洪武三十一年
六月、州県を省併し、冗員を革む。兵部侍郎斉泰を本部尚書と為し、翰林院修撰黄子澄を太常卿と為し、軍国事に参ずるを同じくす。
秋七月、漢中府教授方孝孺を召して翰林院侍講と為す。詔して寛政を行い、罪ある者を赦し、逋賦を蠲す。
八月、周王橚罪有り、廃して庶人と為し、雲南に徙す。詔して興州、営州、開平諸衛の軍で全家が在伍する者は、一人を免ず。天下の衛所の軍で単丁の者は、放ちて民と為す。
九月、雲南総兵官西平侯沐春、軍中に卒す。左副将何福、その衆を代わりに領す。
冬十一月、工部侍郎張昺を北平布政使と為し、謝貴、張信に北平都指揮使司を掌らしめ、燕の陰事を察せしむ。詔して直言を求め、山林の才徳の士を挙げしむ。
十二月癸卯、何福、刀幹孟を破り斬り、麓川平らぐ。この月、天下に明年の田租の半ばを賜い、黥軍及び囚徒を釈して郷里に還らしむ。
是の年、暹羅、占城、貢に入る。
二月、皇考を追尊して孝康皇帝と曰い、廟号を興宗とし、妣常氏を孝康皇后と曰う。母妃呂氏を尊んで皇太后と曰い、妃馬氏を冊して皇后と為す。弟允熥を封じて呉王と為し、允熞を衡王と為し、允熙を徐王と為す。皇長子文奎を立てて皇太子と為す。詔して天下に告げ、遺賢を挙げしむ。民の高年に米肉絮帛を賜い、鰥寡孤独廃疾の者は官これを牧養す。農桑を重んじ、学校を興し、官吏を考察し、罹災の貧民を振恤し、節孝を旌表し、暴骨を瘞い、荒田の租を蠲す。衛所の軍戸で絶えたる者は除きて勾せず。詔して諸王に文武の吏士を節制することを得ざらしめ、内外大小の官制を更定す。
三月、先師孔子に釈奠を行ふ。天下諸司の不急の務を罷む。都督宋忠・徐凱・耿瓛、兵を帥ひて開平・臨清・山海関に屯す。北平・永清二衞の軍を彰徳・順徳に調す。侍郎暴昭・夏原吉等二十四人を採訪使に充て、天下を分巡せしむ。甲午、京師地震す。直言を求む。
夏四月、湘王柏自ら焚死す。斉王榑・代王桂罪有り、庶人に廃せらる。燕王世子高熾及び其の弟高煦・高燧を遣はして北平に還らしむ。
六月、岷王楩罪有り、庶人に廃せられ、漳州に徙す。己酉、燕山護衞百戸倪諒、変を上る。燕の旗校於諒等誅せらる。詔して燕王棣を譲り、王府の官僚を逮ふ。北平都指揮張信、叛きて燕に附く。
秋七月癸酉、燕王棣兵を挙げて反し、布政使張昺・都司謝貴を殺す。長史葛誠・指揮盧振・教授余逢辰之に死す。参政郭資・副使墨麟・僉事呂震等、燕に降る。指揮馬宣薊州に走り、俞瑱居庸に走る。宋忠北平に趨るも、変を聞き退きて懐来を保つ。通州・遵化・密雲相継いで燕に降る。丙子、燕兵薊州を陥とし、馬宣戦死す。己卯、燕兵居庸関を陥とす。甲申、懐来を陥とし、宋忠・俞瑱執はれて死す。都指揮彭聚・孫泰力戦して死す。永平指揮郭亮等叛きて燕に降る。壬辰、谷王橞宣府より京師に奔る。長興侯耿炳文を征虜大将軍と為し、駙馬都尉李堅・都督甯忠を左・右副将軍と為し、師を帥ひて燕を討たしむ。天地宗廟社稷に祭告し、燕の属籍を削る。詔して曰く。
尋ち安陸侯呉傑、江陰侯呉高、都督耿瓛、都指揮盛庸・潘忠・楊松・顧成・徐凱・李友・陳暉・平安を命じ、分道並進せしむ。平燕布政使司を真定に置き、尚書暴昭司事を掌る。
