文字サイズ
明史
列伝第二百十一 外国四 琉球 呂宋 合猫里 美洛居 沙瑶吶哔嘽 鶏籠 婆羅 麻葉甕 古麻喇朗 馮嘉施蘭 文郎馬神
琉球
琉球は東南の大海中にあり、古より中国と通ぜず。元の世祖は官を遣わしてこれを招諭せしも、達せず。洪武の初め、その国に三王あり、中山と曰い、山南と曰い、山北と曰い、皆尚を姓とし、而して中山最も強し。五年正月、行人楊載を命じて即位建元の詔を以てその国に告げしむ。その中山王察度は弟泰期らを遣わし、載に随い入朝し、方物を貢す。帝喜び、大統暦及び文綺・紗羅を差等ありて賜う。七年冬、泰期復た来貢し、併せて皇太子への箋を上る。刑部侍郎李浩を命じ、文綺・陶鉄器を齎して賜い、且つ陶器七万・鉄器千を以て、その国に就きて馬を市わしむ。九年夏、泰期は浩に随い入貢し、馬四十匹を得。浩言う、その国は紈綺を貴ばず、惟だ磁器・鉄釜を貴ぶと。是より賞賚多く諸物を用う。明年、使いを遣わして正旦を賀し、馬十六匹・硫黄千斤を貢す。又明年、復た貢す。山南王承察度も亦使いを遣わし朝貢し、礼賜は中山の如し。十五年春、中山来貢し、内官を遣わしてその使いを還国せしむ。明年、山南王と並び来貢し、詔して二王に鍍金銀印を賜う。時に二王と山北王と雄を争い、互いに攻伐す。内史監丞梁民を命じ、これに勅を賜い、兵を罷め民を息ましむ。三王並び命を受く。山北王怕尼芝は即ち使いを遣わし、二王の使いと偕に朝貢す。十八年、又貢し、山北王に鍍金銀印を二王の如く賜い、而して二王に海舟各一を賜う。是より、三王屡使いを遣わし奉貢し、中山王特に数し。二十三年、中山来貢す。その通事は私かに乳香十斤・胡椒三百斤を携え都に入る。門者に獲られ、官に入るべし。詔してこれを還し、仍って鈔を以て賜う。
二十五年夏、中山の貢使はその王の従子及び寨官の子を以て偕に来り、国学に肄業せんことを請う。これに従い、衣巾靴襪並びに夏衣一襲を賜う。その冬、山南王も亦従子及び寨官の子を遣わし国学に入り、賜賚これの如し。是より、歳に冬夏の衣を賜いて以て常とす。明年、中山両たび入貢し、又寨官の子を遣わし国学に肄業せしむ。是の時、国法厳しく、中山の生と山南の生とに詔書を非議する者あり。帝聞き、これを死に置く。而してその国を待つこと故の如し。山北王怕尼芝は已に卒す。その嗣王攀安知は二十九年春使いを遣わし来貢す。山南の生で国学に肄する者を帰省せしむ。その冬復た来る。中山も亦寨官の子二人及び女官生姑・魯妹二人を遣わし、先後に来りて肄業す。その華風を感慕すること此の如し。中山又使いを遣わし冠帯の賜いを請う。礼部を命じ図を繪し、自ら制せしむ。その王固より請う。乃ちこれを賜い、併せてその臣下に冠服を賜う。又その職を修め勤むるを嘉し、閩中の舟工三十六戸を賜い、以て貢使の往来を便にす。及び恵帝位を嗣ぐに及び、官を遣わし登極の詔を以てその国に諭す。三王も亦貢を奉じて絶えず。
成祖大統を承け、詔諭は前の如し。永楽元年春、三王並び来貢す。山北王冠帯の賜いを請う。詔して給賜すること中山の如くす。行人辺信・劉亢を命じ、勅を齎して三国に使いせしめ、絨錦・文綺・紗羅を以て賜う。明年二月、中山王世子武寧は使いを遣わし父の喪を告ぐ。礼部を命じ官を遣わし諭祭せしめ、布帛を以て賻し、遂に武寧を命じて位を襲わしむ。四月、山南王の従弟汪応祖も亦使いを遣わし承察度の喪を告げ、前王に子無く、位を応祖に伝うと謂い、朝命を加えんことを乞い、且つ冠帯を賜わんことを請う。帝並びこれに従い、遂に官を遣わし冊封す。時に山南の使臣は私かに白金を齎し処州に詣り磁器を市う。事発し、罪を諭すべし。帝曰く、「遠方の人、利を求むるを知るのみ。安んぞ禁令を知らんや」と。悉くこれを貰す。三年、山南は寨官の子を遣わし国学に入る。明年、中山も亦寨官の子六人を遣わし国学に入り、併せて奄豎数人を献ず。帝曰く、「彼も亦人の子、罪無くしてこれを刑す、何ぞ忍びん」と。礼部を命じてこれを還す。部臣言う、「これを還せば、帰化の心を阻むを慮る。請う、但だ勅を賜い、その再進を止めしめん」と。帝曰く、「空言を以て諭すは、実事を以て示すに若かず。今これを遣還せずんば、彼媚を献ぜんと欲し、必ず継いで進まん。天地は生物を以て心と為す。帝王乃ち人類を絶つべけんや」と。竟にこれを還す。五年四月、中山王世子思紹は使いを遣わし父の喪を告ぐ。諭祭賜賮は前儀の如し。
八年、山南は官生三人を遣わし国学に入り、巾服靴絛・衾褥帷帳を賜う。已にして復た頻りに賜うこと有り。一日、帝群臣とこれに及びて語る。礼部尚書呂震曰く、「昔、唐太宗庠序を興し、新羅・百濟並びに子を遣わし来り学ばしむ。爾の時は僅かに廩餼を給するのみ。今日の賜予の周なるに未だ若かず」と。帝曰く、「蛮夷の子弟、義を慕いて来る。必ず衣食常に充ち、然る後に学に向かわん。此れ我が太祖の美意。朕安んぞこれに違えん」と。明年、中山は国相の子及び寨官の子を遣わし国学に入り、因りて言う、「右長史王茂は輔翼すること年有り。請う、擢で国相と為さん。左長史朱復は本より江西饒州の人、輔臣祖察度四十余年懈らず。今年八十を逾ゆ。請う、致仕して還郷せしめん」と。これに従い、乃ち復・茂を命じて並びに国相と為し、復は左長史を兼ねて致仕せしめ、茂は右長史を兼ねてその国事に任ぜしむ。十一年、中山は寨官の子十三人を遣わし国学に入る。時に山南王応祖はその兄達勃期に為に弑せらる。諸寨官これを討ち誅す。応祖の子他魯毎を推して主と為す。十三年三月を以て封を請う。行人陳季若らを命じ、山南王として封じ、誥命冠服及び宝鈔一万五千錠を賜う。
