明史

列傳第二百十七 西域一 哈密えい 柳城 火州 土魯番

哈密衞

哈密は、東は嘉峪関から一千六百里の地で、漢代の伊吾盧の地である。明帝が宜禾都尉を置き、屯田を統轄した。唐代は伊州となった。宋代には回紇に帰属した。元末、威武王納忽里がこれを鎮守し、まもなく肅王と改め、卒去すると、弟の安克帖木兒が嗣いだ。

洪武年間、太祖が畏兀兒の地を平定し、安定等衞を置くと、次第に哈密に迫った。安克帖木兒は恐れ、帰順しようとした。

成祖の初め、官を遣わして招諭し、馬による交易を許すと、すぐに使節を派遣して朝貢し、馬百九十匹を貢いだ。永楽元年十一月に京師に至ると、帝は喜び、賜与を増やし、役人に命じてその馬四千七百四十匹を値段を付けて買い上げ、良馬十匹を内廄に入れ、残りを守辺の騎士に与えた。

翌年六月に再び朝貢し、封を請うたので、忠順王に封じ、金印を賜い、また馬を貢いで恩に謝した。やがて迤北の可汗鬼力赤が彼を毒殺したが、その国の人は病死と報告した。三年二月、官を遣わして祭礼を賜い、その兄の子脱脱を王とし、玉帯を賜った。脱脱は幼少時に捕虜として中国に入り、帝が奴隷の中から抜擢し、宿衛に列せしめ、爵を嗣がせようとした。その国が従わぬことを恐れ、官を遣わして問うと、敢えて違わず、帰ってその衆を統治することを請うた。そこでその祖母と母に綵幣を賜い、まもなく使節を派遣して馬を貢ぎ恩に謝した。

四年春、甘粛総兵官宋晟が上奏し、脱脱が祖母に追放されたと報告した。帝は怒り、その頭目を勅書で責めて言った、「脱脱は朝廷が立てた者である。たとえ過失があっても、上奏せずに勝手に追放するのは、朝廷を軽んじるものである。老人は昏耄でも、頭目も朝廷を知らないのか。すぐに迎え戻し、よく補佐して、祖母に孝行させよ」。これにより脱脱は帰還でき、祖母と頭目はそれぞれ使節を派遣して謝罪した。三月、哈密衞を設置し、その頭目馬哈麻火者らを指揮・千百戸等の官とし、また周安を忠順王長史、劉行を紀善とし、輔導させた。冬、頭目十九人を都指揮等の官に任じた。

翌年、宋晟が上奏し、頭目陸十らが乱を起こし、既に誅殺したが、他の変事を慮り、兵を請うて防禦したいと申し出た。帝は宋晟に命じて兵を発し応援させ、また安克帖木兒の妻子が鬼力赤のもとに身を寄せていることを憂い、賊を誘って哈密を侵す恐れがあるとして、宋晟に厳重に備えるよう勅した。宋晟が卒去すると、何福が代わり、また福に誠意を以て忠順王を慰撫するよう勅した。ちょうど頭目が把総一人を設置して国政を処理することを請うたので、帝は福に勅して言った、「把総を置くのは、王を一人増やすようなものだ。政令が一つでなくては、下の者は何に従えばよいのか」。その議は取りやめとなった。これ以降、毎年朝貢し、ことごとく優れた賜物を加え、その使臣も皆、位階を増し官職を授けられた。

帝は脱脱を特に厚く遇したが、脱脱はかえって朝使を凌辱し、酒に溺れて昏聵となり、国事を顧みず、その下の買柱らが次々と諫めても従わなかった。帝はこれを聞いて怒り、八年十一月、官を遣わして勅書を賜い戒め諭した。到着しないうちに、脱脱が急病で卒去した。訃報を聞き、官を遣わして祭礼を賜った。都指揮同知哈剌哈納を都督ととく僉事に抜擢し、その地を鎮守させ、勅書および白金・綵幣を賜った。また脱脱の従弟兔力帖木兒を忠義王に封じ、印誥・玉帯を賜い、代々哈密を守らせた。十年、馬を貢いで恩に謝し、これ以降、朝貢を謹んで行い、故王の祖母もたびたび貢ぎ物を奉った。

十七年、帝は西域に往来する朝使に対し、忠義王が礼を尽くして接待するのを以て、宦官に綺帛を齎らせて労い、その母と妻に金珠の冠服・綵幣を賜い、その部下の頭目にも賜った。その使臣および境内の回回はまもなく馬三千五百余匹および貂皮などの物品を貢ぎ、詔して鈔三万二千錠・綺百匹・帛一千匹を賜った。二十一年には駱駝三百三十頭・馬千匹を貢いだ。

仁宗が即位すると、詔を下してその国に諭した。洪熙元年、再び入貢し、即位を賀した。仁宗が崩御し、宣宗が継ぐと、その王兔力帖木兒も卒去し、使節が来て哀悼の意を告げた。

宣徳元年、官を遣わして祭礼を賜い、故王脱脱の子卜答失里に忠順王を嗣がせ、また即位の大赦を行ったので、その国中でも赦を行うよう命じ、再び馬を貢いで恩に謝した。翌年、弟の北斗奴らを派遣して来朝し、駱駝・馬・地方産物を貢いだ。北斗奴を都督僉事に任じ、ついで宦官に命じて王に諭し、故忠義王の弟脱歓帖木児を京師に派遣させた。三年、卜答失里が幼少であることを以て、脱歓帖木児に忠義王を嗣がせ、ともに国事を処理させた。これ以降、二王が並んで朝貢し、年に三、四度来朝することもあり、婚娶の礼幣を求める上奏には、すべてこれを与えるよう命じた。

正統二年、脱歓帖木児が卒去し、その子脱脱塔木児を忠義王に封じたが、まもなく卒去した。やがて忠順王も卒去し、その子倒瓦答失里を忠順王に封じた。五年、使節を派遣して三度朝貢したので、朝廷の議論では煩わしいとして、毎年一貢と定めた。

初め、成祖が忠順王を封じたのは、哈密が西域の要路であるため、朝使を迎え護衛し、諸番を統領させ、西陲の屏障としようとしたのである。しかしその王は概ね凡庸で懦弱であり、またその地は種族が雑居していた。一つは回回、一つは畏兀児、一つは哈剌灰であり、その頭目は互いに統属せず、王は統制することができなかった。衆心は離散し、国勢は次第に衰えた。倒瓦答失里が立つと、都督皮剌納が密かに瓦剌の猛可卜花らと通じて王を謀殺しようとしたが、成功しなかった。王の父の在世時、沙州の叛亡者百余家を受け入れたが、たびたび王に勅して返還を命じたのに、その半分しか返さず、その貢使もまたたびたび駅吏・卒を辱め、通事を叱責し、四方の貢使が大宴会を行う日に、悪口を浴びせ罵った。天子は罪に問わず、ただ使臣を慎重に選ぶよう命じたので、かえってますます畏れるところがなくなった。その地は、北は瓦剌、西は土魯番、東は沙州・罕東・赤斤諸衞と、すべて怨みを構えることとなった。これにより隣国が相次いで侵した。罕東の兵が城外に迫り、人畜を掠めて去った。沙州・赤斤も相次いで兵を侵し、いずれも大いに捕獲した。瓦剌の酋長也先は、王母弩温答失里の弟であるが、やはり兵を派遣して哈密城を包囲し、頭目を殺し、男女を捕虜とし、牛・馬・駱駝を数えきれぬほど掠め、王母と妻を北へ連れ戻し、王を脅して会見に赴かせようとした。王は恐れて行かず、たびたび使節を派遣して難を告げた。諸部に修好するよう勅令を下したが、ついに従わず、ただ王母と妻だけが返還された。

十年、也先はまた王の母と妻および弟を捕らえ、さらに撒馬兒罕の貢使百余人を掠奪し、またたびたび王に会見を促した。王は表向きは朝命に従ったが、実は也先を恐れていた。十三年夏、自ら瓦剌に赴き、数か月滞在してようやく帰還した。しかし使者を遣わして天子を欺き、朝命を守って行かなかったと偽った。天子は勅を賜って褒賞した。後にその詐りを知り、厳しい旨をもって詰責したが、その王はついに自ら奮起することができなかった。ちょうど也先が東方に侵攻し、故地に戻らなかったので、これにより哈密はやや安寧を得た。

