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明史
列傳第二百十二 外國五 占城 真臘 暹羅 瓜哇 三佛齊
占城
占城は南海の中にあり、瓊州から航海して順風ならば一晝夜で至ることができ、福州から西南へ十晝夜行けば至る。即ち周代の越裳の地である。秦代は林邑、漢代は象林県であった。後漢末、區連がその地を占拠し、初めて林邑王と称した。晋から隋にかけてこれを継承した。唐代には、或いは占不勞と称し、或いは占婆と称し、その王の居所を占城といった。至徳の後、国号を環と改めた。周・宋代に至り、遂に占城を国号とし、朝貢は絶えなかった。元の世祖はその命を阻むことを憎み、大軍を挙げてこれを撃破したが、平定することもできなかった。
洪武二年、太祖は官を遣わし即位の詔をもってその国を諭した。その王阿荅阿者は先にすでに使節を遣わし表を奉じて来朝し、象・虎・地方の産物を貢いだ。帝は喜び、直ちに官を遣わし璽書・『大統暦』・文綺・紗羅を携え、その使者と共に往きて賜い、その王はまた使節を遣わして来貢した。その後は或いは毎年貢ぎ、或いは隔年、或いは一年に二度貢いだ。間もなく、中書省管勾甘桓・会同館副使路景賢に詔を携えさせ、阿荅阿者を占城国王に封じ、彩幣四十・『大統暦』三千を賜った。三年、使節を遣わしてその山川を祀り、まもなく科挙の詔をその国に頒布した。
初め、安南と占城は兵を交え、天子は使節を遣わして諭し和解させたが、安南はまた侵攻した。四年、その王は金葉の表を奉じて来朝した。長さ一尺余、幅五寸で、自国の文字を刻んでいた。館人がこれを訳すと、その意は「大明皇帝が大位に登り、四海を撫有され、天地の覆載、日月の照臨の如し。阿荅阿者は一草木に譬えるのみ。欽んで使節を遣わされ、金印をもって国王に封ぜられ、感戴し忻悦すること、常の万倍なり。ただ安南が兵を用い、疆域を侵擾し、吏民を殺掠す。伏して願わくは皇帝、慈しみを垂れ、兵器及び楽器・楽人を賜い、安南に我が占城こそ声教の及ぶ、貢ぎを輸ずる地なることを知らしめ、庶幾くば敢えて欺陵せざらんことを」というものであった。帝は礼部に命じてこれを諭させた。「占城・安南は共に朝廷に仕え、同じく正朔を奉ずるに、乃ちみだりに兵を交え、生霊を毒害すは、既に君に事える礼を失い、また隣と交わる道に背く。すでに安南国王に諮り、即日兵を罷めしむ。本国もまた信を講じ睦を修め、各々疆土を保つべし。請うところの兵器は、王に吝しむこと何ぞあらん。但し両国互いに兵を交えるに、占城に賜うは、是れ爾らが相攻つを助くるに等しく、甚だ撫安の義に非ず。楽器・楽人は、語音殊に異なり、遣わし発するに難し。爾が国に華言に通ずる者あらば、これを選びて来らしめ、当に習わしむべし」と。よって福建省の臣に命じてその税を徴収せず、懐柔の意を示した。
六年、貢使が言うには「海賊張汝厚・林福らが元帥を自称し、海上で掠奪す。国主これを撃破し、賊の首魁は溺死し、その舟二十艘・蘇木七万斤を獲たり。謹んで奉献す」と。帝はこれを嘉し、命じて賜与を一等加えた。冬、使節を遣わし安南への勝利を献じた。帝は省臣に言った。「去冬、安南は占城が国境を犯すと言い、今年、占城は安南が辺境を擾すと言う。曲直未だ審らかならず。人を遣わして往き諭し、各々兵を罷め民を休め、互いに侵擾せざらしむべし」と。十年、安南王陳煓と大戦し、煓は敗死した。十二年、貢使が都に至ったが、中書が時に応じて奏上しなかった。帝は丞相胡惟庸・汪広洋を厳しく責め、二人は遂に罪を得た。官を遣わして王に『大統暦』及び衣幣を賜い、安南と修好し兵を罷めしむることを命じた。
十三年、使節を遣わして万寿節を賀した。帝はその安南との水戦で不利であったことを聞き、勅を賜って諭した。「昔、安南兵が出で、占城に敗れたり。占城は勝に乗じて安南に入り、安南の辱め已に甚だし。王よく境を保ち民を休めば、則ち福長く享くべし。如し必ずや兵を駆り苦戦せば、勝負知るべからず。而して鷸蚌相い持するに、漁人利を得ん。他日これを悔ゆるも、亦た晩からずや」と。十六年、象牙二百本及び地方の産物を貢いだ。官を遣わして勘合・文冊及び織金文綺三十二・磁器一万九千を賜った。十九年、子の宝部領詩那日忽を遣わして来朝させ、万寿節を賀し、象五十四頭を献じ、皇太子にも献上があった。帝はその誠を嘉し、賜与を厚くし、中官に命じて送還させた。明年、また象五十一頭及び伽南・犀角等の物を貢ぎ、帝は宴と賜与を加えた。還るに広東に至り、また中官に命じて宴を設け餞別し、道中の費用を与えた。
真臘が象を貢ぐと、占城王はその四分の一を奪い、その他の失徳の事甚だ多し。帝これを聞き、怒った。二十一年夏、行人董紹に命じて勅を携えこれを責めさせた。紹が未だ至らぬうちに、その貢使が京に着いた。まもなくまた使節を遣わして罪を謝したので、乃ち命じて制の如く宴し賜与した。
時に阿荅阿者は道を失い、大臣閣勝は不軌の謀を懐き、二十三年に王を弑して自立した。明年、太師を遣わし表を奉じて来貢したが、帝はその悖逆を憎み、これを退けた。三十年後、また連続して入貢した。
成祖が即位し、詔を下してその国を諭した。永楽元年、その王占巴的頼が金葉の表を奉じて朝貢し、且つ安南の侵掠を告げ、勅を降して戒め諭すことを請うた。帝はこれを許し、行人蔣賓興・王樞をその国に使いさせ、絨・錦・織金文綺・紗羅を賜った。明年、安南王胡牴の上奏により、詔して兵を収め、官を遣わして占城王を諭した。而して王は使節を遣わし奏上した。「安南は詔旨に遵わず、舟師を以て来たり侵し、朝貢の人が帰るに、賜わられた物悉く奪掠に遭えり。又た臣に冠服・印章を与え、臣属たらしめんとす。且つ已に臣が沙離牙等の地を占拠し、更に侵掠已まず。臣恐らくは自ら存立すること能わざらん。版図に隷し、官を遣わして往き治めんことを乞う」と。帝は怒り、胡牴を勅して責め、而して占城王に鈔幣を賜った。
四年、白象・地方の産物を貢ぎ、また安南の難を告げた。帝は大いに兵を発して往き討たせ、占城に勅して境上に兵を厳しくし、その越境逃亡を遏え、捕獲した者は即ち京師に送るよう命じた。五年、安南の侵した地を攻め取り、賊党胡烈・潘麻休等を獲て闕下に献俘し、地方の産物を貢いで恩を謝した。帝はその逆を討つに兵を助けたことを嘉し、中官王貴通を遣わし勅及び銀幣を携えてこれを賜った。
六年、鄭和がその国に使いした。王はその孫の舍楊該を遣わし象及び地方の産物を貢いで恩を謝した。十年、その貢使が冠帯を乞うたので、これを与えた。また鄭和に命じてその国に使いさせた。
