明史

列傳第二百十九 西域三 烏斯蔵大宝法王 大乗法王 大慈法王 闡化王 賛善王 護教王 闡教王 輔教王 西天阿難功徳国 西天尼八剌国 朶甘烏斯蔵行都指揮使司 長河西魚通寧遠宣慰司 董卜韓胡宣慰司

烏斯蔵大宝法王

烏斯蔵は、雲南の西の辺境の外にあり、雲南麗江府より千余里、四川馬湖府より千五百余里、陝西西寧衛より五千余里離れている。その地には僧侶が多く、城郭はない。群れをなして大土台の上に住み、肉を食わず妻を娶らず、刑罰もなく、また兵革もなく、疾病は稀である。仏書は甚だ多く、『楞伽経』は万巻に至る。その土台の外には、肉を食い妻を娶る僧侶もいる。元の世祖は八思巴を尊んで大宝法王とし、玉印を賜った。その没後、皇天の下一人之上宣文輔治大聖至徳普覚真智佐国如意大宝法王西天仏子大元帝師の号を賜った。ここより、その徒で嗣ぐ者は皆帝師と称した。

洪武の初め、太祖は唐の世の吐蕃の乱を戒め、これを制御することを考えた。ただその俗尚に因り、僧徒を用いて善に導かしめるため、使者を遣わして広く招諭を行わせた。また陝西行省員外郎許允徳を遣わしてその地に至らせ、元の故官を挙げて京に赴き職を授けさせた。ここにおいて烏斯蔵摂帝師喃加巴蔵卜は先に使者を遣わして朝貢した。五年十二月、京に至る。帝は喜び、紅綺の禅衣及び鞋帽・銭物を賜った。明年二月、自ら入朝し、挙げたる故官六十人を上った。帝は悉くこれに職を授け、摂帝師を熾盛仏宝国師に改め、なお玉印及び彩幣表裏各二十を賜った。玉人が印を製し成ると、帝は玉が美しからずと見て、更に製させた。その崇敬はこのようであった。帰還に際しては、河州衛に命じて官を遣わし勅書を齎らせて同行させ、未だ附かざる諸番を招諭させた。冬、元の帝師の後裔鎖南堅巴蔵卜、元の国公哥列思監蔵巴蔵卜が並びに使者を遣わして玉印を請うた。廷臣は既に給賜したので、再び与えるべからずと言い、文綺を以てこれを賜った。

七年夏、仏宝国師はその徒を遣わして来貢した。秋、元の帝師八思巴の後裔公哥監蔵巴蔵卜及び烏斯蔵僧答力麻八剌が使者を遣わして来朝し、封号を請うた。詔して帝師の後人を円智妙覚弘教大国師とし、烏斯蔵僧を灌頂国師と授け、並びに玉印を賜った。仏宝国師はまたその徒を遣わして来貢し、挙げたる土官五十八人を上り、これも皆職を授けられた。九年、答力麻八剌は使者を遣わして来貢した。十一年、また貢し、故官十六人を挙げて宣慰・招討等の官とすることを奏し、これも皆允可された。十四年、また貢した。

その時、喃加巴蔵卜は既に卒し、僧ハリマ(哈立麻)という者がいた。国人はその道術有るを以て、尚師と称した。成祖が燕王であった時、その名を知っていた。永楽元年、司礼少監侯顕・僧智光に命じて書幣を齎らせて往き徴請させた。その僧は先に人を遣わして来貢し、自ら使者に随って入朝した。四年冬、将に至らんとするに当たり、駙馬都尉沐昕を遣わしてこれを迎えさせた。既に至ると、帝は奉天殿で引見し、明日華蓋殿で宴し、黄金百、白金千、鈔二万、彩幣四十五表裏、法器・茵褥・鞍馬・香果・茶米諸物を悉く備えて賜った。その従者にも賜物があった。明年春、儀仗・銀瓜・牙仗・骨朶・膋灯・紗灯・香合・拂子各二、手炉六、傘蓋一、銀交椅・銀足踏・銀杌・銀盆・銀罐・青円扇・紅円扇・拜褥・帳幄各一、幡幢四十八、鞍馬二、散馬四を賜った。

帝は高帝后のために薦福せんとし、霊谷寺に普度大斎を七日間建てることを命じた。帝は自ら行香した。ここにおいて卿雲・甘露・青烏・白象の類が、連日ことごとく現れた。帝は大いに悦び、侍臣多く賦頌を献じた。事竣ると、また黄金百、白金千、宝鈔二千、彩幣表裏百二十、馬九を賜った。その徒の灌頂円通善慧大国師答師巴囉葛羅思等も、優れた賜物を加えた。ここにおいてハリマを万行具足十方最勝円覚妙智慧善普応佑国演教如来大宝法王西天大善自在仏に封じ、天下の釈教を領せしめ、印誥及び金・銀・鈔・彩幣・織金珠袈裟・金銀器・鞍馬を賜った。その徒孛隆逋瓦桑児加領真を灌頂円修浄慧大国師とし、高日瓦禅伯を灌頂通悟弘済大国師とし、果欒羅葛羅監蔵巴裡蔵卜を灌頂弘智浄戒大国師とすることを命じ、並びに印誥・銀鈔・彩幣を賜った。既にして、ハリマに命じて五台山に赴き大斎を建て、再び高帝后のために薦福させ、賜与は優厚であった。六年四月、帰還を辞し、また金幣・仏像を賜い、中官に命じて護送させた。ここより、正統末に至るまで、入貢すること八度。既にして、法王卒し、久しく貢を奉ぜず。弘治八年、王葛哩麻巴始めて使者を遣わして来貢した。十二年、両度貢し、礼官は一年に再び貢するは制に非ずとし、その賜賚を裁減することを請い、これに従った。

正徳元年来貢した。十年また来貢した。時に帝は近習の言に惑い、烏斯蔵僧に三生を知り得る者あり、国人これを活仏と称すと謂い、欣然としてこれを見んと欲した。永楽・宣徳年間の陳誠・侯顕の入番故事を考へ、中官劉允に命じて駅伝に乗じて往き迎えさせた。閣臣梁儲等言う、「西番の教えは、邪妄にして経典に合わず。我が祖宗の朝は嘗て使者を遣わしたが、蓋し天下初めて定まるに因り、以て愚頑を化導し、荒服を鎮撫するに藉りたるのであり、その教えを信じて崇奉したるには非ざるなり。承平の後、累朝列聖はただその来朝に因りて賞賚するのみで、軽々しく命使を辱しめ、遠くその地に渉ることはなかった。今忽ち近侍を遣わして幢幡を送らんとす、朝野これを聞き、駭愕せざるはなし。而して允は塩引数万に至るまでを奏乞し、動もすれば馬船百艘を撥ち、またその便宜に銭物を処置することを許せば、勢い私塩を携帯し、郵伝を騒擾し、官民の患いとならん。今しょく中の大盗初めて平まり、瘡痍未だ起たず。官に已に余積無く、必ずや軍民を苛斂し、鋌んで険を走り、盗将に復発せん。況んや天全六番より出境し、数万里の程を渉り、数歳の久しきを歴るに、道途全く郵置無く、人馬何に従って供頓せん?脱ひ中途に寇に遇わば、何を以てこれを禦がん?中国の体を虧き、外番の侮りを納るるは、一として可なるもの無し。齎らす所の勅書は、臣等敢えて撰擬せず」。帝聴かず。礼部尚書毛紀・六科給事中葉相・十三道御史周倫等並びに切諫したが、また聴かなかった。

