明史

志第五十四 食貨二

志第五十四 食貨二

原文志第五十四 食貨二

賦役の法は、唐代の租庸調がなお近古に似る。楊炎が両税法を作りてより、簡にして行い易く、歴代相沿い、明に至るまで改めず。太祖が呉王たりし時、賦税は十に一を取り、役法は田を計りて夫を出す。県は上・中・下の三等とし、賦十万石・六万石・三万石以下を以て差とす。府は三等とし、賦二十万石上下・十万石以下を以て差とす。即位の初め、賦役法を定め、一に黄冊を以て準とす。冊には丁あり田あり、丁には役あり、田には租あり。租を夏税・秋糧と曰い、凡そ二等。夏税は八月を過ぎず、秋糧は明年二月を過ぎず。丁を成丁・未成丁と曰い、凡そ二等。民始めて生まるれば、その名を籍して不成丁とし、年十六を成丁と曰う。成丁にして役し、六十にして免ず。又に職役優免する者あり、役を裏甲・均徭・雑泛と曰い、凡そ三等。戸を以て計るを甲役と曰い、丁を以て計るを徭役ようえきと曰い、上命時に非ざるを雑役と曰い、皆力役あり、雇役あり。府州県は冊を験し丁口の多寡、事産の厚薄を以て、その力を均しく適す。

原文賦役之法,唐租庸調猶為近古。自楊炎作兩稅法,簡而易行,歷代相沿,至明不改。太祖為吳王,賦稅十取一,役法計田出夫。縣上、中、下三等,以賦十萬、六萬、三萬石下為差。府三等,以賦二十萬上下、十萬石下為差。即位之初,定賦役法,一以黃冊為準。冊有丁有田,丁有役,田有租。租曰夏稅,曰秋糧,凡二等。夏稅無過八月,秋糧無過明年二月。丁曰成丁,曰未成丁,凡二等。民始生,籍其名曰不成丁,年十六曰成丁。成丁而役,六十而免。又有職役優免者,役曰裏甲,曰均徭,曰雜泛,凡三等。以戶計曰甲役,以丁計曰徭役,上命非時曰雜役,皆有力役,有僱役。府州縣驗冊丁口多寡,事產厚薄,以均適其力。

両税は、洪武の時、夏税を米麦・銭鈔・絹と曰い、秋糧を米・銭鈔・絹と曰う。弘治の時、会計の数は、夏税を大小米麦・麦荍・絲綿並びに荒絲・税絲・絲綿折絹・税絲折絹・本色絲・農桑絲折絹・農桑零絲・人丁絲折絹・改科絹・棉花折布・薴布・土薴・紅花・麻布・鈔・租鈔・税鈔・原額小絹・幣帛絹・本色絹・絹・折色絲と曰う。秋糧を米・租鈔・賃鈔・山租鈔・租絲・租絹・粗租麻布・課程棉布・租薴布・牛租米穀・地畝棉花絨・棗子易米・棗株課米・課程薴麻折米・棉布・魚課米・改科絲折米と曰う。万歴の時、小に増損あり、大略米麦を主とし、而して絲絹と鈔これに次ぐ。夏税の米は惟だ江西・湖広・広東・広西にあり、麦荍は惟だ貴州にあり、農桑絲は天下に遍く、惟だ川・広・雲・貴に及ばず、余は各おのその地産に視る。

原文兩稅,洪武時,夏稅曰米麥,曰錢鈔,曰絹。秋糧曰米,曰錢鈔,曰絹。弘治時,會計之數,夏稅曰大小米麥,曰麥荍,曰絲綿並荒絲,曰稅絲,曰絲綿折絹,曰稅絲折絹,曰本色絲,曰農桑絲折絹,曰農桑零絲,曰人丁絲折絹,曰改科絹,曰棉花折布,曰薴布,曰土薴,曰紅花,曰麻布,曰鈔,曰租鈔,曰稅鈔,曰原額小絹,曰幣帛絹,曰本色絹,曰絹,曰折色絲。秋糧曰米,曰租鈔,曰賃鈔,曰山租鈔,曰租絲,曰租絹,曰粗租麻布,曰課程棉布,曰租薴布,曰牛租米穀,曰地畝棉花絨,曰棗子易米,曰棗株課米,曰課程薴麻折米,曰棉布,曰魚課米,曰改科絲折米。萬歷時,小有所增損,大略以米麥為主,而絲絹與鈔次之。夏稅之米惟江西、湖廣、廣東、廣西,麥荍惟貴州,農桑絲遍天下,惟不及川、廣、雲、貴,餘各視其地產。

太祖初めに国を立てしより即ち令を下し、凡そ民田五畝より十畝の者は、桑・麻・木棉を各半畝栽え、十畝以上はこれを倍す。麻は畝に八両を徴し、木棉は畝に四両を徴す。桑を栽うるは四年を以て起科す。桑を種えざれば、絹一疋を出す。麻及び木棉を種えざれば、麻布・棉布を各一疋出す。これ農桑絲絹の起こる所なり。

原文太祖初立國即下令,凡民田五畝至十畝者,栽桑、麻、木棉各半畝,十畝以上倍之。麻畝徵八兩,木棉畝四兩。栽桑以四年起科。不種桑,出絹一疋。不種麻及木棉,出麻布、棉布各一疋。此農桑絲絹所由起也。

洪武九年、天下の税糧を、民に銀・鈔・銭・絹を以て代輸せしむ。銀一両・銭千文・鈔一貫は、皆米一石に折輸し、小麦は則ち直を十の二減ず。棉薴一疋は、米六斗に折り、麦七斗に折る。麻布一疋は、米四斗に折り、麦五斗に折る。絲絹等は各おの軽重を以て損益し、粟を納むるを願う者は聴す。十七年、雲南は金・銀・貝・布・漆・丹砂・水銀を以て秋租に代う。ここに於て米麦を本色と謂い、而して諸々折納する税糧の者を、折色と謂う。二年を越え、又戸部侍郎楊靖に令し天下の倉儲の存糧を会計せしめ、二年外は並びに折色を収め、惟だ北方諸布政司は糧を需みて辺に餉するを以て、仍い粟を輸せしむ。三十年戸部に諭して曰く、「行人高稹言う、陝西は逋賦に困ずと。その議せよ、二十八年以前より、天下の逋租は、咸く任土の産する所を許し、布・絹・棉花及び金・銀等の物を折収し、令を著すべしと。」ここに於て戸部定む:鈔一錠は、米一石に折る;金一両は、十石;銀一両は、二石;絹一疋は、石に二斗;棉布一疋は、一石;薴布一疋は、七斗;棉花一斤は、二斗。帝曰く、「逋賦を折収するは、蓋し民困を蘇えんと欲するなり。今賦重きこと此の若くは、将に愈ます民を困せん、豈にこれを恤うの意ならんや。金・銀は毎両米に折るに一倍を加えよ。鈔は止だ二貫五百文を以て一石に折れ。余は議する所に従え。」

原文洪武九年,天下稅糧,令民以銀、鈔、錢、絹代輸。銀一兩、錢千文、鈔一貫,皆折輸米一石,小麥則減直十之二。棉薴一疋,折米六斗,麥七斗。麻布一疋,折米四斗,麥五斗。絲絹等各以輕重為損益,願人粟者聽。十七年,雲南以金、銀、貝、布、漆、丹砂、水銀代秋租。於是謂米麥為本色,而諸折納稅糧者,謂之折色。越二年,又令戶部侍郎楊靖會計天下倉儲存糧,二年外並收折色,惟北方諸布政司需糧餉邊,仍使輸粟。三十年諭戶部曰:「行人高稹言,陝西困逋賦。其議自二十八年以前,天下逋租,咸許任土所產,折收布、絹、棉花及金、銀等物,著為令。」於是戶部定:鈔一錠,折米一石;金一兩,十石;銀一兩,二石;絹一疋,石有二斗;棉布一疋,一石;薴布一疋,七斗;棉花一斤,二斗。帝曰:「折收逋賦,蓋欲蘇民困也。今賦重若此,將愈困民,豈恤之之意哉。金、銀每兩折米加一倍。鈔止二貫五百文折一石。餘從所議。」

永楽中、既に交阯を得て、絹・漆・蘇木・翠羽・紙扇・沈香・速香・安息香諸香を以て租賦に代う。広東瓊州の黎人・肇慶の瑤人内附し、賦を輸すること内地に比す。天下の本色税糧三千余万石、絲鈔等二千余万。計るに是の時、宇内富庶、賦入盈羨し、米粟は京師に輸する数百万石の外、府県の倉廩蓄積甚だ豊かにして、至って紅腐して食うべからず。歳歉なれば、有司は往々先ず粟を発して振貸し、然る後に以て聞す。歳貢銀三十万両有奇と雖も、而して民間の交易銀を用うるは、仍い厲禁あり。

