明史

列傳第二百十八 西域二 西番諸衛(西寧・河州・洮州・岷州等の番族諸衛) 安定衛 阿端衛 曲先衛 赤斤蒙古衛 沙州衛 罕東衛 罕東左衛 哈梅里

西番諸衛(西寧・河州・洮州・岷州等の番族諸衛)

西番とは、すなわち西羌であり、その族種は最も多く、陝西より四川、雲南の西の辺境外に至るまで皆これである。その河州、湟州、洮州、岷州の間に散在する者は、中国の患いとなること特に甚だしかった。漢の趙充国、張奐、段熲、唐の哥舒翰、宋の王韶の経営した所は、皆この地である。元は駙馬章古を寧濮郡王に封じ、西寧に鎮守させ、河州に吐番宣慰司を設置し、洮州、岷州、黎州、雅州の諸州をこれに隷属させ、番衆を統治した。

洪武二年、太祖が陝西を平定すると、直ちに官を遣わし詔を携えて招諭したが、その酋長らは皆様子を窺っていた。再び員外郎許允徳を派遣して招くと、多くは命を聴くようになった。翌三年五月、吐蕃宣慰使何鎖南普らは元から授かった金銀の牌印と宣勅を持って来朝し、ちょうど鄧愈が河州を攻略したので、軍前に赴いて降伏した。その鎮西武靖王卜納剌もまた吐蕃諸部を率いて帰順した。冬、何鎖南普らが入朝して馬及び方物を貢いだ。帝は喜び、襲衣を賜った。四年正月、河州衛を設置し、彼を指揮同知に命じ、世襲を許し、知院の朵児只、汪家奴を併せて指揮僉事とした。千戸所八、百戸所七を設置し、皆その酋長をこれに任じた。卜納剌らもまた京師に至り、靖南衛指揮同知とされ、その同輩の桑加朵児只は高昌衛指揮同知とされ、皆帯刀侍衛となった。ここに至り、番酋は日に日に来朝した。間もなく降人馬梅、汪瓦児を併せて河州衛指揮僉事とした。また西寧州同知李喃哥らを派遣してその酋長を招撫し、来朝した者も皆官を授けた。そこで西寧州を衛に改め、喃哥を指揮とした。

帝は西番が馬を産することを以て、彼らと互市を行い、馬が次第に多く来るようになった。しかし彼らの用いる貨幣は中国と異なり、鈔法を改めて以後、馬が来るものが少なくなり、これを憂いた。八年五月、宦官趙成に羅綺、綾絹及び巴茶を持たせて河州に赴かせて交易させると、馬が少し集まり、常にその価値を厚くして償った。成はまた徳意を宣諭し、番人は感激し喜び、相次いで宮闕に赴き謝恩した。山後の帰徳等州の西番諸部落も皆馬を持って来市した。

十二年、洮州の十八族の番酋三副使らが叛き、納麟七站の地を占拠した。征西将軍沐英らにこれを討たせ、また李文忠を派遣して軍事を籌謀させた。英らが洮州の旧城に至ると、賊は逃げ去り、その首魁数人を追撃して斬り、畜産をことごとく獲た。そこで東籠山の南川に地を測り城を築き戍兵を置き、使者を派遣して奏上した。帝は答えて曰く、「洮州は西番の門戸であり、城を築き戍守すれば、その咽喉を扼することになる」と。そこで洮州衛を設置し、指揮の聶緯、陳暉ら六人にこれを守らせた。後に、文忠らが官軍が洮州を守るのは、兵糧が困難で民が労する、と上言した。帝は勅を下してこれを諭して曰く、「洮州は西は番戎を制し、東は湟州、隴州を蔽い、漢、唐以来の辺備の要地である。今番寇は既に斥けられたが、これを棄てて守らなければ、数年後に番人は再び患いとなろう。小さな費用を慮って大きな憂いを忘れるのは、どうして良策といえようか。獲た牛羊は将士に分け与えれば、二年分の軍食を棄てるに足りる。勅の如くこれを行え」と。文忠らはこれに敢えて違わなかった。

秋、何鎖南普及び鎮撫劉温がそれぞれ家族を連れて来朝した。中書省の臣に諭して曰く、「何鎖南普は帰附以来、信義が甚だ堅い。以前に使者として烏斯蔵に遣わし、万里を遠く跋渉させ、帰還した時、その言うところは皆朕の意に適っていた。今家族を連れて来朝したので、礼遇を加えるべきである」と。そこで米、麦をそれぞれ三十石賜い、劉温にはその三分の一を賜った。

英らが番寇を進撃し、これを大破し、その首魁をことごとく擒え、数万人を俘斬し、馬牛羊数十万を獲た。ここに至り、群番は震え恐れ、寇と為すことを敢えてしなかった。

十六年、青海の酋長史剌巴ら七人が来帰し、文綺、宝鈔を賜った。この時岷州にも衛が設置され、番人は毎年馬を以て茶と交易し、馬は日に日に繁殖した。二十五年、また宦官而聶を河州に派遣し、必里の諸番族を召集し、勅を以てこれを諭した。争って馬を出して献じ、一万三百余匹を得、茶三十余万斤を与えた。馬を河南、山東、陝西の騎士に与えるよう命じた。帝は諸衛の将士に番人の馬を擅に索求する者がいることを以て、官に金、銅の信符と勅諭を持たせて派遣し、涼州、甘州、肅州、永昌、山丹、臨洮、鞏昌、西寧、洮州、河州、岷州の諸番族に賜った。これを諭して曰く、「かつて朝廷に需要があれば、必ず茶貨を以て酬い、私的な徴発は許さなかった。近頃聞くところでは、辺将に無状の者が多く、朝廷の命令と偽って擾害し、爾らをして安寧に居住することを得させない。今特に金、銅の信符を製して頒給する。徴発がある時は、必ず比対して相符して初めて行う。そうでなければ偽物であり、械して京師に至らせ、これを罪する」と。ここに至り、需要による索求は遂に絶えた。

初め、西寧の番僧三剌が書を為して罕東諸部を招降し、また碾白南川に仏刹を建て、その衆を居住させたが、この時に至り来朝して馬を貢ぎ、勅による護持を請い、寺額を賜うことを求めた。帝はその請いに従い、額を賜って瞿曇寺と曰う。西寧僧綱司を立て、三剌を都綱司とした。また河州に番、漢二つの僧綱司を立て、共に番僧をこれに任じ、符契を以て統制した。ここよりその徒は争って寺を建て、帝は常に嘉名を賜い、且つ勅を賜って護持した。番僧の来朝する者は日に日に多くなった。

永楽の時、諸衛の僧で戒行が精勤な者は、多く剌麻、禅師、灌頂国師の号を授けられ、大國師、西天佛子に加えられる者もあり、皆印誥を与え、その世襲を許し、且つ毎年一朝貢することを命じた。これにより諸僧及び諸衛の士官は京師に輻湊した。その他の族種、例えば西寧十三族、岷州十八族、洮州十八族の類は、大きいものは数千人、少ないものは数百人であっても、また毎年一回の奉貢を許し、宴賚を以て優遇した。西番の勢力は益々分散し、その力は益々弱まり、西陲の患いも益々少なくなった。

宣徳元年、安定、曲先討伐への協力の功により、国師吒思巴領占ら五人を大國師に加え、誥命、銀印を与え、秩は正四品とし、剌麻著星ら六人を禅師に加え、勅命、銀印を与え、秩は正六品とした。

正統五年、陝西鎮守都督ととく鄭銘及び都御史陳鎰に勅して曰く、「奏を得るに、河州の番民領占等は先に罪を避けて逃れ、結河裡に居住し、徒党を招集し、土田を占耕して籍に注さず賦を納めず、又逃亡を蔵匿し、行旅を剽劫し、兵を発して之を討たんと欲すと。朕は番性の頑梗なるを思い、且つ犯す所は赦前に在り、若し遽かに師旅を加うれば、恐らくは無辜に累及せん。宜しく人をして撫諭せしめ、徒党を散遣し、掠めたる牛羊を還し、兵は即ち進む勿れ、然らずば兵を加うるも未だ晩からず。爾等其れ之を審にせよ。」番人は果たして輸服す。七年、再び銘及び都御史王翱等に勅して曰く、「鎮守河州都指揮劉永の奏を得るに、往年阿爾官等六族三千余人、列営して帰徳城下に在り、声言して交易すと、後に乃ち屯軍を鈔掠し、大肆に焚戮す。而して著亦匝族の番人は屡々暖泉亭諸処に於て、潜かに寇盗を為す。指揮張瑀二人を擒獲すれども、止だ盗まれたる馬を償うを責め、之を縦ちて去らしむ。法を論ずれば、瑀及び永は皆当に究治すべし、今姑く罪を戴かしむ。爾等即ち官を遣わし、三司堂上と偕に親しく其の寨に詣り、利害を以て曉し、掠めたる所を還帰せしめ、其の自新を許し、悛まざれば則ち進討せよ。蓋し戎を馭するの道は、撫綏を先とし、撫して従わざれば、然る後に兵を用う。爾等宜しく此の意を体すべし。」番人も亦た輸服す。

