明史

志第四十三 輿服三

群臣の冠服:洪武元年、公服と朝服を制し、百官に賜うことを命じた。時に礼部が言うには、「各官は先に散官を授けられており、現任の職事と高下が同じではない。例えば御史董希哲は前に朝列大夫澧州知州を授けられておりながら、七品の職事に任じている。省司郎中宋冕は前に亞中大夫黃州知府を授けられておりながら、五品の職事に任じている。散官と現任の職が同じでないため、服色も異ならざるを得ず、その制度を定めてほしい」。そこで詔して省部の臣に定議させた。礼部がまた言うには、「唐の制度では、服色はすべて散官を基準とした。元の制度では、散官と職事はそれぞれその高い方に従い、服色もそれに因った。国初の服色は散官に依拠し、唐の制度と同じである」。そこで服色は散官を基準とし、現職は考慮しないと定め、このため賜う袍帯もすべてこれに同じくした。三年、礼部が言うには、「歴代は尚ぶところが異なる。夏は黒、商は白、周は赤、秦は黒、漢は赤、唐は服飾は黄、旗幟は赤である。今、国家は元の後に承け、周・漢・唐・宋に法を取る。服色の尚ぶところは、赤が適当である」。これに従った。

文武官の朝服:洪武二十六年に定める。凡そ大祀・慶成・正旦・冬至・聖節及び頒詔・開読・進表・伝制には、すべて樑冠、赤羅衣、白紗中単、青で飾った領縁、赤羅裳、青縁、赤羅蔽膝、大帯は赤・白二色の絹、革帯、佩綬、白襪黒履を用いる。一品から九品まで、冠上の樑の数で差をつける。公は冠八樑、籠巾貂蟬を加え、立筆五折、四柱、香草五段、前後に玉蟬。侯は七樑、籠巾貂蟬、立筆四折、四柱、香草四段、前後に金蟬。伯は七樑、籠巾貂蟬、立筆二折、四柱、香草二段、前後に玳瑁蟬。いずれも雉尾を挿す。駙馬は侯と同じく、雉尾を用いない。一品、冠七樑、籠巾貂蟬を用いず、革帯と佩はともに玉、綬は黄・緑・赤・紫で織り成した雲鳳四色花錦を用い、下に青絲網を結び、玉綬環二。二品、六樑、革帯、綬環は犀、その他は一品と同じ。三品、五樑、革帯は金、佩は玉、綬は黄・緑・赤・紫で織り成した雲鶴花錦を用い、下に青絲網を結び、金綬環二。四品、四樑、革帯は金、佩は薬玉、その他は三品と同じ。五品、三樑、革帯は銀、鈒花、佩は薬玉、綬は黄・緑・赤・紫で織り成した盤雕花錦を用い、下に青絲網を結び、銀鍍金綬環二。一品から五品まで、笏はともに象牙。六品・七品、二樑、革帯は銀、佩は薬玉、綬は黄・緑・赤で織り成した練鵲三色花錦を用い、下に青絲網を結び、銀綬環二。ただ御史のみは獬廌の服を着る。八品・九品、一樑、革帯は烏角、佩は薬玉、綬は黄・緑で織り成した鸂氵鶒二色花錦を用い、下に青絲網を結び、銅綬環二。六品から九品まで、笏はともに槐木。その武官で直衛を担当する者は、別に服色がある。雑職で流品に入らない者は、大朝賀・進錶行礼には公服のみを用いる。三十年、九品官に準じ、朝服を用いることを命じた。嘉靖八年、朝服の制度を改めて定めた。樑冠は旧式の通り、上衣は赤羅で青縁、腰より指七寸長く、下裳を掩わない。中単は白紗で青縁。下裳は七幅、前三後四、毎幅三襞積、赤羅で青縁。蔽膝は革帯に綴じる。綬は、それぞれ品級の花様に従う。革帯の後に佩綬を付け、帯に結んで掩う。その環もそれぞれ品級に従い、玉・犀・金・銀・銅を用い、綬に織り込まない。大帯は表裏ともに無地、ただ両耳及び下垂の縁は緑、また青組で締める。革帯はすべて旧式の通り。珮玉はすべて『詩伝』の制度の通り、双滴及び二珩を除く。その三品以上は玉、四品以下は薬玉、及び襪履はすべて旧式の通り。万暦五年、百官の正旦朝賀に朱履を僭って履くことを禁じた。故事により、十一月に百官は暖耳を戴く。この年、朝覲の外官及び挙人・監生は、暖耳を戴いて入朝することを許さなかった。

凡そ親しく郊廟・社稷を祀る時、文武官が分献陪祀するには、祭服を着る。洪武二十六年に定める。一品から九品まで、青羅衣、白紗中単、ともに皁領縁。赤羅裳、皁縁。赤羅蔽膝。方心曲領。その冠帯・佩綬等差は、朝服と同じである。また品官の家用祭服を定めた。三品以上は、方心曲領を除く。四品以下は、ともに珮綬を除く。嘉靖八年、百官の祭服を改めて定めた。上衣は青羅、皁縁、朝服と同じ。下裳は赤羅、皁縁、朝服と同じ。蔽膝・綬環・大帯・革帯・佩玉・襪履はすべて朝服と同じ。その視牲・朝日夕月・耕耤・歴代帝王祭では、ただ錦衣衛堂上官のみ、大紅蟒衣、飛魚、烏紗帽、鸞帯、佩繍春刀。太廟・社稷を祭る時は、大紅便服。