景泰三年、その臣揑列沙を遣わして朝貢し、官職の授与を請うた。これ以前は、使臣が京師に至れば必ず恩命を加えていた。この時、于謙が中樞を掌り、言うには、哈密は代々国恩を受けておきながら、敢えて瓦剌と通じた。今は帰順したとはいえ、心はなお譎詐である。もし官秩を加えれば、賞は名目を欠くことになると。そこで止めた。景泰朝の終わりまで、使臣に官職を授けた者はなかった。

天順元年、倒瓦答失里が卒し、弟の卜列革が使者を遣わして喪を告げたので、直ちに忠順王に封じた。時に都指揮馬雲が西域に使いし、迤北の酋長癿加思蘭が道を塞いでいると聞き、進むことを敢えなかった。ちょうど哈密王が道が通じたと報じたので、雲はようやく進み、哈密に至った。しかし賊兵は実は退いておらず、かつ朝使を掠奪しようと謀っていた。帝は王が賊と通じているのではないかと疑い、使者を遣わして厳しく責めた。

四年、王が卒し、子がなかったので、母の弩温答失里が国政を主った。初め、也先が誅せられた時、その弟の伯都王および甥の兀忽納が逃れて哈密に居住した。王母が上書して恩を乞い、伯都王に都督僉事を、兀忽納に指揮僉事を授けた。卜列革が亡くなってから、継ぐべき親族がなく、国人に議して襲封すべき者を定めさせた。頭目阿只等が言うには、脱歡帖木兒の外孫で都督同知の官にある把塔木兒が継ぐことができると。王母は臣下が君主を継ぐことはできないと言い、安定王阿児察は忠順王と同祖であるとして、その襲封を請うた。七年冬、奏上されると、礼官が言うには、「癿加思蘭は哈密に主君がいないのを見て、その地を占拠しようと謀り、情勢は危急である。その請いに従うべきである」と。帝は都指揮賀玉を遣わすことを命じた。西寧に至って逗留して進まず、哈密の使臣苦児魯海牙が先に行くことを請うたが、また許さなかった。帝は玉を捕らえて官吏に下し、改めて都指揮李珍を命じ、安定・罕東に勅して使臣を護衛して共に行かせた。阿児察は哈密が多難であることを理由に、力辞して行かず、珍は帰還した。

哈密はもともと衰微しており、さらに婦人が国政を主ったので、衆はますます離散した。癿加思蘭が隙に乗じてその城を襲撃し破り、大いに殺掠し、王母は親族部落を率いて苦峪に逃れた。なおたびたび使者を遣わして朝貢し、かつ難を告げた。朝廷は救援することができず、ただその国人に速やかに継ぐべき者を議するよう勅するのみであった。その国は破壊されて残っているため、来朝する者は日増しに多かった。

成化元年、礼官姚夔等が言うには、「哈密が貢馬二百匹なのに、使臣は二百六十人に及ぶ。中国の有限の財をもって、外蕃の無益な費用を供するのは良策ではない」と。帝は廷臣に議させ、歳一入貢と定め、二百人を超えてはならないとし、制として可とした。

翌年、兵部が言うには、王母が苦峪に避難して久しいが、今や賊兵は既に退いた。故地に還るよう命ずべきであると。これに従った。後に貢使が言うには、その地は飢寒に苦しみ、男女二百余人が随行して食を乞い、帰国することができないと。命じて人ごとに米六斗・布二疋を与え、帰還させた。

初め、国人は把塔木児を立てることを請うたが、王母が肯んじなかったため、八年間王がなかった。この時、頭目が相次いで上書して請い、言葉は極めて哀切であった。そこで把塔木児を右都督に擢げ、国王の事を摂行させ、誥印を賜った。五年、王母が老病を訴えて薬物を乞うたので、帝は直ちにこれを賜った。まもなく瓦剌・土魯番とともに使者三百余人を遣わして来貢したので、辺臣がこれを奏聞した。廷議では、貢には定期があり、今は前の使者が未だ帰らず後からの使者がまた至り、かつ瓦剌は強寇であるのに、今や哈密と共にあるのは、哈密がその勢いを頼んで利を邀えるか、あるいは瓦剌がその事を仮って辺境を窺うかのいずれかであるとした。帝はその献上を退け、辺臣に宴饗を与えて帰還させた。貢使は堅く賜物を受けず、必ず親しく闕下に詣でようとしたので、十の一を京師に赴かせることを命じた。

八年、把塔木児の子罕愼が父の卒したことを理由に職を嗣ぐことを請うた。帝はこれを許したが、その国事を主ることは命じず、国中の政令は出すところがなかった。土魯番の速檀阿力が機に乗じてその城を襲撃し破り、王母を捕らえ、金印を奪い、忠順王の孫女を妾とし、その地を占拠して守った。九年四月、事が奏聞され、辺臣に厳しく戒備することを命じ、罕東・赤斤諸衛に勅して協力して戦守させた。まもなく都督同知李文・右通政劉文を甘肅に派遣して経略させた。肅州に到着し、錦衣千戸馬俊に勅を持たせて往き諭させた。時に阿力はその妹婿牙蘭を留めて哈密を守らせ、自らは王母・金印を携えて既に土魯番に帰還していた。俊が至り、朝命をもって諭すと、抗して言葉を遜らず、俊を一月余り拘束した。ある日、牙蘭が忽然と至り、大軍三万が即日西来すると言うと、阿力はようやく俊等を宴労し、王母を担ぎ出して会見させた。王母は恐れて敢えて言わず、夜ひそかに人を遣わして来て言うには、「我がために天子に奏上し、速やかに兵を発して哈密を救わしめよ」と。文等がこれを奏聞し、都督罕愼および赤斤・罕東・乜克力諸部に檄を飛ばして兵を集め進討させた。十年冬、兵が卜隆吉児川に至ると、諜報によれば阿力が衆を集めて抵抗し、かつ別部と結んで罕東・赤斤二衛を掠めようと謀っているという。文等は進むことを敢えず、二衛に命じて本土に還って守らせ、罕愼および乜克力・畏兀児の衆は苦峪に退いて居住し、文等もまた肅州に引き返した。帝はそこで罕愼に国事を権主することを命じ、その請いに因って米布を与え、かつ穀種を賜った。文等は功なくして帰還した。

土魯番が久しく哈密を占拠したので、朝命により辺臣に苦峪城を築かせ、哈密衛をその地に移した。十八年春、罕愼が罕東・赤斤二衛と糾合し、兵一千三百人を得て、自らの部衆と合わせて一万人とし、夜に哈密城を襲撃してこれを破り、牙蘭は遁走した。勢いに乗じて連続して八城を回復し、ついに故地に還って居住した。巡撫王朝遠がこれを奏聞すると、帝は喜び、勅を賜って奨励し、かつ二衛を奨励した。朝遠は罕愼を王に封ずることを請い、かつ土魯番もまた心を改めて教化に帰し、罕愼と和議を結んでいるので、時に乗じて安撫し、王孫女および金印を取り戻し、王母と共に国事を掌らせるべきであるとし、哈密国人もまた罕愼の封を乞うた。廷議は従わず、左都督に進め、白金百両・綵幣十表裏を賜い、特に勅を下して労を奨励し、将士は差等を以て昇賞した。

弘治元年、その国人の請いに従い、罕愼を忠順王に封じた。土魯番の阿力は既に死んでおり、その子阿黒麻が速檀を嗣いだ。偽って罕愼と婚姻を結び、誘い出してこれを殺し、なおも牙蘭にその地を占拠させた。哈密都指揮阿木郎が逃げ来て救いを求め、廷臣は土魯番の貢使に諭して侵地を返還させ、かつ赤斤・罕東に勅して共に興復を図るよう請うた。翌年、哈密の旧部綽卜都等が衆を率いて牙蘭を攻撃し、その弟を殺し、その叛臣者盼卜等の人畜を奪って帰還した。事が奏聞され、官秩を進め賞を加えた。これ以前、罕愼が使者を遣わして来貢したが、未だ帰還せずに難に遭い、その弟奄克孛剌が部衆を率いて辺方に逃れた。朝命により、罕愼に賜わったものをその弟に還賜した。阿黒麻が哈密を去る際、わずか六十人を留めて牙蘭を補佐させた。阿木郎はその単弱であることを窺い、辺臣に請うて赤斤・罕東の兵を調発し、夜襲してその城を破り、牙蘭は遁走し、斬獲甚だ多かった。詔があり、これを奨励し賞賜した。

