明史

列伝第二百二十 西域四 撒馬児罕 沙鹿海牙 達失干 賽藍 養夷 渇石 迭里迷 卜花児 別失八里 哈烈 俺都淮 八答黒商 于闐 失剌思 俺的干 哈実哈児 亦思弗罕 火剌札 乞力麻児 白松虎児 答児密 納失者罕 敏真 日落 米昔児 黒婁 討来思 阿速 沙哈魯 天方 黙徳那 坤城 哈三等二十九部 魯迷

列伝第二百二十 西域四 撒馬児罕 沙鹿海牙 達失干 賽藍 養夷 渇石 迭里迷 卜花児 別失八里 哈烈 俺都淮 八答黒商 于闐 失剌思 俺的干 哈実哈児 亦思弗罕 火剌札 乞力麻児 白松虎児 答児密 納失者罕 敏真 日落 米昔児 黒婁 討来思 阿速 沙哈魯 天方 黙徳那 坤城 哈三等二十九部 魯迷

原文列傳第二百二十 西域四 撒馬兒罕 沙鹿海牙 達失干 賽藍 養夷 渴石 迭里迷 卜花兒 別失八里 哈烈 俺都淮 八答黑商 于闐 失剌思 俺的干 哈實哈兒 亦思弗罕 火剌札 乞力麻兒 白松虎兒 答兒密 納失者罕 敏真 日落 米昔兒 黑婁 討來思 阿速 沙哈魯 天方 默德那 坤城 哈三等二十九部 魯迷

撒馬児罕

原文撒馬兒罕

撒馬児罕は、即ち漢の罽賓の地であり、隋は漕国と曰い、唐は復た罽賓と名づけ、皆中国に通じた。元の太祖西域を蕩平し、尽く諸王・駙馬を以てこれが君長と為し、前代の国名を蒙古語に易え、始めて撒馬児罕の名有り。嘉峪関を去ること九千六百里。元末これが王と為る者は、駙馬帖木児なり。

原文撒馬兒罕,即漢罽賓地,隋曰漕國,唐復名罽賓,皆通中國。元太祖蕩平西域,盡以諸王、駙馬為之君長,易前代國名以蒙古語,始有撒馬兒罕之名。去嘉峪關九千六百里。元末為之王者,駙馬帖木兒也。

洪武中、太祖西域に通ぜんと欲し、屡々使を遣わして招諭すれども、遐方の君長未だ至る者無し。二十年九月、帖木児首めて回回満剌哈非思等を遣わして来朝し、馬十五、駱駝二を貢ぐ。詔して其の使を宴し、白金十有八錠を賜う。是より頻りに歳毎に馬駱駝を貢ぐ。二十五年兼ねて絨六匹、青梭幅九匹、紅緑撒哈剌各二匹及び鑌鉄刀剣・甲冑諸物を貢ぐ。而して其の国中の回回又自ら馬を駆りて涼州に抵り互市す。帝許さず、京に赴きてこれを鬻がしむ。元の時回回天下に遍く、是に及び甘粛に居る者尚ほ多し、詔して守臣悉くこれを遣わし、ここに撒馬児罕に帰する者千二百余人。

原文洪武中,太祖欲通西域,屢遣使招諭,而遐方君長未有至者。二十年九月,帖木兒首遣回回滿剌哈非思等來朝,貢馬十五,駝二。詔宴其使,賜白金十有八錠。自是頻歲貢馬駝。二十五年兼貢絨六匹,青梭幅九匹,紅綠撒哈剌各二匹及鑌鐵刀劍、甲胄諸物。而其國中回回又自驅馬抵涼州互市。帝不許,令赴京鬻之。元時回回遍天下,及是居甘肅者尚多,詔守臣悉遣之,於是歸撒馬兒罕者千二百餘人。

二十七年八月、帖木児馬二百を貢ぐ。其の表に曰く、「恭惟すらくは、大明大皇帝天の明命を受け、四海を統一し、仁徳洪布し、恩養庶類し、万国欣仰す。咸く上天天下を平治せんと欲し、特に皇帝を命じて運数に出で膺けしめ、億兆の主と為すを知る。光明広大、昭かに天鏡の若く、遠近有ること無く、咸くこれを照臨す。臣帖木児万里の外に僻在し、恭しく聖徳の寛大、万古を超越するを聞く。古より無きの福、皇帝皆これ有り。未だ服せざるの国、皇帝皆これを服す。遠方絶域、昏昧の地、皆清明なり。老者安楽ならざる無く、少者長遂せざる無く、善者福を蒙らざる無く、悪者懼れを知らざる無し。今又特に遠国に施恩せられ、凡そ商賈の中国に来る者、都邑・城池を観覧せしめ、富貴雄壮、昏暗の中より出でて、忽ち天日を睹るが如く、何ぞ幸いこれに如かんや。又敕書恩撫労問を承け、駅駅相通じ、道路壅ぐること無からしめ、遠国の人咸くその済うを得しむ。聖心を欽仰し、照世の杯の如く、臣が心中豁然として光明なり。臣が国中の部落、茲の徳音を聞き、歓舞感戴す。臣恩に報ゆる無く、惟だ天を仰ぎ聖寿福禄を祝頌し、天地の如く永永極まり無からんことを」。照世杯とは、其の国旧伝に杯光明洞徹有り、これを照らせば世事を知るべし、故に云う。帝表を得て、その文有るを嘉す。明年給事中傅安等を命じ璽書・幣帛を齎してこれに報ゆ。其の貢馬、一歳再び至り、千を以て計い、併せて宝鈔を賜いこれを償う。

原文二十七年八月,帖木兒貢馬二百。其表曰:「恭惟大明大皇帝受天明命,統一四海,仁德洪布,恩養庶類,萬國欣仰。咸知上天欲平治天下,特命皇帝出膺運數,為億兆之主。光明廣大,昭若天鏡,無有遠近,咸照臨之。臣帖木兒僻在萬里之外,恭聞聖德寬大,超越萬古。自古所無之福,皇帝皆有之。所未服之國,皇帝皆服之。遠方絕域,昏昧之地,皆清明之。老者無不安樂,少者無不長遂,善者無不蒙福,惡者無不知懼。今又特蒙施恩遠國,凡商賈之來中國者,使觀覽都邑、城池,富貴雄壯,如出昏暗之中,忽睹天日,何幸如之!又承敕書恩撫勞問,使站驛相通,道路無壅,遠國之人咸得其濟。欽仰聖心,如照世之杯,使臣心中豁然光明。臣國中部落,聞茲德音,歡舞感戴。臣無以報恩,惟仰天祝頌聖壽福祿,如天地永永無極。」照世杯者,其國舊傳有杯光明洞徹,照之可知世事,故云。帝得表,嘉其有文。明年命給事中傅安等齎璽書、幣帛報之。其貢馬,一歲再至,以千計,幷賜賓鈔償之。

成祖践祚し、使を遣わし敕諭して其の国に告ぐ。永楽三年、傅安等未だ還らず、而して朝廷帖木児別失八里を仮道し兵を率いて東すと聞き、敕して甘粛総兵官宋晟に備えを儆しむ。五年六月、安等還る。初め、安其の国に至り留められ、朝貢亦絶ゆ。尋ち人に令し安を導き諸国数万里を遍歴せしめ、以て其の国の広大を誇る。是に至り帖木児死し、其の孫哈里嗣ぎ、乃ち使臣虎歹達等を遣わし安を送り還し、方物を貢ぐ。帝厚く其の使を賚し、指揮白阿児忻台等を遣わし往きて故王を祭り、而して新王及び部落に銀幣を賜う。其の頭目沙里奴児丁等も亦駱駝馬を貢ぐ。安等を命じ其の王に綵幣を賜い、貢使と偕に行かしむ。七年、安等還り、王使を遣わし随いて入貢す。此れより後、或いは比年、或いは一歳を間い、或いは三歳、輒ち入貢す。十三年使を遣わし李達・陳誠等に随い入貢す。辞して帰らんとするに及び、誠及び中官魯安を命じ偕に往き、其の頭目兀魯伯等に白銀・彩幣を賜う。其の国復た使を遣わし誠等に随い入貢す。十八年復た誠及び中官郭敬を命じ敕及び彩幣を齎してこれに報ゆ。宣徳五年秋・冬、頭目兀魯伯米児咱等使を遣わし再び入貢す。七年中官李貴等を遣わし文綺・羅錦を齎し其の国に賜う。

原文成祖踐阼,遣使敕諭其國。永樂三年,傅安等尚未還,而朝廷聞帖木兒假道別失八里率兵東,敕甘肅總兵官宋晟儆備。五年六月,安等還。初,安至其國被留,朝貢亦絕。尋令人導安遍歷諸國數萬里,以誇其國廣大。至是帖木兒死,其孫哈里嗣,乃遣使臣虎歹達等送安還,貢方物。帝厚賚其使,遣指揮白阿兒忻台等往祭故王,而賜新王及部落銀幣。其頭目沙里奴兒丁等亦貢駝馬。命安等賜其王綵幣,與貢使偕行。七年,安等還,王遣使隨入貢。自後,或比年,或間一歲,或三歲,輒入貢。十三年遣使隨李達、陳誠等入貢。暨辭歸,命誠及中官魯安偕往,賜其頭目兀魯伯等白銀、彩幣。其國復遣使隨誠等入貢。十八年復命誠及中官郭敬齎敕及彩幣報之。宣德五年秋、冬,頭目兀魯伯米兒咱等遣使再入貢。七年遣中官李貴等齎文綺、羅錦賜其國。

正統四年良馬を貢ぎ、色玄く、蹄額皆白し。帝これを愛し、命じて其の像を図し、名を瑞駂と賜い、賞賚加わる。十年十月書を以て其の王兀魯伯曲烈乾に諭して曰く、「王遠く西陲に処り、恪く職貢を修め、良く嘉尚に足る。使回り、特に王及び王の妻子に彩幣表裏を賜い、朕が優待の意を示す」。別に敕して金玉器・龍首杖・細馬鞍及び諸色の織金文綺を賜い、其の使臣を指揮僉事に官す。

原文正統四年貢良馬,色玄,蹄額皆白。帝愛之,命圖其像,賜名瑞駂,賞賚有加。十年十月書諭其王兀魯伯曲烈乾曰:「王遠處西陲,恪修職貢,良足嘉尚。使回,特賜王及王妻子彩幣表裏,示朕優待之意。」別敕賜金玉器、龍首杖、細馬鞍及諸色織金文綺,官其使臣為指揮僉事。

景泰七年馬駱駝・玉石を貢ぐ。礼官言く、「旧制賞を与うること太重し。今正・副使一等・二等の賞物を与うべき者は、旧時の如くす。三等人には綵緞四表裏、絹三匹、織金紵絲衣一襲を与う。其の随行の鎮撫・舎人以下は、逓減差等有り。進むる所の阿魯骨馬は毎匹彩緞四表裏・絹八匹、駱駝は三表裏・絹十匹、達達馬は等第を分かたず、毎匹紵絲一匹・絹八匹・折鈔絹一匹、中等馬もこれに如く、下等の者も亦逓減差等有り」。制可す。又言く、「貢ぐる所の玉石、用に堪うる者は止む二十四塊、六十八斤、余り五千九百余斤は用に適せず、宜しく自ら鬻がしむべし。而して彼堅く進献せんと欲し、請う毎五斤に絹一匹を賜わんことを」。亦これを可とす。已にして使臣還り、王卜撒因に文綺・器物を賜う。天順元年都指揮馬雲等を命じ西域に使いし、敕して其の鎖魯檀毋撒を奨め、彩幣を賜い、朝使の往還を護らしむ。鎖魯檀とは、君長の称、蒙古の可汗に猶し。七年復た指揮詹升等を命じ其の国に使わす。

原文景泰七年貢馬駝、玉石。禮官言:「舊制給賞太重。今正、副使應給一等、二等賞物者,如舊時。三等人給綵緞四表裏,絹三匹,織金紵絲衣一襲。其隨行鎮撫、舍人以下,遞減有差。所進阿魯骨馬每匹彩緞四表裏、絹八匹,駝三表裏、絹十匹,達達馬不分等第,每匹紵絲一匹、絹八匹、折鈔絹一匹,中等馬如之,下等者亦遞減有差。」制可。又言:「所貢玉石,堪用者止二十四塊,六十八斤,餘五千九百餘斤不適於用,宜令自鬻。而彼堅欲進獻,請每五斤賜絹一匹。」亦可之。已而使臣還,賜王卜撒因文綺、器物。天順元年命都指揮馬雲等使西域,敕獎其鎖魯檀毋撒,賜彩幣,令護朝使往還。鎖魯檀者,君長之稱,猶蒙古可汗也。七年復命指揮詹升等使其國。

成化中、其の鎖魯檀阿黒麻三たび入貢す。十九年亦思罕の酋長と偕に二獅子を貢ぎ、粛州に至り、其の使者大臣の往き迎うるを奏請す。職方郎中陸容言く、「これ無用の物、郊廟に在りては犠牲と為すべからず、乗輿に在りては驂服と被るべからず、宜しく受くる勿れ」。礼官周洪謨等も亦往き迎うるは礼に非ずと言う、帝卒に中使を遣わしこれを迎う。獅子は日に生羊二を噉み、醋・酐・蜜酪各二瓶。獅子を養う者は、光禄日に酒饌を与う。帝既に厚く賜賚を加うるも、而其の使者怕六湾以て軽しと為し、永楽間の例を援りて請う。礼官議して正統四年の例に従い、彩幣五表裏を加う。使者復た以て軽しと為し、乃ち正・副使各二表裏を加え、従者はこれに半ばし、中官韋洛・鴻臚署丞海濱を命じこれを送り還す。其の使者故道に由らず広東に赴き、又多く良家の女を買い妻妾と為す、洛等これを禁止せず。久しくして、洛上疏して罪を濱に委ね、濱吏に下る。其の使者海を泛びて満剌加に至り狻猊を市い以て献ぜんことを請い、市舶中官韋眷これを主とす、布政使陳選力陳して不可とす、乃ち已む。

