明史

志第四十四 輿服四

志第四十四 輿服四

原文志第四十四 輿服四

明初の宝璽は十七顆あり、その大きいものは「皇帝奉天之宝」、「皇帝之宝」、「皇帝行宝」、「皇帝信宝」、「天子之宝」、「天子行宝」、「天子信宝」、「制誥之宝」、「敕命之宝」、「廣運之宝」、「皇帝尊親之宝」、「皇帝親親之宝」、「敬天勤民之宝」という。また「御前之宝」、「表章經史之宝」及び「欽文之璽」があった。丹符は四方に出して検証する。洪武元年、宝璽を造ろうとしたところ、西域の商人が海を渡って美玉を献上し、「これは于闐の産で、祖父から伝わったもので、帝王の宝璽となるべきものです」と言った。そこで命じて宝に造らせたが、十七宝の中のどれがこの玉で造られたかはわからない。成祖はまた「皇帝親親之宝」、「皇帝奉天之宝」、「誥命之宝」、「敕命之宝」を造った。

原文明初寶璽十七:其大者曰:「皇帝奉天之寶」,曰:「皇帝之寶」,曰:「皇帝行寶」,曰:「皇帝信寶」,曰:「天子之寶」,曰:「天子行寶」,曰:「天子信寶」,曰:「制誥之寶」,曰:「敕命之寶」,曰:「廣運之寶」,曰:「皇帝尊親之寶」,曰:「皇帝親親之寶」,曰:「敬天勤民之寶。」;又有「御前之寶」、「表章經史之寶。」及「欽文之璽」。丹符出驗四方。洪武元年欲制寶璽,有賈胡浮海獻美玉,曰:「此出于闐,祖父相傳,當為帝王寶璽。」乃命制為寶,不知十七寶中,此玉製何寶也。成祖又制「皇帝親親之寶」、「皇帝奉天之寶」、「誥命之寶」、「敕命之寶」。

弘治十三年、鄠県の民毛志学が泥河のほとりで玉璽を得た。その文は「受命於天、既壽永昌」であった。色は白く微かに青みを帯び、螭の鈕であった。陝西巡撫熊翀は秦の璽が再び現れたと考え、人を遣わして献上させた。礼部尚書傅瀚は言った。「秦璽ができて以来、歴代における得失真偽の跡はことごとく史籍に記載されている。今進上されたものは、篆文が『輟耕録』等の書に模写されている魚鳥篆文と異なり、その螭鈕もまた史伝に記されている文様が五龍を盤らせ、螭が一角を欠き、傍らに魏の録を刻んだものとも似ていない。秦璽は亡びて久しく、今進上されたものは宋・元の時に得たものと同様、後世秦璽を模して刻んだものであろうと疑われる。臣が考えるに、璽の用は文書に記し、詐偽を防ぐためであり、宝物として玩ぶためではない。秦の始皇帝が藍田の玉を得て璽としたのを、漢以後伝えて用い、ここから巧みに争い力で取り、これを得てこそ天命を受けるに足ると言い、天命は徳によって受けるのであって璽によるのではないことを知らなかった。故に求めて得られなければ、偽造して人を欺き、得れば君臣喜色をなし、天下に誇示する。これらは皆、千年の笑いを残すものである。我が高皇帝は自ら一代の璽を造り、文はそれぞれ意味があり、事に随って用い、真に一代の受命の符として万世に法を垂れるに足り、何ぞこの璽に頼ることがあろうか。」帝はその言に従い、退けて用いなかった。

原文弘治十三年,鄠縣民毛志學於泥河濱得玉璽,其文曰:「受命於天,既壽永昌」。色白微青,螭紐。陝西巡撫熊翀以為秦璽復出,遣人獻之。禮部尚書傅瀚言:「自有秦璽以來,歷代得喪真偽之跡具載史籍。今所進,篆文與《輟耕錄》等書摹載魚鳥篆文不同,其螭紐又與史傳所紀文盤五龍、螭缺一角、旁刻魏錄者不類。蓋秦璽亡已久,今所進與宋、元所得,疑皆後世摹秦璽而刻之者。竊惟璽之用,以識文書,防詐偽,非以為寶玩也。自秦始皇得藍田玉以為璽,漢以後傳用之,自是巧爭力取,謂得此乃足以受命,而不知受命以德,不以璽也。故求之不得,則偽造以欺人;得之則君臣色喜,以誇示於天下。是皆貽笑千載。我高皇帝自製一代之璽,文各有義,隨事而施,真足以為一代受命之符,而垂法萬世,何藉此璽哉!。」帝從其言,卻而不用。

嘉靖十八年、新たに七宝を制す。「奉天承運大明天子宝」、「大明受命之宝」、「巡狩天下之宝」、「垂訓之宝」、「命德之宝」、「討罪安民之宝」、「敕正万民之宝」という。国初の宝璽と合わせて御宝二十四顆とし、尚宝司の官がこれを掌った。

原文嘉靖十八年,新制七寶:曰:「奉天承運大明天子寶」、「大明受命之寶」、「巡狩天下之寶」、「垂訓之寶」、「命德之寶」、討罪安民之寶」、敕正萬民之寶」。與國初寶璽共為禦寶二十四,尚寶司官掌之。

皇后の冊:金冊二片を用い、周尺に依り長さ一尺二寸、幅五寸、厚さ二分五厘とする。字あざなは数に依り行を分け、真書で鐫る。上下に孔があり、紅い絛で綴じ、開閉は書帙の如くし、紅錦の褥を敷く。冊盝は木を用い、渾金瀝粉の蟠龍で飾り、紅紵絲を裏地とし、内には紅羅銷金の小袱で冊を包み、外には紅羅銷金の夾袱で包み、五色の小絛を外に絡ませる。宝は金を用い、亀鈕、篆文は「皇后之宝」とし、周尺に依り方五寸九分、厚さ一寸七分とする。宝池は金を用い、広さは宝を容れるに足るものとする。宝篋二副、一つは宝を置き、一つは宝池を置く。每副三重とす:外篋は木を用い、渾金瀝粉の蟠龍で飾り、紅紵絲を裏地とす;中篋は金鈒の蟠龍を用いる;内小篋は外篋の如く飾り、内に宝座を置き、四角に蟠龍を彫り、渾金で飾る。座上には錦褥を用い、銷金紅羅の小夾袱で宝を包む。その篋の外は各々紅羅銷金の大夾袱で覆う。冊を授ける日に臨み、冊宝ともに紅漆塗りの輿案に置き、案の頂に紅羅の瀝水があり、担牀でこれを挙げる。

原文皇后之冊:用金冊二片,依周尺長一尺二寸,廣五寸,厚二分五釐。字依數分行,鐫以真書。上下有孔,聯以紅絛,開闔如書帙,藉以紅錦褥。冊盝用木,飾以渾金瀝粉蟠龍,紅紵絲襯裏,內以紅羅銷金小袱裹冊,外以紅羅銷金夾袱包之,五色小絛縈於外。寶用金,龜紐,篆文曰:「皇后之寶」,依周尺方五寸九分,厚一寸七分。寶池用金,闊取容。寶篋二副,一置寶,一置寶池。每副三重:外篋用木,飾以渾金瀝粉蟠龍,紅紵絲襯裏;中篋用金鈒蟠龍;內小篋飾如外篋,內置寶座,四角雕蟠龍,飾以渾金。座上用錦褥,以銷金紅羅小夾袱裹寶,其篋外各用紅羅銷金大夾袱覆之。臨冊之日,冊寶俱置於紅髹輿案,案頂有紅羅瀝水,用擔牀舉之。