十三年、王師まさに陳季擴を征討せんとするに当たり、占城に兵を助けることを命じた。尚書陳洽が言うには「その王は陰に二心を懐き、期に違いて進まず、反って金帛・戦象をもって季擴に資し、季擴は黎蒼の女をこれに遺す。また季擴の舅陳翁挺と約し昇華府の管轄する四州十一県の地を侵す。その罪均しく維り、宜しく兵を遣わして致討すべし」と。帝は交址が初めて平定されたばかりで、師を労するを欲せず、ただ勅を賜って厳しく責め、侵した地を還すよう命じた。王は即ち使節を遣わして罪を謝した。十六年、その孫の舍那挫を遣わして来朝させた。中官林貴・行人倪俊に命じて送還させ、賜るものあり。
宣徳元年、行人黄原昌が往きて正朔を頒布し、その王の恭しからざるを糾弾し、酬いとして贈られた金幣を退けて帰り、戸部員外郎に抜擢された。
正統元年、瓊州知府程瑩が言うには、「占城は毎年一貢しており、労費は実に多い。暹羅諸国の例の如く、三年一貢とされたし」と。帝はこれを是とし、その使者に程瑩の言う通りにせよと勅し、王及び妃に彩幣を賜う。然るに番人は中国の市易の利を好み、この令があっても、終に従わず。
六年、王占巴的頼卒し、その孫摩訶賁該が遺命により王孫述提昆を遣わして朝貢し、且つ嗣位を乞う。乃ち給事中管曈・行人呉惠を遣わし詔を齎して、封じて王と為し、新王及び妃に並びに賜う。七年春、述提昆途に卒す。帝これを憫み、官を遣わして祭を賜う。八年、従子且揚楽を遣わして、貢の舞牌旗黒象を催す。
十一年、摩訶賁該に勅諭して曰く、「近頃、安南王黎浚が使を遣わし奏するに、王がその孤幼を欺き、かつて既に升・華・思・義の四州を侵し、今また屡々化州を攻め、その人畜財物を掠めると。二国は倶に朝命を受け、各々分疆有り。豈に兵を興し怨を構え、睦隣保境の義に乖くべけんや。王は宜しく礼分を祗循し、辺臣を厳飭して、恣肆に侵軼せしめ、生霊に禍を胎すことなかるべし」と。並びに安南に諭し、厳しく備御を行い、私を挟んで報復せしむることなからしむ。先に、三年一貢の例を定むるも、その国は遵わず。及びその使者を詰むれば、則ち云う、「先王既に逝き、前勅存せず、故にこの令を知らず」と。是歳、貢使復た至る。再び王に勅して制に遵うべく、王及び妃に彩幣を賜う。冬、復た使を遣わして来貢す。
十二年、王安南と戦い、大敗して執わる。故王占巴的頼の甥摩訶貴来、使を遣わし奏す、「先王疾を抱き、曾て臣を以て世子と為し、嗣位せしめんと欲す。臣時に年幼く、舅氏摩訶賁該に位を遜う。後に屡々兵を興して安南を伐ち、敵兵をして旧州古壘等の処に入らしめ、人畜を殺掠すること殆んど尽き、王も亦た擒らわる。国人臣を以て先王の甥たるを以て、且つ遺命有り、臣に代位を請う。これを辞すること再三、已むを得ず始めて府前に於いて事を治む。臣敢えて自ら専らにせず、伏して朝命を候う」と。乃ち給事中陳誼・行人薛干を遣わし封じて王と為し、国を保ち隣と交わることを諭し、並びに国中の臣民に諭し共に輔翼せしむ。十三年、安南に勅し摩訶賁該を還国せしむるも、命に奉ぜず。
景泰三年、使を遣わして来貢し、且つ王の訃を告ぐ。命じて給事中潘本愚・行人辺永をしてその弟摩訶貴由を封じて王と為さしむ。
天順元年入貢し、その正副使に钑花金帯を賜う。二年、王摩訶槃羅悦新たに立ち、使を遣わし表を奉じて朝貢す。四年復た貢し、正使以下に紗帽及び金銀角帯を差等有りて賜う。使者安南の侵すを見ると訴う。因りて安南王に勅諭す。九月、使来たり、王の喪を告ぐ。命じて給事中黄汝霖・行人劉恕をして王弟槃羅茶全を封じて王と為さしむ。
八年入貢す。憲宗嗣位し、蕃国に頒賜すべき錦幣有り、礼官請う、使臣に付して齎回せしむ。これに従う。使者復た安南の侵すを見ると訴え、白象を求索す。永楽の時の如く、官を遣わし安撫し、界牌石を建立し、以て侵陵を杜がんことを乞う。兵部、両国方に争うを以て、使を遣わすに便ならずとし、使臣に帰り国王を諭し、務めて礼法に循い、封疆を固くし、外侮を捍ぎ、軽々しく禍を構うることなからしむるを乞う。これに従う。
成化五年入貢す。時に安南、占城に犀象・宝貨を索め、以て天朝に事うるの礼を以てこれに事うべしと令す。占城従わず、大挙して往きて伐つ。七年その国を破り、王槃羅茶全及び家属五十余人を執い、印符を劫し、大肆に焚掠し、遂にその地を据う。王弟槃羅茶悦山中に逃れ、使を遣わし難を告ぐ。兵部言う、「安南与国を吞併す。若し処分せざれば、唯だ占城の帰附の心を失うのみならず、抑も安南の跋扈の志を啓くを恐る。宜しく官を遣わし勅を齎して宣諭し、その国王及び眷属を還すべし」と。帝、安南の命に逆らわんことを慮り、貢使の至る日を俟ち、勅を賜いてこれを責めしむ。
八年、槃羅茶悦の封を請うに以て、命じて給事中陳峻・行人李珊に節を持たせて往かしむ。峻等新州港に至るも、守者これを拒み、その国已に安南に据えられ、交南州と改められたるを知り、乃ち敢えて入らず。十年冬還朝す。
安南既に占城を破り、復た兵を遣わし槃羅茶悦を執い、前王孫齋亜麻弗菴を立てて王と為し、国南辺の地を以てこれに予う。十四年、使を遣わし朝貢して封を請う。命じて給事中馮義・行人張瑾をして往きてこれを封ぜしむ。義等多く私物を携え、既に広東に至り、齋亜麻弗菴已に死せしを聞く。その弟古来、使を遣わし封を乞う。義等空しく還りて利を失わんことを慮り、亟に占城に至る。占城人言う、王孫封を請うたる後、即ち古来に殺され、安南偽勅を以てその国人提婆苔を立てて王と為せりと。義等奏報を俟たず、輒ち印幣を提婆苔に授けてこれを封じ、得る所の賂の黄金百余両、又満剌加国に往きてその私物を尽く貨して以て帰る。義海洋に至り病没す。瑾その事を具し、並びに偽勅を朝に上す。
十七年、古来使を遣わし朝貢し、言う、「安南臣が国を破りし時、故王弟槃羅茶悦逃れて仏霊山に居る。比して天使封誥を齎して至るも、已に賊人に執え去られ、臣と兄齋亜麻弗菴潜かに山谷に竄る。後、賊人天威を畏懼し、人を遣わし臣が兄を訪覓し、故地に還す。然れども邦都郎より占臘に至るまで五処に止まり、臣が兄国を権ること未だ幾ばくもあらざるに、遽かに爾く隕歿す。臣当に嗣立すべしと雖も、敢えて自ら専らにせず、天恩を仰望し、これに冊印を賜わんことを。臣が国所有の土地本二十七処、四府・一州・二十二県。東は海に至り、南は占臘に至り、西は黎人山に至り、北は阿本喇補に至り、凡そ三千五百余里。乞うらくは特交人に諭し、尽く本国に還さんことを」と。章を下して廷議す。英国公張懋等、特近臣威望有る者二人を遣わして往使せんことを請う。時に安南貢使方に帰らんとす。即ち勅を賜い黎灝を詰責し、速やかに地を還し、朝命に抗うことなからしむ。礼官乃ち瑾の擅封を劾し、執いて詔獄に下し、其の情を具に得て、死を論ず。時に古来の遣わしし使臣館に在り、召してこれを問う。云う、「古来実に王弟なり。その王病没す。弑に非ず。提婆苔何人なるかを知らず」と。乃ち使臣に暫く広東に帰り、提婆苔の使の至るを俟ち、誠偽を審らかにしてこれを処せしむ。使臣命を候うこと経年、提婆苔の使者至らず。乃ち還国せしむ。