原文成化中,其鎖魯檀阿黑麻三入貢。十九年偕亦思罕酋長貢二獅,至肅州,其使者奏請大臣往迎。職方郎中陸容言:「此無用之物,在郊廟不可為犧牲,在乘輿不可被驂服,宜勿受。」禮官周洪謨等亦言往迎非禮,帝卒遣中使迎之。獅日噉生羊二,醋、酐、蜜酪各二瓶。養獅者,光祿日給酒饌。帝既厚加賜賚,而其使者怕六灣以為輕,援永樂間例為請。禮官議從正統四年例,加彩幣五表裏。使者復以為輕,乃加正、副使各二表裏,從者半之,命中官韋洛、鴻臚署丞海濱送之還。其使者不由故道赴廣東,又多買良家女為妻妾,洛等不為禁止。久之,洛上疏委罪於濱,濱坐下吏。其使者請泛海至滿剌加市狻猊以獻,市舶中官韋眷主之,布政使陳選力陳不可,乃已。

弘治二年(1489年)、その使節は満剌加(マラッカ)を経て広東に至り、獅子・鸚鵡などの物を貢いだので、守臣がこれを奏聞した。礼官の耿裕らが言うには、「南海は西域の貢道ではないので、退けるよう請う」と。礼科給事中の韓鼎らもまた言うには、「凶暴な獣は親しんで遊ぶに適さず、しかも道路を騒がせ、供給費用は莫大で、受け入れるべきではない」と。帝は言った、「珍禽奇獣は朕は献上を受けない。まして正道から来たものでもない。すぐに退還せよ。守臣は制に違反したので罪に当たるが、暫くこれを許す」と。礼官はまた言った、「海路は固より開くべきではないが、あまりに絶ち切るのも良くない。薄くその使節を犒労し、量を計って綺帛をその王に賜うよう請う」と。制はこれを許可した。翌年また土魯番とともに獅子及び哈剌・虎剌などの獣を貢ぎ、甘粛から入った。鎮守中官の傅徳・総兵官の周玉らは先に図形を描いて奏聞し、すぐに人を駅伝で馳せて送り出した。ただ巡按御史の陳瑤のみがその浪費と煩わしさを論じて、受け入れないよう請うた。礼官はその言の通りに議し、量を計って犒賞こうしょうを与え、かつ言うには、「聖明の御世に在り、たびたび貢献を退けているのに、傅徳らは徳意を奉行できず、その罪を請う」と。帝は言った、「貢使は既に到着した以上、退ける必要はない。ただ一二人を京に遣わすだけでよい。獅子などの物は、獣一頭につき一日に羊一頭を与え、妄りに費やすな。傅徳らは許して処罰しない」と。その後、十二年(1499年)になって初めて来貢した。翌年また至った。そして正徳年間(1506-1521年)にもなおたびたび至った。

原文弘治二年,其使由滿剌加至廣東,貢獅子、鸚鵡諸物,守臣以聞。禮官耿裕等言:「南海非西域貢道,請卻之。」禮科給事中韓鼎等亦言:「猙獰之獸,狎玩非宜,且騷擾道路,供費不貲,不可受。」帝曰:「珍禽奇獸,朕不受獻,況來非正道,其即卻還。守臣違制宜罪,姑貸之。」禮官又言:「海道固不可開,然不宜絕之已甚,請薄犒其使,量以綺帛賜其王。」制可。明年又偕土魯番貢獅子及哈剌、虎剌諸獸,由甘肅入。鎮守中官傅德、總兵官周玉等先圖形奏聞,即遣人馳驛起送。獨巡按御史陳瑤論其糜費煩擾,請勿納。禮官議如其言,量給犒賞,且言:「聖明在御,屢卻貢獻,德等不能奉行德意,請罪之。」帝曰:「貢使既至,不必卻回,可但遣一二人詣京。獅子諸物,每獸日給一羊,不得妄費。德等貸勿治。」後至十二年始來貢。明年復至。而正德中猶數至。

嘉靖二年(1523年)、貢使がまた至った。礼官が言うには、「諸国の使臣は道中で延び延びとなり年を隔て、在京の者は同じ賞賜を待ち受け、光禄寺・郵伝の供給費用は莫大である。期約を示すべきである」と。そこで禁制の数事を列挙して上奏し、これに従った。十二年(1533年)、天方・土魯番とともに入貢し、王と称する者が百余人に至った。礼官の夏言らがその非を論じ、閣臣に勅して答えるところを議するよう請うた。張孚敬らが言うには、「西域の諸王は、本国の封授によるものか、あるいは部落が自ら尊称したものと疑われる。先年にも三四十人に至ったことがあり、その称するところに基づいて答えてきた。急に裁革を議すれば、人情が望みを失う恐れがある。改めて礼・兵二部に詳しく議するよう乞う」と。そこで夏言及び枢臣の王憲らが謂うには、「西域で王を称するのは、ただ土魯番・天方・撒馬児罕のみである。日落などの国は、称する名は多くとも、朝貢は極めて少ない。弘治・正徳年間、土魯番は十三回入貢し、正徳年間、天方は四回入貢したが、王を称する者は概ね一人で、多くても三人を超えず、その他はただ頭目と称するのみであった。嘉靖二年・八年に至って、天方は六七人に多くなり、土魯番は十一二人に、撒馬児罕は二十七人に至った。張孚敬らが言う三四十人というのは、三国の数を合わせたものである。今、土魯番十五王、天方二十七王、撒馬児罕五十三王というのは、実にこれまでになかったことである。弘治の時に回賜した勅書は、ただ一王を称したのみである。もし撒馬児罕の往年の故事に倣い、王号に類して答え、人ごとに一勅を与えるならば、中国を尊び外蕃を制する道ではない。そもそも帝王が外蕃を馭するには、その来ることを拒まないが、必ず制をもって限るものである。もし名号が差し出て僭越し、言詞が侮慢であれば、必ず大義を正し、その無礼を責めるのである。今、本国の封じたものというなら、なぜ故牘に見えないのか。部落が自ら号したものというなら、どうして天朝に達したのか。我々が一概に勅を与えれば、彼らは即ち勅に拠って恣意に往来し、ますます郵伝を擾し、供億を費やし、府庫を尽くして谿壑を満たすことになり、得策ではない」と。帝はその言を容れ、一国につきただ一勅を与えるのみとし、かつ詰責して、国に二王無きの義を示した。しかし諸蕃は結局従わず、十五年(1536年)の入貢はまた以前の通りであった。甘粛巡撫の趙載が奏すには、「諸国で王を称する者が百五十余人に至り、いずれも本朝の封爵ではない。改正を命じ、かつ貢使の名数を定めるべきである。通事には漢人を用い、専ら色目人を用いて、交通して紛争を生じさせないようにすべきである」と。部議はこれに従った。二十六年(1547年)に入貢し、甘粛巡撫の楊博が朝貢事宜を再定するよう請うたので、礼官がまた数事を列挙して施行した。その後入貢は、万暦年間(1573-1620年)の中頃まで絶えなかった。おそらく番人は商売に長け、中華の互市を貪り、一旦入境すれば、一切の飲食・道途の費用を有司から取ったので、五年一貢と定めても、結局従おうとせず、天朝もまたどうすることもできなかったのである。

原文嘉靖二年,貢使又至。禮官言:「諸國使臣在途者遷延隔歲,在京者伺候同賞,光祿、郵傳供費不貲,宜示以期約。」因列上禁制數事,從之。十二年偕天方、土魯番入貢,稱王者至百餘人。禮官夏言等論其非,請敕閣臣議所答。張孚敬等言:「西域諸王,疑出本國封授,或部落自相尊稱。先年亦有至三四十人者,即據所稱答之。若驟議裁革,恐人情觖望,乞更敕禮、兵二部詳議。」於是言及樞臣王憲等謂:「西域稱王者,止土魯番、天方、撒馬兒罕。如日落諸國,稱名雖多,朝貢絕少。弘、正間,土魯番十三入貢,正德間,天方四入貢,稱王者率一人,多不過三人,餘但稱頭目而已。至嘉靖二年、八年,天方多至六七人,土魯番至十一二人,撒馬兒罕至二十七人。孚敬等言三四十人者,幷數三國爾。今土魯番十五王,天方二十七王,撒馬兒罕五十三王,實前此所未有。弘治時回賜敕書,止稱一王。若循撒馬兒罕往歲故事,類答王號,人與一敕,非所以尊中國制外蕃也。蓋帝王之馭外蕃,固不拒其來,亦必限以制,其或名號僭差,言詞侮慢,則必正以大義,責其無禮。今謂本國所封,何以不見故牘?謂部落自號,何以達之天朝?我概給以敕,而彼即據敕恣意往來,恐益擾郵傳,費供億,殫府庫以實谿壑,非計之得也。」帝納其言,國止給一敕,且加詰讓,示以國無二王之義。然諸蕃迄不從,十五年入貢復如故。甘肅巡撫趙載奏:「諸國稱王者至一百五十餘人,皆非本朝封爵,宜令改正,且定貢使名數。通事宜用漢人,毋專用色目人,致交通生釁。」部議從之。二十六年入貢,甘肅巡撫楊博請重定朝貢事宜,禮官復列數事行之。後入貢,迄萬曆中不絕。蓋番人善賈,貪中華互市,既入境,則一切飲食、道途之資,皆取之有司,雖定五年一貢,迄不肯遵,天朝亦莫能難也。

その国は東西三千余里、地は広く平らで、土壤は膏腴である。王の居る城は、広さ十余里、民居は稠密である。西南の諸蕃の貨物は皆ここに集まり、富饒と号される。城の東北に土屋があり、天を拝む所で、規制は精巧で、柱は皆青石、花文を彫り、中に経を講ずる堂を設ける。泥金で経を書き、羊皮で包む。俗は酒を禁ずる。人物は秀美で、工巧は哈烈(ヘラート)に勝り、風俗・土産は多くこれと同様である。その傍近く、東に沙鹿海牙・達失干・賽藍・養夷があり、西に渴石・迭里迷などの部落があり、皆これに役属している。

原文其國東西三千餘里,地寬平,土壤膏腴。王所居城,廣十餘里,民居稠密。西南諸蕃之貨皆聚於此,號為富饒。城東北有土屋,為拜天之所,規制精巧,柱皆青石,雕為花文,中設講經之堂。用泥金書經,裹以羊皮。俗禁酒。人物秀美,工巧過於哈烈,而風俗、土產多與之同。其旁近東有沙鹿海牙、達失干、賽藍、養夷,西有渴石、迭里迷諸部落,皆役屬焉。

沙鹿海牙

原文沙鹿海牙

沙鹿海牙は、西へ撒馬児罕を去ること五百余里。城は小岡の上にあり、西北は河に臨む。河の名は火站、水勢は衝きて急で、浮梁を架して渡り、また小舟もある。南は山に近く、人は多く崖谷に依って住む。園林は広く茂る。西に大沙洲あり、およそ二百里。水は無く、あっても塩辛くて飲めない。牛馬が誤ってこれを飲めば、たちまち死ぬ。地に臭草が生え、高さ一尺余、葉は蓋の如く、その液を煮て膏と成し、即ち阿魏である。また小草あり、高さ一二尺、叢生し、秋深く露凝れば、これを食うと蜜の如く、煮て糖とし、番名は達郎古賓という。

原文沙鹿海牙,西去撒馬兒罕五百餘里。城居小岡上,西北臨河。河名火站,水勢衝急,架浮梁以渡,亦有小舟。南近山,人多依崖谷而居。園林廣茂。西有大沙洲,可二百里。無水,間有之,咸不可飲。牛馬誤飲之,輒死。地生臭草,高尺餘,葉如蓋,煮其液成膏,即阿魏。又有小草,高一二尺,叢生,秋深露凝,食之如蜜,煮為糖,番名達郎古賓。

永楽年間(1403-1424年)、李達・陳誠がその地に使いし、その酋長はすぐに使節を遣わして貢を奉じた。宣徳七年(1432年)、中官の李貴に命じて勅を齎しその酋長を諭し、金織文綺・彩幣を賜った。

原文永樂間,李達、陳誠使其地,其酋即遣使奉貢。宣德七年命中官李貴齎敕諭其酋,賜金織文綺、彩幣。

達失干

原文達失干

達失干は、西へ撒馬児罕を去ること七百余里。城は平原にあり、周囲二里。外に園林多く、果木に富む。土は五穀に適す。民居は稠密である。李達・陳誠・李貴の使節は、沙鹿海牙と同じである。

原文達失干,西去撒馬兒罕七百餘里。城居平原,周二里。外多園林,饒果木。土宜五穀。民居稠密。李達、陳誠、李貴之使,與沙鹿海牙同。

賽藍

原文賽藍

賽藍は、達失干の東にあり、西へ撒馬児罕を去ること千余里。城郭あり、周囲二、三里。四面平らかで広く、居人は繁庶である。五穀は茂って殖え、また果木に富む。夏秋の間、草の中に黒い小蜘蛛が生ずる。人に刺されれば、遍体痛んで耐え難く、必ず薄荷の枝で痛む所を払い、また羊の肝で擦り、経を誦すること一昼夜、痛みがようやく止み、体膚は尽く蛻ける。六畜で傷つけられた者は多く死ぬ。凡そ宿泊するには、必ず水に近い地を選んでこれを避ける。元太祖の時、都元帥の薛塔剌海が賽藍諸国に従征し、砲で功を立てたのが、即ちこの地である。陳誠・李貴の使節は、諸国と同じである。

原文賽藍,在達失干之東,西去撒馬兒罕千餘里。有城郭,周二三里。四面平曠,居人繁庶。五穀茂殖,亦饒果木。夏秋間,草中生黑小蜘蛛。人被螫,遍體痛不可耐,必以薄荷枝掃痛處,又用羊肝擦之,誦經一晝夜,痛方止,體膚盡蛻。六畜被傷者多死。凡止宿,必擇近水地避之。元太祖時,都元帥薛塔剌海從征賽藍諸國,以炮立功,即此地也。陳誠、李貴之使,與諸國同。