皇貴妃以下は、冊はあっても宝はなく、印がある。妃の冊は、鍍金銀冊二片を用い、幅と長さは后冊と同じとする。冊盝は渾金瀝粉の蟠鳳で飾る。その印は金を用い、亀鈕、尺寸は諸王の宝と同じとし、文は「皇妃之印」とする。篋は蟠鳳で飾る。宣徳元年、帝は貴妃孫氏に容徳があるとして、特に皇太后に請い、金宝を造って賜った。間もなく皇嗣が誕生した。ここから貴妃に宝を授けることが、遂に故事となった。嘉靖十年、九嬪を立て、冊は銀を用い、皇妃の五分の一に減じ、金で飾る。

原文皇貴妃而下,有冊無寶而有印。妃冊,用鍍金銀冊二片,廣長與後冊同。冊盝飾以渾金瀝粉蟠鳳。其印用金,龜紐,尺寸與諸王寶同,文曰:「皇妃之印」。篋飾以蟠鳳。宣德元年,帝以貴妃孫氏有容德,特請於皇太后,制金寶賜之,未幾即誕皇嗣。自是貴妃授寶,遂為故事。嘉靖十年,立九嬪,冊用銀,殺皇妃五分之一,以金飾之。

皇太子冊宝:冊は金を用い、二片、その制及び盝篋の飾りは皇后の冊と同じ。宝は金を用い、亀鈕、篆書で「皇太子宝」とする。その制及び池篋の飾りは后宝と同じ。

原文皇太子冊寶:冊用金,二片,其制及盝篋之飾與皇后冊同。寶用金,龜紐,篆書「皇太子寶」。其制及池篋之飾與後寶同。

皇太子妃冊宝:その冊は金を用い、両葉、重さ百両、每葉の高さ一尺二寸、幅五寸。錦で冊を敷き、紅絲絛で冊を綴じ、錦褥で冊を支え、紅羅銷金の袱で冊を包む。その盝は渾金瀝粉の雲鳳で飾り、内には花銀の釘鉸があり、金絲の鉄筦龠を嵌める;外は紅羅銷金の袱で覆う。その金宝の制は詳らかでない。洪武二十八年に更めて定め、金冊を授けるのみで、宝を用いない。

原文皇太子妃冊寶:其冊用金,兩葉,重百兩,每葉高一尺二寸,廣五寸。藉冊以錦,聯冊以紅絲絛,墊冊以錦褥,裹冊以紅羅銷金袱。其盝飾以渾金瀝粉雲鳳,內有花銀釘鉸,嵌金絲鐵筦龠;外以紅羅銷金袱覆之。其金寶之制未詳。洪武二十八年更定,止授金冊,不用寶。

親王冊宝:冊の制は皇太子と同じ。その宝は金を用い、亀鈕、周尺に依り方五寸二分、厚さ一寸五分、文は「某王之宝」とする。池篋の飾りは、皇太子宝と同じ。宝盝の飾りは、則ち蟠螭を彫る。

原文親王冊寶:冊制與皇太子同。其寶用金,龜紐,依周尺方五寸二分,厚一寸五分,文曰:「某王之寶」。池篋之飾,與皇太子寶同。寶盝之飾,則雕蟠螭。

親王妃冊印:その金冊は、高さは太子妃冊より一寸減じ、その他の制は悉く同じ、冊文は親王に準ずる。その金印の制は詳らかでない。洪武二十八年に更めて定め、金冊を授けるのみとする。

原文親王妃冊印:其金冊,高視太子妃冊減一寸,餘制悉同,冊文視親王。其金印之制未詳。洪武二十八年更定,止授金冊。

公主冊印:銀冊二片、字を鐫り鍍金し、紅錦褥を敷く。冊盝は渾金瀝粉の蟠螭で飾る。その印は宋の制と同じく、金を用い、亀鈕、文は「某国公主之印」とする。方五寸二分、厚さ一寸五分。印池は金を用い、広さは印を容れるに足るものとする。印外篋は木を用い、渾金瀝粉の盤鳳で飾り、中篋は金鈒の蟠鳳を用い、内小篋は、外篋の如く飾る。

原文公主冊印:銀冊二片,鐫字鍍金,藉以紅錦褥。冊盝飾以渾金瀝粉蟠螭。其印同宋制,用金,龜紐,文曰:「某國公主之印」。方五寸二分,厚一寸五分。印池用金,廣取容。印外篋用木,飾以渾金瀝粉盤鳳,中篋用金鈒蟠鳳,內小篋,飾如外篋。

親王世子金冊金宝:承襲の際には金冊を授けるのみで、伝えて用いるには金宝を用いる。

原文親王世子金冊金寶:承襲止授金冊,傳用金寶。

世子妃もまた金冊を用いる。洪武二十三年、世子妃の印を鋳造し、制は王妃に準じ、金印、亀鈕、篆文は「某世子妃印」とする。

原文世子妃亦用金冊。洪武二十三年鑄世子妃印,制視王妃,金印,龜紐,篆文曰:「某世子妃印」。

郡王は、鍍金銀冊、鍍金銀印、冊文は世子に準ずる。その妃は鍍金銀冊のみ有る。

原文郡王,鍍金銀冊、鍍金銀印,冊文視世子。其妃止有鍍金銀冊。

功臣鉄券:洪武二年、太祖は功臣を封ぜんと欲し、鉄券を作ることを議したが、未だ定制がなかった。或る者が言うには、台州の民・銭允一が家に呉越王銭鏐に唐が賜った鉄券を蔵していると、そこで使者を遣わしてこれを取り寄せ、その様式に因って増減した。その制は瓦の如く、七等に分かつ。公は二等:一つは高一尺、広一尺六寸五分;一つは高九寸五分、広一尺六寸。侯は三等:一つは高九寸、広一尺五寸五分;一つは高八寸五分、広一尺五寸;一つは高八寸、広一尺四寸五分。伯は二等:一つは高七寸五分、広一尺三寸五分;一つは高六寸五分、広一尺二寸五分。外面には履歴と恩典の詳細を刻み、その功を記し;内面には罪を免じ、禄を減ずる条項を刻み、その過ちを防ぐ。文字は金を嵌める。凡そ九十七副、各々左右に分け、左は功臣に頒ち、右は内府に蔵し、事ある時はこれを合わせて、信を取る。三年、大いに功臣を封じ、公六人、侯二十八人、並びに鉄券を賜う。公:李善長、徐達、李文忠、馮勝、鄧愈、常茂。侯:湯和、唐勝宗、陸仲亨、周徳興、華雲龍、顧時、耿炳文、陳徳、郭子興、王志、鄭遇春、費聚、呉良、呉楨、趙庸、廖永忠、俞通源、華高、楊璟、康鐸、朱亮祖、傅友徳、胡美、韓政、黄彬、曹良臣、梅思祖、陸聚。二十五年、鉄券の制を改め、公傅友徳、侯王弼、耿炳文、郭英及び故公徐達、李文忠、侯呉傑、沐英、凡そ八家に賜う。永楽初め、靖難の功臣にも賜う者あり。