原文永樂中,既得交阯,以絹,漆,蘇木,翠羽,紙扇,沉、速、安息諸香代租賦。廣東瓊州黎人、肇慶瑤人內附,輸賦比內地。天下本色稅糧三千餘萬石,絲鈔等二千餘萬。計是時,宇內富庶,賦入盈羨,米粟自輸京師數百萬石外,府縣倉廩蓄積甚豐,至紅腐不可食。歲歉,有司往往先發粟振貸,然後以聞。雖歲貢銀三十萬兩有奇,而民間交易用銀,仍有厲禁。

正統元年に至り、副都御史周銓言う、「行在の各衛の官俸は米を南京に支うるに、道遠く費多く、輒ち米を以て貨に易え、貴く買い賤く売り、十にして一に及ばず。朝廷虚しく廩祿を糜し、各官実恵を得ず。請う、南畿・浙江・江西・湖広の舟楫通ぜざる地に於て、布・絹・白金を折収し、京に解して俸に充てん。」江西巡撫趙新も亦た以て言と為し、戸部尚書黄福復た条を以て請う。帝行在戸部尚書胡濙に問う。濙対えて太祖嘗て陝西・浙江に於て税糧を折納し、民以て便と為せりと。遂にその制に倣い、米麦一石を、銀二銭五分に折る。南畿・浙江・江西・湖広・福建・広東・広西の米麦合わせて四百余万石、銀百余万両に折り、内承運庫に入れ、これを金花銀と謂う。その後概ね天下に行わる。起運兌軍の外より、糧四石銀一両を収め京に解し、以て永例と為す。諸方の賦入銀に折り、而して倉廩の積漸く少なし。

原文至正統元年,副都御史周銓言:「行在各衛官俸支米南京,道遠費多,輒以米易貨,貴買賤售,十不及一。朝廷虛糜廩祿,各官不得實惠。請於南畿、浙江、江西、湖廣不通舟楫地,折收布、絹、白金,解京充俸。」江西巡撫趙新亦以為言,戶部尚書黃福復條以請。帝以問行在戶部尚書胡濙。濙對以太祖嘗折納稅糧於陝西、浙江,民以為便。遂仿其制,米麥一石,折銀二錢五分。南畿、浙江、江西、湖廣、福建、廣東、廣西米麥共四百餘萬石,折銀百萬餘兩,入內承運庫,謂之金花銀。其後概行於天下。自起運兌軍外,糧四石收銀一兩解京,以為永例。諸方賦入折銀,而倉廩之積漸少矣。

初め、太祖天下の官田・民田の賦を定め、凡そ官田は畝に税五升三合五勺、民田は二升を減じ、重租田は八升五合五勺、没官田は一斗二升。惟だ蘇・鬆・嘉・湖は、その張士誠のために守りしを怒り、乃ち諸豪族及び富民の田を籍して以て官田と為し、私租簿を按じて税額と為す。而して司農卿楊憲は又浙西の地膏腴なるを以て、その賦を増し、畝に二倍を加う。

原文初,太祖定天下官、民田賦,凡官田畝稅五升三合五勺,民田減二升,重租田八升五合五勺,沒官田一斗二升。惟蘇、鬆、嘉、湖,怒其為張士誠守,乃籍諸豪族及富民田以為官田,按私租簿為稅額。而司農卿楊憲又以浙西地膏腴,增其賦,畝加二倍。

かつて浙西の官田・民田は他方に比べて数倍多く、一畝の税が二、三石に及ぶものがある。おおむね蘇州が最も重く、松江・嘉興・湖州がこれに次ぎ、常州・杭州はさらに軽い。洪武十三年、戸部に命じてその額を削減させ、一畝あたり七斗五升から四斗四升を課すものは十の二を減じ、四斗三升から三斗六升のものはすべて三斗五升に止めて徴収し、それ以下のものは旧額のままとした。当時、蘇州一府の秋糧は二百七十四万六千余石で、民糧十五万石を除いてはすべて官田の糧であった。官糧の歳額は浙江省全体と等しく、その重さはかくの如しであった。建文二年、詔して曰く、「江・浙の賦税は特に重く、蘇州・松江は私租を基準として課税しているが、これは一時の頑民を懲らしめるためのものであり、どうして定則として一方を重く苦しめることができようか。すべて減免すべきで、一畝一斗を超えてはならない」。成祖は建文の政をことごとく廃し、浙西の賦税は再び重くなった。宣宗が即位すると、広西布政使周幹が蘇州・常州・嘉興・湖州諸府を巡視して帰還し、言うには、「諸府の民は多く逃亡しており、耆老に尋ねると、皆が重税によるものだという。例えば呉江・崑山の民田租は、旧来一畝五升であったが、小民が富民の田を小作すると、一畝につき私租一石を納めた。後に事故があって官に没収されると、たちまち私租の例に倣ってすべて取り立てる。十分の八を取っても民は耐えられないのに、ましてすべて取り立てるなどどうしてできようか。すべて取り立てれば、民は必ず凍え飢え、逃亡しないわけにはいかなくなる。仁和・海寧・崑山では海水が官田・民田千九百余頃を陥没させたが、今に至る十余年、なおその租を徴収している。田は海に没したのに、租はどこから出ようか。没官田及び公・侯の還官田租を、すべてそこの官田の課税基準に従わせ、一畝の税を六斗とし、海水で陥没した田はその税をすべて免除するよう請う。そうすれば田に荒廃の憂いはなく、細民は安らかに生きることができよう」。帝は戸部に議してこれを実行させた。宣徳五年二月、詔して曰く、「旧額の官田租で、一畝一斗から四斗のものはそれぞれ十の二を減じ、四斗一升から一石以上のものは十の三を減ずる。これを令として定めよ」。ここにおいて江南巡撫周忱と蘇州知府況鐘は、工夫を凝らして蘇州の糧七十余万石を減じ、他の府もそれに準じて減じたので、東南の民力はやや緩和された。周忱はまた松江の官田を民田の基準で課税するよう命じたが、戸部は成法を変乱したと弾劾した。宣宗は罪に問わなかったが、従うこともできなかった。朝廷はたびたび詔書を下して租賦を免除したが、財政担当者はひそかに役所に戒めて、詔書を口実にしないようさせた。帝は尚書胡濙に「計臣が恩沢を阻んでいる」と言ったが、深く罪には問わなかった。正統元年、蘇州・松江・浙江等処の官田は民田の基準で課税し、秋糧四斗一升から二石以上のものは三斗に減じ、二斗一升以上から四斗のものは二斗に減じ、一斗一升至二斗のものは一斗に減ずることを命じた。宣徳末年に蘇州の未納糧が七百九十万石に達し、民の困窮は極まっていたが、この時になってようやくやや蘇生したのである。英宗が復辟した初め、鎮守浙江尚書孫原貞等に命じて杭州・嘉興・湖州の則例を定めさせ、課税基準が重いものは徴収する米を少なくし、軽いものは多くすべきとした。そこで官田一畝一石以下、民田七斗以下のものは、毎石につき歳に平米一石三斗を徴収し、官民田四斗以下のものは毎石につき歳に平米一石五斗を徴収し、官田二斗以下、民田二斗七升以下のものは毎石につき歳に平米一石七斗を徴収し、官田八升以下、民田七升以下のものは毎石につき歳に平米二石二斗を徴収すると定めた。およそ重いものは軽くし、軽いものは重くして、課税基準を適切に均等にしようとしたが、一畝一石の税は減らさなかったのである。

