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明史
志第三十五 礼十三
志第三十五 礼十三(凶礼二)
皇后陵寢、興宗帝后陵寢、睿宗帝后陵寢、皇妃等喪葬、皇太子及妃喪葬、諸王及妃公主喪葬
○皇后陵寢
洪武十五年、皇后馬氏が崩じた。礼部が宋代の制度を引き合いに出して奏請した。そこで在京の文武官および聴除官に対し、人ごとに布一匹を与え、自ら喪服を作らせ、皆斬衰二十七日で除き、素服百日と定めた。在京の官はすべて、三日を過ぎて素服で右順門外に至り、喪服を着用して入臨し終えた後、素服で奉慰の礼を行い、三日で止めた。武官五品以上、文官三品以上の命婦も、第四日に素服で乾清宮に入臨した。麻布で頭を覆い、麻布の衫・裙・鞋を着用し、首飾りや脂粉を除いた。外官の服制は京官と同じであった。訃報を聞いた日に公庁で成服し、命婦の服も在京の命婦と同じで、皆三日で除いた。軍民の男女は素服三日。屠殺を禁じ、在京では四十九日、在外では三日。音楽祭祀を百日間停止した。嫁娶は、官は百日、軍民は一月停止した。発引に先立ち、太廟に告げ、官を遣わして金水橋・午門等の神および鐘山の神を祭った。帝はみずから几筵で祭り、百官は喪服を着て朝陽門外に詣でて奉辞した。この日、皇堂に安厝した。皇太子が奠し、玄纁と玉璧を用い、奉辞の礼を行った。神主が還宮すると、百官は素服で朝陽門外で迎え、なお奉慰の礼を行った。帝はまた醴饌を以て几筵殿で祭り、再虞から九虞まで、皆これに倣った。官を遣わして鐘山の神に告謝した。卒哭の後、神主を廟に詣でて祔享の礼を行った。喪が百日に満ちると、帝は朝を輟み、几筵殿を祭り、哀悼の意を表して拝礼しなかった。東宮以下は帛爵を奠し、百官は素服で奉慰の礼を行った。東宮・親王・妃・主は牲醴を以て孝陵を祭り、公侯等が従った。命婦は几筵殿に詣でて祭奠した。以後、節序および忌日ごとに、東宮親王は几筵および陵を祭った。小祥には、朝を三日輟めた。在京の音楽屠殺を禁じ、霊谷寺・朝天宮に各三日斎醮を設けた。帝は皇太子以下を率いて几筵殿に詣でて祭った。百官は素服で宮門に詣でた。進香を終え、後右門に詣でて奉慰した。外命婦は几筵殿に詣でて進香した。皇太子・親王は熟布の練冠九𧚥、皇孫は七𧚥とし、皆首絰を除いた。負版・闢領・衰を着けた。帝および百官に謁する時は素服・烏紗帽・烏犀帯とした。妃・主以下は、熟布で頭を覆い、腰絰を除いた。宗室・駙馬は練冠とし、首絰を除いた。内尚衣・尚冠は、除いた服を几筵殿前の丙位で焚いた。皇太子・親王は再び陵に詣でて礼を行った。大祥には、神主を奉先殿に奉安し、予め斎戒して廟に告げた。百官が陪祀を終え、奉慰の礼を行った。
成祖の皇后徐氏が崩じると、翌日より朝を輟め、鐘鼓を鳴らさなかった。帝は素服で西角門に御し、百官は素服で思善門外に詣でて哭臨し終え、奉慰の礼を行った。三日で成服し、哭臨は上記の儀に倣った。翌日より始めて、各々公署に斎宿し、二十七日で止めた。文武四品以上の命婦は成服の日より始め、思善門内に詣でて哭臨三日した。聴選・弁事の官は皆喪服を着た。人材・監生・吏典・僧道・坊廂の耆老は各々素服とした。成服の日より始め、応天府に赴いて三日間挙哀し、その他は全て高后(孝慈高皇后)の時の儀に従った。また諸王・公主等の服制を定め、世子・郡王は皆斉衰不杖期とした。