明史

志第五十五 食貨三

志第五十五 食貨三

原文志第五十五 食貨三

歴代以来、漕粟は都に至り、官府の廩食を給するに、各道里の遠近を視て以て準と為す。太祖は金陵に都し、四方の貢賦は、江より以て京師に達し、道近くして易し。成祖の燕に遷るより、道里遼遠にして、法凡そ三変す。初めは支運、次に兌運・支運相参じ、遂に支運悉く長運に変じて制定す。

原文歷代以來,漕粟所都,給官府廩食,各視道里遠近以為準。太祖都金陵,四方貢賦,由江以達京師,道近而易。自成祖遷燕,道里遼遠,法凡三變。初支運,次兌運、支運相參,至支運悉變為長運而制定。

洪武元年北伐し、浙江・江西及び蘇州等九府に命じ、糧三百万石を汴梁に運ぜしむ。已にして大将軍徐達、忻・崞・代・堅・台五州に令し糧を大同に運ぜしむ。中書省、符を下し山東行省に、水工を募り萊州洋海倉を発して永平衛に餉る。其の後海運以て北平・遼東に餉るを定制と為す。其の西北辺は則ち開封漕河を浚り陝西に餉り、陝西より転じて寧夏・河州に餉る。其の西南は川・貴に令し米を納めて中塩と為し、以て遠運を省く。当時各路皆近きに就き輸し、利便を得たり。

原文洪武元年北伐,命浙江、江西及蘇州等九府,運糧三百萬石於汴梁。已而大將軍徐達令忻、崞、代、堅、臺五州運糧大同。中書省符下山東行省,募水工發萊州洋海倉餉永平衛。其後海運餉北平、遼東為定制。其西北邊則浚開封漕河餉陝西,自陝西轉餉寧夏、河州。其西南令川、貴納米中鹽,以省遠運。於時各路皆就近輸,得利便矣。

永楽元年戸部尚書鬱新の言を納れ、始めて淮船三百石以上を受くる者を用い、道は淮及び沙河より陳州潁岐口跌坡に抵り、別に巨舟を以て黄河に入り八柳樹に抵り、車運して衛河に赴き北平に輸し、海運と相参ず。時に駕数臨幸し、百費仰ぎ給するも、辺に餉るのみに止まらず。淮・海運道凡そ二、而して臨清倉は河南・山東の粟を儲け、亦以て北平に輸し、合して之を計れば三運と為す。惟だ海運は官軍を用い、其の余は則ち皆民運なり。

原文永樂元年納戶部尚書鬱新言,始用淮船受三百石以上者,道淮及沙河抵陳州潁岐口跌坡,別以巨舟入黃河抵八柳樹,車運赴衛河輸北平,與海運相參。時駕數臨幸,百費仰給,不止餉邊也。淮、海運道凡二,而臨清倉儲河南、山東粟,亦以輸北平,合而計之為三運。惟海運用官軍,其餘則皆民運云。

会通河を浚うより、帝都督賈義・尚書宋礼に命じ舟師を以て運せしむ。礼は海船の大なる者千石、工窳にして輒ち敗るを以て、乃ち浅船五百艘を造り、淮・揚・徐・兗の糧百万を運び、以て海運の数に当つ。平江伯陳瑄之を継ぎ、頗る増して三千余艘に至る。時に淮・徐・臨清・德州各倉有り。江西・湖広・浙江の民は糧を運び淮安倉に至り、官軍を分遣し近きに就き輓運す。淮より徐に至るまでは浙・直の軍を以てし、徐より徳に至るまでは京衛の軍を以てし、徳より通に至るまでは山東・河南の軍を以てす。次を以て遞運し、歳凡そ四回、三百万余石に可く、名づけて支運と曰う。支運の法は、支する者は必ずしも当年の民納を出さず、納する者は必ずしも当年の軍支に供せず。数年を通じて以て裒益と為し、常額を失わざるを期して止む。是に由り海陸二運皆罷み、惟だ遮洋船を存し、毎歳河南・山東・小灘等の水次に於て、糧三十万石を兌し、十二は天津に輸し、十八は直沽より海に入り薊州に輸するのみ。数年を経ず、官軍多く調遣有り、遂に復た民運と為り、道遠くして数期に愆る。

原文自浚會通河,帝命都督賈義、尚書宋禮以舟師運。禮以海船大者千石,工窳輒敗,乃造淺船五百艘,運淮、揚、徐、兗糧百萬,以當海運之數。平江伯陳瑄繼之,頗增至三千餘艘。時淮、徐、臨清、德州各有倉。江西、湖廣、浙江民運糧至淮安倉,分遣官軍就近輓運。自淮至徐以浙、直軍,自徐至德以京衛軍,自德至通以山東、河南軍。以次遞運,歲凡四次,可三百萬餘石,名曰支運。支運之法,支者,不必出當年之民納;納者,不必供當年之軍支。通數年以為裒益,期不失常額而止。由是海陸二運皆罷,惟存遮洋船,每歲於河南、山東、小灘等水次,兌糧三十萬石,十二輸天津,十八由直沽入海輸薊州而已。不數年,官軍多所調遣,遂復民運,道遠數愆期。

宣徳四年、瑄及び尚書黄福議を建て復た支運法と為し、乃ち江西・湖広・浙江の民に令し百五十万石を淮安倉に運し、蘇・鬆・寧・池・廬・安・広徳の民に令し糧二百七十四万石を徐州倉に運し、応天・常・鎮・淮・揚・鳳・太・滁・和・徐の民に令し糧二百二十万石を臨清倉に運し、官軍に令し接運して京・通二倉に入れしむ。民糧既に近きに就き倉に入り、力大いに減省せらる。乃ち地の近遠、糧の多寡を量り、民船の十一或いは十三・五の一を抽り以て官軍に給す。惟だ山東・河南・北直隸は則ち径ち京倉に赴き、支運を用いず。尋いで南陽・懐慶・汝寧の糧を運び臨清倉に、開封・彰徳・衛輝の糧を運び德州倉にせしめ、其の後山東・河南皆德州倉に運ぶ。

原文宣德四年,瑄及尚書黃福建議復支運法,乃令江西、湖廣、浙江民運百五十萬石於淮安倉,蘇、鬆、甯、池、廬、安、廣德民運糧二百七十四萬石於徐州倉,應天、常、鎮、淮、揚、鳳、太、滁、和、徐民運糧二百二十萬石於臨清倉,令官軍接運入京、通二倉。民糧既就近入倉,力大減省,乃量地近遠,糧多寡,抽民船十一或十三、五之一以給官軍。惟山東、河南、北直隸則徑赴京倉,不用支運。尋令南陽、懷慶、汝寧糧運臨清倉,開封、彰德、衛輝糧運德州倉,其後山東、河南皆運德州倉。

六年、瑄言う「江南の民糧を諸倉に運ぶに、往復殆ど一年、農業に誤る。民に令し淮安・瓜洲に運び至り、衛所と兌せしむ。官軍運載して北に至り、路費耗米を与うれば、則ち軍民両便なり」と。是を兌運と為す。群臣に命じ会議せしむ。吏部蹇義等上るに官軍兌運民糧加耗の則例を以てし、地の遠近を以て差と為す。毎石、湖広八斗、江西・浙江七斗、南直隸六斗、北直隸五斗。民に運び淮安に至り軍運と兌する者有れば、只四斗を加え、兌運尽さざる有れば、仍た民に令し自ら運び諸倉に赴かしめ、兌するを願わざる者も亦其の自運を聴く。軍は既に耗を加え、又軽齎銀を与えて洪閘盤撥の費と為し、且つ他物を附載するを得ば、皆事に従うを楽み、而して民も亦多く遠運を艱しと為す。是に於て兌運する者多く、而して支運する者少なし。軍と民米を兌するに、往々恃強して勒索す。帝其の弊を知り、戸部に勅し正官を委ね監臨せしめ、私兌を許さず。已にして頗る加耗米を減じ、遠き者は六斗を過ぎず、近き者は二斗五升に至る。三分を以て率と為し、二分は米とし、一分は他物を以て準ず。正糧は斛こく面鋭く、耗糧は俱に平概す。運糧四百万石、京倉十四を貯え、通倉十六を貯う。臨・徐・淮三倉各御史を遣わし監収せしむ。

