西番諸衛(西寧・河州・洮州・岷州等の番族諸衛)
西番とは、すなわち西羌であり、その族種は最も多く、陝西より四川、雲南の西の辺境外に至るまで皆これである。その河州、湟州、洮州、岷州の間に散在する者は、中国の患いとなること特に甚だしかった。漢の趙充国、張奐、段熲、唐の哥舒翰、宋の王韶の経営した所は、皆この地である。元は駙馬章古を寧濮郡王に封じ、西寧に鎮守させ、河州に吐番宣慰司を設置し、洮州、岷州、黎州、雅州の諸州をこれに隷属させ、番衆を統治した。
帝は西番が馬を産することを以て、彼らと互市を行い、馬が次第に多く来るようになった。しかし彼らの用いる貨幣は中国と異なり、鈔法を改めて以後、馬が来るものが少なくなり、これを憂いた。八年五月、宦官趙成に羅綺、綾絹及び巴茶を持たせて河州に赴かせて交易させると、馬が少し集まり、常にその価値を厚くして償った。成はまた徳意を宣諭し、番人は感激し喜び、相次いで宮闕に赴き謝恩した。山後の帰徳等州の西番諸部落も皆馬を持って来市した。
秋、何鎖南普及び鎮撫劉温がそれぞれ家族を連れて来朝した。中書省の臣に諭して曰く、「何鎖南普は帰附以来、信義が甚だ堅い。以前に使者として烏斯蔵に遣わし、万里を遠く跋渉させ、帰還した時、その言うところは皆朕の意に適っていた。今家族を連れて来朝したので、礼遇を加えるべきである」と。そこで米、麦をそれぞれ三十石賜い、劉温にはその三分の一を賜った。
英らが番寇を進撃し、これを大破し、その首魁をことごとく擒え、数万人を俘斬し、馬牛羊数十万を獲た。ここに至り、群番は震え恐れ、寇と為すことを敢えてしなかった。
十六年、青海の酋長史剌巴ら七人が来帰し、文綺、宝鈔を賜った。この時岷州にも衛が設置され、番人は毎年馬を以て茶と交易し、馬は日に日に繁殖した。二十五年、また宦官而聶を河州に派遣し、必里の諸番族を召集し、勅を以てこれを諭した。争って馬を出して献じ、一万三百余匹を得、茶三十余万斤を与えた。馬を河南、山東、陝西の騎士に与えるよう命じた。帝は諸衛の将士に番人の馬を擅に索求する者がいることを以て、官に金、銅の信符と勅諭を持たせて派遣し、涼州、甘州、肅州、永昌、山丹、臨洮、鞏昌、西寧、洮州、河州、岷州の諸番族に賜った。これを諭して曰く、「かつて朝廷に需要があれば、必ず茶貨を以て酬い、私的な徴発は許さなかった。近頃聞くところでは、辺将に無状の者が多く、朝廷の命令と偽って擾害し、爾らをして安寧に居住することを得させない。今特に金、銅の信符を製して頒給する。徴発がある時は、必ず比対して相符して初めて行う。そうでなければ偽物であり、械して京師に至らせ、これを罪する」と。ここに至り、需要による索求は遂に絶えた。
初め、西寧の番僧三剌が書を為して罕東諸部を招降し、また碾白南川に仏刹を建て、その衆を居住させたが、この時に至り来朝して馬を貢ぎ、勅による護持を請い、寺額を賜うことを求めた。帝はその請いに従い、額を賜って瞿曇寺と曰う。西寧僧綱司を立て、三剌を都綱司とした。また河州に番、漢二つの僧綱司を立て、共に番僧をこれに任じ、符契を以て統制した。ここよりその徒は争って寺を建て、帝は常に嘉名を賜い、且つ勅を賜って護持した。番僧の来朝する者は日に日に多くなった。
永楽の時、諸衛の僧で戒行が精勤な者は、多く剌麻、禅師、灌頂国師の号を授けられ、大國師、西天佛子に加えられる者もあり、皆印誥を与え、その世襲を許し、且つ毎年一朝貢することを命じた。これにより諸僧及び諸衛の士官は京師に輻湊した。その他の族種、例えば西寧十三族、岷州十八族、洮州十八族の類は、大きいものは数千人、少ないものは数百人であっても、また毎年一回の奉貢を許し、宴賚を以て優遇した。西番の勢力は益々分散し、その力は益々弱まり、西陲の患いも益々少なくなった。
正統五年、陝西鎮守都督鄭銘及び都御史陳鎰に勅して曰く、「奏を得るに、河州の番民領占等は先に罪を避けて逃れ、結河裡に居住し、徒党を招集し、土田を占耕して籍に注さず賦を納めず、又逃亡を蔵匿し、行旅を剽劫し、兵を発して之を討たんと欲すと。朕は番性の頑梗なるを思い、且つ犯す所は赦前に在り、若し遽かに師旅を加うれば、恐らくは無辜に累及せん。宜しく人をして撫諭せしめ、徒党を散遣し、掠めたる牛羊を還し、兵は即ち進む勿れ、然らずば兵を加うるも未だ晩からず。爾等其れ之を審にせよ。」番人は果たして輸服す。七年、再び銘及び都御史王翱等に勅して曰く、「鎮守河州都指揮劉永の奏を得るに、往年阿爾官等六族三千余人、列営して帰徳城下に在り、声言して交易すと、後に乃ち屯軍を鈔掠し、大肆に焚戮す。而して著亦匝族の番人は屡々暖泉亭諸処に於て、潜かに寇盗を為す。指揮張瑀二人を擒獲すれども、止だ盗まれたる馬を償うを責め、之を縦ちて去らしむ。法を論ずれば、瑀及び永は皆当に究治すべし、今姑く罪を戴かしむ。爾等即ち官を遣わし、三司堂上と偕に親しく其の寨に詣り、利害を以て曉し、掠めたる所を還帰せしめ、其の自新を許し、悛まざれば則ち進討せよ。蓋し戎を馭するの道は、撫綏を先とし、撫して従わざれば、然る後に兵を用う。爾等宜しく此の意を体すべし。」番人も亦た輸服す。