原文功臣鐵券:洪武二年,太祖欲封功臣,議為鐵券,而未有定制。或言台州民錢允一有家藏吳越王鏐唐賜鐵券,遂遣使取之,因其式而損益焉。其制如瓦,第為七等。公二等:一高尺,廣一尺六寸五分;一高九寸五分,廣一尺六寸。侯三等:一高九寸,廣一尺五寸五分;一高八寸五分,廣一尺五寸;一高八寸,廣一尺四寸五分。伯二等:一高七寸五分,廣一尺三寸五分;一高六寸五分,廣一尺二寸五分。外刻履歷、恩數之詳,以記其功;中鐫免罪、減祿之數,以防其過。字嵌以金。凡九十七副,各分左右,左頒功臣,右藏內府,有故則合之,以取信焉。三年,大封功臣,公六人,侯二十八人,並賜鐵券。公:李善長、徐達、李文忠、馮勝、鄧愈、常茂。侯:湯和、唐勝宗、陸仲亨、周德興、華雲龍、顧時、耿炳文、陳德、郭子興、王志、鄭遇春、費聚、吳良、吳楨、趙庸、廖永忠、俞通源、華高、楊璟、康鐸、硃亮祖、傅友德、胡美、韓政、黃彬、曹良臣、梅思祖、陸聚。二十五年,改制鐵券,賜公傅友德,侯王弼、耿炳文、郭英及故公徐達、李文忠,侯吳傑、沐英,凡八家。永樂初,靖難功臣亦有賜者。

百官印信:洪武初め、鋳印局は中外諸司の印信を鋳造す。正一品は銀印、三台、方三寸四分、厚さ一寸。六部・都察院並びに在外の各都司は、皆正二品、銀印二台、方三寸二分、厚さ八分。その他の正二品・従二品官は、銀印二台、方三寸一分、厚さ七分。ただ衍聖公のみは正二品ながら、三台銀印、これは景泰三年に賜う。順天・応天二府は皆正三品、銀印、方二寸九分、厚さ六分五厘。その他の正三品・従三品官は、皆銅印、方二寸七分、厚さ六分。ただ太僕寺・光禄寺並びに在外の塩運司は、皆従三品、銅印、方は一分減じ、厚さは五厘減ず。正四品・従四品は、皆銅印、方二寸五分、厚さ五分。正五品・従五品は、皆銅印、方二寸四分、厚さ四分五厘。ただ在外の各州は従五品、銅印、方は一分減じ、厚さは五厘減ず。正六品・従六品は、皆銅印、方二寸二分、厚さ三分五厘。正七品・従七品は、銅印、方二寸一分、厚さ三分。正・従八品は、皆銅印、方二寸、厚さ二分五厘。正・従九品は、皆銅印、方一寸九分、厚さ二分二厘。未入流の者は、銅条記、幅一寸三分、長さ二寸五分、厚さ二分一厘。以上は皆直鈕、九畳篆文。初め、雑職も方印であったが、洪武十三年に至り始めて条記に改む。凡そ百官の印、ただ文淵閣の銀印のみは、直鈕、方一寸七分、厚さ六分、玉箸篆文、誠にこれを重んずるなり。武臣で重い任を担う者、征西・鎮朔・平蛮などの諸将軍は、銀印、虎鈕、方三寸三分、厚さ九分、柳葉篆文。洪武中、嘗て上公に将軍印を佩かせしことあり、後に公・侯・伯及び都督を以て総兵官に充て、名付けて「掛印将軍」と曰う。事有りて征伐すれば、則ち総兵に命じて印を佩びて往かしめ、師を還せば則ち朝にその佩びし印を上す。この外、ただ漕運総兵の印のみ将軍と同じし。その在外の鎮守総兵・参将が印を掛くるは、則ち洪熙元年に始まる。文臣で将軍印を掛くる者有り、王驥は兵部尚書として湖広・貴州の苗を征し、平蛮将軍印を掛け;王越は左都御史として大同を守り、征西将軍印を掛く。他の文武大臣、勅を領して権重き者は、或いは銅関防を与えられ、直鈕、幅一寸九分五厘、長さ二寸九分、厚さ三分、九畳篆文、宰相と雖も辺境を行くも、部曹と異ならず。ただ正徳の時、張永が安化王を征し、金を以て鋳造し、嘉靖中、顧鼎臣が居守し、牙を鏤める関防を用い、皆特賜なり。初め、太祖は御史の職を重んじ、河南等十三道に分ち、毎道二印を鋳し、文は「繩愆糾繆」と曰い、守院御史はその一つを掌り、その一つは内府に蔵し、事有れば則ちこれを受けて出で、復命すれば則ちこれを納む。洪武二十三年、都御史袁泰が各道の印篆が類似すと言上す。乃ち某道監察御史と改制することを命じ、その差遣を受くる者は、則ち「巡按某処監察御史」と曰い、銅印直鈕、眼有り、方一寸五分、厚さ三分、八畳篆文。成祖初め北京に幸す時、一つの官署が二・三の印を掌る者あり、夏原吉に至っては九卿の印を兼掌し、諸曹は並びに朝房において裁決を取り、その任重し。

原文百官印信:洪武初,鑄印局鑄中外諸司印信。正一品,銀印,三臺,方三寸四分,厚一寸。六部、都察院並在外各都司,俱正二品,銀印二臺,方三寸二分,厚八分。其餘正二品、從二品官,銀印二臺,方三寸一分,厚七分。惟衍聖公以正二品,三臺銀印,則景泰三年賜也。順天、應天二府俱正三品,銀印,方二寸九分,厚六分五釐。其餘正三品、從三品官,俱銅印,方二寸七分,厚六分。惟太僕、光祿寺並在外鹽運司,俱從三品,銅印,方減一分,厚減五釐。正四品、從四品,俱銅印,方二寸五分,厚五分。正五品、從五品,俱銅印,方二寸四分,厚四分五釐。惟在外各州從五品,銅印,方減一分,厚減五釐。正六品、從六品,俱銅印,方二寸二分,厚三分五釐。正七品、從七品,銅印,方二寸一分,厚三分。正從八品,俱銅印,方二寸,厚二分五釐。正從九品,俱銅印,方一寸九分,厚二分二釐。未入流者,銅條記,闊一寸三分,長二寸五分,厚二分一釐。以上俱直紐,九疊篆文。初,雜職亦方印,至洪武十三年始改條記。凡百官之印,惟文淵閣銀印,直紐,方一寸七分,厚六分,玉箸篆文,誠重之也。武臣受重寄者,徵西、鎮朔、平蠻諸將軍,銀印,虎紐,方三寸三分,厚九分,柳葉篆文。洪武中,嘗用上公佩將軍印,後以公、侯、伯及都督充總兵官,名曰:「掛印將軍」。有事征伐,則命總兵佩印以往,旋師則上所佩印於朝。此外,惟漕運總兵印同將軍。其在外鎮守總兵、參將掛印,則洪熙元年始也。有文臣掛將軍印者,王驥以兵部尚書徵湖、貴苗,掛平蠻將軍印;王越以左都御史守大同,掛徵西將軍印。其他文武大臣,有領敕而權重者,或給以銅關防,直紐,廣一寸九分五釐,長二寸九分,厚三分,九疊篆文,雖宰相行邊,與部曹無異。惟正德時,張永徵安化王,用金鑄,嘉靖中,顧鼎臣居守,用牙鏤關防,皆特賜也。初,太祖重御史之職,分河南等十三道,每道鑄二印,文曰:「繩愆糾繆」,守院御史掌其一,其一藏內府,有事則受以出,復命則納之。洪武二十三年,都御史袁泰言各道印篆相類。乃命改制某道監察御史,其奉差者,則曰:「巡按某處監察御史」,銅印直紐,有眼,方一寸五分,厚三分,八疊篆文。成祖初幸北京,有一官署二三印者,夏原吉至兼掌九卿印,諸曹並於朝房取裁,其任重矣。

