明史

志第五十四 食貨二

賦役の法は、唐代の租庸調がなお近古に似る。楊炎が両税法を作りてより、簡にして行い易く、歴代相沿い、明に至るまで改めず。太祖が呉王たりし時、賦税は十に一を取り、役法は田を計りて夫を出す。県は上・中・下の三等とし、賦十万石・六万石・三万石以下を以て差とす。府は三等とし、賦二十万石上下・十万石以下を以て差とす。即位の初め、賦役法を定め、一に黄冊を以て準とす。冊には丁あり田あり、丁には役あり、田には租あり。租を夏税・秋糧と曰い、凡そ二等。夏税は八月を過ぎず、秋糧は明年二月を過ぎず。丁を成丁・未成丁と曰い、凡そ二等。民始めて生まるれば、その名を籍して不成丁とし、年十六を成丁と曰う。成丁にして役し、六十にして免ず。又に職役優免する者あり、役を裏甲・均徭・雑泛と曰い、凡そ三等。戸を以て計るを甲役と曰い、丁を以て計るを徭役と曰い、上命時に非ざるを雑役と曰い、皆力役あり、雇役あり。府州県は冊を験し丁口の多寡、事産の厚薄を以て、その力を均しく適す。

両税は、洪武の時、夏税を米麦・銭鈔・絹と曰い、秋糧を米・銭鈔・絹と曰う。弘治の時、会計の数は、夏税を大小米麦・麦荍・絲綿並びに荒絲・税絲・絲綿折絹・税絲折絹・本色絲・農桑絲折絹・農桑零絲・人丁絲折絹・改科絹・棉花折布・薴布・土薴・紅花・麻布・鈔・租鈔・税鈔・原額小絹・幣帛絹・本色絹・絹・折色絲と曰う。秋糧を米・租鈔・賃鈔・山租鈔・租絲・租絹・粗租麻布・課程棉布・租薴布・牛租米穀・地畝棉花絨・棗子易米・棗株課米・課程薴麻折米・棉布・魚課米・改科絲折米と曰う。万歴の時、小に増損あり、大略米麦を主とし、而して絲絹と鈔これに次ぐ。夏税の米は惟だ江西・湖広・広東・広西にあり、麦荍は惟だ貴州にあり、農桑絲は天下に遍く、惟だ川・広・雲・貴に及ばず、余は各おのその地産に視る。

太祖初めに国を立てしより即ち令を下し、凡そ民田五畝より十畝の者は、桑・麻・木棉を各半畝栽え、十畝以上はこれを倍す。麻は畝に八両を徴し、木棉は畝に四両を徴す。桑を栽うるは四年を以て起科す。桑を種えざれば、絹一疋を出す。麻及び木棉を種えざれば、麻布・棉布を各一疋出す。これ農桑絲絹の起こる所なり。

洪武九年、天下の税糧を、民に銀・鈔・銭・絹を以て代輸せしむ。銀一両・銭千文・鈔一貫は、皆米一石に折輸し、小麦は則ち直を十の二減ず。棉薴一疋は、米六斗に折り、麦七斗に折る。麻布一疋は、米四斗に折り、麦五斗に折る。絲絹等は各おの軽重を以て損益し、粟を納むるを願う者は聴す。十七年、雲南は金・銀・貝・布・漆・丹砂・水銀を以て秋租に代う。ここに於て米麦を本色と謂い、而して諸々折納する税糧の者を、折色と謂う。二年を越え、又戸部侍郎楊靖に令し天下の倉儲の存糧を会計せしめ、二年外は並びに折色を収め、惟だ北方諸布政司は糧を需みて辺に餉するを以て、仍い粟を輸せしむ。三十年戸部に諭して曰く、「行人高稹言う、陝西は逋賦に困ずと。その議せよ、二十八年以前より、天下の逋租は、咸く任土の産する所を許し、布・絹・棉花及び金・銀等の物を折収し、令を著すべしと。」ここに於て戸部定む:鈔一錠は、米一石に折る;金一両は、十石;銀一両は、二石;絹一疋は、石に二斗;棉布一疋は、一石;薴布一疋は、七斗;棉花一斤は、二斗。帝曰く、「逋賦を折収するは、蓋し民困を蘇えんと欲するなり。今賦重きこと此の若くは、将に愈ます民を困せん、豈にこれを恤うの意ならんや。金・銀は毎両米に折るに一倍を加えよ。鈔は止だ二貫五百文を以て一石に折れ。余は議する所に従え。」

永楽中、既に交阯を得て、絹・漆・蘇木・翠羽・紙扇・沈香・速香・安息香諸香を以て租賦に代う。広東瓊州の黎人・肇慶の瑤人内附し、賦を輸すること内地に比す。天下の本色税糧三千余万石、絲鈔等二千余万。計るに是の時、宇内富庶、賦入盈羨し、米粟は京師に輸する数百万石の外、府県の倉廩蓄積甚だ豊かにして、至って紅腐して食うべからず。歳歉なれば、有司は往々先ず粟を発して振貸し、然る後に以て聞す。歳貢銀三十万両有奇と雖も、而して民間の交易銀を用うるは、仍い厲禁あり。

