六年、顓は甲両等を遣わして馬五十匹を貢ぐ。道中にその二を亡う。甲両以て聞く。及び進むに、私馬を以てこれを足す。帝その誠ならざるを悪み、これを却く。七年、監門護軍周誼・鄭庇等を遣わして来貢す。表して毎歳一貢を請い、貢道は陸よりし、定遼よりし、海に渉る毋れ。その貢物は「太府監に送る」と称す。中書省言う、「元の時は太府監有り、本朝未だ嘗て有らず。言不誠に渉る。」帝命じてその貢を却く。この歳、顓は権相李仁人に弑せらる。顓に子無く、寵臣辛肫の子禑を以て子と為す。ここにおいて仁人は禑を立てる。
八年、禑は判宗簿事崔原を遣わして来り哀を告げ、且つ言う、前に貢使金義有りて朝使蔡斌を殺す。今嗣王禑已に義を誅し、其の家を籍すと。帝その詐を疑い、原を拘し、使者を遣わして往き祭弔す。十年、使来りて故王顓の諡号を請う。帝曰く、「顓は殺さるること已に久し。今始めて諡を請うは、将に吾が朝命を仮りて、其の民を鎮撫し、且つ其の弑逆の跡を掩わんとす。許す可からず。前に留めし使者は、其れ之を遣わせ。」ここにおいて原を釈して帰す。その夏、また周誼を遣わして馬及び方物を貢ぐ。却けて受けず。冬、また使者を遣わして明年の正旦を賀す。帝曰く、「高麗王顓弑せられ、奸臣命を窃む。春秋の義、乱臣は必ず誅す。夫れ又何を言わんや。但だ前後の使者は皆嗣王の遣わす所と称す。中書宜しく人を遣わして往き問うべし、嗣王は如何、政令は安くにか在るかと。若し政令前の如く、嗣王羈囚と為らざれば、則ち当に前王の言に依い、歳に馬千匹を貢ぎ、明年は金百斤・銀一万両・良馬百・細布一万を貢ぎ、仍て悉く拘えし遼東の民を送還し、方に王位の真にして政令の行わるるを見、朕惑い已まん。然らずんば、則ち君を弑するの賊は、必ず討ちて赦さず。」
二十一年四月、禑表して言う、鉄嶺の地は実に其の世守する所なり、乞うらくは仍って旧の便りにせんと。帝曰く、「高麗旧に鴨緑江を以て界と為す。今鉄嶺と飾辞し、詐偽昭然たり。其れ朕が言を以てこれを諭し、俾く安分にし、釁端を生ずる毋からしめよ。」
八月、高麗の千戸陳景が来降し、言うには、「この年四月、禑は遼東を寇掠せんと欲し、都軍相崔瑩・李成桂に命じて西京で兵を繕わしめた。成桂は陳景をして艾州に屯させたが、糧食が続かず退師した。王は怒り、成桂の子を殺した。成桂は兵を返して王城を攻め破り、王及び瑩を囚えた」と。陳景は禍が及ぶことを懼れ、故に降ったのである。帝は遼東に厳しく守備を命じ、なお人を遣わして偵察させた。十月、禑はその子昌に位を譲ることを請うた。帝は言った、「先にその王が囚われたと聞いたが、これは必ずや成桂の謀であろう。姑くこれを待ち、以て変を観よう」と。
二十五年九月、高麗の知密直司事趙胖らが国都評議司の奏文を持って言うには、「本国は恭愍王の薨じた後、嗣子なく、権臣李仁人が辛肫の子禑をして国事を主たらしめたが、昏暴にして殺戮を好み、遂に師を興して辺境を犯さんと欲するに至った。大将李成桂は不可と以為って軍を返した。禑は罪を負って惶懼し、子の昌に位を譲った。国人は順わず、恭愍王妃安氏に啓請して宗親の瑤を選び国事を権めさせた。既に四年に及び、昏戾にして讒言を信じ、勲旧を戕害し、子の奭は癡騃にして慧ならず、国人は瑤は社稷を主たるに足らずと謂う。今、安氏の命を以て、瑤を私第に退ける。王氏の子姓に輿望に当たる者無く、中外の人心は皆成桂に係る。臣らは国人の耆老と共に国事を主たることを推し、惟だ聖王の允を請う」と。帝は高麗が僻く東隅に処り、中国の治めるところにあらざるを以て、礼部に命じて移諭せしめた、「果たして能く天道に順い、人心に合い、辺釁を啓かず、使命往来するは、実に爾が国の福なり、我また何ぞ誅せん」と。冬、成桂は皇太子の薨じたことを聞き、使いを遣わして表を奉り慰め、併せて国号を改めることを請うた。帝は命じて仍って古い号を以て朝鮮と曰わしめた。