養夷

原文養夷

養夷は、賽藍の東三百六十里にある。城は乱山の間にあり。東北に大溪あり、西流して巨川に入る。百里行けば、荒城が多い。おそらくその地は別失八里・蒙古部落の間に介在し、たびたび侵擾を受けたためであろう。この故に人民は散亡し、ただ戍卒数百人が孤城に住み、破れた廬屋と頽れた垣、蕭然として榛莽と化している。永楽の時、陳誠がその地に至った。

原文養夷,在賽藍東三百六十里。城居亂山間。東北有大溪,西流入巨川。行百里,多荒城。蓋其地介別失八里、蒙古部落之間,數被侵擾。以故人民散亡,止戍卒數百人居孤城,破廬頺垣,蕭然榛莽。永樂時,陳誠至其地。

渴石

原文渴石

カシュ(渴石)は、サマルカンドの西南三百六十里にある。城は大村にあり、周囲十余里。宮室は壮麗で、堂は玉石を柱とし、壁や窓枠はことごとく金碧で飾り、瑠璃をちりばめる。その昔、サマルカンドの首長で駙馬(王族の婿)のティムール(帖木兒)がここに住んだ。城外はすべて水田である。東南は山に近く、園林が多い。西へ十里余り行くと、珍しい木が豊富にある。さらに西へ三百里行くと、大山が屹立し、中に石の峡谷があり、両岸は斧で割ったようである。二三里行って峡谷の出口を出ると、石の門があり、色は鉄に似て、道は東西に通じ、蕃人はこれを鉄門関と号し、兵を置いて守っている。あるいは言うには、元の太祖(チンギス・ハン)が東インドの鉄門関に至り、一角獣に遇い、人の言葉を話すことができた、すなわちこの地であるという。

原文渴石,在撒馬兒罕西南三百六十里。城居大村,周十餘里。宮室壯麗,堂以玉石為柱,牆壁窗牖盡飾金碧,綴琉璃。其先,撒馬兒罕酋長駙馬帖木兒居之。城外皆水田。東南近山,多園林。西行十餘里,饒奇木。又西三百里,大山屹立,中有石峽,兩崖如斧劈。行二三里出峽口,有石門,色似鐵,路通東西,番人號為鐵門關,設兵守之。或言元太祖至東印度鐵門關,遇一角獸,能人言,即此地也。

ディルミズ(迭里迷)

原文迭里迷

ディルミズ(迭里迷)は、サマルカンドの西南にあり、ヘラート(哈烈)から二千余里離れている。新旧二城があり、互いに十余里離れており、その首長は新城に住む。城内と城外の住民はわずか数百軒で、牧畜は繁殖する。城はアム川(阿朮河)の東岸にあり、魚が多い。川の東の地はサマルカンドに属し、西は葦原が多く、獅子を産する。陳誠と李達はかつてこの地に使節として赴いた。

原文迭里迷,在撒馬兒罕西南,去哈烈二千餘里。有新舊二城,相去十餘里,其酋長居新城。城內外居民僅數百家,畜牧蕃息。城在阿朮河東,多魚。河東地隸撒馬兒罕,西多蘆林,產獅子。陳誠、李達嘗使其地。

ブハラ(卜花兒)

原文卜花兒

ブハラ(卜花兒)は、サマルカンドの西北七百余里にある。城は平野にあり、周囲十余里、戸数は万を数える。市街は繁華で、富庶と称される。地勢は低く、季節を通じて温暖で、五穀や桑麻に適し、絹綿や布帛が多く、六畜も豊かである。

原文卜花兒,在撒馬兒罕西北七百餘里。城居平川,周十餘里,戶萬計。市里繁華,號為富庶。地卑下,節序嘗溫,宜五穀桑麻,多絲綿布帛,六畜亦饒。

永楽十三年、陳誠が西域から帰還し、経由したヘラート、サマルカンド、ベシバリク(別失八里)、アンドフイ(俺都淮)、バダフシャン(八答黑商)、ディルミズ、シャフリサブズ(沙鹿海牙)、サイラム(賽藍)、カシュ、ヤンギ(養夷)、ホーチョウ(火州)、リューチョン(柳城)、トルファン(土魯番)、ヤンゼ(鹽澤)、ハミ(哈密)、タシケント(達失干)、ブハラの凡そ十七カ国について、その山川、人物、風俗を詳しく記し、『使西域記』を作って献上したので、これによって中国はそれらを考察することができた。宣徳七年、李達に命じて西域を慰撫させたが、ブハラもその中に含まれた。

原文永樂十三年,陳誠自西域還,所經哈烈、撒馬兒罕、別失八里、俺都淮、八答黑商、迭里迷、沙鹿海牙、賽藍、渴石、養夷、火州、柳城、土魯番、鹽澤、哈密、達失干、卜花兒凡十七國,悉詳其山川、人物、風俗,為《使西域記》以獻,以故中國得考焉。宣德七年命李達撫諭西域,卜花兒亦與焉。

ベシバリク(別失八里)

原文別失八里

ベシバリク(別失八里)は、西域の大国である。南は于闐に接し、北はオイラト(瓦剌)に連なり、西はサマルカンドに至り、東はホーチョウ(火州)に至り、東南は嘉峪関から三千七百里の距離にある。あるいは焉耆と言い、あるいは亀茲と言う。元の世祖の時に宣慰司を設置し、まもなく元帥府に改め、その後は諸王を以てこれを鎮守させた。

原文別失八里,西域大國也。南接于闐,北連瓦剌,西抵撒馬兒罕,東抵火州,東南距嘉峪關三千七百里。或曰焉耆,或曰龜茲。元世祖時設宣慰司,尋改為元帥府,其後以諸王鎮之。

洪武年間、藍玉が沙漠を征伐し、ブイル湖(捕魚兒海)に至り、サマルカンドの商人数百名を捕らえた。太祖は官吏を遣わして彼らを送還させたが、道中ベシバリクを経由した。その王クイドゥル・ホージャ(黑的兒火者)は、直ちに千戸ハマルッディーン(哈馬力丁)らを遣わして来朝させ、馬と海東青を貢ぎ、二十四年七月に京師に到着した。帝は喜び、王に彩幣十表裏を賜い、その使者らにも賜物があった。九月、主事の寛徹、御史の韓敬、評事の唐鉦を西域に使節として派遣した。書を以てクイドゥル・ホージャに諭して言うには、「朕は普天の下、后土の上において、国を持つ者が幾つあるか知らない。山に限られ海に隔てられ、風俗が異なるとはいえ、好悪の情、血気の類は、異なることはない。皇天は眷佑し、ただ一視同仁である。故に天命を受けて天下の主となる者は、上は天道を奉じ、一視同仁とし、大小諸国、遠方異類の君主と民をして、皆仁寿の域に至らしめる。そして友邦遠国は、天に順い大に事えて、国を保ち民を安んじるならば、皇天はこれを監み、またよく栄えさせるであろう。かつて我が中国の宋の君主は、奢侈で怠惰で、奸臣が政を乱した。天はその否徳を監み、ここに元の世祖に命じて朔漠に基を肇めさせ、中華を統べ入らしめ、生民はこれによって安靖を得ること七十余年であった。後嗣に至っては、国政を修めず、人を得ずに任用し、ついに綱紀はことごとく弛み、強きは弱きを陵ぎ、衆きは寡きを暴き、民生は嗟怨し、上は天に達した。天はこれによってその命を革め、朕に属した。朕は躬から乾符を握り、以て黔黎を主とする。凡そ諸々の乱雄で声教を擅にし朕の命に違う者は兵を以てこれを偃し、朕の命に順う者は徳を以てこれを撫す。この故に三十年の間、諸夏は奠安し、外蕃は賓服した。ただ元の臣蛮子ハラージャン(哈剌章)らがなお残った衆を率い、隙を作って辺境を寇し、師を興して討つは、勢い已むを得ない。兵はブイル湖に至り、故元の諸王、駙馬はその部属を率いて来降した。サマルカンドの数百人が貿易に来ていた者があり、朕は官吏に命じて護送して帰らせてから既に三年になる。使者が帰ると、王は直ちに使節を遣わして来貢した。朕は甚だこれを嘉する。王はますます大に事える誠を堅くし、通好往来し、使命を絶やさないならば、封国を悠久に保つことになろう。特に官吏を遣わして労い嘉する。朕の意を悉くせよ。」徹らが到着すると、王は彼らに厚い賜物がないとして、拘留した。敬と鉦の二人は帰還できた。

原文洪武中,藍玉征沙漠,至捕魚兒海,獲撒馬兒罕商人數百。太祖遣官送之還,道經別失八里。其王黑的兒火者,即遣千戶哈馬力丁等來朝,貢馬及海青,以二十四年七月達京師。帝喜,賜王彩幣十表裏,其使者皆有賜。九月命主事寬徹、御史韓敬、評事唐鉦使西域。以書諭黑的兒火者曰:「朕觀普天之下,后土之上,有國者莫知其幾。雖限山隔海,風殊俗異,然好惡之情,血氣之類,未嘗異也。皇天眷佑,惟一視之。故受天命為天下主者,上奉天道,一視同仁,俾巨細諸國,殊方異類之君民,咸躋乎仁壽。而友邦遠國,順天事大,以保國安民,皇天監之,亦克昌焉。曩者我中國宋君,奢縱怠荒,奸臣亂政。天監否德,於是命元世祖肇基朔漠,入統中華,生民賴以安靖七十餘年。至於後嗣,不修國政,任用非人,致幻綱盡弛,強陵弱,眾暴寡,民生嗟怨,上達於天。天用是革其命,屬之於朕。朕躬握乾符,以主黔黎。凡諸亂雄擅聲教違朕命者兵偃之,順朕命者德撫之。是以三十年間,諸夏奠安,外蕃賓服。惟元臣蠻子哈剌章等尚率殘眾,生釁寇邊,興師致討,勢不容已。兵至捕魚兒海,故元諸王、駙馬率其部屬來降。有撒馬兒罕數百人以貿易來者,朕命官護歸已三年矣。使者還,王即遣使來貢,朕甚嘉之。王其益堅事大之誠,通好往來,使命不絕,豈不保封國於悠久乎?特遣官勞嘉,其悉朕意。」徹等既至,王以其無厚賜,拘留之。敬、鉦二人得還。

三十年正月、再び官吏を遣わして書を齎し、これを諭して言うには、「朕が即位して以来、西方の諸商人が我が中国に来て互市する者を、辺将は阻絶したことがない。朕はまた吏民に命じて善く遇させた。これによって商人は利益を得、国境は擾乱なく、これは我が中華が爾国に大いに恵みを与えたことである。前に寛徹らを爾らの諸国に遣わして通好させたのに、何故今に至るも帰還しないのか。吾は諸国に対して、一人も拘留したことはないのに、爾はかえって吾が使節を拘留する。これは理であろうか。この故に近年、回回が国境に入る者も、中国で互市させ、徹が帰還するのを待って放還させた。後に諸人が父母妻子があると言うので、吾はその至情を思いやり、ことごとく釈放して帰らせた。今また使節を遣わして爾を諭し、朝廷の恩意を知らしめる。道路を梗塞させて、兵端を開くに至らしめるな。『書経』に言う、『怨みは大に在らず、亦た小に在らず。恵まず、勧まず。』爾は恵み且つ勧めよ。」徹はようやく帰還できた。

原文三十年正月復遣官齎書諭之曰:「朕即位以來,西方諸商來我中國互市者,邊將未嘗阻絕。朕復敕吏民善遇之,由是商人獲利,疆埸無擾,是我中華大有惠於爾國也。前遣寬徹等往爾諸國通好,何故至今不返?吾於諸國,未嘗拘留一人,而爾顧拘留吾使,豈理也哉!是以近年回回入境者,亦令於中國互市,待徹歸放還。後諸人言有父母妻子,吾念其至情,悉縱遣之。今復使使諭爾,俾知朝廷恩意,毋梗塞道路,致啟兵端。《書》曰:『怨不在大,亦不在小。惠不惠,懋不懋。』爾其惠且懋哉。」徹乃得還。

成祖が即位した冬、官吏を遣わして璽書と綵幣を齎し、その国に赴かせた。間もなく、クイドゥル・ホージャが卒去し、子のシャム・イ・ジャハーン(沙迷查干)が嗣いだ。永楽二年、使節を遣わして玉璞と名馬を貢ぎ、宴と賜物は通常より多かった。時にハミの忠順王安克帖木兒がカガン・ギュリチ(可汗鬼力赤)に毒殺されると、シャム・イ・ジャハーンは師を率いてこれを討った。帝はその義を嘉し、使節を遣わして綵幣を賜い、嗣いだ忠順王トクト(脱脫)と和睦させるよう命じた。四年夏、来貢したので、鴻臚寺丞の劉帖木兒に命じて勅書と幣物を齎し、労い賜わり、その使者と同行させた。秋、冬および翌年の夏、三度入貢し、ついでサマルカンドは本来その先代の故地であると言い、兵を以てこれを回復することを請うた。宦官の把太、李達および劉帖木児に命じて勅書を齎し、審度して行動し、軽挙するなと戒め、これによって綵幣を賜った。六年、太らが帰還し、シャム・イ・ジャハーンは既に卒去し、弟のマハマド(馬哈麻)が嗣いだと報告した。帝は直ちに太らを遣わして祭奠させ、併せてその新王に賜物を与えた。

原文成祖即位之冬,遣官齎璽書綵幣使其國。未幾,黑的兒火者卒,子沙迷查干嗣。永樂二年遣使貢玉璞、名馬,宴賚有加。時哈密忠順王安克帖木兒為可汗鬼力赤毒死,沙迷查干率師討之。帝嘉其義,遣使賚以綵幣,令與嗣忠順王脫脫敦睦。四年夏來貢,命鴻臚寺丞劉帖木兒齎敕幣勞賜,與其使者偕行。秋、冬暨明年夏,三入貢,因言撒馬兒罕本其先世故地,請以兵復之。命中官把太、李達及劉帖木兒齎敕戒以審度而行,毋輕舉,因賜之綵幣。六年,太等還,言沙迷查干已卒,弟馬哈麻嗣。帝即命太等往祭,幷賜其新王。