正統元年に至り、副都御史周銓言う、「行在の各衛の官俸は米を南京に支うるに、道遠く費多く、輒ち米を以て貨に易え、貴く買い賤く売り、十にして一に及ばず。朝廷虚しく廩祿を糜し、各官実恵を得ず。請う、南畿・浙江・江西・湖広の舟楫通ぜざる地に於て、布・絹・白金を折収し、京に解して俸に充てん。」江西巡撫趙新も亦た以て言と為し、戸部尚書黄福復た条を以て請う。帝行在戸部尚書胡濙に問う。濙対えて太祖嘗て陝西・浙江に於て税糧を折納し、民以て便と為せりと。遂にその制に倣い、米麦一石を、銀二銭五分に折る。南畿・浙江・江西・湖広・福建・広東・広西の米麦合わせて四百余万石、銀百余万両に折り、内承運庫に入れ、これを金花銀と謂う。その後概ね天下に行わる。起運兌軍の外より、糧四石銀一両を収め京に解し、以て永例と為す。諸方の賦入銀に折り、而して倉廩の積漸く少なし。

初め、太祖天下の官田・民田の賦を定め、凡そ官田は畝に税五升三合五勺、民田は二升を減じ、重租田は八升五合五勺、没官田は一斗二升。惟だ蘇・鬆・嘉・湖は、その張士誠のために守りしを怒り、乃ち諸豪族及び富民の田を籍して以て官田と為し、私租簿を按じて税額と為す。而して司農卿楊憲は又浙西の地膏腴なるを以て、その賦を増し、畝に二倍を加う。

かつて浙西の官田・民田は他方に比べて数倍多く、一畝の税が二、三石に及ぶものがある。おおむね蘇州が最も重く、松江・嘉興・湖州がこれに次ぎ、常州・杭州はさらに軽い。洪武十三年、戸部に命じてその額を削減させ、一畝あたり七斗五升から四斗四升を課すものは十の二を減じ、四斗三升から三斗六升のものはすべて三斗五升に止めて徴収し、それ以下のものは旧額のままとした。当時、蘇州一府の秋糧は二百七十四万六千余石で、民糧十五万石を除いてはすべて官田の糧であった。官糧の歳額は浙江省全体と等しく、その重さはかくの如しであった。建文二年、詔して曰く、「江・浙の賦税は特に重く、蘇州・松江は私租を基準として課税しているが、これは一時の頑民を懲らしめるためのものであり、どうして定則として一方を重く苦しめることができようか。すべて減免すべきで、一畝一斗を超えてはならない」。成祖は建文の政をことごとく廃し、浙西の賦税は再び重くなった。宣宗が即位すると、広西布政使周幹が蘇州・常州・嘉興・湖州諸府を巡視して帰還し、言うには、「諸府の民は多く逃亡しており、耆老に尋ねると、皆が重税によるものだという。例えば呉江・崑山の民田租は、旧来一畝五升であったが、小民が富民の田を小作すると、一畝につき私租一石を納めた。後に事故があって官に没収されると、たちまち私租の例に倣ってすべて取り立てる。十分の八を取っても民は耐えられないのに、ましてすべて取り立てるなどどうしてできようか。すべて取り立てれば、民は必ず凍え飢え、逃亡しないわけにはいかなくなる。仁和・海寧・崑山では海水が官田・民田千九百余頃を陥没させたが、今に至る十余年、なおその租を徴収している。田は海に没したのに、租はどこから出ようか。没官田及び公・侯の還官田租を、すべてそこの官田の課税基準に従わせ、一畝の税を六斗とし、海水で陥没した田はその税をすべて免除するよう請う。そうすれば田に荒廃の憂いはなく、細民は安らかに生きることができよう」。帝は戸部に議してこれを実行させた。宣徳五年二月、詔して曰く、「旧額の官田租で、一畝一斗から四斗のものはそれぞれ十の二を減じ、四斗一升から一石以上のものは十の三を減ずる。これを令として定めよ」。ここにおいて江南巡撫周忱と蘇州知府況鐘は、工夫を凝らして蘇州の糧七十余万石を減じ、他の府もそれに準じて減じたので、東南の民力はやや緩和された。周忱はまた松江の官田を民田の基準で課税するよう命じたが、戸部は成法を変乱したと弾劾した。宣宗は罪に問わなかったが、従うこともできなかった。朝廷はたびたび詔書を下して租賦を免除したが、財政担当者はひそかに役所に戒めて、詔書を口実にしないようさせた。帝は尚書胡濙に「計臣が恩沢を阻んでいる」と言ったが、深く罪には問わなかった。正統元年、蘇州・松江・浙江等処の官田は民田の基準で課税し、秋糧四斗一升から二石以上のものは三斗に減じ、二斗一升以上から四斗のものは二斗に減じ、一斗一升至二斗のものは一斗に減ずることを命じた。宣徳末年に蘇州の未納糧が七百九十万石に達し、民の困窮は極まっていたが、この時になってようやくやや蘇生したのである。英宗が復辟した初め、鎮守浙江尚書孫原貞等に命じて杭州・嘉興・湖州の則例を定めさせ、課税基準が重いものは徴収する米を少なくし、軽いものは多くすべきとした。そこで官田一畝一石以下、民田七斗以下のものは、毎石につき歳に平米一石三斗を徴収し、官民田四斗以下のものは毎石につき歳に平米一石五斗を徴収し、官田二斗以下、民田二斗七升以下のものは毎石につき歳に平米一石七斗を徴収し、官田八升以下、民田七升以下のものは毎石につき歳に平米二石二斗を徴収すると定めた。およそ重いものは軽くし、軽いものは重くして、課税基準を適切に均等にしようとしたが、一畝一石の税は減らさなかったのである。