明初、高麗に金印を賜い、亀鈕、方三寸、文は「高麗国王之印」と曰い、安南に鍍金銀印を賜い、駝鈕、方三寸、文は「安南国王之印」と曰い、占城に鍍金銀印を賜い、駝鈕、方三寸、文は「占城国王之印」と曰い、吐蕃に金印を賜い、駝鈕、方五寸、文は「白蘭王印」と曰う。

原文明初,賜高麗金印,龜紐,方三寸,文曰:「高麗國王之印」,賜安南鍍金銀印,駝紐,方三寸,文曰:「安南國王之印」。賜占城鍍金銀印,駝紐,方三寸,文曰:「占城國王之印」。賜吐蕃金印,駝紐,方五寸,文曰:「白蘭王印」。

符牌:凡そ親王を宣召するには、必ず官を遣わし金符を齎して往かしむ。親王の藩国赴任及び鎮守・巡撫諸官の符験奏請は、全て兵部の奏に従い、尚宝司に行ってこれを領す。洪武二十六年に定制す:凡そ公差は、軍情重務及び旨を奉じて差遣し駅伝を給するものは、兵部が勘合を給した後、即ち内府に赴き、符験を関領し、駅伝を給して去り、事竣れば則ちこれを繳す。嘉靖三十七年に定制す:南京・鳳陽の守備内外官、並びに各処の鎮守総兵・巡撫、及び各一方を守り鎮守の節制を受けざる内外守備は、並びに符験を領して奏事す。凡そ監槍・整飭兵備、並びに一城一堡の守備官は、符験を関領するを許さず。その制は、上に船馬の状を織り、馬を起す者は馬字号を用い、船を起す者は水字号を用い、双馬を起す者は達字号を用い、単馬を起す者は通字号を用い、站船を起す者は信字号を用う。洪武四年、始めて用宝金牌を制す。凡そ軍機文書は、都督府・中書省の長官の外は、擅に奏するを許さず。詔有りて軍を調うるは、中書省都督府と共に覆奏し、乃ち各蔵する所の金牌を出し、入りて用宝を請う。又軍中調発符牌を造り、鉄を用い、長さ五寸、幅其の半、上に二飛龍を鈒し、下に二麒麟を鈒し、首を圜竅と為し、紅絲縧を以て貫く。嘗て官を遣わし金牌・信符を齎して西番に詣り、茶を以て馬を易えしむ。其の牌四十一、上号は内府に蔵し、下号は各番に降し、篆文に曰く「皇帝聖旨」、左に曰く「合当差発」、右に曰く「不信者斬」。二十二年又西番金牌・信符を頒つ。其の後番官塞に款くは、皆原降の牌符を齎して至る。永楽二年、信符・金字紅牌を制し雲南諸蛮に給す。凡そ歴代元を改むるは、則ち頒ちし外国の信符・金牌は、必ず新年号を更に鑄して之を給す。此れ符信の四裔に達する者なり。

原文符牌:凡宣召親王,必遣官齎金符以往。親王之籓及鎮守、巡撫諸官奏請符驗,俱從兵部奏,行尚寶司領之。洪武二十六年定制:凡公差,以軍情重務及奉旨差遣給驛者,兵部既給勘合,即赴內府,關領符驗,給驛而去,事竣則繳。嘉靖三十七年定制:南京、鳳陽守備內外官,並各處鎮守總兵、巡撫,及各守一方不受鎮守節制內外守備,並領符驗奏事。凡監槍、整飭兵備,並一城一堡守備官,不許關領符驗。其制,上織船馬之狀,起馬者用馬字型大小,起船者水字型大小,起雙馬者達字型大小,起單馬者通字型大小,起站船者信字型大小。洪武四年,始制用寶金牌。凡軍機文書,自都督府、中書省長官而外,不許擅奏。有詔調軍,中書省同都督府覆奏,乃各出所藏金牌,入請用寶。又造軍中調發符牌,用鐵,長五寸,闊半之,上鈒二飛龍,下鈒二麒麟,首為圜竅,貫以紅絲絛。嘗遣官齎金牌、信符詣西番,以茶易馬。其牌四十一,上號藏內府,下號降各番,篆文曰:「皇帝聖旨」,左曰:「合當差發」,右曰:「不信者斬」。二十二年又頒西番金牌、信符。其後番官款塞,皆齎原降牌符而至。永樂二年制信符、金字紅牌給雲南諸蠻。凡歷代改元,則所頒外國信符、金牌,必更鑄新年號給之。此符信之達於四裔者也。

其の武臣の懸帯する金牌は、則ち洪武四年の造る所なり。幅二寸、長さ一尺、上に双龍を鈒し、下に二伏虎を鈒し、牌の首尾を円竅と為し、紅絲縧を以て貫く。指揮は金牌を佩し、双雲龍、双虎符。千戸は鍍金銀牌を佩し、独雲龍、独虎符。百戸は素雲銀牌符。太祖親しく文を為し之を鈒して曰く「上天民を祐し、朕乃ち率ひ撫す。威華夏に加はり、実に虎臣に憑る。爾に金符を賜ひ、永く後嗣に伝へん」。天子郊廟を祀り、若しくは学を視、田を耤するに、勲衛扈従及び公侯・駙馬・五府都督の日直、錦衣衛の当直、及び都督諸衛千百戸を率ひて夜に内皇城を巡る、金吾諸衛各官を輪して朝に随ひ巡綽するに、俱に金牌を給し、龍有る者・虎有る者・麒麟有る者・獅子有る者・雲有る者、官を以て差と為す。

原文其武臣懸帶金牌,則洪武四年所造。闊二寸,長一尺,上鈒雙龍,下鈒二伏虎,牌首尾為圓竅,貫以紅絲絛。指揮佩金牌,雙雲龍,雙虎符。千戶佩鍍金銀牌,獨雲龍,獨虎符。百戶素雲銀牌符。太祖親為文鈒之曰:「上天祐民,朕乃率撫。威加華夏,實憑虎臣。賜爾金符,永傳後嗣。」天子祀郊廟,若視學、耤田,勳衛扈從及公侯、駙馬、五府都督日直、錦衣衛當直,及都督率諸衛千百戶夜巡內皇城,金吾諸衛各輪官隨朝巡綽,俱給金牌,有龍者、虎者、麒麟者、獅者、雲者,以官為差。