原文故浙西官、民田視他方倍蓰,畝稅有二三石者。大抵蘇最重,鬆、嘉、湖次之,常、杭又次之。洪武十三年命戶部裁其額,畝科七斗五升至四斗四升者減十之二,四斗三升至三斗六升者俱止徵三斗五升,其以下者仍舊。時蘇州一府,秋糧二百七十四萬六千餘石,自民糧十五萬石外,皆官田糧。官糧歲額與浙江通省埒,其重猶如此。建文二年詔曰:「江、浙賦獨重,而蘇、鬆準私租起科,特以懲一時頑民,豈可為定則以重困一方。宜悉與減免,畝不得過一斗。」成祖盡革建文政,浙西之賦復重。宣宗即位,廣西布政使周幹巡視蘇、常、嘉、湖諸府還,言:「諸府民多逃亡,詢之耆老,皆云重賦所致。如吳江、崑山民田租,舊畝五升,小民佃種富民田,畝輸私租一石。後因事故入官,輒如私租例盡取之。十分取八,民猶不堪,況盡取乎。盡取,則民必凍餒,欲不逃亡,不可得也。仁和、海寧、崑山海水陷官、民田千九百餘頃,逮今十有餘年,猶徵其租。田沒於海,租從何出?請將沒官田及公、侯還官田租,俱視彼處官田起科,畝稅六斗。海水淪陷田,悉除其稅,則田無荒蕪之患,而細民獲安生矣。」帝命部議行之。宣德五年二月詔:「舊額官田租,畝一斗至四斗者各減十之二,四斗一升至一石以上者減十之三。著為令。」於是江南巡撫周忱與蘇州知府況鐘,曲計減蘇糧七十餘萬,他府以為差,而東南民力少紓矣。忱又令松江官田依民田起科,戶部劾以變亂成法。宣宗雖不罪,亦不能從。而朝廷數下詔書,蠲除租賦。持籌者輒私戒有司,勿以詔書為辭。帝與尚書胡濙言:「計臣壅遏膏澤」,然不深罪也。正統元年令蘇、鬆、浙江等處官田,準民田起科,秋糧四斗一升至二石以上者減作三斗,二斗一升以上至四斗者減作二斗,一斗一升至二斗者減作一斗。蓋宣德末,蘇州逋糧至七百九十萬石,民困極矣。至是,乃獲少蘇。英宗復闢之初,令鎮守浙江尚書孫原貞等定杭、嘉、湖則例,以起科重者徵米宜少,起科輕者徵米宜多。乃定官田畝科一石以下,民田七斗以下者,每石歲徵平米一石三斗;官民田四斗以下者,每石歲徵平米一石五斗;官田二斗以下,民田二斗七升以下者,每石歲徵平米一石七斗;官田八升以下,民田七升以下者,每石歲徵平米二石二斗。凡重者輕之,輕者重之,欲使科則適均,而畝科一石之稅未嘗減云。

嘉靖二年、御史黎貫が言うには、「国初の夏秋二税は、麦四百七十余万石であったが、今は九万石少なく、米二千四百七十余万石であったが、今は二百五十余万石少ない。しかし宗室の繁栄、官吏の冗多、内官の多さ、軍士の増加は、すべてこれから支給されている。賦税の収入は日々損なわれ、支出費用は日々増加している。祖宗の賦額及び経費の多少の数を検討し、一つ一つ区画すれば、賦税収入が有限であり、無駄な費用を節約せざるを得ないことが分かるであろう」。ここにおいて戸部が議して、「天下の官吏が考満して昇進する際には、必ず任期内の租税を厳しく審査し、徴収・納入が十分な数に達して初めて交代を許可するよう命じる。なお朝廷自ら節倹を行い、天下に率先するよう請う」。帝はこれを採用した。まもなく諭徳顧鼎臣が銭糧の積弊四事を条上した。

原文嘉靖二年,御史黎貫言:「國初夏秋二稅,麥四百七十餘萬石,今少九萬;米二千四百七十餘萬石,今少二百五十餘萬。而宗室之蕃,官吏之冗,內官之眾,軍士之增,悉取給其中。賦入則日損,支費則日加。請核祖宗賦額及經費多寡之數,一一區畫,則知賦入有限,而浮費不容不節矣。」於是戶部議:「令天下官吏考滿遷秩,必嚴核任內租稅,徵解足數,方許給由交代。仍乞朝廷躬行節儉,以先天下。」帝納之。既而諭德顧鼎臣條上錢糧積弊四事:

一つは田糧の旧額を調査整理することである。州県官に責任を負わせ、農閑期に里甲等に洪武・正統年間の魚鱗図・風旗の様式に倣って図冊を編造させ、元額の田糧・字あざな圩・則号・条段・坍荒・成熟の歩口数目を細かく列記し、官が再調査して界址を区別し、一畝ごとに検踏・丈量し、開墾・改正・豁除の数を具申させる。刊刻して書物とし、官庫に収蔵し、里に配布して永久に照合考査の資料とする。また先年の巡撫周忱・王恕の簡便で実行可能な事例を斟酌して、定規として確立する。毎年の実徴・起運・存留・加耗・本色・折色及び処補・暫徴・帯徴・停徴等の件数目を会計して定めた後、榜を掲げて民に知らせる。そうすれば吏胥が奸欺を働くことができず、小民は賠累や科擾の憂いを免れるであろう。一つは歳辦銭糧の徴収を督促することである。成化・弘治以前は、里甲が徴収を督促し、糧戸が納入し、糧長が収解し、州県が臨収した。糧長は多く斛こく面を取ることを敢えてせず、糧戸は水穀や糠粃を混ぜることを敢えてせず、兌糧の官軍は阻難して多く要求することを敢えてせず、公私ともに便利であった。近年では、役所はもはや経催里甲の負糧人戸を比較せず、ただ期限を立てて糧長を敲撲し、下郷して追徴させている。豪強な者は大斛で倍収し、方々から索取し、行く先々で鶏犬も空になる。弱い者は勢豪に凌がれ、延滞・欺瞞・滞納し、やむなく財産を売って補納する。あるいは旧役の侵欠を新たに任命された者が償うことを責められ、一人が未納になると親族まで株連され、無辜の民が箠楚や囹圄で死ぬ者が数百人に及ぶ。かつては毎区の糧長は正・副二名に過ぎなかったが、近ごろは十人以上に及ぶことが多い。実際に収掌管理する糧の数は少ないが、科斂・打点・使用・年例の数は多い。州県は一年の間に、中流の家百戸の財産を破壊する。害はこれより大きいものはない。戸部に事例を議定させ、所管の役所に転達し、糧長の審編は必ず旧規に従わせるべきである。もし州県官が多く糧長を任命し、下郷することを放任し、あるいは里甲に督促させず、ただ酷刑で糧長を期限切れで責めるようなことがあれば、これを罪する。人命を多く死なせた者は、故勘をもって論ずる。

原文一曰察理田糧舊額。請責州縣官,於農隙時,令裏甲等仿洪武、正統間魚鱗、風旗之式,編造圖冊,細列元額田糧、字圩、則號、條段、坍荒、成熟步口數目,官為覆勘,分別界址,履畝檢踏丈量,具開墾改正豁除之數。刊刻成書,收貯官庫,給散里中,永為稽考。仍斟酌先年巡撫周忱、王恕簡便可行事例,立為定規。取每歲實徵、起運、存留、加耗、本色、折色並處補、暫徵、帶徵、停徵等件數目,會計已定,張榜曉諭。庶吏胥不得售其奸欺,而小民免賠累科擾之患。一曰催徵歲辦錢糧。成、弘以前,裏甲催徵,糧戶上納,糧長收解,州縣臨收。糧長不敢多收斛面,糧戶不敢攙雜水穀糠粃,兌糧官軍不敢阻難多索,公私兩便。近者,有司不復比較經催裏甲負糧人戶,但立限敲撲糧長,令下鄉追徵。豪強者則大斛倍收,多方索取,所至雞犬為空。孱弱者為勢豪所淩,耽延欺賴,不免變產補納。至或舊役侵欠,責償新僉,一人逋負,株連親屬,無辜之民死於箠楚囹圄者幾數百人。且往時每區糧長不過正、副二名,近多至十人以上。其實收掌管糧之數少,而科斂打點使用年例之數多。州縣一年之間,輒破中人百家之產,害莫大焉。宜令戶部議定事例,轉行所司,審編糧長務遵舊規。如州縣官多僉糧長,縱容下鄉,及不委裏甲催辦,輒酷刑限比糧長者,罪之。致人命多死者,以故勘論。

その二は、官を派遣して総理すること及び預備倉糧を復活させることを議するものである。上疏が下されると、戸部は言うには、「陳述したことはすべて時弊に切実である。所管の役所に施行させよ」。数年間延引したが、依然として旧態のままだった。

原文其二則議遣官綜理及復預備倉糧也。疏下,戶部言:「所陳俱切時弊,令所司舉行。」遷延數載如故。

糧長とは、太祖の時に、田の多い者をこれに任じ、その郷の賦税を監督させた。毎年七月、州県は官を委ねてともに京に赴き、勘合を受領して行かせた。糧一万石ごとに、長・副各一人とし、輸送が期日に到着すれば、召見を受け、言葉が合えば、しばしば抜擢任用された。末年になって改定し、毎区正副二名が輪番で充てた。宣徳年間に、また永充となった。科斂が横溢し、民はその害を受け、あるいは官糧を私売して利益を貪った。罷免された者は公賦を損ない、事が発覚すると、身を失い家を喪うに至った。景泰年間に糧長を廃止したが、まもなくまた復活した。官軍による兌運が始まると、糧長はもはや京師に輸送せず、州里の間で甚だしく害をなしたので、顧鼎臣がこれについて言及したのである。

