明史

志第二十八 礼六

志第二十八 礼六(吉礼六)

奉先殿、奉慈殿、献皇帝廟、新王従饗、功臣配饗、王国宗廟、群臣家廟

○奉先殿

洪武三年、太祖は太廟の時享では孝思を尽くすに足りないとして、再び奉先殿を宮門内の東に建てた。太廟を外朝に擬し、奉先殿を内朝に擬す。正殿は五間、南向き、深さ二丈五尺。前軒は五間、深さはその半分。四代の帝后の神位・衣冠を制し、儀物・祝文を定めた。毎日朝夕、帝及び皇太子諸王が二度朝享する。皇后は嬪妃を率いて日々膳羞を進め、諸節に祭りを行い、月朔に新物を薦め、その品物は元年に定めたものによる。ただ三月は鮆魚を用いず、四月は鰣魚を減らし王瓜彘を加え、五月は茄を加え、九月は柿蟹を減らし、十月は木瓜蘆菔を減らし山薬を加え、十一月は天鵝鶿老〓を減らし麞を加える。皆太常が奏聞し、光禄寺に送って供薦させる。時新の品物に遇うごとに、太常が供献する。また皇考妣の忌日を記録し、歳時享祀を以て常例とした。成祖が都を北京に遷すと、制の如く建てた。宣徳元年、太宗を祔廟し終え、再び鄭王瞻颭を奉先殿に遣わし、酒果を設けて祭告し、神位を奉安した。天順七年、孝恭皇后を祔廟し終え、帝は還って神位奉安の礼を行い、おおよそ祔廟の儀に略同じ。弘治十七年、吏部尚書馬文升が言うには、「南京の鮮船は、もと奉先殿のために設けたものである。輓夫は千人に至り、沿路で悉く索く。今揚・徐は荒旱である。願わくは古の凶年殺礼の意に倣い、減省して民困を蘇らせん」。命じて所司に議して行わしむ。武宗即位し、熙祖を祧す。奉先殿の神位もまた徳祖の西に遷し、その衣冠・牀幔・儀物を神庫に貯蔵す。

嘉靖十四年、内殿の祭及び礼儀を定む。清明・中元・聖誕・冬至・正旦には祝文あり、楽は宴楽の如し。両宮の寿旦、皇后並びに妃嬪の生日には皆祭あり、祝文・楽なし。立春・元宵・四月八日・端陽・中秋・重陽・十二月八日には皆祭あり、時食を用う。旧は祝文無し、今は告詞を増す。旧儀は、ただ一室一拝、中室に至り跪いて祝し畢り、また四拝し、祝帛を焚く。今は就位して四拝し、帛爵を献じ、祝し畢り、后妃が助けて亜献し、執事が終献し、饌を撤してまた四拝す。忌祭は、旧は具服して楽を作す、今は浅色の衣に更え、楽を去る。凡そ方沢・朝日夕月を祭るに、出でて告げ、回って参る、及び冊封の告祭、朔望の行礼、皆ここに在り。十五年、礼部尚書夏言等奏す、「悼霊皇后の神主は、先に親に祔するにより、暫く奉慈殿孝恵太后の側に祔す。今三后の神主既に陵殿に遷すことを擬すれば、則ち悼霊もまた暫く奉先殿の傍室に遷し、享祀祭告するに、則ち一体に饌を設くべし」。これに従う。隆慶元年、礼部言う、「旧制、太廟は一歳五享、而して節序忌辰等の祭は、則ち奉先殿に行う。今孝潔皇后既に太廟に祔すれば、則ち奉先殿もまた宜しく神位を奉安すべし」。乃ち神座・儀物を第九室に設け、官を遣わして祭告すること儀の如し。万暦三年、帝は孝烈・孝恪二后の神位を奉先殿に奉安せんと欲す。礼官は世宗の時、陵祭に祔するを議し、内殿に祔するを議せざりしと謂う。帝曰く、「奉先殿に見る所に孝粛・孝穆・孝恵三后の神位有り、俱に皇祖の定むる所なり、宜しく遵行して祔安すべし」。蓋し当時三后は既に各陵廟に祔し、仍って並びに奉先殿に祭り、而して外廷知る者莫かりしなり。命じて輔臣張居正等を入れて視せしむ。居正等言う、「奉先殿は列聖祖妣を奉安し、凡そ推尊して后と為る者は、俱に内殿に祔享を得、太廟の一帝一后なるに比するは同じからず、今も亦宜しく奉安祔享すべし」。これに従う。