嘉靖二年、御史黎貫が言うには、「国初の夏秋二税は、麦四百七十余万石であったが、今は九万石少なく、米二千四百七十余万石であったが、今は二百五十余万石少ない。しかし宗室の繁栄、官吏の冗多、内官の多さ、軍士の増加は、すべてこれから支給されている。賦税の収入は日々損なわれ、支出費用は日々増加している。祖宗の賦額及び経費の多少の数を検討し、一つ一つ区画すれば、賦税収入が有限であり、無駄な費用を節約せざるを得ないことが分かるであろう」。ここにおいて戸部が議して、「天下の官吏が考満して昇進する際には、必ず任期内の租税を厳しく審査し、徴収・納入が十分な数に達して初めて交代を許可するよう命じる。なお朝廷自ら節倹を行い、天下に率先するよう請う」。帝はこれを採用した。まもなく諭徳顧鼎臣が銭糧の積弊四事を条上した。

一つは田糧の旧額を調査整理することである。州県官に責任を負わせ、農閑期に里甲等に洪武・正統年間の魚鱗図・風旗の様式に倣って図冊を編造させ、元額の田糧・字圩・則号・条段・坍荒・成熟の歩口数目を細かく列記し、官が再調査して界址を区別し、一畝ごとに検踏・丈量し、開墾・改正・豁除の数を具申させる。刊刻して書物とし、官庫に収蔵し、里に配布して永久に照合考査の資料とする。また先年の巡撫周忱・王恕の簡便で実行可能な事例を斟酌して、定規として確立する。毎年の実徴・起運・存留・加耗・本色・折色及び処補・暫徴・帯徴・停徴等の件数目を会計して定めた後、榜を掲げて民に知らせる。そうすれば吏胥が奸欺を働くことができず、小民は賠累や科擾の憂いを免れるであろう。一つは歳辦銭糧の徴収を督促することである。成化・弘治以前は、里甲が徴収を督促し、糧戸が納入し、糧長が収解し、州県が臨収した。糧長は多く斛面を取ることを敢えてせず、糧戸は水穀や糠粃を混ぜることを敢えてせず、兌糧の官軍は阻難して多く要求することを敢えてせず、公私ともに便利であった。近年では、役所はもはや経催里甲の負糧人戸を比較せず、ただ期限を立てて糧長を敲撲し、下郷して追徴させている。豪強な者は大斛で倍収し、方々から索取し、行く先々で鶏犬も空になる。弱い者は勢豪に凌がれ、延滞・欺瞞・滞納し、やむなく財産を売って補納する。あるいは旧役の侵欠を新たに任命された者が償うことを責められ、一人が未納になると親族まで株連され、無辜の民が箠楚や囹圄で死ぬ者が数百人に及ぶ。かつては毎区の糧長は正・副二名に過ぎなかったが、近ごろは十人以上に及ぶことが多い。実際に収掌管理する糧の数は少ないが、科斂・打点・使用・年例の数は多い。州県は一年の間に、中流の家百戸の財産を破壊する。害はこれより大きいものはない。戸部に事例を議定させ、所管の役所に転達し、糧長の審編は必ず旧規に従わせるべきである。もし州県官が多く糧長を任命し、下郷することを放任し、あるいは里甲に督促させず、ただ酷刑で糧長を期限切れで責めるようなことがあれば、これを罪する。人命を多く死なせた者は、故勘をもって論ずる。

その二は、官を派遣して総理すること及び預備倉糧を復活させることを議するものである。上疏が下されると、戸部は言うには、「陳述したことはすべて時弊に切実である。所管の役所に施行させよ」。数年間延引したが、依然として旧態のままだった。

糧長とは、太祖の時に、田の多い者をこれに任じ、その郷の賦税を監督させた。毎年七月、州県は官を委ねてともに京に赴き、勘合を受領して行かせた。糧一万石ごとに、長・副各一人とし、輸送が期日に到着すれば、召見を受け、言葉が合えば、しばしば抜擢任用された。末年になって改定し、毎区正副二名が輪番で充てた。宣徳年間に、また永充となった。科斂が横溢し、民はその害を受け、あるいは官糧を私売して利益を貪った。罷免された者は公賦を損ない、事が発覚すると、身を失い家を喪うに至った。景泰年間に糧長を廃止したが、まもなくまた復活した。官軍による兌運が始まると、糧長はもはや京師に輸送せず、州里の間で甚だしく害をなしたので、顧鼎臣がこれについて言及したのである。

