明史

志第五十二 職官五

公侯伯(駙馬都尉に儀賓を附す) 五軍都督ととく府 京營 京えい(錦衣衞に旗手等衞を附す) 南京守備 南京五軍都督府 南京衞 王府護衞(儀衞司を附す) 總兵官 留守司 都司(行都司を附す) 各衞 各所 宣慰司 宣撫司 安撫司 招討司 長官司(蠻夷長官司を附す) 軍民府(土州土縣を附す)

公侯伯

公、侯、伯、凡そ三等あり、功臣及び外戚を封ずるに用い、皆流官と世官と有り。功臣には則ち鉄券を与え、封号は四等あり:太祖を輔けて天下を定むる者は、開国輔運推誠と曰い、成祖に従い起兵する者は、奉天靖難推誠と曰い、その余は奉天翊運推誠と曰い、奉天翊衛推誠と曰う。武臣は宣力武臣と曰い、文臣は守正文臣と曰う。歳禄は功を以て差あり。既に封ぜられて又功有る者は、仍び爵す或いは爵を進め、禄を増す。その才にして賢なる者は、京營総督を充て、五軍都督府の掌僉書、南京守備に任じ、或いは出でて鎮守総兵官を充つ、然らずんば禄を食み奉朝請するのみ。年幼にして爵を嗣ぐ者は、皆国子監に入りて書を読む。嘉靖八年、外戚の封爵は世襲を許さざるを定め、その世襲一二代する有るは、特恩に出づ。

駙馬都尉(儀賓を附す)

駙馬都尉は、位は伯の上に在り。凡そ大長公主、長公主、公主を尚ぶるは、並びに駙馬都尉と曰う。その郡主、県主、郡君、県君、郷君を尚ぶる者は、並びに儀賓と曰う。歳禄は各差有り、皆政事に関与することを得ず。明初、駙馬都尉に兵を典し出鎮し及び府部の事を掌る者有り。建文の時、梅殷は鎮守淮安総兵官と為り、李堅は左副将軍と為る。成祖の時、李讓は北京行部の事を掌る。仁宗の時沐昕、宣宗の時宋琥、並びに南京を守備す。英宗の時、趙輝は南京左府の事を掌る。その余は惟だ孝陵を奉祀し、廟祭を行い摂り、宗人府の事を署す。往々にして命を受け、一たびその任を充つ。恩親侯李貞、永春侯王寧、京山侯崔元の若きは、恩沢を以て侯に封ぜられ、制に非ざるなり。

五軍都督府

中軍、左軍、右軍、前軍、後軍の五都督府、各府に左・右都督、正一品、都督同知、従一品、都督僉事、正二品、恩功寄禄にて、定員無し。その属官、経歴司、経歴、従五品、都事、従七品、各一人。

都督府は軍旅の事を掌り、各その都司・衛所を領し、詳しくは『兵志・衛所』に見え、以て兵部に達す。凡そ武職、世官流官・土官の襲替・優養・優給、所属は之を府に上し、兵部に移して選を請う。選ばれし後、府に移し、以て都司・衛所に下す。首領官は吏部の選授を聴き、給由もまた之の如し。凡そ武官の誥勅・俸糧・水陸歩騎の操練・官舎旗役の並試・軍情声息・軍伍の勾補・辺腹の地図・文冊・屯種・器械・舟車・薪葦の事、並びに司を移して而して之を綜理す。凡そ各省・各鎮の鎮守総兵官、副総兵、並びに三等の真・署都督及び公・侯・伯を以て之を充つ。大征討有れば、則ち諸号の将軍或いは大将軍・前将軍・副将軍の印を掛け総兵出で、事既に畢りて、之を納む。その各府の掌印及び僉書は、率ね皆公・侯・伯なり。間に老将の実に都督と為る者に属するも、十一に能わず。

初め、太祖集慶を下し、即ち行枢密院を置き、自ら之を領す。又諸翼統軍元帥府を置く。尋いで枢密院を罷め、改めて大都督府を置く。朱文正を以て大都督と為し、中外の諸軍事を節制し、司馬・参軍・経歴・都事等の官を設く。又左・右都督、同知、副使、僉事、照磨各一人を増設し、並びに断事官を設く。制を定め、大都督従一品、左・右都督正二品、同知都督従二品、副都督正三品、僉都督従三品、経歴従五品、都事従七品とす。統軍元帥府元帥正三品、同知元帥従三品、副使正四品、経歴正七品、知事従八品、照磨正九品とす。又都鎮撫司を以て大都督府に隷せしむ、先ずは中書省に属し秩従四品。尋いで統軍元帥府を罷む。呉元年、官制を更定し、大都督を罷めて設けず、左・右都督を以て長官と為し、正一品、同知都督、従一品、副都督、正二品、僉都督、従二品とし、俱に品秩を升む。その属官、参議を設け、正四品、経歴、断事官、従五品、都事、正七品、照磨、従七品とす。洪武九年、副都督を罷め、参議を掌判官と改む。十二年、都督僉事を正二品に升め、掌判官を正三品に升む。十三年、始めて都督府を五軍都督府と改め、在京の各衛所を分領せしむ、惟だ錦衣等の親軍、上直衛は五府に隷せず。及び在外の各都司・衛所、中軍都督府の断事官を以て五軍断事官と為す。十五年、五軍十衛参軍府を置き、左・右参軍を設く。十七年、五軍各左・右断事二人を設け、提控案牘一人を設け、並びに従九品。二十三年、五軍断事官を正五品に升め、五軍の刑獄を総治せしむ。五司に分かち、司に稽仁・稽義・稽礼・稽智・稽信の五人を設け、俱に正七品、各その軍の刑獄を理む。二十九年、五軍照磨所を置き、専ら文牘を掌る。建文中、断事及び五司の官を革す。永楽元年、北京留守行後軍都督府を設け、左・右都督、都督同知、都督僉事を置き、定員無し、経歴・都事各一人。後に又五府に分かれ、行在五軍都督府と称す。十八年、「行在」の字を除き、応天に在る者は「南京」の字を加う。洪熙元年、復た行在と称し、仍に行後府を設く。宣徳三年又革す。正統六年、復た「行在」の字を除く。

