『記』に曰く、「財を地に取り、法を天に取る。国を富ます根本は、農桑にある」と。明初は、元の旧制を踏襲し、銭法は通じずに紙幣を用い、また民間の銀による交易を禁じた。民には不便であるはずであった。しかし洪武・永楽・熙寧・宣徳の時代には、百姓は充実し、府庫の蓄えは満ち溢れた。当時は、農事を勧めて開墾を務め、土地に荒蕪なく、人は本業に励み、また屯田を開き、塩法(中塩)によって辺境の軍に給与し、軍糧の輸送は朝廷に依存しなかった。故に上下ともに充足し、軍民ともに豊かであった。その後、屯田は豪強の兼併によって崩れ、財政担当官が塩法を変えた。そこで辺兵はすべて太倉の食糧に依存するようになり、輸送は往々にして不足した。世宗以後、財を消耗する道が広がり、府庫は枯渇した。神宗は賦税を加えて重く徴収し、鉱税を四方に出し、正規の税収を左蔵庫に移して充実させた。宦官や小人の群れが、横暴に徴収し侵奪した。民は多く末業に走り、田はついに荒れ汚れた。官吏は慰撫することができず、かえって侵奪し削った。海内は困窮疲弊し、蓄積はますます空乏となった。道理に暗い者は多く、再び紙幣を通じさせれば国を富ませることができると言うが、国初の充実が農桑に勤しむことにあり、紙幣を行なうことにあるのではないことを知らないのである。そもそも本を強くし用を節することが、財政を理める要諦である。明代一代の財政を理める道が、初めに得た所以と、終わりに失った所以とを、その本末を条記し、篇に著す。
戸口・田制・屯田・荘田
太祖は天下の戸口を登録し、戸帖と戸籍を設置し、姓名・年齢・居住地を詳細に記した。籍は戸部に上申し、帖は民に給付した。役所は毎年その増減を計算して報告した。郊祀の際には、中書省が戸籍を壇下に陳列し、天に薦め、祭祀が終わるとこれを蔵した。洪武十四年、天下に賦役黄冊を編制することを詔し、110戸を1里とし、丁(成年男子)と糧(税糧)の多い者10戸を長(里長)に推し、残り100戸を10甲とし、甲はそれぞれ10人とする。毎年、里長1人、甲首1人が役務に就き、1里1甲の事務を管轄した。順序は丁糧の多寡によって定め、10年で一巡し、これを排年と呼んだ。城の中を坊、城の近くを廂、郷都を里とした。里ごとに冊を編み、冊の冒頭を総括して一図とした。鰥寡孤独で役務に堪えられない者は、10甲の後に附して畸零とした。僧道には度牒を与え、田を持つ者は民と同じように冊に編入し、田を持たない者も畸零とした。10年ごとに役所がその冊を改定し、丁糧の増減によって昇降させた。冊は全部で4通:1通は戸部に上申し、他の3通は布政司・府・県がそれぞれ1通を保管した。戸部に上申するものは、冊の表紙が黄紙であるため、黄冊と呼んだ。年末に進呈し、後湖の東西二庫に送って保管した。毎年、戸科給事中1人、御史2人、戸部主事4人を命じて誤謬を校正させた。その後、黄冊は形式だけのものとなり、役所が税を徴収し、徭役を編成する際には、独自に一冊を作り、白冊と呼んだ。
戸はすべて三等に分かれる:民・軍・匠である。民には儒・医・陰陽がある。軍には校尉・力士・弓兵・鋪兵がある。匠には厨役・裁縫・馬船の類がある。沿海には塩竈がある。寺には僧、観には道士がいる。すべてその職業によって籍に著す。人戸は籍によって区別され、数姓が合戸して附籍することを禁じた。漏口(登録漏れの人口)・脱戸(戸籍から抜けた戸)は、自ら実情を申告することを許した。里には老人を設置し、年高で衆人の服する者を選び、民を善に導き、郷里の争訟を平らかにした。人戸で徭役を避ける者を逃戸という。凶年や兵乱を避けて他郷に移る者を流民という。何らかの事情で外に寄寓する者を附籍という。朝廷が移住させる者を移徙という。
