洪武十五年
十五年春正月辛巳、謹身殿において群臣を宴し、始めて九奏の楽を用いる。景川侯曹震・定遠侯王弼、威楚路を下す。壬午、元の曲靖宣慰司及び中慶・澂江・武定諸路、俱に降り、雲南平まる。己丑、大辟の囚を減ず。乙未、南郊において天地を大祀す。庚戌、天下の朝覲官に命じ、各々知る所の一人を挙げしむ。
二月壬子、河、河南に決す。駙馬都尉李祺に命じてこれを振恤す。甲寅、雲南平まるを以て、天下に詔す。
閏月癸卯、藍玉・沐英、大理を克ち、兵を分かちて鶴慶・麗江・金歯を徇い、俱に下す。
三月庚午、河、朝邑に決す。
夏四月甲申、元の梁王把匝剌瓦爾密及び威順王の子伯伯等の家族を耽羅に遷す。丙戌、天下に孔子を通祀せしむることを詔す。壬辰、畿内・浙江・江西・河南・山東の税糧を免ず。
五月乙丑、太学成る。先師孔子に釈奠す。丙子、広平府の吏王允道、磁州の鉄冶を開くことを請う。帝曰く、「朕聞く、王者は天下に遺賢なからしむと、遺利なきを聞かず。今軍器乏しからず、而して民業已に定まる。国に益なく、且つ重ねて民を擾す」と。之を杖ち、嶺南に流す。丁丑、行人を遣わして経明行修の士を訪わしむ。
秋七月乙卯、河、滎沢・陽武に決す。辛酉、四輔官を罷む。乙亥、傅友德・沐英、烏撒蛮を撃ち、之を大いに敗る。
九月己酉、吏部、経明行修の士鄭韜等三千七百余人を以て入見せしめ、知る所を挙げしむ。復た使を遣わして之を徴す。韜等に鈔を賜い、尋いで各々布政使・参政等の官を授くるに差有り。庚午、孝慈皇后を孝陵に葬る。
冬十月丙子、都察院を置く。丙申、囚を録す。甲辰、徐達還る。是の月、広東の群盗平まる。趙庸に詔して師を班せしむ。
十一月戊午、殿閣大学士を置き、邵質・呉伯宗・宋訥・呉沈を以て之と為す。
十二月辛卯、北平の災を被れる屯田士卒を振恤す。己亥、永城侯薛顕、山西の軍務を理む。
この年、爪哇、琉球、烏斯蔵、占城が貢ぎ物を献じた。
洪武十六年
十六年春正月乙卯、南郊で天地を大祀した。戊午、徐達が北平を鎮守した。
二月丙申、初めて天下の学校に毎年士を京師に貢進することを命じた。
三月甲辰、征南の軍を召還し、沐英を留めて雲南を鎮守させた。丙寅、鳳陽・臨淮二県の民の徭役と租税を免除し、代々これに与しないこととした。
夏五月庚申、畿内各府の田租を免除した。
秋七月、御史を分遣して囚人を記録させた。
八月壬申朔、日食があった。
九月癸亥、申国公鄧鎮を征南将軍とし、龍泉山の賊を討伐して平定した。
冬十月丁丑、徐達らを召還した。
十二月甲午、刑部尚書開済が罪有り誅殺された。
この年、琉球、占城、西番、打箭爐、暹羅、須文達那が貢ぎ物を献じた。
洪武十七年
十七年春正月丁未、南郊で天地を大祀した。戊申、徐達が北平を鎮守した。壬戌、湯和が沿海の諸城を巡視して倭寇に備えた。
三月戊戌朔、科挙による士人登用の方式を頒布す。曹国公李文忠卒す。甲子、天下に大赦す。
夏四月壬午、雲南平定の功を論じ、傅友德を潁国公に進封し、陳桓等侯者四人、将士に大いに賞賜す。庚寅、陣歿者の遺骸を収む。国子学の舎屋を増築す。
五月丙寅、涼州指揮宋晟、亦集乃に於いて西番を討ち、之を破る。