成化三年、陝西副使鄭安言う、「進貢の番僧、烏斯藏より来る者は三の一に過ぎず、余は皆洮・岷の寺僧、名を詭りて冒貢す。羸馬一匹を進るれば、輒ち厚き直を得、賜わる所の幣帛を以て、戦袍を製し、以て官軍に拒ぐ。本は之を羈縻せんとし、而して益々寇掠を致す、是れ国帑を虚しくして盗糧を齎すなり」と。章を礼部に下し、廷臣を会して議し、陝西の文武諸臣に行い、貢期・人数及び存留・起送の額を計り定めて以て聞かんことを請う。報いて可とす。已にして奏上す、諸の烏斯藏より来る者は皆四川より入り、径に洮・岷に赴くことを得ず、遂に例と為す。明年の冬、洮州の番寇、衆を擁して鉄城・後川の二寨を掠め、指揮張翰等、兵を率いて之を御し、敗走せしめ、掠めし所の人口を獲て以て帰る。

五年、巡按の江孟綸が言うには、「岷州の番寇が縦横に跋扈し、村堡は空しき状態である。先頃、指揮の後泰に命じてその弟の通と共に反覆開示させたところ、生番の忍蔵・占蔵等三十余族の酋長百六十余人、熟番の栗林等二十四族の酋長九十一人が、互いに告げ語り、悔悟して来帰し、かつ掠められた人畜を還し、徭賦を供することを願った。牛を殺して天に告げ、再び犯さざることを誓った。既に副使の李圮に命じて便宜を以て賞労し、朝廷の恩威を宣示させたところ、皆歓躍して去った。ただ熟番の緑園一族のみが悪を恃んで服従しない」と。兵部が言うには、「番の性質は無常であり、朝に撫でられて夕に叛く、備えを弛めるべからず。辺臣に諭し、向化する者は意を加えて撫綏し、順を犯す者は期を克って剿滅すべきことを請う」と。帝はその言を納れた。

八年、礼官が言うには、「洮・岷の諸衛が各族の番人を京に送り届けること、多くは四千二百余人に至り、応に彩幣を賞すべきは人ごとに表裏二疋、帛もまたこれに同じく、鈔二十九万八千余り、馬の代価はなおその外にある。正統・天順の間を考うるに、各番の貢使は三五百人を過ぎず。成化の初め、洮・岷の諸処が熟番を以て生番に作し冒送したことに因り、既に例を定め、生番は三年に一貢し、大族は四五人、小族は一二人を京に赴かせ、余は悉く還遣す。成化六年、副使鄧本瑞が妄りに自ら招徠し、また復た冒送し、臣部は已に約束を重申す。今、副使吳圮等は武備を厳しく整えることができず、専ら番を通ずることを事とし、以て近患を紓う。乞う、勅を降して切に責め、務めて前の令に遵わしむべし。」帝もまたその言うところの如くにせり。

西寧は即ち古の湟中にして、其の西四百里に青海あり、又た西海と曰ひ、草豊かに美し。番人其の周りに居し、専ら畜牧に務め、日に日に繁滋し、素より楽土と号す。正徳四年、蒙古部の酋亦不刺・阿爾禿廝其の主に罪を得、衆を擁して西に奔る。青海の饒富なるを瞰知し、襲ひて之を据へ、大肆に焚掠す。番人其の地を失ひ、多く遠く徙る。其の留まる者は自ら存する能はず、反つて為に所役属せらる。是より甘肅・西寧始めて海寇の患あり。九年、総制彭澤諸道の軍を集め、将に其の巣を搗たんとす。寇詗ひて之を知り、河州より黄河を渡り、四川に奔り、松潘・茂州の境を出で、直ちに烏斯藏に走る。及び大軍引き還るに及びては、則ち仍ほ海上に返り、惟だ阿爾禿廝遁れ去る。

嘉靖二年、尚書金獻民が西征し、官を遣わして招撫し、藩臣たることを許し、先朝が安定・曲先等の諸衛を設けた故事の如くすべしと議す。兵部は総制楊一清に計度を行わせ、一清は征討を意とし、寇の精騎は二三千に過ぎず、余は皆脅従の番人なり、然れども之を怨み骨髄に入り、時に仇を報ぜんと欲す、間諜として用いるべく、大挙して剿絶すべしと言う。議未だ定まらず、王憲・王瓊相継いで来たり代わり、皆兵寡く餉詘くを以てし、議遂に行われず。

八年、洮・岷の諸番は数たび臨洮・鞏昌を犯し、内地は騒動す。枢臣李承勛言う、「番は海寇に侵され、日に内徙す。もし二寇交通せば、何を以て善後せん。昔、趙充国は戦わずして羌を服せしめ、段穎は羌百万を殺して内地虚耗す、両者相去ること遠し。先帝の明を広め、充国の任に専らせ、制置方略、悉く瓊の便宜に従事するを聴かんことを乞う」と。瓊乃ち衆議を集め、且つ剿ぎ且つ撫す。先ず総兵官劉文・游撃彭椷を遣わして士馬を分布せしむ。明年二月、固原より進みて洮・岷に至り、人を遣わして禍福を開示す。洮州東路木舎等三十一族、西路答禄失等十三族、岷州西寧溝等十五族、皆撫に聴き、白旂を給し犒賜して遣帰す。惟だ岷州東路若籠族・西路板爾等十五族及び岷州剌即等五族は、険を恃みて服せず。乃ち兵を分ちて先ず若籠・板爾の二族を攻め、其の巣を覆し、剌即諸族は震慴して降を乞う。凡そ首三百六十余級を斬り、七十余族を撫定し、乃ち師を班す。是より、洮・岷は寧を獲、而して西寧は仍ほ寇患に苦しむ。

十一年、甘肅巡撫趙載等が言うには、「亦不剌は海上を占拠すること既に二十餘年、その党卜兒孩は独り心を傾けて教化に帰し、帖木哥等の属番を求めて来たり款を納れんとす。宜しく之に因りて撫し、或いは之に馬を納めしめ、或いは其の質を遣わさしめ、或いは官を授け印を与え、衛所を建立し、我が籓籬と為し、計を為すに便なり。」疏が甫く上るや、会に河套の酋吉囊が衆を引きて西掠し、亦不剌の営を大破し、其の部落の大半を収めて去り、惟だ卜兒孩一枝のみ衆を斂めて自保す。是れ由りて西寧も亦た休息を得、而して款を納るの議は竟に寢たり。及て唐龍が総制と為り、寇南掠して松潘す。龍は其の巣に回り諸番及び他部と勾結して患いを為すを慮り、奏して甘肅の守臣に行わしめ、兵を繕い粟を積み、殄滅の計と為さんとす。及て龍去り、事も亦た行はれず。

二十年正月、卜児孩は金牌と良馬を献じて和を求む。兵部言う、「寇果たして誠を輸し貢を通ぜば、誠に西陲の大利なり。乃ち止だ馬及び金牌を献ずるのみにして、往年の如く子を遣わして入侍せしめ、酋長を入朝せしむるの請い無し、未だ遽かに許すべからず。宜しく督撫臣に令して情実を偵察せしめ、並びに制馭の策を条して以て聞かしむべし」と。報じて可とす。会に寇の勢い漸く衰え、番人も亦た漸く業を復すに及び、其の議復た寝す。

二十四年に岷州を設置し、鞏昌府に隷属させた。岷州は西は辺境に臨み、番人と漢人が雑居していた。洪武の時、土番十六族を十六里に改め、衛を設置してこれを治め、少しばかりの徭役を供出させた。州を設置して以後、徴発が繁重となり、人々は日に日に困窮した。しかも番人は世襲の官職を恋しみ、流官はまた居住を好まず、遠く他所に治所を置いた。十数年を経て、督撫が連名で上疏して不便を言上したため、従前のように衛を設置した。

当時、北部の俺答は猖獗を極め、毎年宣府・大同の諸鎮を掠奪していた。また青海の富饒を羨み、三十八年に子の賓兔・丙兔らを率いて数万の衆を擁し、襲撃してその地を占拠した。卜児孩は逃走し、そこで諸番を掠奪し放題にした。やがて引き上げたが、賓兔を留めて松山を占拠させ、丙兔を青海に占拠させたので、西寧もその被害を受けた。隆慶年間、俺答は順義王に封ぜられ、貢物を謹んで献上したので、二人の子も行いを収めた。