八月己酉、耿炳文の兵真定に次ぐ。徐凱河間に屯し、潘忠・楊松鄚州に屯す。壬子、燕兵雄県を陥とす。潘忠・楊松月漾橋に戦ひ、執はる。鄚州陥つ。壬戌、耿炳文及び燕兵滹沱河北に戦ひ、敗績す。李堅・甯忠・顧成執はる。炳文退きて真定を保つ。燕兵之を攻むるも克たず、引き去る。遼王植・寧王権を召して京師に帰らしむ。権至らず、詔して護衞を削る。丁卯、曹国公李景隆を征虜大将軍と為し、耿炳文に代ふ。
九月戊辰、呉高・耿瓛・楊文遼東の兵を帥ひ、永平を囲む。戊寅、景隆の兵河間に次ぐ。燕兵永平を援け、呉高退きて山海関を保つ。
冬十月、燕兵劉家口より間道を以て大寧を襲ひ陥とす。守将朱鑑之に死す。総兵官劉真・都督陳亨大寧を援く。亨叛きて燕に降る。燕、寧王権及び朵顔三衞の卒を以て北平に帰る。辛亥、李景隆北平を囲む。燕兵還りて救ふ。
十一月辛未、李景隆及び燕兵鄭村壩に戦ひ、敗績し、德州に奔り、諸軍尽く潰ゆ。燕王棣再び朝に上書す。帝為に斉泰・黄子澄の官を罷め、仍京師に留む。
二月、燕兵蔚州を陥とし、大同を進攻す。李景隆德州より赴きて援く。燕兵北平に還る。保定知府雒僉叛きて燕に降る。甲子、復た都察院を御史府と為す。江・浙の田賦を均す。詔して曰く、「国家に惟正の供有り。江・浙の賦独り重く、而して蘇・松の官田悉く私税に準ず。一時を懲らすに用ふるも、豈に定則と為すべけんや。今悉く之を減免し、畝一斗を踰ゆること毋かれ。蘇・松の人仍官戸部を得しむ。」
三月丙寅朔、日食有り。胡広等に進士及第・出身を賜ひ差有り。
夏四月己未、李景隆及び燕兵白溝河に戦ひ、之を敗る。明日復た戦ひ、敗績す。都督瞿能・越巂侯俞淵・指揮滕聚等皆戦死す。景隆德州に奔る。
五月辛未、済南に奔る。燕兵德州を陥とし、遂に済南を攻む。庚辰、景隆城下に敗績し、南に走る。参政鉄鉉・都督盛庸力を悉くして之を禦ぐ。
六月己酉、尚宝丞李得成を遣わして燕に罷兵を諭す。
秋八月癸巳、承天門災あり、詔して直言を求む。戊申、盛庸・鉄鉉、燕兵を撃ち破り、済南の囲み解け、德州を復す。
九月、詔して洪武中の功臣にして罪に坐し廃されたる者の後を録す。辛未、盛庸を歴城侯に封じ、鉄鉉を山東布政使に擢て軍務を参賛せしめ、尋いで兵部尚書に進む。庸を以て平燕将軍と為し、都督陳暉・平安これを副く。庸は德州に屯し、平安及び呉傑は定州に屯し、徐凱は滄州に屯す。
冬十月、李景隆を召還し、誅せずして赦す。庚申、燕兵滄州を襲い、徐凱執わる。
十二月甲午、燕兵済寧を犯し、東昌に迫る。乙卯、盛庸これを撃ち破り、其の将張玉を斬る。丙辰、再び戦い、またこれを破り、燕兵館陶に走る。庸軍の勢い大いに振い、諸屯軍に檄して合して燕を撃ち、其の帰路を絶たしむ。
三月辛巳、盛庸、夾河において燕兵を破り、其の将譚淵を斬る。再戦して利あらず、都指揮荘得・楚智等力戦して死す。壬午、再び戦い、敗績し、庸は德州に走る。丁亥、都督何福、德州を援く。癸巳、斉泰・黄子澄を貶し、燕に罷兵を諭す。
閏月己亥、呉傑・平安及び燕、藁城において戦い、敗績し、還って真定を保つ。燕兵、真定・順徳・広平・大名を掠む。棣、上書して諸将を召還し兵を息まさんことを請い、大理少卿薛嵓を遣わしてこれに報ず。是の月、礼制成り、天下に頒行す。
夏五月甲寅、盛庸、兵を以て燕の餉道を扼せんとすれども克たず。棣、復た使者を遣わし上書す、其の使を獄に下す。
六月壬申、燕将李遠、沛県を寇し糧艘を焚く。壬午、都督袁宇、これを邀撃すれども敗績す。