秋七月戊戌、内官の外事への干与を禁じ、諸司に内官監との文書往来を通ぜざるよう勅す。癸丑、百官の父母を迎え養う者には、官より舟車を給すと詔す。丁巳、畿内の今年の田租の半を免ず。庚申、囚を録す。壬戌、盱眙の人天書を献ず、之を斬る。
八月丙寅、河、開封に決す。壬申、杞県に決す、官を遣わして之を塞がしむ。己丑、河南諸省の逋賦を蠲免す。
冬十月丙子、河南・北平に大水あり、駙馬都尉李祺等を分遣して之を賑恤す。
閏月癸丑、天下の罪囚は、刑部・都察院が詳議し、大理寺が覆讞した後に奏決すべしと詔す。是の月、徐達を召し還す。
十二月壬子、雲南の逋賦を蠲免す。
是の年、琉球・暹羅・安南・占城、貢を入る。
洪武十八年
十八年春正月辛未、南郊に於いて天地を大祀す。癸酉、朝覲官を五等に分けて考績し、黜陟差等あり。
二月甲辰、久しく陰雨雷雹あるを以て、臣民に得失を極言せしむと詔す。己未、魏国公徐達卒す。
三月壬戌、丁顕等に進士及第・出身を賜い差等あり。中外の官で父母が任所に歿した者は、有司が舟車を給して其の喪を帰らしむと詔し、令と為す。乙亥、畿内の今年の田租を免ず。天下の郡県に暴骨を瘞めしむ。丙子、初めて進士を選びて翰林院・承敕監・六科の庶吉士と為す。己丑、戸部侍郎郭桓、官糧を盗みしに坐して誅さる。
夏四月丁酉、吏部尚書余熂、罪に坐して誅さる。丙辰、思州蛮叛き、湯和を征虜将軍と為し、周徳興を副将軍と為し、師を帥いて楚王楨に従い之を討たしむ。
秋七月甲戌、王禑を封じて高麗国王と為す。庚辰、五開の蛮叛く。
八月庚戌、馮勝・傅友徳・藍玉に北平の辺備を命ず。是の月、河南の水災を賑ふ。
冬十月己丑、大誥を天下に頒つ。癸卯、馮勝を召し還す。甲辰、詔して曰く「孟子道を伝へ、名教に功有り。歴年既に久しく、子孫甚だ微なり。近く罪を以て作に輸する者有り、豈に先賢を礼するの意ならんや。其れ意を加へて詢訪し、凡そ聖賢の後裔にして作に輸する者は、皆之を免ぜよ」と。是の月、楚王楨・信国公湯和、五開の蛮を討ち平ぐ。
十一月乙亥、河南・山東・北平の田租を蠲す。
十二月丙午、有司に孝廉を挙げしむるを詔す。癸丑、麓川平緬宣慰使思倫発反し、都督馮誠敗績し、千戸王昇之に死す。
是の年、高麗・琉球・安南・暹羅貢に入る。
洪武十九年
十九年春正月辛酉、大名及び江浦の水災を賑ふ。甲子、南郊に於いて天地を大祀す。是の月、征蛮師還る。
二月丙申、耤田を耕す。癸丑、河南の饑を賑ふ。
夏四月甲辰、河南の饑民の鬻ぎし子女を贖ふを詔す。
秋七月癸未、経明行修練達時務の士を挙げしむるを詔す。年六十以上は、翰林に置き顧問に備へ、六十以下は、六部・布按二司に之を用ふ。
八月甲辰、皇太子に命じて泗州盱眙の祖陵を修め、徳祖以下の帝后の冕服を葬らしむ。
九月庚申、雲南に屯田す。
冬十月、官軍已に亡き者の子女幼く或は父母老ゆる者は皆全俸を給するを命じ、令と為す。
十二月癸未朔、日に食あり。是の月、宋国公馮勝に命じて兵を分けて辺境を防がしむ。北平・山東・山西・河南の民を発して糧を大寧に運ばしむ。
是の年、高麗・琉球・暹羅・占城・安南、貢に入る。
洪武二十年