允行は、珠玉の連なりを幢幡とし、黄金を供具とし、その僧に金印を賜い、犒賞は巨万の計をもってし、内庫の黄金はこれがために尽き果てた。勅して允の往復を十年を期とし、携帯する茶塩は数十万計とした。允が臨清に至ると、漕運の船はこれがために阻害された。峡江に入ると、船が大きく進み難く、艀舟に替え、二百余里に連なった。成都に到着すると、日ごとに官の食料百石、蔬菜の銀百両を支給し、錦官駅では足りず、傍近の数十駅を取ってこれを供した。番に入る器物を整え、その価値は二十万と見積もられた。守臣が力諫し、十三万に減じた。工人が雑造し、夜を日に継いだ。一年余り留まった後、初めて将校十人、兵士千人を率いて出発し、二か月を経てその地に入った。いわゆる活仏なる者は、中国が誘い害することを恐れ、匿れて出て会おうとしなかった。将校兵士は怒り、威力で脅そうとした。番人が夜襲し、宝貨・器械を奪って去った。将校の死者二人、兵卒数百人、傷者はその半数であった。允は良馬に乗って疾走し、辛うじて免れた。成都に戻り、部下に言わぬよう戒め、空の封書を馳せて奏上したが、到着した時には既に武宗は崩御していた。世宗は允を召還し、吏に下して罪を治めさせた。

嘉靖年間、法王はなお数回入貢し、神宗の朝に至るまで絶えなかった。時に僧鎖南堅錯という者がおり、過去未来の事を知り得て、活仏と称し、順義王俺答もまたこれを崇信した。万暦七年、活仏を迎えることを名目として西に侵して瓦剌を攻めたが、これに敗れた。この僧は殺生を好まぬよう戒め、東に還ることを勧めた。俺答もまたこの僧に中国と通じるよう勧め、そこで甘州から張居正に書を送り、自らを釈迦牟尼比丘と称し、通貢を求め、儀物を贈った。居正は敢えて受けず、帝にこれを奏聞した。帝はこれを受け取るよう命じ、その貢を許した。これにより、中国もまた活仏の存在を知った。この僧は異術を持ち人を服させ、諸番はその教えに従わぬ者はなく、すなわち大宝法王及び闡化諸王もまた、皆俯して弟子と称した。ここより西方ではただこの僧を奉ずるのみとなり、諸番王は虚位を擁するだけで、もはやその号令を施すことができなくなった。

大乗法王

大乗法王とは、烏斯蔵の僧昆沢思巴であり、その徒もまた尚師と称した。永楽年間、成祖は既に哈立麻を封じたが、また昆沢思巴に道術有ると聞き、中官に命じて璽書・銀幣を齎らしこれを徴した。その僧は先に人を遣わして舎利・佛像を貢ぎ、遂に使者と共に入朝した。十一年二月に京師に至り、帝は直ちに引見し、蔵経・銀鈔・彩幣・鞍馬・茶果等の諸物を賜い、万行円融妙法最勝真如慧智弘慈広済護国演教正覚大乗法王西天上善金剛普応大光明仏に封じ、天下の釈教を領せしめ、印誥・袈裟・幡幢・鞍馬・傘器等の諸物を賜い、その礼は大宝法王に次いだ。翌年辞去して帰るに際し、賜物は前回を上回り、中官に命じて護送させた。後に数回入貢し、帝もまた先後に中官喬来喜・楊三保を遣わして佛像・法器・袈裟・禅衣・絨錦・彩幣等の諸物を賜わせた。洪熙・宣徳年間には共に来貢した。

成化四年、その王完卜が使を遣わして来貢した。礼官が、法王の印文がなく、かつ洮州から入ったのは制度に非ず、その賜物を減ずべしと上言した。使者が言うには、居住地は烏斯蔵から二十余行程離れ、五年を経てようやく京師に達し、かつ進上する馬が多いので、全賜を与えられるよう乞うと、そこで量を増して与えるよう命じた。十七年に来貢した。

弘治元年、その王桑加瓦が使を遣わして来貢した。故事によれば、法王が卒すると、その徒が自ら相継承し、朝命によらない。三年、輔教王が使を遣わして貢を奉じ、大乗法王の襲職を奏挙した。帝はただその貢を受け入れ、賜賚を与えて遣還したが、襲職を命じなかった。

正徳五年、その徒綽吉我些児らを遣わし、河州衛から入貢させた。礼官が、貢道に非ずとして、その賞を減ずるよう請い、併せて指揮徐経の罪を治めるよう請うたが、従った。後に、綽吉我些児は帝の寵愛を受け、大徳法王にも封ぜられた。十年、僧完卜鎖南堅参巴爾蔵卜が使を遣わして来貢し、大乗法王の襲封を乞うた。礼官が稽考を怠り、ついにこれを許した。嘉靖十五年、輔教・闡教諸王と共に来貢し、使者は四千余人に及んだ。帝は人数が定額を超えたとして、その賞を減じ、併せて四川三司官の濫送の罪を治めた。

初め、成祖が闡化等五王を封じた時、それぞれ分地があったが、ただ二法王は遊僧として常に一定の居所を持たないため、その貢期は三年の列に在らなかった。しかし明一代を通じ、貢を奉じて絶えなかったという。

大慈法王

大慈法王、名は釈迦也失、これも烏斯蔵の僧で尚師と称された者である。永楽年間、既に二法王を封じると、その徒は争って天子に謁見し恩寵を邀えようとし、ここに来る者が踵を接した。釈迦也失もまた十二年に入朝し、その礼は大乗法王に次いだ。翌年、妙覚円通慈慧普応輔国顕教灌頂弘善西天仏子大国師に任じ、印誥を賜った。十四年に辞去して帰るに際し、仏経・佛像・法仗・僧衣・綺帛・金銀器を賜い、かつ御製の賛詞を賜い、その徒は一層栄誉とした。翌年使を遣わして来貢した。十七年、中官楊三保を遣わして佛像・衣幣を齎らし賜わせた。二十一年に再び来貢した。宣徳九年に入朝し、帝はこれを京師に留め、成国公朱勇・礼部尚書胡濙に命じて節を持ち、冊封して万行妙明真如上勝清浄般若弘照普慧輔国顕教至善大慈法王西天正覚如来自在大円通仏とした。

宣宗が崩じ、英宗が位を嗣ぐと、礼官が先に番僧六百九十人の淘汰を奏上し、正統元年に再びこれを請うた。大慈法王及び西天仏子は従前のままとするよう命じ、余りは遣還し、留まりたがる者は酒饌廩餼を減じ、ここより京師はやや清らかになった。西天仏子とは、能仁寺の僧智光であり、本来山東慶雲の人である。洪武・永楽年間、数回西国に奉使した。成祖は国師の号を賜い、仁宗は円融妙慧浄覚弘済輔国光范演教灌頂広善大国師の号を加え、金印・冠服・金銀器を賜った。この時に至り、さらに西天仏子の号を加えた。