原文六年,瑄言:「江南民運糧諸倉,往返幾一年,誤農業。令民運至淮安、瓜洲,兌與衛所。官軍運載至北,給與路費耗米,則軍民兩便。」是為兌運。命羣臣會議。吏部蹇義等上官軍兌運民糧加耗則例,以地遠近為差。每石,湖廣八斗,江西、浙江七斗,南直隸六斗,北直隸五斗。民有運至淮安兌與軍運者,止加四斗,如有兌運不盡,仍令民自運赴諸倉,不願兌者,亦聽其自運。軍既加耗,又給輕齎銀為洪閘盤撥之費,且得附載他物,皆樂從事,而民亦多以遠運為艱。於是兌運者多,而支運者少矣。軍與民兌米,往往恃強勒索。帝知其弊,敕戶部委正官監臨,不許私兌。已而頗減加耗米,遠者不過六斗,近者至二斗五升。以三分為率,二分與米,一分以他物準。正糧斛面銳,耗糧俱平概。運糧四百萬石,京倉貯十四,通倉貯十六。臨、徐、淮三倉各遣御史監收。

正統初、運糧の数四百五十万石、而して兌運する者二百八十万余石、淮・徐・臨・徳四倉支運する者は十の三四のみ。土木の変、復た尽く山東・直隸の軍を留め操備せしむ。蘇・鬆諸府の運糧仍た民に属す。景泰六年、瓦剌貢に入り、乃ち復た軍運と為す。天順末、兌運法行わること久しく、倉入耗余を覬み、入庾率兌斛面し、且つ多く索めんことを求む。軍甚だ困す。憲宗即位し、漕運参将袁佑便宜を上言す。帝曰く「律令明言す、糧を収むるに令し納戸平準せしめ、石に耗を加うるは五升を過ぎずと。今運軍願わくは明らかに加えんとす、則ち倉吏の侵害過多なるを知るべし。今後軍に令し自ら概せしめ、毎石耗五升を加え、溢るる毋く、勒索する者は罪を治す」と。後督倉中官の言に従い、耗を加えて八升に至る。久しくして、復た溢収すること故の如く、屡禁して能く止むること無し。

原文正統初,運糧之數四百五十萬石,而兌運者二百八十萬餘石,淮、徐、臨、德四倉支運者十之三四耳。土木之變,復盡留山東、直隸軍操備。蘇、鬆諸府運糧仍屬民。景泰六年,瓦剌入貢,乃復軍運。天順末,兌運法行久,倉入覬耗餘,入庾率兌斛面,且求多索,軍困甚。憲宗即位,漕運參將袁佑上言便宜。帝曰:「律令明言,收糧令納戶平準,石加耗不過五升。今運軍願明加,則倉吏侵害過多可知。今後令軍自概,每石加耗五升,毋溢,勒索者治罪。」後從督倉中官言,加耗至八升。久之,復溢收如故,屢禁不能止也。

初め、糧を京師に運ぶに、未だ定額有らず。成化八年始めて四百万石を定め、自後以て常と為す。北糧七十五万五千六百石、南糧三百二十四万四千四百石、其の内兌運する者三百三十万石、支運より改兌する者七十万石。兌運の中、湖広・山東・河南折色十七万七千七百石。通計して兌運・改兌に耗米を加えて京・通両倉に入るる者は、凡そ五百十八万九千七百石。而して南直隸正糧独り百八十万、薊州一府七十万、加耗は外なり。浙の賦は蘇に視て数万減ず。江西・湖広は又之に殺ぐ。天津・蘇州・密雲・昌平、共に米六十四万余石を与え、悉く兌運米を支う。而して臨・徳二倉は、預備米十九万余石を貯え、山東・河南の改兌米を取て之を充つ。災傷に遇えば、則ち二倉の米を撥ち以て運を補い、務めて四百万の額に足し、缺かしめざるなり。

原文初,運糧京師,未有定額。成化八年始定四百萬石,自後以為常。北糧七十五萬五千六百石,南糧三百二十四萬四千四百石,其內兌運者三百三十萬石,由支運改兌者七十萬石。兌運之中,湖廣、山東、河南折色十七萬七千七百石。通計兌運、改兌加以耗米入京、通兩倉者,凡五百十八萬九千七百石。而南直隸正糧獨百八十萬,薊州一府七十萬,加耗在外。浙賦視蘇減數萬。江西、湖廣又殺焉。天津、蘇州、密雲、昌平,共給米六十四萬餘石,悉支兌運米。而臨、德二倉,貯預備米十九萬餘石,取山東、河南改兌米充之。遇災傷,則撥二倉米以補運,務足四百萬之額,不令缺也。

成化七年に至り、改兌の議が起こった。時に応天巡撫の滕昭は運軍に命じて江南の水次に赴き交兌させ、加耗の外に、更に一石につき米一斗を増して渡江の費用とした。数年後、帝は淮・徐・臨・徳の四倉の支運七十万石の米を、悉く水次交兌に改めるよう命じた。これにより悉く改兌に変わり、官軍の長運は遂に定制となった。しかしこの時、倉司の者は多く苛酷に取り立て、甚だしきは額外の罰まであり、運軍は転々と借金を重ねて支えきれなかった。弘治元年、都御史の馬文升が運軍の苦しみを上疏して論じ、言うには、「各直省の運船は、皆工部が価銀を給し、有司に監造させる。近頃、漕運総兵が価銀が時宜に給されないことを理由に、自ら価銀を請け領して造船することを求めた。ところが部臣は軍士が愛護を加えないことを慮り、本部が四分の材料を出し、軍衛が三分を負担し、旧船を三分に充当するよう議した。軍衛には措弁する術がなく、皆軍士が資産を売り、子女を売ってこれを供し、これが造船の苦しみである。正軍の逃亡は数多く、而して額数は減らず、皆余丁でこれを充て、一戸に三、四人が応役する者がある。春に兌し秋に帰り、艱辛は万状である。船が張家湾に至れば、又車を雇って盤撥し、多く借金を称して用を済ませ、これが往来の苦しみである。その称する借金に、運官はこれに因って侵漁し、倍の利息で償還を責める。而して軍士は或いは自ら土産を載せて薪米と交換しようとするも、又禁例に阻まれ、多く掠奪される。今宜しく造船費を毎艘に銀二十両加増し、而して運官及び有司の科害・捜検の弊を禁約すれば、庶幾く軍の困窮は少し緩和されよう。」詔してその議に従った。五年、戸部尚書の葉淇が言うには、「蘇・松諸府は、連年凶作で、民が漕米を買うのに、毎石銀二両である。而して北直隸・山東・河南は毎年宣府・大同の二辺に糧料を供し、毎石も銀一両である。去年、蘇州の兌運は既に五十万石を折徴し、毎石銀一両であった。今諸府にこれを推行し、而してその価額を少し差等をつけることを請う。災害の重い所は、石七銭、稍々軽い所は、石を仍一両とする。俱に部に解送して各辺に転発し、北直隸三処の歳供の数に充当し、而して三処の本色を収めて京倉に輸送すれば、費用は省け而して事は容易に成就しよう。」これを従った。以後歳に災害があれば、輒ち権宜に銀に折徴し、水次倉の支運の糧を以てその数を充て、而して折価は六、七銭を率とし、再び一両に至ることは無かった。

