嘉礼一
登極儀、大朝儀、常朝儀、皇太子親王朝儀、諸王来朝儀、諸司朝覲儀、中宮受朝儀、朝賀東宮儀、大宴儀、上尊号徽号儀
登極儀
即位の日、先ず天地に告祀する。礼が成ると、即ち南郊において帝位に即く。丞相は百官以下及び都民の耆老を率い、拝賀し舞踏し、万歳と三度呼ぶ。鹵簿を整え導従し、太廟に詣で、追尊した四世の冊宝を上せ、社稷に告祀する。還り、袞冕を整え、奉天殿に御し、百官が表を上って賀する。
先だって、侍儀司は表案を丹墀内道の西北に設け、丞相以下の拝位を内道の東西に設け、毎等位を異にし、重行して北面する。捧表・展表・宣表官の位は表案の西に、東向き。糾儀御史二人は表案の南に、東西向き。宿衛鎮撫二人は東西の陛下に、護衛百戸二十四人はその南に、稍々後ろに。知班二人は、文武官の拝位の北に、東西向き。通賛・賛礼二人は知班の北に、通賛は西、賛礼は東。引文武班四人は文武官の拝位の北に、稍々後ろに、東西向き。引殿前班二人は引文武班の南に。挙表案二人は引文武班の北に。挙殿上表案二人は西陛下に、東向き。丹陛上には殿前班指揮司官三人を、東向きに。宣徽院官三人を、西向きに。儀鸞司官は殿中門の左右に、護衛千戸八人は殿の東西門に、俱に東西向き。鳴鞭四人は殿前班の南に、北向き。将軍六人は殿門の左右に、天武将軍四人は陛上の四隅に、俱に東西向き。殿上では、尚宝司は宝案を正中に設け、侍儀司は表案を宝案の南に設ける。文武侍従両班は殿上の東西に、文は起居注・給事中・殿中侍御史・尚宝卿、武は懸刀指揮、東西向き。受表官は文侍従班の南に、西向き。内賛二人は受表官の南に、捲簾将軍二人は簾の前に、俱に東西向き。
この日、拱衛司は鹵簿を陳列し、甲士を午門外に列ね、旗仗を列ね、五輅を奉天門外に設ける。侍儀舎人二名、表案を挙げて入る。鼓の初厳、百官は朝服を着て午門外に立つ。通賛・賛礼・宿衛官・諸侍衛及び尚宝卿侍従官が入る。鼓の三厳、丞相以下が入る。皇帝は袞冕を着て御座に昇り、大楽鼓吹が振作する。楽が止むと、将軍が簾を捲き、尚宝卿が宝を案に置く。拱衛司が鞭を鳴らし、引班が百官を導いて丹墀の拝位に入る。初め行く時は楽が奏され、位に至ると楽が止む。知班が班を賛し、賛礼が拝を賛する。楽が奏され、四拝し、興る。楽が止む。捧表以下の官は殿の西門より入る。内賛が進表を賛する。捧表官は跪いて捧げる。受表官は笏を搢え、跪いて受け、案に置く。笏を出し、興り、退いて立ち、東向き。内賛が宣表を賛する。宣表官が進み出て、笏を搢え、跪く。展表官は笏を搢え、共に跪く。宣し終わると、展表官は笏を出し、表を以て案に復し、俱に退く。宣表官は俯伏して興る。俱に殿の西門より出て、復位する。賛礼が拝を賛する。楽が奏され、四拝し、楽が止む。笏を搢え、三度鞠躬する。舞踏する。拱手して額に加え、万歳と三度呼ぶ。笏を出し、俯伏して興る。楽が奏され、四拝し、賀が終わる。ここに官を遣わして皇后を冊拝し、皇太子を冊立し、即位の詔を以て天下に告げる。
成祖の即位は倉卒であり、その議は詳らかでない。仁宗が即位するに当たり、先だって、司設監は御座を奉天門に陳列し、欽天監は定時鼓を設け、尚宝司は宝案を設け、教坊司は中和韶楽を設けるが、奏さない。この日早く、官を遣わして天地宗社に告げ、皇帝は孝服を着て几筵に告げる。時至ると、鐘鼓を鳴らし、鹵簿を設ける。皇帝は袞冕を着て、奉天門に御する。百官は朝服を着て、午門に入る。鴻臚寺が執事官を導いて礼を行い、御座に昇ることを請う。皇帝は中門より出る。座に昇り、鞭を鳴らす。