五年、巡按の江孟綸が言うには、「岷州の番寇が縦横に跋扈し、村堡は空しき状態である。先頃、指揮の後泰に命じてその弟の通と共に反覆開示させたところ、生番の忍蔵・占蔵等三十余族の酋長百六十余人、熟番の栗林等二十四族の酋長九十一人が、互いに告げ語り、悔悟して来帰し、かつ掠められた人畜を還し、徭賦を供することを願った。牛を殺して天に告げ、再び犯さざることを誓った。既に副使の李圮に命じて便宜を以て賞労し、朝廷の恩威を宣示させたところ、皆歓躍して去った。ただ熟番の緑園一族のみが悪を恃んで服従しない」と。兵部が言うには、「番の性質は無常であり、朝に撫でられて夕に叛く、備えを弛めるべからず。辺臣に諭し、向化する者は意を加えて撫綏し、順を犯す者は期を克って剿滅すべきことを請う」と。帝はその言を納れた。
西寧は即ち古の湟中にして、其の西四百里に青海あり、又た西海と曰ひ、草豊かに美し。番人其の周りに居し、専ら畜牧に務め、日に日に繁滋し、素より楽土と号す。正徳四年、蒙古部の酋亦不刺・阿爾禿廝其の主に罪を得、衆を擁して西に奔る。青海の饒富なるを瞰知し、襲ひて之を据へ、大肆に焚掠す。番人其の地を失ひ、多く遠く徙る。其の留まる者は自ら存する能はず、反つて為に所役属せらる。是より甘肅・西寧始めて海寇の患あり。九年、総制彭澤諸道の軍を集め、将に其の巣を搗たんとす。寇詗ひて之を知り、河州より黄河を渡り、四川に奔り、松潘・茂州の境を出で、直ちに烏斯藏に走る。及び大軍引き還るに及びては、則ち仍ほ海上に返り、惟だ阿爾禿廝遁れ去る。
八年、洮・岷の諸番は数たび臨洮・鞏昌を犯し、内地は騒動す。枢臣李承勛言う、「番は海寇に侵され、日に内徙す。もし二寇交通せば、何を以て善後せん。昔、趙充国は戦わずして羌を服せしめ、段穎は羌百万を殺して内地虚耗す、両者相去ること遠し。先帝の明を広め、充国の任に専らせ、制置方略、悉く瓊の便宜に従事するを聴かんことを乞う」と。瓊乃ち衆議を集め、且つ剿ぎ且つ撫す。先ず総兵官劉文・游撃彭椷を遣わして士馬を分布せしむ。明年二月、固原より進みて洮・岷に至り、人を遣わして禍福を開示す。洮州東路木舎等三十一族、西路答禄失等十三族、岷州西寧溝等十五族、皆撫に聴き、白旂を給し犒賜して遣帰す。惟だ岷州東路若籠族・西路板爾等十五族及び岷州剌即等五族は、険を恃みて服せず。乃ち兵を分ちて先ず若籠・板爾の二族を攻め、其の巣を覆し、剌即諸族は震慴して降を乞う。凡そ首三百六十余級を斬り、七十余族を撫定し、乃ち師を班す。是より、洮・岷は寧を獲、而して西寧は仍ほ寇患に苦しむ。
十一年、甘肅巡撫趙載等が言うには、「亦不剌は海上を占拠すること既に二十餘年、その党卜兒孩は独り心を傾けて教化に帰し、帖木哥等の属番を求めて来たり款を納れんとす。宜しく之に因りて撫し、或いは之に馬を納めしめ、或いは其の質を遣わさしめ、或いは官を授け印を与え、衛所を建立し、我が籓籬と為し、計を為すに便なり。」疏が甫く上るや、会に河套の酋吉囊が衆を引きて西掠し、亦不剌の営を大破し、其の部落の大半を収めて去り、惟だ卜兒孩一枝のみ衆を斂めて自保す。是れ由りて西寧も亦た休息を得、而して款を納るの議は竟に寢たり。及て唐龍が総制と為り、寇南掠して松潘す。龍は其の巣に回り諸番及び他部と勾結して患いを為すを慮り、奏して甘肅の守臣に行わしめ、兵を繕い粟を積み、殄滅の計と為さんとす。及て龍去り、事も亦た行はれず。
二十年正月、卜児孩は金牌と良馬を献じて和を求む。兵部言う、「寇果たして誠を輸し貢を通ぜば、誠に西陲の大利なり。乃ち止だ馬及び金牌を献ずるのみにして、往年の如く子を遣わして入侍せしめ、酋長を入朝せしむるの請い無し、未だ遽かに許すべからず。宜しく督撫臣に令して情実を偵察せしめ、並びに制馭の策を条して以て聞かしむべし」と。報じて可とす。会に寇の勢い漸く衰え、番人も亦た漸く業を復すに及び、其の議復た寝す。
