浡泥
初め、故王が言った。「臣は恩を蒙り爵を賜わり、臣の境土はすべて職方に属します。どうか国中の後山を封じて一方の鎮としていただきたい。」新王もまたこのことを言上したので、長寧鎮國之山に封じた。御製の碑文を作り、張謙らに命じてその上に碑を刻ませた。その文は次の通りである。
「上天は我が国家の万世無疆の基を祐け啓き、我が太祖高皇帝に命じて天下を全く撫し、休養生息させ、以て治め以て教え、仁声義問を薄く極めて照臨せしめ、四方万国は奔走して臣服し、充ち湊って廷に至らしめた。神化感動の機、その妙なること此の如し。朕は鴻図を嗣ぎ守り、典式に率いる。厳恭祗畏し、統ぶる所を協和す。内外の間なく、均しく一体と視る。遐邇綏寧し、亦よく予が意を承く。
乃ち浡泥国王は、誠敬の至り、崇むべき所を知り、声教を慕尚し、益々謹み益々虔しく、その眷属、陪臣を率い、数万里の遠さを憚らず、海を浮かび来朝し、その志を達し、その欲を通じ、稽顙して陳辞して曰く、『遠方の臣妾、大いに天子の恩を冒し、以て養われ以て息み、既に庶くして且つ安んず。日月の光を見んと思い、故に険遠を憚らず、敢えて廷に造る。』また曰く、『我を覆う者は天、我を載せる者は地。我に土地人民の奉、田疇邑井の聚、宮室の居、妻妾の楽、和味宜服、利用備器有らしめ、以てその生を資え、強きもの敢えて侵さず、衆きもの敢えて暴かず、実に惟れ天子の賜う所なり。是れ天子の功德の加わる所、天地と並ぶ。然れども天は仰げば剛に見え、地は蹐めば則ち履む、惟れ天子は遠くして見難く、誠に通ぜざる所有り。是を以て遠方の臣妾、敢えて自ら外せず、山海を逾え歴り、躬ら闕延に詣で、以てその悃を伸ぶ。』朕曰く、『惟れ天、惟れ皇考、天下を予に付し、庶民を子養す。天と皇考は民を視ること同仁、予その天と皇考の德を承け、惟れ恐るるは堪えず、汝が言うが如くならざるを。』乃ちまた拜手稽首して曰く、『天子の元を建つるの載より、臣が国は時和歳豊、山川の蔵、珍宝流溢し、草木の葩無き者は皆華にして実り、異禽和鳴し、走獸蹌舞す。国の黄叟咸く曰く、中国聖人の德化漸く暨ぎ、斯れ多き嘉応なり。臣が土は遠しと雖も、実に天子の氓なり、故に奮然として来り覲す。』朕その言文貌恭、動くこと則を逾えず、礼教を悦喜し、夷習を脱略するを観るに、超然卓異なる者に非ざれば能わざるなり。載籍に稽うるに、古より逷遠の国、天道を奉若し、声教を仰服し、身を致して帝廷する者有り。妻子、兄弟、親戚、陪臣を挙げて階陛の下に頓首し臣妾を称するに至っては、惟れ浡泥国王一人のみ。西南諸蕃国の長、王の如き賢なる者未だ有らず。王の至誠は金石に貫き、神明に達し、而して令名は悠久に伝わり、光顕有りと謂うべし。
茲に特ちに王が国中の山を張寧鎮國之山に錫封し、文を賜いて石に刻み、以て王の休を著し、昭かにして万年、其れ永く斁くること無からん。之に詩を系えて曰く、『炎海の墟、浡泥の処る所。仁を煦み義に漸み、順有りて迕うこと無し。撦撦たる賢王、惟れ化の慕う所。象胥を以て導き、遹ち来り奔赴す。その婦子、兄弟、陪臣と同しく、稽顙闕下し、言有りて陳ぶ。君は猶お天の如しと謂い、休楽を遺し、一視同仁、偏り厚薄するに匪ず。顧みるに茲の鮮き德、云う所に称せず。浪舶風檣、実に労しく懇勤なり。古を稽うる遠臣、順来り怒哲す。躬を以てするは或いは難く、矧んや家室を曰わんや。王の心は亶誠、金石の其の堅き。西南の蕃長、疇か王と賢なる。矗矗たる高山、以て王の国を鎮む。石に文を镵し、懋く王の德を昭かにす。王の德克く昭らかに、王の国攸に寧し。万斯年、我が大明を仰がん。』
嘉靖九年、給事中王希文が言上した。「暹羅・占城・琉球・爪哇・渤泥の五国が来貢する際、皆東莞を経由する。後に私的に商人を連行したため、多くはその貢を絶たれた。正徳年間、仏郎機(ポルトガル)が無断で侵入し毒害を流したので、一概に締め出して絶った。まだ幾年も経たないのに、急に復活を議するのは、威厳を損なうこと甚だしい」。上奏文は都察院に下され、旧制に悉く従い、混同・偽冒を許さないよう請うた。