文武官の公服:洪武二十六年に定める。毎日の早晚朝で奏事及び侍班・謝恩・見辞の時にはこれを着る。在外の文武官は、毎日公座でこれを着る。その制は、盤領右衽の袍、紵絲または紗羅絹を用い、袖幅三尺。一品から四品は、緋袍。五品から七品は、青袍。八品九品は、緑袍。未入流の雑職官は、袍・笏・帯は八品以下と同じ。公服の花様は、一品は大独科花、径五寸。二品は小独科花、径三寸。三品は散答花、枝葉無し、径二寸。四品・五品は小雑花紋、径一寸五分。六品・七品は小雑花、径一寸。八品以下は紋無し。襆頭:漆・紗の二等、展角の長さ一尺二寸。雑職官の襆頭は、垂帯。後にまた展角とし、垂帯を用いず、入流官と同じ。笏は朝服に準じて作る。腰帯:一品は玉、花または素。二品は犀。三品・四品は金荔枝。五品以下は烏角。襪は青革を用い、なお下に撻尾を垂らす。靴は皁を用いる。その後、常朝ではただ便服とし、ただ朔望に公服を具えて朝参する。凡そ武官で直衛を担当する者は、別に服色があり、この制度に拘らない。公・侯・駙馬・伯の服色花様・腰帯は一品と同じ。文武官の花様は、もし織造するものがなければ、無地を用いる。百官が入朝する時、雨雪の場合は雨衣を着ることを許す。奉天・華蓋・武英諸殿で奏事する時は、必ず履鞋を履き、違反者は御史が糾弾する。万暦五年、常朝ではすべて本等の錦繍服色を着ることとし、その朝覲官の見辞・謝恩は、已入流・未入流を問わず、公服で礼を行うことを命じた。

文武官の常服は、洪武三年に定められ、凡そ常朝や視事には、烏紗帽・団領衫・束帯を公服とする。その帯は、一品は玉、二品は花犀、三品は金鈒花、四品は素金、五品は銀鈒花、六品・七品は素銀、八品・九品は烏角を用いる。凡そ致仕および侍親のため閑官となった者は、紗帽・束帯を用いる。事によりて罷免・降格された者は、その服は庶人と同じとする。二十四年に至り、また公・侯・伯・駙馬の束帯は一品と同じ、雑職官は八品・九品と同じと定めた。朝官の常服の礼鞋は、洪武六年に定めた。先に、百官が入朝する際、雨に遇えば皆、釘靴を履き、その音が殿陛に響き渡ったため、侍儀司がこれを禁ずるよう請うた。太祖は言う、「古より入朝には履を用い、唐より靴を用いるようになった。朝官に軟底の皮鞋を作らせ、靴の外に被せ、出朝すればこれを脱がせよ」と。

礼部が近ごろ奢侈で制を越えていると上言した。詔してこれを禁ずるよう申し付け、なお漢・唐の制を参酌して、頒行し遵守させた。凡そ職官は、一品・二品は雑色の文綺・綾羅・彩繡を用い、帽頂・帽珠は玉を用いる。三品から五品は雑色の文綺・綾羅を用い、帽頂は金を用い、帽珠は玉を除き、随時に用いるものを用いる。六品から九品は雑色の文綺・綾羅を用い、帽頂は銀を用い、帽珠は瑪瑙・水晶・香木を用いる。一品から六品は四爪の龍を穿ち、金繡でこれを作ることを許す。礼部がまた議して言う、「品官が尊長に拝謁するのに、朝君の公服を用いるのは、理に適わない。別に梁冠・絳衣・絳裳・革帯・大帯・大白襪・烏舄・佩綬を制すべきであり、その衣裳は縁襈を取り去る。三品以上は佩綬を用い、三品以下は用いない」と。これに従った。

二十二年、文武官に雨に遇えば雨帽を戴き、公差で外出する際は帽子を戴き、入城はこれを許さないと命じた。二十三年に制を定め、文官の衣は襟から裾まで、地面から一寸離し、袖の長さは手を過ぎ、再び肘まで戻る。公・侯・駙馬は文官と同じ。武官は地面から五寸離し、袖の長さは手を七寸過ぎる。二十四年に定め、公・侯・駙馬・伯の服は、麒麟・白澤を繍する。文官は一品は仙鶴、二品は錦鶏、三品は孔雀、四品は雲雁、五品は白鷴、六品は鷺鷥、七品は鸂鶒、八品は黄鸝、九品は鵪鶉を繍する。雑職は練鵲を繍する。風憲官は獬豸を繍する。武官は一品・二品は獅子、三品・四品は虎豹、五品は熊羆、六品・七品は彪、八品は犀牛、九品は海馬を繍する。また品官の常服には雑色の紵絲・綾羅・彩繡を用いるよう命じた。官吏の衣服・帳幔には、玄・黄・紫の三色および龍鳳文の織繡を用いることを許さず、違反した者は罪は染造の人に及ぶ。朝見の人員は、四季を通じて色衣を用い、純粋な素色を許さない。三十年、致仕官の服色は現任と同じとし、もし朝賀・謝恩・見辞の際は、一様に具服するよう命じた。

景泰四年、錦衣衛指揮で侍衛する者は、麒麟の衣を着ることを得ると命じた。天順二年、官民の衣服に蟒龍・飛魚・斗牛・大鵬・像生獅子・四宝相花・大西番蓮・大雲の花様、および玄・黄・紫ならびに玄色・黒・緑・柳黄・薑黄・明黄の諸色を用いることを禁じた。弘治十三年に奏定し、公・侯・伯・文武大臣および鎮守・守備で、例に違反して蟒衣・飛魚衣服を奏請する者は、科道が糾劾し、重罪をもって処断する。正徳十一年に東・西両官庁を設け、将士は悉く黄罩甲を衣とした。中外これに倣った。金緋の盛服を着る者も、必ずこの上にこれを加えた。都督ととく江彬らは日紅笠の上に、靛染めの天鵞翎を綴り、貴い飾りとし、貴い者は三英を飄らせ、次は二英とした。兵部尚書王瓊は一英を賜わり、冠して教場に下り、自ら殊遇と称した。その後、巡狩の経たところでは、督餉侍郎・巡撫都御史で罩甲を着て上に拝謁しない者はなかった。十三年、車駕が京に還ると、伝旨して、迎候する者に曳撒大帽・鸞帯を用いさせた。まもなく群臣に大紅の紵絲羅紗を各一ずつ賜った。その服色は、一品は斗牛、二品は飛魚、三品は蟒、四・五品は麒麟、六・七品は虎・彪とした。翰林科道は品級を限らず皆これに与り、ただ部曹の五品以下は与らなかった。時に文臣の服色も走獣とし、麒麟の服が四品にまで及んだのは、特に異なる事であった。