二十四年に岷州を設置し、鞏昌府に隷属させた。岷州は西は辺境に臨み、番人と漢人が雑居していた。洪武の時、土番十六族を十六里に改め、衛を設置してこれを治め、少しばかりの徭役を供出させた。州を設置して以後、徴発が繁重となり、人々は日に日に困窮した。しかも番人は世襲の官職を恋しみ、流官はまた居住を好まず、遠く他所に治所を置いた。十数年を経て、督撫が連名で上疏して不便を言上したため、従前のように衛を設置した。
当時、北部の俺答は猖獗を極め、毎年宣府・大同の諸鎮を掠奪していた。また青海の富饒を羨み、三十八年に子の賓兔・丙兔らを率いて数万の衆を擁し、襲撃してその地を占拠した。卜児孩は逃走し、そこで諸番を掠奪し放題にした。やがて引き上げたが、賓兔を留めて松山を占拠させ、丙兔を青海に占拠させたので、西寧もその被害を受けた。隆慶年間、俺答は順義王に封ぜられ、貢物を謹んで献上したので、二人の子も行いを収めた。
先に、亦不剌が青海を占拠した時は、辺境の臣下はなお外寇と見なしていた。この時は俺答の縁故により、ついに属番と見なすようになった。諸酋長もまた父が王封を受けたため、大いに辺境の患いを起こすことを敢えず、しかし洮州の変乱が起こったのである。初め、洮州の番人は河州の奸民がその物資貨物の借りを返さないため、内陸に侵入して掠奪し、他の部族もまた機に乗じて乱を起こした。奸民がこれを河州参将の陳堂に告げると、堂は言った、「これは洮州の番人である。我が事と何の関わりがあろうか。」洮州参将の劉世英は言った、「彼らが河州を犯したのであって、我が失態ではない。」ここにおいて二人の将軍に不和が生じた。総督の石茂華がこれを聞き、二人および蘭州参将の徐勛・岷州守備の硃憲・旧洮州守備の史経にそれぞれ兵を率いてその境を圧し、利害を諭すよう命じた。番人は恐れ、直ちに掠奪した人畜を返還した。世英は首謀者が未だ捕らえられていないとして、急に止めることはできないと言い、そこで討ち破り、殺傷および焼死者は数えきれなかった。軍律では、銅角を吹いて退兵するものであった。堂は以前の遺恨を抱き、角の音を待たずに去り、諸部も多く引き上げた。憲と経はちょうど深く入り込んで捜索捕縛していたところ、隣接する番人がその勢いが孤立しているのを見て、包囲してこれを殺した。事が上聞されると、帝は激怒し、堂と世英の官職を剥奪し、茂華らを厳しく責めた。茂華はそこで諸軍を集めて分道進撃し、百四十余級を斬首し、焼死者九百余人、生け捕りの家畜数十群を獲得した。諸番は震え恐れて遠くに逃れ、降伏して来た者は七十一族、首謀者四人を斬って送り、生け捕りにして献上した者二人、馬牛羊二百六十頭を納めた。叩頭して罪を謝し、再び犯さないことを誓ったので、軍はようやく帰還した。
丙兔が青海を占拠して以来、切尽台吉という者がいた。河套の酋長吉能の甥、俺答の従孫である。これに従って西行した。たびたび番人を掠奪したが思うようにならず、俺答を招いて援助を求めた。俺答はもとより瓦剌を侵そうと望んでいたので、活仏を迎える名目を借りて、衆を擁して西行した。上疏して丙兔に都督を授け、金印を賜い、かつ茶市を開くことを請うた。部議は許可せず、ただ少しばかり茶を与えた。俺答は瓦剌に到着すると、戦いに敗れて帰還した。そこで甘粛の守臣に書簡を送り、烏斯蔵へ赴くための通路を借りることを乞うた。守臣は拒むことができず、ついに甘粛を越えて南下し、海上で諸酋長と会合した。番人はますます蹂躙され、多くは逃散した。八年春、ようやく活仏の言葉によって東還したが、切尽の弟の火落赤および俺答の庶兄の子の永邵卜はついに青海に留まり去らなかった。八月、丙兔が衆を率いて番人および内陸の人畜を掠奪したので、詔してその互市と賞賜を絶った。俺答がこれを聞き、急ぎ書簡を送って厳しく責めた。そこで掠奪したものをすべて返還し、悪事を働いた者六人を捕らえて献上し、自ら罰として牛羊七百頭を納めた。帝はその父の恭順を嘉し、銀幣を賜い、直ちにその牛羊を部族の者に与え、悪事を働いた者は彼らに自治を委ね、なお貢市を許可したので、俺答はますます恩徳に感じ入った。しかし火落赤は番族を侵掠してやまず、守臣が切尽台吉に檄を飛ばしてこれを拘束させると、これもまた罪を認めて服従した。俺答が卒すると、孫の扯力克に伝わり、勢力が弱く、諸酋長を制御できなかった。
