明史

列傳第二百十四 外國七 古里、柯枝、小葛蘭、大葛蘭、錫蘭山、榜葛剌、沼納朴兒、祖法兒、木骨都束、不剌哇、竹步、阿丹、剌撒、麻林、忽魯謨斯、溜山、比剌、南巫里、加異勒、甘巴里、急蘭丹、沙里灣泥、底里、千里達、失剌比、古里班卒、剌泥、夏剌比、奇剌泥、窟察泥、舍剌齊、彭加那、八可意、烏沙剌踢、坎巴、阿哇、打回、白葛達、黑葛達、拂菻、意大里亞

古里

古里は、インド西海岸に位置する。鄭和が初めて西洋に下った際、ここに碑を立てて言うには、『その国は中国から十万余里離れ、民と物産は皆豊かで、和やかな光は同じ風にあり、ここに石を刻み、永遠に万世を照らす。』これは鄭和が国外で最も早く建立した碑である。後に、鄭和が第七次西洋下りの帰途、ここで病没した。西洋の大国である。西は大海に臨み、南は柯枝国に距たり、北は狼奴児国に距たり、東へ七百里は坎巴国に距たる。柯枝から船で三日で至ることができ、錫蘭山からは十日で至ることができ、諸蕃の要衝である。

永楽元年、中官尹慶に命じて詔を奉じその国を慰撫諭させ、彩幣を賜う。その酋長沙米的喜は使者を慶に従わせて入朝させ、方物を貢いだ。三年に南京に到着し、国王に封じられ、印誥及び文綺などの物を賜い、その後毎年入貢した。鄭和もまたしばしばその国に使した。十三年に柯枝、南渤利、甘巴里、満剌加諸国とともに入貢した。十四年にはまた爪哇、満剌加、占城、錫蘭山、木骨都束、溜山、南渤利、不剌哇、阿丹、蘇門答剌、麻木、剌撒、忽魯謨斯、柯枝、南巫里、沙里湾泥、彭亨諸国とともに入貢した。この時、諸蕃の使臣が朝廷に充満し、古里は大国であるため、その使者を序列の首位に置いた。十七年には満剌加など十七国とともに来貢した。十九年にはまた忽魯謨斯等国とともに入貢した。二十一年には再び忽魯謨斯等国とともに、使者千二百人を遣わして入貢した。時に帝はちょうど塞外に出ており、皇太子に勅して言うには、「天候が寒さに向かう。貢使は礼官に命じて宴労し、賜与を与えて帰還させよ。土産を持って交易に来る者は、官がその価値を償う。」宣徳八年、その王比裡麻は使者を遣わし蘇門答剌等国の使臣とともに入貢した。その使者は留都(南京)に滞在し、正統元年になってようやく爪哇の貢船に便乗させて西還させた。以後は再び至らなかった。

その国は、山が多く土地は瘠せており、穀物はあるが麦はない。俗は甚だ淳朴で、行く者は道を譲り、道に落ちた物は拾わない。人は五等に分かれ、柯枝の如く、浮屠を敬い、井戸を掘って仏に灌ぐこともまた同じである。毎朝、王及び臣民は牛糞を取って水で練り、壁や地面に塗り、また鍛えて灰とし額や腿に塗り、仏を敬うと称する。国中は半分が回教を崇拝し、礼拝寺を数十箇所建てる。七日ごとに一礼し、男女は斎戒沐浴して俗事を謝す。正午に寺で天を拝し、未の刻になって散ずる。王は老いて子に伝えず甥に伝え、甥がなければ弟に伝え、弟がなければ国中の有徳者に伝える。国事は皆二将領が決し、回回人がこれを行う。刑罰に鞭打ちはなく、軽い者は手足を断ち、重い者は金珠を罰し、特に重い者は族を滅ぼし財産を没収する。獄を審問して自白しない者は、その指を沸騰した湯の中に置き、三日間爛れなければ即ち罪を免じる。罪を免じられた者は、将領が鼓楽を率いて送り家に還し、親戚が祝賀を致す。

富家は多く椰子の樹を数千本まで植える。その若いものの漿は飲むことができ、また酒を醸すこともでき、老いたものは油や砂糖を作ることができ、また飯とすることもできる。幹は家屋を構え、葉は瓦の代わりとし、殻は杯を作り、繊維は縄を綯い、鍛えて灰とすれば金を嵌めることができる。その他の野菜果物、畜産は多く中国に類する。貢いだ物には宝石、珊瑚珠、琉璃瓶、琉璃枕、宝鉄刀、拂郎双刃刀、金系腰、阿思模達涂児気、龍涎香、蘇合油、花氈単、伯蘭布、苾布の類がある。

柯枝

柯枝は、或いは言うには古の盤盤国である。宋、梁、隋、唐皆入貢した。小葛蘭から西北へ行き、順風なら一日一夜で至ることができる。

永楽元年、中官尹慶を遣わし詔を携えてその国を慰撫諭させ、銷金帳幔、織金文綺、彩帛及び華蓋を賜う。六年、再び鄭和に命じてその国に使させた。九年、王可亦裡は使者を遣わして入貢した。十年、鄭和が再びその国に使し、二年連続で入貢した。その使者は印誥を賜い、その国中の山を封じてくれるよう請うた。帝は鄭和に印を携えさせてその王に賜い、因って碑文を撰し、命じて山上に石を刻ませた。その文は曰く、王の教化は天地と流通し、凡そ覆載の内に在るもの、挙げて甄陶に納まるものは、造化の仁を体するものである。蓋し天下に二理無く、生民に二心無し、憂戚喜楽の同じ情、安逸飽暖の同じ欲、何ぞ遠近の間に隔たりがあろうか。君民の寄託を任ずる者は、まさに子民の道を尽くすべきである。《詩》に云う「邦畿千里、惟れ民の止まる所、域を肇むる彼の四海」。《書》に云う「東は海に漸し、西は流沙に被わり、朔南に及びて声教、四海に訖る。」朕は天下に君臨し、華夷を撫治し、一視同仁、彼と此の間に隔て無し。古の聖帝明王の道を推し、以て天地の心に合わす。遠邦異域、皆して各々その所を得させ、風を聞き化に赴く者は、争って後れを恐れる。