原文糧長者,太祖時,令田多者為之,督其鄉賦稅。歲七月,州縣委官偕詣京,領勘合以行。糧萬石,長、副各一人,輸以時至,得召見,語合,輒蒙擢用。末年更定,每區正副二名輪充。宣德間,復永充。科斂橫溢,民受其害,或私賣官糧以牟利。其罷者,虧損公賦,事覺,至隕身喪家。景泰中,革糧長,未幾又復。自官軍兌運,糧長不復輸京師,在州里間頗滋害,故鼎臣及之。

間もなく、御史郭弘化らもまた丈量を通行するよう請い、包賠兼併の弊を杜絶せんとした。帝は紛擾を恐れ、従わなかった。給事中徐俊民が言うには、「今の田賦には、官より地を受けて歳に租税を供するものがあり、これを官田と謂う。江水が泛溢し溝塍が淹沒するものがあり、これを坍江と謂う。流移亡絶して田は棄てられ糧は存するものがあり、これを事故と謂う。官田は貧民が佃種し、一畝の租は三斗、或いは五六斗或いは一石以上なるものあり。坍江・事故の虚糧は、裏甲が賠納し、或いは数十石或いは百余石なるものあり。そもそも民田の価は官田の十倍、貧民は既に置く能わず。しかるに官田は糧重く、毎に取盈を病み、さらに坍江・事故の虚糧を加え、また攤納を令し、追呼敲撲、歳に寧日なし。しかるに奸富猾胥は方に詭寄・那移し、軽きを併せて重きを分つ。これ小民の疾苦、閭閻の凋瘁、日に益し日に増す所以なり。均糧・限田の制を定むるを請う。坍江・事故は悉く蠲免すべし。そして官民田を一つに合し、上・中・下三則を定めて起科し以て糧を均すべし。富人には千畝を過ぐるを許さず、百畝を以て自給するを聴き、その羨る者は則ち辺税を加輸せしむべし。かくの如くすれば、多寡に節あり、軽重適宜にして、貧富相安じ、公私ともに足るべし」と。部議は、「疆土民俗各異なり、司に令して熟計せしめその便を図らしむ」とし、行われなかった。

原文未幾,御史郭弘化等亦請通行丈量,以杜包賠兼併之弊。帝恐紛擾,不從。給事中徐俊民言:「今之田賦,有受地於官,歲供租稅者,謂之官田。有江水泛溢溝塍淹沒者,謂之坍江。有流移亡絕,田棄糧存者,謂之事故。官田貧民佃種,畝入租三斗,或五六斗或石以上者有之。坍江、事故虛糧,裏甲賠納,或數十石或百餘石者有之。夫民田之價十倍官田,貧民既不能置。而官田糧重,每病取盈,益以坍江、事故虛糧,又令攤納,追呼敲撲,歲無寧日。而奸富猾胥方且詭寄、那移,並輕分重。此小民疾苦,閭閻凋瘁,所以日益而日增也。請定均糧、限田之制。坍江、事故,悉與蠲免。而合官民田為一,定上、中、下三則起科以均糧。富人不得過千畝,聽以百畝自給,其羨者則加輸邊稅。如此,則多寡有節,輕重適宜,貧富相安,公私俱足矣。」部議:「疆土民俗各異,令所司熟計其便。」不行。

数年を経て、乃ち応天巡撫侯位の奏に従い、蘇州の坍海田糧九万余石を免じたが、然れども那移・飛灑の弊は相沿って改まらず。十八年に至り、鼎臣が大学士となり、復た言うには、「蘇・鬆・常・鎮・嘉・湖・杭の七府は、供輸天下に甲たり、而して裏胥豪右の蠹弊特に甚だし。欺隠及び坍荒田土を将に一一検核改正すべし」と。ここにおいて応天巡撫歐陽鐸は荒田四千余頃を検し、租十一万石有奇を計り、以て欺隠田糧六万余石を以てこれを補い、余は豁免を請うた。戸部は終に持して下さず。時に嘉興知府趙瀛が建議して、「田は官・民を分たず、税は等則を分たず、一切三斗を以て起徴すべし」と。鐸は乃ち蘇州知府王儀とともに官・民田を尽く括り裒益す。履畝清丈し、等則を定む。造る所の経賦冊は、八事を以て税糧を定む:元額稽始と曰い、事故除虚と曰い、分項別異と曰い、帰総正実と曰い、坐派起運と曰い、運余撥存と曰い、存余考積と曰い、徴一定額と曰う。また八事を以て裏甲を考う:丁田と曰い、慶賀と曰い、祭祀と曰い、郷飲と曰い、科賀と曰い、恤政と曰い、公費と曰い、備用と曰う。三事を以て均徭を定む:銀差と曰い、力差と曰い、馬差と曰う。例として著す。

原文越數年,乃從應天巡撫侯位奏,免蘇州坍海田糧九萬餘石,然那移、飛灑之弊,相沿不改。至十八年,鼎臣為大學士,復言:「蘇、鬆、常、鎮、嘉、湖、杭七府,供輸甲天下,而裏胥豪右蠹弊特甚。宜將欺隱及坍荒田土,一一檢核改正。」於是應天巡撫歐陽鐸檢荒田四千餘頃,計租十一萬石有奇,以所欺隱田糧六萬餘石補之,餘請豁免。戶部終持不下。時嘉興知府趙瀛建議:「田不分官、民,稅不分等則,一切以三斗起徵。」鐸乃與蘇州知府王儀盡括官、民田裒益之。履畝清丈,定為等則。所造經賦冊,以八事定稅糧:曰元額稽始,曰事故除虛,曰分項別異,曰歸總正實,曰坐派起運,曰運餘撥存,曰存餘考積,曰徵一定額。又以八事考裏甲:曰丁田,曰慶賀,曰祭祀,曰鄉飲,曰科賀,曰恤政,曰公費,曰備用。以三事定均徭:曰銀差,曰力差,曰馬差。著為例。

徴一とは、銀米の凡を総徴し、畝を計り均輸するものなり。その科則最も重きと最も軽きものは、稍々耗損を以て益し推移す。重きものは尽く損ずる能わず、惟だ耗米を逓減し、軽齎を派し折除して、陰に軽きを与う。軽きものは加益す能わず、本色を徴し、耗米を逓増し加乗して、陰に重きを与う。推収の法は、田を母とし、戸を子とす。時に豪右多くその議を梗げ、鼎臣独り善しと以為い、曰く、「是の法行わば、吾が家は千石の輸を益す、然れども貧民は千石を減ずるなり、易うべからず」と。顧みるにその時、上は賦額を損ずる能わず、民を長ずる者は私に己が意を以て変通す。ここにより官田は偏重に至らず、而して民田の賦は反って加わることとなった。

原文徵一者,總徵銀米之凡,而計畝均輸之。其科則最重與最輕者,稍以耗損益推移。重者不能盡損,惟遞減耗米,派輕齎折除之,陰予以輕。輕者不能加益,為徵本色,遞增耗米加乘之,陰予以重。推收之法,以田為母,戶為子。時豪右多梗其議,鼎臣獨以為善,曰:「是法行,吾家益千石輸,然貧民減千石矣,不可易也。」顧其時,上不能損賦額,長民者私以己意變通。由是官田不至偏重,而民田之賦反加矣。

時にまた綱銀・一串鈴の諸法あり。綱銀とは、民間の応役歳費を挙げ、丁四糧六を総徴し、知り易くして繁ならざるもの、猶お網の綱あるが如し。一串鈴は、則ち夥收分解の法なり。ここより民間の輸納は、止む本色及び折色銀を収むるのみとなった。

原文時又有綱銀、一串鈴諸法。綱銀者,舉民間應役歲費,丁四糧六總徵之,易知而不繁,猶網之有綱也。一串鈴,則夥收分解法也。自是民間輸納,止收本色及折色銀矣。

是の時、天下の財賦、歳に太倉庫に入るもの二百余万両。旧制は七分を経費とし三分を存積して兵・歉に備え、以て常と為す。世宗の中年に、辺供の費繁く、土木・禱祀を加え、月に虚日無く、帑藏匱竭す。司農は百計財を生じ、甚だしきに至っては寺田を売り、軍罪を収贖すれども、猶お給す能わず。二十九年、俺荅京師を犯し、兵を増し戍を設け、餉額倍を過ぐ。三十年、京辺の歳用五百九十五万に至り、戸部尚書孫応奎蒿目して策無く、乃ち南畿・浙江等の州県に於いて賦を百二十万増すを議し、加派はここに始まる。

原文是時天下財賦,歲入太倉庫者二百萬兩有奇。舊制以七分經費而存積三分備兵、歉,以為常。世宗中年,邊供費繁,加以土木、禱祀,月無虛日,帑藏匱竭。司農百計生財,甚至變賣寺田,收贖軍罪,猶不能給。二十九年,俺荅犯京師,增兵設戍,餉額過倍。三十年,京邊歲用至五百九十五萬,戶部尚書孫應奎蒿目無策,乃議於南畿、浙江等州縣增賦百二十萬,加派於是始。