間もなく、御史郭弘化らもまた丈量を通行するよう請い、包賠兼併の弊を杜絶せんとした。帝は紛擾を恐れ、従わなかった。給事中徐俊民が言うには、「今の田賦には、官より地を受けて歳に租税を供するものがあり、これを官田と謂う。江水が泛溢し溝塍が淹沒するものがあり、これを坍江と謂う。流移亡絶して田は棄てられ糧は存するものがあり、これを事故と謂う。官田は貧民が佃種し、一畝の租は三斗、或いは五六斗或いは一石以上なるものあり。坍江・事故の虚糧は、裏甲が賠納し、或いは数十石或いは百余石なるものあり。そもそも民田の価は官田の十倍、貧民は既に置く能わず。しかるに官田は糧重く、毎に取盈を病み、さらに坍江・事故の虚糧を加え、また攤納を令し、追呼敲撲、歳に寧日なし。しかるに奸富猾胥は方に詭寄・那移し、軽きを併せて重きを分つ。これ小民の疾苦、閭閻の凋瘁、日に益し日に増す所以なり。均糧・限田の制を定むるを請う。坍江・事故は悉く蠲免すべし。そして官民田を一つに合し、上・中・下三則を定めて起科し以て糧を均すべし。富人には千畝を過ぐるを許さず、百畝を以て自給するを聴き、その羨る者は則ち辺税を加輸せしむべし。かくの如くすれば、多寡に節あり、軽重適宜にして、貧富相安じ、公私ともに足るべし」と。部議は、「疆土民俗各異なり、司に令して熟計せしめその便を図らしむ」とし、行われなかった。

数年を経て、乃ち応天巡撫侯位の奏に従い、蘇州の坍海田糧九万余石を免じたが、然れども那移・飛灑の弊は相沿って改まらず。十八年に至り、鼎臣が大学士となり、復た言うには、「蘇・鬆・常・鎮・嘉・湖・杭の七府は、供輸天下に甲たり、而して裏胥豪右の蠹弊特に甚だし。欺隠及び坍荒田土を将に一一検核改正すべし」と。ここにおいて応天巡撫歐陽鐸は荒田四千余頃を検し、租十一万石有奇を計り、以て欺隠田糧六万余石を以てこれを補い、余は豁免を請うた。戸部は終に持して下さず。時に嘉興知府趙瀛が建議して、「田は官・民を分たず、税は等則を分たず、一切三斗を以て起徴すべし」と。鐸は乃ち蘇州知府王儀とともに官・民田を尽く括り裒益す。履畝清丈し、等則を定む。造る所の経賦冊は、八事を以て税糧を定む:元額稽始と曰い、事故除虚と曰い、分項別異と曰い、帰総正実と曰い、坐派起運と曰い、運余撥存と曰い、存余考積と曰い、徴一定額と曰う。また八事を以て裏甲を考う:丁田と曰い、慶賀と曰い、祭祀と曰い、郷飲と曰い、科賀と曰い、恤政と曰い、公費と曰い、備用と曰う。三事を以て均徭を定む:銀差と曰い、力差と曰い、馬差と曰う。例として著す。

徴一とは、銀米の凡を総徴し、畝を計り均輸するものなり。その科則最も重きと最も軽きものは、稍々耗損を以て益し推移す。重きものは尽く損ずる能わず、惟だ耗米を逓減し、軽齎を派し折除して、陰に軽きを与う。軽きものは加益す能わず、本色を徴し、耗米を逓増し加乗して、陰に重きを与う。推収の法は、田を母とし、戸を子とす。時に豪右多くその議を梗げ、鼎臣独り善しと以為い、曰く、「是の法行わば、吾が家は千石の輸を益す、然れども貧民は千石を減ずるなり、易うべからず」と。顧みるにその時、上は賦額を損ずる能わず、民を長ずる者は私に己が意を以て変通す。ここにより官田は偏重に至らず、而して民田の賦は反って加わることとなった。

時にまた綱銀・一串鈴の諸法あり。綱銀とは、民間の応役歳費を挙げ、丁四糧六を総徴し、知り易くして繁ならざるもの、猶お網の綱あるが如し。一串鈴は、則ち夥收分解の法なり。ここより民間の輸納は、止む本色及び折色銀を収むるのみとなった。

是の時、天下の財賦、歳に太倉庫に入るもの二百余万両。旧制は七分を経費とし三分を存積して兵・歉に備え、以て常と為す。世宗の中年に、辺供の費繁く、土木・禱祀を加え、月に虚日無く、帑藏匱竭す。司農は百計財を生じ、甚だしきに至っては寺田を売り、軍罪を収贖すれども、猶お給す能わず。二十九年、俺荅京師を犯し、兵を増し戍を設け、餉額倍を過ぐ。三十年、京辺の歳用五百九十五万に至り、戸部尚書孫応奎蒿目して策無く、乃ち南畿・浙江等の州県に於いて賦を百二十万増すを議し、加派はここに始まる。

