明史

列傳第二百十六 外國九 瓦剌 兀良哈

瓦剌

瓦剌は蒙古の部落なり、韃靼の西に在り。元亡び、其の強臣猛可帖木兒之を據る。死し、衆三つに分かる、其の渠帥を馬哈木と曰い、太平と曰い、把禿孛羅と曰う。

成祖即位し、使を遣わし往きて告ぐ。永樂初、復た數たび鎮撫答哈帖木兒等をして之を諭さしめ、幷せて馬哈木等に文綺を賜うこと差等有り。六年冬、馬哈木等、暖答失等を遣わし亦剌思に隨い來朝し馬を貢ぎ、仍り封を請う。明年夏、馬哈木を特進金紫光祿大夫、順寧王に封じ、太平を特進金紫光祿大夫、賢義王に封じ、把禿孛羅を特進金紫光祿大夫、安樂王に封じ、印誥を賜う。暖答失等宴賚すること例の如し。

八年春、瓦剌復た馬を貢ぎ謝恩す。是より此れ、歳一たび入貢す。

時に元主本雅失里其の屬阿魯台と偕に漠北に居る、馬哈木乃ち兵を以て之を襲い破る。八年、帝既に自ら將として本雅失里及び阿魯台の兵を撃ち破り、馬哈木上言して早く寇を滅すの計を得んことを請う。十年、馬哈木遂に本雅失里を攻め殺す。復た上言して故元の傳國璽を獻ぜんと欲し、阿魯台の來り邀えんことを慮り、中國をして之を除かしめんことを請い、脫脫不花子中國に在るを、遣わし還さんことを請い、部屬多く戰に從い勞有るを、賞賚を加えんことを請い、又瓦剌の士馬強きを、軍器を予えんことを請う。帝曰く、「瓦剌驕る矣、然れども較ぶるに足らず。」其の使を賚して之を遣わす。明年、馬哈木敕使を留めて遣わさず、復た甘肅、寧夏に歸附する韃靼の者多く其の親なるを以て、給還せんことを請う。帝怒り、中官海童をして切に之を責めしむ。冬、馬哈木等兵を擁し飲馬河に飲み、將に入犯せんとし、而して揚言し阿魯台を襲わんとす。開平の守將以て聞く、帝親征を詔す。明年夏、忽蘭忽失溫に駐蹕す。三部境を埽いて來たり戰い、帝安遠侯柳升、武安侯鄭亨等を麾して先ず之を嘗めしめ、而して親しく鐵騎を率い馳せ撃ち、大いに之を破り、王子十餘人を斬り、部眾數千級。奔を追い、兩高山を度り、土剌河に至る。馬哈木等身を脫して遁ぐ、乃ち師を班す。明年春、馬哈木等馬を貢ぎ謝罪し、且つ前に留めし使を還し、詞卑し。帝曰く、「瓦剌故より較ぶるに足らず。」其の獻を受け、其の使者を館す。明年、瓦剌阿魯台と戰い、敗走す。未だ幾もせず、馬哈木死す、海童歸り言う、瓦剌命を拒むは順寧に由る、順寧死し、賢義、安樂皆撫す可しと。帝因り復た海童をして往きて太平、把禿孛羅を勞わしむ。

十六年春、海童瓦剌の貢使に偕に來る。馬哈木の子脫懽襲爵を請う、帝之を順寧王に封ず。而して海童及び都督ととく蘇火耳灰等綵幣を以て往きて太平、把禿孛羅及び弟昂克を賜い、別に使を遣わし故順寧王を祭る。是より此れ、瓦剌復た貢を奉ず。

二十年、瓦剌哈密を侵掠し、朝廷之を責む、使を遣わし謝罪す。二十二年冬、瓦剌の部屬賽因打力來降し、之を所鎮撫と為すを命じ、綵幣、襲衣、鞍馬を賜い、仍り令して有司に供具を給せしむ。自後來歸する者悉く例の如し。