二十年春正月癸丑、馮勝を征虜大将軍と為し、傅友徳・藍玉之を副え、師を率いて納哈出を征す。錦衣衞の刑具を焚き、繫囚を刑部に付す。甲子、南郊に於いて天地を大祀す。礼成り、天気清明なり。侍臣進みて曰く、「此れは陛下の天を敬う誠の致す所なり」と。帝曰く、「所謂天を敬うとは、独り厳にして礼有るのみならず、当に其の実有るべし。天は子民の任を君に付す。君と為る者、天に事えんと欲せば、必ず先ず民を恤れむ。民を恤れるは、天に事うるの実なり。即ち国家が人に命じて守令の事を任ずるが如し。若し民を福せずんば、則ち是れ君の命を棄つるなり。敬わざること孰れか大なる有らん」と。又曰く、「人君と為る者は、天を父とし地を母とし民を子とす。皆職分の当に尽くす所なり。天地を祀るは、己の為に福を祈るに非ず、実に天下の蒼生の為なり」と。
二月壬午、武を閲す。乙未、耤田を耕す。
三月辛亥、馮勝、師を率いて松亭関より出で、大寧・寛河・会州・富峪に城す。
夏四月戊子、江夏侯周徳興、福建の瀕海の城を築き、兵を練り倭を防ぐ。
六月庚子、臨江侯陳鏞、征に従いて道を失い、戦没す。癸卯、馮勝の兵、金山を踰ゆ。丁未、納哈出降る。
閏月庚申、師還りて金山に次ぐ。都督濮英、軍を殿して伏に遇い、之に死す。
秋八月癸酉、馮勝の将軍印を収め、召し還す。藍玉、軍事を摂る。景川侯曹震、雲南品甸に屯田す。
九月戊寅、納哈出を海西侯に封ず。癸未、大寧都指揮使司を置く。丁酉、鄭国公常茂を龍州に安置す。丁未、藍玉を征虜大将軍と為し、延安侯唐勝宗・武定侯郭英之を副え、沙漠を北征す。是の月、西寧に城す。
冬十月戊申、朱寿を舳艫侯に、張赫を航海侯に封ず。是の月、馮勝罷められて鳳陽に帰り、朝請に奉ず。
十一月壬午、普定侯陳桓・靖寧侯葉昇、定辺・姚安・畢節諸衞に屯田す。己丑、湯和還る。凡そ寧海・臨山等五十九城を築く。
十二月、登・萊の饑を振恤す。
是の年、琉球・安南・高麗・占城・真臘・朶甘・烏斯蔵、貢に入る。
洪武二十一年
二十一年春正月辛巳、麓川蛮の思倫発が馬龍他郎甸に侵入し、都督の甯正がこれを撃破した。辛卯、南郊で天地を大祀した。甲午、青州の飢饉を救済し、事態を隠して上聞に達しなかった官吏を逮捕して処罰した。
三月乙亥、任亨泰らに進士及第・進士出身をそれぞれ賜った。丙戌、東昌の飢饉を救済した。甲辰、沐英が思倫発を討ってこれを破った。
夏四月丙辰、藍玉が捕魚児海で元の嗣君を襲撃して破り、その次子の地保奴および妃・主・王公以下数万人を捕らえて帰還した。
五月甲戌朔、日食があった。
六月甲辰、信国公湯和が鳳陽に帰った。甲子、傅友徳を征南将軍とし、沐英・陳桓を左・右副将軍として、軍を率いて東川の叛蛮を討たせた。
秋七月戊寅、地保奴を琉球に安置した。
九月丙戌、秦・晋・燕・周・楚・斉・湘・魯・潭の九王が来朝した。癸巳、越州蛮の阿資が叛き、沐英が傅友徳と合流してこれを討った。
冬十月丁未、東川蛮が平定された。
十二月壬戌、藍玉を涼国公に進封した。
二月己未、藍玉が四川で練兵した。壬戌、武臣が民事に関与することを禁じた。癸亥、湖広の千戸夏得忠が九溪蛮と結んで乱を起こし、靖寧侯葉昇がこれを討って平定し、得忠は誅殺された。この月、阿資が降伏した。
