明史

列傳第二百八 外國一 朝鮮

列傳第二百八 外國一 朝鮮

原文列傳第二百〇八 外國一 朝鮮

朝鮮は、箕子が封ぜられた国である。漢以前は朝鮮と称した。初め燕人衛満に占拠され、漢武帝がこれを平定し、真番・臨屯・楽浪・玄菟の四郡を置いた。漢末、扶余人の高氏がその地を占拠し、国号を高麗と改め、また高句麗と称し、平壌に都した。これが楽浪である。後に唐に破られ、東へ遷った。後唐の時、王建が高氏に代わり、新羅・百済の地を併合し、松岳に遷都して東京と称し、平壌を西京とした。その国は北は契丹に隣接し、西は女直、南は日本である。元の至元年間、西京は内属し、東寧路総管府が置かれ、慈嶺を尽くして境界とした。

原文朝鮮,箕子所封國也。漢以前曰朝鮮。始為燕人衞滿所據,漢武帝平之,置真番、臨屯、樂浪、玄菟四郡。漢末,有扶餘人高氏據其地,改國號曰高麗,又曰高句麗,居平壤,即樂浪也。已,為唐所破,東徙。後唐時,王建代高氏,兼併新羅、百濟地,徙居松岳,曰東京,而以平壤為西京。其國北鄰契丹,西則女直,南曰日本。元至元中,西京內屬,置東寧路總管府,盡慈嶺為界。

明が興ると、高麗の王は王顓であった。太祖が即位した元年に使者を遣わして璽書を賜った。二年にその国の流人を送還した。顓は上表して賀し、方物を貢ぎ、かつ封を請うた。帝は符璽郎偰斯を遣わし、詔及び金印誥文を齎して顓を高麗国王に封じ、暦及び錦綺を賜った。その秋、顓は総部尚書成惟得・千牛衛大将軍金甲両を遣わし、上表して謝し、併せて天寿節を賀し、祭服の制度を請うたので、帝は工部に命じて製しこれを賜った。惟得らが辞して帰るに際し、帝は従容として問うた、「王は国に居て何を為すか。城郭は修まるか。兵甲は利くか。宮室は壮麗か。」頓首して言う、「東海の波臣は、ただ釈氏を崇信するを知るのみで、他は未だ遑あらず。」そこで書を以てこれを諭して言う、「古の王公は険を設け、未だ兵を去らざりき。民は食を以て天と為し、而して国には必ず政令を出す所あり。今人民有りて城郭無くんば、人は何に依るか。武備修まらざれば、則ち威弛る。地耕さざれば、則ち民は食に艱し。且つ居室有りて、庁事無くんば、以て尊厳を示すこと無し。此の数者は朕甚だ取らざる所なり。夫れ国の大事は、祀と戎に在り。苟も此の二者を闕きて、徒らに仏に事えて福を求むれば、梁武の事、明鑑と為す可し。王国は北は契丹・女直に接し、而して南は倭に接す。備禦の道、王其れ之を念え。」因って六経・四書・通鑑を賜った。ここより貢献数至り、元旦及び聖節には皆使者を遣わして朝賀し、歳を以て常と為した。

原文明興,王高麗者王顓。太祖即位之元年遣使賜璽書。二年送還其國流人。顓表賀,貢方物,且請封。帝遣符璽郎偰斯齎詔及金印誥文封顓為高麗國王,賜曆及錦綺。其秋,顓遣總部尚書成惟得、千牛衞大將軍金甲兩上表謝,并賀天壽節,因請祭服制度,帝命工部製賜之。惟得等辭歸,帝從容問:「王居國何為?城郭修乎?兵甲利乎?宮室壯乎?」頓首言:「東海波臣,惟知崇信釋氏,他未遑也。」遂以書諭之曰:「古者王公設險,未嘗去兵。民以食為天,而國必有出政令之所。今有人民而無城郭,人將何依?武備不修,則威弛;地不耕,則民艱於食;且有居室,無廳事,無以示尊嚴。此數者朕甚不取。夫國之大事,在祀與戎。苟闕斯二者,而徒事佛求福,梁武之事,可為明鑑。王國北接契丹、女直,而南接倭,備禦之道,王其念之。」因賜之六經、四書、通鑑。自是貢獻數至,元旦及聖節皆遣使朝賀,歲以為常。

三年正月、使者を命じて往きてその国の山川を祀らしむ。この歳、科挙の詔を高麗に頒つ。顓は表して謝し、方物を貢ぎ、併せて元の授けたる金印を納む。中書省言う、「高麗の貢使は多く私物を齎して入貨す、宜しく税を征すべし。又多く中国の物を携えて出境す、之を禁ずる便り。」俱に許さず。五年、表して子弟を遣わして太学に入ることを請う。帝曰く、「入学は固より美事なれど、海を渉りて遠し、欲せざる者は強いる勿れ。」貢使洪師範・鄭夢周等一百五十余人来京す。風を失いて溺死する者三十九人、師範もこれに与る。帝これを憫み、元の枢密使延安答里を遣わして往き諭し、入貢数なきを諭す。而して顓またその門下賛成事姜仁裕を遣わして来り馬を貢ぐ。その賀正旦使金湑等は已に先ず至る。帝悉く還し遣わす。中書省臣に謂いて曰く、「高麗の貢献繁数、既に其の民を困敝し、而して海を渉りて復た覆溺を虞う。宜しく古の諸侯の礼に遵い、三年に一聘すべし。貢物は唯だ産する所とし、侈り過ぐる毋れ。其れ朕が意を明らかに諭せ。」

原文三年正月命使往祀其國之山川。是歲頒科舉詔於高麗,顓表謝,貢方物,并納元所授金印。中書省言:「高麗貢使多齎私物入貨,宜征稅;又多攜中國物出境,禁之便。」俱不許。五年表請遣子弟入太學,帝曰:「入學固美事,但涉海遠,不欲者勿強。」貢使洪師範、鄭夢周等一百五十餘人來京,失風溺死者三十九人,師範與焉。帝憫之,遣元樞密使延安答里往諭入貢毋數。而顓復遣其門下贊成事姜仁裕來貢馬,其賀正旦使金湑等已先至,帝悉遣還。謂中書省臣曰:「高麗貢獻繁數,既困敝其民,而涉海復虞覆溺。宜遵古諸侯之禮,三年一聘。貢物惟所產,毋過侈。其明諭朕意。」

六年、顓は甲両等を遣わして馬五十匹を貢ぐ。道中にその二を亡う。甲両以て聞く。及び進むに、私馬を以てこれを足す。帝その誠ならざるを悪み、これを却く。七年、監門護軍周誼・鄭庇等を遣わして来貢す。表して毎歳一貢を請い、貢道は陸よりし、定遼よりし、海に渉る毋れ。その貢物は「太府監に送る」と称す。中書省言う、「元の時は太府監有り、本朝未だ嘗て有らず。言不誠に渉る。」帝命じてその貢を却く。この歳、顓は権相李仁人に弑しいせらる。顓に子無く、寵臣辛肫の子禑を以て子と為す。ここにおいて仁人は禑を立てる。

原文六年,顓遣甲兩等貢馬五十匹,道亡其二,甲兩以聞。及進,以私馬足之。帝惡其不誠,卻之。七年遣監門護軍周誼、鄭庇等來貢,表請每歲一貢,貢道從陸,由定遼,毋涉海,其貢物稱「送太府監」。中書省言:「元時有太府監,本朝未嘗有,言涉不誠。」帝命卻其貢。是歲顓為權相李仁人所弒。顓無子,以寵臣辛肫之子禑為子,於是仁人立禑。

八年、禑は判宗簿事崔原を遣わして来り哀を告げ、且つ言う、前に貢使金義有りて朝使蔡斌を殺す。今嗣王禑已に義を誅し、其の家を籍すと。帝その詐を疑い、原を拘し、使者を遣わして往き祭弔す。十年、使来りて故王顓の諡号を請う。帝曰く、「顓は殺さるること已に久し。今始めて諡を請うは、将に吾が朝命を仮りて、其の民を鎮撫し、且つ其の弑逆の跡を掩わんとす。許す可からず。前に留めし使者は、其れ之を遣わせ。」ここにおいて原を釈して帰す。その夏、また周誼を遣わして馬及び方物を貢ぐ。却けて受けず。冬、また使者を遣わして明年の正旦を賀す。帝曰く、「高麗王顓弑せられ、奸臣命を窃む。春秋の義、乱臣は必ず誅す。夫れ又何を言わんや。但だ前後の使者は皆嗣王の遣わす所と称す。中書宜しく人を遣わして往き問うべし、嗣王は如何、政令は安くにか在るかと。若し政令前の如く、嗣王羈囚と為らざれば、則ち当に前王の言に依い、歳に馬千匹を貢ぎ、明年は金百斤・銀一万両・良馬百・細布一万を貢ぎ、仍て悉く拘えし遼東の民を送還し、方に王位の真にして政令の行わるるを見、朕惑い已まん。然らずんば、則ち君を弑するの賊は、必ず討ちて赦さず。」

原文八年,禑遣判宗簿事崔原來告哀,且言前有貢使金義殺朝使蔡斌,今嗣王禑已誅義,籍其家。帝疑其詐,拘原而遣使往祭弔。十年,使來請故王顓諡號,帝曰:「顓被殺已久,今始請諡,將假吾朝命,鎮撫其民,且掩其弒逆之跡,不可許。前所留使者,其遣之。」於是釋原歸。其夏,復遣周誼貢馬及方物,卻不受。冬,又遣使賀明年正旦。帝曰:「高麗王顓被弒,奸臣竊命,春秋之義,亂臣必誅,夫又何言。第前後使者皆稱嗣王所遣,中書宜遣人往問嗣王如何,政令安在。若政令如前,嗣王不為羈囚,則當依前王言,歲貢馬千匹,明年貢金百斤、銀萬兩、良馬百、細布萬,仍悉送還所拘遼東民,方見王位真而政令行,朕無惑已。否則弒君之賊,必討無赦。」

十一年四月、禑また命じて誼を来らしめて貢がしむ。十二年、遼東の守将潘敬・葉旺等に勅し、謹みて辺備を飭らしむ。その冬、禑は李茂芳等を遣わして来貢す。約に如かざるを以てこれを却く。十三年、遼東高麗の使誼を送りて京師に至らしむ。帝敬等に勅して曰く、「高麗は君を弑し、又朝使を殺す。前に堅く入貢を請いて又期に如かず。今誼を遣わして来るは、虚文を以て詐を飾る。他日必ず辺患と為らん。今より来る者は、其れ絶ちて通ずる勿れ。」因って誼を京師に留む。十六年来貢す。これを却き、礼部に命じてその朝貢の期を過ぎしこと、陪臣の侮慢の罪を責む。誠に約を聴かんと欲せば、当に以前五歳の違約して貢がざるの物を併せて至らしむべし。十七年六月、禑は司僕正崔涓・礼儀判書金進宜を遣わして馬二千匹を貢ぐ。且つ言う、金は地の産する所に非ず、願わくは馬を以て代わり輸す。余は皆約の如し。遼東守将唐勝宗これが為に請う。帝これを許す。然れども顓の諡号を請い、王爵を襲うことは、未だ允さず。

原文十一年四月,禑復命誼來貢。十二年敕遼東守將潘敬、葉旺等謹飭邊備。其冬,禑遣李茂芳等來貢,以不如約卻之。十三年,遼東送高麗使誼至京師,帝敕敬等曰:「高麗弒君,又殺朝使,前堅請入貢又不如期,今遣誼來,以虛文飾詐,他日必為邊患。自今來者,其絕勿通。」因留誼於京師。十六年來貢,卻之,命禮部責其朝貢過期、陪臣侮慢之罪;誠欲聽約者,當以前五歲違約不貢之物幷至。十七年六月,禑遣司僕正崔涓、禮儀判書金進宜貢馬二千匹。且言金非地所產,願以馬代輸,餘皆如約。遼東守將唐勝宗為之請,帝許之。然請顓諡號,襲王爵,未允也。

十八年正月、貢使至る。帝礼臣に諭して曰く、「高麗屡び約束を請う。朕数え允さず。而して其の請い已まず。故に歳貢を索めて以て其の誠偽を試す。此を以て富と為すに非ず。今既に命を聴く。宜しく其の貢数を損じ、今三年に一朝し、馬五十匹を貢がしむ。至る二十一年正旦に乃ち貢がしむ。」七月、禑上表して爵を襲うことを請い、併せて故王の諡を請う。命じて禑を高麗国王に封じ、故王顓に諡して恭愍を賜う。

原文十八年正月,貢使至。帝諭禮臣曰:「高麗屢請約束,朕數不允,而其請不已,故索歲貢以試其誠偽,非以此為富也。今既聽命,宜損其貢數,今三年一朝,貢馬五十匹。至二十一年正旦乃貢。」七月,禑上表請襲爵,幷請故王諡。命封禑為高麗國王,賜故王顓諡恭愍。

十九年二月、使者を遣わして布一万匹・馬一千匹を貢ぐ。九月、表賀し、方物を貢ぐ。其の後貢献は輒ち常額を踰え、且つ未だ嘗て三年に至らず。冬、詔して指揮僉事高家奴を遣わし、綺布を以て高麗に馬を市わしむ。二十年三月、高家奴還り、高麗の表辞して馬直を陳ぶ。帝勅して数に如くこれを償わしむ。先ず是れ、元末遼・瀋に兵起こり、民乱を避け、転徙して高麗に至る。ここに因りて馬を市うに、帝に令して就きてこれを索む。遂に遼・瀋の流民三百余口を以て来帰す。十二月、戸部に命じて高麗王に咨す、「鉄嶺の北、東西の地、旧に開元に属する者は、遼東之を統ぶ。鉄嶺の南、旧に高麗に属する者は、本国之を統ぶ。各々疆境を正し、侵越する毋れ。」

原文十九年二月遣使貢布萬匹、馬千匹。九月,表賀,貢方物。其後貢獻輒踰常額,且未嘗至三年也。冬,詔遣指揮僉事高家奴以綺布市馬於高麗。二十年三月,高家奴還,陳高麗表辭馬直,帝敕如數償之。先是,元末遼、瀋兵起,民避亂,轉徙高麗。至是因市馬,帝令就索之,遂以遼、瀋流民三百餘口來歸。十二月命戶部咨高麗王:「鐵嶺北,東西之地,舊屬開元者,遼東統之。鐵嶺之南,舊屬高麗者,本國統之。各正疆境,毋侵越。」

二十一年四月、禑表して言う、鉄嶺の地は実に其の世守する所なり、乞うらくは仍って旧の便りにせんと。帝曰く、「高麗旧に鴨緑江を以て界と為す。今鉄嶺と飾辞し、詐偽昭然たり。其れ朕が言を以てこれを諭し、俾く安分にし、釁端を生ずる毋からしめよ。」

原文二十一年四月,禑表言,鐵嶺之地實其世守,乞仍舊便。帝曰:「高麗舊以鴨綠江為界,今飾辭鐵嶺,詐偽昭然。其以朕言諭之,,俾安分,毋生釁端。」

八月、高麗の千戸陳景が来降し、言うには、「この年四月、禑は遼東を寇掠せんと欲し、都軍相崔瑩・李成桂に命じて西京で兵を繕わしめた。成桂は陳景をして艾州に屯させたが、糧食が続かず退師した。王は怒り、成桂の子を殺した。成桂は兵を返して王城を攻め破り、王及び瑩を囚えた」と。陳景は禍が及ぶことを懼れ、故に降ったのである。帝は遼東に厳しく守備を命じ、なお人を遣わして偵察させた。十月、禑はその子昌に位を譲ることを請うた。帝は言った、「先にその王が囚われたと聞いたが、これは必ずや成桂の謀であろう。姑くこれを待ち、以て変を観よう」と。