宣德元年、太平死す、子捏烈忽嗣ぐ。時に脫懽阿魯台と戰い、之を敗り、母納山、察罕腦剌の間に遁ぐ。宣德九年、脫懽阿魯台を襲い殺し、使を遣わし來たり告げ、且つ玉璽を獻ぜんことを請う。帝敕を賜いて曰く、「王阿魯台を殺す、王の世仇を克復するを見る、甚だ善し。顧みるに王の言う玉璽、傳世の久近、殊に此れに在らず。王之を得ば、王之を用うる可し。」仍り紵絲五十表裏を賜う。

正統元年冬、成國公朱勇言う、「近く瓦剌脫懽兵を以て韃靼朵兒只伯を迫逐す、吞併するを恐る、日を逐うて強大に増す。乞うらくは各邊に敕し廣く儲積し、以て不虞に備えん。」帝嘉し之を納る。未だ幾もせず、脫懽內に其の賢義、安樂兩王を殺し、盡く其の衆を有し、自ら可汗と稱せんと欲す、衆不可とし、乃ち共に脫脫不花を立て、以て先に併せし阿魯台の衆を之に歸す。自ら丞相と為り、漠北に居り、哈喇嗔等の部俱に之に屬す。已に、朵兒只伯を襲い破り、復た朵顏諸えいを脅誘し、塞下を窺伺す。

四年、脫懽死す、子也先嗣ぎ、太師淮王と稱す。ここに於て北部皆也先に服屬し、脫脫不花空名を具するのみ、復た相い制せず。毎に入貢するに、主臣幷びに使し、朝廷亦兩敕を以て之に答う、賜賚甚だ厚く、幷せて其の妻子、部長に及ぶ。故事、瓦の使五十人を過ぎず。朝廷の爵賞を利し、歳に増して二千餘人に至る。屢敕すも、約を奉ぜず。使往來多く殺掠を行い、又他部を挾み與に俱にし、中國の貴重難得の物を邀え索む。稍しく饜かざれば、輒ち釁端を造り、賜う所の財物亦歳に増す。也先哈密を攻め破り、王及び王母を執り、既にして之を歸す。又沙州、赤斤蒙古諸衞と結婚し、兀良哈を破り、朝鮮を脅す。邊將必ず大いに寇為すを知り、屢疏して聞くも、止むるに敕して防禦を戒むるのみ。

十一年冬、也先兀良哈を攻め、使を遣わし大同に抵り糧を乞い、幷せて守備太監郭敬を見んことを請う。帝敬に敕し見る毋かれ、糧を予うる毋かれと。明年、復た書を致し宣府の守將楊洪に。洪以て聞く、洪に敕し其の使を禮し、之に報ぜしむ。頃之、其の部眾來歸する者有り、言う也先謀りて入寇せんとし、脫脫不花之を止む、也先聽かず、尋ね諸番を約し共に中國を背かんとすと。帝詔して問うも、報ぜず。時に朝使瓦剌に至る、也先等請乞する所有れば、許さざる無し。瓦剌の使來る、更に増して三千人に至り、復た其の數を虚しくして以て廩餼を冒す。禮部實を按じて之に予う、請う所又僅かに其の五の一を得るのみ、也先大いに愧怒す。