百官が表を上り、礼を行い、詔を頒つこと、俱に儀の如し。宣宗以後、儲宮が嗣立する者は皆同じ。正徳十六年、世宗が大統を承け入る。先だって行殿を宣武門外に造り、南向き。帷幄御座を設け、翼善冠服及び鹵簿大駕を備えて待つ。期に至り、百官が郊迎する。駕は行殿に入り、四拝の礼を行う。明日、大明門より入る。詔草を省み、年号を改め、素服を着て大行皇帝の几筵に詣で謁告する。終わると、香案を奉天殿丹陛上に設ける。皇帝は袞冕を着て、天地に告げる礼を行う。奉先殿・奉慈殿に詣で謁告し、仍って大行皇帝の几筵・慈寿皇太后・荘粛皇后の前で各々礼を行い、遂に華蓋殿に御する。百官は朝服を着て入る。旨を伝えて賀を免じ、五拝三稽首する。鴻臚寺官が殿に昇ることを請うと、帝は中門より出て奉天殿に御する。鞭を鳴らし、拝を賛し、詔を頒つこと、制の如し。
大朝儀
漢の正会の礼は、夜漏未だ尽きざる七刻に、鐘を鳴らして賀を受ける。公卿以下は贄を執って庭に来り、二千石以上は殿に昇り、万歳と称し、然る後に宴饗する。晋の『咸寧注』には、晨賀と晝会との分かれがある。唐の制では、正旦・冬至・五月朔・千秋節に、咸しく朝賀を受ける。宋はこれに因る。
洪武三十年、同文・玉帛案を改めて定め、ともに殿中に進めて安んじ、表を宣し畢りて、挙げて宝案の南に置く。嘉靖十六年、蕃国貢方物案を改めて定め、丹陛中道の左右に入れ、定時鼓を文楼上に設け、大楽を奉天門内の東西に、北向きに陳列す。他の儀もまた少し増損有り。
立春の日に春を進むるには、都城府県が春案を挙げて東階より昇り、跪きて丹陛中道に置き、俯伏し、興く。拝を賛し、楽作る。四拝し、興き、楽止む。文武官北向きに立ち、致詞官が中道の東に詣で、跪きて奏して云う、「新春吉辰、礼当に慶賀すべし。」拝を賛し、楽作る。五拝三叩頭し、興き、楽止む。儀礼司が礼畢を奏す。正統十一年、正旦立春、礼部議して順天府官が春を進めた後、百官即ち班に詣でて正旦の礼を賀す。旧制、冬至の日に賀礼を行ふ。嘉靖九年、二郊を分祀し、冬至を以て大報と為し、是の日に慶成の礼を行ふ。次日、帝は内殿に詣で、節祭の礼を行ふ。また母后の前に詣でて賀礼を行ひ畢りて、始めて奉天殿に御して賀を受けしむ。
常朝儀
古礼、天子に外朝・内朝・燕朝有り。漢の宣帝は五日に一朝す。唐制、天子日々紫宸殿に御して群臣に見ゆるを常参と曰ひ、朔望に宣政殿に御して群臣に見ゆるを入閣と曰ふ。宋は則ち侍従官日々垂拱に朝するを常参と謂ひ、百司五日に一朝紫宸するを六参と為し、在京朝官朔望に紫宸に朝するを朔参・望参と為す。
また凡そ早朝には、華蓋殿に御し、文武官は鹿頂の外東西に立ち、鳴鞭し、次第に行禮し畢る。四品以上の官は殿内に入り侍し、五品以下は仍って前に北向きに立つ。事を奏する者出でて班を立ち、奏し畢りて、鳴鞭し次第に出づ。もし奉天殿に御すれば、先ず華蓋殿に行禮す。事を奏し畢りて、五品以下は丹墀に詣で、北向きに立ち、五品以上及び翰林院・給事中・御史は中左・中右門にて鳴鞭を待ち、殿内に詣でて序を立て、朝退して出づ。凡そ百官が御前に侍坐するに、官に奏事有れば、必ず起立し、奏し畢りて復た坐す。後に皇帝丹墀を行くには、常に北面し、南向かず、左右周旋して北に背かず。皇帝が奉天門及び丹陛に昇るに、随従官は径に中道及び王道よりすべからず。二十四年、侍班官を定む:東は則ち六部都察院堂上官・十三道掌印御史・通政司・大理寺・太常寺・太僕寺・応天府・翰林院・春坊・光禄寺・欽天監・尚宝司・太医院・五軍断事及び京県官、西は則ち五軍都督・錦衣衛指揮・各衛掌印指揮・給事中・中書舎人。また礼部に百官朝牌を置かしめ、大いに品級を書き、丹墀左右の木柵上に列ね、序に依りて立たしむ。二十六年、凡そ殿に入るには必ず履鞋すべしと令す。