この時、阿黒麻は甚だしく傲慢で、自ら地が中国より遠いことを恃み、しばしば天子の命に抗した。また哈密を破り、貢使が頻繁に来朝したが、朝廷はなおもこれを厚遇したので、これによりますます中国を軽んじた。帝はその賜賚を薄くし、あるいは使臣を拘留し、その貢物を退け、勅を下して罪を悔い改めるよう責めた。やがて忠順王の族孫陝巴を訪ね得て、これを輔け立てようとした。阿黒麻は次第に警戒し恐れ、三年に使臣を遣わして関門を叩き、願わくば哈密及び金印を献還し、その拘留された使臣を釈放したいと申し出た。天子はその貢を受け入れたが、前の使者はなおも留め置いた。翌年、果たして城と印を持って来帰したので、馬文升の言に従い、その拘留した使臣を還した。文升はまた言う、「番人は種類を重んじ、かつ平素より蒙古に服従している。哈密にはもと回回・畏兀児・哈剌灰の三種があり、北山にはまた小列禿・乜克力が侵逼しあっている。蒙古の後裔をもってこれを鎮めなければならない。今、安定王の族人陝巴は、故忠義王脱脱の近属の従孫である。これを以て哈密を主とすべきである」と。天子はこれを然りとし、諸番もまた共に陝巴を立てるべきであると奏上した。五年春、陝巴を忠順王に立て、印誥・冠服及び守城の戎器を賜い、阿木郎を都督僉事に抜擢し、都督同知奄克孛剌と共にこれを輔けさせた。

やがて諸番が陝巴に犒賞の賜物を求め得ず、皆怨んだ。阿木郎はまた乜克力の人を引き連れて土魯番の牛馬を掠奪したので、阿黒麻は怒り、六年春に密かに兵を潜めて夜に哈密を襲い、その人百余を殺し、逃げた者と降った者は各々半ばであった。陝巴と阿木郎は大土剌に拠って守った。大土剌とは、中国語で大土台のことである。三日間包囲したが陝下しなかった。阿木郎は急ぎ乜克力・瓦剌の二部の兵を調べて来援させたが、共に敗れて去った。そこで陝巴を捕らえ、阿木郎を生け捕りにして八つ裂きにした。牙蘭はまた拠って守り、併せて辺境の臣に書を送って阿木郎の罪を訴えた。この時、土魯番の先後の貢使は皆まだ帰還していなかった。辺境の臣はその書が不遜であり、かつ僭って可汗と称しているとして、将を命じ兵を遣わして先ず牙蘭を剿除し、その後直ちに土魯番に抵り、阿黒麻の首を馘ぎ、陝巴を取り戻すことを乞うた。さもなければ勅を降して厳しく責め、陝巴を還すよう命じ、その罪を赦すべきであるとした。朝廷の議論は後者の策に従い、守臣に貢使を拘束させ、数人を還し、勅を持たせて禍福を明示させた。帝はその請いの通りとし、廷臣に推挙させて大臣を甘粛に赴かせ経略させた。

初め、哈密の変報が聞こえると、邱濬は馬文升に言った、「西陲の事は重く、公の一行を須いる」と。文升は言った、「国家に事あれば、臣子の義として難を辞すべからず。然れども番人は利を嗜み、騎射を善くせず、古より西域が中国の患いとなること能わざるなり。徐々にこれを靖めん」と。濬はまた以て言うと、文升は行くことを請うた。廷臣は皆、北虜強く、本兵は遠く出づべからずと言い、兵部右侍郎張海・都督同知緱謙の二人を推挙した。帝は勅を賜い二人を指授したが、二人は皆庸才で、ただ土魯番の人を帰してその主に諭させ、侵した地を献還するよう命じ、甘州に駐してこれを待った。翌年、阿黒麻は使臣を遣わして関門を叩き貢を求め、詭って陝巴及び哈密を還すことを願い、朝廷にもその使者を還すことを乞うた。海らはこれを聞き、再び勅を降して宣諭することを請うた。廷議は言う、先に既に勅を降した、今もし再び降すは、国体を傷つけると。宜しく海らに自ら人を遣わして往き諭すべし。命に従わなければ、則ちなお前の使者を留め置き、かつ新たな使者を尽く関外に駆り出し、永く貢を許さず、なお守臣とともに罕東・赤斤諸部の兵に檄を飛ばし、直ちに哈密を擣き、牙蘭を襲い斬るべし。もし機乗ずべきところなければ、則ち嘉峪関を封じ、その使を納れるなかれ。陝巴は王に封ぜられたりといえども、その還るか否かは、中国に損益なし。宜しく別に賢者を選んでこれに代うべし。帝は、陝巴が既に中国に損益なしとすれば、則ち哈密の城池は既に破られ、もし献還するならば、当に如何にこれを処すべきかと問うた。廷臣はまた言う、陝巴は安定王千奔の姪、忠順王の孫なり。向てこれを封王せしは、一方を鎮撫せしめんと欲するのみ。今虜にせられ、孱弱なること知るべし。即ち復た還るも、勢い復た立つこと難し。宜しくその王爵を革め、これを甘州に居らしめ、安定王を犒賚し、復た立たざる故を諭すべし。都督奄克孛剌に哈密の事を総理せしめ、回回都督写亦虎仙、哈剌灰都督拜迭力迷失等とともに三種の番人を分領してこれを輔けしむべし。かつ苦峪城の塹を修め、凡そ番人にして甘・涼に散処する者は、悉くその地に還らしめ、牛具・口糧を与うべし。もし陝巴未だ還らずとも、必ずしも索取せず、我陝巴を急がざれば、彼将に自ら還らんと。帝は悉くその言の如くし、海らに勅諭した。海らは勅書に陝巴を棄てんとするを見て、甚だ喜び、即ちその貢使を逐い、嘉峪関を閉じ、苦峪城を繕修し、流寓の番人にその地に帰らせ、疏を拝して還朝した。八年正月京に至り、言官交々に章を上してその経略功無きことを劾し、併せて吏に下して秩を貶せられ、而して哈密は終に還らず。

文升は鋭意謀りて興復を図り、許進を用いて甘粛を巡撫させ以てこれを図らせた。進は大将劉寧らとともに潜師して夜に襲い、牙蘭は逸去し、その遺卒を斬り、余衆を撫して降し還った。明初以来、官軍その地に渉る者無く、諸番始めて畏るるを知り、阿黒麻もまた陝巴を還さんと欲した。然れども哈密は屡々破られ、遺民入居する者は旦暮に虜を虞れ恐れた。阿黒麻は果たしてまた来攻し、固守して陝下せず、遂に散去した。諸人は自ら窮窘にして守り難しとし、尽く室廬を焚き、粛州に走りて救済を求めた。辺境の臣はこれを聞き、詔して牛具・穀種を賜い、併せて流寓の三種の番人及び哈密の赤斤に寄居する者を発し、尽く苦峪及び瓜・沙州に赴かせ、自ら耕牧せしめ、以て興復を図らしめた。

この時、哈密に王無く、奄克孛剌がその長となった。十年にその党の写亦虎仙らを遣わして来貢し、幣帛五千を与えてその価に酬いたが、使臣はなお久しく留まり、大いに咆哮した。礼官徐瓊らは極力その罪を論じ、遂にこれを駆り去った。この時、諸番は朝廷が関を閉ざし貢を絶って入ること得ざるを以て、皆阿黒麻を怨み、阿黒麻は悔い、陝巴及び哈密の衆を送還し、故の如く通貢することを乞うた。廷議は番文無くして驟に許すべからず、必ず文を具えさせて然る後にその請いを従うべしと言い、陝巴は前に廃するを議せられしも、今は暫く甘州に居らしめ、衆頭目俱に帰心するを俟ち、然る後に哈密城の塹を修復し、旧業に復せしむべしとした。帝は悉くこれに従った。冬、王越を起用して三辺の軍務を総制し、兼ねて哈密を経理させた。十一年秋、越は言う、哈密は棄つべからず、陝巴もまた廃すべからず、宜しくその旧封に仍り、先ず哈密に還らしめ、修城・築室の費を量り与え、三種の番人及び赤斤・罕東・小列禿・乜克力諸部を犒賜し、以て前の労を奨め、かつ後の効を責むべしと。帝もまた可と報じた。ここより以降、哈密は復た安んじ、土魯番もまた貢を修めて惟だ謹みあり。