原文至成化七年,乃有改兌之議。時應天巡撫滕昭令運軍赴江南水次交兌,加耗外,復石增米一斗為渡江費。後數年,帝乃命淮、徐、臨、德四倉支運七十萬石之米,悉改水次交兌。由是悉變為改兌,而官軍長運遂為定制。然是時,司倉者多苛取,甚至有額外罰,運軍輾轉稱貸不支。弘治元年,都御史馬文升疏論運軍之苦,言:「各直省運船,皆工部給價,令有司監造。近者,漕運總兵以價不時給,請領價自造。而部臣慮軍士不加愛護,議令本部出料四分,軍衛任三分,舊船抵三分。軍衛無從措辦,皆軍士賣資產、鬻男女以供之,以造船之苦也。正軍逃亡數多,而額數不減,俱以餘丁充之,一戶有三、四人應役者。春兌秋歸,艱辛萬狀。船至張家灣,又僱車盤撥,多稱貸以濟用,此往來之苦也。其所稱貸,運官因以侵漁,責償倍息。而軍士或自載土產以易薪米,又格於禁例,多被掠奪。今宜加造船費每艘銀二十兩,而禁約運官及有司科害搜檢之弊,庶軍困少蘇。」詔從其議。五年,戶部尚書葉淇言:「蘇、鬆諸府,連歲荒歉,民買漕米,每石銀二兩。而北直隸、山東、河南歲供宣、大二邊糧料,每石亦銀一兩。去歲,蘇州兌運已折五十萬石,每石銀一兩。今請推行於諸府,而稍差其直。災重者,石七錢,稍輕者,石仍一兩。俱解部轉發各邊,抵北直隸三處歲供之數,而收三處本色以輸京倉,則費省而事易集。」從之。自後歲災,輒權宜折銀,以水次倉支運之糧充其數,而折價以六七錢為率,無復至一兩者。

先に、成化年間に長運の法を行った。江南の州県は糧を南京に運び、官軍に命じて水次で兌支させ、加耗と輸輓の費用を省く計算で、余米十万石余りを得、預備倉に貯えて緩急の用に資した。ここに至り、巡撫都御史が兌支に弊害があるとして、旧の如く上倉して後に放支するよう命じることを請うた。戸部が言うには、「兌支の法は善く、変易すべからず。」詔して部の議に従い、余った分を就いて各衛倉に貯え、正として支銷に充当した。又戸部の言に従い、山東の改兌糧九万石は、仍く民に自ら臨・徳二倉に運ぶことを聴き、官軍に支運させた。正徳二年、漕運官が水次倉の儲蓄を疏通することを請い、言うには、「往時は民が淮・徐・臨・徳の四倉に運び、衛軍の支運を待ったが、後に附近の州県の水次交兌に改めた。已にして支運七十万石も亦改兌するよう命じた。但し七十万石の外に、猶交兌し尽くさないものがあり、民は仍く四倉に運び赴き、久しく支銷が無く、以て陳腐に至っている。請う、浙江・江西・湖広の正兌糧米三十五万石を、銀に折って京に解送し、而して三省の衛軍に臨・徳等の倉に赴き、折った数と同じだけ支運させよ。然らば諸倉の米は腐らず、三省の漕卒は支運に便であり、歳漕の額の外に、又三十五万の折銀を得、一挙にして数善が備わろう。」帝は部臣に議させ、その請いの如くにした。六年、戸部侍郎の邵宝が漕運の遅滞を以て、支運法を復することを請うた。戸部が議するに、支運法は廃れて久しく、卒然に復することはできず、事は遂に止んだ。

原文先是,成化間行長運之法。江南州縣運糧至南京,令官軍就水次兌支,計省加耗輸輓之費,得餘米十萬石有奇,貯預備倉以資緩急之用。至是,巡撫都御史以兌支有弊,請令如舊上倉而後放支。戶部言:「兌支法善,不可易。」詔從部議,以所餘就貯各衛倉,作正支銷。又從戶部言,山東改兌糧九萬石,仍聽民自運臨、德二倉,令官軍支運。正德二年,漕運官請疏通水次倉儲,言:「往時民運至淮、徐、臨、德四倉,以待衛軍支運,後改附近州縣水次交兌。已而並支運七十萬石亦令改兌。但七十萬石之外,猶有交兌不盡者,民仍運赴四倉,久無支銷,以致陳腐。請將浙江、江西、湖廣正兌糧米三十五萬石,折銀解京,而令三省衛軍赴臨、德等倉,支運如所折之數。則諸倉米不腐,三省漕卒便於支運。歲漕額外,又得三十五萬折銀,一舉而數善具矣。」帝命部臣議,如其請。六年,戶部侍郎邵寶以漕運遲滯,請復支運法。戶部議,支運法廢久,不可卒復,事遂寢。

臨・徳二倉の貯米は、凡そ十九万石で、十年で百九十万石となる計算である。世宗の初めより、災傷による撥補が日に多くなり、而して山東・河南は凶作のため、数々軽減を請い、且つ二倉の囤積は多く朽腐した。ここにおいて改折の議が屡々起こり、而して倉儲は漸く消耗した。嘉靖元年、漕運総兵の楊宏が、軽齎銀を運官に道中支用させ、舟車を雇う費用とし、必ずしも鞘に装して印封せず、羨余を計算して、漕卒を苦しめないよう請うた。給事中・御史が交互にこれを駁した。戸部が言うには、「科道官の論は、奸を防ぐことを主とし、是である。但し軽齎は本来転般の費用に資するもので、今官軍の侵耗を慮り、その贏余を尽く取り太倉に帰するならば、則ち脚価を正糧とするもので、立法の初意ではない。」乃ち議して運船が通州に至れば、巡倉御史が核験し、酌量して支用の実数を定め、定規として著す。羨余があれば、太倉に輸送せず、即ち以て船を修繕し、官旗で漁蠹する者は重罪に処す。軽齎銀とは、憲宗が諸倉を改兌するに当たり、路費を給し、始めて各々耗米を有し、兌運米は俱に一平一鋭で、故に鋭米があり、船に随って給運される四斗の外に、余りを銀に折ったもので、これを軽齎と謂う。凡そ四十四万五千余両。後頗る太倉に入った。隆慶年間、運道が艱難で阻害され、議者は膠萊河を開き、海運を復することを欲した。淮安の清江浦口より、新壩・馬家壕を経て海倉口に至り、直沽に直行し、只海套に循るだけで、大洋を泛ばない。上疏して遣わされ、官が勘して報告したが、水多く沙磧であることを以て止んだ。

原文臨、德二倉之貯米也,凡十九萬,計十年得百九十萬。自世宗初,災傷撥補日多,而山東、河南以歲歉,數請輕減,且二倉囤積多朽腐。於是改折之議屢興,而倉儲漸耗矣。嘉靖元年,漕運總兵楊宏,請以輕齎銀聽運官道支,為顧僦舟車之費,不必裝鞘印封,計算羨餘,以苦漕卒。給事、御史交駁之。戶部言:「科道官之論,主於防奸,是也。但輕齎本資轉般費,今慮官軍侵耗,盡取其贏餘以歸太倉,則以腳價為正糧,非立法初意也。」乃議運船至通州,巡倉御史核驗,酌量支用實數,著為定規。有羨餘,不輸太倉,即用以修船,官旗漁蠹者重罪。輕齎銀者,憲宗以諸倉改兌,給路費,始各有耗米;兌運米,俱一平一銳,故有銳米;自隨船給運四斗外,餘折銀,謂之輕齎。凡四十四萬五千餘兩。後頗入太倉矣。隆慶中,運道艱阻,議者欲開膠萊河,復海運。由淮安清江浦口,曆新壩、馬家壕至海倉口,徑抵直沽,止循海套,不泛大洋。疏上,遣官勘報,以水多沙磧而止。