琉球の三王に分かるるや、惟だ山北最も弱し。故にその朝貢も亦最も稀なり。永楽三年入貢の後より、是の年の四月に至りて始めて入貢す。その後、竟に二王に併せらる。而して中山益々強く、その国富めるを以て、一歳に常に再貢三貢す。天朝と雖もその繁きを厭うも、卻くる能わず。その冬、貢使還り、福建に至り、擅に海舶を奪い、官軍を殺し、且つ中官を毆傷し、その衣物を掠む。事聞こゆ。その首たる者を戮し、余六十七人をその主に付して自治せしむ。明年、使いを遣わし罪を謝す。帝これに待つこと初めの如し。その貢を修むること益々謹し。二十二年春、中山王世子尚巴志来たり父の喪を告ぐ。諭祭賜賮は常儀の如し。
仁宗位を嗣ぎ、行人方彝を命じ詔を以てその国に告げしむ。洪熙元年、中官を命じ勅を齎し巴志を封じて中山王と為す。宣徳元年、その王冠服未だ給せざるを以て、使いを遣わし来り請う。皮弁服を制してこれを賜うことを命ず。三年八月、帝中山王の朝貢弥く謹しきを以て、官を遣わし勅を齎し往きて労し、羅錦諸物を賜う。
山南は四年より両たび貢し、終に帝の世に復た至らず。亦中山に併せらる。是より、惟だ中山一国朝貢絶えず。
正統元年、その使者が言うには、「初めて福建に入った時は、貢物のみを具えて報告した。下人が携えた海貝・螺殻は、申告を失い、悉く官司に没収され、往来の資金が乏しくなった。どうか憐れみを賜りたい」と。命じて定例通りに価値を給付させた。翌年、貢使が浙江に至ると、市舶司の役人はまた彼らの携帯品を没収登録しようと請うた。帝は言った、「蕃人は貿易を利としている。この二つの品は取って何の用があろうか。全て返還せよ。これを令とせよ」と。使者が奏上した、「本国の陪臣の冠服は、皆国初に賜わったものであるが、歳月が経って破損した。再び給付を乞う」と。また言うには、「小邦は正朔を遵奉しているが、海道は険遠で、暦を受け取る使者は、半年あるいは一年かかってようやく帰還する。常に遅れることを恐れている」と。帝は言った、「冠服は本国で自制させよ。《大統暦》は福建布政司がこれを給付する」と。七年正月、中山世子尚忠が来朝して父の喪を告げた。命じて給事中余忭・行人劉遜を遣わし、忠を中山王に封じた。勅使に給事中を用いるのは、これより始まる。忭らが帰還する際、彼らの贈った黄金・沈香・倭扇を受け取り、偵察者に発覚され、共に吏に下され、杖刑に処せられて釈放された。十二年二月、世子尚思達が来朝して父の喪を告げた。命じて給事中陳傅・行人萬祥を遣わして封じに行かせた。
景泰二年、思達が卒し、子がなかった。その叔父金福が国事を摂行し、使者を遣わして喪を告げた。命じて給事中喬毅・行人童守宏を遣わし、金福を王に封じた。五年二月、金福の弟泰久が奏上した、「長兄金福が崩じ、次兄布里と兄の子志魯が立つことを争い、両者共に傷ついて死に、賜わった印も毀損した。国中の臣民が臣に国事を権摂するよう推した。再び印を賜わり遠藩を鎮撫したい」と。これに従った。翌年四月、命じて給事中厳誠・行人劉儉を遣わし、泰久を王に封じた。天順六年三月、世子尚徳が来朝して父の喪を告げた。命じて給事中潘栄・行人蔡哲を遣わして王に封じた。
成化五年、その貢使蔡璟が言うには、「祖父は本来福建南安の人で、琉球の通事となり、璟に伝わり、長史に抜擢された。制の如く誥命を賜わり、その父母を贈封してほしい」と。上奏文が礼官に下され、先例がないとして止められた。翌年、福建按察司が言うには、「貢使程鵬が福州に至り、指揮劉玉と私的に貨賄を通じた。共に究明処分すべきである」と。命じて玉を処罰し、鵬は赦した。七年三月、世子尚円が来朝して父の喪を告げた。命じて給事中丘弘・行人韓文を遣わして王に封じた。弘は山東に至り病没した。命じて給事中官栄を代わりに遣わした。十年、貢使が福建に至り、懐安の民夫婦二人を殺害し、家屋を焼き財物を奪った。捕らえられなかった。翌年また貢ぎ、礼官はこれにより二年に一度の貢ぎと定めるよう請い、百人を超えず、私物を携帯付加せず、道中を騒擾させないようにした。帝はこれに従い、勅を賜って王を戒めた。その使者は祖制の如く、毎年一貢を請うたが、許されなかった。また翌年、貢使が至り、ちょうど東宮冊立に会し、朝鮮・安南の如く、詔書を賜わり持ち帰るよう請うた。礼官が議して、琉球は日本・占城と共に海外にあり、例として詔書を頒布しない、とし、勅を降して文錦・彩幣をその王及び妃に賜った。十三年、使臣が来朝し、また毎年一貢を請うたが、許されなかった。翌年四月、王が卒し、世子尚真が来朝して喪を告げ、爵を嗣ぐことを乞い、また毎年一貢を請うた。礼官が言うには、その国が連章して奏請するのは、市易を図りたいに過ぎない。近年派遣する使は、多くは福建中の逃亡罪人であり、人を殺し火を放ち、奸狡百端で、専ら中国の貨物を貿易し、外蕃の利を擅にする。請いは許すべからず、と。そこで命じて給事中董旻・行人張祥を遣わして封じに行かせ、その請いには従わなかった。十六年、使が来朝し、また《祖訓》の条章を引き毎年一貢を請うた。帝は勅を賜ってこれを戒め約束した。十八年、使者が至り、また同じことを言った。勅を賜うたのは初めの通り。使者が陪臣の子五人を連れて来て学を受けさせた。命じて南京国子監に隷属させた。二十二年、貢使が来朝し、その王が礼部に咨文を移し、五人を帰省させるよう請うた。これに従った。