嗣いで、京辺の歳用は、多きものは五百万を過ぎ、少きものも亦三百余万、歳入は歳出の半を充たす能わず。ここにより度支は一切の法を為し、その箕斂財賄・題増派・括贓贖・算税契・折民壮・提編・均徭・推広事例興る。その初めも亦た匱を済うに頼むも、久しくして諸の灌輸益々少なし。又四方多事、有司は往往その地の為に奏留し或いは請免す:浙・直は倭に備え、川・貴は木を採り、山・陝・宣・大は兵荒の為なり。軍興の徴発を停格するのみならず、即ち歳額二百万も、且つその三の一を虧く。而して内廷の賞給、齋殿の経営、宮中夜半に片紙を出せば、吏急なりと雖も、敢えて頃刻を延ばす者無し。三十七年、大同右衛警を告げ、太倉に入る賦僅かに七万、帑儲大較十万に及ばず。戸部尚書方鈍ら憂懼して出ずる所を知らず、乃ち間に乗じて具に帑藏空虚の状を陳し、因って便宜七事を条上して請う。既にして、又た羣臣に各々理財の策を条せしめ、議行するもの凡そ二十九事、益々瑣屑にして国体に非ず。而して累年以前の積逋は追徴せざる無く、南方の本色逋賦も亦た皆追徴して折色と為した。

原文嗣後,京邊歲用,多者過五百萬,少者亦三百餘萬,歲入不能充歲出之半。由是度支為一切之法,其箕斂財賄、題增派、括贓贖、算稅契、折民壯、提編、均徭、推廣事例興焉。其初亦賴以濟匱,久之諸所灌輸益少。又四方多事,有司往往為其地奏留或請免:浙、直以備倭,川、貴以採木,山、陝、宣、大以兵荒。不惟停格軍興所徵發,即歲額二百萬,且虧其三之一。而內廷之賞給,齋殿之經營,宮中夜半出片紙,吏雖急,無敢延頃刻者。三十七年,大同右衛告警,賦入太倉者僅七萬,帑儲大較不及十萬。戶部尚書方鈍等憂懼不知所出,乃乘間具陳帑藏空虛狀,因條上便宜七事以請。既,又令羣臣各條理財之策,議行者凡二十九事,益瑣屑,非國體。而累年以前積逋無不追徵,南方本色逋賦亦皆追徵折色矣。

是の時、東南倭に被り、南畿・浙・閩は多く額外の提編あり、江南は四十万に至る。提編とは、加派の名なり。その法は、銀力差を以て十甲に排編し、如一甲足らざれば、則ち下甲を提げてこれを補う、故にこれを提編と謂う。倭患平ぎて、応天巡撫周如鬥加派を減ずるを乞い、給事中何煃も亦た具に南畿困敝を陳し、言うには、「軍門の養兵、工部の料価、操江の募兵、兵備道の壮丁、府州県の郷兵、率ね民の累と為り、甚だしきは一を指して十を科す、請うらくはこれを禁革せん」と。煃の議の如く命ずるも、而して提編の額は減ずる能わず。

原文是時,東南被倭,南畿、浙、閩多額外提編,江南至四十萬。提編者,加派之名也。其法,以銀力差排編十甲,如一甲不足,則提下甲補之,故謂之提編。及倭患平,應天巡撫周如鬥乞減加派,給事中何煃亦具陳南畿困敝,言:「軍門養兵,工部料價,操江募兵,兵備道壯丁,府州縣鄉兵,率為民累,甚者指一科十,請禁革之。」命如煃議,而提編之額不能減。

隆・万の世、増額既に故の如く、又多く無藝の徴あり、逋糧愈々多く、規避も亦た益々巧みなり。已に解して愆限或いは十余年に至り、未だ徴せずして報収す、一県に十万に至るものあり。逋欠の多きは、県各数十万。一条鞭法を行なうに頼り、他に科擾無く、民力大いに絀せず。

原文隆、萬之世,增額既如故,又多無藝之徵,逋糧愈多,規避亦益巧。已解而愆限或至十餘年,未徵而報收,一縣有至十萬者。逋欠之多,縣各數十萬。賴行一條鞭法,無他科擾,民力不大絀。

一条鞭法とは、一州県の賦役を総括し、地を量り丁を計り、丁糧畢く官に輸す。一歳の役は、官が僉募を為す。力差は則ちその工食の費を計り、量を為して増減し、銀差は則ちその交納の費を計り、増耗を加う。凡そ額辦・派辦・京庫歳需と存留・供億の諸費、及び土貢方物、悉く一条に並べ、皆畝を計り銀を徴し、官に於いて折辦す、故にこれを一条鞭と謂う。立法頗る簡便なり。嘉靖の間、数行し数止み、万暦九年に至りて乃ち尽くこれを行なう。

原文一條鞭法者,總括一州縣之賦役,量地計丁,丁糧畢輸於官。一歲之役,官為僉募。力差,則計其工食之費,量為增減;銀差,則計其交納之費,加以增耗。凡額辦、派辦、京庫歲需與存留、供億諸費,以及土貢方物,悉並為一條,皆計畝徵銀,折辦於官,故謂之一條鞭。立法頗為簡便。嘉靖間,數行數止,至萬曆九年乃盡行之。

その後、三大征(寧夏の乱・播州の乱・朝鮮の役)が相次ぎ、かなりの加派があったが、事が終わるとすぐに停止した。四十六年(1618年)に至り、急遼餉を三百万両増加した。当時、内帑(宮廷の財庫)は充実していたが、皇帝は惜しんで発給しようとしなかった。戸部尚書李汝華は、倭寇征討と播州征討の先例を援用し、一畝あたり三厘五毫を加え、天下の賦税は二百万両余り増加した。翌年、さらに三厘五毫を加えた。その翌年、兵部と工部の要請により、さらに二厘を加えた。前後を通じて九厘となり、賦税は五百二十万両増加し、遂に年間の定額となった。加派しなかったのは、畿内八府と貴州のみであった。

原文其後接踵三大徵,頗有加派,事畢旋已。至四十六年,驟增遼餉三百萬。時內帑充積,帝靳不肯發。戶部尚書李汝華乃援徵倭、播例,畝加三釐五毫,天下之賦增二百萬有奇。明年復加三釐五毫。明年,以兵工二部請,復加二釐。通前後九釐,增賦五百二十萬,遂為歲額。所不加者,畿內八府及貴州而已。

天啓元年(1621年)、給事中甄淑が上奏した。「遼餉の加派は、不公平を招きやすい。そもそも天下の戸口には戸口の銀、人丁には人丁の銀、田土には田土の銀があり、役所が徴収する総額を銀額という。銀額に基づいて加派すれば、その数は漏れない。東西南北の民衆の苦楽は異なり、布帛・粟米・力役による徴収・納入の方法も異なる。ただ地方官だけがその苦楽を知り、その徴収・納入を融通しうる。今、人と土地の実情に合わせれば、偏りによる弊害はない。その方法は、銀額を主とし、人情を酌み、土地の習慣を考慮して、直省に公布する。毎年の存留・起解する各項目の銀両の数に、加派した餉額を、銀の数に応じて分派し、総額を調整して多きを減らし少なきを補い、餉額を失わないことを期するまでとする。このようにすれば、愚かな民衆にも理解しやすく、奸悪な胥吏が勝手に増減する弊害を防ぐことができる。また、小民が最も苦しむのは、田がないのに糧(田賦)を負担し、米がないのに丁(人頭税)を負担し、田を富家に売り、産(田産)は去っても糧は残り、なお丁賦を納めることである。定額の丁と定額の米を取って、両方を勘案してその数を定め、米若干に対して丁若干を付帯させるべきである。田を買う者は、米を収めれば同時に丁も収めることとすれば、県の戸籍は丁額を失わず、貧民は賠償の負担を強いられることがなく、役所も賦税の滞納の憂いを免れる。」下部(戸部)に下して再議させ、これに従った。

原文天啟元年,給事中甄淑言:「遼餉加派,易致不均。蓋天下戶口有戶口之銀,人丁有人丁之銀,田土有田土之銀,有司徵收,總曰銀額。按銀加派,則其數不漏。東西南北之民,甘苦不同,布帛粟米力役之法,徵納不同。惟守令自知其甘苦,而通融其徵納。今因人土之宜,則無偏枯之累。其法,以銀額為主,而通人情,酌土俗,頒示直省。每歲存留、起解各項銀兩之數,以所加餉額,按銀數分派,總提折扣,裒多益寡,期不失餉額而止。如此,則愚民易知,可杜奸胥意為增減之弊。且小民所最苦者,無田之糧,無米之丁,田鬻富室,產去糧存,而猶輸丁賦。宜取額丁、額米,兩衡而定其數,米若干即帶丁若干。買田者,收米便收丁,則縣冊不失丁額,貧民不致賠累,而有司亦免逋賦之患。」下部覆議,從之。