神宗の時、漕運総督の舒応龍が言うには、「国家は両都を並建し、淮・徐・臨・徳は実に南北の咽喉である。兌運が久しく行われて以来、臨・徳には尚歳積があるが、而して淮・徐の二倉には粒米も無い。請う、今より山東・河南が全く豊作の時は、尽く本色を徴して倉に上納させよ。計算すると臨・徳は既に五十余万に足りるならば、則ち二倉に納めさせ、亦五十万石を積んで止めよ。」これを従った。当の時、折銀は漸く多くなった。万暦三十年、漕運が京に抵るのは、僅か百三十八万余石であった。而して撫臣が漕米を載留して河工を済すよう議し、倉場侍郎の趙世卿がこれを争い、言うには、「太倉は入るが当に出ず、二年後の計算では、六軍万姓は新漕を待って炊事するに至り、倘し輸納が期に遅れれば、復た京師有る無からん。」蓋し災傷による折銀は、本来漕糧を折って京軍の月俸に充当するものである。その時混支して辺餉に給したので、遂に銀米両空に至り、故に世卿が争ったのである。以後倉儲は漸く匱乏し、漕政も亦益々弛緩した。啓・禎の頃に至っては、天下蕭然として煩費し、歳供は愈々支えるに足らなくなった。

原文神宗時,漕運總督舒應龍言:「國家兩都並建,淮、徐、臨、德,實南北咽喉。自兌運久行,臨、德尚有歲積,而淮、徐二倉無粒米。請自今山東、河南全熟時,盡徵本色上倉。計臨、德已足五十餘萬,則令納於二倉,亦積五十萬石而止。」從之。當是時,折銀漸多。萬曆三十年,漕運抵京,僅百三十八萬餘石。而撫臣議載留漕米以濟河工,倉場侍郎趙世卿爭之,言:「太倉入不當出,計二年後,六軍萬姓將待新漕舉炊,倘輸納愆期,不復有京師矣。」蓋災傷折銀,本折漕糧以抵京軍月俸。其時混支以給邊餉,遂致銀米兩空,故世卿爭之。自後倉儲漸匱,漕政亦益馳。迨於啟、禎,天下蕭然煩費,歲供愈不足支矣。

運船の数は、永楽から景泰まで、大小定まらず、数は極めて多かった。天順以後、船一万一千七百七十隻、官軍十二万人と定めた。附載して土宜を運ぶことを許し、税鈔を免徴した。孝宗の時は十石に制限し、神宗の時は六十石に至った。

原文運船之數,永樂至景泰,大小無定,為數至多。天順以後,定船萬一千七百七十,官軍十二萬人。許令附載土宜,免徵稅鈔。孝宗時限十石,神宗時至六十石。

憲宗は運漕船の北京到着期限を定め、北直隸・河南・山東は五月初一日、南直隸は七月初一日とし、長江を渡って支兌する者は一月延長、浙江・江西・湖廣は九月初一日とした。通算して三年で考課とし、期限に違反した者は運官を降格・処罰した。武宗は水行程の図表を作り、日ごとに進止した駅地を記入させ、期限に遅れた米は德州などの倉に貯蔵し、これを寄囤と称した。世宗は淮河通過の行程期限を定め、江北は十二月、江南は正月、湖廣・浙江・江西は三月とし、神宗の時に二月に改めた。また北京到着期限を五月としていたものを一月短縮し、七・八・九月としていたものはそれぞれ二月短縮した。後にはさらに一律に一月短縮した。神宗の初め、十月に開倉、十一月に兌竣(徴収完了)と定め、大県は船の到着後十日、小県は五日を期限とした。十二月に船団を出発させ、二月に淮河を通過、三月に洪(徐州洪)を過ぎ閘に入る。すべて事前に様米を戸部に呈出し、運糧が到着した日に照合して同じであれば収受した。

原文憲宗立運船至京期限,北直隸、河南、山東五月初一日,南直隸七月初一日,其過江支兌者,展一月,浙江、江西、湖廣九月初一日。通計三年考成,違限者,運官降罰。武宗列水程圖格,按日次填行止站地,違限之米,頓德州諸倉,曰寄囤。世宗定過淮程限,江北十二月者,江南正月,湖廣、浙江、江西三月,神宗時改為二月。又改至京限五月者,縮一月,七八九月者,遞縮兩月。後又通縮一月。神宗初,定十月開倉,十一月兌竣,大縣限船到十日,小縣五日。十二月開幫,二月過淮,三月過洪入閘。皆先期以樣米呈戶部,運糧到日,比驗相同乃收。

災害による損傷を奏請して改折(米納を銀納に変更)する者は、七月を過ぎてはならない。題議(上奏審議)が後期になったものや臨時に改題したものは、案を立てて覆審を免除する。漂流したものは、食米と抵換する。長江での漂流は大患、河道での漂流は小患とし、二百石を超えるものは大患、二百石以内は小患とした。小患は把総が検分して報告し、大患は具奏したが、その後は多少を問わず、一概に奏上して検分するようになった。

原文凡災傷奏請改折者,毋過七月。題議後期及臨時改題者,立案免覆。漂流者,抵換食米。大江漂流為大患,河道為小患;二百石外為大患,二百石內為小患。小患把總勘報,大患具奏,其後不計多寡,概行奏勘矣。

初め、船は楠や杉を用い、下等のものは鬆を用いた。三年ごとに小修、六年ごとに大修、十年ごとに造り替えた。毎船は正耗米四百七十二石を受けた。その後、船数が不足し、一船で七八百石の米を受けるようになった。附載や夾帯が日増しに多くなり、所在で滞留して期限に違反した。ひとたび河川の決壊があれば、ただちに漂流が生じ、官軍はこれに乗じて不正を行った。水次で折乾(米を銀に換える不正)、沿路で侵盗し、水火の災いと偽り称し、船底を穿って自ら沈める者さえあった。

原文初,船用楠杉,下者乃用鬆。三年小修,六年大修,十年更造。每船受正耗米四百七十二石。其後船數缺少,一船受米七八百石。附載夾帶日多,所在稽留違限。一遇河決,即有漂流,官軍因之為奸。水次折乾,沿途侵盜,妄稱水火,至有鑿船自沉者。