初め、太祖が番僧を招来したのは、本来愚俗を化導し、辺患を消弭するためであり、国師・大国師を授けたのは四五人に過ぎなかった。成祖に至りその教えを兼ねて崇め、闡化等五王及び二法王の外、西天仏子を授けた者二、灌頂大国師を授けた者九、灌頂国師を授けた者十八、その他の禅師・僧官は数え切れなかった。その徒は道に交錯し、外には郵伝を擾し、内には大官を消耗し、公私ともに騒然としたが、帝は顧みなかった。しかし来た者はなお直ちに遣還した。宣宗の時に至ると、久しく京師に留め、消耗は益々甚だしくなった。英宗の初年、多くは斥退したが、その後加封した者も少なくなかった。景泰年間、番僧沙加を弘慈大善法王に、班卓児蔵卜を灌頂大国師に封じた。英宗が復辟すると、景帝の政に反することを務め、法王を大国師に、大国師を国師に降格した。

成化初年、憲宗は再び番僧を好み、来る者が日に増えた。劄巴堅参・劄実巴・領占竹らは、秘密教によって寵愛を受け、皆法王に封ぜられた。次は西天仏子であり、その他大国師・国師・禅師を授けられた者は数え切れない。四方の奸民が弟子として投じ、直ちに大官の食を得、毎年巨万を消耗した。廷臣が屡々これを言上したが、悉く拒んで聞き入れなかった。孝宗が践祚すると、番僧を清汰し、法王・仏子以下は皆順次降格し、本土に駆逐して還し、その印誥を奪った。これにより京師は再び清らかになった。

弘治六年、帝は近習の言葉に惑わされ、領占竹らを京師に召し出すよう命じた。言官が相次いで上疏して強く諫めたため、事は中止となった。十三年、故西天佛子著癿領占のために塔を建てるよう命じた。工部尚書徐貫らが、この僧は国に益なく、墓を営むだけで足り、塔を建てるべきではないと上言したが、聞き入れられなかった。まもなく那卜堅参ら三人を灌頂大国師に任じた。帝が崩御すると、礼官が異教を排斥するよう請い、三人はともに禅師に降格された。

やがて武宗は佞幸に惑わされ、再び領占竹を京師に召し出し、灌頂大国師に任じ、先に降格された禅師三人を国師とした。帝は番語を習うのを好み、豹房に引き入れたため、これにより番僧が再び盛んとなった。那卜堅参及び劄巴蔵卜を法王に封じ、那卜領占及び綽即羅竹を西天佛子とした。その後、領占班丹を大慶法王に封じ、番僧に度牒三千を与え、自ら僧侶とすることを許した。ある者は言う、大慶法王とは、帝が自ら号したものであると。

綽吉我些児は、烏斯蔵の使臣で、豹房に留まって寵愛を受け、大徳法王に封じられた。その徒二人を正副使とし、本土に帰って居住させ、大乗法王の例のように入貢させてほしいと請い、さらに二人のために国師の誥命を請い、番地に入って茶を設けることを求めた。礼官劉春らが不可と主張したが、帝は聞き入れなかった。春らはさらに上言した。「烏斯蔵は遠く西方にあり、性質は極めて頑固で獰猛である。四王を設けて撫育教化しているが、その入貢には必ず制限を加えている。もし茶を持たせて行かせ、誥命を与えれば、彼らが上旨を偽って諸番を誘い、妄りに何かを請うかもしれない。従えば法に背き、従わねば紛争が生じ、害は言い尽くせない。」帝はそこで茶を設ける詔勅を取りやめたが、誥命は与えた。帝はこの頃ますます異教を好み、常にその服を着て、その経典を誦習し、内廠で法を演じた。綽吉我些児の輩は豹房に出入りし、権幸と雑居し、気焔が盛んであった。二人が駅伝に乗って帰る時、通過する駅は騒擾し、公私ともにその害を受けた。

世宗が即位すると、再び番僧を淘汰し、法王以下はすべて斥けられた。後、世宗は道教を崇拝し、ますます仏教を排斥したので、これ以後番僧が中国に来ることは稀となった。

闡化王

闡化王は、烏斯蔵の僧である。初め、洪武五年、河州衛が言上した。「烏斯蔵の怕木竹巴の地に、章陽沙加監蔵という僧がおり、元の時代に灌頂国師に封ぜられ、番人に推服されている。今、朶甘の酋長賞竹監蔵が管兀児と兵を構えているが、もしこの僧を派遣して撫諭すれば、朶甘は必ず内附するだろう。」帝はその言葉に従い、やはり灌頂国師に封じ、使者を遣わして玉印・彩幣を賜った。翌年、その僧は酋長鎖南蔵卜を使者として、仏像・仏書・舎利を貢いだ。この時、ちょうど仏宝国師に命じて番人を招諭していたので、ここに怕木竹巴の僧らは自ら輦卜闍と称し、使者を遣わして表及び方物を進めた。帝は手厚くこれを賜った。輦卜闍とは、その地の首座僧の称である。八年正月、怕木竹巴万戸府を設け、番酋をこれに任じた。やがて章陽沙加が卒去すると、その徒の鎖南扎思巴噫監蔵卜に灌頂国師の位を授けた。二十一年、上表して病と称し、弟の吉剌思巴監蔵巴蔵卜を自らの代わりに推挙したので、ここに灌頂国師を授けた。これ以後三年に一度貢ぐこととなった。

成祖が位を嗣ぐと、僧智光を派遣して賜物を与えた。永楽元年、使者を遣わして入貢した。四年、灌頂国師闡化王に封じ、螭紐の玉印、白金五百両、綺衣三襲、錦帛五十匹、巴茶二百斤を賜った。翌年、護教・賛善の二王、必力工瓦国師及び必里・朶甘・隴答諸衛、川蔵諸族とともに、駅站を再び設置し、往来の通路を開くよう命じた。十一年、宦官楊三保が烏斯蔵から使いを終えて帰還すると、その王は従子の劄結らを従わせて入貢させた。翌年、再び三保をその地に派遣し、闡教・護教・賛善の三王及び川卜・川蔵などとともに駅站を修復させ、まだ復旧していないものはすべて復旧させた。これにより道路がすべて開通し、使臣が数万里を往来しても、寇盗の憂いがなくなった。その後、貢ぎはますます頻繁となった。帝はその誠実さを嘉し、再び三保に命じて仏像・法器・袈裟・禅衣及び絨錦・彩幣を持たせて慰労に赴かせた。その後、また宦官戴興を派遣して彩幣を賜った。

宣徳二年、宦官侯顕を派遣して絨錦・彩幣を賜った。その貢使がかつて駅官の子を毆殺したことがあったが、帝はその無知を考慮し、送還するだけで、王に戒飭を命じる詔勅を下しただけだった。九年、貢使が帰る際、賜物で茶と交換した。臨洮に至ると、役人がこれを没収し、その使者を拘束して指示を請うた。詔してこれを釈放し、茶を返還させた。