崇禎三年(1630年)、軍事が起こり、兵部尚書梁廷棟が田賦の増加を請うた。戸部尚書畢自嚴は止めることができず、九厘の外に一畝あたりさらに三厘を徴収した。ただ順天府と永平府は新たに兵禍を受けたため加派せず、残る六府は一畝あたり六厘を徴収し、他省の半分とし、合わせて賦税を百六十五万四千両余り増加した。その五年後、総督盧象升が官戸の田賦を十分の一増加し、民の糧が十両以上の者も同様にすることを請うた。やがて一律に一両あたり一銭を徴収し、助餉と名付けた。二年後、均輸法を再び施行し、糧に応じて餉を納めさせ、一畝あたり米六合を計算し、一石を銀八銭に折り、さらに一畝あたり一分四厘九絲を加徴した。二年後、楊嗣昌が督師となると、一畝あたり練餉銀一分を加えた。兵部郎張若麒は、兵禍で残った遺産を官庄として収用し、上・中・下に分け、一畝あたり八斗から二・三斗まで差等を設けて租を納めさせることを請うた。御史衛周胤が言う。「嗣昌は天下に毒を流し、剿餉と練餉は七百余万両に及び、民の怨みは極まりない。」御史郝晉もまた言う。「万暦末年、九辺の餉を合わせても二百八十万両に過ぎなかった。今、遼餉の加派は九百万両に達する。剿餉三百三十万両は既に停止したが、すぐに練餉七百三十余万両を加えた。古来、一年に二千万両をかき集めて京師に輸送し、また京師の二千万両をかき集めて辺境に輸送したことがあろうか。」上疏の言葉は切直であったが、時事が危急であったため、従うことができなかった。

原文崇禎三年,軍興,兵部尚書樑廷棟請增田賦。戶部尚書畢自嚴不能止,乃於九釐外畝復徵三釐。惟順天、永平以新被兵無所加,餘六府畝徵六釐,得他省之半,共增賦百六十五萬四千有奇。後五年,總督盧象升請加宦戶田賦十之一,民糧十兩以上同之。既而概徵每兩一錢,名曰助餉。越二年,復行均輸法,因糧輸餉,畝計米六合,石折銀八錢,又畝加徵一分四釐九絲。越二年,楊嗣昌督師,畝加練餉銀一分。兵部郎張若麒請收兵殘遺產為官莊,分上、中、下,畝納租八斗至二三斗有差。御史衛周胤言:「嗣昌流毒天下,剿練之餉多至七百萬,民怨何極。」御史郝晉亦言:「萬曆末年,合九邊餉止二百八十萬。今加派遼餉至九百萬。剿餉三百三十萬,業已停罷,旋加練餉七百三十餘萬。自古有一年而括二千萬以輸京師,又括京師二千萬以輸邊者乎?」疏語雖切直,而時事危急,不能從也。

役法は洪武元年(1368年)に定められた。田一頃ごとに丁夫一人を出し、一頃に満たない者は他の田で補い、均工夫と名付けた。まもなく応天府十八府州と江西の九江・饒州・南康の三府の均工夫図冊を編成した。毎年、農閑期に京師に赴き、三十日間役務に供し、帰還させた。田が多く丁が少ない者は、佃人(小作人)を夫として充て、田主は米一石を出してその費用に充てた。佃人でなく、畝数に応じて夫を出す者は、一畝あたり米二升五合を出した。黄冊が完成すると、百十戸を一里とし、里を十甲に分けて里甲とした。上・中・下の戸を三等とし、五年ごとに均等に役務を割り当て、十年ごとに一巡して再編した。一年中の諸々の雑多な役目に応ずる者を、順序を編んで均等にし、銀納・力役はその便に従わせ、均徭と称した。その他の雑役。祗応・禁子・弓兵などはすべて市民を僉派し、糧戸(田賦負担戸)を役務に就かせない。定額外に一銭を徴収し、一人の夫を徴発した者は、流刑・徒刑に処した。

原文役法定於洪武元年。田一頃出丁夫一人,不及頃者以他田足之,名曰均工夫。尋編應天十八府州,江西九江、饒州、南康三府均工夫圖冊。每歲農隙赴京,供役三十日遣歸。田多丁少者,以佃人充夫,而田主出米一石資其用。非佃人而計畝出夫者,畝資米二升五合。迨造黃冊成,以一百十戶為一里,裏分十甲曰裏甲。以上、中、下戶為三等,五歲均役,十歲一更造。一歲中諸歲雜目應役者,編第均之,銀、力從所便,曰均徭。他雜役。凡祗應、禁子、弓兵,悉僉市民,毋役糧戶。額外科一錢、役一夫者,罪流徙。

後世、法はやや弛緩し、徭役・里甲を編成するのに、戸数を基準とし、大戸を免じて単小の戸を徴発した。そこで議者は言う。均徭の法は、冊籍の丁と糧に基づき、資産を根本とし、人戸の上下を審査して、蓄えの実態を把握するものである。冊籍を調査すれば、富商大賈は免役され、土着の民は困窮する。人戸を審査すれば、官吏や里胥が手加減し、小民はますます窮迫する。両者はともに弊害がある。しかし、専ら丁と糧を論ずれば、古人の租庸調の趣旨に近い。そこで、旧来の力差・銀差の数を以て丁糧の数に当て、難易・軽重を斟酌してその中間を取るよう命じた。役務は応差に応じ、里甲で当番を終えて復帰すべき者は、丁糧の多少に基づいて編成の先後を定め、鼠尾冊と称し、これに従って徴収した。市民・商賈で家が豊かだが田産のない者は、自ら申告することを許し、銀差を補助させた。正統初年(1436年)、僉事夏時が江西で創始して施行し、他省もこれに倣って施行し、役務はやや公平になった。

原文後法稍馳,編徭役裏甲者,以戶為斷,放大戶而勾單小。於是議者言,均徭之法,按冊籍丁糧,以資產為宗,核人戶上下,以蓄藏得實也。稽冊籍,則富商大賈免役,而土著困;核人戶,則官吏裏胥輕重其手,而小民益窮蹙。二者交病。然專論丁糧,庶幾古人租庸調之意。乃令以舊編力差、銀差之數當丁糧之數,難易輕重酌其中。役以應差,裏甲除當復者,論丁糧多少編次先後,曰鼠尾冊,按而徵之。市民商賈家殷足而無田產者,聽自佔,以佐銀差。正統初,僉事夏時創行於江西,他省仿行之,役以稍平。

その後、諸々の上供するものは、官が支給・輸送したが、官府の公私の需要は、再び輸納した銀を坊里長に給付し、その調達・弁済を責めた。給付は一・二割に過ぎず、供給するものは十倍・百倍に及び、甚だしければ全く給付せず、ただ当該年の里甲に祗応・夫馬・飲食の費用を計算して負担させたため、里甲は疲弊した。凡そ均徭において、解戸が上供するのは京徭であり、納入を主管する宦官が留難し、容易に納入できず、往復して商品を買い替え、大抵は家産を傾けた。その他の役務における苛酷な徴発の弊害は、毛を挙げるように数えきれない。

原文其後諸上供者,官為支解,而官府公私所須,復給所輸銀於坊裏長,責其營辦。給不能一二,供者或什伯,甚至無所給,惟計值年裏甲祗應夫馬飲食,而裏甲病矣。凡均徭,解戶上供為京徭,主納為中官留難,不易中納,往復改貿,率至傾產。其他役苛索之弊,不可毛舉。

明初、天下に産するものを貢納させるのに、常額を定め、珍奇な玩好品は含めなかった。たとえ必要であっても、里甲に編入し、銀を出して購入させた。しかしその項目は煩雑で、奸悪な者が利得の糸口とした。また、大工事や営繕、祠官の祝釈(祈祷)など、費用が膨大に溢れた。中葉に至り、倭寇が交錯して寇乱し、連年黄河が決壊し、国用は消耗し尽きた。そこで里甲・均徭は、年間の定額を超過した。

原文明初,令天下貢土所有,有常額,珍奇玩好不與。即須用,編之裏甲,出銀以市。顧其目冗碎,奸黠者緣為利孔。又大工營繕,祠官祝釐,資用繁溢。迨至中葉,倭寇交訌,仍歲河決,國用耗殫。於是裏甲、均徭,浮於歲額矣。

