明史

列伝第二百二十 西域四 撒馬児罕 沙鹿海牙 達失干 賽藍 養夷 渇石 迭里迷 卜花児 別失八里 哈烈 俺都淮 八答黒商 于闐 失剌思 俺的干 哈実哈児 亦思弗罕 火剌札 乞力麻児 白松虎児 答児密 納失者罕 敏真 日落 米昔児 黒婁 討来思 阿速 沙哈魯 天方 黙徳那 坤城 哈三等二十九部 魯迷

撒馬児罕

撒馬児罕は、即ち漢の罽賓の地であり、隋は漕国と曰い、唐は復た罽賓と名づけ、皆中国に通じた。元の太祖西域を蕩平し、尽く諸王・駙馬を以てこれが君長と為し、前代の国名を蒙古語に易え、始めて撒馬児罕の名有り。嘉峪関を去ること九千六百里。元末これが王と為る者は、駙馬帖木児なり。

洪武中、太祖西域に通ぜんと欲し、屡々使を遣わして招諭すれども、遐方の君長未だ至る者無し。二十年九月、帖木児首めて回回満剌哈非思等を遣わして来朝し、馬十五、駱駝二を貢ぐ。詔して其の使を宴し、白金十有八錠を賜う。是より頻りに歳毎に馬駱駝を貢ぐ。二十五年兼ねて絨六匹、青梭幅九匹、紅緑撒哈剌各二匹及び鑌鉄刀剣・甲冑諸物を貢ぐ。而して其の国中の回回又自ら馬を駆りて涼州に抵り互市す。帝許さず、京に赴きてこれを鬻がしむ。元の時回回天下に遍く、是に及び甘粛に居る者尚ほ多し、詔して守臣悉くこれを遣わし、ここに撒馬児罕に帰する者千二百余人。

二十七年八月、帖木児馬二百を貢ぐ。其の表に曰く、「恭惟すらくは、大明大皇帝天の明命を受け、四海を統一し、仁徳洪布し、恩養庶類し、万国欣仰す。咸く上天天下を平治せんと欲し、特に皇帝を命じて運数に出で膺けしめ、億兆の主と為すを知る。光明広大、昭かに天鏡の若く、遠近有ること無く、咸くこれを照臨す。臣帖木児万里の外に僻在し、恭しく聖徳の寛大、万古を超越するを聞く。古より無きの福、皇帝皆これ有り。未だ服せざるの国、皇帝皆これを服す。遠方絶域、昏昧の地、皆清明なり。老者安楽ならざる無く、少者長遂せざる無く、善者福を蒙らざる無く、悪者懼れを知らざる無し。今又特に遠国に施恩せられ、凡そ商賈の中国に来る者、都邑・城池を観覧せしめ、富貴雄壮、昏暗の中より出でて、忽ち天日を睹るが如く、何ぞ幸いこれに如かんや。又敕書恩撫労問を承け、駅駅相通じ、道路壅ぐること無からしめ、遠国の人咸くその済うを得しむ。聖心を欽仰し、照世の杯の如く、臣が心中豁然として光明なり。臣が国中の部落、茲の徳音を聞き、歓舞感戴す。臣恩に報ゆる無く、惟だ天を仰ぎ聖寿福禄を祝頌し、天地の如く永永極まり無からんことを」。照世杯とは、其の国旧伝に杯光明洞徹有り、これを照らせば世事を知るべし、故に云う。帝表を得て、その文有るを嘉す。明年給事中傅安等を命じ璽書・幣帛を齎してこれに報ゆ。其の貢馬、一歳再び至り、千を以て計い、併せて宝鈔を賜いこれを償う。

成祖践祚し、使を遣わし敕諭して其の国に告ぐ。永楽三年、傅安等未だ還らず、而して朝廷帖木児別失八里を仮道し兵を率いて東すと聞き、敕して甘粛総兵官宋晟に備えを儆しむ。五年六月、安等還る。初め、安其の国に至り留められ、朝貢亦絶ゆ。尋ち人に令し安を導き諸国数万里を遍歴せしめ、以て其の国の広大を誇る。是に至り帖木児死し、其の孫哈里嗣ぎ、乃ち使臣虎歹達等を遣わし安を送り還し、方物を貢ぐ。帝厚く其の使を賚し、指揮白阿児忻台等を遣わし往きて故王を祭り、而して新王及び部落に銀幣を賜う。其の頭目沙里奴児丁等も亦駱駝馬を貢ぐ。安等を命じ其の王に綵幣を賜い、貢使と偕に行かしむ。七年、安等還り、王使を遣わし随いて入貢す。此れより後、或いは比年、或いは一歳を間い、或いは三歳、輒ち入貢す。十三年使を遣わし李達・陳誠等に随い入貢す。辞して帰らんとするに及び、誠及び中官魯安を命じ偕に往き、其の頭目兀魯伯等に白銀・彩幣を賜う。其の国復た使を遣わし誠等に随い入貢す。十八年復た誠及び中官郭敬を命じ敕及び彩幣を齎してこれに報ゆ。宣徳五年秋・冬、頭目兀魯伯米児咱等使を遣わし再び入貢す。七年中官李貴等を遣わし文綺・羅錦を齎し其の国に賜う。

正統四年良馬を貢ぎ、色玄く、蹄額皆白し。帝これを愛し、命じて其の像を図し、名を瑞駂と賜い、賞賚加わる。十年十月書を以て其の王兀魯伯曲烈乾に諭して曰く、「王遠く西陲に処り、恪く職貢を修め、良く嘉尚に足る。使回り、特に王及び王の妻子に彩幣表裏を賜い、朕が優待の意を示す」。別に敕して金玉器・龍首杖・細馬鞍及び諸色の織金文綺を賜い、其の使臣を指揮僉事に官す。

景泰七年馬駱駝・玉石を貢ぐ。礼官言く、「旧制賞を与うること太重し。今正・副使一等・二等の賞物を与うべき者は、旧時の如くす。三等人には綵緞四表裏、絹三匹、織金紵絲衣一襲を与う。其の随行の鎮撫・舎人以下は、逓減差等有り。進むる所の阿魯骨馬は毎匹彩緞四表裏・絹八匹、駱駝は三表裏・絹十匹、達達馬は等第を分かたず、毎匹紵絲一匹・絹八匹・折鈔絹一匹、中等馬もこれに如く、下等の者も亦逓減差等有り」。制可す。又言く、「貢ぐる所の玉石、用に堪うる者は止む二十四塊、六十八斤、余り五千九百余斤は用に適せず、宜しく自ら鬻がしむべし。而して彼堅く進献せんと欲し、請う毎五斤に絹一匹を賜わんことを」。亦これを可とす。已にして使臣還り、王卜撒因に文綺・器物を賜う。天順元年都指揮馬雲等を命じ西域に使いし、敕して其の鎖魯檀毋撒を奨め、彩幣を賜い、朝使の往還を護らしむ。鎖魯檀とは、君長の称、蒙古の可汗に猶し。七年復た指揮詹升等を命じ其の国に使わす。

成化中、其の鎖魯檀阿黒麻三たび入貢す。十九年亦思罕の酋長と偕に二獅子を貢ぎ、粛州に至り、其の使者大臣の往き迎うるを奏請す。職方郎中陸容言く、「これ無用の物、郊廟に在りては犠牲と為すべからず、乗輿に在りては驂服と被るべからず、宜しく受くる勿れ」。礼官周洪謨等も亦往き迎うるは礼に非ずと言う、帝卒に中使を遣わしこれを迎う。獅子は日に生羊二を噉み、醋・酐・蜜酪各二瓶。獅子を養う者は、光禄日に酒饌を与う。帝既に厚く賜賚を加うるも、而其の使者怕六湾以て軽しと為し、永楽間の例を援りて請う。礼官議して正統四年の例に従い、彩幣五表裏を加う。使者復た以て軽しと為し、乃ち正・副使各二表裏を加え、従者はこれに半ばし、中官韋洛・鴻臚署丞海濱を命じこれを送り還す。其の使者故道に由らず広東に赴き、又多く良家の女を買い妻妾と為す、洛等これを禁止せず。久しくして、洛上疏して罪を濱に委ね、濱吏に下る。其の使者海を泛びて満剌加に至り狻猊を市い以て献ぜんことを請い、市舶中官韋眷これを主とす、布政使陳選力陳して不可とす、乃ち已む。