三月庚午、傅友德は諸将を率いて四川・湖広に分屯し、西南の蛮を防ぐ。
五月辛卯、泰寧・朵顔・福餘の三衛を兀良哈に置く。
秋七月、傅友德らが還る。
八月乙卯、天下に詔して高年で徳があり時務を識る者を挙げるよう命ずる。この月、大明律を改めて定める。
九月丙寅朔、日食あり。
冬十一月丙寅、宣徳侯金鎮らが湖広で練兵する。己卯、思倫発が入貢して罪を謝し、麓川は平定される。
十二月甲辰、周王橚に罪あり、雲南に遷されるが、まもなく移徙を止め、京師に留まって居住する。定遠侯王弼らが山西・河南・陝西で練兵する。
この年、高麗・安南・占城・暹羅・真臘が入貢する。元の也速迭児がその主脱古思帖木児を弑して坤帖木児を立てる。高麗はその主禑を廃し、またその主昌を廃す。安南の黎季犛がまたその主日を弑す。
二月戊申、藍玉が西番の叛蛮を討ちて平らぐ。丙辰、耤田を耕す。癸亥、黄河が帰徳で決壊し、諸軍民を発してこれを塞ぐ。
三月癸巳、燕王棣の師が迤都に駐屯し、咬住らが降る。
夏四月、吉安侯陸仲亨らが胡惟庸の党に連座して獄に下る。丙申、潭王梓が自ら焼死する。
閏月丙子、藍玉が施南・忠建の叛蛮を平らぐ。
五月甲午、諸公侯を里に還らせ、金幣を賜うこと差有り。乙卯、太師韓國公李善長に死を賜い、陸仲亨等皆坐して誅さる。『昭示姦黨録』を作り、天下に布告す。
六月乙丑、藍玉、鳳翔侯張龍を遣わし都勻・散毛の諸蛮を平らぐ。庚寅、耆民にして才徳有り典故を知る者に官を授く。
秋七月壬辰、河、開封に決す。之を振恤す。癸巳、崇明・海門、風雨海溢す。官を遣わし之を振恤し、民二十五万を発して堤を築かしむ。
八月壬申、詔して吏卒を以て選挙に充てる毋からしむ。藍玉還る。是の月、河南・北平・山東の水災を振恤す。
九月庚寅朔、日食有り。
冬十月己卯、湖廣の饑饉を振恤す。
十一月癸丑、山東の被災田租を免ず。
十二月癸亥、殊死以下の囚に令し、粟を北辺に輸して自ら贖わしむ。壬申、天下の歳織文綺を罷む。
是の年、墨剌・哈梅里・高麗・占城・真臘・琉球・暹羅、貢を入る。
洪武二十四年
二十四年春正月癸卯、南郊に於いて天地を大祀す。戊申、潁國公傅友德を征虜將軍と為し、定遠侯王弼・武定侯郭英之を副え、北平の辺を備えしむ。丁巳、山東の田租を免ず。
二月壬申、耤田を耕す。
三月戊子朔、日食有り。魏國公徐輝祖・曹國公李景隆・涼國公藍玉等、陝西の辺を備う。乙未、靖寧侯葉昇、甘肅に兵を練る。丁酉、許觀等に進士及第・出身を賜うこと差有り。
夏四月辛未、皇子㮵を封じて慶王と為し、権を寧王と為し、楩を岷王と為し、橞を谷王と為し、松を韓王と為し、模を瀋王と為し、楹を安王と為し、桱を唐王と為し、棟を郢王と為し、㰘を伊王と為す。癸未、燕王棣、傅友德諸将を督して塞を出で、敵を敗りて還る。
五月戊戌、漢・衞・谷・慶・寧・岷の六王、臨清に兵を練る。
六月己未、詔して廷臣に命じ歴代の礼制を参考させ、冠服・居室・器用の制度を更定す。甲子、久旱のため囚を録す。
秋七月庚子、富民を移して京師に実す。辛丑、畿内の官田の租の半ばを免ず。
八月乙卯、秦王樉罪有り、召して京師に還す。乙丑、皇太子陝西を巡撫す。乙亥、都督僉事劉真・宋晟ハミリを討ち、之を敗る。