世子妃・郡王妃・郡主は皆大功とした。周王・楚王等の諸王および寧国公主等の諸公主および郡王の子は皆小功とした。中官を遣わして諸王府に訃告し、祔裏を造り、太廟に謁した。祭器・諡冊・諡宝は悉く檀香を用いた。冊を授けるに先立ち、帝はみずから奉天殿の丹陛上で天地に告げた。華蓋殿に御し、鴻臚寺の官が頒冊宝官を引いて入り礼を行わせ、制を伝えて言わしめた、「永楽五年十月十四日、大行皇后に冊諡し、卿に命じて礼を行わせる」。四拝を終えると、序班が冊宝案を挙げて奉天殿の丹陛上に至り、彩輿の中に置き、中道より出て右順門に入り几筵殿に至り、冊宝を案に置き、殿外に退いて待った。尚儀の女官が香案前に詣で、跪いて進み言う、「皇帝、某官を遣わし大行皇后に冊諡す、謹んで告ぐ」。宣冊を賛し、女官が冊を捧げて几筵の右で宣べ、冊を案に置き、宝を宣べるもこれに倣った。尚儀が礼畢を奏し、女官が冊宝案を几筵の左に置いた。内官が出て礼畢を報じ、頒冊宝官が復命した。百日に、礼部が正門に御して視朝し、鐘鼓を鳴らし、百官が浅淡色の服に改めるよう請うた。帝は梓宮が未だ葬られていないとして、許さなかった。周期に至り、帝は素服で几筵に詣でて致祭し、百官は西角門で奉慰し、朝を三日輟めた。在京では音楽を停止し、屠殺を七日間禁じた。礼部官が天禧寺・朝天宮で斎醮を行った。その翌日、帝は吉服で奉天門に御して視朝し、鐘鼓を鳴らした。百官は浅淡色の衣・烏紗帽・黒角帯を着用し、退朝して署事する時はなお素服とした。朔望に遇うと、朝見慶賀は常儀の如くであった。几筵の祭祀には、熟布の練冠を着けた。発引に及んで、三日間斎戒し、官を遣わして葬期を郊廟社稷に告げた。帝は素服で几筵に祭告し、皇太子以下は衰服で礼を行い、官を遣わして過ぎる橋門および沿道の祀典諸神を祭った。百官および命婦は皆素服で、順次路祭を行った。梓宮が江濱に至ると、百官は江濱で奉辞した。皇太子が送って渡江し、漢王が護行し、途中朝夕哭奠した。官民で迎祭する者は、皆素服であった。葬り終わると、護送の官軍および梓宮を舁ぐ軍士に鈔米を差等を付けて賜った。
正統年中、仁宗の皇后張氏が崩じ、礼部が大行太皇太后の喪礼を定めた。皇帝は成服三日後に、即ち聴政した。祀典は皆廃さず、諸王以下の内外各官および命婦の哭臨は前儀の如く、衰服二十七日で除き、軍民男女は素服十三日とした。諸王は会葬せず、外官は進香せず、臣民は音楽嫁娶を禁じなかった。葬るに及んで、官を遣わして太廟に告げた。帝はみずから太后の衣冠を奉じて列祖の帝・後および仁宗の神位に謁し、また宣宗の衣冠を奉じて太后の神位に謁し、その礼は時享に倣った。天順年中、宣帝の皇后孫氏が崩じ、儀は故事の如く、ただ哭臨を清寧門に改めたのみであった。英宗の皇后銭氏が崩じ、礼は旧儀の如く、ただ屠殺の禁止は七日で止め、外国の使臣は哭臨を免じた。正徳元年、景帝の后汪氏が薨じた。礼部が群臣と会して言うには、皇妃の例の如くすべきであり、朝を三日輟め、九壇を祭るとした。太后・中宮・親王以下の文武大臣命婦に皆祭りがある。制はこれを可とした。