二十年、古来に勅し提婆苔を撫諭し、原降の国王印を納めしめ、その偽封を受けたる罪を宥し、仍頭目と為さしむ。提婆苔命を受けず。乃ち給事中李孟暘・行人葉応を遣わし、古来を冊封して国王と為す。孟暘等言う、「占城険遠にして、安南兵を構えて未だ已まず、提婆苔又その地を窃据す。稍やかでも慎まざれば、反って国威を損なわん。宜しく来使に令して古来に伝諭し、広東に詣りて封を受けしめ、並びに安南に勅して禍を悔いしむべし」と。これに従う。古来乃ち自ら老撾より家を挈ちて崖州に赴く。孟暘封事を竣えて返る。古来又躬ら闕廷に詣り、安南の罪を奏せんと欲す。二十三年、総督宋旻以て聞す。廷議大臣一人を遣わして労し、安南に檄して存亡継絶し、古来を迎えて占城に返さしむ。帝報可し、命じて南京右都御史屠滽をして往かしむ。広東に至り、即ち安南に伝檄し、禍福を宣示す。健卒二千人を募り、海舟二十艘を駕し、古来を護って還国せしむ。安南、滽大臣の特遣を奉ずるを以て、敢えて抗せず。古来乃ち得て入る。
翌年、弘治と改元し、使者を遣わして入貢した。二年、弟の卜古良を広東に派遣し、「安南がなおも侵陵をほしいままにしており、永楽の時のように将を遣わし兵を督して守護してほしい」と述べた。総督の秦紘らがこれを上聞した。兵部が言うには、「安南・占城はいずれも『祖訓』に載る不征の国である。永楽年間に将を命じて出師させたのは、黎賊の弑逆の罪を正したのであって、隣境が交悪した故ではない。今、黎灝は貢を修めて謹んでおり、古来の膚受の訴えは、あるいは過情のこともある。その単詞を信じて、不征の国に師を労すべきではない。守臣に命じて回咨させ、『近ごろ交人が王子古蘇麻を殺害したが、王はただちに衆を率いてこれを破り、仇恥はすでに雪がれた。王は自ら強く修政し、国中の人を撫飖し、疆圉を保ち固め、なお安南と惇睦して修好すべきである。その他の嫌隙細故は、すべて捐除すべきである。もし自ら強くすることができず、ひたすら朝廷に頼って兵を発し海を渡らせ、王に代わって国を守らせようとするなら、古にこの理なし』と言わせるのがよい」と。帝はその言の通りにした。三年、使者を遣わして恩を謝した。その国は残破の後、民物蕭条となり、貢使は次第に稀になった。
十二年、使者を遣わして奏上した。「本国の新州港の地は、なお安南に侵奪され、患いは未だ息まず。臣はすでに年老いた。臣の未だ死なざるうちに、長子の沙古卜洛に命じて封を襲わせ、他日には国土を保つことができるようにしてほしい」。廷議した。「安南が占城の患いとなるのは、すでに一日のことではない。朝廷はかつて占城の訴えにより、累次璽書を降し、曲りなき誨諭を垂れた。安南の前後の奏報は、いずれもただ朝命を承り、土地人民はすでにことごとく返還したと言う。しかし安南の弁釈の言葉がようやく至るや、占城の控訴の詞また聞こえる。恐らくは真に已むを得ざる情があるのだろう。なお守臣に命じて安南を切に諭し、人の土地を貪らず、自ら禍殃を貽すことなきようにさせ、さもなければ偏師を遣わしてその罪を問うことを議すべきである。至って占城王の長子は、父の存命中に封を襲う理なし。まず世子に立てて国事を摂行させ、他日に襲位すべき時、例のごとく封を請わせるのがよい」。帝は允した。まもなく王孫の沙不登古魯を遣わして来貢した。
十八年、古来卒す。子の沙古卜洛が使者を遣わして来貢したが、父の喪を告げず、ただ大臣をその国に遣わし、なお新州港などの地を封じてほしいと乞うた。別に方輿を占奪されたという奏上があり、わずかに父の卒した事に及んだ。給事中の任良弼らが言うには、「占城は以前、国土の削弱により、貢を仮りて封を乞い、天威を仰ぎ仗り、隣国を詟伏させた。その実、国王の立つ立たぬは、朝廷の封ずる封ぜざるに繫らない。今、古来はすでに歿したと称するが、虚実知り難い。万一我が使が彼の地に至り、古来がなお存命であれば、その子を封じるのか? それとも義に不可としてやめるのか? 迫脅の間、事は極めて処し難い。かつて科臣の林霄が満剌加に使いし時、北面して屈膝するを肯ぜず、幽餓して死し、ついにその罪を問うことができなかった。君命と国威は、慎まざるべからず。おおよそ海外の諸蕃は、事なき時は朝貢を廃して自立し、事ある時は朝貢を仮りて封を請う。今の貢使の来たるは、封を求めるに急なるのではなく、ただ安南の侵地を回復し、粤東の逃人を還さんとするに過ぎない。そもそも安南の侵地は、璽書を屡々諭して帰還させたが、占拠は旧の如し。今もし再び諭せば、彼はこれを玩視し、天威は褻される。もし我が使を占城に往封させ、羈留して遣わさず、処分を求めるならば、朝廷は何をもって応えようか? またあるいは我が使者を拘え、逃人を索めさせれば、これは天朝の貴臣を以て、海外の蛮邦に質とするようなものだ。往年の古来が広東に就封した故事のように、その使臣に勅を領して帰国させるのが、計として便である」。礼部もまた古来の存亡未明を以て、広東の守臣に命じて占城に移文し勘報させよと請い、これに従った。既にして封事は久しく行われず。
正徳五年、沙古卜洛が叔父の沙系把麻を遣わして入貢し、よって封を請うた。給事中の李貫・行人の劉廷瑞を遣わすことを命じた。李貫は広東に着くと行くのを憚り、往年の古来の故事のように、その使臣に封を領させよと請うた。廷議した。「官を遣わしてすでに二年、今もし中止すれば、滅を興し絶を継ぐ義に非ず。もしその使が領封を願わず、あるいは領して帰りながらその人に非ざる者に受けさせ、重ねて事端を起こせば、ますます国体を傷つける。李貫らに急ぎ往かせるべきである」。李貫は終に行くのを憚り、通事・火長の乏しきを口実とした。廷議は広東の守臣にその人を採訪させ、もし終に得られなければ、旧例の通り行わせよとした。李貫はまた言葉を設けて言うには、「臣は命を受けて五年、風波の険を憚るが如く見えるが、全く知らないのは、占城が古来が逐われた後、赤崁邦都郎に竄居し、国は旧疆にあらず、勢い往くべからざることである。況んや古来は前王の齋亜麻弗菴の頭目であり、王を殺してその位を奪った。王には三子あり、その一はなお存する。義としてまた不可である。『春秋』の法を以て律すれば、たとえ問罪の師を興さずとも、必ず朝貢の使を絶つべきである。どうしてまた採訪の議を為し、徒らに歳月を延ばし、事に益なからしめようとするのか」。広東巡按の丁楷もまた附会して具奏し、廷議はこれに従った。十年、その使臣に勅を齎して往かせ、ここより遂に故事となり、その国の貢使もまた常には至らなくなった。