原文八月,高麗千戶陳景來降,言:「是年四月,禑欲寇遼東,使都軍相崔瑩、李成桂繕兵西京。成桂使陳景屯艾州,以糧不繼退師。王怒,殺成桂之子。成桂還兵攻破王城,囚王及瑩。」景懼及,故降。帝敕遼東嚴守備,仍遣人偵之。十月,禑請遜位於其子昌。帝曰:「前聞其王被囚,此必成桂之謀,姑俟之以觀變。」

二十二年、国事を権める昌は入朝を乞うて奏上したが、帝は許さなかった。この年、成桂は昌を廃し、かわって定昌国院君瑤を立てた。二十三年正月、使いを遣わして来告した。二十四年三月、詔して高麗に馬を買わせた。八月、国事を権める瑤は買い求めた馬千五百匹を進めた。帝は言った、「三韓の君臣は悖乱、二紀をこれに及ぶ。今、王瑤が嗣いで立つは、乃ち王氏の苗裔なり。宜しく使いを遣わしてこれを労うべし」と。十二月、瑤はその子奭を遣わして来年の正旦を朝賀させた。奭が未だ帰らぬうちに成桂は自立し、遂にその国を有ち、瑤は出て原州に居た。王氏は五代より国を伝えて数百年、ここに至って絶えた。

原文二十二年,權國事昌奏乞入朝,帝不許。是歲,成桂廢昌,而立定昌國院君瑤。二十三年正月遣使來告。二十四年三月詔市馬高麗。八月,權國事瑤進所市馬千五百匹。帝曰:「三韓君臣悖亂,二紀於茲。今王瑤嗣立,乃王氏苗裔,宜遣使勞之。」十二月,瑤遣其子奭朝賀明年正旦。奭未歸而成桂自立,遂有其國,瑤出居原州。王氏自五代傳國數百年,至是絕。

二十五年九月、高麗の知密直司事趙胖らが国都評議司の奏文を持って言うには、「本国は恭愍王の薨じた後、嗣子なく、権臣李仁人が辛肫の子禑をして国事を主たらしめたが、昏暴にして殺戮を好み、遂に師を興して辺境を犯さんと欲するに至った。大将李成桂は不可と以為って軍を返した。禑は罪を負って惶懼し、子の昌に位を譲った。国人は順わず、恭愍王妃安氏に啓請して宗親の瑤を選び国事を権めさせた。既に四年に及び、昏戾にして讒言を信じ、勲旧を戕害し、子の奭は癡騃にして慧ならず、国人は瑤は社稷を主たるに足らずと謂う。今、安氏の命を以て、瑤を私第に退ける。王氏の子姓に輿望に当たる者無く、中外の人心は皆成桂に係る。臣らは国人の耆老と共に国事を主たることを推し、惟だ聖王の允を請う」と。帝は高麗が僻く東隅に処り、中国の治めるところにあらざるを以て、礼部に命じて移諭せしめた、「果たして能く天道に順い、人心に合い、辺釁を啓かず、使命往来するは、実に爾が国の福なり、我また何ぞ誅せん」と。冬、成桂は皇太子の薨じたことを聞き、使いを遣わして表を奉り慰め、併せて国号を改めることを請うた。帝は命じて仍って古い号を以て朝鮮と曰わしめた。

原文二十五年九月,高麗知密直司事趙胖等持國都評議司奏言:「本國自恭愍王薨,無嗣,權臣李仁人以辛肫子禑主國事,昏暴好殺,至欲興師犯邊,大將李成桂以為不可而回軍。禑負罪惶懼,遜位於子昌。國人弗順,啟請恭愍王妃安氏擇宗親瑤權國事。已及四年,昏戾信讒,戕害勳舊,子奭癡騃不慧,國人謂瑤不足主社稷。今以安氏命,退瑤於私第。王氏子姓無可當輿望者,中外人心咸繫成桂。臣等與國人耆老共推主國事,惟聖王俞允。」帝以高麗僻處東隅,非中國所治,令禮部移諭:「果能順天道,合人心,不啟邊釁,使命往來,實爾國之福,我又何誅。」冬,成桂聞皇太子薨,遣使表慰,幷請更國號。帝命仍古號曰朝鮮。

二十六年二月、使いを遣わして馬九千八百余匹を進め、命じて紵絲綿布一万九千七百余匹を運ばせてこれに酬いた。六月、表を奉り謝し、馬及び方物を貢ぎ、併せて先の恭愍王の金印を上り、己の名を旦と改めることを請うた。これを従えた。この月、遼東都指揮使司が奏上するには、朝鮮国が女直五百余人を招き引き、密かに鴨緑江を渡らせ、寇掠に入らんと欲すと。乃ち使いを遣わして敕諭し、禍福を示した。旦は敕を得て、惶懼して陳謝し、貢ぎ物を上り、併せて逋逃の軍民三百八十余人を械送して遼東に至らせた。

原文二十六年二月遣使進馬九千八百餘匹,命運紵絲綿布一萬九千七百餘匹酬之。六月表謝,貢馬及方物,幷上前恭愍王金印,請更己名曰旦。從之。是月,遼東都指揮使司奏,朝鮮國招引女直五百餘人,潛渡鴨綠江,欲入寇。乃遣使敕諭,示以禍福。旦得敕,惶懼陳謝,上貢,幷械送逋逃軍民三百八十餘人至遼東。

二十七年、旦は子を遣わして入貢した。二十八年、使い柳珣を遣わして来年の正旦を賀した。帝は表文の語が慢なるを以て、これを詰責した。珣は表文は門下評理鄭道伝の撰したると言う。遂に命じて道伝を逮え、珣を釈して帰らせた。二十九年、表を撰したる人鄭総ら三人を送り至り、云うには表は実に総らの撰したる所、道伝は病みて行く能わずと。帝は総らが邦を乱し釁を構うるを以て、留めて遣わさず。三十年冬、また表が譏訕に渉るを以て、その使を拘えた。建文初め、旦は表を奉り年老いたるを陳べ、子の芳遠を以て位を襲わしめんことを請うた。これを許した。

原文二十七年,旦遣子入貢。二十八年遣使柳珣賀明年正旦。帝以表文語慢,詰責之。珣言表文乃門下評理鄭道傳所撰,遂命逮道傳,釋珣歸。二十九年送撰表人鄭總等三人至,云表實總等所撰,道傳病不能行。帝以總等亂邦搆釁,留不遣。三十年冬,復以表涉譏訕,拘其使。建文初,旦表陳年老,以子芳遠襲位。許之。

成祖が立ち、官を遣わして即位の詔を頒った。永楽元年正月、芳遠は使いを遣わして朝貢した。四月、また陪臣李貴齢を遣わして入貢し、芳遠の父に疾あり、龍脳・沈香・蘇合・香油諸物を需め、布を齎して買い求めんことを奏した。帝は太医院に命じてこれを賜い、その布を還した。芳遠は表を奉り謝し、因って冕服と書籍を請うた。帝はその能く中国の礼を慕うを嘉し、金印・誥命・冕服・九章・圭玉・珮玉を賜い、妃には珠翠七翟冠・霞帔・金墜、及び経籍綵幣表裏を賜うた。この後より貢献は、歳に四五度至るようになった。

原文成祖立,遣官頒即位詔。永樂元年正月,芳遠遣使朝貢。四月復遣陪臣李貴齡入貢,奏芳遠父有疾,需龍腦、沉香、蘇合、香油諸物,齎布求市。帝命太醫院賜之,還其布。芳遠表謝,因請冕服書籍。帝嘉其能慕中國禮,賜金印、誥命、冕服、九章、圭玉、珮玉,妃珠翠七翟冠、霞帔、金墜,及經籍綵幣表裏。自後貢獻,歲輒四五至焉。

二年十二月、詔して芳遠の子禔を世子に立てしめた。その請いに従ったのである。五年十二月、馬三千匹を貢ぎて遼東に至り、戸部に命じて絹布一万五千匹を運ばせてこれに償った。六年、世子禔が来朝し、織金文綺を賜うた。帰るに及んで、帝は親しく詩を製してこれを賜うた。時に朝鮮は女を後宮に納め、妃嬪に立てられたる者四人あり。その秋、陪臣鄭擢を遣わして来告し、その父旦の喪に及んだ。官を命じて弔祭せしめ、諡して康献を賜うた。

原文二年十二月詔立芳遠子禔為世子,從其請也。五年十二月,貢馬三千匹至遼東,命戶部運絹布萬五千匹償之。六年,世子禔來朝,賜織金文綺。及歸,帝親製詩賜之。時朝鮮納女後宮,立為妃嬪者四人。其秋,遣陪臣鄭擢來告其父旦之喪。命官弔祭,賜諡康獻。

十六年、世子禔が不肖なるを奏し、第三子祹が孝弟力學、国人の属する所なるを以て、嗣と立てんことを請うた。詔して王の択ぶ所に聴く。因って表を上り謝し、併せて己が年老いたるを陳べ、祹を以て国事を理めしめんことを請うた。光禄少卿韓確・鴻臚丞劉泉を命じて祹を朝鮮国王に封じた。時に帝は既に北都に遷り、朝鮮は益々近く、而して事大の礼は益々恭しく、朝廷もまた以て加礼をもって待ち、他国は敢えて望むこと能わざるなり。

原文十六年奏世子禔不肖,第三子祹孝弟力學,國人所屬,請立為嗣,詔聽王所擇。因上表謝,幷陳己年老,請以祹理國事。命光祿少卿韓確、鴻臚丞劉泉封祹為朝鮮國王。時帝已遷北都,朝鮮益近,而事大之禮益恭,朝廷亦待以加禮,他國不敢望也。

二十年、芳遠卒し、諡して恭定を賜うた。二十一年七月、祹は嫡子珦を立てて世子とせんことを請い、これを従えた。先に、祹に勅して馬一万匹を貢がしめたが、ここに至って数如く至り、白金綺絹を賜うた。

原文二十年,芳遠卒,賜諡恭定。二十一年七月,祹請立嫡子珦為世子,從之。先是,敕祹貢馬萬匹,至是如數至,賜白金綺絹。

宣徳二年三月、中官を遣わして白金紵紗を賜い、別に勅して馬五千匹を進めしめ、辺用に資せしめた。九月、数如く至った。四年、祹に書を賜いて、「珍禽異獣は朕の貴ぶ所に非ず、その献ずるなかれ」と。後にまた祹に勅して、「金玉の器は爾が国の産する所に非ず、宜しくこれを止むべし、土物を以て誠を効するのみ」と。八年、祹は子弟をして太学或いは遼東学に詣わしめんことを奏したが、帝は許さず、五経・四書・性理・通鑑綱目諸書を賜うた。

原文宣德二年三月遣中官賜白金紵紗,別敕進馬五千匹,資邊用。九月如數至。四年賜祹書:「珍禽異獸,非朕所貴,其勿獻。」後又敕祹:「金玉之器,非爾國所產,宜止之,土物效誠而已。」八年,祹奏遣子弟詣太學或遼東學,帝不許,賜五經、四書、性理、通鑑綱目諸書。

正統元年三月、朝鮮の婦女金黒ら五十三人を放ちてその国に還した。金黒らは宣徳初めより京師に至り、ここに至って中官を遣わして送回した。三年八月、祹に遠游冠・絳紗袍・玉佩・赤舄を賜うた。先に、建州の長童倉が朝鮮界に避居したが、已に復た建州に還った。朝鮮は言う、「昔、窮して臣に帰し、臣これを遇するに善くした。今、恩を負いて建州の李満住の所に還り、その同謀して辺を擾わすを慮る」と。建州の長は言う、その部が朝鮮に追殺せられ、阻留せられること一百七十余家と。五年、詔して祹にこれを還さしめた。七年五月、祹に諭して曰く、「鴨緑江一帯の東寧等衞えいは、密邇として王の境にし、中に多く細人が逃れて王国に至り、或いは国人に誘脅せられて去る者あり、漢人・女直を問わず、至れば即ち解きて京に送れ」と。初め、瓦剌が密かに女直諸部に命じて朝鮮を誘い、中国に背かしめんとした。祹はこれを拒み、その事を朝廷に白した。帝はその忠を嘉し、勅してこれを奬し、併せて綵幣を賜うた。九年春、倭寇が辺を犯すや、祹は将に命じて五十余人を擒獲し、械送して京師に至らせた。十年、また余党を獲て来献した。帝は連ねて勅して奬諭し、賜賚を加等した。十三年冬、使いを命じて朝鮮及び野人女直の兵を調発し、遼東に会して北寇を征せしめた。時に英宗は北狩し、郕王が即位し、官を遣わしてその国に詔を頒った。

原文正統元年三月放朝鮮婦女金黑等五十三人還其國。金黑等自宣德初至京師,至是遣中官送回。三年八月賜祹遠游冠、絳紗袍、玉佩、赤舄。先是,建州長童倉避居朝鮮界,已復還建州。朝鮮言:「昔以窮歸臣,臣遇之善。今負恩還建州李滿住所,慮其同謀擾邊。」建州長言,所部為朝鮮追殺,阻留一百七十餘家。五年詔祹還之。七年五月諭祹曰:「鴨綠江一帶東寧等衞,密邇王境,中多細人逃至王國,或被國人誘脅去者,無問漢人、女直,至即解京。」初,瓦剌密令女直諸部誘朝鮮,使背中國。祹拒之,白其事於朝。帝嘉其忠,敕奬之,幷賜綵幣。九年春,倭寇犯邊,祹命將擒獲五十餘人,械送京師。十年又獲餘黨來獻。帝連敕奬諭,賜賚加等。十三年冬,命使調發朝鮮及野人女直兵會遼東,征北寇。時英宗北狩,郕王即位,遣官頒詔於其國。

景泰元年、馬五百匹を貢納した。奏上して称することには、勅命を奉じて馬二三万匹を調達すべしと、近隣の寇賊が紛争を構えたため、馬畜が倒れ斃れ、一時には叶わないという。詔して曰く、「寇は今やや鎮まる。馬の既に至ったものは、その価を償う。未だ至らざるものは、止めて貢納せしめるな」と。この年夏、祹卒す。弔祭を賜い、諡して莊憲とし、子の珦を封じて國王とす。時に遼東より奏報あり、開原・瀋陽に寇が境に入り、人畜を掠奪すと、建州・海西・野人女直の頭目李滿住等が嚮導となった由、よって珦に諭して相為に掎角しこれを截殺せしむ。その秋、続いて馬千五百余匹を貢納す。冕服を賜い、併せてその価を償う。冬また珦及び妃權氏に誥命を賜い、その子弘暐を封じて世子とす。二年冬、建州頭目が密かに朝鮮と通ずるを以て、珦を戒めてその使を絶たしむ。

原文景泰元年貢馬五百匹。奏稱奉敕辦馬二三萬匹,比因鄰寇搆釁,馬畜踣斃,一時未能。詔曰:「寇今少息。馬已至者,償其直。未至者,止勿貢。」是年夏,祹卒,賜弔祭,諡莊憲,封子珦為國王。會遼東奏報開原、瀋陽有寇入境,掠人畜,係建州、海西、野人女直頭目李滿住等為嚮導,因諭珦相為掎角截殺之。其秋,續貢馬千五百餘匹。賜冕服,幷償其直。冬又賜珦及妃權氏誥命,封其子弘暐為世子。二年冬,以建州頭目潛與朝鮮通,戒珦絕其使。