十四年七月、ついに諸蕃を誘脅し、分道して大挙して入寇した。脱脱不花は兀良哈をもって遼東を寇し、阿剌知院は宣府を寇して赤城を囲み、また別騎を遣わして甘州を寇し、也先は自ら大同を寇した。参将呉浩は猫児荘で戦死し、羽書踵いて至る。太監王振は帝を挟んで親征し、群臣闕に伏して争うも、得ず。大同守将西寧侯宋瑛・武進伯朱冕・都督石亨らは也先と陽和で戦い、太監郭敬は軍を監し、諸将悉くその制せられるところとなり、律を失い、軍尽く覆る。瑛・冕死し、敬は草中に伏して免れ、亨は奔還す。車駕は大同に次ぐ、連日風雨甚だしく、また軍中常に夜驚き、人恟懼す、郭敬密かに振に言い、始めて師を旋す。車駕還りて宣府に次ぐ、敵衆軍の後を襲う。恭順侯呉克忠これを拒ぎ、敗歿す。成国公朱勇・永順伯薛綬は四万人を以て継いで往き、鷂児嶺に至り、伏発し、尽く陥る。次日、土木に至る。諸臣議して懐来に入保せんとす、振は輜重を顧みて遽かに止め、也先遂に追及す。土木の地高く、井を掘ること二丈にして水を得ず、汲道すでに敵に据えられ、衆渇き、敵騎益増す。明日、敵は大軍の止まって行かざるを見て、偽って退き、振は遽かに令して営を移して南せしむ。軍方に動くや、也先は騎を集めて四面よりこれを衝き、士卒先を争って走り、行列大いに乱る。敵は陣を跳んで入り、六軍大いに潰え、死傷数十万。英国公張輔、駙馬都尉井源、尚書鄺埜・王佐、侍郎曹鼐・丁鉉ら五十余人これに死し、振もまた死す。帝は塵を蒙り、中官喜寧従う。也先は車駕の至るを聞き、錯愕して未だこれを信ぜず、及び見て、礼を致すこと甚だ恭しく、帝を奉じてその弟伯顔帖木児の営に居らしめ、先に掠めたる校尉こうい袁彬を来らせて侍らしむ。也先将に謀逆せんとす、会うに大雷雨もって也先の乗ずる馬を震死せしめ、また帝の寝幄に異瑞あるを見て、乃ち止む。也先は帝を擁して大同城に至り、金幣を索め、都督郭登は白金三万を与う。登また謀って駕を奪い城に入らんとす、帝これを沮みて果たさず、也先遂に帝を擁して北行す。

九月、郕王は監国より自ら皇帝の位に即き、帝を太上皇帝と尊ぶ。也先は詭称して上皇を奉じて還ると、大同・陽和より紫荘関に抵り、これを攻め入り、直前に京師を犯す。兵部尚書于謙は武清伯石亨・都督孫鏜らを督してこれを禦ぐ。也先は大臣を邀えて出でて上皇を迎えしめんとす、未だ果たさず。亨らと戦い、数えこれを敗る。也先は夜走り、良郷より紫荘に至り、大いに掠めて出づ。都督楊洪はまたその余衆を居庸において大いに破り、也先はなお上皇を以て北行す。也先は夜常に御幄の上に、遥かに赤光奕奕として龍の蟠るが若きを見て、大いに驚異す。也先はまた妹を以て上皇に進めんと欲す、上皇これを却け、益々敬服し、時々羊馬を殺し酒を置きて寿と為し、稽首して君臣の礼を行ふ。