京營

京営は、永楽二十二年に三大営を設置し、五軍営・神機営・三千営と称した。五軍・神機の各営には中軍・左右哨・左右掖を設け、五軍・三千の各営には五司を設けた。各営にはいずれも勲臣二人を選んで提督させた。諸営の管哨・掖官を坐営・坐司と称した。各哨・掖官もまた勲臣を以て率いることとした。また把総・把司・把牌等の官を設けた。さらに圍子手・幼官・舍人・殫忠・效義の諸営があり、いずれも五軍営に附置された。景泰元年に三営の精鋭を選抜して十団営を立て、総兵に統率させ、総督に統轄させ、内臣に監視させた。旧来設置されていたものは老営と号した。三老営には合わせて六提督があり、その内から二人を選んで団営を統領させた。成化三年に団営を十二に分け、各営はまたそれぞれ五軍・三千が騎兵を統べ、神機が火器を統べた。各営の統領は、いずれも都督・都指揮あるいは列爵を選んで充て、総督が統轄した。正徳年間に、さらに団営の精鋭を選抜し、東西両官庁を設置し、別に総兵・参将を設けて統領させた。嘉靖二十九年に団営官庁を廃し、依然として三大営に併せ、三千を神樞と改称し、副将・参将・遊撃・佐撃・坐営・号頭・中軍・千把総等の官を設けた。五軍営には、戦兵一営に左副将一人、戦兵二営に練勇参将一人、車兵三営に参将一人、車兵四営に遊撃将軍一人、城守五営に佐撃将軍一人、戦兵六営に右副将一人、戦兵七営に練勇参将一人、車兵八営に参将一人、車兵九営に遊撃将軍一人、城守十営に佐撃将軍一人、備兵坐営官一人、大号頭官一人を置いた。以上は部推による。監槍号頭官一人、中軍官十一人、随徵千総四人、随営千総二十人、選鋒把総八人、把総百三十八人を置いた。以上はいずれも営推による。神樞営には、戦兵一営に左副将一人、戦兵二営に練勇参将一人、車兵三営に参将一人、車兵四営に遊撃将軍一人、城守五営に佐撃将軍一人、戦兵六営に右副将一人、車兵七営に練勇参将一人、執事八営に参将一人、城守九営に佐撃将軍一人、城守十営に佐撃将軍一人、備兵坐営官一人、大号頭官一人を置いた。以上は部推による。監槍号頭官一人、中軍官十一人、千総二十人、選鋒把総六人、把総百五十七人を置いた。以上はいずれも営推による。神機営には、戦兵一営に左副将一人、戦兵二営に練勇参将一人、車兵三営に遊撃将軍一人、車兵四営に佐撃将軍一人、城守五営に佐撃将軍一人、戦兵六営に右副将一人、車兵七営に練勇参将一人、城守八営に佐撃将軍一人、城守九営に佐撃将軍一人、城守十営に佐撃将軍一人、備兵坐営官一人、大号頭官一人を置いた。以上は部推による。監槍号頭官一人、中軍官十一人、千総二十人、選鋒把総六人、把総百二十八人を置いた。以上はいずれも営推による。三大営を通算すると、合わせて五百八十六員となる。提督総兵官一員が統轄した。後に提督を総督と改め、「総督京営戎政」の印を鋳造し、仇鸞に佩用させた。さらに侍郎一人を設け、京営戎政を協理させた。巡視科道官を毎年交代させることを定め、内侍官を悉く廃止した。巡視主事を増設したが、まもなくこれも廃止した。隆慶初年に、依然として総督を提督とし、協理を閲視と改め、まもなく閲視もまた提督と改めた。四年二月に京営の制度を改め、三営にそれぞれ提督を設け、またそれぞれ右都御史一員を設けて提督させた。九月に六提督を罷め、依然として総督戎政一人を復した。天啓初年に協理一人を増設したが、後に依然として一人を廃止した。崇禎初年に再び一人を増設した。

京衛

京衛指揮使司には、指揮使一人(正三品)、指揮同知二人(従三品)、指揮僉事四人(正四品)を置く。鎮撫司には、鎮撫二人(従五品)を置く。その属官として、経歴司に経歴(従七品)、知事(正八品)、吏目(従九品)を置く。倉大使・副使各一人を置く。管轄する千戸所は、多寡それぞれ同じではない。