三年秋、珦卒す。来りて哀を告ぐ。中官を遣わして弔祭し、諡して恭順を賜い、子の弘暐に嗣立を命ず。弘暐立つこと三年、幼少にして且つ夙疾を患うを以て、叔父の瑈に国事を権らんことを請う。七年、表を上して位を遜る。すなわち瑈を封じて國王とす。瑈、子の暲を立てて世子とすことを請う。これに従う。

原文三年秋,珦卒,來告哀。遣中官往弔祭,賜諡恭順,命子弘暐嗣立。弘暐立三年,以年幼且嬰夙疾,請以叔瑈權國事。七年上表遜位,乃封瑈為國王。瑈請立子暲為世子,從之。

天順三年、辺将奏す、建州三衞の都督が私かに朝鮮と結び、恐らくは中国の患いとならんと。よって瑈に勅して不靖を行わず、後悔を貽すなからしむ。瑈疏を上して弁明す。また諭して曰く、「宣德・正統年間、王國と彼らが互いに侵掠するを以て、勅して怨みを解き兵を息ましむ。初めより交通して賞を与え官を授くるを令せざるなり。彼ら既に朝廷の官職を受け、王またこれを加うるは、これ朝廷に抗するなり。王は素より礼義を秉ず、何ぞかくの如く文過して非を飾るや。後は宜しく私交を絶ち、以て令誉を全うすべし」と。四年、また瑈に諭して曰く、「王奏す、毛憐衞都督郎卜兒哈が謀を通じ乱を煽ぐと、既に法を置けりと。そもそも法はただ国中に行うべく、豈に隣境に加えるを得んや。郎卜兒哈に罪あらば、宜しく朝廷に奏して区処すべし。今輒ち殺害を行いしは、何ぞその子阿比車の復讐を思うを怪しまんや。聞くに阿比車の母なお在りと、宜しく急ぎ遼東都司に送り、阿比車に領回せしめ、以て讐怨を解くべし」と。五年、建州衞の野人が義州に至り殺掠す。瑈奏して朝命を乞い、掠めたる所を還さんことを請う。兵部議す、「朝鮮先に嘗て郎卜兒哈を誘殺し、継いでまた都指揮兀克を誘致し、兵を放ってその家属を掠めし。今野人の実に復讐に係る。宜しく朝鮮に諭し、寇盗の来るは皆自ら取る所なり、ただ分を守り法に安んずれば、辺釁を庶幾して弭がん」と。これに従う。

原文天順三年,邊將奏,有建州三衞都督私與朝鮮結,恐為中國患。因敕瑈毋作不靖,貽後悔。瑈疏辨,復諭曰:「宣德、正統年間,以王國與彼互相侵掠,敕解怨息兵,初不令交通給賞授官也。彼既受朝廷官職,王又加之,是與朝廷抗也。王素秉禮義,何爾文過飾非?後宜絕私交,以全令譽。」四年復諭瑈曰:「王奏毛憐衞都督郎卜兒哈通謀煽亂,已置之法。夫法止可行於國中,豈得加於鄰境。郎卜兒哈有罪,宜奏朝廷區處。今輒行殺害,何怪其子阿比車之思復讐也。聞阿比車之母尚在,宜急送遼東都司,令阿比車領回,以解讐怨。」五年,建州衞野人至義州殺掠,瑈奏乞朝命還所掠。兵部議:「朝鮮先嘗誘殺郎卜兒哈,繼又誘致都指揮兀克,縱兵掠其家屬。今野人實係復讐,宜諭朝鮮,寇盜之來皆自取,惟守分安法,庶弭邊釁。」從之。

成化元年冬、陪臣李門炯来朝し、道中に卒す。棺を給し祭を賜い、併せて綵幣を賜いその家を慰む。時に朝鮮頻りに異物を貢す。三年春、瑈に勅諭して常貢を修め、珍奇に事とらしむるなからしむ。この時朝廷兵を用いて建州を征す。瑈に勅して兵を助け進剿せしむ。瑈、中樞府知事康純を遣わし衆万余を統率して鴨緑・潑猪の二江を渡り、九獮府諸寨を攻破し、斬獲多し。

原文成化元年冬,陪臣李門炯來朝,卒於道。命給棺賜祭,幷賜綵幣慰其家。時朝鮮頻貢異物,三年春,敕諭瑈修常貢,勿事珍奇。是時朝廷用兵征建州,敕瑈助兵進剿。瑈遣中樞府知事康純統眾萬餘渡鴨綠、潑猪二江,攻破九獮府諸寨,斬獲多。

四年正月、官を遣わし来りて俘を献ず。詔して厚く賚うに従い、勅して奬諭す。この年、瑈卒す。諡して惠莊を賜う。太監鄭同・崔安を遣わし世子の晄を封じて王とし、妃韓氏に誥命を給す。既に行かんとす。巡按遼東御史侯英奏して曰く、「遼東連年寇に被り、瘡痍未だ起たず、今また禾稼登らず、軍民食を乏す。太監鄭同等の随従人員、過ぐる所の駅騒がし。臣考うるに先年嘗て翰林院中に、学行文望ある者を選び出使せしめしことあり。今同・安ともに朝鮮人、墳墓宗族皆在り、その國王を見れば、屈節せざるを得ず、甚だしく中国の体を褻す。乞うらくは成命を寢め、或いは翰林、或いは給事中及び行人内より推選し一員を遣わし、往使するを便とす」と。帝曰く、「英の言う所良く是なり。自後賞賚には内臣を遣わし、その冊封の正副使は、廷臣に学行ある者を選べ」と。

原文四年正月遣官來獻俘。詔從厚賚,敕奬諭之。是年,瑈卒,賜諡惠莊。遣太監鄭同、崔安封世子晄為王,給妃韓氏誥命。既行,巡按遼東御史侯英奏曰:「遼東連年被寇,瘡痍未起,今復禾稼不登,軍民乏食。太監鄭同等隨從人員所過驛騷。臣考先年曾於翰林院中,選有學行文望者出使。今同、安俱朝鮮人,墳墓宗族皆在,見其國王,不免屈節,殊褻中國體。乞寢成命,或翰林,或給事中及行人內推選一員,往使為便。」帝曰:「英所言良是。自後賞賚遣內臣,其冊封正副使,選廷臣有學行者。」

六年、晄病篤し、生みし子幼きを以て、その兄故世子暲の子の娎に国事を権らしめ、陪臣を遣わして以て聞かしむ。及び卒す。諡して襄悼を賜い、娎に嗣位を命ず。娎の妻韓氏を封じて王妃とす。十年、娎の父世子暲を追贈して國王とし、諡して懷簡とし、母韓氏を王妃とす。請う所に従うなり。

原文六年,晄病篤,以所生子幼,命其兄故世子暲之子娎權國事,遣陪臣以聞。及卒,賜諡襄悼,命娎嗣位,娎妻韓氏封王妃。十年追贈娎父世子暲為國王,諡懷簡,母韓氏為王妃,從所請也。

十一年四月、娎奏す、建州野人が毛憐等衞を糾聚し侵擾辺境已まず、乞うらくは朝命を以て戒飭せんことを。十二年十月、娎、継妻尹氏の為に封を請う。誥命冠服を賜う。時に外国の兵器互市を禁ず。娎奏す、「小邦北は野人に連なり、南は倭島に隣す。五兵の用、一を欠くべからず。而して弓材に需うる所の牛角、上国に仰ぐ。高皇帝の時に嘗て火薬・火礮を賜う。今望むらくは特許して弓角を収買せしめ、外番と同じく禁ぜざらんことを」と。兵部議す、歳に弓角五十を市す。後に用に足らざるを以て、限額なきを請う。詔して倍市を許す。

原文十一年四月,娎奏建州野人糾聚毛憐等衞侵擾邊境不已,乞朝命戒飭。十二年十月,娎為繼妻尹氏請封,賜誥命冠服。時禁外國互市兵器,娎奏:「小邦北連野人,南鄰倭島,五兵之用,不可缺一。而弓材所需牛角,仰於上國。高皇帝時嘗賜火藥、火礮,今望特許收買弓角,不與外番同禁。」兵部議歲市弓角五十,後以不足於用,請無限額,詔許倍市。

十五年十月、娎に命じて兵を出し建州女直を夾撃せしむ。娎すなわち右賛成魚有沼を遣わし兵を率いて満浦江に至るも、氷泮を以て後期す。また左議政尹弼商・節度使金嶠等を遣わし江を渡り進剿す。十六年春、陪臣を遣わし来りて捷を献ず。帝命じて内官に勅を齎し、その能く先烈を継ぐを奬諭し、金幣を賜い、領兵官は例の如く賞賚す。後に使還る。その臣許熙を遣わし伴送せしむ。熙帰りて開州に至る。建州の騎二千これを邀え、その従卒三十余人、馬二百三十余匹を掠め、他の亡びし物これに称す。奏して聞かしむ。英國公張懋・吏部尚書尹旻等、遼東連年兵を用うるを以て、軽々に動くべからず、宜しくこの意を以て娎に諭すべしとす。遼東守臣に勅して辺備を整飭せしめ、更に訳者に令して掠めたる所を窮究せしめ、期して必ず得んことをし、なお熙に白金綵幣を賜い慰安す。

原文十五年十月命娎出兵夾擊建州女直。娎遂遣右贊成魚有沼率兵至滿浦江,以氷泮後期。復遣左議政尹弼商、節度使金嶠等渡江進剿。十六年春遣陪臣來獻捷,帝命內官齎敕奬其能繼先烈,賜金幣,領兵官賞賚如例。後使還,遣其臣許熙伴送。熙歸至開州,建州騎二千邀之,掠其從卒三十餘人,馬二百三十餘匹,他所亡物稱是。奏聞,英國公張懋、吏部尚書尹旻等以遼東連年用兵,未可輕動,宜以此意諭娎。敕遼東守臣整飭邊備,更令譯者窮究所掠,期在必得,仍賜熙白金綵幣慰安之。

十七年、娎奏す、継妃尹氏失徳あり、廃置す。乞うらくは更に副室尹氏を封ぜんことを。これに従う。十九年四月、娎の長子㦕を封じて世子とす。

原文十七年,娎奏繼妃尹氏失德,廢置,乞更封副室尹氏。從之。十九年四月封娎長子㦕為世子。

弘治七年十二月、娎卒す。諡して康靖を賜う。明年四月、㦕を封じて國王とし、妻慎氏を王妃とす。十二年、㦕奏す、「本国の人屡屡禁を違え海島に匿れ、軍民を誘引し、漸く滋蔓に至る。乞うらくは本国自ら搜刷するを許さんことを。その上国の地方に係るは、請うらくは官に勅して追捕せしめんことを」と。時に遼東守臣もまた㦕の言う如く奏す。報じて可とす。十五年冬、㦕の長子𩔇を封じて世子とす。

原文弘治七年十二月,娎卒,賜諡康靖。明年四月,封㦕為國王,妻慎氏為王妃。十二年,㦕奏:「本國人屢有違禁匿海島,誘引軍民,漸至滋蔓。乞許本國自行搜刷。其係上國地方,請敕官追捕。」時遼東守臣亦奏如㦕言,報可。十五年冬,封㦕長子𩔇為世子。

正徳二年、㦕、世子𩔇の夭亡を以て、哀慟して疾を成し、奏請して国事をその弟の懌に付さんことをす。その国人また奏請して懌を封ぜんことをす。礼部議して懌に国事を権理せしめ、㦕の卒するを俟って乃ち封ぜんとす。既にして、陪臣盧公弼等、朝貢を以て京に至り、また懌の封を請う。廷議允さず。十二月、㦕の母妃奏す、懌長く且つ賢にして、重寄に堪え付すべしと。ここにおいて礼部奏す、「㦕痼疾を以て位を辞し、懌親弟を以て承托す。接受既に明らかに、友愛失わず。通国の臣民挙げて異詞無し。宜しくその請いに順うべし」と。上すなわち懌の嗣位を允し、中官を遣わし勅封し、併せてその妃尹氏に誥命を賜う。

原文正德二年,㦕以世子𩔇夭亡,哀慟成疾,奏請以國事付其弟懌,其國人復奏請封懌。禮部議命懌權理國事,俟㦕卒乃封。既,陪臣盧公弼等以朝貢至京,復請封懌,廷議不允。十二月,㦕母妃奏懌長且賢,堪付重寄。於是禮部奏:「㦕以痼疾辭位,懌以親弟承托,接受既明,友愛不失。通國臣民舉無異詞,宜順其請。」上乃允懌嗣位,遣中官敕封,幷賜其妃尹氏誥命。

初め、成桂の自立するや、宰相李仁人と本より異族なり。永楽間、祭海嶽の祝文を降し、成桂を仁人の子と称す。而して祖訓にもまた仁人の子成桂、名を旦と改むと載す。後に成桂の子芳遠奏辨す。太宗許して改正を令す。ここに至りて大明会典を修むるも、なお祖訓を朝鮮国に列す。貢使市いて以て帰る。懌上疏して備陳して世系をし、先世に弒逆の事無きを弁じ、改正を乞う。礼部議す、「会典は詳らかに本朝の制度を載す。事外国に渉り、疑似の際は、略する在所なり。況んや成桂の国を得るは皇祖の命に出ず。その仁人の後に繫がざるは、太宗の詔に徴すべし。宜しくその請いに従うべし」と。詔して曰く、「可なり」と。

原文初,成桂之自立也,與宰相李仁人本異族。永樂間,降祭海嶽祝文,稱成桂為仁人子,而祖訓亦載仁人子成桂更名旦。後成桂子芳遠奏辨,太宗許令改正。至是修大明會典,仍列祖訓於朝鮮國。貢使市以歸,懌上疏備陳世系,辨先世無弒逆事,乞改正。禮部議:「會典詳載本朝制度,事涉外國,疑似之際,在所略。況成桂得國出皇祖命,其不繫仁人後,太宗詔可徵,宜從其請。」詔曰:「可。」

十五年冬、内官に命じて封じた懌の子の峼を世子とし、懌に金帛珠玉を賜い、異物及び童男女を徴発して進上させた。十六年、世宗が即位すると、礼官が言うには、「天子が初めて践祚するにあたり、中国の体面を正し、外裔の侮りを絶つべきです。懌に諭して朝廷の意ではないとし、内臣を召還し、何も索求させないよう請います。」帝はこれに従った。

原文十五年冬,命內官封懌子峼為世子,賜懌金帛珠玉,令括取異物及童男女以進。十六年,世宗即位,禮官言:「天子初踐祚,宜正中國之體,絕外裔狎侮之端。請諭懌非朝廷意,召內臣還,毋有所索取。」帝從之。