逃戸については、明初には督励して本籍に還り復業させ、1年間の賦役免除(復)を与えた。老弱で帰れない者や帰りたがらない者は、所在の地に籍を著させ、田を与えて賦税を納めさせた。正統年間には、逃戸周知冊を作り、その丁糧を照査した。
流民については、英宗は戸籍を調査させ、甲に編成して互いに保証させ、所在の地の里長の管轄に属させた。撫民を担当する佐貳官を設置した。本籍に帰る者には、慰労して安んじ集め、牛・種子・食糧を与えた。また河南・山西巡撫于謙の言に従い、流民で復業する者の税を免除した。成化初年、荊州・襄陽で賊乱が起こり、流民は百万に及んだ。項忠・楊璿が湖広巡撫となり、命令を下してこれを追い立て、従わない者は辺境に戍らせ、死者は数え切れなかった。祭酒周洪謨が『流民説』を著し、東晋時代の僑置郡県の法を引き合いに出し、近い者は附籍させ、遠い者は州県を設置してこれを撫するようにした。都御史李賓がその説を上奏した。憲宗は原傑を派遣して撫治させ、流民12万戸を招き、閑田を与え、鄖陽府を設置し、上津などの県を立ててこれを統治させた。河南巡撫張瑄も西北の流民を安集するよう請願した。帝はその請いを聞き入れた。
附籍者については、正統年間には、老病により致仕した事故官(事故死した官)の家屬で、本籍から千里を離れている者は収附を許し、千里に満たない者は送還した。景泰年間には、民籍の者は収附させ、軍・匠・竈の役務の者が民籍を冒す者は送還させた。
移徙者については、明初、蘇州・松江・嘉興・湖州・杭州の民で田のない者4千余戸を移徙させ、臨濠で耕作させ、牛・種子・車・食糧を与えて送り出し、3年間はその税を徴収しなかった。徐達が沙漠を平定した後、北平の山後(山陰)の民3万5千8百余戸を移徙させ、諸府衛に分散居住させ、軍籍に編入した者には衣糧を与え、民には田を与えた。また沙漠の遺民3万2千8百余戸を北平で屯田させ、254の屯を設置し、1343頃の土地を開墾させた。さらに江南の民14万を鳳陽に移徙させた。戸部郎中劉九皋が言うには、「古くは狭郷の民は、寛郷への移遷を許し、地に遺利なく、人に失業なからしめんとした」と。太祖はその議を採用し、山西の民を河北に移徙させた。その後もたびたび浙西及び山西の民を滁州・和州・北平・山東・河南に移徙させた。また登州・萊州・青州の民を東昌・兗州に移徙させた。また直隸・浙江の民2万戸を京師に移徙させ、倉の脚夫に充てた。太祖の時代は移徙が最も多く、その中には罪によって移徙させられた者もいた。建文帝は武康伯徐理を北平に派遣して土地を測量させ処置させた。成祖は太原・平陽・沢州・潞安・遼州・沁州・汾州で、丁が多く田が少ない家及び田のない家を照査し、その丁口を分けて北平を充実させた。この後は、移徙する者は少なくなった。