弘治二年(1489年)、その使節は満剌加(マラッカ)を経て広東に至り、獅子・鸚鵡などの物を貢いだので、守臣がこれを奏聞した。礼官の耿裕らが言うには、「南海は西域の貢道ではないので、退けるよう請う」と。礼科給事中の韓鼎らもまた言うには、「凶暴な獣は親しんで遊ぶに適さず、しかも道路を騒がせ、供給費用は莫大で、受け入れるべきではない」と。帝は言った、「珍禽奇獣は朕は献上を受けない。まして正道から来たものでもない。すぐに退還せよ。守臣は制に違反したので罪に当たるが、暫くこれを許す」と。礼官はまた言った、「海路は固より開くべきではないが、あまりに絶ち切るのも良くない。薄くその使節を犒労し、量を計って綺帛をその王に賜うよう請う」と。制はこれを許可した。翌年また土魯番とともに獅子及び哈剌・虎剌などの獣を貢ぎ、甘粛から入った。鎮守中官の傅徳・総兵官の周玉らは先に図形を描いて奏聞し、すぐに人を駅伝で馳せて送り出した。ただ巡按御史の陳瑤のみがその浪費と煩わしさを論じて、受け入れないよう請うた。礼官はその言の通りに議し、量を計って犒賞を与え、かつ言うには、「聖明の御世に在り、たびたび貢献を退けているのに、傅徳らは徳意を奉行できず、その罪を請う」と。帝は言った、「貢使は既に到着した以上、退ける必要はない。ただ一二人を京に遣わすだけでよい。獅子などの物は、獣一頭につき一日に羊一頭を与え、妄りに費やすな。傅徳らは許して処罰しない」と。その後、十二年(1499年)になって初めて来貢した。翌年また至った。そして正徳年間(1506-1521年)にもなおたびたび至った。

嘉靖二年(1523年)、貢使がまた至った。礼官が言うには、「諸国の使臣は道中で延び延びとなり年を隔て、在京の者は同じ賞賜を待ち受け、光禄寺・郵伝の供給費用は莫大である。期約を示すべきである」と。そこで禁制の数事を列挙して上奏し、これに従った。十二年(1533年)、天方・土魯番とともに入貢し、王と称する者が百余人に至った。礼官の夏言らがその非を論じ、閣臣に勅して答えるところを議するよう請うた。張孚敬らが言うには、「西域の諸王は、本国の封授によるものか、あるいは部落が自ら尊称したものと疑われる。先年にも三四十人に至ったことがあり、その称するところに基づいて答えてきた。急に裁革を議すれば、人情が望みを失う恐れがある。改めて礼・兵二部に詳しく議するよう乞う」と。そこで夏言及び枢臣の王憲らが謂うには、「西域で王を称するのは、ただ土魯番・天方・撒馬児罕のみである。日落などの国は、称する名は多くとも、朝貢は極めて少ない。弘治・正徳年間、土魯番は十三回入貢し、正徳年間、天方は四回入貢したが、王を称する者は概ね一人で、多くても三人を超えず、その他はただ頭目と称するのみであった。嘉靖二年・八年に至って、天方は六七人に多くなり、土魯番は十一二人に、撒馬児罕は二十七人に至った。張孚敬らが言う三四十人というのは、三国の数を合わせたものである。今、土魯番十五王、天方二十七王、撒馬児罕五十三王というのは、実にこれまでになかったことである。弘治の時に回賜した勅書は、ただ一王を称したのみである。もし撒馬児罕の往年の故事に倣い、王号に類して答え、人ごとに一勅を与えるならば、中国を尊び外蕃を制する道ではない。そもそも帝王が外蕃を馭するには、その来ることを拒まないが、必ず制をもって限るものである。もし名号が差し出て僭越し、言詞が侮慢であれば、必ず大義を正し、その無礼を責めるのである。今、本国の封じたものというなら、なぜ故牘に見えないのか。部落が自ら号したものというなら、どうして天朝に達したのか。我々が一概に勅を与えれば、彼らは即ち勅に拠って恣意に往来し、ますます郵伝を擾し、供億を費やし、府庫を尽くして谿壑を満たすことになり、得策ではない」と。帝はその言を容れ、一国につきただ一勅を与えるのみとし、かつ詰責して、国に二王無きの義を示した。しかし諸蕃は結局従わず、十五年(1536年)の入貢はまた以前の通りであった。甘粛巡撫の趙載が奏すには、「諸国で王を称する者が百五十余人に至り、いずれも本朝の封爵ではない。改正を命じ、かつ貢使の名数を定めるべきである。通事には漢人を用い、専ら色目人を用いて、交通して紛争を生じさせないようにすべきである」と。部議はこれに従った。二十六年(1547年)に入貢し、甘粛巡撫の楊博が朝貢事宜を再定するよう請うたので、礼官がまた数事を列挙して施行した。その後入貢は、万暦年間(1573-1620年)の中頃まで絶えなかった。おそらく番人は商売に長け、中華の互市を貪り、一旦入境すれば、一切の飲食・道途の費用を有司から取ったので、五年一貢と定めても、結局従おうとせず、天朝もまたどうすることもできなかったのである。

その国は東西三千余里、地は広く平らで、土壤は膏腴である。王の居る城は、広さ十余里、民居は稠密である。西南の諸蕃の貨物は皆ここに集まり、富饒と号される。城の東北に土屋があり、天を拝む所で、規制は精巧で、柱は皆青石、花文を彫り、中に経を講ずる堂を設ける。泥金で経を書き、羊皮で包む。俗は酒を禁ずる。人物は秀美で、工巧は哈烈(ヘラート)に勝り、風俗・土産は多くこれと同様である。その傍近く、東に沙鹿海牙・達失干・賽藍・養夷があり、西に渴石・迭里迷などの部落があり、皆これに役属している。

沙鹿海牙

沙鹿海牙は、西へ撒馬児罕を去ること五百余里。城は小岡の上にあり、西北は河に臨む。河の名は火站、水勢は衝きて急で、浮梁を架して渡り、また小舟もある。南は山に近く、人は多く崖谷に依って住む。園林は広く茂る。西に大沙洲あり、およそ二百里。水は無く、あっても塩辛くて飲めない。牛馬が誤ってこれを飲めば、たちまち死ぬ。地に臭草が生え、高さ一尺余、葉は蓋の如く、その液を煮て膏と成し、即ち阿魏である。また小草あり、高さ一二尺、叢生し、秋深く露凝れば、これを食うと蜜の如く、煮て糖とし、番名は達郎古賓という。

永楽年間(1403-1424年)、李達・陳誠がその地に使いし、その酋長はすぐに使節を遣わして貢を奉じた。宣徳七年(1432年)、中官の李貴に命じて勅を齎しその酋長を諭し、金織文綺・彩幣を賜った。

達失干

達失干は、西へ撒馬児罕を去ること七百余里。城は平原にあり、周囲二里。外に園林多く、果木に富む。土は五穀に適す。民居は稠密である。李達・陳誠・李貴の使節は、沙鹿海牙と同じである。

賽藍

賽藍は、達失干の東にあり、西へ撒馬児罕を去ること千余里。城郭あり、周囲二、三里。四面平らかで広く、居人は繁庶である。五穀は茂って殖え、また果木に富む。夏秋の間、草の中に黒い小蜘蛛が生ずる。人に刺されれば、遍体痛んで耐え難く、必ず薄荷の枝で痛む所を払い、また羊の肝で擦り、経を誦すること一昼夜、痛みがようやく止み、体膚は尽く蛻ける。六畜で傷つけられた者は多く死ぬ。凡そ宿泊するには、必ず水に近い地を選んでこれを避ける。元太祖の時、都元帥の薛塔剌海が賽藍諸国に従征し、砲で功を立てたのが、即ちこの地である。陳誠・李貴の使節は、諸国と同じである。

養夷

養夷は、賽藍の東三百六十里にある。城は乱山の間にあり。東北に大溪あり、西流して巨川に入る。百里行けば、荒城が多い。おそらくその地は別失八里・蒙古部落の間に介在し、たびたび侵擾を受けたためであろう。この故に人民は散亡し、ただ戍卒数百人が孤城に住み、破れた廬屋と頽れた垣、蕭然として榛莽と化している。永楽の時、陳誠がその地に至った。