嘉靖二年八月、俘獲した倭夷を献上し、併せて中国で掠われた八人を送還した。白金と錦紵を賜った。

原文嘉靖二年八月,以俘獲倭夷來獻,幷送還中國被掠八人。賜白金錦紵。

八年八月、陪臣の柳溥が上言した。「国祖の李旦は本国全州の人である。二十八世祖の瀚は新羅に仕えて司空となった。新羅が滅び、六世孫の兢休が高麗に入った。十三世孫の安社は元に仕えて南京千戸所の達魯花赤となった。元末に兵乱が起こり、安の曾孫の子春とその子の成桂が避難して東遷した。至正辛丑、恭愍王の十年にあたり、紅巾賊が国境に入った。成桂が賊を撃って功があり、武班の職事を授けられたが、当時はまだ有名ではなかった。恭愍王に嗣子がなく、寵臣の辛肫の子の禑を密かに養子としていたが、後に寵臣の洪倫と宦官の崔万生に弑された。権臣の李仁人が洪倫と崔万生を誅して禑を立て、成桂を門下侍中に抜擢した。禑は成桂に遼東を侵させようとしたが、成桂は従わず、兵を返した。禑は恐れて、子の昌に位を譲った。昌は偽姓であるとして廃され、王氏の裔である定昌君の瑤が再び立てられ、李仁人は国外に追放された。瑤もまた道に外れたので、国人は成桂を推戴し、高皇帝に請うて王に立てられ、名を旦と改めた。瑤を別邸に養い、その身を終わらせたが、実際に弑逆したことはない。以前の永楽・正徳の間、たびたび奏請し、いずれも勅許を得たが、いまだに改正されていない。今、会典の重修に遇い、賜わって昭雪を乞う。」詔して史館に送り編纂させた。

原文八年八月,陪臣柳溥上言:「國祖李旦係本國全州人。二十八世祖瀚仕新羅為司空。新羅亡,六世孫兢休入高麗。十三世孫安社仕元為南京千戶所達魯花赤。元季兵興,安曾孫子春與男成桂避地東遷。至正辛丑,當恭愍王之十年,有紅巾賊入境,成桂擊賊有功,授武班職事,時尚未知名。恭愍無嗣,陰蓄寵臣辛肫之子禑為子,晚為嬖臣洪倫、內豎崔萬生所弒。權臣李仁人誅倫、萬生而立禑,擢成桂為門下侍中。禑遣成桂侵遼東,成桂不從,返兵。禑懼,遜位於子昌。昌以偽姓見黜,復立王氏裔定昌君瑤,竄仁人於外。瑤復不道,國人戴成桂,請於高皇帝,立為王,更名旦,贍瑤別邸,終其身,實未嘗為弒。前永樂、正德間屢經奏請,俱蒙俞允,而迄未改正。今遇重修會典,乞賜昭雪。」詔送史館編纂。

十八年二月、睿宗が太廟に祔され、明堂に配享する礼が成り、懌が表を奉って賀した。帝は特に奉天門に御して引見し、礼部で宴を賜った。

原文十八年二月,睿宗祔太廟,配享明堂禮成,懌表賀。帝特御奉天門引見,賜宴禮部。

二十三年冬、懌が卒去した。二十四年正月、訃報が来て、諡を恭僖と賜った。詔してその子の峼を立てた。峼は一年を経ずして卒去し、諡を栄靖と賜った。九月、峼の弟で国事を権摂する峘が使いを遣わして祭諡を謝し、併せて襲封を請うた。詔してこれを許した。

原文二十三年冬,懌卒。二十四年正月來訃,賜諡恭僖。詔立其子峼。峼未踰年卒,賜諡榮靖。九月,峼弟權國事峘遣使謝祭諡,幷請襲封,詔許之。

二十五年、峘が使いを遣わして下海した番人六百余人を辺境まで送り届け、金幣を賜った。二十六年正月、峘が咨文を送り、「福建人はかつて海を渡って本国に来たことはないが、日本に往って交易し、風に漂われ、前後合わせて千人以上を捕獲した。皆、軍器と貨物を携え、中国の火砲さえも倭の所有となったので、兵端を生ずることを恐れる。」と称した。詔して、「近年、沿海の奸民が禁令を犯し、福建は特に甚だしく、往々にして外国に捕獲され、国体を傷つけている。海道の官員は巡按御史に命じて察参せよ。なお王に銀幣を賜い、その忠を表彰する。」とした。

原文二十五年,峘遣使送下海番人六百餘至邊,賜金幣。二十六年正月,峘咨稱:「福建人從無泛海至本國者,因往日本市易,為風所漂,前後共獲千人以上,皆挾軍器貨物,致中國火礮亦為倭有,恐起兵端。」詔:「頃年沿海奸民犯禁,福建尤甚,往往為外國所獲,有傷國體。海道官員令巡按御史察參。仍賜王銀幣,以旌其忠。」

三十一年冬、洪武・永楽の間に賜わった楽器が破損したため、律管を求め、さらに楽官を京に遣わして校習させることを請うた。許された。

原文三十一年冬,以洪武、永樂間所賜樂器敝壞,奏求律管,更乞遣樂官赴京校習,許之。

三十五年五月、倭船四隻が浙・直から敗れて還り、朝鮮の境に漂着した。峘が兵を遣わしてこれを撃ち殲滅し、中国で俘われた者及び逆に加担した者三十余人を得て献上し、冬至節を賀した。帝は璽書を賜って褒諭した。三十八年十一月に奏上した。「今年五月、倭寇が船二十五隻を駕して海岸に来抵した。臣は将の李鐸らに命じて剿殺し殆んど尽くし、中国の民の陳春ら三百余人を獲た。内、倭に通じた嚮導の陳得ら十六人を招き、ともに闕下に献ずる。」再び勅を降して奬勵し、銀幣を厚く賜い、併せて李鐸らに差等を以て賜った。

原文三十五年五月有倭船四自浙、直敗還,漂入朝鮮境。峘遣兵擊殲之,得中國被俘及助逆者三十餘人來獻,因賀冬至節,帝賜璽書褒諭。三十八年十一月奏:「今年五月,有倭寇駕船二十五隻來抵海岸,臣命將李鐸等剿殺殆盡,獲中國民陳春等三百餘人,內招通倭嚮導陳得等十六人,俱獻闕下。」復降敕奬勵,厚賚銀幣,幷賜鐸等有差。

四十二年九月、峘が再び上書して、先世が李仁人の後裔ではないことを弁明し、今、会典を修するに当たり、釈正を蒙ったが、始祖の旦、父子春の名を著すことを乞うた。帝は会典に附録するよう命じた。

原文四十二年九月,峘復上書辨先世非李仁人後,今修會典雖蒙釐正,乞著始祖旦、父子春之名,帝令附錄會典。

隆慶元年六月、官を遣わして即位の詔を頒布した。時に帝が太学に幸せんとし、来使が留まって礼を観ることを乞うたので、許した。この年冬、峘が卒去し、諡を恭憲と賜い、その甥の昖に襲封を命じた。

原文隆慶元年六月遣官頒即位詔。時帝將幸太學,來使乞留觀禮,許之。是年冬,峘卒,賜諡恭憲,命其姪昖襲封。

萬曆元年正月、穆宗の尊諡と両宮の徽号の礼が成り、昖が表を奉って賀し、方物と馬匹を献じた。時に昖はたびたび皇明会典の賜与を請い、その先の康献王の旦の冤罪を雪ごうとした。十六年正月、会典が完成し、丁度貢使の愈泓が在京し、前の書を給するよう請い、以前の命を終わらせようとした。許された。十七年十一月、陪臣の奇芩らが入朝して冬至を賀し、奏称した。「本年六月、大琉球国の船が風に遭って海岸に至った。その男女は合わせて京に解送すべきであるが、文書を与えて放ち帰す。」従った。

原文萬曆元年正月上穆宗尊諡、兩宮徽號禮成,昖表賀,獻方物馬匹。時昖屢請賜皇明會典,為其先康獻王旦雪冤。十六年正月,會典成,適貢使愈泓在京,請給前書,以終前命。許之。十七年十一月,陪臣奇芩等入賀冬至,奏稱本年六月,大琉球國船遭風至海岸,所有男婦合解京,給文放歸。從之。

十九年十一月に奏上した。倭酋の関白平秀吉が来年三月に来犯すると声言した。詔して兵部に海防を厳しくするよう命じた。平秀吉は薩摩州の人で、初め倭の関白の信長に従った。信長がその部下に弑されたのに会い、秀吉は信長の兵を統べ、自ら関白と号し、六十余州を劫掠して降した。朝鮮は日本と対馬島を相望み、時に倭夷が往来して互市した。二十年夏五月、秀吉は遂に渠帥きょすいの行長・清正らを分けて舟師を率いさせて釜山鎮に迫り、密かに臨津を渡った。時に朝鮮は平穏が久しく、兵は戦いに習熟せず、昖はまた酒に溺れ、備えを弛めていた。突然、島夷が難を起こすや、風を望んで皆潰走した。昖は王城を棄て、次子の琿に国事を摂行させ、平壤に奔った。やがて、また義州に走り、内属を願った。七月、兵部は議して、険要に駐屯して天兵を待ち、通国に勤王を号令して恢復を図るよう命じた。しかしこの時、倭は既に王京に入り、墳墓を毀ち、王子と陪臣を劫掠し、府庫を掠奪し、八道は殆んど尽く陥没し、旦暮にして鴨緑江を渡らんとし、援軍を請う使いが道に絡繹した。廷議は朝鮮を国の藩籬とし、必ず争うべき所とした。行人の薛潘を遣わして昖に興復の大義を諭し、大兵十万が将に至らんと声言した。しかし倭は既に平壤に抵り、朝鮮君臣はますます急ぎ、愛州に出て避けた。遊撃の史儒らが師を率いて平壤に至り、戦死した。副総兵の祖承訓が兵を統べて鴨緑江を渡りこれを援けたが、僅かに身を免れたのみであった。中朝は震動し、宋応昌を経略とした。八月、倭が豊徳等の郡に入った。兵部尚書の石星は計る所なく、人を遣わして偵探することを議し、ここに嘉興の人沈惟敬が応募した。惟敬は市中の無頼であった。この時、秀吉は対馬島に次ぎ、その将の行長らを分けて要害を守らせて声援とした。惟敬が平壤に至ると、礼を執るのは甚だ卑屈であった。行長は欺いて言った。「天朝が幸いに兵を動かさなければ、私は間もなく還るであろう。大同江を以て界とし、平壤以西は尽く朝鮮に属するのみである。」惟敬はこれを聞いた。廷議は倭の詐りは未だ信ずべからずとし、宋応昌らに進兵を促した。しかし石星は惟敬に惑わされ、遊撃に題署して軍前に赴かせ、且つ金を請うて間を行わせた。十二月、李如松を東征提督とした。明年正月、如松が諸将を督いて進戦し、平壤において大捷した。行長は大同江を渡り、遁れて龍山に還った。失った黄海・平安・京畿・江原の四道は併せて回復し、清正もまた遁れて王京に還った。如松は既に勝ち、軽騎で碧蹄館に趨ったが、敗れて開城に退き駐屯した。事は如松伝に具わる。

原文十九年十一月奏,倭酋關白平秀吉聲言明年三月來犯,詔兵部申飭海防。平秀吉者,薩摩州人,初隨倭關白信長。會信長為其下所弒,秀吉遂統信長兵,自號關白,劫降六十餘州。朝鮮與日本對馬島相望,時有倭夷往來互市。二十年夏五月,秀吉遂分渠帥行長、清正等率舟師逼釜山鎮,潛渡臨津。時朝鮮承平久,兵不習戰,昖又湎酒,弛備,猝島夷作難,望風皆潰。昖棄王城,令次子琿攝國事,奔平壤。已,復走義州,願內屬。七月,兵部議令駐劄險要,以待天兵;號召通國勤王,以圖恢復。而是時倭已入王京,毀墳墓,劫王子、陪臣,剽府庫,八道幾盡沒,旦暮且渡鴨綠江,請援之使絡繹於道。廷議以朝鮮為國藩籬,在所必爭。遣行人薛潘諭昖以興復大義,揚言大兵十萬且至。而倭業抵平壤,朝鮮君臣益急,出避愛州。遊擊史儒等率師至平壤,戰死。副總兵祖承訓統兵渡鴨綠江援之,僅以身免。中朝震動,以宋應昌為經略。八月,倭入豐德等郡,兵部尚書石星計無所出,議遣人偵探之,於是嘉興人沈惟敬應募。惟敬者,市中無賴也。是時秀吉次對馬島,分其將行長等守要害為聲援。惟敬至平壤,執禮甚卑。行長紿曰:「天朝幸按兵不動,我不久當還。以大同江為界,平壤以西盡屬朝鮮耳。」惟敬以聞。廷議倭詐未可信,乃趣應昌等進兵。而星頗惑於惟敬,乃題署遊擊,赴軍前,且請金行間。十二月,以李如松為東征提督。明年正月,如松督諸將進戰,大捷於平壤。行長渡大同江,遁還龍山。所失黃海、平安、京畿、江原四道並復,清正亦遁還王京。如松既勝,輕騎趨碧蹄館,敗,退駐開城。事具如松傳。

初め、如松は誓師の際、惟敬を斬らんとしたが、参軍李応試の言葉により止めた。ここに至って敗れ、気勢は萎え、応昌は急ぎ成功を図り、倭もまた食糧が乏しく帰国の意志があり、ここにおいて封貢の議が起こった。応昌は倭の報ずる惟敬の書を得て、遊撃周弘謨に惟敬と共に往き倭を諭し、王京を献じ、王子を返し、約に従って帰らしめよと命じた。倭は果たして四月に王城を棄てて遁走した。時に漢江以南千有余里の朝鮮故土は復た定まり、兵部は王をして国に還り居守せしめ、我が各鎮の兵は久しく海外に疲れ、順次撤兵して帰らしむるを便とすと上言した。詔して可とした。応昌は疏を上して称した、「釜山は海に臨むとはいえ、なお朝鮮の境であり、もし倭が我が兵を罷むるを窺い、突入して再び犯せば、朝鮮は支えられず、前功は尽く棄てられる。今、兵を撥して協守するを第一の策とし、即ち撤兵を議するも、宜しく少しく待ち、倭の尽く帰るを俟ち、量りて防戍を留むべし」と。部議は江浙の兵五千を留め、要害に分屯し、なお昖に軍実を蒐練し、外援に恃むことなからしむるを諭した。已にして沈惟敬が釜山より帰り、倭使と共に来て款を請うたが、倭は随って咸安・晋州を犯し、全羅に逼り、漢江以南を復たせんと声し、王京・漢江を以て界とせんとした。如松は全羅が饒沃であり、南原府は特にその咽喉であると考え、諸将に要害を分守せしめた。已にして、倭は果たして分かれて侵犯し、我が師は共に斬獲があった。兵科給事中張輔之・遼東都御史趙燿は皆、款貢は軽々しく受くべからずと上言した。七月、倭は釜山より西生浦に移り、王子・陪臣を送回した。時に師は久しく暴露し、撤兵を聞き、勢い久しく羈留し難かった。応昌は劉綎の川兵、呉惟忠・駱尚志等の南兵を留め、薊・遼の兵と合わせて一万六千とし、綎に慶尚の大丘に分布せしめ、月餉五万両を、戸部・兵部の二部より資することを請うた。先に、帑金を発して軍費に給し、已に累百万に及んでいた。廷臣は内を虚しくし外を実にするは長策にあらずと上言し、留むる所の川兵を綎に訓練せしめ、兵餉は本国に自ら弁ぜしむることを請うた。ここにおいて詔して惟忠等の兵を撤し、止だ綎の兵を留めて防守せしめた。朝鮮の世子臨海君珒をして全慶に居らしめ、顧養謙を経略と為すことを諭した。