永楽初年、内閣官に命じて朝に侍するときは金台の東に立ち、錦衣衛は西に立たせたが、後に御道に移し、東西に対立させた。四年、六部及び近侍の官に諭して言うには、「早朝は四方からの奏事が多い。午後は事が簡略であるから、君臣の間でゆったりと論を述べることができる。今後、相談すべき事がある者は、皆、晩朝で行うように。」四年、行在の礼部に諭して言うには、「北京は冬の気候が厳しく凝り固まり、群臣が早朝に奏事するとき、長く立っていると耐えられない。今後は朝が終わった後、右順門内の便殿で奏事するように。」
景泰初年、午朝の儀礼を定めた。凡そ午朝には、左順門に御し、宝案を設ける。執事奏事官は左掖門外で待機する。御駕が出ると、順次に入る。内閣、五府、六部の奏事官、六科の侍班官は、案の西側に序列して立つ。侍班御史二名、序班二名、将軍四名は、案の南で北を向いて立つ。鳴賛一名は、案の東で西を向いて立つ。錦衣衛、鴻臚寺は東を向いて立つ。将軍を管轄する官、侍衛官は将軍の西に立つ。府部の奏事が終わると、案を撤去し、各官は退く。密事がある者は、御前に行って奏上する。
凡そ入朝の順序は、洪武二十四年、将軍が先に入り、近侍がこれに次ぎ、公・侯・駙馬・伯がさらにこれに次ぎ、五府・六部がさらにこれに次ぎ、応天府及び在京の雑職官員がさらにこれに次ぐことを命じた。成化十四年、進士は担当する役所の順序に従い、現任官の後に立つことを命じた。
皇太子親王の朝儀
二十六年、乾清宮での朝賀を改定した。その日、皇帝・皇后が座に昇り、侍従が儀礼に従って導引し、引礼が皇太子及び妃、親王及び妃を上位の前に導く。賛礼が四拝を唱え、起き上がる。賛礼が皇太子を前に導き、跪を唱え、引礼が太子妃、諸王及び妃は皆跪くことを唱える。皇太子が祝辞を述べる、前と同じで、伝制はない。賛礼が皇太子の俯伏を唱え、起き上がり、引礼が諸王の俯伏を唱え、起き上がり、太子妃、諸王妃は皆起き上がる。賛礼が皇太子を元の位置に戻す。拝を唱え、皇太子以下は皆四拝する。礼が終わると、引礼が皇后の前に導き、その前後の賛拝は皆、皇帝に朝する儀礼と同じである。祝辞は「母后殿下」と称する。礼が終わると、退出する。七年に改定し、賀辞を述べず、ただ八拝礼を行うのみとした。皇太后への朝賀礼は皆同じである。
諸王来朝の儀礼
古くは、六年に五服が一度朝見した。漢の法には四見の儀礼があった。魏の制度では、藩王は入覲することができなかった。晋の泰始年間に、王公以下で入朝する者は、四方それぞれ二番と定めた。唐以後、親藩は多く国に就かなかった。明代は古の封建に倣い、親王の藩国は常に入朝せず、朝見すると賜賚が甚だ厚かった。
明初、凡そ来朝するときは、事前に奉天殿に御座を設け、常の儀礼と同じとする。諸王は奉天門外の東耳房に控える。鼓が三厳すると、百官が入って侍立の位置に就く。引礼が王を導き袞冕を着け、東門から入り、東の階を昇り、位置に就く。王府の従官は丹墀の位置に就く。拝を唱え、楽が奏され、王と従官は皆四拝する。起き上がると、楽が止む。王は殿の東門から入り、楽が奏される。内賛が御前に導くと、楽が止む。王が跪き、王府官は皆跪く。王が祝辞を述べる、「第幾子某王某、茲に某時に遇い入覲し、欽んで父皇陛下に朝拝す」。俯伏を唱え、起き上がる。王は東門から出る。楽が奏され、再び拝位に戻ると、楽が止む。拝を唱え、王が起き上がる。従官は皆四拝し、起き上がる。楽が奏され、御駕が立ち上がり、王及び各官は順次に出る。