初め、太祖は養済院を設けて訴える者のない者(孤苦無告の者)を収容し、毎月食糧を与えた。漏沢園を設けて貧民を葬った。天下の府州県に義塚を立てた。また養老の政を行い、民で80歳以上の者に爵位を賜った。さらに詔を下して難に遭った兵民を優遇して救恤した。しかし元末の豪強が貧弱を侮ったことを懲らしめ、立法は多く貧者を優遇し富者を抑制した。かつて戸部に命じて浙江など9布政司、応天18府州の富民1万4千3百余戸を登録させ、順次召見し、その家族を移徙させて京師を充実させ、これを富戸と呼んだ。成祖の時、また応天・浙江の富民3千戸を選び、北京の宛平・大興の二県の廂長に充て、京師に附籍させながら、なお本籍の徭役に応じさせた。供給が長く続き、貧乏になって逃げ隠れすると、すぐにその本籍の殷実な戸を選んで補充させた。宣徳年間に定制を定め、逃げた者は辺境に発遣して軍に充て、役所や隣里が隠匿した者はすべて罪に坐した。弘治5年になって初めて逃亡中の富戸の解送を免除し、毎戸銀3両を徴収し、廂民とともに役務を助けさせた。嘉靖年間に2両に減額し、辺境の兵糧に充てた。太祖が立法した意図は、本来、漢代の富民を関中に移徙させて充実させた制度を模倣したものであったが、その後、事が久しくなるにつれて弊害が生じ、ついに禍いの階梯となった。
戸口の数は増減一定せず、その考うべきものは、洪武二十六年、天下の戸一千六十五万二千八百七十、口六千五十四万五千八百十二。弘治四年、戸九百十一万三千四百四十六、口五千三百二十八万一千一百五十八。万暦六年、戸一千六十二万一千四百三十六、口六千六十九万二千八百五十六。太祖は兵燹の後に当たり、戸口はかえって極めて盛ん。その後、承平の日久しく、反って及ばず。靖難の兵起こり、淮以北は鞠として茂草と為り、その時の民数は反って前より増す。後に乃ち次第に減じ、天順の間に至りて最も衰える。成化・弘治は盛んに継ぎ、正徳以後また減ず。戸口の減ずる所以は、周忱が謂うに、「豪門に投倚し、或いは匠と冒って両京に竄じ、或いは引と冒って四方に賈い、挙家舟居し、蹤跡すべからざるなり」と。要するに、戸口の増減は、政令の張弛による。故に宣宗は嘗て群臣と歴代の戸口を論じ、「その盛んなるは、休養生息に本づき、その衰えるは、土木兵戎による」と為し、殆ど篤論と云う。
明の土田の制は、凡そ二等あり、曰く官田、曰く民田。初め、官田は皆宋・元の時に官に入った田地。厥の後、還官田、没官田、断入官田、学田、皇荘、牧馬草場、城鵒需苜蓿地、牲地、園陵墳地、公占隙地、諸王・公主・勲戚・大臣・内監・寺観の賜乞荘田、百官の職田、辺臣の養廉田、軍・民・商の屯田あり、通じてこれを官田と謂う。その余は民田と為す。
凡そ田は近郭を以て上地と為し、迤遠を以て中地・下地と為す。五尺を歩と為し、歩二百四十を畝と為し、畝百を頃と為す。太祖は元の里社制に仍り、河北諸州県の土著する者は社を以て里甲を分ち、遷民の屯を分つ地は屯を以て里甲を分つ。社民は先に占むる畝広く、屯民は新に占むる畝狭し、故に屯地を小畝と謂い、社地を広畝と謂う。宣徳の間に至り、墾荒田永に科を起さず及び洿下斥鹵糧無き者は、皆賦額に核入し、数旧に溢る。有司は乃ち大畝を以て小畝に当て旧額に符せしめ、数畝を以て一畝に当つる者有り。歩尺参差不一、人は意を以て贏縮するを得、土地均からず、北方の如きは未だ有らず。貴州の田は頃畝尺籍無く、悉くこれを土官に徴す。而して諸処の土田は、日久しく頗る淆乱し、黄冊と符せず。弘治十五年、天下の土田は止む四百二十二万八千五十八頃、官田は民田に視て七の一を得。嘉靖八年、霍韞は命を奉じて会典を修め、言う、「洪武より弘治に至る百四十年、天下の額田は已に強半を減じ、而して湖広・河南・広東は額を失うこと尤も多し。撥給するは王府に非ざれば、則ち欺隠するは猾民なり。