韃靼
五年春、大将軍徐達・左副将軍李文忠・征西将軍馮勝に命じ、師を三道に分けて征伐させた。大将軍達は中路より雁門を出撃したが、戦い利あらず、塞を守った。勝の軍は西進して蘭州に駐屯した。右副将軍傅友徳が先に進撃し、転戦して埽林山に至り、勝らの兵と合流し、その平章不花を斬り、上都驢らが管轄する吏民八千三百余戸を降伏させ、ついに亦集乃路より瓜州・沙州に至り、さらに連続してこれを撃破した。文忠は東より居庸関を出て口温に至ると、元将は営を棄てて遁走したため、軽騎を率いて臚朐河より疾駆し、進んで土剌河において蛮子哈剌章を撃破し、阿魯渾河まで追撃し、さらに称海まで追撃して、その官属の子孫および軍士の家族千八百余人を捕らえ、京師に送った。達らはまもなく召還された。翌年春、達・文忠らを遣わして西北辺境を守備させた。元兵が武州・朔州に侵入したため、達は陳徳・郭子興を遣わしてこれを撃破した。間もなく、達らはまた懐柔において王保保の兵を大破した。時に元兵は相次いで白登・保徳・河曲を侵犯したが、いずれも守将に敗れ、ただ撫寧・瑞州のみが被害を受けたため、太祖はその民を内地に移住させた。
時に王保保は既に先に卒しており、諸巨魁も多くは順次平定され、あるいは風を望んで帰順したが、ただ丞相納哈出のみが二十万の衆を擁して金山に拠り、たびたび遼東を窺伺した。二十年春、宋国公馮勝を大将軍とし、潁川侯傅友徳・永昌侯藍玉らを率い、兵二十万を将いてこれを征伐することを命じ、先に捕らえた元将乃剌吾を帰還させた。勝の軍は通州に駐屯し、藍玉を遣わして大雪に乗じて慶州を襲撃させ、これを陥落させた。夏、師は金山を越え、臨江侯陳鏞が道に迷い、敵に陥って死んだ。乃剌吾が帰還し、朝廷の撫恤の恩を詳しくその衆に語ったため、ここにおいて全国公観童が来降した。納哈出は乃剌吾の言葉を聞いて既に心悸し、さらに大軍に迫られたため、偽って人を大将軍の営に遣わして降伏を申し出、兵勢を窺わせた。勝は玉を遣わして降伏を受けさせた。使者が勝の軍を見て帰還報告すると、納哈出は天を仰いで嘆じて言った、「天は吾にこの衆あらしめ給わず」。遂に数百騎を率いて玉のもとに赴き降伏した。やがて、逃れ去らんとしたが、鄭国公常茂に傷つけられて去ることができなかった。都督耿忠は遂に衆を率いて彼を擁し勝に謁見させ、勝は彼を重んじて礼遇し、忠に命じて彼と同寝同食させた。先後してその部曲二十余万人を降伏させ、納哈出が傷ついたことを聞くと、ここにおいて驚き潰走する者が四万人あり、輜重や畜馬を百余里にわたって獲得した。勝が師を返すと、都督濮英が三千騎を率いて殿を務めたが、潰走した兵卒に邀撃襲撃され、死んだ。秋、勝らは表を上って納哈出の配下の官属二百余人、将校三千三百余人、金銀銅印一百顆、虎符牌面百二十五事、馬二百九十余匹を献上し、賀を称した。太祖は納哈出を海西侯に封じ、先後して賜与甚だ厚く、また乃剌吾に千戸を授けた。
納哈出が既に降伏した後、帝は故元の遺寇が終に辺境の患いとなると考え、すなわち軍中において藍玉を大将軍に任じ、唐勝・郭英をその副将とし、耿忠・孫恪を左・右参将とし、師十五万を率いて征伐に向かわせた。冬、元将脱脱らが玉に降伏した。翌年春、玉は大軍を率いて大寧より慶州に至り、脱古思帖木児が捕魚児海にいることを聞き、間道より馳せ進み、百眼井に至って哨戒したが敵を見ず、引き返そうとした。定遠侯王弼が言った、「吾らは聖主の威徳を奉じ、十余万の衆を提げ、深くここまで入りながら、何も得られなければ、どうして復命できようか」。玉はそこで地に穴を掘って炊事し、一夜で捕魚児海に馳せ至った。黎明、敵営より八十里の地点に至った。時に大風が砂を揚げ、昼も暗く、軍の行進を知る者なく、敵は備えを設けていなかった。弼が前鋒となり、直ちにこれに迫り、遂にその軍を大破し、太尉・蛮子数千人を斬った。脱古思帖木児はその太子天保奴・知院捏怯来・丞相失烈門ら数十騎を率いて遁走し、その次子地保奴および妃主五十余人、渠率三千、男女七万余、馬駱駝牛羊十万を獲得し、鎧仗を集めて焼き払った。またその将哈剌章の営を破り、その衆をことごとく降伏させた。ここにおいて漠北は平定された。捷報が届くと、太祖は大いに喜び、地保奴らに鈔幣を賜り、役所に命じて供応の具を給させた。やがて玉が元主の妃と私通したとの言があり、帝は怒り、妃は慚愧恐懼して自殺した。地保奴が怨言を口にしたため、帝は彼を琉球に居住させた。
成祖が即位すると、使者を遣わして通好を諭し、銀幣を賜り、その知院阿魯台・丞相馬児哈咱らにも及ぼした。時に鬼力赤は瓦剌と仇敵して相殺し合い、しばしば塞下を往来したので、帝は辺将に命じてそれぞれ厳しく兵備を整えさせた。
六年春、帝はただちに書を以て本雅失里に諭して言った、「元の運命が既に尽きて以来、順帝の後裔の愛猷識理達臘から坤帖木児に至るまで凡そ六伝するも、瞬く間に、一人として善終した者を聞かない。我が皇考太祖高皇帝は元氏の子孫に対して、心を込めて撫恤し、帰順して来る者があれば常に北へ帰らせた。例えば脱古思帖木児を帰して、可汗を嗣がせたのは、これは南北の人々が共に知るところである。朕の心は即ち皇考の心である。今、元氏の宗廟の祭祀は糸の如く絶えんとしている。去就の機は、禍福の分かれるところ、汝はよく審らかに処すべきである。」聞き入れなかった。