嗣いで、京辺の歳用は、多きものは五百万を過ぎ、少きものも亦三百余万、歳入は歳出の半を充たす能わず。ここにより度支は一切の法を為し、その箕斂財賄・題増派・括贓贖・算税契・折民壮・提編・均徭・推広事例興る。その初めも亦た匱を済うに頼むも、久しくして諸の灌輸益々少なし。又四方多事、有司は往往その地の為に奏留し或いは請免す:浙・直は倭に備え、川・貴は木を採り、山・陝・宣・大は兵荒の為なり。軍興の徴発を停格するのみならず、即ち歳額二百万も、且つその三の一を虧く。而して内廷の賞給、齋殿の経営、宮中夜半に片紙を出せば、吏急なりと雖も、敢えて頃刻を延ばす者無し。三十七年、大同右衛警を告げ、太倉に入る賦僅かに七万、帑儲大較十万に及ばず。戸部尚書方鈍ら憂懼して出ずる所を知らず、乃ち間に乗じて具に帑藏空虚の状を陳し、因って便宜七事を条上して請う。既にして、又た羣臣に各々理財の策を条せしめ、議行するもの凡そ二十九事、益々瑣屑にして国体に非ず。而して累年以前の積逋は追徴せざる無く、南方の本色逋賦も亦た皆追徴して折色と為した。

是の時、東南倭に被り、南畿・浙・閩は多く額外の提編あり、江南は四十万に至る。提編とは、加派の名なり。その法は、銀力差を以て十甲に排編し、如一甲足らざれば、則ち下甲を提げてこれを補う、故にこれを提編と謂う。倭患平ぎて、応天巡撫周如鬥加派を減ずるを乞い、給事中何煃も亦た具に南畿困敝を陳し、言うには、「軍門の養兵、工部の料価、操江の募兵、兵備道の壮丁、府州県の郷兵、率ね民の累と為り、甚だしきは一を指して十を科す、請うらくはこれを禁革せん」と。煃の議の如く命ずるも、而して提編の額は減ずる能わず。

隆・万の世、増額既に故の如く、又多く無藝の徴あり、逋糧愈々多く、規避も亦た益々巧みなり。已に解して愆限或いは十余年に至り、未だ徴せずして報収す、一県に十万に至るものあり。逋欠の多きは、県各数十万。一条鞭法を行なうに頼り、他に科擾無く、民力大いに絀せず。

一条鞭法とは、一州県の賦役を総括し、地を量り丁を計り、丁糧畢く官に輸す。一歳の役は、官が僉募を為す。力差は則ちその工食の費を計り、量を為して増減し、銀差は則ちその交納の費を計り、増耗を加う。凡そ額辦・派辦・京庫歳需と存留・供億の諸費、及び土貢方物、悉く一条に並べ、皆畝を計り銀を徴し、官に於いて折辦す、故にこれを一条鞭と謂う。立法頗る簡便なり。嘉靖の間、数行し数止み、万暦九年に至りて乃ち尽くこれを行なう。

その後、三大征(寧夏の乱・播州の乱・朝鮮の役)が相次ぎ、かなりの加派があったが、事が終わるとすぐに停止した。四十六年(1618年)に至り、急遼餉を三百万両増加した。当時、内帑(宮廷の財庫)は充実していたが、皇帝は惜しんで発給しようとしなかった。戸部尚書李汝華は、倭寇征討と播州征討の先例を援用し、一畝あたり三厘五毫を加え、天下の賦税は二百万両余り増加した。翌年、さらに三厘五毫を加えた。その翌年、兵部と工部の要請により、さらに二厘を加えた。前後を通じて九厘となり、賦税は五百二十万両増加し、遂に年間の定額となった。加派しなかったのは、畿内八府と貴州のみであった。

天啓元年(1621年)、給事中甄淑が上奏した。「遼餉の加派は、不公平を招きやすい。そもそも天下の戸口には戸口の銀、人丁には人丁の銀、田土には田土の銀があり、役所が徴収する総額を銀額という。銀額に基づいて加派すれば、その数は漏れない。東西南北の民衆の苦楽は異なり、布帛・粟米・力役による徴収・納入の方法も異なる。ただ地方官だけがその苦楽を知り、その徴収・納入を融通しうる。今、人と土地の実情に合わせれば、偏りによる弊害はない。その方法は、銀額を主とし、人情を酌み、土地の習慣を考慮して、直省に公布する。毎年の存留・起解する各項目の銀両の数に、加派した餉額を、銀の数に応じて分派し、総額を調整して多きを減らし少なきを補い、餉額を失わないことを期するまでとする。このようにすれば、愚かな民衆にも理解しやすく、奸悪な胥吏が勝手に増減する弊害を防ぐことができる。また、小民が最も苦しむのは、田がないのに糧(田賦)を負担し、米がないのに丁(人頭税)を負担し、田を富家に売り、産(田産)は去っても糧は残り、なお丁賦を納めることである。定額の丁と定額の米を取って、両方を勘案してその数を定め、米若干に対して丁若干を付帯させるべきである。田を買う者は、米を収めれば同時に丁も収めることとすれば、県の戸籍は丁額を失わず、貧民は賠償の負担を強いられることがなく、役所も賦税の滞納の憂いを免れる。」下部(戸部)に下して再議させ、これに従った。