先に、冊封告祭は、太常寺官を以て執事とし、仍って題請して官を遣わす。万暦元年に至り、帝親しく行礼し、而して官を遣わすの請は廃す。二年、太常寺は内殿は禁地に在り、内官を以て供事するは便なりとす。帝その請を俞す。凡そ聖節・中元・冬至・歳暮、嘉靖初めは俱に奉先殿に告祭す。十五年、中元の祭を罷む。四十五年、歳暮の祭を罷む。隆慶元年、聖節・冬至の祭を罷む。その方沢・朝日・夕月、出告・回参は、嘉靖中は景神殿に行う。隆慶元年、仍って奉先殿に行う。諸帝后の忌辰は、嘉靖以前は奉先殿に行う。十八年、高皇帝・后の忌辰を景神殿に改め、文皇帝・后以下を永孝殿に行う。二十四年、仍って奉先殿に行う。凡そ内殿の祭告は、万暦二年以後、親祭は則ち祭品告文執事、皆内監より出ず。官を遣わして代祭するは、則ち皆太常より出ず。惟だ脯醢を用いる品は、即ち親祭も亦皆太常より出ず。万暦十四年、礼臣言う、「近年皇貴妃冊封、奉先殿に祭告するに、祝文執事は内庭より出で、而して祭品は太常に取り、事体一ならず。夫れ太常は専ら祀享を主り、而して光禄は則ち膳羞を主る。内庭の祭告は、蓋し食時に食を上ぐるの義に象を取るなり。宜しく旧制に遵い、凡そ内殿に祭告するは、親行・遣官を論ぜず、その祭品は光禄寺供すべし。惟だ告文執事人は、親行は則ち内庭に弁じ、遣官は則ち暫く太常寺を用うべし」。これに従う。

○奉慈殿

孝宗が即位すると、母妃の孝穆太后紀氏の諡を追贈し、茂陵に合葬した。太廟に合祀できないため、奉先殿の右側に別に奉慈殿を建てて祭祀を行った。一年に五回の祭祀、新穀の供え物や忌日の祭祀は、すべて太廟奉先殿の儀礼に倣った。弘治十七年、孝肅周太后が崩御した。先に成化年間に、周太后の合葬・合祀に関する議論が予め定められていたが、この時、輔臣を召して太廟合祀の礼を議させた。劉健らが言うには、「議論は確かにありましたが、当時引き合いに出された唐・宋の故事は、漢以前の制度ではありません」と。帝は事は古に倣うべきと考え、孝穆太后を奉慈殿で別に祭祀した例を引き合いに出し、廷臣に議論を命じた。劉健は退出後、改めて上疏してこの事を論じ、帝の決心を固めさせた。そこで英国公張懋・吏部尚書馬文升らが言うには、「宗廟の礼は天下の公議であり、子孫が私的に決めるべきものではありません。殷・周の七廟は、父が昭、子が穆で、それぞれに配座があり、一帝一后が礼の正しい儀です。《春秋》に『仲子の宮を考ふ』と書かれ、胡安国の《伝》に『孟子が恵公の廟に入ると、仲子には祭享する場所がなかった』とあります。これによって魯が周礼を守り、先王の制度がまだ残っていたのは、祖廟に二配がないためだと分かります。伏して憲宗の勅諭を拝見すると、『朕の心は終に自ら安んずるを得ず』とあります。窃かに先帝の深い真情を窺うに、慈意に重ねて背くことを憚り、やむなく並配の議に従われたのです。群臣も事を成し遂げるために一時的に措置し、やむを得ずこのようにしたのでした。礼に基づいて処置し、先帝の天上における遺志に副うには、正に今日を待つべきです。《周礼》を調べると、先妣を祀る文があり、《疏》に『姜嫄である』とあり、《詩経》の所謂『閟宮』がこれです。唐・宋で太后を推尊し、祖廟に配食させない場合は、別に殿を建てて祭祀し、これも閟宮の意義に合致します。我が朝の祖宗から今に至るまで既に九廟を超え、配は皆二つありません。今は奉先殿の外に新廟を建て、《詩経》の閟宮、宋の別殿のようにし、歳時の祭祀を行い、依然として太皇太后と称すれば、情と義の両方が尽くされます」と。議が上ると、再び劉健らを素幄に召し、袖から《奉先殿図》を取り出し、西の一区を指して「これが奉慈殿である」と言い、また東の一区を指して「これが神厨である」と言い、この地に別に廟を建て、孝穆の神主を奉遷し、ここで合祀したいと述べた。劉健らは皆「最も適当です」と答えた。やがて欽天監が奏上し、当年は方角に障りがあるため、廷議により暫く奉慈殿の正中に奉安し、孝穆を左に移すこととした。

