明史

志第三十四 礼十二

志第三十四 礼十二(凶礼一)

○山陵

次に第五は凶礼という。凡そ山陵・寝廟と喪葬・服紀及び士庶の喪制は、皆類を以て編次す。その謁陵・忌辰の礼も、亦附載す。

○山陵

太祖即位し、四世の帝号を追尊す。皇祖考熙祖の墓は鳳陽府泗州蠙城の北に在り、号を薦めて祖陵と曰う。祠祭署を設け、奉祀一員を置き、陵戸二百九十三。皇考仁祖の墓は鳳陽府太平郷に在り。太祖濠に至り、嘗て改葬を議すれど果たさず。因って土を増してその封を培ち、陵旁の故人汪文・劉英等二十家に守視せしむ。洪武二年、号を薦めて英陵と曰い、後改めて皇陵と称す。皇陵衛並びに祠祭署を設け、奉祀一員・祀丞三員、倶に勲旧世襲。陵戸三千三百四十二、直宿灑掃す。礼生二十四人。四年、祖陵廟を建つ。唐・宋の同堂異室の制に倣い、前殿寝殿倶に十五楹、東西旁各二、夾室と為し、晋の王肅の議する所の如し。中三楹通じて一室と為し、徳祖の神位を奉じ、以て祫祭に備う。東一楹は懿祖を奉じ、西一楹は熙祖を奉ず。十九年、皇太子を命じて泗州に往き祖陵を修繕せしめ、三祖帝后の冠服を葬る。

三十一年、太祖崩ず。礼部議を定め、京官は喪を聞く次日、素服・烏紗帽・黒角帯、内府に赴き遺詔を聴く。本署に於いて斎宿し、朝晡に几筵に詣りて哭す。三日を過ぎて成服し、朝晡に哭臨し、葬に至りて乃ち止む。成服の日より始め、二十七日にして除く。命婦は孝服し、首飾を去り、西華門より入り哭臨す。諸王・世子・王妃・郡主・内使・宮人倶に斬衰三年、二十七月にして除く。凡そ臨朝視事するは、素服・烏紗帽・黒角帯、退朝しては衰服す。群臣は麻布員領衫・麻布冠・麻絰・麻鞋。命婦は麻布大袖長衫、麻布蓋頭。明器は鹵簿の如し。神主は栗を用い、制度は家礼に依る。行人、遺詔を天下に頒つ。在外の百官は、詔書の到る日、素服・烏紗帽・黒角帯、四拝す。宣読訖るを聴き、哀を挙げ、再び四拝す。三日にして成服し、毎旦香案を設け哭臨し、三日にして除く。各遣官して京に赴き致祭せしめ、祭物は礼部備う。孝陵に神宮監並びに孝陵衛及び祠祭署を設く。建文帝詔して三年の喪を行わしむ、事は『本紀』に在り。革除に遭えるを以て、喪葬の制は皆伝わらず。