京衛には上直衛と南・北京衛があり、品秩は同じである。それぞれ掌印と僉書がある。恩蔭により寄禄する者は、定員がない。上直衛親軍指揮使司は二十六ある。錦衣衛、旗手衛、金吾前衛、金吾後衛、羽林左衛、羽林右衛、府軍衛、府軍左衛、府軍右衛、府軍前衛、府軍後衛、虎賁左衛である。これらは上十二衛とし、洪武年間に設置された。金吾左衛、金吾右衛、羽林前衛、燕山左衛、燕山右衛、燕山前衛、大興左衛、済陽衛、済州衛、通州衛である。これらは上十衛とし、永楽年間に設置された。騰驤左衛、騰驤右衛、武驤左衛、武驤右衛である。宣徳八年に設置された。番上して宿衛する者を親軍と称し、宮禁を護衛し、五都督府に隷属しない。都督府に隷属する京衛は三十三ある。留守左衛、鎮南衛、ぎょう騎右衛、龍虎衛、瀋陽左衛、瀋陽右衛は、左軍都督府に隷属する。留守右衛、虎賁右衛、武徳衛は、右軍都督府に隷属する。留守中衛、神策衛、応天衛、和陽衛及び牧馬千戸所・蕃牧千戸所は、いずれも中軍都督府に隷属する。留守前衛、龍驤衛、豹韜衛は、前軍都督府に隷属する。留守後衛、鷹揚衛、興武衛、大寧中衛、大寧前衛、会州衛、富峪衛、寛河衛、神武左衛、忠義右衛、忠義前衛、忠義後衛、義勇右衛、義勇前衛、義勇後衛、武成中衛、蔚州左衛は、後軍都督府に隷属する。また、京衛で親軍ではなく都督府にも隷属しないものは十五ある。武功中衛、武功左衛、武功右衛であり、以上の三衛は工匠のため工部に隷属する。永清左衛、永清右衛、彭城衛、長陵衛、献陵衛、景陵衛、裕陵衛、茂陵衛、泰陵衛、康陵衛、永陵衛、昭陵衛である。

明初、帳前総制親軍都指揮使司を置き、馮国用を都指揮使とした。後に金吾侍衛親軍都護府に改置し、都護(従二品)、経歴(正六品)、知事(従七品)、照磨(従八品)を設けた。また各衛親軍指揮使司を置き、指揮使(正三品)、同知指揮使(従三品)、副使(正四品)、経歴(正七品)、知事(正八品)、照磨(正九品)を設けた。千戸所には正千戸(正五品)、副千戸(従五品)、鎮撫・百戸(正六品)を置いた。これにより武徳・龍驤・豹韜・飛龍・威武・広武・興武・英武・鷹揚・驍騎・神武・雄武・鳳翔・天策・振武・宣武・羽林の十七衛親軍指揮使司を置き、これが親軍衛を設けた始まりである。まもなく金吾侍衛親軍都護府を廃止した。洪武・永楽年間、親軍諸衛を増設し、名を上二十二衛とし、宿衛を分掌させた。しかし錦衣衛は巡察・緝捕・詔獄の取り扱いを主とし、都督・都指揮がこれを統率した。これは諸衛の中でも特に異なるものである。留守五衛は、もと都鎮撫司であり、禁衛を総領し、初めは中書省に属し、後に大都督府に改隷し、都鎮撫(従四品)、副鎮撫(従五品)、知事(従八品)を設けた。まもなく宿衛鎮撫司に改め、宿衛鎮撫・宿衛知事を設けた。洪武三年、留守衛指揮使司に改め、専ら軍馬を率いて各城門を守禦し、及び皇城の巡警と城垣造作の事を掌った。後に留守都衛に昇格し、天策・豹韜・飛熊・鷹揚・江陰・広洋・横海・龍江・水軍左・右の十衛を統轄した。八年、再び留守衛とし、天策等八衛とともに親軍指揮使司とし、ただ水軍左・右二衛のみを指揮使司とした。いずれも大都督府に隷属させた。十一年、留守中衛に改め、留守左・右・前・後の四衛を増置し、依然として親軍とした。十三年、初めて五都督府に分隷させた。

錦衣衛(旗手等衛を附す)

錦衣衛は、侍衛・緝捕・刑獄の事を掌り、常に勲戚の都督がこれを統率し、恩蔭による寄禄官で定員はない。朝会・巡幸の際には、鹵簿儀仗を整え、大漢将軍ら総計一千五百七員を率いて侍従扈行する。宿衛では番を分けて入直する。朝日・夕月・耕耤・視牲の儀では、飛魚服を着用し、繡春刀を佩び、左右に侍する。盗賊奸宄や街路溝渠については、密かに緝査し、時折巡視する。詔により獄を審理し囚を記録し事を検証する際には、三法司と共に行う。五軍の官舎が比試や並槍を行う時は、兵部とともに臨視する。統轄する所は全部で十七ある。中・左・右・前・後の五所は、軍士を率いる。五所は鑾輿・擎蓋・扇手・旌節・幡幢・班剣・斧鉞・戈戟・弓矢・馴馬の十司に分かれ、各々将軍・校尉こういを率いて法駕を備える。上中・上左・上右・上前・上後・中後の六親軍所は、将軍・力士・軍匠を分領する。馴象所は象奴を率いて象を飼養し、朝会の陳列・駕輦・宝貨馱載の事に供する。