八年、朝使が撒馬児罕に往く者あり、馬哈麻これを厚く待遇したので、使者を遣わして彩幣を賜う。翌年、名馬・文豹を貢ぎ、命じて給事中傅安にその使を送還させ、金織の文綺を賜う。時に瓦剌の使者が馬哈麻がその部落を襲わんとしていると述べたので、順天保境の義を諭した。十一年、貢使が将に甘粛に至らんとするや、命じて所司に宴労させ、且つ総兵官李彬に善く遇するよう敕した。翌年冬、西域より還る者あり、馬哈麻の母及び弟が相継いで卒したという。帝これを愍れみ、命じて安に敕を齎らせて慰問し、彩幣を賜う。已にして馬哈麻もまた卒し、子無く、従子の納黒失只罕が嗣いだ。十四年春、使い来たりて喪を告ぐ。命じて安及び中官李達に弔祭させ、即時にその嗣子を封じて王とし、文綺・弓刀・甲冑を賜い、その母にもまた賜うところあり。翌年、使いを遣わして来貢し、将に娘を撒馬児罕に嫁がせんとし、馬をもって妝奩を市うことを請う。命じて中官李信等に綺・帛各五百匹を以てこれを助けしむ。十六年、貢使の速哥がその王が従弟の歪思に弑しいせられ、自立してその部落を西に徙し、国号を改めて亦力把里と曰うと述べた。帝は番俗は治むるに足らずとして、速哥を都督僉事に授け、中官楊忠等を遣わして歪思に弓刀・甲冑及び文綺・彩幣を賜い、その頭目忽歹達等七十余人にも併せて賜うところあり、ここより奉貢絶えず。

原文八年以朝使往撒馬兒罕者,馬哈麻待之厚,遣使齎彩幣賜之。明年貢名馬、文豹,命給事中傅安送其使還,賚金織文綺。時瓦剌使者言馬哈麻將襲其部落,因諭以順天保境之義。十一年,貢使將至甘肅,命所司宴勞,且敕總兵官李彬善遇之。明年冬,有自西域還者,言馬哈麻母及弟相繼卒。帝愍之,命安齎敕慰問,賚以彩幣。已而馬哈麻亦卒,無子,從子納黑失只罕嗣。十四年春,使來告喪。命安及中官李達弔祭,即封其嗣子為王,賚文綺、弓刀、甲胄,其母亦有賜。明年遣使來貢,言將嫁女撒馬兒罕,請以馬市妝奩。命中官李信等以綺、帛各五百匹助之。十六年,貢使速哥言其王為從弟歪思所弒,而自立,徙其部落西去,更國號曰亦力把里。帝以番俗不足治,授速哥為都督僉事,而遣中官楊忠等賜歪思弓刀、甲胄及文綺、彩幣,其頭目忽歹達等七十餘人幷有賜,自是奉貢不絕。

宣徳元年、帝はその朝廷を尊事することを嘉し、使いを遣わして鈔幣を賜う。翌年入貢し、その正使・副使を指揮千戸に授け、誥命・冠帯を賜い、以後使臣多く官を授かる。三年、駱駝・馬を貢ぎ、指揮昌英等に命じて璽書・綵幣を齎らせてこれに報ず。時に歪思は連年貢ぎ、その母鎖魯檀哈敦もまた連三歳来貢した。歪思卒し、子の也先不花が嗣ぐ。正統元年、使いを遣わして来朝し、方物を貢ぎ、後もまた頻りに入貢す。故王歪思の婿卜賽因もまた使いを遣わして来貢す。十年、也先不花卒し、也密力虎者が嗣ぐ。翌年、馬・駱駝・方物を貢ぎ、命じて綵幣を以て王及び王母に賜う。景泰三年、玉石三千八百斤を貢ぎ、礼官がその用に堪えずと述べたので、詔して悉くこれを収め、毎二斤に帛一匹を賜う。天順元年、千戸於志敬等に命じて復辟をその王に諭させ、且つ綵幣を賜う。成化元年、礼官姚夔等が西域朝貢の期を定め、亦力把里を三歳・五歳に一貢とし、使者十人を過ぎざることを令し、ここより朝貢遂に稀となる。

原文宣德元年,帝嘉其尊事朝廷,遣使賜之鈔幣。明年入貢,授其正、副使為指揮千戶,賜誥命、冠帶,自後使臣多授官。三年貢駝馬,命指揮昌英等齎璽書、綵幣報之。時歪思連歲貢,而其母鎖魯檀哈敦亦連三歲來貢。歪思卒,子也先不花嗣。正統元年遣使來朝,貢方物,後亦頻入貢。故王歪思之婿卜賽因亦遣使來貢。十年,也先不花卒,也密力虎者嗣。明年貢馬駝方物,命以綵幣賜王及王母。景泰三年貢玉石三千八百斤,禮官言其不堪用,詔悉收之,每二斤賜帛一匹。天順元年命千戶於志敬等以復辟諭其王,且賜綵幣。成化元年,禮官姚夔等定西域朝貢期,令亦力把里三歲、五歲一貢,使者不得過十人,自是朝貢遂稀。

その国には城郭宮室無く、水草に随って畜牧す。人性獷悍にして、君臣上下に体統無し。飲食衣服多く瓦剌と同じ。地極めて寒く、深山窮谷、六月にも雪飛ぶ。

原文其國無城郭宮室,隨水草畜牧。人性獷悍,君臣上下無體統。飲食衣服多與瓦剌同。地極寒,深山窮谷,六月亦飛雪。

哈烈

原文哈烈

哈烈、一名を黒魯と曰い、撒馬児罕の西南三千里に在り、嘉峪関を去ること一万二千余里、西域の大国なり。元の駙馬帖木兒は既に撒馬児罕を君とし、またその子沙哈魯を遣わして哈烈を拠らしむ。

原文哈烈,一名黑魯,在撒馬兒罕西南三千里,去嘉峪關萬二千餘里,西域大國也。元駙馬帖木兒既君撒馬兒罕,又遣其子沙哈魯據哈烈。

洪武の時、撒馬児罕及び別失八里は咸しく朝貢したが、哈烈は道遠くして至らず。二十五年、官を遣わしてその王に詔諭し、文綺・綵幣を賜うも、猶至らず。二十八年、給事中傅安・郭驥等を遣わして士卒千五百人を携え往かしむるも、撒馬児罕に留められ、達せず。三十年、また北平按察使陳徳文等を遣わして往かしむるも、亦久しく還らず。

原文洪武時,撒馬兒罕及別失八里咸朝貢,哈烈道遠不至。二十五年遣官詔諭其王,賜文綺、綵幣,猶不至。二十八年遣給事中傅安、郭驥等攜士卒千五百人往,為撒馬兒罕所留,不得達。三十年又遣北平按察使陳德文等往,亦久不還。

成祖践祚し、官を遣わして璽書綵幣を齎らせてその王に賜うも、猶報命せず。永楽五年、安等還る。徳文は諸国を遍歴し、その酋長を説いて入貢せしむるも、皆道遠くして至る者無く、亦この年に始めて還る。徳文は保昌の人、諸方の風俗を采り歌詩を作りて以て献ず。帝これを嘉し、僉都御史に擢ぐ。翌年、また安を遣わして書幣を齎らせて哈烈に往かしむ。その酋沙哈魯把都児は使いを遣わして安に随い朝貢す。七年、京師に達し、また命じて賜物を齎らせてその使と偕に往きて報ぜしむ。翌年、その酋は使いを遣わして朝貢す。

原文成祖踐阼,遣官齎璽書綵幣賜其王,猶不報命。永樂五年,安等還。德文遍歷諸國,說其酋長入貢,皆以道遠無至者,亦於是年始還。德文,保昌人,采諸方風俗作為歌詩以獻。帝嘉之,擢僉都御史。明年復遣安齎書幣往哈烈,其酋沙哈魯把都兒遣使隨安朝貢。七年達京師,復命齎賜物偕其使往報。明年,其酋遣使朝貢。

撒馬児罕の酋ハリーは、哈烈の酋の兄の子なり、二人相能わず、数えしばしば兵を構う。帝はその使臣の還るに因り、都指揮白阿児忻台に命じて敕を齎らせてこれを諭して曰く、「天は民を生みて之に君を立て、各々その生を遂げしむ。朕は天下を統御し、一視同仁、遐邇に間隔無く、屡々嘗て使いを遣わして爾を諭す。爾能く虔しく職貢を修め、人民を撫輯し、西徼に安んずるは、朕甚だこれを嘉す。比来爾が従子ハリーと兵を構えて相仇するを聞き、朕これを惻然とす。一家の親、恩愛相厚くして、外侮を制するに足る。親者尚お爾くの如く乖戾なれば、疏者安んぞ協和せん。今より宜しく兵を休め民を息し、骨肉を保全し、太平の福を共に享くべし。」因りて綵幣表裏を賜い、併せて敕をハリーに諭して兵を罷めしめ、亦綵幣を賜う。

原文撒馬兒罕酋哈里者,哈烈酋兄子也,二人不相能,數構兵。帝因其使臣還,命都指揮白阿兒忻台齎敕諭之曰:「天生民而立之君,俾各遂其生。朕統御天下,一視同仁,無間遐邇,屢嘗遣使諭爾。爾能虔修職貢,撫輯人民,安於西徼,朕甚嘉之。比聞爾與從子哈里構兵相仇,朕為惻然。一家之親,恩愛相厚,足制外侮。親者尚爾乖戾,疏者安得協和。自今宜休兵息民,保全骨肉,共享太平之福。」因賜綵幣表裏,并敕諭哈里罷兵,亦賜綵幣。

白阿児忻台は既に使を奉じ、撒馬児罕・失剌思・俺的干・俺都淮・土魯番・火州・柳城・哈実哈児の諸国に遍く詣り、これに幣帛を賜い、入朝を諭令す。諸酋長咸く喜び、各々使いを遣わして哈烈の使臣に偕に獅子・西馬・文豹等の諸物を貢ぐ。十一年、京師に達す。帝喜び、殿に御してこれを受け、犒賜を加う。ここより諸国の使併せて至り、皆哈烈を首に序す。帰るに及び、中官李達・吏部員外郎陳誠・戸部主事李暹・指揮金哈藍伯等を命じてこれを送らしめ、就いて璽書・文綺・紗羅・布帛等の諸物を齎らせて分ちその酋に賜う。十三年、達等還る。哈烈諸国また使いを遣わして偕に来り、文豹・西馬及び他の方物を貢ぐ。翌年再び貢ぎ、還るに及び、陳誠に命じて書幣を齎らせてこれに報ぜしめ、過ぐる州県皆宴餞す。十五年、使いを遣わして誠等に随い来貢す。翌年また貢ぎ、李達等に命じて初めの如く報ぜしむ。十八年、于闐・八答黒商と偕に来貢す。二十年、また于闐と偕に来貢す。

原文白阿兒忻台既奉使,遍詣撒馬兒罕、失剌思、俺的干、俺都淮、土魯番、火州、柳城、哈實哈兒諸國,賜之幣帛,諭令入朝。諸酋長咸喜,各遣使偕哈烈使臣貢獅子、西馬、文豹諸物。十一年達京師。帝喜,御殿受之,犒賜有加。自是諸國使幷至,皆序哈烈於首。及歸,命中官李達、吏部員外郎陳誠、戶部主事李暹、指揮金哈藍伯等送之,就齎璽書、文綺、紗羅、布帛諸物分賜其酋。十三年,達等還,哈烈諸國復遣使偕來,貢文豹、西馬及他方物。明年再貢,及還,命陳誠齎書幣報之,所過州縣皆宴餞。十五年遣使隨誠等來貢。明年復貢,命李達等報如初。十八年偕于闐、八答黑商來貢。二十年復偕于闐來貢。

宣徳二年、その頭目打剌罕亦不剌来朝し、馬を貢ぐ。仁宗は遠略に勤めず、宣宗これを承け、久しく使いを絶域に遣わさず、故にその貢使も亦稀に至る。七年、また中官李貴に命じて西域を通ぜしめ、哈烈の酋沙哈魯に敕諭して曰く、「昔朕が皇祖太宗文皇帝臨御の日、爾等は朝廷を尊事し、使いを遣わして貢献し、始終一なり。今朕恭しく天命を膺け、即ち皇帝の位に即き、万方を主宰し、紀元を宣徳とす。大小の政務、悉く皇祖の天を奉じ民を恤む、一視同仁の心を体す。前に使臣を遣わして書幣を齎らせて往きて賜うも、道阻みて回る。今已に開通せり、特命を内臣に下して往きて朕が意を諭せしむ。其れ益々天心に順い、永く誠好を篤くし、相与に還往し、同しく一家と為り、商旅を通行せしめ、各々その願いを遂げしむるは、亦美ならずや?」因りて文綺・羅錦を以て賜う。貴等未だ至らざるに、その貢使法虎児丁已に京師に抵り、館に卒す。命じて官に祭を致させ、有司に葬を営ましむ。尋いでまた使いを遣わして貴に随い駱駝・馬・玉石を貢ぐ。翌年春、使者帰る。また貴に命じて護送せしめ、その王及び頭目に彩幣を賜う。この年秋及び正統三年に併せて来貢す。

原文宣德二年,其頭目打剌罕亦不剌來朝,貢馬。自仁宗不勤遠略,宣宗承之,久不遣使絕域,故其貢使亦稀至。七年復命中官李貴通西域,敕諭哈烈酋沙哈魯曰:「昔朕皇祖太宗文皇帝臨御之日,爾等尊事朝廷,遣使貢獻,始終如一。今朕恭膺天命,即皇帝位,主宰萬方,紀元宣德。小大政務,悉體皇祖奉天恤民,一視同仁之心。前遣使臣齎書幣往賜,道阻而回。今已開通,特命內臣往諭朕意。其益順天心,永篤誠好,相與還往,同為一家,俾商旅通行,各遂所願,不亦美乎?」因賜以文綺、羅錦。貴等未至,其貢使法虎兒丁已抵京師,卒於館。命官致祭,有司營葬。尋復遣使隨貴貢駝馬、玉石。明年春,使者歸。復命貴護送,賜其王及頭目彩幣。是年秋及正統三年幷來貢。