景泰元年、也先はまた上皇を奉じて大同に至る、郭登は納れず、なお謀りて上皇を奪わんと欲す、也先これを覚り、引き去る。初め、也先は中国を軽んずる心あり、及び京師を犯し、中国の兵強く、城池固きを見て、始めて大いに沮む。会うに中国すでに賊奄喜寧を誘誅し、その間諜を失い、而して脱脱不花・阿剌知院はまた使を遣わして朝廷と和し、皆その部を撤して帰り、也先もまた意を決して兵を息ます。秋、帝は侍郎李実・少卿羅綺・指揮馬政らを遣わし璽書を齎して往きて脱脱不花及び也先を諭す。而して脱脱不花・也先の遣わしし皮児馬黒麻らすでに至り、帝は因りてまた都御史楊善・侍郎趙栄に指揮・千戸らを率いて往かしむ。也先は実に語り、両国は速やかに和するに利あり、迎使夕に至らば、大駕朝に発すべし、但だ一二の大臣を遣わすべしと。実帰り、善ら至り、奉迎上皇の意を致す。也先曰く「上皇帰らば、当に仍ほ天子と作すべきや」善曰く「天位すでに定まり、再び更えず」也先は善を引きて上皇に見え、遂に宴を設けて上皇の行を餞る。也先は地に席して琵琶を弾じ、妻妾酒を奉じ、顧みて善に曰く「都御史坐せよ」善敢えて坐せず、上皇曰く「太師坐せしむ、便に坐せよ」善は旨を承けて坐し、即ち起ち、その間を周旋す。也先は顧みて善に曰く「礼あり」伯顔らもまた各餞を設け畢り、也先は土台を築き、上皇を台上に坐せしめ、妻妾部長を率いてその下に羅拜し、各器用・飲食物を献ず。上皇行く、也先は部衆とともに皆送ること約半日の程、也先・伯顔は乃ち馬を下り地に伏して慟哭して曰く「皇帝行く、何時か再び相見えん」良久しくして乃ち去り、なおその頭目七十人を遣わして京に送らしむ。

上皇帰還の後、瓦剌は歳々来貢し、上皇の所にもまた別に献ず。ここにおいて帝は意に瓦剌を絶たんと欲し、復た使を遣わして往かず。也先は以て請う、尚書王直・金濂・胡濙ら相継いで言う、これを絶てば且つ釁を起こすと。帝曰く「使を遣わすは、前事あり、適に以て釁を滋すのみ。曩に瓦剌入寇の時、豈に使無きや」因りて也先に敕して曰く「前者使往き、小人言語短長し、遂に好を失うに至る。朕今復た遣わさず、而して太師これを請う、甚だ益無し」

也先と脱脱不花は内に相猜む。脱脱不花の妻は、也先の姉なり、也先はその姉の子を立てて太子とせんと欲す、従わず。也先はまたその中国に通ずるを疑い、将に己を謀らんとす、遂に兵を治めて相攻む。脱脱不花敗走し、也先これを追殺し、その妻子を執り、その人畜を以て諸部属に給す。遂に勝に乗じて諸蕃を迫脅し、東は建州・兀良哈に及び、西は赤斤蒙古・哈密に及ぶ。

三年冬、使を遣わして来たり明年の正旦を賀す、尚書王直ら復た答使を請いてこれを報いんとす。兵部に下して議せしむ、兵部尚書于謙言く「臣職は司馬、戦を知るのみ、人の事を行うは敢えて聞かず」詔してなお使を遣わすこと毋からしむ。明年冬、也先は自ら立ちて可汗と為り、その次子を以て太師と為し、来朝し、書に称して大元田盛大可汗とし、末に曰く添元元年。田盛は、猶言う天聖なり。報書に称して瓦剌可汗と曰う。未だ幾もなく、也先は復た朵顔の部を逼徙して黄河母納の地に於かしむ。也先は強を恃み、日に益々驕り、酒色に荒む。

六年、阿剌知院もって也先を攻め、これを殺す。韃靼部孛来はまた阿剌を殺し、也先の母妻及びその玉璽を奪う。也先の諸子火児忽答らは干趕河に徙居し、弟伯都王・姪兀忽納らは往きて哈密に依る。伯都王は、哈密王母の弟なり。英宗復辟の三年、哈密の為に封を請う、詔して伯都王に都督僉事を授け、兀忽納に指揮僉事を授く。也先の死するより、瓦剌衰え、部属分散し、その承襲の代次は考うべからず。

天順中、瓦剌阿失帖木児は屡々使を遣わして入貢し、朝廷はその也先の孫たるを以て、例に循りて厚くこれを賚う。また撦力克なる者は、常に孛来と讐殺す。また拜亦撒哈なる者は、常に哈密に偕なって来朝す。その長を克捨と曰い、頗る強く、数え韃靼小王子を糾えて入寇す。克捨死し、養罕王は雄を称し、精兵数万を擁し、克捨の弟阿沙は太師と為る。成化二十三年、養罕王は辺を犯さんと謀り、哈密の罕慎来りて告ぐ。養罕は利あらずして去り、哈密を憾み、兵還りてその大土剌を掠う。