当時、烏斯蔵の僧侶に活仏と称する者がおり、諸部は多くその教えを奉じていた。丙兔はそこで焚修(仏教修行)を名目として、青海および嘉峪関外に寺院を建立することを請願し、永住の計画を立てた。廷臣の多くは許可すべからずと述べたが、礼官が言うには、「彼らはすでに木材を採り工事を起こしている。これを他所に改築せよと命じても、勢いとして不可能である。むしろこれに従って許可し、その善心を鼓舞して、関外建立の請願を防ぐのがよい。況や中国が戎狄を制御するのは、ただ辺関に備えがあることによる。戎狄の順逆も、一つの寺の遠近によるものではない。」帝はこれを許可した。丙兔は請願が認められると、さらに近隣の番人を脅迫し、松潘への通路を開かせて活仏を迎えようとした。四川の守臣は逼迫を恐れ、俺答に命じてその子を拘束し、隣境を擾乱させないよう乞うた。俺答は言うには、丙兔はただ甘肅が互市を許可せず、寧夏はまた道遠で困難なため、禁令があっても完全に制御できないのだと。宣大総督の方逢時も互市を開くのが便利であると述べた。帝はこれを以て陝西の督撫を責めたので、督撫は違うことができなかった。万暦二年冬、丙兔には甘肅での、賓兔には庄浪での互市を、年一回許可した。やがて寺院が完成すると、仰華の扁額を賜った。

先に、亦不剌が青海を占拠した時は、辺境の臣下はなお外寇と見なしていた。この時は俺答の縁故により、ついに属番と見なすようになった。諸酋長もまた父が王封を受けたため、大いに辺境の患いを起こすことを敢えず、しかし洮州の変乱が起こったのである。初め、洮州の番人は河州の奸民がその物資貨物の借りを返さないため、内陸に侵入して掠奪し、他の部族もまた機に乗じて乱を起こした。奸民がこれを河州参将の陳堂に告げると、堂は言った、「これは洮州の番人である。我が事と何の関わりがあろうか。」洮州参将の劉世英は言った、「彼らが河州を犯したのであって、我が失態ではない。」ここにおいて二人の将軍に不和が生じた。総督の石茂華がこれを聞き、二人および蘭州参将の徐勛・岷州守備の硃憲・旧洮州守備の史経にそれぞれ兵を率いてその境を圧し、利害を諭すよう命じた。番人は恐れ、直ちに掠奪した人畜を返還した。世英は首謀者が未だ捕らえられていないとして、急に止めることはできないと言い、そこで討ち破り、殺傷および焼死者は数えきれなかった。軍律では、銅角を吹いて退兵するものであった。堂は以前の遺恨を抱き、角の音を待たずに去り、諸部も多く引き上げた。憲と経はちょうど深く入り込んで捜索捕縛していたところ、隣接する番人がその勢いが孤立しているのを見て、包囲してこれを殺した。事が上聞されると、帝は激怒し、堂と世英の官職を剥奪し、茂華らを厳しく責めた。茂華はそこで諸軍を集めて分道進撃し、百四十余級を斬首し、焼死者九百余人、生け捕りの家畜数十群を獲得した。諸番は震え恐れて遠くに逃れ、降伏して来た者は七十一族、首謀者四人を斬って送り、生け捕りにして献上した者二人、馬牛羊二百六十頭を納めた。叩頭して罪を謝し、再び犯さないことを誓ったので、軍はようやく帰還した。

丙兔が青海を占拠して以来、切尽台吉という者がいた。河套の酋長吉能の甥、俺答の従孫である。これに従って西行した。たびたび番人を掠奪したが思うようにならず、俺答を招いて援助を求めた。俺答はもとより瓦剌を侵そうと望んでいたので、活仏を迎える名目を借りて、衆を擁して西行した。上疏して丙兔に都督を授け、金印を賜い、かつ茶市を開くことを請うた。部議は許可せず、ただ少しばかり茶を与えた。俺答は瓦剌に到着すると、戦いに敗れて帰還した。そこで甘粛の守臣に書簡を送り、烏斯蔵へ赴くための通路を借りることを乞うた。守臣は拒むことができず、ついに甘粛を越えて南下し、海上で諸酋長と会合した。番人はますます蹂躙され、多くは逃散した。八年春、ようやく活仏の言葉によって東還したが、切尽の弟の火落赤および俺答の庶兄の子の永邵卜はついに青海に留まり去らなかった。八月、丙兔が衆を率いて番人および内陸の人畜を掠奪したので、詔してその互市と賞賜を絶った。俺答がこれを聞き、急ぎ書簡を送って厳しく責めた。そこで掠奪したものをすべて返還し、悪事を働いた者六人を捕らえて献上し、自ら罰として牛羊七百頭を納めた。帝はその父の恭順を嘉し、銀幣を賜い、直ちにその牛羊を部族の者に与え、悪事を働いた者は彼らに自治を委ね、なお貢市を許可したので、俺答はますます恩徳に感じ入った。しかし火落赤は番族を侵掠してやまず、守臣が切尽台吉に檄を飛ばしてこれを拘束させると、これもまた罪を認めて服従した。俺答が卒すると、孫の扯力克に伝わり、勢力が弱く、諸酋長を制御できなかった。

十六年九月、永邵卜の部衆に西寧に無断で侵入する者がいた。副総兵の李奎はちょうど酒に酔っており、馬を躍らせて前進した。部衆は鞍を押さえて訴えようとしたが、奎は刀を抜いてこれを斬りつけたので、衆は奎を射て死なせた。部下の兵卒が駆けつけて救援したが、多くが死んだ。守臣は討伐できず、使者を遣わして詰問責めたてたが、ただ首謀者を献上し、人畜を返還しただけで止めた。この故に畏れるところがなく、ますます侵掠をほしいままにした。当時丙兔および切尽台吉もすでに死んでおり、丙兔の子の真相は莽剌川に移駐し、火落赤は捏工川に移駐して、西寧に迫り、日に日に番族を蚕食した。番人は支えきれず、ついに転じて寇賊に利用されるようになった。扯力克はまた西行してこれを助け、勢いはますます盛んになった。十八年六月、旧洮州に侵入し、副総兵の李聯芳が三千人を率いてこれを防いだが、全滅した。七月に再び深く侵入し、河州・臨洮・渭源を大いに掠奪した。総兵官の劉承嗣と游撃の孟孝臣がそれぞれ一軍を率いてこれを防いだが、ともに敗北し、游撃の李芳らがそこで戦死し、西陲は大いに震動した。事が上聞されると、尚書の鄭洛を出して経略させた。洛は以前宣大を督軍し、順義王および忠順夫人を懐柔する恩があった。使者を遣わして扯力克を促して東帰させ、一方で大いに番人を招撫する法令を布告し、来る者には手厚く遇したので、これより帰順する者が絶えなかった。火・真の二酋は自ら罪の重いことを知り、また河套の酋長卜失兔が来援すると聞き、水泉口で大敗し、扯力克がまた巣窟に帰還しようとしているのを知って、ようやく恐れた。幕舎を移して去り、その党の可卜兔らを莽剌川に残した。翌年、総兵官の尤継先がこれを撃破して敗走させた。洛はさらに進軍して青海に至り、仰華寺を焼き、その残党を駆逐して帰還した。番人で旧業に復する者は八万余人に及び、西陲はしばらく休息を得た。やがて、再び青海に集結した。

二十三年に臨洮総兵官を増設し、劉綎をこれに任じた。間もなく、永邵卜の諸部が南川を侵犯したが、参将の達雲がこれを大破した。やがて、火・真の二酋と連合して西川を侵犯したが、雲がまたこれを撃破した。翌年、諸酋は再び番族を掠奪し、内陸を窺おうとした。綎の部将の周国柱が莽剌川でこれを防ぎ、また大破した。二十七年、叛いた苗人と結託して洮州・岷州を侵犯したが、総兵官の蕭如薰らがこれを破り、番人二百五十余級、寇賊八十二級を斬首し、降伏を懐柔した番族五千余人を撫でた。三十四年に再び鎮番の黒古城に侵入したが、総兵官の柴国柱に敗れた。これよりたびたび侵入して掠奪したが、大いに志を得ることはできなかった。

当時、陝西の患となったものに、三大寇があった。一つは河套、一つは松山、一つは青海である。青海は土地が最も肥沃で、かつ番人が遮蔽となっていたので、患はまだ甚だしくはなかった。崇禎十一年、李自成はたびたび官軍に撃破され、洮州から番地に逃れ出た。諸将が追撃を尽くすと、また塞内に奔り入り、番族も蹂躙された。十五年、西寧の番族が乱を起こし、総抹官馬爌が諸将を督して五道より進剿し、七百余の首級を斬り、三十八族を撫降して還った。明年の冬、李自成が将を遣わして甘州を陥落させたが、ただ西寧だけは落ちなかった。賊将辛思忠がこれを攻め破り、遂に進んで青海を掠めた。諸酋長の多くは降附し、明室もまた滅亡した。