英宗幼沖、大臣は務めて休息を図り、中国を疲弊させて以て外蕃に事えしむるを欲せず、故に遠方通貢する者甚だ少なし。天順元年に至り、また西域を通ずるを議す。大臣敢えて言う者莫く、独り忠義衛の吏張昭が疏を抗して切に諫め、事乃ち止む。七年、帝は中夏乂安なるに以て、而して遠蕃朝貢至らざるを以て、分かち武臣を遣わして璽書・綵幣を齎らせて往きて諭せしむ。ここにおいて都指揮海栄・指揮馬全を哈烈に往かしむ。然れどもここより来る者頗る稀にして、即ち哈烈も亦時に貢せず。

原文英宗幼沖,大臣務休息,不欲疲中國以事外蕃,故遠方通貢者甚少。至天順元年,復議通西域。大臣莫敢言,獨忠義衛吏張昭抗疏切諫,事乃止。七年,帝以中夏乂安,而遠蕃朝貢不至,分遣武臣齎璽書、綵幣往諭。於是都指揮海榮、指揮馬全往哈烈。然自是來者頗稀,即哈烈亦不以時貢。

嘉靖二十六年、甘粛巡撫楊博が言うには、「西域より入貢する者が多く、制限を設けるべきである」と。礼官が言うには、「祖宗の故事によれば、ただ哈密のみが毎年一貢、貢使三百人、そのうち十一人を京師に送り、残りは関内に留め、有司が供給する。その他、哈烈・哈三・土魯番・天方・撒馬児罕などの諸国で、道が哈密を経由する者は、あるいは三年・五年に一貢、ただ三五十人を送るのみで、その存留と賞賚は哈密の例による。近頃は濫りに京師に入れるので、辺臣にこの例を恪守させ、濫放した者は罪すべきである」と。制して可とする。しかしこの時、哈烈はすでに久しく至らず、その後朝貢は遂に絶えた。

原文嘉靖二十六年,甘肅巡撫楊博言:「西域入貢人多,宜為限制。」禮官言:「祖宗故事,惟哈密每年一貢,貢三百人,送十一赴京,餘留關內,有司供給。他若哈烈、哈三、土魯番、天方、撒馬兒罕諸國,道經哈密者,或三年、五年一貢,止送三五十人,其存留賞賚如哈密例。頃來濫放入京,宜敕邊臣恪遵此例,濫放者罪之。」制可。然是時哈烈已久不至,嗣後朝貢遂絕。

その国は西域において最も強大である。王の居城は、方十余里。石を積んで屋と為し、平らにして方形、高台の如く、梁柱瓦甓を用いず、中は広く、虚空数十間。窓牖門扉は悉く花文を彫刻し、金碧を以て彩色す。地に氈罽を敷き、君臣・上下・男女の別なく、相聚えば皆地に席して趺坐す。国人はその王を鎖魯檀と称し、君長と言うが如し。男は髪を剃り白布を纏い、婦女もまた白布を以て首を蒙い、ただ両目のみを露わす。上下相呼ぶには皆名を以てす。相見えてはただ稍々身を屈し、初見の時は則ち一足を屈し三跪し、男女皆然り。食に匕箸無く、瓷器有り。葡萄を以て酒を醸す。交易には銭を用い、大小三等、私鋳を禁ぜず。ただ酋長に税を輸し、印記を用い、印無き者は用いるを禁ず。市易には皆十二分の一を徴税す。斗斛こくを知らず、ただ権衡を設く。官府無く、ただ管事者有り、名づけて刀完と曰う。また刑法無く、即ち人を殺すもただ罰銭に止む。姊妹を以て妻妾と為す。居喪はただ百日、棺を用いず、布を以て屍を裹みて葬る。常に墓間に祭を設け、祖宗を祭らず、また鬼神を祭らず、ただ天を拝する礼を重んず。干支朔望無く、毎七日を一転と為し、周りて復た始まる。歳に二月・十月を把斎月と為し、昼は飲食せず、夜に至りて乃ち食し、一ヶ月を経て始めて葷を茹う。城中に大土室を築き、中に一つの銅器を置き、周囲数丈、上に文字あざなを刻み古鼎の状の如し。游学する者は皆ここに聚まり、中国の太学の如し。善く走る者有り、日に三百里を可とし、急使有れば、箭を伝えて走り報ず。俗は侈靡を尚び、用度に節無し。

原文其國在西域最強大。王所居城,方十餘里。壘石為屋,平方若高臺,不用梁柱瓦甓,中敞,虛空數十間。牕牖門扉,悉雕刻花文,繪以金碧。地鋪氈罽,無君臣、上下、男女,相聚皆席地趺坐。國人稱其王曰鎖魯檀,猶言君長也。男髡首纏以白布,婦女亦白布蒙首,僅露雙目。上下相呼皆以名。相見止稍屈身,初見則屈一足三跪,男女皆然。食無匕箸,有瓷器。以葡萄釀酒。交易用錢,大小三等,不禁私鑄。惟輸稅於酋長,用印記,無印者禁不用。市易皆徵稅十二。不知斗斛,止設權衡。無官府,但有管事者,名曰刀完。亦無刑法,即殺人亦止罰錢。以姊妹為妻妾。居喪止百日,不用棺,以布裹屍而葬。常於墓間設祭,不祭祖宗,亦不祭鬼神,惟重拜天之禮。無干支朔望,每七日為一轉,周而復始。歲以二月、十月為把齋月,晝不飲食,至夜乃食,周月始茹葷。城中築大土室,中置一銅器,周圍數丈,上刻文字如古鼎狀。游學者皆聚此,若中國太學然。有善走者,日可三百里,有急使,傳箭走報。俗尚侈靡,用度無節。

土は沃饒にして、節候は暖多く雨少なし。土産は白塩・銅鉄・金銀・琉璃・珊瑚・琥珀・珠翠の類。多く蚕を育み、善く紈綺を為す。木には桑・榆・柳・槐・松・檜有り、果には桃・杏・李・梨・葡萄・石榴有り、穀には粟・麦・麻・菽有り、獣には獅・豹・馬・駝・牛・羊・鶏・犬有り。獅は阿術河の蘆林中に生ず、初生の時目閉じ、七日にして始めて開く。土人は目閉じし時にこれを取り、その性を調習し、稍々長ずれば則ち馴らすべからず。その旁近の俺都淮・八答黒商は、併せてその国に隷す。

原文土沃饒,節候多暖少雨。土產白鹽、銅鐵、金銀、琉璃、珊瑚、琥珀、珠翠之屬。多育蠶,善為紈綺。木有桑、榆、柳、槐、松、檜,果有桃、杏、李、梨、葡萄、石榴,穀有粟、麥、麻、菽,獸有獅、豹、馬、駝、牛、羊、雞、犬。獅生於阿術河蘆林中,初生目閉,七日始開。土人於目閉時取之,調習其性,稍長則不可馴矣。其旁近俺都淮、八答黑商,幷隸其國。

俺都淮

原文俺都淮

俺都淮は、哈烈の西北千三百里に在り、東南は撒馬児罕に去ること亦た此の如し。城は大村に居し、周囲十余里。地は平衍にして険無く、田土膏腴、民物繁庶、楽土と称せらる。永楽八年より十四年に至り、哈烈と偕に通貢し、後は復た至らず。

原文俺都淮,在哈烈西北千三百里,東南去撒馬兒罕亦如之。城居大村,周十餘里。地平衍無險,田土膏腴,民物繁庶,稱樂土。自永樂八年至十四年偕哈烈通貢,後不復至。

八答黒商

原文八答黑商

八答黒商は、俺都淮の東北に在り。城周囲十余里。地広くして険阻無く、山川明秀、人物樸茂。浮屠数区、壮麗王居の如し。西洋・西域の諸賈多くその地に販鬻す、故に民俗富饒なり。初めは哈烈の酋沙哈魯の子の拠る所と為る。永楽六年、内官把太・李達を命じてその酋に勅書彩幣を賜い、併せて哈実哈児・葛忒郎諸部に及び、往来通商の意を諭す、皆即時に命を受く。是より、東西万里行旅滞ること無し。十二年、陳誠その国に使す。十八年、使を遣わして来貢し、誠及び内官郭敬を命じて書幣を齎し往きて報ぜしむ。天順五年、その王馬哈麻使を遣わして来貢す。明年また貢す。使臣阿卜都剌を命じて父の職を襲わしめ、指揮同知と為す。

原文八答黑商,在俺都淮東北。城周十餘里。地廣無險阻,山川明秀,人物樸茂。浮屠數區,壯麗如王居。西洋、西域諸賈多販鬻其地,故民俗富饒。初為哈烈酋沙哈魯之子所據。永樂六年命內官把太、李達賜其酋敕書彩幣,幷及哈實哈兒、葛忒郎諸部,諭以往來通商之意,皆即奉命。自是,東西萬里行旅無滯。十二年,陳誠使其國。十八年遣使來貢,命誠及內官郭敬齎書幣往報。天順五年,其王馬哈麻遣使來貢。明年復貢。命使臣阿卜都剌襲父職,為指揮同知。

于闐

原文于闐

于闐は古国名、漢より宋に至るまで皆中国に通ず。永楽四年、使を遣わして来朝し、方物を貢す。使臣辞して帰らんとす、指揮神忠母撒等を命じて璽書を齎し偕に行かしめ、その酋に織金文綺を賜う。その酋打魯哇亦不剌金、使者を遣わして玉璞を貢し、指揮尚衡等を命じて書幣を齎し往きて労す。十八年、哈烈・八答黒商諸国と偕に馬を貢し、参政陳誠・中官郭敬等を命じて綵幣を以て報ぜしむ。二十年、美玉を貢し、賜賚加わる有り。二十二年、馬及び方物を貢す。時に仁宗初めて践阼し、即ち宴賚して遣り返す。

原文于闐,古國名,自漢迄宋皆通中國。永樂四年遣使來朝,貢方物。使臣辭歸,命指揮神忠母撒等齎璽書偕行,賜其酋織金文綺。其酋打魯哇亦不刺金遣使者貢玉璞,命指揮尚衡等齎書幣往勞。十八年偕哈烈、八答黑商諸國貢馬,命參政陳誠、中官郭敬等報以綵幣。二十年貢美玉,賜賚有加。二十二年貢馬及方物。時仁宗初踐阼,即宴賚遣還。

先に、永楽の時、成祖は遠方万国臣服せざる無からんことを欲し、故に西域の使歳歳絶えること無し。諸蕃は中国の財帛を貪り、且つ市易を利し、絡繹として道途に満つ。商人は率ね偽りて貢使と称し、多く馬・駝・玉石を携え、声言して進献すと曰う。既に関に入れば、則ち一切の舟車水陸・晨昏飲饌の費、悉く有司に取り、郵伝は供億に困し、軍民は転輸に疲る。西に帰るに比し、輒ち道に縁りて遅留し、多く貨物を市す。東西数千里の間、騒然として繁費し、公私上下罔らず怨咨せざる無し。廷臣これを言う者莫く、天子もまたこれを恤れみず。是に至り、給事中黄驥極めてその害を陳す。仁宗その言に感じ、礼官呂震を召して責め譲る。自ら是より復た西域に使せず、貢使もまた漸く稀なり。

原文先是,永樂時,成祖欲遠方萬國無不臣服,故西域之使歲歲不絕。諸蕃貪中國財帛,且利市易,絡繹道途。商人率偽稱貢使,多攜馬、駝、玉石,聲言進獻。既入關,則一切舟車水陸、晨昏飲饌之費,悉取之有司。郵傳困供億,軍民疲轉輸。比西歸,輒緣道遲留,多市貨物。東西數千里間,騷然繁費,公私上下罔不怨咨。廷臣莫為言,天子亦莫之恤也。至是,給事中黃驥極陳其害。仁宗感其言,召禮官呂震責讓之。自是不復使西域,貢使亦漸稀。

于闐は古より大国と為り、隋・唐の間、戎盧・扞弥・渠勒・皮山諸国を侵し併せ、その地益々大なり。南は葱嶺に距ること二百余里、東北は嘉峪関に去ること六千三百里。大略葱嶺以南は撒馬児罕最大、以北は于闐最大。元末の時、その主暗弱にして、隣国交侵す。人民僅かに万計、悉く山谷に避居し、生理蕭条たり。永楽中、西域は天子の威霊を憚り、咸く職貢を修め、敢えて擅に相攻たず、于闐始めて休息を得。漸く諸蕃に行賈し、復た富庶に至る。桑麻黍禾、宛然として中土の如し。その国東に白玉河有り、西に緑玉河有り、又西に黒玉河有り、源は皆崑崙山に出ず。土人は夜月光の盛んなる処を視て、水に入りてこれを採れば、必ず美玉を得。その隣国もまた多く窃取り来たりて献ず。万曆朝に至るまで、于闐もまた間に入貢す。

原文于闐自古為大國,隋、唐間侵并戎盧、扞彌、渠勒、皮山諸國,其地益大。南距蔥嶺二百餘里,東北去嘉峪關六千三百里。大略蔥嶺以南,撒馬兒罕最大;以北,于闐最大。元末時,其主暗弱,鄰國交侵。人民僅萬計,悉避居山谷,生理蕭條。永樂中,西域憚天子威靈,咸修職貢,不敢擅相攻,于闐始獲休息。漸行賈諸蕃,復致富庶。桑麻黍禾,宛然中土。其國東有白玉河,西有綠玉河,又西有黑玉河,源皆出崑崙山。土人夜視月光盛處,入水採之,必得美玉。其鄰國亦多竊取來獻。迄萬曆朝,于闐亦間入貢。

失刺思

原文失刺思

失刺思は、撒馬児罕に近し。永楽十一年、使を遣わして哈烈・俺的干・哈実哈児等八国と偕に、白阿児忻台に随いて方物を入貢し、李達・陳誠等を命じて勅を齎しその使に偕に往きて労す。十三年冬、その酋亦不剌金、使を遣わして達等に随い朝貢し、天子方に北巡す。明年の夏に至りて始めて辞し還り、復た誠を命じて中官魯安に偕に勅及び白金・綵緞・紗羅・布帛を齎しその酋に賜わしむ。十七年、使を遣わして亦思弗罕諸部と偕に獅子・文豹・名馬を貢し、辞して還る。復た安等を命じてこれを送らしめ、その酋に絨錦・文綺・紗羅・玉繫腰・磁器諸物を賜う。時に車駕頻年に北征し、馬に乏しく、官を遣わして多く彩幣・磁器を齎し、これを失刺思及び撒馬児罕諸国に市す。その酋は即ち使を遣わして馬を貢し、二十一年八月を以て帝を宣府の行宮に謁す。厚くこれを賜い、京師に遣り返す、その人遂に久しく内地に留まり去らず。仁宗位を嗣ぎ、これを還るを趣す、乃ち辞して去る。