奄克孛剌は、罕愼の弟であり、陝巴と相容れなかった。当時の当局者はこれを憂い、陝巴に罕愼の娘を娶らせ、彼と親しくさせた。陝巴は酒を嗜み搾取が酷く、衆人の心を失い、部下の阿孛剌らは皆怨んだ。十七年の春、密かに阿黒麻と結託してその幼子真帖木児を迎え、哈密を主宰させた。陝巴は恐れ、家族を連れて苦峪に逃れた。奄克孛剌と写亦虎仙は粛州におり、辺境の臣は二人が番衆に服されているとして、戻って陝巴を補佐させるよう命じ、百戸の董傑と同行させた。董傑は胆略があった。既に哈密に到着すると、阿孛剌はその仲間五人と謀り、夜に兵を率いて襲撃しようと約した。董傑はこれを知り、奄克孛剌らと謀り、阿孛剌らを呼び出して事を計り、直ちに斬った。その部下は遂に叛くことを敢えなかった。そこで陝巴を哈密に戻らせ、真帖木児を土魯番に戻らせた。真帖木児は十三歳で、その母は即ち罕愼の娘である。父が既に死に、兄の満速児が速檀を嗣ぎ、諸弟と相讐殺し合っていると聞き、恐れて帰ることを敢えず、奄克孛剌を頼ろうとし、「我が外祖父なり」と言った。辺境の臣は陝巴との間に隙が生じることを慮り、彼を甘州に住まわせた。十八年の冬、陝巴が卒し、その子の拜牙即が自ら速檀を称した。命じて忠順王に封じた。

正徳三年、写亦虎仙が入貢したが、通事と同行せず、自ら辺境の臣の文牒を携えて投進した。大通事の王永は怒り、疏を上って究治を請うた。写亦虎仙もまた王永が需索を求めたと奏した。王永は豹房に供奉し、寵を恃んで恣りに横暴であった。詔して究治せず、両者を戒諭した。写亦虎仙はこれより益々朝廷を軽んじ、密かに異志を抱いた。

初め、拜牙即が職を嗣ぐと、満速児は和を通じ、且つ使者を遣わして真帖木児を求めた。辺境の臣は与えるのが便であると言った。枢臣は、土魯番が悪を積むこと久しく、今我が哈密を扶植するのを見て、声勢が漸く張るに及び、卑しい言葉で貢を求め、弟を還すことを名目としている。我がその弟を留めるのは、正に古人がその親愛の者を質とする意に合い、急に遣わすべからず、と言った。帝はこれに従った。六年、始めて写亦虎仙に都督の満哈剌三を偕わせて西還させ、哈密に至ると、奄克孛剌はこれを留めようとしたが、二人は肯わなかった。護衛して土魯番に至り、遂に国情を満速児に伝え、且つ拜牙即を誘って叛かせた。拜牙即は元来昏愚で、性もまた淫暴であり、属部が己を害することを恐れていた。而して満速児はまた甘言でこれを誘い、即ち奄克孛剌と共に往かんとしたが、従わず、粛州に奔った。八年の秋、拜牙即は城を棄てて叛き土魯番に入った。満速児は火者他只丁を遣わして哈密を占拠させ、また火者馬黒木を甘粛に赴かせ、拜牙即は国を守ることができず、満速児が将を遣わして代わりに守り、犒賞を賜わることを乞う、と言わせた。

九年四月、事が聞こえ、都御史の彭沢を遣わして経略させた。彭沢が未だ到らぬうちに、賊は兵を分遣して苦峪・沙州を掠め、金幣一万を与えよ、即ち城と印を帰す、と声言した。彭沢が甘州に到着すると、番人は利を嗜むから、これに因って和すべきであると言った。通事の馬驥を遣わし、侵地と王を還せば、重賞を与えると諭させた。満速児は偽ってこれを許し、彭沢は即ち幣帛二千及び白金の酒器一具を与えた。十一年五月、疏を上って言う、「臣は通事を遣わし国威を宣べ、重賞を以て要約すれば、その酋は悔いて順に效い、即ち金印及び哈密城をこれに付した。満哈剌三・写亦虎仙の二人は他只丁を召還し、併せて奪った赤斤衛の印を還した。惟だ忠順王は他の所にあり、未だ還らず。効労した人役の功を録し、臣の骸骨を賜わり田里に帰らしめられたい」。帝は即ち朝に還るよう命じた。忠順王は遂に返らず、他只丁もまた退くことを肯わず、重賞をまた求め、始めて城を以て来帰した。

明年五月、甘粛巡撫の李昆が上言した、「満速児の牒を得るに、拜牙即は復位すべからず、即ち故土に還しても既に人心を失い、別に安定王の千奔の後裔を立てることを乞う、という。この言は良く然り。もし必ずやその国を復せしめんと欲すれば、満速児兄弟に送還せしめるよう勅し、仍って厚く繒帛を賜い、その順に效うことを冀わん」。廷議は、「西陲を経略すること已に三載を踰ゆるに、而して忠順は遂に還期無し。師を興し貢を絶ち、その要求に遂うべからず、我が威重を損ずべからず。但だ城と印は帰し、国体は具わる。宜しく満速児が国恩に背き、求めて厭うこと無きを責める勅を下すべし。仍ってその兄弟に量りて賜い、速やかに忠順を帰せしむべし。従わざれば、則ち関を閉ざし貢を絶ち、兵を厳しくして備えとすべし」。これに従った。

初め、写亦虎仙は満速児と深く結び付いたので、首として逆謀を唱えた。已にして隙有り、満速児は彼を殺さんと欲し、大いに懼れ、他只丁に解きを求め、幣千五百匹を賂うことを許し、粛州に至ってこれを与える期を約し、且つこれに寇に入ることを啗え、粛州は得べし、と言った。満速児は喜び、その婿の馬黒木と共に入貢させ、以て虚実を覗かせ、且つその賂を徴した。辺境の臣は同来の火者撒者児が火者他只丁の弟であるから、変を為すことを懼れ、その党の虎都写亦と共に甘州に羈縻し、而して写亦虎仙を督して関を出させたが、懼れて肯って去らなかった。他只丁はその弟が拘えられたと聞き、怒り、またまた哈密城を奪い、満速児に移り住むよう請い、兵を分けて沙州を脅かし占拠し、衆を擁して寇に入り、兔児壩に至った。遊撃の芮寧と参将の蒋存礼、都指揮の黄栄・王琮が各々兵を率いて往き防禦した。芮寧が先に沙子壩に到着し、賊に遇う。賊は衆を悉くして芮寧を囲み、而して兵を分けて諸将を綴り、芮寧の所部七百人は皆戦没した。賊は粛州城に迫り、許された幣を求めた。副使の陳九疇が固く守り、且つ先んじてその内応を絶った。賊は事が洩れたと知り、援兵の至るを慮り、大いに掠めて去った。

十二年正月、羽書が聞こえ、廷議はまた彭沢に軍務を総制させ、中官の張永・都督の郤永に師を率いて西征させた。賊は還って瓜州に至り、副総兵の鄭廉が奄克孛剌の兵と合してこれを撃破し、七十九級を斬った。賊は乃ち遁去し、また瓦剌と相攻ち、力敵せず、書を移して和を求めた。彭沢らは乃ち行を罷めた。

先に、写亦虎仙は子の米児馬黒木・婿の火者馬黒木及びその党の失拜烟答と共に内応の罪で獄に繋がれ、失拜烟答は捶ち死にした。事が平らぎ、写亦虎仙を械して京に赴かせ、刑部の獄に下した。その子は仍って甘州に繋がれた。失拜烟答の子の米児馬黒麻は、写亦虎仙の姪婿である。入貢して在京し、王瓊が彭沢を傾けんと欲することを探知し、突如長安ちょうあん門に入り父の冤を訟え、錦衣獄に下された。兵部・法司が甘粛に訊報を行わんことを請うに会い、王瓊はこれに因って大獄を興さんと欲し、科道二人を遣わして往き勘するよう奏した。明年、勘が至り、彭沢には坐する所無し。王瓊は怒り、彭沢が欺罔して国を辱しめたと劾し、民に斥けた。李昆・陳九疇が激変させた罪に坐し、吏に逮え下し、併せて重譴を獲た。明年、写亦虎仙もまた死を減じ、遂に錢寧に夤縁し、その婿と共に帝の左右に侍するを得た。帝はこれを悦び、国姓を賜い、錦衣指揮に授け、駕に扈従して南征した。