文帝、榆木川にて崩ず。遺詔、一に太祖の遺制に遵う。京師、訃を聞き、皇太子以下皆服を易う。宮中に几筵を設け、朝夕哭奠す。百官素服し、朝夕思善門外に哭臨す。礼部喪礼を定め、宮中自皇太子以下及び諸王・公主、成服の日を始めとし、斬衰三年、二十七月にして除く。服内は音楽・嫁娶・祭礼を停め、百日に止む。文武官は喪を聞く明日、思善門外に詣りて哭し、五拝三叩頭、本署に宿し、酒肉を飲食せず。四日衰服し、朝夕哭臨三日、又朝臨十日。衰服二十七日。凡そ入朝及び視事するは、白布にて紗帽を裹み、帯を垂れ、素服・腰絰・麻鞋。退朝しては衰服し、二十七日外は、素服・烏紗帽・黒角帯、二十七月にして除く。聴選・弁事等の官は衰服し、監生・吏典・僧道は素服し、順天府に赴き、朝夕哭臨三日、又朝臨十日。命婦は第四日に西華門より入り、哭臨三日、倶に素服し、二十七日にして除く。凡そ音楽祭祀は、並びに百日を輟む。婚嫁は、官は百日を停め、軍民は一月を停む。軍民は素服し、婦人は素服し妝飾せず、倶に二十七日。在外は喪を聞く日を始めとし、三日を過ぎて成服し、就て本署に哭臨し、余は京官の如し。命婦は素服し哀を挙げ三日、二十七日にして除く。軍民男女は皆素服十三日、余は倶に京師の如し。凡そ京官の服は、麻布一匹を給して自制せしむ。四夷の使臣は、工部造りて与う。諸王・公主の遣官及び内外文武官、几筵に詣り祭祀する者は、光禄寺物を備え、翰林院文を撰し、礼部引いて思善門外に赴きて行礼せしむ。京城は喪を聞く日を始めとし、寺観各鐘三万杵を鳴らし、屠宰を四十九日禁ず。喪将に至らんとし、文武官衰服し、軍民素服して居庸関に赴き哭迎す。皇太子・親王及び群臣皆衰服して郊に哭迎す。大内に至り、仁智殿に奉安し、加えて斂め、奉じて梓宮に納む。中官を遣わし大行皇帝の遺衣冠を奉ぜしむ。書を作り漢王・趙王に賜う。礼臣言う、「喪服已に二十七日を逾ゆ、請う遺命の如く、日を以て月に易えん」と。帝は梓宮殯に在るを以て、易うるに忍びず、素冠・麻衣・麻絰して朝を視し、退き仍って衰服し、群臣は其の便に聴す。