其の扈駕金字銀牌は、則ち洪武六年の造る所なり。尋いで守衛金牌と改め、銅を以て之を為し、金を以て塗り、高さ一尺、幅三寸、字号に分ちて凡そ五。仁字号は、上に独龍蟠雲花を鈒し、公・侯・伯・都督之を佩す。義字号は、伏虎盤雲花を鈒し、指揮之を佩す。礼字号は、獬豸蟠雲花を鈒し、千戸・衛鎮撫之を佩す。智字号は、獅子蟠雲花を鈒し、百戸・所鎮撫之を佩す。信字号は、蟠雲花を鈒し、將軍之を佩す。牌の下に「守衛」の二篆字を鑄し、背に「凡そ守衛官軍此の牌を懸帯す」等二十四字を鑄す。牌首竅に青絲を貫く。鎮撫及び將軍駕に随ひ直宿衛する者は之を佩し、下直すれば則ち之を納む。凡そ夜巡官は、尚宝司に於て権杖を領し、禁城各門・金吾等衛指揮・千戸は、分ちて申字号牌を領し、午門は一より四に至り、長安左右門・東華門は五より八に至り、西華門は九より十二に至り、玄武門は十三より十六に至る。五城兵馬指揮も亦日々権杖を領し、東西南北中城は、分ちて木・金・火・水・土の五字号を領す。留守五衛・巡城官並びに金吾等衛守衛官は、俱に銅符を領す。留守衛指揮の領する承字及び東西北字号牌は、俱に左半字陽文、左比。金吾等衛、端門・承天門・東西北安門指揮千戸の領する承字及び東西北字号は、俱に右半字陰文、右比。銅符字号比対相同じて、方ち巡行を許す。内官・内使の出づるも、亦須らく守門官銅符を比対して而して後に行く。皇城九門守衛軍と圍子手は、各勇字号銅牌を領す。錦衣校尉上直及び光禄寺吏典厨役は、大祀に遇ふは、俱に双魚銅牌を佩す。永楽六年、駕幸北京するに、扈従官俱に牙牌を帯す。五府・六部・都察院・大理寺・錦衣衛各印信を鑄し、通政司・鴻臚寺各関防を鑄し、之を行在衛門印信関防と謂ふ。其の後内府印綬監に命じて収貯せしむ。嘉靖十八年南巡するに、礼部領出し、以て扈従する者に給す。凡そ郊廟諸祭陪祀供事官及び執事者は、壇に入るに俱に牙牌を領す、洪武八年始めてなり。円花牌は、陪祀官之を領す。長花牌は、供事官之を領す。長素牌は、執事人之を領す。又之を祀牌と謂ふ。凡そ駕陵寢に詣るに、扈従官俱に尚宝司に於て小牙牌を領す。嘉靖九年、皇后親蠶礼を行ふに、文官四品以上・武官三品以上の命婦及び使人は、俱に尚宝司に於て牙牌を領し、雲花圜牌・鳥形長牌の異有り。凡そ文武朝参官・錦衣衛当駕官も亦牙牌を領し、以て奸偽を防ぐ、洪武十一年始めてなり。其の制は、象牙を以て之を為し、上に官職を刻す。佩さざれば則ち門者之を卻け、私に相借する者は律の如く論ず。牙牌字号は、公・侯・伯は勲字を以てし、駙馬都尉は親字を以てし、文官は文字を以てし、武官は武字を以てし、教坊官は楽字を以てし、内に入る官は官字を以てす。正徳十六年、礼科邢寰言す「牙牌は惟だ常朝職官の得て懸くるのみ。比来権奸柄を侵し、旨を伝へて官を升むる者輒ち牙牌を佩す。宜しく清核して以て名器を重んずべし」。乃ち文職朝参せざる者は、牙牌を濫りに給する毋からしむ。武官進禦侍班・佩刀・執金炉する者は之に給与す。嘉靖二十八年、内府供事匠作・武職官皆朝参牙牌を帯し、嘗て旨を奉じて革奪す。旋って復た之を給す。給事中陳邦修以て言ふ。礼部覆奏す「《会典》の載する所、文武官禁門に出入りし牙牌を帯するに、執事・供事・朝参の別有り。執事・供事者は、皆期に届きて領し、期に随ひて繳す。惟だ朝参牙牌は、朝夕之を懸くるを得、徒に関防の具たるのみに非ず、亦以て等威の辨を示すなり。虚銜帯俸・供事・執事者は、概ね領すべからず。第に禁闥に出入りするに、若し一切革奪せば、何に由りて譏察せん。尚宝司の貯する旧牌数百、上に『入内府』字号有り、請ふらくは以て之を給せん。衛所武官に至りては、掌印・僉書侍衛の外は、朝参供役に属せざる者は、尽く之を革奪せん。其の納粟・填注牙牌を冒賜し及び罷退閑住官旧に関領し繳さざる者は、俱に逮問せん」。報いて可とす。

原文其扈駕金字銀牌,則洪武六年所造。尋改為守衛金牌,以銅為之,塗以金,高一尺,闊三寸,分字型大小凡五。仁字型大小,上鈒獨龍蟠雲花,公、侯、伯、都督佩之。義字型大小,鈒伏虎盤雲花,指揮佩之。禮字型大小,獬貂豸蟠雲花,千戶、衛鎮撫佩之。智字型大小,鈒獅子蟠雲花,百戶、所鎮撫佩之。信字型大小,鈒蟠雲花,將軍佩之。牌下鑄「守衛。」二篆字,背鑄「凡守衛官軍懸帶此牌。」等二十四字,牌首竅貫青絲。鎮撫及將軍隨駕直宿衛者佩之,下直則納之。凡夜巡官,於尚寶司領權杖,禁城各門、金吾等衛指揮、千戶,分領申字型大小牌,午門自一至四,長安左右門、東華門自五至八,西華門自九至十二,玄武門自十三至十六。五城兵馬指揮亦日領權杖,東西南北中城,分領木、金、火、水、土五字型大小。留守五衛、巡城官並金吾等衛守衛官,俱領銅符。留守衛指揮所領承字及東西北字型大小牌,俱左半字陽文,左比。金吾等衛,端門、承天門、東西北安門指揮千戶所領承字及東西北字型大小,俱右半字陰文,右比。銅符字型大小比對相同,方許巡行。內官、內使之出,亦須守門官比對銅符而後行。皇城九門守衛軍與圍子手,各領勇字型大小銅牌。錦衣校尉上直及光祿寺吏典廚役,遇大祀,俱佩雙魚銅牌。永樂六年駕幸北京,扈從官俱帶牙牌;五府、六部、都察院、大理寺、錦衣衛各鑄印信,通政司、鴻臚寺各鑄關防,謂之行在衛門印信關防。其後命內府印綬監收貯。嘉靖十八年南巡,禮部領出,以給扈從者焉。凡郊廟諸祭陪祀供事官及執事者,入壇俱領牙牌,洪武八年始也。圓花牌,陪祀官領之。長花牌,供事官領之。長素牌,執事人領之。又謂之祀牌。凡駕詣陵寢,扈從官俱於尚寶司領小牙牌。嘉靖九年,皇后行親蠶禮,文官四品以上、武官三品以上命婦及使人,俱於尚寶司領牙牌,有雲花圜牌、鳥形長牌之異。凡文武朝參官、錦衣衛當駕官,亦領牙牌,以防奸偽,洪武十一年始也。其制,以象牙為之,刻官職於上。不佩則門者卻之,私相借者論如律。牙牌字型大小,公、侯、伯以勳字,駙馬都尉以親字,文官以文字,武官以武字,教坊官以樂字,入內官以官字。正德十六年,禮科邢寰言:「牙牌惟常朝職官得懸。比來權奸侵柄,傳旨升官者輒佩牙牌,宜清核以重名器。」乃命文職不朝參者,毋得濫給牙牌;武官進禦侍班、佩刀、執金爐者給與。嘉靖二十八年,內府供事匠作、武職官皆帶朝參牙牌,嘗奉旨革奪,旋復給之。給事中陳邦修以為言,禮部覆奏:「《會典》所載,文武官出入禁門帶牙牌,有執事、供事、朝參之別。執事、供事者,皆屆期而領,如期而繳。惟朝參牙牌,得朝夕懸之,非徒為關防之具,亦以示等威之辨也。虛銜帶俸、供事、執事者,不宜概領。第出入禁闥,若一切革奪,何由譏察?尚寶司所貯舊牌數百,上有『入內府』字型大小,請以給之。至於衛所武官,掌印、僉書侍衛之外,非屬朝參供役者,盡革奪之。其納粟、填注冒賜牙牌及罷退閑住官舊所關領不繳者,俱逮問。」報可。