凡そ民を役するには、里甲の正規の負担の外に、糧長・解戸・馬船頭・館夫・祗候・弓兵・皂隸・門禁・厨斗などを常役とした。後にはさらに、薪を伐る者・柴を担ぐ者・河を修める者・倉を修める者・材料を運ぶ者・物資を受け継ぐ者・駅舎を守る者・浅瀬を浚う夫などがあり、事に応じて編成僉派し、年々増加した。嘉靖・隆慶以後、一条鞭法が施行され、一省の丁糧を通算し、一省の徭役を均等に割り当てた。そこで均徭・里甲と両税(夏税・秋糧)が一つとなり、小民は煩擾を受けず、事もまた容易に成就した。しかし糧長・里長は、名目上は廃止されたが実質は存続し、諸々の役務が突然到来すると、再び農民を僉派した。条鞭法が施行されて十余年、規制はたちまち紊乱し、完全には遵守できなかった。天啓時(1621-1627年)、御史李応升が十害を上疏して陳べ、そのうち三条は馬夫・河役・糧甲・修弁・白役が民を煩擾する弊害を痛切に述べた。崇禎三年(1630年)、河南巡撫範景文が言う。「民が患い苦しむものは、差役に如くはない。銭糧には収戸・解戸があり、駅伝には馬戸があり、供応には行戸があり、いずれも有力な家を僉派して充て、大戸と称する。究めると、僉派されるのは富民ではなく、中流の家産もたちまち傾く。条鞭法に変わってからは、境内の役を境内の糧に均等に割り当てるので、少しは蘇生すべきであるが、なお民間は毎年奔走し、資財を尽くして補填する。これは条鞭が施行されても大戸が廃されなかったからである。」当時、給事中劉懋がさらに駅夫の削減を上奏し、徴発や往来は依然として編戸に責めた。駅夫は食を得ることができず、ついに相率いて流賊に従って乱を起こしたという。

原文凡役民,自裏甲正辦外,如糧長、解戶、馬船頭、館夫、祗候、弓兵、皁隸、門禁、廚鬥為常役。後又有斫薪、擡柴、修河、修倉、運料、接遞、站鋪、插淺夫之類,因事編僉,歲有增益。嘉、隆後,行一條鞭法,通計一省丁糧,均派一省徭役。於是均徭、裏甲與兩稅為一,小民得無擾,而事亦易集。然糧長、裏長,名罷實存,諸役卒至,復僉農氓。條鞭法行十餘年,規制頓紊,不能盡遵也。天啟時,御史李應升疏陳十害,其三條切言馬夫、河役、糧甲、修辦、白役擾民之弊。崇禎三年,河南巡撫範景文言:「民所患苦,莫如差役。錢糧有收戶、解戶、驛遞有馬戶,供應有行戶,皆僉有力之家充之,名曰大戶。究之,所僉非富民,中人之產輒為之傾。自變為條鞭法,以境內之役均於境內之糧,宜少蘇矣,乃民間仍歲奔走,罄資津貼,是條鞭行而大戶未嘗革也。」時給事中劉懋復奏裁驛夫,徵調往來,仍責編戶。驛夫無所得食,至相率從流賊為亂云。

およそ軍戸・匠戸・竈戸は、その役務はすべて永代に充てられる。軍戸で死亡あるいは逃亡した者は、原籍において補充を命じる。匠戸は二等あり、住坐と輪班という。住坐の工匠は、月に十日間出勤する。輪班に赴かない者は、罰班銀として月に六銭を納めるゆえ、これを輸班という。監局の中官は、多く工匠を占有し、また幼匠を徴発して充て、動かすこと千計に及び、死亡あるいは逃亡した者は、軍戸と同様に補充を命じる。竈戸には上・中・下の三等がある。正丁一人ごとに、余丁を付加する。上戸・中戸は丁力が多いため、あるいは二・三丁を付加し、下戸は一律に優免を与える。その他、陵戸・園戸・海戸・廟戸・幡夫・庫役など、細末なもの数え切れず。

原文凡軍、匠、竈戶,役皆永充。軍戶死若逃者,於原籍勾補。匠戶二等:曰住坐,曰輪班。住坐之匠,月上工十日。不赴班者,輸罰班銀月六錢,故謂之輸班。監局中官,多佔匠役,又括充幼匠,動以千計,死若逃者,勾補如軍。竈戶有上、中、下三等。每一正丁,貼以餘丁。上、中戶丁力多,或貼二三丁,下戶概予優免。他如陵戶、園戶、海戶、廟戶、幡夫、庫役,瑣末不可勝計。

明初、工役の繁雑は、両京の宗廟・宮殿・闕門・王邸の営建から始まり、木材の採伐・煉瓦の焼成、工匠の造作は、万単位で数えられた。各地で城を築き、池を浚い、あらゆる役務が挙行された。洪熙・宣徳に至るまで、郊壇・倉庫はなお完工せず。正統・天順の際、三殿・両宮・南内・離宮が次々に興建された。弘治の時、大学士劉吉が言うには、「近年の工役は、すべて京営の軍士を摘発して充て、内外の軍官は工事の規模大小・費用多寡を推量することを禁じられている。本来五千人を用いるべきところ、奏請すること一二万に及び、審査する術がない」。礼部尚書倪嶽は言う、「諸役の費用は動かすこと数十万を計り、水害旱害が相次ぐ、少し停止を乞う」。南京礼部尚書童軒もまた工役の苦しみを陳述した。吏部尚書林瀚もまた言う、「両畿は連年凶災に遭い、百の役務に困窮し、窮迫愁苦して怨み嘆く。山西・陝西は軍興の供給に応じ、雲南・広東・広西は征発して叛徒を剿滅する。山東・河南・湖広・四川・江西は王邸を興造し、財力が足りない。浙江・福建は物料を調達し、旧日に比べて増加する。庫蔵は空虚で、考慮せざるを得ない」。帝は皆その言を容れたが、しかし全てに従うことはできなかった。武宗の時、乾清宮の工役は特に大規模であった。太素殿は当初の規制は質素倹約であったが、改作して彫琢を施し、用いる銀は二千万余両に至り、工匠三千余人を役し、歳に支給する工食米は一万三千余石。また凝翠・昭和・崇智・光霽の諸殿を修築し、御馬監・鐘鼓司・南城の豹房新房・火薬庫をすべて一新した。権勢ある宦官の荘園・祠墓・香火寺観には、工部がさらに官銀を窃取して媚びた。給事中張原が言うには、「工匠は父母妻子を養い、尺籍の兵は外侮を防ぎ、京営の軍は王室を衛る。今どうして民に頼る所なく、兵は隊伍を離れ、利益は私門に帰し、怨みは公室に叢生することを許すのか」。上疏が入ると、貴州新添驛丞に左遷された。世宗の営建は最も繁雑で、嘉靖十五年以前は、汰省と称しながら、経費はすでに六・七百万に及んだ。その後十数倍に増加し、斎宮・秘殿が同時に興った。工場は二・三十箇所、工匠数万人を役し、軍をこれに充当し、歳費は二・三百万。その時、宗廟・万寿宮が火災に遭ったが、帝はこれを省みず、営繕はますます急を要した。経費が不足すると、臣民に献助を命じた。献助が止まないと、さらに開納(納銭による官職授与)を行った。民を労し財を消耗すること、武宗を上回った。万暦以後、営建・織造は経制の数倍に溢れ、これに徴調・開採を加え、民は少しも休むことができなかった。宦官が政を乱すに至り、邸宅を建て墳墓を営み、僭越して等級を失い、功德の私祠は天下に遍った。およそ二百余年、民力は疲弊し損なわれ久しかった。職役により優免される者は、少ない者は一・二丁、多い者は十六丁に至る。万暦の時、免田は二・三千石に至る者もあった。