嘉靖二十二年、王叔の沙不登古魯を遣わして来貢し、数たび安南に侵擾され、道が阻まれて帰り難いと訴えた。官を遣わして護送し還国させてほしいと乞い、報じて可とした。
その国には霜雪なく、四時みな夏の如く、草木は常に青い。民は漁を業とし、二麦なく、力穡する者は少ないので、収穫は薄い。国人はみな檳榔を食し、終日口を離さない。朔望を知らず、ただ月の生ずるを初とし、月の晦るるを尽とし、閏を置かない。昼夜を十更に分け、日中でなければ起きず、夜分でなければ臥さず、月を見れば酒を飲み、歌舞して楽しむ。紙筆なく、羊皮を槌き薄くして燻黒し、細竹を削り白灰を蘸して字とし、状は蚯蚓の如し。城郭甲兵あり、人性は狠にして狡く、貿易は多く平らかでない。戸はみな北に向かい、民居はことごとく茅の簷を覆い、高さ三尺を過ぎることを得ず。部領は差等を分ち、門の高卑もまた限りがある。飲食は穢污で、魚は腐爛せざれば食さず、醸は蛆を生ぜざれば美とせず。人体は黒く、男は蓬頭、女は椎結、ともに跣足である。
王は瑣裡の人で、釈教を崇む。歳時に生人の胆を採りて酒の中に入れ、家人とともに飲み、かつ身を浴するに用い、「通身是胆」と言う。その国人はこれを採りて王に献じ、また象の目を洗うのに用いる。毎に人を道に伺い、不意に出でて急にこれを殺し、胆を取って去る。もしその人が驚覚すれば、胆はすでに先に裂け、用いるに足らざる。衆胆を器に置けば、華人の胆は輒ち上に居るので、特にこれを貴ぶ。五六月の間、商人が出れば必ず戒備する。王は位に在ること三十年なれば、位を避けて深山に入り、兄弟子侄に代わらせ、己は斎を受け戒め、天に告げて言う、「我れ君として道無し、願わくは狼虎我を食らえ、あるいは病いて死なん」と。一年居て恙無ければ、則ち初めの如く復位する。国中これを「昔嚟馬哈剌」と呼び、乃ち至尊至聖の称である。
国は甚だ富まず、ただ犀象が最も多い。烏木・降香は樵って薪とす。棋柟香はただその地の一山に産し、酋長は人を遣わしてこれを守らせ、民は採ることを得ず、犯す者は手を断つに至る。
鱷魚の潭あり、獄の疑いて決せざる者は、両造に牛に騎りてその傍らを過ぎさせ、曲なる者は、魚は輒ち躍りてこれを食い、直なる者は、即ち数たび往返しても食わない。屍頭蛮というものあり、一名を屍致魚といい、本は婦人で、ただ瞳神無きを異とする。夜中に人と同寝し、忽ち頭を飛ばして人の穢物を食い、来れば即ち復活する。もし人が知ってその頸を封じ、あるいはこれを他所に移せば、その婦は即ち死す。国に厲禁を設け、これありて告げざる者は、一家に及んで罪する。
賓童龍
賓童龍国は、占城と接壤す。或いは言う、如来が舎衛国に入りて乞食せしは、即ち其の地なりと。気候・草木・人物・風土は、大いに占城に類す。惟だ喪に遭いて能く服を持ち、葬は僻地を以てし、斎を設け仏を礼し、婚姻は偶合す。酋長は出入に象或いは馬に乗り、従者百余り、前後に唱和す。民は茅を編みて屋を覆う。貨用は金・銀・花布。
崑崙山有り、節然として大海中に在り、占城及び東・西竺と鼎峙して相望む。其の山は方広にして高く、其の海は即ち崑崙洋と曰う。諸に西洋に往く者は、必ず順風を待ち、七昼夜にして始めて過ぐるを得。故に舟人の之が為に諺して曰く、「上は七州を怕れ、下は崑崙を怕る。針迷い舵失えば、人船存ること莫し」と。此の山は異産無し。
人皆穴居巣処し、果実魚蝦を食し、室廬井竈無し。
真臘
真臘は、占城の南に在り、順風三昼夜にして至る可し。隋・唐及び宋は皆朝貢す。宋の慶元中、占城を滅ぼして其の地を併せ、因って国名を改めて占臘と曰う。元の時は仍って真臘と称す。
洪武三年、使臣郭徴等を遣わし、詔を齎して其の国を撫諭す。
四年、其の国の巴山王忽爾那、使を遣わし表を進め、方物を貢し、明年の正旦を賀す。詔して《大統暦》及び彩幣を賜い、使者も亦た差有りて給賜す。
六年、貢を進む。
十二年、王参答甘武者持達志、使を遣わし来貢し、宴賜は前に如し。
十三年、復た貢す。十六年、使を遣わし勘合文冊を齎して其の王に賜う。凡そ国中の使至るも、勘合符わざる者は、即ち矯偽に属し、縶縛して以て聞くを許す。復た使を遣わし織金文綺三十二・磁器万九千を賜う。其の王、使を遣わし来貢す。
十九年、行人劉敏・唐敬を遣わし、中官に偕い磁器を齎して往き賜う。
明年、敬等還る。王、使を遣わし象五十九・香六万斤を貢す。尋いで使を遣わし其の王に鍍金銀印を賜い、王及び妃に皆賜有り。其の王参烈実{田比}邪甘菩者、使を遣わし象及び方物を貢す。明年、復た像二十八・象奴三十四人・番奴四十五人を貢し、印を賜える恩に謝す。二十二年、三たび貢す。明年、復た貢す。
永楽元年、行人蔣賓興・王樞を遣わし、即位の詔を以て其の国を諭す。明年、王参烈婆{田比}牙、使を遣わし来朝し、方物を貢す。初め、中官真臘に使し、部卒三人潜遁有り、之を索うも得ず。王、其の国の三人を以て之に代う。是に至り引見す。帝曰く、「華人自ら逃ぐるは、彼に何の預かりか有りて責めて償わしむ。且つ言語通ぜず、風土習わず、吾焉ぞ之を用いん」と。命じて衣服及び道里費を賜い、遣わし還す。三年、使を遣わし来貢し、故王の喪を告ぐ。命じて鴻臚序班王孜をして祭を致さしめ、給事中畢進・中官王琮に詔を齎して其の嗣子参烈昭平牙を封じて王と為す。進等還る。嗣王、使を遣わし偕に来りて恩に謝す。六年・十二年、再び入貢す。使者、其の国数たび占城の侵擾を被るを以て、久しく留まり去らず。帝、中官を遣わし之を送り還し、併せて占城王に勅して兵を罷め好を修めしむ。十五年・十七年、併せて入貢す。宣徳・景泰中、亦た使を遣わし入貢す。自後常には至らず。
其の国の城隍は周囲七十余里、幅員は数千里に広し。国中に金塔・金橋・殿宇三十余所有り。王は歳時一たび会し、玉猿・孔雀・白象・犀牛を前に羅列し、名づけて百塔洲と曰う。盛食は金盤・金椀を以てす。故に「富貴真臘」の諺有り。民俗は富饒なり。天時は常に熱く、霜雪を識らず、禾は一歳数たび稔る。男女は椎結し、短衫を穿ち、梢布を囲む。刑には劓・刖・刺配有り、盗は則ち手足を去る。番人は唐人を殺せば罪死す。唐人番人を殺せば則ち金を罰し、金無ければ則ち身を鬻ぎて罪を贖う。唐人とは、諸番の華人を呼ぶ称なり。凡そ海外諸国尽く然り。婚嫁は、両家倶に八日門を出でず、昼夜灯を燃やす。人死すれば野に置き、烏鳶に食わしむ。俄かに食い尽くさるる者は、福報と謂う。居喪は、但だ其の髪を髪し、女子は則ち額上に髪を剪りて銭の如く大にし、曰く此を用いて親に報いんと。文字は麂鹿雑皮を以て黒に染め、粉を以て小条と為し其上に画き、永く脱落せず。十月を以て歳首と為し、閏は悉く九月を用う。夜は四更に分つ。亦た天文を暁する者有り、能く日月の薄蝕を算す。其の地は儒を班詰と謂い、僧を苧姑と謂い、道を八思と謂う。班詰は何の書を読むかを知らず、此より仕に入る者は華貫と為す。先時は項に一白線を掛けて以て自ら別ち、既に貴くして白を曳くこと故の如し。俗は釈教を尚び、僧は皆魚・肉を食し、或いは以て仏に供す。惟だ酒を飲まず。其の国は自ら甘孛智と称し、後訛って甘破蔗と為り、万暦後又た改めて柬埔寨と為す。