憲宗の廃后呉氏は、正徳四年に薨じ、大学士李東陽らの上言により、礼は英宗の恵妃の故事に倣った。憲宗の皇后王氏は、正徳十三年に崩じた。三日を経て、帝は宣府より帰還し、ようやく発喪した。百官は素服を具え、清寧宮門外にて遺誥の宣下を聴いた。発引に際しては、事前に平臺を結び、順天府の交衢と相対した。帝は朝に北安門を出て迎え、皇太后及び皇后は平臺に御して殯を待った。再び清寧宮に入り、親しく梓宮を奉じて朝祖した。百官は歩行して徳勝門外まで送り、送喪官のみが騎乗して送った。翌日、帝は神主を奉じて還京し、百官は徳勝門で迎えた。帝は素服・腰絰をして西角門に御し、百官は奉慰した。卒哭して初めて喪服を解いた。孝宗の母紀氏は、憲宗の妃である。成化年間に薨じ、故事に倣い輟朝した。初喪より葬に至るまで、帝及び皇太后・中宮・妃・主・皇子は皆祭を致した。皇子を遣わして祝冊を奉じ礼を行わせ、塋域・葬儀は共に厚くした。皇親百官及び命婦の送葬設祭は、皆儀に従った。
世宗の祖母邵氏は、嘉靖元年に崩じた。喪服を除くと、部臣毛澄らは即吉して視事するよう請うた。議が再上され、孝粛太皇太后の喪礼を考証するよう命じた。澄らは言う、「孝粛が崩じた時は、葬期に遠からず、故に暫く凶服を持し、山陵の事竣るを待ちたるなり。今とは異なる。況や正旦朝元に当たり、また縞衣を以て万国に臨見すべからず。若し孝思未だ忘れずば、第に中門に御せず及び鐘鼓を鳴らさざるのみにて足る」と。これに従い、なお朔望日の升殿を免じた。既に葬ること四日、帝は奉天門に御し、百官は奉慰の礼を行い、初めて吉に従った。嘉靖年中、孝宗の皇后張氏が崩じ、礼臣は旧制を以て上奏した。帝は郊社を瀆すべからずとし、祭告を罷めた。また躬行諸礼は、前に既に代行を諭したとし、謁廟の礼も罷めた。太常寺が朝祖祔廟に際し、各廟の捧主官を請うたが、詔して主は俱に出ずるを要せずとし、蓋し殺礼に従うなり。
先に、武宗の皇后夏氏が崩じ、礼部が儀注を上奏し、素冠・素服・絰帯を以て挙哀し及び群臣の奉慰礼あり。帝曰く、「朕は皇兄の后に服せず、況や上は両宮を奉じ、又聖母の寿旦に迫る。純素を用いるに忍びず。朕は青服を以て視事し、諸儀は再び擬せよ」と。ここにおいて尚書夏言ら言う、「粛皇后の喪礼は、臣民に於いて議う容れ無し。惟だ是れ皇上は天子の尊を以てし、服制既に絶つれば、必ずしも西角門に御せず。群臣は成服の後、素服を以て朝参すべからず」と。喪葬儀を上するに及び、帝また諭す、「毅皇后の事儀は累朝の元后と異なり、几筵の奉無く、即時に行って祔廟すべく、皇后をして内殿に於いて事を摂せしむべし」と。言ら議す、「礼に按ずるに、卒哭して乃ち祔裏告を行ふ。蓋し新主当に入り、旧主当に祧るるを以て、故に預め以て告るなり。此れ常典に在りて則ち然り、今日の議例に非ず。毅皇后の神主誠に即ち太廟に祔すべく、以て神霊を安んずべし。而して祔告の礼は免ずべし」と。因りて其の儀を具えて上す。制して可とす。
嘉靖七年、世宗の皇后陳氏が崩じた。礼部が喪祭儀を上奏し、帝は過隆を疑う。議が再上され、帝自ら裁定し、概ね減殺に従い、九日にして喪服を解かんと欲す。閣臣張璁ら言う、「夫婦の倫は、三綱に参して立つ。人君は乃ち綱常の主たり、尤も慎まざるべからず。『左伝』昭公十五年六月乙丑、周景王の太子寿卒す。秋八月戊寅、王穆后崩ず。叔向曰く、『王は一歳にして三年の喪二つ有り』と。蓋し古礼は、父は子の為に、夫は妻の為に、皆報服三年す。後世、夫は妻の為に、始めて斉衰杖期を製す。父母在れば則ち杖せず。『喪服』に、期以下より、諸侯は絶つ。然れども特に関期を言ふ。若し妻喪は、本自三年の報服、殺して期年と為す。則ち固より未だ嘗て絶たざる者なり。