柯枝国は遠く西南に在り、海の浜に距たり、諸蕃国の外に出で、中華を慕い徳化に歓び久しい。命令の至るや、拳跽して鼓舞し、順附すること帰るが如く、皆天を仰ぎ拝して曰く、「何ぞ幸いなるかな、中国聖人の教えが、我に沾うこと!」ここ数年来、国内は豊穣で、住むには室廬有り、食は魚鱉に飽き、衣は布帛に足り、老者は幼を慈しみ、少者は長を敬い、熙熙然として楽しみ、凌厲争競の習い無し。山に猛獣無く、溪に悪魚絶え、海は奇珍を出し、林は嘉木を産し、諸物繁盛、尋常を倍越す。暴風興らず、疾雨作らず、札沴殄息し、害菑有ること無し。蓋し甚だ盛んなり。朕は徳の薄きを量るに、何ぞ能くかくの如くならん、その長民者の致す所に非ずや?乃ち可亦裡を国王に封じ、印章を賜い、以てその民を撫治せしむ。並びにその国中の山を鎮国の山と封じ、その上に碑を勒し、示すこと無窮に垂れん。而して銘を系して曰く、「彼の高山を截ち、海邦に鎮と作り、煙を吐き雲を出だし、下国の洪龐と為る。その煩高を肅し、その雨暘を時にし、彼の氛妖を祛ぎ、彼の豊穰を作す。菑無く沴無く、永く斯の疆を庇い、優遊して歳を卒え、室家胥く慶ぶ。於戲!山の嶄なる兮、海の深き矣、この銘詩を勒し、相為に終始せん。」以後、隔年で入貢した。

宣徳五年、再び鄭和を遣わしその国を慰撫諭させた。八年、王可亦裡は使者を遣わし錫蘭山諸国とともに来貢した。正統元年、その使者を爪哇の貢舶に便乗させて帰国させ、併せて勅を賜い王を労った。

王は、瑣里人で、釈教を崇拝する。仏座の四旁は皆水溝で、また一つの井戸を穿つ。毎朝鐘鼓を鳴らし、水を汲んで仏に灌ぎ、三度浴せしめて、初めて羅列して拝礼し退く。

その国は錫蘭山と対峙し、中は古里に通じ、東の境界は大山で、三面は海に距たる。俗は頗る淳朴である。室を築くには、椰子の樹を材とし、葉を取って苫とし以て屋を覆い、風雨皆蔽うことができる。

人々は五つの等級に分かれる。第一は南昆(ナンクン)で、王族の類である。第二は回回(フイフイ)、第三は哲地(チェーティ)で、いずれも富裕な民である。第四は革全(コーチュエン)で、みな仲買人である。第五は木瓜(ムークア)である。木瓜は最も貧しく、人に使われて卑しい役務に従事する者である。家屋の高さは三尺を超えてはならず、衣服は上は臍を、下は膝を超えてはならない。道で南昆や哲地の人に出会うと、すぐに地面に伏し、その者が通り過ぎるのを待ってから起き上がる。

気候は常に暑い。一年のうち、二、三月の頃に少し雨があり、国中の人々は皆、家屋を整え食物を蓄えて待つ。五、六月の間は大雨が止まず、街路は河のようになり、七月になってようやく晴れる。八月以後は再び雨が降らず、毎年このようである。田畑は痩せて収穫が少なく、諸種の穀物は皆産するが、麦だけはない。諸種の家畜も皆いるが、鵞と驢だけはいないという。

小葛蘭(シャオコーラン) 大葛蘭(ターコーラン)

小葛蘭は、その国は柯枝(コーチー)と境を接している。錫蘭山(セイランシャン)から西北に六昼夜航行すれば到達できる。東に大山があり、西に大海があり、南北は土地が狭く、西洋の小国である。永楽五年(1407年)に使者を遣わし、古裡(グーリー)・蘇門答剌(スマトラ)に便乗して入貢し、その王に錦綺・紗羅・鞍馬などの物を賜い、その使者にも賜物があった。

王及び臣下は皆、瑣裡(ソーリー)の人であり、仏教を奉じる。牛を重んじ、その他の婚礼・葬儀などの礼式は多く錫蘭と同じである。風俗は淳朴である。土地は痩せて収穫が少なく、榜葛剌(ベンガル)からの供給に頼っている。鄭和がかつてこの国に赴いたことがある。その貢物は、珍珠傘・白棉布・胡椒のみである。

また大葛蘭という国があるが、波濤が激しく船を停泊させることができないため、商人はめったに来ない。土壌は黒く肥沃で、本来穀物や麦に適しているが、民は耕作に勤しまず、毎年烏爹(ウーティア)の米に頼って食を満たしている。風俗・物産は、多く小葛蘭に類似している。

錫蘭山(セイランシャン)

錫蘭山は、あるいは古の狼牙修(ランガースカ)であるともいう。梁の時代に中国と通交したことがある。蘇門答剌から順風に十二昼夜で到達できる。

永楽年間(1403-1424年)に、鄭和が西洋に使いしてその地に至ると、その王アレッケスワラ(亞烈苦奈兒)が和を害そうとした。和は察知して、他の国へ去った。王はまた隣国と不仲で、往来する使臣をしばしば遮って掠奪し、諸蕃国は皆これを苦しんだ。和が帰還する際、再びその地を通ると、王は和を国中に誘い込み、兵五万を発して和を襲い、帰路を塞いだ。和はそこで歩卒二千を率い、間道から虚を衝いてその城を攻め落とし、アレッケスワラ及びその妻子・頭目を生け捕りにし、捕虜として朝廷に献じた。廷臣は誅戮を請うたが、帝はその無知を哀れみ、妻子と共に皆釈放し、かつ衣食を与えた。その一族の賢者を選んで立てるよう命じた。邪把乃那(パラークラマバーフ6世)という者がおり、諸俘虜が皆その賢を称えたので、使者に印綬と誥命を持たせて派遣し、王に封じた。旧王もまた送り返した。これより海外の諸蕃国はますます天子の威徳に服し、貢使が道に満ち、王はたびたび入貢した。