弘治元年七月、その貢使が浙江から来た。礼官が言うには、貢道は以前より福建を経由する。今は正道でなく、また貢期でもない。退けるべきである、と。詔して可とした。その使臣がまた国王の礼部への移文を持って来て、上言して旧歳に東宮冊妃を知ったので、故に使を遣わして来賀したのであり、敢えて制に違うのではない、と。礼官はそこでこれを納れるよう請い、従者への賜賚を少し減らし、裁抑の意を示した。三年、使者が至り、近年の貢使は二十五人だけが都に入ることを許され、物が多く人が少なく、手落ちを来すことを憂慮する、と言った。詔して五人を増やすことを許し、福建にいる従者にも、併せて二十人の食料を増給し、百七十人とした。当時、貢使が携えた土産物を、福建人と互市する際、奸商が抑圧し、役人がまたこれに従って侵削した。使者が朝廷に訴え、詔して禁止した。十七年、使を遣わして貢を補った。小邦の貢物は常に満剌加で購入するが、風に遭って期に遅れた、と言う。命じて定例通りに宴饗と賜賚を行った。正徳二年、使者が来朝し、毎年一貢を請うた。礼官が許すべからずと言ったが、この時劉瑾が政を乱しており、特にこれを許した。五年、官生蔡進ら五人を南京国学に入れた。
嘉靖二年、礼官の議に従い、琉球に二年一貢を旧制通りとし、百五十人を超えないよう勅した。五年、尚真が卒し、その世子尚清が六年に来貢し、訃報を伝えた。使者が帰還して海に至り、溺死した。九年、他の使を遣わして来貢し、併せて封を請うた。命じて福建の守臣に調査報告させた。十一年、世子が国中の臣民の状を携えて上奏した。そこで命じて給事中陳侃・行人高澄に節を持たせて封じに行かせた。帰還の際、その贈り物を辞退した。十四年、貢使が至り、なお贈られた黄金四十両を朝廷に進上した。そこで侃らに受け取るよう勅した。二十九年に来貢し、陪臣の子五人を連れて国学に入った。
三十六年、貢使が来朝し、王尚清の喪を告げた。先に、倭寇が浙江で敗れて還り、琉球の境に至った。世子尚元が兵を遣わして邀撃し、大いにこれを殲滅し、中国で掠められた者六人を獲得した。この時になって送還した。帝はその忠順を嘉し、賜賚を増やし、即座に命じて給事中郭汝霖・行人李際春を遣わし、尚元を王に封じた。福建に至り、風に阻まれて出発しなかった。三十九年、その貢使も福建に至り、世子の命を受けたと言い、海中の風濤は測り難く、倭寇もまた出没する時がなく、天使に他の憂慮があることを恐れ、正徳年中に占城を封じた故事の如く、人を遣わして代わりに表文と方物を進上させ、自身は本国の長史と共に封冊を持ち帰り、天使の遠く臨む煩わしさをかけないよう請うた。巡按御史樊献科がこれを上聞した。礼官が言うには、「使を遣わして冊封するのは、祖制である。今、使者が遙かに冊命を受けようとするのは、君の賜り物を草莽に委ねることであり、許されないことの一つ。使者は本来表を奉じて朝貢するものであるのに、官を遣わして代わりに進上させようと求めるのは、世子が専ら派遣した命を棄てることであり、
第二に不可である。昔、正徳年間に、占城王が安南に侵され、他所に逃れて居住したため、使者が勅命を持ち帰ったのは、一時の便宜によるものであった。今、国を失った事例を引き合いに出して、その君主に比するのは、第三に不可である。船路を開き道を通じるのは、柔らげて服従させる常道である。彼らが口実とするのは倭寇の警報、風濤の険しさであるが、珍宝の貢納、使臣の往来が、果たしてどうして無事に行えるのか?第四に不可である。かつて占城は封を受けていたが、その王はなお使者派遣を懇願した。今の使者は世子の面命によるものではなく、また印信や文書もない。もし軽々しくその言葉を信じ、万一、世子が使者派遣を最高の栄誉とし、遙拝を非礼として、受封を肯んぜず、再び上書して使者を請うたならば、誰がその責を負うのか?第五に不可である。福建の守臣に命じて、以前の詔の通りに事を行わせることを乞う。未だ封を受けずに先に謝恩するのも、故事ではない。入貢を許すのみとし、その謝恩の表文は、世子が封を受けた後に使者を遣わして進上させ、そうすれば中国の大義が全うされよう。」帝はその言に従った。四十一年夏、使者を遣わして入貢し謝恩した。翌年及び四十四年にも併せて入貢した。隆慶年間、合わせて三度入貢し、いずれも中国の漂流民を送還した。天子はその忠誠を嘉し、勅を賜って奨励し、銀幣を加えて賜った。
万暦元年冬、その国の世子尚永が使者を遣わして父の喪を告げ、襲爵を請うた。上奏文は礼部に下され、福建の守臣に命じて調査上奏させた。翌年、使者を遣わして登極を賀した。三年に入貢。四年春、再び入貢。七月、戸科給事中蕭崇業と行人謝傑に勅及び皮弁冠服・玉珪を持たせ、尚永を中山王に封じた。翌年冬、崇業らが未だ到着しないうちに、世子は再び使者を遣わして入貢し、その後は常儀通りに貢を修めた。八年冬、陪臣の子三人を南京の国子監に留学させた。十九年、使者を遣わして来貢したが、尚永はまもなく卒去した。礼官は日本が隣境を侵食している最中であり、琉球に王がいないわけにはいかないとして、世子に速やかに襲封を請わせ、鎮圧の資とすべきことを請うた。従った。