原文初,如松誓師,欲斬惟敬,以參軍李應試言而止。至是敗,氣縮,而應昌急圖成功,倭亦乏食有歸志,因而封貢之議起。應昌得倭報惟敬書,乃令遊擊周弘謨同惟敬往諭倭,獻王京,返王子,如約縱歸。倭果於四月棄王城遁。時漢江以南千有餘里朝鮮故土復定,兵部言宜令王還國居守,我各鎮兵久疲海外,以次撤歸為便。詔可。應昌疏稱:「釜山雖瀕海南,猶朝鮮境,有如倭覘我罷兵,突入再犯,朝鮮不支,前功盡棄。今撥兵協守為第一策,即議撤,宜少需,俟倭盡歸,量留防戍。」部議留江浙兵五千,分屯要害,仍諭昖蒐練軍實,毋恃外援。已而沈惟敬歸自釜山,同倭使來請款,而倭隨犯咸安、晉州,逼全羅,聲復漢江以南,以王京、漢江為界。如松計全羅饒沃,南原府尤其咽喉,乃命諸將分守要害。已,倭果分犯,我師並有斬獲。兵科給事中張輔之、遼東都御史趙燿皆言款貢不可輕受。七月,倭從釜山移西生浦,送回王子、陪臣。時師久暴露,聞撤,勢難久羈。應昌請留劉綎川兵,吳惟忠、駱尚志等南兵,合薊、遼兵共萬六千,聽綎分布慶尚之大丘,月餉五萬兩,資之戶兵二部。先是,發帑給軍費,已累百萬。廷臣言虛內實外非長策,請以所留川兵命綎訓練,兵餉令本國自辦。於是詔撤惟忠等兵,止留綎兵防守。諭朝鮮世子臨海君珒居全慶,以顧養謙為經略。

九月、昖は三都既に復し、疆域再造せられたとして、表を上って謝恩した。然れども時に倭はなお釜山に拠っていた。石星は益々一意に款を主とした。九月、兵部主事曾偉芳が言うには、「関白の大衆は已に還り、小西行長は留まって待つ。我が兵の未だ撤かざるを知り、敢えて一矢を加え遺さず。関白に帰報して捲土重来せんと欲すれば、則ち風不利で、正に冬寒を苦しむ。故に款しても去り、款せざるも亦去る。沈惟敬が前に倭営において講購し、咸安・晋州は随って陥落し、而して款を恃み来年の不攻を冀うのは、則ち款を速めることが、正に来を速めるのである。故に款しても来り、款せざるも亦来る。宜しく朝鮮をして自ら守らしめ、死を弔い孤を問い、兵を練り粟を積み、以て自強を図らしむべし」と。帝は然りと為し、因って昖を諭する勅は甚だ切至であった。

原文九月,昖以三都既復,疆域再造,上表謝恩。然時倭猶據釜山也,星益一意主款。九月,兵部主事曾偉芳言:「關白大眾已還,行長留待。知我兵未撤,不敢以一矢加遺。欲歸報關白捲土重來,則風不利,正苦冬寒。故款亦去,不款亦去。沈惟敬前於倭營講購,咸安、晉州隨陷,而欲恃款冀來年不攻,則速之款者,正速之來耳。故款亦來,不款亦來。宜令朝鮮自為守,弔死問孤,練兵積粟,以圖自強。」帝以為然,因敕諭昖者甚至。

二十二年正月、昖は金晬等を遣わして方物を進め謝恩した。礼部郎中何喬遠が奏上した、「晬は涕泣して言うに、倭寇猖獗し、朝鮮は束手して刃を受くる者六万余人。倭の語は悖慢無礼であり、沈惟敬は倭と交通し、和親と云わず、輒ち乞降と曰う。臣謹んで万暦十九年中国に掠められた人許儀の寄せし内地の書・倭夷の劉綎に答うる書及び歴年入寇の処置の宜しきを将ち、特勅を以て急ぎ封貢を止めしむることを乞う」と。詔して兵部に議せしめた。時に廷臣交章して、皆封貢を罷め戦守を議するを言とした。八月、養謙は講貢の説を奏し、貢道は寧波よりすべく、関白は日本王に封ずべく、行長に部倭を尽く帰らしめ、封貢に約の如くせしむるを諭すべしとした。九月、昖は保国を許すことを請うた。帝は乃ち切に群臣の阻撓を責め、御史郭実等を追褫した。詔して小西飛を入朝せしめ、多官を集めて面議し、三事を要とした。一、倭を勒して尽く巣に帰らしむ。一、既に封ずれば貢を与えず。一、誓って朝鮮を犯さず。倭は俱に聴従し、以て聞かせた。帝は復た左闕において諭し、語を加えて周複せしめた。十二月、封議定まり、臨淮侯李宗城を正使に充て、都指揮楊方亨を以て副と為し、沈惟敬と共に日本に往かしめ、王に金印を与え、行長に都督僉事を授けた。

原文二十二年正月,昖遣金晬等進方物謝恩。禮部郎中何喬遠奏:「晬涕泣言倭寇猖獗,朝鮮束手受刃者六萬餘人。倭語悖慢無禮,沈惟敬與倭交通,不云和親,輒曰乞降。臣謹將萬曆十九年中國被掠人許儀所寄內地書、倭夷答劉綎書及歷年入寇處置之宜,乞特敕急止封貢。」詔兵部議。時廷臣交章,皆以罷封貢、議戰守為言。八月,養謙奏講貢之說,貢道宜從寧波,關白宜封為日本王,諭行長部倭盡歸,與封貢如約。九月,昖請許保國。帝乃切責羣臣阻撓,追褫御史郭實等。詔小西飛入朝,集多官面議,要以三事:一,勒倭盡歸巢;一,既封不與貢;一,誓無犯朝鮮。倭俱聽從,以聞。帝復諭於左闕,語加周複。十二月,封議定,命臨淮侯李宗城充正使,以都指揮楊方亨副之,同沈惟敬往日本,王給金印,行長授都督僉事。

二十三年九月、昖は次子の琿を嗣と為すことを奏上した。先に、昖の庶長子臨海君珒は賊中に陥り、驚憂して疾を成し、次子光海君琿は流散を収集し、頗る功績著しく、之を立てんことを奏請した。礼部尚書范謙は継統の大義、長幼の定分を言い、僭差すべからずとし、遂に許さなかった。ここに至って復た奏上し、永楽年間の恭定王の例を引いて上請したが、礼臣は執奏し、従わなかった。二十四年五月、昖は復た疏を上って琿を立てんことを請うたが、礼部は仍って不可を執し、詔して議の如くせしめた。時に国儲未だ建たず、中外恫疑した故に、尚書范謙は朝鮮の易封の事について三疏を以て力持したのである。

原文二十三年九月,昖奏立次子琿為嗣。先是,昖庶長子臨海君珒陷賊中,驚憂成疾,次子光海君琿收集流散,頗著功績,奏請立之。禮部尚書范謙言繼統大義,長幼定分,不宜僭差,遂不許。至是復奏,引永樂間恭定王例上請,禮臣執奏,不從。二十四年五月,昖復疏請立琿,禮部仍執不可,詔如議。時國儲未建,中外恫疑,故尚書范謙於朝鮮易封事三疏力持云。

九月、封使は日本に至った。先に、沈惟敬は釜山に抵り、私かに秀吉に蟒玉・翼善冠・地図・武経・良馬を奉った。而して李宗城は貪淫を以て倭の守臣に逐われ、璽書を棄てて夜遁した。事聞こえ、逮問した。乃ち方亨を正使に充て、惟敬に神機営の銜を加えて副と為した。及びここに冊を奉じて至ると、関白は朝鮮の王子来らず謝せざるを怒り、止だ二使を遣わして白土綢を奉り賀と為すのみとし、其の使を拒んで見ず、惟敬に語って曰く、「若、二子・三大臣・三都・八道悉く天朝の約に遵い付還するを思わず、今卑官微物を以て来り賀すは、小邦を辱しむるか、天朝を辱しむるか。且つ石曼子の兵を彼に留め、天朝の処分を候い、然る後に撤還せん」と。翌日貢を奉じ、使を遣わして表文二道を賫し、冊使に随い渡海して朝鮮に至らしめた。廷議は使を朝鮮に遣わし、表文を取って進め験せしめ、其の一は謝恩、其の一は天子の朝鮮を処分せんことを乞うものであった。

原文九月,封使至日本。先是,沈惟敬抵釜山,私奉秀吉蟒玉、翼善冠、地圖、武經、良馬。而李宗城以貪淫為倭守臣所逐,棄璽書夜遁。事聞,逮問。乃以方亨充正使,加惟敬神機營銜副之。及是奉冊至,關白怒朝鮮王子不來謝,止遣二使奉白土綢為賀,拒其使不見,語惟敬曰:「若不思二子、三大臣、三都、八道悉遵天朝約付還,今以卑官微物來賀,辱小邦邪?辱天朝邪?且留石曼子兵於彼,候天朝處分,然後撤還。」翌日奉貢,遣使賫表文二道,隨冊使渡海至朝鮮。廷議遣使於朝鮮,取表文進驗,其一謝恩,其一乞天子處分朝鮮。

初め、方亨は詭りて報じ、去年釜山より渡海し、倭は大坂に於いて封を受け、即ち和泉州に回ったと。然るに倭は方に朝鮮を責備し、仍って兵を釜山に留むること旧の如く、謝表は後時にして発せず、方亨は徒手にて帰った。ここに至って、惟敬は始めて表文を投じ、案験するに潦草で、前折に豊臣の図書を用い、正朔を奉ぜず、人臣の礼無し。而して寛奠副総兵馬棟が清正の二百艘を擁して機張営に屯すと報じた。方亨は始めて直ちに本末を吐き、罪を惟敬に委ね、併せて石星の前後の手書を呈した。帝は大怒し、石星・沈惟敬を逮え案問せしめよと命じた。兵部尚書邢玠を以て薊・遼を総督せしめ、麻貴を備倭大将軍に改め、朝鮮を經理せしめ、僉都御史楊鎬を天津に駐せしめて警備を申し、楊汝南・丁応泰を軍前に贊画せしめた。

原文初,方亨詭報去年從釜山渡海,倭於大版受封,即回和泉州。然倭方責備朝鮮,仍留兵釜山如故,謝表後時不發,方亨徒手歸。至是,惟敬始投表文,案驗潦草,前折用豐臣圖書,不奉正朔,無人臣禮。而寬奠副總兵馬棟報清正擁二百艘屯機張營。方亨始直吐本未,委罪惟敬,幷呈石星前後手書。帝大怒,命逮石星、沈惟敬案問。以兵部尚書邢玠總督薊、遼;改麻貴為備倭大將軍,經理朝鮮;僉都御史楊鎬駐天津,申警備;楊汝南、丁應泰贊畫軍前。

五月、玠は遼に至った。行長は楼を建て、清正は種を布き、島倭は水を窖い、朝鮮の地図を索め、玠は遂に用兵を決意した。麻貴は鴨緑江を望み東発し、統ぶる所の兵僅かに一万七千人、師の増援を請うた。玠は朝鮮の兵は惟だ水戦に嫺んずるを以て、乃ち疏を上って川・浙に兵を募り、併せて薊・遼・宣・大・山・陝の兵及び福建・呉淞の水師を調え、劉綎に川・漢の兵を督せしめて剿に聴かしむることを請うた。貴は密かに報じ、宣・大の兵の至るを候い、倭の未だ備えざるに乗じ、釜山を掩えば、則ち行長は擒られ、清正は走ると。玠は奇計と為し、乃ち檄を飛ばして楊元を南原に屯せしめ、呉惟忠を忠州に屯せしめた。

原文五月,玠至遼。行長建樓,清正布種,島倭窖水,索朝鮮地圖,玠遂決意用兵。麻貴望鴨綠江東發,所統兵僅萬七千人,請濟師。玠以朝鮮兵惟嫺水戰,乃疏請募兵川、浙,幷調薊、遼、宣、大、山、陝兵及福建、吳淞水師,劉綎督川、漢兵聽剿。貴密報候宣、大兵至,乘倭未備,掩釜山,則行長擒,清正走。玠以為奇計,乃檄楊元屯南原,吳惟忠屯忠州。

六月、倭船数千艘が釜山に停泊し、朝鮮の郡守安弘國を殺害し、次第に梁山・熊川に迫った。惟敬は営兵二百を率いて釜山に出入りした。邢玠は表向き慰撫しつつ、楊元に密命を下して惟敬を襲撃・捕縛させ、麻貴の陣営に縛りつけて送らせた。惟敬を捕らえたため、倭の嚮導はようやく絶えた。七月、倭は梁山・三浪を奪い、ついに慶州に入り、閑山を侵した。統制元均の軍は潰え、閑山を失った。閑山島は朝鮮西の海口にあり、右は南原を蔽い、全羅道の外藩たる地である。一旦これを失守すれば沿海に備えなくなり、天津・登州・萊州へも帆を揚げて到達しうる。わが水兵三千はようやく旅順に到着したが、閑山が陥落したため、経略は王京西の漢江・大同江を守り、倭の西下を扼し、兼ねて糧道を防ぐよう檄を飛ばした。

原文六月,倭數千艘泊釜山,戮朝鮮郡守安弘國,漸逼梁山、熊川。惟敬率營兵二百,出入釜山。玠陽為慰藉,檄楊元襲執之,縛至貴營,惟敬執而嚮導始絕。七月,倭奪梁山、三浪,遂入慶州,侵閑山。統制元均兵潰,遂失閑山。閑山島在朝鮮西海口,右障南原,為全羅外藩,一失守則沿海無備,天津、登、萊皆可揚帆而至。而我水兵三千甫抵旅順,閑山破,經略檄守王京西之漢江、大同江,扼倭西下,兼防運道。

八月、清正が南原を包囲し、夜を乗じて急襲した。守将楊元は逃げた。当時全州に陳愚衷がいたが、南原からわずか百里の距離にありながら、南原の急報を聞いても敢えて救援せず、陥落したと聞くと城を棄てて逃走した。麻貴は遊撃牛伯英を派遣して救援に向かわせ、陳愚衷と合流させて公州に駐屯させた。倭はついに全羅・慶尚道を犯し、王京に迫った。王京は朝鮮八道の中央にあり、東は烏嶺・忠州に阻まれ、西は南原・全州と道が通じている。この二城を失ってからは東西ともに倭に脅かされ、わが兵は寡弱であったため、王京に退守し、漢江の険に依ることにした。麻貴は邢玠に、王京を棄てて鴨緑江まで退守したいと請うた。海防使蕭応宮はこれを不可とし、平壌から兼行で王京に急ぎこれを制止した。麻貴は兵を発して稷山を守らせ、朝鮮もまた都体察使李元翼を調発し、烏嶺より出て忠清道に賊鋒を遮らせた。邢玠がみずから王京に赴くと、人心はようやく落ち着いた。邢玠は参軍李応試を召して計略を問うた。応試は朝廷の主たる方策がどうなっているかと尋ねた。邢玠は言った、「陽に戦い陰に和し、陽に剿(討伐)し陰に撫(懐柔)す、これが政府の八字あざなの密画である。漏らすな」。応試は言った、「それなら容易です。倭が叛いたのは処分(和平交渉)の望みが絶えたからであり、楊元を殺さなかったのは、なお処分を望んでいるからです。ただちに人を遣わして、沈惟敬が死んでいないと告げれば、退くでしょう」。そこで李大諫を行長のもとへ、馮仲纓を清正のもとへ使者として立てることを請い、邢玠はこれに従った。九月、倭が漢江に至ると、楊鎬は張貞明を遣わし、惟敬の自筆の書簡を持たせて行かせ、動兵は静かに処分を待つという実態に背くと責めた。行長・正成もまた清正の軽挙を咎めたため、倭は井邑に退いて駐屯した。麻貴はついに青山・稷山の大捷を報告した。蕭応宮は上疏して言った、「倭は惟敬の手紙によって退いたのであり、青山・稷山ではいずれも戦闘はなかった。どうして功績と言えようか」。邢玠・楊鎬は怒り、ついに応宮が臆病で、みずから惟敬を解き放たなかったと弾劾し、ともに逮捕した。