秋七月己丑、燕兵、彰徳を掠む。丁酉、平安、真定より北平を攻む。壬寅、大同守将房昭、兵を帥いて紫荊関より保定に趨き、易州西水寨に駐る。
九月甲辰、平安及び燕将劉江、北平において戦い、敗績し、還って真定を保つ。
冬十月丁巳、真定諸将、兵を遣わして房昭を援け、燕王と斉眉山において戦い、敗績す。
十一月壬辰、遼東総兵官楊文、永平を攻め、劉江と昌黎において戦い、敗績す。己亥、平安、楊村において燕将李彬を破る。
十二月癸亥、燕兵は真定の軍儲を焼く。詔して、中官奉使にして吏民を侵暴する者は、所在の有司これを繫治す。是の月、駙馬都尉梅殷は淮安を鎮む。太祖実録成る。
建文四年
四年春正月甲申、故周王橚を蒙化より召し、之を京師に居らしむ。燕兵連ねて東阿・東平・汶上・兗州・済陽を陥とす。東平吏目鄭華、済陽教諭王省皆之に死す。甲申、魏国公徐輝祖師を帥いて山東を援く。燕兵沛県を陥とす。知県顔伯瑋・主簿唐子清・典史黄謙之に死す。癸丑、徐州に迫る。
二月甲寅、都督何福及び陳暉・平安軍は済寧に、盛庸軍は淮上に在り。己卯、品官勲階を更めて定む。
三月、燕兵宿州を攻む。平安之を淝河に追い及び、其の将王真を斬る。伏兵に遇いて敗績す。宿州陥つ。
夏四月丁卯、何福・平安燕兵を小河に敗り、其の将陳文を斬る。甲戌、徐輝祖等燕兵を斉眉山に敗り、其の将李斌を斬る。燕兵懼れ、北帰を謀る。会に帝訛言を聞く、燕兵已に北せりと謂ひ、輝祖を召し還す。何福軍亦孤なり。庚辰、諸将及び燕兵霊璧に大戦し、敗績す。陳暉・平安・礼部侍郎陳性善・大理寺卿彭与明皆執はる。
五月癸未、楊文遼東兵を帥いて済南に赴くも、直沽に潰ゆ。己丑、盛庸軍淮上に潰ゆ。燕兵淮を渡り、揚州に趨る。指揮王礼等叛きて燕に降る。御史王彬・指揮崇剛之に死す。辛丑、燕兵六合に至る。諸軍迎戦し、敗績す。壬寅、詔して天下に勤王を命じ、御史大夫練子寧・侍郎黄観・修撰王叔英を遣わし分道兵を徴す。斉泰・黄子澄を召し還す。蘇州知府姚善・寧波知府王璡・徽州知府陳彦回・楽平知県張彦方各兵を起こし入衛す。甲辰、慶成郡主を遣わして燕師に如かしめ、割地して兵を罷むるを議す。
六月癸丑、盛庸舟師を帥いて燕兵を浦子口に敗る。復戦して利あらず。都督僉事陳瑄舟師を以て叛き燕に附す。乙卯、燕兵江を渡る。盛庸高資港に戦ひ、敗績す。戊午、鎮江守将童俊叛きて燕に降る。庚申、燕兵龍潭に至る。辛酉、諸王を命じて都城を分守せしめ、李景隆及び兵部尚書茹瑺・都督王佐を遣わして燕軍に如かしめ、前の約を申す。壬戌、復た谷王橞・安王楹を遣わして往かしむ。皆聴かず。甲子、使を遣わし蠟書を齎し四出し、勤王兵を促す。乙丑、燕兵金川門を犯す。左都督徐増寿内応を謀り、誅せらる。谷王橞及び李景隆叛き、燕兵を納る。都城陥つ。宮中火起こり、帝終に行方を知らず。燕王中使を遣わし帝后の屍を火中に出だし、八日を越えて壬申に之を葬る。
賛
賛に曰く、恵帝天資仁厚なり。践祚の初め、賢を親しみ学を好み、方孝孺等を召用す。典章制度、鋭意復古す。嘗て病に因りて晏朝す。尹昌隆諫を進む。即ち深く自ら咎を引き、其の疏を中外に宣ぶ。又軍衛の単丁を除き、蘇・松の重賦を減ず。皆民を恵むるの大なる者なり。乃ち革命の後、紀年復た洪武と称す。嗣いて是より子孫臣庶紀載を嫌ひ、草野疑ひを伝へ、訛謬無きにしも非ず。更に聖朝を越え、論定を得て経るに、尊名壹恵、君徳用ひて彰る。懿なるかな。