十二月、礼部が葬祭の儀式を進上した。発引の三日前、百官は斎戒する。官を遣わして葬期を天地宗社に告げ、皇帝は衰服して几筵に告げ、皇太子以下は皆衰服して班に随い礼を行う。百官は衰服して一日に一度臨み、発引までとする。前日、官を遣わして金水橋・午門・端門・承天門・大明門・徳勝門及び経過する河橋・京都で祀るべき神祇及び経過する祀るべき神祠を祭り、儀式には酒果肴饌を用いる。この夕、辞奠を設け、帝后太子以下は皆衰服し、順序に従って祭る。司礼監・礼部・錦衣衛が執事者に命じて大昇輿を設け、葬儀を午門外及び大明門外に陳列する。将に発せんとするに、啓奠を設ける。皇帝及び皇太子以下は衰服して四拝する。帛を奠め、酒を献じ、祝を読み、四拝する。哀を挙げ、興り、哀止み、瘞を望む。執事者が昇り、帷幄を徹し、梓宮を拭い、龍輴を几筵殿下に進める。神亭・神帛輿・諡冊宝輿を丹陛上に設け、祖奠を啓奠の儀の如く設ける。皇帝は梓宮前に詣り、西に向かって立つ。皇太子・親王は次第に侍立する。内侍は梓宮前で奏し、霊駕の進発を請い、冊宝・神帛を捧げて輿中に置く。次に銘旌が出る。執事官が梓宮を昇り、内執事が翣を持ち左右に蔽う。殿を降り、内侍官が梓宮の龍輴への昇ることを請い、執事官が彩帷をもって梓宮を幕し、内侍が傘扇を持ち儀式の如く侍衛する。旧御儀仗が前に居り、冊宝・神帛・神亭・銘旌が次第に行く。皇帝は殿左門より出で、后妃・皇太子・親王及び宮妃が後に随う。午門内に至り、遣奠を設け、祖奠の儀の如くする。内侍が霊駕の進発を請い、皇帝以下は哭して哀を尽くし、皆還宮する。梓宮が午門外に至ると、礼官が梓宮の大昇輿への昇ることを請う。執事官が昇輿を奉じて終わり、礼官が霊駕の進発を請う。皇太子・親王以下は哭して端門外まで送り出し、辞祖の礼を行う。執事官が褥位を太廟の帛香案前に設ける。皇太子は常服に易え、神帛を捧げ、左門より入り、褥位に至り跪き、神帛を褥に置き、興り、神の後に正立して跪く。礼官が左に跪き、奏して太宗体天弘道高明広運聖武神功純仁至孝文皇帝の謁辞とす。皇太子は俯伏し、興る。賛して五拝三叩頭終わり、皇太子は神帛を捧げて興り、礼官に授ける。礼官が輿中に安め、霊駕の進発を請う。皇太子はなお喪服し、親王以下は随行する。梓宮は大明中門より出で、皇太子以下は左門より出で、歩行して徳勝門外まで送り、馬に乗って陵に至り、途上で朝夕哭奠臨する。諸王以下及び百官・軍民耆老・四品以上の命婦は、順序に従って沿道に祭を設ける。文武官で山陵の執事に係らざる者は悉く還る。陵に至り、執事官は先ず龍輴を献殿門外に陳列し、大昇輿の至るを俟つ。礼官が霊駕の輿を降り、龍輴に昇り献殿に詣ることを請う。執事官が梓宮を奉じて入り、皇太子・親王は左門より入り、安奉終わり、安神の礼を行う。皇太子は四拝し、興り、酒を奠め、祝を読む。俯伏し、興り、四拝し、哀を挙げる。親王以下は陪拝し、常儀の如し。官を遣わして后土及び天寿山を祀告し、遷奠の礼を設け、上の儀の如くする。将に玄宮を掩わんとするに、皇太子以下は梓宮前に詣り跪く。内侍が霊駕の玄宮に赴くことを請い、執事官が梓宮を奉じて皇堂に入る。内侍が冊宝を捧げて前に置き、明器を陳列し、贈礼を行う。皇太子は四拝し興り、酒を奠め、贈を進める。執事官が玉帛を捧げて右より進め、皇太子は受けて献じ、内執事に授け、捧げて皇堂に入れ安置する。俯伏し、興り、四拝し、哀を挙げ、ここに玄宮を掩う。饗礼を行い、遷奠の儀の如し。官を遣わして后土及び天寿山を祀謝する。香案を玄宮門外に設け、題主案を前に設け、西に向く。皇太子の拜位を前に設け、北に向く。内侍が手を盥ぎ主を奉じて案上に置き、題主官が手を盥ぎ西に向かって題し終わり、内侍が主を奉じて神座に安め、帛箱中に蔵める。内侍が奏して太宗文皇帝の神霊の神主に上ることを請う。賛して四拝し、興り、酒を献じ、祝を読む。俯伏し、興り、四拝し、哀を挙げる。内侍が櫝を啓き主を受け終わり、神主の座を降り輿に昇ることを請う。献殿に至り、奏して神主の輿を降り座に昇ることを請い、初虞の礼を行う。皇太子は四拝し、初献し、帛酒を奠め、祝を読み、俯伏し、興る。亜献・終献し、四拝し、哀を挙げ、瘞を望む。内官が神帛箱を捧げて殿前に埋め、兇器を野に焚く。葬日の初虞、柔日の再虞、剛日の三虞、後に間日ごとに一虞、九虞で止む。途上では、皇太子が礼を行う。京に還れば、皇帝が礼を行う。

神主将に還らんとするに、内侍が神主の座を降り輿に昇ることを請い、儀仗侍衛は儀式の如し。皇太子は随い、なお朝夕奠する。京に至り、先ず城外に幄次を置き、儀衛を列ね、鼓吹は備えるも作さず。百官は衰服して城外に候し、主が幄次に入れば、百官は序列し、五拝三叩首する。神主が行けば、百官は従う。午門外に至り、皇帝は衰服して午門内で迎え、哀を挙げ、歩行して主を導き几筵殿に昇る。皇帝は殿上に立ち、内侍が神主の輿を降り座に昇ることを請い、安神の礼を行う。皇帝は四拝し、興り、酒を奠め、祝を読む。俯伏し、興り、四拝し、哀を挙げる。皇太子以下は陪拝する。百官は思善門外で儀式の如く礼を行う。明日、百官は奉慰の礼を行う。