翌年、その部曲の完者帖木児ら二十二人を捕らえた。帝はこれによりまた給事中の郭驥を使者として書を携えさせて行かせた。郭驥は殺害され、帝は怒った。秋、淇国公丘福を大将軍とし、武城侯王聰・同安侯火真を副将とし、靖安侯王忠・安平侯李遠を左・右参将として、精騎十万を率いて北征させ、機会を失うなかれ、軽々しく敵を犯すなかれ、一度の挙兵で勝利しなければ、再挙を待てと諭した。時に本雅失里は既に瓦剌に襲撃されて破られ、阿魯台とともに臚朐河に移り住んでいた。丘福は千騎を率いて先に馳せ、遊兵に遭遇してこれを撃破した。軍はまだ集まっていなかったが、丘福は勝ちに乗じて河を渡り敵を追撃した。敵は常に偽って敗走し、引き去った。諸将は帝の命を以て丘福を止めたが、丘福は聞き入れなかった。敵の大軍がたちまち到来し、これを包囲し、五将軍は皆戦死した。帝はますます怒った。
翌年、帝は自ら五十万の衆を率いて塞外に出た。本雅失里はこれを聞いて恐れ、阿魯台とともに西へ行こうとしたが、阿魯台は従わず、衆は潰散し、君臣は初めてそれぞれ部を為した。本雅失里は西へ奔り、阿魯台は東へ奔った。帝は追って斡難河に及び、本雅失里は防戦した。帝は兵を指揮して奮撃し、一呼してこれを破った。本雅失里は輜重や家畜を棄て、七騎で遁走した。斡難河とは、元太祖が最初に興った地である。軍を返して静虜鎮に至り、阿魯台に遭遇した。帝は使者を遣わして降伏を諭させた。阿魯台は来ようとしたが、配下の衆が許さず、遂に戦った。帝は精騎を率いて大声で呼びながら衝撃し、矢が雨のように降り注ぎ、阿魯台は馬から墜ち、遂に大敗し、百余里を追撃してようやく帰還した。冬、阿魯台が使者を遣わして馬を貢いだので、帝はこれを受け入れた。
阿魯台が内附したのは、瓦剌に困窮し、窮迫して南に下り、塞外に仮の休息を求めようとしたからである。帝はこれを受け入れて封じ、その母と妻をそれぞれ王太夫人・王夫人とした。数年を経て生息し、畜牧は日に日に繁盛し、遂に我が使者を侮り、これを拘留した。その貢使が帰る時、多く掠奪を行い、部落もまた時々塞を窺った。二十年春、大挙して興和に入った。ここにおいて詔を下して親征した。阿魯台は大軍が出たと聞き、恐れ、その母と妻が皆罵って言った、「大明皇帝が何か汝に背いたことがあるというのか、必ず逆らおうとするとは!」ここにおいてその輜重や馬畜をすべて濶灤海のほとりに棄て、妻子を連れて真っ直ぐ北へ移った。帝は命じてその輜重を焼き、その馬畜を収め、遂に軍を返した。
翌年の秋、辺将が阿魯台が侵入しようとしていると上言した。帝は言った、「彼は朕が必ず再び出撃しないと思っているのだから、先に塞下に駐屯してこれを待とう。」遂に部署を分けて寧陽侯陳懋を先鋒とし、宿嵬山に至ったが敵を見ず、王子の也先土干が妻子と部属を率いて来て降ったのに遭遇した。帝はこれを忠勇王に封じ、姓名を賜って金忠と名乗らせた。忠勇王が京師に至ると、しばしば敵を撃って自ら功を立てたいと請うた。帝は言った、「しばらく待て。」
時に阿魯台は瓦剌に数回敗れ、部曲は離散した。その配下の把的らが先後に来て帰順し、朝廷は皆官職を与え、鈔幣を賜り、役所に命じて供応の具を給させた。以後に来て帰順する者は、すべてこの例に倣った。阿魯台は日に日に窮迫し、乃ちその配下を率いて東の兀良哈へ走り、遼の辺塞に駐留して牧畜した。諸将は出兵してこれを掩撃するよう請うたが、帝は聞き入れなかった。
宣徳九年、阿魯台はまた脱脱不花に襲撃され、妻子は死に、家畜はほとんど略奪され尽くし、ただその子の失捏干らとともに母納山・察罕脳剌などの地に移り住んだ。間もなく、瓦剌の脱懽が襲撃して阿魯台及び失捏干を殺した。ここにおいて阿魯台の子の阿卜只俺及びその孫の妻の速木答思らは敗れて頼る所なく、来て内附を乞うた。帝はこれを憐れんで撫恤した。
未だ幾ばくもせず、脱脫不花、阿台等を捕えて之を殺す。脱脫不花は、故元の後、韃靼の長なり。瓦剌の脱懽、既に阿魯台を撃殺し、悉く其の部を収め、賢義・安楽二王の衆を兼并し、自立して可汗たらんと欲す。衆許さず、乃ち脱脫不花を立て、阿魯台の衆を以て之に属せしめ、自ら丞相と為り、陽に推奉すと雖も、実に其の号令を承けず。
脱懽死し、子の也先嗣ぎ、益々桀驁自雄し、諸部皆之に下り、脱脫不花は具に可汗の名有るのみ。脱脫不花、歳毎に来朝貢し、天子皆厚く之に報い、諸蕃に比して加うること有り、書に之を称して曰く達達可汗、賜賚并に其の妃に及ぶ。十四年秋、也先、大挙して入寇せんと謀り、脱脫不花之を止めて曰く「吾儕の服食、多く大明に資る、何ぞ忍びて此れを為さん。」也先聴かず、曰く「可汗為さずば、吾自ら為さん。」遂に分道し、脱脫不花をして遼東を侵さしめ、而して自ら衆を擁して大同より入る。帝親征し、駕は土木に於て陥つ。景皇帝、監国より自ら即位し、帝を尊んで太上皇帝と為す。明年秋、上皇、也先の所より帰る。事は瓦剌伝に載す。
未だ幾ばくもせず、所部の阿剌知院に殺さる。韃靼部長の孛来、復た阿剌を攻破し、脱脫不花の子麻兒可児を求めて之を立て、号して小王子と曰う。阿剌死し、而して孛来と其の属の毛里孩等皆部中に雄視す、是に於て韃靼復た熾なり。
景泰六年、使を遣わして入貢す。英宗復辟し、都督馬政を遣わして往き故伯顔帖木児の妻に幣を賜う。孛来之を留め、而して使を遣わして入賀し、璽を献ぜんと欲す。帝之を敕して曰く「璽は已に真に非ず、即ち真なりと雖も、亦秦の不祥の物のみ、献ずる否は爾の便に従え。第に我が使を留むること無く、以て爾の禍を速にすな。」時に敵数たび威遠諸衞を寇し、夏、定遠伯石彪、磨児山に於て之を敗る。