万暦年間、その王が卒し、後嗣がなく、族人が争って立とうとした。国中で殺戮がほぼ尽き、遂にその女を立てて王とした。漳州人の張姓の者は、初めその国の那督(華語で尊官の意)であったが、乱に乗じて出奔した。女主が立つと、迎え戻した。その女は王宮に出入りし、心疾を患い、妄りに父に謀反の企てがあると言った。女主は恐れ、人を遣わしてその家を査問させたところ、那督は自殺した。国人が冤罪を訴えたので、女主は悔い、その女を絞殺し、その子に官職を授けた。その後は朝貢しなくなったが、商人の往来は絶えなかった。
国は十四の洲を統べ、旧港の西にあり、占城から四十日で到着できる。初めは爪哇に属し、後に暹羅に属し、大泥と改名した。華人の多くがその地に流寓した。嘉靖末、閩・粤の海寇の残党が逃れてここに至り、二千余人が滞留した。万暦時、紅毛番(オランダ人)が強いてその地で商売し、土庫を築いて居住した。澎湖に来て互市した者が携えていたのは、大泥国の文書であった。諸々の風俗・物産は、詳しく『宋史』にある。
満剌加
満剌加は、占城の南にある。順風なら八日で龍牙門に至り、さらに西へ二日航行すれば即ち到着する。或いは古の頓遜、唐の哥羅富沙であるという。
五年九月、使者を遣わして入貢した。翌年、鄭和がその国に使いし、間もなく入貢した。九年、その王は妻子陪臣五百四十余人を率いて来朝した。近郊に着くと、中官海寿・礼部郎中黄裳らに命じて宴労させ、役人が会同館に供応を設けた。奉天殿に入朝すると、帝は自ら宴を賜い、妃以下は別の場所で宴を受けた。光禄寺が日ごとに牲牢上尊を供し、王には金繡龍衣二襲・麒麟衣一襲、金銀器・帷幔衾褥をことごとく備え、妃以下にも皆賜物があった。帰国に際し、王には玉帯・儀仗・鞍馬を、妃には冠服を賜った。出発に臨み、奉天門で賜宴し、さらに玉帯・儀仗・鞍馬・黄金百両・白金五百両・鈔四十万貫・銭二千六百貫・錦綺紗羅三百匹・帛千匹・渾金文綺二・金織通袖膝襴二を賜った。妃及び子侄陪臣以下には、宴と賜物に差等があった。礼官が龍江駅で餞別し、さらに龍潭駅で賜宴した。十年夏、その侄が入朝して謝した。辞去して帰国する際、中官甘泉を同道させ、間もなくまた入貢した。
宣徳六年、使者を遣わして来て言うには、「暹羅が本国を侵そうと謀っており、王は入朝したいが、阻まれることを懼れ、奏上して伝えたいが、書く者がいないので、臣三人を蘇門答剌の貢船に便乗させて訴えさせます」。帝は鄭和の船に便乗させて帰国させ、和に勅を携えさせて暹羅を諭し、隣国と和睦すべきことを責め、朝命に背かないよう命じた。初め、三人が到着した時、貢物がなく、礼官が例により賞賜すべきでないと述べた。帝は「遠人が数万里を越えて不平を訴えに来たのに、どうして賜物がないことがあろうか」と言い、遂に襲衣・彩幣を、貢使の例のごとく賜った。
八年、王は妻子陪臣を率いて来朝した。南京に着いた時、天候は既に寒く、春の暖かさを待って北上するよう命じ、別に人を遣わして勅を携えさせ王と妃を労い賜物を与えた。入朝すると、礼に従って宴と賜物があった。帰国に際し、役人が船を調えた。王はまたその弟を遣わして駱駝・馬・方物を貢いだ。当時、英宗は既に嗣位していたが、王はまだ広東にいた。勅を賜って王を褒め、守臣に送還させた。古里・真臘など十一カ国の使臣を便乗させ、共に帰還させた。
正統十年、その使者が、王に息力八密息瓦児丟八沙護国の勅書及び蟒服・傘蓋を賜い、国人を鎮服させてほしいと請うた。また言うには、「王は親しく宮闕に詣でたいが、従者が多いので、一隻の巨舟を賜り、遠路の渡航に便としたい」。帝は全て従った。
景泰六年、速魯檀無答仏哪沙が馬及び方物を貢ぎ、王に封ぜられることを請うた。詔して給事中王暉を派遣した。その後、また入貢し、賜った冠帯が火事で焼けたと述べた。皮弁服・紅羅常服及び犀帯紗帽を造らせて与えるよう命じた。