卒哭は虞祭後の剛日を用い、礼は虞祭と同じく、ここに朝夕奠を罷む。祔饗は卒哭の明日を用い、太常寺が醴饌を太廟に設け、時饗の儀の如くし、楽は設くるも作さず。儀衛傘扇を午門外に設け、内侍が御輦を几筵殿前に進め、皇帝は衰服して四拝し、哀を挙げる。興り、哀止み、拜位の東に立ち、西に向く。内侍が神主の座を降り輿に昇り、太廟に詣り祔饗することを請う。思善門外に至り、皇帝は祭服に易え、輅に昇り、随って午門外に至り、御輦前に詣り跪く。太常卿が奏して神主の輿を降りることを請い、皇帝は俯伏し、興り、主を捧げて左門より入り、丹陛上に至る。典儀が唱えて「太宗文皇帝廟に謁す」と。廟前に至り、内侍が主を捧げて褥位に至らせ、皇帝は後に八拝礼を行う。毎廟俱に同じ。内侍が主を捧げて北に向かい、太常卿が壇の東に立ち、西に向く。「賜坐」と唱え、皇帝は圭を搢え、神主を奉じて座に安め、拜位に詣り祭礼を行い、時饗の儀の如し。太常卿が奏して神主の几筵に還ることを請い、皇帝は主を捧げて廟左門より出で、御輦に安奉する。皇帝は輅に昇り随い、思善門に至り輅を降り、衰服に易え、随って几筵殿前に至る。内侍が神主の輿を降り座に昇ることを請う。皇帝は殿左門より入り、安神の礼終わり、服を釈して還宮する。明日、百官は素服して奉慰の礼を行う。

大祥に、神主を太廟に奉安し、礼は廟制に詳しい。皇帝は几筵殿を祭告し、皇太后・皇后以下は各々一壇を祭り、王府は官を遣わして共に一壇を祭り、在京の文武官は一壇を祭る。神主が几筵殿を出づるより、内侍は即ち几筵・帷幄を撤し、思善門外で焚く。禫祭には、親王を遣わして陵に詣り礼を行わしむ。

洪熙元年、仁宗崩御す。皇太子は南京より還り、良郷に至る。宮中始めて喪を発し、遺詔を宣す。文武官は常服にて午門外にて四拝す。宣畢りて、哀を挙げ、復た四拝す。素服に易え、皇太子を盧溝橋に迎う。橋南に幕次香案を設く。皇太子至り、常服にて、次に詣り四拝す。遺詔を宣するを聴き、復た四拝し、哀を尽くして哭す。素服に易えて長安ちょうあん右門に至り下馬し、歩き哭して宮門外に至り、冠服を釈け、髪を披いて梓宮の前に詣り、五拝三叩頭し、哀を尽くして哭す。宮中は皇后以下皆髪を披いて哭す。皇太子は喪次に就き東にて、母后に見ゆ。親王は次を以て皇太子に見え畢り、各喪次に居り、祭告の礼を行ふ。喪儀は俱に旧の如し。惟だ在京にて朝夕哭臨するを三日と改め、後また朝臨を止めて七日とし、在外にては朝夕哭臨するを三日と止め、朝臨の礼無し。文武官一品より四品の命婦は哭臨に入る。服除くや、礼臣、帝の浅淡色の衣・烏紗翼善冠・黒角帯を服し、奉天門に於いて事を視るを請ふ。百官は皆浅淡色の衣・烏紗帽・黒角帯を以て、朝参は常の儀の如し。退朝して、仍た太宗の服制を終ふ。帝曰く、「朕が心何ぞ能く忍ばん、一日を加ふるも已に愈れりと雖も」と。仍た素服にて西角門に坐し、鐘鼓を鳴らさず、百日を令して後に再び議せしむ。已に百日、礼臣復た奉天門に御するを請ふ。帝、山陵の事畢るを候ふを命ず。