二十三年、世子尚寧が人を遣わして襲封を請うた。福建巡撫許孚遠は倭寇の気配が未だ収まらないとして、先臣鄭曉の領封の議に基づき、官一員に勅を持たせて福建に至らせ、その陪臣に面会して領させ帰国させるか、あるいは海に習熟した武臣一人を陪臣と共に派遣することを請うた。礼官范謙はその言の通りに議し、かつ世子の表文が届くのを待ってから許すことを請うた。二十八年、世子が表文を届け、その陪臣は祖制通り官を派遣することを請うた。礼官余継登が言うには、「累朝にわたり琉球を冊封するのに、木を伐り舟を造るのに、数年を要することが常であった。使者は風濤の険を冒し、小国は供応の煩に苦しむ。前議の通りに行うべきである。」帝はこれを認め、今後は冊封に際し、廉潔で勇武な武臣一人のみを請封の陪臣と共に派遣することとし、前王の祭り、新王の封ずる儀礼は全て旧章の通りとし、なお彼の国の大臣の結状が届くのを待って行うことを命じた。翌年秋、貢使が結状を持って至り、なお文臣の派遣を請うた。そこで給事中洪瞻祖と行人王士禎を派遣することを命じ、かつ
海寇の警報が収まるのを待ってから渡海して事を行えと命じた。やがて瞻祖は憂い(喪)により去り、代わりに給事中夏子陽を命じ、三十一年二月に福建に到着させた。按臣方元彥は再び海上に事多く、警報頻仍であるとして、巡撫徐学聚と共に上疏して武臣を派遣すべきことを請うた。子陽と士禎は、属国の言葉を違えてはならず、使臣の義として事を終えるべきであるとして、成命を堅持して遠人を慰めることを請うた。上奏文はいずれも未だ返答がなく、礼部侍郎李廷機が言うには、「領封の当初の旨を行い、武臣も派遣する必要はない。」そこで御史錢桓と給事中蕭近高が相次いで上章してその不可を争い、「この事は欽命が未だ定まらない前に行うべきであり、冊使が既に派遣された後に行うべきではない。司に命じて速やかに海船を完成させ、今年の渡海の期に誤らせないようにすべきである。事を竣えて復命した後、画一の規を定め、まず文告をもって、海上で封を領するよう命じ、永く遵守させるべきである。」帝はこれを容れた。三十三年七月、ついに子陽らに速やかに渡海して事を竣えるよう命じた。
この時、日本はまさに強盛で、併呑の意図があった。琉球は外には強隣を防ぎ、内には貢を修めて絶やさなかった。四十年、日本は果たして精兵三千を以てその国に入り、その王を捕らえ、その宗器を移し、大いに掠奪して去った。浙江総兵官楊宗業がこれを上聞し、海上の兵備を厳しく整えることを請うた。従った。やがてその王は釈放されて帰国し、再び使者を遣わして貢を修めたが、その国は既に甚だしく残破しており、礼官は十年一貢の例を定めた。翌年も例によって貢を修めた。また翌年も再び入貢したが、福建の守臣は朝命に従ってこれを退け還したので、その使者は怏怏として去った。四十四年、日本に雞籠山を取る謀りごとがあり、その地名は台湾で、福建に密接していたので、尚寧が使者を遣わして上聞させた。詔して海上の警備を命じた。
天啓三年、尚寧は既に卒去し、その世子尚豊が使者を遣わして貢と封を請うた。礼官が言うには、「旧制では、琉球は二年一貢であったが、後に倭寇に破られ、十年に改期した。今その国は休養未だ久しくなく、暫く五年一貢と擬し、新王の冊封後に更に議する。」従った。五年、使者を遣わして入貢し封を請うた。六年、再び入貢。この時、中国は多事であり、また科臣で使者に応じる者も行くのを憚ったので、封典は久しく滞った。
崇禎二年、貢使がまた至って封を請うたので、故事通りに官を派遣することを命じた。礼官何如寵はまた、険を履み費用を糜耗することを理由に、陪臣に封を領させることを請うた。帝は従わず、戸科給事中杜三策と行人楊掄を派遣することを命じ、礼を成して帰還した。四年秋、使者を遣わして東宮冊立を賀した。これより、崇禎末に至るまで、儀礼通りに貢を修めた。後に両京が相次いで陥落し、唐王が福建に立つと、なお使者を遣わして貢を奉じた。その天朝に虔しく仕えることは、外藩中最も優れていたという。
呂宋
呂宋は南海中にあり、漳州から甚だ近い。洪武五年正月、使者を瑣里諸国と共に遣わして来貢した。永楽三年十月、官に詔を持たせて派遣し、その国を撫諭した。八年、馮嘉施蘭と共に入貢し、その後久しく至らなかった。万暦四年、官軍が海寇林道乾を追ってその国に至ると、国人が討伐を助けて功があり、再び朝貢した。時に仏郎機(ポルトガル/スペイン)が強盛で、呂宋と互市していたが、久しくしてその国が弱く取れると見るや、厚い賄賂を王に贈り、牛皮ほどの大きさの地を乞い、屋を建てて居住したいと請うた。王はその詐りを慮らずに許した。その者は牛皮を裂き、継ぎ合わせて数千丈とし、呂宋の地を囲み、約束通りに乞うた。王は大いに驚いたが、既に承諾した後であり、如何ともしがたく、遂にこれを聴き、国法通りに少し税を徴した。その者は地を得るや、即ち室を営み城を築き、火器を並べ、守禦の具を設け、窺伺の計を図った。やがて、ついにその無備に乗じ、その王を襲撃して殺し、その人民を追い払い、その国を占拠した。名はなお呂宋としたが、実は仏郎機であった。先に、閩人はその地が近く且つ豊かであるとして、商販する者が数万人に至り、往々にして久しく居住して帰らず、子孫を成すに至っていた。仏郎機がその国を奪うと、その王は一酋長を遣わして鎮守させたが、華人が変事を起こすことを慮り、多くを追い帰らせ、留まる者は皆その侵辱を受けた。
