古の聖王は、治世が定まり功績が成ると楽を作り、以て天地の性に合せ、万物の情に類し、天神は来格し民の志は協和した。およそ楽は心の声である。君主の心が和らげば、六合の内に和らがないことはない。ここにおいて楽が上に作られ、民は下に化する。秦・漢以降、この道理は次第に微かとなり、音声の道は政治と相通ぜず、民の風俗は日に靡曼に趨った。明が興り、太祖は雅楽に鋭意を注いだ。この時、儒臣の冷謙・陶凱・詹同・宋濂・楽韶鳳らは皆声律を知り、互いに究め切って定めた。しかし掌故は粗略で、古音に還ろうとしてもその道がなかった。太祖もまた下情の苟且薄徳を以て、厳刑をもってこれを束ねることを務め、履中蹈和の根本には未だ暇が及ばなかった。文皇帝が黄鐘の律を問うたが、臣下に応える者はなかった。英宗・景帝・憲宗・孝宗の世には、宮懸は徒らに具文となった。殿廷の燕享、郊壇の祭祀において、教坊や羽流が怠慢苟簡であり、劉翔・胡瑞はこれを深く慨いた。世宗は制作を自ら任じ、張鶚・李文察は審音によって知遇を受けたが、終に成ることはなかった。およそ学士大夫の著述はその理を論ずるに止まり、これを五音六律に施すと多く未だ協わず、楽官はその鏗鏘鼓舞を記するがその義を解さない。ここにおいて遂に世に明らかにする者がない。明代の制作を稽えるに、大抵は漢・唐・宋・元の人の旧を集め、少しその名を更易した。凡そ声容の次第、器数の繁縟は、当時にあって爛然と挙げられないことはなかったが、雅俗雑出し、正す由がなかった。故に備えて篇に列し、以て考る者の資とす。
圜丘:迎神には『中和之曲』を奏す。奠玉帛には『粛和之曲』を奏す。奉牲には『凝和之曲』を奏す。初献には『寿和之曲』を奏し、『武功之舞』を舞う。亜献には『豫和之曲』を奏し、終献には『熙和之曲』を奏し、共に『文徳之舞』を舞う。徹豆には『雍和之曲』を奏す。送神には『安和之曲』を奏す。望燎には『時和之曲』を奏す。方丘も同じく、曲詞は各々異なり、望燎を望瘞と改む。太社太稷は、迎神を『広和』と改め、奉牲を省き、その余は方丘と同じく、曲詞は各々異なる。
先農:迎神・奠帛には『永和之曲』を奏す。進俎には『雍和之曲』を奏す。初献・終献には共に『寿和之曲』を奏す。徹豆・送神には共に『永和之曲』を奏す。望瘞には『太和之曲』を奏す。
朝日:迎神には『熙和之曲』を奏す。奠玉帛には『保和之曲』を奏す。初献には『安和之曲』を奏し、『武功之舞』を舞う。亜献には『中和之曲』を奏し、終献には『粛和之曲』を奏し、共に『文徳之舞』を舞う。徹豆には『凝和之曲』を奏す。送神には『寿和之曲』を奏す。望燎には『豫和之曲』を奏す。夕月は、迎神を『凝和』と改め、奠帛以下は朝日と同じく、曲詞は各々異なる。
太歳・風雷・嶽瀆:迎神には『中和』を奏す。奠帛には『安和』を奏す。初献には『保和』を奏す。亜献には『粛和』を奏す。終献には『凝和』を奏す。徹豆には『寿和』を奏す。送神には『豫和』を奏す。望燎には『熙和』を奏す。
周天星辰は、初め夕月に附祀し、洪武四年に別祀す:迎神には『凝和』を奏す。奠帛・初献には『保和』を奏し、『武功舞』を舞う。亜献には『中和』を奏し、終献には『粛和』を奏し、共に『文徳舞』を舞う。徹豆には『豫和』を奏す。送神には『雍和』を奏す。