原文失刺思,近撒馬兒罕。永樂十一年遣使偕哈烈、俺的干、哈實哈兒等八國,隨白阿兒忻台入貢方物,命李達、陳誠等齎敕偕其使往勞。十三年冬,其酋亦不剌金遣使隨達等朝貢,天子方北巡。至明年夏始辭還,復命誠偕中官魯安齎敕及白金、綵緞、紗羅、布帛賜其酋。十七年遣使偕亦思弗罕諸部貢獅子、文豹、名馬,辭還。復命安等送之,賜其酋絨錦、文綺、紗羅、玉繫腰、磁器諸物。時車駕頻歲北征,乏馬,遣官多齎彩幣、磁器,市之失剌思及撒馬兒罕諸國。其酋即遣使貢馬,以二十一年八月謁帝於宣府之行宮。厚賜之,遣還京師,其人遂久留內地不去。仁宗嗣位,趣之還,乃辭去。

宣徳二年(1427年)、駱駝・馬・地方産物を貢ぎ、その使臣阿力に都指揮僉事を授け、誥命・冠帯を賜う。その後久しく貢がなかった。成化十九年(1483年)、黒婁・撒馬児罕・把丹沙諸国と共に獅子を貢ぎ、詔して優れた賞賜を加える。弘治五年(1492年)、哈密忠順王陜巴が襲封して帰国し、隣境の野乜克力の酋長と婚姻を結んだ。失剌思の酋長はその貧しさを思いやり、傍国の亦不剌因の酋長とともに、その平章鎖和卜台・知院満可を率い、それぞれ人を遣わして財物の頒賜を請い、婚姻成立を助けた。朝廷の議論はこれを義とし、厚く陜巴に賜い、併せて二国及びその平章・知院に綵幣を賜う。嘉靖三年(1524年)、傍近の三十二部とともに使者を遣わして馬及び地方産物を貢いだ。その使者はそれぞれ蟒衣・膝襴・磁器・布帛を乞うた。天子は拒むことができず、量を以てこれを与え、これより貢使もまた至らなくなった。

原文宣德二年貢駝馬方物,授其使臣阿力為都指揮僉事,賜誥命、冠帶。嗣後久不貢。成化十九年與黑婁、撒馬兒罕、把丹沙諸國共貢獅子,詔加優賚。弘治五年,哈密忠順王陜巴襲封歸國,與鄰境野乜克力酋結婚。失剌思酋念其貧,偕旁國亦不剌因之酋,率其平章鎖和卜台、知院滿可,各遣人請頒賜財物,助之成婚。朝議義之,厚賜陜巴,幷賜二國及其平章、知院綵幣。嘉靖三年與旁近三十二部幷遣使貢馬及方物。其使者各乞蟒衣、膝襴、磁器、布帛。天子不能卻,量予之,自是貢使亦不至。

俺的干

原文俺的干

俺の干は、西域の小部落である。元の太祖は西域をことごとく平定し、子弟を封じて王としこれを鎮めさせ、その小さいものには則ち官を設け戍を置き、内地と同じくした。元が滅びると、それぞれ割拠し、互いに統属しなかった。洪武・永楽の間、数度人を遣わして招諭し、少しずつ来貢した。地の大きいものは国と称し、小さいものはただ地面と称した。宣徳朝に至るまで、臣下の職務を尽くし、表箋を奉り、闕下に稽首する者は、多きは七八十部に及んだ。而して俺の干は、則ち永楽十一年(1413年)に哈烈とともに貢いだ者である。十四年(1416年)に至り、魯安らが哈烈・失剌思諸国に使いし、復た便道を以てその酋長に文綺を賜う。然れども地が小さく常に貢ぐことができず、後ついに至らなくなった。

原文俺的干,西域小部落。元太祖盡平西域,封子弟為王鎮之,其小者則設官置戍,同於內地。元亡,各自割據,不相統屬。洪武、永樂間,數遣人招諭,稍稍來貢。地大者稱國,小者止稱地面。迄宣德朝,效臣職、奉表箋、稽首闕下者,多至七八十部。而俺的干,則永樂十一年與哈烈幷貢者也。迨十四年,魯安等使哈烈、失剌思諸思,復便道賜其酋長文綺。然地小不能常貢,後竟不至。

哈実哈児

原文哈實哈兒

哈実哈児もまた西域の小部落である。永楽六年(1408年)、把太・李達らが勅を齎して往き賜い、即ち命に従う。十一年(1413年)、使者を遣わして白阿児忻台に随い入朝し、地方産物を貢ぐ。宣徳の時もまた来朝貢した。天順七年(1463年)、指揮劉福・普賢を命じてその地に使いさせる。その貢使もまた常に至ることができなかった。

原文哈實哈兒,亦西域小部落。永樂六年,把太、李達等齎敕往賜,即奉命。十一年遣使隨白阿兒忻台入朝,貢方物。宣德時亦來朝貢。天順七年命指揮劉福、普賢使其地。其貢使亦不能常至。

亦思弗罕

原文亦思弗罕

亦思弗罕は、地は俺の干に近い。永楽十四年(1416年)、俺都淮・撒馬児罕に使いする者がその地を経由し、その酋に文綺諸物を賜う。十七年(1419年)、隣国失剌思とともに獅子・豹・西馬を貢ぎ、白金・鈔幣を賜う。使臣が辞して還るに当たり、魯安らを命じてこれを送らせる。馬哈木という者がおり、京師に留まることを願う。その請いに従う。成化十九年(1483年)、撒馬児罕とともに獅子・名馬・番刀・兜羅・鎖幅諸物を貢ぎ、賜賚を加える。

原文亦思弗罕,地近俺的干。永樂十四年使俺都淮、撒馬兒罕者道經其地,賜其酋文綺諸物。十七年偕鄰國失剌思共貢獅、豹、西馬,賚白金、鈔幣。使臣辭還,命魯安等送之。有馬哈木者,願留京師。從其請。成化十九年與撒馬兒罕共貢獅子、名馬、番刀、兜羅、鎖幅諸物,賜賚有加。

先に、宣徳六年(1431年)、亦思把罕が使臣迷児阿力を遣わして朝貢したことがあり、或いは云う即ち亦思弗罕であると。

原文先是,宣德六年,有亦思把罕遣使臣迷兒阿力朝貢,或云即亦思弗罕。

火剌札

原文火剌札

火剌札は、国微弱である。四囲皆山にして、草木少ない。水流曲折し、また魚蝦無し。城は僅か一里余り、悉く土屋にして、酋長の居る所もまた卑陋である。俗に僧を敬う。永楽十四年(1416年)、使者を遣わして朝貢し、経由する地には皆礼待することを命ず。弘治五年(1492年)、その地の回回怕魯湾らが海路により玻璃・瑪瑙諸物を貢ぐ。孝宗は納めず、道里費を賜い遣還す。

原文火剌札,國微弱。四圍皆山,鮮草木。水流曲折,亦無魚蝦。城僅里許,悉土屋,酋所居亦卑陋。俗敬僧。永樂十四年遣使朝貢,命所經地皆禮待。弘治五年,其地回回怕魯灣等由海道貢玻璃、瑪瑙諸物。孝宗不納,賜道里費遣還。

乞力麻児

原文乞力麻兒

乞力麻児は、永楽年中に使者を遣わして来貢し、ただ獣皮・鳥羽・罽褐のみである。その俗は射猟を好み、耕農に事としない。西南は海に傍い、東北は林莽深密にして、猛獣・毒虫多し。逵巷有りて、市肆無く、交易には鉄銭を用いる。

原文乞力麻兒,永樂中遣使來貢,惟獸皮、鳥羽、罽褐。其俗喜射獵,不事耕農。西南傍海,東北林莽深密,多猛獸、毒蟲。有逵巷,無市肆,交易用鐵錢。

白松虎児

原文白松虎兒

白松虎児は、旧名を速麻里児という。嘗て白虎が松林の中より出で、人を傷つけず、また他の獣も食わず、十日後に再び見えなくなった。国人これを異とし、神虎と称し、曰くこれは西方の白虎の降りた精であると、因って国名を改む。その地には大山無く、また樹木生ぜず、毒虫・猛獣の害無し、然れども物産甚だ薄し。永楽年中嘗て入貢す。

原文白松虎兒,舊名速麻里兒。嘗有白虎出松林中,不傷人,亦不食他獸,旬日後不復見。國人異之,稱為神虎,曰此西方白虎所降精也,因改國名。其地無大山,亦不生樹木,無毒蟲、猛獸之害,然物產甚薄。永樂中嘗入貢。

答児密

原文答兒密

答児密は、撒馬児罕に服属する。海中にあり、地は百里に満たず、人も千家に満たない。城郭はなく、上下ともに皆板屋に住む。耕作を知り、毛褐・布縷・馬駝・牛羊がある。刑罰は箠朴に止まる。交易には銀銭を兼用する。永楽年間に使節を派遣して朝貢し、『大統暦』及び文綺・薬・茶などの物を賜った。

原文答兒密,服屬撒馬兒罕。居海中,地不百里,人不滿千家。無城郭,上下皆居板屋。知耕植,有毛褐、布縷、馬駝、牛羊。刑止箠朴。交易兼用銀錢。永樂中遣使朝貢,賜《大統曆》及文綺、藥、茶諸物。

納失者罕

原文納失者罕

納失者罕は、東へ失剌思まで数日の行程、皆舟で行く。城の東に平原があり、水草に恵まれ、畜牧に適する。馬には数種あり、最も小さいものは高さ三尺を超えない。俗に僧を重んじ、行く先々で必ず飲食を供する。しかし気性が荒く闘争を好み、闘いに勝たぬ者は、衆人に嗤われる。永楽年間に使節を派遣して朝貢した。使臣が帰還する際、河北を経て、関中を巡り、甘粛に至るまで、有司は皆宴を設けた。

原文納失者罕,東去失剌思數日程,皆舟行。城東平原,饒水草,宜畜牧。馬有數種,最小者高不過三尺。俗重僧,所至必供飲食。然好氣健鬬,鬬不勝者,眾嗤之。永樂中遣使朝貢。使臣還,歷河北,轉關中,抵甘肅,有司皆置宴。

敏真城

原文敏真城

敏真城は、永楽年間に来貢した。その国は地が広く、高山が多い。日中に市を開き、諸貨が並び集まり、中国の磁器・漆器を貴ぶ。異香・駱駝・馬を産する。

原文敏真城,永樂中來貢。其國地廣,多高山。日中為市,諸貨駢集,貴中國磁、漆器。產異香、駝、馬。

日落国

原文日落國

日落国は、永楽年間に来貢した。弘治元年、その王亦思罕答児魯密帖里牙が再び貢献した。使臣が紵・絲・夏布・磁器を求めることを奏上し、詔して皆これを与えた。

原文日落國,永樂中來貢。弘治元年,其王亦思罕答兒魯密帖里牙復貢。使臣奏求紵、絲、夏布、磁器,詔皆予之。

米昔児

原文米昔兒

米昔児は、一名を密思児という。永楽年間に使節を派遣して朝貢した。宴と賜物を与えた後、五日ごとに酒饌・果餌を給することとし、経由地には皆宴を設けた。正統六年、王鎖魯檀阿失剌福が再び来貢した。礼官が言うには、「その地は極めて遠く、賜与の先例がない。かつて撒馬児罕が初めて貢献した時、賜与が過度に優厚であった。今は少し減ずるべきである。王には彩幣十表裏、紗・羅各三匹、白氁絲布・白将楽布各五匹、洗白布二十匹を賜い、王の妻及び使臣は次第に減ずる。」と。これに従った。以後は再び至らなかった。

原文米昔兒,一名密思兒。永樂中遣使朝貢。既宴賚,命五日一給酒饌、果餌,所經地皆置宴。正統六年,王鎖魯檀阿失剌福復來貢。禮官言:「其地極遠,未有賜例。昔撒馬兒罕初貢時,賜予過優,今宜稍損。賜王彩幣十表裏,紗、羅各三匹,白氁絲布、白將樂布各五匹,洗白布二十匹,王妻及使臣遞減。」從之。自後不復至。

黒婁

原文黑婁

黒婁は、撒馬児罕に近く、代々婚姻関係にある。その地の山川・草木・禽獣は皆黒く、男女もまた同じである。宣徳七年に使節を派遣して来朝し、方物を貢献した。正統二年、その王沙哈魯鎖魯檀が指揮哈只馬黒麻を派遣して貢献を奉った。命じて勅書及び金織紵絲・綵絹を持たせて帰らせ、その王に賜った。六年に再び来貢した。景泰四年に隣境三十一部の男女百余人と共に、馬二百四十七頭、騾十二頭、驢十頭、駱駝七頭、及び玉石・風砂・鑌鉄刀などの物を貢献した。天順七年、王母塞亦が指揮僉事馬黒麻捨児班等を派遣して貢献を奉った。綵幣表裏・紵絲の襲衣を賜い、その使臣を指揮同知に抜擢し、従者七人を皆所鎮撫とした。成化十九年に失剌思・撒馬児罕・把丹沙と共に獅子を貢献した。把丹沙の長もまた鎖魯檀馬黒麻と称し、景泰七年に嘗て入貢し、この時に至って再び共に来た。弘治三年にまた天方諸国と共に駱駝・馬・玉石を貢献した。