渴石

カシュ(渴石)は、サマルカンドの西南三百六十里にある。城は大村にあり、周囲十余里。宮室は壮麗で、堂は玉石を柱とし、壁や窓枠はことごとく金碧で飾り、瑠璃をちりばめる。その昔、サマルカンドの首長で駙馬(王族の婿)のティムール(帖木兒)がここに住んだ。城外はすべて水田である。東南は山に近く、園林が多い。西へ十里余り行くと、珍しい木が豊富にある。さらに西へ三百里行くと、大山が屹立し、中に石の峡谷があり、両岸は斧で割ったようである。二三里行って峡谷の出口を出ると、石の門があり、色は鉄に似て、道は東西に通じ、蕃人はこれを鉄門関と号し、兵を置いて守っている。あるいは言うには、元の太祖(チンギス・ハン)が東インドの鉄門関に至り、一角獣に遇い、人の言葉を話すことができた、すなわちこの地であるという。

ディルミズ(迭里迷)

ディルミズ(迭里迷)は、サマルカンドの西南にあり、ヘラート(哈烈)から二千余里離れている。新旧二城があり、互いに十余里離れており、その首長は新城に住む。城内と城外の住民はわずか数百軒で、牧畜は繁殖する。城はアム川(阿朮河)の東岸にあり、魚が多い。川の東の地はサマルカンドに属し、西は葦原が多く、獅子を産する。陳誠と李達はかつてこの地に使節として赴いた。

ブハラ(卜花兒)

ブハラ(卜花兒)は、サマルカンドの西北七百余里にある。城は平野にあり、周囲十余里、戸数は万を数える。市街は繁華で、富庶と称される。地勢は低く、季節を通じて温暖で、五穀や桑麻に適し、絹綿や布帛が多く、六畜も豊かである。

永楽十三年、陳誠が西域から帰還し、経由したヘラート、サマルカンド、ベシバリク(別失八里)、アンドフイ(俺都淮)、バダフシャン(八答黑商)、ディルミズ、シャフリサブズ(沙鹿海牙)、サイラム(賽藍)、カシュ、ヤンギ(養夷)、ホーチョウ(火州)、リューチョン(柳城)、トルファン(土魯番)、ヤンゼ(鹽澤)、ハミ(哈密)、タシケント(達失干)、ブハラの凡そ十七カ国について、その山川、人物、風俗を詳しく記し、『使西域記』を作って献上したので、これによって中国はそれらを考察することができた。宣徳七年、李達に命じて西域を慰撫させたが、ブハラもその中に含まれた。

ベシバリク(別失八里)

ベシバリク(別失八里)は、西域の大国である。南は于闐に接し、北はオイラト(瓦剌)に連なり、西はサマルカンドに至り、東はホーチョウ(火州)に至り、東南は嘉峪関から三千七百里の距離にある。あるいは焉耆と言い、あるいは亀茲と言う。元の世祖の時に宣慰司を設置し、まもなく元帥府に改め、その後は諸王を以てこれを鎮守させた。

洪武年間、藍玉が沙漠を征伐し、ブイル湖(捕魚兒海)に至り、サマルカンドの商人数百名を捕らえた。太祖は官吏を遣わして彼らを送還させたが、道中ベシバリクを経由した。その王クイドゥル・ホージャ(黑的兒火者)は、直ちに千戸ハマルッディーン(哈馬力丁)らを遣わして来朝させ、馬と海東青を貢ぎ、二十四年七月に京師に到着した。帝は喜び、王に彩幣十表裏を賜い、その使者らにも賜物があった。九月、主事の寛徹、御史の韓敬、評事の唐鉦を西域に使節として派遣した。書を以てクイドゥル・ホージャに諭して言うには、「朕は普天の下、后土の上において、国を持つ者が幾つあるか知らない。山に限られ海に隔てられ、風俗が異なるとはいえ、好悪の情、血気の類は、異なることはない。皇天は眷佑し、ただ一視同仁である。故に天命を受けて天下の主となる者は、上は天道を奉じ、一視同仁とし、大小諸国、遠方異類の君主と民をして、皆仁寿の域に至らしめる。そして友邦遠国は、天に順い大に事えて、国を保ち民を安んじるならば、皇天はこれを監み、またよく栄えさせるであろう。かつて我が中国の宋の君主は、奢侈で怠惰で、奸臣が政を乱した。天はその否徳を監み、ここに元の世祖に命じて朔漠に基を肇めさせ、中華を統べ入らしめ、生民はこれによって安靖を得ること七十余年であった。後嗣に至っては、国政を修めず、人を得ずに任用し、ついに綱紀はことごとく弛み、強きは弱きを陵ぎ、衆きは寡きを暴き、民生は嗟怨し、上は天に達した。天はこれによってその命を革め、朕に属した。朕は躬から乾符を握り、以て黔黎を主とする。凡そ諸々の乱雄で声教を擅にし朕の命に違う者は兵を以てこれを偃し、朕の命に順う者は徳を以てこれを撫す。この故に三十年の間、諸夏は奠安し、外蕃は賓服した。ただ元の臣蛮子ハラージャン(哈剌章)らがなお残った衆を率い、隙を作って辺境を寇し、師を興して討つは、勢い已むを得ない。兵はブイル湖に至り、故元の諸王、駙馬はその部属を率いて来降した。サマルカンドの数百人が貿易に来ていた者があり、朕は官吏に命じて護送して帰らせてから既に三年になる。使者が帰ると、王は直ちに使節を遣わして来貢した。朕は甚だこれを嘉する。王はますます大に事える誠を堅くし、通好往来し、使命を絶やさないならば、封国を悠久に保つことになろう。特に官吏を遣わして労い嘉する。朕の意を悉くせよ。」徹らが到着すると、王は彼らに厚い賜物がないとして、拘留した。敬と鉦の二人は帰還できた。

三十年正月、再び官吏を遣わして書を齎し、これを諭して言うには、「朕が即位して以来、西方の諸商人が我が中国に来て互市する者を、辺将は阻絶したことがない。朕はまた吏民に命じて善く遇させた。これによって商人は利益を得、国境は擾乱なく、これは我が中華が爾国に大いに恵みを与えたことである。前に寛徹らを爾らの諸国に遣わして通好させたのに、何故今に至るも帰還しないのか。吾は諸国に対して、一人も拘留したことはないのに、爾はかえって吾が使節を拘留する。これは理であろうか。この故に近年、回回が国境に入る者も、中国で互市させ、徹が帰還するのを待って放還させた。後に諸人が父母妻子があると言うので、吾はその至情を思いやり、ことごとく釈放して帰らせた。今また使節を遣わして爾を諭し、朝廷の恩意を知らしめる。道路を梗塞させて、兵端を開くに至らしめるな。『書経』に言う、『怨みは大に在らず、亦た小に在らず。恵まず、勧まず。』爾は恵み且つ勧めよ。」徹はようやく帰還できた。

成祖が即位した冬、官吏を遣わして璽書と綵幣を齎し、その国に赴かせた。間もなく、クイドゥル・ホージャが卒去し、子のシャム・イ・ジャハーン(沙迷查干)が嗣いだ。永楽二年、使節を遣わして玉璞と名馬を貢ぎ、宴と賜物は通常より多かった。時にハミの忠順王安克帖木兒がカガン・ギュリチ(可汗鬼力赤)に毒殺されると、シャム・イ・ジャハーンは師を率いてこれを討った。帝はその義を嘉し、使節を遣わして綵幣を賜い、嗣いだ忠順王トクト(脱脫)と和睦させるよう命じた。四年夏、来貢したので、鴻臚寺丞の劉帖木兒に命じて勅書と幣物を齎し、労い賜わり、その使者と同行させた。秋、冬および翌年の夏、三度入貢し、ついでサマルカンドは本来その先代の故地であると言い、兵を以てこれを回復することを請うた。宦官の把太、李達および劉帖木児に命じて勅書を齎し、審度して行動し、軽挙するなと戒め、これによって綵幣を賜った。六年、太らが帰還し、シャム・イ・ジャハーンは既に卒去し、弟のマハマド(馬哈麻)が嗣いだと報告した。帝は直ちに太らを遣わして祭奠させ、併せてその新王に賜物を与えた。