正統五年、王が卒去した。禅師二人を正副使として派遣し、その従子の吉剌思巴永耐監蔵巴蔵卜を闡化王に封じた。使臣が私的に茶や彩帛を数万も買い付け、役人に運送させた。礼官がこれを禁ずるよう請うたが、帝はその遠方の者であることを考慮し、ただ自ら舟車を雇わせるように命じただけだった。やがて王が卒去すると、桑児結堅昝巴蔵卜が嗣いだ。

成化元年、礼部が上言した。「宣徳・正統の間、諸々の入貢者は三四十人を超えず、景泰の時は十倍、天順の間は百倍となった。今、貢使がまさに来ている。闡化王に詔勅を下して諭し、洪武の旧制のように三年に一度の貢ぎとするよう命じてほしい。」従った。五年、王が卒去し、その子の公葛列思巴中柰領占堅参巴児蔵卜を嗣がせた。僧を派遣して進貢させたが、帰途西寧に至り、寺中に留まって去らず、また名を冒して入貢し、賜わった璽書・幣物を隠匿した。王がその配下三人を遣わして催促させると、その僧は彼らを室に閉じ込め、二人の目をえぐった。一人が逃げ出し、都指揮孫鑑に訴えた。鑑は捕らえて獄に繋いだが、その徒から賄賂を受け、それからまた上奏した。四川巡按に下して審理させ、僧四人を死罪に処し、鑑は逮捕審理されるところだったが、恩赦に会ってすべて免じられた。

十七年、長河西の諸番が多く番王の名を仮って朝貢するため、闡化・賛善・闡教・輔教の四王に勅書勘合を与えて、奸偽を防ぐよう命じた。二十二年、使者四百六十人が来貢したが、守臣が新例に従い、ただ百五十人だけを受け入れた。礼官は使者がすでに国境に入っているため、強く拒むのは難しいとして、その情に順ってすべて受け入れ、後日の二回分の貢ぎの数とするよう請い、従った。

弘治八年、僧を派遣して来貢させた。帰途、揚州の広陵駅に至り、大乗法王の貢使と出会い、ともに牲を殺し酒を飲みほし、三日間去らなかった。他の使者の舟が来ると、石を投げつけ、陸に近づくことを許さなかった。知府唐愷が駅に行ってその舟子を呼び戒めたが、諸僧は兵仗を持って叫び騒ぎ、押し入ってきた。愷は走って逃れ、隷卒が力戦してようやく免れ、傷つけられた者は多かった。事が聞こえ、通事及び伴送者の罪を治め、人を遣わして王に諭し、その使者を自ら処置させるよう命じた。その時、王は卒去しており、子の班阿吉江東劄巴が襲封を請うた。番僧二人を正副使として派遣し、封じに行かせた。到着する頃には、新王も死んでおり、その子の阿往劄失劄巴堅参がすぐに封を受けようとしたので、二人はやむなくこれを授け、ここに謝恩の儀物を整え、併せてその父が領していた勘合印章を左証として献上させた。四川に至ると、守臣がその擅封を弾劾し、逮捕して審理し斬罪とし、死罪を減じて辺境に戍らせ、副使以下はすべて赦した。

正徳三年、礼官は貢使が定数を超えたため、これを後年の応貢の数とすべしと命じた。嘉靖三年、輔教王及び大小三十六番とともに貢入を請うた。礼官は諸番が地名・族氏を具えていないとして、守臣に実情を核査して奏上するよう命じた。四十二年、闡化諸王が使節を遣わして貢入を請い封を求めた。礼官は故事に従い、番僧二十二人を正副使とし、序班の朱廷対がこれを監督した。途中で大いに騒擾し、廷対の約束に従わず、廷対は帰還してその状況を報告した。礼官は、今後番王を封ずるには、誥勅を使者に持たせて帰還させるか、あるいは守臣に下し、近辺の僧を選んで賜与すべきと請うた。諸蔵を封ずるのに京寺の番僧を遣わさないのは、ここに始まる。番人はもともと入貢を利とし、たびたび制約を申し渡しても、来る者は日増しであった。隆慶三年、再び令を定め、闡化・闡教・輔教の三王は、いずれも三年に一貢とし、貢使は各千人、半ばは全賞、半ばは減賞とした。全賞の者は八人を京に赴かせ、残りは辺上に留める。これをもって定例とした。

万暦七年、貢使が言うには、闡化王の長子札釈蔵卜が職を嗣ぐことを乞うたので、その請いの通りにした。久しくして卒し、その子が襲封を請うた。神宗はこれを許したが、制書にはただ闡化王と称した。閣臣沈一貫の言を用い、烏斯蔵怕木竹巴灌頂国師闡化王と加称した。その後も貢を奉じて絶えなかった。貢物には画仏・銅仏・銅塔・珊瑚・犀角・プル(毛織物)・左髻毛纓・足力麻・鉄力麻・刀剣・明甲冑の類があり、諸王の貢物もこれと同様であった。

贊善王

贊善王は、霊蔵の僧である。その地は四川の徼外にあり、烏斯蔵より近い。成祖が践祚すると、僧智光を使わした。永楽四年、その僧著思巴児監蔵が使節を遣わして入貢し、灌頂国師に命じた。明年、贊善王に封じ、国師はもとのまま、金印・誥命を賜った。十七年、中官楊三保を使わした。洪熙元年、王が卒し、従子の喃葛監蔵が襲封した。宣徳二年、中官侯顕を使わした。正統五年、年老いたと奏上し、長子の班丹監剉を代わらせることを請うた。帝はその請いには従わず、その子を都指揮使に任じた。

初め、入貢には定期がなく、永楽より正統に至るまで、あるいは隔年に一度、あるいは一年に二度来朝した。そして歴朝が使節を遣わして賜与したものは、金幣・宝鈔・仏像・法器・袈裟・禅服、枚挙に暇がない。成化元年に至って初めて三年に一貢の例を定めた。

三年、塔児把堅粲に襲封を命じた。故事では、番王を封ずる誥勅及び幣帛は官を遣わして賜与したが、この時は西陲に事多く、礼官が使者に持たせて帰還させるよう請うたので、これに従った。

五年、四川都司が言うには、贊善諸王が定制に従わず、使節を率いて各寺の番僧百三十二種を入貢させ、しかも番王の印文がない。今は十余人を留めて貢物を守らせ、残りはすでに帰還させた。礼官が言うには、「番地は広遠で、番王も多い。もし例に従って同時に入貢すれば、内郡は供億に疲弊する。諸王に応貢の年、各々印文を具え、順次来朝させるのがよい。今貢使はすでに到着しており、その情を損ねがたい。明年の応貢の数とすべしと許すことを乞う。」と。許可された。

十八年、礼官が言うには、「番王は三年に一貢、貢使は百五十人、これが定制である。近ごろ贊善王が連続して貢を奉じ、すでに四百十三人を遣わした。今は封を請い襲封を請い、さらに千五百五十人を遣わし、制に違うゆえ退けるべきである。封を請い襲封を請う者には、三百人を以て後の二回の貢の数とし、残りはすべて帰還させることを許すことを乞う。」と。これも許可された。そこで喃葛堅粲巴蔵卜を贊善王に封じた。弘治十六年に卒し、その弟の端竹堅昝に嗣がせた。嘉靖以後もなお制の如く入貢した。