成化十年、給事中陳峻が占城王を冊封するため派遣されたが、安南の兵が占城を占拠していたため入国できず、携えていた物資を満剌加に持ち込み、その王に朝貢を促した。その使者が到着すると、帝は喜び、詔書を下して賞賛した。十七年九月、貢使が言うには、「成化五年、貢使が帰国する途中、安南の沖に漂着し、多くが殺害され、残りは額に入墨を施されて奴隷とされ、幼い者は宮刑に処された。今や安南は既に占城の地を占拠し、更に我が国を併呑しようとしている。我が国は共に王の臣下であるため、敢えて戦おうとはしない」と。丁度安南の貢使も到着しており、満剌加の使臣は朝廷で対決することを求めた。兵部は、事は既に過去のものであり、深く追求するに足らないと上奏した。帝は安南の使者が帰国するに当たり、その王を詔書で責め、併せて満剌加に、安南が再び侵攻して来たら直ちに軍備を整えて戦いに備えるよう命じた。まもなく給事中林栄と行人黄乾亨を派遣し、王子マハムド・シャーを王に冊封した。二人は溺死し、官位を追贈し祭礼を賜い、子孫に官職を世襲する権利を与え、その家族を手厚く遇した。残りの者には、役人に命じて海辺で魂を招いて祭らせ、その家族もまた手厚く遇した。再び給事中張晟と行人左輔を派遣した。張晟は広東で死去したため、守臣に命じて一人の官を選び左輔の副使とし、冊封の任務を完遂させた。
その後、フランキ(ポルトガル)が強勢となり、兵を挙げてその地を侵略奪取した。王スルタン・マフムド・シャーは逃亡し、使者を派遣して難を告げた。時に世宗が即位し、フランキを詔書で責め、その故地を返還するよう命じた。また暹羅などの諸国王に、災害を救い隣国を憐れむ義を説いたが、遂に応じる者はなく、満剌加はついに滅ぼされた。時にフランキもまた使者を派遣して朝貢し封を請うたが、広東に到着すると、守臣はその国が従来『王会』に列せられていないとして、その使者を拘束して上奏した。詔により貢物相当の代価を与えて帰国させ、後に麻六甲と改名したという。
満剌加が貢いだ物品には、瑪瑙、真珠、玳瑁、珊瑚樹、鶴頂、金母鶴頂、瑣服、白苾布、西洋布、撒哈剌、犀角、象牙、黒熊、黒猿、白麂、七面鳥、鸚鵡、片脳、薔薇露、蘇合油、梔子花、烏爹泥、沈香、速香、金銀香、阿魏などがあった。
山があり、泉が流れて溪となる。土人は砂を淘って錫を取り、煎じて塊にしたものを斗錫という。田畑は痩せて収穫が少なく、民は皆、砂を淘ったり魚を捕ったりして生業としている。気候は朝は熱く、夕方は寒い。男女とも椎髻に結い、身体は浅黒く、時折白い者がいるのは、唐人の子孫である。風俗は淳朴で厚く、市場の取引はかなり公平である。フランキに破られて以来、その風俗は急に変わった。商船は稀にしか来ず、多くは直接蘇門答剌に向かう。しかし必ずその国を通るため、大抵は待ち伏せされて略奪され、海路はほとんど断たれた。自ら中国で商売をする者は、直接広東の香山澳に至り、その跡は絶えることがないという。
蘇門答剌
蘇門答剌は、満剌加の西にある。順風なら九昼夜で到着できる。あるいは漢代の条枝、唐代の波斯・大食二国の地であるとも言い、西洋の要衝である。
九年、王の弟ハリ・ハンが来朝し、京師で死去した。帝はこれを哀れみ、鴻臚少卿を追贈し、誥命を賜い、役人に喪葬を執り行わせ、墓守の戸を置かせた。時に王景弘が再びその国に使いし、王は弟ハニ・ザイハーンを随行させて入朝させた。翌年に到着し、王が老いて政務を執れないため、子に位を譲りたいと申し出た。そこでその子アブサイードを国王に封じ、これ以降、貢使は次第に少なくなった。
万暦年間に至り、国は二度姓が変わった。その時に王となった者は、人の奴隷であった。奴隷の主人は国の大臣で、兵権を握っていた。奴隷は狡猾で、主人は彼に象を飼わせたところ、象は肥えた。魚税の監視を任せると、毎日大きな魚を主人に献上した。主人は大いに喜び、彼を側近として仕えさせた。ある日、主人に随行して朝見し、王の尊厳さが神のようであるのを見て、主人がひたすら謹んで頭を下げるのを見て、退出後、主人に言った、「主はどうしてそこまで恭しいのですか」と。主人は言った、「あれは王だ。どうして逆らえようか」と。奴隷は言った、「主はただ王になりたくないだけです。もし望むなら、主が即ち王になれます」と。主人は驚き、叱りつけて退けた。別の日、また進み出て言った、「王の側近の侍衛は少ない。主は重兵を擁して出鎮する際、必ず入朝して辞去を請うでしょう。その時、私を従わせてください。主が機密の事があると言い、左右を退けるよう乞えば、王は必ず疑いません。