時に麻兒可児復た孛来と相仇殺す。麻兒可児死し、衆共に馬可古児吉思を立て、亦号して小王子と曰う。是より、韃靼部長益々各専擅す。小王子は稀に中国に通じ、世次を伝うるも、多くは考ふる可からず。孛来等は毎歳入貢し、数たび寇掠し、往来塞下に在り、以て西は瓦剌を攻むるを辞と為し、又た数たび三衞を要劫す。七年冬、貢使関に及び、帝之を却く、大学士李賢の言を以て乃ち止む。八年春、御史陳選言す「韃靼部落、孛来最も強く、又た密かに三衞諸蕃を招き、相結び屯住す。去冬来朝し、我に賞宴を要し、我が虚実を窺う、其の辺を犯すの情已に露わる。而るに我が辺関の守臣、因循怠慢し、城堡修めず、甲仗利せず、軍士操習せず、甚だしきは富者は月銭を納めて安閑し、貧者は饑寒に迫られて逃竄す。辺備廃弛し、緩急何に恃まん。乞うらくは在辺の諸臣を敕し、痛く前弊を革せしめよ。其の鎮守・備禦等の官も、亦宜しく時に黜陟し、庶幾くば能くする者は奮い立ち、怠る者は警むるを知らん。至りて阨塞要害の処は、或いは官軍を益し、或いは営堡を設け、或いは墩臺を用い、咸ず処置宜しきを得せしめ、歳毎に大臣を遣わし巡視せしめ、庶幾くば辺防備わり有り、寇氛戢ぐ可からん。」と。報聞す。
初め、韃靼の来るや、或いは遼東・宣府・大同に在り、或いは寧夏・荘浪・甘粛に在り、去来常無く、患いを為すこと久しからず。景泰初、始めて延慶を犯すも、然れども部落少なく、敢えて深入せず。天順間、阿羅出なる者有り、属を率いて潜かに河套に入り之に居し、遂に西辺に逼近す。河套は、古の朔方郡、唐の張仁愿三受降城を築く処なり。地は黄河の南に在り、寧夏より偏頭関に至るまで、延袤二千里、水草に饒し、外は東勝衞と為る。東勝より外は、土平衍し、敵来れば、一騎も隠るる能わず、明初之を守るも、後曠絶を以て内徙す。是に至り、孛来と小王子・毛里孩等先後に継ぎて至り、中国人を擄りて郷導と為し、延綏を抄掠して虚時無く、而して辺事以て棘し。
四年の秋、給事中程萬里が上言して曰く、「毛里孩は久しく朝貢せず、辺疆を窺い伺い、その情は測り難し。然れども臣はこれを度るに、敗つべきこと三つ有り。我が辺地に近く、わずか二三日の行程、彼は客にして我は主、これ一なり。諸部を併合し、馳せ駆けて息まず、既に驕り且つ疲れている、これ二なり。近来水草を散り逐い、部落四分し、兵力一ならず、これ三なり。宜しく精兵二万を選び、毎に三千人を一軍と為し、驍将を以てこれを統べ、その賞罰を厳しくし、毛里孩の在る所を探らせ、潜師してこれを擣ち、必ずこれを破るべし」と。帝はこれを壮とし、而も用いる能わず。冬、延綏を寇す。明年の春再び入り、守将許寧等は輒ちこれを撃ち破る。冬、復た三衞を糾い入寇し、延綏・榆林大いに擾る。
六年の春、大同巡撫王越が遊撃許寧を遣わしてこれを撃ち破る。楊信等もまたこれを胡柴溝に大破す。時に孛魯乃は斡羅出と合し、別部癿加思蘭・孛羅忽もまた入り河套を拠り、久居の計と為す。延綏告急す、帝は永を将軍と命じ、王越を以て軍務に参賛せしめ、敵を禦がしむ。永至り、数たび捷を以て聞こえ、越等は皆陞賞せられ、功を論じて永は世侯と為り、而して敵は套を拠ること自如たり。
七年の春、永は戦守の二策を上る。廷議は糧匱馬乏を以て、進剿は難しく、辺将に命じて慎んで守禦し、以て万全を図るを請う。ここに於いて吏部侍郎葉盛辺を巡り、延綏巡撫余子俊及び越と偕に辺牆を築き、臺堡を設立するを議す。冬、敵塞に入り、参将錢亮敗績し、越等は救う能わず。兵部尚書白圭は大將軍を択び遣わし、専ら敵に事えしむるを請う。会に盛還り、越もまた京に赴き事を計る。乃ち廷議を集め、大いに兵を発して套を捜すを請う。帝は武靖侯趙輔を以て将軍と為し、諸路を節制せしめ、王越は仍た師を督す。敵大いに延綏に入り、輔は禦ぐ能わず、遂に召還され、寧晉伯劉聚を以てこれに代えしむ。聚もまた功有ること無し。而して毛里孩・孛魯乃・斡羅出は稍々衰え、満都魯河套に入り可汗と称し、癿加思蘭は太師と為る。
九年の秋、満都魯等は孛羅忽と並び韋州を寇す。王越は敵の尽く行き、その老弱紅鹽池に巣くうを偵知し、乃ち許寧及び遊撃周玉と軽騎を率い、昼夜疾馳して至り、分かれてその営に薄き、前後夾撃し、大いにこれを破る。復た韋州に於いて邀撃す。満都魯等敗れて帰り、孳畜廬帳蕩尽し、妻孥皆喪亡し、相顧みて悲哭して去る。是より、復た河套に居せず、辺患少しく弭る。間辺を盗み、敢えて大に入らず、亦た数たび使を遣わし朝貢す。
初め、癿加思蘭は女を以て満都魯に妻せしめ、立てて可汗と為す。久しくして孛羅忽を殺し、その衆を併せ、益々専ら恣にす。満都魯部の脱羅干・亦思馬因これを謀殺す。尋いて満都魯も亦た死す。諸強酋相継ぎ略く尽き、辺人稍々息肩を得る。
時に中官汪直恩を怙り事を用い、辺功を以て自ら樹えんとし、王越・朱永これに附く。十六年の春、辺将上言し、伝聞に敵将に河を渡らんとすと、遽かに永を以て将軍と為す。直と越師を督して辺に至る。期に及ばず、敵を威寧海子に襲い、大いにこれを破り、又これを大同に敗る。永は公爵に晋し、世襲を予えられ、越は威寧伯に封ぜられ、直は禄を増して三百石に至る。未だ幾ばくもせず詔して越を以て永に代わり総兵と為す。ここに於いて亦思馬因等は益々衆を糾い辺を盗み、遼塞に延ぶ。秋、敵三万騎大同を寇し、連営五十里、殺掠人畜数万。総兵許寧これを禦ぐ。兵敗れ、捷を以て聞こゆ。敵既に利を得、長駆して順聖川に入り、散り掠めて渾源・朔諸州。宣府巡撫秦紘・総兵周玉力戦してこれを卻す。山西巡撫辺鏞、参将支玉等悉く力捍禦す。敵去りて輒ち復た来り、成化の末に至るまで寧歳無し。