九月乙酉、使を遣わし西域に諭す。是の月、倭雷州を寇し、百戸李玉・鎮撫陶鼎戦死す。
冬十月丁巳、北平・河間の水害を受けたる田租を免ず。
十一月甲午、五開の蛮叛き、都督僉事茅鼎之を討ち平らぐ。庚戌、皇太子京師に還る。晉王棡来朝す。辛亥、河南の水災を振恤す。
十二月庚午、周王橚国に復す。辛巳、阿資復叛き、都督僉事何福之を討ち降す。
是の年、天下の郡県の賦役黄冊成る。戸千六十八万四千四百三十五、丁五千六百七十七万四千五百六十一を計う。琉球・暹羅・別失八里・撒馬児罕貢に入る。占城に簒逆の事有るを以て、之を却く。
洪武二十五年
二十五年春正月戊子、周王橚来朝す。庚寅、河陽武に決し、軍民を発して之を塞ぎ、水害を受けたる田租を免ず。乙未、南郊に於いて天地を大祀す。何福都勻・畢節の諸蛮を討ち、之を平らぐ。辛丑、死囚に命じて粟を塞下に輸せしむ。壬寅、晉王棡・燕王棣・楚王楨・湘王柏来朝す。
二月戊午、曹国公李景隆等を召して京師に還す。靖寧侯葉昇等河南及び臨・鞏・甘・涼・延慶に於いて兵を練る。都督茅鼎等五開の蛮を平らぐ。丙寅、耤田を耕す。庚辰、詔して天下の衞所の軍をして十の七を以て屯田せしむ。
三月癸未、馮勝等十四人分かれて陝西・山西・河南の諸衞の軍務を理む。庚寅、豫王桂を改めて代王と為し、漢王楧を改めて肅王と為し、衞王植を改めて遼王と為す。
夏四月壬子、涼国公藍玉罕東を征す。癸丑、建昌衞指揮月魯帖木児叛き、指揮魯毅之を敗る。丙子、皇太子標薨ず。戊寅、都督聶緯・徐司馬・瞿能月魯帖木児を討つ。藍玉の還るを俟ち、並びに節制を聴かしむ。
五月辛巳、藍玉罕東に至る。寇遁ぐ。乃ち建昌に趨る。己丑、陳州・原武の水災を振恤す。
六月丁卯、西平侯沐英雲南に於いて卒す。
秋七月庚辰、秦王朱樉が再び封国に戻る。癸未、指揮使瞿能が双狼寨において月魯帖木児を破る。
八月己未、江夏侯周徳興が事に坐して誅殺される。丁卯、馮勝・傅友徳が開国公常昇らを率いて山西に分かれて行き、民を籍して軍とし、大同・東勝において屯田し、十六衛を立てる。甲戌、公侯に歳禄を与え、賜った田を官に帰す。丙子、靖寧侯葉昇が胡惟庸の党に坐して誅殺される。
九月庚寅、皇孫朱允炆を立てて皇太孫とする。高麗の李成桂がその主君瑤を幽閉して自ら立ち、国人の上表をもって命を請う。詔してこれを聴き、その国号を朝鮮と改める。
冬十月乙亥、沐春が西平侯の封を襲ぎ、雲南に鎮す。
十一月甲午、藍玉が月魯帖木児を擒え、これを誅す。藍玉を召還す。
十二月甲戌、宋国公馮勝・潁国公傅友徳らが東宮の師保官を兼ねる。
閏月戊戌、馮勝を総兵官とし、傅友徳をその副とし、山西・河南において兵を練り、兼ねて屯衛を領す。
この年、琉球中山・山南、高麗、哈梅里が入貢す。
洪武二十六年
二十六年春正月戊申、天下の耆民の来朝を免ず。辛酉、南郊において天地を大祀す。
二月丁丑、晋王朱棡が山西・河南の軍を統率して塞外に出る。馮勝・傅友徳・常昇・王弼らを召還す。乙酉、蜀王朱椿来朝す。涼国公藍玉が謀反の罪により、鶴慶侯張翼・普定侯陳桓・景川侯曹震・舳艫侯朱寿・東莞伯何栄・吏部尚書詹徽ら皆連座して誅殺される。己丑、逆臣録を天下に頒布す。庚寅、耤田を耕す。