原文八月,清正圍南原,乘夜猝攻,守將楊元遁。時全州有陳愚衷,去南原僅百里,南原告急,愚衷不敢救,聞已破,棄城走。麻貴遣遊擊牛伯英赴援,與愚衷合兵,屯公州。倭遂犯全慶,逼王京。王京為朝鮮八道之中,東阻烏嶺、忠州,西則南原、全州,道相通。自二城失,東西皆倭,我兵單弱,因退守王京,依險漢江。麻貴請於玠,欲棄王京退守鴨綠江。海防使蕭應宮以為不可,自平壤兼程趨王京止之。麻貴發兵守稷山,朝鮮亦調都體察使李元翼由烏嶺出忠清道遮賊鋒。玠既身赴王京,人心始定。玠召參軍李應試問計,應試請問廟廷主畫云何。玠曰:「陽戰陰和,陽剿陰撫,政府八字密畫,無泄也。」應試曰:「然則易耳。倭叛以處分絕望,其不敢殺楊元,猶望處分也。直使人諭之曰沈惟敬不死,則退矣。」因請使李大諫於行長,馮仲纓於清正,玠從之。九月,倭至漢江,楊鎬遣張貞明持惟敬手書往,責其動兵,有乖靜候處分之實。行長、正成亦尤清正輕舉,乃退屯井邑。麻貴遂報青山、稷山大捷。蕭應宮揭言:「倭以惟敬手書而退,青山、稷山幷未接戰,何得言功?」玠、鎬怒,遂劾應宮恇怯,不親解惟敬,並逮。

十一月、邢玠の徴兵が大いに集まり、帝は国庫の金を発して軍を犒賞こうしょうし、邢玠に尚方剣を賜い、御史陳効をその軍の監軍とした。邢玠は諸将を大いに集め、三協に分けた。楊鎬は麻貴とともに左右協を率い、忠州・烏嶺より東安に向かい、慶州へ急行し、専ら清正を攻撃した。李大諫を行長のもとに通わせ、援軍に来ないよう約束させた。また中協を宜城に駐屯させ、東は慶州を援け、西は全羅道を扼させた。残りの兵は朝鮮軍と合流して営を共にし、順天などを偽装攻撃して、行長の東援を牽制した。十二月、慶州で会合した。麻貴は黄応賜を遣わし清正に賄賂を贈って和を約束させ、一方で大軍を率いてその陣営に急襲した。当時倭は蔚山に駐屯し、城は山の険に依り、中央に一つの川が釜山の砦に通じ、陸路は彦陽より釜山に通じていた。麻貴は蔚山を専攻しようとしたが、釜山の倭が彦陽より来援するのを恐れ、多く疑兵を張り、また将を遣わしてその水路を遮らせ、ついに倭の堡塁に進撃した。遊撃擺寨は軽騎をもって倭を誘い伏兵に入らせ、四百余の首級を斬り、その勇将を捕らえ、勝に乗じて二つの柵を陥落させた。倭で焼死した者は数え切れず、ついに島山に奔り、三つの砦を連ねて築いた。翌日、遊撃茅国器が浙兵を統率して先登し、連破して斬獲多く、倭は堅く壁を守って出てこなかった。島山は蔚山より高く、石城は非常に堅固で、わが軍は仰攻して多く損傷した。諸将は議して言った、「倭は水路が困難で糧秣の継続が難しく、ただちに包囲して困窮させれば、清正は戦わずして縛られるであろう」。楊鎬らはこれをよしとし、兵を分けて十日間夜を徹して包囲した。倭は非常に飢え、偽って降伏を約束して攻撃を緩めさせようとした。まもなく行長の援兵が大いに至り、軍の背後を回り出ようとした。楊鎬は命令を下す暇もなく、馬を駆って西に奔り、諸軍は皆潰走した。ついに兵を撤して王京に戻り、士卒で死亡した者は二万に及んだ。上はこれを聞き、激怒した。ついに楊鎬を罷免して取り調べに任じ、天津巡撫万世徳を代わらせた。事は楊鎬伝に詳しい。

原文十一月,玠徵兵大集,帝發帑金犒軍,賜玠尚方劍,而以御史陳效監其軍。玠大會諸將,分三協。鎬同貴率左右協,自忠州、烏嶺向東安,趨慶州,專攻清正。使李大諫通行長,約勿往援。復遣中協屯宜城,東援慶州,西扼全羅。以餘兵會朝鮮合營,詐攻順天等處,以牽制行長東援。十二月,會慶州。麻貴遣黃應賜賄清正約和,而率大兵奄至其營。時倭屯蔚山,城依山險,中一江通釜寨,其陸路由彥陽通釜山。貴欲專攻蔚山,恐釜倭由彥陽來援,乃多張疑兵,又遣將遏其水路,遂進逼倭壘。遊擊擺寨以輕騎誘倭入伏,斬級四百餘,獲其勇將,乘勝拔兩柵。倭焚死者無算,遂奔島山,連築三寨。翌日,遊擊茅國器統浙兵先登,連破之,斬獲甚多,倭堅壁不出。島山視蔚山高,石城堅甚,我師仰攻多損傷。諸將乃議曰:「倭艱水道,餉難繼,第坐困之,清正可不戰縛也。」鎬等以為然,分兵圍十日夜,倭饑甚,偽約降緩攻。俄行長援兵大至,將繞出軍後。鎬不及下令,策馬西奔,諸軍皆潰。遂撤兵還王京,士卒物故者二萬。上聞之,震怒。乃罷鎬聽勘,以天津巡撫萬世德代。事詳鎬傳。

二十六年正月、邢玠は前の役で水兵が不足して功績がなかったため、江南の水兵をさらに募り、海運を議し、持久の計を立てた。二月、都督陳璘が広兵を、劉綎が川兵を、鄧子龍が浙・直兵を率いて先後に到着した。邢玠は兵を三協に分け、水陸四路とし、各路に大将を置いた。中路は李如梅、東路は麻貴、西路は劉綎、水路は陳璘とし、それぞれ守備地を守り、機を見て進剿した。当時倭もまた三つの巣窟に分かれていた。東路は清正で蔚山を占拠し、西路は行長で粟林・曳橋を占拠し、数重の砦を築いた。中路は石曼子で泗州を占拠した。而行長の水軍は交代で休み糧秣を補給し、往来は飛ぶようであった。わが軍は期日を約してともに進撃したが、まもなく遼陽の警報が伝わり、李如松が敗死したため、詔により李如梅は帰還してこれに赴き、中路は董一元が代わった。

原文二十六年正月,邢玠以前役乏水兵無功,乃益募江南水兵,議海運,為持久計。二月,都督陳璘以廣兵,劉綎以川兵,鄧子龍以浙、直兵先後至。玠分兵三協,為水陸四路,路置大將。中路如梅,東路貴,西路綎,水路璘,各守汛地,相機行剿。時倭亦分三窟。東路則清正,據蔚山。西路則行長,據粟林、曳橋,建砦數重。中路則石曼子,據泗州。而行長水師番休濟餉,往來如駛。我師約日並進,尋報遼陽警,李如松敗沒,詔如梅還赴之,中路以董一元代。

丁応泰が楊鎬を弾劾したとき、李昖は乾断(天子の裁断)を回らし、鎮撫を重んじて励まし、征討を完遂するよう請うた。上は許さなかった。また丁応泰はかつて築城の議を楊鎬の罪状とし、堅城を得て意を得れば、朝鮮に将来の患いを生むと述べた。そこで李昖は上奏して弁明した。帝は言った、「連年兵を用い餉を発するのは、そちの国が平素忠順を効しているからである。人言をもって自ら疑うな」。

原文當應泰之劾鎬也,昖請回乾斷,崇勵鎮撫,以畢征討。上不許。又應泰曾以築城之議為鎬罪案,謂堅城得志,啟朝鮮異日之患,於是昖奏辨。帝曰:「連年用兵發餉,以爾國素効忠順故也,毋以人言自疑。」

九月、将士は分道して進兵し、劉綎は行長の陣営に進撃して迫り、行長と会盟を約した。翌日、城を攻撃し、九十二の首級を斬った。陳璘の舟師が協力して堵撃し、倭船百余を破壊した。行長は密かに千余騎を出してこれを扼し、劉綎は不利となり退き、陳璘もまた舟を棄てて逃走した。麻貴は蔚山に至り、かなりの斬獲があったが、倭は偽って退き誘い込んだ。麻貴が空の堡塁に入ると、伏兵が起ち上がり、ついに敗れた。董一元は進んで晋州を取ろうとし、勝に乗じて江を渡り、二つの砦を連続して焼き払った。倭は退いて泗州の本営を守り、激戦の末これを陥落させ、前進して新たな砦に迫った。砦は三面を江に臨み、一面が陸地に通じ、海を引き込んで濠とし、海船が砦の下に千艘ほど停泊し、金海・固城を築いて左右の翼としていた。十月、董一元は将を遣わして四面より城を攻め、火器を用いて砦の門を撃ち砕き、兵は競って前進して柵を抜いた。突然、陣営中で火薬が爆発し、煙炎が天に漲った。倭は勢いに乗じて衝撃し、固城の倭もまた到着したため、兵は大いに潰走し、晋州に奔り還った。帝はこれを聞き、二遊撃を斬って示し、董一元らはそれぞれ罪を帯びて功を立てるよう命じた。この月、福建都御史金学曾が七月九日に平秀吉が死んだと報告し、各倭は皆帰国の意向を持っていると伝えた。十一月、清正は舟を発して先に逃走し、麻貴はついに島山・酉浦に入り、劉綎は攻めて曳橋を奪った。石曼子が舟師を率いて行長を救援したが、陳璘が邀撃してこれを破った。諸倭は帆を揚げてことごとく帰国した。

原文九月,將士分道進兵,劉綎進逼行長營,約行長為好會。翌日,攻城,斬首九十二。陳璘舟師協堵擊,毀倭船百餘。行長潛出千餘騎扼之,綎不利,退,璘亦棄舟走。麻貴至蔚山,頗有斬獲,倭偽退誘之。貴入空壘,伏兵起,遂敗。董一元進取晉州,乘勝渡江,連燬二寨。倭退保泗州老營,鏖戰下之,前逼新寨。寨三面臨江,一面通陸,引海為濠,海艘泊寨下千計,築金海、固城為左右翼。十月,董一元遣將四面攻城,用火器擊碎寨門,兵競前拔柵。忽營中火藥崩,烟焰漲天。倭乘勢衝擊,固城倭亦至,兵遂大潰,奔還晉州。帝聞,命斬二遊擊以徇,一元等各帶罪立功。是月,福建都御史金學曾報七月九日平秀吉死,各倭俱有歸志。十一月,清正發舟先走,麻貴遂入島山、酉浦,劉綎攻奪曳橋。石曼子引舟師救行長,陳璘邀擊敗之。諸倭揚帆盡歸。

倭が朝鮮を乱してから七年、数十万の兵を喪い、数百万の軍費を費やし、中朝と属国はついに勝算がなく、関白が死んでようやく禍いが止んだ。

原文自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。

二十七年閏四月、倭寇平定の詔を以て天下に告げ、また昖に勅諭して曰く、「倭奴平秀吉は不道を肆にし、爾が邦を蹂躙す。朕は王の世に篤く忠貞なるを念い、深く憫惻を用う。七年のうち、日々に此の賊を以て事とす。始め薄伐を行い、継いで包容を示し、終に厳討を加う。蓋し殺さざるは乃ち天の心にして、兵を用うるは予の已むを得ざるなり。疆を安んじ乱を靖むるは、宜しく蕩平を取るべし。神は凶盈を悪み、陰に魁首を殲し、大師之に乗じ、奔を追い北を逐い、鯨鯢尽く戮され、海隅清まるを載す。捷書来り聞き、憂労始めて釈る。惟うに王は旧物に還るも、実に新造に同じ。凋を振い敝を起すは、力倍艱なり。倭は遁帰すと雖も、族類尚在す。茲に邢玠を命じて旅を振い京に帰し、量りに万世徳等を留めて分布戍守せしむ。王は宜しく臥薪嘗胆し、前恥を忘れざるべく、惟れ忠惟れ孝、前休を纘紹せよ」。

原文二十七年閏四月,以平倭詔告天下,又敕諭昖曰:「倭奴平秀吉肆為不道,蹂躪爾邦。朕念王世篤忠貞,深用憫惻。七年之中,日以此賊為事。始行薄伐,繼示包容,終加嚴討。蓋不殺乃天之心,而用兵非予得已。安疆靖亂,宜取蕩平。神惡凶盈,陰殲魁首,大師乘之,追奔逐北,鯨鯢盡戮,海隅載清,捷書來聞,憂勞始釋。惟王雖還舊物,實同新造,振凋起敝,為力倍艱。倭雖遁歸,族類尚在。茲命邢玠振旅歸京,量留萬世德等分布戍守。王宜臥薪嘗膽,無忘前恥,惟忠惟孝,纘紹前休。」

五月、玠は東征善後事宜十事を条陳す。一、戍兵を留む、馬歩水陸合わせて三万四千有奇、馬三千匹。一、月餉を定む、毎年銀九十一万八千有奇を計う。一、本色を定む、用いる所の米豆を合せ、遼東・天津・山東等の処に分派し、毎年十三万石。一、中路海防道を留む。一、餉司を裁す。一、将領を重んず。一、巡捕を添う。一、汛地を分つ。一、操練を議す。一、本国に責む。廷臣議して曰く、「数年疲耗し、今始めて肩を息う。自ら宜しく内に根本を固くすべく、当に更に繁費を為すべからず。況んや彼の国の兵荒の後は、独り倭の擾を苦しむのみならず、兼ねて我が兵を苦しむ。故に今日の善後事宜は、仍お当に彼の国と商い、先ず彼の餉の贏絀を量り、始めて我が兵の去留を酌むべし。馬匹を増買し、標兵を添補し、巡捕を創立し、及び管餉府佐に至るまで、悉く宜しく停止すべし」。帝は督撫に命じて国王と会同して酌み奏すべしとす。八月、昖は方物を献じ、大工を助け、例の如く褒賞す。十月、水兵八千を留め、以て戍守に資するを請う。其の撤回する官兵は、遼陽に駐劄して警に備う。二十八年四月、義州等の倉に遺り下れる米豆を運回して遼陽に至らしむるを請う。戸部議して曰く、「輸運維艱、彼の国に径ち与えて、其の彫敝を振い、以て皇仁を昭かにするに若かず」。詔して曰く「可なり」。

原文五月,玠條陳東征善後事宜十事。一,留戍兵,馬步水陸共計三萬四千有奇,馬三千匹。一,定月餉,每年計銀九十一萬八千有奇。一,定本色,合用米豆,分派遼東、天津、山東等處,每年十三萬石。一,留中路海防道。一,裁餉司。一,重將領。一,添巡捕。一,分汛地。一,議操練。一,責成本國。廷臣議:「數年疲耗,今始息肩,自宜內固根本,不當更為繁費。況彼國兵荒之後,不獨苦倭之擾,兼苦我兵。故今日善後事宜,仍當商之彼國,先量彼餉之贏絀,始可酌我兵之去留。至於增買馬匹,添補標兵,創立巡捕,及至管餉府佐,悉宜停止。」帝命督撫會同國王酌奏。八月,昖獻方物,助大工,褒賞如例。十月,請留水兵八千,以資戍守。其撤回官兵,駐劄遼陽備警。二十八年四月請將義州等倉遺下米豆運回遼陽。戶部議:「輸運維艱,莫若徑與彼國,振其彫敝,以昭皇仁。」詔曰:「可。」