十六年九月、永邵卜の部衆に西寧に無断で侵入する者がいた。副総兵の李奎はちょうど酒に酔っており、馬を躍らせて前進した。部衆は鞍を押さえて訴えようとしたが、奎は刀を抜いてこれを斬りつけたので、衆は奎を射て死なせた。部下の兵卒が駆けつけて救援したが、多くが死んだ。守臣は討伐できず、使者を遣わして詰問責めたてたが、ただ首謀者を献上し、人畜を返還しただけで止めた。この故に畏れるところがなく、ますます侵掠をほしいままにした。当時丙兔および切尽台吉もすでに死んでおり、丙兔の子の真相は莽剌川に移駐し、火落赤は捏工川に移駐して、西寧に迫り、日に日に番族を蚕食した。番人は支えきれず、ついに転じて寇賊に利用されるようになった。扯力克はまた西行してこれを助け、勢いはますます盛んになった。十八年六月、旧洮州に侵入し、副総兵の李聯芳が三千人を率いてこれを防いだが、全滅した。七月に再び深く侵入し、河州・臨洮・渭源を大いに掠奪した。総兵官の劉承嗣と游撃の孟孝臣がそれぞれ一軍を率いてこれを防いだが、ともに敗北し、游撃の李芳らがそこで戦死し、西陲は大いに震動した。事が上聞されると、尚書の鄭洛を出して経略させた。洛は以前宣大を督軍し、順義王および忠順夫人を懐柔する恩があった。使者を遣わして扯力克を促して東帰させ、一方で大いに番人を招撫する法令を布告し、来る者には手厚く遇したので、これより帰順する者が絶えなかった。火・真の二酋は自ら罪の重いことを知り、また河套の酋長卜失兔が来援すると聞き、水泉口で大敗し、扯力克がまた巣窟に帰還しようとしているのを知って、ようやく恐れた。幕舎を移して去り、その党の可卜兔らを莽剌川に残した。翌年、総兵官の尤継先がこれを撃破して敗走させた。洛はさらに進軍して青海に至り、仰華寺を焼き、その残党を駆逐して帰還した。番人で旧業に復する者は八万余人に及び、西陲はしばらく休息を得た。やがて、再び青海に集結した。
当時、陝西の患となったものに、三大寇があった。一つは河套、一つは松山、一つは青海である。青海は土地が最も肥沃で、かつ番人が遮蔽となっていたので、患はまだ甚だしくはなかった。崇禎十一年、李自成はたびたび官軍に撃破され、洮州から番地に逃れ出た。諸将が追撃を尽くすと、また塞内に奔り入り、番族も蹂躙された。十五年、西寧の番族が乱を起こし、総抹官馬爌が諸将を督して五道より進剿し、七百余の首級を斬り、三十八族を撫降して還った。明年の冬、李自成が将を遣わして甘州を陥落させたが、ただ西寧だけは落ちなかった。賊将辛思忠がこれを攻め破り、遂に進んで青海を掠めた。諸酋長の多くは降附し、明室もまた滅亡した。
番には生番と熟番の二種がある。生番は獷悍で制し難く、熟番は馬を納めて茶を受け取り、頗る柔順に服従していたが、後に次第に生番と通じて内地の患となった。青海が寇に占拠されて以来、番は剽奪に耐えられず、私的に皮幣を贈って手信と称し、歳時に加えて贈って添巴と称し、あるいは逆に嚮導となり、交通して忌憚がなかった。そして中国の市馬もまた稀にしか至らず、もはや外を捍ぎ内を衛る初めの意図を失っていたのである。
そもそも太祖が関中を平定するや、即ち漢の武帝が河西四郡を創設して羌・胡を隔絶した意図に倣い、甘粛に重鎮を建て、北は蒙古を拒ぎ、南は諸番を捍ぎ、相合することを得ざらしめた。また西寧等西衛の土官を遣わして漢官と参治させ、世守せしめた。かつ多く茶課司を置き、番人は馬をもって茶と易えることができた。そして部族の長もまた、その歳時の朝貢を許し、自ら天子に名号を通じることを許した。彼らの勢力は既に分かれ、また利に動かされ、悪を為すことを敢えてしなかった。仮に小規模な蠢動があっても、辺将が偏師をもってこれを制し、時を応じて平定しないことはなかった。辺臣が防備を失って以来、北寇が国境を越えて闌入し、番族と交通することを得て、西陲は遂に多事となった。しかしその時の患を究めると、終に寇にあって番にはなく、故に議者は太祖の制馭を善しとした。
安定衛
安定衛は、甘州の西南一千五百里に距る。漢代は婼羌、唐代は吐蕃の地であり、元代は宗室卜煙帖木児を寧王に封じてこれを鎮守させた。その地は本来撒里畏兀児と称し、広袤千里、東は罕東に近く、北は沙州に邇り、南は西番に接する。城郭なく、氈帳を以て廬舎とする。産物は多く駱駝・馬・牛・羊である。
九年、前広東参政鄭九成等をその地に使わし、王及びその部人に衣幣を賜った。明年、王が沙刺に弑せられ、王子板咱失里が復讐し、沙刺を誅した。沙刺の部将がまた王子を殺し、部内大乱となった。番将朶児只巴が叛いて沙漠に走り、安定を経て、大いに殺掠し、その印を奪って去り、その衆は益々衰えた。二十五年、藍玉が西征し、阿真川を巡行した。土酋司徒哈昝等は懼れ、山谷に逃匿して敢えて出でず。及び粛王が甘州に之国すると、僧を遣わして王に謁し、官を授けて部衆を安んずることを乞うた。王が奏請すると、帝はこれを許した。二十九年、行人陳誠をその地に至らせ、再び安定衛を立てた。その酋長哈孩虎都魯等五十八人悉く指揮・千百戸等の官を授けられた。誠が還ると、酋長はこれに随い入朝し、馬を貢いで恩を謝した。帝は厚くこれを賚い、また中官を命じて銀幣を持たせ往賜せしめた。