満速児が辺を犯した後、屡々通貢を求めたが、得られなかった。十五年、先に掠めた将卒及び忠順王の家族を帰し、また貢を求めた。廷議はこれを許したが、王は遂に還らず。巡按御史の潘倣は力言して貢は当に許すべからずと言ったが、聴かれなかった。明年、世宗が位を嗣ぐと、楊廷和は写亦虎仙が中国の情実に熟し、帰れば必ず辺患となるとし、遺詔の中でその罪を数え、その子・婿と共に伏誅させ、而して陳九疇を用いて甘粛巡撫とした。

当時、満速児は毎年朝貢に来ており、朝廷は以前と同様に待遇し、忠順王の事も再び問わなかった。嘉靖三年の秋、満速児は二万騎を率いて粛州を包囲し、兵を分けて甘州を侵犯した。陳九疇と総兵官姜奭らは奮戦してこれを破り、他只丁を斬り、賊はようやく退却した。事が上聞されると、兵部尚書金献民に西征を命じ、蘭州に到着したが、賊はすでに久しく退去していたため、軍を引き返した。陳九疇は強く賊は懐柔できないと主張し、関門を閉ざして朝貢を絶ち、専ら辺防を固めることを乞い、許可された。翌年の秋、賊は再び粛州を侵犯し、兵を分けて参将雲冒を包囲し、一方で大軍を南山に進めた。陳九疇はすでに解職していたが、他の将軍が援兵に到着し、賊はようやく逃げ去った。

この時、番人はしばしば辺境の城を侵犯したが、当局者は国威を振るい、辺疆のために復讐雪恥することができず、かえって一二の新進の権力者がこれに乗じて私怨を晴らした。これにより、封疆の獄が起こった。百戸王邦奇は、もとより楊廷和・彭沢を恨んでおり、六年の春、上奏して言うには、「今、ハミルクが国を失い、番賊が内侵するのは、彭沢が番に賄賂を贈って和を請い、楊廷和が写亦虎仙を論じて殺させたことによる。この二人を誅すれば、ハミルクは回復し、辺境に憂いがなくなるであろう」。桂萼・張璁らはこれを用いて大獄を起こそうとし、楊廷和・彭沢を庶民に落とし、その子弟や親族をことごとく法に問い、自殺する者もあった。さらに給事中・錦衣衛の官を派遣して調査させた。番酋の牙蘭は、敢えて天朝に罪を犯すつもりはなく、辺境を侵犯したのは、写亦虎仙・失拜烟答の二人を冤罪で殺したためであると言った。今、城と印を献上して返還し、前罪を贖いたいと願う。事は兵部に下され、尚書王時中らは言うには、「番酋は再三朝貢を乞い、先に総制尚書王憲に下し、その貢使を戒めて責めた。その請いは虚妄ではないであろうが、その言葉は牙蘭から出たもので、真に朝貢を求める文書ではなく、あるいは我を欺くためのものである。もし真に罪を悔いるなら、必ず先に城と印及び掠奪した人畜を返還し、首謀者を縛って送り、関門で叩頭してこそ、初めて聞き入れるべきである」。帝はこれを採用した。桂萼は以前の獄が未決であるとして、必ず大獄を再興しようとし、牙蘭を人質として留め、通訳を派遣してその主君に侵奪した土地を返還するよう諭すことを請うた。そして礼部・兵部の尚書方献夫・王時中らと協議し、挑発的な言葉を用い、番人が上書した者は四度に及び、いずれも前の官吏に罪を帰している、言葉は誹謗や飾りが多いが、事の発端には原因があると言った。官を派遣して激変の虚実を厳しく調査させ、その心を服させ、他の事は先の議の通りに行うべきである。陳九疇が勝利を報告した時、満速児・牙蘭はすでに砲石の下で死んだと言ったが、二人は実際には死んでいなかった。帝はもとよりこれを疑っていた。桂萼らの議を見て、ますます辺臣が欺いていると疑い、数百字の手詔を下し、陳九疇を厳しく責め、死罪にしようとし、首輔の楊一清に党庇しないよう戒め、遂に官を派遣して陳九疇を逮捕させた。尚書金献民・侍郎李昆以下、連座した者は四十余人に及んだ。

七年正月、陳九疇は逮捕されて獄に下された。桂萼らは必ず彼を殺し、楊廷和・彭沢をも連座させようとした。刑部尚書胡世寧が力強く救い、帝はやや悟り、死罪を免じて辺境に戍らせ、彭沢・金献民らは皆免職となった。番酋の気勢はますます驕り、桂萼はまた王瓊を推薦して三辺を督させ、陳九疇が拘束していた番使をことごとく釈放して返還し、朝貢を許した。番酋はついに罪を悔い改めず、以前のように侮り弄んだ。当時、牙蘭は主君に罪を得て、部族を率いて来帰し、辺臣はこれを受け入れた。満速児は怒り、その部下の虎力納咱児がワラス(瓦剌)の二千余騎を引き連れて粛州を侵犯し、老鸛堡に至った。たまたまサマルカンド(撒馬児罕)の貢使が堡の中にいたので、賊は呼びかけて話し、遊撃彭𤀹が急いで兵を率いてこれを撃った。賊は信を通じて和を求めたいと言ったが、彭𤀹は聞き入れず、進んで戦い、これを破った。賊は赤斤に逃げ、人を派遣して番文を持たせて朝貢を求め、罪をワラスに帰し、言葉は多く傲慢無礼であった。王瓊は時の権貴の意を迎え、必ず懐柔を議しようとし、番人はすでに悔い改めつつある、情状を酌んで罪を赦し、兵を収め民を休ませるべきであると言い、併せて彭𤀹及び副使趙載の功績を上奏した。上奏文は兵部に下された。

初め、胡世寧が陳九疇を救おうとした時、ハミルクを放棄して守らないようにし、言うには、「拜牙即は久しくトルファン(土魯番)に帰属しており、仮に故土に戻っても、その臣下に過ぎず、他の族裔に継ぐ者はない。回回の一種は、すでに早くからこれに帰属している。哈剌灰・畏兀児の二族は粛州に逃れて帰附して久しく、関外に追い出すことはできない。それではハミルクをどうして興復できようか。たとえ忠順王の嫡派を得て、金印を与え、兵糧を助けても、誰がこれを守るのか。一二年も経たぬうちに、再び奪われ、彼らの富強を増し、我が皇命を辱め、徒らに再び城と印を得させ、後日の要挟の材料とするだけである。乞う、聖明に熟慮され、先朝の和寧・交阯の故事のように、ハミルクを置いて問わないこと。もし侵犯し騒がせなければ、朝貢を許す。そうでなければ、関門を閉ざして絶つ。これによって外番のために中国を疲弊させないようにするのがよい」。詹事霍韜は力強くその非を駁した。この時、胡世寧は兵部を掌るようになり、上奏して言うには、「番酋は変詐多く、我が粛州を取ろうとすれば、次第に奸回を内地に置く。事が発覚すれば、多く反間を放ち、我が輔臣を陥れる。先に朝貢を許し、使者が関に入ったばかりなのに、賊兵がすでに至り、河西は危うくなった。この関門閉鎖と朝貢の利害は明らかである。今、王瓊らは既に賊が我が城堡に迫り、士卒を縛り、大挙すると声言して天朝を恐喝したと言いながら、また賊はまさに懼れて悔い改めつつある、やはり朝貢を許すべきだと言う。どうしてこれほど自ら矛盾するのか。霍韜はまた賊に印信の番文がないことを疑うが、臣はたとえ印信があっても、どうして十分な根拠になろうかと言う。ただその術中に陥らず、我が忠臣を離間させず、我が辺備を弛緩させなければよい。牙蘭はもと我が属番であり、彼らに掠め去られたが、今、身を束ねて来帰した。事は反正に属するので、すぐに懐柔して用いるべきである。彼らの離反者を招き、我が藩籬を厚くする。ハミルクを興復することについては、臣らはひそかに中国の急務ではないと考えている。ハミルクは三度立てられ三度絶え、今その王はすでに賊に用いられ、民はことごとく流亡している。仮に他の種族を立てたとしても、彼らが強ければ侵入し、弱ければ賊に従い、侵さず叛かない臣となることを保証できない。故に臣は立てても益がなく、ただ番酋に挟まれて奸利を得させるだけだと思う。乞う、王瓊に璽書を賜い、甘粛の守臣と会同して、番使を帰して満速児に諭し、侵犯の状況を詰問させる。もし知らぬふりをするなら、虎力納咱児を縛って送らせる。あるいは事がワラスから出たなら、その者を縛って自ら贖罪させる。そうでなければその使臣を拘束し、兵を発して討伐する。これによって威信並び行き、賊は収斂することを知るであろう。さらに王瓊に勅して国のために忠を謀り、善後の策を力強く求めさせ、番を通じて貢を納めることを権宜とし、食を足し圉を固めることを久遠の計とさせれば、封疆は幸いである」。上疏が入ると、帝は深くこれを是とし、王瓊に熟慮して詳細に処置させ、軽々しく番の言葉を信じないよう命じた。