二十九年二月、兵部、経督の条陳する七事を覆奏す。「一、兵士を練る。麗人は鷙悍にして寒苦に耐え、而して長衫大袖、訓練の方無し。束伍の法を以て之を教うべし。一、衝要を守る。朝鮮は三面海に距り、釜山は対馬と相望み、巨済之に次ぐ。各お重兵を以て守るべく、併せて蔚山・開山等の処も皆宜しく戍守すべし。一、険隘を修む。王京は北に叢山に倚り、南に滄海を環す。忠州の左右、烏・竹の二嶺、羊腸繞曲し、一夫関に当たるの険有り。今営壘の遺址尚存す。亟に宜しく修葺すべし。一、城池を建つ。朝鮮八道、十九城無し。平壤西北の鴨・浿の二江、俱に南して海に通ず。倘し倭別に一旅を遣わして平壤を占拠せば、則ち王京の声援断絶す。皆応に修築して屯聚すべし。一、器械を造る。倭の戦は陸に便にして海に便せず、船制重大きくして、攻撃に利あらず。今福唬に准じて百十艘を造り奇兵と為し、併せて神機百子火箭を添造すべし。一、異材を訪う。朝鮮は世官を貴び、世役を賤しむ。一切禁錮し、往往倭に走り敵に走り、本国の患と為す。宜しく格を破りて搜採すべし。一、内治を修む。国家東南海に臨み、登・旅を以て門戸と為し、鎮江を咽喉と為す。応援の兵は、尽く撤すべからず。我自ら固くするは、亦以て朝鮮を固くする所以なり」。詔して朝鮮に刻励して以て行わしむ。九月、頒ち給うる所の誥命冕服、変に遭いて淪失すと奏し、補給を祈り、之に従う。

原文二十九年二月,兵部覆奏經督條陳七事:「一,練兵士。麗人鷙悍耐寒苦,而長衫大袖,訓練無方,宜以束伍之法教之。一,守衝要。朝鮮三面距海,釜山與對馬相望,巨濟次之,宜各守以重兵,幷蔚山、開山等處皆宜戍守。一,修險隘。王京北倚叢山,南環滄海。忠州左右烏、竹二嶺,羊腸繞曲,有一夫當關之險。今營壘遺址尚存,亟宜修葺。一,建城池。朝鮮八道,十九無城。平壤西北鴨、浿二江,俱南通海。倘倭別遣一旅占據平壤,則王京聲援斷絕,皆應修築屯聚。一,造器械。倭戰便陸不便海,以船制重大,不利攻擊。今准福唬造百十艘為奇兵,幷添造神機百子火箭。一,訪異材。朝鮮貴世官,賤世役,一切禁錮,往往走倭走敵,為本國患,宜破格搜採。一,修內治。國家東南臨海,以登、旅為門戶,鎮江為咽喉,應援之兵,不宜盡撤。我自固,亦所以固朝鮮也。」詔朝鮮刻勵以行。九月,奏所頒誥命冕服遭變淪失,祈補給,從之。

時に倭国内乱し、対馬島主平義智、降人を悉く還して朝鮮に遣わし、書を遺わして和を乞い、且つ揚言して秀吉将に家康将に糧数十万石を輸して軍興の資と為さんとし、以て朝鮮を脅す。朝鮮と対馬島は一水を望み、島地五穀を産せず、米を朝鮮に資す。兵興後、開市を絶ち、因て百計脅款す。秀吉死し、我が軍尽く撤し、朝鮮倭を畏ること滋甚し。倭と款を通ぜんと欲すれども、又た中国に罪を開くを懼る。十二月、昖、島倭の款を求むるを以て来り命を請う。兵部、事遥かに度り難しと以て、総督世徳に酌議せしめ、詔して可とす。三十年十一月、昖言う、倭使頻りに来りて和款を要挟し、兵端漸く露わる。将を選び兵を率い、督いて本国と同しく訓練修防せんことを乞うと。帝曰く、「曾て将士を留めて教習せしめ、成法具在す。再び遣わす容れ無し」。因りて其の使臣に命じて勅を齎し誡励せしむ。三十三年九月、昖復た琿を封じて世子と為さんことを請う。礼部仍お長を立つるの議を執る。三十五年四月、昖、家康の和を求むるを以て来り告ぐ。兵部議して王の自ら計うるを聴くのみとす。ここより和款絶えず、後三年にして始めて開市の事を画す。

原文時倭國內亂,對馬島主平義智悉遣降人還朝鮮,遺書乞和,且揚言秀吉將家康將輸糧數十萬石為軍興資,以脅朝鮮。朝鮮與對馬島一水相望,島地不產五穀,資米於朝鮮。兵興後,絕開市,因百計脅款。秀吉死,我軍盡撤,朝鮮畏倭滋甚。欲與倭通款,又懼開罪中國。十二月,昖以島倭求款來請命。兵部以事難遙度,令總督世德酌議,詔可。三十年十一月,昖言倭使頻來要挾和款,兵端漸露,乞選將率兵,督同本國訓練修防。帝曰:「曾留將士教習,成法具在,無容再遣。」因命其使臣齎敕誡勵。三十三年九月,昖復請封琿為世子,禮部仍執立長之議。三十五年四月,昖以家康求和來告,兵部議聽王自計而已。由是和款不絕,後三年始畫開市之事。

三十六年、昖卒す。光海君琿、自ら国事を署すと称し、陪臣を遣わして来り訃し、且つ諡を請う。帝其の擅なるを悪み、允さず、該国の臣民に公議して以て聞かしむ。時に我が大清兵各部を征服し、漸く朝鮮に近し。兵部議して該王に大いに武備を修め、辺防を整飭せしめ、併せて遼左の督撫鎮臣に勅し、官を遣わして相侵犯せざるの意を宣達せしむるを請う。之に従う。十月、琿を封じて国王と為す。其の臣民の請いに従うなり。三十七年二月、昖に諡して昭敬と曰い、官を遣わして琿及び妃柳氏に誥命を賜う。

原文三十六年,昖卒。光海君琿自稱署國事,遣陪臣來訃,且請諡。帝惡其擅,不允,令該國臣民公議以聞。時我大清兵征服各部,漸近朝鮮。兵部議令該王大修武備,整飭邊防,幷請敕遼左督撫鎮臣,遣官宣達毋相侵犯之意。從之。十月,封琿為國王,從其臣民請也。三十七年二月,諡昖曰昭敬,遣官賜琿及妃柳氏誥命。

初め、朝鮮守を失い、中国の力に頼りて復を得、倭は釜山を棄てて遁ぐ。然れども陰謀疆を啓き、患い已まず。ここにおいて海上流言し、倭釜山を図り、朝鮮之と通ずと。四十一年九月、総兵官楊宗業以て聞く。琿疏を上りて弁し、詔して慰解す。

原文初,朝鮮失守,賴中國力得復,倭棄釜山遁。然陰謀啟疆,為患不已。於是海上流言倭圖釜山,朝鮮與之通。四十一年九月,總兵官楊宗業以聞。琿疏辨,詔慰解之。

四十二年四月、生母金氏を追封せんことを奏請す。礼部会典に按ずるに、嫡母封を受け而生母先に亡ぶ者は追贈を得と。乃ち命じて国王次妃と封ず。四十三年十一月、表を上りて冬至を賀し、因りて奏す、吾学編・弇山堂別集等の書を買い回り、本国の事を載するに会典と乖錯す。改正を乞うと。礼部言う、「野史憑むに足らず。今請う所の、逆党と同しく譏らるるを恥ずるは、宜しく其の誠を憫み、宣べて史館に付すべし」。報えて可とす。初め、琿生母の為に已に封を得、ここに至り復た冠服を給せんことを祈る。礼臣、金氏側室なるを以て、礼隆殺有りとし、執して不可とす。四十五年正月、琿至再に請う。帝、琿の屡次懇陳するを以て、勉いて之に従う。

原文四十二年四月,奏請追封生母金氏。禮部按會典,嫡母受封而生母先亡者得追贈,乃命封為國王次妃。四十三年十一月,表賀冬至,因奏買回吾學編、弇山堂別集等書,載本國事與會典乖錯,乞改正。禮部言:「野史不足憑。今所請恥與逆黨同譏,宜憫其誠,宣付史館。」報可。初,琿為生母已得封,至是復祈給冠服。禮臣以金氏側室,禮有隆殺,執不可。四十五年正月,琿請至再,帝以琿屢次懇陳,勉從之。

四十七年、楊鎬が馬林・杜松・劉綎らを督いて出師したが、我が大清の兵に敗れた。朝鮮が助戦した兵将は、或いは降り、或いは戦死した。琿が急を告げたので、詔を下して優恤を加えた。十一月、兵部が覆奏した。朝鮮の入貢の道には、兵を添えて防守すべきであると。詔して鎮江等の処に兵将を設け、経略熊廷弼に調委させた。四十八年正月、琿が奏上した。敵兵は八月中に北関を攻め破り、金台吉は自ら焼死し、白羊は出降した。鉄嶺の役では、蒙古の宰賽もまた滅ぼされた。その国の謀議ぼうぎによれば、朝鮮・北関・宰賽は皆南朝を助兵したので、今北関・宰賽は皆滅びたから、朝鮮を独り存続させてはならないという。また牛毛寨・萬遮嶺に兵を設け、寬奠・鎮江等の処を略さんと欲していると聞く。寬奠・鎮江は昌城・義州の諸堡と水を隔てて相望み、孤危甚だしからず。敵もし靉陽の境上鴉鶻関より路を取り、鳳凰城裏に出ることを遶らせば、一日にして長躯し、寬鎮・昌城ともに自保する術がない。内には遼左八站、外には東江一城、彼此隔断され、声援阻絶し、寒心に堪えぬ。速やかに大兵を調発し、共に掎角となり、以て辺防を固められたい。時に遼鎮の塘報が朝鮮が大清と講和したと称したので、朝議は遂に琿は陽に衡(抗)し陰に順ずるとし、官を遣わして宣諭すべきか、或いは将を命じて監護すべきかと、その説紛挐した。琿が疏を上って弁明した。二百年の忠誠をもって事大し、死生一節であると。言葉は極めて剴切で真摯であった。礼・兵二部が勅を降して曉諭させ、その心を安んずるよう請うた。帝はその議を是としたが、勅は陪臣に往かせ、官を遣わさなかった。

原文四十七年,楊鎬督馬林、杜松、劉綎等出師,為我大清兵所敗。朝鮮助戰兵將,或降或戰死。琿告急,詔加優恤。十一月,兵部覆:朝鮮入貢之道,宜添兵防守。詔鎮江等處設兵將,令經略熊廷弼調委。四十八年正月,琿奏:「敵兵八月中攻破北關,金台吉自焚,白羊出降。鐵嶺之役,蒙古宰賽亦為所滅。聞其國謀議以朝鮮、北關、宰賽皆助兵南朝,今北關、宰賽皆滅,不可使朝鮮獨存。又聞設兵牛毛寨、萬遮嶺,欲略寬奠、鎮江等處。寬奠、鎮江與昌城、義州諸堡隔水相望,孤危非常。敵若從靉陽境上鴉鶻關取路遶出鳳凰城裏,一日長軀,寬鎮、昌城俱莫自保。內而遼左八站,外而東江一城,彼此隔斷,聲援阻絕,可為寒心。望速調大兵,共為掎角,以固邊防。」時遼鎮塘報稱朝鮮與大清講和,朝議遂謂琿陽衡陰順,宜遣官宣諭,或命將監護,其說紛挐。琿疏辨:「二百年忠誠事大,死生一節。」詞極剴摯。禮、兵二部請降敕令曉諭,以安其心。帝是其議,然敕令陪臣往,不遣官也。

天啓元年八月、朝鮮の貢道を改め、海より登州に至り、直ちに京師に達することとした。時に毛文龍が総兵として皮島に鎮し、逃民を招集して兵とし、朝鮮に仰給していた。十一月、琿が力難く餽餉し、万暦東征の例に循い、山東の粟を発運するよう乞うた。従った。

原文天啟元年八月,改朝鮮貢道,自海至登州,直達京師。時毛文龍以總兵鎮皮島,招集逃民為兵,而仰給於朝鮮。十一月,琿奏力難餽餉,乞循萬曆東征例,發運山東粟,從之。

三年四月、国人が琿を廃してその姪の綾陽君倧を立て、昭敬王妃の命をもって国事を権摂し、議政府に移文して督撫に転奏させた。文龍がこれを掲報した。登州巡撫袁可立が上言した。琿が果たして不道ならば、太妃の具奏を聴き、中国の更立を待つべきであると。疏は留中された。八月、王妃金氏が疏を上って倧の封を請うた。礼部尚書林堯俞が言う。朝鮮の廃立の事について、内外の諸臣が忠を抒べ憤りを発し、罪を声して討つべきと謂う者あり、遽に討たず且つ方貢を受けて顛末を覈すべきと謂う者あり、或いは大義を責めて輿情の向背を察すべきと謂い、或いは倧に敵を討たせて自ら洗うことを令すべきと謂い、衆論皆采るべきものあり。その琿は実に悖徳であり、倧は叛臣を討って赤心をもって朝廷に奉ずると謂うのは、文龍一人のみである。皇上は天に奉じて逆を討ち、綱常を扶植せられる。これ正法である。また彼が素より恭順と称し、諸裔に迥異なることを念い、貞士信臣を更に遣わし、文龍と会同し、公に臣民を集め、再四詢訪する。勘辨既に明らかになって後、再び聖断を請う。報可された。十二月、礼部が復た上言した。臣ら先に兵部とともに登撫に移咨し、併せて毛帥に劄し、官を遣わして往き勘らせた。今、申送する彼の国公結十二道に拠れば、宗室より八道の臣民に至るまで共に倧を恭順と称している。且つ彼の陪臣相率いて哀籲し、この危急の秋に当たり、必ず君国の主を須いると謂う。先ず勅諭を頒し、倧に国事を統理させ、仍って兵を発し賦を索め、文龍とともに伏を設け奇を出し、漸く次第あるを俟ちて、始めて重臣を遣わして封典を正す。庶幾くは字小の中に、固圉の道を失わざらん。従った。四年四月、倧を封じて国王とした。

原文三年四月,國人廢琿而立其姪綾陽君倧,以昭敬王妃之命權國事,令議政府移文督撫轉奏,文龍為之揭報。登州巡撫袁可立上言:「琿果不道,宜聽太妃具奏,以待中國更立。」疏留中。八月,王妃金氏疏請封倧,禮部尚書林堯俞言:「朝鮮廢立之事,內外諸臣抒忠發憤,有謂宜聲罪致討者,有謂勿遽討且受方貢覈顛末者,或謂當責以大義,察輿情之向背者,或謂當令倧討敵自洗者,眾論咸有可采。其謂琿實悖德,倧討叛臣以赤心奉朝廷者,惟文龍一人耳。皇上奉天討逆,扶植綱常,此正法也。毋亦念彼素稱恭順,迥異諸裔,則更遣貞士信臣,會同文龍,公集臣民,再四詢訪。勘辨既明,再請聖斷。」報可。十二月,禮部復上言:「臣前同兵部移咨登撫,幷劄毛帥,遣官往勘。今據申送彼國公結十二道,自宗室至八道臣民共稱倧為恭順。且彼之陪臣相率哀籲,謂當此危急之秋,必須君國之主。乞先頒敕諭,令倧統理國事,仍令發兵索賦,同文龍設伏出奇,俟漸有次第,始遣重臣往正封典。庶幾字小之中,不失固圉之道。」從之。四年四月,封倧為國王。