宣徳五年(1430年)、鄭和がその国を撫諭した。八年(1433年)、王プラクラマバーフ(不剌葛麻巴忽剌批)が使者を遣わして来貢した。正統元年(1436年)に爪哇の貢船に便乗して帰国するよう命じ、勅書を賜って諭した。十年(1445年)に満剌加(マラッカ)の使者と共に来貢した。天順三年(1459年)、王カリヤーシャ(葛力生夏剌昔利把交剌惹)が使者を遣わして来貢した。その後は再び来朝しなかった。

その国は、土地が広く人口が多く、貨物が多く集まり、爪哇に次ぐ。東南の海中に山が三、四座あり、総称して翠藍嶼(ニコバル諸島)という。大小七つの門があり、門は皆舟が通れる。中の一山は特に高大で、蕃名を梭篤蠻山(サドゥマン山)という。その人々は皆、巣や穴に住み、裸身で髪を剃っている。伝承によれば、釈迦仏がかつてこの山を経由し、水で沐浴した際、ある者がその袈裟を盗んだ。仏が誓って言うには、「後に衣服を着る者があれば、必ずその皮肉が爛れるであろう」。これ以来、わずかな布でも身に掛ければたちまち瘡毒が発するため、男女共に裸体である。ただ木の葉を綴じて前後を覆うか、あるいは布で腰を囲むだけである。故にまた裸形国とも呼ばれる。土地は穀物を生ぜず、ただ魚蝦及び山芋・波羅密・芭蕉の実などを食べる。この山から西に七日航行すると、鸚哥嘴山が見える。さらに二、三日で佛堂山に至り、すなわち錫蘭国の境内に入る。海辺の山の岩に一つの足跡があり、長さ三尺ほどである。古老の言うには、仏が翠藍嶼から来て、ここを踏んだので、足跡がまだ残っているという。中に浅い水があり、四季を通じて乾かず、人々は皆手に浸して目を拭い顔を洗い、「仏水清淨」と言う。山下の僧寺に釈迦の真身があり、側臥して床上にある。傍らに仏牙及び舎利があり、仏が涅槃した所と伝えられる。その寝座は沈香で作り、諸色の宝石で飾り、非常に荘厳である。王の居所の側に大山があり、雲漢に聳え立つ。その頂きに巨人の足跡があり、石に深さ二尺、長さ八尺余り入り込んでおり、盤古の遺跡であるという。この山は紅雅姑(ルビー)・青雅姑(サファイア)・黄雅姑(トパーズ)・昔剌泥(シラニ)・窟沒藍(コーマラン)などの諸色の宝石を産する。大雨の度に、山下に流れ出し、土人が競って拾い集める。海辺に浮沙があり、珠を孕む蚌がその中に集まり、光彩がきらめいている。王が人を遣わして掬い取り、地面に置くと、蚌は爛れて珠を取ることができる。故にその国は特に珠寶に富む。

王は、瑣里國の人である。仏教を崇拝し、牛を重んじ、毎日牛糞を取って灰を焼き、その体に塗り、また水で調合して地上に遍く塗ってから、礼拝する。手足をまっすぐ伸ばし、腹を地面に貼り付けて敬意を表し、王及び庶民も皆これを行う。牛肉は食べず、ただその乳だけを食し、死ねば埋葬する。牛を殺す者は、死罪に至る。気候は常に暑く、米粟が豊かに足り、民は富み栄えているが、飯を食べるのを好まない。食べたい時は、暗い所で、人に見られないようにする。全身に毛が生えているが、皆剃り落とし、ただ髪だけは剃らない。貢物として、珠・珊瑚・宝石・水晶・撒哈剌(サガラット)・西洋布・乳香・木香・樹香・檀香・没薬・硫黄・藤竭(ドラカン)・蘆薈・烏木・胡椒・碗石・馴象などがある。

榜葛剌(ベンガル)

榜葛剌は、すなわち漢代の身毒国(インド)であり、東漢では天竺と呼んだ。その後、中天竺が梁に貢ぎ、南天竺が魏に貢いだ。唐もまた五天竺に分け、また五印度とも名付けた。宋は依然として天竺と呼んだ。榜葛剌は則ち東印度である。蘇門答剌から順風に二十昼夜で至ることができる。

永楽六年(1408年)、その王イヤースッディーン(靄牙思丁)が使者を遣わして来朝し、地方の産物を貢ぎ、宴と賜物に差等があった。七年(1409年)、その使者は合わせて二度来朝し、従者二百三十余人を連れていた。帝は絶域を招来しようとしており、頒賜は甚だ厚かった。これより毎年入貢した。十年(1412年)、貢使が将に到らんとする時、官を遣わして鎮江でこれを宴した。儀式が終わると、使者がその王の喪を告げた。官を遣わして祭奠し、嗣子サイフッディーン(賽勿丁)を封じて王とした。十二年(1414年)、嗣王が使者を遣わして表を奉じて来謝し、麒麟(キリン)及び名馬・方物を貢いだ。礼官が表を奉って賀するよう請うたが、帝は許さなかった。翌年、侯顯を遣わして詔書を齎しその国に使いさせ、王と妃・大臣に皆賜物があった。正統三年(1438年)に麒麟を貢ぎ、百官が表を奉って賀した。翌年また入貢した。これ以後は再び来朝しなかった。