私が隙を突いて刺殺し、主を奉じて王となれば、手のひらを返すようなものです」と。主人はこれに従い、奴隷は果たして王を殺し、大声で叫んだ、「王は無道である。我がこれを殺した。我が主が即ち王である。異議を唱える者は、この刃にかかってみよ!」と。衆は恐れ服して敢えて動かず、その主人は遂に位を簒奪し、奴隷を腹心として任用し、兵権を委ねた。間もなく、奴隷は再び主人を殺して代わった。そして大いに防衛を固め、宮殿を拡張し、六つの門を設けて無断で入ることを許さず、勲貴といえども帯刀して殿上に上がることはできなかった。外出には象に乗り、象の背に亭を設けてその外側に帷を垂らし、このようなものを百余りも用意し、人々に王がどこにいるか測り知れないようにした。
その国の風俗は頗る淳朴にして、言葉遣いは柔らかく媚びるが、ただ王は殺戮を好む。毎年十余人を殺し、その血を浴びて身を洗い、病を除くことができると謂う。貢物には宝石、瑪瑙、水晶、石青、回回青、良馬、犀牛、龍涎香、沉香、速香、木香、丁香、降真香、刀、弓、錫、鎖服、胡椒、蘇木、硫黄の類がある。貨物船が至れば、貿易は公平と称される。土地は元来瘠せており、麦は無く禾(稲)があり、禾は一年に二度実る。四方の商人が輻湊する。華人の往く者は、地遠くして価高きを以て、他国に倍する利益を得る。その気候は朝は夏の如く、暮れは秋の如く、夏には瘴気がある。婦人は裸体で、ただ腰に一布を囲むのみ。他の風俗は満剌加に類す。簒弑の後、国名を改めて啞齊と曰う。
須文達那
須文達那、洪武十六年、国王殊旦麻勒兀達朌が使者俺八児を遣わして来朝し、馬二匹、幼苾布十五匹、隔著布・入的力布各二匹、花満直地二、番綿紬直地二、兜羅綿二斤、撒剌八二個、幼頼革著一個、撒哈剌一個、及び薔薇水、沉香、降香、速香諸物を貢献した。命じて王に『大統暦』、綺羅、宝鈔を賜い、使臣には襲衣を賜う。或いは須文達那は即ち蘇門答剌なりと云い、洪武時に改めたものと謂うが、然しその貢物と王の名は皆同じからず、考うるに由なし。
蘇祿
蘇祿、地は浡泥・闍婆に近し。洪武初年、兵を発して浡泥を侵し、大いに獲るところあり、闍婆の援兵至るを以て、乃ち還る。
十八年、西王は使者を遣わして入貢す。十九年、東王の母は王叔叭都加蘇里を遣わして来朝し、大珠一を貢す、その重さ七両余りあり。二十一年、東王妃は還国し、厚く賜い遣わす。明年入貢し、以後復た至らず。万暦の時、仏郎機(ポルトガル)しばしばこれを攻むるも、城は山険に拠り、遂に下す能わず。
その国は、古に於いて考うる所なし。地瘠せて粟麦寡く、民は率ね魚蝦を食し、海を煮て塩と為し、蔗を醸して酒と為し、竹を織って布と為す。気候常に熱し。珠池あり、夜これを望めば、光水面に浮かぶ。土人は珠を以て華人と市易し、大なる者は利数十倍す。商舶将に返らんとすれば、輒ち数人を留めて質と為し、其の再来を冀う。その旁近の国、名を高薬と曰い、玳瑁を出す。
西洋瑣裡
瑣裡
覧邦
覧邦、西南海中に在り。洪武九年、王昔裡馬哈剌札的剌札は使者を遣わし表を奉じて来貢す。詔してその王に織金文綺、紗羅を賜い、使者には宴賜を制の如くす。永楽、宣徳中、嘗て隣国に附して朝貢す。その地は沙礫多く、麻麦の外に他種無し。商賈鮮なく至る。山は坦迤として峰巒無く、水もまた浅く濁る。俗は仏を好み、賽祀に勤む。その貢は、孔雀、馬、檀香、降香、胡椒、蘇木。交易には銭を用う。
淡巴、
淡巴もまた西南の海中にある国である。洪武十年、その王佛喝思羅が使者を遣わして表を奉り、地方の産物を貢ぎ、賜与と褒賞は差等があった。その国は、石の城に瓦の屋根である。王は輿に乗り、官は馬に跨り、中国の威儀がある。土地は平坦で水は清く、草木は盛んに茂り、家畜の産物は甚だ多い。男女は耕作と機織に勤しみ、市には貿易があり、野には寇盗がなく、楽土と称された。その貢ぎ物は、苾布、兜羅綿被、沉香、速香、檀香、胡椒である。
百花、
百花は、西南の海中に位置する。洪武十一年、その王剌丁剌者望沙が使者を遣わして金葉の表を奉り、白鹿、紅猴、龜筒、玳瑁、孔雀、鸚鵡、哇哇倒掛鳥及び胡椒、香、蠟等の諸物を貢いだ。詔して王及び使者に綺、幣、襲衣を賜い、差等があった。国中の気候は常に暖かく、霜雪がなく、多くの奇花異卉があるので、百花と名付けられた。民は富み豊かで、釈教を尊ぶ。