護教王

護教王は、名を宗巴斡即南哥巴蔵卜といい、館覚の僧である。成祖の初め、僧智光がその地に使した。永楽四年、使節を遣わして入貢し、詔して灌頂国師を授け、誥を賜った。明年、使節を遣わして謝し、護教王に封じ、金印・誥命を賜い、国師はもとのままとした。そこで頻年にわたって入貢した。十二年、卒し、その従子の幹些児吉剌思巴蔵卜に嗣がせた。洪熙・宣徳の中に併せて入貢した。やがて卒し、嗣がなく、その爵は遂に絶えた。

闡教王

闡教王は、必力工瓦の僧である。成祖の初め、僧智光が勅を齎して番に入り、その国師端竹監蔵が使節を遣わして入貢した。永楽元年、京に至り、帝は喜び、宴して賜与し帰還させた。四年、また貢し、帝は優しく賜与し、その国師大板的達・律師鎖南蔵卜に衣幣を賜った。十一年、灌頂慈慧浄戒大国師の号を加え、またその僧領真巴児吉監蔵を闡教王に封じ、印誥・彩幣を賜った。後は毎年一貢した。楊三保・戴興・侯顕の使は、いずれも金幣・仏像・法器を齎して賜った。

宣徳五年、王が卒し、その子の綽児加監巴領占に嗣がせた。久しくして卒し、その子の領占叭児結堅参に嗣がせた。成化四年、礼官の言に従い、三年に一貢の制を申し渡した。明年、王が卒し、その子の領占堅参叭児蔵卜に襲封を命じた。二十年、帝は番僧班著児を遣わし、璽書勘合を齎して賜った。その僧は行くことを憚り、半道に至り、偽って王の印信・番文を作り復命したので、詔して逮捕して処罰した。

正徳十三年、番僧領占札巴等を遣わしてその新王を封じた。札巴等は馬快船三十艘を乞い、食塩を載せ、番に入る路資とした。戸科・戸部ともに疏を上けて争ったが、聞き入れられなかった。札巴等は途上で飽くことなく科索し、呂梁に至り、管洪主事李瑜を毆打してほとんど死に至らしめ、恣横このようであった。嘉靖の世に至るまで、闡教王は貢を修めて絶えなかった。

輔教王

輔教王とは、思達蔵(チベット)の僧である。その地は烏斯蔵(ウ・ツァン)よりもさらに遠い。成祖が即位すると、僧智光に命じて詔を携えさせ招諭し、銀幣を賜った。永楽十一年、その僧南渴烈思巴を輔教王に封じ、誥印・彩幣を賜い、たびたび貢使を通じさせた。楊三保・侯顯はいずれもその国に赴き賜物を与え、諸法王らと同様に遇した。景泰七年、使節が来朝して貢ぎ物を献じ、自ら年老いたことを述べ、その子喃葛堅粲巴蔵卜に代わらせることを請うた。帝はこれに従い、輔教王に封じ、誥勅・金印・彩幣・袈裟・法器を賜った。灌頂国師葛蔵・右覚義桑加巴を正使・副使として派遣し封じさせた。四川に至ると、多く牛馬を雇い、私物を運載させた。礼官がその罪を治めるよう請うたが、英宗はちょうど復辟したばかりであり、その勅書を回収し、供応を半減させることを命じた。

成化五年、王が卒去したので、その子喃葛劄失堅参叭蔵卜に嗣がせることを命じた。六年、旧制を申し定め、三年に一度の朝貢とし、多くとも百五十人を超えず、四川雅州より入ることとした。国師以下は朝貢を許さない。弘治十二年、輔教王ら四王および長河西宣慰司が同時に入貢し、使者は二千八百余人に及んだ。礼官が供給費用が計り知れないことを理由に、四川の守臣に制に従って遣送させ、違反者は退却させるよう請うた。帝はこれに従った。正徳・嘉靖の世を経て、貢ぎ物を奉じて絶えることがなかった。

西天阿難功徳国

西天阿難功徳国は、西方の番国である。洪武七年、王卜哈魯がその講主必尼西を遣わして来朝させ、方物および解毒薬石を貢いだ。詔して文綺・禅衣および布帛諸物を賜った。その後は再び来朝しなかった。

また和林の国師朵児只怯烈失思巴蔵卜も、その講主汝奴汪叔を遣わして来朝させ、銅仏・舎利・白哈丹布および元が授けた玉印一つ・玉図書一つ・銀印四つ・銅印五つ・金字牌三つを献じた。命じて宴を賜い贈り物を与えて帰還させた。翌年、国師が入朝し、また仏像・舎利・馬二頭を献じ、文綺・禅衣を賜った。和林とはすなわち元太祖の故都であり、極北にあり、西番ではないが、その国師は番僧である。功徳国と同時に来貢し、その後も再び来朝しなかった。

西天尼八剌国

尼八剌国は、諸蔵の西にあり、中国からは極めて遠い。その王はみな僧が務める。洪武十七年、太祖は僧智光に璽書・彩幣を持たせて赴かせ、併せてその隣境の地涌塔国にも使わした。智光は釈典に精通し、才弁を有し、天子の徳意を宣揚した。その王馬達納羅摩は使者を従えて入朝させ、金塔・仏経および名馬・方物を貢いだ。二十年に京師に到着した。帝は喜び、銀印・玉図書・誥勅・符験および幡幢・彩幣を賜った。二十三年に再び貢ぎ物を献じ、玉図書・紅羅傘を加えて賜った。太祖の世の終わりまで、数年ごとに一度朝貢した。成祖は再び智光をその国に使わした。永楽七年、使者を遣わして来貢した。十一年、楊三保に命じて璽書・銀幣を持たせ、その嗣王沙的新葛および地涌塔王可般に賜った。翌年、使者を遣わして来貢した。沙的新葛を尼八剌国王に封じ、誥および鍍金銀印を賜った。十六年、使者を遣わして来貢し、命中官鄧誠に璽書・錦綺・紗羅を持たせて返礼に赴かせた。経由した罕東・霊蔵・必力工瓦・烏斯蔵および野藍卜納にも、いずれも賜物を与えた。宣徳二年、また中官侯顯を遣わしてその王に絨錦・糹寧絲を賜い、地涌塔王にも同様に与えた。その後は、貢使は再び来朝しなかった。

また速睹嵩という国もあり、これも西方の国である。永楽三年、行人連迪らを遣わし勅を携えさせて招諭に赴かせ、銀鈔・彩幣を賜った。その酋長は道遠を理由に来朝しなかった。