孝宗が崩御し、武宗が即位すると、礼部が初めて孝肅の神主奉安の儀を進めた。前もって三日間の斎戒を行い、奉先殿及び孝宗の几筵に告げた。当日の早朝、帝は黒い翼善冠・浅淡色の服・黒犀帯を着け、孝穆の神座に告げた。礼が終わると、帝は神座の前に進み、神主が座を降りるよう請うた。帝が神主を捧げて立つと、内執事が神座を殿の左の間に移した。帝が奉安を終え、叩頭の礼を行うと、正午に、帝は清寧宮の孝肅の几筵に詣で、礼を終えると、内侍が神主の輿を殿前に進め、衣冠の輿を丹陛の上に置いた。帝は拝位に詣で、親王が吉服で後ろに従い、四拝し、起立した。帝が神主を捧げて殿の中門から出て、輿内に奉安すると、執事が衣冠を捧げて輿の後ろに従った。帝は親王を率いて徒歩で従った。宝善門の外に至ると、太皇太后・皇太后が宮妃を率いて門内で迎えた。先に奉慈殿に詣で、殿の西に順序立てて立った。神主の輿が奉先殿の門外に至ると、少し留まった。帝は輿の前に詣でて跪き、神主が奉先殿に詣でるよう請い、俯伏し、起立し、神主を捧げて殿の左門から入り、殿内の褥位に至り、跪いて神主を置いた。帝は五拝三叩頭の礼を終えると、神主を捧げ、依然として左門から出て、輿内に安置した。奉慈殿の門外に至ると、帝は神主を捧げて中門から入り、神座に奉安を終えると、安神の礼を行い、三献は通常の儀の通りであった。太皇太后以下四拝した。礼が終わると、内侍官が褥位を殿の正中の南に設けた。帝は孝穆皇太后の神座の前に詣で、跪いて神主が孝肅太皇太后に謁するよう請い、跪いて褥位に置き、俯伏し、起立し、五拝三叩頭の礼を行った。終わると、帝は神主を捧げて起き、依然として神座に安置を終えると、先のように安神の礼を行い、皇太后以下四拝した。

嘉靖元年、世宗は孝惠邵太后を合祀した。八年二月、礼部尚書方獻夫らが言うには、「悼霊皇后は、礼により太廟に合祀すべきですが、今は九廟の制度が既に整っています。唐・宋の故事を調べると、后で太廟に本室がない場合は、別廟を創建します。故に《曲台礼》に別廟の皇后が太廟で禘祫する文があります。また《礼記・喪服小記》に『婦は祖姑に祔す、祖姑が三人いれば、親しい者に祔す』とあり、これを解釈する者は『親しい者とは舅の生母を謂う』と言います。今、孝恵太皇太后は実に皇考献皇帝の生母であり、則ち悼霊皇后は側に祔すべきです」と。詔して可とした。三月、合廟の礼を行った。前もって諸殿に祭告した。当日、悼霊后の神主を奉慈殿に奉安するよう請うた。内侍が神主・諡冊・衣冠を捧げ、帝に随って奉先殿に謁見した。帝は位に就き、五拝三叩頭の礼を行った。次に崇先殿に詣で、次に奉慈殿に詣で、三太后に謁し、内侍が神主を捧げて神座に安置すると、皇妃以下四拝した。