十六年、世宗の登極詔に云う、「近ごろ玉帯・蟒龍・飛魚・斗牛の服色が濫用され、皆、庶官・雑流および各処の将領が縁故により奏乞しているが、今は全て許さない。武職の卑官が公・侯の服色を僭用する者も、またこれを禁絶する」と。嘉靖六年にまた中外の官を禁じ、五彩装花の織造で禁制の色を濫用することを許さなかった。

七年に燕居の法服の制を定めた後、閣臣張璁が言う、「品官の燕居の服には明らかな制がなく、詭異の徒が競って奇服を作り典章を乱している。古の玄端に倣い改め、別に簡易の制を設け、天下に明示し、貴賤に等を設けられたい」と。帝はこれによりまた『忠静冠服図』を製し礼部に頒ち、敕諭して言う、「祖宗は古を稽え制を定め、品官の朝祭の服には、それぞれ等差がある。ただ常人の情は、明らかなところでは慎み、幽独では怠りがちである。古の聖王はこれを慎み、玄端を制して燕居の服とした。近ごろ衣服が詭異で、上下の区別がなく、民の志はどうして定まろうか。朕は古の玄端の制を酌み、名を『忠静』と改め、進んでは忠を尽くすことを思い、退いては過ちを補うことを思うに庶幾からん。朕は既に図説を著し、式の通り製造する。在京では七品以上の官および八品以上の翰林院・国子監・行人司を許し、在外では方面官および各府の堂上官・州県の正堂官・儒学教官にこれを着ることを許す。武官は都督以上に限る。その他は濫用を許さない」と。礼部は図説を天下に頒布し、敕の通り奉行した。忠静冠は古の玄冠に倣い、冠の匡は制の通り、烏紗で覆い、両山は共に後ろに列する。冠頂はなお方中で微かに起き、三梁は各々金線で押さえ、縁を金で縁取る。四品以下は金を取り去り、浅色の絲線で縁取る。忠静服は古の玄端服に倣い、色は深青を用い、紵絲紗羅でこれを作る。三品以上は雲を、四品以下は素とし、藍青で縁取り、前後に本品の花様の補子を飾る。深衣は玉色を用いる。素帯は、古の大夫の帯制の通り、青を表とし緑で縁と裏を縁取る。素履、青緑の絛結。白襪。

十六年、群臣が駐蹕所で朝すると、兵部尚書張瓚が蟒服を着ていた。帝は怒り、閣臣夏言に諭して言う、「尚書は二品であるのに、どうして自ら蟒を着るのか」と。言は答えて言う、「瓚の着ているのは、欽賜の飛魚服であり、鮮明で蟒に類するだけです」と。帝は言う、「飛魚はどうして両角を組んでいるのか。厳しくこれを禁ぜよ」と。ここにおいて礼部が奏定し、文武官は蟒衣・飛魚・斗牛・違禁の華異な服色を擅用することを許さない。その大紅の紵絲紗羅服は、四品以上の官および在京の五品堂上官・経筵講官のみが着ることを許す。五品官および経筵で講官とならない者は、共に青緑の錦繡を着る。吉礼に遇えば、紅布絨褐のみを着る。品官の花様は、全て品級に依る。錦衣衛指揮は、侍衛する者はなお麒麟を着ることを得るが、その帯俸で侍衛でない者、および千百戸はたとえ侍衛であっても、僭用を許さない。

歴朝の賜服:文臣で一品に至らずして玉帯を賜わった者は、洪武年間の学士羅復仁に始まる。衍聖公の官秩は正二品であるが、織金の麒麟袍と玉帯を服し、これは景泰年間に入朝拝謁の際に賜わったものである。これ以後常例となった。内閣に蟒衣を賜わるのは、弘治年間の劉健・李東陽に始まる。麒麟は本来公・侯の服であるが、内閣がこれを服したのは、嘉靖年間の厳嵩・徐階がともに賜わったためである。仙鶴は文臣一品の服であるが、嘉靖年間に成国公朱希忠・都督陸炳がこれを服し、いずれも玄壇の供事によるものであった。また学士の厳訥・李春芳・董份は五品の身で青詞を撰したため、仙鶴をも賜わった。まもなく壇中で供事する者にのみ用いるよう諭されたので、尚書たちはみな鶴を衣とすることを敢えてしなくなった。後に南京に閃黄の補に麒麟・仙鶴を織らせて厳嵩に賜わり、閃黄は上(皇帝)の用いる服色である。また徐階には教子昇天の蟒を賜わった。万暦年間には、張居正に坐蟒を賜わり、武清侯李偉は太后の父として、また賜服を受けた。

儀賓の朝服・公服・常服:すべて品級に従い、文武官と同じであるが、ただ笏はすべて象牙製である。常服の文様は武官に準ずる。弘治十三年に定め、郡主の儀賓は鈒花の金帯、胸背に獅子。県主の儀賓は鈒花の金帯、郡君の儀賓は光素の金帯、胸背ともに虎豹。県君の儀賓は鈒花の銀帯、郷君の儀賓は光素の銀帯、胸背ともに彪。僭用する者があれば、冠帯を剥奪し、平頭巾を戴かせて儒学で三年間読書習礼させる。

状元および諸進士の冠服:状元の冠は二梁、緋羅の円領、白絹の中単、錦綬、蔽膝、紗帽、槐木の笏、光銀の帯、薬玉の佩、朝靴、氈襪、すべて御前より頒賜され、上表謝恩の日にこれを服する。進士の巾は烏紗帽の如く、頂はやや平らで、展角は幅一寸余、長さ五寸ほど、垂帯を付け、皁紗で作る。深藍羅の袍、縁を青羅とし、袖は広くして狭めない。槐木の笏、革帯・青鞓、黒角で飾り、後ろに撻尾を垂らす。廷試の後に国子監に頒ち、伝臚の日にこれを服する。上表謝恩の後、先師を謁して釈菜の礼を行い終えて、初めて常服に替え、その巾袍はなお国子監に送って蔵する。