原文黑婁,近撒馬兒罕,世為婚姻。其地山川、草木、禽獸皆黑,男女亦然。宣德七年遣使來朝,貢方物。正統二年,其王沙哈魯鎖魯檀遣指揮哈只馬黑麻奉貢。命齎敕及金織紵絲、綵絹歸賜其王。六年復來貢。景泰四年偕鄰境三十一部男婦百餘人,貢馬二百四十有七,騾十二,驢十,駝七,及玉石、風砂、鑌鐵刀諸物。天順七年,王母塞亦遣指揮僉事馬黑麻捨兒班等奉貢。賜綵幣表裏、紵、絲襲衣,擢其使臣為指揮同知,從者七人俱為所鎮撫。成化十九年與失剌思、撒馬兒罕、把丹沙共貢獅子。把丹沙之長亦稱鎖魯檀馬黑麻,景泰七年嘗入貢,至是復偕至。弘治三年又與天方諸國貢駝、馬、玉石。

討来思

原文討來思

討来思は、地が小さく、周囲の径は百里に満たない。城は山に近い。山下に水があり、赤色で、これを望むと火のようである。俗に仏を佞ぶ。婦人が家の権を握る。牛羊馬駱駝を産し、布縷毛褐がある。土地は穄麦に適し、稲はない。交易には銭を用いる。宣徳六年に入貢した。翌年、中官李貴に命じて璽書を持たせて賞労し、文綺・綵帛を賜った。地が小さいため常に貢献することはできなかった。

原文討來思,地小,周徑不百里。城近山。山下有水,赤色,望之如火。俗佞佛。婦人主家柄。產牛羊馬駝,有布縷毛褐。土宜穄麥,無稻。交易用錢。宣德六年入貢。明年命中官李貴齎璽書獎勞,賜文綺、綵帛。以地小不能常貢。

阿速

原文阿速

阿速は、天方・撒馬児罕に近く、幅員が甚だ広い。城は山に倚り川に面する。川は南へ流れて海に入り、魚塩の利がある。土地は耕作・牧畜に適する。仏を敬い神を畏れ、施しを好み闘争を嫌う。物産が豊かで、寒暖が適度であり、人に飢寒がなく、夜は寇盗が少なく、まことに楽土と称される。永楽十七年、その酋長牙忽沙が使節を派遣して馬及び方物を貢献し、規定通りに宴と賜物を与えた。地が遠いため常に貢献することはできなかった。天順七年に都指揮白全等をその国に派遣したが、結局再び貢献することはなかった。

原文阿速,近天方、撒馬兒罕,幅員甚廣。城倚山面川。川南流入海,有魚鹽之利。土宜耕牧。敬佛畏神,好施惡鬬。物產富,寒暄適節,人無饑寒,夜鮮寇盜,雅稱樂土。永樂十七年,其酋牙忽沙遣使貢馬及方物,宴賚如制。以地遠不能常貢。天順七年命都指揮白全等使其國,竟不復再貢。

沙哈魯

原文沙哈魯

沙哈魯は阿速西海の島中にある。永楽年間に七十七人を遣わして来貢し、日々酒饌・果餌を給し、他国と異なる。その地は山川環抱し、畜産に富み、人性は朴直にして、闘いを恥じ仏を好む。王及び臣僚は城中に処し、庶人は悉く城外に処す。海産の奇物は西域の賈人が軽価でこれを市し、その国人は識ることができない。

原文沙哈魯,在阿速西海島中。永樂中遣七十七人來貢,日給酒饌、果餌,異於他國。其地,山川環抱,饒畜產,人性樸直,恥鬭好佛。王及臣僚處城中,庶人悉處城處。海產奇物,西域賈人以輕直市之,其國人不能識。

天方

原文天方

天方は古の筠沖の地、一名天堂、また曰く默伽。忽魯謨斯より四十日を経て至り、古里より西南に行くこと三月にして至る。その貢使は多く陸路より嘉峪関に入る。

原文天方,古筠沖地,一名天堂,又曰默伽。不道自忽魯謨斯四十日始至,自古里西南行,三月始至。其貢使多從陸道入嘉峪關。

宣徳五年、鄭和が西洋に使いし、その同輩を分遣して古里に詣らしむ。古里が人を遣わして天方に往くを聞き、因って人をして貨物を齎しその舟に附して偕に行かしむ。往復一歳を経て、奇珍異宝及び麒麟・獅子・駝鶏を市して帰る。その国王もまた陪臣を遣わして朝使に随い来貢す。宣宗喜び、賜賚を加う。正統元年始めて爪哇の貢舟に附して還るを命じ、幣及び勅を賜いその王を奨す。六年、王は子賽亦得阿力を遣わし使臣賽亦得哈三とともに珍宝を以て来貢す。陸行して哈剌に至り、賊に遇い、使臣を殺し、その子の右手を傷つけ、貢物を尽く劫いて去る。守臣をしてこれを察治せしむ。

原文宣德五年,鄭和使西洋,分遣其儕詣古里。聞古里遣人往天方,因使人齎貨物附其舟偕行。往返經歲,市奇珍異寶及麒麟、獅子、駝雞以歸。其國王亦遣陪臣隨朝使來貢。宣宗喜,賜賚有加。正統元年始命附爪哇貢舟還,賜幣及敕獎其王。六年,王遣子賽亦得阿力與使臣賽亦得哈三以珍寶來貢。陸行至哈剌,遇賊,殺使臣,傷其子右手,盡劫貢物以去,命守臣察治之。

成化二十三年、その国中の回回阿力は兄納的が中土に遊び四十余年に及ぶを以て、雲南に往き訪い求めんと欲す。乃ち宝物巨万を携え、満剌加に至り、行人左輔の舟に附し、将に京に入り進貢せんとす。広東に抵るも、市舶中官韋眷の侵剋に遭う。阿力怨み、京に赴き自ら訴う。礼官その貢物を估し、その価を酬い、雲南に於いて兄を訪うを許すべしと請う。時に眷は罪を懼れ、先んじて内に夤縁す。帝乃ち阿力を責めて間諜と為し、貢を仮りて奸を行うとし、広東守臣に逐還せしむ。阿力乃ち号泣して去る。弘治三年、その王速檀阿黒麻は使を遣わし撒馬児罕・土魯番とともに馬・駝・玉石を貢す。

原文成化二十三年,其國中回回阿力以兄納的游中土四十餘載,欲往雲南訪求。乃攜寶物鉅萬,至滿剌加,附行人左輔舟,將入京進貢。抵廣東,為市舶中官韋眷侵剋。阿力怨,赴京自訴。禮官請估其貢物,酬其直,許訪兄於雲南。時眷懼罪,先已夤緣於內。帝乃責阿力為間諜,假貢行奸,令廣東守臣逐還,阿力乃號泣而去。弘治三年,其王速檀阿黑麻遣使偕撒馬兒罕、土魯番貢馬、駝、玉石。

正徳初め、帝は御馬太監谷大用の言に従い、甘粛守臣に諸番の騍馬・騸馬を訪求せしむ。番使云う善馬は天方に出ずと。守臣因って諸番貢使に諭し、その王に伝達し、以て入貢せしむべしと請う。兵部尚書劉宇は中官の指を希い、守臣に善く使者と通事を択び、親しく諸番に詣りて曉諭せしむるを議し、これに従う。十三年、王寫亦把剌克は使を遣わし馬・駝・梭幅・珊瑚・宝石・魚牙刀諸物を貢し、詔して蟒龍金織衣及び麝香・金銀器を賜う。

原文正德初,帝從御馬太監谷大用言,令甘肅守臣訪求諸番騍馬、騸馬,番使云善馬出天方。守臣因請諭諸番貢使,傳達其王,俾以入貢。兵部尚書劉宇希中官指,議令守臣善擇使者與通事,親詣諸番曉諭,從之。十三年,王寫亦把剌克遣使貢馬、駝、梭幅、珊瑚、寶石、魚牙刀諸物,詔賜蟒龍金織衣及麝香、金銀器。

嘉靖四年、その王亦麻都児等は使を遣わし馬・駝・方物を貢す。礼官言う「西人来貢するに、陝西行都司は稽留すること半年以上にして始めて具奏す。進むる所の玉石は悉く粗悪なり。而して使臣の私に貨する所は皆良し。按臣に下して廉問せしめ、自今より多く玉石を携え、道途を煩擾すべからざるを乞う。その貢物不堪なる者は、都司官の罪を治めよ」と。これに従う。明年、その国額麻都抗等八王各々使を遣わし玉石を貢す。主客郎中陳九川はその粗悪なる者を簡退す。使臣怨む。通事胡士紳もまた九川を憾み、因って詐りて使臣の奏と為し、詞を以て九川を誣い、玉を盗むとす。詔獄に坐し拷訊す。尚書席書・給事中解一貫等論救すも聴かず、竟に辺に戍す。

原文嘉靖四年,其王亦麻都兒等遣使貢馬、駝、方物。禮官言:「西人來貢,陜西行都司稽留半年以上始為具奏。所進玉石悉粗惡,而使臣所私貨皆良。乞下按臣廉問,自今毋得多攜玉石,煩擾道途。其貢物不堪者,治都司官罪。」從之。明年,其國額麻都抗等八王各遣使貢玉石,主客郎中陳九川簡退其粗惡者,使臣怨。通事胡士紳亦憾九川因詐為使臣奏,詞誣九川,盜玉,坐下詔獄拷訊。尚書席書、給事中解一貫等論救,不聽,竟戍邊。

十一年、使を遣わし土魯番・撒馬児罕・惟密諸国とともに来貢し、王と称する者三十七人に至る。礼官言う「旧制、恰哈密は朵顔三衛と比歳一貢、貢する者は三百人を過ぎず。三衛は地近く、尽く都に入るを許す。哈密は則ち十に其二を遣わし、余りは辺に留めて待たしむ。若し西域は則ち万里を越え、素より属国に非ず、三衛の貢期に視るは難く、而して遣わす使人は恒数を倍踰す。番文二百余通に至り、皆以て叛人牙木蘭を索取するを詞とす。窃かに詞を託して窺伺し、以て朝廷の処分を覗わんことを恐る。辺臣は明例に遵わず、概ね起送を行い、法体に乖けり。督撫諸臣に下し、諸番人の入貢に遇い、分別して存留起送し、概ね京に入るを遣わすべからず。且つ厳しく辺吏を飭し、禍を目前に避け、患を異日に貽すことなく、納款の虚名を貪り、禦辺の実策を忘るるなからしむべし」と。帝その奏を可す。

原文十一年遣使偕土魯番、撒馬兒罕、惟密諸國來貢,稱王者至三十七人。禮官言:「舊制,恰哈密與朵顏三衛比歲一貢,貢不過三百人。三衛地近,盡許入都。哈密則十遣其二,餘留待於邊。若西域則越在萬里,素非屬國,難視三衛貢期,而所遣使人倍踰恒數。番文至二百餘通,皆以索取叛人牙木蘭為詞。竊恐託詞窺伺,以覘朝廷處分。邊臣不遵明例,概行起送,有乖法體。乞下督撫諸臣,遇諸番人入貢,分別存留起送,不得概遣入京。且嚴飭邊吏,毋避禍目前,貽患異日,貪納款之虛名,忘禦邊之實策。」帝可其奏。

故事

原文故事

故事、諸番の貢物至れば、辺臣は験えてその籍を上し、礼官は為に籍に按じて給賜す。籍に載せざるは、自ら貿易するを許す。貢使既に竣れば、即ち余貨有りと雖も、携帰を責め令す。官に入るるを願うは、礼官奏聞し、鈔を給す。正徳末、黠番猾胥交関して利を罔み、始めて貿易余貨を市儈に評直せしめ、官絹鈔を給するの例有り。是に至り、天方及び土魯番の使臣、その籍余の玉石・銼刀諸貨、固く貢物に準じて給賞せんことを求む。礼官已むを得ず、正徳年間の例を以て請い、これを許す。

原文故事,諸番貢物至,邊臣驗上其籍,禮官為按籍給賜。籍所不載,許自行貿易。貢使既竣,即有餘貨,責令攜歸。願入官者,禮官奏聞,給鈔。正德末,黠番猾胥交關罔利,始有貿易餘貨令市儈評直、官給絹鈔之例。至是,天方及土魯番使臣,其籍餘玉石、銼刀諸貨,固求準貢物給賞。禮官不得已,以正德間例為請,許之。

番使は多く賈人、来れば輒ち重貲を挟み中国と市す。辺吏は賄を嗜み、侵剋多端、類て公家に償いを取る。或いはその価に当たらずと為せば、則ち咆哮して止まず。是歳、貢使は皆黠悍、既に中国の情を知り習い、且つ辺吏の侵剋を憾む也、屡これを訴うるも、礼官は却って問わず。甘粛を鎮守する中官陳浩なる者、番使の入貢する時に当たり、家奴王洪をして名馬・玉石諸物を多く索ましむ。使臣これを憾む。一日、衢に於いて洪に遇い、即ち執えて官に詣り以てその事を証実す。礼官は事国体に関す、須らく大いに処分有りて、以て遠人の心を服せしむべしと言う。乃ち三法司・錦衣衛及び給事中各々官一員を遣わし甘粛に赴き按治せしむ。洪遂に罪を得る。

原文番使多賈人,來輒挾重貲與中國市。邊吏嗜賄,侵剋多端,類取償於公家。或不當其直,則咆哮不止。是歲,貢使皆黠悍,既習知中國情,且憾邊吏之侵剋也,屢訴之,禮官卻不問。鎮守甘肅中官陳浩者,當番使入貢時,令家奴王洪多索名馬、玉石諸物,使臣憾之。一日,遇洪於衢,即執詣官以證實其事。禮官言事關國體,須大有處分,以服遠人之心。乃命三法司、錦衣衛及給事中各遣官一員赴甘肅按治,洪迄獲罪。

十七年復た貢し、その使臣は中土を游覧せんことを請う。礼官は狡心有るを疑い、故事に非ずとしてこれを格す。二十二年、撒馬児罕・土魯番・哈密・魯迷諸国とともに馬及び方物を貢す。後五六年一貢、万暦中に至るまで絶えず。

