明史

志第二十七 禮五

志第二十七 禮五(吉禮五)

廟制 禘佩 時享 薦新 加上諡號 廟諱

○宗廟の制

明朝初年、四親廟を宮城の東南に造営し、それぞれ一廟とした。皇高祖こうそは中央に、皇曾祖は東の第一、皇祖は西の第一、皇考は東の第二に位置し、いずれも南向きであった。各廟の中室に神主を奉安した。東西に両夾室があり、その両側に両廡があった。三つの門があり、各門に二十四戟を設けた。外側を都宮とした。正門の南に斎次、その西に饌次があり、いずれも五間で北向きであった。門の東に神廚五間が西向きにあった。その南に宰牲池一つが南向きにあった。

洪武元年、中書省に命じて儒臣を集め祀典を議させたところ、李善長らが言上した。

周の制度では、天子は七廟を有する。また『商書』に「七世の廟は以て徳を観るべし」とある。すなわち天子の七廟は、古より存在したことが知られる。太祖は百世遷さず。三昭三穆は世次によって並び、親等が尽きると遷される。これが天下を有する者の常礼である。もし周の文王、武王のように親等が尽きて祧遷すべきであっても、その功績により宗とすべきであるから、いずれも別に一廟を立て、これを文世室、武世室と称し、やはり百世遷さなかった。

漢代は毎帝ごとに一廟を立て、昭穆を序せず、さらに郡国廟や寝園廟があった。光武帝が中興し、洛陽らくように高廟を立て、高祖および文・武・宣・元の五帝を祀った。また長安ちょうあんの故高廟の中に、成・哀・平の三帝を祀った。別に四親廟を南陽舂陵に立て、父の南頓君以上の四世を祀った。明帝に至り、遺詔により神主を光烈皇后の更衣別室に蔵めた。その後、帝が相承するにつれ、皆世祖の廟に蔵めるようになった。これにより同堂異室の制は、元に至るまで改められなかった。

唐の高祖は高曾祖考を尊び、長安に四廟を立てた。太宗は七廟を立てることを議し、太祖の室を虚位とした。玄宗は制を創始し、九室を立てて八世を祀った。文宗の時、礼官が景帝は唐に封ぜられ、高祖・太宗は創業して天命を受けたので、百代遷さないとし、親等の尽きた主は、礼に合せて祧遷すべきであるが、禘佩に至っては常の如く合食するとした。その後、敬・文・武の三宗を一代とみなしたため、唐一代を通じて、常に九世十一室であった。

宋代は太祖が僖・順・翼・宣の四祖を追尊して以来、禘に遇うごとに昭穆を相対させ、東向きの位を虚位とした。神宗は僖祖を太廟の始祖として奉じ、徽宗の時に至り太廟を十室に増やし、祧遷さない者が五宗となった。崇寧年間、王粛の説を採用し、二祧は七世の外にあるとして、九廟を建立した。高宗が南渡し、九世を祀った。寧宗に至り、初めて別に四祖殿を建て、太祖の東向きの位を正した。

元の世祖は燕京に宗廟を建立し、太祖を中央に置き、遷さない祖とした。泰定年間に至り、七世十室となった。

今、高曾祖考の四代を追尊し、それぞれ一廟とすべきであると請う。

ここにおいて、皇高祖考に玄皇帝の諡号を贈り、廟号を徳祖とし、皇高祖妣を裕玄皇后とした。皇曾祖考に恆皇帝の諡号を贈り、廟号を懿祖とし、皇曾祖妣を恆皇后とした。皇祖考に裕皇帝の諡号を贈り、廟号を熙祖とし、皇祖妣を裕皇后とした。皇考に淳皇帝の諡号を贈り、廟号を仁祖とし、皇妣陳氏を淳皇后とした。

太廟の祭器を制するよう詔があった。太祖は言った。「礼は人情に順い、義によって起こすことができる。貴ぶべきは斟酌して適宜を得、時により損益することである。近世は古に拘泥し、好んで古の籩豆の類を用いて、その先祖を祭る。生前用いなかったものを、死後に用いるのは、甚だ謂れのないことである。孔子は『死を事うること生を事うるが如くし、亡を事うること存を事うるが如くせよ』と言われた。宗廟の器用服御を制するには、皆、生を事うる儀の如くすべきである。」ここにおいて銀器を造り、金で塗装した。酒壺・盂・盞はいずれも八つ、硃漆の盤・碗二百四十、および楎椸・枕・簟・篋笥・幃幔・浴室を全て備えた。後にまた詔して、器皿で金塗銀のものは、全て金に替えさせた。