暹羅
暹羅は、占城の西南にあり、順風なら十昼夜で至ることができ、すなわち隋・唐の赤土国である。後に羅斛と暹の二国に分かれた。暹の土地は瘠せて耕作に適さず、羅斛の地は平坦で広く、種を播けば多く収穫があり、暹はそれを仰いでいた。元の時代、暹はしばしば入貢した。その後、羅斛が強盛となり、暹の地を併せ有し、ついに暹羅斛国と称した。
洪武三年、使臣呂宗俊らを命じて詔を齎しその国を諭した。四年、その王参烈昭毘牙が使を遣わし表を奉り、宗俊らと共に来朝し、馴象・六足亀及び方物を貢いだ。詔してその王に錦綺を賜い、使者には幣帛を差等有りて賜う。既にして、また使を遣わして明年の正旦を賀し、詔して『大統暦』及び彩幣を賜う。五年、黒熊・白猿及び方物を貢いだ。明年また来貢した。その王の姉参烈思寧が別に使を遣わし金葉表を進め、方物を中宮に貢いだが、これを退けた。既にしてその姉がまた使を遣わして来貢したので、帝はなおこれを退けたが、その使を宴し賚った。時にその王は懦弱で武なく、国人がその伯父参烈宝毘邪⿰口思哩哆囉禄を推して国事を主らせ、使を遣わして来告し、方物を貢いだ。宴し賚うこと制の如くした。既にして新王が使を遣わして来貢し謝恩し、その使者もまた献上したが、帝は納れなかった。既にして、使を遣わして明年の正旦を賀し、方物を貢いで、かつ本国の地図を献じた。
七年、使臣沙裡拔が来貢した。去年舟が烏猪洋に停泊中、風に遭って舟を壊し、海南に飄流し、官司の救護に頼り、尚飄流の余りの兜羅綿・降香・蘇木諸物を進献するという。広東省臣がこれを聞いた。帝はその表文がないことを怪しみ、既に舟が覆ったと言いながら、方物がなお存するのは、これを番商と疑い、退けることを命じた。中書及び礼部の臣に諭して曰く、「古の諸侯の天子に対するは、比年一小聘、三年一大聘。九州の外は、則ち毎世一朝し、貢ぐ方物は、誠敬を表すのみである。惟だ高麗は頗る礼楽を知る故に、三年一貢を令す。他の遠国、占城・安南・西洋瑣裡・爪哇・浡泥・三仏斉・暹羅斛・真臘諸国の如きは、入貢既に頻繁で、労費甚だ大なり。今必ずしも復た爾くある必要はない。その牒を移して諸国にこれを知らしめよ。」しかしながら来る者は止まなかった。その世子蘇門邦王昭禄群膺もまた使を遣わして皇太子に箋を上り、方物を貢いだ。その使を引いて東宮に朝せしめ、宴し賚って遣わした。八年再び入貢した。その旧明台王の世子昭孛羅局もまた使を遣わし表を奉って朝貢し、宴し賚うこと王の使の如くした。
十年、昭禄群膺がその父の命を承けて来朝した。帝は喜び、礼部員外郎王恆らを命じて詔及び印を齎してこれを賜い、文は「暹羅国王之印」と曰い、並びに世子に衣幣及び道里費を賜う。ここより、その国は朝命に遵い、始めて暹羅と称す。比年一貢、或いは一年両貢。正統以後に至っては、或いは数年一貢という。
十六年、勘合文冊及び文綺・磁器を賜い、真臘等と同様にした。二十年、胡椒一万斤・蘇木一万斤を貢いだ。帝は官を遣わして厚くこれに報いた。時に温州の民にその沈香諸物を市う者あり、所司はこれを通番の罪に坐し、棄市に当たるとした。帝曰く、「温州は乃ち暹羅の必ず経由する地であり、その往来に因ってこれを市うは、通番に非ざるなり。」乃ち宥しを得た。二十一年、象三十・番奴六十を貢いだ。二十二年、世子昭禄群膺が使を遣わして来貢した。二十三年、蘇木・胡椒・降香十七万斤を貢いだ。
二十八年、昭禄群膺が使を遣わして朝貢し、かつ父の喪を告げた。中官趙達らを命中して往き祭らせ、世子に王位を嗣ぐことを敕し、賜賚に加えるところ有り。諭して曰く、「朕即位以来、命使を出して疆を周し、その境に足を履むる者三十六、耳に声を聞く者三十一、風俗殊なり異なり。大国十有八、小国百四十九、今に較ぶれば、暹羅最も近し。邇者使至り、爾が先王の既に逝けるを知る。王は先三の緒を紹ぎ、邦家に道有り、臣民懽懌す。茲に特に人を遣わして命を錫う。王はその法度を失うことなく、その楽に淫することなく、以て前烈を光らしめよ。欽哉。」成祖即位し、その国に詔諭す。永楽元年、その王昭禄群膺哆囉諦剌に駝紐鍍金銀印を賜う。その王は即ち使を遣わして謝恩す。六月、上高皇帝の尊謚を以て、官を遣わして詔を頒ち、賜うところ有り。八月、覆命して給事中王哲・行人成務をしてその王に錦綺を賜わしむ。九月、中官李興らを命中して敕を齎し、その王を労し賜い、その文武諸臣並びに賜うところ有り。
二年、番船が福建海岸に飄流した。詰問するに、乃ち暹羅と琉球が通好する者であった。所司はその貨を籍して聞かせた。帝曰く、「二国修好するは、乃ち甚だ美事なり。不幸に風に遭うは、正に憐れみ惜しむべきであり、豈に因って以て利とすべきや。所司はその舟を治め粟を与え、風便を俟って琉球に遣わし赴かしめよ。」是月、その王は帝が璽書を降して労し賜うたことを以て、使を遣わして来謝し、方物を貢いだ。賜賚に加えるところ有り、並びに『列女伝』百冊を賜う。使者は量衡を頒ち以て国の永式と為さんことを請う。これに従う。
先に、占城の貢使が返るに、風その舟を彭亨に飄流せしめ、暹羅はその使を索取し、羈留して遣わさず。蘇門答剌及び満剌加はまた暹羅が強を恃み兵を発して天朝の賜うところの印誥を奪うと訴う。帝は敕を降してこれを責めて曰く、「占城・蘇門答剌・満剌加は爾と俱に朝命を受けたり。安んぞ威を逞うしてその貢使を拘し、その誥印を奪うを得ん。天に顕道有り、善に福し淫に禍す。安南の黎賊は鑑戒と為すべし。その即ち占城の使者を返し、蘇門答剌・満剌加の印誥を還せ。今より法を奉り理に循い、境を保ち隣を睦まし、庶幾くは太平の福を永く享けん。」時に暹羅の遣わすところの貢使、風を失い安南に飄流し、尽く黎賊に殺され、止むところ孛黑一人のみ。後に官軍安南を征し、これを獲て以て帰る。帝これを憫み、六年八月、中官張原を命中して還国せしめ、王に幣帛を賜い、殺されたる者の家を厚く恤わしむるを令す。九月、中官鄭和その国に使す。その王は使を遣わして方物を貢ぎ、前の罪を謝す。
七年、使来たり仁孝皇后を祭る。中官を命中してその几筵に告げしむ。時に奸民何八観ら暹羅に逃入す。帝は使者に還りてその主に告げ、逋逃を納れることなからしむ。その王は即ち命に奉り、使を遣わして馬及び方物を貢ぎ、並びに八観らを送還す。張原を命じて敕幣を齎しこれを奨む。十年、中官洪保らを命中して往き幣を賜わしむ。