十一年の秋、王越既に諸辺を節制し、乃ち軽兵を率い敵を賀蘭山後に襲い、これを破る。明年、敵衆を擁し大同・寧夏境に入り、遊撃王杲敗績し、参将秦恭・副総兵馬昇逗遛して進まず、皆死を論ぜらる。時に平江伯陳鋭総兵と為り、侍郎許進師を督す。久しく功無く、劾せられ去り、保国公朱暉・侍郎史琳を以てこれに代えしめ、太監苗逵軍を監せしむ。
十五年戸部尚書秦紘を以て陝西を総制せしむ。夏、敵遼東清河堡に入り、密雲に至り、旋いて西に偏頭関を掠む。秋、復た五千騎を以て遼東長安堡を犯し、副総兵劉祥これを禦ぎ、首五十一級を斬り、敵乃ち退く。明年、稍々靖まる。
十七年の春、敵上書し貢を請い、これを許すも、竟に至らず。仍た大同に入り墩軍を殺し、宣府及び莊浪を犯し、守将衞勇・白玉等禦ぎてこれを卻す。明年の春、敵三万騎霊州を囲み、復た内に散り掠め、指揮仇鉞・総兵李祥撃ちてこれを走らす。敵大いに挙り入寇し宣府し、総兵張俊これを禦ぎ、大いに敗れ、裨将張雄・穆榮戦歿す。
四年、敵数たび大同を寇す。冬、才寛敵を花馬池に禦ぎ、伏に中り死す。総兵馬昂別部亦孛来と木瓜山に戦う。これを勝ち、三百六十五級を斬り、馬畜六百余を獲、軍器二千九百余。
明年、北部の亦卜剌は小王子と仇殺す。亦卜剌西海に竄し、阿爾禿厮と合し、洮西の属番を逼脅し、屡々入寇す。巡撫張翼・総兵王勛制する能わず、漸く深入し、辺人これを苦しむ。八年の夏、衆を擁し来川し、使を遣わし翼の所に詣り、辺地に駐牧し貢を修むるを乞う。翼金帛を以てこれを啗い、遠く徙るるを令す。亦卜剌遂に西に烏斯蔵を掠め、これを拠る。是より、洮・岷・松潘寧歳無し。
小王子がたびたび侵入寇掠し、殺戮略奪は特に甚だしかった。また五万騎を率いて大同を攻め、朔州に向かい、馬邑を掠奪した。帝は咸寧侯仇鉞に命じて総兵としこれを防がせ、万全衛で戦い、三級を斬ったが、失った者は十倍であり、勝利として上奏した。翌年の秋、敵は数十の陣営を連ねて宣府・大同の塞に寇し、別に一万騎を遣わして懐安を掠奪した。総制叢蘭が急を告げ、太監張永に命じて宣府・大同・延綏の兵を督せしめ、都督白玉を大将とし、叢蘭と協力して守備させ、京師は戒厳した。やがて敵は懐安を越えて蔚州に向かい、平虜城の南に至ったが、叢蘭らはあらかじめ田間に農家の食事のように毒飯を置き、伏兵を設けて待ち受けた。敵が至り、毒に中り、伏兵が突然発起し、多くが死んだ。その年、小王子の部長卜児孩が内難により再び奔って西海を拠点とし、出没して西北辺を寇掠した。
十一年の秋、小王子は七万騎を分けて侵入し、総兵潘浩と賈家湾で戦った。潘浩は再戦再敗し、裨将朱春・王唐がこれに死した。張永は老営坡で遭遇し、傷を負って居庸に逃れた。敵はすなわち宣府を犯し、合わせて城堡二十を攻め破り、人畜数万を殺掠した。潘浩は三官を奪われ、諸将は降格・処罰の差があった。
嘉靖四年の春、一万騎を率いて甘粛を寇した。総兵姜奭が苦水墩でこれを防ぎ、その首魁を斬った。翌年、大同及び宣府を犯し、亦卜剌もまた賀蘭山の後ろに駐牧し、たびたび辺境を攪乱した。翌年の春、小王子は二度宣府を寇した。参将王経・関山が先後に戦死した。秋、数万騎を率いて寧夏の塞を犯し、尚書王憲が総兵鄭卿らを率いてこれを破り、三百余級を斬った。翌年の春、山西を掠奪した。夏、大同中路に入り、参将李蓁が防いで退けた。冬、再び大同を寇し、指揮趙源が戦死した。
十一年の春、小王子は通貢を請うたが、許可を得られず、怒って、すなわち十万騎を擁して侵入した。総制唐龍はこれを許すよう請うたが、帝は聞き入れなかった。唐龍は連戦し、かなりの斬獲があった。
当時、小王子が最も富強で、十余万の弓兵を統べ、貨貝を多く蓄え、やや兵事に飽き、すなわち幕営を東方に移し、土蛮と称し、西北辺にいる諸部族を分かち治めることが甚だ多かった。吉囊・俺答という者は、小王子にとっては従父の行輩であり、河套を拠点とし、雄大で狡猾で戦いを好み、諸部長となり、相率いて諸辺を蹂躙した。
吉囊らは西海を破ると、まもなく密かに宣府永寧の境に入り、大掠して去った。冬、鎮遠関を犯したが、総兵王効・副総兵梁震が柳門でこれを破り、また蜂窩山で追撃して破り、敵で溺死する者が多かった。翌年の春、大同を寇した。秋、また花馬池より侵入し、梁震及び総兵の文某・劉某が防いで退けた。
十五年夏、吉囊は十万の衆を率いて賀蘭山に屯し、兵を分けて涼州を寇し、副総兵王輔がこれを防ぎ、五十七級を斬った。また荘浪の境に入り、総兵姜奭が分水嶺でこれに遭遇し、三戦三勝した。また延綏及び寧夏の辺境に入った。冬、再び大同を犯し、侵入して宣府・大同の塞を掠奪したが、総制侍郎劉天和・総督尚書楊守礼及び巡撫都御史楚書が全力でこれを防いだ。
十九年秋、楚書は総兵白爵らを率いて万全右衛の境で三度敵を破り、百余級を斬った。劉天和は総兵周尚文を率いて黒水苑で敵を大破し、吉囊の子小十王を斬った。翌年春、楊守礼は総兵李義を率いて鎮朔堡で敵を防ぎ、総兵楊信を率いて甘粛で敵を防ぎ、皆勝利した。
秋、俺答及びその属下の阿不孩が使者石天爵を遣わして大同の塞で和を請うたが、巡撫史道がこれを上聞し、詔してこれを退けた。尚書樊継祖に命じて宣府・大同の兵を督せしめ、賞格を懸けて俺答・阿不孩の首を購うた。そこで大挙して内侵し、俺答は石嶺関を下り、太原に向かった。吉囊は平虜衛より侵入して平定・寿陽などの諸処を掠奪した。総兵丁璋・遊撃周宇が戦死し、諸将は多く罪を得たが、樊継祖のみは賞を受けた。