二十六年二月、使いを遣わして馬九千八百余匹を進め、命じて紵絲綿布一万九千七百余匹を運ばせてこれに酬いた。六月、表を奉り謝し、馬及び方物を貢ぎ、併せて先の恭愍王の金印を上り、己の名を旦と改めることを請うた。これを従えた。この月、遼東都指揮使司が奏上するには、朝鮮国が女直五百余人を招き引き、密かに鴨緑江を渡らせ、寇掠に入らんと欲すと。乃ち使いを遣わして敕諭し、禍福を示した。旦は敕を得て、惶懼して陳謝し、貢ぎ物を上り、併せて逋逃の軍民三百八十余人を械送して遼東に至らせた。
二十七年、旦は子を遣わして入貢した。二十八年、使い柳珣を遣わして来年の正旦を賀した。帝は表文の語が慢なるを以て、これを詰責した。珣は表文は門下評理鄭道伝の撰したると言う。遂に命じて道伝を逮え、珣を釈して帰らせた。二十九年、表を撰したる人鄭総ら三人を送り至り、云うには表は実に総らの撰したる所、道伝は病みて行く能わずと。帝は総らが邦を乱し釁を構うるを以て、留めて遣わさず。三十年冬、また表が譏訕に渉るを以て、その使を拘えた。建文初め、旦は表を奉り年老いたるを陳べ、子の芳遠を以て位を襲わしめんことを請うた。これを許した。
二十年、芳遠卒し、諡して恭定を賜うた。二十一年七月、祹は嫡子珦を立てて世子とせんことを請い、これを従えた。先に、祹に勅して馬一万匹を貢がしめたが、ここに至って数如く至り、白金綺絹を賜うた。
四年正月、官を遣わし来りて俘を献ず。詔して厚く賚うに従い、勅して奬諭す。この年、瑈卒す。諡して惠莊を賜う。太監鄭同・崔安を遣わし世子の晄を封じて王とし、妃韓氏に誥命を給す。既に行かんとす。巡按遼東御史侯英奏して曰く、「遼東連年寇に被り、瘡痍未だ起たず、今また禾稼登らず、軍民食を乏す。太監鄭同等の随従人員、過ぐる所の駅騒がし。臣考うるに先年嘗て翰林院中に、学行文望ある者を選び出使せしめしことあり。今同・安ともに朝鮮人、墳墓宗族皆在り、その國王を見れば、屈節せざるを得ず、甚だしく中国の体を褻す。乞うらくは成命を寢め、或いは翰林、或いは給事中及び行人内より推選し一員を遣わし、往使するを便とす」と。帝曰く、「英の言う所良く是なり。自後賞賚には内臣を遣わし、その冊封の正副使は、廷臣に学行ある者を選べ」と。
六年、晄病篤し、生みし子幼きを以て、その兄故世子暲の子の娎に国事を権らしめ、陪臣を遣わして以て聞かしむ。及び卒す。諡して襄悼を賜い、娎に嗣位を命ず。娎の妻韓氏を封じて王妃とす。十年、娎の父世子暲を追贈して國王とし、諡して懷簡とし、母韓氏を王妃とす。請う所に従うなり。
十五年十月、娎に命じて兵を出し建州女直を夾撃せしむ。娎すなわち右賛成魚有沼を遣わし兵を率いて満浦江に至るも、氷泮を以て後期す。また左議政尹弼商・節度使金嶠等を遣わし江を渡り進剿す。十六年春、陪臣を遣わし来りて捷を献ず。帝命じて内官に勅を齎し、その能く先烈を継ぐを奬諭し、金幣を賜い、領兵官は例の如く賞賚す。後に使還る。その臣許熙を遣わし伴送せしむ。熙帰りて開州に至る。建州の騎二千これを邀え、その従卒三十余人、馬二百三十余匹を掠め、他の亡びし物これに称す。奏して聞かしむ。英國公張懋・吏部尚書尹旻等、遼東連年兵を用うるを以て、軽々に動くべからず、宜しくこの意を以て娎に諭すべしとす。遼東守臣に勅して辺備を整飭せしめ、更に訳者に令して掠めたる所を窮究せしめ、期して必ず得んことをし、なお熙に白金綵幣を賜い慰安す。
十七年、娎奏す、継妃尹氏失徳あり、廃置す。乞うらくは更に副室尹氏を封ぜんことを。これに従う。十九年四月、娎の長子㦕を封じて世子とす。
初め、成桂の自立するや、宰相李仁人と本より異族なり。永楽間、祭海嶽の祝文を降し、成桂を仁人の子と称す。而して祖訓にもまた仁人の子成桂、名を旦と改むと載す。後に成桂の子芳遠奏辨す。太宗許して改正を令す。ここに至りて大明会典を修むるも、なお祖訓を朝鮮国に列す。貢使市いて以て帰る。懌上疏して備陳して世系をし、先世に弒逆の事無きを弁じ、改正を乞う。礼部議す、「会典は詳らかに本朝の制度を載す。事外国に渉り、疑似の際は、略する在所なり。況んや成桂の国を得るは皇祖の命に出ず。その仁人の後に繫がざるは、太宗の詔に徴すべし。宜しくその請いに従うべし」と。詔して曰く、「可なり」と。
