少を問わず、一概に奏上して検分するようになった。

初め、船は楠や杉を用い、下等のものは鬆を用いた。三年ごとに小修、六年ごとに大修、十年ごとに造り替えた。毎船は正耗米四百七十二石を受けた。その後、船数が不足し、一船で七八百石の米を受けるようになった。附載や夾帯が日増しに多くなり、所在で滞留して期限に違反した。ひとたび河川の決壊があれば、ただちに漂流が生じ、官軍はこれに乗じて不正を行った。水次で折乾(米を銀に換える不正)、沿路で侵盗し、水火の災いと偽り称し、船底を穿って自ら沈める者さえあった。

明初、武臣に命じて海運を監督させ、かつて漕運使を設けたが、まもなく廃止した。成祖以後は御史を用い、また侍郎・都御史で催督し、郎中・員外が分理し、主事が督兌するなど、その制度は一定しなかった。景泰二年に初めて淮安に漕運総督を設置し、総兵・参将とともに漕事を共同処理した。漕司は十二総を統率し、十二万の軍は、京操十二営軍と同等とされた。初め、宣宗は運糧総兵官・巡撫・侍郎に毎年八月に北京へ赴き、翌年の漕運事宜を会議するよう命じ、漕運総督が設置されると、総督にも同様に北京赴任を命じた。万暦十八年以後になってようやく免除された。毎年正月、総漕は揚州を巡察し、瓜洲・淮安の閘通過を管理した。総兵は徐・邳に駐屯し、洪通過・閘入りを監督し、同様に漕参政が管押して北京へ赴かせた。攢運には御史・郎中が、押運には参政が、監兌・理刑・管洪・管廠・管閘・管泉・監倉には主事が、清江・衛河には提挙がそれぞれあった。兌が完了し淮河・洪を通過すると、巡撫・漕司・河道はそれぞれ職掌に応じて奏報した。有司が米を準備せず、軍衛が船を準備せず、淮河通過を期限に遅れた場合は、その責任は巡撫にあった。米が整い船が備わりながら、直ちに検分・通過させず、河川の障害がないのに船団を圧迫して停泊させ、洪通過を遅らせて漂流・凍結させた場合は、その責任は漕司にあった。船と糧が期限通りであるのに、河渠が淤浅で、疏浚が行われず、閘座の啓閉が時を失し、洪を通過して張家湾に到達できない場合は、その責任は河道にあった。

明初、漕政にはしばしば優恤を加え、仁宗・宣宗は漕舟の使役を禁じ、運漕の遅延者を寛恕した。英宗の時に初めて口糧を差し引いて均攤し、運軍が法度を守らず民害となるようになった。その後、漕政は日々弛緩し、軍は耗米で私物と交換し、途中で販売して行程を滞らせた。到着する頃には、かえって倉米を買い補納し、多くは足数に満たなかった。そして糧長は米に沙や水を混ぜるのが常で、河南・山東は特に甚だしく、しばしば蒸れて湿り腐敗して食用に堪えなかった。権要は運軍に銀を貸して利を貪り、関税を撥給して船料に充て償還させることまで請願した。漕運把総は概ね賄賂によって得た。倉場は定額外に科取し、年間十四万に及んだ。世宗の初政、諸弊は多く厘革されたが、漂流・違限の二弊は、日増しに甚だしくなった。中葉以後は、ますます究明し難くなった。

漕糧のほか、蘇・鬆・常・嘉・湖の五府は、内府へ白熟粳糯米十七万四十余石(内、折色八千余石)、各府部へ糙粳米四万四千余石(内、折色八千八百余石)を輸送し、民に運ばせた。これを白糧船と称した。長運法が行われるようになってから、糧はすべて軍が運ぶようになったが、白糧は従来通り民運であった。穆宗の時、陸樹德が言上した。「軍運は軍儲を充たし、民運は官祿を充たす。人は軍運の苦しみを知るが、民運が特に苦しいことを知らない。船戸の要求、運軍の欺陵、洪閘での守候、北京入り・倉入り、その弊害は百出する。嘉靖初年、民運でまだ家を保全できる者がいたが、十年後には破産しない者はなかった。白糧を軍に帯運させれば甚だ便である。」上疏が入り、下部に議させたが、従わなかった。

諸倉へ輸送すべきものには定数があり、あるいは他鎮へ改撥する場合、水次で応兌すべき漕糧は、すなわち坐派された鎮軍に領兌させて価銀を支給し、州県官が車戸を監督して遠倉まで運ばせるか、あるいは軍に価銀を給付して就地的に関支させるものを、総称して穵運といった。九辺の地では、糧を輸送するのは概ね車を用い、宣徳の時、開平への糧餉も同様であったが、蘭・甘・松潘ではしばしば民に背負わせた。永楽中、またかつて広東に命じて海運二十万石を交址に給したという。