朵甘烏斯蔵行都指揮使司

朵甘は、四川の境外にあり、南は烏斯蔵と隣接し、唐の吐蕃の地である。元は宣慰司・招討司・元帥府・万戸府を設置し、その衆を分統した。

洪武二年、太祖が陝西を平定すると、すぐに官を遣わし詔を携えさせて招撫した。また員外郎許允徳を遣わしてその酋長に諭し、元の故官を挙げて京師に赴かせた。摂帝師喃加巴蔵卜および故国公南哥思丹八亦監蔵らは六年春に入朝し、推挙した六十人の名簿を上奏した。帝は喜び、指揮使司二つ(朵甘・烏斯蔵)、宣慰司二つ、元帥府一つ、招討司四つ、万戸府十三、千戸所四つを設置し、直ちに推挙された官をそれに任じた。廷臣が「来朝した者には官職を授けるが、来ない者には与えるべきではない」と進言した。帝は「我は誠心をもって人に接する。彼らが誠でなければ、曲は彼らにある。万里を来朝したのに、再び請うのを待つなど、遠方の人の帰順の心を裏切ることになろうか」と言い、遂にすべてに授けた。詔を降して言うには、「我が国家は天の明命を受け、万方を統御し、善良なる者には恩をもって撫で、服さぬ者には武威をもって臨む。凡そ幅員の内にあれば、皆一視同仁の仁を推し及ぼす。先に摂帝師喃加巴蔵卜が推挙した故国公・司徒しと・宣慰・招討・元帥・万戸ら諸人を率いて、遠方より入朝した。朕はその天命を識り、師旅を労せず、共に職方の貢ぎを効することを嘉する。既に国師および故国公らを指揮同知等の官に授け、皆誥印を与えた。今より官たる者は務めて朝廷の法に遵い、一方を撫安せよ。僧たる者は務めて化導の誠を敦くし、民を率いて善を行い、共に太平を享け、永く福祉を綏んぜよ。豈に休ならざらんや」と。併せて宴を賜い贈り物を与えて帰還させた。初め、元は番僧を尊んで帝師とし、その徒に国公等の官秩を授けたので、降伏した者が旧号を襲ったのである。

鎖南兀即爾が帰朝し、朵甘衛指揮僉事に任じられた。元の司徒の銀印を持って来上したので、指揮同知に進めることを命じた。まもなく朵甘宣慰賞竹監蔵が、指揮・宣慰・万戸・千戸に任じられるべき首領二十二人を推挙した。詔してその請いに従い、分司の印を鋳造して与えた。そこで朵甘・烏斯蔵の二衛を行都指揮使司に改め、鎖南兀即爾を朵甘都指揮同知とし、管招兀即爾を烏斯蔵都指揮同知とし、併せて銀印を賜った。また河州に西安行都指揮使司を設置し、二つの都司を兼轄させた。ほどなく、仏宝国師鎖南兀即爾らが使者を遣わして来朝し、故官賞竹監蔵ら五十六人を推挙して奏上した。命じて朵甘思宣慰司および招討等の司を増置した。招討司六つ:朵甘思・朵甘隴答・朵甘丹・朵甘倉溏・朵甘川・磨児勘。万戸府四つ:沙児可・乃竹・羅思端・列思麻。千戸所十七。賞竹監蔵を朵甘都指揮同知とし、その他はそれぞれ差等を付けて官職を授けた。これより、諸番は貢ぎ物を謹んで修めるようになった。

八年に俄力思軍民元帥府を設置した。まもなく隴答衛指揮使司を設置した。十八年、班竹児蔵卜を烏斯蔵都指揮使とした。そこで品秩を更に定め、都指揮以下はすべて世襲させることとした。間もなく、また烏斯蔵俺不羅衛を行都指揮使司に改めた。二十六年、西番思曩日等の族が使者を遣わして馬を貢いだ。命じて金銅信符・文綺・襲衣を賜い、その朝貢を許した。

永楽元年、必里千戸所を衛に改め、後に烏斯蔵牛児宗寨行都指揮使司を置き、また上邛部衛を置き、いずれも番人を以て官とした。十八年、帝は西番が悉く職方に入ったが、最も遠い白勒等百余りの寨は未だ帰附していないとして、使者を遣わして招撫し、多くもまた入貢した。帝は番俗が僧の言のみを聴くことを以て、国師などの美号で寵遇し、誥印を賜い、毎年の朝貢を命じた。これにより諸番僧の来朝する者が日に多くなり、宣徳朝に至るまで、礼遇は益々厚くなった。九年、中官宋成らに璽書・賜物を齎らせてその地に使いさせ、都督ととく趙安に兵を率いて畢力術江まで送らせるよう命じた。

正統初年、供給費用が莫大なため、少し削減した。時に番長が松潘守将趙得に書を送り、入朝したいが生番に阻まれており、兵を遣わして道を開いてほしいと述べた。詔して趙得に使者を遣わして生番を招撫させ、相率いて朝貢した者が八百二十九寨に及び、翻って賜賚を与えて帰還させた。天順四年、四川三司が言上した。「近頃勅書を奉じ、番僧の朝貢で入京する者は十人を超えてはならず、残りは境上に留まって賞賜を待つこととされた。今、蜀地は災害に見舞われている。もし全員を留め置けば、動かずして数ヶ月を経過し、有司は供給に困窮する。正統年間の制度のように、宴饗して待遇し、遣還すべきである。」との返答を得て許可された。

成化三年、阿昔洞諸族の土官が言上した。「西番の大小二姓が悪事を働き、殺しても恐れない。ただ国師・喇嘛が勧化すれば、心を改めて信服する。」そこで禅師遠丹蔵卜を国師に、都綱子瑺を禅師に進めて、彼らを化導させた。六年、諸番の三年に一度の貢ぎの例を申し立て、国師以下は貢ぎを許さず、これにより貢使は次第に少なくなった。

初め、太祖は西番の地が広く、人が獰猛で悍ましいため、その勢力を分けて力を削ぎ、辺境の患いとならぬようにしようとし、来朝する者にはすぐに官職を授けた。またその地は皆肉食であり、中国の茶に命を頼っているため、天全六番に茶課司を設け、馬による交易を命じ、入貢する者にはさらに茶や布を優遇して与えた。諸番は貢市の利に執着し、かつ世襲の官職を保ちたいため、変を起こすことを敢えてしなかった。成祖に至り、益々法王や大国師、西天仏子などを封じ、互いに化導させて、共に中国を尊ばせた。この故に西陲は平穏であり、明一代を通じて番寇の患いは無かった。

長河西魚通寧遠宣慰司

長河西魚通寧遠宣慰司は、四川の境外にあり、地は烏斯藏に通じ、唐代は吐蕃であった。元代に碉門・魚通・黎・雅・長河西・寧遠の六安撫司を置き、吐蕃宣慰司に隷属させた。

洪武年間、その地の打煎爐・長河西の土官で元の右丞であった剌瓦蒙が、その理問高惟善を遣わして来朝し、地方の産物を貢ぎ、宴饗と賜物を与えて帰還させた。十六年、再び惟善及び従子の萬戸若剌を遣わして貢献させた。長河西等処軍民安撫司を置くことを命じ、剌瓦蒙を安撫使とし、文綺四十八匹、鈔二百錠を賜い、惟善を礼部主事に任じた。二十年、惟善を遣わして長河西・魚通・寧遠諸処を招撫させ、翌年還朝し、次のように言上した。