彭亨、
その国は、土地は肥沃で、気候は常に温かく、米粟は豊かに足り、海を煮て塩とし、椰漿を醸して酒とする。上下は親しみ打ち解け、寇賊がない。しかし鬼神に惑わされ、香木を刻んで像とし、人を殺して祭賽し、以て災いを祓い福を祈る。貢ぐ所のものには象牙、片脳、乳香、速香、檀香、胡椒、蘇木の類がある。
万暦の時に至り、柔仏国の副王の子が彭亨王の女を娶らんとし、婚礼を前に、副王が子を彭亨に送ると、彭亨王は酒宴を設け、親戚ことごとく会した。婆羅国の王子は彭亨王の妹婿であり、杯を挙げて副王に献じたが、その手指に巨大な珠があり甚だ美しかったので、副王はそれを欲し、重い賄賂を約束した。王子は惜しんで与えず、副王は怒り、直ちに帰国して兵を発し攻めて来た。彭亨人は不意を突かれ、戦わずして自ら潰えた。王と婆羅王子は金山に奔った。浡泥国王は、王妃の兄であり、これを聞き、衆を率いて来援した。副王は乃ち大いに焚掠して去った。この時、国中に鬼が三日間哭き、人民は半ば死んだ。浡泥王はその妹を迎えて帰り、彭亨王はこれに随い、その長子に命じて国を摂らせた。後に、王は復位したが、次子は元より凶悍であり、遂に毒を以てその父を殺し、その兄を弑して自立した。
那孤児、
那孤児は、蘇門答剌の西に在り、境を接する。土地は狭く、僅か千余りの家があるのみ。男子は皆墨で面に花獣の形状を刺青するので、故にまた花面国とも名付く。髪は乱れ体は裸で、男女は単布で腰を囲うのみ。しかし俗は淳朴で、田には稲禾が足り、強きは弱きを侵さず、富めるは貧しきに驕らず、皆自ら耕して食し、寇盗がない。永楽年間、鄭和がその国に使した。その酋長は常に地方の産物を入貢した。
黎伐、
黎伐は、那孤児の西にある。南に大山、北に大海、西は南渤利に接する。居民三千家、一人を推して主とす。蘇門答剌に隷属し、声音風俗多くこれと同し。永楽年間、嘗てその使臣に随って入貢した。
南渤利、
南渤利は、蘇門答剌の西にある。順風なら三日夜で至ることができる。王及び居民は皆回回人で、僅か千余りの家があるのみ。俗は朴実で、土地は穀物に乏しく、人は多く魚蝦を食す。西北の海中に山あり甚だ高大で、帽山と曰い、その西また大海あり、那沒黎洋と名付け、西から来る洋船は皆この山を目印とする。山に近い浅水内に、珊瑚樹が生え、高いものは三尺余りである。永楽十年、その王馬哈麻沙が使者を遣わし蘇門答剌の使に附して入貢した。その使者に襲衣を賜い、王に印誥、錦綺、羅紗、彩幣を賜う。鄭和を遣わしてその国を撫諭させた。成祖の世の終わりまで、毎年入貢し、その王子沙者罕もまた使者を遣わして入貢した。宣徳五年、鄭和が諸国に遍く賜与した時、南渤利もまたこれに与った。
阿魯、
阿魯は、一名を啞魯といい、満剌加に近い。順風ならば三昼夜で到着できる。風俗・気候は蘇門答剌に大いに類する。田地は瘠せて収穫少なく、盛んに芭蕉・椰子を栽培して食とする。男女ともに裸体で、布を以て腰を囲う。永楽九年、王速魯唐忽先が使者を遣わし、古里等の諸国に附して入貢した。その使者に冠帯・彩幣・宝鈔を賜い、その王にも賜物があった。十年、鄭和がその国に使いした。十七年、王子段阿剌沙が使者を遣わして入貢した。十九年・二十一年、再び入貢した。宣徳五年、鄭和が諸蕃に使いした際にも、賜物があった。その後は貢使は来なくなった。
柔佛
柔佛は、彭亨に近く、一名を烏丁礁林という。永楽年間、鄭和が西洋を遍歴したが、柔佛の名はない。或いは言う、和がかつて東西竺山を経由したが、今この山がまさにその地にあるので、疑わくはこれが東西竺であろうかと。万暦年間、その酋長は兵を構えることを好み、隣国の丁機宜・彭亨はしばしばその害を受けた。華人で他国に販売する者は多くこれに就いて貿易し、時にその国に招き寄せられることもあった。