明初、武臣に命じて海運を監督させ、かつて漕運使を設けたが、まもなく廃止した。成祖以後は御史を用い、また侍郎・都御史で催督し、郎中・員外が分理し、主事が督兌するなど、その制度は一定しなかった。景泰二年に初めて淮安に漕運総督を設置し、総兵・参将とともに漕事を共同処理した。漕司は十二総を統率し、十二万の軍は、京操十二営軍と同等とされた。初め、宣宗は運糧総兵官・巡撫・侍郎に毎年八月に北京へ赴き、翌年の漕運事宜を会議するよう命じ、漕運総督が設置されると、総督にも同様に北京赴任を命じた。万暦十八年以後になってようやく免除された。毎年正月、総漕は揚州を巡察し、瓜洲・淮安の閘通過を管理した。総兵は徐・邳に駐屯し、洪通過・閘入りを監督し、同様に漕参政が管押して北京へ赴かせた。攢運には御史・郎中が、押運には参政が、監兌・理刑・管洪・管廠・管閘・管泉・監倉には主事が、清江・衛河には提挙がそれぞれあった。兌が完了し淮河・洪を通過すると、巡撫・漕司・河道はそれぞれ職掌に応じて奏報した。有司が米を準備せず、軍衛が船を準備せず、淮河通過を期限に遅れた場合は、その責任は巡撫にあった。米が整い船が備わりながら、直ちに検分・通過させず、河川の障害がないのに船団を圧迫して停泊させ、洪通過を遅らせて漂流・凍結させた場合は、その責任は漕司にあった。船と糧が期限通りであるのに、河渠が淤浅で、疏浚が行われず、閘座の啓閉が時を失し、洪を通過して張家湾に到達できない場合は、その責任は河道にあった。

原文明初,命武臣督海運,嘗建漕運使,尋罷。成祖以後用御史,又用侍郎、都御史催督,郎中、員外分理,主事督兌,其制不一。景泰二年始設漕運總督於淮安,與總兵、參將同理漕事。漕司領十二總,十二萬軍,與京操十二營軍相準。初,宣宗令運糧總兵官、巡撫、侍郎歲八月赴京,會議明年漕運事宜,及設漕運總督,則並令總督赴京。至萬曆十八年後始免。凡歲正月,總漕巡揚州,經理瓜、淮過閘。總兵駐徐、邳,督過洪入閘,同理漕參政管押赴京。攢運則有御史、郎中,押運則有參政,監兌、理刑、管洪、管廠、管閘、管泉、監倉則有主事,清江、衛河有提舉。兌畢過淮過洪,巡撫、漕司、河道各以職掌奏報。有司米不備,軍衛船不備,過淮誤期者,責在巡撫。米具船備,不即驗放,非河梗而壓幫停泊,過洪誤期因而漂凍者,責在漕司。船糧依限,河渠淤淺,疏浚無法,閘坐啟閉失時,不得過洪抵灣者,責在河道。

明初、漕政にはしばしば優恤を加え、仁宗・宣宗は漕舟の使役を禁じ、運漕の遅延者を寛恕した。英宗の時に初めて口糧を差し引いて均攤し、運軍が法度を守らず民害となるようになった。その後、漕政は日々弛緩し、軍は耗米で私物と交換し、途中で販売して行程を滞らせた。到着する頃には、かえって倉米を買い補納し、多くは足数に満たなかった。そして糧長は米に沙や水を混ぜるのが常で、河南・山東は特に甚だしく、しばしば蒸れて湿り腐敗して食用に堪えなかった。権要は運軍に銀を貸して利を貪り、関税を撥給して船料に充て償還させることまで請願した。漕運把総は概ね賄賂によって得た。倉場は定額外に科取し、年間十四万に及んだ。世宗の初政、諸弊は多く厘革されたが、漂流・違限の二弊は、日増しに甚だしくなった。中葉以後は、ますます究明し難くなった。

原文明初,於漕政每加優恤,仁、宣禁役漕舟,宥遲運者。英宗時始扣口糧均攤,而運軍不守法度為民害。自後漕政日馳,軍以耗米易私物,道售稽程。比至,反買倉米補納,多不足數。而糧長率攙沙水於米中,河南、山東尤甚,往往蒸濕浥爛不可食。權要貸運軍銀以罔取利,至請撥關稅給船料以取償。漕運把總率由賄得。倉場額外科取,歲至十四萬。世宗初政,諸弊多釐革,然漂流、違限二弊,日以滋甚。中葉以後,益不可究詰矣。

漕糧のほか、蘇・鬆・常・嘉・湖の五府は、内府へ白熟粳糯米十七万四十余石(内、折色八千余石)、各府部へ糙粳米四万四千余石(内、折色八千八百余石)を輸送し、民に運ばせた。これを白糧船と称した。長運法が行われるようになってから、糧はすべて軍が運ぶようになったが、白糧は従来通り民運であった。穆宗の時、陸樹德が言上した。「軍運は軍儲を充たし、民運は官祿を充たす。人は軍運の苦しみを知るが、民運が特に苦しいことを知らない。船戸の要求、運軍の欺陵、洪閘での守候、北京入り・倉入り、その弊害は百出する。嘉靖初年、民運でまだ家を保全できる者がいたが、十年後には破産しない者はなかった。白糧を軍に帯運させれば甚だ便である。」上疏が入り、下部に議させたが、従わなかった。

原文漕糧之外,蘇、鬆、常、嘉、湖五府,輸運內府白熟粳糯米十七萬四十餘石,內折色八千餘石,各府部糙粳米四萬四千餘石,內折色八千八百餘石,令民運。謂之白糧船。自長運法行,糧皆軍運,而白糧民運如故。穆宗時,陸樹德言:「軍運以充軍儲,民運以充官祿。人知軍運之苦,不知民運尤苦也。船戶之求索,運軍之欺陵,洪閘之守候,入京入倉,厥弊百出。嘉靖初,民運尚有保全之家,十年後無不破矣。以白糧令軍帶運甚便。」疏入,下部議。不從。

諸倉へ輸送すべきものには定数があり、あるいは他鎮へ改撥する場合、水次で応兌すべき漕糧は、すなわち坐派された鎮軍に領兌させて価銀を支給し、州県官が車戸を監督して遠倉まで運ばせるか、あるいは軍に価銀を給付して就地的に関支させるものを、総称して穵運といった。九辺の地では、糧を輸送するのは概ね車を用い、宣徳の時、開平への糧餉も同様であったが、蘭・甘・松潘ではしばしば民に背負わせた。永楽中、またかつて広東に命じて海運二十万石を交址に給したという。

原文凡諸倉應輸者有定數,其或改撥他鎮者,水次應兌漕糧,即令坐派鎮軍領兌者給價,州縣官督車戶運至遠倉,或給軍價就令關支者,通謂之穵運。九邊之地,輸糧大率以車,宣德時,餉開平亦然,而蘭、甘、松潘,往往使民背負。永樂中,又嘗令廣東海運二十萬石給交址云。

明初、京衛には軍儲倉があった。洪武三年に増設して二十所とし、また臨濠・臨清の二倉を建てて転運に供した。各行省には倉があり、官吏の俸給はこれから支給された。辺境には倉があり、屯田の収入を収めて軍に給した。州県には則ち預備倉を設け、東西南北四所として凶荒を賑った。鈔法が行われるようになってから、かなり省廃された。二十四年に糧十六万石を臨清に儲け、訓練騎兵に給した。二十八年に皇城四門倉を置き、糧を儲けて守禦軍に給した。京師諸衛倉を増やして凡そ四十一とした。また北平・密雲諸県倉を設け、糧を儲けて北征を助けた。永楽年間に、天津及び通州左衛倉を置き、また北京三十七衛倉を設けた。さらに天下の府県に多く倉儲を設けさせ、四郷にある預備倉を城内に移置した。会通河が完成すると、初めて徐州・淮安・德州に倉を設け、臨清は洪武の旧制に因り、天津倉と合わせて凡そ五つとし、これを水次倉と称して転運を助けた。その後、また德州倉を臨清の永清壩に移し、武清衛倉を河西務に設け、通州衛倉を張家湾に設けた。宣徳年間に、臨清倉を増築して三百万石を容れ、北京及び通州倉を増置した。京倉は御史・戸部官・錦衣千百戸が季節ごとに交替して巡察した。外倉は則ち布政司・按察司・都司が関防した。各倉の門には、致仕武官二人が老幼軍丁十人を率いて守り、半年ごとに交替した。英宗初年、廷臣に命じて集議させ、天下の司府州県で倉のあるものは衛所倉をこれに属させ、倉のないものは衛所を改めて隷属させた。ただ遼東・甘粛・寧夏・万全及び沿海衛所で府州県のないものは依然として旧制のままとした。正統年間に、京衛倉を増置して凡そ七つとした。兌運法が行われるようになってから、諸倉で支運するものは少なくなり、京倉・通倉は収容できなくなったので、臨清・德州・河西務倉の三分の一を壊し、京倉・通倉に改めた。景泰初年、武清衛諸倉を通州に移した。成化初年、城外にある臨清・德州の預備倉を廃し、城内の空き倉庫に預備米を儲けた。臨清のものを常盈、德州のものを常豊と名付けた。京倉は凡そ五十六、通倉は十六。直省の府州県・藩府・辺隘・堡站・衛所屯戍には皆倉があり、少ないものは一二、多いものは二三十ほどであった。