命婦の冠服:洪武元年に定め、命婦一品は、冠に花釵九樹。両博鬢、九鈿。服用は翟衣、繡翟九重。素紗の中単、黼領、朱縠の逯襈裾。蔽膝は裳の色に従い、緅を以て領縁とし、文繡の重翟を加え、章二等とする。玉帯。青襪舄、佩綬。二品は、冠に花釵八樹。両博鬢、八鈿。服用は翟衣八等、犀帯、その余は一品と同じ。三品は、冠に花釵七樹。両博鬢、七鈿。翟衣七等、金革帯、その余は二品と同じ。四品は、冠に花釵六樹。両博鬢、六鈿。翟衣六等、金革帯、その余は三品と同じ。五品は、冠に花釵五樹。両博鬢、五鈿。翟衣五等、烏角帯、その余は四品と同じ。六品は、冠に花釵四樹。両博鬢、四鈿。翟衣四等、烏角帯、その余は五品と同じ。七品は、冠に花釵三樹。両博鬢、三鈿。翟衣三等、烏角帯、その余は六品と同じ。一品より五品まで、衣の色は夫に随って紫を用いる。六品・七品は、衣の色は夫に随って緋を用いる。その大帯は衣の色と同じ。四年、古くは天子諸侯が袞冕を服し、后と夫人も禕翟を服した。今や群臣はすでに梁冠・絳衣を朝服とし、冕を用いないのであるから、外命婦もまた翟衣を以て朝すべきではない。礼部に議させた。奏して定め、命婦は山鬆の特髻・仮鬢花鈿・真紅の大袖衣・珠翠蹙金の霞帔を朝服とする。朱翠の角冠・金珠の花釵・闊袖の雑色緑縁を燕居の用とする。一品は、衣に金繡文の霞帔、金珠翠の妝飾、玉の墜。二品は、衣に金繡雲肩大雑花の霞帔、金珠翠の妝飾、金の墜子。三品は、衣に金繡大雑花の霞帔、珠翠の妝飾、金の墜子。四品は、衣に繡小雑花の霞帔、翠の妝飾、金の墜子。五品は、衣に銷金大雑花の霞帔、生色画絹起花の妝飾、金の墜子。六品・七品は、衣に銷金小雑花の霞帔、生色画絹起花の妝飾、鍍金銀の墜子。八品・九品は、衣に大紅素羅の霞帔、生色画絹の妝飾、銀の墜子。首飾は、一品・二品は金玉珠翠。三品・四品は金珠翠。五品は金翠。六品以下は金鍍銀、間に珠を用いる。

五年、品官の命婦の冠服を改めて定める。一品は、礼服用に山松特髻、翠鬆五株、金翟八、口に珠結を銜む。正面に珠翠翟一、珠翠花四朶、珠翠雲喜花三朶。後鬢に珠梭球一、珠翠飛翟一、珠翠梳四、金雲頭連三釵一、珠簾梳一、金簪二。珠梭環一双。大袖衫は真紅色を用いる。霞帔・褙子は共に深青色を用いる。紵絲・綾・羅・紗は用いるに任せる。霞帔の上に蹙金繡の雲霞翟文を施し、鈒花金墜子を付す。褙子の上に金繡の雲霞翟文を施す。常服用に珠翠慶雲冠、珠翠翟三、金翟一、口に珠結を銜む。鬢辺に珠翠花二、小珠翠梳一双、金雲頭連三釵一、金壓鬢雙頭釵二、金脳梳一、金簪二。金脚珠翠仏面環一双。鐲釧は皆金を用いる。長襖・長裙、各色の紵絲・綾・羅・紗は用いるに任せる。長襖の縁襈は紫か緑とし、上に蹙金繡の雲霞翟文を施す。看帯は紅・緑・紫を用い、上に蹙金繡の雲霞翟文を施す。長裙は横豎に金繡の纏枝花文を施す。二品は、特髻の上に金翟七、口に珠結を銜む。その他は一品と同じ。常服も一品と同じ。三品は、特髻の上に金孔雀六、口に珠結を銜む。正面に珠翠孔雀一、後鬢に翠孔雀二。霞帔の上に蹙金の雲霞孔雀文を施し、鈒花金墜子を付す。褙子の上に金繡の雲霞孔雀文を施す。その他は二品と同じ。常服冠の上に珠翠孔雀三、金孔雀二、口に珠結を銜む。長襖の縁襈。看帯は紫か緑とし、共に雲霞孔雀文を繡す。長裙は横豎襴に纏枝花文を繡す。その他は二品と同じ。四品は、特髻の上に金孔雀五、口に珠結を銜む。その他は三品と同じ。常服も三品と同じ。五品は、特髻の上に銀鍍金鴛鴦四、口に珠結を銜む。正面に珠翠鴛鴦一、小珠鋪翠雲喜花三朶。後鬢に翠鴛鴦二、銀鍍金雲頭連三釵一、小珠簾梳一、鍍金銀簪二。小珠梳環一双。霞帔の上に繡の雲霞鴛鴦文を施し、鍍金銀鈒花墜子を付す。褙子の上に雲霞鴛鴦文を施す。その他は四品と同じ。常服冠の上に小珠翠鴛鴦三、鍍金銀鴛鴦二、挑珠牌を付す。鬢辺に小珠翠花二朶、雲頭連三釵一、梳一、壓鬢雙頭釵二、鍍金簪二。銀脚珠翠仏面環一双。鐲釧は皆銀鍍金を用いる。長襖の縁襈に雲霞鴛鴦文を繡す。長裙は横豎襴に纏枝花文を繡す。その他は四品と同じ。六品は、特髻の上に翠鬆三株、銀鍍金練鵲四、口に珠結を銜む。正面に銀鍍金練鵲一、小珠翠花四朶。後鬢に翠梭球一、翠練鵲二、翠梳四、銀雲頭連三釵一、珠縁翠簾梳一、銀簪二。大袖衫は綾・羅・槹・絹を用いるに任せる。霞帔に繡の雲霞練鵲文を施し、花銀墜子を付す。褙子の上に雲霞練鵲文を施す。その他は五品と同じ。常服冠の上に鍍金銀練鵲三、また鍍金銀練鵲二、挑小珠牌を付す。鐲釧は皆銀を用いる。長襖の縁襈。看帯は紫か緑とし、雲霞練鵲文を繡す。長裙は横豎襴に纏枝花文を繡す。その他は五品と同じ。七品は、礼服・常服ともに六品と同じ。その八品・九品の礼服は、大袖衫・霞帔・褙子のみを用いる。大衫は七品と同じ。霞帔の上に纏枝花を繡し、鈒花銀墜子を付す。褙子の上に摘枝団花を繡す。通用で小珠慶雲冠を用いる。常服も小珠慶雲冠を用い、銀間鍍金銀練鵲三、また銀間鍍金銀練鵲二、挑小珠牌を付す。銀間鍍金雲頭連三釵一、銀間鍍金壓鬢雙頭釵二、銀間鍍金脳梳一、銀間鍍金簪二。長襖の縁襈・看帯に共に纏枝花を繡す。その他は七品と同じ。また命婦の団衫の制を定め、紅羅をもってこれを作り、重雉を繡して等第とする。一品は九等、二品は八等、三品は七等、四品は六等、五品は五等、六品は四等、七品は三等、その余は繡雉を用いない。