二年、詔して太廟の祝文はただ孝子皇帝と称し、臣と称さず。凡そ皇太子を行礼に遣わすときは、ただ命長子某と称し、皇太子と称さず。後に孝玄孫皇帝と称し、また改めて孝曾孫嗣皇帝と称す。初め、太廟は毎室に幣一を用いた。二年、礼部の議に従い、二白繒を用いる。また尚書崔亮の奏に従い、圭瓚を作る。

八年、太廟を改築す。前は正殿、後は寝殿。殿の両翼には皆両廡あり。寝殿は九間、間ごとに一室、神主を奉蔵し、同堂異室の制と為す。九年十月、新太廟成る。中室に徳祖を奉じ、東一室に懿祖を奉じ、西一室に熙祖を奉じ、東二室に仁祖を奉じ、皆南向。十五年、孝慈皇后の神主を以て太廟に祔享す。その後皇后の祔廟はこれに倣う。建文即位し、太祖の主を奉じて廟に祔す。正殿の神座は熙祖の次、東向。寝殿の神主は西二室に居し、南向。成祖都を遷し、廟を建つること南京の制の如し。

宣徳元年七月、礼部太宗の神主祔廟の儀を進む:先期一日、官を遣わし太廟に詣で祭告の礼を行わしむ。午後、几筵殿に於いて大祥の祭を行ふ。翌日昧爽、酒果を几筵殿に設け、御輦二、冊宝亭四を殿前の丹陛上に設く。皇帝浅淡服を服し、祭告の礼を行ひ畢り、司礼監官跪きて神主の輦に升り、太廟に詣で奉安せんことを請ふ。内使二員神主を捧げ、内使四員冊宝を捧げ、殿の中門より出で、御輦・冊宝亭に安奉す。皇帝随ひ行きて思善門に至り、祭服に易え、輅に升る。午門外に至り、儀衛傘扇前導し、廟街門内に至り、皇帝輅より降る。監官導きて御輦の前に詣で奏し、跪きて神主の太廟に奉安せんことを請ひ、俯伏し、興る。内使神主冊宝を捧げ、皇帝従ひ、中門より入り、寝廟の東第三室に至り、南向に奉安す。皇帝叩頭し、畢り、祭祀は時祭の儀の如し。文武官祭服を具へて礼を行ふ。其の正殿の神座は、仁祖の次に居し、西向。二年五月、仁宗の神主を廟に祔す、前の儀の如し。寝殿は、西第三室、南向。正殿は、高祖の次に居し、東向。其の後大行の祔廟はこれに倣う。正統七年十二月、昭皇后の神主を奉じて廟に祔す。神主列祖の神位の前に詣で廟を謁す。礼畢り、太常寺官座を賜ふと唱へ、内侍衣冠を捧げ、仁宗と同じ神位とす。宣宗皇帝朝見せんことを請ふと唱へ、内侍宣宗の衣冠を捧げて褥位に置き、四拝の礼を行ひ訖り、座上に安奉す。

孝宗即位し、憲宗将に升祔せんとす。時に九廟已に備はり、議者皆謂ふ、徳・懿・熙・仁の四廟は、宜しく以て次第に奉祧すべしと。礼臣謂ふ、「国家徳祖以上より、世次を推す莫く、則ち徳祖は周の后稷を視る、祧すべからず。憲宗の升祔は、当に懿祖を祧すべし。宜しく太廟寝殿の後に於いて、別に祧殿を建て、古の夾室の制の如くすべし。歳暮には則ち祧主を奉じて合享し、古の祫祭の礼の如くすべし」と。吏部侍郎楊守陳言す、「『礼』に、天子七廟、祖は功に因り宗は徳に因る。徳祖は商の報乙・周の亜圉に比すべく、契・稷の比に非ず。議者は習ひて宋儒嘗て王安石の説を取るを見、遂に七廟既に始祖有り、又太祖有らしむ。太祖既に天に配し、又正位南向を得ず、礼の正に非ず。今請ふ、徳・懿・熙の三祖を並びに祧し、仁祖より下を以て七廟と為し、異時に祧尽きば、則ち太祖を契・稷に擬し、而して祧主は後寝に蔵み、祫礼は前殿に行はる。時享は太祖を尊び、祫祭は徳祖を尊べば、則ち功徳並びに崇く、恩義も亦備はらん」と。帝礼官の議に従ひ、祧廟を寝殿の後に建て、官を遣はし宗廟に祭告せしむ。帝素服を具へて憲宗の几筵に告げ、祭畢り、懿祖の神主衣冠を後殿に奉遷し、牀幔・御座・儀物は則ち神庫に貯ふ。其の後奉祧はこれに倣う。