明初、拱衛司を置き、秩は正七品とし、校尉を管領し、都督府に属させた。後に拱衛指揮使司に改め、秩は正三品とした。まもなくまた都尉司に改めた。洪武三年、親軍都尉府に改め、左・右・中・前・後の五衛の軍士を管轄し、儀鸞司をその隷下に設けた。四年、儀鸞司を正五品と定め、大使一人、副使二人を設けた。十五年、儀鸞司を廃止し、錦衣衛を改置し、秩は従三品とし、その属官に御椅等七員があり、いずれも正六品とした。経歴司を設けて文書の出入を掌り、鎮撫司を設けて本衛の刑名を掌り、兼ねて軍匠を管理した。十七年、錦衣衛指揮使を正三品に改めた。二十年、錦衣衛を治める者が多く非道に凌虐するため、刑具を焼き、拘禁中の囚人を出して刑部に送り審録させ、詔して内外の獄事はすべて三法司に帰属させ、錦衣衛の獄を廃止した。成祖の時に再び設置した。まもなく北鎮撫司を増設し、専ら詔獄を扱わせた。成化年間、印を刻んでこれを授け、獄が決すれば専ら上奏でき、錦衣衛に報告する必要はなく、錦衣衛の官も干渉できなかった。そして旧来設けられていたものを南鎮撫司とし、専ら軍匠を管理させた。

旗手衛は、もと旗手千戸所であり、洪武十八年に改置した。大駕の金鼓・旗纛を掌り、力士を率いて駕に随従し宿衛する。校尉・力士は、民間の壮丁を選抜してこれに充てる。校尉は専ら鹵簿儀仗の擎執、及び駕前での官員宣召、差遣幹辦を職務とし、錦衣衛に隷属する。力士は専ら金鼓・旗幟を領し、駕の出入に随従し、及び四門を守衛し、旗手衛に隷属する。毎年、旗頭六纛の神を祭る際、八月は壇で、十二月は承天門外で行い、いずれも衛の官がこれを臨む。統轄する所は五つ。

府軍前衛は、幼軍を統率し、番を輪けて帯刀侍衛することを掌る。明初、帯刀舎人がいた。洪武時、府軍等衛にはいずれも技芸を習う幼軍がいた。永楽十三年、皇太孫のために特に幼軍を選び、府軍前衛を置き、官属を設け、指揮使五人、指揮同知十人、指揮僉事二十人、衛鎮撫十人、経歴五人とした。統轄する所は二十五ある。

金吾・羽林等十九衛は、守衛巡警を掌り、統轄する所は全部で百二ある。

騰驤等四衛は、力士を率いて直駕・随駕することを掌り、統轄する所は三十二ある。

南京守備

南京守備一人、協同守備一人。南京では守備及び参賛機務が要職である。守備は、公・侯・伯がこれに充て、中軍都督府の事を兼領する。協同守備は、侯・伯・都督がこれに充て、五府の事を領する。参賛機務は、南京兵部尚書がこれを領する。その治所は中府にあり、南都の一切の留守・防護の事を掌る。永楽十九年に都を北京に遷すと、中府の掌府事官に命じて南京を守備させ、南京の諸衛所を節制させた。洪熙元年、初めて内臣をして同守備とさせた。景泰三年、協同守備一人を増設した。

南京五軍都督府

南京五軍都督府には、左・右都督、都督同知、都督僉事を全員は設けない。その掌印・僉書は、いずれも勲爵及び三等都督がこれに当たる。南京の衛所を分掌し、南京兵部に上達させる。大教場の管領及び江上での操備等の事は、各府が勅を奉じて分掌する。城門の管鑰は、中府が専らこれを掌る。初め城門郎を設けたが、洪武十八年に廃止し、門禁の鎖鑰銅牌を中軍都督府に掌らせた。その属官に、経歴・都事各一人。

南京衛

南京衛指揮使司、官職の設置は京衛に詳しい、凡そ四十九あり。五都督府に分属するもの三十有二。留守左衛、鎮南衛、水軍左衛、驍騎右衛、龍虎衛、龍虎左衛、英武衛、龍江右衛、瀋陽左衛、瀋陽右衛と曰い、左府に隷す。留守右衛、虎賁右衛、水軍右衛、武德衛、広武衛と曰い、右府に隷す。留守中衛、神策衛、広洋衛、広天衛、和陽衛及び牧馬千戸所と曰い、中府に隷す。留守前衛、龍江左衛、龍驤衛、飛熊衛、天策衛、豹韜衛、豹韜左衛と曰い、前府に隷す。留守後衛、横海衛、鷹揚衛、興武衛、江陰衛と曰い、後府に隷す。又、親軍衛指揮使司十有七あり:金吾前衛、金吾後衛、金吾左衛、金吾右衛、羽林左衛、羽林右衛、羽林前衛、府軍衛、府軍左衛、府軍右衛、府軍後衛、虎賁左衛、錦衣衛、旗手衛、江淮衛、済州衛、孝陵衛と曰う。左府所属の十衛、右府所属の五衛、前府所属の七衛、後府所属の五衛と共に、中府の節制を聴く。各衛は合わせて一百一十有八の所を領す。

王府護衛(儀衛司を附す)