二十四年に定制し、命婦が君後に朝見し、家において舅姑及び夫に会い、並びに祭祀するときは礼服を服する。公侯伯夫人は一品と同じ。大袖衫は真紅色。一品から五品までは紵絲・綾・羅。六品から九品までは綾・羅・槹・絹。霞帔・褙子は皆深青段。公侯及び一品・二品は金繡の雲霞翟文。三品・四品は金繡の雲霞孔雀文。五品は繡の雲霞鴛鴦文。六品・七品は繡の雲霞練鵲文。大袖衫は、領の幅三寸、両領は直下一尺、間に紐子三を綴じ、末に紐子二を綴じ、紐は掩紐の下にあり、拝するときはこれを放つ。霞帔二条、各々禽七を繡し、品級に従って用い、前四後三。墜子の中に鈒花禽一、四面に雲霞文、禽は霞帔の如く、品級に従って用いる。笏は象牙をもってこれを作る。二十六年に定める。一品は、冠に金事件を用い、珠翟五、珠牡丹開頭二、珠半開三、翠雲二十四片、翠牡丹葉一十八片、翠口圈一副、上に金宝鈿花八、金翟二、口に珠結二を銜む。二品から四品までは、冠に金事件を用い、珠翟四、珠牡丹開頭二、珠半開四、翠雲二十四片、翠牡丹葉一十八片、翠口圈一副、上に金宝鈿花八、金翟二、口に珠結二を銜む。一品・二品は、霞帔・褙子ともに雲霞翟文、鈒花金墜子。三品・四品は、霞帔・褙子ともに雲霞孔雀文、鈒花金墜子。五品・六品は、冠に抹金銀事件を用い、珠翟三、珠牡丹開頭二、珠半開五、翠雲二十四片、翠牡丹葉一十八片、翠口圈一副、上に抹金銀宝鈿花八、抹金銀翟二、口に珠結子二を銜む。五品は、霞帔・褙子ともに雲霞鴛鴦文、鍍金鈒花銀墜子。六品は、霞帔・褙子ともに雲霞練鵲文、鈒花銀墜子。七品から九品までは、冠に抹金銀事件を用い、珠翟二、珠月桂開頭二、珠半開六、翠雲二十四片、翠月桂葉一十八片、翠口圈一副、上に抹金銀宝鈿花八、抹金銀翟二、口に珠結子二を銜む。七品は、霞帔・墜子・褙子は六品と同じ。八品・九品は、霞帔に繡の纏枝花を用い、墜子は七品と同じ、褙子に摘枝団花を繡す。

内外官の親族の冠服:洪武元年、礼部尚書崔亮が詔を奉じて議定す。内外官の父・兄・伯・叔・子・孫・弟・姪は烏紗帽、軟脚垂帯、円領衣、烏角帯を用う。品官の祖母及び母、並びに子孫と同居する親弟姪の婦女の礼服は、本官の居る官職の品級に合わせ、通用して漆紗珠翠慶雲冠、本品の衫、霞帔、褙子、縁襈襖裙とす。但し山鬆特髻子は封誥勅を受けた者のみ用いることを許す。品官の次妻は、本品の珠翠慶雲冠・褙子を礼服として用いることを許す。銷金闊領・長襖長裙を常服とす。二十五年、文武官の父兄・伯叔・弟姪・子婿は皆靴を穿くことを許すと令す。

内使の冠服:明初、内使監を置き、烏紗描金曲脚帽を冠し、胸背花盤領窄袖衫を衣し、烏角帯を帯び、靴は紅扇面黒下樁を用う。各宮の火者は、服は庶人と同じ。洪武三年、宰臣に諭し、内使監で職名なき者は、別に冠を制し以て監官と区別すべしと。礼部が奏定す。内使監は凡そ朝会に遇う時は、品に依り朝服・公服を具えて礼を行えと。其の常服は、葵花胸背団領衫、色に拘わらず。烏紗帽。犀角帯。品従なき者は、常服は団領衫、胸背花なく、色に拘わらず。烏角帯。烏紗帽、軟帯を垂らす。年十五以下の者は、唯だ烏紗小頂帽を戴くのみ。『大政記』に按ずるに、永楽以後、宦官は帝の左右に在れば、必ず蟒服す。制は曳撒の如く、左右に蟒を繍し、鸞帯を以て繋ぐ。此れは燕閑の服なり。次は則ち飛魚、唯だ入侍に用いるのみ。貴くして用事する者は、蟒を賜う。文武一品官の得易からざる所なり。単蟒は面皆斜に向かい、坐蟒は則ち面正に向かう。尤も貴し。又膝襴有り。亦た曳撒の如く、上に蟒補有り。膝に当たる処に細雲蟒を横に織る。蓋し南郊及び山陵に扈従し、馬に乗るに便なるなり。或いは召対燕見には、君臣皆袍を用いずして此れを用う。但し蟒に五爪・四爪の分有り、襴に紅・黄の別有るのみ。弘治元年、都御史辺鏞言う、「国朝の品官に蟒衣の制無し。夫れ蟒は角無く足無し。今内官多く蟒衣を乞う。龍形に甚だ類す。制に非ず」と。乃ち詔を下して之を禁ず。十七年、閣臣劉健に諭して曰く、「内臣の僭妄尤も多し」と。因りて服色の禁ずべき所を言う。曰く、「蟒・龍・飛魚・斗牛は本より禁ずる所に在り。私に織るに合わず。間有りて賜わる者、或いは久しくして敝れば、輒ち自ら織り用うべからず。玄・黄・紫・皁は正禁に属す。即ち柳黄・明黄・薑黄諸色も亦た之を禁ずべし」と。孝宗は意を加えて鉗束す。故に申飭すること再びす。然れども内官驕恣已久しく、積習相沿い、止む能わず。初め、太祖内臣の服を制す。其の紗帽は群臣と異なり、且つ朝冠・襆頭無く、亦た祭服無し。万暦初、穆宗が太廟に入るに、大榼進賢を冠し、祭服を服して以て従う。蓋し内府中霤・竈井の神を祀るに、例中官を遣わす。因りて自ら祭服を創る。廷議に由るに非ず。