十五年冬、内官に命じて封じた懌の子の峼を世子とし、懌に金帛珠玉を賜い、異物及び童男女を徴発して進上させた。十六年、世宗が即位すると、礼官が言うには、「天子が初めて践祚するにあたり、中国の体面を正し、外裔の侮りを絶つべきです。懌に諭して朝廷の意ではないとし、内臣を召還し、何も索求させないよう請います。」帝はこれに従った。
八年八月、陪臣の柳溥が上言した。「国祖の李旦は本国全州の人である。二十八世祖の瀚は新羅に仕えて司空となった。新羅が滅び、六世孫の兢休が高麗に入った。十三世孫の安社は元に仕えて南京千戸所の達魯花赤となった。元末に兵乱が起こり、安の曾孫の子春とその子の成桂が避難して東遷した。至正辛丑、恭愍王の十年にあたり、紅巾賊が国境に入った。成桂が賊を撃って功があり、武班の職事を授けられたが、当時はまだ有名ではなかった。恭愍王に嗣子がなく、寵臣の辛肫の子の禑を密かに養子としていたが、後に寵臣の洪倫と宦官の崔万生に弑された。権臣の李仁人が洪倫と崔万生を誅して禑を立て、成桂を門下侍中に抜擢した。禑は成桂に遼東を侵させようとしたが、成桂は従わず、兵を返した。禑は恐れて、子の昌に位を譲った。昌は偽姓であるとして廃され、王氏の裔である定昌君の瑤が再び立てられ、李仁人は国外に追放された。瑤もまた道に外れたので、国人は成桂を推戴し、高皇帝に請うて王に立てられ、名を旦と改めた。瑤を別邸に養い、その身を終わらせたが、実際に弑逆したことはない。以前の永楽・正徳の間、たびたび奏請し、いずれも勅許を得たが、いまだに改正されていない。今、会典の重修に遇い、賜わって昭雪を乞う。」詔して史館に送り編纂させた。
十八年二月、睿宗が太廟に祔され、明堂に配享する礼が成り、懌が表を奉って賀した。帝は特に奉天門に御して引見し、礼部で宴を賜った。
二十五年、峘が使いを遣わして下海した番人六百余人を辺境まで送り届け、金幣を賜った。二十六年正月、峘が咨文を送り、「福建人はかつて海を渡って本国に来たことはないが、日本に往って交易し、風に漂われ、前後合わせて千人以上を捕獲した。皆、軍器と貨物を携え、中国の火砲さえも倭の所有となったので、兵端を生ずることを恐れる。」と称した。詔して、「近年、沿海の奸民が禁令を犯し、福建は特に甚だしく、往々にして外国に捕獲され、国体を傷つけている。海道の官員は巡按御史に命じて察参せよ。なお王に銀幣を賜い、その忠を表彰する。」とした。
三十一年冬、洪武・永楽の間に賜わった楽器が破損したため、律管を求め、さらに楽官を京に遣わして校習させることを請うた。許された。
三十五年五月、倭船四隻が浙・直から敗れて還り、朝鮮の境に漂着した。峘が兵を遣わしてこれを撃ち殲滅し、中国で俘われた者及び逆に加担した者三十余人を得て献上し、冬至節を賀した。帝は璽書を賜って褒諭した。三十八年十一月に奏上した。「今年五月、倭寇が船二十五隻を駕して海岸に来抵した。臣は将の李鐸らに命じて剿殺し殆んど尽くし、中国の民の陳春ら三百余人を獲た。内、倭に通じた嚮導の陳得ら十六人を招き、ともに闕下に献ずる。」再び勅を降して奬勵し、銀幣を厚く賜い、併せて李鐸らに差等を以て賜った。
十九年十一月に奏上した。倭酋の関白平秀吉が来年三月に来犯すると声言した。詔して兵部に海防を厳しくするよう命じた。平秀吉は薩摩州の人で、初め倭の関白の信長に従った。信長がその部下に弑されたのに会い、秀吉は信長の兵を統べ、自ら関白と号し、六十余州を劫掠して降した。朝鮮は日本と対馬島を相望み、時に倭夷が往来して互市した。二十年夏五月、秀吉は遂に渠帥の行長・清正らを分けて舟師を率いさせて釜山鎮に迫り、密かに臨津を渡った。時に朝鮮は平穏が久しく、兵は戦いに習熟せず、昖はまた酒に溺れ、備えを弛めていた。突然、島夷が難を起こすや、風を望んで皆潰走した。昖は王城を棄て、次子の琿に国事を摂行させ、平壤に奔った。やがて、また義州に走り、内属を願った。七月、兵部は議して、険要に駐屯して天兵を待ち、通国に勤王を号令して恢復を図るよう命じた。しかしこの時、倭は既に王京に入り、墳墓を毀ち、王子と陪臣を劫掠し、府庫を掠奪し、八道は殆んど尽く陥没し、旦暮にして鴨緑江を渡らんとし、援軍を請う使いが道に絡繹した。