崇禎三年(1630年)、軍事が起こり、兵部尚書梁廷棟が田賦の増加を請うた。戸部尚書畢自嚴は止めることができず、九厘の外に一畝あたりさらに三厘を徴収した。ただ順天府と永平府は新たに兵禍を受けたため加派せず、残る六府は一畝あたり六厘を徴収し、他省の半分とし、合わせて賦税を百六十五万四千両余り増加した。その五年後、総督盧象升が官戸の田賦を十分の一増加し、民の糧が十両以上の者も同様にすることを請うた。やがて一律に一両あたり一銭を徴収し、助餉と名付けた。二年後、均輸法を再び施行し、糧に応じて餉を納めさせ、一畝あたり米六合を計算し、一石を銀八銭に折り、さらに一畝あたり一分四厘九絲を加徴した。二年後、楊嗣昌が督師となると、一畝あたり練餉銀一分を加えた。兵部郎張若麒は、兵禍で残った遺産を官庄として収用し、上・中・下に分け、一畝あたり八斗から二・三斗まで差等を設けて租を納めさせることを請うた。御史衛周胤が言う。「嗣昌は天下に毒を流し、剿餉と練餉は七百余万両に及び、民の怨みは極まりない。」御史郝晉もまた言う。「万暦末年、九辺の餉を合わせても二百八十万両に過ぎなかった。今、遼餉の加派は九百万両に達する。剿餉三百三十万両は既に停止したが、すぐに練餉七百三十余万両を加えた。古来、一年に二千万両をかき集めて京師に輸送し、また京師の二千万両をかき集めて辺境に輸送したことがあろうか。」上疏の言葉は切直であったが、時事が危急であったため、従うことができなかった。

役法は洪武元年(1368年)に定められた。田一頃ごとに丁夫一人を出し、一頃に満たない者は他の田で補い、均工夫と名付けた。まもなく応天府十八府州と江西の九江・饒州・南康の三府の均工夫図冊を編成した。毎年、農閑期に京師に赴き、三十日間役務に供し、帰還させた。田が多く丁が少ない者は、佃人(小作人)を夫として充て、田主は米一石を出してその費用に充てた。佃人でなく、畝数に応じて夫を出す者は、一畝あたり米二升五合を出した。黄冊が完成すると、百十戸を一里とし、里を十甲に分けて里甲とした。上・中・下の戸を三等とし、五年ごとに均等に役務を割り当て、十年ごとに一巡して再編した。一年中の諸々の雑多な役目に応ずる者を、順序を編んで均等にし、銀納・力役はその便に従わせ、均徭と称した。その他の雑役。祗応・禁子・弓兵などはすべて市民を僉派し、糧戸(田賦負担戸)を役務に就かせない。定額外に一銭を徴収し、一人の夫を徴発した者は、流刑・徒刑に処した。

後世、法はやや弛緩し、徭役・里甲を編成するのに、戸数を基準とし、大戸を免じて単小の戸を徴発した。そこで議者は言う。均徭の法は、冊籍の丁と糧に基づき、資産を根本とし、人戸の上下を審査して、蓄えの実態を把握するものである。冊籍を調査すれば、富商大賈は免役され、土着の民は困窮する。人戸を審査すれば、官吏や里胥が手加減し、小民はますます窮迫する。両者はともに弊害がある。しかし、専ら丁と糧を論ずれば、古人の租庸調の趣旨に近い。そこで、旧来の力差・銀差の数を以て丁糧の数に当て、難易・軽重を斟酌してその中間を取るよう命じた。役務は応差に応じ、里甲で当番を終えて復帰すべき者は、丁糧の多少に基づいて編成の先後を定め、鼠尾冊と称し、これに従って徴収した。市民・商賈で家が豊かだが田産のない者は、自ら申告することを許し、銀差を補助させた。正統初年(1436年)、僉事夏時が江西で創始して施行し、他省もこれに倣って施行し、役務はやや公平になった。

その後、諸々の上供するものは、官が支給・輸送したが、官府の公私の需要は、再び輸納した銀を坊里長に給付し、その調達・弁済を責めた。給付は一・二割に過ぎず、供給するものは十倍・百倍に及び、甚だしければ全く給付せず、ただ当該年の里甲に祗応・夫馬・飲食の費用を計算して負担させたため、里甲は疲弊した。凡そ均徭において、解戸が上供するのは京徭であり、納入を主管する宦官が留難し、容易に納入できず、往復して商品を買い替え、大抵は家産を傾けた。その他の役務における苛酷な徴発の弊害は、毛を挙げるように数えきれない。

明初、天下に産するものを貢納させるのに、常額を定め、珍奇な玩好品は含めなかった。たとえ必要であっても、里甲に編入し、銀を出して購入させた。しかしその項目は煩雑で、奸悪な者が利得の糸口とした。また、大工事や営繕、祠官の祝釈(祈祷)など、費用が膨大に溢れた。中葉に至り、倭寇が交錯して寇乱し、連年黄河が決壊し、国用は消耗し尽きた。そこで里甲・均徭は、年間の定額を超過した。