明初、京衛には軍儲倉があった。洪武三年に増設して二十所とし、また臨濠・臨清の二倉を建てて転運に供した。各行省には倉があり、官吏の俸給はこれから支給された。辺境には倉があり、屯田の収入を収めて軍に給した。州県には則ち預備倉を設け、東西南北四所として凶荒を賑った。鈔法が行われるようになってから、かなり省廃された。二十四年に糧十六万石を臨清に儲け、訓練騎兵に給した。二十八年に皇城四門倉を置き、糧を儲けて守禦軍に給した。京師諸衛倉を増やして凡そ四十一とした。また北平・密雲諸県倉を設け、糧を儲けて北征を助けた。永楽年間に、天津及び通州左衛倉を置き、また北京三十七衛倉を設けた。さらに天下の府県に多く倉儲を設けさせ、四郷にある預備倉を城内に移置した。会通河が完成すると、初めて徐州・淮安・德州に倉を設け、臨清は洪武の旧制に因り、天津倉と合わせて凡そ五つとし、これを水次倉と称して転運を助けた。その後、また德州倉を臨清の永清壩に移し、武清衛倉を河西務に設け、通州衛倉を張家湾に設けた。宣徳年間に、臨清倉を増築して三百万石を容れ、北京及び通州倉を増置した。京倉は御史・戸部官・錦衣千百戸が季節ごとに交替して巡察した。外倉は則ち布政司・按察司・都司が関防した。各倉の門には、致仕武官二人が老幼軍丁十人を率いて守り、半年ごとに交替した。英宗初年、廷臣に命じて集議させ、天下の司府州県で倉のあるものは衛所倉をこれに属させ、倉のないものは衛所を改めて隷属させた。ただ遼東・甘粛・寧夏・万全及び沿海衛所で府州県のないものは依然として旧制のままとした。正統年間に、京衛倉を増置して凡そ七つとした。兌運法が行われるようになってから、諸倉で支運するものは少なくなり、京倉・通倉は収容できなくなったので、臨清・德州・河西務倉の三分の一を壊し、京倉・通倉に改めた。景泰初年、武清衛諸倉を通州に移した。成化初年、城外にある臨清・德州の預備倉を廃し、城内の空き倉庫に預備米を儲けた。臨清のものを常盈、德州のものを常豊と名付けた。京倉は凡そ五十六、通倉は十六。直省の府州県・藩府・辺隘・堡站・衛所屯戍には皆倉があり、少ないものは一二、多いものは二三十ほどであった。

預備倉の設置は、太祖が耆民を選んで鈔を運ばせ米を糴し、賑済に備えさせ、即ちこれに掌らせた。天下の州県は多く儲蓄したが、後漸く廃弛した。于謙が河南・山西を巡撫し、その政を修めた。周忱が南畿を巡撫し、別に済農倉を立てた。他人はこれができなかった。正統の時、侵盗の罪を重くし、妻を僉して充軍に至らしめた。かつ穀千五百石を納める者を定め、勅を下して義民と褒め、本戸の雑役を免じた。凡そ饑を賑う米一石は、豊年を待って、稻穀二石五斗を納めて官に返した。弘治三年、州県で十里以下のものは一万五千石を積み、二十里のものは二万石を積むことと制限した。衛千戸所は一万五千石、百戸所は三百石。考満の日に、その多寡を稽えて殿最とした。三分に及ばない者は俸を奪い、六分以上の者は降調した。十八年に贖罪贓罰を令し、皆穀を糴して倉に入れた。正徳年間に、囚人が紙を納める場合、その八分を米に折り換えて倉に入れることを令した。軍官で犯した者は、穀を納めて立功に準じた。初め、預備倉には皆倉官を設けたが、この時に革め、州県官及び管糧倉官にその事を領させた。嘉靖初年、諭徳顧鼎臣が言う、「成化・弘治の時、毎年存留余米を預備倉に入れ、緩急に備えがあった。今は秋糧は僅かに兌運に足りるのみで、預備には粒米もない。一たび災傷に遇えば、輒ち他糧の留保を奏し、及び富民に勧めて穀を借り、故事に応じる。急ぎ預備倉糧を復して民を裕かにすることを乞う」。帝は乃ち有司に設法して多く米穀を積ませ、なお古の常平法に倣い、春に貧民を賑い、秋の収穫時に官に返し、利息を取らないこととした。府は一万石、州は四五千石、県は二三千石を率とした。その後、粟を積み尽くして平糶し、貧民を済い、儲積は漸く減じた。隆慶の時、劇郡は六千石を過ぎず、小邑は千石に止まった。久しくして数は益々減じ、科罰もまた益々軽くなった。万暦年間、上州郡は三千石に至って止まり、小邑は或いは僅かに百石であった。有司は具文として踏襲し、屡々詔を下して申し飭めても、概ね虚数で欺罔するのみであった。