嘉靖九年春、世宗特享の礼を行ふ。殿内に帷幄を設け九廟の如くし、列聖皆南向せしめ、各奠献し、祝を読みて三たびす、余は旧の如しと令す。十年正月、帝廟祀の更定を以て、太廟・世廟並びに祧廟の三主に告ぐ。徳祖の神主を祧廟に遷し、太祖の神主を寝殿の正中に奉安し、遂に序を以て七宗の神位を進遷す。丁酉、帝太廟に詣で特享の礼を行ふ。九月、大学士李時等に諭して、「宗廟の制、父子兄弟一堂に同処するは、礼に宜しからず。太宗以下宜しく皆専廟を立て、南向すべし」とす。尚書夏言奏す、「太廟の両傍、隙地幾も無し、宗廟の重事、始謀宜しく慎むべし」と。報へず。中允廖道南言す、「太宗以下宜しく各特廟を両廡の地に建つべし。都宮有りて以て廟を統べ、各門垣を為す必ずしも要せず。夾室有りて以て主を蔵め、更に寝廟を為す必ずしも要せず。第に列聖各其の尊を全うするを得しめ、皇上躬り礼を太祖の廟に行ひ、余は親臣を遣はし代献せしめ、古の諸侯助祭の礼の如くすべし」と。帝悦び、会議を命ず。言等言す、「太廟の地勢限り有り、恐らく容るる能はざらん、若し其の規模を小にせば、又古礼に合はず。且つ各廟既に成れば、陛下遍く羣廟を歴るは、独り筋力逮はざるのみならず、而して日力も亦給はざる有らん、古者宗伯の後を代へて献ずるの文は、一廟の中に在りて、後の亜献を代ふるを謂ふ。未だ人臣を以て一廟の祭を主るを代ふるを聞かず。且つ古の諸侯は多く同姓の臣なり、今陪祀執事の者は、古の諸侯の助祭者に擬すべけんや。先臣丘浚謂ふ、宜しく日を間きて一廟を祭り、十四日を歴て遍くすべしと。此れ蓋し処する所無くして、強ひて之が説を為すのみ。若し九廟一堂を以て、混同を嫌はば、請ふ木を以て黄屋を作り、廟廷の制の如くし、廟数に依りて之を設け、又帷幄を其の中に設け、庶幾くは専奠の敬を展ぶるを得ん」と。議上るも、報へず。

十三年、南京太廟災有り。礼部尚書湛若水権りに南京太廟の香火を南京奉先殿に併せ、太廟を重建し、列聖の神主を補造せんことを請ふ。帝尚書言を召し羣臣と集議せしむ。言大学士張孚敬等と会して言す、「国に二廟有るは、漢の恵帝より始まる。神に二主有るは、斉の桓公より始まる。周の三都廟は、乃ち国を遷し廟を立て、国を去りて主を載す、二廟二主に非ず。子孫の身は乃ち祖宗の依る所、聖子神孫既に此に於いて親しく祀事を奉ずれば、則ち祖宗の神霊自ら当に此に陟降すべし。今日正に廟議を専ら定め、一に此の地を以て根本とすべし。南京原より奉先殿有り、其の朝夕の香火は、当に合併して供奉すること常の如くすべし。太廟の遺址は当に古の壇墤の遺意に倣ひ、高く牆垣を築き、謹みて啓閉を司り、以て尊厳の意を致すべし」と。之に従ふ。

時に帝は九廟の改築を欲す。夏言、因りて言う、「京師の宗廟、将に古制に復せんとす。而して南京の太廟、遽かに災す。是れ殆ど皇天列祖の佑啓黙相する所にして、霊承せざるべからざる者なり」と。帝悦び、春和に工を興すを詔す。諸臣、太廟の南に議し、左を三昭廟と為し、文祖世室と合わせて四とし、右を三穆廟と為す。羣廟各深さ十六丈有奇、而して世室の殿寢稍々崇く、縦横深広、羣廟と等し。列廟の総門は太廟の戟門と相併び、列廟の後垣は太廟祧廟の後牆と相併ぶ。図を具えて進む。帝、世室尚お当に隆異すべしとし、再議を令す。言等、世室の前殿を増拓し、羣廟より四尺有奇崇くし、深広は其の半と為すを請う。寝殿は羣廟より二尺有奇崇くし、深広は之に如くす。報じて可とす。十四年正月、閣臣に諭す、「今文祖廟を建てて世室と為さんと擬す。則ち皇考世廟の字当に避くべし」と。張孚敬言う、「世廟は『明倫大典』に著し、詔を四方に頒ち、改むべからず。文世室は宜しく太宗廟と称すべし。其の余の羣廟は宗の字を用いず、本廟の号を用い、他日遷り遞はるに及びて、更に牌額すべし」と。之に従う。二月、故廟を尽く撤して之を改建す。諸廟各都宮を為し、廟各殿有り寝有り。太祖廟の寝後に祧廟有り、祧主を奉じて蔵す。太廟の門殿皆南向、羣廟の門東西に向かい、内門殿寝皆南向。十五年十二月、新廟成る。皇考廟を更に創めて睿宗献皇帝廟と曰う。帝乃ち安德・懿・熙・仁の四祖の神主を祧廟に奉安し、太祖の神主を太廟に奉安し、百官儀の如く陪祭す。翌日、太宗以下の神主を奉安し、羣廟に列ね、九卿正官及び武爵重臣を命じ、俱に太宗廟に詣りて陪祭せしむ。文三品以上、武四品以上、分ちて羣廟に詣りて礼を行わしむ。又日を択び、親しく太祖の神主を捧げ、文武大臣七宗の神主を捧げ、景神殿に奉安す。