国中では茅を覆って屋とし、木を列ねて城とし、池を以て環らす。事なき時は外に通商し、事ある時は召募して兵とし、強国と称された。地は穀物を産せず、常に隣国で米を交易する。男子は髪を剃り徒跣で刀を佩き、女子は髪を蓄えて椎結し、その酋長は双刀を佩く。文字には茭曌葉を用い、刀でこれを刺す。婚姻もまた門閥を論ずる。王は金銀を食器とし、群下は磁器を用いる。匕箸はない。俗に斎戒を好み、星を見て初めて食す。節序は四月を歳首とする。居喪には、婦人は髪を剃り、男子は重ねて剃る。死者は皆火葬する。産する所に犀・象・玳瑁・片脳・没薬・血竭・錫・蠟・嘉文簟・木棉花・檳榔・海菜・窩燕・西国米・跂吉柿の類がある。
初めその国の吉寧仁が大庫となり、王に忠実で、王の倚信するところとなった。王の弟は兄が自分を疎んじたとして、密かにこれを殺した。後に出行して馬から落ちて死に、左右の者は皆吉寧仁が祟りをなすのを見た。これより家家これを祀った。
丁機宜
丁機宜は、爪哇の属国であり、幅員は甚だ狭く、僅か千余家である。柔佛は狡猾で雄強であり、丁機宜はこれと接境し、時にその害を受けた。後に厚い幣を以て求婚し、少し寧かな処を得た。その国は木を以て城とする。酋長の居る所の傍らに鐘鼓楼を列ね、出入りには象に乗る。十月を歳首とする。性は潔癖を好み、酋長の食するものは、皆自ら割烹する。民俗は爪哇に類し、物産は悉く柔佛の如し。酒禁は甚だ厳しく、常税がある。しかし大家は皆飲まず、ただ細民で無籍の者がこれを飲み、その同輩は皆これを非笑する。婚姻は、男が女の家に行きその門戸を支えるので、故に女を生むことは男に勝る。喪には火葬を用いる。華人が商いに行くと、交易は甚だ公平である。柔佛に破られてからは、往く者も少なくなった。
巴剌西
巴剌西は、中国から絶遠の地にある。正徳六年、使臣沙地白を遣わして入貢し、その国は南海にあり、初めて王命を奉じて来朝したが、舟行四年半、風に遭って西瀾海に漂着し、舟は壊れ、只一小艇が残り、また八日間漂流して得吉零国に至り、一年居住した。秘得に至り、八月居住した。そこで陸路を行き、二十六日を経て暹羅に着き、実情を王に告げて日々の給与を賜わり、且つ婦女四人を賜わり、四年居住した。今年五月に至って初めて番舶に便乗して広東に入り、闕下に達することができた。金葉表を進上し、祖母緑一つ、珊瑚樹・琉璃瓶・玻璃盞各四つ、及び瑪瑙珠・胡黒丹等の諸物を貢いだ。帝はその遠来を嘉し、賜賚を加えた。
佛郎機
十五年、御史丘道隆が言う、「満剌加は勅封の国であるのに、佛郎機が敢えてこれを併せ、且つ利を以て我を誘い、封貢を求めてきた。決して許すべからず。宜しくその使臣を退け、順逆を明示し、満剌加の疆土を還すことを命じて、初めて朝貢を許すべきである。倘し執迷して悔い改めなければ、必ず諸蕃に檄告し、その罪を声して討伐すべきである。」御史何鰲が言う、「佛郎機は最も凶悪狡猾で、兵械は諸蕃に比べて独り精良である。前年、大舶を駕して突如広東の会城に入り、砲声は地を震わした。駅に留まる者は制に違って交通し、都に入る者は桀驁として長たることを争う。今その往来貿易を許せば、勢い争闘殺傷を生じ、南方の禍いは殆ど極まりなかろう。祖宗の朝貢には定期があり、防備には常制があったので、来る者は多くはなかった。近頃布政呉廷挙が上供の香物が欠けると言い、何年のものかを問わず、来れば即ち貨を取り立てた。そのため番舶が海澨に絶えず、蛮人が州城に雑遝する。禁防が既に疎かになり、水路が益々熟知された。これが佛郎機が機に乗じて突如到来した所以である。どうか在澳の番舶及び潜居する番人を悉く駆逐し、私通を禁じ、守備を厳重にして、ひとまず一方の安寧を得られたい。」上疏が礼部に下り、言う、「道隆は先に順徳の県令を務め、鰲は即ち順徳の人であるので、利害を深く明晰にしている。宜しく満剌加の使臣が至るのを待ち、廷上で佛郎機が隣邦を侵奪し、内地を擾乱した罪を詰問し、処置を奏請すべきである。その他は悉く御史の言う通りとすべきである。」と。報じて可とした。
亜三は帝に侍して甚だ驕慢であった。従駕して都に入り、会同館に居住した。提督主事梁焯に会見し、膝を屈さなかった。焯は怒ってこれを鞭打った。彬は大いに罵って言う、「彼は嘗て天子と戯れた者だ。お前のような小官に跪くものか?」翌年、武宗が崩じ、亜三は吏に下された。自ら言う、元は華人で、番人に使われたのだと。そこで法に伏し、その朝貢は絶たれた。その年の七月、また朝使への接済を口実に、土物を携えて市を求めた。守臣が故事に従って抽分することを請うたが、詔して再びこれを拒絶した。その将別都盧は既に巨砲利兵を以て満剌加諸国を肆に掠奪し、海上に横行していたが、またその配下の疏世利等を率いて五舟を駕し、巴西国を撃破した。