弘治の初め、瓦剌の中で太師と称する者は一人は火児忽力、一人は火児古倒温といい、皆使者を遣わして朝貢した。土魯番が哈密を占拠すると、都御史許進は金帛をもって二部を厚く買収し、兵をもってこれを撃退させた。その部長卜六王者は、把思濶に屯駐した。正徳十三年、土魯番が粛州を侵犯した。守臣陳九疇は卜六王に綵幣を贈り、虚に乗じて土魯番の三城を襲撃させ、殺戮捕虜は万を数えた。土魯番は逼迫を恐れ、これと和した。嘉靖九年、また婚姻を議して互いに仇敵となった。土魯番はますます強盛となり、瓦剌はたびたび困敗し、また所部はしばしば自らを傷つけ、多くは中国に帰順し、哈密もまた隙に乗じて侵掠した。卜六王は支えきれず、内附を求めた。朝廷は許さず、関外に遣り出し、その行方は知れなかった。

朱顔、福余、泰寧

朱顔、福余、泰寧は、高皇帝が設置した三衛である。その地は兀良哈といい、黒龍江の南、漁陽塞の北にある。漢代の鮮卑、唐代の吐谷渾、宋代の契丹は、皆その地である。元代は大寧路の北境であった。

高皇帝が天下を有すると、東蕃の遼王、恵寧王、朱顔元帥府が相次いで内附を乞うた。そこで古の会州の地に、大寧都司営州諸衛を設置し、子の権を寧王に封じて鎮守させた。やがて、たびたび韃靼に掠奪された。洪武二十二年に泰寧、朱顔、福余の三衛指揮使司を設置し、その頭目にそれぞれその衆を率いさせ、声援とした。大寧より前、喜峰口に至るまで、宣府に近いのを朱顔といい、錦州・義州を経て広寧より遼河に至るのを泰寧といい、黄泥窪より瀋陽・鉄嶺を越えて開原に至るのを福余といった。ただ朱顔の地は険阻で強かった。久しくして皆叛去した。

成祖は燕より起ち靖難に従い、寧王が背後を脅かすことを憂え、永平より大寧を攻め、これを陥れた。寧王を脅迫しようと謀り、三衛を厚く賄って説き来らせた。成祖が出発するとき、寧王は郊外で餞別し、三衛が従い、一呼して皆起ち上がり、遂に寧王を擁して西に関に入った。成祖はさらにその三千人を選んで奇兵とし、従って戦った。天下が定まると、寧王を南昌に移し、行都司を保定に移し、遂に大寧の地をことごとく割いて三衛に与え、以前の功労に報いた。

帝が践祚した初め、百戸裴牙失里らを遣わして告げさせた。永楽元年、また指揮蕭尚都を使者として勅を齎し諭させた。翌年の夏、頭目脱児火察ら二百九十四人が尚都に随って来朝し馬を貢いだ。脱児火察を左軍都督府都督僉事とし、哈児兀歹を都指揮同知とし、朱顔衛の事を掌らせた。安出および土不申をともに都指揮僉事とし、福余衛の事を掌らせた。忽剌班胡を都指揮僉事とし、泰寧衛の事を掌らせた。その余三百五十七人は、それぞれ指揮・千百戸などの官を授けた。誥印・冠帯および白金・鈔幣・襲衣を賜った。これより、三衛の朝貢は絶えなかった。三年の冬、来朝した頭目阿散を泰寧衛掌衛事・都指揮僉事とし、その朱児朱臥らは、それぞれ昇進賞賜の差があった。

