明史

列傳第二百十三 外國六 浡泥 滿刺加 蘇門答喇 蘇祿 西洋瑣里 瑣里 覽邦 淡巴 百花 彭亨 那孤兒 黎伐 南渤利 阿魯 柔佛 丁機宜 巴剌西

浡泥

浡泥は、宋の太宗の時に初めて中国と通じた。洪武三年八月、御史張敬之と福建行省都事沈秩を使者として派遣した。泉州から航海し、半年を経て闍婆に至り、さらに一月余りを経てその国に着いた。王の馬合謨沙は傲慢で礼を尽くさず、沈秩が責めると、ようやく座を下りて詔を拝受した。当時その国は蘇祿に侵され、かなり衰微しており、王は貧しさを理由に、三年後の入貢を請うた。沈秩が大義を説くと、王は承諾したが、その国はもとより闍婆に属しており、闍婆人がこれを聞きつけると、王の心中は躊躇した。沈秩が論破して言うには、「闍婆は久しく臣を称し貢を奉じてきた。お前は闍婆を畏れ、かえって天朝を畏れぬのか」と。そこで使者を遣わし表箋を奉り、鶴頂、生玳瑁、孔雀、梅花大片龍脳、米龍脳、西洋布、降真などの香を貢いだ。八月、張敬之らに従って入朝した。表は金を用い、箋は銀を用い、字は回鶻に近く、皆これを鏤刻して進上した。帝は喜び、宴を賜い賜物は甚だ厚かった。八年、その国の山川を福建山川の次に附祀することを命じた。

永楽三年冬、その王麻那惹加那が使者を遣わして入貢したので、官を遣わして国王に封じ、印誥、勅符、勘合、錦綺、彩幣を賜った。王は大いに喜び、妃及び弟妹子女陪臣を率いて海を渡って来朝した。福建に滞在した時、守臣がこれを上聞した。中官を遣わして宴を賜い賜物を与え、通過する州県では皆宴を設けた。六年八月、都に入り朝見し、帝はこれを褒め労った。王は跪いて言葉を述べた。「陛下は天の宝命を膺け、万方を統一されました。臣は遠く海島にありながら、天恩を蒙り、封爵を賜りました。これより国中では雨順風和し、年々豊作が続き、民に災害や疫病はなく、山川の間には珍奇なものがことごとく現れ、草木鳥獣もまたすべて繁殖しました。国中の耆老は皆、これが聖天子の覆冒するところによるものだと言います。臣は天日の御姿を拝し、少しばかりの誠意を尽くしたいと願い、険遠を憚らず、自ら家族陪臣を率いて、宮闕に詣で献上し感謝を申し上げます。」帝は再三慰労し、王妃が進上した中宮への箋及び方物を、文華殿に陳列するよう命じた。王が殿に詣で進献を終えると、王及び妃以下すべてに冠帯、襲衣を賜った。帝は奉天門で王を饗応し、妃以下は他の場所で饗応し、礼が終わると会同館に送り帰した。礼官が王と親王との会見儀礼を請うたが、帝は公侯の礼に準ずるよう命じた。まもなく王に儀仗、交椅、銀器、傘扇、銷金鞍馬、金織文綺、紗羅、綾絹衣十襲などを賜い、その他賜物は差等があった。十月、王は館で卒去した。帝は哀悼し、三日間朝を停め、官を遣わして祭を致し、繒帛を贈って葬儀を助けた。東宮親王も皆祭を遣わし、有司が棺槨、明器を整え、安德門外の石子岡に葬り、神道に碑を建てた。また墓の傍らに祠を建て、有司が春秋に少牢で祀り、諡して恭順と曰うた。その子遐旺に勅を賜って慰め、国王を襲封するよう命じた。

遐旺はその叔父とともに上言した。「臣は毎年爪哇に片脳四十斤を供しています。どうか爪哇に勅して歳供を止めさせ、毎年天朝に進上させてください。臣は今帰国しますが、護送を命じ、そのまま一年間留まって鎮撫し、国人の望みを慰めてください。また朝貢の期日及び従者の人数を定めてください。」帝はすべてこれに従い、三年に一度の貢を命じ、従者は王が遣わす者のみとし、ついで爪哇国に勅してその歳供を免じた。王が帰国を辞する際、玉帯一、金百両、銀三千両及び錢鈔、錦綺、紗羅、衾褥、帳幔、器物を賜い、その他にも賜物があった。中官張謙と行人周航に護送させた。

初め、故王が言った。「臣は恩を蒙り爵を賜わり、臣の境土はすべて職方に属します。どうか国中の後山を封じて一方の鎮としていただきたい。」新王もまたこのことを言上したので、長寧鎮國之山に封じた。御製の碑文を作り、張謙らに命じてその上に碑を刻ませた。その文は次の通りである。

「上天は我が国家の万世無疆の基を祐け啓き、我が太祖高皇帝に命じて天下を全く撫し、休養生息させ、以て治め以て教え、仁声義問を薄く極めて照臨せしめ、四方万国は奔走して臣服し、充ち湊って廷に至らしめた。神化感動の機、その妙なること此の如し。朕は鴻図を嗣ぎ守り、典式に率いる。厳恭祗畏し、統ぶる所を協和す。内外の間なく、均しく一体と視る。遐邇綏寧し、亦よく予が意を承く。

乃ち浡泥国王は、誠敬の至り、崇むべき所を知り、声教を慕尚し、益々謹み益々虔しく、その眷属、陪臣を率い、数万里の遠さを憚らず、海を浮かび来朝し、その志を達し、その欲を通じ、稽顙して陳辞して曰く、『遠方の臣妾、大いに天子の恩を冒し、以て養われ以て息み、既に庶くして且つ安んず。日月の光を見んと思い、故に険遠を憚らず、敢えて廷に造る。』また曰く、『我を覆う者は天、我を載せる者は地。我に土地人民の奉、田疇邑井の聚、宮室の居、妻妾の楽、和味宜服、利用備器有らしめ、以てその生を資え、強きもの敢えて侵さず、衆きもの敢えて暴かず、実に惟れ天子の賜う所なり。是れ天子の功德の加わる所、天地と並ぶ。然れども天は仰げば剛に見え、地は蹐めば則ち履む、惟れ天子は遠くして見難く、誠に通ぜざる所有り。是を以て遠方の臣妾、敢えて自ら外せず、山海を逾え歴り、躬ら闕延に詣で、以てその悃を伸ぶ。』朕曰く、『惟れ天、惟れ皇考、天下を予に付し、庶民を子養す。天と皇考は民を視ること同仁、予その天と皇考の德を承け、惟れ恐るるは堪えず、汝が言うが如くならざるを。』乃ちまた拜手稽首して曰く、『天子の元を建つるの載より、臣が国は時和歳豊、山川の蔵、珍宝流溢し、草木の葩無き者は皆華にして実り、異禽和鳴し、走獸蹌舞す。国の黄叟咸く曰く、中国聖人の德化漸く暨ぎ、斯れ多き嘉応なり。臣が土は遠しと雖も、実に天子の氓なり、故に奮然として来り覲す。』朕その言文貌恭、動くこと則を逾えず、礼教を悦喜し、夷習を脱略するを観るに、超然卓異なる者に非ざれば能わざるなり。載籍に稽うるに、古より逷遠の国、天道を奉若し、声教を仰服し、身を致して帝廷する者有り。妻子、兄弟、親戚、陪臣を挙げて階陛の下に頓首し臣妾を称するに至っては、惟れ浡泥国王一人のみ。西南諸蕃国の長、王の如き賢なる者未だ有らず。王の至誠は金石に貫き、神明に達し、而して令名は悠久に伝わり、光顕有りと謂うべし。