八年、朝使が撒馬児罕に往く者あり、馬哈麻これを厚く待遇したので、使者を遣わして彩幣を賜う。翌年、名馬・文豹を貢ぎ、命じて給事中傅安にその使を送還させ、金織の文綺を賜う。時に瓦剌の使者が馬哈麻がその部落を襲わんとしていると述べたので、順天保境の義を諭した。十一年、貢使が将に甘粛に至らんとするや、命じて所司に宴労させ、且つ総兵官李彬に善く遇するよう敕した。翌年冬、西域より還る者あり、馬哈麻の母及び弟が相継いで卒したという。帝これを愍れみ、命じて安に敕を齎らせて慰問し、彩幣を賜う。已にして馬哈麻もまた卒し、子無く、従子の納黒失只罕が嗣いだ。十四年春、使い来たりて喪を告ぐ。命じて安及び中官李達に弔祭させ、即時にその嗣子を封じて王とし、文綺・弓刀・甲冑を賜い、その母にもまた賜うところあり。翌年、使いを遣わして来貢し、将に娘を撒馬児罕に嫁がせんとし、馬をもって妝奩を市うことを請う。命じて中官李信等に綺・帛各五百匹を以てこれを助けしむ。十六年、貢使の速哥がその王が従弟の歪思にしいせられ、自立してその部落を西に徙し、国号を改めて亦力把里と曰うと述べた。帝は番俗は治むるに足らずとして、速哥を都督ととく僉事に授け、中官楊忠等を遣わして歪思に弓刀・甲冑及び文綺・彩幣を賜い、その頭目忽歹達等七十余人にも併せて賜うところあり、ここより奉貢絶えず。

宣徳元年、帝はその朝廷を尊事することを嘉し、使いを遣わして鈔幣を賜う。翌年入貢し、その正使・副使を指揮千戸に授け、誥命・冠帯を賜い、以後使臣多く官を授かる。三年、駱駝・馬を貢ぎ、指揮昌英等に命じて璽書・綵幣を齎らせてこれに報ず。時に歪思は連年貢ぎ、その母鎖魯檀哈敦もまた連三歳来貢した。歪思卒し、子の也先不花が嗣ぐ。正統元年、使いを遣わして来朝し、方物を貢ぎ、後もまた頻りに入貢す。故王歪思の婿卜賽因もまた使いを遣わして来貢す。十年、也先不花卒し、也密力虎者が嗣ぐ。翌年、馬・駱駝・方物を貢ぎ、命じて綵幣を以て王及び王母に賜う。景泰三年、玉石三千八百斤を貢ぎ、礼官がその用に堪えずと述べたので、詔して悉くこれを収め、毎二斤に帛一匹を賜う。天順元年、千戸於志敬等に命じて復辟をその王に諭させ、且つ綵幣を賜う。成化元年、礼官姚夔等が西域朝貢の期を定め、亦力把里を三歳・五歳に一貢とし、使者十人を過ぎざることを令し、ここより朝貢遂に稀となる。

その国には城郭宮室無く、水草に随って畜牧す。人性獷悍にして、君臣上下に体統無し。飲食衣服多く瓦剌と同じ。地極めて寒く、深山窮谷、六月にも雪飛ぶ。

哈烈

哈烈、一名を黒魯と曰い、撒馬児罕の西南三千里に在り、嘉峪関を去ること一万二千余里、西域の大国なり。元の駙馬帖木兒は既に撒馬児罕を君とし、またその子沙哈魯を遣わして哈烈を拠らしむ。

洪武の時、撒馬児罕及び別失八里は咸しく朝貢したが、哈烈は道遠くして至らず。二十五年、官を遣わしてその王に詔諭し、文綺・綵幣を賜うも、猶至らず。二十八年、給事中傅安・郭驥等を遣わして士卒千五百人を携え往かしむるも、撒馬児罕に留められ、達せず。三十年、また北平按察使陳徳文等を遣わして往かしむるも、亦久しく還らず。

成祖践祚し、官を遣わして璽書綵幣を齎らせてその王に賜うも、猶報命せず。永楽五年、安等還る。徳文は諸国を遍歴し、その酋長を説いて入貢せしむるも、皆道遠くして至る者無く、亦この年に始めて還る。徳文は保昌の人、諸方の風俗を采り歌詩を作りて以て献ず。帝これを嘉し、僉都御史に擢ぐ。翌年、また安を遣わして書幣を齎らせて哈烈に往かしむ。その酋沙哈魯把都児は使いを遣わして安に随い朝貢す。七年、京師に達し、また命じて賜物を齎らせてその使と偕に往きて報ぜしむ。翌年、その酋は使いを遣わして朝貢す。

撒馬児罕の酋ハリーは、哈烈の酋の兄の子なり、二人相能わず、数えしばしば兵を構う。帝はその使臣の還るに因り、都指揮白阿児忻台に命じて敕を齎らせてこれを諭して曰く、「天は民を生みて之に君を立て、各々その生を遂げしむ。朕は天下を統御し、一視同仁、遐邇に間隔無く、屡々嘗て使いを遣わして爾を諭す。爾能く虔しく職貢を修め、人民を撫輯し、西徼に安んずるは、朕甚だこれを嘉す。比来爾が従子ハリーと兵を構えて相仇するを聞き、朕これを惻然とす。一家の親、恩愛相厚くして、外侮を制するに足る。親者尚お爾くの如く乖戾なれば、疏者安んぞ協和せん。今より宜しく兵を休め民を息し、骨肉を保全し、太平の福を共に享くべし。」因りて綵幣表裏を賜い、併せて敕をハリーに諭して兵を罷めしめ、亦綵幣を賜う。

白阿児忻台は既に使を奉じ、撒馬児罕・失剌思・俺的干・俺都淮・土魯番・火州・柳城・哈実哈児の諸国に遍く詣り、これに幣帛を賜い、入朝を諭令す。諸酋長咸く喜び、各々使いを遣わして哈烈の使臣に偕に獅子・西馬・文豹等の諸物を貢ぐ。十一年、京師に達す。帝喜び、殿に御してこれを受け、犒賜を加う。ここより諸国の使併せて至り、皆哈烈を首に序す。帰るに及び、中官李達・吏部員外郎陳誠・戸部主事李暹・指揮金哈藍伯等を命じてこれを送らしめ、就いて璽書・文綺・紗羅・布帛等の諸物を齎らせて分ちその酋に賜う。十三年、達等還る。哈烈諸国また使いを遣わして偕に来り、文豹・西馬及び他の方物を貢ぐ。翌年再び貢ぎ、還るに及び、陳誠に命じて書幣を齎らせてこれに報ぜしめ、過ぐる州県皆宴餞す。十五年、使いを遣わして誠等に随い来貢す。翌年また貢ぎ、李達等に命じて初めの如く報ぜしむ。十八年、于闐・八答黒商と偕に来貢す。二十年、また于闐と偕に来貢す。

宣徳二年、その頭目打剌罕亦不剌来朝し、馬を貢ぐ。仁宗は遠略に勤めず、宣宗これを承け、久しく使いを絶域に遣わさず、故にその貢使も亦稀に至る。七年、また中官李貴に命じて西域を通ぜしめ、哈烈の酋沙哈魯に敕諭して曰く、「昔朕が皇祖太宗文皇帝臨御の日、爾等は朝廷を尊事し、使いを遣わして貢献し、始終一なり。今朕恭しく天命を膺け、即ち皇帝の位に即き、万方を主宰し、紀元を宣徳とす。大小の政務、悉く皇祖の天を奉じ民を恤む、一視同仁の心を体す。前に使臣を遣わして書幣を齎らせて往きて賜うも、道阻みて回る。今已に開通せり、特命を内臣に下して往きて朕が意を諭せしむ。其れ益々天心に順い、永く誠好を篤くし、相与に還往し、同しく一家と為り、商旅を通行せしめ、各々その願いを遂げしむるは、亦美ならずや?」因りて文綺・羅錦を以て賜う。貴等未だ至らざるに、その貢使法虎児丁已に京師に抵り、館に卒す。命じて官に祭を致させ、有司に葬を営ましむ。尋いでまた使いを遣わして貴に随い駱駝・馬・玉石を貢ぐ。翌年春、使者帰る。また貴に命じて護送せしめ、その王及び頭目に彩幣を賜う。この年秋及び正統三年に併せて来貢す。