凡そ民を役するには、里甲の正規の負担の外に、糧長・解戸・馬船頭・館夫・祗候・弓兵・皂隸・門禁・厨斗などを常役とした。後にはさらに、薪を伐る者・柴を担ぐ者・河を修める者・倉を修める者・材料を運ぶ者・物資を受け継ぐ者・駅舎を守る者・浅瀬を浚う夫などがあり、事に応じて編成僉派し、年々増加した。嘉靖・隆慶以後、一条鞭法が施行され、一省の丁糧を通算し、一省の徭役を均等に割り当てた。そこで均徭・里甲と両税(夏税・秋糧)が一つとなり、小民は煩擾を受けず、事もまた容易に成就した。しかし糧長・里長は、名目上は廃止されたが実質は存続し、諸々の役務が突然到来すると、再び農民を僉派した。条鞭法が施行されて十余年、規制はたちまち紊乱し、完全には遵守できなかった。天啓時(1621-1627年)、御史李応升が十害を上疏して陳べ、そのうち三条は馬夫・河役・糧甲・修弁・白役が民を煩擾する弊害を痛切に述べた。崇禎三年(1630年)、河南巡撫範景文が言う。「民が患い苦しむものは、差役に如くはない。銭糧には収戸・解戸があり、駅伝には馬戸があり、供応には行戸があり、いずれも有力な家を僉派して充て、大戸と称する。究めると、僉派されるのは富民ではなく、中流の家産もたちまち傾く。条鞭法に変わってからは、境内の役を境内の糧に均等に割り当てるので、少しは蘇生すべきであるが、なお民間は毎年奔走し、資財を尽くして補填する。これは条鞭が施行されても大戸が廃されなかったからである。」当時、給事中劉懋がさらに駅夫の削減を上奏し、徴発や往来は依然として編戸に責めた。駅夫は食を得ることができず、ついに相率いて流賊に従って乱を起こしたという。

およそ軍戸・匠戸・竈戸は、その役務はすべて永代に充てられる。軍戸で死亡あるいは逃亡した者は、原籍において補充を命じる。匠戸は二等あり、住坐と輪班という。住坐の工匠は、月に十日間出勤する。輪班に赴かない者は、罰班銀として月に六銭を納めるゆえ、これを輸班という。監局の中官は、多く工匠を占有し、また幼匠を徴発して充て、動かすこと千計に及び、死亡あるいは逃亡した者は、軍戸と同様に補充を命じる。竈戸には上・中・下の三等がある。正丁一人ごとに、余丁を付加する。上戸・中戸は丁力が多いため、あるいは二・三丁を付加し、下戸は一律に優免を与える。その他、陵戸・園戸・海戸・廟戸・幡夫・庫役など、細末なもの数え切れず。

明初、工役の繁雑は、両京の宗廟・宮殿・闕門・王邸の営建から始まり、木材の採伐・煉瓦の焼成、工匠の造作は、万単位で数えられた。各地で城を築き、池を浚い、あらゆる役務が挙行された。洪熙・宣徳に至るまで、郊壇・倉庫はなお完工せず。正統・天順の際、三殿・両宮・南内・離宮が次々に興建された。弘治の時、大学士劉吉が言うには、「近年の工役は、すべて京営の軍士を摘発して充て、内外の軍官は工事の規模大小・費用多寡を推量することを禁じられている。本来五千人を用いるべきところ、奏請すること一二万に及び、審査する術がない」。礼部尚書倪嶽は言う、「諸役の費用は動かすこと数十万を計り、水害旱害が相次ぐ、少し停止を乞う」。南京礼部尚書童軒もまた工役の苦しみを陳述した。吏部尚書林瀚もまた言う、「両畿は連年凶災に遭い、百の役務に困窮し、窮迫愁苦して怨み嘆く。山西・陝西は軍興の供給に応じ、雲南・広東・広西は征発して叛徒を剿滅する。山東・河南・湖広・四川・江西は王邸を興造し、財力が足りない。浙江・福建は物料を調達し、旧日に比べて増加する。庫蔵は空虚で、考慮せざるを得ない」。帝は皆その言を容れたが、しかし全てに従うことはできなかった。武宗の時、乾清宮の工役は特に大規模であった。太素殿は当初の規制は質素倹約であったが、改作して彫琢を施し、用いる銀は二千万余両に至り、工匠三千余人を役し、歳に支給する工食米は一万三千余石。また凝翠・昭和・崇智・光霽の諸殿を修築し、御馬監・鐘鼓司・南城の豹房新房・火薬庫をすべて一新した。権勢ある宦官の荘園・祠墓・香火寺観には、工部がさらに官銀を窃取して媚びた。給事中張原が言うには、「工匠は父母妻子を養い、尺籍の兵は外侮を防ぎ、京営の軍は王室を衛る。今どうして民に頼る所なく、兵は隊伍を離れ、利益は私門に帰し、怨みは公室に叢生することを許すのか」。上疏が入ると、貴州新添驛丞に左遷された。世宗の営建は最も繁雑で、嘉靖十五年以前は、汰省と称しながら、経費はすでに六・七百万に及んだ。その後十数倍に増加し、斎宮・秘殿が同時に興った。工場は二・三十箇所、工匠数万人を役し、軍をこれに充当し、歳費は二・三百万。その時、宗廟・万寿宮が火災に遭ったが、帝はこれを省みず、営繕はますます急を要した。経費が不足すると、臣民に献助を命じた。献助が止まないと、さらに開納(納銭による官職授与)を行った。民を労し財を消耗すること、武宗を上回った。万暦以後、営建・織造は経制の数倍に溢れ、これに徴調・開採を加え、民は少しも休むことができなかった。宦官が政を乱すに至り、邸宅を建て墳墓を営み、僭越して等級を失い、功德の私祠は天下に遍った。およそ二百余年、民力は疲弊し損なわれ久しかった。職役により優免される者は、少ない者は一・二丁、多い者は十六丁に至る。万暦の時、免田は二・三千石に至る者もあった。