初め、安定王が殺害された時、その子撒児只失加がその兄に殺され、部衆は潰散し、子の亦攀丹は霊蔵に流寓した。十一年五月、衆を率いて入朝し、自ら家難を陳べ、職を授けられることを乞うた。帝はその祖が率先して帰附したことを思い、襲封して安定王とせしめ、印誥を賜った。ここより朝貢絶えず。
初め、大軍の賊を討つに当たり、安定指揮桑哥は罕東衛の軍と共に調に奉じて従征した。罕東は令に違いて至らず、その管轄する板納族が桑哥の軍の遠出を瞰て、その部内の廬帳畜産を尽く掠めた。事が聞こえ、勅を降して切責し、速やかに掠めたものを帰すべく命じ、命に違えば兵を発して進討すべしとした。已にして、桑哥を都指揮僉事に進めた。
阿端衛
阿端衛は、撒里畏兀児の地にあり、洪武八年に置かれた。後に朵児只巴に残破され、その衛はついに廃された。永楽四年冬、酋長小薛忽魯札らが来朝し、方物を貢ぎ、衛を復置し官を設けることを請うた。これに従い、すなわち小薛らを指揮僉事に授けた。
洪熙の時、曲先の酋長散即思が朝使を邀撃劫掠し、阿端の指揮鎖魯丹を脅して同行させた。やがて大軍出征すると、鎖魯丹は懼れ、部衆を率いて遠く竄し、その印を失った。宣徳初めに使者を遣わして招撫すると、鎖魯丹はなお帰ることを敢えず、曲先に依って雑処した。六年春、西寧都督史昭が言うには、「曲先衛の真只罕らはもと別の一部であり、その父が散即思を助けて逆を為したため、畢力術江に竄処している。その地は烏斯蔵への通路に当たり、再び乱を為す恐れがある。これを討つべし」と。帝は昭に勅して曰く、「残寇窮迫し、自ら容れる地なし。人を遣わしてその罪を宥し、故業に復せしむるべし」と。ここにおいて真只罕は率いる部衆を率いて帖児谷の旧地に還って居した。明年正月入朝し、天子喜び、指揮同知を授け、衛事を掌らせ、指揮僉事卜答兀を以てこれを副えしめた。真只罕は因って言うには、「阿端の故城は回回の境にあり、帖児谷よりなお一月の行程あり、朝貢艱難なり。本土に移ることを乞うて便なり」と。天子はその請いに従い、なお印を与え、璽書を賜ってこれを撫慰した。正統朝に至るまで、数たび入貢したが、後に行方が知れなかった。
その時、西域の地にもまた阿端と名乗るものあり、貢道は哈密より入り、これと両地をなすという。
曲先衛
曲先衛は、東は安定に接し、粛州の西南にあり。古は西戎、漢は西羌、唐は吐蕃、元は曲先答林元帥府を設けた。
洪武の時、酋長が入貢した。命じて曲先衛を設け、その人を官として指揮とした。後に朵児只巴の乱に遭い、部衆は竄亡し、安定衛に併入され、阿真の地に居した。永楽四年、安定の指揮哈三・散即思・三即らが奏すには、「安定・曲先はもと二衛なりしが、後に一つに合わさる。比来吐番の把禿に侵擾され、寧居を得ず。乞うらくはなお二つに分かち、先朝の旧制に復せしめよ」と。これに従った。すなわち三即を指揮使とし、衛事を掌らせ、散即思を以てこれを副えしめた。またその請いに従い、治所を薬王淮の地に徙した。ここより屡々入貢した。
洪熙の時、散即思が安定の部酋とともに朝使を劫殺した。やがて大軍往討すると、散即思は衆を率いて遠く遁れ、敢えて故土に還らなかった。宣徳初め、天子はその罪を赦し、都指揮陳通らを遣わして往き招撫し、復業する者四万二千余帳。ここにおいて指揮失刺罕らを遣わして入朝謝罪させ、駝馬を貢ぎ、初めの如くこれを持てなした。尋いで散即思を擢て都指揮同知とし、その僚属悉く官を進め、誥命を与えた。
五年六月、朝使が西域より還り、散即思が数たび部衆を率いて往来の貢使を邀撃劫掠し、道途を梗塞すと言う。天子怒り、都督史昭を大将とし、左右参将趙安・王彧及び中官王安・王瑾を率い、西寧諸衛の軍及び安定・罕東の衆を督して往きこれを征せしめた。昭らの兵その地に至ると、散即思は先に遁れ、その党の脱脱不花らが迎え敵した。諸将兵を縦してこれを撃ち、殺傷甚だ衆く、脱脱不花及び男女三百四十余人を生擒し、駝馬牛羊三十四万有余を獲た。ここより西番震慴した。散即思は平素より狡悍にして、天子はその罪を宥したが、なお悪を怙って悛めず。ここに至り人畜多く損失し、ここにおいて悔懼した。明年四月、その弟の副千戸堅都ら四人を遣わして馬を貢ぎ罪を請うた。再び初めの如くこれを持てなし、故地に還り居し併せてその俘虜を帰せしめた。