英宗幼沖、大臣は務めて休息を図り、中国を疲弊させて以て外蕃に事えしむるを欲せず、故に遠方通貢する者甚だ少なし。天順元年に至り、また西域を通ずるを議す。大臣敢えて言う者莫く、独り忠義衛の吏張昭が疏を抗して切に諫め、事乃ち止む。七年、帝は中夏乂安なるに以て、而して遠蕃朝貢至らざるを以て、分かち武臣を遣わして璽書・綵幣を齎らせて往きて諭せしむ。ここにおいて都指揮海栄・指揮馬全を哈烈に往かしむ。然れどもここより来る者頗る稀にして、即ち哈烈も亦時に貢せず。

嘉靖二十六年、甘粛巡撫楊博が言うには、「西域より入貢する者が多く、制限を設けるべきである」と。礼官が言うには、「祖宗の故事によれば、ただ哈密のみが毎年一貢、貢使三百人、そのうち十一人を京師に送り、残りは関内に留め、有司が供給する。その他、哈烈・哈三・土魯番・天方・撒馬児罕などの諸国で、道が哈密を経由する者は、あるいは三年・五年に一貢、ただ三五十人を送るのみで、その存留と賞賚は哈密の例による。近頃は濫りに京師に入れるので、辺臣にこの例を恪守させ、濫放した者は罪すべきである」と。制して可とする。しかしこの時、哈烈はすでに久しく至らず、その後朝貢は遂に絶えた。

その国は西域において最も強大である。王の居城は、方十余里。石を積んで屋と為し、平らにして方形、高台の如く、梁柱瓦甓を用いず、中は広く、虚空数十間。窓牖門扉は悉く花文を彫刻し、金碧を以て彩色す。地に氈罽を敷き、君臣・上下・男女の別なく、相聚えば皆地に席して趺坐す。国人はその王を鎖魯檀と称し、君長と言うが如し。男は髪を剃り白布を纏い、婦女もまた白布を以て首を蒙い、ただ両目のみを露わす。上下相呼ぶには皆名を以てす。相見えてはただ稍々身を屈し、初見の時は則ち一足を屈し三跪し、男女皆然り。食に匕箸無く、瓷器有り。葡萄を以て酒を醸す。交易には銭を用い、大小三等、私鋳を禁ぜず。ただ酋長に税を輸し、印記を用い、印無き者は用いるを禁ず。市易には皆十二分の一を徴税す。斗斛を知らず、ただ権衡を設く。官府無く、ただ管事者有り、名づけて刀完と曰う。また刑法無く、即ち人を殺すもただ罰銭に止む。姊妹を以て妻妾と為す。居喪はただ百日、棺を用いず、布を以て屍を裹みて葬る。常に墓間に祭を設け、祖宗を祭らず、また鬼神を祭らず、ただ天を拝する礼を重んず。干支朔望無く、毎七日を一転と為し、周りて復た始まる。歳に二月・十月を把斎月と為し、昼は飲食せず、夜に至りて乃ち食し、一ヶ月を経て始めて葷を茹う。城中に大土室を築き、中に一つの銅器を置き、周囲数丈、上に文字を刻み古鼎の状の如し。游学する者は皆ここに聚まり、中国の太学の如し。善く走る者有り、日に三百里を可とし、急使有れば、箭を伝えて走り報ず。俗は侈靡を尚び、用度に節無し。

土は沃饒にして、節候は暖多く雨少なし。土産は白塩・銅鉄・金銀・琉璃・珊瑚・琥珀・珠翠の類。多く蚕を育み、善く紈綺を為す。木には桑・榆・柳・槐・松・檜有り、果には桃・杏・李・梨・葡萄・石榴有り、穀には粟・麦・麻・菽有り、獣には獅・豹・馬・駝・牛・羊・鶏・犬有り。獅は阿術河の蘆林中に生ず、初生の時目閉じ、七日にして始めて開く。土人は目閉じし時にこれを取り、その性を調習し、稍々長ずれば則ち馴らすべからず。その旁近の俺都淮・八答黒商は、併せてその国に隷す。

俺都淮

俺都淮は、哈烈の西北千三百里に在り、東南は撒馬児罕に去ること亦た此の如し。城は大村に居し、周囲十余里。地は平衍にして険無く、田土膏腴、民物繁庶、楽土と称せらる。永楽八年より十四年に至り、哈烈と偕に通貢し、後は復た至らず。

八答黒商

八答黒商は、俺都淮の東北に在り。城周囲十余里。地広くして険阻無く、山川明秀、人物樸茂。浮屠数区、壮麗王居の如し。西洋・西域の諸賈多くその地に販鬻す、故に民俗富饒なり。初めは哈烈の酋沙哈魯の子の拠る所と為る。永楽六年、内官把太・李達を命じてその酋に勅書彩幣を賜い、併せて哈実哈児・葛忒郎諸部に及び、往来通商の意を諭す、皆即時に命を受く。是より、東西万里行旅滞ること無し。十二年、陳誠その国に使す。十八年、使を遣わして来貢し、誠及び内官郭敬を命じて書幣を齎し往きて報ぜしむ。天順五年、その王馬哈麻使を遣わして来貢す。明年また貢す。使臣阿卜都剌を命じて父の職を襲わしめ、指揮同知と為す。

于闐

于闐は古国名、漢より宋に至るまで皆中国に通ず。永楽四年、使を遣わして来朝し、方物を貢す。使臣辞して帰らんとす、指揮神忠母撒等を命じて璽書を齎し偕に行かしめ、その酋に織金文綺を賜う。その酋打魯哇亦不剌金、使者を遣わして玉璞を貢し、指揮尚衡等を命じて書幣を齎し往きて労す。十八年、哈烈・八答黒商諸国と偕に馬を貢し、参政陳誠・中官郭敬等を命じて綵幣を以て報ぜしむ。二十年、美玉を貢し、賜賚加わる有り。二十二年、馬及び方物を貢す。時に仁宗初めて践阼し、即ち宴賚して遣り返す。

先に、永楽の時、成祖は遠方万国臣服せざる無からんことを欲し、故に西域の使歳歳絶えること無し。諸蕃は中国の財帛を貪り、且つ市易を利し、絡繹として道途に満つ。商人は率ね偽りて貢使と称し、多く馬・駝・玉石を携え、声言して進献すと曰う。既に関に入れば、則ち一切の舟車水陸・晨昏飲饌の費、悉く有司に取り、郵伝は供億に困し、軍民は転輸に疲る。西に帰るに比し、輒ち道に縁りて遅留し、多く貨物を市す。東西数千里の間、騒然として繁費し、公私上下罔らず怨咨せざる無し。廷臣これを言う者莫く、天子もまたこれを恤れみず。是に至り、給事中黄驥極めてその害を陳す。仁宗その言に感じ、礼官呂震を召して責め譲る。自ら是より復た西域に使せず、貢使もまた漸く稀なり。

于闐は古より大国と為り、隋・唐の間、戎盧・扞弥・渠勒・皮山諸国を侵し併せ、その地益々大なり。南は葱嶺に距ること二百余里、東北は嘉峪関に去ること六千三百里。大略葱嶺以南は撒馬児罕最大、以北は于闐最大。元末の時、その主暗弱にして、隣国交侵す。人民僅かに万計、悉く山谷に避居し、生理蕭条たり。永楽中、西域は天子の威霊を憚り、咸く職貢を修め、敢えて擅に相攻たず、于闐始めて休息を得。漸く諸蕃に行賈し、復た富庶に至る。桑麻黍禾、宛然として中土の如し。その国東に白玉河有り、西に緑玉河有り、又西に黒玉河有り、源は皆崑崙山に出ず。土人は夜月光の盛んなる処を視て、水に入りてこれを採れば、必ず美玉を得。その隣国もまた多く窃取り来たりて献ず。万曆朝に至るまで、于闐もまた間に入貢す。

