洪武三十一年
三十一年閏五月、太祖崩ず。皇太孫即位し、遺詔して諸王に国中に臨むことを命じ、京師に至ることを得ざらしむ。王、北平より入り奔喪せんとす。詔を聞きて乃ち止む。時に諸王、尊属として重兵を擁し、多く不法なり。帝、斉泰・黄子澄の謀を納れ、事に因りて以て次第に之を削除せんと欲す。燕王の強きを憚り、未だ発せず。乃ち先ず周王橚を廃し、以て燕を牽引せんと欲す。ここに於て告訐四起し、湘・代・齊・岷皆罪を以て廃せらる。王内に自ら危うくし、狂を佯り疾を称す。泰・子澄密かに帝を勧めて王を除かんとす。帝未だ決せず。
秋七月癸酉、壮士を端礼門に匿し、貴・昺を紿して入らしめ、之を殺す。遂に九門を奪う。天子に上書し、泰・子澄を指して奸臣と為し、併せて祖訓「朝に正臣無く、内に奸悪有らば、則ち親王兵を訓へ命を待ち、天子密詔を諸王に下し、鎮兵を統領して之を討平せしむ」を援く。書既に発せられ、遂に兵を挙ぐ。自ら官属を署し、其の師を「靖難」と称す。居庸関を抜き、懷来を破り、宋忠を執り、密雲を取り、遵化を克ち、永平を降す。二旬にして衆数万に至る。
八月、天子、耿炳文を以て大將軍と為し、師を帥いて討を致す。己酉、師真定に至り、前鋒雄縣に抵る。壬子、王夜に白溝河を渡り、雄を囲み、其の城を抜き、之を屠る。甲寅、都指揮潘忠・楊松、鄚州より来援す。伏兵之を擒え、遂に鄚州を據り、還って白溝に駐る。大將軍の部校張保来降り、言う「大將軍の軍三十万、先ず至る者十三万、半ばは滹沱河の南に営し、半ばは河北に営す」と。王、北軍と戦い、南軍且つ之に乗ぜんことを懼れ、乃ち保を縱ち帰らしめ、俾くは王の兵を帥い且つ至らんと揚言せしめ、其の軍を誘いて盡く北に河を渡らしむ。壬戌、王真定に至り、張玉・譚淵等とともに炳文の軍を夾撃し、大いに之を破り、其の副将李堅・甯忠及び都督顧成等を獲、首級三万を斬る。進みて真定を囲む。二日にして下らず、乃ち引き去る。天子、炳文の敗れたるを聞き、曹國公李景隆を遣わし、代わりて其の軍を領せしむ。
九月戊辰、江陰侯吳高、遼東の兵を以て永平を囲む。戊寅、景隆、兵五十万を合し、進みて河間に営す。王諸将に語りて曰く「景隆は色厲にして中餒り、我在るを聞けば必ず敢えて遽に来たらず。往きて永平を援い、以て其の師を致すに若かず。吳高は怯にして戦に任ぜず、我至れば必ず走らん。然る後に還りて景隆を撃たん。堅城前に在り、大軍後に在れば、必ず擒と成らん」と。丙戌、燕師永平を援う。壬辰、吳高、王の至れるを聞き、果たして走る。追撃して之を敗る。遂に北に趨き大寧に至る。
冬十月壬寅、計を以て其の城に入る。七日居り、寧王權を挾み、大寧の衆及び朵顏三衞の卒を抜きて俱に南す。乙卯、會州に至る。始めて五軍を立つ。張玉中軍を将い、鄭亨・何寿之を副く。朱能左軍を将い、朱榮・李濬之を副く。李彬右軍を将い、徐理・孟善之を副く。徐忠前軍を将い、陳文・吳達之を副く。房寬後軍を将い、和允中・毛整之を副く。丁巳、松亭関に入る。景隆、王の大寧を征するを聞き、果たして軍を引きて北平を囲み、壘を九門に築く。世子堅守して戦わず。