侍儀舍人の冠服:洪武二年、礼官議定す。侍儀舍人は礼を導くに、元制に依り、展脚襆頭、窄袖紫衫、塗金束帯、皁紋靴を用う。常服は、烏紗唐帽、諸色盤領衫、烏角束帯。衫は黄を用いず。四年、中書省議定す。侍儀舍人並びに御史台知班、引礼執事は、進賢冠を冠し、梁無し。絳色の衣を服す。其の蔽膝・履・襪・帯・笏は九品と同じ。但し中単を用いず。

校尉こういの冠服:洪武三年定制す。執仗の士は、首服皆縷金額交脚襆頭。其の服に諸色辟邪・宝相花裙襖有り。銅葵花束帯。皁紋靴。六年、校尉に只孫を衣せしめ、束帯、襆頭、靴鞋と令す。只孫は一に質孫と作す。本元の制。蓋し一色の衣なり。十四年、金鵝帽に改用す。黒漆戧金荔枝銅釘様。毎に五釘を攅就し、四面稍々辺襴を起し、鞓青を以て之を緊束す。二十二年、将軍・力士・校尉・旗軍に常に頭巾或いは榼脳を戴かしむと令す。二十五年、校尉・力士が上直には靴を穿き、出外には許さずと令す。

刻期の冠服:宋は快行親従官を置く。明初これを刻期と謂う。方頂巾を冠し、胸背に鷹鷂を衣し、花腰、線襖子、諸色闊匾絲絛、大象牙彫花環、行縢八帯鞋。洪武六年、唯だ彫刻象牙絛環を用い、余は庶民と同じ。

儒士・生員・監生の巾服:洪武三年、士人に四方平定巾を戴かしむと令す。二十三年、儒士・生員の衣を定む。領より裳に至るまで、地を去ること一寸。袖長く手を過ぎ、回して肘に及ばざること三寸。二十四年、士子の巾服が吏胥と異ならざるを以て、之を甄別すべしと。工部に式を制して進むるを命ず。太祖親ら視る。凡そ三たび易えて乃ち定まる。生員の襴衫は玉色布絨を以て之を作す。袖広く皁縁。皁絛軟巾垂帯。貢挙して監に入る者は、服する所を変えず。洪武末、遮陽帽を戴くことを許す。後遂に私に之を戴く。洪熙中、帝衣藍なる者は何人ぞと問う。左右監生と対す。帝曰く、「青衣を著するは較かよろし」と。乃ち青円領に易う。嘉靖二十二年、礼部言う、士子の冠服詭異にして、凌雲等巾有り、礼制に甚だ乖くと。司に詔して之を禁ぜしむ。万暦二年、挙人・監生・生儒の忠静冠巾・錦綺鑲履を僭用し、及び傘蓋を張り、暖耳を戴くことを禁ず。違う者は五城御史送問す。

庶人の冠服:明初、庶人の婚は、九品服を仮ることを許す。洪武三年、庶人は初め四帯巾を戴き、四方平定巾に改め、雑色盤領衣。黄を用いることを許さず。又男女の衣服は、金繍・錦綺・紵絲・綾羅を僭用することを得ずと令す。槹・絹・素紗のみを許す。其の靴は花様を裁製し、金線を装飾することを得ず。首飾・釵・鐲は金玉・珠翠を用いることを許さず。銀のみを用う。六年、庶人の巾環は金玉・瑪瑙・珊瑚・琥珀を用いることを得ずと令す。未だ流品に入らざる者同じ。庶人の帽は頂を用いることを得ず。帽珠は水晶・香木のみを許す。十四年、農は槹・紗・絹・布を衣し、商賈は絹・布のみを衣すと令す。農家に一人商賈たる者有るも、亦た槹・紗を衣することを得ず。二十二年、農夫が斗笠・蒲笠を戴きて市井に出入するを禁ぜずと令す。農業に親しまざる者は許さず。二十三年、耆民の衣制を令す。袖長く手を過ぎ、回して肘に及ばざること三寸。庶人の衣長く地を去ること五寸。袖長く手を過ぐること六寸。袖樁広さ一尺。袖口五寸。二十五年、民間の禁に違い、靴巧みに花様を裁ち、金線藍条を嵌むるを以て、礼部に詔して厳に庶人の靴を穿くことを許さずと禁ぜしむ。皮劄鵓翁を穿くのみを許す。惟だ北地苦寒に限り、牛皮直縫靴を用いることを許す。正徳元年、商販・僕役・倡優・下賤の貂裘を服用することを許さずと禁ず。十六年、軍民の紫花罩甲を衣し、或いは禁門或いは四外に遊走する者を禁ず。緝事人これを擒う。