廷議は朝鮮を国の藩籬とし、必ず争うべき所とした。行人の薛潘を遣わして昖に興復の大義を諭し、大兵十万が将に至らんと声言した。しかし倭は既に平壤に抵り、朝鮮君臣はますます急ぎ、愛州に出て避けた。遊撃の史儒らが師を率いて平壤に至り、戦死した。副総兵の祖承訓が兵を統べて鴨緑江を渡りこれを援けたが、僅かに身を免れたのみであった。中朝は震動し、宋応昌を経略とした。八月、倭が豊徳等の郡に入った。兵部尚書の石星は計る所なく、人を遣わして偵探することを議し、ここに嘉興の人沈惟敬が応募した。惟敬は市中の無頼であった。この時、秀吉は対馬島に次ぎ、その将の行長らを分けて要害を守らせて声援とした。惟敬が平壤に至ると、礼を執るのは甚だ卑屈であった。行長は欺いて言った。「天朝が幸いに兵を動かさなければ、私は間もなく還るであろう。大同江を以て界とし、平壤以西は尽く朝鮮に属するのみである。」惟敬はこれを聞いた。廷議は倭の詐りは未だ信ずべからずとし、宋応昌らに進兵を促した。しかし石星は惟敬に惑わされ、遊撃に題署して軍前に赴かせ、且つ金を請うて間を行わせた。十二月、李如松を東征提督とした。明年正月、如松が諸将を督いて進戦し、平壤において大捷した。行長は大同江を渡り、遁れて龍山に還った。失った黄海・平安・京畿・江原の四道は併せて回復し、清正もまた遁れて王京に還った。如松は既に勝ち、軽騎で碧蹄館に趨ったが、敗れて開城に退き駐屯した。事は如松伝に具わる。
九月、昖は三都既に復し、疆域再造せられたとして、表を上って謝恩した。然れども時に倭はなお釜山に拠っていた。石星は益々一意に款を主とした。九月、兵部主事曾偉芳が言うには、「関白の大衆は已に還り、小西行長は留まって待つ。我が兵の未だ撤かざるを知り、敢えて一矢を加え遺さず。関白に帰報して捲土重来せんと欲すれば、則ち風不利で、正に冬寒を苦しむ。故に款しても去り、款せざるも亦去る。沈惟敬が前に倭営において講購し、咸安・晋州は随って陥落し、而して款を恃み来年の不攻を冀うのは、則ち款を速めることが、正に来を速めるのである。故に款しても来り、款せざるも亦来る。宜しく朝鮮をして自ら守らしめ、死を弔い孤を問い、兵を練り粟を積み、以て自強を図らしむべし」と。帝は然りと為し、因って昖を諭する勅は甚だ切至であった。
九月、封使は日本に至った。先に、沈惟敬は釜山に抵り、私かに秀吉に蟒玉・翼善冠・地図・武経・良馬を奉った。而して李宗城は貪淫を以て倭の守臣に逐われ、璽書を棄てて夜遁した。事聞こえ、逮問した。乃ち方亨を正使に充て、惟敬に神機営の銜を加えて副と為した。及びここに冊を奉じて至ると、関白は朝鮮の王子来らず謝せざるを怒り、止だ二使を遣わして白土綢を奉り賀と為すのみとし、其の使を拒んで見ず、惟敬に語って曰く、「若、二子・三大臣・三都・八道悉く天朝の約に遵い付還するを思わず、今卑官微物を以て来り賀すは、小邦を辱しむるか、天朝を辱しむるか。且つ石曼子の兵を彼に留め、天朝の処分を候い、然る後に撤還せん」と。翌日貢を奉じ、使を遣わして表文二道を賫し、冊使に随い渡海して朝鮮に至らしめた。廷議は使を朝鮮に遣わし、表文を取って進め験せしめ、其の一は謝恩、其の一は天子の朝鮮を処分せんことを乞うものであった。
初め、方亨は詭りて報じ、去年釜山より渡海し、倭は大坂に於いて封を受け、即ち和泉州に回ったと。然るに倭は方に朝鮮を責備し、仍って兵を釜山に留むること旧の如く、謝表は後時にして発せず、方亨は徒手にて帰った。ここに至って、惟敬は始めて表文を投じ、案験するに潦草で、前折に豊臣の図書を用い、正朔を奉ぜず、人臣の礼無し。而して寛奠副総兵馬棟が清正の二百艘を擁して機張営に屯すと報じた。方亨は始めて直ちに本末を吐き、罪を惟敬に委ね、併せて石星の前後の手書を呈した。帝は大怒し、石星・沈惟敬を逮え案問せしめよと命じた。兵部尚書邢玠を以て薊・遼を総督せしめ、麻貴を備倭大将軍に改め、朝鮮を經理せしめ、僉都御史楊鎬を天津に駐せしめて警備を申し、楊汝南・丁応泰を軍前に贊画せしめた。