原文明初,京衛有軍儲倉。洪武三年增置至二十所,且建臨濠、臨清二倉以供轉運。各行省有倉,官吏俸取給焉。邊境有倉,收屯田所入以給軍。州縣則設預備倉,東南西北四所,以振凶荒。自鈔法行,頗有省革。二十四年儲糧十六萬石於臨清,以給訓練騎兵。二十八年置皇城四門倉,儲糧給守禦軍。增京師諸衛倉凡四十一。又設北平、密雲諸縣倉,儲糧以資北征。永樂中,置天津及通州左衛倉,且設北京三十七衛倉。益令天下府縣多設倉儲,預備倉之在四鄉者移置城內。迨會通河成,始設倉於徐州、淮安、德州,而臨清因洪武之舊,並天津倉凡五,謂之水次倉,以資轉運。既,又移德州倉於臨清之永清壩,設武清衛倉於河西務,設通州衛倉於張家灣。宣德中,增造臨清倉,容三百萬石。增置北京及通州倉。京倉以御史、戶部官、錦衣千百戶季更巡察。外倉則佈政、按察、都司關防之。各倉門,以致仕武官二,率老幼軍丁十人守之,半年一更。英宗初,命廷臣集議,天下司府州縣,有倉者以衛所倉屬之,無倉者以衛所改隸。惟遼東、甘肅、寧夏、萬全及沿海衛所,無府州縣者仍其舊。正統中,增置京衛倉凡七。自兌運法行,諸倉支運者少,而京、通倉不能容,乃毀臨清、德州、河西務倉三分之一,改為京、通倉。景泰初,移武清衛諸倉於通州。成化初,廢臨、德預備倉在城外者,而以城內空廒儲預備米。名臨清者曰常盈,德州者曰常豐。凡京倉五十有六,通倉十有六。直省府州縣、籓府、邊隘、堡站、衛所屯戍皆有倉,少者一二,多者二三十云。

預備倉の設置は、太祖が耆民を選んで鈔を運ばせ米を糴し、賑済に備えさせ、即ちこれに掌らせた。天下の州県は多く儲蓄したが、後漸く廃弛した。于謙が河南・山西を巡撫し、その政を修めた。周忱が南畿を巡撫し、別に済農倉を立てた。他人はこれができなかった。正統の時、侵盗の罪を重くし、妻を僉して充軍に至らしめた。かつ穀千五百石を納める者を定め、勅を下して義民と褒め、本戸の雑役を免じた。凡そ饑を賑う米一石は、豊年を待って、稻穀二石五斗を納めて官に返した。弘治三年、州県で十里以下のものは一万五千石を積み、二十里のものは二万石を積むことと制限した。衛千戸所は一万五千石、百戸所は三百石。考満の日に、その多寡を稽えて殿最とした。三分に及ばない者は俸を奪い、六分以上の者は降調した。十八年に贖罪贓罰を令し、皆穀を糴して倉に入れた。正徳年間に、囚人が紙を納める場合、その八分を米に折り換えて倉に入れることを令した。軍官で犯した者は、穀を納めて立功に準じた。初め、預備倉には皆倉官を設けたが、この時に革め、州県官及び管糧倉官にその事を領させた。嘉靖初年、諭徳顧鼎臣が言う、「成化・弘治の時、毎年存留余米を預備倉に入れ、緩急に備えがあった。今は秋糧は僅かに兌運に足りるのみで、預備には粒米もない。一たび災傷に遇えば、輒ち他糧の留保を奏し、及び富民に勧めて穀を借り、故事に応じる。急ぎ預備倉糧を復して民を裕かにすることを乞う」。帝は乃ち有司に設法して多く米穀を積ませ、なお古の常平法に倣い、春に貧民を賑い、秋の収穫時に官に返し、利息を取らないこととした。府は一万石、州は四五千石、県は二三千石を率とした。その後、粟を積み尽くして平糶し、貧民を済い、儲積は漸く減じた。隆慶の時、劇郡は六千石を過ぎず、小邑は千石に止まった。久しくして数は益々減じ、科罰もまた益々軽くなった。万暦年間、上州郡は三千石に至って止まり、小邑は或いは僅かに百石であった。有司は具文として踏襲し、屡々詔を下して申し飭めても、概ね虚数で欺罔するのみであった。

原文預備倉之設也,太祖選耆民運鈔糴米,以備振濟,即令掌之。天下州縣多所儲蓄,後漸廢馳。于謙撫河南、山西,修其政。周忱撫南畿,別立濟農倉。他人不能也。正統時,重侵盜之罪,至僉妻充軍。且定納穀千五百石者,敕獎為義民,免本戶雜役。凡振饑米一石,俟有年,納稻穀二石五斗還官。弘治三年限州縣十里以下積萬五千石,二十里積二萬石;衛千戶所萬五千石,百戶所三百石。考滿之日,稽其多寡以為殿最。不及三分者奪俸,六分以上降調。十八年令贖罪贓罰,皆糴穀入倉。正德中,令囚納紙者,以其八折米入倉。軍官有犯者,納谷準立功。初,預備倉皆設倉官,至是革,令州縣官及管糧倉官領其事。嘉靖初,諭德顧鼎臣言:「成、弘時,每年以存留餘米入預備倉,緩急有備。今秋糧僅足兌運,預備無粒米。一遇災傷,輒奏留他糧及勸富民借谷,以應故事。乞急復預備倉糧以裕民。」帝乃令有司設法多積米穀,仍仿古常平法,春振貧民,秋成還官,不取其息。府積萬石,州四五千石,縣二三千石為率。既,又定十里以下萬五千石,累而上之,八百里以下至十九萬石。其後積粟盡平糶,以濟貧民,儲積漸減。隆慶時,劇郡無過六千石,小邑止千石。久之數益減,科罰亦益輕。萬曆中,上州郡至三千石止,而小邑或僅百石。有司沿為具文,屢下詔申飭,率以虛數欺罔而已。

弘治年間、江西巡撫林俊は嘗て常平及び社倉の建設を請うた。嘉靖八年に乃ち各撫・按に社倉を設けさせた。民に二三十家を一社とさせ、家が殷実で行義ある者一人を社首とし、処事公平な者一人を社正とし、書算能き者一人を社副と選び、毎朔望に会集し、別に戸を上中下とし、米四斗から一斗まで差等を出し、斗ごとに耗五合を加え、上戸がその事を主とした。凶年の饑饉には、上戸で不足の者は量を貸し、豊年には倉に返した。中下戸は酌量して賑給し、倉に返さなかった。有司は冊を造り撫・按に送り、毎年一回察覈した。倉が空ならば、社首を罰して一年分の米を出させた。その法は頗る善かったが、その後これを行える力ある者はなかった。