今皇上は后の為に期服し、日を以て月に易え、僅かに十二日。臣子は君母の為に三年服し、日を以て月に易え、僅かに二十七日。諸れの古礼に較ぶれば、已に殺に至れり。皇上は宜しく期服し、十二日。臣子は素服し、終に二十七日。然らずんば、則ち恩紀明らかならず、典礼乖く有らん」と。礼臣方献夫も亦『儀礼・喪服』等の篇を雑引し、反覆争弁し、並びに『三朝聖諭』に載する所の仁孝皇后崩じ、太宗衰服の後、仍て数月白衣冠の故事を以て之を証す。帝言う、「文皇后喪の時は、上に聖母無く、下に東宮有り。重きに従ひ礼を尽くすを宜しとす。今敢へず其の制を更へず」と。已にして、詹事霍韜言う、「今百官妻喪に遭へば、服衰蒞事の礼無し。蓋し妻喪は内にして外ならず、陰は陽に当たるべからざるなり。聖諭に云ふ、『素服十日、輟朝の義に倣ふ』と。内廷に於いて之を行へば則ち可なり。若し百官に臨対し、万幾を総理し、当陽の位に履み、中宮の服を行へば則ち不可なり。百官が皇后の為に衰服するは、其の母儀天下たるを為すなり。礼に、父在れば母の為に、杖は堂に上らず、父を尊ぶなり。朝廷に於いて何ぞ独り然らざらん。臣請ふ、陛下は玄冠素服し、西角門に御すること十日、即ち玄冠玄服を以て奉天門に御し、百官は左掖門に入れば則ち烏紗帽・青衣を以て侍班す。退出して公署及び私室に至れば則ち仍て素服白帽すること二十七日。若し礼に於いて猶ほ未だ慊らざる有らばと曰はば、則ち山陵の事畢りて而して除く」と。帝其の言に従ふ。
尋いで冊諡を進むる儀を定む。礼部議す、「先期、帝は袞冕を以て奉先殿・崇先殿に告ぐ。至期、帝は常服を以て奉天門に御し、正副使は常服、百官は浅淡色衣・黒角帯を以て、班に入り儀の如く行礼す。節冊は右順門に至り、内侍捧げて正門に入り、几筵前に至り案上に置く。内贊は就位上香を贊し、宣冊官立ちて宣し訖り、復た冊を案上に置く。内侍は節を持ち正門より出で、節を以て正副使に授け、礼畢るを報ず。正副使は節を持ち覆命す」と。次日、礼部は黄を謄し天下に頒示す。
時に中宮の喪礼は文皇后より後、是に至りて始めて再び行はる。永楽時の典礼は火に毀たれ、『会典』に載する所は皆略なり。乃ち帝心より断じ、令と為すに著す。梓宮将に葬らんとす。帝新たに諸儀を定め、亦減損に従ふ。思善門は仁智殿に逼近するを以て、百官の哭臨を一日に止め、亦辞祖の礼を罷め、喪は左王門より出づ。
二十六年、皇后方氏崩ず、即日発喪し、礼部に諭して曰く、「皇后嘗て朕の危きを救う、其れ元后の喪礼を考へて之を行へ」と。礼部儀を定む、「第四日に成服し、自後黒冠素服、十日後に浅色衣に易へ、倶に西角門にて朝を視る。百官十日素服絰帯、自後烏紗帽・黒角帯・素服、通前二十七日。帝常服にて奉天門にて朝を視り、百官浅色衣、鐘鼓を鳴らし鞭を鳴らすこと常の如く、朔望殿に昇らず。梓宮発引、百官始めて常服す。帝奉先等殿にて礼を行ふ、倶に常服。几筵に祭るには則ち其の服を服す。服満の日、中官を命じて代はりて祭らしむ」と。之に従ふ。尋ひて諭す、「皇妃列太子の後に在るは礼に非ず、其れ改正せよ」と。葬に及び、部臣旧儀を以て請ふ。詔して梓宮中道より行はしめ、虞祭制に如く九数を用ふ。玄宮を安ずるに左に居らしめ、他日即ち配祀す。部臣覆へして儀注を上す、席殿を改めて行享殿と曰ふ。又孝潔皇后は発引より神主京に還るまで将に半歳、令節に遇へば百官常服、今孝烈皇后は初十日に発引し、十五日に即ち還る、事礼同じからず、諸臣の服制を以て請ふ。帝命す、喪に随ひ往来する者は、仍ほ制服す。祭畢り、烏紗帽素服にて朝に入り、素冠素服にて事を弁ず。主を迎ふるには仍ほ制服し、思善門外にて安神の礼を行ひ、更に素冠素服にて事に従ふ。是に先立ち、帝孝烈を左に居らしめ、而して孝潔を遷す。既にして孝潔久しく安んず、妄りに動かすべからずとし、罷めて行はず。乃ち更に命じて孝烈を右に居らしめ、而して其の左を虚しくして以て自ら待つ。