原文明初,工役之繁,自營建兩京宗廟、宮殿、闕門、王邸,採木、陶甓,工匠造作,以萬萬計。所在築城、浚陂,百役具舉。迄於洪、宣,郊壇、倉庾猶未迄工。正統、天順之際,三殿、兩宮、南內、離宮,次第興建。弘治時,大學士劉吉言:「近年工役,俱摘發京營軍士,內外軍官禁不得估工用大小多寡。本用五千人,奏請至一二萬,無所稽覈。」禮部尚書倪嶽言:「諸役費動以數十萬計,水旱相仍,乞少停止。」南京禮部尚書童軒復陳工役之苦。吏部尚書林瀚亦言:「兩畿頻年兇災,困於百役,窮愁怨歎。山、陝供億軍興,雲南、廣東西徵發剿叛。山東、河南、湖廣、四川、江西興造王邸,財力不贍。浙江、福建辦物料,視舊日增多。庫藏空匱,不可不慮。」帝皆納其言,然不能盡從也。武宗時,乾清宮役尤大。乙太素殿初制樸儉,改作雕峻,用銀至二千萬餘兩,役工匠三千餘人,歲支工食米萬三千餘石。又修凝翠、昭和、崇智、光霽諸殿,御馬臨、鐘鼓司、南城豹房新房、火藥庫皆鼎新之。權幸閹宦莊園祠墓香火寺觀,工部復竊官銀以媚焉。給事中張原言:「工匠養父母妻子,尺籍之兵禦外侮,京營之軍衛王室,今奈何令民無所賴,兵不麗伍,利歸私門,怨叢公室乎?」疏入,謫貴州新添驛丞。世宗營建最繁,十五年以前,名為汰省,而經費已六七百萬。其後增十數倍,齋宮、祕殿並時而興。工廠二三十處,役匠數萬人,軍稱之,歲費二三百萬。其時宗廟、萬壽宮災,帝不之省,營繕益急。經費不敷,乃令臣民獻助;獻助不已,復行開納。勞民耗財,視武宗過之。萬曆以後,營建織造,溢經制數倍,加以徵調、開採,民不得少休。迨閹人亂政,建第營墳,僭越亡等,功德私祠遍天下。蓋二百餘年,民力殫殘久矣。其以職役優免者,少者一二丁,多者至十六丁。萬歷時,免田有至二三千者。

賦税の蠲免については、恩蠲と災蠲がある。太祖の訓えは、四方で水害旱害があれば直ちに税を免じ、豊年で災害がなくとも、土地が瘠せ民が貧しい所を選んで優免することであった。およそ歳に災害があれば、二税をすべて免除し、かつ米を貸し与え、甚だしい者には米・布あるいは鈔を賜った。また預備倉を設け、老人に命じて鈔を運ばせ米と交換して粟を貯蔵させた。荊州・蘄州で水害があり、戸部主事趙乾を派遣して救済させたが、半年遷延したので、怒ってこれを誅した。青州で旱害蝗害こうがいがあり、有司が上奏しなかったので、その官吏を逮捕して処罰した。旱害に遭った州県で、有司が奏上しない場合は、耆民の申訴を許し、極刑に処した。孝感で飢饉があり、その県令が預備倉で救済貸与を請うたので、帝は行人を駅伝で馳せさせ、かつ戸部に諭して、「今後凡そ歳に飢饉があれば、先ず倉庫を開いて貸与し、その後奏聞せよ」と命じ、これを令として定着させた。在位三十余年、布・鈔数百万、米百余万を賜い、免除した租税は数え切れない。成祖は河南の飢饉を聞き、有司が隠して奏上しないので、これを逮捕して責めた。そこで都御史陳瑛に命じて榜文で天下に諭し、有司で水害旱害の災傷を奏上しない者は、罪を赦さないとした。また朝廷に勅して毎年巡視官を派遣し、民の艱難を目撃しながら言わない者は、すべて逮捕して獄に下させた。仁宗が監国していた時、救済を発することを請う者があったので、人を馳せさせて諭し、「軍民困乏し、嗷嗷として哺を待つに、なお悠長に啓請して返答を待つ、漢の汲黯に倣うことができないのか」と言った。宣宗の時、戸部が飢民を審査することを請うた。帝は言った、「民が飢えて食がなければ、救済するのは溺れる者を拯い焚える者を救うが如くである。どうして調査を待つ必要があろうか」。およそ二祖(太祖・成祖)および仁宗・宣宗の時は、仁政が盛んに行われた。預備倉のほか、また時々起運米を截留し、内帑を賜った。被災地に儲粟がない場合は、隣県の米を発して救済した。蝗の幼虫が生じ始めると、必ず人を派遣して捕殺させた。子女を売る者は、官が代わって買い戻した。かつ富人に佃戸の租を免除させた。大戸が貧民に粟を貸す場合、その雑役を免除して利息とし、豊年に償還させた。皇荘・湖泊はすべて禁を解き、民が採取するに任せた。飢民が原籍に還る場合は、口糧を与えた。京倉・通州倉の米は、平価で出糶した。兼ねて俸糧を前給して米価を下げ、官舎を建てて流民を住まわせ、糧を与えて棄てられた嬰児を収容し、養済院の窮民はそれぞれ籍に注記し、籍のない者は蠟燭寺・幡竿寺の二寺で収養した。その民を恤むことこのようであった。世宗・神宗は民事にはおおよそ疎かったが、災荒の上疏が至れば、必ず蠲免・救済を賜い、祖制に背くことは敢えてしなかった。

原文至若賦稅蠲免,有恩蠲,有災蠲。太祖之訓,凡四方水旱輒免稅,豐歲無災傷,亦擇地瘠民貧者優免之。凡歲災,盡蠲二稅,且貸以米,甚者賜米布若鈔。又設預備倉,令老人運鈔易米以儲粟。荊、蘄水災,命戶部主事趙乾往振,遷延半載,怒而誅之。青州旱蝗,有司不以聞,逮治其官吏。旱傷州縣,有司不奏,許耆民申訴,處以極刑。孝感饑,其令請以預備倉振貸,帝命行人馳驛往,且諭戶部:自今凡歲饑,先發倉庾以貸,然後聞,著為令。」在位三十餘年,賜予布鈔數百萬,米百餘萬,所蠲租稅無數。成祖聞河南饑,有司匿不以聞,逮沼之。因命都御史陳瑛榜諭天下,有司水旱災傷不以聞者,罪不宥。又敕朝廷歲遣巡視官,目擊民艱不言者,悉逮下獄。仁宗監國時,有以發振請者,遣人馳諭之,言:「軍民睏乏,待哺嗷嗷,尚從容啟請待報,不能效漢汲黯耶?」宣宗時,戶部請核饑民。帝曰:「民饑無食,濟之當如拯溺救焚,奚待勘。」蓋二祖、仁、宣時,仁政亟行。預備倉之外,又時時截起運,賜內帑。被災處無儲粟者,發旁縣米振之。蝗蝻始生,必遣人捕枌。鬻子女者,官為收贖。且令富人蠲佃戶租。大戶貸貧民粟,免其雜役為息,豐年償之。皇莊、湖泊皆馳禁,聽民採取。饑民還籍,給以口糧。京、通倉米,平價出糶。兼預給俸糧以殺米價,建官舍以處流民,給糧以收棄嬰,養濟院窮民各注籍,無籍者收養蠟燭、幡竿二寺。其恤民如此。世宗、神宗於民事略矣,而災荒疏至,必賜蠲振,不敢違祖制也。

救済米の給付法は、明初は大口六斗、小口三斗、五歳以下は与えない。永楽以後、その数を減じた。

原文振米之法,明初,大口六斗,小口三斗,五歲以下不與。永樂以後,減其數。

米を納めて救済し罪を贖う者は、景帝の時、雑犯死罪は六十石、流罪・徒刑は三分の一を減じ、その他は差等を設けて逓減した。捐納事例は憲宗から始まった。生員が米百石以上を納めれば、国子監に入る。軍民が二百五十石を納めれば、正九品の散官となり、五十石を加えるごとに二級増し、正七品までとする。武宗の時、富民が粟を納めて救済し、千石以上の者はその門に表彰し、九百石から二・三百石の者は散官を授け、従六品まで得られた。世宗は義民で穀物二十石を出す者に冠帯を与え、多い者は正七品の官を授け、五百石に至る者は有司がそのために牌坊を建立するよう命じた。

原文納米振濟贖罪者,景帝時,雜犯死罪六十石,流徒減三之一,餘遞減有差。捐納事例,自憲宗始。生員納米百石以上,人國子監;軍民納二百五十石,為正九品散官,加五十石,增二級,至正七品止。武宗時,富民納粟振濟,千石以上者表其門,九百石至二三百石者,授散官,得至從六品。世宗令義民出谷二十石者,給冠帶,多者授官正七品,至五百石者,有司為立坊。

粥を施して救済する法は、世宗から始まった。

原文振粥之法,自世宗始。

災害を報告する法は、洪武の時は時限を拘らなかった。弘治の中頃、夏災は五月末を過ぎず、秋災は九月末を過ぎないと制限し始めた。万暦の時、さらに近地は五月・七月、辺地は七月・九月と分けた。

原文報災之法,洪武時不拘時限。弘治中,始限夏災不得過五月終,秋災不得過九月終。萬歷時,又分近地五月、七月,邊地七月、九月。

洪武の時、災害を調査して事実と認めれば、すべて免除した。弘治の中頃、全災は七分を免除し、九分災以下から逓減することを定め始めた。また存留分のみを免除し、起運分には及ばず、後に遂に永制となった。

原文洪武時,勘災既實,盡與蠲免。弘治中,始定全災免七分,自九分災以下遞減。又止免存留,不及起運,後遂為永制云。