士庶の妻の冠服:洪武三年に定制を定め、士庶の妻は、首飾りに銀鍍金を用い、耳環に金珠を用い、釧鐲に銀を用い、浅色の団衫を着用し、紵絲・綾羅・槹絹を用いる。五年、民間の婦人の礼服は紫絁のみとし、金繡を用いず、袍衫は紫・緑・桃紅及び諸々の浅淡な色に限り、大紅・鴉青・黄色を用いることを許さず、帯は藍絹布を用いる。女子で在室の者は、三つの小髻を結い、金釵を挿し、珠頭閟の窄袖褙子を着る。凡そ婢使は、高頂髻を結い、絹布の狭領長襖と長裙を着る。小婢使は、双髻を結い、長袖短衣と長裙を着る。成化十年、官民の婦女が渾金衣服・宝石首飾を僭用することを禁じた。正徳元年、軍民の婦女が銷金衣服・帳幔、宝石首飾・鐲釧を用いることを許さないと命じた。

協律郎・楽舞生の冠服:明初、郊社宗廟には雅楽を用い、協律郎は襆頭、紫羅袍、荔枝帯を着用し、楽生は緋袍、展脚襆頭を着用し、舞士は襆頭、紅羅袍、荔枝帯、皁靴を着用し、文舞生は紅袍、武舞生は緋袍を着用し、共に展脚襆頭、革帯、皁靴を着用した。朝会大楽九奏の歌工は、中華一統巾、紅羅生色大袖衫(黄鶯・鸚鵡の花様を画く)、紅生絹襯衫、錦領、杏紅絹裙、白絹大口袴、青絲絛、白絹襪、茶褐鞋を着用した。その和声郎で楽を押す者は、皁羅闊帯巾、青羅大袖衫、紅生絹襯衫、錦領、塗金束帯、皁靴を着用した。その三舞は、

一、武舞、『平定天下之舞』という。舞士は皆、黄金束髪冠、紫絲纓、青羅生色画舞鶴花様窄袖衫、白生絹襯衫、錦領、紅羅銷金大袖罩袍、紅羅銷金裙、皁生色画花縁襈、白羅銷金汗袴、藍青羅銷金縁、紅絹擁項、紅結子、紅絹束腰、塗金束帯、青絲大絛、錦臂韝、緑雲頭皁靴を着用する。舞師は、黄金束髪冠、紫絲纓、青羅大袖衫、白絹襯衫、錦領、塗金束帯、緑雲頭皁靴を着用する。

一、文舞、『車書会同之舞』という。舞士は皆、黒光描金方山冠、青絲纓、紅羅大袖衫、紅生絹襯衫、錦領、紅羅擁項、紅結子、塗金束帯、白絹大口袴、白絹襪、茶褐鞋を着用する。舞師の冠服は舞士と同じであるが、ただ大袖衫に青羅を用い、紅羅擁項・紅結子を用いない。

一、文舞、『撫安四夷之舞』という。舞士は、東夷四人、後ろに椎髻を結い、紅銷金頭縄を繫ぎ、紅羅銷金抹額を付け、中に塗金博山を綴じ、両傍に塗金巾環を綴じ、明金耳環を付け、青羅生色画花大袖衫、紅生色領袖、紅羅銷金裙、青銷金裙縁、紅生絹襯衫、錦領、塗金束帯、烏皮靴を着用する。西戎四人、間道錦で頭を纏い、明金耳環を付け、紅紵絲細摺襖子、大紅羅生色雲肩、緑生色縁、藍青羅銷金汗袴、紅銷金縁繫腰合缽、十字泥金数珠、五色銷金羅香囊、紅絹擁項、紅結子、赤皮靴を着用する。南蠻四人、朝天髻を綰い、紅羅生色銀錠を繫ぎ、紅銷金抹額を付け、明金耳環を付け、紅織金短襖子、緑織金細摺短裙、絨錦袴、間道紵絲手巾、泥金頂牌、金珠瓔珞に小金鈴を綴じ、錦行纏、泥金獅蠻帯、緑銷金擁項、紅結子、赤皮靴を着用する。北翟四人、単于冠を戴き、貂鼠皮の簷、双垂髻、紅銷金頭縄、紅羅銷金抹額、諸色細摺襖子、藍青生色雲肩、紅結子、紅銷金汗袴、繫腰合缽、皁皮靴を着用する。その舞師は皆、白巻簷氈帽を戴き、塗金帽頂、一撒紅纓、紫羅帽襻、紅緑金繡襖子、白銷金汗袴、藍青銷金縁、塗金束帯、緑擁項、紅結子、赤皮靴を着用する。

凡そ大楽工及び文武二舞の楽工は、皆、曲脚襆頭、紅羅生色画花大袖衫、塗金束帯、紅絹擁項、紅結子、皁皮靴を着用する。四夷の楽工は、皆、蓮花帽、諸色細摺襖子、白銷金汗袴、紅銷金縁、紅緑絹束腰、紅羅擁項、紅結子、花靴を着用する。

永楽年間、殿内侑食楽を定めた。『平定天下之舞』を奏する時、引舞・楽工は、皆、青羅包巾、青・紅・緑・玉色羅銷金胸背襖子、渾金銅帯、紅羅褡愬、雲頭皁靴、青緑羅銷金包臀を着用する。舞人の服色もこれと同じである。『撫安四夷之舞』を奏する時、高麗舞四人は、皆、笠子、青羅銷金胸背襖子、銅帯、皁靴を着用する。琉球舞四人は、皆、棉布花手巾、青羅大袖襖子、銅帯、白碾光絹間道踢袴、皁皮靴を着用する。北番舞四人は、皆、狐帽、青紅紵絲銷金襖子、銅帯を着用する。伍魯速回回舞四人は、皆、青羅帽、比裏罕棉布花手巾、銅帯、皁靴を着用する。『車書会同之舞』を奏する時、舞人は皆、皁羅頭巾、青・緑・玉色皁沿辺襴、茶褐線条皁皮四縫靴を着用する。『表正万邦之舞』を奏する時、引舞二人は、青羅包巾、紅羅銷金項帕、紅生絹錦領中単、紅生絹銷金通袖襖子、青線絛銅帯、織錦臂韝、雲頭皁靴、各色銷金包臀、紅絹褡愬を着用する。舞人・楽工の服色は引舞と同じである。『天命有徳之舞』を奏する時、引舞二人は、青幪紗如意冠、紅生絹錦領中単、紅生絹大袖袍、各色絹採画直纏、黒角偏帯、藍絹彩雲頭皁靴、白布襪を着用する。舞人・楽工の服色は引舞と同じである。