二十一年夏、敵は再び石天爵を遣わして貢を求めた。大同巡撫龍大有が誘い縛り、朝廷に献上し、計略を用いて生け捕りにしたと偽って言った。帝は喜び、龍大有を兵部侍郎に抜擢し、辺臣で昇進・賞賜を受ける者数十人あり、石天爵を市で磔にした。敵は怒り、侵入して朔州を掠奪し、広武に至り、太原より南下し、沁・汾・襄垣・長子は皆被害を受け、また忻・崞・代より北に向かい、祁県に屯した。参将張世忠が力戦し、敵はこれを数重に包囲した。巳の刻から申の刻まで、殺傷は互角であった。やがて張世忠は矢尽きて殺され、百戸張宣・張臣ともに死し、敵はすなわち雁門の旧道より去った。秋、再び朔州に入った。吉囊が死に、その子ら狼台吉などは河西に散在し、勢力が分かれると、俺答のみが盛んとなり、毎年たびたび延綏などの辺境を攪乱した。
二十四年秋、俺答は延綏及び大同を犯し、総兵張達が防いで退けた。また鵓鴿峪を犯し、参将張鳳・指揮劉欽・千戸李瓚・生員王邦直らが皆戦死した。時に総督侍郎翁万達・総兵周尚文が厳兵して陽和に備えていたので、敵は引き去った。翌年夏、俺答は再び使者を大同の塞に詣でさせ、貢を求めたが、辺卒がこれを殺した。秋、再び来て請うたので、翁万達が再び上疏して上聞したが、帝は許さなかった。敵は十万騎を率いて西より保安に入り、慶陽・環県を掠奪して東に向かい、一万騎を率いて錦州・義州を寇した。総督三辺侍郎曾銑が参将李珍らを率いて直ちに敵の巣を馬梁山の後ろに擣き、百余級を斬り、敵はようやく退いた。
曾銑は河套回復を議し、大学士夏言がこれを支持した。帝はちょうど夏言を用いようとしており、曾銑に命じて方略を図上し、便宜を以て事に当たらせた。翌年夏、翁万達がまた言うには、「敵は冬から春にかけてたびたび貢を求め、言葉は恭しく、許すのがよかろう」と。聞き入れられず、翁万達を欺瞞と怠慢で責めた。曾銑は兵を集め塞を修繕し、しばしば敵を破った。やがて帝の意向が中途で変わり、夏言と曾銑はついに罪を得て、西市で斬られた。敵はますます忿りを蓄えて思うままにしようとし、廷臣は敢えて河套回復の事を言わなくなった。
二十八年春、宣府の滴水崖を侵犯す。把総指揮の江瀚・董暘戦死し、全軍覆没し、遂に永寧・大同を侵犯す。総兵周尚文之を曹家荘にて防ぎ、大いに之を破り、其の魁を斬る。会すに万達自ら懐来より赴援し、宣府総兵趙国忠警を聞き、亦た千騎を率いて追撃し、復た連ねて之を破る。是の歳、西塞を犯す者五たびす。
二十九年春、俺答威寧海子に移駐す。夏、大同を侵犯し、総兵張達・林椿之に死す。敵引き去り、諸部に伝箭して大挙す。秋、潮河川に沿いて南下し古北口に至る。都御史王汝孝薊鎮の兵を率いて之を防ぐ。敵陽に満を引きて内に向かい、而して別に精騎を遣わし間道より牆を潰して入る。汝孝の兵潰え、遂に懐柔を大掠し、順義を囲み、通州に抵り、兵を分かち四掠し、湖渠馬房を焚く。畿甸大いに震う。
敵の大衆京師を犯す。大同総兵咸寧侯仇鸞・巡撫保定都御史楊守謙等、各勤王の兵を以て至る。帝鸞を拝して大将軍と為し、諸軍を護らしむ。鸞と守謙皆懦懦として敢えて戦わず、兵部尚書丁汝夔恇擾して為す所を知らず、門を閉じて守る。敵焚掠すること三日三夜、引き去る。帝汝夔及び守謙を誅す。敵将に白羊口を出んとし、鸞之に尾く。敵猝然として東返し、鸞出不意にして、兵潰え、死傷千余人。敵乃ち徐ろに古北口より塞を出づ。諸将遺屍を収め斬り、八十余級を得て、以て捷を聞かしむ。
方に俺答都城に薄れる時、擄うる所の馬房内官楊増を放ち書を持たせて城に入り貢を求めしむ。輔臣徐階等謂う、当に計を以て之を款すべしと。諭して退きて塞外に屯せしめ、辺臣に因りて以て請わしむ。俺答帰り、子の脱脱を遣わして款を陳ぶ。時に鸞方に用事す。乃ち馬市を開きて以て敵を中るを議す。兵部郎中楊継盛疏を上りて之を争うも、得ず。明年春、侍郎史道を以て其の事に涖らしめ、白金十万を給し、大同に市を開き、次いで延・寧に及ぶ。叛人蕭芹・呂明鎮なる者は、故に罪を以て敵に亡入し、白蓮邪教を挟み、其の党の趙全・丘富・周原・喬源諸人と俺答を導きて患いを為す。俺答市畢わり、旋いて入り掠む。辺臣之を責むるに、芹等を以て詞と為す。芹詭に術有り、能く城を堕とすとす。敵之を試みて験わず、遂に芹及び明鎮を縛し、而して全・富等竟に出でず。俺答復た牛馬を以て粟豆に易えんことを請い、職役誥敕を求め、又ひそかに河西諸部と約し内犯し、諸辺の垣を堕とす。帝之を悪み、詔して馬市を罷め、道を召し還す。是より、敵日々に西辺を寇掠し、辺人大いに困す。
三十一年春、敵二千騎大同を寇し、指揮王恭之を平川墩にて防ぎ、戦死す。夏、東に入り遼塞を犯し、百戸常祿、指揮姚大謨・劉棟・劉啓基等を三道溝に囲み、四人皆戦没す。備禦指揮王相赴援し、寺児山に大戦し、殺傷相当し、敵捨て去る。千戸葉廷瑞百人を率いて相を助く。明日、相創を裹き復た敵を蠟黎山に邀え、殊死に鬬い、矢竭き、遂に麾下の将士三百人と皆之に死す。廷瑞創を受け死にて復た蘇る。敵亦た引き退く。其の年、凡そ四たび大同を犯し、三たび遼陽を犯し、一たび寧夏を犯す。明年春、宣府及び延綏を犯す。夏、甘粛及び大同を犯す。守将之を防ぐこと輒ち敗る。秋、俺答復た大挙入寇し、渾源・霊丘・広昌を下し、急に插箭・浮図等の峪を攻む。固原遊撃陳鳳・寧夏遊撃朱玉兵を率いて赴援し、大戦して之を却く。敵兵を分かち東に蔚を犯し、西に代・繁畤を掠む。已にして、鄜・延に駐すること二十日、延慶諸城屠掠幾くんば徧くし、乃ち営を中部に移し、以て涇・原を矙う。会すに久雨にして乃ち去る。時に小王子亦た隙に乗じて寇と為り、宣府赤城を犯す。未だ幾ばくもあらず、俺答復た万騎を以て大同に入り、掠を放ちて八角堡に至る。巡撫趙時春之を防ぎ、敵に遇うこと大虫嶺に於いて、総兵李淶戦死し、軍覆え、時春僅かに身を以て免る。