穆宗の母杜氏、三十三年に薨ず。礼部言ふ、「成化中の淑妃紀氏の喪制を用ふべし。且つ裕王既に婚を成せり、服を持し喪を主り、葬を送りて城を出づべし」と。乃ち朝を輟むこと五日を議し、裕王は『孝慈録』に遵ひ斬衰三年。欽して大臣を遣はし主を題し、塋を開き壙を掩ひ、祠して后土に謝し、並びに工部官を用ひ、葬を送る儀仗人数皆旧に増す。帝礼の正しきに非ずと謂ひ、賢妃鄭氏の例を酌み考ふるを令す。ここに於て尚書歐陽德等覆へして儀注を上す、朝を輟むこと二日、鐘鼓を鳴らさず。帝浅淡色衣を服し、奉天門にて事を視り、百官浅色衣・烏紗帽・黒角帯にて朝参す。裕王に饋奠の事を主らしめ、王妃を率ひて宮に入り、素服にて哭して哀を尽くし、四拝して殮を視る。成服後、朝夕哭臨すること三日。後は毎日一奠、通前二十七日にして止む。仍ほ燕居に斬衰三年の制を尽くす。冊諡焚黄の日、祭儀を陳べ、裕王霊前に詣りて礼を行ふ。喪玄武門を出づ、裕王歩行して京城門外に送り、路祭畢りて、宮に還る。帝焚黄は制命なり、王の行ふべきに非ずと謂ひ、仍ほ常儀の如くす。礼部覆奏す、「皇妃焚黄の儀、伝訛已久し。皆拝献酒し、跪きて祝を読み、乃ち上尊諡の儀を参用し、而して諡を賜ふは制命なるを思はざるなり、其の祭文は皇帝遣はし諭すと称し、上尊諡と相同じからず。今旨を奉じて常礼を以て事に従ふ、当に賜諡を改議し、賜祭の礼の如くすべし。祝を読み、冊を宣ぶるは皆平立して拝せず」と。報可し、令と為す。
穆宗の皇后李氏は、裕邸の元妃なり、先に薨じ、西山に葬る。隆慶元年、諡を加へて孝懿皇后と為し、親しく世宗の几筵に告ぐ。皇極門に御し、大臣を遣はし節を持し冊宝を捧げて陵園に詣り之を上ぐ。神宗の母皇太后李氏、万暦四十二年に崩ず。帝礼部に諭して優に儀を具へしめ、帝衰服にて奠祭の礼を行ふ。穆廟皇妃・中宮妃嬪・太子・諸王・公主以下皆成服す。百官慈寧宮門外に詣りて哭臨す。命婦宮門に入りて哭臨す。余は倶に大喪の礼の如し。
○興宗帝后陵寢
洪武二十五年、皇太子薨ず、礼部に命じて喪礼を議せしむ。侍郎張智等議して曰く、「喪礼、父は長子の為に斉衰期年を服す。今皇帝は日を以て月に易ふべく、斉衰十二日を服し、祭畢りて之を釈く。内に在る文武官は公署に斎宿す。翌日、素服にて文華殿に入り臨み、衰麻服を給ふ。三日を過ぎて成服し、春和門に詣りて会哭す。明日、素服にて奉慰の礼を行ふ。其れ祭祀に当り及び葬を送る者は、仍ほ衰絰を以て行ふ。京に在りては、大小の祀事及び楽を停め、復土の日に至りて止む。嫁娶を六十日停む。外に在りては、文武官服を易へ、公署に於て哀を発す。次日、成服して礼を行ふ。大小の祀事及び楽を十三日停め、嫁娶を三十日停む」と。其の内外官祭を致す者は、帝光禄寺に令して供具せしめ、百官は惟だ哀を致し礼を行ふ。建文帝即位し、追諡して興宗孝康皇帝と為し、薦ぐる所の陵号伝はらず。