三月辛亥、代王朱桂が護衛兵を率いて塞外に出、晋王の節制に従う。長興侯耿炳文が陝西において兵を練る。丙辰、馮勝・傅友徳が山西・北平に辺備を固め、その属する衛の将校は皆晋王・燕王の節制に従う。庚申、詔して二王の軍務は大なるもののみを以て初めて奏聞せしむ。壬戌、会寧侯張温が藍玉の党に坐して誅殺される。
夏四月乙亥、孝感に飢饉あり、使者を遣わして駅伝に乗り倉を発してこれを貸与す。詔して今より歳飢に遇うときは、先ず貸与し後に奏聞すべしとし、令として定む。戊子、周王朱橚来朝す。庚寅、旱魃あり、詔して群臣に直言して得失を論ぜしめ、獄囚を省みる。丙申、安南が擅に廃立を行ったことを以て、その朝貢を絶つ。
秋七月甲辰朔、日食あり。戊申、秀才張宗濬らを選び詹事府官に随って分かれて文華殿に直し、皇太孫に侍らしむ。
八月、秦・晋・燕・周・斉の五王来朝す。
九月癸丑、代王・粛王・遼王・慶王・寧王の五王が来朝した。胡惟庸・藍玉の残党を赦免した。
冬十月丙申、国子監生六十四人を抜擢して布政使等の官とした。
十二月、永鑑録を諸王に頒布した。
この年、琉球・爪哇・暹羅が朝貢した。
洪武二十七年
二十七年春正月乙卯、南郊で天地を大祀した。辛酉、李景隆を平羌将軍とし、甘粛を鎮守させた。天下の倉穀を発して貧民に貸し与えた。
三月庚子、張信らに進士及第・進士出身を差等を付けて賜った。辛丑、魏国公徐輝祖・安陸侯呉傑に浙江で倭寇に備えさせた。庚戌、民に桑・棗・木綿を植えさせることを課した。甲子、四方が平定したので、甲兵を収蔵し、再び用いないことを示した。
秋八月甲戌、呉傑及び永定侯張銓が致仕した武臣を率い、広東で倭寇に備えた。乙亥、国子監生を天下に分行させ、吏民を督して水利を修めさせた。丙戌、階州・文州で軍が乱を起こし、都督甯正を平羌将軍としてこれを討たせた。
九月、徐輝祖に陝西沿辺の諸軍を節制させた。
冬十一月乙丑、潁国公傅友德が事に坐して誅殺された。阿資が再び叛き、西平侯沐春がこれを撃破した。
十二月乙亥、定遠侯王弼が事に坐して誅殺された。
この年、烏斯蔵・琉球・緬・朵甘・爪哇・撒馬児罕・朝鮮が朝貢した。安南が来貢したが、これを退けた。
洪武二十八年
二十八年春正月丙午、階州・文州の賊が平定し、甯正が兵を率いて秦王樉に従い洮州の叛く番を征した。丁未、南郊で天地を大祀した。甲子、西平侯沐春が阿資を擒らえて斬り、越州が平定した。この月、周王橚・晋王棡が河南・山西の諸衛の軍を率いて塞外に出て、城を築き屯田した。燕王棣が総兵官周興を帥いて遼東の塞外に出た。
二月丁卯、宋国公馮勝が事に坐して誅殺された。己丑、戸部に諭して民百戸を里に編成させた。婚姻・死喪・疾病・患難には、里中の富者は財を助け、貧者は力を助ける。春秋の耕作・収穫には、力を合わせて協働し、民に睦み合うことを教えた。