十一月庚午、王孤山に次ぐ。邏騎還り報じて曰く「白河の流れ澌りて渡るべからず」と。王神に禱る。至れば則ち冰合す。乃ち師を濟す。景隆、都督陳暉を遣わし敵を偵わしむ。道左にて、王の軍の後に出づ。王軍を分けて還りて之を撃つ。暉の衆河を渡らんと爭う。冰忽ち解く。溺死すること算無し。辛未、景隆と鄭村壩に戦う。王精騎を以て先ず其の七営を破り、諸将継ぎて至る。景隆大いに敗れ、奔りて還る。乙亥、復た上書して自ら訴う。
十二月、景隆、兵を德州に調べ、期して明年の春を以て大挙せんとす。王乃ち大同を侵さんと謀りて曰く「大同を攻めれば、彼必ず赴きて救わん。大同は苦寒、南軍脆弱にして、且つ戦わずして疲れん」と。庚申、廣昌を降す。
二月癸丑、大同に至る。景隆果たして紫荊関より来援す。王は既に軍を旋して居庸に在り、景隆の兵多く凍餒死する者あり、敵を見ずして還る。
夏四月、景隆兵を河間に進め、郭英・呉傑・平安と期して白溝河に会す。乙卯、王は蘇家橋に営す。己未、平安の兵に河側に遇う。王は百騎を以て前に出で、佯りて却き、安を誘いて陣動かし、之に乗ず。安敗走す。遂に景隆の軍に迫り、戦利あらず。暝に軍を収め、王は三騎を以て殿と為り、夜道に迷い、馬を下りて地に伏し河流を視て、乃ち東西を弁じ、河を渡り去る。庚申、復た戦う。景隆横陣数十里、燕の後軍を破る。王自ら精騎を帥いて横撃し、瞿能父子を斬る。丘福に中堅を衝かしむるも、入るを得ず。王其の左を盪し、景隆の兵乃ち繞り出でて王の後に出づ。大戦良久、飛矢雨の如く注ぐ。王三たび馬を易え、矢尽きて剣を揮い、剣折れて堤に走り登り、佯りて鞭を引きて後継者を招くが若し。景隆伏有りを疑い、敢えて前らず。高煦の救至りて、乃ち解く。時に南軍益々集まり、燕の将士皆色を失う。王奮然として曰く、「吾進まずんば、敵退かず、戦有るのみ」と。乃ち復た勁卒を以て其の背を突出し、之を夾攻す。会に旋風起こり、景隆の旂を折る。王風に乗じて火を放ち奮撃し、数万を斬首し、溺死者十余万人。郭英潰えて西に走り、景隆潰えて南に走り、其の賜わる所の璽書斧鉞を尽く喪い、德州に走る。
五月癸酉、王德州に入り、景隆済南に走る。庚辰、済南を攻め、景隆の軍を城下に敗る。鉄鉉・盛庸堅く守り、克たず。
秋八月戊申、囲みを解きて北平に還る。
九月、盛庸李景隆に代わって将たり、復た德州を取り、呉傑・平安・徐凱と相掎角し、以て北平を困む。時に徐凱方に滄州を城す。王佯りて兵を出して遼東を攻め、通州に至り、河に循いて南し、直沽を渡り、昼夜兼行す。
冬十月戊午、襲い徐凱を執し、其の城を破り、夜に降卒三千人を坑む。遂に河を渡り德州を過ぐ。盛庸兵を遣わして来襲す、之を撃ち破る。
十一月壬申、臨清に至る。
十二月丁酉、襲い盛庸の将孫霖を滑口に破る。乙卯、及び庸と東昌に戦う。庸火器勁弩を以て王の兵を殲す。会に平安の軍至り、数重を合囲す。王大敗し、囲みを潰して免る。数万人を亡い、張玉戦死す。
二月乙巳、復た師を帥いて南下す。