洪武二十六年に定め、凡そ諸王の大朝では、八拝礼を行う。常朝では、一拝する。凡そ伯叔兄が天子に会うときは、朝廷では君臣の礼を行い、便殿では家族の礼を行う。伯叔兄は西向きに座し、天子の四拝を受ける。天子は中央に南面して座し、親親の義を重んじ、君臣の礼を保つ。凡そ外戚の朝見では、皇后の父母が帝に会うときは君臣の礼を行い、后が父母に会うときは家族の礼を行う。皇太子が皇后の父母に会うときは、皇后の父母は西向きに立ち、皇太子は東向きに四拝礼を行い、皇后の父母は立って二拝を受け、二拝を答える。
諸司朝覲の儀礼
中宮受朝の儀礼
凡そ中宮の朝賀には、内使監が皇后の宝座を坤寧宮に設く。丹陛の儀仗は内使これを執り、殿上の儀仗は女使これを執る。女楽を宮門外に陳ぶ。皇貴妃の幄次を宮門外の西、北に近く設け、公主の幄次を宮門外の東、稍南に設け、外命婦の幄次を門外の南、東西に向けて設く。皇后禕衣を服して閤を出づれば、仗動き、楽作る。座に升れば、楽止む。司賓、外命婦を導き東門より内道に入り、東西班に侍立し、訖る。皇貴妃・衆妃を導き東門より入り、陛上の拝位に至る。拝を賛すれば、楽作る。四拝興り、楽止む。導き殿東門より入れば、楽作る。内賛接引して殿上の拝位に至らしめ、楽止む。跪を賛すれば、妃皆跪く。皇貴妃祠を致して曰く、「妾某氏等、茲に履端の節に遇う」、冬至には則ち云く「履長」、「恭しく皇后殿下に詣りて称賀す」と。致詞畢れば、皆俯伏し、興り、楽作る。復位し、楽止む。拝を賛すれば、楽作る。四拝興り、楽止む。東階より降り出づ。司賓、公主を導き東門より入り、陛下の拝位に至り、次を以て立ち、礼を行ふこと皇妃の儀の如し。司賓、外命婦を導き殿前中道の拝位に入る。拝を賛すること儀の如し。班首、西陛より升り、殿西門に入れば、楽作る。内賛接引して殿上の拝位に至らしめ、班首及び諸命婦皆跪く。班首致詞して曰く、「某国夫人妾某氏等、称賀す」と。賀畢れば、出でて復位す。司言、跪きて旨を承け、殿中門より出で、露台の東に立ち、南に向かい、旨有りと称す。命婦皆跪けば、司言旨を宣べて曰く、「履端の慶、夫人等と之を共にす」と。興を賛す。司言、旨を宣ぶることを奏し畢る。皇后興れば、楽作る。内閤門に入れば、楽止む。諸命婦出づ。太皇太后・皇太后の朝賀儀同じ。
洪武二十六年、中宮朝賀の儀を重ねて定む。先ず日、女官御座香案を設く。至日に内官儀仗を設け、女楽を丹陛の東西に陳べ、北に向かい、箋案を殿東門に設く。命婦宮門に至れば、司賓引入して拝位に就かしめ、女官具服して班に侍す。尚宮・尚儀等の官、内に詣り奉迎し、皇后具服して出づれば、楽を作し、拝を賛すること前儀の如し。女官箋案を挙げて殿東門より入れば、楽作る。殿中に至れば、楽止む。跪を賛すれば、命婦皆跪く。箋目を宣するを賛すれば、女官宣し訖り、箋を展ずるを賛すれば、宣箋女官案前に詣り、展宣し訖り、案を殿東に挙ぐ。命婦皆興り、司賓班首を引いて東階より升り殿東門に入れば、楽作る。内賛引いて殿中に至らしめ、楽止む。跪を賛すれば、班首及び諸命婦皆跪く。班首致詞訖れば、皆興り、西門より出づ。拝を賛し及び司言旨を宣すること、皆儀の如し。礼畢る。千秋節の致詞は云く、「茲に千秋の令節に遇う、敬しく皇后殿下に詣りて称賀す」と。旨を伝えず。凡そ朔望の命婦朝参は、是の日御座を宮中に設け、儀仗女楽を陳ぶ。皇后座に升れば、引礼女官命婦を引いて班に入らしめ、文は東、武は西、各夫の品を以てす。拝を賛すれば、楽作る。四拝。礼畢れば、出づ。陰雨・大寒暑は則ち免ず。後に命婦の朝賀は、倶に仁智殿に於いてす。東宮妃に朝するは、儀中宮に朝するが如く、令を伝えず。