四年の冬、三衛が飢饉となり、馬をもって米と交換することを請うた。帝は有司に命じてその馬の高下を等級づけ、それぞれ倍価で支給させた。久しくして、ひそかに韃靼に附いて辺境の守備兵を掠奪し、また市馬を口実に偵察した。帝は詔を下して厳しく責め、馬をもって罪を贖わせた。十二年春、遼東に三千頭の馬を納めた。帝は守将王真に勅し、一頭の馬ごとにそれぞれ布四匹を与えさせた。やがて、また叛いて阿魯台に附いた。二十年、帝が親征して阿魯台を討ち還る途中、これを撃ち、屈烈河においてその衆を大いに破り、斬首捕虜は数えきれず、来降した者は釈放して殺さなかった。

仁宗が位を嗣ぐと、詔して三衛に自新を許した。洪熙元年、安出がその印が賊に奪われたと奏上し、改めて給与することを請うた。これを許した。冬、三衛の頭目阿者禿が帰順してきた。千戸を授け、鈔幣・襲衣・鞍馬を賜い、なお有司に命じて供応の具を給させた。以後来帰する者は、すべてこの例に従った。

宣宗の初め、三衛が永平・山海の間を掠奪した。帝は親征しようとしたが、三衛の頭目は皆謝罪して入貢し、初めのようにこれを慰撫し受け入れた。七年、泰寧衛の印を改めて給与した。秋、朱顔の頭目哈剌哈孫、福余の頭目安出、泰寧の頭目脱火赤らが朝廷に恭しく仕えること久しいとして、織金綵幣表裏を加賜し差があった。

正統年間、たびたび遼東・大同・延安の境を侵犯した。独石の守備楊洪がこれを撃破し、その頭目朱欒帖木児を生け捕りにした。まもなく、また瓦剌の也先に附き、泰寧の拙赤は妻を也先の娘とし、皆ひそかにその耳目となった。入貢するたびに名を変え、かつ互いにその印を用い、また東では建州の兵と合して広寧前屯に入った。帝はその反覆を憎み、九年春、成国公朱勇に恭順侯呉克忠を伴わせて喜峰口より出撃させ、興安伯徐亨を界嶺より出撃させ、都督馬亮を劉家口より出撃させ、都督陳懐を古北口より出撃させ、それぞれ精兵一万を率い、分かれてこれを討伐させた。勇らはその辺境を擾乱する者を捕らえて宮闕の下に送り、併せて掠奪された人畜を奪回した。

拙赤らは肥河衛の使者を拘束し、これを殺した。肥河衛の頭目別里格が格魯坤迭連においてこれと戦い、拙赤は大敗した。瓦剌もまた分かれて道を遮り殺害し、建州もまた出兵してこれを攻め、三衛は大いに困窮した。

十二年春、総兵曹義、参将胡源、都督焦礼らが東辺を分かれて巡視し、三衛が侵入したのに遭遇し、これを撃ち、三十二の首級を斬り、七十余人を生け捕りにした。その年、瓦剌の賽刊王がまた朱顔の乃児不花を撃ち殺し、大いに掠奪して去った。也先が続いて到着し、朱顔・泰寧は皆支えきれず、降伏を乞い、福余のみは走って脳温江に避難した。三衛はますます衰えた。瓦剌の強さを恐れ、背くことができず、なお毎年貢ぎ物を届けたが、ただ中国の賜賚の利益を求めるのみであった。また辺将の討伐殺戮を心に恨み、故に常にひそかに報復を図った。

十四年夏、大同の参将石亨らがまたその辺境を盗む者を箭谿山において撃ち、五十人を生け捕り斬首し、三衛はますます怨んだ。秋、瓦剌を導いて大挙侵入させ、英宗はこの戦役によって北狩することとなった。