十五年、帝は三太后を奉慈殿で別に祭祀するのは、陵殿に奉る方が適当と考え、廷臣が議して言うには、「古の天子の宗廟は、唯一帝一后であり、生母は寝で薦め、身が没すれば終わります。孝宗の奉慈殿の祭祀は、子が生母を祀り、終身の孝を尽くしたに過ぎません。しかし《礼》に『妾母は世々に祭らせず』とあり、《疏》に『世々に祭らせないとは、子が祭祀し、孫になれば止めることを謂う』とあります。継承する祖を重んじることを明らかにするため、故に私的な祖母を顧みないのです。今、陛下は孝肅にとっては曾孫、孝穆にとっては孫の輩、孝恵にとっては孫です。礼は世々に祭らず、議は当に祧すべきです。宋の熙寧年間に奉慈廟を廃した故事を調べると、今と同じです。神主を陵廟に遷し、歳時の合祀は従来通りとすべきです」と。報じて可とした。奉慈殿は遂に廃された。世宗の孝烈后は、隆慶年間に弘孝殿で祭祀し、万暦三年に奉先殿に遷して合祀した。穆宗の母である孝恪皇太后は、隆慶初年に神霄殿で祭祀し、また孝懿后をその側に合祀した。六年、孝懿は太廟に合祀され、万暦三年、孝恪は奉先殿に遷して合祀され、二殿は共に廃された。

○献皇帝廟

嘉靖二年四月、始めて興献帝の家廟に亭祀を命じ、楽は八佾を用いた。初め、礼官が廟制を議して未だ決せず、監生何淵が上書し、世室を太廟の東に立てることを請うた。礼部尚書汪俊ら皆これ不可と謂う。帝は奉先殿の側に別に一室を立て、以て孝思を尽くすことを諭す。礼官が集議して言うには、「奉慈殿の建ては、礼臣が姜嫄の特廟に拠って言うところなり。本生父のために大内に廟を立てるに至っては、古所未有、ただ漢の哀帝が定陶共王のために京師に廟を建てたのみ、法と為すべからず」と。詹事石珤らもまた不可と言う。聴かず。奉慈殿の後を葺いて観徳殿と為し、以てこれに奉ず。四年四月、淵は既に光禄寺署丞を授けられ、重ねて上書し世室を立て、皇考を太廟に崇祀することを請う。礼部尚書席書ら議す、「天子七廟、周の文王・武王並びに功徳有り、故に文・武の世室を三昭穆の上に立てたり。献皇帝は追って帝号を称すれども、未だ天子に非ず。淵妄りに諛詞を為し、その奏を寝むることを乞う」と。帝は再議を命ず。書ら言う、「主を武宗の上に置かんとすれば、則ち武宗は君なり、分僭るべからず。武宗の下に置かば、則ち献皇は叔なり、神終に安からず」と。時に廷臣、考と称し伯と称するに、異同相半ばし、廟に祔するを議するに至っては、一人として可とする者無し。学士張璁・桂萼も皆以て不可と為し、書また密疏を以てこれを争う。帝聴かず、復た会議を命ず。乃ち漢の宣帝の故事に準い、皇城内に一つの禰廟を立て、文華殿の制の如くす。籩豆楽舞、一に天子の礼を用う。帝親しくその名を定めて世廟と曰う。五年七月、工部に諭して観徳殿の狭隘なるを以て、別に奉天殿の左に建てんと欲す。尚書趙璜これ不可と謂う。聴かず。乃ち奉先殿の東に建て、崇先殿と曰う。十三年、承天家廟を易えて隆慶殿と曰うことを命ず。十五年、渠道を避くるを以て、世廟を遷し、更に号して献皇帝廟と曰い、遂に旧世廟を改めて景神殿と曰い、寝殿を永孝殿と曰う。