茲に特ちに王が国中の山を張寧鎮國之山に錫封し、文を賜いて石に刻み、以て王の休を著し、昭かにして万年、其れ永く斁くること無からん。之に詩を系えて曰く、『炎海の墟、浡泥の処る所。仁を煦み義に漸み、順有りて迕うこと無し。撦撦たる賢王、惟れ化の慕う所。象胥を以て導き、遹ち来り奔赴す。その婦子、兄弟、陪臣と同しく、稽顙闕下し、言有りて陳ぶ。君は猶お天の如しと謂い、休楽を遺し、一視同仁、偏り厚薄するに匪ず。顧みるに茲の鮮き德、云う所に称せず。浪舶風檣、実に労しく懇勤なり。古を稽うる遠臣、順来り怒哲す。躬を以てするは或いは難く、矧んや家室を曰わんや。王の心は亶誠、金石の其の堅き。西南の蕃長、疇か王と賢なる。矗矗たる高山、以て王の国を鎮む。石に文を镵し、懋く王の德を昭かにす。王の德克く昭らかに、王の国攸に寧し。万斯年、我が大明を仰がん。』

八年九月、使者を従謙らに従わせて入貢し、恩を謝した。翌年、再び謙を命じてその王に錦綺・紗羅・彩絹合わせて百二十匹を賜い、その下の者にも皆賜物があった。十年九月、遐旺はその母と共に来朝した。礼官に命じて会同館で饗応させ、光禄寺が朝夕酒食を供した。翌日、帝は奉天門で饗宴し、王母にも宴を賜った。二日後、再び宴を賜い、王には冠帯・襲衣を、王母・王叔父以下にはそれぞれ差等を設けて賜物を与えた。翌年二月、辞去して帰国した。金百両、銀五百両、鈔三千錠、銭千五百緡、錦四匹、綺帛紗羅八十匹、金織文繡・文綺衣各一着、衾褥・幃幔・器物をことごとく賜った。十三年から洪熙元年まで四回入貢したが、その後は貢使が次第に少なくなった。

嘉靖九年、給事中王希文が言上した。「暹羅・占城・琉球・爪哇・渤泥の五国が来貢する際、皆東莞を経由する。後に私的に商人を連行したため、多くはその貢を絶たれた。正徳年間、仏郎機(ポルトガル)が無断で侵入し毒害を流したので、一概に締め出して絶った。まだ幾年も経たないのに、急に復活を議するのは、威厳を損なうこと甚だしい」。上奏文は都察院に下され、旧制に悉く従い、混同・偽冒を許さないよう請うた。

万暦年間、その王が卒し、後嗣がなく、族人が争って立とうとした。国中で殺戮がほぼ尽き、遂にその女を立てて王とした。漳州人の張姓の者は、初めその国の那督(華語で尊官の意)であったが、乱に乗じて出奔した。女主が立つと、迎え戻した。その女は王宮に出入りし、心疾を患い、妄りに父に謀反の企てがあると言った。女主は恐れ、人を遣わしてその家を査問させたところ、那督は自殺した。国人が冤罪を訴えたので、女主は悔い、その女を絞殺し、その子に官職を授けた。その後は朝貢しなくなったが、商人の往来は絶えなかった。

国は十四の洲を統べ、旧港の西にあり、占城から四十日で到着できる。初めは爪哇に属し、後に暹羅に属し、大泥と改名した。華人の多くがその地に流寓した。嘉靖末、閩・粤の海寇の残党が逃れてここに至り、二千余人が滞留した。万暦時、紅毛番(オランダ人)が強いてその地で商売し、土庫を築いて居住した。澎湖に来て互市した者が携えていたのは、大泥国の文書であった。諸々の風俗・物産は、詳しく『宋史』にある。

満剌加

満剌加は、占城の南にある。順風なら八日で龍牙門に至り、さらに西へ二日航行すれば即ち到着する。或いは古の頓遜、唐の哥羅富沙であるという。

永楽元年十月、中官尹慶を遣わしてその地に使わし、織金文綺・銷金帳幔などの物を賜った。その地には王がおらず、国とも称さず、暹羅に服属し、歳ごとに金四十両を賦として納めていた。慶が到ると、威徳を宣揚し招来の意を伝えた。その酋長拜裡迷蘇剌は大いに喜び、使者を慶に従わせて入朝し方物を貢いだ。三年九月、京師に到着した。帝はこれを嘉し、満剌加国王に封じ、誥印・彩幣・襲衣・黄蓋を賜い、再び慶を派遣した。その使者が言うには、「王は義を慕い、中国の列郡と同じく、歳ごとに職貢を捧げたいと願い、その山を封じて一国の鎮としていただきたい」。帝はこれに従った。碑文を制定し、山上に刻ませ、末尾に詩を添えた。「西南の巨海中国に通じ、天に輸し地に灌ぐ億載同じ。日を洗い月を浴び光景融け、雨崖露石草木濃し。金花宝鈿青紅に生じ、国ここに有りて民俗雍し。王は善義を好み朝宗を思い、内郡に比して華風に依らんことを願う。出入り導従に蓋を張り重く、儀文裼襲礼虔恭なり。大いに貞石に書して爾が忠を表し、爾が国の西山永く鎮封せん。山君海伯翕い扈従し、皇考陟降は彼の穹に在り。後天監視久しく弥隆らかに、爾が衆子孫万福崇し」。慶らが再び到ると、その王は一層喜び、礼遇を加えた。

五年九月、使者を遣わして入貢した。翌年、鄭和がその国に使いし、間もなく入貢した。九年、その王は妻子陪臣五百四十余人を率いて来朝した。近郊に着くと、中官海寿・礼部郎中黄裳らに命じて宴労させ、役人が会同館に供応を設けた。奉天殿に入朝すると、帝は自ら宴を賜い、妃以下は別の場所で宴を受けた。光禄寺が日ごとに牲牢上尊を供し、王には金繡龍衣二襲・麒麟衣一襲、金銀器・帷幔衾褥をことごとく備え、妃以下にも皆賜物があった。帰国に際し、王には玉帯・儀仗・鞍馬を、妃には冠服を賜った。出発に臨み、奉天門で賜宴し、さらに玉帯・儀仗・鞍馬・黄金百両・白金五百両・鈔四十万貫・銭二千六百貫・錦綺紗羅三百匹・帛千匹・渾金文綺二・金織通袖膝襴二を賜った。妃及び子侄陪臣以下には、宴と賜物に差等があった。礼官が龍江駅で餞別し、さらに龍潭駅で賜宴した。十年夏、その侄が入朝して謝した。辞去して帰国する際、中官甘泉を同道させ、間もなくまた入貢した。

十二年、王子母干撒於的児沙が来朝し、父の訃を告げた。直ちに襲封を命じ、金幣を賜った。その後、連年あるいは隔年で入貢することが常となった。

十七年、王は妻子陪臣を率いて来朝し恩を謝した。辞去して帰国する際、暹羅に侵されている状況を訴えた。帝はこれにより暹羅に勅諭を賜い、暹羅は詔を奉じた。二十二年、西里麻哈剌は父の没後嗣位し、妻子陪臣を率いて来朝した。

宣徳六年、使者を遣わして来て言うには、「暹羅が本国を侵そうと謀っており、王は入朝したいが、阻まれることを懼れ、奏上して伝えたいが、書く者がいないので、臣三人を蘇門答剌の貢船に便乗させて訴えさせます」。帝は鄭和の船に便乗させて帰国させ、和に勅を携えさせて暹羅を諭し、隣国と和睦すべきことを責め、朝命に背かないよう命じた。初め、三人が到着した時、貢物がなく、礼官が例により賞賜すべきでないと述べた。帝は「遠人が数万里を越えて不平を訴えに来たのに、どうして賜物がないことがあろうか」と言い、遂に襲衣・彩幣を、貢使の例のごとく賜った。