七年、その指揮那那罕が言うには、「往時安定の兵が曲先を討つに従い、臣が二女・四弟及び指揮桑哥らの家族で掠められたる者五百人。今散即思はすでに赦宥を蒙りたるに、臣らの親属はなお還らず。聖明の垂憐を望む」と。天子奏を得て惻然とし、大臣に語りて曰く、「朕常に用兵を戒とす。正に濫りて無辜に及ぶを恐るるなり。彼自ら言わざれば、何よりかこれを知らん」と。すなわち安定王亦攀丹らに勅して悉く掠めたる所を帰せしめた。その年、散即思が卒し、その子の都立に命じて職を嗣がせ、勅を賜ってこれを勉めた。十年、那那罕を擢て都指揮僉事とし、その僚属で職を進められたる者八十九人。正統七年、使者を遣わして玉石を貢いだ。成化の時、土魯番強盛にして、その侵掠を受けた。
弘治の中ごろ、安定王の子陝巴が曲先に居した。朝廷の議により哈密に主なく、迎えて忠順王とすべしとした。正徳七年、蒙古の酋長阿爾禿廝亦不剌が青海に竄居し、曲先はその蹂躪を受け、部族は竄徙し、その衛はついに亡んだ。
明初めに安定・阿端・曲先・罕東・赤斤・沙州諸衛を設け、これに金牌を与え、歳々馬を以て茶と易えしめ、これを差発と謂う。沙州・赤斤は粛州に隷し、余は悉く西寧に隷した。時に甘州の西南は尽く番族にして、辺臣の羈絡を受け、ただ北面して寇を防いだ。後諸衛尽く亡び、亦不剌は青海を拠り、土魯番はまた哈密を拠り、関外に逼処した。諸衛遷徙の衆また甘肅の肘腋に環列し、獷悍にして馴れ難し。ここにおいて河西は外に大寇を防ぎ、内に諸番を防ぎ、兵事日々に亟し。
赤斤蒙古衛
赤斤蒙古衛。嘉峪関を出で西行すること二十里を大草灘と曰い、また三十里を黒山児と曰い、また七十里を回回墓と曰い、墓より西四十里を騸馬城と曰い、並びに墩台を設け、暸卒を置く。城より西八十里すなわち赤斤蒙古なり。漢は燉煌郡の地、晋は晋昌郡に属し、唐は瓜州に属し、元もこれに同じく、沙州路に属す。
当時、瓦剌の兵力が強く、しばしば隣境を侵掠した。且旺失加は恐れ、粛州への移住を望んだ。天子はこれを聞き諭して止めさせ、危急の際には辺将に急報するよう命じた。八年、瓦剌の酋長也先が使いを遣わして馬及び酒を贈り、且旺失加の娘を子の嫁に娶り、沙州の困即来の娘を弟の嫁に娶ろうとした。二人は望まず、ともに朝命を奉じて、みだりに婚姻しないと上奏した。天子は瓦剌がちょうど強盛であるため、その礼意を退けることはできないと考え、それぞれその望みに従うよう諭し、またこの意を也先に諭したが、二人は終に望まなかった。翌年、且旺失加は老いて政務を執れないと称した。詔してその子阿速に都督僉事を授け、代わらせた。也先が再び使いを遣わして求婚し、かつ親族を遣わしてその幣物を受け取るよう請うた。阿速はその詐りを憂慮し、拒絶して従わず、人を遣わして良い土地への移住を乞うた。天子は土地を棄てることはできないと諭し、頭目を奨励・統率して自ら強くなることを図るよう命じた。またその飢困により、辺臣に粟を与えさせ、撫恤の措置は極めて手厚かった。
九年、トルファンがハミルを陥落させ、使い三人を遣わし、書簡をもって都督僉事昆藏を招き同叛しようとした。昆藏は従わず、その使いを殺し、その書簡を持って献上した。天子はこれを嘉し、使いを遣わして賞賜を与え、かつ兵を発して攻討するよう命じた。昆藏は力が足りないとして、官軍数千を派遣して援助するよう請うた。朝議は都督李文らに計画・検討を委ねた。やがて、李文らが進征すると、昆藏は果たして兵を率いて来会した。ちょうど李文らが軍を頓挫させて進まなかったため、その兵も帰還した。
十年、賞卜塔児が千騎を率いて粛州の境内に入り、阿年族の番人と仇殺しようとした。辺臣がすでに諭して退けた後、兵部が人を遣わして大義を責めさせ、怨みがあれば辺吏に訴え出て、みだりに侵掠してはならないと請うた。これに従った。十四年、その部人が賞卜塔児は幼く事に慣れていないと申し出、指揮僉事加定が衆心を得ているとして、一階級進めて衛の事務を総括させるよう乞うた。賞卜塔児も署名して推譲した。また罕東の酋長が重ねて言葉を合わせて奏挙し、かつ両衛の番人はこれによって安寧を得られると言った。帝はその言を容れ、加定を都指揮僉事に抜擢し、暫く印務を執掌させた。当時、トルファンはなおハミルを占拠していた。ハミルの都督罕慎が赤斤と結んで援軍とし、その城を回復したため、詔して褒賞した。