十七年、豊坊の請いに以て、宗を称して明堂に配す。礼官敢えて違わず、集議すること久しく、言う、「古え父子は昭穆を異にし、兄弟は世数を同じくす。故に殷に四君一世にして廟を同じくし、宋の太祖・太宗は同じく昭位に居る。今皇考と孝宗は当に同一廟とすべし」と。遂に献皇帝を奉じて太廟に祔す。二十二年、太廟を新たにす。廷議して睿宗・孝宗並びに一廟に居り、同じく昭と為さんとす。帝は諸臣の忠を竭くして事に任ぜざるを責め、その議を寝む。已にして左庶子江汝璧、皇考廟を穆廟の首に遷し、以て将来の世室に当て、成祖廟と並び峙つことを請う。右賛善郭希顔また太祖廟の文世室の外に、ただ四親廟を立て、而して孝宗・武宗を祧せんと欲す。礼臣以てその妄りを斥して止む。二十四年六月、新太廟成る。遂に睿宗を太廟の左第四に奉じ、序を武宗の上に躋め、而して特廟の祀を罷む。四十四年、旧廟の柱に芝を産するを以て、更に号して玉芝宮と曰い、日供時享の儀を定む。穆宗の初め、礼臣の請いに因り、乃ち時享及び節序・忌辰・有事奉告の祭を罷め、但だ日供を進むるのみとす。隆慶元年、礼科王治、献皇の廟祔を罷め、而して専らこれを世廟に祀ることを請う。章を下して所司に付す。万暦九年、礼科丁汝謙、仍く専ら玉芝宮に祭り、復た宣宗帝后の冠服を太廟に奉ずることを請う。帝は汝謙の妄議を責め、外任に謫す。天啓元年、太常少卿李宗延、祧廟宜しく議すべしと奏し、言う、「睿宗の廟に入るるは、世宗の窮まりなき孝思なり、然れども皇上これを視るに、則ち遠し。光宗の升祔を俟つ時、或いは旧祧に従い、或いは新議に従わん。蓋し孝子は固より恩を以て親に事うるも、仁人は当に義を以て祖に率うべし」と。章を下して礼部に付す。卒に従う能わず。

親王の従饗

洪武三年、皇伯考寿春王・王夫人劉氏を一罈と為し、皇兄南昌王・霍丘王・下蔡王・安豊王・霍丘王夫人翟氏・安豊王夫人趙氏を一罈と為し、皇兄蒙城王・盱眙王・臨淮王・臨淮王夫人劉氏を一罈と為すことを定む。後に夫人は皆妃と改称す。皇侄宝応王・六安王・来安王・都梁王・英山王・山陽王・昭信王を一罈と為し、凡そ十九位。春夏は仁祖廟の東廡に、秋冬及び歳除は徳祖廟の東廡に、皇帝は初献の礼を行い、時に献官は神位に詣り分献す。四年、親王を殿内の東壁に進む。九年、新太廟成り、蒙城王妃田氏・盱眙王妃唐氏を増祀す。正徳中、御史徐文華言う、「族に成人にして後無き者は、祭は兄弟の孫の身に終わる。諸王今に至るまで五六世なり、宜しく祧すべし」と。礼官議して不可とす。嘉靖間、仍く東廡に序列す。二十四年、新たに太廟を建て成り、復た東壁に列を進め、分献を罷む。万暦十四年、太常卿裴応章言う、「諸王は本より祖に従い祔食す。今四祖の廟は既に祧せられ、而して諸王は祔する所無し、宜しく享を罷め、而してこれを祧廟に祔すべし」と。礼部言う、「祧は毀廟の主を蔵するを以てす、祖の為にして孫の為に非ず。礼に祧有り、配祧する者を聞かず。請う仍く初制に遵い、東廡に序列するを以て礼に近しと為さん」と。報じて可とす。