王府護衛指揮使司、官職の設置は京衛の如し。

王府儀衛司。儀衛正一人、正五品。儀衛副二人、従五品。典仗六人、正六品。儀衛は侍衛儀仗を掌る。護衛は非常を防禦し、王邸を護衛することを掌る。徴調有れば、則ち朝命を聴く。明初、諸王府に護軍府を置く。洪武三年、儀衛司を置き、司に正・副各一人を設け、その秩は正・副千戸に比す。司仗六人、その秩は百戸に比す。四年、司仗を典仗と改む。五年、親王護衛指揮使司を置き、各王府に三護衛を設け、衛に左・右・前・後・中の五所を設け、所に千戸二人、百戸十人を置く。又、囲子手二所を設け、各所に千戸一人を置く。九年、護軍府を罷む。建文中、儀衛司を儀仗司と改め、吏目一人を増置す。成祖初年に旧制に復す。

総兵官

総兵官、副総兵、参将、遊撃将軍、守備、把総は、品級無く、定員無し。一方を総鎮する者を鎮守と為し、一路を独り鎮する者を分守と為し、各々一城一堡を守る者を守備と為し、主将と同城を守る者を協守と為す。又、提督、提調、巡視、備禦、領班、備倭等の名称有り。

凡そ総兵・副総兵は、率ね公・侯・伯・都督を以て之に充つ。其の総兵で印を掛け将軍と称するもの、雲南は征南将軍、大同は征西前将軍、湖広は平蛮将軍、両広は征蛮将軍、遼東は征虜前将軍、宣府は鎮朔将軍、甘粛は平羌将軍、寧夏は征西将軍、交阯は副将軍、延綏は鎮西将軍と曰う。諸印は、洪煕元年に制して頒つ。其の薊鎮・貴州・湖広・四川及び淮安に儹運する者に在りては、将軍と称し印を掛くることを得ず。宣徳間、又、山西・陝西の二総兵を設く。嘉靖間、広東・広西・貴州・湖広の二総兵を分けて四と為し、福建・保定の副総兵を改めて総兵と為し、又、浙江総兵を添設す。万暦間、又、臨洮・山海に増設す。天啓間、登萊を増設す。崇禎時に至りては、益々紛れて紀すべからず、而して位権も亦た当日の如くならず。蓋し明初は、参将・遊撃・把総と雖も、多く勲戚都督等の官を以て之に充てしも、後に至っては杳然たり。

鎮守薊州総兵官一人、旧設。隆慶二年、総理練兵事務兼鎮守と改め、三屯営に駐す。協守副総兵三人。東路副総兵、隆慶二年に添設、建昌営に駐し、燕河営・台頭営・石門寨・山海関の四路を管理す。中路副総兵、万暦四年に改設、三屯営に駐し、馬蘭峪・鬆棚峪・喜峯口・太平寨の四路を帯管す。西路副総兵、隆慶三年に添設、石匣営に駐し、牆子嶺・曹家寨・古北口・石塘嶺の四路を管理す。分守参将十一人、通州参将、山海関参将、石門寨参将、燕河営参将、石塘嶺参将、台頭営参将、太平寨参将、馬蘭峪参将、牆子嶺参将、古北口参将、喜峯口参将と曰う。遊撃将軍六人、南兵を統領する遊撃将軍三人、領班遊撃将軍七人、坐営官八人、守備八人、把総一人、提調官二十六人。

鎮守昌平総兵官一人、旧は副総兵を設け、又、提督武臣有り。嘉靖三十八年、副総兵を裁ち、提督を以て改めて鎮守総兵と為し、昌平城に駐し、総督の節制を聴く。分守参将三人、居庸関参将、黄華鎮参将、横嶺口参将と曰う。遊撃将軍二人、坐営官三人、守備十人、提調官一人。

鎮守遼東総兵官一人、旧設、広寧に駐す。隆慶元年、冬月には河東遼陽の適中の地に移駐し、防禦を調度し、海州・瀋陽に応援すべしと令す。協守副総兵一人、遼陽副総兵は旧は分守なりしが、嘉靖四十五年、協守と改め、遼陽城に駐し、開原・海州・険山・瀋陽等の処を節制す。分守参将五人。開原参将、錦義右参将、海蓋右参将、寧遠参将、寛奠堡参将と曰う。遊撃将軍八人、守備五人、坐営中軍官一人、備禦十九人。

鎮守保定総兵官一人。弘治十八年、初め保定副総兵を設け、後ち参将と改む。正徳九年、復た分守副総兵と為す。嘉靖二十年、鎮守と改む。三十年、鎮守総兵官を改設す。万暦元年、春秋両防には浮図峪に移駐し、警有るに遇えば、紫荊関に移駐し、以て入援に備うべしと令す。分守参将四人、紫荊関参将、龍固二関参将、馬水口参将、倒馬関参将と曰う。遊撃将軍六人、坐営中軍官一人、守備七人、把総七人、忠順官二人。

鎮守宣府総兵官一人、旧設、宣府鎮城に駐す。協守副総兵一人、副総兵も旧は鎮城に駐す、嘉靖二十八年永寧城に移駐す。分守参将七人、曰く北路独石馬営参将、曰く東路懐来永寧参将、曰く上西路万全右衛参将、曰く南路順聖蔚広参将、曰く中路葛峪堡参将、曰く下西路柴溝堡参将、曰く南山参将。遊撃将軍三人、坐営中軍官二人、守備三十一人、領班備禦二人。万暦八年に革す。