原文十七年復貢,其使臣請游覽中土。禮官疑有狡心,以非故事格之。二十二年偕撒馬兒罕、土魯番、哈密、魯迷諸國貢馬及方物。後五六年一貢,迄萬曆中不絕。

天方は西域に於いて大国と為り、四時常に夏に似て、雨雹霜雪無く、惟だ露最も濃く、草木皆これを資りて長養す。土沃にして、慄・麦・黒黍に富む。人皆頎碩。男子は髪を削り、布を以てこれを纏う。婦女は則ち髪を編み頭を蓋い、その面を露さず。相伝う回回の教を設くるの祖馬哈麻と曰う者は、首にこの地に於いて教を行い、死すれば即ちここに葬る。墓頂常に光有り、日夜熄えず。後人その教に遵い、久しくして衰えず、故に人皆善に向う。国に苛擾無く、亦た刑罰無く、上下安和し、寇賊作らず、西土これを楽国と称す。俗は酒を禁ず。礼拝寺有り、月の初めて生ずれば、その王及び臣民咸く天を拝し、号呼称揚して以て礼と為す。寺は四方に分かれ、毎方九十間、共に三百六十間、皆白玉を柱と為し、黄甘玉を地と為す。その堂は五色石を以て砌き成し、四方平頂。内に沈香の大木を用いて梁と為す凡そ五、又黄金を以て閣と為す。堂中の垣墉は悉く薔薇露・龍涎香を以て土に和してこれを為す。門を守るに二黒獅を以てす。堂の左に司馬儀の墓有り、その国これを聖人塚と称す。土は悉く宝石、囲牆は則ち黄甘玉。両旁に諸祖師の法を伝うるの堂有り、亦た石を以て築き成し、俱に其の壮麗を極む。その回回教を崇奉することかくの如し。

原文天方於西域為大國,四時常似夏,無雨雹霜雪,惟露最濃,草木皆資之長養。土沃,饒慄、麥、黑黍。人皆頎碩。男子削髮,以布纏之。婦女則編髮蓋頭,不露其面。相傳回回設教之祖曰馬哈麻者,首於此地行教,死即葬焉。墓頂常有光,日夜不熄。後人遵其教,久而不衰,故人皆向善。國無苛擾,亦無刑罰,上下安和,寇賊不作,西土稱為樂國。俗禁酒。有禮拜寺,月初生,其王及臣民咸拜天,號呼稱揚以為禮。寺分四方,每方九十間,共三百六十間,皆白玉為柱,黃甘玉為地。其堂以五色石砌成,四方平頂。內用沉香大木為梁凡五,又以黃金為閣。堂中垣墉,悉以薔薇露、龍涎香和土為之。守門以二黑獅。堂左有司馬儀墓,其國稱為聖人塚。土悉寶石,圍牆則黃甘玉。兩旁有諸祖師傳法之堂,亦以石築成,俱極其壯麗。其崇奉回回教如此。

瓜果や諸畜は、みな中国と同様である。西瓜や甘瓜には一人で持ち上げられないものがあり、桃には四五斤も重いものがあり、鶏や鴨には十余斤も重いものがあり、いずれも諸蕃にはないものである。馬哈麻の墓の後ろに一つの井戸があり、水は清くて甘い。海を渡る者は必ずこれを汲んで行き、颶風に遭えば、その水を取って撒けばすぐに静まる。鄭和が西洋に使いした時、その風物はこのように伝えられた。その後、王と称する者が二三十人に至り、その習俗も次第に初めのようではなくなった。

原文瓜果、諸畜,咸如中國。西瓜、甘瓜有一人不能舉者,桃有重四五斤者,雞、鴨有重十餘斤者,皆諸番所無也。馬哈麻墓後有一井,水清而甘。泛海者必汲以行,遇颶風,取水灑之即息。當鄭和使西洋時,傳其風物如此。其後稱王者至二三十人,其俗亦漸不如初矣。

默德那

原文默德那

默德那は、回回の祖国である。地は天方に近い。宣徳の時、その酋長が使者を遣わし、天方の使臣と共に来朝して貢献したが、その後は再び至らなかった。伝えられるところでは、初めその国王謨罕驀德は生まれながらに神霊で、西域の諸国をことごとく臣服させ、諸国は彼を別諳抜爾と尊んだ。これは天使という意味である。国中には経典三十本があり、凡そ三千六百余りの段落がある。その書は旁行し、篆書・草書・楷書の三体を兼ね、西洋諸国は皆これを用いる。その教えは天を事えることを主とし、像設はない。毎日西に向かって虔かに拝礼する。毎年一ヶ月の斎戒があり、沐浴して衣服を替え、住む所も必ず常の処を変える。隋の開皇年間に、その国の撒哈八撒阿的幹葛思が初めてその教えを中国に伝えた。元の世に至るまで、その人々は四方に遍く、皆教えを守って替えることがなかった。

原文默德那,回回祖國也,地近天方。宣德時,其酋長遣使偕天方使臣來貢,後不復至。相傳,其初國王謨罕驀德生而神靈,盡臣服西域諸國,諸國尊為別諳拔爾,猶言天使也。國中有經三十本,凡三千六百餘段。其書旁行,兼篆、草、楷三體,西洋諸國皆用之。其教以事天為主,而無像設。每日西向虔拜。每歲齋戒一月,沐浴更衣,居必易常處。隋開皇中,其國撒哈八撒阿的幹葛思始傳其教入中國。迄元世,其人遍於四方,皆守教不替。

国中の城池・宮室・市肆・田園は、大いに中土に類する。陰陽・星暦・医薬・音楽などの諸技がある。その織文や製器は特に巧みである。寒暑は季節に応じ、民は殷盛で物産は豊か、五穀六畜は全て備わる。俗に殺生を重んじ、豚肉を食わない。常に白布で頭を覆い、たとえ他邦に行っても、その習俗を変えない。

原文國中城池、宮室、市肆、田園,大類中土。有陰陽、星曆、醫藥、音樂諸技。其織文、製器尤巧。寒暑應候,民殷物繁,五穀六畜咸備。俗重殺,不食豬肉。嘗以白布蒙頭,雖適他邦,亦不易其俗。

坤城

原文坤城

坤城は、西域の回回の種である。宣徳五年、その使臣者馬力丁らが来朝し、駱駝と馬を貢献した。当時は開中の令があり、使者はすぐに米一万六千七百石を京倉に輸送して塩を中納した。帰国に際し、納めた米を官に献上したいと願った。帝は言った、「回人は営利に長け、名目は朝貢であっても、実は貿易を図っている。価値を以て酬いるべきである。」そこで帛四十匹と、その倍の布を与えた。その後もたびたび貢献した。

原文坤城,西域回回種。宣德五年,其使臣者馬力丁等來朝,貢駝馬。時有開中之令,使者即輸米一萬六千七百石於京倉中鹽。及辭還,願以所納米獻官。帝曰:「回人善營利,雖名朝貢,實圖貿易,可酬以直。」於是予帛四十匹、布倍之。其後亦嘗貢。

成祖は武をもって天下を定め、万方を威圧して制しようとし、使者を四方に遣わして招致した。これにより西域の大小諸国はみな額を地につけて臣と称し、宝物を献じて遅れを恐れなかった。また北は沙漠の果てまで、南は溟海の極みまで、東西は日の出没する処に至るまで、凡そ舟車の至ることのできる所は、届かない所がなかった。この時より、殊方異域の鳥言侏㒧の使者が、輻湊して闕廷に集まった。歳時に頒賜を行うと、庫蔵は空となった。そして四方の奇珍異宝・名禽殊獣が上方に進献されるものも、日増しに月増しに増えた。漢・唐の盛時を兼ねて有する所となり、百王もこれに並ぶことはできなかった。余威は後嗣に及び、宣徳・正統の朝にもなお重訳を経て来朝する者が多かった。しかし仁宗は遠略を務めず、践祚の初めに、すぐに西洋の宝を取りに行く船を撤し、松花江での造船の役を停め、西域の使臣を京に召還し、帰国を命じて、中土を疲弊させて遠人に奉じることを欲しなかった。宣徳がこれを継ぎ、たまに一度使者を遣わすこともあったが、まもなく停止した。この故に辺隅は休息を得たのである。

原文自成祖以武定天下,欲威制萬方,遣使四出招徠。由是西域大小諸國莫不稽顙稱臣,獻琛恐後。又北窮沙漠,南極溟海,東西抵日出沒之處,凡舟車可至者,無所不屆。自是,殊方異域鳥言侏㒧之使,輻輳闕廷。歲時頒賜,庫藏為虛。而四方奇珍異寶、名禽殊獸進獻上方者,亦日增月益。蓋兼漢、唐之盛而有之,百王所莫幷也。餘威及於後嗣,宣德、正統朝猶多重譯而至。然仁宗不務遠略,踐阼之初,即撤西洋取寶之船,停松花江造舟之役,召西域使臣還京,敕之歸國,不欲疲中土以奉遠人。宣德繼之,雖間一遣使,尋亦停止,以故邊隅獲休息焉。

今、故牘を採り、かつて貢献して天朝に名を通じたものを挙げると、哈三、哈烈児、沙的蠻、哈的蘭、掃蘭、乜克力、把力黑、俺力麻、脱忽麻、察力失、幹失、卜哈剌、怕剌、你沙兀児、克失迷児、帖必力思、火壇、火占、苦先、牙昔、牙児干、戎、白、兀倫、阿端、邪思城、捨黑、擺音、克癿、計二十九部である。疆域が狭小なため、ただ地面と称するに止まる。哈烈・哈実哈児・賽藍・亦力把力・失剌思・沙鹿海牙・阿速・把丹は皆ハミを経由して嘉峪関に入り、三年あるいは五年に一度貢献し、入京する者は三十五人を超えてはならない。ハミを経由しないものには、さらに乞児・麻米児・哈蘭可脱・癿蠟燭・也的干・剌竹・亦不剌・因格失・迷乞児・吉思羽奴・思哈辛の十一地面があり、これらもかつて貢献を通じた。

原文今采故牘嘗奉貢通名天朝者,曰哈三,曰哈烈兒,曰沙的蠻,曰哈的蘭,曰掃蘭,曰乜克力,曰把力黑,曰俺力麻,曰脫忽麻,曰察力失,曰幹失,曰卜哈剌,曰怕剌,曰你沙兀兒,曰克失迷兒,曰帖必力思,曰火壇,曰火占,曰苦先,曰牙昔,曰牙兒干,曰戎,曰白,曰兀倫,曰阿端,曰邪思城,曰捨黑,曰擺音,曰克癿,計二十九部。以疆域褊小,止稱地面。與哈烈、哈實哈兒、賽藍、亦力把{{另|力|里}}、失剌思、沙鹿海牙、阿速、把丹皆由哈密入嘉峪關,或三年、五年一貢,入京者不得過三十五人。其不由哈密者,更有乞兒、麻米兒、哈蘭可脫、癿蠟燭、也的干、剌竹、亦不剌、因格失、迷乞兒、吉思羽奴、思哈辛十一地面,亦嘗通貢。

魯迷

原文魯迷

魯迷は、中国から極めて遠く離れている。嘉靖三年、使者を遣わして獅子と西牛を貢献した。給事中鄭一鵬が言うには、「魯迷はかつて貢献した国ではなく、獅子は飼育すべき獣ではない。これを退けて、聖徳を光らせるべきである。」礼官の席書らは言うには、「魯迷は『王会』に列せず、その真偽は知ることができない。近ごろ土魯番がたびたび甘粛を侵し、辺吏が魯迷の冊内を調べたところ、土魯番の人がいることが分かった。その狡詐は明らかである。関外に遣り出し、捕らえた間諜の罪を治めることを請う。」帝は結局これを受け入れ、辺臣に察治を命じた。

原文魯迷,去中國絕遠。嘉靖三年遣使貢獅子、西牛。給事中鄭一鵬言:「魯迷非嘗貢之邦,獅子非可育之獸,請卻之,以光聖德。」禮官席書等言:「魯迷不列《王會》,其真偽不可知。近土魯番數侵甘肅,而邊吏於魯迷冊內,察有土魯番之人。其狡詐明甚,請遣之出關,治所獲間諜罪。」帝竟納之,而令邊臣察治。

五年の冬、再び二つの物を携えて来貢した。頒賜が終わると、その使臣は言うには、長途を跋渉し、費用が二万二千余金に至ったので、加賜を請うた。御史張祿が言うには、「華と夷は方域を異にし、人と物は性質を異にする。人を留め獣を養うことは、物に背くのみならず、人にも逆らう。況んや獅子を養うには一日に羊二頭を要し、西牛を養うには一日に果物や餌を要する。獣が互いに食い合うことと、人の食を食うことは、聖賢も皆これを悪む。また調御の人役は、日々に供億を必要とする。光禄寺の有限の財を以て、人獣の無益な費用に充てるのは、殊に経に背く。その人を返し、その物を退け、その賞を薄くして、中国の聖人は異物を貴ばないという意を明らかにすべきである。」聞き入れられなかった。そこで礼官の言うところに従い、弘治年間の撒馬児罕の例に倣って増やした。二十二年、天方諸国と共に馬と方物を貢献し、翌年甘州に還った。時に迤北の賊が寇してきたので、総兵官楊信が貢使九十余人を往かせて防がせたが、死者九人を出した。帝はこれを聞き、信の職を褫い、役人に命じて棺を整えてその喪を帰した。二十七年、三十三年に共に入貢した。その貢物には珊瑚・琥珀・金剛鑽・花瓷器・鎖服・撒哈剌帳・羚羊角・西狗皮・舍列猻皮・鉄角皮の類があった。

原文五年冬,復以二物來貢。既頒賜,其使臣言,長途跋涉,費至二萬二千餘金,請加賜。御史張祿言:「華夷異方,人物異性,留人養畜,不惟違物,抑且拂人。況養獅日用二羊,養西牛日用果餌。獸相食與食人食,聖賢皆惡之。又調御人役,日需供億。以光祿有限之財,充人獸無益之費,殊為拂經。乞返其人,卻其物,薄其賞,明中國聖人不貴異物之意。」不納。乃從禮官言,如弘治撒馬兒罕例益之。二十二年偕天方諸國貢馬及方物,明年還至甘州。會迤北賊入寇,總兵官楊信令貢使九十餘人往御,死者九人。帝聞,褫信職,命有司棺斂歸其喪。二十七年、三十三年幷入貢。其貢物有珊瑚、琥珀、金剛鉆、花瓷器、鎖服、撒哈剌帳、羚羊角、西狗皮、舍列猻皮、鐵角皮之屬。