二十一年八月、酋長郎雷敝裡系朥が美洛居を侵し、華人二百五十人を徴用して戦闘を助けさせた。潘和五という者がその哨官であった。蛮人は日々酒に酔って寝そべり、華人に舟を操らせ、少しでも怠ると鞭打ち、死に至る者もあった。和五は言った、「反逆して死ぬのも、鞭打たれて死ぬのも、死ぬことは同じである。そうでなくとも戦死するであろう。いっそこの酋長を刺殺して死を免れよう。勝てば帆を揚げて帰り、勝てずに捕らえられても、死ぬのはまだ遅くはない。」一同はこれをよしとし、夜に酋長を刺殺し、酋長の首を持って大声で叫んだ。諸蛮は驚いて起きたが、どうしてよいかわからず、皆刃にかかり、あるいは水に落ちて死んだ。和五らはその金宝・甲冑兵器をことごとく収め、舟を操って帰還した。道を誤って安南に至り、その国の者に掠奪され、郭惟太ら三十二人だけが他の舟に便乗して帰還できた。時に酋長の子郎雷猫吝が朔霧に駐屯し、これを聞いて、衆を率いて駆けつけ、僧を遣わして父の冤罪を陳べ、その戦艦・金宝を返還し、仇敵を誅して父の命に償うことを乞うた。巡撫許孚遠は朝廷に上聞し、両広の督撫に檄を飛ばして礼をもって僧を送還し、惟太を法に照らして処置させたが、和五はついに安南に留まり敢えて帰還しなかった。
初め、酋長が殺害された時、その部下で呂宋にいた者は、華人をことごとく城外に追い出し、その家屋を破壊した。猫吝が帰還すると、城外に室を築いて居住させた。ちょうど日本が来寇するという風聞があり、猫吝は内通して禍患となることを恐れ、再び追放を議した。ところが孚遠がちょうど人を遣わして招還したので、蛮人は行糧を与えて送り出した。しかし華商は利を貪り、死に赴くのも顧みず、久しくして再び集住地を成した。
その時、鉱税の使者が四方に出て、奸宄が蜂起して利を言い立て、閻応龍・張嶷という者が、呂宋の機易山はかねてより金銀を産すると言い、採れば毎年金十万両・銀三十万両を得られると、三十年七月に宮門に詣でて奏上した。帝は直ちにこれを採用した。命令が下ると、朝廷中が驚愕した。都御史温純が上疏して言う、「近ごろ中外の諸臣が争って鉱税の害を言うが、天子の聴くところはますます高遠である。今、広東の李鳳は婦女六十六人を汚辱し、財貨を私的に運搬すること三十巨舟・三百大扛に至り、勢い積怨の衆に殺されようとしている。どうして今これを撤去し、なお威福操縦の権柄を失わないようにしないのか。緬甸の酋長は宝井のゆえに、兵十万を提げて内犯せんとし、西南の蛮は、岌岌として憂うべきである。そして閩中の奸徒がまた機易山の事を以て告げ出る。この妄言は、まさに戯曲の如く、天子の聡明にして誤ってこれを聴かれるとは思わなかった。臣らは驚魂揺曳し、寝食安からず。他日変事興り禍い起こり、国家の財を費やすこと幾百万か知れず、もしも早く剪滅しなければ、その患いは財を費やすのみに止まらないであろう。
臣は聞く、海澄の市舶高采はすでに毎年三万金を徴収しており、決して余力を遺して利を譲ることはない。たとえ機易が海外に遠くあっても、決して遍地に金銀があり、人の採取に任せる道理はなく、どうして金十万・銀三十万を得て、その言葉を実証できようか。ただ朝命を仮借し、禁物を闌出し、諸蕃を勾引して、不軌の謀を逞しくするに過ぎず、ただ公私を煩擾し、海澄一邑に害を遺すのみではあるまい。
往年の倭患は、まさに奸民が下海し、大姓と私通し、計略を設けて価を勒し、倭賊の憤恨を致し、兵を称して順を犯したのである。今、朝命をもってこれを行えば、害いはますます大きくなるであろう。兵連禍結に及んで、諸奸はかつての汪直・曾一本らの故智に倣い、海に負けて王を称し、兵を擁して寨を列ね、近くは重利を窺うことができ、遠くは尉佗となることを失わない。諸亡命の計策は得たが、国家の大患をどうするのか。急ぎ法に照らして処置し、禍いの本源を消すことを乞う。」
言官の金忠士・曹於汴・朱吾弼らもまた連章して力争したが、皆聴かれなかった。
事は福建の守臣に下ったが、行いたくはなく、朝命に迫られて、海澄の丞王時和・百戸幹一成を張嶷に同行させて往き調査させた。呂宋人はこれを聞いて大いに驚いた。華人の流寓者は彼らに言った、「天朝に他意はなく、ただ奸徒が横に事を生じただけである。今、使者を遣わして按検し、奸徒自ら窮するに至らしめ、還報に便ならしめるだけである。」その酋長の気持ちは少し解け、諸僧に命じて道傍に花を散らし、朝使を敬うかの如くし、盛大に兵衛を陳べて迎えた。時和らが入ると、酋長は宴を設け、問うて言った、「天朝は人を遣わして山を開かせようとしている。山にはそれぞれ主がある、どうして開けようか。譬えば中華に山があれば、わが国が開くことを許容できようか。」また言った、「樹に金豆が生ずるというが、これは何の樹から生ずるのか。」時和は答えることができず、しきりに張嶷を見た。張嶷は言った、「この地は皆金である、どうして豆の由来を問う必要があろうか。」上下皆大笑し、張嶷を留め置き、殺そうとした。諸華人が共に弁解して、ようやく釈放されて帰還した。時和は任に還ると、すぐに心悸を病んで死んだ。守臣は上聞し、張嶷の妄言の罪を治めることを請うた。事はすでに止んだが、呂宋人は終に自ら疑い、天朝がその国を襲い取ろうとし、諸流寓者が内応すると言い、密かに彼らを殺すことを謀った。