太廟:迎神には『太和之曲』を奏す。奉冊宝には『熙和之曲』を奏す。進俎には『凝和之曲』を奏す。初献には『寿和之曲』を奏し、『武功之舞』を舞う。亜献には『豫和之曲』を奏し、終献には『熙和之曲』を奏し、共に『文徳之舞』を舞う。徹豆には『雍和之曲』を奏す。送神には『安和之曲』を奏す。初献は則ち徳・懿・熙・仁の各廟に楽舞を奏し、亜・終献は則ち四廟で共にする。
釈奠孔子:初めは大成登歌の旧楽を用いた。洪武六年、始めて詹同・楽韶鳳らに命じて楽章を更に制させた。迎神には『咸和』を奏す。奠帛には『寧和』を奏す。初献には『安和』を奏す。亜献・終献には『景和』を奏す。徹饌・送神には『咸和』を奏す。
歴代帝王:迎神には『雍和』を奏す。奠帛・初献には『保和』を奏し、『武功舞』を舞う。亜献には『中和』を奏し、終献には『粛和』を奏し、共に『文徳舞』を舞う。徹豆には『凝和』を奏す。送神には『寿和』を奏す。望瘞には『豫和』を奏す。
又た王国祭祀の楽章を定む:迎神には『太清之曲』を奏す。初献には『寿清之曲』を奏す。亜献には『豫清之曲』を奏す。終献には『熙清之曲』を奏す。徹饌には『雍清之曲』を奏す。送神には『安清之曲』を奏す。その社稷山川は、迎神を『広清』と改め、奉瘞を増して『時清』と曰う。
これが祭祀の楽歌の節奏である。
聖節・正旦・冬至・大朝賀の際は、和声郎が楽を丹墀の百官拝位の南に陳列し、北向きとする。駕が出ると、仗が動く。和声郎が麾を挙げ、『飛龍引之曲』を奏し、楽が始まり、座に昇る。楽が止み、麾を伏せる。百官が拝し、『風雲会之曲』を奏し、拝が終わると楽が止む。丞相が殿上に上り致詞し、『慶皇都之曲』を奏し、致詞が終わると楽が止む。百官がまた拝し、『喜昇平之曲』を奏し、拝が終わると楽が止む。駕が興ると、『賀聖朝之曲』を奏し、還宮すると楽が止む。百官が退き、和声郎・楽工が順次退出する。
宴饗の曲は、後に二度改められた。四年に定めたものは、一に『本太初』、二に『仰大明』、三に『民初生』、四に『品物亨』、五に『御六龍』、六に『泰階平』、七に『君徳成』、八に『聖道行』、九に『楽清寧』という。その詞は、詹同・陶凱の作である。十五年に定めたものは、一に『炎精開運』、二に『皇風』、三に『眷皇明』、四に『天道伝』、五に『振皇綱』、六に『金陵』、七に『長楊』、八に『芳醴』、九に『駕六龍』という。
大朝賀の際は、教坊司が中和韶楽を殿の東西に設け、北向きとする。大舞を丹陛の東西に陳列し、これも北向きとする。駕が興ると、中和韶楽が『聖安之曲』を奏す。座に昇り宝を進めると、楽が止む。百官が拝し、大楽が始まる。拝し終わると楽が止む。表を進めると、大楽が始まる。進み終わると楽が止む。表目を宣し、賀を致し終わると、百官が俯伏し、大楽が始まる。拝し終わると楽が止む。制を宣し終わると、百官が舞蹈し山呼し、大楽が始まる。拝し終わると楽が止む。駕が興ると、中和韶楽が『定安之曲』を奏し、駕を導き華蓋殿に至ると、楽が止む。百官が順次退出する。
これが朝賀宴饗の楽歌の節奏である。
これ祭祀朝賀の楽舞器服なり。
太祖の時に当たり、前後稍々増損有り。楽章の鄙なる者は、儒臣を命じて其の詞を易えしむ。二郊の作は、太祖の親製する所なり。後に合祀に改め、其の詞復た更む。太社稷は仁祖を奉じて配し、亦た七奏を更めて制す。嘗て礼臣に諭して曰く、「古楽の詩は、章和して正し。後世の詩は、章淫にして誇る。故に一切の諛詞豔曲は、皆取りて用いず」と。嘗て儒臣を命じて迴鑾楽歌を撰ましめ、奏する所の『神降祥』・『神貺』・『酣酒』・『色荒』・『禽荒』諸曲、凡そ三十九章、命じて『御鑾歌』と曰う、皆諷諫の意を寓す。然れども当時の作者は、惟だ明達易曉を務むるのみ、漢・晉間の詩歌の如く、鏗鏘雅健にして、録して誦すべき能くするに非ず。殿中韶楽は、其の詞は教坊俳優に出で、多く雅道に乖く。十二月楽歌は、月律に按じて以て奏し、及び進膳・迎膳等の曲は、皆楽府・小令・雑劇を以て娛戯と為す。流俗喧嘵、淫哇不逞なり。太祖の屏げんと欲する所は、顧みて反ってこれを殿陛の間に設け、怪しまず。