辺境を安んずる道は、屯田と守備を整え、かつ恩威を兼ね備えることにある。屯守が既に堅固であれば、遠くても功績がある。恩威が未だ備わらなければ、近くても益はない。今、魚通・九枝の疆土及び岩州・雑道の二長官司は、東は碉門・黎・雅に隣接し、西は長河西に接する。唐の時、吐蕃が強盛となり、寧遠・安靖・岩州の漢民は、往々にして彼らに駆り立てられて九枝・魚通に入り、漢辺を防守した。元初に二万戸府を設け、なお盤陀・仁陽に寨柵を置き、辺民をして戍守させた。その後、各枝が衆を率いて仁陽等の柵を攻めた。及び川蜀で兵乱が起こると、勢いに乗じて雅・邛・嘉等州を侵陵した。洪武十年に初めて碉門の土酋に随って帰附した。岩州・雑道の二長官司は国朝が設置して以来、今に至るまで十余年になるが、官民は依然として旧態のままで互いに統轄しない。統制する司が無いため、その猖獗を恣にし、旧弊を因襲しているからである。このように近くて既に帰附した者でさえこうである。遠くて未だ帰附していない者を、どうして臣服させることができようか。かつ岩州・寧遠等の処は、古の州治である。もし兵を撥して戍守させ、城堡を築き、山田を開墾すれば、近い者は教化に帰して先に帰附し、遠い者は威を畏れて来帰するであろう。西域に事が無ければ我が徭役を供し、事があれば彼らを先駆けとさせる。撫でること久しければ、則ち皆我が用いるところとなる。臣の説くところによれば、その便益は六つある。烏斯蔵・朶甘に通じ、長河西を鎮撫すれば、四百余里の地を拓き、二千余戸の番民を得ることができる。黎・雅の保障となるのみならず、蜀もまた永く西顧の憂いが無くなる。これが一つである。番民の居住する老思岡の地は、土が瘠せて人口が多く、専ら碉門の烏茶や蜀の細布を貿販し、羌の貨物と博易して、その生計を賄っている。もし岩州に市を立てれば、この輩の衣食は皆我に仰ぎ給うこととなり、どうして悪事を働くことがあろうか。これが二つである。長河西・伯思東・巴獵等の八千戸を以て外番の掎角とすれば、その勢いは必ず固くなる。然る後に遠い者を招徠し、もし来なければ、八千戸をして近くは内応とし、遠くは郷導とさせれば、これいわゆる蛮をもって蛮を攻めるもので、誠に辺境を制する善き道である。これが三つである。天全六番招討司八郷の民は、その徭役を翻って免除し、専ら烏茶を蒸造させ、岩州に運び、倉を置いて収貯し、以て番馬と交易すべきである。雅州での馬交易に比べれば、その利益は倍になる。かつ打煎炉の元来の馬交易の場所からも甚だ近く、価格もそちらより増せば、番民は蟻が羶に慕う如く、市に帰する者必ず多いであろう。これが四つである。岩州に既に倉を立てて馬と交易すれば、番民が茶を運び出し、その税を倍収し、その他の物貨が至る者も必ず多くなる。また魚通・九枝の蛮民が種を蒔く陸でない田は、年を追って徴税がない。もし毎年租米を輸納させ、かつ軍士に大渡河両岸の荒田を開墾させれば、また戍守の官軍を供給することができる。これが五つである。碉門から岩州への道路は、修繕開拓を命じて、往来の人馬に便ならしめるべきである。なお地里の遠近を量り、均しく郵伝を立て、黎・雅の烽火と相応じさせれば、ほぼ乱略を防遏し、辺境に憂い無からしめることができる。これが六つである。

帝はこれに従った。

後に建昌の酋長月魯帖木児が叛き、長河西の諸酋は密かにこれに附き、朝貢を失った。太祖は怒った。三十年春、礼部の臣に謂って言った。「今天下一統し、四方万国皆時に従って貢ぎを奉じている。烏斯蔵・尼八剌国のようにその地が極めて遠くても、なお三年に一度は朝貢する。ただ打煎炉長河西の土酋のみが外に月魯帖木児・賈哈剌に附き、中国に臣従しない。師を興して討てば、鋒刃の下、死者必ず多い。宜しく人を遣わしてその酋に諭すべきである。もし命を聴いて来朝すれば、一に恩をもって待遇し、改めなければ則ち兵三十万を発し、罪を声して征伐に赴く。」礼官が帝の意を文書にし、馳せてこれを諭した。その酋は懼れ、直ちに使者を遣わして入貢し、罪を謝した。天子はこれを赦し、長河西魚通寧遠宣慰司を置き、その酋を宣慰使とし、これより貢ぎを修めて絶えることがなかった。初め、魚通及び寧遠・長河西は、本来それぞれ部を為していたが、ここに至って初めて一つに合わさった。

永楽十三年、貢使が言うには、「西番には他に産物がなく、ただ馬をもって茶と交換するのみである。近年禁令があり、生計が実に困難である。どうか従来通り開中を許されたい。」これに従った。二十一年、宣慰使喃哩ら二十四人が来朝して馬を貢いだ。正統二年、喃哩が卒し、子の加八僧が嗣いだ。成化四年、諸番に三年に一度の貢ぎ物の令を申し渡し、ただ長河西のみは依然として毎年一貢とした。六年、二年あるいは三年に一度の貢ぎ物の例を定めて頒布し、貢使は百人を超えてはならないとした。十七年、礼官が言うには、「烏斯蔵は長河西の西にあり、長河西は松潘・越巂の南にあり、土地が相接し、混同しやすい。烏斯蔵の諸番王は例として三年に一度貢ぎ物をするが、彼らは道が険しいため来るのが少ない。一方、長河西の番僧はしばしば諸王の文牒を偽造し、入貢して賞賜を詐取する。諸番王及び長河西・董卜韓胡に勅書勘合を与え、辺境の臣が審査・検証して初めて進入を許すようにし、詐偽の弊害を免れるようにすべきである。あるいは道が阻まれた場合は、補貢を許さない。」これに従った。十九年、その部内の灌頂国師が僧徒を派遣して貢ぎ物に来た者が千八百人に達し、守臣がその制に違反したことを弾劾した。詔して五百人だけを受け入れ、残りはすべて送り返させた。二十二年、礼官が言うには、「長河西は黎州大渡河の賊が発生し、連年貢ぎ物を失い、今になって三回分の貢ぎ物を補進した。定められた制度では、道が阻まれた者は再び補進できない。しかし今貢ぎ物がすでに到着しているので、その情に順って受け入れるのがよく、賜与を酌量して減らすべきである。」と報告し、許可された。

弘治十二年、礼官が言うには、「長河西及び烏斯蔵の諸番が一時に同時に貢ぎ物をし、使者が二千八百余人に達した。守臣に濫りに送らぬよう諭すことを乞う。」これも許可された。しかしその後来る者がますます多く、ついに退けることができなかった。嘉靖三年、千人を超えないように定めた。隆慶三年、五百人全員に賞賜を与え、八人を京に派遣する制度を定め、闡教諸王の例に倣った。その貢ぎ物は珊瑚・氆氌の類で、すべて『闡化王伝』に記載されたものに準じた。諸番の貢ぎ物も皆これに同じくした。