洪武十五年、使節の制を定め、黄色の三簷の宝蓋、長さ二尺、黄紗の袋でこれを覆う。また丹漆の架を一つ作り、節をその上に置く。使者が命を受ければ、これに載せて行き、使いが帰れば、これを持って復命する。二十三年、詔して使節の制を考定せしめ、礼部が奏上して言う、「漢の光武の時、竹をもって節とし、柄の長さ八尺、その毛は三重なり。また黄公紹の『韻会』の注に、漢の節は柄の長さ三尺、毛は三重、旄牛をもってこれを作るとある」と。詔して三尺の制に従う。

原文洪武十五年,制使節,黃色三簷寶蓋,長二尺,黃紗袋籠之。又制丹漆架一,以節置其上。使者受命,則載以行;使歸,則持之以復命。二十三年,詔考定使節之制,禮部奏:「漢光武時,以竹為節,柄長八尺,其毛三重。而黃公紹《韻會》註:漢節柄長三尺,毛三重,以旄牛為之。」詔從三尺之制。

宮室の制:呉元年に新内を作る。正殿を奉天殿といい、後ろを華蓋殿といい、また後ろを謹身殿といい、皆廊廡を翼とす。奉天殿の前を奉天門といい、殿の左を文楼といい、右を武楼という。謹身殿の後ろは宮とし、前を乾清といい、後ろを坤寧といい、六宮は順次に列す。宮殿の外、周りを皇城とし、城の門、南を午門といい、東を東華といい、西を西華といい、北を玄武という。時に瑞州の文石を地に敷くべしと言う者あり。太祖曰く、「儉朴を重んじるも、なお奢華に慣れるを恐るるに、爾は乃ち予を奢麗に導かんとするか」と。言う者慚じて退く。洪武八年、大内宮殿を改築し、十年に成る。闕門を午門といい、両観を翼とす。中に三門、東西に左・右掖門あり。午門内を奉天門といい、門内に奉天殿あり、嘗て朝賀を受けるに御する所なり。門の左右に東・西角門あり、奉天殿の左・右門、左を中左といい、右を中右といい、両廡の間に、左を文楼といい、右を武楼という。奉天殿の後ろを華蓋殿といい、華蓋殿の後ろを謹身殿といい、殿の後ろは則ち乾清宮の正門なり。奉天門外の両廡の間に門あり、左を左順といい、右を右順という。左順門外に殿あり文華といい、東宮の事を視る所なり。右順門外に殿あり武英といい、皇帝の斎戒の時に居る所なり。制度は旧の如く、規模益々宏大なり。二十五年に大内の金水橋を改築し、また端門・承天門楼を各五間建て、及び長安東・西二門を建つ。永楽十五年、北京に西宮を作る。中を奉天殿とし、側に左右二殿あり、南を奉天門とし、左右に東・西角門あり。その南を午門といい、また南を承天門という。殿の北に後殿・涼殿・暖殿及び仁寿・景福・仁和・万春・永寿・長春等の宮あり、凡そ屋千六百三十余楹なり。十八年、北京を建て、凡そ宮殿・門闕の規制、悉く南京の如く、壮麗はこれを過ぐ。中朝を奉天殿といい、通じて屋八千三百五十楹なり。殿の左を中左門といい、右を中右門という。丹墀の東を文楼といい、西を武楼といい、南を奉天門といい、常朝の御する所なり。左を東角門といい、右を西角門といい、東廡を左順門といい、西廡を右順門といい、正南を午門という。中に三門、両観を翼とし、観各々楼あり、左を左掖門といい、右を右掖門という。午門の左稍南に、闕左門・神厨門といい、内は太廟なり。右稍南に、闕右門・社左門といい、内は太社稷なり。また正南を端門といい、東を廟街門といい、即ち太廟の右門なり。西を社街門といい、即ち太社稷壇の南左門なり。また正南を承天門といい、また折れて東を長安左門といい、折れて西を長安右門という。東の後ろを東安門といい、西の後ろを西安門といい、北の後ろを北安門という。正南を大明門といい、中を馳道とし、東西の長廊各千歩なり。奉天殿の後ろを華蓋殿といい、また後ろを謹身殿という。謹身殿の左を後左門といい、右を後右門という。正北を乾清門といい、内は乾清宮、是を正寝という。後ろを交泰殿という。また後ろを坤寧宮といい、中宮の居る所なり。東を仁寿宮といい、西を清寧宮といい、以て太后を奉ず。左順門の東を文華殿という。右順門の西を武英殿という。文華殿の東南を東華門といい、武英殿の西南を西華門という。坤寧宮の後ろを坤寧門といい、門の後ろを玄武門という。他の宮殿、名号多く、尽く列挙すべからず、所謂千門万戸なり。皇城内宮城外、凡そ十有二門あり:東上門・東上北門・東上南門・東中門・西上門・西上北門・西上南門・西中門・北上門・北上東門・北上西門・北中門という。また皇城の東南に皇太孫宮を建て、東安門外の東南に十王街を建つ。宣宗は文雅に留意し、広寒・清暑の二殿及び東・西瓊島を建て、遊観の至る所、悉く経籍を置く。正統六年に三殿を重建す。嘉靖の中、清寧宮の後の地に慈慶宮を建て、仁寿宮の故基に慈寧宮を建つ。三十六年、三殿門楼災あり、帝は殿名を奉天とし、題扁の用うる所に宜しからずとし、礼部に議せしむ。部臣会議して言う、「皇祖肇造の初め、名を奉天とせるは、昭かに掲げて以て虔しさを示すのみ。既に名とす、則ち是れ昊天の監臨、儼然として上に在り、臨御の際、坐して以て朝を視るは、未だ安からざるが如し。今や乃ち修復の始め、宜しく更定し、以て天の休に答うべし」と。明年、奉天門を重建し、更めて名を大朝門とす。四十一年、奉天殿の名を更めて皇極とし、華蓋殿を中極とし、謹身殿を建極とし、文楼を文昭閣とし、武楼を武成閣とし、左順門を会極とし、右順門を帰極とし、大朝門を皇極とし、東角門を弘政とし、西角門を宣治とす。また乾清宮の右の小閣の名を改めて道心といい、傍らの左門を仁蕩といい、右門を義平という。世宗の初め、西苑の隙地を墾きて田とし、殿を建てて無逸といい、亭を建てて豳風といい、また亭を建てて省耕・省斂といい、毎歳耕獲の時、帝輒ち臨観す。十三年、西苑の河東の亭榭成り、親しく名を定めて天鵝房といい、北を飛靄亭といい、迎翠殿の前を浮香亭といい、宝月亭の前を秋輝亭といい、昭和殿の前を澄淵亭といい、後ろをAZ臺坡といい、臨漪亭の前を水雲榭といい、西苑門外の二亭を左臨海亭・右臨海亭といい、北閘口を湧玉亭といい、河の東を聚景亭といい、呂梁洪の亭を改めて呂梁といい、前を檥金亭といい、翠玉館の前を擷秀亭という。