八年、王は妻子陪臣を率いて来朝した。南京に着いた時、天候は既に寒く、春の暖かさを待って北上するよう命じ、別に人を遣わして勅を携えさせ王と妃を労い賜物を与えた。入朝すると、礼に従って宴と賜物があった。帰国に際し、役人が船を調えた。王はまたその弟を遣わして駱駝・馬・方物を貢いだ。当時、英宗は既に嗣位していたが、王はまだ広東にいた。勅を賜って王を褒め、守臣に送還させた。古里・真臘など十一カ国の使臣を便乗させ、共に帰還させた。

正統十年、その使者が、王に息力八密息瓦児丟八沙護国の勅書及び蟒服・傘蓋を賜い、国人を鎮服させてほしいと請うた。また言うには、「王は親しく宮闕に詣でたいが、従者が多いので、一隻の巨舟を賜り、遠路の渡航に便としたい」。帝は全て従った。

景泰六年、速魯檀無答仏哪沙が馬及び方物を貢ぎ、王に封ぜられることを請うた。詔して給事中王暉を派遣した。その後、また入貢し、賜った冠帯が火事で焼けたと述べた。皮弁服・紅羅常服及び犀帯紗帽を造らせて与えるよう命じた。

天順三年、王子蘇丹芒速沙が使者を遣わして入貢し、給事中陳嘉猷らを派遣して封じるよう命じた。二年後、礼官が言上した。「嘉猷らは海を二日航行し、烏猪洋に至り、颶風に遭い、船が破損し、六日漂流して清瀾守禦所で救出された。勅書は失われず、諸々の賜物は全て水に濡れた。重ねて給与し、使臣を再び往かせてほしい」。従った。

成化十年、給事中陳峻が占城王を冊封するため派遣されたが、安南の兵が占城を占拠していたため入国できず、携えていた物資を満剌加に持ち込み、その王に朝貢を促した。その使者が到着すると、帝は喜び、詔書を下して賞賛した。十七年九月、貢使が言うには、「成化五年、貢使が帰国する途中、安南の沖に漂着し、多くが殺害され、残りは額に入墨を施されて奴隷とされ、幼い者は宮刑に処された。今や安南は既に占城の地を占拠し、更に我が国を併呑しようとしている。我が国は共に王の臣下であるため、敢えて戦おうとはしない」と。丁度安南の貢使も到着しており、満剌加の使臣は朝廷で対決することを求めた。兵部は、事は既に過去のものであり、深く追求するに足らないと上奏した。帝は安南の使者が帰国するに当たり、その王を詔書で責め、併せて満剌加に、安南が再び侵攻して来たら直ちに軍備を整えて戦いに備えるよう命じた。まもなく給事中林栄と行人黄乾亨を派遣し、王子マハムド・シャーを王に冊封した。二人は溺死し、官位を追贈し祭礼を賜い、子孫に官職を世襲する権利を与え、その家族を手厚く遇した。残りの者には、役人に命じて海辺で魂を招いて祭らせ、その家族もまた手厚く遇した。再び給事中張晟と行人左輔を派遣した。張晟は広東で死去したため、守臣に命じて一人の官を選び左輔の副使とし、冊封の任務を完遂させた。

正徳三年、使臣端亜智らが入貢した。その通訳の亜劉は、本来江西万安県の出身で蕭明挙という名の者で、罪を負ってその国に逃げ込み、大通事の王永と序班の張字に賄賂を贈り、渤泥へ宝物を求めに行く計画を立てた。また礼部の吏である侯永らも賄賂を受け取り、偽の符印を作り、駅伝を混乱させた。広東に戻る途中、明挙が端亜智らと口論となり、遂に同僚の彭万春らと共に彼らを殺害して略奪し、その財物を全て奪った。事が発覚し、京師に逮捕された。明挙は凌遅刑に処され、万春らは斬首され、王永は死刑を減じられて米三百石を罰せられ、張字・侯永と共に辺境に流刑となった。尚書白鉞以下は皆、罰を科せられた。劉瑾はこのことを理由に江西の人々を罪に問い、その郷試合格者数を五十名減らし、官職にある者は京職に就任できないようにした。

その後、フランキ(ポルトガル)が強勢となり、兵を挙げてその地を侵略奪取した。王スルタン・マフムド・シャーは逃亡し、使者を派遣して難を告げた。時に世宗が即位し、フランキを詔書で責め、その故地を返還するよう命じた。また暹羅などの諸国王に、災害を救い隣国を憐れむ義を説いたが、遂に応じる者はなく、満剌加はついに滅ぼされた。時にフランキもまた使者を派遣して朝貢し封を請うたが、広東に到着すると、守臣はその国が従来『王会』に列せられていないとして、その使者を拘束して上奏した。詔により貢物相当の代価を与えて帰国させ、後に麻六甲と改名したという。

満剌加が貢いだ物品には、瑪瑙、真珠、玳瑁、珊瑚樹、鶴頂、金母鶴頂、瑣服、白苾布、西洋布、撒哈剌、犀角、象牙、黒熊、黒猿、白麂、七面鳥、鸚鵡、片脳、薔薇露、蘇合油、梔子花、烏爹泥、沈香、速香、金銀香、阿魏などがあった。

山があり、泉が流れて溪となる。土人は砂を淘って錫を取り、煎じて塊にしたものを斗錫という。田畑は痩せて収穫が少なく、民は皆、砂を淘ったり魚を捕ったりして生業としている。気候は朝は熱く、夕方は寒い。男女とも椎髻に結い、身体は浅黒く、時折白い者がいるのは、唐人の子孫である。風俗は淳朴で厚く、市場の取引はかなり公平である。フランキに破られて以来、その風俗は急に変わった。商船は稀にしか来ず、多くは直接蘇門答剌に向かう。しかし必ずその国を通るため、大抵は待ち伏せされて略奪され、海路はほとんど断たれた。自ら中国で商売をする者は、直接広東の香山澳に至り、その跡は絶えることがないという。

蘇門答剌

蘇門答剌は、満剌加の西にある。順風なら九昼夜で到着できる。あるいは漢代の条枝、唐代の波斯・大食二国の地であるとも言い、西洋の要衝である。

成祖の初め、使者を派遣して即位を詔書でその国に告げた。永楽二年、副使聞良輔と行人甯善を派遣し、その酋長に織金文綺、絨錦、紗羅を賜って招いた。宦官尹慶が爪哇に使いし、ついでに再びその国に赴いた。三年、鄭和が西洋に下り、再び賜物を与えた。鄭和が到着する前に、その酋長ザイヌル・アービディーンは既に使者を尹慶に随行させて入朝し、産物を貢いだ。詔して蘇門答剌国王に封じ、印綬・誥命・彩幣・襲衣を賜った。これにより毎年入貢し、成祖の世の終わりまで絶えることがなかった。鄭和は合わせて三度その国に使いした。

先に、その王の父が隣国の花面王と戦い、矢に当たって死んだ。王子は幼かったため、王妃が民衆に呼びかけて言った、「誰か私のために仇を討ってくれる者はないか。私はその者を夫とし、共に国政を執ろう」と。一人の漁翁がこれを聞き、国中の人々を率いて攻撃に向かい、その王を討ち取って帰還した。王妃は遂に彼と結ばれ、老王と称された。その後、王子が成長すると、密かに部将らと謀り、老王を殺してその位を襲った。老王の弟スカンダルは山中に逃れ、連年衆を率いて侵攻し騒擾を起こした。十三年、鄭和が再びその国に至ると、スカンダルは下賜品が自分に及ばなかったことを怒り、数万人を統率して迎え撃った。鄭和は配下の兵卒とその国の人々を率いて防戦し、賊の大軍を大破し、南渤利国まで追撃し、捕虜として連れ帰った。その王は使者を派遣して謝罪した。