功臣の配饗

洪武二年、太廟を享け、廖永安・俞通海・張得勝・桑世傑・耿再成・胡大海・趙德勝を配享した。太廟の庭中に青布の幃六つを設け、官を遣わして分献させた。皇帝の亜献が将に終わらんとするを待ち、礼を行った。毎年春秋の廟享には、則ち仁祖廟の東廡に配食した。三年、配享功臣を常遇春以下凡そ八位と定めた。春夏は仁祖廟の西廡に、秋冬は徳祖廟の西廡に、位を設けて東向きとし、遂に幃次を設けることを罷めた。三献の礼を更めて定め、皇帝が初献する時、献官は即ち分かれて詣り礼を行い、拝せず。四年、太祖、中書省の臣に謂いて曰く、「太廟の祭は、功臣を以て廡間に配列す。今既に太廟合祭の礼を定む。朕は祖宗の具在するを以て、功臣故旧の歿する者をして少しく神霊に依り、以て同じく祀を享けしめん。独り朝廷宗廟の盛典たるのみならず、亦た以て朕の功臣を忘れざるの心を寓す。」と。ここにおいて礼官議して曰く、「凡そ合祭の時は、黄布の幄殿を為し、中に祖考の神位を置き、旁に両壁を設け、以て親王及び功臣を享け、大臣をして分献せしむ。」と。制して可とす。已にして布幄を去るを命ず。九年、新たに太廟成り、徐達・常遇春・李文忠・鄧愈・湯和・沐英・俞通海・張德勝・胡大海・趙得勝・耿再成・桑世傑の十二位を西廡に配享し、廖永安を罷む。建文の時、礼部侍郎宋礼言う、「功臣は自ら鶏籠山の廟有り。請う、太廟の配享を罷めん。」と。帝は先帝の定めし所を以て、従わず。且つ太廟の享け畢るを候ち、別に官を遣わして即ち其の廟に祭らしむ。洪熙元年、張玉・朱能・姚広孝を以て太廟に配享す。張輔・朱勇・王通及び尚宝少卿姚継を遣わし、各其の父を祭らしむ。嘉靖九年、廖道南の言を以て、姚広孝を罷む。十年、刑部郎中李瑜の議を以て、劉基を進め、位を六王の次とす。十六年、武定侯郭勳の奏を以て、其の祖英を進む。初め、二廟の功臣、位は各爵に依り、及び基を進めて位を公侯の上とす。是に至り復た礼官に命じて二廟の功臣を合せ叙爵せしむ。ここにおいて英を桑世傑の上に列ね、張玉・朱能を沐英の下に、基を世傑の下にす。二十四年、諸配位を新太廟の西壁に進め、分献を罷む。万暦十四年、太常卿裴応章言う、「廟中に列後は上に在り、異姓の臣は礼当に別嫌すべし。且つ至尊の下に拝俯するは、諸臣の霊も亦た必ず安からず。」と。命じて復た西廡に改め、官を遣わして分献せしむ。天啓元年、太常少卿李宗延言う、「前代の文臣は皆従祀有り。我が朝は独り闕くべからず。」と。礼部に下して議せしむも、行わず。

○王国宗廟

洪武四年、礼部尚書陶凱等議定す、王国の宮垣内、左に宗廟、右に社稷と。廟の制、殿五間、寝殿之が如く、門三間。永楽八年、秦愍王の享堂を建つ。命じて晋恭王の制を視し、一尺を加高す。因りて享堂七間、広十丈九尺五寸、高二丈九尺、深四丈三尺五寸と定む。弘治十三年、寧王宸濠奏す、廟祀の礼楽未だ定式有らず、乞う頒賜して遵守せしめんと。礼部議す、「洪武元年、学士宋濂等奏定す諸王国祭祀の礼楽、清字を用い、但だ曲名有りて曲辞無し。各王府に稽考せしめんことを請う。」と。ここにおいて靖江王長史楽章を具に上り、且つ言う、四孟の上旬及び除夕の五祭に用うる所の品物・俎豆・佾舞、礼節悉く国初の定制に遵うと。之に従う。嘉靖八年、秦王充燿言う、「代懿王当に廟に祔すべし。而して始封より今に至り、已に五廟の数に盈つ。祧廟の制を定めんことを請う。」と。礼臣言う、「親王の祧廟は、古制未だ聞かず。宜しく太廟祧祔の礼を推して之を降殺すべし。始封は中に居り、百世遷さず。以下四世は、親尽きて祧す。但だ諸侯に祧廟無し。祧主は宜しく始祖の室に祔し、櫝を置きて之を蔵む。毎歳暮には則ち祧主を出だして合祭す。」と。詔して議の如くす。