失刺思

失刺思は、撒馬児罕に近し。永楽十一年、使を遣わして哈烈・俺的干・哈実哈児等八国と偕に、白阿児忻台に随いて方物を入貢し、李達・陳誠等を命じて勅を齎しその使に偕に往きて労す。十三年冬、その酋亦不剌金、使を遣わして達等に随い朝貢し、天子方に北巡す。明年の夏に至りて始めて辞し還り、復た誠を命じて中官魯安に偕に勅及び白金・綵緞・紗羅・布帛を齎しその酋に賜わしむ。十七年、使を遣わして亦思弗罕諸部と偕に獅子・文豹・名馬を貢し、辞して還る。復た安等を命じてこれを送らしめ、その酋に絨錦・文綺・紗羅・玉繫腰・磁器諸物を賜う。時に車駕頻年に北征し、馬に乏しく、官を遣わして多く彩幣・磁器を齎し、これを失刺思及び撒馬児罕諸国に市す。その酋は即ち使を遣わして馬を貢し、二十一年八月を以て帝を宣府の行宮に謁す。厚くこれを賜い、京師に遣り返す、その人遂に久しく内地に留まり去らず。仁宗位を嗣ぎ、これを還るを趣す、乃ち辞して去る。

宣徳二年(1427年)、駱駝・馬・地方産物を貢ぎ、その使臣阿力に都指揮僉事を授け、誥命・冠帯を賜う。その後久しく貢がなかった。成化十九年(1483年)、黒婁・撒馬児罕・把丹沙諸国と共に獅子を貢ぎ、詔して優れた賞賜を加える。弘治五年(1492年)、哈密忠順王陜巴が襲封して帰国し、隣境の野乜克力の酋長と婚姻を結んだ。失剌思の酋長はその貧しさを思いやり、傍国の亦不剌因の酋長とともに、その平章鎖和卜台・知院満可を率い、それぞれ人を遣わして財物の頒賜を請い、婚姻成立を助けた。朝廷の議論はこれを義とし、厚く陜巴に賜い、併せて二国及びその平章・知院に綵幣を賜う。嘉靖三年(1524年)、傍近の三十二部とともに使者を遣わして馬及び地方産物を貢いだ。その使者はそれぞれ蟒衣・膝襴・磁器・布帛を乞うた。天子は拒むことができず、量を以てこれを与え、これより貢使もまた至らなくなった。

俺的干

俺の干は、西域の小部落である。元の太祖は西域をことごとく平定し、子弟を封じて王としこれを鎮めさせ、その小さいものには則ち官を設け戍を置き、内地と同じくした。元が滅びると、それぞれ割拠し、互いに統属しなかった。洪武・永楽の間、数度人を遣わして招諭し、少しずつ来貢した。地の大きいものは国と称し、小さいものはただ地面と称した。宣徳朝に至るまで、臣下の職務を尽くし、表箋を奉り、闕下に稽首する者は、多きは七八十部に及んだ。而して俺の干は、則ち永楽十一年(1413年)に哈烈とともに貢いだ者である。十四年(1416年)に至り、魯安らが哈烈・失剌思諸国に使いし、復た便道を以てその酋長に文綺を賜う。然れども地が小さく常に貢ぐことができず、後ついに至らなくなった。

哈実哈児

哈実哈児もまた西域の小部落である。永楽六年(1408年)、把太・李達らが勅を齎して往き賜い、即ち命に従う。十一年(1413年)、使者を遣わして白阿児忻台に随い入朝し、地方産物を貢ぐ。宣徳の時もまた来朝貢した。天順七年(1463年)、指揮劉福・普賢を命じてその地に使いさせる。その貢使もまた常に至ることができなかった。

亦思弗罕

亦思弗罕は、地は俺の干に近い。永楽十四年(1416年)、俺都淮・撒馬児罕に使いする者がその地を経由し、その酋に文綺諸物を賜う。十七年(1419年)、隣国失剌思とともに獅子・豹・西馬を貢ぎ、白金・鈔幣を賜う。使臣が辞して還るに当たり、魯安らを命じてこれを送らせる。馬哈木という者がおり、京師に留まることを願う。その請いに従う。成化十九年(1483年)、撒馬児罕とともに獅子・名馬・番刀・兜羅・鎖幅諸物を貢ぎ、賜賚を加える。

先に、宣徳六年(1431年)、亦思把罕が使臣迷児阿力を遣わして朝貢したことがあり、或いは云う即ち亦思弗罕であると。

火剌札

火剌札は、国微弱である。四囲皆山にして、草木少ない。水流曲折し、また魚蝦無し。城は僅か一里余り、悉く土屋にして、酋長の居る所もまた卑陋である。俗に僧を敬う。永楽十四年(1416年)、使者を遣わして朝貢し、経由する地には皆礼待することを命ず。弘治五年(1492年)、その地の回回怕魯湾らが海路により玻璃・瑪瑙諸物を貢ぐ。孝宗は納めず、道里費を賜い遣還す。

乞力麻児

乞力麻児は、永楽年中に使者を遣わして来貢し、ただ獣皮・鳥羽・罽褐のみである。その俗は射猟を好み、耕農に事としない。西南は海に傍い、東北は林莽深密にして、猛獣・毒虫多し。逵巷有りて、市肆無く、交易には鉄銭を用いる。

白松虎児

白松虎児は、旧名を速麻里児という。嘗て白虎が松林の中より出で、人を傷つけず、また他の獣も食わず、十日後に再び見えなくなった。国人これを異とし、神虎と称し、曰くこれは西方の白虎の降りた精であると、因って国名を改む。その地には大山無く、また樹木生ぜず、毒虫・猛獣の害無し、然れども物産甚だ薄し。永楽年中嘗て入貢す。

答児密

答児密は、撒馬児罕に服属する。海中にあり、地は百里に満たず、人も千家に満たない。城郭はなく、上下ともに皆板屋に住む。耕作を知り、毛褐・布縷・馬駝・牛羊がある。刑罰は箠朴に止まる。交易には銀銭を兼用する。永楽年間に使節を派遣して朝貢し、『大統暦』及び文綺・薬・茶などの物を賜った。

納失者罕

納失者罕は、東へ失剌思まで数日の行程、皆舟で行く。城の東に平原があり、水草に恵まれ、畜牧に適する。馬には数種あり、最も小さいものは高さ三尺を超えない。俗に僧を重んじ、行く先々で必ず飲食を供する。しかし気性が荒く闘争を好み、闘いに勝たぬ者は、衆人に嗤われる。永楽年間に使節を派遣して朝貢した。使臣が帰還する際、河北を経て、関中を巡り、甘粛に至るまで、有司は皆宴を設けた。

敏真城

敏真城は、永楽年間に来貢した。その国は地が広く、高山が多い。日中に市を開き、諸貨が並び集まり、中国の磁器・漆器を貴ぶ。異香・駱駝・馬を産する。

日落国

日落国は、永楽年間に来貢した。弘治元年、その王亦思罕答児魯密帖里牙が再び貢献した。使臣が紵・絲・夏布・磁器を求めることを奏上し、詔して皆これを与えた。

米昔児

米昔児は、一名を密思児という。永楽年間に使節を派遣して朝貢した。宴と賜物を与えた後、五日ごとに酒饌・果餌を給することとし、経由地には皆宴を設けた。正統六年、王鎖魯檀阿失剌福が再び来貢した。礼官が言うには、「その地は極めて遠く、賜与の先例がない。かつて撒馬児罕が初めて貢献した時、賜与が過度に優厚であった。今は少し減ずるべきである。王には彩幣十表裏、紗・羅各三匹、白氁絲布・白将楽布各五匹、洗白布二十匹を賜い、王の妻及び使臣は次第に減ずる。」と。これに従った。以後は再び至らなかった。

黒婁

黒婁は、撒馬児罕に近く、代々婚姻関係にある。その地の山川・草木・禽獣は皆黒く、男女もまた同じである。宣徳七年に使節を派遣して来朝し、方物を貢献した。正統二年、その王沙哈魯鎖魯檀が指揮哈只馬黒麻を派遣して貢献を奉った。命じて勅書及び金織紵絲・綵絹を持たせて帰らせ、その王に賜った。六年に再び来貢した。景泰四年に隣境三十一部の男女百余人と共に、馬二百四十七頭、騾十二頭、驢十頭、駱駝七頭、及び玉石・風砂・鑌鉄刀などの物を貢献した。天順七年、王母塞亦が指揮僉事馬黒麻捨児班等を派遣して貢献を奉った。綵幣表裏・紵絲の襲衣を賜い、その使臣を指揮同知に抜擢し、従者七人を皆所鎮撫とした。成化十九年に失剌思・撒馬児罕・把丹沙と共に獅子を貢献した。把丹沙の長もまた鎖魯檀馬黒麻と称し、景泰七年に嘗て入貢し、この時に至って再び共に来た。弘治三年にまた天方諸国と共に駱駝・馬・玉石を貢献した。