二十年四月、太廟災有り、成祖・仁宗の主毀る。列聖の主を景神殿に奉安す。大臣を遣わし長陵・献陵に詣りて帝后の主を告題し、亦景神殿に奉安す。二十二年十月、旧廟の基隘きを以て、規制を相度するを命ず。議三たび上るも、報せず。久しくして、乃ち復た同堂異室の旧にせしむを命じ、廟制始めて定まる。二十四年六月、礼部尚書費寀等、太廟の神を安んずるに、位次を定むるを請う。帝曰く、「既に昭穆無く、亦世次無し。只だ倫理を序すべし。太祖中に居し、左四序は成・宣・憲・睿、右四序は仁・英・孝・武。皆南向す」と。七月、廟建の礼成るを以て、百官表を賀し、天下に詔す。新廟仍お闕左に在り、正殿九間、前両廡、南に戟門。門の左神庫、右神厨。又南に廟門と為し、門外東南に宰牲亭、南に神宮監、西に廟街門。正殿の後を寝殿と為し、列聖の神主を奉安し、又後を祧廟と為し、祧主を蔵す。皆南向。

二十七年、帝、孝烈皇后方氏を太廟に祔せんと欲し、而して仁宗を祧せんとす。大学士厳嵩・礼部尚書徐階等、初め皆不可を堅持す。既にして其の議を堅うすること能わず。二十九年十一月、仁宗を祧し、遂に孝烈を西第四室に祔す。隆慶六年八月、穆宗将に廟に祔せんとす。礼臣を敕して当に祧すべき廟室を議せしむ。礼科陸樹德言う、「宣宗は穆宗に僅か五世なり。請う、仍お睿宗を世廟に祔し、而して宣宗を祧さざらん」と。疏を礼部下す。部議す、宣宗の世次尚お近く、之を祧するは未だ安からずと。因りて言う、「古者は一世を以て一廟と為し、一君を以て一世と為さず。故に晋の廟は十一室にして六世、唐の廟は十一室にして九世。宋は太祖より上り四祖を追い徽宗に至り、始めて九世十一室の制を定む。太祖・太宗同に一世と為す故なり。其の後徽宗を祔するに哲宗と同一世を以てし、高宗を祔するに欽宗と同一世を以てし、皆祧す所無し。光宗の升祔に及び、増して九世十二室と為す。今宣宗より穆宗に至る凡そ六世、上り二祖を合せて僅か八世、宋の制を准うれば、以て祧無かるべし。但だ寝殿の左右各一室を増さば、則ち祖を尊び宗を敬うこと、並び行いて悖わず」と。帝、旧敕の如く行うを命じ、遂に宣宗を祧す。天啓元年七月、光宗将に廟に祔せんとす。太常卿洪文衡、憲宗を祧さず、而して睿宗を祧せんことを請う。聴かず。

○禘佩

洪武元年、太廟に祫饗す。徳祖皇考妣中に居し、南向。懿祖皇考妣東第一位、西向。熙祖皇考妣西第一位、東向。仁祖皇考妣東第二位、西向。七年、御史答禄与権言う、「皇上命を受くること七年にして禘祭未だ挙げず。宜しく古今を参酌し、一代の典を成すべし」と。詔して礼部・太常司・翰林院に下して議せしむ。以ってす、「虞・夏・商・周は世系明白なれば、故に禘礼行うべし。漢・唐以来、其の始祖の出づる所を明らかにする能わず。当時の所謂禘祭は、過ぎて已に祧せる祖を祫して之を祭るに過ぎず。是れ古の大祫にして、禘に非ず。宋の神宗嘗て曰く、『禘は、祖の出づる所を審諦する所以なり』と。是れ則ち祖の出づる所を知ること莫ければ、禘礼行うべからず。今国家四廟を追尊す。而して始祖の出づる所は未だ考うる所有らず。則ち禘は遽に行い難し」と。太祖其の議に是とす。弘治元年、毎歳暮に祧廟の懿祖神座を正殿の左に奉じ、熙祖の上に居し、祫祭の礼を行うを定む。