原文弘治中,江西巡撫林俊嘗請建常平及社倉。嘉靖八年乃令各撫、按設社倉。令民二三十家為一社,擇家殷實而有行義者一人為社首,處事公平者一人為社正,能書算者一人為社副,每朔望會集,別戶上中下,出米四斗至一斗有差,鬥加耗五合,上戶主其事。年饑,上戶不足者量貸,稔歲還倉。中下戶酌量振給,不還倉。有司造冊送撫、按,歲一察覈。倉虛,罰社首出一歲之米。其法頗善,然其後無力行者。

両京の庫蔵は、先後に建設され、その制は大略同じであった。内府には凡そ十庫あり、内承運庫は緞匹・金銀・宝玉・歯角・羽毛を貯え、金花銀が最大で、歳進百万両有余。広積庫は硫黄・硝石を貯える。甲字あざな庫は布匹・顔料を貯える。乙字庫は胖襖・戦鞋・軍士裘帽を貯える。丙字庫は棉花・絲纊を貯える。丁字庫は銅鉄・獣皮・蘇木を貯える。戊字庫は甲仗を貯える。贓罰庫は没官物を貯える。広恵庫は錢鈔を貯える。広盈庫は紵絲・紗羅・綾錦・槹絹を貯える。六庫は皆戸部に属し、ただ乙字庫は兵部に属し、戊字・広積・広盈庫は工部に属した。また天財庫があり、司鑰庫とも名付け、各衙門の管鑰を貯え、また錢鈔を貯えた。供用庫は粳稻・熟米及び上供物を貯える。以上を通して内庫と謂う。宮内にあるものには、また内東裕庫・宝蔵庫があり、裏庫と謂う。凡そ裏庫は有司に関わらない。会帰門・宝善門の東及び南城磁器諸庫は、則ち外庫と謂う。若し内府諸監司局、神楽堂、犠牲所、太常寺・光禄寺、国子監は、皆各々その掌る所に応用諸物を収貯した。太僕寺は則ち馬価銀を帰属させた。明初、嘗て行用庫を京城及び諸府州県に置き、昏爛の鈔を収めて交換した。仁宗の時に罷めた。

原文兩京庫藏,先後建設,其制大略相同。內府凡十庫:內承運庫,貯緞匹、金銀、寶玉、齒角、羽毛,而金花銀最大,歲進百萬兩有奇。廣積庫,貯硫黃、硝石。甲字形檔,貯布匹、顏料。乙字形檔,貯胖襖、戰鞋、軍士裘帽。丙字形檔,貯棉花、絲纊。丁字形檔,貯銅鐵、獸皮、蘇木。戊字形檔,貯甲仗。贓罰庫,貯沒官物。廣惠庫,貯錢鈔。廣盈庫,貯紵絲、紗羅、綾錦、槹絹。六庫皆屬戶部,惟乙字形檔屬兵部,戊字、廣積、廣盈庫屬工部。又有天財庫,亦名司鑰庫,貯各衙門管鑰,亦貯錢鈔。供用庫,貯粳稻、熟米及上供物。以上通謂之內庫。其在宮內者,又有內東裕庫、寶藏庫,謂之裏庫。凡裏庫不關於有司。其會歸門、寶善門迤東及南城磁器諸庫,則謂之外庫。若內府諸監司局,神樂堂,犧牲所,太常、光祿寺,國子監,皆各以所掌,收貯應用諸物。太僕則馬價銀歸之。明初,嘗置行用庫於京城及諸府州縣,以收易昏爛之鈔。仁宗時罷。

英宗の時に、初めて太倉庫を設置した。当初、歳賦は金銀を徴収せず、ただ坑冶税に金銀があり、内承運庫に入った。歳賦をたまたま金銀に折納したものは、すべて南京に送って武臣の俸禄に充てた。また各辺境に緩急があれば、これからも調達した。正統元年に漕糧を改折し、毎年百万両を定額として、すべて内承運庫に解送し、もはや南京には送らなかった。武臣の俸禄に十万余両を給するほかは、すべて御用に充てた。いわゆる金花銀である。七年になって戸部太倉庫を設置した。各直省の派剩麦米、十庫中の綿糸・絹布および馬草・塩課・関税で、すべて銀に折納したものは、太倉庫に入った。籍没した家財、売却した田産、追収した店銭、援例で上納したものも、すべてここに入れた。専ら銀を貯蔵するので、また銀庫とも称した。弘治の時、内府の供応が繁多となり、しばしば太倉の銀を収めて内庫に入れた。また南京銀庫を置いた。正徳の時、内承運庫の中官がたびたび内府の財用が不足すると言い、太倉の銀を支給するよう請うた。戸部が執奏したが、阻止できなかった。嘉靖初年、内府の供応は弘治の時と同様であったが、その後は倍増した。当初、太倉の中庫には積み銀八百余万両があり、続けて収めたものは両廡に貯蔵し、支給に便とした。そして中庫は動かさず、ついに中庫を老庫とし、両廡を外庫とした。この時までに、老庫に残存するものはわずか百二十万両であった。二十二年に特に、金花・子粒銀で内庫に解送すべきものを、ともに太倉に送って辺境の費用に備えるよう命じたが、その後また内庫に入った。三十七年に、毎年内庫に進納する銀百万両のほか、予備欽取銀を加え、後また没官銀四十万両を取って内庫に入れた。隆慶年間、たびたび太倉の銀を取って内庫に入れ、承運庫の中官はついに空の礼で戸部に下してこれを取った。廷臣が上疏して諫めたが、いずれも聞き入れられなかった。またたびたび光禄・太僕の銀を取り、工部尚書朱衡が極力諫めたが、聞き入れられなかった。当初、世宗の時、太倉の収入は二百万両余りであった。神宗の万暦六年に至り、太倉の歳入は合わせて四百五十余万両となり、内庫の歳供は金花銀のほか、また買弁銀二十万両を増やして常例とし、後また内操馬の芻料銀七万余両を加えた。久しくして、太倉・光禄・太僕の銀は、ほとんど取り尽くされた。辺境の賞与や首功への褒賞で、以前は内庫から発給していたものも、太僕から取るようになった。

原文英宗時,始設太倉庫。初,歲賦不徵金銀,惟坑冶稅有金銀,入內承運庫。其歲賦偶折金銀者,俱送南京供武臣祿。而各邊有緩急,亦取足其中。正統元年改折漕糧,歲以百萬為額,盡解內承運庫,不復送南京。自給武臣祿十餘萬兩外,皆為御用。所謂金花銀也。七年乃設戶部太倉庫。各直省派剩麥米,十庫中綿絲、絹布及馬草、鹽課、關稅,凡折銀者,皆入太倉庫。籍沒家財,變賣田產,追收店錢,援例上納者,亦皆入焉。專以貯銀,故又謂之銀庫。弘治時,內府供應繁多,每收太倉銀入內庫。又置南京銀庫。正德時,內承運庫中官數言內府財用不充,請支太倉銀。戶部執奏不能沮。嘉靖初,內府供應視弘治時,其後乃倍之。初,太倉中庫積銀八百餘萬兩,續收者貯之兩廡,以便支發。而中庫不動,遂以中庫為老庫,兩廡為外庫。及是時,老庫所存者僅百二十萬兩。二十二年特令金花、子粒銀應解內庫者,並送太倉備邊用,然其後復入內庫。三十七年令歲進內庫銀百萬兩外,加預備欽取銀,後又取沒官銀四十萬兩入內庫。隆慶中,數取太倉銀入內庫,承運庫中官至以空紮下戶部取之。廷臣疏諫,皆不聽。又數取光祿太僕銀,工部尚書硃衡極諫,不聽。初,世宗時,太倉所入二百萬兩有奇。至神宗萬曆六年,太倉歲入凡四百五十餘萬兩,而內庫歲供金花銀外,又增買辦銀二十萬兩以為常,後又加內操馬芻料銀七萬餘兩。久之,太倉、光祿、太僕銀,括取幾盡。邊賞首功,向發內庫者,亦取之太僕矣。