広東は籓府無く、欺隠に非ざれば即ち委棄するは寇賊なり。国計を司る者は、心を究めざるべけんや」と。是の時、桂萼・郭弘化・唐能・簡霄は先後に疏して田畝の核実を請い、而して顧鼎臣は畝を履り丈量するを請う、丈量の議はここに起こる。江西安福・河南裕州は首に行い、而して法未だ詳具せず、人多く疑憚す。その後、福建諸州県は、経・緯の二冊を為し、その法頗る詳なり。然れども率い地を以て主と為し、田多き者は猶お上下其の手するを得。神宗の初め、建昌知府許孚遠は帰戸冊を為し、則ち田を以て人に従わしむ、法簡にして密なり。万暦六年、帝は大学士張居正の議を用い、天下の田畝を通行丈量し、三載を限りて竣事せしむ。開方法を用い、径囲を以て乗除し、畸零を截補す。ここにおいて豪猾は欺隠するを得ず、里甲は賠累を免れ、而して小民は虚糧無し。総計して田数七百一万三千九百七十六頃、弘治の時に視て三百万頃を贏す。然れども居正は尚綜核を尚び、頗る溢額を以て功と為す。有司は争って小弓を改めて田多きを求め、或いは見田を掊克して虚額に充つ。北直隸・湖広・大同・宣府は、遂に先後に溢額田を按じて賦を増すと云う。
その制度は、民を広い郷に移住させ、あるいは募集あるいは罪を犯して移された者を民屯とし、いずれもこれを有司が管轄し、軍屯は衛所が管轄した。辺境の地では、三分を守城に、七分を屯種に充てた。内地では、二分を守城に、八分を屯種に充てた。各軍は田五十畝を受けて一分とし、耕牛・農具を与え、植樹を教え、租賦を免除し、官を派遣して勧農輸納させ、侵暴する吏を誅罰した。初めは一畝につき一斗を課税した。三十五年に科則を定めた:軍田一分につき、正糧十二石を屯倉に貯蔵し、当該軍士自身の支給に任せ、余剰の糧食を当該衛所の官軍の俸糧とした。永楽初年、屯田官軍の賞罰例を定めた:年間食米十二石の外、余剰六石を基準とし、多い者は鈔を賞与し、不足する者は俸給を罰した。また、田の肥沃・瘠薄が同じでないため、法は区別あるべきとして、官軍に各種の様田を作らせ、その歳収の数量をもって相互に考較させた。太原左衛千戸陳淮の種作した様田は、各軍士あたり余糧二十三石に及び、帝は重ねて賞を与えるよう命じた。寧夏総兵何福は穀物を蓄積すること特に多く、勅書を賜って褒め称えた。戸部尚書鬱新が言うには、「湖広諸衛の収穫する糧食は一種類でないので、米を基準とするよう請う。凡そ粟・穀・穈・黍・大麦・蕎穄は二石、稻穀・薥秫は二石五斗、穇・稗は三石、いずれも米一石に準ずる。小麦・芝麻・豆は米と同等とする。」と。これに従い、令として定着させた。
また屯守の数を改めて定めた。辺境に臨む険要の地では、守りを多くし屯を少なくした。地の僻遠な所および糧食輸送の困難な所では、屯を多くし守りを少なくし、屯兵百名は百戸に委ね、三百名は千戸に委ね、五百名以上は指揮がこれを提督した。屯には紅牌を設置し、則例をその上に列記した。六十歳と障害者および幼者は、自ら食するために耕作し、則例に制限されない。屯軍が公務のために農務を妨げられた者は、子粒を徴収せず、かつ衛所の差撥を禁じた。この時、東は遼左より、北は宣府・大同に至り、西は甘肅に至り、南は滇・蜀を尽くし、極めて交阯に及び、中原では大河の南北、至る所で屯田が興された。宣宗の世には、しばしば各屯を検核し、征戍のために耕作を廃した者および官豪・勢要が占拠・隠匿した者について、余糧を半減した。迤北より帰順して来て屯田に就く者には、車・牛・農器を与えた。