嘉靖十年、世宗、禘祫の義を以て大学士張璁に詢い、夏言と議せしむ。言、『禘義』一篇を撰して之を献ず。大意に謂う、「漢以下より、譜牒考うる難し。虞夏の黄帝を禘し、商周の帝嚳を禘するが如くせんと欲すれば、尽く合わず。謹しく古典を推明し、先儒の精微の論を採酌す。宜しく虚位を以て祀るべし」と。帝深く然りとす。会うに中允廖道南、朱氏は顓頊の裔なりと謂い、『太祖実録』を据えとし、顓頊を禘せんことを請う。遂に詔して礼部に言・道南の二疏を以て、官を会して詳議せしむ。諸臣咸に謂う、「虚位を称する者は茫昧として据え無く、顓頊を尊ぶ者は世遠くして稽うる難し。廟制既に高皇帝を始祖の位と定む。当に徳祖を禘して正とすべし」と。帝の意は虚位を主とす。再議を令す。而して言復た疏を上し徳祖を禘することに四疑有りを論じ、且つ言う、「今定むる所の太祖は太廟中の始祖なり。王者の始祖廟を立つるの始祖に非ず」と。帝並びに其の章を下す。諸臣乃ち虚位を設け、以て皇初祖を禘し、南向、太祖を奉じて配し、西向せんことを請う。礼臣因りて言う、大祫既に歳挙す。大禘は請う三歳に一行い、庶幾く疏数適宜ならんと。帝自ら文を為りて皇祖に告げ、丙・辛の歳一行うを定め、礼部を敕して儀を具え日を択ましむ。四月、礼部大禘の儀注を上す。前期廟に告げ、三日斎を致し、香帛牲醴を時享の儀の如く備う。錦衣衛儀衛を設け、太常卿皇初祖の神牌・太祖の神位を太廟正殿に奉じ、図儀の如く安設す。至日に至りて礼を行い、大祀圜丘の儀の如し。及び徳祖を祧し、歳除の祭を罷め、冬季中旬を以て大祫の礼を行うを議す。太常寺徳祖の神位を太廟正中に設け、南向。懿祖以下、次を以て東西に向かわしむ。

十五年、廟饗の制を再び定む。立春は犆享とし、各主を殿に出だす。立夏・立秋・立冬には太祖・成祖七宗主を出だし、太祖殿に饗して時祫と為す。季冬中旬、日を卜して四祖及び太祖・成祖七宗主を出だし、太祖殿に饗して大祫と為す。祭畢、各主を其の寝に帰す。十七年、大祫の祝文を定む。九廟の帝后諡号は全て書し、時祫には唯だ某祖・某宗某皇帝と書す。季冬大祫の日を更定し、徳・懿・熙・仁及び太祖の異室は皆南向、成祖は西向北上、仁宗以下七宗は東西相向とす。二十年十一月、礼官議す、歳暮大祫には当に祧主を陳ぶべしと、然るに景神殿狭隘なり、請う暫く四祖を後寝に祭し、連几を用い、籩豆を陳べて以て周旋に便ならしむ。詔して可とす。二十二年、時享・大祫に、主を出だし・香を上ぐ・奠献等の儀を罷め、臨時に衣冠を捧げ出納す。太常及び神宮監官之を奉行す。二十四年、季冬中旬の大祫を罷め、併せて告祭を罷め、仍て歳除の日を以て大祫を行い、礼は時享に同じ。二十八年、告祭の儀を復す。穆宗即位、礼部は大行皇帝服制未だ除かざるを以て、弘治十八年の例に遵い、歳暮大祫・孟春時享の両祭は皆官を遣わして事を摂せしむるを請う。楽は設けて作さず、帝は即ち喪次に斎を致し、陪祀官も亦二十七日の内に在り、宜しく暫く免ぜしむべし。之に従う。