三十五年夏、敵三万騎宣府を犯す。遊撃張綋迎戦し、敗死す。冬、大同辺を掠め、継いで陝西の環・慶諸処を掠む。守将孫朝・袁正等之を却く。其の年、土蛮再び遼東を犯す。
明年、敵二万騎を以て分かち大同辺を掠め、守備唐天禄・把総汪淵を殺す。俺答の弟老把都復た衆数万を擁して河流口に入り、永平及び遷安を犯し、副総兵蒋承勛力戦死す。夏、突如宣府馬尾梁を犯し、参将祁勉戦死す。秋、復た大同右衞の境に入り、七十余堡を攻毀し、殺擄する所甚だ衆し。冬、俺答の子辛愛に妾有り、桃松寨と曰う。部目の収令哥に私し、誅を懼れて来降す。総督楊順自ら奇功と詡り、之を闕下に致す。辛愛来たり索うも得ず、乃ち大同諸の墩堡を掠め放ち、右衞を数匝して囲む。順懼れ、乃ち詭りて言う、敵願わくは我に趙全・丘富を以て易えんとすと。本兵許論便りと為す以為い、乃ち桃松寨を遣わし夜逸出して塞を出でしめ、之を紿して西走せしめ、陰に辛愛に告ぐ。辛愛之を執りて戮す。敵順の無能なるを知りて狎れ、右衞を囲むこと益々急にし、更に兵を分かち宣・薊鎮を犯す。西鄙震動し、右衞の烽火絶つること六箇月を閲す。大学士厳嵩と許論議し、右衞を棄てんと欲す。帝聴かず、詔して諸臣に兵を発し餉を措かしめ、而して兵部侍郎江東を以て順に代わらしむ。時に故将尚表餽餉を以て囲城に入り、悉く力を捍禦に尽くし、粟尽きて牛馬を食い、屋を徹して薪と為し、士卒変志無し。表時に兵を出して突戦し、俺答の孫及び婿と其の部将各一人を獲る。会すに帝の遣わす所の侍郎江東及び巡撫楊選・総兵張承勛等各厳兵を進め、囲み乃ち解く。復た永昌・涼州及び宣府赤城を掠め、甘州を囲むこと十四日にして始めて退く。土蛮亦た数たび遼東を寇す。
三十八年春、老把都・辛愛大挙入寇を謀り、会州に駐し、其の諜をして詭りて東下すと称せしむ。総督王忬察すること能わず、遽かに兵を分かちて東し、号令数たび易わり、敵遂に間に乗じて薊鎮潘家口に入り、忬罪を得。夏、大同を犯し、転じて宣府東西二城を掠め、内に地に駐すること旬日、会すに久雨にして乃ち退く。
三十九年、敵は喜峰口の外に衆を聚め、薊鎮を窺って犯さんとす。大同総兵劉漢は出でて其の帳を灰河に擣ち、敵は稍々遠く徙る。秋、漢は復た参将王孟夏等と共に豊州を擣ち、百五十人を擒斬し、板升を焚きて略々尽くす。是の歳、寇は大同・延綏・薊・遼の辺を虚日無くす。明年の春、敵は河西より氷を踏みて入寇し、守備王世臣・千戸李虎戦死す。秋、宣府及び居庸を犯す。冬、陝西・寧夏の塞を掠む。已にして、復た兵を分けて東し、蓋州を陥す。
四十一年夏、土蠻は撫順に入り、総兵黒春の為に敗られる。冬、復た鳳凰城を攻め、春は力戦二日夜、之に死す。海金は殺掠尤も甚だし。冬、俺答は数たび山西・寧夏の塞を犯す。延綏総兵趙岢は部を分けて鋭卒をし、裨将李希靖等をして東に出でて神木堡よりし、敵帳を半坡山に擣たしめ、徐執中等をして西に出でて定辺営よりし、敵騎を荍麦湖に撃たしむ。皆之に勝ち、百十九級を斬る。
四十四年春、遼東寧前小団山を犯し、参将線補袞・遊撃楊維藩之に死す。夏、粛州を犯し、総兵劉承業之を禦ぎ、再戦皆捷す。秋、俺答の子黄台吉は軽騎を帥ひ、宣府洗馬林より突入し、散りて内地を掠む。把総姜汝棟は鋭卒二百を以て暗荘堡に伏し、猝に台吉に遇ひ、之を搏つ。台吉は馬より墮ち、其の部に奪はれて去る。台吉は傷を受け、日を越えて始めて甦る。明年、俺答は屡々東西の諸塞を犯す。夏、清河守備郎得功は之を張能峪口に扼し、之に勝つ。冬、大同参将崔世栄は敵を樊皮嶺に禦ぎ、及び子大朝・大賓俱に戦死す。時に丘富死に、趙全は敵中に在りて益々事を用ひ、俺答を尊びて帝と為し、宮殿を治む。期日して棟を上ぐるに、忽ち大風有り、棟墜ちて数人を傷つく。俺答懼れ、復た居らんと敢へず。兵部侍郎譚綸は薊鎮に在りて兵を治むるに善くし、全乃ち俺答に説きて軽く薊を犯すこと無く、大同の兵弱くして以て逞ふべしと。
俺答方に西して吐番を掠め、之を聞きて亟に引き還り、諸部を約して入寇せんとす。崇古は諸道に檄して兵を厳しくして之を禦がしむ。敵使来たりて命を請ふ。崇古は訳者鮑崇徳を遣はして往かしめ、朝廷把漢を待つこと甚だ厚きを言ふ。第に能く板升の諸叛人趙全等を縛し、旦に送り至らば、把漢は即ち夕に返らんと。俺答大いに喜び、人を屏ひて語りて曰く「我は乱を為さず、乱は全等よりす。若し天子幸ひに我を封じて王と為し、北方諸部を長ずれば、孰か敢て患を為さん。即ち死すとも、吾が孫当に封を襲ぐべし。彼は中国に衣食し、徳に倍かんことを忍びんや」と。乃ち益々使を発して崇徳と来たり封を乞ひ、且つ馬を輸し、中国の鉄鍋・布帛と互市せんことを請ふ。随ひて趙全・李自馨等数人を執り来たりて献ず。崇古乃ち帝命を以て把漢を遣はして帰らしむ。把漢猶ほ恋恋たり、感泣して再拝して去る。俺答孫を得て大いに喜び、表を上りて謝す。