五年十二月、文龍が報じた。朝鮮の逆党李适・韓明璉らが昌城に起兵し、直ちに王京に趨ったが、臣に擒獲された。余孽の韓潤・鄭梅らは建州に竄入し、左議府尹義立が内応を約し、期を今冬とし大挙して朝鮮を犯さんとしている。臣は既に国王に諮り防守させ、暫く鉄山の衆を移して雲従島の柴薪に就かせた。登萊巡撫武之望が奏した。毛帥は五月以来、須弥に営室した。所謂雲従島である。今十月また兵民商賈を徙して以てこれを実にし、鉄山の地は空となった。故に朝鮮各道は其の逼処の嫌い有るを疑い、甚だしきは兵を布いて以てこれを防禦する。今、鎮臣の称する李适らの叛、尹義立の内応は、臣ら微かにこれを聞くも、未だ敢えて遽に信ぜず。信ずれば益々鮮人の疑いを重くし、信ぜざれば恐らく後来の患いを貽さん。兵部が言う。敵国を牽制するは朝鮮なり。朝鮮を聯属するは毛鎮なり。毛鎮を駕馭するは登撫なり。今、撫臣と鎮臣和せず、以て鎮臣と属国和せず。大いに利あらず。帝は乃ち鎮撫に同心を飭勉し、韓潤・尹義立らは朝鮮に自処させた。倧はまた遼民を撤して中土に安插するよう請うた。兵部が言う。遼人の去留は、文龍に視る。文龍一日去らざれば、則ち遼人一日離れず。鮮人がこれを島に駆り入るるは可なり、これを島より離れしむるは不可なり。宜しく鎮臣に将いて遼民を尽く刷り過ぎて島に渡らせ、登撫に刻期して糧を運ばせ朝鮮に、量りて救振を行い、以て屯牧に資すべし。帝はこれを是とした。

原文五年十二月,文龍報:「朝鮮逆黨李适、韓明璉等起兵昌城,直趨王京,被臣擒獲。餘孽韓潤、鄭梅等竄入建州,有左議府尹義立約為內應,期今冬大舉犯朝鮮。臣已咨國王防守,暫移鐵山之眾就雲從島柴薪。」登萊巡撫武之望奏:「毛帥自五月以來,營室於須彌,所謂雲從島是也。今十月又徙兵民商賈以實之,而鐵山之地空矣。故朝鮮各道疑其有逼處之嫌,甚至布兵以防禦之。今鎮臣所稱李适等之叛,尹義立之內應,臣等微聞之,而未敢遽信焉。信之則益重鮮人之疑,不信則恐貽後來之患。」兵部言:「牽制敵國者,朝鮮也;聯屬朝鮮者,毛鎮也;駕馭毛鎮者,登撫也。今撫臣與鎮臣不和,以至鎮臣與屬國不和,大不利。」帝乃飭勉鎮撫同心,而韓潤、尹義立等令朝鮮自處。倧又請撤遼民安插中土,兵部言:「遼人去留,文龍是視。文龍一日不去,則遼人一日不離。鮮人驅之入島可也,驅之離島不可也。宜令鎮臣將遼民盡刷過島,登撫刻期運糧朝鮮,量行救振,以資屯牧。」帝是之。

六年十月、倧が上疏して曰く。

原文六年十月,倧上疏曰:

皇朝の小邦に対するは、覆幬の恩、服内を視るに同じし。頃に昏乱に遭い、潜かに敵国に通ず。皇天震怒し、厥の命を降黜す。臣、権署の初より遑寧せず、即ち陪臣張晚を帥とし、李适を副とし、国中の精鋭を付し、進みて寧辺に屯し、一に毛鎮の節制を聴き、以て協剿の期を候わしむ。而るに适、重兵を握り、潜かに覬覦を蓄え、遂に龜城府使明璉と挙兵して内叛し、直ちに京城を犯す。晚、余兵を収めて其の後を躡い、京輔の官兵と表裏より夾攻し、賊皆首を授く。而して西辺の軍実及び列鎮の儲偫は是の役に罄く。

原文皇朝之於小邦,覆幬之恩,視同服內。頃遭昏亂,潛通敵國,皇天震怒,降黜厥命。臣自權署之初,不敢遑寧,即命陪臣張晚為帥,李适副之,付以國中精銳,進屯寧邊,一聽毛鎮節制,以候協剿之期。而适重兵在握,潛蓄覬覦,遂與龜城府使明璉舉兵內叛,直犯京城。晚收餘兵躡其後,與京輔官兵表裏夾攻,賊皆授首,而西邊軍實及列鎮儲偫罄於是役矣。

毛鎮は全遼淪没の後、孤軍東渡し、海上に寄寓し、遼民を招集すること前後数十万、亦た小邦の仰藉する所なり。顧みるに封疆多故、土瘠く民貧しく、内には本国の軍需を供し、外には鎮兵の待哺を済し、生穀有限、支給実に難し。遼民は饑餒に迫られ、村落に散布し、強者は攫奪し、弱者は丐乞す。小邦の兵民は撓乱に堪えず、郷邑を抛棄し、転徙して内地に入る。遼民は食を逐い、亦た随いて入る。昌・義より以南、安・肅より以北、客居六七、主居三四。向にこの情形を具奏し、兵部の題覆処分既に定まるを見る。何ぞ敢えて再び干せん。

原文毛鎮當全遼淪沒之後,孤軍東渡,寄寓海上,招集遼民前後數十萬,亦小邦所仰藉也。顧以封疆多故,土瘠民貧,內供本國之軍需,外濟鎮兵之待哺,生穀有限,支給實難。遼民迫於饑餒,散布村落,強者攫奪,弱者丐乞。小邦兵民被撓不堪,拋棄鄉邑,轉徙內地。遼民逐食,亦隨而入。自昌、義以南,安、肅以北,客居六七,主居三四。向者將此情形具奏,見兵部題覆處分已定,何敢再干。

韓潤及び弟の潭は逆賊明璉の子姪に係り、亡命潜逃し、因而来寇を勾引す。賊既に国を叛きて去る。制命は已に臣に在らず。尹義立は曾て判書を任じ、本より議政に非ず。頃年、毛鎮の接伴官に差され、任使に称せず、職を褫かれて家に帰る。並びに怨叛の事無し。毛鎮は王仲保等の訴えに拠るも、都て実事無し。意、必ず讒邪の臣有り、督撫を欺妄し、以て其の交搆の計を售る者有らん。

原文至韓潤及弟潭係逆賊明璉子姪,亡命潛逃,因而勾引來寇。賊既叛國而去,制命已不在臣。尹義立曾任判書,本非議政。頃年差為毛鎮接伴官,不稱任使,褫職歸家,並無怨叛之事。毛鎮據王仲保等所訴,都無實事。意必有讒邪之臣,欺妄督撫,以售其交搆之計者。

毛帥(毛文龍)は久しく海外に鎮し、臣(袁崇煥)はこれと周旋すること既に十年に近し。糧秣は将に尽きんとし、彼此ともに困窮すれども、情誼の殷なること、実に少しも損ずるところなし。且つその須弥島への遷移は、直ちに累重を保護するため、便を以て芻薪に就かんとす。一進一退は兵家の常事なり。訛言噂沓するも、本より介意せず。窃かに部撫の移咨を見るに、「其の逼処を虞る」と曰い、「其の民を駆り、其の帥を駆る」と曰い、甚だしきは「兵を布きて防ぎ、属国携貳す」の語あり、海外の情事を未だ悉く諒ぜざるが如し。臣の遼民を刷するを請うは、力足らずして済わざるに因り、初めより逼処を慮うに及ばず。臣は方に毛鎮と同心一力し、功を立てて主に報いんとす、豈に一毫の猜防の意あらんや。

原文毛帥久鎮海外,臣與周旋已近十稔。雖餼牽將竭,彼此俱困,而情誼之殷,實無少損。且其須彌之遷,直為保護累重,將以就便芻薪。一進一退,兵家常事。訛言噂沓,本不介意。竊見部撫移咨曰「虞其逼處」,曰「驅其民,驅其帥」,甚至有「布兵以防,屬國攜貳」之語,似海外情事,未盡諒悉。臣之請刷遼民,因力不足濟,初非慮及逼處也。臣方與毛鎮同心一力,建功報主,豈敢有一毫猜防意乎。

帝(崇禎帝)答えて曰く、「王(朝鮮国王)は東鎮(毛文龍)と和協し、中朝を愛戴す。忠貞の忱、言表に溢る。鎮軍久しく懸り、鮮・遼雑処す。久客は主を累わし、生寡くして食多し。微なる王の言なくば、朕かくの如く万里の外を坐照せざるべし。然れども毛帥は中朝に在りては牽制の師たり、王国に在りては則ち唇歯の形なり。海上の芻輓は、已に該部に区画を令し、期を刻して運済せしむ。逃難の辺民も亦た毛帥に悉心計処せしめ、重ねて王の累いとなさしめず。伝訛の言、未だ介懐に足らず。力を併せ心を一にせよ、王其れこれを勉めよ。」

原文帝報曰:「王和協東鎮,愛戴中朝,忠貞之忱,溢乎言表。鎮軍久懸,鮮、遼雜處。久客累主,生寡食多。微王言,朕有不坐照萬里之外者。然毛帥在中朝為牽制之師,在王國則唇齒之形也。海上芻輓,已令該部區畫,刻期運濟。逃難邊民,亦令毛帥悉心計處,俾無重為王累。傳訛之言,未足介懷,幷力一心,王其勉之。」

七年(天啓七年)三月、兵部は文龍の掲を上言す。「麗官・麗人、敵を招きて鉄山を攻め、我が兵千人を傷つけ、麗兵六万を殺し、糧百余万を焚く。敵遂に兵を移して麗を攻む。」と。帝は文龍に勅し、速やかに相機応援せしむ。登撫李嵩奏す。「朝鮮の叛臣韓潤等、敵を引きて安州に入る。節度使南以興自ら焚死す。中国の援兵都司王三桂等俱に陣没す。」と。既にして復た奏す。「義州及び郭山・凌漢・山城俱に破れ、平壌・黄州は戦わずして自潰す。敵兵直ちに中和に抵り、遊騎黄・鳳の間に出入し、又た分かれて雲従に向かい、毛帥を攻掠す。国王及び士民、江華に遷りて以て難を避く。」と。時に大清兵の至る所輒ち下り、朝鮮の列城風望んで奔潰す。乃ち使を遣わして倧(仁祖李倧)を諭す。倧款を輸す。遂に班師す。九月、倧兵を被るの情形を奏す。時に熹宗崩じ、莊烈帝(崇禎帝)位を嗣ぐ。優詔を以て励勉す。

原文七年三月,兵部上文龍揭言:「麗官、麗人招敵攻鐵山,傷我兵千人,殺麗兵六萬,焚糧百餘萬,敵遂移兵攻麗矣。」帝敕文龍速相機應援。登撫李嵩奏:「朝鮮叛臣韓潤等引敵入安州,節度使南以興自焚死,中國援兵都司王三桂等俱陣亡。」既復奏:「義州及郭山、凌漢、山城俱破,平壤、黃州不戰自潰,敵兵直抵中和,遊騎出入黃、鳳之間,又分向雲從,攻掠毛帥,國王及士民遷於江華以避難。」時大清兵所至輒下,朝鮮列城望風奔潰,乃遣使諭倧。倧輸款,遂班師。九月,倧奏被兵情形。時熹宗崩,莊烈帝嗣位,優詔勵勉焉。

崇禎二年、毎歳両貢を一貢に改む。先づ是れ、遼路阻絶し、貢使登・萊を取って道とす、已に十余年なり。袁崇煥督師としてより、覚華に改むるを題し、迂途険を冒す。其の国屡ひ故に復するを請う。是に至り、戸曹判書鄭斗源を遣わし登海より来たり、登撫孫元化に書を移し、其の陳請を属す。元化官を委して伴送せしめ、仍て疏して聞かす。帝は水路既に成命あり、途を改むるは自便に嫌うとし、許さず。是の年六月、督師袁崇煥、平遼将軍左都督毛文龍を双島にて殺す。

原文崇禎二年,改每歲兩貢為一貢。先是,遼路阻絕,貢使取道登、萊,已十餘年矣。自袁崇煥督師,題改覺華,迂途冒險,其國屢請復故。至是遣戶曹判書鄭斗源從登海來,移書登撫孫元化,屬其陳請。元化委官伴送,仍疏聞。帝以水路既有成命,改途嫌於自便,不許。是年六月,督師袁崇煥殺平遼將軍左都督毛文龍於雙島。

六年(崇禎六年)六月、倧総兵黄龍に書を遺わし言う。「文龍の旧将孔有徳・耿仲明、士卒二万を率いて大清に投順し、朝鮮に向かい糧を徴す。本国は有徳等曩に皮島に在りて本国の患いとなせしを以て、故にこれに応ぜず。」と。龍以て聞かす。

原文六年六月,倧遺書總兵黃龍言:「文龍舊將孔有德、耿仲明率士卒二萬投順大清,向朝鮮徵糧。本國以有德等曩在皮島為本國患,故未之應。」龍以聞。

十年(崇禎十年)正月、太宗文皇帝親征して朝鮮を征し、其の盟を渝え明を助くるの罪を責む。列城悉く潰ゆ。朝鮮急を告ぐ。総兵陳洪範を命じ各鎮の舟師を調えて赴援せしむ。三月、洪範官兵の出海を奏す。数日を越え、山東巡撫顔継祖、属国の失守を奏す。江華已に破れ、世子擒えられ、国王出でて降る。今大いに舟艦を治め、来たりて皮島・鉄山を攻めんとす。其の鋒甚だ鋭し。急に沈世魁・陳洪範の二鎮臣を勅し、以て皮島を堅守するを第一義とすべし。帝は継祖の協図匡救すること能わざるを以て、切にこれを責む。亡く幾何もせず、皮島並びに大清兵の為に破られ、朝鮮遂に絶つ。数載を経ずして明も亦た亡ぶ。

原文十年正月,太宗文皇帝親征朝鮮,責其渝盟助明之罪,列城悉潰。朝鮮告急,命總兵陳洪範調各鎮舟師赴援。三月,洪範奏官兵出海。越數日,山東巡撫顏繼祖奏屬國失守,江華已破,世子被擒,國王出降。今大治舟艦,來攻皮島、鐵山,其鋒甚銳。宜急敕沈世魁、陳洪範二鎮臣,以堅守皮島為第一義。帝以繼祖不能協圖匡救,切責之。亡何,皮島並為大清兵所破,朝鮮遂絕,不數載而明亦亡矣。

朝鮮は明に在りては、雖も属国と称すれども、域内に異なることなし。故に朝貢絡繹し、錫賚便蕃にして、殆ど書くに勝えず。止むを得ず其の治乱に関わるものを篇に著す。至りて国の風土物産は、則ち前史に具載す。茲に復た録せず。

原文朝鮮在明雖稱屬國,而無異域內。故朝貢絡繹,錫賚便蕃,殆不勝書,止著其有關治亂者於篇。至國之風土物產,則具載前史,茲不復錄。