九年二月、始めて南郊にて祈穀す。帝親しく楽章を制し、太常に命じて音譜に協わしむ。この年、始めて先蠶を祀り、礼官に楽舞を議せしむ。礼官言うには、「先蠶の祀は、周・漢同じくする所なり。その楽舞儀節は、経史に載せず。唐の開元の先蠶儀注に、大楽令が宮県を北郊の壇壝内に設け、諸の女工皆後ろに列すとあれば、則ち先蠶を祀るに女楽を用いること知るべし。《唐六典》に、宮県の舞は八佾、軒県の舞は六佾とあれば、則ち先蠶を祀るに八佾を用いることまた知るべし。然れども舞生の冠服を言うに止まりて、舞女の冠服に及ばず。陳暘の《楽書》享先蠶図の下に、止だ《宮架登歌図》有りて、舞に及ばず。楽有り舞有るは、祀礼の常と雖も、然れども周・漢の制度既に考うべからず、宋の先蠶を祀るは、有司を以て代え、また拠るべからず。惟だ開元は略々古に近く、而して陳氏の《楽書》の考據も亦明らかなり。前に先農を享くるに、既に佾数足らず、八を降して六と為せば、則ち今先蠶を祀るに、止だ楽歌を用い、楽舞を用いざるは、亦た古制に合い、且つ以て先農の礼を少しく殺ぐことを見るべし」と。帝は舞は女子の事に非ずとして、用いずして罷む。楽女の冠服を議して以て聞かしむ。礼官言うには、「北郊は陰の方、その色は黒を尚ぶ。同色相感ずるは、神に事うるの道なり。漢は東郊に蠶し、魏は西郊に蠶す、色皆青を尚ぶ、その色に非ず。楽女の冠服は宜しく黒とすべし」と。乃ち楽六奏を用い、舞を去る。その楽女は皆黒き冠服とし、因って先蠶を享くる楽章を定む。
また祀典方に南北郊を釐定し、復た朝日夕月の祭を行うに当たり、詞臣に命じて洪武時の旧楽歌を取り、一切更改せしむ。礼官因って広く求め博く訪れ、宋の胡瑗・李照の如き者有らば、具に名を以て聞かしむることを請う。これを太常に授け、雅楽を考定せしむ。給事中夏言は乃ち致仕した甘肅行太僕寺丞張鶚を以て詔に応ず。命じて趣かにこれを召す。既に至り、言うには、
大楽を正すは、乃ち先ず元声を定む。元声は冥罔既に覚むるの時、亥子相乘するの際より起こる。糸を積みて毫と成し、毫を積みて釐と成し、釐を積みて分と成す。一時は三十分、一日は十二時。故に声は日に生じ、律は辰に起こる。気は声に先立ち、声は気に従いて後る。若し器に拘りて以て気を求めば、則ち気は器を致す能わず、却って器に制せられん、何を以て黄鐘を定め、暦元を起こさん。須らく蔡元定に依り、多く竹を截ちて以て黄鐘の律に擬え、長短毎に一分差う。冬至の日に律に按じて候い、法に依りて取りて取る。衆管の中に先づ灰の飛ぶもの有らば、即ち元気を得たり。その時刻を験す、もし子初の二刻に在らば、即ち子初一刻より初二刻に移り、もし正の二刻に在らば、即ち子正一刻より正二刻に移る。顧みて暦を知る官一人を命じ、臣とともに参候せしめ、庶幾くは元声を得て、古楽を復すべし。
また言うには、