元妃常氏、興宗に先だちて薨ず。太祖素服し、朝を輟むこと三日。中宮素服にて哀臨し、皇太子斉衰す。葬畢りて、常服に易ふ。皇孫斬衰し、祭奠するときは則ち之を服す。諸王公主は制の如く服す。建文初め、追諡して孝康皇后と曰ふ。永楽初め、皆追削す。福王南京に立ち、復た帝后の故号す。
○睿宗帝后陵寢
睿宗帝后陵寢は安陸州に在り。世宗入りて立ち、追諡して睿宗献皇帝と曰ふ。陵廟を葺き、号を薦めて顕陵と曰ふ。既にして希進の徒屡りに言ふ、献皇帝の梓宮は天寿山に改葬すべしと。帝聴かず。嘉靖十七年、帝の母蔣太后崩ず。礼部言ふ、「歳除の日、大行皇太后服制二十七日已に満つ、適ひ正旦に遇ふ、黒冠・浅淡服を用ひて朝を受くべしと請ふ」と。疏未だ下らざるに、帝大学士夏言に諭す、「元旦玄極殿にて天を拝するは、仍ほ祭服を具し、先期一日は宜しく服を変ふべしや否や」と。礼部請ふ、「正旦天を拝し、朝を受け、及び先一日は倶に青服、孟春時享、前三日斎し、青服、臣下之に同じ、余は仍ほ孝貞皇太后喪礼の例の如し」と。従はず。ここに於て議を定む、歳除の日は服を変じて玄色吉衣、元旦は祭服玄極殿にて告祀の礼を行ひ、翼善冠・黄袍を具し殿に御し、百官公服にて詞を致し、鐘鼓を鳴らし鞭を鳴らし、堂上の楽を奏す。
是の時に南北遷祔を議し、久しく決せず。帝親しく承天に詣る。及び帰り、乃ち議を定めて梓宮南に祔す。礼部葬儀を上す、常典の外、帝復た増定す、太廟に辞謁し、承天門に辞奠し、朝陽門に遣奠し、題主後に降神饗神し、及び梓宮舟に登り、岸に昇る等の祭。梓宮発引、帝衰服にて諸礼を行ふこと儀の如し。百官歩行して朝陽門外に送り、奠献し、使をして遣奠の礼を行はしむ。通州に至り、題主官覆命す。神主京に回る、百官門外に奉迎し、帝衰服にて皇后以下を率ひて哭迎すること午門内、几筵殿に奉安す。梓宮の過ぐる河瀆江山の神祇は、倶に牲醴を以て祭を致す。勳臣青服にて礼を行ひ、梓宮席殿に昇る。先づ睿宗の旧陵に詣り、祾恩殿に奉遷し、復た梓宮を奉じて殿に至らしめ、新寢に合葬す。
○皇妃等喪葬
洪武七年九月、貴妃孫氏薨ず。子無く、太祖呉王橚に命じて喪事を主らしめ、慈母の服を服し、斬衰三年。東宮諸王は皆期を服す。ここに由りて『孝慈録』を作る。
永楽年間、貴妃王氏が薨去した。朝議を五日間停止し、皇帝の御祭一罈、皇后・皇妃・皇太子が各々祭一罈、親王一同で祭一罈、公主一同で祭一罈を捧げた。七七日・百日・再期(二周忌)の度に、皆祭文・贈諡冊を捧げ、焚黄の礼を行った。墳域を開き、官を遣わして后土を祀らせた。発引(出棺)の前日、辞霊の祭壇は初喪と同じとし、ただ六尚司及び内官・内使各一罈を増やした。啓奠・祖奠・遣奠には各々祭一罈を遣わした。発引の日、百官は路祭所まで送り、皇親・駙馬一同で一罈、公侯伯・文武官一同で一罈、外命婦一同で一罈を捧げた。通過する城門での祭祀は、内門には内官を、外門には太常寺官を遣わした。下葬の際、遣奠・遣祭一罈を捧げた。壙を掩う時、官を遣わして后土を祀らせ、霊轎を享堂に迎えて安神の礼を行い、遣祭一罈を捧げた。
天順七年、敬妃劉氏が薨去した。朝議を五日間停止し、帝は浅淡黄衣を着て奉天門で政務を視、百官は浅淡色の衣・烏紗帽・黒角帯で朝参した。冊文を霊柩の前に置き、皇太子以下が三献の礼を行った。霊柩前の儀仗は、内使女楽二十四人、花幡・雪柳の女隊子二十人、女将軍十一人であった。初喪から期年(一周忌)の辞霊まで、各々常祭の外に祭一罈を増やした。