朝賀東宮の儀
漢以前は聞かず。隋の文帝の時、冬至に百官太子に朝し、楽を張り賀を受けしむ。唐の制、宮臣皇太子に参賀し、皆舞蹈す。開元始めて其の礼を罷む。故事、百官皇太子に詣るには止だ名を称し、惟だ宮臣のみ臣と称す。明の洪武十四年、給事中鄭相同、古制の如くせんことを請う。詔を下して羣臣に議せしむ。編修吳沈等議して曰く、「東宮は国の大本、聖体を継ぎて天位を承く所以なり。臣子尊敬の礼、二有るべからず。請ふらくは凡そ東宮に啓事する者は、臣と称すること故の如くせん」と。之に従ふ。
凡そ東宮に朝するには、前期、典璽官皇太子の座を文華殿に設け、錦衣衛儀仗を殿外に設け、教坊司大楽を文華門内の東西に陳べ、北に向かい、府軍衛甲士旗幟を門外に列ね、錦衣衛将軍十二人を殿中門外及び文華門外に設け、東西に向かい、儀礼司官箋案を殿東門外に設け、百官の拝位を殿下の東西に設け、伝令宣箋等の官の位を殿内の東西に設く。是の日、百官文華門外に詣る。導引官外備を啓し、皇太子冕服を具して出づれば、楽作る。座に升れば、楽止む。百官入り拝を賛すれば、楽作る。四拝興り、楽止む。丞相西階より升り、殿内の拝位に至り、倶に跪く。丞相致詞して曰く、「某等茲に三陽開泰、万物維新に遇う。敬ひて惟ふ、皇太子殿下、景福を茂く膺けたまふ」と。畢れば、俯伏し、興り、復位す。舍人箋案を挙げて殿中に入る。其の箋を捧げ、箋を展じ、箋を宣し、令を伝ふるは、略皇后と同じ。令に曰く、「茲に三陽を履む、願くは嘉慶に同じくせん」と。余は倶に儀の如し。冬至の致詞は、則ち「律は黄鐘に応じ、日は長至に当る」と易ふ。伝令は則ち「履長の節」と易ふ。千秋節の致詞は則ち云く、「茲に皇太子殿下寿誕の辰に遇う、謹んで文武羣官を率ひ、敬しく千歳の寿を祝す」と。令を伝えず。凡そ朔望には、百官朝退し、文華殿門外に詣り、東西に立つ。皇太子殿に升れば、楽作る。百官一拝の礼を行ふ。其の謝恩見辞の官も亦礼を行ふ。
六年、詔して百官に太子に朝見せしめ、朝服より蔽膝及び佩を去らしむ。二十九年、詔して廷臣に親王の東宮を見る儀を議せしむ。礼官議して、諸王来見するに、皇太子の位を正殿の中に設け、諸王の拝位を殿門外及び殿内に設け、王府官の拝位を庭中の道上の東西に設け、百官の侍立位を庭中に設け、東西に向かわしむ。至日に、甲士を列ね、儀仗を陳べ、楽を常の如く設く。諸王東宮門外の幄次に詣り、皇太子常服を出で、楽作る。座に升り、楽止む。引礼導きて諸王を入らせ、殿門外の位に就かしむ。初め行くとき、楽作る。位に就き、楽止む。導きて殿の東門に詣り入らしめ、楽作る。内賛引きて位に至らしめ、北に向かい立ち、楽止む。賛して跪かしめ、王と王府官皆跪き、詞を致して曰く「茲に某節に遇い、恭しく皇太子殿下に詣る」と。詞を致し畢り、王と王府官皆俯伏し、興き、楽作る。位に復し、楽止む。賛して拝せしめ、楽作る。王と王府官皆四拝す。興き、楽止む。礼畢り、王及び各官次第に出づ。王後殿に至り、家人の礼を叙す。東宮及び王皆常服、王文華殿東門より入り、後殿に至る。王西に向かい、東宮南に向かう。相見の礼畢り、坐を叙し、東宮正中、南面し、諸王東西に列す。
大宴の儀