原文宮室之制:吳元年作新內。正殿曰奉天殿,後曰華蓋殿,又後曰謹身殿,皆翼以廊廡。奉天殿之前曰奉天門,殿左曰文樓,右曰武樓。謹身殿之後為宮,前曰乾清,後曰坤甯,六宮以次列。宮殿之外,周以皇城,城之門,南曰午門,東曰東華,西曰西華,北曰玄武。時有言瑞州文石可甃地者。太祖曰:「敦崇儉樸,猶恐習於奢華,爾乃導予奢麗乎?」言者慚而退。洪武八年,改建大內宮殿,十年告成。闕門曰午門,翼以兩觀。中三門,東西為左、右掖門。午門內曰奉天門,門內奉天殿,嘗禦以受朝賀者也。門左右為東、西角門,奉天殿左、右門,左曰中左,右曰中右,兩廡之間,左曰文樓,右曰武樓。奉天殿之後曰華蓋殿,華蓋殿之後曰謹身殿,殿後則乾清宮之正門也。奉天門外兩廡間有門,左曰左順,右曰右順。左順門外有殿曰文華,為東宮視事之所。右順門外有殿曰武英,為皇帝齋戒時所居。制度如舊,規模益巨集。二十五年改建大內金水橋,又建端門、承天門樓各五間,及長安東、西二門。永樂十五年,作西宮於北京。中為奉天殿,側為左右二殿,南為奉天門,左右為東、西角門。其南為午門,又南為承天門。殿北有後殿、涼殿、暖殿及仁壽、景福、仁和、萬春、永壽、長春等宮,凡為屋千六百三十餘楹。十八年,建北京,凡宮殿、門闕規制,悉如南京,壯麗過之。中朝曰奉天殿,通為屋八千三百五十楹。殿左曰中左門,右曰中右門。丹墀東曰文樓,西曰武樓,南曰奉天門,常朝所禦也。左曰東角門,右曰西角門,東廡曰左順門,西廡曰右順門,正南曰午門。中三門,翼以兩觀,觀各有樓,左曰左掖門,右曰右掖門。午門左稍南,曰闕左門,曰神廚門,內為太廟。右稍南,曰闕右門,曰社左門,內為太社稷。又正南曰端門,東曰廟街門,即太廟右門也。西曰社街門,即太社稷壇南左門也。又正南曰承天門,又折而東曰長安左門,折而西曰長安右門。東後曰東安門,西後曰西安門,北後曰北安門。正南曰大明門,中為馳道,東西長廊各千步。奉天殿之後曰華蓋殿,又後曰謹身殿。謹身殿左曰後左門,右曰後右門。正北曰乾清門,內為乾清宮,是曰正寢。後曰交泰殿。又後曰坤甯宮,為中宮所居。東曰仁壽宮,西曰清甯宮,以奉太后。左順門之東曰文華殿。右順門之西曰武英殿。文華殿東南曰東華門,武英殿西南曰西華門。坤甯宮後曰坤寧門,門之後曰玄武門。其他宮殿,名號繁多,不能盡列,所謂千門萬戶也。皇城內宮城外,凡十有二門:曰東上門、東上北門、東上南門、東中門、西上門、西上北門、西上南門、西中門、北上門、北上東門、北上西門、北中門。復於皇城東南建皇太孫宮,東安門外東南建十王街。宣宗留意文雅,建廣寒、清暑二殿,及東、西瓊島,遊觀所至,悉置經籍。正統六年重建三殿。嘉靖中,於清甯宮後地建慈慶宮,於仁壽宮故基建慈甯宮。三十六年,三殿門樓災,帝以殿名奉天,非題扁所宜用,敕禮部議之。部臣會議言:「皇祖肇造之初,名曰奉天者,昭揭以示虔爾。既以名,則是昊天監臨,儼然在上,臨御之際,坐以視朝,似未安也。今乃修復之始,宜更定,以答天庥。」明年重建奉天門,更名曰大朝門。四十一年更名奉天殿曰皇極,華蓋殿曰中極,謹身殿曰建極,文樓曰文昭閣,武樓曰武成閣,左順門曰會極,右順門曰歸極,大朝門曰皇極,東角門曰弘政,西角門曰宣治。又改乾清宮右小閣名曰道心,旁左門曰仁蕩,右門曰義平。世宗初,墾西苑隙地為田,建殿曰無逸,亭曰豳風,又建亭曰省耕,曰省斂,每歲耕獲,帝輒臨觀。十三年,西苑河東亭榭成,親定名曰天鵝房,北曰飛靄亭,迎翠殿前曰浮香亭,寶月亭前曰秋輝亭,昭和殿前曰澄淵亭,後曰 AZ臺坡,臨漪亭前曰水雲榭,西苑門外二亭曰左臨海亭、右臨海亭,北閘口曰湧玉亭,河之東曰聚景亭,改呂樑洪之亭曰呂樑,前曰檥金亭,翠玉館前曰擷秀亭。

親王府の制:洪武四年に定め、城の高さは二丈九尺、正殿の基壇の高さは六尺九寸、正門・前後殿・四門の城楼は青緑に金を点じ、廊下の部屋は青黛で飾る。四城の正門は丹漆を施し、金で銅釘を塗る。宮殿の斗栱と攢頂には中に蟠螭を描き、金で飾り、縁には八吉祥の花を描く。前後殿の座席は紅漆に金の蟠螭を用い、帳は紅の銷金蟠螭を用いる。座の後ろの壁には蟠螭と彩雲を描き、後に龍に改めた。山川・社稷・宗廟を王城内に立てる。七年に親王の居る殿を定め、前を承運、中を圜殿、後を存心とし、四城門は南を端礼、北を広智、東を体仁、西を遵義とする。太祖は「諸王に名を見て義を思い、帝室の藩屏たらしめん」と言う。九年に親王の宮殿・門廡及び城門楼は、すべて青色の瑠璃瓦で覆うと定め、また中書省の臣に命じ、親王の宮のみ朱紅・大青緑で飾ることを許し、他の居室は丹碧のみで飾るとした。十二年、諸王府が完成した。その制は、中を承運殿(十一間)、後に圜殿、次に存心殿(各九間)とする。承運殿の両廡は左右二殿とし、存心・承運から周囲の両廡を経て承運門に至るまで、百三十八間の屋を設ける。殿の後ろに前・中・後の三宮(各九間)を置く。宮門の両側等の室は九十九間。王城の外に周垣・西門・堂庫等の室をその間に設け、総じて宮殿室屋八百余間となる。弘治八年に王府の制を改定し、やや増減があった。

原文親王府制:洪武四年定,城高二丈九尺,正殿基高六尺九寸,正門、前後殿、四門城樓,飾以青綠點金,廊房飾以青黛。四城正門,以丹漆,金塗銅釘。宮殿窠栱攢頂,中畫蟠螭,飾以金,邊畫八吉祥花。前後殿座,用紅漆金蟠螭,帳用紅銷金蟠螭。座後壁則畫蟠螭、彩雲,後改為龍。立山川、社稷、宗廟於王城內。七年定親王所居殿,前曰承運,中曰圜殿,後曰存心;四城門,南曰端禮,北曰廣智,東曰體仁,西曰遵義。太祖曰:「使諸王睹名思義,以籓屏帝室。」九年定親王宮殿、門廡及城門樓,皆覆以青色琉璃瓦。又命中書省臣,惟親王宮得飾硃紅、大青綠,其他居室止飾丹碧。十二年,諸王府告成。其制,中曰承運殿,十一間,後為圜殿,次曰存心殿,各九間。承運殿兩廡為左右二殿,自存心、承運,週迴兩廡,至承運門,為屋百三十八間。殿後為前、中、後三宮,各九間。宮門兩廂等室九十九間。王城之外,周垣、西門、堂庫等室在其間,凡為宮殿室屋八百間有奇。弘治八年更定王府之制,頗有所增損。