討来思

討来思は、地が小さく、周囲の径は百里に満たない。城は山に近い。山下に水があり、赤色で、これを望むと火のようである。俗に仏を佞ぶ。婦人が家の権を握る。牛羊馬駱駝を産し、布縷毛褐がある。土地は穄麦に適し、稲はない。交易には銭を用いる。宣徳六年に入貢した。翌年、中官李貴に命じて璽書を持たせて賞労し、文綺・綵帛を賜った。地が小さいため常に貢献することはできなかった。

阿速

阿速は、天方・撒馬児罕に近く、幅員が甚だ広い。城は山に倚り川に面する。川は南へ流れて海に入り、魚塩の利がある。土地は耕作・牧畜に適する。仏を敬い神を畏れ、施しを好み闘争を嫌う。物産が豊かで、寒暖が適度であり、人に飢寒がなく、夜は寇盗が少なく、まことに楽土と称される。永楽十七年、その酋長牙忽沙が使節を派遣して馬及び方物を貢献し、規定通りに宴と賜物を与えた。地が遠いため常に貢献することはできなかった。天順七年に都指揮白全等をその国に派遣したが、結局再び貢献することはなかった。

沙哈魯

沙哈魯は阿速西海の島中にある。永楽年間に七十七人を遣わして来貢し、日々酒饌・果餌を給し、他国と異なる。その地は山川環抱し、畜産に富み、人性は朴直にして、闘いを恥じ仏を好む。王及び臣僚は城中に処し、庶人は悉く城外に処す。海産の奇物は西域の賈人が軽価でこれを市し、その国人は識ることができない。

天方

天方は古の筠沖の地、一名天堂、また曰く默伽。忽魯謨斯より四十日を経て至り、古里より西南に行くこと三月にして至る。その貢使は多く陸路より嘉峪関に入る。

宣徳五年、鄭和が西洋に使いし、その同輩を分遣して古里に詣らしむ。古里が人を遣わして天方に往くを聞き、因って人をして貨物を齎しその舟に附して偕に行かしむ。往復一歳を経て、奇珍異宝及び麒麟・獅子・駝鶏を市して帰る。その国王もまた陪臣を遣わして朝使に随い来貢す。宣宗喜び、賜賚を加う。正統元年始めて爪哇の貢舟に附して還るを命じ、幣及び勅を賜いその王を奨す。六年、王は子賽亦得阿力を遣わし使臣賽亦得哈三とともに珍宝を以て来貢す。陸行して哈剌に至り、賊に遇い、使臣を殺し、その子の右手を傷つけ、貢物を尽く劫いて去る。守臣をしてこれを察治せしむ。

成化二十三年、その国中の回回阿力は兄納的が中土に遊び四十余年に及ぶを以て、雲南に往き訪い求めんと欲す。乃ち宝物巨万を携え、満剌加に至り、行人左輔の舟に附し、将に京に入り進貢せんとす。広東に抵るも、市舶中官韋眷の侵剋に遭う。阿力怨み、京に赴き自ら訴う。礼官その貢物を估し、その価を酬い、雲南に於いて兄を訪うを許すべしと請う。時に眷は罪を懼れ、先んじて内に夤縁す。帝乃ち阿力を責めて間諜と為し、貢を仮りて奸を行うとし、広東守臣に逐還せしむ。阿力乃ち号泣して去る。弘治三年、その王速檀阿黒麻は使を遣わし撒馬児罕・土魯番とともに馬・駝・玉石を貢す。

正徳初め、帝は御馬太監谷大用の言に従い、甘粛守臣に諸番の騍馬・騸馬を訪求せしむ。番使云う善馬は天方に出ずと。守臣因って諸番貢使に諭し、その王に伝達し、以て入貢せしむべしと請う。兵部尚書劉宇は中官の指を希い、守臣に善く使者と通事を択び、親しく諸番に詣りて曉諭せしむるを議し、これに従う。十三年、王寫亦把剌克は使を遣わし馬・駝・梭幅・珊瑚・宝石・魚牙刀諸物を貢し、詔して蟒龍金織衣及び麝香・金銀器を賜う。

嘉靖四年、その王亦麻都児等は使を遣わし馬・駝・方物を貢す。礼官言う「西人来貢するに、陝西行都司は稽留すること半年以上にして始めて具奏す。進むる所の玉石は悉く粗悪なり。而して使臣の私に貨する所は皆良し。按臣に下して廉問せしめ、自今より多く玉石を携え、道途を煩擾すべからざるを乞う。その貢物不堪なる者は、都司官の罪を治めよ」と。これに従う。明年、その国額麻都抗等八王各々使を遣わし玉石を貢す。主客郎中陳九川はその粗悪なる者を簡退す。使臣怨む。通事胡士紳もまた九川を憾み、因って詐りて使臣の奏と為し、詞を以て九川を誣い、玉を盗むとす。詔獄に坐し拷訊す。尚書席書・給事中解一貫等論救すも聴かず、竟に辺に戍す。

十一年、使を遣わし土魯番・撒馬児罕・惟密諸国とともに来貢し、王と称する者三十七人に至る。礼官言う「旧制、恰哈密は朵顔三衛と比歳一貢、貢する者は三百人を過ぎず。三衛は地近く、尽く都に入るを許す。哈密は則ち十に其二を遣わし、余りは辺に留めて待たしむ。若し西域は則ち万里を越え、素より属国に非ず、三衛の貢期に視るは難く、而して遣わす使人は恒数を倍踰す。番文二百余通に至り、皆以て叛人牙木蘭を索取するを詞とす。窃かに詞を託して窺伺し、以て朝廷の処分を覗わんことを恐る。辺臣は明例に遵わず、概ね起送を行い、法体に乖けり。督撫諸臣に下し、諸番人の入貢に遇い、分別して存留起送し、概ね京に入るを遣わすべからず。且つ厳しく辺吏を飭し、禍を目前に避け、患を異日に貽すことなく、納款の虚名を貪り、禦辺の実策を忘るるなからしむべし」と。帝その奏を可す。

故事

故事、諸番の貢物至れば、辺臣は験えてその籍を上し、礼官は為に籍に按じて給賜す。籍に載せざるは、自ら貿易するを許す。貢使既に竣れば、即ち余貨有りと雖も、携帰を責め令す。官に入るるを願うは、礼官奏聞し、鈔を給す。正徳末、黠番猾胥交関して利を罔み、始めて貿易余貨を市儈に評直せしめ、官絹鈔を給するの例有り。是に至り、天方及び土魯番の使臣、その籍余の玉石・銼刀諸貨、固く貢物に準じて給賞せんことを求む。礼官已むを得ず、正徳年間の例を以て請い、これを許す。

番使は多く賈人、来れば輒ち重貲を挟み中国と市す。辺吏は賄を嗜み、侵剋多端、類て公家に償いを取る。或いはその価に当たらずと為せば、則ち咆哮して止まず。是歳、貢使は皆黠悍、既に中国の情を知り習い、且つ辺吏の侵剋を憾む也、屡これを訴うるも、礼官は却って問わず。甘粛を鎮守する中官陳浩なる者、番使の入貢する時に当たり、家奴王洪をして名馬・玉石諸物を多く索ましむ。使臣これを憾む。一日、衢に於いて洪に遇い、即ち執えて官に詣り以てその事を証実す。礼官は事国体に関す、須らく大いに処分有りて、以て遠人の心を服せしむべしと言う。乃ち三法司・錦衣衛及び給事中各々官一員を遣わし甘粛に赴き按治せしむ。洪遂に罪を得る。

十七年復た貢し、その使臣は中土を游覧せんことを請う。礼官は狡心有るを疑い、故事に非ずとしてこれを格す。二十二年、撒馬児罕・土魯番・哈密・魯迷諸国とともに馬及び方物を貢す。後五六年一貢、万暦中に至るまで絶えず。