洪武五年、斎郎・楽生・文武舞生の冠服を定めた:斎郎は、黒介幘(漆布で作り、花様なし)、紅絹窄袖衫(紅生絹を裏とする)、皁皮四縫靴、黒角帯を着用する。文舞生及び楽生は、黒介幘(漆布で作り、上に描金蟬を加える)、紅絹大槹袍(胸背に纏枝方葵花を画き、紅生絹を裏とし、錦臂韝二を加える)、皁皮四縫靴、黒角帯を着用する。武舞生は、武弁(漆布で作り、上に描金蟬を加える)、服飾・靴・帯は文舞生と全て同じである。嘉靖九年、文武舞生の服制を定めた:圜丘では青紵絲、方澤では黒緑紗、朝日壇では赤羅、夕月壇では玉色羅を着用する。

宮中の女楽の冠服:洪武三年に制を定む。凡そ中宮に供奉する女楽、奉鑾等の官の妻は、本色の皪髻に、青羅の円領。女楽を提調する者は、黒漆の唐巾、大紅羅銷金花の円領、鍍金花帯、皁靴。歌章の女楽は、黒漆の唐巾、大紅羅銷金の裙襖、胸帯、大紅羅の抹額、青緑羅彩画の雲肩、描金牡丹花の皁靴。奏楽の女楽は、服色は歌章と同じ。嘉靖九年、先蠶を祀り、楽女生の冠服を定む。黒縐紗描金蟬冠、黒絲纓、黒素羅銷金葵花胸背の大袖女袍、黒生絹の襯衫、錦領、塗金束帯、白襪、黒鞋。

教坊司の冠服:洪武三年に定む。教坊司の楽藝は、青字頂巾、紅緑の褡愬を帯ぶ。楽妓は、明角冠、皁褙子、民の妻と同じくするを許さず。御前供奉の俳長は、鼓吹冠、紅羅胸背の小袖袍、紅絹の褡愬、皁靴。色長は、鼓吹冠、紅青羅紵絲彩画百花の袍、紅絹の褡愬。歌工は、弁冠、紅羅織金胸背の大袖袍、紅生絹錦領の中単、黒角帯、紅熟絹錦脚の袴、皁皮の琴鞋、白棉布の夾襪。楽工の服色は歌工と同じ。凡そ教坊司の官の常服冠帯は、百官と同じ。御前に供奉するに至りては、粉漆の笏を執り、黒漆の襆頭、黒緑羅の大袖襴袍、黒角の偏帯、皁靴を服す。教坊司の伶人は、常服に緑色の巾を以てし、士庶の服と別つ。楽人は皆鼓吹冠を戴き、錦絛を用いず、惟だ紅褡愬のみ、服色は紅緑に拘わらず。教坊司の婦人は、冠を戴き、褙子を穿つを許さず。楽人の衣服は、明緑、桃紅、玉色、水紅、茶褐色に止む。俳、色長、楽工は、俱に皁頭巾、雑色の絛。

王府の楽工の冠服:洪武十五年に定む。凡そ朝賀に大楽を用い宴礼するときは、七奏楽の楽工は俱に紅絹彩画胸背方花の小袖単袍、花有りの鼓吹冠、錦の臂韝、皁靴、抹額は紅羅彩画を以てし、束腰は紅絹を以てす。其の余の楽工は、緑絹彩画胸背方花の小袖単袍、花無き鼓吹冠、抹額は紅絹彩画を以てし、束腰は紅絹を以てす。

軍士の服:洪武元年に衣を製するを令し、表裏色を異にし、これを鴛鴦戦襖と謂い、以て新軍の号とす。二十一年、旗手衛の軍士・力士は俱に紅袢襖と定め、其の余の衛所の袢襖もまた之の如し。凡そ袢襖は、長さ膝に斉しく、袖は窄く、内に棉花を実す。二十六年、騎士に対襟衣を服せしむるを令し、乗馬に便ならしむ。服すべからざるに服する者は、之を罪す。

皁隸公人の冠服:洪武三年に定め、皁隸は、円頂巾、皁衣。四年に定め、皁隸公使人は、皁盤領の衫、平頂巾、白褡愬、錫牌を帯ぶ。十四年、各衛門の祗禁に令し、原服の皁衣を改めて淡青を用いしむ。二十五年、皁隸伴當は靴を著するを許さず、皮劄鵓翁を用いるに止む。

外国君臣の冠服:洪武二年、高麗朝に入り、祭服の制度を請う。命じて製して之を与う。二十七年、蕃国の朝貢儀を定め、国王来朝するときは、朝服を賞賜するものあれば、之を服して以て朝す。三十一年、琉球国王並びに其の臣下に冠服を賜う。永楽中、琉球中山王に皮弁・玉圭、麟袍・犀帯を賜い、二品の秩を視す。宣徳三年、朝鮮国王李濩言す、「洪武中、蒙って国王に冕服九章を賜い、陪臣の冠服は朝廷に比して遞に二等を降す。故に陪臣一等は朝臣第三等に比し、五樑冠服を得たり。永楽初、先臣芳遠世子禔を遣わして入朝せしめ、蒙って五樑冠服を賜う。臣窃に惟うに、世子の冠服、何ぞ止だ陪臣一等と同じからんや、乞うらくは定制と為さんことを」と。乃ち命じて六樑冠を製して之を賜う。嘉靖六年、外国朝貢の入る者に令し、違製の衣服を擅に用いるを許さず。違うことあれば、売る者・買う者同罪とす。

僧道の服:洪武十四年に定む。禅僧は、茶褐の常服、青絛玉色の袈裟。講僧は、玉色の常服、緑絛浅紅の袈裟。教僧は、皁の常服、黒絛浅紅の袈裟。僧官もまた之の如し。惟だ僧録司の官の袈裟は、緑文及び環皆金を以て飾る。道士は、常服は青の法服、朝衣は皆赤、道官もまた之の如し。惟だ道録司の官の法服・朝服は、緑文に金を飾る。凡そ在京の道官は、紅の道衣、金襴、木簡。在外の道官は、紅の道衣、木簡、金襴を用いず。道士は、青の道服、木簡。