五月、玠は遼に至った。行長は楼を建て、清正は種を布き、島倭は水を窖い、朝鮮の地図を索め、玠は遂に用兵を決意した。麻貴は鴨緑江を望み東発し、統ぶる所の兵僅かに一万七千人、師の増援を請うた。玠は朝鮮の兵は惟だ水戦に嫺んずるを以て、乃ち疏を上って川・浙に兵を募り、併せて薊・遼・宣・大・山・陝の兵及び福建・呉淞の水師を調え、劉綎に川・漢の兵を督せしめて剿に聴かしむることを請うた。貴は密かに報じ、宣・大の兵の至るを候い、倭の未だ備えざるに乗じ、釜山を掩えば、則ち行長は擒られ、清正は走ると。玠は奇計と為し、乃ち檄を飛ばして楊元を南原に屯せしめ、呉惟忠を忠州に屯せしめた。
六月、倭船数千艘が釜山に停泊し、朝鮮の郡守安弘國を殺害し、次第に梁山・熊川に迫った。惟敬は営兵二百を率いて釜山に出入りした。邢玠は表向き慰撫しつつ、楊元に密命を下して惟敬を襲撃・捕縛させ、麻貴の陣営に縛りつけて送らせた。惟敬を捕らえたため、倭の嚮導はようやく絶えた。七月、倭は梁山・三浪を奪い、ついに慶州に入り、閑山を侵した。統制元均の軍は潰え、閑山を失った。閑山島は朝鮮西の海口にあり、右は南原を蔽い、全羅道の外藩たる地である。一旦これを失守すれば沿海に備えなくなり、天津・登州・萊州へも帆を揚げて到達しうる。わが水兵三千はようやく旅順に到着したが、閑山が陥落したため、経略は王京西の漢江・大同江を守り、倭の西下を扼し、兼ねて糧道を防ぐよう檄を飛ばした。
八月、清正が南原を包囲し、夜を乗じて急襲した。守将楊元は逃げた。当時全州に陳愚衷がいたが、南原からわずか百里の距離にありながら、南原の急報を聞いても敢えて救援せず、陥落したと聞くと城を棄てて逃走した。麻貴は遊撃牛伯英を派遣して救援に向かわせ、陳愚衷と合流させて公州に駐屯させた。倭はついに全羅・慶尚道を犯し、王京に迫った。王京は朝鮮八道の中央にあり、東は烏嶺・忠州に阻まれ、西は南原・全州と道が通じている。この二城を失ってからは東西ともに倭に脅かされ、わが兵は寡弱であったため、王京に退守し、漢江の険に依ることにした。麻貴は邢玠に、王京を棄てて鴨緑江まで退守したいと請うた。海防使蕭応宮はこれを不可とし、平壌から兼行で王京に急ぎこれを制止した。麻貴は兵を発して稷山を守らせ、朝鮮もまた都体察使李元翼を調発し、烏嶺より出て忠清道に賊鋒を遮らせた。邢玠がみずから王京に赴くと、人心はようやく落ち着いた。邢玠は参軍李応試を召して計略を問うた。応試は朝廷の主たる方策がどうなっているかと尋ねた。邢玠は言った、「陽に戦い陰に和し、陽に剿(討伐)し陰に撫(懐柔)す、これが政府の八字の密画である。漏らすな」。応試は言った、「それなら容易です。倭が叛いたのは処分(和平交渉)の望みが絶えたからであり、楊元を殺さなかったのは、なお処分を望んでいるからです。ただちに人を遣わして、沈惟敬が死んでいないと告げれば、退くでしょう」。そこで李大諫を行長のもとへ、馮仲纓を清正のもとへ使者として立てることを請い、邢玠はこれに従った。九月、倭が漢江に至ると、楊鎬は張貞明を遣わし、惟敬の自筆の書簡を持たせて行かせ、動兵は静かに処分を待つという実態に背くと責めた。行長・正成もまた清正の軽挙を咎めたため、倭は井邑に退いて駐屯した。麻貴はついに青山・稷山の大捷を報告した。蕭応宮は上疏して言った、「倭は惟敬の手紙によって退いたのであり、青山・稷山ではいずれも戦闘はなかった。どうして功績と言えようか」。邢玠・楊鎬は怒り、ついに応宮が臆病で、みずから惟敬を解き放たなかったと弾劾し、ともに逮捕した。