董卜韓胡宣慰司

董卜韓胡宣慰司は、四川威州の西にあり、その南は天全六番と接する。永楽九年、酋長の南葛が使者を派遣して表を奉じて入朝し、地方の産物を貢いだ。そこで答隆蒙・碉門の二招討が隣境を侵掠し、道路を阻み止めていると言い、その討伐を請うた。帝は兵を用いることを望まず、勅を下して慰撫し、毎年一貢させ、金印・冠帯を賜った。

正統三年、年老いたことを奏上し、子の克羅俄堅粲に代わることを乞うた。これに従った。(克羅俄堅粲は)凶暴で狡猾で礼法に従わなかった。七年、王に封じられ、金印を賜うことを乞うたが、帝は許さなかった。鎮国将軍・都指揮同知に進秩させ、宣慰司の事を掌らせ、誥命を与えた。(彼は)ますます強勢を恃み、しばしば雑谷安撫及び別思寨安撫の饒蛒と怨みを結んだ。十年八月、四川の守臣に牒を移し、「別思寨は本来父の南葛の旧地で、饒蛒の父に分け与えたものである。後に饒蛒が職務を受け、私的に朝廷に奏上し、安撫司の設置を得た。近ごろ偽って宣慰司の印を作り、自ら宣慰使と称し、雑谷の諸番を糾合して、我が地を侵食しようとしている。すでに饒蛒を拘束し、偽印を追い出し、番俗の法を用いて両目をえぐり取った。謹んで状をもって報告する。」と言った。守臣がその事を上奏した。帝は使者に勅を持たせてその専擅を責め、使臣とともに饒蛒の族人のうちから安撫を推挙・選抜させ、依然としてその土地を管轄させ、かつ饒蛒を送り返し、終身養うように命じた。

十三年十月、四川巡按の張洪らが奏上した。「近ごろ董卜宣慰の文牒を受け取ったところ、『雑谷の故安撫阿䧣の側室がその夫と子を毒殺し、また威州千戸の唐泰に賄賂を贈って自分が謀叛を企てていると誣告した。今、貢ぎ物を準備して進貢し、銅門山西から山を開き道を通し、官軍に日駐で迎えてほしい。』と言っている。臣らはひそかに考えるに、雑谷は内は威州・保県と連なり、外は董卜韓胡と隣接している。雑谷は力が弱く、董卜に対抗しようとすれば、実に威・保を頼りにしている。董卜は勢いが強く、威・保と通じようとすれば、かえって雑谷に阻まれる。これによって仇殺し、もとより仲が良くない。銅門及び日駐の諸寨は、雑谷・威・保の要害の地である。董卜は雑谷の妻が寡婦で子が幼弱なのを欺き、我が軍が麓川に遠征しているのを窺い、進貢の名を借りて、別に道路を開こうとし、その意は雑谷を併呑滅ぼし、唐泰を陥れようとすることにある。その請いは許すべきではない。」そこで都御史の寇深らに計略を下して審議させたが、その議はついに実行されなかった。

当時、董卜は毎年入貢し、派遣する僧徒は強悍で法に従わず、多く私物を携帯し、舟車を強要し、道中を騒擾し、長吏を罵り辱めた。天子はこれを聞いて憎み、景泰元年に勅を賜って厳しく責めた。まもなく雑谷及び達思蛮長官司の地を侵奪し、その人畜を掠奪したが、守臣は制止できなかった。三年二月、朝議はその入貢の勤勉で誠実なことを賞し、都指揮使に進秩させ、二司の侵した地及び掠奪した人民を返還するよう命じた。その酋長はただちに命に従ったが、ただ旧維州の地だけは依然として占拠された。まもなく四川巡撫の李匡に銀の甕・金珀を贈り、『御製大誥』・『周易』・『尚書』・『毛詩』・『小学』・『方輿勝覧』・『成都記』の諸書を求めた。李匡はこれを朝廷に報告し、ついで言った。「唐の時、吐蕃が『毛詩』・『春秋』を求めた。于休烈は、書物を与えれば、権謀を知らせ、ますます変詐を生じさせ、中国の利益にならないと言った。裴光廷は、吐蕃は久しく叛き新たに服したので、その上表に因んで、『詩』・『書』を賜い、次第に声教に陶治させ、教化を外にまで流布させるべきだと言った。于休烈はただ書物に権略変詐があることを知るだけで、忠信礼義が皆書物から出ることを知らない。明皇は裴光廷に従った。今、彼らが求めるものについて、臣は与えるのが便利だと思う。そうしなければ、彼らは貢使に因って書肆で購うことも、さほど難しくはない。ただ『方輿勝覧』・『成都記』は、地形の勝劣と関塞のことが備わっており、一概に与えることはできない。」帝はその言の通りにした。まもなくその侵奪地を返還したので、勅を賜って奨励した。

六年、兵部尚書の于謙らが、その蛮王と僭称し、巴・蜀を窺い伺い、上す奏章の言葉が多く不遜であり、かつ群番を招集し、大いに戎器を治め、悖逆の日々に顕著であるから、慮らざるを得ず、守臣に勅して予め戒備させるべきであると奏上し、これに従った。

克羅俄堅粲が死に、子の劄思堅粲藏卜が使者を派遣して貢ぎ物に来た。都指揮同知に任じ、宣慰司の事を掌らせた。天順元年、使者を派遣して入貢し、王に封じられることを乞うた。父と同じ官とし、都指揮使に進秩させ、依然として宣慰司の事を掌らせた。

成化五年、四川の三司が奏上した。「保県は極辺の僻地にあり、永楽五年に特に雑谷安撫司を設け、旧維州諸処の蛮塞を撫輯させた。後に董卜と兵を構え、維州の諸地はすべて侵奪され、貢道が阻絶した。今、雑谷が旧疆を回復し、使者を派遣して貢ぎ物に来ようとしているが、貢ぎ物の時期を知らず、勝手に派遣することを敢えてしない。」帝は礼官の言に従い、三年を期として許した。四年、諸番に三年一貢の例を申し渡し、ただ董卜のみは毎年一貢を許した。

六年、劄巴堅粲藏卜が卒し、子の綽吾結言千が嗣いで都指揮使となった。弘治三年に卒し、子の日墨劄思巴旺丹巴藏卜が国師を派遣して珊瑚樹・氆氌・甲冑の諸物を貢ぎ、父の職を嗣ぐことを請うた。これを許し、誥命・勅書・彩幣を賜った。九年に卒し、子の喃呆が襲封を請うた。また国師を派遣して地方の産物を貢ぎ、詔して父の官を授けた。卒し、子の容中短竹が襲封した。嘉靖二年、再び貢使は千人を超えないように令を定め、その隷下の別思寨及び加渴瓦寺は別に貢ぎ物をした。隆慶二年、董卜及び別思寨の貢使が千七百余人に達したので、半賞を与え、八人を京に派遣することを命じ、これを定制とした。万暦以後に至るまで、朝貢は絶えなかった。