弘治年間、江西巡撫林俊は嘗て常平及び社倉の建設を請うた。嘉靖八年に乃ち各撫・按に社倉を設けさせた。民に二三十家を一社とさせ、家が殷実で行義ある者一人を社首とし、処事公平な者一人を社正とし、書算能き者一人を社副と選び、毎朔望に会集し、別に戸を上中下とし、米四斗から一斗まで差等を出し、斗ごとに耗五合を加え、上戸がその事を主とした。凶年の饑饉には、上戸で不足の者は量を貸し、豊年には倉に返した。中下戸は酌量して賑給し、倉に返さなかった。有司は冊を造り撫・按に送り、毎年一回察覈した。倉が空ならば、社首を罰して一年分の米を出させた。その法は頗る善かったが、その後これを行える力ある者はなかった。

両京の庫蔵は、先後に建設され、その制は大略同じであった。内府には凡そ十庫あり、内承運庫は緞匹・金銀・宝玉・歯角・羽毛を貯え、金花銀が最大で、歳進百万両有余。広積庫は硫黄・硝石を貯える。甲字庫は布匹・顔料を貯える。乙字庫は胖襖・戦鞋・軍士裘帽を貯える。丙字庫は棉花・絲纊を貯える。丁字庫は銅鉄・獣皮・蘇木を貯える。戊字庫は甲仗を貯える。贓罰庫は没官物を貯える。広恵庫は錢鈔を貯える。広盈庫は紵絲・紗羅・綾錦・槹絹を貯える。六庫は皆戸部に属し、ただ乙字庫は兵部に属し、戊字・広積・広盈庫は工部に属した。また天財庫があり、司鑰庫とも名付け、各衙門の管鑰を貯え、また錢鈔を貯えた。供用庫は粳稻・熟米及び上供物を貯える。以上を通して内庫と謂う。宮内にあるものには、また内東裕庫・宝蔵庫があり、裏庫と謂う。凡そ裏庫は有司に関わらない。会帰門・宝善門の東及び南城磁器諸庫は、則ち外庫と謂う。若し内府諸監司局、神楽堂、犠牲所、太常寺・光禄寺、国子監は、皆各々その掌る所に応用諸物を収貯した。太僕寺は則ち馬価銀を帰属させた。明初、嘗て行用庫を京城及び諸府州県に置き、昏爛の鈔を収めて交換した。仁宗の時に罷めた。

英宗の時に、初めて太倉庫を設置した。当初、歳賦は金銀を徴収せず、ただ坑冶税に金銀があり、内承運庫に入った。歳賦をたまたま金銀に折納したものは、すべて南京に送って武臣の俸禄に充てた。また各辺境に緩急があれば、これからも調達した。正統元年に漕糧を改折し、毎年百万両を定額として、すべて内承運庫に解送し、もはや南京には送らなかった。武臣の俸禄に十万余両を給するほかは、すべて御用に充てた。いわゆる金花銀である。七年になって戸部太倉庫を設置した。各直省の派剩麦米、十庫中の綿糸・絹布および馬草・塩課・関税で、すべて銀に折納したものは、太倉庫に入った。籍没した家財、売却した田産、追収した店銭、援例で上納したものも、すべてここに入れた。専ら銀を貯蔵するので、また銀庫とも称した。弘治の時、内府の供応が繁多となり、しばしば太倉の銀を収めて内庫に入れた。また南京銀庫を置いた。正徳の時、内承運庫の中官がたびたび内府の財用が不足すると言い、太倉の銀を支給するよう請うた。戸部が執奏したが、阻止できなかった。嘉靖初年、内府の供応は弘治の時と同様であったが、その後は倍増した。当初、太倉の中庫には積み銀八百余万両があり、続けて収めたものは両廡に貯蔵し、支給に便とした。そして中庫は動かさず、ついに中庫を老庫とし、両廡を外庫とした。この時までに、老庫に残存するものはわずか百二十万両であった。二十二年に特に、金花・子粒銀で内庫に解送すべきものを、ともに太倉に送って辺境の費用に備えるよう命じたが、その後また内庫に入った。三十七年に、毎年内庫に進納する銀百万両のほか、予備欽取銀を加え、後また没官銀四十万両を取って内庫に入れた。隆慶年間、たびたび太倉の銀を取って内庫に入れ、承運庫の中官はついに空の礼で戸部に下してこれを取った。廷臣が上疏して諫めたが、いずれも聞き入れられなかった。またたびたび光禄・太僕の銀を取り、工部尚書朱衡が極力諫めたが、聞き入れられなかった。当初、世宗の時、太倉の収入は二百万両余りであった。神宗の万暦六年に至り、太倉の歳入は合わせて四百五十余万両となり、内庫の歳供は金花銀のほか、また買弁銀二十万両を増やして常例とし、後また内操馬の芻料銀七万余両を加えた。久しくして、太倉・光禄・太僕の銀は、ほとんど取り尽くされた。辺境の賞与や首功への褒賞で、以前は内庫から発給していたものも、太僕から取るようになった。