初めに、広東の文武官の月俸は多く番貨で代えられていたが、この時は貨物が来るのが少なくなり、フランキ(ポルトガル)の通市を再び許すべきだという議論があった。給事中王希文が強く反対し、遂に令を定めて、諸番の貢が時を守らず、勘合に差し違える者は全て禁止することとし、これによって番船はほとんど絶えた。巡撫林富が上言して言うには、「広東の公私の諸費は多く商税に頼っており、番船が来なければ、公私共に窮する。今フランキの互市を許せば四つの利がある。祖宗の時、諸番の常貢の外に、元来抽分の法があり、その余りを少し取れば、御用に足りる。これが一の利である。両広は近年用兵し、庫蔵が消耗し尽くしているが、これによって軍餉を充実し、不測に備えられる。これが二の利である。広西は元来広東に頼っており、少しでも徴発があれば、すぐに措置が間に合わない。もし番船が流通すれば、上下共に助け合える。これが三の利である。小民は交易を生業としており、一銭の貨物を持って、転々と販売し、衣食をその中から得ている。これが四の利である。国を助け民を豊かにし、両方共に頼るところとなる。これは民の利に因ってこれを利するのであって、利の穴を開けて民に禍の梯を設けるものではない。」と。帝はこれに従った。これよりフランキは香山澳に入って市を行うことを得、その徒はまた越境して福建で商いし、往来絶えなかった。
二十六年に至り、朱紈が巡撫となり、厳しく通番を禁じた。その人々は利益を得られず、則ち衆を整えて漳州の月港・浯嶼を犯した。副使柯喬らがこれを防ぎ退けた。二十八年にまた詔安を犯した。官軍が走馬渓で迎撃し、賊首李光頭ら九十六人を生け捕りにし、残りは逃げ去った。朱紈は便宜を以てこれを斬った。朱紈を怨む者、御史陳九徳が遂にその専擅を弾劾した。帝は給事中杜汝禎を遣わして検証させたところ、言うには、これはマラッカの商人で、毎年海浜の無頼の徒を招き、往来して売買し、僭号や流劫の事はなく、朱紈が擅自行誅したのは、誠に御史の弾劾する通りであると。朱紈は遂に逮捕され、自殺した。蓋しマラッカが即ちフランキであることを知らなかったのである。
朱紈の死後、海禁はまた弛み、フランキは遂に海上を縦横して忌憚するところがなくなった。そしてその香山澳・壕鏡で市を行う者は、室を築き城を建てるに至り、海辺に雄踞して、一国の如くであり、将吏の不肖の者はかえってこれを外府と見做した。壕鏡は香山県南の虎跳門外にある。先に、シャム・チャンパ・ジャワ・琉球・ブルネイ諸国の互市は、皆広州に在り、市舶司を設けてこれを管轄した。
正徳の時、高州の電白県に移った。嘉靖十四年、指揮黄慶が賄賂を受け取り、上官に請うて、これを壕鏡に移し、歳に課金二万を納めた。フランキは遂に混入することを得た。高い棟、飛ぶ甍、櫛の歯のように並び相望み、福建・広東の商人は鴨の如くにこれに趨った。久しくして、その来る者益々衆くなった。諸国の人はこれを畏れて避け、遂に専らフランキの占拠するところとなった。四十四年、偽ってマラッカと称して入貢した。已にして、蒲都麗家と改称した。守臣がこれを上聞し、下部議したところ、必ずやフランキの仮託であると言い、乃ちこれを退けた。
その時、大西洋人が中国に来て、またこの澳に居住した。蓋し番人は元来市易を求めており、初め不軌の謀はなく、中朝はこれを疑い過ぎ、終にその朝貢を許さず、またこれを制する力も無かったので、議する者紛然とした。然れども明の世を終えるまで、この番は固より未だ嘗て変を為さなかった。その人は長身で鼻が高く、猫の目の如き眼に鷹の嘴、拳れた髪に赤い鬚、商売を好み、強さを恃んで諸国を陵轢し、往かざる所無かった。後にはまた干係臘国と称した。産するものは多く犀・象・珠・貝である。衣服は華やかで清潔、貴い者は冠を戴き、賤しい者は笠を被り、尊長に会えば直ちにこれを脱ぐ。初めは仏教を奉じ、後には天主教を奉じた。市易はただ指を伸ばして数を示すだけで、累千金に至っても契約を立てず、事有れば天を指して誓い、互いに負けることはなかった。マラッカ・ブラジル・呂宋の三国を滅ぼしてからは、海外の諸蕃で敢えてこれに抗する者は無かった。