十一月、邢玠の徴兵が大いに集まり、帝は国庫の金を発して軍を犒賞し、邢玠に尚方剣を賜い、御史陳効をその軍の監軍とした。邢玠は諸将を大いに集め、三協に分けた。楊鎬は麻貴とともに左右協を率い、忠州・烏嶺より東安に向かい、慶州へ急行し、専ら清正を攻撃した。李大諫を行長のもとに通わせ、援軍に来ないよう約束させた。また中協を宜城に駐屯させ、東は慶州を援け、西は全羅道を扼させた。残りの兵は朝鮮軍と合流して営を共にし、順天などを偽装攻撃して、行長の東援を牽制した。十二月、慶州で会合した。麻貴は黄応賜を遣わし清正に賄賂を贈って和を約束させ、一方で大軍を率いてその陣営に急襲した。当時倭は蔚山に駐屯し、城は山の険に依り、中央に一つの川が釜山の砦に通じ、陸路は彦陽より釜山に通じていた。麻貴は蔚山を専攻しようとしたが、釜山の倭が彦陽より来援するのを恐れ、多く疑兵を張り、また将を遣わしてその水路を遮らせ、ついに倭の堡塁に進撃した。遊撃擺寨は軽騎をもって倭を誘い伏兵に入らせ、四百余の首級を斬り、その勇将を捕らえ、勝に乗じて二つの柵を陥落させた。倭で焼死した者は数え切れず、ついに島山に奔り、三つの砦を連ねて築いた。翌日、遊撃茅国器が浙兵を統率して先登し、連破して斬獲多く、倭は堅く壁を守って出てこなかった。島山は蔚山より高く、石城は非常に堅固で、わが軍は仰攻して多く損傷した。諸将は議して言った、「倭は水路が困難で糧秣の継続が難しく、ただちに包囲して困窮させれば、清正は戦わずして縛られるであろう」。楊鎬らはこれをよしとし、兵を分けて十日間夜を徹して包囲した。倭は非常に飢え、偽って降伏を約束して攻撃を緩めさせようとした。まもなく行長の援兵が大いに至り、軍の背後を回り出ようとした。楊鎬は命令を下す暇もなく、馬を駆って西に奔り、諸軍は皆潰走した。ついに兵を撤して王京に戻り、士卒で死亡した者は二万に及んだ。上はこれを聞き、激怒した。ついに楊鎬を罷免して取り調べに任じ、天津巡撫万世徳を代わらせた。事は楊鎬伝に詳しい。
二十六年正月、邢玠は前の役で水兵が不足して功績がなかったため、江南の水兵をさらに募り、海運を議し、持久の計を立てた。二月、都督陳璘が広兵を、劉綎が川兵を、鄧子龍が浙・直兵を率いて先後に到着した。邢玠は兵を三協に分け、水陸四路とし、各路に大将を置いた。中路は李如梅、東路は麻貴、西路は劉綎、水路は陳璘とし、それぞれ守備地を守り、機を見て進剿した。当時倭もまた三つの巣窟に分かれていた。東路は清正で蔚山を占拠し、西路は行長で粟林・曳橋を占拠し、数重の砦を築いた。中路は石曼子で泗州を占拠した。而行長の水軍は交代で休み糧秣を補給し、往来は飛ぶようであった。わが軍は期日を約してともに進撃したが、まもなく遼陽の警報が伝わり、李如松が敗死したため、詔により李如梅は帰還してこれに赴き、中路は董一元が代わった。
丁応泰が楊鎬を弾劾したとき、李昖は乾断(天子の裁断)を回らし、鎮撫を重んじて励まし、征討を完遂するよう請うた。上は許さなかった。また丁応泰はかつて築城の議を楊鎬の罪状とし、堅城を得て意を得れば、朝鮮に将来の患いを生むと述べた。そこで李昖は上奏して弁明した。帝は言った、「連年兵を用い餉を発するのは、そちの国が平素忠順を効しているからである。人言をもって自ら疑うな」。
九月、将士は分道して進兵し、劉綎は行長の陣営に進撃して迫り、行長と会盟を約した。翌日、城を攻撃し、九十二の首級を斬った。陳璘の舟師が協力して堵撃し、倭船百余を破壊した。行長は密かに千余騎を出してこれを扼し、劉綎は不利となり退き、陳璘もまた舟を棄てて逃走した。麻貴は蔚山に至り、かなりの斬獲があったが、倭は偽って退き誘い込んだ。麻貴が空の堡塁に入ると、伏兵が起ち上がり、ついに敗れた。董一元は進んで晋州を取ろうとし、勝に乗じて江を渡り、二つの砦を連続して焼き払った。倭は退いて泗州の本営を守り、激戦の末これを陥落させ、前進して新たな砦に迫った。砦は三面を江に臨み、一面が陸地に通じ、海を引き込んで濠とし、海船が砦の下に千艘ほど停泊し、金海・固城を築いて左右の翼としていた。十月、董一元は将を遣わして四面より城を攻め、火器を用いて砦の門を撃ち砕き、兵は競って前進して柵を抜いた。突然、陣営中で火薬が爆発し、煙炎が天に漲った。倭は勢いに乗じて衝撃し、固城の倭もまた到着したため、兵は大いに潰走し、晋州に奔り還った。帝はこれを聞き、二遊撃を斬って示し、董一元らはそれぞれ罪を帯びて功を立てるよう命じた。この月、福建都御史金学曾が七月九日に平秀吉が死んだと報告し、各倭は皆帰国の意向を持っていると伝えた。十一月、清正は舟を発して先に逃走し、麻貴はついに島山・酉浦に入り、劉綎は攻めて曳橋を奪った。石曼子が舟師を率いて行長を救援したが、陳璘が邀撃してこれを破った。諸倭は帆を揚げてことごとく帰国した。