○群臣家廟

明初は未だ定制有らず、権に朱子祠堂の制に倣い、高曾祖禰四世の神主を奉り、四仲の月に之を祭り、臘月忌日の祭及び歳時の俗節の薦を加う。其の庶人は祖父母・父母の祀を奉るを得、已に令と為すを著す。時に至りて寝に享するの礼は、略ぼ品官祠堂の制に同じ。堂三間、両階三級、中外に両門を為す。堂に四龕を設け、龕に一桌を置く。高祖こうそは西に居り、次を以て東にす。主を櫝中に蔵む。両壁に櫃を立て、西は遺書衣物を蔵み、東は祭器を蔵む。旁親にして後無き者は、其の班を以て附す。庶人は祠堂無く、二代の神主を居室の中間に置き、櫝無し。

洪武六年、公侯以下の家廟礼儀を定む。凡そ公侯品官は、別に祠屋三間を所居の東に為し、以て高曾祖考を祀り、並びに祔位す。祠堂未だ備わらざれば、主を中堂に奉り享祭す。二品以上は羊一豕一、五品以上は羊一、以下は豕一、皆四体に分ち熟薦す。牲を具うること能わざれば、饌を設けて以て享す。用うる所の器皿は、官品第に随い、家の有無に称す。前二日、主祭者上に聞け、朝参を免ず。凡そ祭は、四仲の吉日を択び、或いは春・秋分、冬・夏至。前期一日、斎沐し衣を更え、外舎に宿す。質明、主祭者及び婦預祭者を率い祠堂に詣る。主祭者は正祔の神主櫝を捧げ、盤に置き、子弟をして捧げて祭所に至らしむ。主祭櫝を開き、各祖妣の神主を捧げ、序を以て奉安す。子弟祔主を捧げ、東西の壁に置く。執事者饌を進め、祝を読む者一人、就きて礼を賛し、子弟親族を以て之が為す。神位を陳設し訖り、各々位に就く。主祭は東に在り、伯叔諸兄は其の前稍東に立ち、諸親は其の後に立つ。主婦は西に在り、母及び諸母は其の前稍西に立ち、婦女は後に立つ。賛拝し、皆再拝す。主祭者は香案の前に詣り跪き、三たび香を上げ、酒を献じ酒を奠め、執事祔位の前に酒を酌む。読祝者跪き読み訖り、賛拝し、主祭者位に復し、主婦と皆再拝す。再献終献並びに之が如くし、惟だ祝を読まず。毎献に、執事者も亦た祔位に献ず。礼畢り、再拝し、祝並びに紙銭を中庭に焚き、神主を櫝に安んず。

成化十一年、祭酒周洪謨が言うには、「臣下や庶民の祠堂における神主は、皆西から東へと並んでおります。古来、神道が右を尊ぶという説はなく、ただ我が太祖の廟制のみが、先王の左昭右穆の意義に合致しております。一品から九品までに、皆一廟を立てさせ、その高低広狭を等差とすべきです。神主は、高祖を左に、曾祖を右に、祖を次に左に、考を次に右に置くべきです」。帝は礼臣に下して参酌させ、改めて定めさせた。嘉靖十五年、礼部尚書夏言が言うには、「三代には五廟、三廟、二廟、一廟の制があったのは、それに諸侯・卿・大夫の上中下の爵位があったからです。後世は官職が既に異なり、世襲の封土や采邑が無いのに、どうして過度に古制に拘泥すべきでしょうか。宋の儒者程頤に至って初めてこれを簡約して四世に帰し、公卿から士庶に至るまで、皆そうなされました。五服の制は皆高祖に至るのだから、祭祀もまたそれに当たるべきだと。今、官は三品以上は五廟を立て、以下は皆四廟と定めます。五廟とするものは、また唐の制の如く、五間九架で、廂の隔板を五室とし、中央に五世祖を合祀し、傍ら四室に高祖・曾祖・祖・禰を合祀します。四廟とするものは、三間五架で、中央一室に高祖・曾祖を合祀し、左右二室に祖・禰を合祀します。もし始祖を祀るべき時は、朱熹の言うように、臨祭の時に紙牌を作り、祭祀が終わればこれを焼きます。その三品以上の者は、世数が窮まり尽きたならば、今廟を立て得る者を以て、世々奉祀する祖とし、遷さないものとします。四品以下は、四世ごとに順次遷すのみです」。これに従った。