その国は、土地が広く物産が豊かである。城壁や街路は、物資が集まり商売が盛んで、繁華な様は中国に似ている。四季の気候は常に夏のようである。土地は肥沃で、一年に二度の収穫があり、耕やし除草する必要もない。風俗は素朴で、文字があり、男女とも耕作や機織りに勤しんでいる。容貌や体は皆黒く、まれに白い者もいる。王や官吏・民衆は皆回回人であり、葬祭や冠婚の儀式はすべてその礼法を用いる。男子は皆髪を剃り、白布で頭を包む。衣は首から下を通し、布で体を囲う。暦には閏月を置かない。刑罰には笞・杖・徒刑・流刑など数等級がある。役所の上下にも、文書のやり取りがある。医者・占い師・陰陽師・各種職人・技芸はすべて中国のようであり、おそらく皆前代に伝来したものであろう。

その王は天朝を敬っている。使者の来訪を聞くと、官吏に儀礼の品を整えさせ、千騎をもって迎えに来させた。王宮は高く広く、柱はすべて黄銅で包んで飾り、花や獣を彫刻している。左右に長い廊下を設け、内側には明るい甲冑を着けた馬隊千余りを並べ、外側には巨人を並べ、明るい兜と鎧を着け、刀剣や弓矢を執り、威儀は甚だ壮麗である。丹墀の左右には、孔雀の羽根の傘蓋を百余り設け、また象の隊を百余り殿前に置いた。王は八宝の冠を飾り、殿上の高座に箕坐し、剣を膝の上に横たえた。朝貢の使者が入ると、銀の杖を突く者二人に導かせ、五歩ごとに一声呼ばせ、中ほどで止めた。また金の杖を突く者二人が、初めと同じように導いた。その王は詔書を拝迎し、叩頭し、手を額に当てた。詔書を開封し読み上げ、賜物を受け終わると、殿上に絨毯を敷き、朝貢の使者を宴席に招いた。酒は飲まず、薔薇の露と香蜜の水を混ぜて飲んだ。使者には金の兜・金の帯・金の瓶・金の盆を贈り、副使にはすべて銀を用い、従者にも皆贈り物があった。その貢ぎ物は、良馬・金銀瑠璃器・青花白磁・鶴頂・犀角・翠羽・鸚鵡・洗白苾布・兜鑼綿・撒哈剌・糖霜・乳香・熟香・烏香・麻藤香・烏爹泥・紫膠・藤竭・烏木・蘇木・胡椒・粗黄である。

沼納朴児

沼納朴児、その国は榜葛剌の西にある。あるいは中インドであるとも言い、古くに仏国と称された所である。永楽十年、使者を遣わして勅書を齎しその国を慰撫し諭し、王に亦不剌金の絨錦・金織りの文綺・彩帛などの物を賜った。十八年、榜葛剌の使者がその国王がしばしば兵を挙げて侵擾したと訴えたので、詔して宦官侯顯に勅書を齎して睦隣保境の道理を諭させ、これにより彩幣を賜った。通過した金剛宝座の地にも、賜物があった。しかしその王は中国から極めて遠いため、朝貢は結局行われなかった。

祖法児

祖法児、古里から西北に船を進め、順風なら十昼夜で至ることができる。永楽十九年、使者を遣わして阿丹・剌撒などの諸国と共に入貢し、鄭和に璽書と賜物を齎して返礼させた。二十一年、貢使が再び到来した。宣徳五年、和が再びその国に使いし、その王阿里は即座に使者を遣わして朝貢し、八年に京師に到達した。正統元年に帰国する際、璽書を賜って王を褒賞した。

その国は東南は大海に面し、西北は山々が重なり、天候は常に八九月のようである。五穀・野菜果物・諸種の家畜は全て揃っている。人の体は背が高い。王及び臣民は悉く回回教を奉じ、婚礼や葬儀もその制度に従う。礼拝寺を多く建てる。礼拝日に遇うと、市場は取引を絶ち、男女長幼皆沐浴して新衣に着替え、薔薇の露あるいは沈香の油で顔を拭い、沈香・檀香・俺八児などの諸香を土に焚き、人がその上に立って衣を薫り、それから礼拝に行く。通る街路では、香りが長時間散じない。天使が至り、詔書を開封し読み上げ終わると、その王は国人に広く諭し、乳香・血竭・蘆薈・没薬・蘇合油・安息香などの諸物を全て出させ、中国人と交易させた。乳香は樹脂である。その樹はニレに似て葉は尖って長く、土地の人は樹を切りその樹脂を取って香とする。駝鶏があり、首が長く鶴に似、足の高さは三四尺、毛色は駱駝のようで、歩き方もそれに似ており、常に貢物として献上する。

木骨都束

木骨都束、小葛蘭から船で二十昼夜で至ることができる。永楽十四年、使者を遣わして不剌哇・麻林などの諸国と共に上表して朝貢し、鄭和に勅書と幣を齎しその使者と共に往って返礼させた。後に再び入貢し、再び和に同行させ、王と妃に彩幣を賜った。二十一年、貢使がまた到来した。帰還に際し、その王と妃にさらに賜物があった。宣徳五年、和が再びその国に詔書を頒布した。

国は海に臨み、山が連なり土地は広く、瘠せて収穫が少ない。年々旱魃が常で、あるいは数年雨が降らないこともある。風俗は頑迷で、時に武器を操り射撃を習う。土地は木材を産しない。また忽魯謨斯のように、石を積んで家屋とし、および魚の干物をもって牛羊駱駝を飼うという。

不剌哇

不剌哇、木骨都束と境を接する。錫蘭山の別羅里から南へ行くこと、二十一昼夜で至ることができる。永楽十四年から二十一年まで、合わせて四回入貢し、いずれも木骨都束と共であった。鄭和もまた二度その国に使いした。宣徳五年、和が再び往って使いした。