遼東各衛の屯軍を三等に分け、丁壮と牛を兼ね備える者を上とし、丁壮と牛のいずれか一方を持つ者を中とし、ともに持たない者を下とした。英宗は軍田の正糧を倉に帰属させることを免除し、ただ余糧六石のみを徴収した。後にまた沿辺の開墾した田の官軍の子粒を免除し、各辺の屯田子粒を差等をつけて減免した。景帝の時、辺境に事変多く、兵を両番に分け、六日は操守に、六日は耕種に当たらせた。成化初年、宣府巡撫葉盛は官牛千八百頭を買い、併せて農具を備え、軍を派遣して屯田させ、収穫した糧食を銀に換え、官馬の消耗損傷を補填し、辺境の民は便利とした。
正統以後より、屯政はやや弛緩したが、屯糧はなお三分の二を存した。その後、屯田は多く内監・軍官に占奪され、法はことごとく壊れた。憲宗の世にはしばしば整理復旧が議されたが、旧来の収入に比べ、十分の一にも及ばなかった。弘治年間、屯糧はますます軽減され、一畝わずか三升のものもあった。正徳に至ると、遼東の屯田は永楽年間の田より一万八千余頃多く、しかるに糧食はかえって四万六千余石減少した。初め、永楽の時、屯田米は常に三分の一を超過し、常操軍十九万に対し、屯軍四万をもってこれを供給した。しかも供給を受ける者もまた自ら耕作することができた。辺境外の軍には月糧がなく、これによって辺境の兵糧は常に充足していた。この時になると、屯軍は多く逃亡・死亡し、常操軍はわずか八万で、いずれも倉に依存して給与を受けた。しかも辺境外はしばしば擾乱し、耕作を放棄した。劉瑾が政権を擅にすると、官を派遣して分かれて出向し、田を丈量して滞納を責め立てた。劉瑾の意を迎える者は、偽って田数を増加し、惨毒を極めて蒐括し、戸部侍郎韓福は特に急峻苛酷であった。遼東の兵卒は耐えられず、衆を脅して乱を起こし、鎮撫してようやく平定した。
屯糧の軽減は、弘治・正徳の時に極まり、嘉靖の中頃から漸次増加し、隆慶年間には再び一畝につき一斗を収めた。しかし屯丁の逃亡者はますます多くなった。管糧郎中は屯田の有無を問わず、月糧を半給のみとした。沿辺の屯地は、あるいは斥鹵・沙磧に変じ、糧額は減免されなかった。屯田御史はまた定額外に本折を増加し、屯軍はますます命に堪えられなくなった。万暦の時、屯田の数を計ると六十四万四千余頃で、洪武の時に比べて二十四万九千余頃を欠き、田は日々減り糧は日々増え、その弊害はこのようであった。当時、山東巡撫鄭汝璧は登州海北の長山諸島の田を開くよう請い、福建巡撫許孚遠は閩の海壇山の田を墾って成功し、さらに南日山・澎湖を開くよう請い、また浙江の濱海の諸山、すなわち陳錢・金塘・補陀・玉環・南麂は、いずれも経営できると述べた。天津巡撫汪應蛟は天津において屯田を興すよう請うた。あるいは留中して下さず、あるいは久しからずして廃止された。熹宗の世、巡按張慎言は再び天津屯田を議し、御史左光鬥は管河通判盧觀象に命じて大いに水田の利を興させ、太常少卿董應舉がこれに続いて行った。光鬥はさらに河間・天津に屯学を設け、騎射を試験し、武生には田百畝を与えた。李繼貞が天津を巡撫した時も、屯務に力を入れたが、なお毎年旱魃・蝗害があり、成效を上げるに至らなかった。明代には、草場が頗る多く、民業を占奪した。そして民を苦しめるものとしては、皇莊および諸王・勲戚・中官の荘田が最も甚だしかった。太祖は勲臣公侯丞相以下に荘田を賜い、多い者は百頃、親王の荘田は千頃であった。また公侯および武臣に公田を賜い、また百官に公田を賜い、その租入をもって俸禄に充てた。指揮で陣没した者は皆公田を賜った。勲臣の荘佃は多く威勢を頼んで禁令を犯し、帝は諸臣を召して戒め諭した。その後、公侯は再び歳禄を受け、賜田を官に帰属させた。