景泰の初め、朝廷はなお使者を遣わして慰撫諭告した。三衛は也先の意を受け、たびたび時期外れに入貢し、多くの使者を往来させて中国を偵察した。やがて也先がこれを虐待し、また朱顔の所部を黄河母納の地に移住させようと迫った。三衛は皆耐えられず、遂にひそかに瓦剌の内情を中国に伝え、近辺に屯駐することを請うた。旧制では、三衛は毎年三回入貢し、その貢使はすべて喜峰口から検閲して入り、急報があれば永平に入ることを許された。当時、三衛の使者には独石および万全右衛から来る者がいた。辺臣がこれを言上したので、勅して止めさせた。天順年間、しばしば隙に乗じて諸辺を掠奪し、またひそかに韃靼の孛来と通じ、常にその先導役となった。遣わした使者は孛来の使臣とともに謁見した。中国が韃靼を厚遇するのを見て、賞賜を加えるよう請うたが得られず、大いに憤り、遂にますます孛来と結びついた。

成化元年、頭目朱羅干らが兵を率いて孛来に従い、大挙して遼河に入った。やがて、また西では毛里孩に附き、東では海西の兵と合し、たびたび塞内に入った。また時には単独で広寧・義州の間に出没した。九年、遼東総兵欧信が偏将韓斌らを率いて興中においてこれを破り、麦州まで追撃し、六十二の首級を斬り、馬畜器械数千に近いものを獲得した。その年、喜峰の守将呉広が賄賂を貪り三衛の心を失い、三衛が侵入したので、広は獄に下されて死んだ。翌年、また開原を掠奪したが、慶雲の参将周俊がこれを撃退した。

十四年、詔して三衛の馬市を復す。初め、国家遼東に馬市を三つ設け、一は城東、一は広寧にあり、皆三衛を待つ。正統年間、その部衆が屡々叛くを以て、これを罷む。会に韃靼の満都魯暴強にして、三衛を侵掠す。三衛の頭目皆走りて塞下に避く。数たび饑困し、馬市を復することを請うこと再四、許さず。ここに至りて巡撫陳鉞帝に言い、始めてこれを許す。満都魯死し、亦思馬因兵柄を主とす。三衛復た数たびその窘迫せらるる所となる。

二十二年、韃靼の別部那孩三万の衆を擁して大寧・金山に入り、老河を渉り、三衛の頭目伯顔等を攻殺し、人畜を掠めて去ること万を以て計う。三衛乃ち相率いて老弱を携え、走りて辺圉に匿る。辺臣劉潺以て聞く、詔して芻糧を予け優しくこれを卹う。

弘治初、常に古北・開原の境を盗掠す。守臣張玉・総兵李杲等計を以てその来市する者三百人を誘斬し、遂に北に脱羅干と結び、復讐を為さんことを請い、数たび広寧・寧遠諸処を寇す。時に海西の尚古なる者、貢を通ずるを得ずして中国に叛き、数たび兵を以て諸蕃の入貢を阻む。諸蕃並びにこれを銜む。朝廷旋って尚古の納款を許す。撫寧の猛克帖木児等皆尚古を以て辞とし、遼陽に入寇し、殺掠甚だ衆し。韃靼の小王子屡々三衛を掠む。三衛因って各々関を叩きて罪を輸す。朝廷これを許す、然れども陽に恭順を為すのみ。

朵顔の都督花当なる者、険を恃みて驕り、数たび貢を増し賞を加うることを請う、許さず。正徳十年、花当の子把児孫千騎を以て鮎魚関を毀ち、馬蘭谷に入り大掠し、参将陳乾戦死す。復た五百騎を以て板場谷に入り、千騎を以て神山嶺に入り、又千余騎を以て水開洞に入る。事聞こえ、命じて副総兵桂勇にこれを禦がしむ。花当退き去り、紅羅山に屯駐し、把児孫を匿わし、その子打哈等をして朝に入りて罪を請わしむ。詔して釈し問わず。十三年、帝巡幸して大喜峰口に至り、将に三衛の頭目を徴し、悉く関下に詣らしめて宴労せんとす、果たさず。