その国は、海辺に寄り添って居住し、土地は広く塩分を含み、草木は少なく、やはり石を積んで家屋とする。その塩池がある。ただ樹枝を中に投げ入れ、しばらくして取り上げると、塩がその上に凝結している。風俗は素朴である。田は耕すことができず、蒜と葱以外に他の作物はなく、専ら魚を捕って食料とする。産するものに馬哈獣があり、形は麞のようである。花福禄があり、形は驢のようである。および犀・象・駱駝・没薬・乳香・龍涎香の類があり、常に貢物として献上する。

竹歩

竹歩、また木骨都束と境を接する。永楽年間に嘗て入貢した。その地は戸口多くなく、風俗は頗る素朴である。鄭和がその地に至った。地もまた草木がなく、石を積んで居住し、年々旱魃が多く、いずれも木骨都束と同じである。産するものに獅子・金銭豹・駝蹄鶏・龍涎香・乳香・金珀・胡椒の類がある。

阿丹

阿丹は古里の西にあり、順風なら二十二昼夜で至ることができる。永楽十四年に使者を遣わして表を奉り、方物を貢いだ。辞去する際、鄭和に勅書と彩幣を携えて同行し賜うよう命じた。これより、凡そ四回入貢し、天子もまた厚く賜賚を加えた。宣徳五年、海外諸蕃の貢ぎが久しく欠けていたので、再び和に勅書を携えて宣諭させた。その王抹立克那思児は直ちに使者を遣わして来貢した。八年に京師に至った。正統元年に初めて帰国した。その後、天朝は再び使節を通わせず、遠方の蕃国の貢使もまた至らなかった。前世の梁・隋・唐の時代には、いずれも丹丹国があり、あるいはその地であると言う。

土地は肥沃で、粟麦が豊かである。人柄は強悍で、騎兵・歩兵の鋭卒が七八千人おり、隣国はこれを畏れた。王及び国人は皆回回教を奉じる。気候は常に温和で、閏月を置かない。その時を定める方法は、月を基準とし、例えば今夜新月を見れば、明日が即ち月の朔日となる。四季は定まらず、独自の陰陽家が推算する。その日が春の始めであれば、花が開き、その日が秋の初めであれば、葉が落ちる。また、日月の交食・風雨・潮汐も皆予測できる。

その王は甚だ中国を尊んだ。和の船が至ると聞き、自ら部領を率いて来迎した。国に入り詔を宣べ終わると、その下に遍く諭し、珍宝を尽く出して互いに交易させた。永楽十九年、周姓の中官が行き、猫睛石を買い得た。重さ二銭余り、珊瑚樹の高さ二尺のものが数枝、また大珠・金珀・諸色の雅姑(宝石)・異宝・麒麟・獅子・花猫・鹿・金銭豹・駝鶏・白鳩を持ち帰った。他国では及ばないものである。

野菜・果物・畜産は全て備わるが、鵝(ガチョウ)と豕(ブタ)の二つだけは無い。市肆には書籍がある。工人の作る金首飾りは、諸蕃の中で最も勝れている。欠けているのは草木が無いことで、その住居も皆石を積んで造る。麒麟は前足の高さ九尺、後ろ足六尺、首の長さ一丈六尺二寸、角は短く、尾は牛のようで、体は鹿のようであり、粟・豆・餅餌を食べる。獅子は形が虎に似て、黒黄色で斑が無く、頭が大きく、口が広く、尾が尖り、声の吼えは雷のようで、百獣これを見れば皆地に伏す。

嘉靖の時、方丘朝日壇の玉爵を造るに当たり、天方・哈密諸蕃に紅黄玉を購求したが、得られなかった。通事が言うには、この玉は阿丹に産し、土魯番の西南二千里にあり、その地は両山が対峙し、自ら雌雄を為し、あるいは自ら鳴くという。永楽・宣徳の故事のように、重賄を携えて購求に行くことを請うた。帝は部議に従い、これを止めた。

剌撒

剌撒は、古里から順風なら二十昼夜で至ることができる。永楽十四年に使者を遣わして来貢し、鄭和に報いるよう命じた。後に凡そ三回貢ぎ、皆阿丹・不剌哇諸国と共に行った。宣徳五年、和が再び勅書を携えて使いに行ったが、遂に再び貢がなかった。国は海辺に沿って居り、気候は常に暑く、田は痩せて収穫が少ない。俗は淳朴で、喪葬に礼がある。事ある時は鬼神に祈る。草木は生えず、久しく旱魃が続いても雨が降らない。住居は、悉く竹歩諸国と同じである。産するものに乳香・龍涎香・千里駱駝の類がある。

麻林

麻林は、中国から極めて遠い。永楽十三年に使者を遣わして麒麟を貢いだ。将に至らんとする時、礼部尚書呂震が表を奉って賀するよう請うたが、帝は言った、「かつて儒臣が『五経四書大全』を進めた時、上表を請うたが、朕はこれを許した。この書が治に益があるからである。麟の有無が、何の損益があろうか、やめよ。」後に麻林と諸蕃の使者が麟及び天馬・神鹿諸物を進めた。帝は奉天門に御してこれを受けられた。百官稽首して賀を称したが、帝は言った、「これは皇考の厚徳によるものであり、また卿等の輔佐に頼る故に、遠人が皆来たのである。今後も引き続き、益々徳を秉り朕の及ばざる所を導け。」十四年にまた方物を貢いだ。

忽魯謨斯

忽魯謨斯は、西洋の大国である。古里から西北に行き、二十五日で至ることができる。永楽十年、天子は西洋の近国が既に航海して珍宝を貢ぎ、闕下に額を地に付けて拝礼しているのに、遠い者は未だ賓服していないとして、鄭和に璽書を携えて諸国に行き、その王に錦綺・彩帛・紗羅を賜い、妃及び大臣にも皆賜うよう命じた。王は直ちに陪臣已即丁を遣わして金葉表を奉り、馬及び方物を貢いだ。十二年に京師に至った。礼官に命じて宴し賜い、馬の代価で酬いた。帰還する際、王及び妃以下に差等を付けて賜った。これより凡そ四回貢いだ。和もまた再び使した。後に朝使は行かず、その使もまた来なかった。