漢の大朝会、群臣殿に上り万歳を称し、觴を挙ぐ。百官賜宴を受け饗せられ、大いに楽を作す。唐の大饗登歌、或いは殿庭に九部伎を設く。宋は春秋の仲月及び千秋節を以て、大いに群臣を宴し、山楼排場を設け、奢麗を窮む。明の制、大宴・中宴・常宴・小宴有り。
凡そ命婦を宴するには、坤寧宮に儀仗・女楽を設く。皇后は常服にて座に昇り、皇妃・皇太子妃・王妃・公主も亦た常服にて閤より随ひ出で、入りて位に就く。大小の命婦は各々其の座位の後に立つ。丞相夫人は諸の命婦を率ひて御食案を挙ぐ。丞相夫人は寿花を捧げ、二品の外命婦は各々食案を皇妃・皇太子妃・王妃・公主の前に挙ぐ。大小の命婦は各々座位に就き、奉御執事人は分かれて寿花を殿内及び東西廡に進む。酒七行、上食五次、酌酒・進湯・楽の作止は、並びに儀の如し。
上尊号徽号儀
子に爵父の道無し。漢の高帝は家令の言に感じて太公を尊ぶも、荀悦之を非とす。晋の哀帝は皇太妃を尊崇せんと欲し、江ANは以て宜しく顕宗の廟に告げ、事の己に在らざるを明らかにすべしとす。宋・元の志は俱に皇太后の上尊号儀を載すも、廟に告げるを行はざるは、礼に非ざるなり。明の制、天子登極し、母后或は母妃を奉じて皇太后と為すときは、則ち尊号を上ぐ。其の後或は慶典を以て皇太后を推崇すれば、則ち二字或は四字を加へて徽号と為す。世宗の時、両宮皇太后に上ぐるに、増して八字に至る。徽号を上ぐるには致詞すれども、尊号を上ぐるには則ち宝冊を進むるに止む。
尊号を上ぐるは、宣宗の登極に皇太后を尊ぶより始まる。先づ期して官を遣はし天地宗社を祭告し、帝親しく太宗皇帝・大行皇帝の几筵に告ぐ。是の日、鐘鼓を鳴らし、百官は朝服す。奉天門に冊宝彩輿香亭を設く。中和韶楽及び大楽は設くるも作さず。内官は皇太后の宝座を設け、儀仗を宮中に陳ぶ。冊宝案を宝座の前に設け、皇帝の拜位を丹陛の正中に設け、親王の拜位を丹墀の内に設く。女楽は設くるも作さず。皇帝は冕服して奉天門に御す。奉冊宝官は冊宝を以て輿の中に置き、内侍は輿を挙げ、皇帝は輿に随ひて階を降り輅に昇る。百官は金水橋の南に於て、北に向ひて立ち、輿至れば皆跪き、過ぎて興る。随ひて思善門外の橋の南に至り、北に向ひて立つ。皇帝は思善門内に至りて輅を降る。皇太后は座に昇る。輿は丹陛に至る。皇帝は左門より入り、陛の右に至り、北に向ひて立つ。親王は冕服して各々其の位に就く。四拝を奏し、皇帝及び王以下皆四拝す。奉冊宝官は冊宝を以て殿の中門より入り、左に立つ。皇帝は殿の左門より入り、拜位に至りて跪き、親王百官皆跪く。圭を搢ぐを奏し、冊を進むるを奏す。奉冊官は冊を以て跪きて進み、皇帝は冊を受けて献じ訖り、執事官は跪きて受け、案の左に置く。宝を進むるを奏し、奉宝官は宝を以て跪きて進む。皇帝は宝を受け、献じ訖り、執事官は跪きて受け、案の右に置く。圭を出すを奏し、冊を宣するを奏し、執事官は跪きて宣読す。皇帝は俯伏し、興り、左門より出で、拜位に至る。四拝を奏し、伝唱して百官同じく四拝す。礼畢りて、駕興る。是の日、皇帝は皇太后を奉じて奉先殿及び几筵に謁し、謁謝の礼を行ふ。礼畢りて、皇太后は宮に還り、燕居冠服を服し、座に昇る。皇帝は皇后・皇妃・親王・公主及び六尚等の女官を率ひて慶賀の礼を行ふ。翌日、外命婦四品以上は進表箋の礼を行ふ。宣德以後、儀同じ。正統初め、太皇太后を尊ぶ儀同じ。天順八年二月、命婦の致詞を増し云く、「某夫人妾某氏等、恭しく惟ふに皇太后陛下尊く慈極に居し、永く福寿を膺けんことを」と。弘治十八年、両宮の尊号を上ぐるに、皇太后の致詞を改めて云く、「尊く慈闈に居し、茂く福寿を隆くせんことを」と。