翌年、兵を発して隣国を侵すと声言し、高価で鉄器を買い求めた。華人は利に貪ってことごとく売り払い、ここに家に寸鉄もなくなった。酋長は命令を下して華人の姓名を記録し、三百人を一院として分け、入れば即ち殲滅した。事が少し露顕すると、華人の群れは菜園に走った。酋長は兵を発して攻撃し、衆は兵仗がなく、数え切れないほど死に、大侖山に奔った。蛮人がまた来攻し、衆は必死に戦い、蛮兵は少し挫けた。酋長はやがて悔い、使者を遣わして和を議した。衆はその偽りを疑い、撲殺した。酋長は大いに怒り、衆を収めて城に入り、城傍に伏兵を設けた。衆はひどく飢え、ことごとく山を下りて城を攻めた。伏兵が発すると、衆は大敗し、先後して死んだ者は二万五千人であった。酋長はやがて命令を出し、諸々の掠奪した華人の財貨は、ことごとく封緘して貯蔵し、閩中の守臣に書を送り、華人が乱を謀ろうとしたので、やむを得ず先手を打ったと言い、死者の家族にその妻子と財貨を取りに行かせるよう請うた。巡撫徐学聚らは急ぎ朝廷に変事を告げ、帝は驚き悼み、法司に下して奸徒の罪を議させた。三十二年十二月、議が上ると、帝は言った、「張嶷らは朝廷を欺誑し、海外に釁を生じ、二万の商民をことごとく鋒刃に膏せしめ、威を損ない国を辱しめた。死してなお余辜あり、即ち梟首して海上に伝示せよ。呂宋の酋長は商民を擅殺した。撫按官は罪を議して上聞せよ。」学聚らは呂宋に檄を移し、擅殺の罪を数え、死者の妻子を送還するよう命じたが、ついに討伐することはできなかった。その後、華人は再び少しずつ往き、蛮人は中国との互市を利し、また拒まず、久しくして再び集住地を成した。
時に仏郎機はすでに満剌加を併せ、さらに呂宋を加えて、勢いますます強く、海外に横行し、ついに広東香山澳を占拠し、城を築いて居住し、民と互市し、禍患は再び粤に中った。
合猫裡
合猫裡は、海中の小国である。土地は瘠せて山が多く、山の外は大海で、魚虫に富み、人は耕稼を知る。永楽三年九月、使者を爪哇の使臣に附して朝貢した。その国はまた猫裡務とも名づけ、呂宋に近く、商舶往来し、次第に富んだ土地となった。華人がその国に入っても、敢えて欺陵せず、市法最も平らかである。故に華人はそのために語って言う、「もし富みたければ、須らく猫裡務に往くべし。」網巾礁老という者がおり、最も凶悍で、海上で行劫し、舟は飄風の如く、これに遇えば免れる者がない。しかし特に商舶がその地に至らないことを悪み、偶々至る者があれば、これを甚だ善く待遇する。猫裡務は後に寇掠に遭い、人多く死傷し、地もまた貧困となった。商人は礁老に劫掠されることを慮り、赴く者は少ない。
美洛居
美洛居は、俗に米六合と訛り、東海中にあり、頗る饒富と称される。酋長が出れば、威儀甚だ備わり、配下は合掌して道傍に伏す。男子は髪を削り、女子は髪を椎結する。地に香山があり、雨後香が堕ち、流れに沿って満地となり、居民は拾い取って尽きることがない。その酋長は委積充棟し、商舶の売るのを待つ。東洋は丁香を産さないが、独りこの地にあり、邪を闢うことができる。故に華人多く市易する。
萬曆の時、佛郎機が来攻し、その酋長は戦いに敗れて降伏を請い、宥されて復位を許され、毎年丁香を貢物として充て、戍兵を置かずして去った。後に、紅毛番が海上に横行し、佛郎機の兵が既に退いたと知り、虚に乗じて直ちに城下に抵り、その酋長を捕らえ、これに告げて曰く、「汝もし我に善く仕えれば、我は汝が主となり、佛郎機よりも遥かに勝れよう」と。酋長は已むなく命を聴き、従前の如く復位した。佛郎機の酋長はこれを聞いて大いに怒り、兵を率いて来攻したが、途中で華人に殺され、その話は『呂宋傳』に詳しい。
当時、紅毛番は美洛居を占拠していたが、概ね一、二年ごとに衆を率いて本国に帰り、帰った後また来た。佛郎機の酋長の子が既に位を襲い、父の志を遂げようと、大挙して兵を率いて来襲したが、折しも紅毛番が既に去った後であったので、遂に美洛居を破り、その酋長を殺し、己の親信を立ててこれを主とした。間もなく、紅毛番が至り、またその城を破り、佛郎機の立てた酋長を逐い、美洛居の故王の子を立てた。ここより、毎年兵を構え、人々は命に堪えなかった。華人の流寓する者は、両国を遊説し、各々兵を罷めさせ、国中の萬老高山を分けて界とし、山の北を紅毛番に属し、南を佛郎機に属させ、ようやく少し休息するようになったが、美洛居は結局両国に分かたれた。
沙瑤
沙瑤は、吶嗶啴と連なっている。吶嗶啴は海辺にあり、沙瑤はやや山の奥に入り、いずれも呂宋に近い。男女ともに髪を蓄え椎結にし、男子は履を用い、婦女は跣足である。板を以て城とし、木を立て茅で覆って室とする。仏教を尊び、多く礼拝寺を建てる。男女の禁は甚だ厳しく、夫が前を行き、その婦が人と嘲笑すれば、夫は即ちその婦を刃にかけ、嘲笑した人は敢えて逃げず、その刺し切りに任せる。盗みは大小を問わず、輒ち死罪に論ず。妊婦が産みそうになると、水をかけてこれを灌ぎ、且つ水を以てその子を洗い、水中に置く、生まれてより水に慣れるのである。物産は甚だ乏しく、華人がその地で商うに携えるのは僅かに磁器、鍋釜の類であり、重いものは布に至って止まる。後に佛郎機が呂宋を占拠し、多く隣境を侵奪したが、この二国だけは号令が及ばなかった。