三月辛巳、盛庸と夾河に遇い、譚淵戦死す。朱能・張武殊死に闘い、庸の軍少しく却く。会に日暮れ、各兵を斂めて営に入る。王十余騎を以て庸の営に逼り野宿す。及び明けて起きて視るに、已に囲中に在り。乃ち従容として馬を引き、角を鳴らして営を穿ち去る。諸将天子詔有り、叔父を殺す名を負わしむる毋かれと為すを以て、倉卒相顧み愕眙し、敢えて一矢を発せず。是日復た戦い、辰より未に至り、両軍相勝負す。東北風忽ち起こり、塵埃天を蔽う。燕兵大呼し、風に乗じて縦撃し、庸大敗す。德州に走る。呉傑・平安真定より軍を引きて庸と会せんとす。未だ八十里に至らず、敗を聞きて引き還る。王計を以て之を誘い、傑・安兵を出して王を襲う。
閏月戊戌、藁城に於いて遇う。己亥、之と戦い、大風木を抜き、傑・安敗走し、真定城下に追う。癸丑、大名に至り、斉泰・黄子澄已に罷めらるるを聞き、上書して呉傑・平安・盛庸の兵を召還せんことを請う。天子大理少卿薛嵓を使わして来報し、王に甲を釈せんことを諭す。王詔を奉ぜず。
夏五月、傑・安・庸兵を分かち燕の餉道を断つ。王指揮武勝を遣わし上書し、其の故を詰む。天子怒り、勝を獄に下す。王遂に李遠を遣わし沛県を略し、糧舟万計を焚く。
秋七月己丑、彰徳を掠む。丙申、林県を降す。平安虚に乗じて北平を搗す。王劉江を遣わし迎え戦い、安敗走す。房昭易州西水寨に屯し、保定を攻む。王兵を引いて之を囲む。
冬十月丁巳、都指揮花英が昭を救援し、峨眉山の下でこれを破り、斬首一万級、昭は寨を棄てて逃走した。己卯、北平に還る。
建文四年
四年春正月乙未、館陶より河を渡る。癸丑、徐州を巡る。
三月壬辰、平安が四万騎を率いて王の軍を追跡し、王は淝河に伏兵を設け、これを大いに破る。丙午、譚清を遣わして徐州の糧道を断たしめ、還るに大店に至り、鉄鉉の軍に包囲される。王は兵を率いて馳せ援け、清は包囲を突破して出で、合撃してこれを破る。
夏四月丙寅、王は小河に営し、橋を架けて渡河す。平安は急ぎ橋を争い、陳文は戦死す。平安の軍は橋の南に、王の軍は橋の北にあり、数日相持す。平安は転戦し、北坂で王に遭遇し、王は危うく平安の槊に及ばんとす。番騎の王騏が躍り入って陣し、王を助けて逃れ去る。王曰く、「南軍は飢えている。さらに一二日すれば糧秣が至り、急には破り難い」。乃ち千余人に橋を守らせ、夜半に河を渡って南に至り、安の軍の背後に出る。夜明けに、安はようやく気づき、丁度徐輝祖が来会す。甲戌、斉眉山の下で大戦す。この時、燕は連続して大将を失い、淮の地は盛夏の蒸し暑さに湿り、諸将は小河の東で軍を休め、麦を食らい隙を窺うことを請う。王曰く、「今、敵は持久して飢え疲れている。その糧道を遮断すれば、坐して困らしめることができる。どうして北に渡って将士の心を緩ませようか」。乃ち渡河を欲する者は左に立てと命ずると、諸将は争って左に趨る。王は怒って曰く、「諸公の赴くところに任せよ」。乃ち敢えて再び言う者なし。丁丑、何福らが霊璧に営す。燕はその糧道を遮断し、平安は兵六万人を分けてこれを護る。己卯、王は精鋭を率いて横撃し、その軍を断ちて二つとす。何福が空営を出て来援し、王の軍は少し退く。高煦の伏兵が起こり、福は敗走す。辛巳、進んでその塁に迫り、これを破り、平安・陳暉ら三十七人を生け捕りにし、何福は逃れて免れる。