天方は西域に於いて大国と為り、四時常に夏に似て、雨雹霜雪無く、惟だ露最も濃く、草木皆これを資りて長養す。土沃にして、慄・麦・黒黍に富む。人皆頎碩。男子は髪を削り、布を以てこれを纏う。婦女は則ち髪を編み頭を蓋い、その面を露さず。相伝う回回の教を設くるの祖馬哈麻と曰う者は、首にこの地に於いて教を行い、死すれば即ちここに葬る。墓頂常に光有り、日夜熄えず。後人その教に遵い、久しくして衰えず、故に人皆善に向う。国に苛擾無く、亦た刑罰無く、上下安和し、寇賊作らず、西土これを楽国と称す。俗は酒を禁ず。礼拝寺有り、月の初めて生ずれば、その王及び臣民咸く天を拝し、号呼称揚して以て礼と為す。寺は四方に分かれ、毎方九十間、共に三百六十間、皆白玉を柱と為し、黄甘玉を地と為す。その堂は五色石を以て砌き成し、四方平頂。内に沈香の大木を用いて梁と為す凡そ五、又黄金を以て閣と為す。堂中の垣墉は悉く薔薇露・龍涎香を以て土に和してこれを為す。門を守るに二黒獅を以てす。堂の左に司馬儀の墓有り、その国これを聖人塚と称す。土は悉く宝石、囲牆は則ち黄甘玉。両旁に諸祖師の法を伝うるの堂有り、亦た石を以て築き成し、俱に其の壮麗を極む。その回回教を崇奉することかくの如し。

瓜果や諸畜は、みな中国と同様である。西瓜や甘瓜には一人で持ち上げられないものがあり、桃には四五斤も重いものがあり、鶏や鴨には十余斤も重いものがあり、いずれも諸蕃にはないものである。馬哈麻の墓の後ろに一つの井戸があり、水は清くて甘い。海を渡る者は必ずこれを汲んで行き、颶風に遭えば、その水を取って撒けばすぐに静まる。鄭和が西洋に使いした時、その風物はこのように伝えられた。その後、王と称する者が二三十人に至り、その習俗も次第に初めのようではなくなった。

默德那

默德那は、回回の祖国である。地は天方に近い。宣徳の時、その酋長が使者を遣わし、天方の使臣と共に来朝して貢献したが、その後は再び至らなかった。伝えられるところでは、初めその国王謨罕驀德は生まれながらに神霊で、西域の諸国をことごとく臣服させ、諸国は彼を別諳抜爾と尊んだ。これは天使という意味である。国中には経典三十本があり、凡そ三千六百余りの段落がある。その書は旁行し、篆書・草書・楷書の三体を兼ね、西洋諸国は皆これを用いる。その教えは天を事えることを主とし、像設はない。毎日西に向かって虔かに拝礼する。毎年一ヶ月の斎戒があり、沐浴して衣服を替え、住む所も必ず常の処を変える。隋の開皇年間に、その国の撒哈八撒阿的幹葛思が初めてその教えを中国に伝えた。元の世に至るまで、その人々は四方に遍く、皆教えを守って替えることがなかった。

国中の城池・宮室・市肆・田園は、大いに中土に類する。陰陽・星暦・医薬・音楽などの諸技がある。その織文や製器は特に巧みである。寒暑は季節に応じ、民は殷盛で物産は豊か、五穀六畜は全て備わる。俗に殺生を重んじ、豚肉を食わない。常に白布で頭を覆い、たとえ他邦に行っても、その習俗を変えない。

坤城

坤城は、西域の回回の種である。宣徳五年、その使臣者馬力丁らが来朝し、駱駝と馬を貢献した。当時は開中の令があり、使者はすぐに米一万六千七百石を京倉に輸送して塩を中納した。帰国に際し、納めた米を官に献上したいと願った。帝は言った、「回人は営利に長け、名目は朝貢であっても、実は貿易を図っている。価値を以て酬いるべきである。」そこで帛四十匹と、その倍の布を与えた。その後もたびたび貢献した。

成祖は武をもって天下を定め、万方を威圧して制しようとし、使者を四方に遣わして招致した。これにより西域の大小諸国はみな額を地につけて臣と称し、宝物を献じて遅れを恐れなかった。また北は沙漠の果てまで、南は溟海の極みまで、東西は日の出没する処に至るまで、凡そ舟車の至ることのできる所は、届かない所がなかった。この時より、殊方異域の鳥言侏㒧の使者が、輻湊して闕廷に集まった。歳時に頒賜を行うと、庫蔵は空となった。そして四方の奇珍異宝・名禽殊獣が上方に進献されるものも、日増しに月増しに増えた。漢・唐の盛時を兼ねて有する所となり、百王もこれに並ぶことはできなかった。余威は後嗣に及び、宣徳・正統の朝にもなお重訳を経て来朝する者が多かった。しかし仁宗は遠略を務めず、践祚の初めに、すぐに西洋の宝を取りに行く船を撤し、松花江での造船の役を停め、西域の使臣を京に召還し、帰国を命じて、中土を疲弊させて遠人に奉じることを欲しなかった。宣徳がこれを継ぎ、たまに一度使者を遣わすこともあったが、まもなく停止した。この故に辺隅は休息を得たのである。

今、故牘を採り、かつて貢献して天朝に名を通じたものを挙げると、哈三、哈烈児、沙的蠻、哈的蘭、掃蘭、乜克力、把力黑、俺力麻、脱忽麻、察力失、幹失、卜哈剌、怕剌、你沙兀児、克失迷児、帖必力思、火壇、火占、苦先、牙昔、牙児干、戎、白、兀倫、阿端、邪思城、捨黑、擺音、克癿、計二十九部である。疆域が狭小なため、ただ地面と称するに止まる。哈烈・哈実哈児・賽藍・亦力把力・失剌思・沙鹿海牙・阿速・把丹は皆ハミを経由して嘉峪関に入り、三年あるいは五年に一度貢献し、入京する者は三十五人を超えてはならない。ハミを経由しないものには、さらに乞児・麻米児・哈蘭可脱・癿蠟燭・也的干・剌竹・亦不剌・因格失・迷乞児・吉思羽奴・思哈辛の十一地面があり、これらもかつて貢献を通じた。

魯迷

魯迷は、中国から極めて遠く離れている。嘉靖三年、使者を遣わして獅子と西牛を貢献した。給事中鄭一鵬が言うには、「魯迷はかつて貢献した国ではなく、獅子は飼育すべき獣ではない。これを退けて、聖徳を光らせるべきである。」礼官の席書らは言うには、「魯迷は『王会』に列せず、その真偽は知ることができない。近ごろ土魯番がたびたび甘粛を侵し、辺吏が魯迷の冊内を調べたところ、土魯番の人がいることが分かった。その狡詐は明らかである。関外に遣り出し、捕らえた間諜の罪を治めることを請う。」帝は結局これを受け入れ、辺臣に察治を命じた。

五年の冬、再び二つの物を携えて来貢した。頒賜が終わると、その使臣は言うには、長途を跋渉し、費用が二万二千余金に至ったので、加賜を請うた。御史張祿が言うには、「華と夷は方域を異にし、人と物は性質を異にする。人を留め獣を養うことは、物に背くのみならず、人にも逆らう。況んや獅子を養うには一日に羊二頭を要し、西牛を養うには一日に果物や餌を要する。獣が互いに食い合うことと、人の食を食うことは、聖賢も皆これを悪む。また調御の人役は、日々に供億を必要とする。光禄寺の有限の財を以て、人獣の無益な費用に充てるのは、殊に経に背く。その人を返し、その物を退け、その賞を薄くして、中国の聖人は異物を貴ばないという意を明らかにすべきである。」聞き入れられなかった。そこで礼官の言うところに従い、弘治年間の撒馬児罕の例に倣って増やした。二十二年、天方諸国と共に馬と方物を貢献し、翌年甘州に還った。時に迤北の賊が寇してきたので、総兵官楊信が貢使九十余人を往かせて防がせたが、死者九人を出した。帝はこれを聞き、信の職を褫い、役人に命じて棺を整えてその喪を帰した。二十七年、三十三年に共に入貢した。その貢物には珊瑚・琥珀・金剛鑽・花瓷器・鎖服・撒哈剌帳・羚羊角・西狗皮・舍列猻皮・鉄角皮の類があった。