番には生番と熟番の二種がある。生番は獷悍で制し難く、熟番は馬を納めて茶を受け取り、頗る柔順に服従していたが、後に次第に生番と通じて内地の患となった。青海が寇に占拠されて以来、番は剽奪に耐えられず、私的に皮幣を贈って手信と称し、歳時に加えて贈って添巴と称し、あるいは逆に嚮導となり、交通して忌憚がなかった。そして中国の市馬もまた稀にしか至らず、もはや外を捍ぎ内を衛る初めの意図を失っていたのである。

そもそも太祖が関中を平定するや、即ち漢の武帝が河西四郡を創設して羌・胡を隔絶した意図に倣い、甘粛に重鎮を建て、北は蒙古を拒ぎ、南は諸番を捍ぎ、相合することを得ざらしめた。また西寧等西衛の土官を遣わして漢官と参治させ、世守せしめた。かつ多く茶課司を置き、番人は馬をもって茶と易えることができた。そして部族の長もまた、その歳時の朝貢を許し、自ら天子に名号を通じることを許した。彼らの勢力は既に分かれ、また利に動かされ、悪を為すことを敢えてしなかった。仮に小規模な蠢動があっても、辺将が偏師をもってこれを制し、時を応じて平定しないことはなかった。辺臣が防備を失って以来、北寇が国境を越えて闌入し、番族と交通することを得て、西陲は遂に多事となった。しかしその時の患を究めると、終に寇にあって番にはなく、故に議者は太祖の制馭を善しとした。

安定衛

安定衛は、甘州の西南一千五百里に距る。漢代は婼羌、唐代は吐蕃の地であり、元代は宗室卜煙帖木児を寧王に封じてこれを鎮守させた。その地は本来撒里畏兀児と称し、広袤千里、東は罕東に近く、北は沙州に邇り、南は西番に接する。城郭なく、氈帳を以て廬舎とする。産物は多く駱駝・馬・牛・羊である。

洪武三年、使者を遣わして詔を持ち招諭した。七年六月、卜煙帖木児がその府尉麻答児等をして来朝せしめ、鎧甲刀剣諸物を貢いだ。太祖は喜び、その使者を宴賚し、官を遣わしてその王を厚く賚い、その地を阿端・阿真・苦先・貼里の四部に分け、各々印を賜った。明年正月、その王が傅卜顔不花を遣わして来貢し、元朝より授かった金・銀字の牌を上納し、安定・阿端の二衛を置くことを請うた。これに従った。乃ち卜煙帖木児を安定王に封じ、その部人沙刺等を指揮とした。

九年、前広東参政鄭九成等をその地に使わし、王及びその部人に衣幣を賜った。明年、王が沙刺にしいせられ、王子板咱失里が復讐し、沙刺を誅した。沙刺の部将がまた王子を殺し、部内大乱となった。番将朶児只巴が叛いて沙漠に走り、安定を経て、大いに殺掠し、その印を奪って去り、その衆は益々衰えた。二十五年、藍玉が西征し、阿真川を巡行した。土酋司徒しと哈昝等は懼れ、山谷に逃匿して敢えて出でず。及び粛王が甘州に之国すると、僧を遣わして王に謁し、官を授けて部衆を安んずることを乞うた。王が奏請すると、帝はこれを許した。二十九年、行人陳誠をその地に至らせ、再び安定衛を立てた。その酋長哈孩虎都魯等五十八人悉く指揮・千百戸等の官を授けられた。誠が還ると、酋長はこれに随い入朝し、馬を貢いで恩を謝した。帝は厚くこれを賚い、また中官を命じて銀幣を持たせ往賜せしめた。

永楽元年、官を遣わして勅を齎し撒里諸部を撫諭した。明年、安定の頭目多く来朝し、千戸三即等三人を指揮僉事に擢げ、その余は官を差等に授け、併せて本衛指揮同知哈三等に銀幣を賜った。未だ幾ばくもなく、指揮朶児只束が来朝し、差発馬五百匹を納めんことを願うた。河州衛指揮康寿を命じて往きこれを受けしめた。寿が言うには、「罕東・必里諸衛が馬を納める時、その価は皆河州の軍民が茶を運んでこれに与える。今安定は遼遠で、茶を運ぶは甚だ難く、布帛を与えんことを乞う」と。帝曰く、「諸番が馬を市うに茶を用いるは、既に例として著されている。今姑くその請いに従い、後は仍お茶を与えよ」と。ここに於いて定制とし、上馬には布帛各二匹を与え、以下は逓減した。三年、哈三等が使者を遣わして来貢し、頭目撤力加蔵卜等を挙げて指揮等の官とすることを奏し、且つ歳に孳畜の什一を納めんことを請うた。併せてこれに従った。四年、苦児丁の地に駐在を移した。

初め、安定王が殺害された時、その子撒児只失加がその兄に殺され、部衆は潰散し、子の亦攀丹は霊蔵に流寓した。十一年五月、衆を率いて入朝し、自ら家難を陳べ、職を授けられることを乞うた。帝はその祖が率先して帰附したことを思い、襲封して安定王とせしめ、印誥を賜った。ここより朝貢絶えず。

二十二年、中官喬来喜・鄧誠が烏斯蔵に使いし、畢力術江黄羊川に次いだ。安定指揮哈三の孫散哥及び曲先指揮散即思等が衆を率いて邀撃し、朝使を殺し、駱駝・馬・幣物を尽く奪って去った。仁宗は大いに怒り、都指揮李英に康寿等を偕わせてこれを討たしめた。英等は西寧諸衛の軍及び隆奔国師賈失児監蔵等十二番族の衆を率い、深く入って賊を追い、賊は遠く遁れた。英等は崑崙山を逾え西に数百里行き、雅令闊の地に抵り、安定の賊に遇い、これを撃破し、四百八十余級を斬首し、七十余人を生擒し、駱駝・馬・牛十四万余を獲た。曲先は風聞して遠く竄き、これを追うも及ばずして還った。英はこれにより会寧伯に封ぜられ、寿等は皆進秩した。大軍既に還ると、指揮哈三等は罪を懼れ、敢えて故地に還らなかった。

宣徳元年、帝は官を遣わしてこれを招諭し、復業する者七百余人あり。帝は併せて彩幣表裏を賜い、その反側を安んじた。三年春、安定及び曲先衛の指揮等官五十三人に誥命を賜った。

初め、大軍の賊を討つに当たり、安定指揮桑哥は罕東衛の軍と共に調に奉じて従征した。罕東は令に違いて至らず、その管轄する板納族が桑哥の軍の遠出を瞰て、その部内の廬帳畜産を尽く掠めた。事が聞こえ、勅を降して切責し、速やかに掠めたものを帰すべく命じ、命に違えば兵を発して進討すべしとした。已にして、桑哥を都指揮僉事に進めた。

正統元年、官を遣わして勅を齎し安定王及び桑哥に諭して曰く、「我が祖宗の時、爾等は天命に順い、朝廷を尊び、誠を輸して力を効し、始終替わらず、朝廷の恩賚もまた久しくして渝らざりき。肆に朕が位を嗣ぐに及び、爾等は復た朝命に遵い、部下を約束し、良く爾を嘉するに用いる。茲に特に関を遣わして往き朕が意を諭し、幣帛を以て賜う。宜しく益々天心に順い、忠誠を篤くし、境を保ち隣を睦まし、永く太平の福を享くべし」と。三年、桑哥卒し、その子那南奔が職を嗣いだ。九年、那南奔が衆を率いて曲先の人畜を掠めた。朝廷は官を遣わしてこれを還すよう諭したが、命に奉ぜず、反ってその行李を劫った。帝は怒り、勅して安定王に責め追理せしめた。王は既に命を奉じ、また陳詞して憐みを乞うた。帝は乃ちこれを宥し、国を保ち隣を睦ますの義を諭した。十一年冬、亦攀丹卒し、子の領占幹些児が襲封した。時に王は年幼く、叔父の指揮同知輟思泰巴が国事を佐理したが、その同輩多く相下らなかった。王はこれを入朝せしめ、量りに一秩を加えんことを奏請した。乃ち都指揮僉事に擢げた。景泰・天順・成化の三朝を歴て、頻りに入貢した。

弘治三年、領占幹些兒が卒し、子の千奔が襲封した。斎糧・麻布を賜い、その父を諭祭した。先に、哈密の忠順王が卒し、子がなかった。朝廷の議により安定王はこれと同祖であるから、官を遣わして一人を選びその後継とすべしとしたが、安定王は許さなかった。この時、安定において陝巴を訪ね求め、忠順王に冊封し、千奔に命じてその家属を送らせた。千奔は怒って言うには、「陝巴は王爵を嗣ぐべきではなく、爵位は綽爾加に帰すべきである」と。綽爾加とは、千奔の弟である。かつ厚賞を要求した。兵部が言うには、「陝巴は実に忠順王の孫であり、平素より国人に服せられている。以前哈密に主なく、使者を遣わして立つべき者を取ろうとした時、綽爾加は自ら力弱きを知って往くことを肯んじなかった。今事定まった後に、かくも反覆するのは、その言うところ従うべからず」と。陝巴はついに立つことができた。しかし千奔は立つことが己の意に非ざるを以て、後哈密が数たび寇に侵されても、ついに応援しなかった。十七年、衆を率いて沙州を侵し、大いに掠めて去った。正徳の時、蒙古の大酋亦不剌・阿爾禿廝が青海を侵して拠り、隣境を縦掠した。安定はついに残破し、部衆は散亡した。