翌年になると、甘粛巡撫唐沢もハミルクは容易に興復できないとして、専ら自治の策を図ることを請うた。王瓊はこれを善しとし、これに基づいて上聞し、帝は許可した。これよりハミルクを置いて問わず、トルファンには朝貢を許し、西陲はこれによって肩の荷を下ろした。ハミルクは後に失拜烟答の子ミール・マフムード(米児馬黒木)の所有するところとなり、トルファンに服属した。朝廷はなお彼らに毎年一回の朝貢を命じ、諸番とは異なり、隆慶・万暦朝に至るまでなお朝貢は絶えなかったが、もはや忠順王の苗裔ではなかった。

柳城

柳城は、一名を魯陳といい、また柳陳城ともいい、すなわち後漢の柳中の地であり、西域長史が治めた所である。唐代には柳中県を置いた。西は火州まで七十里、東は哈密まで千里である。一大川を経過するが、道の傍らには骸骨が多く、伝えるところでは鬼魅がおり、行旅の者は朝夕に伴侶を見失い、多くは迷って死ぬ。大川を出て、流沙を渡ると、火山の下に城があり、屹然として広さ二三里、これが柳城である。四面は皆田園で、流水が巡り、樹木が陰翳をなす。土は穄・麦・豆・麻に適し、桃・李・棗・瓜・胡蘆の類がある。そして葡萄が最も多く、小さくて甘く、核がなく、名を鎖子葡萄という。畜産には牛・羊・馬・駱駝がある。気候は常に温和である。土人は純朴で、男子は椎結し、婦人は皁布を被り、その語音は畏兀児に似ている。

永楽四年、劉帖木児が別失八里に使いし、これに因み命じて綵幣を齎し柳城の酋長に賜う。明年、その万戸瓦赤剌が即ち使いを遣わして来貢した。七年、傅安が西域より還ると、その酋はまた使いを遣わし随いて入貢した。帝は即ち命じて安に綺帛を齎して報いしめた。十一年夏、使いを遣わし白阿児忻台に随って入貢した。冬、万戸観音奴が再び使いを遣わし安に随って入貢した。二十年、哈密と共に羊二千を貢した。

宣徳五年、頭目阿黒把失が来貢した。正統五年、十三年、ともに入貢した。以後は再び至らなかった。

柳城は火州・土魯番に密邇し、天朝の使いを遣わすこと及びその酋長の入貢は、多くこれらと偕にする。後に土魯番が強盛となり、二国はともに併呑された。

火州

火州は、また哈剌といい、柳城の西七十里、土魯番の東三十里にあり、すなわち漢の車師前王の地である。隋の時は高昌国であった。唐の太宗が高昌を滅ぼし、その地を西州とした。宋の時は回鶻がここに居り、嘗て入貢した。元では火州と名づけ、安定・曲先諸衛と統べて畏兀児と号し、達魯花赤を置いて監治した。

永楽四年五月、鴻臚丞劉帖木児に命じて別失八里の使者を護送して帰らせ、これに因み綵幣を齎してその王子哈散に賜う。明年、使いを遣わし玉璞と方物を貢した。使臣が言うには、回回で京師に商売する者は、甘・涼の軍士が多く私かに境外に送り出し、辺務を漏洩していると。帝は御史を遣わして按問させ、かつ総兵官宋晟に命じて厳しくこれを束ねさせた。七年、使いを遣わし哈烈・撒馬児罕と偕に来貢した。十一年夏、都指揮白阿児忻台が使いを遣わし俺的千・失剌思等九国と偕に来貢した。秋、陳誠・李暹等に命じて璽書・文綺・紗羅・布帛を齎して慰労に赴かせた。十三年冬、使いを遣わし誠に随って来貢した。ここより久しく至らなかった。正統十三年、再び貢し、後遂に絶えた。

その地は山が多く、青紅にして火の如し、故に火州と名づく。気候は熱い。五穀・畜産は柳城と同じである。城は方十余里で、僧寺が民居より多い。東に荒城あり、すなわち高昌国の都で、漢の戊己校尉こういが治めた所である。西北は別失八里に連なる。国は小さく、自立できず、後に土魯番に併呑された。

土魯番

土魯番は、火州の西百里にあり、哈密まで千余里、嘉峪関まで二千六百里である。漢の車師前王の地。隋は高昌国。唐は高昌を滅ぼし、西州及び交河県を置いたが、ここは交河県の安楽城である。宋は再び高昌と名づけ、回鶻に占拠され、嘗て入貢した。元は万戸府を設けた。

永楽四年、官を遣わして別失八里に使いし、その地を経由し、綵幣を賜う。その万戸賽因帖木児が使いを遣わし玉璞を貢し、明年京師に達した。六年、その国の番僧清来が徒の法泉等を率いて朝貢した。天子は番俗を化導せしめんと欲し、即ち灌頂慈慧円智普通国師に授け、徒七人をともに土魯番僧綱司の官とし、賜賚甚だ厚かった。ここよりその徒来る者絶えず、名馬・海青及び他の物を貢した。天子もまた数たび官を遣わしてこれを奨労した。

二十年、その酋尹吉児察が哈密と共に馬千三百匹を貢し、賜賚を加えた。やがて尹吉児察は別失八里の酋歪思に逐われ、京師に走り帰った。天子これを憫れみ、都督僉事に命じ、故土に遣還した。尹吉児察は中国の徳を感じ、洪熙元年自ら部落を率いて来朝した。宣徳元年もまた同じであった。天子はこれを甚だ厚く遇し、帰国して病没した。三年、その子満哥帖木児が来朝した。やがて都督鎖恪の弟猛哥帖木児が来朝し、指揮僉事に命じた。五年、都指揮僉事也先帖木児が来朝した。正統六年、朝議で土魯番が久しく貢を失うを以て、米昔児の使臣の還るに因み、鈔幣を齎してその酋巴剌麻児に賜わしめた。明年、使いを遣わし入貢した。

初め、その地は于闐・別失八里諸大国の間に介在し、勢い甚だ微弱であった。後に火州・柳城を侵掠し、ともに併呑され、国は日に強くなり、その酋也密力火者は遂に王を僭称した。景泰三年を以て、その妻及び部下の頭目と各々使いを遣わし入貢した。天順三年再び貢し、その使臣で進秩する者二十四人あった。先後して指揮白全・都指揮桑斌等に命じてその国に使いさせた。

成化元年、礼官姚夔等が議を定め、土魯番は三年あるいは五年に一貢とし、貢使は十人を過ぎてはならぬとした。五年、使いを遣わし来貢し、その酋阿力は自ら速檀と称し、海青・鞍馬・蟒服・綵幣・器用を奏求した。礼官が物多く違禁に属し、全て従うべからずと言うので、綵幣・布帛を賜うことを命じた。明年再び貢し、忽撥思箏・鼓羅・䩞鐙・高麗布諸物を奏求した。廷議は許さなかった。