鎮守大同総兵官一人、旧設、大同鎮城に駐す。協守副総兵一人、旧は左副総兵と為す、万暦五年左の字を去り、左衛城に駐す。分守参将九人、曰く東路参将、曰く北東路参将、曰く中路参将、曰く西路参将、曰く北西路参将、曰く井坪城参将、曰く新坪堡参将、曰く総督標下左掖参将、曰く威遠城参将、万暦八年に革す。遊撃将軍二人、入衛遊撃四人、坐営中軍官二人、守備三十九人。

鎮守山西総兵官一人、旧は副総兵と為す、嘉靖二十年に改設し、寧武関に駐す。防秋には陽方口に移駐し、防冬には偏関に移駐す。協守副総兵一人、嘉靖四十四年に添設し、初め偏関に駐し、後に老営堡に移駐す。分守参将六人、曰く東路代州左参将、曰く西路偏頭関右参将、曰く太原左参将、曰く中路利民堡右参将、曰く河曲県参将、曰く北楼口参将。遊撃将軍一人、坐営中軍官一人、守備十三人、操守二人。

鎮守延綏総兵官一人、旧設、鎮城に駐す。協守副総兵一人、定辺右副総兵、嘉靖四十一年に添設し、安定・鎮静等の処を分守し、大牆及び牆口等の処を提調す。分守参将六人、曰く孤山参将、曰く東路右参将、曰く西路左参将、曰く中路参将、曰く清平参将、曰く楡林保寧参将。遊撃将軍二人、入衛遊撃四人、守備十一人、坐営中軍官一人。

鎮守寧夏総兵官一人、旧設、鎮城に駐す。協守副総兵一人、亦た旧設、同じく鎮城に駐す。分守参将四人、曰く東路右参将、曰く西路左参将、曰く霊州左参将、曰く北路平虜城参将。遊撃将軍三人、入衛遊撃一人、万暦八年に守備三人を革し、備禦領班二人、万暦九年に革す、坐営中軍官二人、管理鎮城都司一人、領班都司二人万暦九年に革す管理水利屯田都司一人。

鎮守甘粛総兵官一人、旧設、鎮城に駐す。協守副総兵一人、甘粛左副総兵、旧設、嘉靖四十四年、高臺に移駐して防禦し、隆慶四年、鎮城に回駐す。分守副総兵一人、涼州右副総兵、旧設。分守参将四人、曰く莊浪左参将、曰く粛州右参将、曰く西寧参将、曰く鎮番参将遊撃将軍四人、坐営中軍官一人、守備十一人、領班備禦都司四人。

鎮守陝西総兵官一人、旧は会城に駐し、後に固原に移駐す。分守副総兵一人、洮泯副総兵、万暦六年に改設し、洮州に駐す。分守参将五人、曰く河州参将、曰く蘭州参将、曰く靖虜参将、曰く陝西参将、曰く階文西固参将。遊撃将軍四人、坐営中軍官二人、守備八人。

鎮守四川総兵官一人、隆慶五年に添設し、建武所に駐す。分守副総兵一人、松潘副総兵、旧設協守参将二人、曰く松潘東路左参将、曰く松潘南路右参将。遊撃将軍二人、守備六人。

鎮守雲南総兵官一人、旧設、雲南府に駐す。分守参将三人、曰く臨元参将、曰く永昌参将、曰く順蒙参将、守備二人。巡撫中軍坐営官一人。

鎮守貴州総兵官一人、旧設、嘉靖三十二年、提督麻陽等処地方職銜を加え、銅仁府に駐す。分守参将二人、曰く提督清浪右参将、曰く提督川貴迤西左参将。守備七人、巡撫中軍官一人。

鎮守広西総兵官一人、旧は副総兵と為す、嘉靖四十五年改設し、桂林府に駐す。分守参将五人、曰く潯梧左参将、曰く柳慶右参将、曰く永寧参将、曰く思恩参将、曰く昭平参将。守備三人、坐営官一人。

鎮守湖広総兵官一人、旧設、嘉靖十年に罷め、十二年復設し、万暦八年又罷め、十二年仍た復設し、省城に駐す。分守参将三人、曰く黎平参将、曰く鎮参将、曰く鄖陽参将。守備十一人、把総一人。

鎮守広東総兵官一人。旧は征蛮将軍・両広総兵官と為す。嘉靖四十五年分設し、潮州府に駐す。協守副総兵一人、潮漳副総兵、万暦三年に添設し、南澳に駐す。分守参将七人、曰く潮州参将、曰く瓊崖参将、曰く雷廉参将、曰く東山参将、曰く西山参将、曰く督理広州海防参将、曰く恵州参将。練兵遊撃将軍一人、守備五人、坐営中軍官二人、把総四人。

提督狼山副総兵一人、嘉靖三十七年に添設し、通州に駐す。鎮守江南副総兵一人、旧は総兵官に系り、福山港に駐し、後に鎮江・儀真の二処に移駐す。嘉靖八年に裁革す。十九年復設す。二十九年仍た革す。三十二年、副総兵を改設し、金山衛に駐す。四十三年呉淞に移駐す。分守参将二人、曰く徐州参将、曰く金山参将。遊撃将軍一人、守備六人、鳳陽軍門中軍官一人、把総十三人。

鎮守浙江総兵官一人、嘉靖三十四年に設け、浙直海防を総理す。三十五年、鎮守浙直と改む。四十二年、鎮守浙江と改め、旧は定海県に駐し、後に省城に移駐す。分守参将四人、曰く杭嘉湖参将、曰く寧紹参将、曰く温処参将、曰く台金厳参将。遊撃将軍二人、総捕都司一人、把総七人。