五月己丑、泗州を下し、祖陵に謁し、父老に牛酒を賜う。辛卯、盛庸が淮の南岸を扼す。朱能・丘福が潜かに渡河して襲い走らせ、遂に盱眙を克つ。癸巳、王は諸将を集めて進むべき方向を議す。或いは鳳陽を取るべしと言い、或いは先ず淮安を取るべしと言う。王曰く、「鳳陽は楼櫓完備し、淮安は積粟多く、攻めれば容易に下らぬ。勝に乗じて直ちに揚州に趨り、儀真を指せば、淮・鳳は自ら震う。我が兵を江上に耀かせば、京師は孤危となり、必ず内変あらん」。諸将皆曰く善し。己亥、揚州を巡り、江北に軍を駐む。天子、慶成郡主を軍中に遣わし、地を割きて和することを許すも、聴かず。
六月癸丑、江防都督僉事陳瑄が舟師を率いて叛き、王に附く。甲寅、大江を祭る。乙卯、瓜州より渡河す。盛庸が海艘を以て迎戦するも、敗績す。戊午、鎮江を下す。庚申、龍潭に次ぐ。辛酉、天子、再び大臣を遣わして割地を議わしめ、諸王も続いて至るも、皆聴かず。乙丑、金川門に至る。谷王橞・李景隆らが門を開いて王を納れ、都城遂に陥落す。この日、王は諸将を分命して城及び皇城を守らせ、龍江に還り駐まり、軍民を撫安するよう下令す。斉泰・黄子澄・方孝孺ら五十余人を大いに索め、その姓名を掲示して奸臣と曰う。丙寅、諸王群臣、表を上って進むことを勧む。己巳、王、孝陵に謁す。群臣、法駕を備え、宝璽を奉じ、万歳を迎え呼ぶ。王は輦に昇り、奉天殿に詣りて皇帝の位に即く。周王橚・斉王榑の爵位を復す。壬申、建文皇帝を葬る。丁丑、斉泰・黄子澄・方孝孺を殺し、併せてその族を夷す。奸党に坐して死する者甚だ衆し。戊寅、興宗孝康皇帝の神主を陵園に遷し、仍って懿文太子と称す。
八月壬子、侍読解縉・編修黄淮、文淵閣に入り直す。まもなく侍読胡広、修撰楊栄、編修楊士奇、検討金幼孜・胡儼を命じて同に入直せしめ、併せて機務に預からしむ。兵部尚書鉄鉉を捕らえて至らしむも、屈せず、これを殺す。左軍都督劉真、遼東を鎮む。丁巳、御史を分遣して天下の利弊を察せしむ。戊午、都督何福を征虜将軍と為し、寧夏を鎮め、陝西行都司を節制せしむ。都督同知韓観、江西で練兵し、広東・福建を節制す。甲子、西平侯沐晟、雲南を鎮む。
九月甲申、靖難の功を論じ、丘福を淇国公に、朱能を成国公に封じ、張武ら侯となる者十三人、徐祥ら伯となる者十一人を封ず。帰順の功を論じ、駙馬都尉王寧を侯に、茹瑺・陳瑄及び都督同知王佐を皆伯に封ず。甲午、功臣の死罪減禄の例を定む。乙未、山西の田なき民を徙して北平に実し、これに鈔を賜い、五年間租税を免除す。韓観を征南将軍と為し、広西を鎮む。
冬十月丁巳、北平州県の官を棄て靖難の兵を避けた朱寧ら二百十九人に命じ、粟を納めて死を免じ、興州に戍らしむ。己未、太祖実録を修す。丙寅、鎮遠侯顧成、貴州を鎮む。壬申、谷王橞を徙封して長沙とす。甲戌、詔して従征将士が民間の子女を掠めた者はその家に還すべし。
十一月壬辰、妃徐氏を立てて皇后と為す。広沢王允熥・懐恩王允熞を廃して庶人と為す。
十二月癸丑、兵乱に遭った州県の明年の夏税を免除す。