宣徳元年、使者を派遣して慶賀の意を表した。五年、帝は外蕃の貢使が多く来なくなったため、鄭和と王景弘を派遣して諸国を遍歴させ、次のような詔書を頒布した。「朕は恭しく天命を奉じ、太祖高皇帝、太宗文皇帝、仁宗昭皇帝の大統を慎んで継承し、万邦に君臨し、祖宗の至仁を体して、広く庶民に安寧をもたらす。既に大赦を天下に下し、元号を宣徳と改めた。爾ら諸蕃国は、遠く海外にあり、未だこれを知らない。ここに太監鄭和・王景弘らを遣わし、詔書を携えて往き告げる。それぞれ天道を敬い、人民を撫で、共に太平の福を享けよ」と。合わせて二十余国を歴訪し、蘇門答剌もその中に含まれた。翌年、二度にわたり使者を派遣して入貢した。八年、麒麟を貢いだ。

九年、王の弟ハリ・ハンが来朝し、京師で死去した。帝はこれを哀れみ、鴻臚少卿を追贈し、誥命を賜い、役人に喪葬を執り行わせ、墓守の戸を置かせた。時に王景弘が再びその国に使いし、王は弟ハニ・ザイハーンを随行させて入朝させた。翌年に到着し、王が老いて政務を執れないため、子に位を譲りたいと申し出た。そこでその子アブサイードを国王に封じ、これ以降、貢使は次第に少なくなった。

成化二十二年、その使者が広東に到着したが、役人が調べたところ印信と勘合がなかったため、その上表文を倉庫に収蔵し、使者は追い返した。別に番人を遣わして貢物を京師に運ばせ、若干の賜物を与えた。この後、貢使は来なくなった。

万暦年間に至り、国は二度姓が変わった。その時に王となった者は、人の奴隷であった。奴隷の主人は国の大臣で、兵権を握っていた。奴隷は狡猾で、主人は彼に象を飼わせたところ、象は肥えた。魚税の監視を任せると、毎日大きな魚を主人に献上した。主人は大いに喜び、彼を側近として仕えさせた。ある日、主人に随行して朝見し、王の尊厳さが神のようであるのを見て、主人がひたすら謹んで頭を下げるのを見て、退出後、主人に言った、「主はどうしてそこまで恭しいのですか」と。主人は言った、「あれは王だ。どうして逆らえようか」と。奴隷は言った、「主はただ王になりたくないだけです。もし望むなら、主が即ち王になれます」と。主人は驚き、叱りつけて退けた。別の日、また進み出て言った、「王の側近の侍衛は少ない。主は重兵を擁して出鎮する際、必ず入朝して辞去を請うでしょう。その時、私を従わせてください。主が機密の事があると言い、左右を退けるよう乞えば、王は必ず疑いません。私が隙を突いて刺殺し、主を奉じて王となれば、手のひらを返すようなものです」と。主人はこれに従い、奴隷は果たして王を殺し、大声で叫んだ、「王は無道である。我がこれを殺した。我が主が即ち王である。異議を唱える者は、この刃にかかってみよ!」と。衆は恐れ服して敢えて動かず、その主人は遂に位をさんさんだつし、奴隷を腹心として任用し、兵権を委ねた。間もなく、奴隷は再び主人を殺して代わった。そして大いに防衛を固め、宮殿を拡張し、六つの門を設けて無断で入ることを許さず、勲貴といえども帯刀して殿上に上がることはできなかった。外出には象に乗り、象の背に亭を設けてその外側に帷を垂らし、このようなものを百余りも用意し、人々に王がどこにいるか測り知れないようにした。

その国の風俗は頗る淳朴にして、言葉遣いは柔らかく媚びるが、ただ王は殺戮を好む。毎年十余人を殺し、その血を浴びて身を洗い、病を除くことができると謂う。貢物には宝石、瑪瑙、水晶、石青、回回青、良馬、犀牛、龍涎香、沉香、速香、木香、丁香、降真香、刀、弓、錫、鎖服、胡椒、蘇木、硫黄の類がある。貨物船が至れば、貿易は公平と称される。土地は元来瘠せており、麦は無く禾(稲)があり、禾は一年に二度実る。四方の商人が輻湊する。華人の往く者は、地遠くして価高きを以て、他国に倍する利益を得る。その気候は朝は夏の如く、暮れは秋の如く、夏には瘴気がある。婦人は裸体で、ただ腰に一布を囲むのみ。他の風俗は満剌加に類す。簒しいの後、国名を改めて啞齊と曰う。

須文達那

須文達那、洪武十六年、国王殊旦麻勒兀達朌が使者俺八児を遣わして来朝し、馬二匹、幼苾布十五匹、隔著布・入的力布各二匹、花満直地二、番綿紬直地二、兜羅綿二斤、撒剌八二個、幼頼革著一個、撒哈剌一個、及び薔薇水、沉香、降香、速香諸物を貢献した。命じて王に『大統暦』、綺羅、宝鈔を賜い、使臣には襲衣を賜う。或いは須文達那は即ち蘇門答剌なりと云い、洪武時に改めたものと謂うが、然しその貢物と王の名は皆同じからず、考うるに由なし。

蘇祿

蘇祿、地は浡泥・闍婆に近し。洪武初年、兵を発して浡泥を侵し、大いに獲るところあり、闍婆の援兵至るを以て、乃ち還る。

永楽十五年、その国の東王巴都葛叭哈剌、西王麻哈剌叱葛剌麻丁、峒王の妻叭都葛巴剌卜並びにその家属頭目凡そ三百四十余人を率い、海を浮かびて朝貢し、金鏤の表文を進め、珍珠、宝石、玳瑁諸物を献ず。これを礼すること満剌加の如くし、尋いで並びに国王として封ぜらる。印誥、襲衣、冠帯及び鞍馬、儀仗器物を賜い、その従者にもまた冠帯を差等ありて賜う。二十七日滞在し、三王辞して帰る。各々玉帯一、黄金百、白金二千、羅錦文綺二百、帛三百、鈔一万錠、銭二千緡、金繡の蟒龍・麒麟衣各一を賜う。東王は德州に次ぎ、館にて卒す。帝は官を遣わして祭を賜い、有司に命じて葬を営ませ、墓道に碑を勒し、諡して恭定と曰い、妻妾傔従十人を留めて墓を守らせ、三年の喪畢るを俟って帰遣せしむ。乃ち使者を遣わし勅を齎してその長子都馬含に諭して曰く、「爾が父は中国を尊ぶことを知り、みずから家属陪臣を率い、遠く海道を渉り、万里来朝せり。朕その誠悃を眷み、既に王封をたまい、優に賜賚を加え、官を遣わし護送して帰らしむ。舟、德州に次ぎ、疾に遭いて殞歿せり。朕これを聞き、深く哀悼と為し、既に礼の如く葬祭せり。爾は嫡長を以て、国人の属する所と為る、宜しく即ち継承し、以て籓服をやすんずべし。今特に爾を蘇祿国東王に封ず。爾尚ほ益々忠貞を篤くし、天道を敬承し、以て眷懐に副い、以て爾が父の志を継げ。つつしみ哉。」

十八年、西王は使者を遣わして入貢す。十九年、東王の母は王叔叭都加蘇里を遣わして来朝し、大珠一を貢す、その重さ七両余りあり。二十一年、東王妃は還国し、厚く賜い遣わす。明年入貢し、以後復た至らず。万暦の時、仏郎機(ポルトガル)しばしばこれを攻むるも、城は山険に拠り、遂に下す能わず。

その国は、古に於いて考うる所なし。地瘠せて粟麦寡く、民は率ね魚蝦を食し、海を煮て塩と為し、蔗を醸して酒と為し、竹を織って布と為す。気候常に熱し。珠池あり、夜これを望めば、光水面に浮かぶ。土人は珠を以て華人と市易し、大なる者は利数十倍す。商舶将に返らんとすれば、輒ち数人を留めて質と為し、其の再来を冀う。その旁近の国、名を高薬と曰い、玳瑁を出す。