また定制を定め、地を王府に献ずる者は辺境に戍らせる。奉御趙瑄が雄県の地を皇荘として献じたので、戸部尚書周経がその制に違うことを弾劾し、瑄を詔獄に下した。諸王の輔導官に勅し、王を導いて奏請する者はこれを罪すべしとした。しかし当日奏献は絶えず、乞請もまたますます繁くなった。徽・興・岐・衡の四王は、田七千余頃に至る。会昌・建昌・慶雲の三侯が田を争うと、帝はたびたびこれを賜った。武宗が即位し、一月余りで即座に皇荘七つを建て、その後三百余か所に増えた。諸王・外戚の求請及び民田を奪うものは数え切れない。
世宗の初め、給事中夏言らに命じて皇荘田を清核させた。言は極言して皇荘が民に害をなすことを述べた。ここに正徳以来投献侵牟の地は、多く民に給還されたが、宦官外戚の輩がまた中で阻んだ。戸部尚書孫交が皇荘の新冊を作り、額は旧より減じた。帝は先年の頃畝数を核して奏聞することを命じ、官地と改称し、再び皇荘とは名付けず、所司に詔して銀を徴収し部に解送させた。しかし多くは宦官に中飽され、積逋数十万に至るのが常であった。この時、勲戚の奏討・奸民の投献を禁じ、また王府の請うた山場湖陂を革した。徳王が斉・漢の二庶人の遺した東昌・兗州の間田を請い、また白雲等の湖を請うたので、山東巡撫邵錫が新令に拠ってこれを退け、言葉は甚だ切直であった。徳王がこれを数回争ったが、帝は依然として部議に従い、ただ藩封の初めに請うた荘田を存するのみとした。その後奏請する者があっても聞き入れなかった。
また定めて、凡そ公主・国公の荘田は、世が遠いものは十の三を存する。嘉靖三十九年、御史瀋陽を遣わして隠冒の荘田一万六千余頃を清奪させた。穆宗は御史王廷瞻の言に従い、また世次逓減の限を定めた。勲臣は五世で限田二百頃、戚畹は七百頃から七十頃まで差がある。初め、世宗の時、承天の六荘二湖の地八千三百余頃は中官に領せしめ、また校舎の兼併を聴き、八百八十頃を増やし、十二荘に分けた。ここに至って初めて有司に領せしめ、兼併した者は民に還した。また令を著して、宗室が田を買って役を輸さない者は没官とし、皇親の田は皆な有司に徴収させ、勲臣の例の如くとした。請乞は乏しくなかったが、賜額は定まり、徴収には制があり、民害は少し衰え止んだ。
神宗は賚予が過度に奢侈で、求むるものは獲られざるはなかった。潞王・寿陽公主の恩は最も厚かった。そして福王が分封されるに当たり、河南・山東・湖広の田を括って王荘とし、四万頃に至った。群臣が力争したので、その半に減じた。王府の官及び諸宦官が地を丈量し税を徴収し、道に旁午し、扈養厮役の廩食は万を以て計り、漁斂は惨毒で聞くに忍びなかった。駕帖で民を捕え、荘佃を格殺し、所在騒然とした。給事中官応震・姚宗文らが屡々疏を上て諫めたが、皆な報いられなかった。時にまた勲戚荘田の世次逓減法を更定し、旧制より稍々寛大にした。その後応に減ずべき者は、たびたび詔を奉じて姑く留め、革することができなかった。熹宗の時、桂・恵・瑞の三王及び遂平・寧徳の二公主の荘田は、動もすれば万を以て計り、魏忠賢一門の横賜は特に甚だしかった。蓋し中葉以後、荘田が民業を侵奪することは、国と相終わるまで続いたのである。