雞籠
雞籠山は彭湖嶼の東北にあり、故に北港と名付け、また東番ともいい、泉州から甚だ近い。地は深山大沢多く、聚落は散在する。君長なく、十五社あり、社の多いものは千人、少ないものは五、六百人である。徭役賦税なく、子女の多い者を雄とし、その号令を聴く。海中に居ながらも、海を酷く畏れ、舟を操ることを善くせず、老死するまで隣国と往来しない。
永樂の時、鄭和が東西洋を遍歴し、献琛せず恐れ後れるものはなかったが、ただ東番だけは遠く避けて至らなかった。和はこれを憎み、家ごとに銅鈴一つを贈り、諸々の項に掛けさせた、蓋しこれを狗国に擬したのである。その後、人々はかえってこれを宝とし、富者は数枚掴むに至り、曰く、「これは祖宗の遺したものだ」と。俗は勇を尚び、暇あれば即ち走ることを習い、一日に数百里も走り、奔馬にも譲らない。足の皮は数分厚く、荊棘を履むこと平地の如し。男女ともに椎結し、裸で追いかけ何ら避けるところがない。女は或いは草の裙を結んで体を蔽い、長老に遇えば背を向けて立ち、過ぎ去るのを待って行く。男子は耳に穴を穿つ。女子は十五歳になると、唇の傍の歯を断って飾りとし、手足に皆文を刺し、衆社ことごとく賀し、費えは計り知れない。貧しい者は賀を受けきれず、則ち刺すことを敢えてしない。四季、草の青い時を歳首とする。土は五穀に適するが、水田を善くしない。谷種が地に落ちると、則ち殺生を止め、好事を行い、天公を助け、飯食を乞うと謂う。収穫が済むと、即ち道に竹竿を標し、これを插青と謂い、この時は外人に逢えば便ち殺すのである。村落が仇を争うと、期を刻んで後に戦い、勇者数人が前へ跳び出て、殺されると即ち散る。勝った者は、衆がこれを賀し、曰く、「壮士は人を殺すことが出来る」と。負けた者は、家の衆もまたこれを賀し、曰く、「壮士は死を畏れない」と。翌日には、即ち和好して初めの如し。地には竹が多く、大きいものは数抱え、長さ十丈に及び、竹を以て屋を構え、茅でこれを覆い、広く且つ長く、族を聚めて居る。暦日、文字なく、大事あれば衆を集めてこれを議する。鏢槍を用いることを善くし、竹の柄に鉄の鏃、甚だ鋭く、鹿に試せば鹿は斃れ、虎に試せば虎もまた斃れる。性は既に海を畏れるので、魚を捕るには則ち溪澗に於いてする。冬月には衆を聚めて鹿を捕り、鏢を発すれば輒ち中り、積み上げること丘山の如し。ただ雞雉は食わず、ただその毛を取って飾りとする。中に大溪多く、海に流入し、水は淡く、故にその外を淡水洋と名付ける。
嘉靖の末、倭寇が閩を擾し、大将戚繼光がこれを破った。倭はここに遁れて居り、その党の林道乾がこれに従った。後に、道乾は倭に併せられることを懼れ、また官軍の追撃を懼れ、帆を揚げて直ちに浡泥に抵り、その辺地を攘って居り、道乾港と号した。而して雞籠は倭の焚掠に遭い、国は遂に残破した。初めは悉く海浜に居たが、倭難に遭って後、少しずつ山後に避けて居るようになった。忽ち中国の漁舟が魍港から飄流して至り、遂に往来して通販し、常と為した。萬曆の末に至り、紅毛番がここに舟を泊め、因って耕鑿に事とし、阛阓を設け、台湾と称した。
崇禎八年、給事中何楷が靖海の策を陳べ、言うには、「袁進、李忠、楊祿、楊策、鄭芝龍、李魁奇、鐘斌、劉香が相継いで乱を為してより、海上は歳として寧息する時がない。今、寇の気配を靖めんと欲すれば、その窟を墟とせざるべからず。その窟とは何ぞや。台湾これなり。台湾は彭湖島の外にあり、漳、泉より僅か二昼夜の行程に距たり、地は広くして肥沃である。初め、貧民が時にその地に至り、魚塩の利を図ったが、後には兵威の及ばぬのを見て、往々として聚まって盗となる。近頃では紅毛がその中に城を築き、奸民と互市し、屹然として一大部落を成している。これを墟とする計は、干戈を以て事とすべきではなく、必ずや通海の禁を厳しくし、紅毛が利を謀る由なく、奸民が食を得る由なくし、出兵して四方を犯せば、我が師はその虚に乗じてこれを撃ち、大いに志を得ることが出来よう。紅毛がこれを捨てて去れば、然る後に海の気配を靖めることが出来る」と。時に用いられなかった。
その地は、北は雞籠より、南は浪嶠に至るまで、約一千余里。東は多羅滿より、西は王城に至るまで、約九百余里。水道は、順風に乗れば、雞籠淡水より福州港口まで、五更で達し得る。台湾港より彭湖嶼まで、四更で達し得る。彭湖より金門まで、七更で達し得る。東北は日本まで、七十更で達し得る。南は呂宋まで、六十更で達し得る。蓋し海道は里を以て計るべからず、舟人は一昼夜を十更に分け、故に更を以て道里を計るという。
婆羅
婆羅は、また文萊ともいい、東洋の尽きるところ、西洋の起こる所である。唐の時に婆羅国があり、高宗の時常に貢ぎ入れた。永樂三年十月、使者を遣わして璽書、彩幣を齎し、その王を撫諭した。四年十二月、その国の東、西二王並びに使者を遣わし、表を奉って朝貢した。明年また貢いだ。