夏六月壬申、諸土司に儒学を立てることを詔す。辛巳、周興らは開原より敵を追って甫答迷城に至るも、及ばずして還る。己丑、奉天門に御し、群臣に諭して曰く、「朕が兵を起こしてより今に至るまで四十余年、情偽を灼かに見て、奸頑を懲創し、或いは法外の刑を用いたるは、本来常典にあらず。後嗣はただ律と大誥とに従い、黥刺・剕・劓・閹割の刑を用いることを許さず。臣下に敢えてこれを請う者は、重典に置く」と。また曰く、「朕は丞相を罷め、府・部・都察院を設けて庶政を分理し、事権は朝廷に帰す。嗣君は再び丞相を立てることを許さず。臣下に敢えてこれを請う者は重典に置く。皇親は謀逆のみを赦さず。その余の罪は、宗親が会議して上裁を取る。法司はただ挙奏することを許し、擅かに逮うることを得ず。諸典章に勒し、永く遵守すべし」と。
秋八月丁卯、都督楊文を征南将軍と為し、指揮韓観・都督僉事宋晟を副とし、龍州土官趙宗寿を討たしむ。戊辰、信国公湯和卒す。辛巳、趙宗寿は罪に伏して来朝し、楊文は兵を移して奉議・南丹の叛蛮を討つ。
九月丁酉、畿内・山東の秋糧を免ず。庚戌、皇明祖訓条章を中外に頒ち、「後世に祖制を更めんと言う者は、奸臣を以て論ず」とす。
十一月乙亥、奉議・南丹の蛮、悉く平ぐ。
十二月壬辰、河南・山東の桑棗及び二十七年以後新たに墾きたる田は、税を徴することなきを詔す。
是の年、朝鮮・琉球・暹羅、貢に入る。
洪武二十九年
二十九年春正月壬申、南郊にて天地を大祀す。
二月癸卯、征虜前将軍胡冕、郴・桂の蛮を討ち、之を平ぐ。辛亥、燕王棣、師を帥いて大寧を巡り、周世子有燉、師を帥いて北平の関隘を巡る。
三月辛酉、楚王楨・湘王柏、来朝す。甲子、燕王、敵を徹徹児山に破り、また兀良哈禿城に追いて之を破りて還る。
秋八月丁未、応天・太平五府の田租を免ず。
九月乙亥、致仕の武臣二千五百余人を召して入朝せしめ、大いに之を賚い、各々秩一級を進む。
是の年、琉球・安南・朝鮮・烏斯蔵、貢に入る。
洪武三十年
三十年春正月丙辰、耿炳文を征西将軍と為し、郭英を副とし、西北辺を巡らしむ。丙寅、南郊にて天地を大祀す。丁卯、行太僕寺を山西・北平・陝西・甘肅・遼東に置き、馬政を掌らしむ。己巳、左都督楊文、遼東に屯田す。是の月、沔県に盗起こり、詔して耿炳文に之を討たしむ。
二月庚寅、水西の蛮が叛き、都督僉事顧成を征南将軍とし、これを討ち平らげた。
三月癸丑、陳䢿らに進士及第・出身を差等を以て賜う。庚辰、古州の蛮が叛き、龍里千戸呉得・鎮撫井孚戦死す。
夏四月己亥、都指揮斉譲を平羌将軍とし、これを討たしむ。壬寅、水西の蛮平まる。
五月壬子朔、日食あり。乙卯、楚王楨・湘王柏、師を帥いて古州の蛮を討つ。
六月辛巳、礼部の覆試貢士韓克忠らに進士及第・出身を差等を以て賜う。己酉、駙馬都尉欧陽倫、罪ありて死を賜う。
秋八月丁亥、河、開封に決す。甲午、李景隆を征虜大将軍とし、河南に兵を練らしむ。
九月庚戌、漢・沔の寇平まる。戊辰、麓川平緬の土酋刀幹孟、その宣慰使思倫発を逐いて以て叛く。乙亥、都督楊文を征虜将軍とし、斉譲に代わる。
冬十月戊子、遼東の海運を停む。辛卯、耿炳文、陝西に兵を練る。乙未、国子監先師廟を重建し成る。
十一月癸酉、沐春を征虜前将軍とし、都督何福らこれを副え、刀幹孟を討たしむ。
是の年、琉球・占城・朝鮮・暹羅・烏斯蔵・泥八剌、貢を入る。
洪武三十一年
三十一年春正月壬戌、南郊にて天地を大祀す。乙丑、使者を山東・河南に遣わして耕を課す。