崇古はこれにより上言した、「朝廷もし俺答の封貢を許せば、諸辺に数年の安寧があり、時に乗じて守備を修めることができる。もし敵が盟約に背けば、我らは数年来蓄養した財力をもって戦守に従事し、終年奔走して自ら救う暇もないよりは勝っている。」さらに八事を条陳して請うた。一、封号と官爵を議すること。諸部の行輩では俺答が最も尊いので、王号を賜い印信を与えるべきである。その大枝たる老把都・黄台吉及び吉囊の長子吉能らは、いずれも都督を授けるべきである。弟・甥・子孫たる兀慎打児漢ら四十六枝は、指揮を授けるべきである。その俺答の諸婿十余枝は、千戸を授けるべきである。一、貢額を定めること。毎年一入貢とし、俺答は馬十匹、使者十人。老把都・吉能・黄台吉は八匹、使者四人。諸部長はそれぞれ部落の大小に差をつけ、大は四匹、小は二匹、使者は各二人。通計して歳貢の馬は五百匹を過ぎず、使者は百五十人を過ぎない。馬は三等に分け、上駟三十頭を御前に進め、残りは価格に差をつけて支払い、老瘠なものは入れない。その使者は、毎年六十人の入京を許し、残りは境上で待機させる。使者が帰る時は、馬の代価で繒布諸物を買うことを聴許する。酬賞を与え、その賞額は三衛及び西蕃諸国に準ずる。一、貢期と貢道を議すること。春月及び万寿聖節の四方来同の会を期とし、使者・馬匹及び表文は大同左衛から検閲して入れ、犒賞を与える。辺境に駐在する者は、各城の撫鎮に分送して検閲・賞賜する。入京する者は、居庸関から入るよう護送する。一、互市を立てること。その規は弘治初年の北部三貢の例の如くすべし。蕃人は金・銀・牛馬・皮張・馬尾等の物をもち、商販は緞紬・布匹・釜鍋等の物をもつ。開市の日、来る者は三百人を以て辺外に駐屯し、我が兵五百人を市場に駐屯させ、期間は一月を尽くす。市場は、陝西三辺には元来の場堡があり、大同は左衛北の威遠堡辺外に、宣府は万全右衛・張家口辺外に、山西は水泉営辺外に設けるべきである。一、撫賞を議すること。守市の兵には人ごとに布二匹、部長には緞二匹・紬二匹を与える。好意をもって辺境に至る者には、来使の大小を斟酌して、賞犒を量り加える。一、帰降を議すること。通貢の後は、降る者は有罪無罪を分かたず、収納を免ずる。その華人で虜掠されて帰正する者は、別に窃盗がないことを調べて初めて入れることを許す。一、経権を審らかにすること。一、狡飾を戒めること。
上疏が入ると、廷臣に下して議させた。帝はついに崇古の言に従い、詔して俺答を順義王に封じ、紅蟒衣一襲を賜う。昆都力哈・黄台吉に都督同知を授け、各々紅獅子衣一襲・綵幣四表裏を賜う。賓兔台吉ら十人に指揮同知を授け、那木児台吉ら十九人に指揮僉事を授け、打児漢台吉ら十八人に正千戸を授け、阿拝台吉ら十二人に副千戸を授け、恰台吉ら二人に百戸を授けた。昆都力哈は即ち老把都である。兵部は崇古の議を採り、市令を定めた。秋市が成立し、凡そ馬五百余匹を得、俺答らに綵幣を差等ありて賜うた。西部の吉能及びその甥の切尽らもまた市を請うたので、詔して紅山墩及び清水営に市を許した。市が成立すると、また吉能を都督同知に封じた。やがて俺答が金字経及び喇嘛僧を請うたので、詔してこれを与えた。崇古がさらに玉印を請うたので、詔して鍍金銀印を与えた。俺答は老いて仏を佞い、さらに海南に寺を建てることを請うたので、詔して寺額を仰華と賜うた。俺答は常に遠く青山に居し、二子あり、賓兔は松山に居し、蘭州の北に当たり、丙兔は西海に居し、河州の西に当たり、ともに互市を求め、多く桀驁であった。俺答がこれを諭すと、次第に馴らされた。
これより、諸部を約束して侵犯せず、毎年貢市に来て、西塞はこれにより寧かであった。しかし東部の土蛮はしばしば衆を擁して遼塞を寇した。総兵李成梁が卓山でこれを破り、五百八十余級を斬り、守備曹簠がさらに長勝堡でこれを破った。神宗が即位すると、頻年にわたって侵犯した。
万暦六年、成梁が遊撃秦得倚らを率いて東昌堡で敵を撃ち、部長九人、その他八百八十四級を斬り、総督梁夢龍がこれを上聞した。帝は大いに喜び、郊廟に祭告し、皇極門に御して捷を宣した。
七年冬、土蛮四万騎が錦川営に入った。夢龍・成梁及び総兵戚継光らはすでに予め大学士張居正の方略を受け、力を併せて備禦し、敵はようやく退いた。これより、敵はしばしば侵入し、成梁らはしばしばこれを破り、たびたびその巨魁を斬り、また時に塞外で襲撃し、多く斬獲した。敵はこれを畏れ、少し収まったので、成梁は遂に功により寧遠伯に封ぜられた。
十五年春、子の撦力克が嗣いだ。その妻三娘子は、もと俺答が奪った外孫女で婦とした者であり、歴代三王に配し、兵柄を主とし、中国のために辺を守り塞を保ったので、衆はこれを畏服し、そこで勅して忠順夫人に封じ、宣大から甘肅に至るまで兵を用いないこと二十年であった。撦力克が西行して遠辺に至ると、套部の荘禿頼らが水塘を占拠し、卜失兎・火落赤らが莽剌・捏工の両川を占拠し、しばしば甘・涼・洮・岷・西寧の間を犯した。他の部落数十種は、塞下に出没し、順逆常ならず。帝はこれを憎み、十九年に詔して撦力克の市賞をともに停めた。やがて撦力克が辺境に叩頭して服を輸し、衆を率いて東帰したが、ただ荘禿頼・卜失兎らは寇抄すること旧の如くであった。その年冬、別部の明安・土昧が分かれて榆林辺を犯し、総兵杜桐がこれを防ぎ、五百人を斬獲し、明安を殺した。