時に土魯番はますます強盛となり、一方で哈密は主なくして弱体化し、阿力はこれを併せんと欲した。九年春、その城を襲撃して破り、王母を執し、金印を奪い、兵を分けて守って去った。朝廷は李文等に経略を命じたが、功なくして還った。阿力は例のごとく貢を修め、一年のうちに、使い来ること三度、朝廷はなおこれを善く遇し、一言も厳しく詰問しなかった。貢使はますます傲り、馴象を求めた。兵部が象は儀衛に備えるもので、礼には進献はあれど求索はないと言い、その請を却けた。使臣はまた言うには、すでに哈密の城池及び瓦剌の奄檀王の人馬一万を得、また曲先及び亦思渴の頭目倒剌火只を収捕したので、朝廷に使いを遣わして道を通じ、往来して和好することを乞うと。帝は言った、「迤西の道は阻むところなく、官を遣わす必要はない。阿力がもし誠心を以て貢を修めるなら、朝廷は前の過ちを計らず、なお礼を以て遇するであろう」。使臣はまた言うには、赤斤諸衛は平素より仇あり、将士を遣わして行を護衛することを乞い、かつ阿力はたとえ哈密を得たとしても、ただ物産を以て貢に充てるのみで、願わくば使臣の家族を辺境に質とし、勅を賜ってその王に帰って諭し、城と印を献還させよと。帝はその護衛の請いに従ったが、勅を賜って阿力に王母及び城印を献還させ、即ち和好を初めの如くせしめんとした。使臣が還ると、また他の使いを遣わし再び入貢したが、哈密を還さなかった。

十二年八月、甘州の守臣が言うには、番使が王母は既に死し、城と印は共に存在し、朝廷より往諭を俟て即ち献還すと。帝は既にその貢使を退けたが、再び京に入らしむ。時に大臣は専ら姑息を務め、遠方の小醜に顧忌無からしむ。

十四年、阿力死し、その子阿黒麻が速檀を嗣ぎ、使を遣わして来貢す。十八年、哈密都督罕愼が潜かに師を擣ちて哈密を克つ。賊将牙蘭遁走す。阿黒麻頗る懼る。朝議すらく、罕愼功有り、将に王と為さんとす。阿黒麻これを聞き、怒りて曰く、「罕愼は忠順の族に非ず、安んぞ立つを得んや」と。乃ち偽りに結婚す。

弘治元年、躬より哈密城下に至り、罕愼を誘いて盟し、執いて殺し、復たその城を拠し、而して使を遣わして入貢す。罕愼と姻を締めしと称し、蟒服及び九龍渾金膝襴諸物を賜わらんことを乞う。使甘州に至り、而して罕愼の変既に聞こえ、朝廷亦罪せず、但ちその主に還諭し、我が侵地を帰せしむ。番賊中国の易与なるを知り、命に奉ぜず、復た使を遣わして来貢す。礼官議してその賞を薄くし、使臣を拘す。番賊稍く懼る。

三年春、撒馬児罕に偕なって獅子を貢し、城印を献還せんことを願う。朝廷亦その使臣を還す。礼官請う、却して納れざるを。帝従わず。及び使還るに、内官張芾を行を護せしめ、内閣に諭して勅を草せしむ。閣臣劉吉等言う、「阿黒麻天恩に背負し、我が立てし罕愼を殺す。宜しく大将を遣わして直ちに巣穴を擣ち、その種類を滅し、始めて中国の憤を雪するに足る。或いは即ち討たずとも、亦た古の帝王の玉門関を封ずるが如く、その貢使を絶つも、猶お大體を失わざるなり。今その使臣を寵し、厚く優待を加え、又中使を遣わして伴送す。此れ何の理ぞや。陛下事成憲に遵うも、乃ち故無く番人を召して大内に入り、獅子の戯れを見しめ、大いに御品を賚い、誇耀して出ださしむ。都下これを聞き、咸な駭嘆を為し、祖宗以来、従て此の事無しと謂う。奈何ぞ万乗の尊を屈し、奇獣の玩びと為し、異言異服の人をして、清厳の地に雑遝せしむる。況んや使臣満剌土児は即ち罕愼の外舅、主を忘れ讐に事え、天に逆らい道無し。而して阿黒麻人馬を聚集し、肅州を犯さんと謀る。名は貢を奉ずと雖も、意実に叵測なり。兵部議してその使臣を羈すること、正に事宜に合う。若し張芾の行を停めざれば、彼の使臣国に還り、阿黒麻必ず中土の帝王情を通じ寵を希う可く、大臣国を謀り、天子聴かず、我を奈何す可きと謂わん。番賊の志を長じ、天朝の威を損ずるは、此より甚しきは莫し」と。疏入り、帝芾の行を止め、而して閣臣に興師・絶貢の二事を問う。吉等時勢未だ能わざるを以てし、但ちその賜賚を薄くするを請う。因りて獅を飼うに日二羊を用い、十歳とすれば則ち七千二百羊なり、獅を守るに日校尉五十人を役し、一歳とすれば則ち一万八千人なりと言う。若しその餧養を絶ち、その自斃に聴かば、千載に伝え、実に美談と為すと。帝用いず。

秋、又使を遣わし海道より獅子を貢す。朝命これを却く。その使乃ち潜かに京師に詣る。礼官請う、沿途の有司を治罪し、仍おその使を却くを。従う。是の時に当たり、中外乂安し、大臣馬文升・耿裕輩、咸に国體を知り、貢使に多く裁損有り。阿黒麻稍く中国に人あるを知る。四年秋、使を遣わし再び獅子を貢し、金印及び拠る所の十一城を還さんことを願う。辺臣以て聞す。許す。果たして城印を以て来帰す。明年、陝巴を封じて忠順王と為し、これを哈密に納れ、厚く阿黒麻の使臣を賜い、先に拘せし者尽く釈して還す。

六年春、その前使二十七人還る。未だ境を出でず、後使三十九人猶お京師に在り。阿黒麻復た襲い陥れて哈密を執し、陝巴を執して去る。帝命す、侍郎張海等経略せしむ。その使を優待し、進見を得しむ。礼官耿裕等諫めて曰く、「朝廷外番を馭するは、宜しく大體を惜しむべし。番使去年より入都し、久しく宣召せず。今春三月以来、宣召再に至り、且つ幣帛羊酒を賜う。正に謾書投入の時に当たり、小人何を知らん、将に朝廷の恩礼昔に比して加わる有り、乃ち我を畏れて然るなりと謂わん。事国體に干し、慎まざるべからず。況んや此の賊崛強にして礼無く、久しく不庭の心を蓄う。遣わす所の使臣は、必ずその親信腹心なり。乃ち禁掖に出入せしめ、防閑略無し。万一奸宄窺伺し、潜かに逆謀を逞うせば、雖も悔ゆるも何ぞ及ばん。今その使写亦満速児等宴賚已に竣り、猶お行かんことを肯せず、曰く朝廷復た宣召す可からんことを恐るると。夫れ遠物を宝とせざれば、則ち遠人格す。獅は本より野獣、奇と為すに足らず。何ぞ上鑾輿を煩わし、屡々臨視を加え、荒徼の小醜をして聖顔を覲し、口実と為さしむるに至らんや」と。疏入り、帝即ち遣還す。張海等甘肅に抵り、朝議に遵い、その貢物を却け、前後の使臣一百七十二人を辺に羈し、嘉峪関を閉じ、永く貢道を絶つ。而して巡撫許進等、又潜かに兵を擣ちて直ちに哈密に至り、牙蘭を走らす。阿黒麻漸く懼る。その鄰邦貢を得ず、胥に阿黒麻を怨む。十年冬、陝巴を送還し、関に款して貢を求む。廷議これを許す。十二年、その使再び求め、前に広東に安置せし使臣悉く釈して還すを命ず。

十七年、阿黒麻死す。諸子争い立ち、相仇殺す。已にして長子満速児速檀を嗣ぎ、貢を修むること故の如し。明年、忠順王陝巴卒す。子拜牙即ち襲ぐ。昏愚にして道を失い、国内益く乱る。而して満速児桀黠変詐父に踰え、復た哈密を吞まんの志有り。

正徳四年、その弟眞帖木児甘州に在り。貢使放還を乞う。朝議許さず。乃ち甘州守臣の奏を以て送還す。還りて即ち辺情をその兄に告げ、共に逆を謀る。九年、拜牙即を誘いて叛き、復た哈密を拠す。朝廷彭沢を遣わして経略せしめ、城印を贖い還す。その部下他只丁復たこれを拠り、且つ満速児を導きて肅州を犯わしむ。是より、哈密復た得可からず、而して患且つ甘肅に中る。会に中朝大臣自ら相傾陷し、番酋これを覘い知り、益く讒搆を肆にす。賊の腹心天子に侍するを得、中国體大いに虧け、賊の気熖益く盛ん。