弘治十四年、憲廟の麗妃章氏の発引に際し、朝議を一日停止した。
陪葬した諸妃は、歳時全て殿内で享祀を受けた。別に金山等の地に葬られた者は、各々内官を遣わして礼を行わせた。嘉靖年間に至り、初めて諸陵に併入し、祾恩殿の両傍で従祭することとし、紅紙の牌に「某皇帝第幾妃之位」と書いて、祭が終わればこれを焼いた。後に木刻の名号に改めた。嘉靖十三年、礼工二部に諭して言う、「世婦・御妻は皆九の数を用いる。九妃が同一の墓に、一つの享殿を共にすることを、定制とする」と。
皇太子及び妃の喪葬
洪武年間の懿文太子以後、成化八年に悼恭太子が薨じた。年僅か三歳であった。帝が礼部に諭し、礼は簡略に従うべきであり、王府及び文武官は共に香帛を進めることを免ずるとした。礼部が儀式を具えて上奏した。発喪の翌日より、朝議を三日間停止した。帝は翼善冠・素服を着し、七日で除いた。更に三日後、西角門に出御して朝政を視、鐘鼓を鳴らさず、祭祀には素食を用いた。文武群臣は、素服・麻布・絰帯・麻鞋・布で裏を包んだ紗帽を着用し、思善門に詣でて哭臨し、一日で除いた。第四日、素服で西角門に朝し奉慰した。在外の王府及び文武官は、素服で挙哀し、二日で除いた。
嘉靖二十八年、莊敬太子が薨じた。礼部が喪礼を上奏した。帝は言う、「天子は期服を絶つ。況や十五歳を外れて初めて三殤の外に出るのである。朕が服するのは礼に非ず、ただ朝議を十日間停止するのみとする。百官は制に従って成服し、十二日で除く。停柩の所に詣でて行うものとし、門への哭臨は罷める。葬儀には戚臣を遣わして礼を行わせる」と。
万暦四十七年二月、皇太子才人王氏が薨じた。皇太子妃郭氏の例に倣うことを命じた。朝議を五日間停止し、鐘鼓を鳴らさなかった。帝は浅淡色の衣を着、百官は青素服・黒角帯で朝参し、皇長孫が饋奠を主とした。
諸王及び妃・公主の喪葬諸儀
洪武二十八年、秦王樉が薨じた。詔して喪礼を定めさせた。礼部尚書任亨泰が言う、「宋の制を考うるに、朝議を五日間停止すべきである。今、時享に遇うので、暫く一日停止することを請う。皇帝及び親王以下から、郡主及び靖江王の宮眷の服制まで、皆魯王の喪礼と同じである。皇太子は斉衰期を服し、これも日を以て月に易え、十二日で除き、素服で期年とする」と。これに従った。
定制:親王の喪には、朝議を三日間停止する。礼部が奏して官を遣わし喪葬礼を掌行させ、翰林院が祭文・諡冊文・壙志文を撰し、工部が銘旌を造り、官を遣わして墳墓を造らせ、欽天監官が葬地を卜し、国子監監生八名が各王府に報訃する。御祭一、皇太后・皇后・東宮各一、在京文武官各一を捧げる。初喪から除服まで、御祭は凡そ十三壇、封内の文武官の祭は一壇である。その服制は、王妃・世子・衆子及び郡王・郡主から下は宮人まで、斬衰三年、封内の文武官は斉衰三日、哭臨五日で除く。城内の軍民は素服五日である。郡王・衆子・郡君は、兄及び伯叔父のために斉衰期年、郡王妃は小功である。凡そ親王妃の喪には、御祭一罈、皇太后中宮・東宮・公主各祭一罈を捧げる。布政司が官を委ねて壙を開き合葬する。継妃・次妃の祭礼は同じである。その夫人には則ち御祭一罈のみである。皆壙を造り祔葬する。郡王の喪には、朝議を一日停止する。行人司が遣わされて喪葬礼を掌行し、その他は多く親王と同じであるが、皇太后・皇后の祭は無い。郡王妃は親王妃と同じであるが、公主の祭は無い。合葬する郡王の継妃・次妃の喪礼は、皆正妃と同じである。凡そ世子の喪には、御祭一、東宮祭一を捧げる。遇七(各七日)及び百日・下葬・期年・除服に、御祭各一を捧げる。凡そ世孫の喪礼は、世子の如くとするが、七七及び大祥の祭を減ずる。凡そ鎮国将軍には、只聞喪・百日・下葬の三祭のみ、奉国将軍以下には、御祭一を捧げる。