江西を分守する参将一人あり、南贛参将と称し、嘉靖四十三年に改設し、会昌県に駐屯す。守備四人、把総六人あり。

福建を鎮守する総兵官一人あり、旧は副総兵たりしが、嘉靖四十二年に改設し、福寧州に駐屯す。分守参将一人あり、南路参将と称す。守備三人、把総七人、坐営官一人あり。

山東を鎮守する総兵官一人あり、天啓年中に増設す。総督備倭都司一人あり、薊鎮班都司四人を領す。また河南守備三人あり、薊鎮班都司四人を領す。

総督漕運総兵官一人あり。永楽二年、総兵・副総兵を設け、官軍を統領して海運を行わしむ。後に海運廃止し、専ら漕運を督す。天順元年、また河道を兼ねて管理せしむ。協同督運参将一人あり、天順元年に設置す。把総十二人あり、南京に二、江南直隸に二、江北直隸に二、中都に一、浙江に二、山東に一、湖広に一、江西に一。

留守司

留守司。正留守一人、正二品。副留守一人、正三品。指揮同知二人、従三品。その属官、経歴司、経歴、正六品。都事、正七品。断事司、断事、正六品。副断事、正七品。吏目各一人。中都・興都の守禦防護の事を掌る。洪武二年、詔して臨濠を以て中都と為し、留守衛指揮使司を置き、鳳陽行都督府に隷属せしむ。十四年、始めて中都留守司を置き、鳳陽等八衛を統べる。鳳陽衛、鳳陽中衛、鳳陽右衛、皇陵衛、留守左衛、留守中衛、長淮衛、懷遠衛。皇陵を防護し、留守一人、左・右副留守各一人を設く。属官経歴以下、前に列挙せるが如し。嘉靖十八年、荊州左衛を改めて顕陵衛と為し、興都留守司を置き、顕陵・承天二衛を統べ、顕陵を防護し、設官は中都の如し。

都司(行都司を附す)

都指揮使司。都指揮使一人、正二品。都指揮同知二人、従二品。都指揮僉事四人、正三品。その属官、経歴司、経歴、正六品。都事、正七品。断事司、断事、正六品。副断事、正七品。吏目各一人。司獄司、司獄、従九品。倉庫・草場、大使・副使各一人。行都指揮使司、設官は都指揮使司と同じ。

都司は一方の軍政を掌り、各々その衛所を率いて五府に隷属し、兵部に聴く。凡そ都司は皆流官たり、或いは世官を得る。歳毎に巡撫・按察司がその賢否を察し、五年毎に軍政を考選してこれを廃置す。都指揮使及び同知・僉事は、常に一人が司事を統べ、掌印と曰い、一人が練兵し、一人が屯田し、僉書と曰う。巡捕・軍器・漕運・京操・備禦等の諸雑務は、並びに選んでこれに充て、然らざれば帯俸と曰う。凡そ備倭守備が行都指揮事を行う者は、牙旗を建て公座に昇ることを得ず。凡そ朝廷への吉凶表箋は、布政司・按察司の二司の上に序銜す。経歴・都事は文移を掌る。断事は刑獄を処理す。

明初、各行省に行都督府を置き、都督府の如く官を設く。また各都衛指揮使司を置く。洪武四年、各都衛断事司を置き、以て軍官・軍人の詞訟を処理せしむ。また都衛は方面を節制し、職任甚だ重きを以て、朝廷が選択して昇調し、世襲を許さず。七年、河州に西安行都衛指揮使司を置く。八年十月、詔して各都衛を並びに都指揮使司と改む。凡そ改設の都司十三あり、燕山都衛は北平都司と為り、西安都衛は陝西都司と為り、太原都衛は山西都司と為り、杭州都衛は浙江都司と為り、江西都衛は江西都司と為り、青州都衛は山東都司と為り、成都都衛は四川都司と為り、福州都衛は福建都司と為り、武昌都衛は湖広都司と為り、広東都衛は広東都司と為り、広西都衛は広西都司と為り、定遼都衛は遼東都司と為り、河南都衛は河南都司と為る。行都司三あり、西安行都衛は陝西行都司と為り、大同都衛は山西行都司と為り、建甯都衛は福建行都司と為る。十五年、貴州・雲南の二都司を増置す。後に北平都司を以て北平行都司と為す。永楽元年、大寧都司と改む。宣徳年中、万全都司を増置す。天下の都司凡そ十六を計う。十三省都司の外、遼東・大寧・万全の三都司あり。また建昌に四川行都司を置き、鄖陽に湖広行都司を置く。天下の行都司凡そ五を計う。

明初、また各行省に都鎮撫司を置き、都鎮撫(従四品)、副鎮撫(従五品)、知事(従八品)を設く。呉元年、都鎮撫を正五品、副鎮撫を正六品と改め、知事を提控案牘と為し、省注す。洪武六年に廃止す。

各衛

衛指揮使司、設官は京衛の如し。品秩並びに同じ。外衛は各々都司・行都司或いは留守司に統属せらる。多く世官たり、或いは流官あり。凡そ襲替・升授・優給・優養及び所属の軍政は、掌印・僉事が都指揮使司に報じ、所属の都督府に達し、兵部に移す。毎歳巡撫・按察司がその賢否を察し、五年毎に軍政を一考選し、廃置す。凡そ衛事を管理するは、惟だ掌印・僉書に属す。指揮使・同知・僉事を論ぜず、その才ある者を考選してこれに充てる。屯田・験軍・営操・巡捕・漕運・備禦・出哨・入衛・戍守・軍器等の諸雑務を分理する者を、見任管事と曰う。事に任ぜず隊に入る者を、帯俸差操と曰う。征行するときは、その属を率い、命ずる所の主帥の調度に聴く。