阿端衛

阿端衛は、撒里畏兀児の地にあり、洪武八年に置かれた。後に朵児只巴に残破され、その衛はついに廃された。永楽四年冬、酋長小薛忽魯札らが来朝し、方物を貢ぎ、衛を復置し官を設けることを請うた。これに従い、すなわち小薛らを指揮僉事に授けた。

洪熙の時、曲先の酋長散即思が朝使を邀撃劫掠し、阿端の指揮鎖魯丹を脅して同行させた。やがて大軍出征すると、鎖魯丹は懼れ、部衆を率いて遠く竄し、その印を失った。宣徳初めに使者を遣わして招撫すると、鎖魯丹はなお帰ることを敢えず、曲先に依って雑処した。六年春、西寧都督史昭が言うには、「曲先衛の真只罕らはもと別の一部であり、その父が散即思を助けて逆を為したため、畢力術江に竄処している。その地は烏斯蔵への通路に当たり、再び乱を為す恐れがある。これを討つべし」と。帝は昭に勅して曰く、「残寇窮迫し、自ら容れる地なし。人を遣わしてその罪を宥し、故業に復せしむるべし」と。ここにおいて真只罕は率いる部衆を率いて帖児谷の旧地に還って居した。明年正月入朝し、天子喜び、指揮同知を授け、衛事を掌らせ、指揮僉事卜答兀を以てこれを副えしめた。真只罕は因って言うには、「阿端の故城は回回の境にあり、帖児谷よりなお一月の行程あり、朝貢艱難なり。本土に移ることを乞うて便なり」と。天子はその請いに従い、なお印を与え、璽書を賜ってこれを撫慰した。正統朝に至るまで、数たび入貢したが、後に行方が知れなかった。

その時、西域の地にもまた阿端と名乗るものあり、貢道は哈密より入り、これと両地をなすという。

曲先衛

曲先衛は、東は安定に接し、粛州の西南にあり。古は西戎、漢は西羌、唐は吐蕃、元は曲先答林元帥府を設けた。

洪武の時、酋長が入貢した。命じて曲先衛を設け、その人を官として指揮とした。後に朵児只巴の乱に遭い、部衆は竄亡し、安定衛に併入され、阿真の地に居した。永楽四年、安定の指揮哈三・散即思・三即らが奏すには、「安定・曲先はもと二衛なりしが、後に一つに合わさる。比来吐番の把禿に侵擾され、寧居を得ず。乞うらくはなお二つに分かち、先朝の旧制に復せしめよ」と。これに従った。すなわち三即を指揮使とし、衛事を掌らせ、散即思を以てこれを副えしめた。またその請いに従い、治所を薬王淮の地に徙した。ここより屡々入貢した。

洪熙の時、散即思が安定の部酋とともに朝使を劫殺した。やがて大軍往討すると、散即思は衆を率いて遠く遁れ、敢えて故土に還らなかった。宣徳初め、天子はその罪を赦し、都指揮陳通らを遣わして往き招撫し、復業する者四万二千余帳。ここにおいて指揮失刺罕らを遣わして入朝謝罪させ、駝馬を貢ぎ、初めの如くこれを持てなした。尋いで散即思を擢て都指揮同知とし、その僚属悉く官を進め、誥命を与えた。

五年六月、朝使が西域より還り、散即思が数たび部衆を率いて往来の貢使を邀撃劫掠し、道途を梗塞すと言う。天子怒り、都督史昭を大将とし、左右参将趙安・王彧及び中官王安・王瑾を率い、西寧諸衛の軍及び安定・罕東の衆を督して往きこれを征せしめた。昭らの兵その地に至ると、散即思は先に遁れ、その党の脱脱不花らが迎え敵した。諸将兵を縦してこれを撃ち、殺傷甚だ衆く、脱脱不花及び男女三百四十余人を生擒し、駝馬牛羊三十四万有余を獲た。ここより西番震慴した。散即思は平素より狡悍にして、天子はその罪を宥したが、なお悪を怙って悛めず。ここに至り人畜多く損失し、ここにおいて悔懼した。明年四月、その弟の副千戸堅都ら四人を遣わして馬を貢ぎ罪を請うた。再び初めの如くこれを持てなし、故地に還り居し併せてその俘虜を帰せしめた。

七年、その指揮那那罕が言うには、「往時安定の兵が曲先を討つに従い、臣が二女・四弟及び指揮桑哥らの家族で掠められたる者五百人。今散即思はすでに赦宥を蒙りたるに、臣らの親属はなお還らず。聖明の垂憐を望む」と。天子奏を得て惻然とし、大臣に語りて曰く、「朕常に用兵を戒とす。正に濫りて無辜に及ぶを恐るるなり。彼自ら言わざれば、何よりかこれを知らん」と。すなわち安定王亦攀丹らに勅して悉く掠めたる所を帰せしめた。その年、散即思が卒し、その子の都立に命じて職を嗣がせ、勅を賜ってこれを勉めた。十年、那那罕を擢て都指揮僉事とし、その僚属で職を進められたる者八十九人。正統七年、使者を遣わして玉石を貢いだ。成化の時、土魯番強盛にして、その侵掠を受けた。

弘治の中ごろ、安定王の子陝巴が曲先に居した。朝廷の議により哈密に主なく、迎えて忠順王とすべしとした。正徳七年、蒙古の酋長阿爾禿廝亦不剌が青海に竄居し、曲先はその蹂躪を受け、部族は竄徙し、その衛はついに亡んだ。

明初めに安定・阿端・曲先・罕東・赤斤・沙州諸衛を設け、これに金牌を与え、歳々馬を以て茶と易えしめ、これを差発と謂う。沙州・赤斤は粛州に隷し、余は悉く西寧に隷した。時に甘州の西南は尽く番族にして、辺臣の羈絡を受け、ただ北面して寇を防いだ。後諸衛尽く亡び、亦不剌は青海を拠り、土魯番はまた哈密を拠り、関外に逼処した。諸衛遷徙の衆また甘肅の肘腋に環列し、獷悍にして馴れ難し。ここにおいて河西は外に大寇を防ぎ、内に諸番を防ぎ、兵事日々に亟し。

赤斤蒙古衛

赤斤蒙古衛。嘉峪関を出で西行すること二十里を大草灘と曰い、また三十里を黒山児と曰い、また七十里を回回墓と曰い、墓より西四十里を騸馬城と曰い、並びに墩台を設け、暸卒を置く。城より西八十里すなわち赤斤蒙古なり。漢は燉煌郡の地、晋は晋昌郡に属し、唐は瓜州に属し、元もこれに同じく、沙州路に属す。

洪武十三年、都督濮英が西征し、白城に駐屯し、蒙古の平章忽都帖木児を捕らえた。進んで赤斤站に至り、豳王亦憐真及びその部曲千四百人、金印一つを捕らえた。軍が帰還すると、再び蒙古部人によって占拠された。

永楽二年九月、塔力尼という者が、自ら丞相苦術の子と称した。配下の男女五百余人を率い、哈剌脱の地より来帰した。詔して赤斤蒙古所を設置し、塔力尼を千戸とし、誥印・彩幣・襲衣を賜った。八年、回回の哈剌馬牙が粛州で叛き、塔力尼と連携を約した。塔力尼は拒絶して応じず、部下を率いて賊六人を捕らえて献上した。天子これを聞いて喜び、詔して千戸所を衛に改め、塔力尼を指揮僉事に抜擢し、その部下で官職を授かった者は三人であった。翌年、使いを遣わして馬を貢いだ。さらに翌年、叛賊の老的罕を匿ったとして、討伐しようとした。侍講楊榮の意見を用い、兵を進めず、勅書を賜って詰責したところ、塔力尼はただちに老的罕を捕らえて献上した。天子はこれを嘉し、官位を指揮同知に進め、賞賜は甚だ厚かった。久しくして卒去し、子の且旺失加が襲封し、定めに従って貢ぎ物を修め、指揮使に進んだ。宣徳二年、さらに都指揮同知に進み、その僚属も多く官位を進めた。

正統元年、その部下の指揮可児即が西域の阿端の貢物を掠奪し、使臣二十一人を殺害した。勅書を賜って厳しく責め、掠奪したものを返還させた。まもなく蒙古の脱歓帖木児・猛哥不花と戦い、これに勝ち、使いを遣わして勝利を献上し、都指揮使に進んだ。五年、ハミル往来の朝廷の使者に対し、且旺失加が食糧・騾馬を準備して護送したため、都督僉事に抜擢された。翌年、天子はその部下がしばしば沙州へ寇掠に行き、あるいは沙州の名をかたって西域の貢使を邀撃していると聞き、勅書を遣わして厳しく責めた。