郡王府の制:天順四年に定める。門楼・庁廂・厨庫・米倉等、合わせて数十間に過ぎない。

原文郡王府制:天順四年定。門樓、廳廂、廚庫、米倉等,共數十間而已。

公主の府第:洪武五年、礼部が言うには「唐・宋の公主は正一品に準じ、府第はともに正一品の制度を用いる。今、公主の第は、庁堂九間、十一架、花様獣脊を施し、梁・棟・斗栱・簷桷は彩色で絵飾するが、金のみ用いない。正門五間、七架。大門は緑油、銅環。石礎・牆磚は玲瓏な花様を鐫鑿する」と。これに従う。

原文公主府第:洪武五年,禮部言:「唐、宋公主視正一品,府第並用正一品制度。今擬公主第,廳堂九間,十一架,施花樣獸脊,樑、棟、鬥栱、簷桷彩色繪飾,惟不用金。正門五間,七架。大門,綠油,銅環。石礎、牆磚,鐫鑿玲瓏花樣。」從之。

百官の第宅:明初、官民の房屋に古の帝后・聖賢人物及び日月・龍鳳・狻猊・麒麟・犀象の形を彫刻することを禁ず。凡そ官員が任期満了で致仕する者は、現任と同様とする。その父祖に官があり、身が歿した場合は、子孫は父祖の房舎に居住することを許される。洪武二十六年に制を定め、官員が房屋を営造するには、歇山転角・重簷重栱及び藻井を絵することを許さず、楼居の重簷のみは禁じない。公侯は、前庁七間・両廈、九架。中堂七間、九架。後堂七間、七架。門三間、五架、金漆及び獣面錫環を用いる。家廟三間、五架。黒板瓦で覆い、屋脊は花様瓦獣を用い、梁・棟・斗栱・簷桷は彩絵で飾る。門窓・枋柱は金漆で飾る。廊・廡・庖・庫の従屋は五間・七架を超えてはならない。一品・二品は、庁堂五間、九架、屋脊は瓦獣を用い、梁・棟・斗栱・簷桷は青碧で絵飾する。門三間、五架、緑油、獣面錫環。三品から五品は、庁堂五間、七架、屋脊は瓦獣を用い、梁・棟・簷桷は青碧で絵飾する。門三間、三架、黒油、錫環。六品から九品は、庁堂三間、七架、梁・棟は土黄で飾る。門一間、三架、黒門、鉄環。品官の房舎は、門窓・戸牖に丹漆を用いてはならない。功臣の宅舎の後ろには空地十丈を留め、左右はともに五丈とする。軍民を移住させてはならず、また宅の前後左右に多く地を占め、亭館を構え、池塘を開いて遊眺に供することを許さない。三十五年、禁制を申明し、一品・三品の庁堂は各七間、六品から九品の庁堂の梁棟はただ粉青で飾るのみとする。

原文百官第宅:明初,禁官民房屋不許雕刻古帝后、聖賢人物及日月、龍鳳、狻猊、麒麟、犀象之形。凡官員任滿致仕,與見任同。其父祖有官,身歿,子孫許居父祖房舍。洪武二十六年定制,官員營造房屋,不許歇山轉角,重簷重栱,及繪藻井,惟樓居重簷不禁。公侯,前廳七間、兩廈,九架。中堂七間,九架。後堂七間,七架。門三間,五架,用金漆及獸面錫環。家廟三間,五架。覆以黑板瓦,脊用花樣瓦獸,樑、棟、鬥栱、簷桷彩繪飾。門窗、枋柱金漆飾。廊、廡、庖、庫從屋,不得過五間,七架。一品、二品,廳堂五間,九架,屋脊用瓦獸,樑、棟、鬥栱、簷桷青碧繪飾。門三間,五架,綠油,獸面錫環。三品至五品,廳堂五間,七架,屋脊用瓦獸,樑、棟、簷桷青碧繪飾。門三間,三架,黑油,錫環。六品至九品,廳堂三間,七架,樑、棟飾以土黃。門一間,三架,黑門,鐵環。品官房舍,門窗、戶牖不得用丹漆。功臣宅舍之後,留空地十丈,左右皆五丈。不許那移軍民居止,更不許於宅前後左右多佔地,構亭館,開池塘,以資遊眺。三十五年,申明禁制,一品、三品廳堂各七間,六品至九品廳堂樑棟祗用粉青飾之。

庶民の廬舎:洪武二十六年に制を定め、三間・五架を超えず、斗栱を用い彩色で飾ることを許さない。三十五年に再び禁令を申し飭め、九五の間数を造ることを許さず、房屋は一二十所に至っても、基の物力に従うが、三間を超えてはならない。正統十二年に令してやや変通し、庶民の房屋で架が多く間が少ないものは、禁限に含まない。

原文庶民廬舍:洪武二十六年定制,不過三間,五架,不許用鬥栱,飾彩色。三十五年復申禁飭,不許造九五間數,房屋雖至一二十所,隨基物力,但不許過三間。正統十二年令稍變通之,庶民房屋架多而間少者,不在禁限。

器用の禁:洪武二十六年に定め、公侯・一品・二品は、酒注・酒盞を金とし、余りは銀を用いる。三品から五品は、酒注を銀、酒盞を金とし、六品から九品は、酒注・酒盞を銀とし、余りはすべて磁器・漆器とする。木器は朱紅及び抹金・描金・彫琢の龍鳳文を用いてはならない。庶民は、酒注を錫、酒盞を銀とし、余りは磁器・漆器を用いる。百官は、牀面・屏風・槅子を雑色漆で飾り、龍文を彫刻し、かつ金で飾り朱漆することを許さない。軍官・軍士は、弓矢を黒漆とし、弓袋・箭囊に朱漆描金で装飾することを許さない。建文四年に官民を申し飭め、金の酒爵を僭用することを許さず、その椅棹木器も朱紅金飾を許さない。正徳十六年に定め、一品・二品は、器皿に玉を用いず、ただ金を用いることを許す。商賈・技芸家の器皿は銀を用いることを許さない。余りは庶民と同じ。

原文器用之禁:洪武二十六年定,公侯、一品、二品,酒注、酒盞金,餘用銀。三品至五品,酒注銀,酒盞金,六品至九品,酒注、酒盞銀,餘皆磁、漆。木器不許用硃紅及抹金、描金、雕琢龍鳳文。庶民,酒注錫,酒盞銀,餘用磁、漆。百官,牀面、屏風、槅子,雜色漆飾,不許雕刻龍文,並金飾硃漆。軍官、軍士,弓矢黑漆,弓袋、箭囊,不許用硃漆描金裝飾。建文四年申飭官民,不許僭用金酒爵,其椅棹木器亦不許硃紅金飾。正德十六年定,一品、二品,器皿不用玉,止許用金。商賈、技藝家器皿不許用銀。餘與庶民同。