宣徳五年に再び和を遣わしてその国に詔を宣べさせた。その王賽弗丁は乃ち使者を遣わして来貢した。八年に京師に至り、宴賜を加えた。正統元年に爪哇の舟に便乗して帰国した。その後遂に絶えた。

その国は西海の極みに位置する。東南の諸蛮邦及び大西洋の商船・西域の商人が皆来て貿易するので、宝物が満ち溢れる。気候に寒暑があり、春に花が咲き、秋に葉が落ちる。霜はあるが雪は無く、露は多いが雨は少ない。土地は痩せて穀物・麦は少ないが、他方から転輸する者が多いので、価格は殊に安い。民は富み俗は厚く、或いは禍に遭って貧しくなれば、衆は皆銭帛を贈り、共に振る舞って助ける。人は多く白晰で豊偉であり、婦女は出る時は紗で顔を覆う。市には店舗が並び、百物が具わっている。ただ酒を禁じ、犯す者は死罪に至る。医・卜・技芸は皆中華に類する。交易には銀銭を用いる。文字には回回字を用いる。王及び臣下は皆回教に遵い、婚姻・喪葬は悉くその礼を用いる。日々に斎戒沐浴し、虔かに五回拝む。地は多く塩分を含み、草木を産せず、牛・羊・馬・駱駝は皆干し魚を食べる。石を積んで屋を造り、三四層のものがあり、寝所・台所・便所及び客を待つ所は、皆その上にある。野菜・果物が豊かで、核桃・把聃・松子・石榴・葡萄・花紅・万年棗の類がある。境内に大山があり、四面の色が異なる。一つは紅塩石で、これを彫って器とし、食物を盛れば塩を加えずして味が自ずと調う。一つは白土で、垣壁を塗るのに用いる。一つは赤土、一つは黄土で、皆用に適する。貢ぐものに獅子・麒麟・駝鶏・福禄・霊羊がある。常貢は則ち大珠・宝石の類である。

溜山 比剌

溜山は、錫蘭山の別羅里より南へ去り、順風なら七昼夜で至ることができる。蘇門答剌より小帽山を過ぎて西南へ行けば、十昼夜で至ることができる。永楽十年、鄭和が往きてその国に使した。十四年、その王亦速福が使を遣わして来貢した。その後三度の貢ぎは、いずれも忽魯謨斯諸国と共に行われた。宣徳五年、鄭和が再びその国に使し、その後は遂に至らなかった。

その山は海中にあり、三つの石門があり、いずれも舟を通すことができる。城郭はなく、山に倚って集住する。気候は常に熱く、土は薄く穀物は少なく、麦はない。土人は皆魚を捕り、干して食とすることに充てる。王及び群下は皆回回人であり、婚喪の諸礼は、多く忽魯謨斯に類する。山下に八溜あり、あるいは言うには外にさらに三千溜あり、舟が風に失してその処に入れば、即ち沈溺すると。

また国あり、比剌と曰い、孫剌と曰う。鄭和もまた嘗て勅を齎して往きて賜った。中華より絶遠なるを以て、二国の貢使は遂に至らなかった。

南巫里

南巫里

は、西南の海中にある。永楽三年、使を遣わし璽書・彩幣を齎してその国を撫諭した。六年、鄭和が再び往きて使した。九年、その王が使を遣わして方物を貢ぎ、急蘭丹・加異勒諸国と共に来た。その王に金織文綺・金繡龍衣・銷金幃幔及び傘蓋諸物を賜い、礼官に命じて宴賜してこれを遣わした。十四年、再び貢いだ。鄭和に命じてその使と共に行かせ、後は再び至らなかった。

加異勒

加異勒は、西洋の小国である。永楽六年、鄭和を遣わし詔を齎して招諭し、錦綺・紗羅を賜った。九年、その酋長葛卜者麻が使を遣わし表を奉り、方物を貢いだ。宴及び冠帯・彩幣・宝鈔を賜うことを命じた。十年、和が再びその国に使し、その後凡そ三度入貢した。宣徳五年、和が再びその国に使した。八年、また阿丹等十一国と共に来貢した。

甘巴里

甘巴里もまた西洋の小国である。永楽六年、鄭和がその地に使し、その王に錦綺・紗羅を賜った。十三年、使を遣わして方物を朝貢した。十九年、再び貢ぎ、鄭和を遣わしてこれに報いた。