十四年、王子三頼波羅摩剌劄的頼が使を遣わし父の喪を告ぐ。中官郭文を命中して往き祭らせ、別に官を遣わし詔を齎してその子を封じて王と為し、素錦・素羅を以て賜う。随って使を遣わして謝恩す。十七年、中官楊敏らを命中して護帰せしむ。暹羅が満剌加を侵すを以て、使を遣わして輯睦を責め令す。王は復た使を遣わして罪を謝す。宣徳八年、王悉裡麻哈頼が使を遣わして朝貢す。
初め、その国の陪臣柰三鐸らが貢舟を占城新州港に停泊せしめ、尽くその国の人に掠め取られた。正統元年、柰三鐸が潜かに小舟に附して来京し、占城の劫掠の状を訴う。帝は命じて占城の使者を召し与に質せしむ。使者対する所無く、乃ち占城王に敕し、掠め取られたる人物を尽く還すを令す。既にして、占城が礼部に移咨して言う、「本国前歳使を遣わして須文達那に往かしむるも、亦た暹羅の賊人に掠め去られたり。必ず暹羅先ず掠め取ったる所を還さば、本国敢えて還さざるを得ず。」三年、暹羅の貢使また至る。敕を賜いてこの意を以て曉し、亟に占城の人物を還すを令す。十一年、王思利波羅麻那惹智剌が使を遣わして入貢す。
景泰四年(1453年)、給事中劉洙と行人劉泰を命じてその故王波羅摩剌劄的賴を祭らせ、その嗣子把羅蘭米孫剌を王に封じた。天順元年(1457年)、その貢使に鈒花金帯を賜う。六年(1462年)、王孛剌藍羅者直波智が使いを遣わして朝貢した。
成化九年(1473年)、貢使が言うには、天順元年に頒布された勘合が虫に蝕まれたので、改めて給付を乞うた。従う。十七年(1481年)、貢使が帰国する途中、ひそかに子女を買い、かつ私塩を多く積載した。官を遣わして諸番を戒め諭すことを命ず。先に、汀州の人謝文彬が、塩を売りに海に出て、漂流してその国に入り、坤岳(官職名)にまで登った。これは天朝の学士に相当する。後に使節として来朝し、禁物を貿易し、事が発覚して官吏に下された。
十八年(1482年)、使いを遣わして朝貢し、かつ父の喪を告げた。給事中林霄と行人姚隆を命じてその子国隆勃剌略坤息剌尤地を王に封じに行かせた。弘治十年(1497年)に入貢した。時に四夷館に暹羅の訳字官がいなかったので、閣臣徐溥らが広東に牒を移し、その国の言語文字に通じる者を訪れ取って、京に赴き備えに用いることを請うた。従う。正徳四年(1509年)、暹羅の船が広東に漂着した者があった。市舶中官熊宣が守臣と議し、その物に税をかけて軍需に供した。事が聞こえ、詔して宣が妄りに事柄を攬ることを斥け、南京に撤還させた。十年(1515年)、金葉表を進めて朝貢したが、館中にその字を識る者がいなかった。閣臣梁儲らがその使節の一二人を選んで留め、館で習学させることを請うた。許可する旨を報ず。嘉靖元年(1522年)、暹羅・占城の貨船が広東に至った。市舶中官牛栄が家人に私的に売買させた。律に照らして死罪に論ず。三十二年(1553年)、使いを遣わして白象及び方物を貢いだ。象は途中で死に、使者は珠宝でその牙を飾り、金盤に盛り、尾とともに献上した。帝はその心意を嘉し、手厚く送り返した。
隆慶年間(1567-1572年)、その隣国東蛮牛が求婚できず、慚愧して怒り、大いに兵を発してその国を攻め破った。王は自ら縊死し、その世子及び天朝の賜った印を擄って帰った。次子が位を嗣ぎ、表を奉って印を請うたので、これを与えた。ここより東蛮牛に制せられ、嗣王は志を励まして復讐を図った。万暦年間(1573-1620年)、敵兵が再び至ると、王は兵を整えて奮撃し、これを大破し、その子を殺し、余衆は夜遁した。暹羅はここより海上に雄となった。兵を移して真臘を攻め破り、その王を降した。ここより歳々兵を用い、遂に諸国を覇した。
六年(1578年)、使いを遣わして入貢した。二十年(1592年)、日本が朝鮮を破ると、暹羅はひそかに師を発して直ちに日本を搗き、その後方を牽制することを請うた。中樞石星はこれに従うことを議したが、両広督臣蕭彦が不可を主張し、やむなく止んだ。その後、貢を奉じて絶えず。崇禎十六年(1643年)なお入貢した。
その国は周囲千里、風俗は勁悍で、水戦に習熟している。大将は聖鉄で身を包み、刀矢が入らない。聖鉄とは、人の脳骨である。王は瑣裡人である。官は十等に分かれる。王から庶民に至るまで、事ある時は皆その婦によって決する。その婦人の志量は、実に男子の上に出る。婦が華人と私通しても、夫は酒を置いて同飲し、恬として怪しまない。曰く「我が婦は美しく、華人の悦ぶところとなった」と。釈教を崇信し、男女多く僧尼となり、また庵寺に住み、斎を守り戒を受ける。衣服は頗る中国に類す。富貴者は特に仏を敬い、百金の産があれば、即ちその半を以てこれに施す。気候は正しくなく、或いは寒く或いは熱く、地は卑湿で、人皆楼居する。男女は椎結し、白布で首を包む。富貴者が死ぬと、水銀をその口に灌いで葬る。貧者は則ち海浜に移し置くと、即ち群鴉が飛来して啄み、俄頃にして尽き、家人はその骨を拾い号泣して海に棄てる。これを鳥葬という。また僧を延いて斎を設け仏を礼す。交易には海を用いる。是年これを用いなければ、則ち国必ず大疫する。その貢物は、像・象牙・犀角・孔雀尾・翠羽・亀筒・六足亀・宝石・珊瑚・片脳・米脳・糠脳・脳油・脳柴・薔薇水・碗石・丁皮・阿魏・紫梗・藤竭・藤黄・硫黄・没薬・烏爹泥・安息香・羅斛香・速香・檀香・黄熟香・降真香・乳香・樹香・木香・丁香・烏香・胡椒・蘇木・肉荳蔻・白荳蔻・蓽茇・烏木・大楓子及び撒哈剌・西洋諸布がある。その国に三宝廟があり、中官鄭和を祀る。
爪哇
爪哇は占城の西南にある。元世祖の時、使臣孟琪を遣わして行かせ、その面に黥した。世祖は大いに兵を挙げてこれを伐ち、その国を破って還った。
洪武二年(1369年)、太祖は使いを遣わして即位の詔を以てその国を諭した。その使臣は先に元に貢を奉じ、福建に還る途中で元が滅び、因って京師に入居した。太祖はまた使いを遣わしてこれを送り返し、かつ『大統暦』を賜った。三年(1370年)、沙漠平定を以て詔を頒ちて曰く、「古より天下の主たる者は、天地の覆載する所、日月の照臨する所を視て、遠きも近きも、生人の類、その土に安んじて生を楽しまざるは莫し。然れども必ず中国安んじて、而る後四方万国順附す。邇く元君妥懽帖木児、荒淫昏弱にして、志は民に在らず。天下の英雄、疆宇を分裂す。朕は生民の塗炭を憫み、義兵を興挙して乱略を攘除す。天下の軍民共に朕を尊びて帝位に居らしめ、国号を大明とし、元を洪武と建つ。前年元都を克取し、四方底定す。占城・安南・高麗諸国、俱に来朝貢す。今年将を遣わして北征し、始めて元君已に没し、その孫買的裡八剌を獲て、崇礼侯に封ずるを知る。朕は前代帝王に倣い、天下を治め、惟うに中外の人民、各その所に安んぜんことを欲す。又諸蕃の僻く遠方に在るを慮り、未だ朕が意を悉くせざるを以て、故に使者を遣わして往き諭し、咸く聞知せしむ」と。九月、その王昔裡八達剌蒲が使いを遣わして金葉表を奉り来朝し、方物を貢ぎ、礼に従って宴賚した。