先づ是れ、献陵を営むを詔す。帝、尚書蹇義・夏原吉を召して諭して曰く、「国家は四海の富を以て親を葬る、豈に労費を惜しまんや。然れども古の聖帝明王は皆倹制に従ふ。孝子は其の親の体魄を永久に保たんと思ふも、亦厚葬を欲せざるなり。況んや皇考の遺詔は、天下の共に知る所、宜しく先志に遵ふべし」と。是に於いて寝殿五楹を建て、左右廡神厨各五楹、門楼三楹。其の制は長陵に較べて遠く殺ぎ、皆帝の規画する所なり。吏部尚書蹇義等、祔廟の後、素服にて西角門に御し事を視るを請ふ。孟冬歳暮に至り、時饗の礼を行ふ。鐘鼓を鳴らし、黄袍を以て奉天門に御して朝を視る。禫祭の後、始めて素服を釈く。之に従ふ。

宣宗崩御し、喪葬は献陵の故事の如し。惟だ命婦の哭臨を、三品以上よりと改む。英宗崩御し、遺命して東宮百日を過ぎて婚を成し、宮妃を以て殉葬するを得ざらしむ。憲宗即位し、百日に奉天門に御して朝を視る。礼儀悉く吉典を用ふ。憲宗崩御し、孝宗既に服を除くも、仍た素翼善冠・麻衣・腰絰を以て朝を視り、鐘鼓を鳴らさず、百官は素服にて朝参す。百日後に常の如し。弘治元年正旦、時に未だ小祥に及ばず、帝黄袍を以て殿に御し朝を受く。次日、仍た黒翼善冠、浅淡服・犀帯を以てす。大祥に及び、神主を奉安して太廟及び奉先殿にす。禫祭に至り、朝を免ず。日を択び官を遣わし陵に詣りて祭を致す。

孝宗崩御し、工部言ふ、「大行の遺詔、惓惓として節用愛民を以て本と為す。内府諸司に勅し、凡そ葬儀冥器並びに山陵殿宇は、務めて減省に従はんことを乞ふ」と。礼部言ふ、「百日例に応じて服を変ふべし。但だ梓宮未だ山陵に入らず、請ふらくは仍た素翼善冠・麻布袍服・腰絰を以て、西角門に御し事を視り、鐘鼓を鳴らさず、百官は仍た素服にて朝参すべし」と。之に従ふ。辞霊より虞祔に至るまで、栄王俱に陪列に在り。既にして王疾を以て奏して免る。礼部、駙馬等の官を以て帛を捧げて祖に朝するを請ふ。帝曰く、「祖に朝し帛を捧ぐるは、朕自ら行はん」と。発引、親王は止めて大明門外に送る。其の途に在り及び陵に至りて奠に臨むは、俱に護喪官礼を行ふ。後遂に例と為る。

世宗崩御し、令旨を以て命婦の哭臨を免ず。隆慶元年正月、未だ二十七日に及ばず、帝衰服を以て宣治門に御し、百官は素服・腰絰を以て奉慰す。発引、帝遣奠の礼を行ふ。祖に朝するに至りては、則ち官を遣わし帛を捧げて礼を行はしむ。梓宮順天府に至り、皇親命婦及び三品以上の命婦祭す。余は旧制の如し。光宗即位し、礼部言ふ、「喪服は列代皆制度有り、而して孝宗より断ず。蓋し孝宗は親に篤く、喪礼詳にして且つ備はり、故に武・世・穆の三廟皆之を宗とす。今旧制に遵ひ、衰服を以て文華門に御し事を視り、百官は素服にて朝参し、梓宮発引を候ひて除かん」と。之に従ふ。

明は仁宗献陵以後、規制儉約なり。世宗永陵に葬り、其の制始めて侈なり。神宗定陵に葬るに及び、給事中惠世揚・御史薛貞陵工を巡視し、費八百余万に至るといふ。