西洋瑣裡

西洋瑣裡、洪武二年、使臣劉叔勉を命じて即位の詔を以てその国に諭す。三年、沙漠を平定し、復た使臣を遣わして詔を頒つ。その王別裡提は使者を遣わし金葉表を奉じ、叔勉に従って方物を献ず。文綺、紗羅諸物を甚だ厚く賜い、並びに『大統暦』を賜う。

成祖は即位の詔を海外諸国に頒ち、西洋もまたこれにあずかる。永楽元年、副使聞良輔、行人甯善を命じてその国に使わし、絨錦、文綺、紗羅を賜う。すでにして、復た中官馬彬を遣わして往使せしめ、賜うこと前に如し。その王は即ち使者を遣わして来貢し、胡椒を附載して民と市す。有司は税を徴すことを請うも、命じて徴するなかれとす。二十一年、古裡、阿丹等十五国とともに来貢す。

瑣裡

瑣裡、西洋瑣裡に近くしてやや小なり。洪武三年、使臣塔海帖木児を命じて詔を齎しその国を撫諭す。五年、王卜納的は使者を遣わし表を奉じて朝貢し、並びにその国の土地山川の図を献ず。帝は中書省の臣を顧みて曰く、「西洋諸国は素より遠蕃と称し、海を渉りて来る、歳月を計り難し。その朝貢は疏数(回数)を論ぜず、厚く往きて薄く来る可し。」乃ち『大統暦』及び金織の文綺、紗羅各四匹を賜い、使者にもまた幣帛を差等ありて賜う。

覧邦

覧邦、西南海中に在り。洪武九年、王昔裡馬哈剌札的剌札は使者を遣わし表を奉じて来貢す。詔してその王に織金文綺、紗羅を賜い、使者には宴賜を制の如くす。永楽、宣徳中、嘗て隣国に附して朝貢す。その地は沙礫多く、麻麦の外に他種無し。商賈鮮すくなく至る。山は坦迤として峰巒無く、水もまた浅く濁る。俗は仏を好み、賽祀に勤む。その貢は、孔雀、馬、檀香、降香、胡椒、蘇木。交易には銭を用う。

淡巴、

淡巴もまた西南の海中にある国である。洪武十年、その王佛喝思羅が使者を遣わして表を奉り、地方の産物を貢ぎ、賜与と褒賞は差等があった。その国は、石の城に瓦の屋根である。王は輿に乗り、官は馬に跨り、中国の威儀がある。土地は平坦で水は清く、草木は盛んに茂り、家畜の産物は甚だ多い。男女は耕作と機織に勤しみ、市には貿易があり、野には寇盗がなく、楽土と称された。その貢ぎ物は、苾布、兜羅綿被、沉香、速香、檀香、胡椒である。

百花、

百花は、西南の海中に位置する。洪武十一年、その王剌丁剌者望沙が使者を遣わして金葉の表を奉り、白鹿、紅猴、龜筒、玳瑁、孔雀、鸚鵡、哇哇倒掛鳥及び胡椒、香、蠟等の諸物を貢いだ。詔して王及び使者に綺、幣、襲衣を賜い、差等があった。国中の気候は常に暖かく、霜雪がなく、多くの奇花異卉があるので、百花と名付けられた。民は富み豊かで、釈教を尊ぶ。

彭亨、

彭亨は、暹羅の西にある。洪武十一年、その王麻哈剌惹答饒が使者に金葉の表を持たせ、番奴六人及び地方の産物を貢ぎ、宴と褒賞は礼に従った。永楽九年、王巴剌密瑣剌達羅息泥が使者を遣わして入貢した。十年、鄭和がその国に使した。十二年、再び入貢した。十四年、古裡、爪哇等の諸国と共に貢ぎ、再び鄭和をしてこれを報いさせた。

その国は、土地は肥沃で、気候は常に温かく、米粟は豊かに足り、海を煮て塩とし、椰漿を醸して酒とする。上下は親しみ打ち解け、寇賊がない。しかし鬼神に惑わされ、香木を刻んで像とし、人を殺して祭賽し、以て災いを祓い福を祈る。貢ぐ所のものには象牙、片脳、乳香、速香、檀香、胡椒、蘇木の類がある。

万暦の時に至り、柔仏国の副王の子が彭亨王の女を娶らんとし、婚礼を前に、副王が子を彭亨に送ると、彭亨王は酒宴を設け、親戚ことごとく会した。婆羅国の王子は彭亨王の妹婿であり、杯を挙げて副王に献じたが、その手指に巨大な珠があり甚だ美しかったので、副王はそれを欲し、重い賄賂を約束した。王子は惜しんで与えず、副王は怒り、直ちに帰国して兵を発し攻めて来た。彭亨人は不意を突かれ、戦わずして自ら潰えた。王と婆羅王子は金山に奔った。浡泥国王は、王妃の兄であり、これを聞き、衆を率いて来援した。副王は乃ち大いに焚掠して去った。この時、国中に鬼が三日間哭き、人民は半ば死んだ。浡泥王はその妹を迎えて帰り、彭亨王はこれに随い、その長子に命じて国を摂らせた。後に、王は復位したが、次子は元より凶悍であり、遂に毒を以てその父を殺し、その兄を弑して自立した。

那孤児、

那孤児は、蘇門答剌の西に在り、境を接する。土地は狭く、僅か千余りの家があるのみ。男子は皆墨で面に花獣の形状を刺青するので、故にまた花面国とも名付く。髪は乱れ体は裸で、男女は単布で腰を囲うのみ。しかし俗は淳朴で、田には稲禾が足り、強きは弱きを侵さず、富めるは貧しきに驕らず、皆自ら耕して食し、寇盗がない。永楽年間、鄭和がその国に使した。その酋長は常に地方の産物を入貢した。

黎伐、

黎伐は、那孤児の西にある。南に大山、北に大海、西は南渤利に接する。居民三千家、一人を推して主とす。蘇門答剌に隷属し、声音風俗多くこれと同し。永楽年間、嘗てその使臣に随って入貢した。

南渤利、

南渤利は、蘇門答剌の西にある。順風なら三日夜で至ることができる。王及び居民は皆回回人で、僅か千余りの家があるのみ。俗は朴実で、土地は穀物に乏しく、人は多く魚蝦を食す。西北の海中に山あり甚だ高大で、帽山と曰い、その西また大海あり、那沒黎洋と名付け、西から来る洋船は皆この山を目印とする。山に近い浅水内に、珊瑚樹が生え、高いものは三尺余りである。永楽十年、その王馬哈麻沙が使者を遣わし蘇門答剌の使に附して入貢した。その使者に襲衣を賜い、王に印誥、錦綺、羅紗、彩幣を賜う。鄭和を遣わしてその国を撫諭させた。成祖の世の終わりまで、毎年入貢し、その王子沙者罕もまた使者を遣わして入貢した。宣徳五年、鄭和が諸国に遍く賜与した時、南渤利もまたこれに与った。

阿魯、

阿魯は、一名を啞魯といい、満剌加に近い。順風ならば三昼夜で到着できる。風俗・気候は蘇門答剌に大いに類する。田地は瘠せて収穫少なく、盛んに芭蕉・椰子を栽培して食とする。男女ともに裸体で、布を以て腰を囲う。永楽九年、王速魯唐忽先が使者を遣わし、古里等の諸国に附して入貢した。その使者に冠帯・彩幣・宝鈔を賜い、その王にも賜物があった。十年、鄭和がその国に使いした。十七年、王子段阿剌沙が使者を遣わして入貢した。十九年・二十一年、再び入貢した。宣徳五年、鄭和が諸蕃に使いした際にも、賜物があった。その後は貢使は来なくなった。

柔佛

柔佛は、彭亨に近く、一名を烏丁礁林という。永楽年間、鄭和が西洋を遍歴したが、柔佛の名はない。或いは言う、和がかつて東西竺山を経由したが、今この山がまさにその地にあるので、疑わくはこれが東西竺であろうかと。万暦年間、その酋長は兵を構えることを好み、隣国の丁機宜・彭亨はしばしばその害を受けた。華人で他国に販売する者は多くこれに就いて貿易し、時にその国に招き寄せられることもあった。