賦税の蠲免については、恩蠲と災蠲がある。太祖の訓えは、四方で水害旱害があれば直ちに税を免じ、豊年で災害がなくとも、土地が瘠せ民が貧しい所を選んで優免することであった。およそ歳に災害があれば、二税をすべて免除し、かつ米を貸し与え、甚だしい者には米・布あるいは鈔を賜った。また預備倉を設け、老人に命じて鈔を運ばせ米と交換して粟を貯蔵させた。荊州・蘄州で水害があり、戸部主事趙乾を派遣して救済させたが、半年遷延したので、怒ってこれを誅した。青州で旱害蝗害があり、有司が上奏しなかったので、その官吏を逮捕して処罰した。旱害に遭った州県で、有司が奏上しない場合は、耆民の申訴を許し、極刑に処した。孝感で飢饉があり、その県令が預備倉で救済貸与を請うたので、帝は行人を駅伝で馳せさせ、かつ戸部に諭して、「今後凡そ歳に飢饉があれば、先ず倉庫を開いて貸与し、その後奏聞せよ」と命じ、これを令として定着させた。在位三十余年、布・鈔数百万、米百余万を賜い、免除した租税は数え切れない。成祖は河南の飢饉を聞き、有司が隠して奏上しないので、これを逮捕して責めた。そこで都御史陳瑛に命じて榜文で天下に諭し、有司で水害旱害の災傷を奏上しない者は、罪を赦さないとした。また朝廷に勅して毎年巡視官を派遣し、民の艱難を目撃しながら言わない者は、すべて逮捕して獄に下させた。仁宗が監国していた時、救済を発することを請う者があったので、人を馳せさせて諭し、「軍民困乏し、嗷嗷として哺を待つに、なお悠長に啓請して返答を待つ、漢の汲黯に倣うことができないのか」と言った。宣宗の時、戸部が飢民を審査することを請うた。帝は言った、「民が飢えて食がなければ、救済するのは溺れる者を拯い焚える者を救うが如くである。どうして調査を待つ必要があろうか」。およそ二祖(太祖・成祖)および仁宗・宣宗の時は、仁政が盛んに行われた。預備倉のほか、また時々起運米を截留し、内帑を賜った。被災地に儲粟がない場合は、隣県の米を発して救済した。蝗の幼虫が生じ始めると、必ず人を派遣して捕殺させた。子女を売る者は、官が代わって買い戻した。かつ富人に佃戸の租を免除させた。大戸が貧民に粟を貸す場合、その雑役を免除して利息とし、豊年に償還させた。皇荘・湖泊はすべて禁を解き、民が採取するに任せた。飢民が原籍に還る場合は、口糧を与えた。京倉・通州倉の米は、平価で出糶した。兼ねて俸糧を前給して米価を下げ、官舎を建てて流民を住まわせ、糧を与えて棄てられた嬰児を収容し、養済院の窮民はそれぞれ籍に注記し、籍のない者は蠟燭寺・幡竿寺の二寺で収養した。その民を恤むことこのようであった。世宗・神宗は民事にはおおよそ疎かったが、災荒の上疏が至れば、必ず蠲免・救済を賜い、祖制に背くことは敢えてしなかった。

救済米の給付法は、明初は大口六斗、小口三斗、五歳以下は与えない。永楽以後、その数を減じた。

米を納めて救済し罪を贖う者は、景帝の時、雑犯死罪は六十石、流罪・徒刑は三分の一を減じ、その他は差等を設けて逓減した。捐納事例は憲宗から始まった。生員が米百石以上を納めれば、国子監に入る。軍民が二百五十石を納めれば、正九品の散官となり、五十石を加えるごとに二級増し、正七品までとする。武宗の時、富民が粟を納めて救済し、千石以上の者はその門に表彰し、九百石から二・三百石の者は散官を授け、従六品まで得られた。世宗は義民で穀物二十石を出す者に冠帯を与え、多い者は正七品の官を授け、五百石に至る者は有司がそのために牌坊を建立するよう命じた。

粥を施して救済する法は、世宗から始まった。

災害を報告する法は、洪武の時は時限を拘らなかった。弘治の中頃、夏災は五月末を過ぎず、秋災は九月末を過ぎないと制限し始めた。万暦の時、さらに近地は五月・七月、辺地は七月・九月と分けた。

洪武の時、災害を調査して事実と認めれば、すべて免除した。弘治の中頃、全災は七分を免除し、九分災以下から逓減することを定め始めた。また存留分のみを免除し、起運分には及ばず、後に遂に永制となった。