古人十六の編鐘を制するは、徒らに観美に事とすに非ず、蓋し旋宮の為に設くるなり。その下八鐘は、黄鐘・大呂・太簇・夾鐘・姑洗・仲呂・蕤賓・林鐘是れなり。その上八鐘は、夷則・南呂・無射・応鐘・黄鐘・大呂・太簇是れなり。近世は止だ黄鐘一均を用い、而して十六鐘を遍く具えず、古人の楽を立つるの方已に失う。況んや太常は止だ五・凡・工・尺・上・一・四・六・勾・合の字眼を以てこれを譜し、古に去ること益々遠し。且つ黄鐘を合と為すは似たり、その大呂を下四と為し、太簇を高四と為し、夾鐘を下一と為し、姑洗を高一と為し、夷則を下工と為し、南呂を高工と為すの類は、皆両律を以て一字を兼ぬ、何を以て旋宮し律を取り、止だ黄鐘一均のみならんや。
また黄鐘・大呂・太簇・夾鐘を上四清声とする。そもそも黄鐘は君に当たり、最も尊く比類がない。黄鐘を宮とすれば、他の十一律は皆これに従って制せられ、臣・民・事物は敢えて凌犯するものはない。夾鐘を宮とするに至っては、下生して無射を徴とし、無射は上生して仲呂を商とし、仲呂は下生して黄鐘を羽とする。しかし黄鐘の正律は声が長く、仲呂を商として三分去一した次第ではない。ゆえに黄鐘を羽として用いるには、必ず子声を用いる、すなわち上黄六の清声であり、まさに黄鐘の全声を用いることを敢えず、その半声を用いるのである。姑洗以下の均も、おおむねこのようである。これが四清声が立てられる所以である。編鐘十六も、その道理は同じである。
宋の胡瑗はこの道理を知り、故に四清声は皆その囲径を小さくしてこれに合わせた。しかし黄鐘・太簇の二声は合うが、大呂・夾鐘の二声はまた合わず、ついに十二律・五声を皆正しく得ることができなかった。李照・范鎮に至っては十二律のみを用い、四清声を用いず、三分損益に合うものは和した。夷則以下では、その臣民事物はどうして尊卑の区別があり、互いに凌犯しないことがあろうか。
臣はまた『周礼』を考証するに、圜鐘・函鐘・黄鐘、天地人三宮の説があり、神を薦める楽と、神を降す楽とがある。神を薦める楽というのは、すなわち黄鐘を奏し、大呂を歌い、子丑が合うのであり、『雲門』を舞って天神を祀る。すなわち太簇を奏し、応鐘を歌い、寅亥が合うのであり、『咸池』を舞って地祇を祀る。すなわち姑洗を奏し、南呂を歌い、辰酉が合うのであり、『大韶』を舞って四望を祭る。すなわち蕤賓を奏し、林鐘を歌い、午未が合うのであり、『大夏』を舞って山川を祭る。すなわち夷則を奏し、小呂を歌い、巳申が合うのであり、『大武』を舞って先祖を享け、『大濩』を舞って先妣を享ける。神を降す楽というのは、冬至に天を祀る圜丘では、圜鐘を宮とし、黄鐘を角とし、太簇を徴とし、姑洗を羽とし、この三者は陽律が相継ぐ。相継ぐとは、天の道である。夏至に地を祭る方丘では、函鐘を宮とし、夾鐘を角とし、姑洗を徴とし、南呂を羽とし、この三者は陰呂が相生する。相生するとは、地の功である。宗廟を祭るには、黄鐘を宮とし、大呂を角とし、太簇を徴とし、夾鐘を羽とし、この三者は律呂が相合する。相合するとは、人の情である。
併せて著した楽書二部を進呈した。その一つは『大成楽舞図譜』といい、琴瑟以下の諸楽について、一字ごとに譜を作った。その一つは『古雅心談』といい、十二の図を列ねて十二律を象り、図それぞれに説がある。また琴を正声とし、楽の宗系とした。すべて郊廟の大楽について、琴弦の定徽に分注し、それぞれ帰する旨がある。かつ自ら心に独り契るところと称し、輪を削る妙は、口で言い表せるものではないとした。