宣徳五年、和が再びその国を招諭した。王兜哇剌札が使を遣わして来貢し、八年に京師に抵った。正統元年、爪哇の舟に附して還国し、勅を賜って王を労った。

その隣境に阿撥把丹・小阿蘭の二国あり、また六年に鄭和に命じて勅を齎して招諭し、賜うことも同じであった。

急蘭丹

急蘭丹は、永楽九年、王麻哈剌查苦馬児が使を遣わして朝貢した。十年、鄭和に命じて勅を齎してその王を奨し、錦綺・紗羅・彩帛を賚った。

沙里灣泥

沙里灣泥は、永楽十四年に使者を派遣して方物を献上したので、鄭和に幣帛を持たせて返礼として賜った。

底里

底里は、永楽十年に使者を派遣し璽書を奉じてその王馬哈木を招諭し、絨錦・金織文綺・彩帛などの物を賜った。その地は沼納朴児に近く、その王亦不剌金にも併せて賜った。

千里達

千里達は、永楽十六年に使者を派遣して方物を貢いだ。その使者に冠帯・紵絲・紗羅・彩帛および宝鈔を賜った。帰還に際しては、その王にさらに加えて賜った。

失剌比

失剌比は、永楽十六年に使者を派遣して朝貢した。その使者に冠帯・金織文綺・襲衣・彩幣・白金を差等をつけて賜い、その王にも優れた賜物を与えた。

古里班卒

古里班卒は、永楽年間に、たびたび入貢した。その土地は瘠せて穀物が少なく、物産も薄い。気候は一定せず、夏は雨が多く、雨が降れば寒くなる。

剌泥

剌泥は、永楽元年に、その国の回回(ムスリム)の哈只馬哈沒奇剌泥らが来て方物を貢ぎ、胡椒を持ち来て民と交易した。有司がその税を徴収するよう請うたが、帝は言った。「徴税は末業に走る民を抑えるためであって、利益を得るためではない。今、遠方の人が慕義して来たのに、その貨物を取るのは、得るところ幾何かあろうか、国体を損なうことの方が多い。やめよ。」剌泥のほかに、数か国がある。夏剌比、奇剌泥、窟察泥、舍剌齊、彭加那、八可意、烏沙剌踢、坎巴、阿哇、打回である。永楽年間に、たびたび使者を派遣して朝貢した。その国の風土・物産は、調べるすべがない。

白葛達 黒葛達

白葛達は、宣徳元年にその臣和者裡一思を派遣して入貢させた。その使臣が言うには、「暴風に遭って船が破損し、貢物はすべて失った。国主の倦むことなき忠敬の誠意が、上達する由もない。これは使臣の罪である。ただ聖天子の恩赦を願い、冠帯を賜り、帰って国主に会い、陪臣が実際に朝廷に参じたことを知らせ、どうか責めを免れたい。」帝はこれを許し、隣国の貢船に便乗して帰国させ、諭して言った。「突然の暴風は、人力でどうにかできるものではない。帰って汝の主に伝えよ、朕が王の誠意を嘉するのは、物によるのではない。」宴賜はすべて礼に従った。辞去して帰る際、帝が礼官に言うには、「天候が次第に寒くなり、海路は遠い。路費と衣服を賜うがよい。」その国は、土地が瘠薄で、仏教を尊び、交易には鉄銭を用いる。

また黒葛達があり、これも宣徳年間に来貢した。国は小さく民は貧しく、仏を尚び刑を畏れる。牛羊が多く、やはり鉄で銭を鋳造する。

拂菻

拂菻は即ち漢の大秦であり、桓帝の時に初めて中国と通じた。晋及び魏は皆大秦と称し、嘗て入貢した。唐は拂菻と曰い、宋もこれを継承し、また数回入貢した。しかし『宋史』は歴代朝貢したことがないと謂い、それが大秦ではないかと疑う。

元末、その国の人捏古倫が中国に来て交易し、元が滅んで帰国できなかった。太祖これを聞き、洪武四年八月に召見し、詔書を携えて帰国しその王に諭すよう命じて曰く、「宋が統御を失って以来、天はその祭祀を絶った。元は沙漠より興り、中国を主として百有余年、天はその昏淫を厭い、またその命を隕絶させた。中原は擾乱すること十八年、群雄が初めて起こった時、朕は淮右の布衣として、義を起こし民を救った。天の霊を荷い、文武の諸臣を授かり、東に江左を渡り、兵を練り士を養うこと十四年。西に漢王陳友諒を平げ、東に呉王張士誠を縛し、南に閩・粤を平げ、巴・しょくを戡定し、北に幽・燕を定め、方夏を奠安し、我が中国の旧疆を復した。朕は臣民に推戴されて皇帝の位に即き、天下を有するの号を大明と定め、元を洪武と建て、今に至ること四年である。凡そ四夷諸邦は皆官を遣わして告諭したが、惟だ爾ら拂菻のみ西海を隔てており、未だ報知するに及ばなかった。今、爾が国の民捏古倫に詔を齎して往き諭させる。朕は未だ古の先哲の王に及ばず、万方をして徳を懐かしめしめることはできないが、然れども天下に朕が四海を平定するの意を知らしめざるを得ない。故に茲に詔告す。」既にしてまた使臣普剌等に命じ、敕書・彩幣を齎して招諭させた。その国は乃ち使を遣わして入貢した。後、再び至らなかった。

万暦の時、大西洋人が京師に至り、天主耶穌は如徳亜に生まれたと謂う。即ち古の大秦国である。その国は開闢以来六千年、史書に載る所、世代相嬗り、及び万事万物の原始に至るまで、詳悉ならざるはない。天主が肇めて人類を生んだ邦と謂い、その言頗る誕謾にして信ずべからず。その物産・珍宝の盛んなるは、具に前史に見える。

意大里亜

意大里亜は大西洋中にあり、古より中国と通ぜず。万暦の時、その国の人利瑪竇が京師に至り、『万国全図』を作り、天下に五大洲有りと謂う。第一は亜細亜洲、中に凡そ百余国あり、而して中国はその一つに居る。第二は欧羅巴洲、中に凡そ七十余国あり、而して意大里亜はその一つに居る。第三は利未亜洲、亦百余国。第四は亜墨利加洲、地更に大なり、境土相連なるを以て、南北の二洲に分つ。最後に墨瓦臘泥加洲を得て第五と為す。而して域中の大地尽きたり。その説は荒渺として考うべからず、然れどもその国の人々が中土に充溢するは、則ちその地固より有るものであり、誣うべからざるなり。

大抵欧羅巴諸国は、悉く天主耶穌教を奉ず。而して耶穌は如徳亜に生まれ、その国は亜細亜洲の中にあり、西行して欧羅巴に教えを布く。その始生は漢の哀帝元寿二年庚申に在り、一千五百八十一年を閲て万暦九年に至り、利瑪竇始めて海を泛び九万里、広州の香山澳に抵る。その教え遂に中土に沾染す。二十九年に至り京師に入り、中官馬堂がその方物を以て進献し、自ら大西洋人と称す。