時享

洪武元年、宗廟の祭を定む、毎歳四孟及び歳除、凡そ五享。学士陶安等言す、「古、四時の祭、三祭は皆祖廟に合享し、唯だ春祭は各廟に於いてす。漢以下より、廟は皆同堂異室、則ち四時皆合祭す。今宜しく近制に倣い、第一廟に合祭し、庶幾く礼の中に適い、煩瀆無からしむべし」と。太祖命じて孟春は各廟に特祭し、三時及び歳除は則ち徳祖廟に祫佩祭せしむ。二年、時享の制を定む、春は清明を以てし、夏は端午を以てし、秋は中元を以てし、冬は冬至を以てす。歳除は旧の如し。三年、礼部尚書崔亮言す、「孟月は四時の首なり。時に因りて変じ、孝思を致す、故に三牲黍稷品物を備えて以て祭す。仲季の月に至りては、新を薦むるに過ぎず。既に郊祀を行えば、則ち廟享挙げ難し、宜しく旧制に改め従うべし。其の清明等の節は、各時物を備えて以て薦むべし」と。之に従う。九年、新に太廟を建つ。凡そ時享、正殿中に徳祖帝后の神座を設け、南向。左に懿祖、右に熙祖、東西向。仁祖は懿祖に次ぐ。凡そ神座は俱に神主を奉ぜず、止だ衣冠を設く。礼畢、之を蔵す。孟春は上旬の日を択び、三孟は朔日を用い、及び歳除は皆合享す。是より五享は皆特祭を罷め、合配の礼を行ふ。二十一年、時享の儀を定む。前制を更め、迎神四拝、飲福四拝、礼畢四拝。二十五年、時享を定む。若し国に喪事あれば、楽は備えて作さず。

正統三年正月、太廟を享く。礼部言す、故事、先三日、太常寺祭祀を奏し、御正殿にて奏を受く。是の日、宣宗皇帝忌辰、例として鐘鼓を鳴らさず、第に西角門に視事す。帝は祭祀重事を以て、仍て殿に升るべく、余は悉く永楽間の例に遵いて之を行はしむ。天順六年、閣臣は皇太后喪を以て、孟冬時享を除服後に改むるを請う。之に従う。成化四年、礼部は慈懿太后喪を以て、孟秋享廟を初七日と改むるを請う。従わず。

嘉靖十一年、大学士張孚敬等言す、「太廟祭祀は、但だ衣冠を設く。皇上改めて主を出だして行はれ、誠に古礼に合す。但だ遍く羣廟に詣り、躬自ら啓納するは、過労免れず。今請う、太祖神主は躬自ら安設し、羣廟帝后神主は則ち以て内外捧主の諸臣に命ぜん」と。帝其の請に従う。十七年、享祫の礼を定む、凡そ立春特享は、親しく太祖を祭し、大臣八人を遣わして諸帝に分献し、内臣八人を遣わして諸后に分献す。立夏時祫は、各主を太廟に出だす。太祖南向、成祖西向、七宗の上に序し、仁・宣・英・憲・孝・睿・武宗東西相向。秋冬時祫は、夏礼の如し。二十四年、新廟成り、復た享祫は止だ衣冠を設け、主を出ださざるを定む。隆慶元年、孟夏時享、世宗几筵未だ撤かざるを以て、正徳元年の例に遵い、先一日、帝常服にて几筵に祭告し、祗ち諸廟享祀を請う。其の後、時享・祫祭大祥の内に在る者は、皆之の如し。

薦新

洪武元年、太廟月朔薦新の儀物を定む:正月、韭・薺・生菜・雞子・鴨子。二月、水芹・蔞蒿・臺菜・子鵝。三月、茶・筍・鯉魚・鮆魚。四月、櫻桃・梅・杏・鰣魚・雉。五月、新麥・王瓜・桃・李・来禽・嫩雞。六月、西瓜・甜瓜・蓮子・冬瓜。七月、菱・梨・紅棗・蒲萄。八月、芡・新米・藕・茭白・姜・鱖魚。九月、小紅豆・慄・柿・橙・蟹・鯿魚。十月、木瓜・柑・橘・蘆菔・兔・雁。十一月、蕎麥・甘蔗・天鵝・鶿老〓・鹿。十二月、芥菜・菠菜・白魚・鯽魚。其の礼は皆天子躬行す。未だ幾ばくもせず、太常に属す。二年詔す、凡そ時物は、太常先ず宗廟に薦め、然る後に進御す。三年、朔日薦新を定む、各廟共に羊一・豕一・籩豆八・簠簋登鉶各二・酒尊三、及び常饌鵝羹飯。太常卿及び与祭官法服にて礼を行ふ。望祭は、止だ常饌鵝羹飯、常服にて礼を行ふ。又献新の儀有り、凡そ四方別に新物を進むる、月薦の外に在る者は、太常卿と内使監官常服にて太廟に献す。礼を行はず。其の後朔望祭祀、及び薦新・献新は、俱に奉先殿に於いてす。