国中では茅を覆って屋とし、木を列ねて城とし、池を以て環らす。事なき時は外に通商し、事ある時は召募して兵とし、強国と称された。地は穀物を産せず、常に隣国で米を交易する。男子は髪を剃り徒跣で刀を佩き、女子は髪を蓄えて椎結し、その酋長は双刀を佩く。文字には茭曌葉を用い、刀でこれを刺す。婚姻もまた門閥を論ずる。王は金銀を食器とし、群下は磁器を用いる。匕箸はない。俗に斎戒を好み、星を見て初めて食す。節序は四月を歳首とする。居喪には、婦人は髪を剃り、男子は重ねて剃る。死者は皆火葬する。産する所に犀・象・玳瑁・片脳・没薬・血竭・錫・蠟・嘉文簟・木棉花・檳榔・海菜・窩燕・西国米・跂吉柿の類がある。

初めその国の吉寧仁が大庫となり、王に忠実で、王の倚信するところとなった。王の弟は兄が自分を疎んじたとして、密かにこれを殺した。後に出行して馬から落ちて死に、左右の者は皆吉寧仁が祟りをなすのを見た。これより家家これを祀った。

丁機宜

丁機宜は、爪哇の属国であり、幅員は甚だ狭く、僅か千余家である。柔佛は狡猾で雄強であり、丁機宜はこれと接境し、時にその害を受けた。後に厚い幣を以て求婚し、少し寧かな処を得た。その国は木を以て城とする。酋長の居る所の傍らに鐘鼓楼を列ね、出入りには象に乗る。十月を歳首とする。性は潔癖を好み、酋長の食するものは、皆自ら割烹する。民俗は爪哇に類し、物産は悉く柔佛の如し。酒禁は甚だ厳しく、常税がある。しかし大家は皆飲まず、ただ細民で無籍の者がこれを飲み、その同輩は皆これを非笑する。婚姻は、男が女の家に行きその門戸を支えるので、故に女を生むことは男に勝る。喪には火葬を用いる。華人が商いに行くと、交易は甚だ公平である。柔佛に破られてからは、往く者も少なくなった。

巴剌西

巴剌西は、中国から絶遠の地にある。正徳六年、使臣沙地白を遣わして入貢し、その国は南海にあり、初めて王命を奉じて来朝したが、舟行四年半、風に遭って西瀾海に漂着し、舟は壊れ、只一小艇が残り、また八日間漂流して得吉零国に至り、一年居住した。秘得に至り、八月居住した。そこで陸路を行き、二十六日を経て暹羅に着き、実情を王に告げて日々の給与を賜わり、且つ婦女四人を賜わり、四年居住した。今年五月に至って初めて番舶に便乗して広東に入り、闕下に達することができた。金葉表を進上し、祖母緑一つ、珊瑚樹・琉璃瓶・玻璃盞各四つ、及び瑪瑙珠・胡黒丹等の諸物を貢いだ。帝はその遠来を嘉し、賜賚を加えた。

佛郎機

佛郎機は、満剌加に近い。正徳年間、満剌加の地を占拠し、その王を追放した。十三年、使臣加必丹末等を遣わして方物を貢ぎ、封を請うたので、初めてその名を知った。詔して方物の価値を給し、遣還させた。その者は久しく留まって去らず、行旅を剽劫し、遂には小児を掠って食らうに至った。已にして鎮守中貴に縁故を求めて、入京を許された。武宗が南巡した際、その使者火者亜三は江彬に因って帝の左右に侍した。帝は時にその言葉を学んで戯れとした。その留まっている懐遠駅の者は、益々良民を掠い買いし、室を築き寨を立てて、久居の計を図った。

十五年、御史丘道隆が言う、「満剌加は勅封の国であるのに、佛郎機が敢えてこれを併せ、且つ利を以て我を誘い、封貢を求めてきた。決して許すべからず。宜しくその使臣を退け、順逆を明示し、満剌加の疆土を還すことを命じて、初めて朝貢を許すべきである。倘し執迷して悔い改めなければ、必ず諸蕃に檄告し、その罪を声して討伐すべきである。」御史何鰲が言う、「佛郎機は最も凶悪狡猾で、兵械は諸蕃に比べて独り精良である。前年、大舶を駕して突如広東の会城に入り、砲声は地を震わした。駅に留まる者は制に違って交通し、都に入る者は桀驁として長たることを争う。今その往来貿易を許せば、勢い争闘殺傷を生じ、南方の禍いは殆ど極まりなかろう。祖宗の朝貢には定期があり、防備には常制があったので、来る者は多くはなかった。近頃布政呉廷挙が上供の香物が欠けると言い、何年のものかを問わず、来れば即ち貨を取り立てた。そのため番舶が海澨に絶えず、蛮人が州城に雑遝する。禁防が既に疎かになり、水路が益々熟知された。これが佛郎機が機に乗じて突如到来した所以である。どうか在澳の番舶及び潜居する番人を悉く駆逐し、私通を禁じ、守備を厳重にして、ひとまず一方の安寧を得られたい。」上疏が礼部に下り、言う、「道隆は先に順徳の県令を務め、鰲は即ち順徳の人であるので、利害を深く明晰にしている。宜しく満剌加の使臣が至るのを待ち、廷上で佛郎機が隣邦を侵奪し、内地を擾乱した罪を詰問し、処置を奏請すべきである。その他は悉く御史の言う通りとすべきである。」と。報じて可とした。

亜三は帝に侍して甚だ驕慢であった。従駕して都に入り、会同館に居住した。提督主事梁焯に会見し、膝を屈さなかった。焯は怒ってこれを鞭打った。彬は大いに罵って言う、「彼は嘗て天子と戯れた者だ。お前のような小官に跪くものか?」翌年、武宗が崩じ、亜三は吏に下された。自ら言う、元は華人で、番人に使われたのだと。そこで法に伏し、その朝貢は絶たれた。その年の七月、また朝使への接済を口実に、土物を携えて市を求めた。守臣が故事に従って抽分することを請うたが、詔して再びこれを拒絶した。その将別都盧は既に巨砲利兵を以て満剌加諸国を肆に掠奪し、海上に横行していたが、またその配下の疏世利等を率いて五舟を駕し、巴西国を撃破した。

嘉靖二年、遂に新会の西草湾を寇し、指揮柯栄・百戸王応恩がこれを防いだ。転戦して稍州に至り、向化人潘丁苟が先登し、衆が斉しく進み、別都盧・疏世利等四十二人を生擒し、三十五級を斬首し、その二舟を獲た。残賊はまた三舟を率いて接戦した。応恩は陣没し、賊もまた敗走した。官軍はその砲を得て、即ち佛郎機と名付け、副使汪鋐がこれを朝廷に進めた。九年秋、鋐は累官して右都御史となり、上言した、「今塞上の墩台・城堡は設けていないわけではないが、寇が来れば輒ち蹂躙されるのは、墩台は只瞭望するのみで、城堡にはまた遠方を制する具が無いからである。故に往々にして困窮を受ける。当に臣の進めたる佛郎機を用いるべきである。その小さいものは二十斤以下で、遠く六百歩まで届くものは、これを墩台に用いる。每墩に一つを用い、三人を以てこれを守る。その大きいものは七十斤以上で、遠く五六里まで届くものは、これを城堡に用いる。每堡に三つを用い、十人を以てこれを守る。五里に一墩、十里に一堡、大小相依り、遠近相応じて、寇は将に足を容れる所なく、戦わずして功を収めることができるであろう。」帝は喜び、即ちこれに従った。火砲に佛郎機があるのはこれより始まる。しかし将士はこれを善く用いず、遂に寇を制することができなかった。