礼部言う、「『会典』には西洋瑣裡国のあるのみで大西洋は無く、その真偽知るべからず。又、寄居すること二十年にして方に進貢を行うは、則ち遠方慕義して特来し琛を献ずる者と異なる。且つその貢する『天主』及び『天主母図』は、既に経に属さず、而して携える所に又神仙骨諸物有り。夫れ既に神仙と称す、自ら能く飛昇すべし、安んじて骨有らんや。則ち唐の韓愈の所謂る凶穢の余、宮禁に入るべからざる者なり。況んや此等の方物は、未だ臣部の訳験を経ず、径に行い進献するは、則ち内臣混進の非と、臣等溺職の罪と、俱に容れ辞すべからざる者有り。及び旨を奉じて部に送るも、乃ち部に赴きて審訳せず、而して私かに僧舎に寓す。臣等其の何の意たるを知らず。但だ諸番の朝貢は、例に回賜有り、その使臣には必ず宴賞有るべし。冠帯を給賜して帰国せしめ、潜かに両京に居り、中人と交往して、別に事端を生ぜしむる勿からんことを乞う。」報いず。八月又言う、「臣等は利瑪竇を還国せしむるを議し、命を候うこと五月、綸音を賜わず、遠人の鬱病して帰を思うを怪しむ毋かれ。その情詞の懇切なるを察するに、真に尚方の錫予を願わず、惟だ山に棲み野に宿さんことを欲するの意有り。譬えば禽鹿久しく羈縻せられ、愈よ長林豊草を思うが如し、人情固より然り。速やかに頒賜を行い、江西諸処に遣わし、其の深山邃谷に聴き、跡を寄せて老を怡しましむることを乞う。」亦報いず。

既にして帝その遠来を嘉し、館を仮り粲を授け、給賜優厚なり。公卿以下その人を重んじ、咸く与に晋接す。瑪竇これに安んじ、遂に留居して去らず、三十八年四月に京に於いて卒す。葬を賜う西郭の外。

その年の十一月朔、日食す。歴官の推算多く謬り、朝議将に修改せんとす。明年、五官正周子愚言う、「大西洋帰化人龐迪我・熊三拔等は深く暦法に明るし。その携える所の暦書は、中国の載籍の未だ及ばざる者有り。当に訳して上らしめ、以て採択に資すべし。」礼部侍郎翁正春等因りて洪武初め回回暦科を設けたるの例に倣い、迪我等をして同く測験せしむるを請う。これに従う。

瑪竇の中国に入りし後より、その徒来ること益々衆し。王豊肅と称する者有り、南京に居り、専ら天主教を以て衆を惑わし、士大夫及び裡巷の小民、間にその誘われる所と為る。礼部郎中徐如珂これを悪む。その徒又自ら風土人物の中華に遠く勝るを誇る。如珂乃ち兩人を召し、筆札を授け、各おの記憶する所を書かしむ。悉く舛謬して相合わず、乃ち議を倡えて駆斥す。四十四年、侍郎沈㴶・給事中晏文輝等と合疏してその邪説の衆を惑わすを斥け、且つ其れを仏郎機の仮托なるを疑い、急に行い駆逐するを乞う。礼科給事中余懋孳も亦言う、「利瑪竇の東来より以来、而して中国復た天主の教有り。乃ち留都の王豊肅・陽瑪諾等、群衆を煽惑すること万人に下らず、朔望の朝拜動もすれば千を以て計る。夫れ通番・左道並びに禁有り。今公然と夜に聚り暁に散じ、一に白蓮・無為諸教の如し。且つ壕鏡に往来し、澳中の諸番と通謀し、而して所司として遣斥せざるは、国家の禁令安んぞ在りや。」帝その言を納れ、十二月に至り豊肅及び迪我等を俱に遣わして広東に赴かしめ、本国に還るを聴かしむ。命下ること久しく、遷延して行わず、所司も亦督発せず。

四十六年四月、迪我等奏す、「臣と先臣利瑪竇等十余人、海を渉ること九万里、上国に観光し、叨りに大官に食すること十有七年。近く南北より参劾され、議して屏斥を行わんとす。窃かに臣等の焚修学道し、天主を尊奉するを念う、豈に邪謀有りて敢えて悪業を堕さんや。惟だ聖明の垂憐を俟ち、風便を候って還国せん。若し海嶼に寄居せば、愈よ猜疑を滋さしめん。乞うらくは並びに南都諸処の陪臣を、一体に寬假せられんことを。」報いず、乃ち怏怏として去る。豊肅尋いで姓名を変え、復た南京に入り、教を行うこと故の如し。朝士これを察する能わず。

その国は礮を製するに善く、西洋より更に巨なり。既に内地に伝わり、華人多くこれを效むれども、而して用うること能わず。天啓・崇禎の間、東北に兵を用うるに、数え澳中の人を召して都に入らしめ、将士に学習せしむ。その人も亦尽力す。

崇禎の時、暦法はますます疎漏で誤りが多く、礼部尚書徐光啓がその徒羅雅谷・湯若望らに、その国の新法をもって参酌較量させ、局を開いて纂修するよう請うた。許可された。久しくして書が成り、すなわち崇禎元年戊辰を暦元とし、これを『崇禎暦』と名づけた。書は未だ頒行されなかったが、その法は『大統暦』より密であり、識者はこれを取るところがあった。

その国より東来する者は、多くは聰明にして特達の士であり、意は専ら教を広めることにあり、禄利を求めない。その著す書は多く華人の未だ道わざるところであり、故に一時異を好む者は皆これを尚んだ。そして士大夫たる徐光啓・李之藻らの輩は、まさにその説を好み、かつその文詞を潤色したので、その教はたちまち興った。

時に中土に声を著す者は、さらに龍華民・畢方済・艾如略・鄧玉函ら諸人がいた。華民・方済・如略および熊三拔は皆意大里亜国の人、玉函は熱而瑪尼国の人、龐迪我は依西把尼亜国の人、陽瑪諾は波而都瓦爾国の人で、皆欧羅巴洲の国である。その言うところの風俗・物産は多く誇張があり、かつ『職方外紀』などの書があるので、詳しく述べない。