十九年、隣接する番族の野乜克力が侵攻し、大いに殺掠したため、赤斤はついに残破した。その酋長が辺臣に訴え、粟を与えられた。またその城を修繕させ、流移した者を復業させよと命じた。赤斤はこれより振るわなくなった。しかし弘治年間、阿木郎がハミルを破った際には、なおその兵を用いた。後に許進が西征した時も、兵を率いて援助した。正徳八年、トルファンが将を遣わしてハミルを占拠し、ついに大いに赤斤を掠奪し、その印を奪って去った。彭澤が経略するに及んで、初めて印が帰還した。やがて、番賊が粛州を侵犯し中国に難題をふっかけた。赤斤はその要衝に当たり、ますます蹂躙された。部衆は自ら生存できず、ことごとく粛州の南山に内徙し、その城はついに空となった。
嘉靖七年、総督王瓊が諸郡を撫安し、赤斤の衆が僅か千余人であることを確認した。そこで賞卜塔児の子鎖南束に都督を授け、その部帳を統轄させた。
沙州衛
沙州衛。赤斤蒙古より西へ二百里行くと苦峪という。苦峪より南へ折れて西へ百九十里行くと瓜州という。瓜州より西へ四百四十里行いて初めて沙州に至る。漢の燉煌郡西域の境で、玉門・陽関ともに相距ること遠からず。後魏になって初めて沙州を置き、唐はこれに因ったが、後に吐蕃に没した。宣宗の時、張義潮が州を率いて内附し、帰義軍を置き、節度使を授かった。宋では西夏に入り、元では沙州路となった。
九年、困即来卒す。長子喃哥がその弟克俄羅領占を率いて来朝す。喃哥に都督僉事を授け、その弟に都指揮使を授け、勅を賜い戒め諭す。既に還るや、その兄弟乖争し、部衆離反す。甘粛鎮将任礼らはその窮乏に乗じ、塞内に遷さんと欲す。而して喃哥もまた来たり言う、粛州の小缽和寺に居らんと欲すと。礼ら遂に十一年秋、都指揮毛哈剌らをして喃哥とともに先ず沙州に赴かしめ、その衆を撫諭せしめ、而して自ら兵を率いてその後に随う。到るに及んで、喃哥の意中変じ、陰に両端を持し、その部下多くは瓦剌に奔らんと欲す。礼ら進兵してこれを迫り、遂にその全部を収めて塞内に入れ、甘州に居らしむ。凡そ二百余戸、千二百三十余人、沙州は遂に空となる。帝、これを迫って来たるを以て、情測り難しとし、礼に熟計してその便を図らしむ。然れどもこれより内地に安居し、ついに後患無し。而して沙州は罕東酋班麻思結の所有となれり。ただ喃哥の弟鎖南奔のみは徙に従わず、竄入して瓦剌に至り、也先これに祁王を封ず。礼、偵知して彼が罕東に在るを、掩襲してこれを獲る。廷臣、正法を請う。帝、その父兄の恭順を思い、死を免じ、東昌に徙す。
先に、太宗は嘉峪関外に哈密・沙州・赤斤・罕東の四衛を置き、西陲を屏障せしむ。ここに至り、沙州は先ず廃され、而して諸衛もまた漸く自立できず、粛州は遂に多事となる。
罕東衛
罕東衛は、赤斤蒙古の南、嘉峪関の西南にあり、漢の燉煌郡の地なり。洪武二十五年、涼国公藍玉が逃亡の寇祁者孫を追って罕東の地に至る。その部衆多くは竄徙す。西寧三剌が書を以てこれを招く。遂に相継いで来帰す。三十年、酋鎖南吉剌思が使いを遣わし入貢す。詔して罕東衛を置き、指揮僉事を授く。
正統四年、罕東と安定が合衆して西番の申藏族を侵し、その馬牛雑畜を掠めて数万に及んだ。その僧が辺将に訴え、畜産が一空となり、歳ごとの差発馬を出すことができないと言った。帝は二衛を厳しく責め、その残忍暴横、国法に違背し、隣境を毒する罪を数え、掠めたものを悉く返還せしめた。また僧に諭し、旧制に限らず、所有に随って入貢せしめた。翌年の冬、綽児加が班麻思結と共に哈密を侵し、老幼百人、馬百匹、牛羊数え切れずを獲た。忠順王が使者を遣わしてこれを索もとめたが、与えなかった。帝はこれを聞き、また勅を賜って戒め諭した。しかし番人は剽掠を性とし、天子に言ありとも、悉く従うことはできなかった。六年の夏、綽児加が来て馬を貢ぎ、宴し賚を与えて還した。九年に卒し、子の賞卜児加が職を嗣ぎ、斎糧・茶布を乞うことを奏し、命じて悉くこれを与えた。十一年に都指揮使に進んだ。
時に土魯番は日々強く、数えきれず隣境を侵掠し、諸部は皆支えることができなかった。正徳の中、蒙古の大酋が青海に入り、罕東もまた蹂躙に遭い、その衆は益々衰えた。後に土魯番がまた哈密を陥落させ、直ちに肅州を犯した。罕東はまた残破し、相率いて内徙を求め、その城は遂に棄てて守らなかった。嘉靖の時、総督の王瓊が諸部を安輯し、罕東都指揮の枝丹部落を甘州に移した。
罕東左衛