当時、瓦剌の兵力が強く、しばしば隣境を侵掠した。且旺失加は恐れ、粛州への移住を望んだ。天子はこれを聞き諭して止めさせ、危急の際には辺将に急報するよう命じた。八年、瓦剌の酋長也先が使いを遣わして馬及び酒を贈り、且旺失加の娘を子の嫁に娶り、沙州の困即来の娘を弟の嫁に娶ろうとした。二人は望まず、ともに朝命を奉じて、みだりに婚姻しないと上奏した。天子は瓦剌がちょうど強盛であるため、その礼意を退けることはできないと考え、それぞれその望みに従うよう諭し、またこの意を也先に諭したが、二人は終に望まなかった。翌年、且旺失加は老いて政務を執れないと称した。詔してその子阿速に都督僉事を授け、代わらせた。也先が再び使いを遣わして求婚し、かつ親族を遣わしてその幣物を受け取るよう請うた。阿速はその詐りを憂慮し、拒絶して従わず、人を遣わして良い土地への移住を乞うた。天子は土地を棄てることはできないと諭し、頭目を奨励・統率して自ら強くなることを図るよう命じた。またその飢困により、辺臣に粟を与えさせ、撫恤の措置は極めて手厚かった。

先に、苦術が西番の女を娶り、塔力尼を生んだ。また蒙古の女を娶り、都指揮の瑣合者・革古者の二人を生んだ。それぞれ配下の部衆を三つに分け、西番人は左帳に住まわせて塔力尼に属させ、蒙古人は右帳に住まわせて瑣合者に属させ、自らは中帳を統領した。後に苦術が卒去すると、諸子が来帰し、ともに官職を授かった。この時、阿速の勢力が盛んとなり、右帳を併呑しようとし、しばしば仇殺し合った。瑣合者は支えきれず、辺将に訴え、配下の部衆を内属させたいと願った。辺将の任礼が京師へ派遣し、兵を発してその部落を収容するよう請うた。帝はその部人が内徙を望まないことを慮り、なお瑣合者を甘粛に帰還させ、任礼にその妻子を迎え取らせた。十三年、辺将がハミルの使臣を苦峪まで護送した。赤斤の都指揮総児加陸らが衆を率いてその城を包囲し、怨みに報いると声言した。官軍が出撃してこれを破り、総児加陸を捕らえたが、やがて逃げ去った。事が聞こえ、勅書で阿速を責め、犯した者を縛って献上するよう命じた。

景泰二年、也先が再び使いを遣わして書簡を持たせ求婚した。ちょうど阿速が他出しており、その僚属がその書簡を持って上奏した。兵部尚書于謙が言うには、「赤斤諸衛は久しく我が藩籬となっており、也先が故なく招降・結親するのは、我が屏蔽を撤かんとする意図である。辺臣に兵を整え慎んで防がせ、また阿速に全力で防禦させ、危急の際には急報し、兵を発して応援すべきである」と。これに従った。五年、也先はますます併呑を図り、使いを遣わして印綬を阿速に授け、臣服するよう脅迫した。阿速は従わず、辺臣に報告した。ちょうど也先が殺害され、事は収まった。

天順元年、都指揮馬雲が西域に使いし、阿速に彩幣を賜って往還を護送させるよう命じた。まもなく官位を左都督に進めた。成化二年に卒去し、子の瓦撒塔児が襲封を請うたので、直ちに父の官職を授けた。その部下の指揮敢班がしばしば辺境を侵盗したため、辺将が誘致して京師に送った。天子はその罪を数え、賞賜を与えて帰還させた。六年、その部人が瓦撒塔児が幼弱であるため、その叔父の乞巴ら二人が部族に信服されているとして、都督に任命し衛の事務を執らせるよう乞うた。瓦撒塔児も上書し、一職を賜り辺境を協守したいと乞うた。帝はその請いを受け入れ、ともに指揮僉事を授けた。翌年、瓦撒塔児が卒去し、子の賞卜塔児が左都督を嗣いだ。

九年、トルファンがハミルを陥落させ、使い三人を遣わし、書簡をもって都督僉事昆藏を招き同叛しようとした。昆藏は従わず、その使いを殺し、その書簡を持って献上した。天子はこれを嘉し、使いを遣わして賞賜を与え、かつ兵を発して攻討するよう命じた。昆藏は力が足りないとして、官軍数千を派遣して援助するよう請うた。朝議は都督李文らに計画・検討を委ねた。やがて、李文らが進征すると、昆藏は果たして兵を率いて来会した。ちょうど李文らが軍を頓挫させて進まなかったため、その兵も帰還した。

十年、賞卜塔児が千騎を率いて粛州の境内に入り、阿年族の番人と仇殺しようとした。辺臣がすでに諭して退けた後、兵部が人を遣わして大義を責めさせ、怨みがあれば辺吏に訴え出て、みだりに侵掠してはならないと請うた。これに従った。十四年、その部人が賞卜塔児は幼く事に慣れていないと申し出、指揮僉事加定が衆心を得ているとして、一階級進めて衛の事務を総括させるよう乞うた。賞卜塔児も署名して推譲した。また罕東の酋長が重ねて言葉を合わせて奏挙し、かつ両衛の番人はこれによって安寧を得られると言った。帝はその言を容れ、加定を都指揮僉事に抜擢し、暫く印務を執掌させた。当時、トルファンはなおハミルを占拠していた。ハミルの都督罕慎が赤斤と結んで援軍とし、その城を回復したため、詔して褒賞した。

十九年、隣接する番族の野乜克力が侵攻し、大いに殺掠したため、赤斤はついに残破した。その酋長が辺臣に訴え、粟を与えられた。またその城を修繕させ、流移した者を復業させよと命じた。赤斤はこれより振るわなくなった。しかし弘治年間、阿木郎がハミルを破った際には、なおその兵を用いた。後に許進が西征した時も、兵を率いて援助した。正徳八年、トルファンが将を遣わしてハミルを占拠し、ついに大いに赤斤を掠奪し、その印を奪って去った。彭澤が経略するに及んで、初めて印が帰還した。やがて、番賊が粛州を侵犯し中国に難題をふっかけた。赤斤はその要衝に当たり、ますます蹂躙された。部衆は自ら生存できず、ことごとく粛州の南山に内徙し、その城はついに空となった。

嘉靖七年、総督王瓊が諸郡を撫安し、赤斤の衆が僅か千余人であることを確認した。そこで賞卜塔児の子鎖南束に都督を授け、その部帳を統轄させた。

沙州衛

沙州衛。赤斤蒙古より西へ二百里行くと苦峪という。苦峪より南へ折れて西へ百九十里行くと瓜州という。瓜州より西へ四百四十里行いて初めて沙州に至る。漢の燉煌郡西域の境で、玉門・陽関ともに相距ること遠からず。後魏になって初めて沙州を置き、唐はこれに因ったが、後に吐蕃に没した。宣宗の時、張義潮が州を率いて内附し、帰義軍を置き、節度使を授かった。宋では西夏に入り、元では沙州路となった。

洪武二十四年、蒙古の王子阿魯哥失里が国公抹台阿巴赤・司徒苦児蘭らを遣わして来朝し、馬及び璞玉を貢いだ。永楽二年、酋長困即来・買住が衆を率いて帰順した。沙州衛を置き、二人に指揮使を授け、印誥・冠帯・襲衣を賜う。やがてその部下の赤納が来附し、都指揮僉事を授かる。五年夏、甘粛総兵官宋晟に勅して曰く、「聞くところによれば赤納はもと買住の部曲なり、今官位は彼の上にあり、上下の倫を失う。すでに買住を都指揮同知に抜擢せり。今後は詳らかに審定すべく、秩序を失うことなかれ」と。八年、困即来を都指揮僉事に抜擢し、その僚属で進秩した者は二十人。買住が卒すと、困即来が衛事を掌り、朝貢は絶えなかった。二十二年、瓦剌の賢義王太平の部下來貢するも、途中で賊に阻まれ、困即来が人を遣わし護送して京師に至らしむ。帝これを嘉し、彩幣を賜い、まもなく都督僉事に進秩す。