上疏は礼部に下された。礼官が言うには、「音律は久しく廃れ、太常の諸官は工尺譜に従って習い、もはや黄鐘などの調があることを知らない。臣らは近ごろ詔を奉じて新たに定めた郊祀楽章を演習し、時に古人の遺制を問うたが、茫然として答えることがなかった。今張鶚が四清声は旋宮のためにあるとし、その注弦定徽は、すでに近世の楽の弊を深く識っている。ましてや暦を知る者を取って互いに参考させようとするのは、とりわけ本源を探り窮める論である。現在の楽を司る者の及ぶところではないようだ」。そこで張鶚を太常寺丞に任じ、太和殿に詣でて楽舞を較定させた。
張鶚はそこで上言した。「『周礼』には郊祀の楽と、宗祀の楽とがある。尊ぶことと親しむこととは分かれが異なり、声律も自ら別である。臣が伏して世廟の楽章を聴くに、律は林鐘より起こり、均は太廟と異なる。臣はひそかにこれを怪しむ。世廟と太廟は礼を同じくするが、林鐘と黄鐘は楽を異にする。函鐘は地祇を祀ることを主とし、位は坤方に寓し、星は井鬼に分かれ、楽は八変を奏して資生の功に報いる。故に林鐘をもって調を起こし、林鐘をもって調を終えるのである。黄鐘は宗廟を祀ることを主とし、位は子野に分かれ、星は虚危に隷し、楽は九成を奏して本源の徳に報いる。故に黄鐘をもって調を起こし、黄鐘をもって調を終えるのである。理義はそれぞれ帰する旨があり、声数は黙って相感通する。況して天地は父母の象であり、大君は宗子の称である。今、母を祀る楽をもって、子を祀るのに奏するのは、恐らく世廟の在天の霊は、必ずや安んじて享けることができないであろう。この楽を譜した者は、何を見たのであろうか。臣が旧譜の楽章を観るに、字は黄鐘を用い、声は太廟と同じである。ただ七声を審らかに聴くと、中に一律が少なく、今これを補正する。奏格に依らせれば、祖孫の気は一気となって互いに流通し、函黄二宮は均調を失わない。尊親の分は両得し、神人の心は皆悦ぶであろう」。詔が礼官に下された。
李時らが覆奏し、次のように考えた。「張鶚の言うことは、臣らが律呂諸書で聞くところと、深く合致する。黄鐘一調は、黄鐘を宮とし、太簇を商とし、姑洗を角とし、蕤賓を変徴とし、林鐘を徴とし、南呂を羽とし、応鐘を変宮とする。旧楽章は合・四・一・尺・工を用い、蕤賓の勾を去り、越次して再生黄鐘の六を用いた。これが旧楽章の誤りである。林鐘一調は、林鐘を宮とし、南呂を商とし、応鐘を角とし、大呂の半声を変徴とし、太簇の半声を徴とし、姑洗の半声を羽とし、蕤賓の半声を変宮とする。近ごろ沈居敬が楽章を更に協わせ、尺・合・四・一・工・六を用いた。合は黄鐘であり、四は太簇の正声であり、一は姑洗の正声であり、六は黄鐘の子声である。林鐘を宮として、用いる角・徴・羽が皆その一均の声ではないのは、誤りが甚だしい。況して林鐘一調は宗廟に用いるべきではなく、太廟と世廟は異なる調とすべきでないのは、張鶚の見解が特に真である。今後は旧協の音律を用いるべきで、ただ蕤賓の勾声を加え、再生黄鐘の六を去り、応鐘の凡を用いることに改めて、黄鐘一均を成し、感格の義に対して深く補うところがあるようにすべきである」。
そこで張鶚に廟享の楽音を更定させ、沈居敬らを逮捕して処罰した。張鶚はまもなく帝社稷の楽歌を譜定して進呈した。詔はその勤めを嘉し、少卿に進めて雅楽の教えを掌らせた。