倭が朝鮮を乱してから七年、数十万の兵を喪い、数百万の軍費を費やし、中朝と属国はついに勝算がなく、関白が死んでようやく禍いが止んだ。
二十七年閏四月、倭寇平定の詔を以て天下に告げ、また昖に勅諭して曰く、「倭奴平秀吉は不道を肆にし、爾が邦を蹂躙す。朕は王の世に篤く忠貞なるを念い、深く憫惻を用う。七年のうち、日々に此の賊を以て事とす。始め薄伐を行い、継いで包容を示し、終に厳討を加う。蓋し殺さざるは乃ち天の心にして、兵を用うるは予の已むを得ざるなり。疆を安んじ乱を靖むるは、宜しく蕩平を取るべし。神は凶盈を悪み、陰に魁首を殲し、大師之に乗じ、奔を追い北を逐い、鯨鯢尽く戮され、海隅清まるを載す。捷書来り聞き、憂労始めて釈る。惟うに王は旧物に還るも、実に新造に同じ。凋を振い敝を起すは、力倍艱なり。倭は遁帰すと雖も、族類尚在す。茲に邢玠を命じて旅を振い京に帰し、量りに万世徳等を留めて分布戍守せしむ。王は宜しく臥薪嘗胆し、前恥を忘れざるべく、惟れ忠惟れ孝、前休を纘紹せよ」。
五月、玠は東征善後事宜十事を条陳す。一、戍兵を留む、馬歩水陸合わせて三万四千有奇、馬三千匹。一、月餉を定む、毎年銀九十一万八千有奇を計う。一、本色を定む、用いる所の米豆を合せ、遼東・天津・山東等の処に分派し、毎年十三万石。一、中路海防道を留む。一、餉司を裁す。一、将領を重んず。一、巡捕を添う。一、汛地を分つ。一、操練を議す。一、本国に責む。廷臣議して曰く、「数年疲耗し、今始めて肩を息う。自ら宜しく内に根本を固くすべく、当に更に繁費を為すべからず。況んや彼の国の兵荒の後は、独り倭の擾を苦しむのみならず、兼ねて我が兵を苦しむ。故に今日の善後事宜は、仍お当に彼の国と商い、先ず彼の餉の贏絀を量り、始めて我が兵の去留を酌むべし。馬匹を増買し、標兵を添補し、巡捕を創立し、及び管餉府佐に至るまで、悉く宜しく停止すべし」。帝は督撫に命じて国王と会同して酌み奏すべしとす。八月、昖は方物を献じ、大工を助け、例の如く褒賞す。十月、水兵八千を留め、以て戍守に資するを請う。其の撤回する官兵は、遼陽に駐劄して警に備う。二十八年四月、義州等の倉に遺り下れる米豆を運回して遼陽に至らしむるを請う。戸部議して曰く、「輸運維艱、彼の国に径ち与えて、其の彫敝を振い、以て皇仁を昭かにするに若かず」。詔して曰く「可なり」。
二十九年二月、兵部、経督の条陳する七事を覆奏す。「一、兵士を練る。麗人は鷙悍にして寒苦に耐え、而して長衫大袖、訓練の方無し。束伍の法を以て之を教うべし。一、衝要を守る。朝鮮は三面海に距り、釜山は対馬と相望み、巨済之に次ぐ。各お重兵を以て守るべく、併せて蔚山・開山等の処も皆宜しく戍守すべし。一、険隘を修む。王京は北に叢山に倚り、南に滄海を環す。忠州の左右、烏・竹の二嶺、羊腸繞曲し、一夫関に当たるの険有り。今営壘の遺址尚存す。亟に宜しく修葺すべし。一、城池を建つ。朝鮮八道、十九城無し。平壤西北の鴨・浿の二江、俱に南して海に通ず。倘し倭別に一旅を遣わして平壤を占拠せば、則ち王京の声援断絶す。皆応に修築して屯聚すべし。一、器械を造る。倭の戦は陸に便にして海に便せず、船制重大きくして、攻撃に利あらず。今福唬に准じて百十艘を造り奇兵と為し、併せて神機百子火箭を添造すべし。一、異材を訪う。朝鮮は世官を貴び、世役を賤しむ。一切禁錮し、往往倭に走り敵に走り、本国の患と為す。宜しく格を破りて搜採すべし。一、内治を修む。国家東南海に臨み、登・旅を以て門戸と為し、鎮江を咽喉と為す。応援の兵は、尽く撤すべからず。我自ら固くするは、亦以て朝鮮を固くする所以なり」。詔して朝鮮に刻励して以て行わしむ。九月、頒ち給うる所の誥命冕服、変に遭いて淪失すと奏し、補給を祈り、之に従う。