洪熙元年、亦力把里及び撒馬児罕が相次いで入貢するも、道すがら哈密の地を経て、ともに沙州の賊に邀撃掠奪された。宣宗怒り、粛州守将費瓛にこれを剿討せしむ。宣徳元年、困即来は凶作で民困窮するを以て、使いを遣わし穀種百石を借り、秋の収穫後に官に返還せんとす。帝曰く、「番人は即ち吾が人なり、何ぞ借りんとするや」と。即時にこれを給与せよと命ず。まもなく中官張福をその地に使いし、彩幣を賜う。七年、また旱害を奏上し、粛州において糧五百石を給するよう勅す。やがて哈烈の貢使が言うには、道すがら沙州を経て、赤斤指揮革古者らに掠奪されたと。部議して赤斤の者が遠く沙州まで至って盗を為すは、罪赦すべからずとす。帝、困即来にこれを察せしめ、勅して曰く、「彼既に盗を為す以上、再び容るべからず。宜しく本土に駆逐し帰還せしめ、再犯すれば赦さず」と。九年、使いを遣わし奏す、罕東及び西番がたびたび侵侮し、人畜を掠奪し、安居を得ず、察罕旧城に移徙して耕牧せんことを乞うと。帝、勅を遣わしてこれを止めて曰く、「汝が沙州に居ること三十余年、戸口は増殖し、畜牧は富饒なり、皆朝廷の力なり。往年哈密が嘗て汝の侵擾を奏せしが、今の外侮もまた自ら招くところなり。ただ分を循り職を守り、境を保ち隣を睦まば、自ら外患無かるべし。何ぞ必ずしも東に遷り西に徙り、徒らに労瘁を取らんや」と。また罕東・西番に勅し、もし人畜を侵奪したならば、速やかにこれを返還せよと。明年また哈密に侵され、かつ瓦剌に迫られることを懼れ、自立できず。乃ち部衆二百余人を率いて塞下に走り附き、飢餓窮乏の状を陳ず。詔して辺臣に粟を発してこれを救済せしめ、かつ処置を議ぜしむ。辺臣、苦峪に移すことを請う。これを従う。これより沙州に復た還らず、ただ遥かにその衆を領するのみ。

正統元年、西域阿端が使いを遣わし来貢するも、罕東頭目可児即及び西番野人に掠奪される。困即来、命を奉じて往き追いその貢物を還し、帝これを嘉し、都督同知に抜擢す。四年、その部下の都指揮阿赤不花ら一百三十余家が逃亡して哈密に入る。困即来、詔を奉じてこれを索むるも、与えず。朝命して忠順王にこれを還させしむるも、また与えず。時に使いを遣わしその新王を冊封するに当たり、即ち使人に命じて逃亡した戸を索還せしむ。しかるに哈密はただ都指揮桑哥失力ら八十四家を還すのみで、残りはなお遣わさず。この時、罕東都指揮班麻思結が久しく沙州に駐牧して去らず、赤斤都指揮革古者もまたその叛亡者を容れ納る。困即来たびたび朝廷に訴え、朝廷もまた数たび勅を遣わして詰責すれども、諸部多く命に従わず。四年八月、人をして瓦剌・哈密の事を偵察せしめ、その実情をことごとく得て以て聞かしむ。帝喜び、勅を降して奨励し、厚くこれを賜う。明年、使いを遣わし入貢し、また迤北の辺事を報じ、その使臣二人の官を進む。初め、困即来が沙州を去るや、朝廷は辺将に命じて苦峪城を繕治せしめ、戍卒を率いてこれを助けしむ。六年冬、城成り、入朝して謝恩し、駱駝・馬を貢ぎ、宴賜を受けて遣還さる。七年、衆を率いて哈密を侵し、その人畜を獲て帰る。

九年、困即来卒す。長子喃哥がその弟克俄羅領占を率いて来朝す。喃哥に都督僉事を授け、その弟に都指揮使を授け、勅を賜い戒め諭す。既に還るや、その兄弟乖争し、部衆離反す。甘粛鎮将任礼らはその窮乏に乗じ、塞内に遷さんと欲す。而して喃哥もまた来たり言う、粛州の小缽和寺に居らんと欲すと。礼ら遂に十一年秋、都指揮毛哈剌らをして喃哥とともに先ず沙州に赴かしめ、その衆を撫諭せしめ、而して自ら兵を率いてその後に随う。到るに及んで、喃哥の意中変じ、陰に両端を持し、その部下多くは瓦剌に奔らんと欲す。礼ら進兵してこれを迫り、遂にその全部を収めて塞内に入れ、甘州に居らしむ。凡そ二百余戸、千二百三十余人、沙州は遂に空となる。帝、これを迫って来たるを以て、情測り難しとし、礼に熟計してその便を図らしむ。然れどもこれより内地に安居し、ついに後患無し。而して沙州は罕東酋班麻思結の所有となれり。ただ喃哥の弟鎖南奔のみは徙に従わず、竄入して瓦剌に至り、也先これに祁王を封ず。礼、偵知して彼が罕東に在るを、掩襲してこれを獲る。廷臣、正法を請う。帝、その父兄の恭順を思い、死を免じ、東昌に徙す。

先に、太宗は嘉峪関外に哈密・沙州・赤斤・罕東の四衛を置き、西陲を屏障せしむ。ここに至り、沙州は先ず廃され、而して諸衛もまた漸く自立できず、粛州は遂に多事となる。

罕東衛

罕東衛は、赤斤蒙古の南、嘉峪関の西南にあり、漢の燉煌郡の地なり。洪武二十五年、涼国公藍玉が逃亡の寇祁者孫を追って罕東の地に至る。その部衆多くは竄徙す。西寧三剌が書を以てこれを招く。遂に相継いで来帰す。三十年、酋鎖南吉剌思が使いを遣わし入貢す。詔して罕東衛を置き、指揮僉事を授く。

永楽元年、その兄答力襲とともに入朝し、指揮使に進む。答力襲に指揮同知を授け、ともに冠帯・鈔幣を賜う。これより数たび入貢す。十年、安定衛が奏す、罕東がたびたび盗を為し、民戸三百を掠め去り、また西番と糾合して関隘を阻截すと。帝、勅を降して切責し、掠奪したものを還すよう命ず。十六年、中官鄧誠をしてその地に使いせしむ。

洪熙元年、使いを遣わし即位をその指揮同知綽児加に諭し、白金・文綺を賜う。時に官軍曲先の賊を征す。罕東指揮使卻裡加は従征して功あり、都指揮僉事に抜擢され、誥を賜い世襲を許さる。その指揮那那が奏す、所属の番民千五百、例にて差発馬二百五十匹を納むるも、その人多くは逃亡して赤斤に居る。招撫して復業せしめんことを乞うと。帝、即時にこれを招かしめ、かつ負うところの馬を免ず。宣徳元年、曲先従征の功を論じ、綽児加を都指揮同知に抜擢す。初め、大軍の曲先を討つや、安定部内及び罕東密羅族の人悉く驚き竄く。事定まり、詔して指揮陳通らをして往き招撫せしむ。ここにおいて罕東復業する者二千四百余帳、男婦万七千三百余人、安定部の人もまた衛に還る。

正統四年、罕東と安定が合衆して西番の申藏族を侵し、その馬牛雑畜を掠めて数万に及んだ。その僧が辺将に訴え、畜産が一空となり、歳ごとの差発馬を出すことができないと言った。帝は二衛を厳しく責め、その残忍暴横、国法に違背し、隣境を毒する罪を数え、掠めたものを悉く返還せしめた。また僧に諭し、旧制に限らず、所有に随って入貢せしめた。翌年の冬、綽児加が班麻思結と共に哈密を侵し、老幼百人、馬百匹、牛羊数え切れずを獲た。忠順王が使者を遣わしてこれを索もとめたが、与えなかった。帝はこれを聞き、また勅を賜って戒め諭した。しかし番人は剽掠を性とし、天子に言ありとも、悉く従うことはできなかった。六年の夏、綽児加が来て馬を貢ぎ、宴し賚を与えて還した。九年に卒し、子の賞卜児加が職を嗣ぎ、斎糧・茶布を乞うことを奏し、命じて悉くこれを与えた。十一年に都指揮使に進んだ。

成化九年、土魯番が哈密を陥落させた。都督の李文が西征し、罕東が兵を以て来援した。後に都督の罕慎が哈密を回復するにも、その兵を藉り、勅を賜って賞賚した。十八年、その部下が番族を掠め、河清堡に侵入した者あり。都指揮の梅琛が兵を勒してこれを追い、男女五十余人、馬牛雑畜四千五百余りを奪還した。辺臣がその罪を討つことを請うたが、部臣はこれを難とした。帝曰く、「罕東は方に調に聴きて哈密を取るに協し、携貳の形未だ有らず、奈何ぞ小故に因りて遽に兵を加えん。宜しく諭して悔過せしめ、服さざれば則ち兵威を耀かすべし」と。二十二年、辺臣言う、「比に官を遣わして哈密に往き、土魯番の使臣家属四百人と偕に行く。道、罕東を経るに、都督の把麻奔等に掠め去られ、朝使は僅かに免る。これを討つことを乞う」と。帝は人を遣わして往き諭し、番人の例の如く和を議し、掠めた物を還すことを命じ、従わざれば則ち兵を進めしめた。