すべて甲字などの諸庫は、主事が科道官とともに巡視する。太倉庫は、員外郎・主事がこれを管轄し、給事中が巡視する。嘉靖年間、初めて二月ごとに出入りの数を報告するようになった。当時、工部の旧庫を修築し、節慎庫と名づけ、鉱銀を貯蔵した。尚書の文明が工価に充てたところ、帝が詰責し、他の銀で補償するよう命じ、これ以後は専ら内用に充てた。

その外にある諸布政司・都司・直省の府州県衛所にはすべて庫があり、金銀・銭鈔・絲帛・贓罰などの諸物を貯蔵する。巡按御史が三年ごとに一巡り検査する。各運司にはすべて銀を貯蔵する庫があり、年末に、巡塩御史が官を委ねてこれを検査する。すべて府州県の税課司局・河泊所の歳課・商税・魚課・引由・契本などの諸課程は、太祖が所司に命じて州県府司に解送させ、部に至らせ、部が礼を下して庫に封じ、その元の封緘を、みだりに開封しないようにした。永楽の時に至り、初めて委ねて検査し、合格すれば、初めて解送する。部に至って再検査し、一致すれば、初めて進納する。嘉靖の時、検試庁を建て、検査に合格すれば、進状を与えて庫に預ける。月に九の日には、巡視庫蔵の科道官と会し、庫に入って検査・収納し、不合格のものは取り替えさせる。正統十年に通州に通済庫を設置した。世宗の時に廃止した。隆慶初年、密雲・薊州・昌平の諸鎮にすべて庫を設置し、主客の年例・軍門の公費および撫賞・修辺の銀を収貯したという。

すべて倉庫の害となるものは、中官に及ぶものはない。内府の諸庫の監収者は、横暴に要求して飽くことを知らない。正徳の時、台州衛指揮の陳良が軍器を納めたが、滞留すること八年に及び、ついに市で乞食するに至った。内府が糧食を収める時、増耗はしばしば数倍を基準とし、その患いはこのようであった。諸倉は当初中官を設置しなかったが、宣徳末年に、京・通の二倉に初めて総督中官一人を置き、後には淮・徐・臨・徳の諸倉にも監督を置き、漕運の軍民はその害を受けた。世宗は孫交・張孚敬の建議を用い、諸中官を撤廃したが、諸倉を監督するものはもとのままとした。久しくして、給事中管懷理の上言に従い、ついにこれを罷免した。

当初、天下の府庫にはそれぞれ存積があり、辺境の兵糧は内から借り支えず、京師は外から収奪しなかった。成化の時、巡塩御史の楊澄が初めて各塩運提挙司の贓罰銀を京庫に発送するよう請うた。弘治の時、給事中の曾昂が諸布政司の公帑積貯の徴徭羨銀を、すべて太倉に輸送するよう請うた。尚書の周経が力爭し、不足があるのは、識造・賞賚・斎醮・土木のためであり、必ずや天下の財をことごとく収奪しようとするのは、民に富を蔵するという意ではないと論じた。劉瑾が権力を握るに至り、ついに各省の庫蔵をことごとく京師に輸送するよう命じた。世宗の時、福建・広東が羨余を進献し、戸部が他省の巡按に責めて、毎年例のごとく奏献するよう請うた。また太倉庫が窮乏したため、南戸部の庫銀八十万両を運んでこれを充実させた。そして戸部が理財の事柄を条上し、臨・徳の二倉の積銀二十万両を、記録して太倉に帰属させた。隆慶初年、四御史を派遣して天下を分行させ、庫銀を蒐括させた。神宗の時、御史の蕭重望が府県の歳額銀を検査して部に進めるよう請うたが、上奏に応じなかった。千戸の何其賢が内官とともに自分がこれを監督するよう勅命を請うたが、帝はついにその請いを容れ、これによって外の貯蓄は日に日に消耗していった。天啓年間に至り、操江巡撫の範済世の策を用い、勅を下して歳進を督励し、収奪して遺すところがなくなった。南京の内庫はかなり金銀珍宝を蔵していたが、魏忠賢が詔旨を偽って取り上げ、盗み取って一空にした。内外ともに窮乏し、ついに滅亡に至った。