初め、洪武九年五月、晉王妃謝氏が薨じた。喪服の制を議することを命じた。侍講学士宋濂等が議して言う、「唐の制を按ずるに、皇帝は皇妃等のために挙哀する。宋の制では、皇帝は皇親のために挙哀する。今、唐・宋の制を参酌し、皇帝及び中宮は大功を服し、諸妃は皆小功を服し、南昌皇妃は大功を服し、東宮・公主・親王等は皆小功を服し、晉王は斉衰期を服し、靖江王妃は小功を服し、王妃は緦麻を服し、朝議を三日間停止する。成服した後、皇帝は素服で喪次に入り、十五声を挙音する。百官が奉慰し、皇帝は喪次を出て服を解き、常服を着る」と。制して曰く「可」。その後、王妃の喪はこれに倣った。
正統十三年、親王の塋地を五十畝、房舎を十五間と定めた。郡王の塋地は三十畝、房舎は九間。郡王の子の塋地は二十畝、房舎は三間、郡主・県主の塋地は十畝、房舎は三間とした。天順二年、礼部が奏して定め、親王以下は文武大臣の例に依るものとした。或いは王、或いは妃の先に故くなった者は、その壙を合わせて造る。後に葬る者は、只所在の官司に安葬させるとした。継妃は則ちその傍らに祔葬し、同一の享堂とする。
成化八年二月、忻王見治が薨じた。発引の日、帝は朝政を視なかった。葬儀に及んで、朝議を一日停止した。十三年、四川按察使彭韶が言う、「親王・郡王が薨逝すると、皆官を遣わして致祭し、使臣が絡繹として往来し、人夫が労擾する。今後は惟だ親王のみ旧の如くとし、その郡王は初喪に官を遣わして一祭し、残りは併せて本処の官を遣わすこととする。凡そ王国の母妃の喪には、俱に内官を遣わして致祭する。今、宗婦が衆多であり、その地に鎮守太監がいる者は、宜しくこれに行礼させよ。又、王国の塋葬は、夫婦同穴である。初めに造る時に、官を遣わして監修し、壙を開いて合葬するが、乞うらくは只本処の官司に命ずるに止めよ」と。帝は礼部の覆奏に従い、王妃の祭礼は旧の如くとし、残りは議に依って行わせた。弘治十六年七月、申王祐楷が薨じた。礼部が言う、「以前の沂穆王が薨じた時は、未だ府を出ていなかった。申王は既に府を出たが未だ之国していないので、沂穆王の例を参酌し在外親王の例を以てこれを行おうと擬する」と。
王妃の葬地が『会典』に載るものは、明初に追封された寿春等十王及び妃で、墳墓は鳳陽府西北二十五里の白塔にあり、祠祭署・陵戸を設けた。南昌等五王及び妃は鳳陽の皇陵に祔葬され、有司が歳時に祭祀し、皆これに与った。懐献世子以下の諸王で国に赴かなかった者は多く西山に葬られ、歳時に内官を遣わして礼を行った。
永楽十五年正月、永安公主薨ず。時に初めて張燈の宴を挙げんとし、遂にこれを罷む。朝を輟むこと四日、祭を賜い、有司に命じて喪葬を治めしむ。二月、太祖第八女福清公主薨ず。朝を輟むこと三日。制を定め、凡そ公主の喪を聞けば、朝を輟むこと一日とす。初喪より大祥に至るまで、御祭凡そ十二壇。下葬には、朝を輟むこと一日。儀は諸王に比し稍々殺ぎ、喪制は同じくすれども、各官は服せず、未だ下嫁せず西山に葬る者は、歳時に内官を遣わして礼を行ふ。