すべて甲字などの諸庫は、主事が科道官とともに巡視する。太倉庫は、員外郎・主事がこれを管轄し、給事中が巡視する。嘉靖年間、初めて二月ごとに出入りの数を報告するようになった。当時、工部の旧庫を修築し、節慎庫と名づけ、鉱銀を貯蔵した。尚書の文明が工価に充てたところ、帝が詰責し、他の銀で補償するよう命じ、これ以後は専ら内用に充てた。

原文凡甲字諸庫,主事偕科道巡視。太倉庫,員外郎、主事領之,而以給事中巡視。嘉靖中,始兩月一報出納之數。時修工部舊庫,名曰節慎庫,以貯礦銀。尚書文明以給工價,帝詰責之,令以他銀補償,自是專以給內用焉。

その外にある諸布政司・都司・直省の府州県衛所にはすべて庫があり、金銀・銭鈔・絲帛・贓罰などの諸物を貯蔵する。巡按御史が三年ごとに一巡り検査する。各運司にはすべて銀を貯蔵する庫があり、年末に、巡塩御史が官を委ねてこれを検査する。すべて府州県の税課司局・河泊所の歳課・商税・魚課・引由・契本などの諸課程は、太祖が所司に命じて州県府司に解送させ、部に至らせ、部が礼を下して庫に封じ、その元の封緘を、みだりに開封しないようにした。永楽の時に至り、初めて委ねて検査し、合格すれば、初めて解送する。部に至って再検査し、一致すれば、初めて進納する。嘉靖の時、検試庁を建て、検査に合格すれば、進状を与えて庫に預ける。月に九の日には、巡視庫蔵の科道官と会し、庫に入って検査・収納し、不合格のものは取り替えさせる。正統十年に通州に通済庫を設置した。世宗の時に廃止した。隆慶初年、密雲・薊州・昌平の諸鎮にすべて庫を設置し、主客の年例・軍門の公費および撫賞・修辺の銀を収貯したという。

原文其在外諸布政司、都司、直省府州縣衛所皆有庫,以貯金銀、錢鈔、絲帛、贓罰諸物。巡按御史三歲一盤查。各運司皆有庫貯銀,歲終,巡鹽御史委官察之。凡府州縣稅課司局、河泊所,歲課、商稅、魚課、引由、契本諸課程,太祖令所司解州縣府司,以至於部,部劄之庫,其元封識,不擅發也。至永樂時,始委驗勘,中,方起解;至部復驗,同,乃進納。嘉靖時,建驗試廳,驗中,給進狀寄庫。月逢九,會巡視庫藏科道官,進庫驗收,不堪者駁易。正統十年設通濟庫於通州。世宗時罷。隆慶初,密雲、薊州、昌平諸鎮皆設庫,收貯主客年例、軍門公費及撫賞、修邊銀云。

すべて倉庫の害となるものは、中官に及ぶものはない。内府の諸庫の監収者は、横暴に要求して飽くことを知らない。正徳の時、台州衛指揮の陳良が軍器を納めたが、滞留すること八年に及び、ついに市で乞食するに至った。内府が糧食を収める時、増耗はしばしば数倍を基準とし、その患いはこのようであった。諸倉は当初中官を設置しなかったが、宣徳末年に、京・通の二倉に初めて総督中官一人を置き、後には淮・徐・臨・徳の諸倉にも監督を置き、漕運の軍民はその害を受けた。世宗は孫交・張孚敬の建議を用い、諸中官を撤廃したが、諸倉を監督するものはもとのままとした。久しくして、給事中管懷理の上言に従い、ついにこれを罷免した。

原文凡為倉庫害者,莫如中官。內府諸庫監收者,橫索無厭。正德時,台州衛指揮陳良納軍器,稽留八載,至乞食於市。內府收糧,增耗嘗以數倍為率,其患如此。諸倉初不設中官,宣德末,京、通二倉始置總督中官一人,後淮、徐、臨、德諸倉亦置監督,漕輓軍民被其害。世宗用孫交、張孚敬議,撤革諸中官,惟督諸倉者如故。久之,從給事中管懷理言,乃罷之。

当初、天下の府庫にはそれぞれ存積があり、辺境の兵糧は内から借り支えず、京師は外から収奪しなかった。成化の時、巡塩御史の楊澄が初めて各塩運提挙司の贓罰銀を京庫に発送するよう請うた。弘治の時、給事中の曾昂が諸布政司の公帑積貯の徴徭羨銀を、すべて太倉に輸送するよう請うた。尚書の周経が力爭し、不足があるのは、識造・賞賚・斎醮・土木のためであり、必ずや天下の財をことごとく収奪しようとするのは、民に富を蔵するという意ではないと論じた。劉瑾が権力を握るに至り、ついに各省の庫蔵をことごとく京師に輸送するよう命じた。世宗の時、福建・広東が羨余を進献し、戸部が他省の巡按に責めて、毎年例のごとく奏献するよう請うた。また太倉庫が窮乏したため、南戸部の庫銀八十万両を運んでこれを充実させた。そして戸部が理財の事柄を条上し、臨・徳の二倉の積銀二十万両を、記録して太倉に帰属させた。隆慶初年、四御史を派遣して天下を分行させ、庫銀を蒐括させた。神宗の時、御史の蕭重望が府県の歳額銀を検査して部に進めるよう請うたが、上奏に応じなかった。千戸の何其賢が内官とともに自分がこれを監督するよう勅命を請うたが、帝はついにその請いを容れ、これによって外の貯蓄は日に日に消耗していった。天啓年間に至り、操江巡撫の範済世の策を用い、勅を下して歳進を督励し、収奪して遺すところがなくなった。南京の内庫はかなり金銀珍宝を蔵していたが、魏忠賢が詔旨を偽って取り上げ、盗み取って一空にした。内外ともに窮乏し、ついに滅亡に至った。

原文初,天下府庫各有存積,邊餉不借支於內,京師不收括於外。成化時,巡鹽御史楊澄始請發各鹽運提舉司贓罰銀入京庫。弘治時,給事中曾昂請以諸布政司公帑積貯徵徭羨銀,盡輸太倉。尚書周經力爭之,以為有不足者,以識造、賞賚、齋醮、土木之故,必欲盡括天下財,非藏富於民意也。至劉瑾用事,遂令各省庫藏盡輸京師。世宗時,閩、廣進羨餘,戶部請責他省巡按,歲一奏獻如例。又乙太倉庫匱,運南戶部庫銀八十萬兩實之。而戶部條上理財事宜,臨、德二倉積銀二十萬兩,錄以歸太倉。隆慶初,遣四御史分行天下,蒐括庫銀。神宗時,御史蕭重望請核府縣歲額銀進部,未報上。千戶何其賢乞敕內官與己督之,帝竟從其請,由是外儲日就耗。至天啟中,用操江巡撫範濟世策,下敕督歲進,收括靡有遺矣。南京內庫頗藏金銀珍寶,魏忠賢矯旨取進,盜竊一空。內外匱竭,遂至於亡。