十五年、再び通貢を許す。甘粛巡按の潘倣が言うには、「番賊が逆らって犯し、殺戮掠奪すること、その惨状は言い尽くせない。今、罪を悔いているとはいえ、果たして以前の罪の万が一でも償えるだろうか。数年この方、たとえ関を閉ざしたとしても、未だに罪を問うことはできなかった。今、彼らは困窮疲弊して通交を求め、かつ我が意向を窺い、我が虚実を探り、我が後の図りを緩ませ、我に重利で誘おうとしている。この時に少しもその罪を正さなければ、ますます軽慢の心を起こさせ、反覆の禍いを招くことになり、中国を尊び外番を制御する道ではない。況や彼らの番文は従い難き言葉を執り、敢えて拒む様子を示し、罪を悔いて通交を求める日にあたり、侮慢で恭しくない言葉を用いており、その変詐は既に現れている。もし来る者を拒まずというのが、戎を制する常法であると言い、彼らの事の非を全て無視し、和を求める使節を受け入れれば、必ずや恩礼を貪り、賞賜の食糧に飽き足り、和市や私販で満載して帰ることになろう。欲しいものが既に満たされれば、驕りの志が再び芽生え、少しでも心に満たなければ、動くごとに口実とし、反覆の禍いは、目前にある。叛いても未だ罪を加えられず、却って掠奪の利を得、来れば必ずしも拒まれるわけではなく、さらに賜賚の栄えがあるなら、何を憚って行わないことがあろうか。臣は、窘迫の時を乗じ、しばらくは慴伏の計を為すべきであると考える。たとえその悔過の言葉を受け入れるとしても、暫くはその来貢の使節を阻み、勅を降してその犯順を責め、なお未だ返されざる人々の返還を求めるべきである。その番文に疑わしい点があれば、詳しく詰問し、彼らに中国の尊厳と天威の犯し難きを知らしめれば、おそらく反側の心は萌さず、帰服は長く続くであろう。」時に王瓊は款議を力主し、その言を容れなかった。

翌年、世宗が即位し、賊の腹心である写亦虎仙が誅せられ、頼るところを失い、再び辺境を犯さんと謀る。嘉靖三年に肅州を寇し、甘州を掠め、四年に再び肅州を寇して、皆失利して去り、ここに至って卑しい言葉で貢を求める。ちょうど璁・萼らが封疆の獄を起こし、遂に密かに満速児を庇って再びその貢を許し、議は既に定まる。賊党の牙蘭という者は、元は曲先の人で、幼くして番に掠われ、長じて聡明で健やかであり、阿力は妹を娶らせ、兵権を握らせて事を用い、久しく西陲の患いとなっていたが、この時に至ってその主に罪を得、七年の夏、率いる所の二千人を率いて来降した。帖木兒哥・土巴という者がおり、共に沙州の番族で、土魯番に隷属させられ、毎年婦女牛馬を徴発され、侵暴に耐えられず、またその族属数千帳を率いて来帰した。辺臣は皆これらを内地に処置した。

満速児は怒り、その部下の虎力納咱児に命じて瓦剌を引き入れ肅州を寇させたが、勝たず、則ち再び使節を遣わして貢を求める。総督の王瓊はこれを許すことを請うたが、詹事の霍韜が言うには、「番人が哈密を攻め陥して以来、議する者は或いは通貢を請い、或いは絶貢を請うたが、聖諭には必ず悔罪の番文があって後に許すとある。今、王瓊が訳して進めた文は、皆その部下の小醜の言葉で、印信として足るべき証拠がない。我々が急いでこれを許せば、恐らく戎の心はますます驕り、後々制御し難くなろう。憂うべきことの一つである。哈密の城池は献還されると称するが、然し実据がなく、どうして興復できようか。或いは遂に棄置して問わざるの議が出て、彼らはますます得意になり、必ずや我が罕東を劫い、我が赤斤を誘い、我が瓜・沙を掠め、外は瓦剌に連なり、内は河西を擾し、辺境の警報は時を置かず起こるであろう。憂うべきことの二である。牙蘭は番酋の腹心であり、衆を擁して来奔したのに、彼らは行方が分からないと言う。どうして我を誘うための詐降でないと言えようか。他日辺境を犯し、我が叛臣を納れたと言うであろう。我が彼の叛臣を帰さなければ、彼は我が哈密を帰さない。これより西陲はますます事が多くなり、哈密は終に興復の期がないであろう。憂うべきことの三である。牙蘭が来て以来、日々に食糧を給し、費用は実に多いが、なお羈縻の策やむを得ずと言う。もし番酋が衆を擁して関門を叩き、その叛人を索めれば、与えるのか、それとも拒むのか?また或いは牙蘭が禍心を包蔵し、内に変を構えれば、内外協応して、どうして防ごうか?憂うべきことの四である。或いは今、陝西は飢困し、甘粛は孤危であるから、哈密は棄てるべきだと言う。臣は言う、哈密を保つことは、甘粛・陝西を保つ所以であり、甘粛を保つことは、陝西を保つ所以である。もし哈密が守り難いからといって即ち哈密を棄てるなら、然らば甘粛が守り難いからといって甘粛も棄てるのか?昔、文皇が哈密を立てたのは、元の遺孽で力有りて自立できる者に因り、よってこれを立てたのである。彼はその名を仮り、我はその利を享けた。今、忠順王の嗣は三度絶えており、天の廃する所、誰がこれを興せようか?今、諸夷の中に、雄傑で哈密を守れる者を求め、即ち金印を与え、諸番を和輯させ、我が藩蔽たらしめればよいのである。必ず忠順の裔を求めて立てようとするのは、その固陋さが多く見られる。」疏が入り、帝はその辺計に留め置くことを嘉し、兵部に確議を下す。尚書の胡世寧らは、牙蘭を棄てるべからず、哈密は必ずしも興復せず、専ら自治の策を図ることを請うと力言し、帝は深くその言を容れた。ここより番酋の通貢を許すが、哈密の城印及び忠順王の存亡は置いて再び問わず、河西は少し休息を得たが、満速児はますます桀傲となった。

十二年、臣を遣わして三事を奏す。一、巡撫陳九疇の罪を追治することを請う。一、官を遣わして和を議することを請う。一、叛人牙蘭を還すことを請う。言葉多く悖慢で、朝廷は罪とすることができず、ただ職貢を修め妄言なきことを戒めるのみであった。然し、写亦虎仙が誅せられ、他只丁が陣没し、牙蘭もまた降って以来、その頼るところを失い、勢いもまた次第に孤となり、部下は各自雄長し、王を称して入貢する者は多きこと十五人に至り、政権もまた一でなかった。

十五年、甘粛巡撫の趙載が辺事を陳べ、言うには、「番酋は屡く服し屡く叛き、我が撫するに厚すぎ、信ずるに深すぎ、ますますその奸狡を長じさせている。今後入犯すれば、宜しくその使臣を戮し、その従人を両粵に徙し、関を閉ざして拒絶すべきである。即ち彼が罪を悔いても、ただ奉貢を許すのみで、輒ち従人を還してはならない。彼は内に牽かれる所があり、外に畏れる所があれば、自ら軽々しく犯すことはないであろう。」帝は頗るその言を採る。

二十四年、満速児が死に、長子の沙が嗣いで速檀となり、その弟の馬黒麻もまた速檀を称し、分かれて哈密を拠る。已にして兄弟は讐殺し、馬黒麻は乃ち瓦剌と婚姻してその兄に抗し、かつ沙州に田を墾き、入犯を謀る。その部下来って告げるあり、馬黒麻は乃ち関門を叩いて貢を求め、復た内地への安置を求める。辺臣が諭して止めると、乃ち故土に還り、兄と同処する。総督の張珩がこれを聞かせ、詔してその入貢を許す。二十六年、五歳に一貢の令を定む。その後、貢期は令の如くであるが、来使はますます多くなる。世宗の末年に至って、番文は二百四十八道に至る。朝廷はその情に重ねて違えず、皆これに給賜した。

隆慶四年、馬黒麻が兄の職を嗣ぎ、使節を遣わして謝恩す。その弟の瑣非ら三人もまた、各々速檀を称し、使節を遣わして来貢す。礼官がその犒賜を裁減し、馬黒麻の随従の数に附することを許すよう請うと、これを可とする。万暦朝に至るまで、奉貢絶えず。