罕東左衛は、沙州衛の故城にあり、憲宗の時に始めて建てられた。初め、罕東部の人奄章が種族と相能わず、数えきれず仇殺し、乃ちその衆を率いて逃れ沙州の境に居した。朝廷は即ちその耕牧を許し、歳ごとに肅州に馬を納めた。後に部落は日々蕃え、益々罕東の統属を受けなかった。その子の班麻思結に至り、洪熙の時に曲先を討つに従って功有り、賞はこれに及ばなかった。宣徳七年に自ら朝に陳べ、即ち罕東衛指揮使に命じ、勅を賜って賞賚した。然れどもなお沙州に居し、本衛に還らなかった。十年に都指揮使僉事に進んだ。
正統四年、沙州衛都督の困即来が班麻思結がその地を侵して居ることを以て、遣わして還すことを乞うた。天子はその言の如くし、勅を賜って宣諭したが、班麻思結は命に従わなかった。時に赤斤衛指揮の鎖合者が人を殺して遁れて沙州の地に入り、班麻思結がこれを納れた。鎖合者はまたその子をして烏斯藏に往き毒薬を取らせ、将に還って赤斤を攻めんとした。赤斤都督の且旺失加がこれを言上し、天子は即ち勅して班麻思結に諭し、隣を睦くし境を保ち、釁端を啓くことなからしめた。久しくして、沙州の全部悉く内徙し、思結は遂にその地を尽く有した。十四年、甘肅の鎮臣任礼等が奏す、班麻思結が潜かに瓦剌の也先と通好し、近くまた哈密と兵を搆う、宜しく本衛に還居せしむべしと。天子は再び勅を賜って宣諭したが、また命に従わなかった。尋いで秩を進めて都指揮使とした。景泰・天順朝を歴て、朝貢廃れず。
成化の中、班麻思結が卒し、孫の只克が職を嗣ぎ、部衆は益々盛んになった。その時、土魯番が強く、侵んで哈密を占拠した。只克はこれと境を接し、その己に逼るを患い、自ら一衛とならんと欲した。十五年九月、罕東・赤斤の例の如く、衛を立て印を賜い、西陲を捍禦することを奏請した。兵部言う、「近く土魯番が哈密を吞噬し、罕東諸衛は各々自ら保たず、西鄙これが為に寧かならず。而して赤斤・罕東・苦峪は又各々嫌隙を懐き、相救援せず。倘し沙州更に人統理する無くんば、勢い必ず強敵に併せられ、辺方愈々事多からん。宜しく請う所の如くし、即ち沙州故城に罕東左衛を置き、只克をして仍以て都指揮使として統治せしむべし」と。これに従った。二十一年、甘肅の守臣言う、「北寇屡々沙州を犯し、人畜を殺掠す。又た歳飢に値い、人流竄を思う。已に粟五百石を発し、布種せしめ、仍って人に月糧を与えて振恤すことを乞う。その酋の只克に斬級の功有り、亦た併せて叙すことを乞う」と。乃ち只克を擢て都督僉事とし、余は報可した。
弘治七年、指揮の王永言う、「先朝、哈密衛を建て、西域の要衝に当てたり。諸番の入貢ここに至れば、必ず少しく憩わしめて以て館谷し、或いは他寇の剽掠に遭えば、則ち人馬以て接護すべく、遠方を柔らぐるの道至れりと謂うべし。今、土魯番が窃かにその地を据え、久しくして退かず。聞く、罕東左衛は哈密の南に居り、僅かに三日の程、野乜克力は哈密の東北に居り、僅かに二日の程、是れ皆脣歯の地、利害これを共にす。去歳の秋、土魯番が人を只克の所に遣わし、脅して帰附せしむるも、只克は従わず。又た野乜克力の頭目を殺し、その部人は皆怨みを報いんと思う。宜しく二部を旌労し、力を併せて合攻せしめ、永くその患を除くべし、亦た寇を以て寇を攻むる一策なり」と。章を兵部に下すも、用いること能わず。十七年、瓦剌及び安定部の人大いに沙州の人畜を掠めた。只克は自ら存する能わず、嘉峪関を叩いて済いを求めた。天子は既に振給し、また二部に諭して仇を解き争を息め、兵を搗き釁を召すことなからしめた。
正徳四年、只克の部内の番族に隣境を劫掠する者あり、守臣将にこれを剿らんとす。兵部言う、「西戎強悍、漢・唐以来制す能わず。我が朝、哈密・赤斤・罕東諸衛を建て、官を授け勅を賜い、犬牙相制し、惟だ匈奴の右臂を断つのみならず、亦た以て西土の籓籬を壮んず。今、番人相攻む、我に何ぞ預らん、而して遽に兵せんと欲す。宜しく都督只克に勅し、諸族に曉諭し、過を悔い兵を息ますべし」と。報可した。
只克が卒し、子の乞台が嗣いだ。十一年、土魯番がまた哈密を占拠し、兵を以て乞台を脅して降附せしめ、遂に肅州を犯した。左衛は自立する能わず、相率いて肅州の塞内に徙った。守臣は拒むこと能わず、因ってこれを撫納した。
乞台が卒し、子の日羔が嗣いだ。十六年の秋に入朝し、賞賚を乞うた。礼官がその例を越え、且つ疏を投ずるに通政司によらず、館伴の者の罪を治むることを請うた。これに従った。
乞台が既に内徙すると、その部下の帖木哥・土巴の二人は依然として沙州に居住し、土魯番に服属して、毎年婦女・牛馬を輸送していた。折しも番酋の徴求が苛急であったため、二人は怨んだ。嘉靖七年夏、部族五千四百人を率いて来帰し、沙州は遂に土魯番の所有となった。
哈梅里