オランダ
オランダは、また紅毛番とも名付け、地はフランキに近い。永楽・宣徳の時、鄭和が七たび西洋に下り、数十の諸番国を歴たが、オランダというものは無かった。その人は目が深く鼻が長く、髪・眉・鬚は皆赤く、足の長さは一尺二寸、頎偉にして常人より倍する。
万暦の中頃、福建の商人は歳ごとに引(許可証)を与えられて大泥・呂宋及びジャワに販売に行ったが、オランダ人は諸国を就いて転販し、未だ敢えて中国を窺わなかった。フランキが香山で市し、呂宋を占拠するに及んで、オランダはこれを聞いて羨んだ。二十九年、大艦を駕し、巨礮を携え、直ちに呂宋に迫った。呂宋人が力を以てこれを拒むと、転じて香山澳に迫った。澳中の人は数え詰問したところ、通貢市を欲し、敢えて寇と為さないと言った。当事者はこれを難しく思った。税使李道は即ちその酋長を召し入城し、遊処すること一月、敢えて朝に聞かせず、乃ち遣り返した。澳中の人はその上陸を慮り、謹んで防禦し、始めて引き去らせた。
其の年、巡撫南居益初めて至り、之を討たんと謀る。上言して曰く、「臣入境以来、番船五艘続きて至り、風櫃仔の船と合ひ、凡そ十有一艘、其の勢愈々熾なり。小校陳士瑛なる者有り、先づ咬𠺕吧に遣はして其の王を宣諭せしむ。三角嶼に至りて紅毛船に遇ひ、咬𠺕吧王已に阿南国に往けりと云ふ。因りて士瑛と偕に大泥に至り、其の王に謁す。王言く、咬𠺕吧国主已に大いに戦艦を集め、議て彭湖に往き互市を求めんとす、若し許さずんば、必ず兵を構ふに至らんと。蓋し阿南は即ち紅毛番国にして、而して咬𠺕吧・大泥之と謀を合はす、必ず理を以て諭すべからず。今日の計と為すは、兵を用ふるに非ざれば不可なり」と。因りて調兵足餉の方略を列上す。部議之に従ふ。四年正月、将を遣はして先づ鎮海港を奪ひて之に城し、且つ築き且つ戦ふ。番人乃ち退きて風櫃城を守る。居益兵を増して往き助け、数ヶ月攻撃す。寇猶退かず。乃ち大いに兵を発し、諸軍斉しく進む。寇勢窘し、両たび使を遣はして兵を緩め、米を舟に運び入るるを容るれば即ち退去せんことを求む。諸将窮寇追ふ莫しとし、之を許す。遂に揚帆して去る。独り渠帥高文律等十二人高樓に拠りて自ら守る。諸将破きて之を擒にし、朝に俘を献ず。彭湖の警以て息む。而して其の台湾に拠る者は猶自若たり。
崇禎中、鄭芝龍の為に破られ、内を窺ふことを敢へず者数年、乃ち香山の佛郎機と通好し、私かに外洋に貿す。十年、四舶を駕し、虎跳門より広州に薄き、声言して市を求む。其の酋市上に招搖し、奸民之を視ること金穴の若し。蓋し大姓之が為に主たる者有り。当道壕鏡の事を鑑み、駆斥を議す。或は中より之を撓す。会す総督張鏡心初めて至り、力持して不可とす。乃ち遁去す。已にして奸民李葉榮の為に誘はれ、総兵陳謙と交通して居停出入と為す。事露る。葉栄吏に下る。謙自ら調用を請ひて以て禍を避く。兵科凌義渠等の為に劾せられ、坐して逮訊せらる。是より、奸民事終に成らざるを知り、復た敢へて勾引せず。而して番人猶台湾に拠るは自若たり。
其の本国西洋に在る者は、中華を去ること絶遠く、華人未だ嘗て至らず。其の恃む所は唯だ巨舟大礮のみ。舟長さ三十丈、広さ六丈、厚さ二尺余、五桅を樹て、後は三層楼と為す。旁らに小囪を設けて銅礮を置く。桅下に二丈の巨鉄礮を置く。之を発すれば石城を洞裂し、数十里を震はす。世の称する紅夷礮は即ち其の制なり。然れども舟大にして転じ難く、或は浅沙に遇へば即ち動く能はず。而して其の人又戦ふに善からず、故に往往挫衄す。其の役使する者名けて烏鬼と曰ふ。水に入りて沈まず、海面を走ること平地の若し。其の柁後に照海鏡を置く。大径数尺、数百里を照す能ふ。其の人悉く天主教を奉ず。産する所有り、金・銀・琥珀・瑪瑙・玻璃・天鵝絨・瑣服・哆囉嗹。国土既に富み、中国の貨物意に当る者に遇へば、厚資を惜しまず。故に華人楽しく之と市を為す。