初めに、広東の文武官の月俸は多く番貨で代えられていたが、この時は貨物が来るのが少なくなり、フランキ(ポルトガル)の通市を再び許すべきだという議論があった。給事中王希文が強く反対し、遂に令を定めて、諸番の貢が時を守らず、勘合に差し違える者は全て禁止することとし、これによって番船はほとんど絶えた。巡撫林富が上言して言うには、「広東の公私の諸費は多く商税に頼っており、番船が来なければ、公私共に窮する。今フランキの互市を許せば四つの利がある。祖宗の時、諸番の常貢の外に、元来抽分の法があり、その余りを少し取れば、御用に足りる。これが一の利である。両広は近年用兵し、庫蔵が消耗し尽くしているが、これによって軍餉を充実し、不測に備えられる。これが二の利である。広西は元来広東に頼っており、少しでも徴発があれば、すぐに措置が間に合わない。もし番船が流通すれば、上下共に助け合える。これが三の利である。小民は交易を生業としており、一銭の貨物を持って、転々と販売し、衣食をその中から得ている。これが四の利である。国を助け民を豊かにし、両方共に頼るところとなる。これは民の利に因ってこれを利するのであって、利の穴を開けて民に禍の梯を設けるものではない。」と。帝はこれに従った。これよりフランキは香山澳に入って市を行うことを得、その徒はまた越境して福建で商いし、往来絶えなかった。

二十六年に至り、朱紈が巡撫となり、厳しく通番を禁じた。その人々は利益を得られず、則ち衆を整えて漳州の月港・浯嶼を犯した。副使柯喬らがこれを防ぎ退けた。二十八年にまた詔安を犯した。官軍が走馬渓で迎撃し、賊首李光頭ら九十六人を生け捕りにし、残りは逃げ去った。朱紈は便宜を以てこれを斬った。朱紈を怨む者、御史陳九徳が遂にその専擅を弾劾した。帝は給事中杜汝禎を遣わして検証させたところ、言うには、これはマラッカの商人で、毎年海浜の無頼の徒を招き、往来して売買し、僭号や流劫の事はなく、朱紈が擅自行誅したのは、誠に御史の弾劾する通りであると。朱紈は遂に逮捕され、自殺した。蓋しマラッカが即ちフランキであることを知らなかったのである。

朱紈の死後、海禁はまた弛み、フランキは遂に海上を縦横して忌憚するところがなくなった。そしてその香山澳・壕鏡で市を行う者は、室を築き城を建てるに至り、海辺に雄踞して、一国の如くであり、将吏の不肖の者はかえってこれを外府と見做した。壕鏡は香山県南の虎跳門外にある。先に、シャム・チャンパ・ジャワ・琉球・ブルネイ諸国の互市は、皆広州に在り、市舶司を設けてこれを管轄した。

正徳の時、高州の電白県に移った。嘉靖十四年、指揮黄慶が賄賂を受け取り、上官に請うて、これを壕鏡に移し、歳に課金二万を納めた。フランキは遂に混入することを得た。高い棟、飛ぶ甍、櫛の歯のように並び相望み、福建・広東の商人は鴨の如くにこれに趨った。久しくして、その来る者益々衆くなった。諸国の人はこれを畏れて避け、遂に専らフランキの占拠するところとなった。四十四年、偽ってマラッカと称して入貢した。已にして、蒲都麗家と改称した。守臣がこれを上聞し、下部議したところ、必ずやフランキの仮託であると言い、乃ちこれを退けた。

万暦の中頃、呂宋を破滅させ、福建・広東の海上の利を全て独占し、勢いは益々熾んになった。三十四年に至り、また隔水の青州に寺を建て、高さ六七丈、広く開け奇しく奥深く、中国の所有するものではなかった。知県張大猷がその高い城壁を毀つことを請うたが、果たせなかった。明年、番禺の挙人盧廷龍が会試で都に入り、澳中の諸番を全て追い出し、浪白の外海に出て居住させ、我が壕鏡の故地を還すことを請うたが、当事者は用いなかった。番人は既に城を築き、海外の雑番を集め、広く貿易を通じ、万余人に至った。その地を治める官吏は、皆畏懼して敢えて詰問する者なく、甚だしくはその宝貨を利して、表向きは禁じながら密かにこれを許す者もあった。総督戴燿は事に在ること十三年、その患いを養い成した。番人はまた倭賊を潜匿し、官軍を敵殺した。四十二年、総督張鳴岡が檄を飛ばして番人に倭を駆逐して出海させ、因って上言して言うには、「広東に澳夷有るは、疽の背中に在るが如し。澳に倭賊有るは、虎に翼を付けるが如し。今一朝に駆斥し、一矢を費やさず、これは聖天子の威徳の致すところである。ただ、倭は去ったが番は尚存する。これを剿除すべしと言う者もあり、これを浪白の外洋に移して船で貿易させるべしと言う者もあるが、兵は軽々しく動かし難い。而して壕鏡は香山の内地にあり、官軍が海を環らして守れば、彼らの日々の食に必要なものは、皆我に仰ぐ。一たび異志を抱けば、我は即ちその死命を制する。もし外洋に移せば、則ち巨海茫茫として、奸宄を安んぞ詰めようか。制御を安んぞ施そうか。申明して約束し、内には一奸の闌出を許さず、外には一倭の闌入を許さず、釁を啓かず、防を弛めず、相安じて患い無きを為す方が優れているようである。」と。部議はこれに従った。三年居て、中路の雍陌営に参将を設け、千人を調発してこれを戍らせ、防禦は次第に密になった。天啓元年、守臣はその終に患いを為すことを慮り、監司馮従龍らを遣わしてその築いた青州城を毀った。番もまた敢えて拒まなかった。

その時、大西洋人が中国に来て、またこの澳に居住した。蓋し番人は元来市易を求めており、初め不軌の謀はなく、中朝はこれを疑い過ぎ、終にその朝貢を許さず、またこれを制する力も無かったので、議する者紛然とした。然れども明の世を終えるまで、この番は固より未だ嘗て変を為さなかった。その人は長身で鼻が高く、猫の目の如き眼に鷹の嘴、拳れた髪に赤い鬚、商売を好み、強さを恃んで諸国を陵轢し、往かざる所無かった。後にはまた干係臘国と称した。産するものは多く犀・象・珠・貝である。衣服は華やかで清潔、貴い者は冠を戴き、賤しい者は笠を被り、尊長に会えば直ちにこれを脱ぐ。初めは仏教を奉じ、後には天主教を奉じた。市易はただ指を伸ばして数を示すだけで、累千金に至っても契約を立てず、事有れば天を指して誓い、互いに負けることはなかった。マラッカ・ブラジル・呂宋の三国を滅ぼしてからは、海外の諸蕃で敢えてこれに抗する者は無かった。

オランダ

オランダは、また紅毛番とも名付け、地はフランキに近い。永楽・宣徳の時、鄭和が七たび西洋に下り、数十の諸番国を歴たが、オランダというものは無かった。その人は目が深く鼻が長く、髪・眉・鬚は皆赤く、足の長さは一尺二寸、頎偉にして常人より倍する。

万暦の中頃、福建の商人は歳ごとに引(許可証)を与えられて大泥・呂宋及びジャワに販売に行ったが、オランダ人は諸国を就いて転販し、未だ敢えて中国を窺わなかった。フランキが香山で市し、呂宋を占拠するに及んで、オランダはこれを聞いて羨んだ。二十九年、大艦を駕し、巨礮を携え、直ちに呂宋に迫った。呂宋人が力を以てこれを拒むと、転じて香山澳に迫った。澳中の人は数え詰問したところ、通貢市を欲し、敢えて寇と為さないと言った。当事者はこれを難しく思った。税使李道は即ちその酋長を召し入城し、遊処すること一月、敢えて朝に聞かせず、乃ち遣り返した。澳中の人はその上陸を慮り、謹んで防禦し、始めて引き去らせた。