五年(1372年)また使いを朝使常克敬に随って来貢させ、元の授けた宣勅三道を上った。八年(1375年)また貢いだ。十年(1377年)、王八達那巴那務が使いを遣わして朝貢した。その国にはまた東・西の二王があり、東蕃王勿院労網結と西蕃王勿労波務が、各使いを遣わして朝貢した。天子はその礼意誠ならざるを以て、詔してその使を留め、已にして釈放して還した。十二年(1379年)、王八達那巴那務が使いを遣わして朝貢した。明年また貢いだ。時に使いを遣わして三仏斉王に印綬を賜うたが、爪哇が誘い出してこれを殺した。天子怒り、その使を月余り留め、罪を加えんとしたが、已むなく遣還し、勅を賜ってこれを責めた。十四年(1381年)使いを遣わして黒奴三百人及び他の方物を貢いだ。明年また黒奴男女百人・大珠八顆・胡椒七万五千斤を貢いだ。二十六年(1393年)再び貢いだ。明年また貢いだ。
成祖即位し、詔を以てその国を諭した。永楽元年(1403年)また副使聞良輔と行人甯善を遣わし、その王に絨・綿・織金文綺・紗羅を賜った。使者既に行くや、その西王都馬板が使いを遣わして入賀し、重ねて中官馬彬らを命じて鍍金銀印を賜う。西王は使いを遣わして印を賜ったことを謝し、方物を貢いだ。而して東王孛令達哈もまた使いを遣わして朝貢し、印を請うたので、官を遣わしてこれを賜うことを命じた。以後、二王並びに貢した。
三年、中官鄭和を遣わして其の国に使わす。明年、西王と東王と兵を構え、東王戦いに敗れ、国滅ぼさる。時に朝使東王の地を経過し、部卒市に入るや、西王国の人これを殺し、凡そ百七十人。西王懼れ、使を遣わして罪を謝す。帝勅を賜いて切にこれを責め、黄金六万両を輸して贖うことを命ず。六年、再び鄭和を遣わして其の国に使わす。西王黄金一万両を献ず。礼官輸する数足らざるを以て、其の使を獄に下さんことを請う。帝曰く、「朕遠人に対し、其の罪を畏るるを欲するのみ。寧ぞ其の金を利せんや」と。悉くこれを捐つ。自ら後、比年一貢、或いは間歳一貢、或いは一歳数貢す。中官呉賓・鄭和先後に其の国に使わす。時に旧港の地に爪哇に侵め据えらるる者有り。満剌加国王朝命を矯めてこれを索む。帝乃ち勅を賜いて曰く、「前に中官尹慶還り、言うに王勅使を恭しく待ち、加うること有りて替わること無しと。比聞く満剌加国旧港の地を索むと、王甚だ疑懼すと。朕誠を推して人を待つ。若し果たしてこれを許さば、必ず勅諭有らん。王何ぞ疑わんや。小人の浮詞、慎んで軽く聴く勿れ」と。十三年、其の王名を改めて揚惟西沙と為し、使を遣わして恩を謝し、方物を貢す。時に朝使の携うる卒に風に遭いて飄ちて班卒児国に至る者有り。爪哇人珍班これを聞き、金を用いて贖い還し、王の所に帰す。十六年、王使を遣わして朝貢し、因って諸の卒を送り還す。帝これを嘉し、勅を賜いて王を奨め、並びに優しく
珍班を賜う。是より、朝貢使臣大率毎歳一至す。
正統元年、使臣馬用良言う、「先に八諦を任じ来朝し、恩を蒙り銀帯を賜う。今は亞烈と為り、秩四品、乞う金帯を賜わん」と。これに従う。閏六月、古裡・蘇門答剌・錫蘭山・柯枝・天方・加異勒・阿丹・忽魯謨斯・祖法児・甘巴裡・真臘の使臣を遣わし、爪哇使臣郭信等と同往せしむ。爪哇に勅を賜いて曰く、「王我が先朝より、職を修めて怠らず。朕今嗣服し、復た使を遣わし来朝す。意誠なること具に悉し。宣徳の時、古裡等十一国来貢す。今王の使者の帰るに因り、諸の使をして同往せしむ。王其れ意を加えて撫飖し、分遣して国に還らしめ、朕の遠きを懐うるの忱を副わしめよ」と。五年、使臣回り、風に遭い溺死すること五十六人、存する者八十三人、仍って広東に返る。命す所司に廩給せしめ、便舟を俟ちて附帰せしむ。
八年、広東参政張琰言う、「爪哇朝貢頻数にして、供億費煩なり。中国を敝して以て遠人に事えしむるは、計に非ず」と。帝これを納る。其の使還るに、勅を賜いて曰く、「海外諸邦、並びに三年一貢す。王も亦た軍民を体恤し、一に此の制に遵うべし」と。十一年復た三貢し、後乃ち漸く稀なり。
景泰三年、王巴剌武使を遣わして朝貢す。天順四年、王都馬班使を遣わして入貢す。使者還りて安慶に至り、酒に酔い、入貢の番僧と斗い、僧死する者六人。礼官伴送の行人の罪を治めんことを請う。使者は勅して国王自ら治めしむ。これに従う。成化元年入貢す。弘治十二年、貢使風に遭い舟壊れ、通事一舟のみ広東に達す。礼官所司に勅し、量りて賜賚を与え遣還せしめ、其の貢物は仍って京師に進めんことを請う。制可す。是より貢使鮮しきこと有る者。
其の国は占城に近く、二十昼夜にして至るべし。元師西征し、至元二十九年十二月泉州を発ち、明年正月即ち其の国に抵る。相去ること月余に止まる。宣徳七年入貢し、表に「一千三百七十六年」と書す。蓋し漢の宣帝元康元年、乃ち其の建国の始めなり。地広く人稠し。性凶悍にして、男子少長貴賚を問わず皆刀を佩く。稍々忤えば輒ち相賊す。故に其の甲兵諸蕃の最と為す。字は瑣裡に類し、紙筆無く、茭曌葉に刻す。気候常に夏に似て、稻歳に二稔す。幾榻匕箸無し。人に三種有り:華人の流寓する者は、服食鮮華なり;他国の賈人久しく居る者も、亦た雅潔を尚ぶ;其の本国人は最も污穢にして、蛇蟻蟲蚓を啖うことを好み、犬と同寝食し、状は黝黒、猱頭赤脚なり。崇めて鬼
道を信ず。人を殺す者は之を避けて三日なれば即ち罪を免る。父母死すれば、野に舁ち至り、犬を縦してこれを食わしむ。尽きざれば、則ち大いに戚しみ、其の余を燔く。妻妾多く燔いて以て殉ぜしむ。
其の国一名を莆家龍と曰い、又下港と曰い、順塔と曰う。万暦の時、紅毛番大澗の東に土庫を築き、佛郎機大澗の西に築く。歳歳互市す。中国の商旅も亦た往来絶えず。其の国に新村有り、最も饒富と号す。中華及び諸番の商舶、其の地に輻湊し、宝貨填溢す。其の村主は即ち広東人なり。永楽九年自ら使を遣わし表して方物を貢す。
闍婆
闍婆、古くは闍婆達と曰う。宋の元嘉の時、始めて中国に朝す。唐は訶陵と曰い、又は社婆と曰う。其の王は闍婆城に居す。宋は闍婆と曰い、皆入貢す。洪武十一年、其の王摩那駝喃使を遣わし表を奉り、方物を貢す。其の後復た至らず。或いは曰く、爪哇は即ち闍婆なりと。然れども『元史爪哇伝』言わず、且つ曰く、「其の風俗・物産考うる所無し」と。太祖の時、両国並び時に入貢し、其の王の名同じからず。或いは本二国と為り、其の後爪哇に滅ぼさるるも、然れども考うべからず。
蘇吉丹
蘇吉丹、爪哇の属国、後に訛って思吉港と為る。国は山中に在り、数聚落に止まる。酋は吉力石に居す。其の水潏ち、舟泊すべからず。商船は但だ饒洞に往く。其の地平衍にして、国人皆ここに就きて貿易す。其の与国に思魯瓦及び猪