夏言はまた、古くは龍が現れて雨乞い(雩)をし、楽正に命じて盛んな楽を習わせ、皇舞を舞わせたことを引き合いに出し、古礼に依って大雩の制度を定めるよう請うた。三献の礼が成った後、九奏の楽が止んだ時に、『雲漢』の詩の文辞を要約して『雲門』一曲を製し、文武の舞士を並べて舞わせ、合わせて歌わせるべきであると。帝はその議を許可した。
当時七廟は既に建てられていたが、楽制は未だ整っておらず、礼官はこれに因って宗廟の雅楽を更に定めるよう請い、言うには、「徳祖・懿祖・熙祖・仁祖の四祖は久しく祧遷されており、旧来の楽章は合わない。太祖は創業し、太宗は鼎を定め、列聖は守成した。これに応える頌声があり、以て在天に對越し、これを萬世に垂れるべきである。特享においても、祫享においても、大祫においても、詩歌は頌美すべきであり、儒臣に撰述を命じ、上裁を取るのが宜しい。その楽器・楽舞は、各々太廟の成式に依り、規制として備えるべきである」と。制して許可した。やがて献帝を睿宗と尊び、太廟に祔享した。ここにおいて九廟の春の特享、三時の祫享、季冬の大祫の楽章は、皆更に定められた。
十八年、興都に巡狩し、帝は親しく楽章を製し、飛龍殿において上帝を享け、皇考を配祀した。その後、七廟が火災に遭い、再び同堂の制に戻り、四時の歳祫は、楽章・器物は依然として旧制の如くであった。初め七廟の楽官及び楽舞生を増員し、四郊九廟及び太歳神祇諸壇に至るまで、楽舞の人数は二千一百名に達した。後やや裁革し、その半ばを存した。
張鶚が太常卿に遷ると、再び前説を申し立て、三事を建議した。一つは、特鐘・特磬を設けて楽の節とすべきことを請う。一つは、宮懸を復して古制を備えるべきことを請う。一つは、元気を候って鐘律を定めるべきことを請う。事は礼官に下され、言うには、「特鐘・特磬は楽懸を造るに宜しく、廟廷の中では周旋に便ならず、更に製すべからず。ただ黄鐘は声気の元であり、候気の法は、実に中気を求めて中声を定めるもので、最も作楽の本原である。その説は、重室に墐戸し、管を截ち灰を実し、緹を覆い、歴に按じて気至れば灰飛び、累黍を以て証するというもので、成法有りて依るべし。その法は、圜丘の外垣の隙地に室を築き、暦候を知る者を選んで往きてその役を相させ、稍々次第あらば、然る後に官を委ねて考験すべし」と。これに従った。なお詔して山西長子県羊頭山の黍、大小中の三等各五斗を取らせ、以て候気定律に備えさせた。
明朝は太祖・世宗以来、楽章は屡々改まったが、鐘律は製作の要でありながら、講明する所が無かった。呂懷・劉濂・韓邦奇・黄佐・王邦直の徒は著書甚だ備わっていたが、職は典楽に与からず、空言に託したのみである。張鶚は楽を知るに因って官を得たが、候気は終に渺茫たるものに属し、以て律を定める準とすることは出来なかった。弘治年間、莆の人、教授李文利は『律呂元聲』を著し、独り『呂覧』の黄鐘三寸九分の説を宗とした。世宗の初年、御史範永鑾がその書を上ったが、その説は古に背き、用いるべからず。嘉靖十七年六月、遼州同知李文察が自ら著した楽書四種を進め、礼官は楽理楽書において多く前人の未発の所があると謂った。ここにおいて文察を太常典簿に授け、以てこれを奨励した。しかしその云う所、「人声に按じて五音を考定する」というものは、行うことが出来なかった。神宗の時、鄭世子載堉は『律呂精義』・『律学新説』・『楽舞全譜』合わせて若干巻を著し、表を具えて進献した。崇禎六年、礼部尚書黄汝良が『昭代楽律志』を進めた。史館に宣付し、以て稽考に備えたが、施行に及ばなかった。