加上諡號

洪武元年、四廟の諡号を追尊し、冊宝は皆玉を用ふ。冊簡は長さ尺二寸、広さ一寸二分、厚さ五分、簡数は文の多寡に従ふ。金繩を以て聯ね、錦褥を以て藉け、紅羅泥金夾帕を以て覆ひ、冊匣は硃漆鏤金、龍鳳の文。其の宝の篆文は、広さ四寸九分、厚さ一寸二分、金盤龍紐、錦綬を以て系ぎ、紅錦を以て裹み、帕を加へて盝に納れ、盝は金を以て装す。徳祖冊文に曰く、「孝玄孫嗣皇帝臣某、再拝稽首上言す:臣聞く、先世を尊敬するは人の至情、祖父天下を有ち、之を子孫に伝へ、子孫天下を有ち、祖父を追尊するは、此れ古今の通義なりと。臣天下兵起るに遇ひ、躬く甲冑を披き、師旅を調度し、四方を戡定し、以て人民を安んじ、土地日広し。皆祖宗の庇を承く。臣庶臣を推して皇帝と為す、而して先世考妣未だ称号有らず。謹みて皇高祖考府君の尊号を上ぐるに曰く玄皇帝、廟号徳祖と。伏して惟ふ、英爽此の孝思を鑑みたまはんことを」と。其の宝文に曰く「徳祖玄皇帝之宝」。玄皇后・懿祖以下、帝后冊宝並に同じ。建文時、追尊諡冊の典は、革除に以て考ふる無し。

永楽元年五月、高皇帝・高皇后の諡議を進上した。前日、奉天殿の中に諡議案を設けた。この日の早朝、帝は袞冕を着て殿に昇り、常の儀式に従った。文武官は朝服で四拝した。礼部官が尊諡議の進上を奏した。序班二員が班首を導いて丹陛に昇らせ、諡議文を捧げる官が諡議文を班首に授け、中門より入り、殿中に至った。尊諡議進上を唱えた。帝は立ち上がり、諡議文案に赴いた。班首が進み出て案上に置き、跪くと、百官も皆跪いた。帝が閲覧し終えると、再び座についた。班首と百官は俯伏してから起き上がり、元の位置に戻り、再び四拝を行った。礼が終わると、帝は自ら諡議文を挙げて、翰林院の臣に冊文の撰述を命じた。

六月、尊諡を上るにあたり、事前に斎戒し、官を遣わして天地・宗廟・社稷に祭告した。鴻臚寺が奉天殿に香案を設けた。この日の早朝、内侍が冊宝を案上に置いた。太常寺は太廟門外の丹陛上と、皇考・皇妣の神御前にそれぞれ冊宝案を設けた。鴻臚寺は奉天門外に冊宝輿を設け、鹵簿・楽懸は常の儀式の通りであった。百官は祭服を着て太廟門外に立ち待ち、執事官および冊宝宣読官は先に太廟右門より入り、殿の右に順序立てて立った。帝は袞冕を着て華蓋殿に御し、冊宝を捧げる官四員は祭服を着て、奉天殿の東西に序立した。鴻臚寺が行禮の奏請をした。帝は奉天殿を出て冊宝案の前に至り、冊宝を捧げる官がそれぞれ捧げて先立ち、彩輿の中に置いた。鹵簿と大楽が先導した。帝は輿に乗り、彩輿に随って行進した。午門外に至って輿を降り、輅に乗り換え、太廟門に至った。百官は跪いて彩輿の通過を待ち、過ぎると起立した。帝は輅を降り、彩輿に随って太廟中門外に至った。冊宝を捧げる官がそれぞれ捧げて先立ち、帝はその後について行き、丹陛上に至った。冊宝を捧げて案上に置き、典儀が常のように伝唱し、内賛が就位を奏した。典儀が迎神・奏楽を奏した。楽が止むと、内賛が帝の四拝を奏し、百官も同じくした。典儀が冊宝進上を奏した。冊宝を捧げる官が先立ち、帝は左門より入り、廟中に至り、皇考の神御前に赴いた。跪を奏し、圭を搢いた。冊進上を奏し、冊を捧げる官が跪いて帝の左に進上した。帝は冊を受け取り、執事官に授けて案の左に置かせた。圭を出すことを奏し、冊宣読を唱えた。冊を宣する官が跪いて帝の左で宣読した。冊文は次の通りである。「永楽元年、歳次癸未、六月丁未朔、十一日丁巳、孝子嗣皇帝臣某、謹んで拜手稽首して言う。臣聞く、俊德は堯を賛え、重華は舜を美し、禹・湯・文・武、列聖相承し、功德並びに隆んにして、皆顕號を膺く。欽惟うに皇考皇帝は、天を統べ運を肇め、布衣より奮い起こり、禍乱を戡定し、夏を用いて夷を変え、孝を以て天下を治む。四十余年、民は永熙を楽しみ、礼楽文章、憲を萬世に垂れ、德は乾坤に合し、明は日月に同じく、功は千古を超え、道は百王に冠たる。謹んで冊宝を奉り、尊諡を上りて曰く、聖神文武欽明啓運俊德成功統天大孝高皇帝、廟號は太祖とす。伏して惟うに、神靈の陟降し、陰騭下民し、覆幬極まり無く、天と常に存らんことを。」冊の宣読が終わると、圭を搢くことを奏した。宝進上を奏し、宝を捧げる官が宝を捧げて跪き、帝の左に進上した。帝は宝を受け取り、執事官に授けて案の右に置かせた。圭を出すことを奏した。宝宣読を唱え、宝を宣する官が跪いて帝の右で宣読し、宝文は諡號と同じであった。宝の宣読が終わると、俯伏・興を奏した。帝は皇妣の神御前に赴き、冊宝の進上・宣読を前の儀式と同じく行った。冊文は次の通りである。「臣聞く、古より后妃は、皆世緒を承く。嬀汭にて虞に嬪し、帝室に祥を発し、周の姜は治を輔け、邦君に基を肇く。欽惟うに皇妣孝慈皇后は、聖を以て聖を輔け、同じく側微より起こり、艱難を弘済し、家を化して国と為す。克く勤め克く儉し、克く敬い克く誠に、克く孝に克く慈しみ、以て神靈の統を奉り、萬物の宜を理む。中宮に正位すること十有五年、家邦は式を承け、天下は仁に帰す。謹んで冊宝を奉り、尊諡を上りて曰く、孝慈昭憲至仁文德承天順聖高皇后。伏して惟うに、聖靈の陟降し、慈しみを膺け顕名し、日月の光華、永世を照臨せんことを。」宝文は諡號と同じであった。宝の宣読が終わると、帝は元の位置に戻った。四拝を奏し、百官も同じくした。祭禮を常の儀式の通りに行った。翌日、詔を天下に頒布した。以上の諡禮が成ると、陪祀の執事官に宴を賜い、その他の官員には一人一錠の鈔を賜った。