二十四年の春、総督李[日+攵]は精兵を三道に分けて塞外に出撃し、卜失兔の営を襲い、合わせて四百九の首級を斬り、馬畜・器械数千を獲た。火落赤の部衆が再び洮州を窺うと、[日+攵]は参将周国柱らを遣わして莽剌川脳でこれを撃ち、一百三十六級を斬った。秋、著力兔・阿赤兔・火落赤らが謀り合って西辺を犯し、炒花もまた衆を擁して広寧を犯したが、守将はいずれも厳兵をもってこれを退けた。二十五年の秋、海部が甘鎮を寇し、官軍がこれを撃退した。冬、炒花が土蛮諸部を糾合して遼東を寇し、殺戮略奪は数え切れなかった。翌年の夏、再び遼東を寇し、総兵李如松が遠く出撃して巣窟を撃ったが、戦死した。冬、[日+攵]らが分道して出撃し、松山において火落赤らを襲い、これを敗走させ、その地を回復した。
二十七年、詔して撦力克の市賞を復す。この時、[日+攵]らが松山を築くと、諸部が相次いで叛き、延綏・寧夏の守臣が共にこれを撃ち、甲首を殺獲することほぼ三千に及んだ。翌年、著力兔・宰僧・莊禿賴らが通款を乞うたが、許されなかった。辺臣の王見賓らが再びこれを請うたので、詔して套部の貢市を復した。
三十五年の夏、総督徐三畏が言うには、「河套の部と河東の部とは異なる。東部は事柄が一つに統べられ、盟約が定まってから三十年変わらない。套部は四十二枝に分かれ、それぞれが覇を競い、卜失兔はただ上に空名を戴くのみである。西は火落赤が最も狡猾で、要挟は飽くことを知らず、中は擺言太が父明安の死を理由に、毎年侵犯せぬ年はなく、東は沙計が監市の地位を争い、炒花と結んで暴れている。西陲の騒擾は一日のことではない。しかし、その衆は十万と号するも、四十二枝に分かれており、多いものでも二三千騎に過ぎず、少ないものは一二千騎に過ぎない。その勢いを分かち、その款を容れ、先に順う者に賞を与え、後から来る者を拒んで討伐すべきである。なお、主として戦うことで国威を張ることを要する。」時にすでに宰賽及び火落赤諸部の貢市復活を許していた。
間もなく、撦力克が死に、後継者がいなかったので、忠順夫人が率いる部衆は依然として貢職を奉じた。西部の銀定・歹青がたびたび衆を擁して東西の辺境を侵犯した。延綏部の猛克什力もまた賞を要求することを理由に、常に辺境に沿って略奪した。卜失兔が忠順に婚姻を求めると、忠順はこれを拒んだ。その部の素囊台吉・五路台吉らは、互いに従わず、封号は久しく定まらなかった。四十一年、卜失兔はようやく忠順と婚姻し、東西の諸部長が皆、状を具えて封を請うた。忠順夫人はまもなく卒去し、詔して卜失兔を順義王に封じ、一方で把漢比吉は平素より恭順を尽くしていたので、忠義夫人に封じた。卜失兔は撦力克の孫であり、襲封した時にはすでにやや衰えており、その支配は山・大の二鎮の外十二部に止まった。その部長の五路・素囊及び兀慎台吉らは、兵力はいずれも順義王と同等であった。朝廷は宣大総督涂宗濬の言に従い、それぞれ例に倣って昇賞を与えた。
その年、炒花が虎墩兔を糾合して三度遼東を侵犯した。虎墩兔とは、插漢児の地に居り、また插漢児王子ともいい、元の裔である。その祖の打来孫が初めて宣府の塞外に駐牧し、俺答が強盛であったため、併呑されることを恐れて、帳を遼東に移し、福余の雑部を収め、たびたび薊西に入って掠奪し、四伝して虎墩兔に至り、ますます盛んとなった。翌年の夏、炒花は再び宰賽・煖兔と合流して三万騎で侵入掠奪し、平虜・大寧に至った。やがて撫賞を求めたので、これを許した。
四十四年、総兵杜文煥がたびたび延綏辺において套部の猛克什力らを破り、火落赤・擺言太及び吉能・切盡・歹青・沙計ら東西の諸部は皆恐れ、先を争って貢市を請うてきた。
四十六年、我が大清の兵が起こり、撫順及び開原を攻略すると、插部は隙に乗じて衆を擁し賞を要求した。西部の阿暈の妻満旦もまた一万騎を率いて石塘路から入り、薊鎮の白馬関及び高家・馮家諸堡を掠奪した。遊撃朱万良がこれを防いだが、包囲された。羽書は日に数十通も至り、内外戒厳となった。間もなく、満旦もまた関門を叩いて通貢を乞うた。
象乾は言う、「和議の局面が成らんとして再び乱れるのは、既に插に対して信義を示さぬばかりか、国を謀る所以でもない。」上疏が入ると、帝は象乾の議を是とし、詔して宗衡に異同を為さしめぬ。
翌年の秋、虎(リンダン・ハーン)は再び衆を擁して延綏の紅水灘に至り、増賞を乞うて遂げず、即ち塞外を縦掠し、総兵呉自勉がこれを防ぎ退けた。既にして東に附き大清兵と共に龍門を攻めた。未だ幾ばくもせず、大清兵に撃たれた。六年の夏、插漢は大清兵の来るを聞き、部衆を悉く駆りて河を渡り遠く遁走した。是の時、韃靼諸部は先後して大清に帰附した。明年、大清兵は遂に諸部を兀蘇河の南岡に大会し、軍律を頒った。而して虎は既に卒し、乃ち上都城に追至り、插漢の妻子部衆を尽く俘虜とした。
その後、套部は歳々寧夏・甘粛・涼州の境に入り、巡撫陳奇瑜・総兵馬世龍・督師洪承疇等はこれを撃破した。套部の干児罵もまた、総兵尤世祿に斬られた。明の世に至るまで、辺陲に寧日無く、中原の盗賊蜂起を致した。当事者は俺答等との貢市の便に狃れ、插が東に恣にするを見て、歳に金銭数十万を捐て、冀くは旦夕の苟安を図り、且つ彼らを収用せんと覬みたるも、遂に得られず。その後、明未だ亡びざるに、插は先に斃れ、諸部は皆折れて大清に入った。国計は愈々困窮し、辺事は愈々棘しく、朝議は愈々紛糾し、明も遂に為すべからざるに至った。
韃靼の地は、東は兀良哈に至り、西は瓦剌に至る。洪熙・永楽・宣徳の世、国家全盛の時、頗る戎索を受けしも、然れども叛服も亦常ならず。正統以後、辺備廃弛し、声霊振わず。諸部長多くは雄傑の姿を以て、その暴強を恃み、迭り出でて中夏と抗す。辺境の禍は、遂に明と終始すと云う。