蛮有り。猪蛮は盗多く、華人鮮しきこと至る。
碟裡
碟裡、爪哇に近し。永楽三年使を遣わし其の使臣に附して来貢す。其の地は尚お釈教を崇め、俗淳にして訟少なく、物産甚だ薄し。
日羅夏治
日羅夏治は、ジャワに近い。永楽三年に使臣を派遣し、その国の使臣に付き従って入貢した。国は小さく、耕作の術を知り、盗賊はいない。また仏教を尊び、産物は蘇木・胡椒のみである。
三佛齊
三佛齊は、古くは干陀利といった。劉宋の孝武帝の時、常に使臣を派遣して貢ぎ物を奉った。梁の武帝の時も数度来朝した。宋代には三佛齊と称し、貢ぎを修めて絶えなかった。
洪武三年、太祖は行人趙述を遣わしてその国を詔諭した。翌年、その王馬哈剌札八剌卜は使臣を派遣して金葉表を奉り、これに従って黒熊・火鶏・孔雀・五色鸚鵡・諸香・苾布・兜羅被などの物を入貢した。詔して『大統暦』及び錦綺を差等を付けて賜う。戸部が言うには、「その貨物船が泉州に至ったので、税を徴収すべきである」と。命じて徴収させなかった。
六年、王怛麻沙那阿者が使臣を派遣して朝貢し、また一つの表をもって来年の元旦を賀した。当時その国には三王がいた。七年、王麻那哈寶林邦が使臣を派遣して来貢した。八年正月、再び貢いだ。九月、王僧伽烈宇蘭が使臣を派遣し、招諭に従って拂菻国の朝使と共に入貢した。
九年、怛麻沙那阿者が卒し、子の麻那者巫裡が嗣いだ。翌年、使臣を派遣して犀牛・黒熊・火鶏・白猴・紅縁鸚鵡・亀筒及び丁香・米脳などの物を貢いだ。使者が言うには、「嗣子は勝手に立つことを敢えず、朝廷に命を請いたい」と。天子はその義を嘉し、使臣に印を持たせて、三佛齊国王に封じた。当時ジャワは強盛で、すでに三佛齊を威服して隷属させていたが、天朝がこれを国王に封じて己と同等としたと聞き、大いに怒り、人を遣わして朝使を誘い出し、途中で殺害した。天子もまた罪を問うことができず、その国はますます衰え、貢ぎの使者は遂に絶えた。
三十年、礼官が諸蕃国の長らく貢ぎを欠いていることを以て、上奏して聞かせた。帝は言った、「洪武の初め、諸蕃国の貢使は絶えなかった。近ごろ安南・占城・真臘・暹羅・爪哇・大琉球・三佛齊・浡泥・彭亨・百花・蘇門答剌──西洋など三十国は、胡惟庸が乱を起こしたため、三佛齊は間諜を生じ、我が使臣を欺いて彼の地に至らせた。爪哇王はこれを聞き知り、人を遣わして戒め、礼を尽くして送還させた。これにより商旅は阻まれ、諸国の意思は通じなくなった。ただ安南・占城・真臘・暹羅・大琉球は従来通り朝貢し、大琉球はさらに子弟を入学させた。凡そ諸蕃国の使臣が来る者は、皆礼をもって待遇した。我は諸国を薄く遇していないが、諸国の心がどうであるか知らない。今ジャワに使臣を派遣しようと思うが、三佛齊が途中で阻むことを恐れる。聞くところによれば三佛齊は本来ジャワの属国である。朕の意を述べて、暹羅に移文し、ジャワに伝達させよ」と。ここにおいて部臣は移牒して言った、「天地が有って以来、君臣上下の分があり、中国と四裔との防ぎがある。我が朝が混一した初め、海外の諸蕃は来享しないものはなかった。どうして胡惟庸が乱を謀り、三佛齊が異心を生じることを予想できようか。我が信使を欺き、巧詐をほしいままに行った。我が聖天子は一貫して仁義をもって諸蕃を待遇するのに、何ゆえ諸蕃は大恩に背き、君臣の礼を失うのか。もし天子が震怒し、一偏将を遣わして十万の師を率い、天罰を恭しく行えば、手を覆すが如く容易い。爾ら諸蕃は何ゆえ甚だしく思わないのか。我が聖天子は嘗て言われた、『安南・占城・真臘・暹羅・大琉球は皆臣職を修めているが、ただ三佛齊のみ我が声教を阻害する。彼は蕞爾たる小国をもって、敢えて倔強して服従せず、自ら滅亡を取る』と。爾ら暹羅は臣節を恪守し、天朝の眷礼が加わっている。ジャワに伝達し、大義を以て三佛齊に告諭させよ。誠に過ちを省みて善に従うならば、礼遇は当初の如くである」と。当時ジャワはすでに三佛齊を破り、その国を占拠し、その名を旧港と改めていた。三佛齊は遂に亡び、国中大いに乱れ、ジャワもまたその地をことごとく有することができなかった。華人で流寓する者は往々にして起こってこれを占拠した。梁道明という者がいた。広州南海県の人で、長くその国に居住し、閩・粵の軍民で海を渡って従う者が数千家あり、道明を推して首領とし、一方を雄視した。時に指揮孫鉉が海外に使いし、その子に遇い、挟んで共に来た。
永楽三年、成祖は行人譚勝受が道明と同郷であることを以て、千戸楊信らと共に勅を持たせてこれを招かせた。道明とその党の鄭伯可はこれに従って入朝し、地方の産物を貢いだ。賜物を受けて帰還した。
四年、旧港の頭目陳祖義が子の士良を、道明が甥の観政を派遣し、共に来朝した。祖義もまた広東の人で、朝貢はするが、海上で盗賊を働き、貢ぎの使者の往来する者を苦しめた。五年、鄭和が西洋から還り、人を遣わしてこれを招諭した。祖義は偽って降り、ひそかに邀撃を謀った。施進卿という者がおり、和に告げた。祖義が襲来して捕らえられ、朝廷に献じられ、誅殺された。時に進卿はちょうど婿の丘彦誠を派遣して朝貢させており、旧港宣慰司を設置し、進卿を宣慰使とし、誥印及び冠帯を賜った。これより後、たびたび入貢した。しかし進卿は朝命を受けたとはいえ、なおジャワに服属し、その地は狭小で、かつての三佛齊ではない。二十二年、進卿の子済孫が父の訃を告げ、職を嗣ぐことを乞うた。これを許した。洪熙元年に使臣を派遣して入貢し、旧印が火災で焼失したと訴えた。帝は命じて改めて給与した。その後、朝貢は次第に稀になった。
嘉靖の末、広東の大盗張璉が乱を起こし、官軍はすでに討伐したと報告していた。万暦五年に旧港に赴いた商人が、璉が店を並べて蕃舶の長となっているのを見た。漳州・泉州の人が多くこれに付き従い、あたかも中国の市舶官のようであったという。
その地は諸蕃国の要衝であり、ジャワの西にあり、順風なら八昼夜で至ることができる。十五の洲を管轄し、土は肥沃で耕作に適する。諺に、「一年穀を種えれば、三年金を生ず」という。収穫が豊かで金との交易が多いことを言うのである。俗は富みて淫を好む。水戦に習熟し、隣国はこれを畏れる。地は水が多く、ただ部領のみ陸に居住し、庶民は皆水に居住する。筏を編んで室を築き、これを杭に繋ぐ。水が漲れば筏は浮かび、沈没の憂いがない。移りたい時は杭を抜いて去れば、財力を費やさない。下がその上を称するに詹卑といい、国君のようである。後に大酋の居るところ、すなわち詹卑国と号し、故都を旧港と改めた。初めは本来富饒であったが、ジャワに破滅されて後、蕭索となり、商船はめったに至らなくなった。その他の風俗・物産は、詳しく『宋史』にある。