弘治の中、土魯番がまた哈密を占拠した。兵部の馬文升が直ちにその城を搗くことを議し、指揮の楊翥を召してこれを計った。翥言う、罕東に間道あり、十日とせずして哈密に達すべし、宜しく賊の不意に出で、ここより兵を進むべしと。文升曰く、「もし言の如くならば、罕東の兵三千を発して前行せしめ、我が師三千を後継せしめ、各数日の乾糧を持ち、兼程してこれを襲わば、如何」と。翥は善しと称した。文升はこれを巡撫の許進に属し、進は人を遣わして罕東に諭し、前策の如くせしめた。会に罕東が期を失して至らず、官軍はなお大路より進み、賊は遁去するを得た。十二年、その部人が西寧の隆奔族を侵し、印誥及び人畜を掠め去った。兵部が都督に勅し、その下に宣諭し、掠めた物を匿さず、尽くその主に帰せしめ、命に違えば則ち都督自ら討つことを請うた。これに従った。

時に土魯番は日々強く、数えきれず隣境を侵掠し、諸部は皆支えることができなかった。正徳の中、蒙古の大酋が青海に入り、罕東もまた蹂躙に遭い、その衆は益々衰えた。後に土魯番がまた哈密を陥落させ、直ちに肅州を犯した。罕東はまた残破し、相率いて内徙を求め、その城は遂に棄てて守らなかった。嘉靖の時、総督の王瓊が諸部を安輯し、罕東都指揮の枝丹部落を甘州に移した。

罕東左衛

罕東左衛は、沙州衛の故城にあり、憲宗の時に始めて建てられた。初め、罕東部の人奄章が種族と相能わず、数えきれず仇殺し、乃ちその衆を率いて逃れ沙州の境に居した。朝廷は即ちその耕牧を許し、歳ごとに肅州に馬を納めた。後に部落は日々蕃え、益々罕東の統属を受けなかった。その子の班麻思結に至り、洪熙の時に曲先を討つに従って功有り、賞はこれに及ばなかった。宣徳七年に自ら朝に陳べ、即ち罕東衛指揮使に命じ、勅を賜って賞賚した。然れどもなお沙州に居し、本衛に還らなかった。十年に都指揮使僉事に進んだ。

正統四年、沙州衛都督の困即来が班麻思結がその地を侵して居ることを以て、遣わして還すことを乞うた。天子はその言の如くし、勅を賜って宣諭したが、班麻思結は命に従わなかった。時に赤斤衛指揮の鎖合者が人を殺して遁れて沙州の地に入り、班麻思結がこれを納れた。鎖合者はまたその子をして烏斯藏に往き毒薬を取らせ、将に還って赤斤を攻めんとした。赤斤都督の且旺失加がこれを言上し、天子は即ち勅して班麻思結に諭し、隣を睦くし境を保ち、釁端を啓くことなからしめた。久しくして、沙州の全部悉く内徙し、思結は遂にその地を尽く有した。十四年、甘肅の鎮臣任礼等が奏す、班麻思結が潜かに瓦剌の也先と通好し、近くまた哈密と兵を搆う、宜しく本衛に還居せしむべしと。天子は再び勅を賜って宣諭したが、また命に従わなかった。尋いで秩を進めて都指揮使とした。景泰・天順朝を歴て、朝貢廃れず。

成化の中、班麻思結が卒し、孫の只克が職を嗣ぎ、部衆は益々盛んになった。その時、土魯番が強く、侵んで哈密を占拠した。只克はこれと境を接し、その己に逼るを患い、自ら一衛とならんと欲した。十五年九月、罕東・赤斤の例の如く、衛を立て印を賜い、西陲を捍禦することを奏請した。兵部言う、「近く土魯番が哈密を吞ぜいし、罕東諸衛は各々自ら保たず、西鄙これが為に寧かならず。而して赤斤・罕東・苦峪は又各々嫌隙を懐き、相救援せず。倘し沙州更に人統理する無くんば、勢い必ず強敵に併せられ、辺方愈々事多からん。宜しく請う所の如くし、即ち沙州故城に罕東左衛を置き、只克をして仍以て都指揮使として統治せしむべし」と。これに従った。二十一年、甘肅の守臣言う、「北寇屡々沙州を犯し、人畜を殺掠す。又た歳飢に値い、人流竄を思う。已に粟五百石を発し、布種せしめ、仍って人に月糧を与えて振恤すことを乞う。その酋の只克に斬級の功有り、亦た併せて叙すことを乞う」と。乃ち只克を擢て都督僉事とし、余は報可した。

弘治七年、指揮の王永言う、「先朝、哈密衛を建て、西域の要衝に当てたり。諸番の入貢ここに至れば、必ず少しく憩わしめて以て館谷し、或いは他寇の剽掠に遭えば、則ち人馬以て接護すべく、遠方を柔らぐるの道至れりと謂うべし。今、土魯番が窃かにその地を据え、久しくして退かず。聞く、罕東左衛は哈密の南に居り、僅かに三日の程、野乜克力は哈密の東北に居り、僅かに二日の程、是れ皆脣歯の地、利害これを共にす。去歳の秋、土魯番が人を只克の所に遣わし、脅して帰附せしむるも、只克は従わず。又た野乜克力の頭目を殺し、その部人は皆怨みを報いんと思う。宜しく二部を旌労し、力を併せて合攻せしめ、永くその患を除くべし、亦た寇を以て寇を攻むる一策なり」と。章を兵部に下すも、用いること能わず。十七年、瓦剌及び安定部の人大いに沙州の人畜を掠めた。只克は自ら存する能わず、嘉峪関を叩いて済いを求めた。天子は既に振給し、また二部に諭して仇を解き争を息め、兵を搗き釁を召すことなからしめた。

正徳四年、只克の部内の番族に隣境を劫掠する者あり、守臣将にこれを剿らんとす。兵部言う、「西戎強悍、漢・唐以来制す能わず。我が朝、哈密・赤斤・罕東諸衛を建て、官を授け勅を賜い、犬牙相制し、惟だ匈奴の右臂を断つのみならず、亦た以て西土の籓籬を壮んず。今、番人相攻む、我に何ぞ預らん、而して遽に兵せんと欲す。宜しく都督只克に勅し、諸族に曉諭し、過を悔い兵を息ますべし」と。報可した。

只克が卒し、子の乞台が嗣いだ。十一年、土魯番がまた哈密を占拠し、兵を以て乞台を脅して降附せしめ、遂に肅州を犯した。左衛は自立する能わず、相率いて肅州の塞内に徙った。守臣は拒むこと能わず、因ってこれを撫納した。

乞台が卒し、子の日羔が嗣いだ。十六年の秋に入朝し、賞賚を乞うた。礼官がその例を越え、且つ疏を投ずるに通政司によらず、館伴の者の罪を治むることを請うた。これに従った。

乞台が既に内徙すると、その部下の帖木哥・土巴の二人は依然として沙州に居住し、土魯番に服属して、毎年婦女・牛馬を輸送していた。折しも番酋の徴求が苛急であったため、二人は怨んだ。嘉靖七年夏、部族五千四百人を率いて来帰し、沙州は遂に土魯番の所有となった。

哈梅里

哈梅里は、地は甘肅に近く、元の諸王兀納失里がここに居住していた。洪武十三年、都督濮英が西涼で練兵し、出師して地を略し、哈梅里への道を開いて商旅を通ずることを請うた。太祖は璽書を賜って曰く、「地を略するの請は、爾の便宜に聴く。然れども将は謀を以て本と為す、爾慎んで忽せざれ」と。英は遂に進兵した。兀納失里は懼れ、使を遣わして款を納れた。明年五月、回回の阿老丁を遣わして来朝し馬を貢いだ。詔して文綺を賜い、畏吾児の地に遣わし、諸番を招諭させた。二十三年、帝は兀納失里が別部と仇殺していると聞き、甘肅都督宋晟等に諭して兵を厳しく備えさせた。明年、使を遣わして延安・綏徳・平涼・寧夏において馬の互市を請うた。帝曰く、「番人は黠にして詐り多し。互市の求は、安んぞ我を覘わざるを知らんや。中国は其の馬に利ありて其の害を虞わず、喪う所必ず多からん。宜しく聴くべからず。今より至る者は、悉く京師に送れ」と。時に西域の回紇来貢する者多くは哈梅里に遏せられ、他道より来る者あれば、又兵を遣わして邀え撃ち殺した。帝之を聞きて怒る。八月、都督僉事劉真に命じ宋晟と偕に兵を督して之を討たしむ。真等は涼州より西に出で、夜を乗じて直ちに城下に抵り、四面之を囲む。其の知院岳山は夜に城を縋りて降る。黎明、兀納失里は馬三百余匹を駆り、突囲して出づ。官軍其の馬を争い取り、兀納失里は家属を率いて馬の後に随い遁れ去る。真等其の城を攻め破り、豳王別児怯帖木児・国公省阿朶爾只等一千四百人を斬り、王子別列怯の部属千七百三十人を獲、金銀印各一、馬六百三十匹を得たり。二十五年、使を遣わして馬騾を貢ぎ罪を請う。帝之を納れ、白金・文綺を賜う。