その地は山を背にし海に面し、仏教を尊び、殺生を憎み施しを喜ぶ。豚肉を食うことを禁じ、犯す者は死罪とする。王は髪を剃り、金繡の巾を裹き、双剣を佩き、出入りは徒歩し、従う者二百余人。礼拝寺があり、毎祭に犠牲を用いる。その貢ぐところは玳瑁、瑪瑙、硨磲、珠、白焦布、花焦布、降真香、黄蠟、黒小廝である。
萬曆の時、王となった者は閩人である。或いは言う、鄭和が婆羅に使いし時、閩人がこれに従い、因ってその地に留まり居たが、その後人が竟にその国を占拠してこれを王と為した、と。邸の傍に中国の碑がある。王は金印一つを持ち、篆文で、上に獣形を作り、永樂朝に賜わったものという。民間の嫁娶には、必ずこの印を請うて背中に印し、以て栄えと為す。後に佛郎機が横行し、挙兵して来撃した。王は国人を率いて山谷の中に走り入り、薬水を放ち、流れ出て、その人を毒殺すること数知れず、王は国に返ることが出来た。佛郎機は遂に呂宋を犯した。
麻葉甕
麻葉甕は、西南の海中にある。永楽三年十月、使者を遣わし璽書と賜物を携えてその国を招諭したが、ついに朝貢しなかった。占城の霊山より舟を放てば、順風十昼夜で交欄山に至り、その西南が即ち麻葉甕である。山は峻にして地は平ら、田は膏腴で、収穫は他国に倍する。海を煮て塩と為し、蔗を醸して酒と為す。男女は椎結し、長衫を衣て、布を以て之を囲む。俗は節義を尚び、婦は夫に喪えば、面を剺り髪を剃り、粒を絶つこと七日、屍と同寝し、多く死す。七日にして死なざれば、則ち親戚飲食を以て勧め、終身再び嫁がず。或いは焚屍の日に、亦た火に赴きて自焚す。玳瑁・木棉・黄蠟・檳榔・花布の属を産す。
交欄山は甚だ高く広く、竹木に富む。元の史弼・高興が爪哇を伐つに、風に遭いて此の山下に至り、舟多く壞れたるを以て、乃ち山に登り木を伐ちて重ねて造り、遂に爪哇を破る。其の病卒百余り、留め養いて帰らず、後益々蕃衍し、故に其の地は多く華人なり。
又た葛卜及び速児米囊の二国あり、亦た永楽三年に使者を遣わし璽書と賜物を持ちて招諭したが、竟に至らず。
古麻剌朗
古麻剌朗は、東南の海中の小国なり。永楽十五年九月、中官張謙を遣わし勅を齎して其の王干剌義亦奔敦を撫諭し、之に絨錦・纟寧絲・紗羅を賜う。十八年八月、王は妻子・陪臣を率いて謙に随い来朝し、方物を貢し、之を礼すること蘇祿国王の如し。王言う、「臣愚にして知無く、国人に推さるるも、然れども未だ朝命を受けず。幸いに封誥を賜い、仍って其の国号とせんことを。」之に従い、乃ち印誥・冠帯・儀仗・鞍馬及び文綺・金織襲衣を以て賜い、妃以下並びに賜う有り。明年正月辞して還るに、復た金銀銭・文綺・紗羅・彩帛・金織襲衣・麒麟衣を賜い、妃以下賜うに差有り。王還りて福建に至り、疾に遘いて卒す。礼部主事楊善を遣わし諭祭し、謚して康靖と曰い、有司墳を治め、王礼を以て葬る。其の子剌苾をして王を嗣がしめ、衆を率いて帰らしめ、鈔幣を賜う。
馮嘉施蘭
馮嘉施蘭も、亦た東洋の中の小国なり。永楽四年八月、其の酋嘉馬銀等来朝し、方物を貢し、鈔幣を賜うに差有り。六年四月、其の酋玳瑁・裡欲の二人、各其の属を率いて朝貢し、二人に鈔各百錠・文綺六表裏を賜い、其の従者も亦た賜う有り。八年復た来貢す。
文郎馬神
文郎馬神は、木を以て城と為し、其の半は山に倚る。酋は繍女数百人を蓄う。出でて象に乗れば、則ち繍女は衣履・刀剣及び檳榔盤を執りて従う。或いは舟を泛かば、則ち酋は床上に趺坐し、繍女は其の下に列坐し、之と相向かい、或いは以て舟を刺すに用い、威儀甚だ都し。民は多く水上に木を縛り、室を築きて居ること、三仏斉の如し。男女は五色布を以て頭を纏い、腹背多く袒け、或いは小袖衣を著け、頭を蒙いて入り、下体は幔を以て囲む。初め蕉葉を以て食器と為し、後ち華人と市すに及び、漸く磁器を用う。尤も磁甕を好み、龍を其の外に画き、死すれば則ち甕に貯えて以て葬る。其の俗は淫を悪み、奸する者は死を論ず。華人と女通ずれば、輒ち其の髪を削り、女を以て之に配し、永く帰るを聴かず。女は髪短きを苦しみ、華人に何を以てか長く致すかを問うに、之を紿いて曰く、「我華水を用いて之を沐すれば、故に長しと。」其の女之を信じ、競って船中の水を市して以て沐す。華人故に之を靳りて、笑端と為す。女或いは華人を悦べば、香蕉・甘蔗・茉莉を持ちて相贈遺し、多く之と調笑す。然れども其の法の厳しきを憚り、敢えて私通する者無し。
其の深山の中に村名を烏籠裡憚と為す有り、其の人尽く尾を生じ、人を見れば輒ち面を掩いて走り避く。然れども地は沙金に富み、商人貨を持ち往きて市する者は、小銅鼓を撃ちて号と為し、貨を地上に置き、即ち退きて丈許を引く。其の人乃ち前に視て、意に当たる者、金を旁に置く。主者は遥かに語りて售げんと欲すれば、則ち貨を持ち去り、然らずば金を懐いて以て帰り、言を交えず。産する所に犀牛・孔雀・鸚鵡・沙金・鶴頂・降香・蠟・藤席・惸藤・蓽撥・血竭・肉荳蔻・麞皮諸物有り。
鄰境に買哇柔と為す者有り、性凶狠にして、毎夜半人頭を盗み斬りて去り、金を以て之を装う。故に商人之を畏れ、夜必ず厳更を以て以て待つ。
初め、文郎馬神の酋に賢徳有り、商人を恩信を以て待つ。子三十一人、商舶を擾すを恐れ、外出を令さず。其の妻は乃ち買哇柔の酋長の妹なり、子を生みて父位を襲ぎ、其の母族の言を聴き、務めて欺詐を為し、多く商人の価直を負う、是より赴く者亦た稀なり。