仁宗が即位し、九月、礼部が諸臣とともに大行皇帝(永楽帝)と仁孝皇后の諡議を進上した。仁宗は立ったままこれを受け、閲覧し終えると涙が止まらず、翰林院に諡冊の撰述を命じた。礼部が上諡の儀式を奏上した。事前に斎戒し遣祭するのは常の通りで、内侍が冊宝輿を奉天門に置いた。その明くる日、冊宝を捧げて輿の中に置いた。帝は衰服を着て奉天門に詣で、内侍が冊宝輿を挙げると、帝は輿の後について行き、階を降りて輅に乗った。百官は金水橋の南に立ち、北に向かって跪いた。輿が過ぎるのを待ち、過ぎると起立した。思善門外まで随行し、序立して北に向かった。帝は輅を降りた。冊宝輿は中門より入り、几筵殿の丹陛上に至った。帝は左門より入り、丹陛上の拝位に就いた。冊宝を捧げる官は殿の左門より入り、几筵の前に至った。導引官が四拝を奏し、皇太孫・親王・皇孫は丹陛上で陪拜し、百官は思善門外で陪拜した。帝は殿の左門より入り、大行皇帝の位前に詣で、跪いて冊を進上し、宝を進上した。冊宝を宣する官が跪いて宣読し終えると、俯伏・興を奏した。帝は仁孝皇后の神位前に詣で、禮は全て同じであった。復位・四拝を奏し、皇太孫以下も同じくした。禮が終わると、祭禮を行った。この日、仁孝皇后の神主を改題し、詔を天下に頒布した。この後、皇帝および太皇太后・皇太后の尊諡を上る儀式は、皆これに倣った。

嘉靖十七年、世宗は豊坊の上奏を用い、献皇帝に廟號を加えて宗と称し、帝に配祀させ、太宗を成祖と改めて奉った。二聖の神位を南宮に製することを命じ、景神殿に詣で、冊宝を奉った。文皇帝を尊んで成祖啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝とし、献皇帝を尊んで睿宗知天守道洪德淵仁寬穆純聖恭儉敬文獻皇帝とした。また皇天上帝の大號を上った。十一月朔、帝は南郊に詣で、謹んで冊表を進上した。禮が成ると、還って太廟に詣で、冊宝を奉り、高皇帝の尊號に太祖開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊德成功高皇帝を加え、高皇后の尊號に孝慈貞化哲順仁徽成天育聖至德高皇后を加えた。この日、中宮が高皇后の神主を捧げ、亞獻の禮を行うのを助け、文武官の命婦が陪祀した。また日を選んで太廟に詣で、神主改題の禮を行った。

○廟諱

天啓元年正月、礼部の上奏に従い、点水偏に各の字を加えたものは、全て「雒」に改め、木偏に交の字を加えたものは、全て「較」に改めた。ただ督學を較と称するのは適切でないとして、學政と改めるべきとした。各王府および文武職官で、廟諱や御名に犯すものは、悉くこれを改めた。