各所

千戸所、正千戸一人、正五品、副千戸二人、従五品、鎮撫二人、従六品、その属官に吏目一人、所轄する百戸所は凡そ十、合わせて百戸十人、正六品、昇授・改調・増置は定員なし、総旗二十人、小旗百人、その守禦千戸所・軍民千戸所の設官は同じ、凡そ千戸は一人が印を掌り、一人が僉書となり、管軍と曰う、千戸・百戸には試職と実授がある、その掌印は常に一人が数印を兼ねる、凡そ軍政は衛が所に下し、千戸が百戸を督し、百戸が総旗・小旗に下し、その卒伍を率いて令を聴く、鎮撫は獄事がなければ管軍を務め、百戸が欠ければこれを代行する、その守禦千戸所は衛に隷属せず、自ら都司に達する、凡そ衛所は皆都司に隷属し、都司はまた五軍都督府に分隷する、浙江都司・山東都司・遼東都司は左軍都督府に隷す、陝西都司・陝西行都司・四川都司・四川行都司・広西都司・雲南都司・貴州都司は右軍都督府に隷す、中都留守司・河南都司は中軍都督府に隷す、興都留守司・湖広都司・湖広行都司・福建都司・福建行都司・江西都司・広東都司は前軍都督府に隷す、大寧都司・万全都司・山西都司・山西行都司は後軍都督府に隷す。

明初、千戸所を置き、正千戸を設け正五品、副千戸を従五品、鎮撫・百戸を正六品とした、また各万戸府を立て、正万戸を正四品、副万戸を従四品、知事を従八品、照磨を正九品とした、まもなく名が実に称わざるを以て、遂に万戸府を廃し、指揮使及び千戸等の官を設けた、諸将の所部を核して兵五千ある者を指揮使とし、千人なる者を千戸とし、百人なる者を百戸とし、五十人なる者を総旗とし、十人なる者を小旗とした、洪武二年、刻期百戸所を置き、能く疾行する者二百人を選び、百戸にこれを領せしめた、七年、衛所の制を申し定めた、先に内外の衛所は、凡そ一衛が十千戸を統べ、一千戸が十百戸を統べ、百戸が総旗二を領し、総旗が小旗五を領し、小旗が軍十を領した、ここに至りその制を更定し、毎衛に前・後・中・左・右の五千戸所を設け、大率五千六百人を以て一衛とし、一千百二十人を以て一千戸所とし、百十二人を以て一百戸所とし、毎百戸所に総旗二人・小旗十人を設けた、二十年、始めて各衛に掌印・僉書を立て、専ら職事を理めさせ、指揮使に印を掌らせ、同知・僉事は各々一所を領した、士卒に武芸熟練せず・器械利ならざる者は、皆その領する官に責を負わせた、二十三年、また軍民指揮使司・軍民千戸所を設け、天下内外の衛凡そ五百四十七、所凡そ二千五百九十三を計った、衛指揮以下その官は多く世襲し、その軍士も父子相継ぎ、一代の定制となった。

宣慰使司

土官、宣慰使司、宣慰使一人、従三品、同知一人、正四品、副使一人、従四品、僉事一人、正五品、経歴司、経歴一人、従七品、都事一人、正八品

宣撫司

宣撫司、宣撫使一人、従四品、同知一人、正五品、副使一人、従五品、僉事一人、正六品、経歴司、経歴一人、従八品、知事一人、正九品、照磨一人、従九品

安撫司

安撫司、安撫使一人、従五品、同知一人、正六品、副使一人、従六品、僉事一人、正七品、その属官に吏目一人、従九品

招討司

招討司、招討使一人、従五品、副招討一人、正六品、その属官に吏目一人、従九品

長官司(蛮夷長官司を附す)

長官司、長官一人、正六品、副長官一人、従七品、その属官に吏目一人、未入流、蛮夷長官司、長官・副長官各一人、品は上と同じ、また蛮夷官・苗民官及び千夫長・副千夫長等の官あり

軍民府(土州・土県を附す)

軍民府・土州・土県は、官を設けること府・州・県の如し

洪武七年、西南諸蛮夷の朝貢多くは元の官に因りこれを授け、稍々約束を与え、徴徭差発の法を定めた、漸く宣慰司となる者十一、招討司となる者一、宣撫司となる者十、安撫司となる者十九、長官司となる者百七十三、その府・州・県の正・貳・属官は、或いは土官或いは流官、大率宣慰等司の経歴は皆流官、府・州・県の佐貳は多く流官、皆その俗に因り、これに諸蛮を附輯せしめ、謹んで疆土を守り、職貢を修め、徴調に供え、相携貳するなからしむ、相仇する者あれば、疏を上して天子の命を聴く、また番夷都指揮使司三、衛指揮使司三百八十五、宣慰司三、招討司六、万戸府四、千戸所四十一、站七、地面七、寨一あり、詳しくは『兵志・衛所』の中に見ゆ、併せて附寨の番夷を以てその地に官せしむ。