把児孫辺を犯す時に当たり、朝廷詔してその職を削ぐ。把児孫死し、その子伯革入貢す。嘉靖九年、詔して伯革に父の爵を予く。而して打哈自ら花当の子として職を得ざるを以て怒り、遂に先後して冷口・擦崖・喜峰の間を掠む。参将袁継勳等防禦に失い、皆逮治せらる。十七年春、指揮徐顥泰寧部の九人を誘殺す。その頭目把当亥衆を率いて大清堡を寇し、総兵馬永撃ちてこれを斬る。その属把孫朵顔部の衆を以て復た入り、鎮守少監王永と戦い、敗績す。二十二年冬、墓田谷を攻囲し、守備陳舜を殺す。副総兵王継祖等赴援し、撃ちて三十余級を斬る。その年、詔して旧設の三衛馬市を罷め、併せて新設の木市もまたこれを罷む。秋、三衛復た韃靼を導きて遼州を寇し、沙河堡に入り、守将張景福戦死す。

三衛の迭犯するは、実に朵顔部の哈舟児・陳通事これを為す。二人なる者、倶に中国人、擄われて遂に三衛に用いらる。二十九年、韃靼の俺答畿東を犯さんと謀る。舟児潮河川の路を指す。俺答兵を白廟に移し、古北に近づく。舟児詐りて敵已に退くと言い、辺備緩やかなり。俺答遂に鴿子洞・曹榆溝より入り、直ちに畿甸を犯す。已にして、俺答馬市を開くことを請う。舟児復た往来してこれを誘阻す。三十年、薊遼総督何棟購捕して京に至らしめ、誅に伏す。

朵顔の通罕なる者、俺答の子辛愛の妻の父なり。四十二年、古北の哨卒関を出で、朵顔の為に撲殺せらる。俄に通罕関を叩きて賞を索む。副総兵胡鎮伏兵してこれを執る。総督楊選将に辛愛を牽制せん計を為さんとし、乃ち通罕を拘縶し、その諸子をして更迭して質と為さしむ。三衛甚だ恨み、遂に俺答を導きて順義及び三河に入掠せしむ。選罪を得る。

万暦初、朵顔の長昂益々強く、賞を挟みて遂げず、数たび衆を糾えて入掠し、諸蕃の貢道を截つ。十二年秋、復た土蛮を導き、四千騎を以て三山・三道溝・錦川諸処を分掠す。守臣李松急に長昂等を剿くことを請う、朝議従わず、僅かにその月賞を革む。未だ幾ばくもせず、復た千騎を以て劉家口を犯す。官軍これを禦ぎ、殺傷相当す。ここに於いて長昂益々跋扈自恣し、東は土蛮を勾き、西は白洪大と婚を結び、以て諸辺を擾わす。十七年韃靼の東西二部と合して遼東を寇し、総兵李成梁これを逐う。官軍大いに敗れ、八百人を殲す。又二年大いに独石路を掠む。二十二年復た衆を擁して中後所を犯し、攻めて小屯台に入る。副総兵趙夢麟・秦得倚等力戦してこれを却く。明年潜かに喜峰口に入る。官軍その頭目小郎児を擒う。

二十九年、長昂と董狐狸等皆納款し、寧前の木市を復することを請う、これを許す。三十四年冬、復た韃靼の班不什・白言台吉等を糾え、万騎を以て山海関に迫る。総兵姜顕謨撃ちてこれを走らす。長昂復た三千騎を以て義院の界を窺う。辺将備え有り、乃ち引き去る。旋って喜峰に詣り、自ら班・白の入寇は、己は預知せざりしと言う。守臣具に以て聞く。詔して長昂に復た貢市を許し、撫賞を頒給すること例の如し。

長昂死し、諸子稍々衰う。三衛皆靖む。崇禎初、插漢と早落兀素に戦い、これを勝ち、殺獲万を以て計い、以て捷を告ぐ。未だ幾ばくもせず、皆大清に服属すと云う。

註釋