二月乙酉、倭、寧海を寇し、指揮陶鐸これを撃ち破る。辛丑、古州の蛮平まり、楊文を召し還す。甲辰、都督僉事徐凱、麼些の蛮を討ち平らぐ。
夏四月庚辰、廷臣、朝鮮の屡々釁隙を生ずるを以て討を請うも、許さず。
五月丁未、沐春、刀幹孟を撃ち、これを大いに破る。甲寅、帝豫せず。戊午、都督楊文は燕王棣に従い、武定侯郭英は遼王植に従い、開平に備禦し、倶に燕王の節制を聴く。
帝は天授の智勇を以て、方夏を統一し、武を緯え文を経め、漢・唐・宋の諸君の及ばざる所と為る。その肇造の初めに当たり、能く幾を沈めて変を観、次第に経略し、綽々として成算有り。嘗て諸臣と天下を取るの略を論じ、曰く、「朕時に喪乱に遭い、初め郷土より起り、本図は自全なり。江を渡る以来、群雄の為す所を観るに、徒らに生民の患と為り、而して張士誠・陳友諫は特に巨蠹なり。士誠は富を恃み、友諫は強を恃む。朕は独り恃む所無し。惟だ人を殺すを嗜まず、信義を布き、節倹を行い、卿等と心を同じくして共に済わんことを図るのみ。初め二寇と相対するに、士誠は特に近く逼る。或いは先ず之を撃つべしと謂う。朕は友諫は志驕り、士誠は器小なりと為す。志驕れば則ち好んで事を生じ、器小なれば則ち遠図無し。故に先ず友諫を攻む。鄱陽の役、士誠は卒に姑蘇を出でて一步も以て之を援くる能わず。向使に先ず士誠を攻めば、浙西は固に負けて堅守し、友諫は必ず国を空しくして来たり、吾れ腹背敵を受くべし。二寇既に除かれ、北に中原を定む。山東を先にし、次いで河洛を経、潼関の兵を止めて秦・隴を遽かに取らざる所以は、蓋し拡廓帖木児・李思斉・張思道は皆百戦の余、未だ肯て遽かに下らず、之を急かせば則ち力を併せて一隅に在り、猝かに未だ定め易からざるを以てなり。故に其の不意に出で、反って斾を北にす。燕都既に挙げ、然る後に西征す。張・李は望絶え勢窮まり、戦わずして克つ。然れども拡廓は猶力抗して屈せず。向令に燕都未だ下らず、驟に力と角せば、勝負未だ知るべからざるなり」と。帝の雄才大略、敵を料り勝を制すること、率ね此の類なり。故に能く禍乱を戡定し、以て天下を有つ。語に云う「天道は後起の者勝つ」と。豈に偶然ならんや。
賛
賛して曰く、太祖は聰明神武の資を以て、世を済い民を安んずるの志を抱き、時に乗じて運に応じ、豪傑景従し、乱を戡き強を摧き、十五載にして帝業を成す。布衣より崛起し、奄かに海宇を奠む。西漢以後未だ有らざるなり。元政の廃弛を懲り、治め厳峻を尚ぶ。而して能く耆儒を礼致し、礼を考へ楽を定め、経義を昭揭し、正学を尊崇し、勝国に恩を加え、吏治を澄清し、人紀を修め、風教を崇め、後宮の名義を正し、内治粛清し、宦豎の政に干るを禁じ、五府六部官職相維ぎ、衞を置き屯田し、兵食倶に足る。武は禍乱を定め、文は太平を致す。太祖実に之を身に兼ぬ。雅に志節を尚ぶに至りては、蔡子英の北帰を聴く。晚年民を憂うること益々切にして、嘗て一歳に支河及び塘堰数万を開きて農桑を利し、旱潦に備う。此を用いて子孫業を承くること二百余年、士は名義を重んじ、閭閻充実す。今に至るまで苗裔澤を蒙り、尚ほ東楼・白馬の如く、世に先祀を承けしむ。以て有る哉。