海澄の人李錦及び奸商の潘秀・郭震は、久しく大泥に居り、和蘭人と親しむ。中国の事に言及して、錦曰く、「若し貢市を通ぜんと欲せば、漳州に如くは無し。漳南に彭湖嶼有り、海より遠し、誠にこれを奪ひて守らば、貢市成り難からず」と。其の酋麻韋郎曰く、「守臣許さずんば奈何」と。曰く、「税使高采は金銀を嗜むこと甚だし、若し厚くこれに賄れば、彼は特に疏を上て聞かしめ、天子必ず可と報ぜん、守臣敢へて旨に抗せんや」と。酋曰く、「善し」と。錦乃ち大泥国王の書を代作し、一は采に移し、一は兵備副使に移し、一は守将に移し、秀・震をして齎らして来らしむ。守将陶拱聖大いに駭き、急ぎ当事に白す。秀を獄に繫ぎ、震遂に入ることを敢へず。初め、秀は酋と約し、閩に入り成議有らば、舟を遣はして相聞かんとす。而して酋は卞急にして待つ能はず、即ち二大艦を駕して、直ちに彭湖に抵る。時に三十二年の七月。汛兵既に撤き、無人の墟に入るが如く、遂に木を伐り舎を築きて久居の計と為す。錦も亦潜かに漳州に侵入し偵探す。詭りて被獲逃還せりと言ふ。当事既に其の状を廉知し、並びに獄に繫ぐ。已にして二人を遣はして其の酋を諭し国に還らしめ、自贖を許し、且つ震を拘へて俱にせんと議す。三人既に酋と約を成し、自ら其の失を彰はすを欲せず、第に「我が国尚ほ依違未だ定まらず」と云ふ。而して当事の遣はせる将校詹献忠、檄を齎して往き諭する者は、乃ち多く幣帛・食物を携へ、其の厚酬を覬ふ。海濱の人又潜かに貨物を載せて往き市す。酋益々観望して去るを肯はず。当事屡に使を遣はしてこれを諭すも、酋を見て語すなはち競はず、愈々其の為に慢らる。而して采既に心腹周之范を遣はして酋に詣らしめ、三万金を以て采に饋れば、即ち貢市を許さんと説く。酋喜びて之と盟す。盟既に就けり、会す総兵施德政、都司沈有容に将兵して往き諭せしむ。有容は胆智を負ひ、大声に論説す。酋心折し、乃ち曰く、「我従ひて此の言を聞かず」と。其の下の人刃を露はして相詰る。有容畏れる所無く、盛気を以て辨す。酋乃ち悔悟し、之范に還して贈れる金を還し、止むるに哆囉嗹・玻璃器及び番刀・番酒を以て采に饋り、代はりて奏して市を通ぜんことを乞ふ。采敢へて応ぜず。而して撫・按は厳に奸民の下海を禁じ、犯す者は必ず誅す。是に由りて接済の路窮し、番人食ふを得る無く、十月末に揚帆して去る。巡撫徐学聚、秀・錦等の罪を劾し、死を論じ、戍に遣るに差有り。

然れども是の時佛郎機海上に横はり、紅毛之と雄を争ひ、復た舟を泛べて東来し、美洛居国を攻破し、佛郎機と地を分かちて守る。後又台湾の地を侵奪し、室を築き田を耕し、久しく留まり去らず、海上の奸民、闌り出でて貨物を以て市す。已にして又出でて彭湖を拠り、城を築き守を設け、漸く市を求むる計と為す。守臣禍を懼れ、城を毀ち遠く徙るれば、即ち互市を許さんと説く。番人之に従ふ。天啓三年果して其の城を毀ち、舟を移して去る。巡撫商周祚、諭に遵ひて遠く徙るを上聞す。然れども其の台湾に拠るは自若たり。已にして互市成らず、番人怨み、復た彭湖に城を築き、漁舟六百余艘を掠め、華人をして土石を運ばしめ助けて築かしむ。尋いて廈門を犯す。官軍之を御ひ、数十人を俘斬す。乃ち詭詞を以て款を求む。再び城を毀ち遠く徙るを許すも、而して修築は故の如し。已にして又風櫃仔に泊し、浯嶼・白坑・東椗・莆頭・古雷・洪嶼・沙洲・甲洲の間に出没し、互市を要求す。而して海寇李旦復た之を助く。濱海の郡邑戒厳と為る。

其の年、巡撫南居益初めて至り、之を討たんと謀る。上言して曰く、「臣入境以来、番船五艘続きて至り、風櫃仔の船と合ひ、凡そ十有一艘、其の勢愈々熾なり。小校陳士瑛なる者有り、先づ咬𠺕吧に遣はして其の王を宣諭せしむ。三角嶼に至りて紅毛船に遇ひ、咬𠺕吧王已に阿南国に往けりと云ふ。因りて士瑛と偕に大泥に至り、其の王に謁す。王言く、咬𠺕吧国主已に大いに戦艦を集め、議て彭湖に往き互市を求めんとす、若し許さずんば、必ず兵を構ふに至らんと。蓋し阿南は即ち紅毛番国にして、而して咬𠺕吧・大泥之と謀を合はす、必ず理を以て諭すべからず。今日の計と為すは、兵を用ふるに非ざれば不可なり」と。因りて調兵足餉の方略を列上す。部議之に従ふ。四年正月、将を遣はして先づ鎮海港を奪ひて之に城し、且つ築き且つ戦ふ。番人乃ち退きて風櫃城を守る。居益兵を増して往き助け、数ヶ月攻撃す。寇猶退かず。乃ち大いに兵を発し、諸軍斉しく進む。寇勢窘し、両たび使を遣はして兵を緩め、米を舟に運び入るるを容るれば即ち退去せんことを求む。諸将窮寇追ふ莫しとし、之を許す。遂に揚帆して去る。独り渠帥高文律等十二人高樓に拠りて自ら守る。諸将破きて之を擒にし、朝に俘を献ず。彭湖の警以て息む。而して其の台湾に拠る者は猶自若たり。

崇禎中、鄭芝龍の為に破られ、内を窺ふことを敢へず者数年、乃ち香山の佛郎機と通好し、私かに外洋に貿す。十年、四舶を駕し、虎跳門より広州に薄き、声言して市を求む。其の酋市上に招搖し、奸民之を視ること金穴の若し。蓋し大姓之が為に主たる者有り。当道壕鏡の事を鑑み、駆斥を議す。或は中より之を撓す。会す総督張鏡心初めて至り、力持して不可とす。乃ち遁去す。已にして奸民李葉榮の為に誘はれ、総兵陳謙と交通して居停出入と為す。事露る。葉栄吏に下る。謙自ら調用を請ひて以て禍を避く。兵科凌義渠等の為に劾せられ、坐して逮訊せらる。是より、奸民事終に成らざるを知り、復た敢へて勾引せず。而して番人猶台湾に拠るは自若たり。

其の本国西洋に在る者は、中華を去ること絶遠く、華人未だ嘗て至らず。其の恃む所は唯だ巨舟大礮のみ。舟長さ三十丈、広さ六丈、厚さ二尺余、五桅を樹て、後は三層楼と為す。旁らに小囪を設けて銅礮を置く。桅下に二丈の巨鉄礮を置く。之を発すれば石城を洞裂し、数十里を震はす。世の称する紅夷礮は即ち其の制なり。然れども舟大にして転じ難く、或は浅沙に遇へば即ち動く能はず。而して其の人又戦ふに善からず、故に往往挫衄す。其の役使する者名けて烏鬼と曰ふ。水に入りて沈まず、海面を走ること平地の若し。其の柁後に照海鏡を置く。大径数尺、数百里を照す能ふ。其の人悉く天主教を奉ず。産する所有り、金・銀・琥珀・瑪瑙・玻璃・天鵝絨・瑣服・哆囉嗹。国土既に富み、中国の貨物意に当る者に遇へば、厚資を惜しまず。故に華人楽しく之と市を為す。