三十六年、昖卒す。光海君琿、自ら国事を署すと称し、陪臣を遣わして来り訃し、且つ諡を請う。帝其の擅なるを悪み、允さず、該国の臣民に公議して以て聞かしむ。時に我が大清兵各部を征服し、漸く朝鮮に近し。兵部議して該王に大いに武備を修め、辺防を整飭せしめ、併せて遼左の督撫鎮臣に勅し、官を遣わして相侵犯せざるの意を宣達せしむるを請う。之に従う。十月、琿を封じて国王と為す。其の臣民の請いに従うなり。三十七年二月、昖に諡して昭敬と曰い、官を遣わして琿及び妃柳氏に誥命を賜う。
初め、朝鮮守を失い、中国の力に頼りて復を得、倭は釜山を棄てて遁ぐ。然れども陰謀疆を啓き、患い已まず。ここにおいて海上流言し、倭釜山を図り、朝鮮之と通ずと。四十一年九月、総兵官楊宗業以て聞く。琿疏を上りて弁し、詔して慰解す。
四十七年、楊鎬が馬林・杜松・劉綎らを督いて出師したが、我が大清の兵に敗れた。朝鮮が助戦した兵将は、或いは降り、或いは戦死した。琿が急を告げたので、詔を下して優恤を加えた。十一月、兵部が覆奏した。朝鮮の入貢の道には、兵を添えて防守すべきであると。詔して鎮江等の処に兵将を設け、経略熊廷弼に調委させた。四十八年正月、琿が奏上した。敵兵は八月中に北関を攻め破り、金台吉は自ら焼死し、白羊は出降した。鉄嶺の役では、蒙古の宰賽もまた滅ぼされた。その国の謀議によれば、朝鮮・北関・宰賽は皆南朝を助兵したので、今北関・宰賽は皆滅びたから、朝鮮を独り存続させてはならないという。また牛毛寨・萬遮嶺に兵を設け、寬奠・鎮江等の処を略さんと欲していると聞く。寬奠・鎮江は昌城・義州の諸堡と水を隔てて相望み、孤危甚だしからず。敵もし靉陽の境上鴉鶻関より路を取り、鳳凰城裏に出ることを遶らせば、一日にして長躯し、寬鎮・昌城ともに自保する術がない。内には遼左八站、外には東江一城、彼此隔断され、声援阻絶し、寒心に堪えぬ。速やかに大兵を調発し、共に掎角となり、以て辺防を固められたい。時に遼鎮の塘報が朝鮮が大清と講和したと称したので、朝議は遂に琿は陽に衡(抗)し陰に順ずるとし、官を遣わして宣諭すべきか、或いは将を命じて監護すべきかと、その説紛挐した。琿が疏を上って弁明した。二百年の忠誠をもって事大し、死生一節であると。言葉は極めて剴切で真摯であった。礼・兵二部が勅を降して曉諭させ、その心を安んずるよう請うた。帝はその議を是としたが、勅は陪臣に往かせ、官を遣わさなかった。
五年十二月、文龍が報じた。朝鮮の逆党李适・韓明璉らが昌城に起兵し、直ちに王京に趨ったが、臣に擒獲された。余孽の韓潤・鄭梅らは建州に竄入し、左議府尹義立が内応を約し、期を今冬とし大挙して朝鮮を犯さんとしている。臣は既に国王に諮り防守させ、暫く鉄山の衆を移して雲従島の柴薪に就かせた。登萊巡撫武之望が奏した。毛帥は五月以来、須弥に営室した。所謂雲従島である。今十月また兵民商賈を徙して以てこれを実にし、鉄山の地は空となった。故に朝鮮各道は其の逼処の嫌い有るを疑い、甚だしきは兵を布いて以てこれを防禦する。今、鎮臣の称する李适らの叛、尹義立の内応は、臣ら微かにこれを聞くも、未だ敢えて遽に信ぜず。信ずれば益々鮮人の疑いを重くし、信ぜざれば恐らく後来の患いを貽さん。兵部が言う。敵国を牽制するは朝鮮なり。朝鮮を聯属するは毛鎮なり。毛鎮を駕馭するは登撫なり。今、撫臣と鎮臣和せず、以て鎮臣と属国和せず。大いに利あらず。帝は乃ち鎮撫に同心を飭勉し、韓潤・尹義立らは朝鮮に自処させた。倧はまた遼民を撤して中土に安插するよう請うた。兵部が言う。遼人の去留は、文龍に視る。文龍一日去らざれば、則ち遼人一日離れず。鮮人がこれを島に駆り入るるは可なり、これを島より離れしむるは不可なり。宜しく鎮臣に将いて遼民を尽く刷り過ぎて島に渡らせ、登撫に刻期して糧を運ばせ朝鮮に、量りて救振を行い、以て屯牧に資すべし。帝はこれを是とした。
六年十月、倧が上疏して曰く。
皇朝の小邦に対するは、覆幬の恩、服内を視るに同じし。頃に昏乱に遭い、潜かに敵国に通ず。皇天震怒し、厥の命を降黜す。臣、権署の初より遑寧せず、即ち陪臣張晚を帥とし、李适を副とし、国中の精鋭を付し、進みて寧辺に屯し、一に毛鎮の節制を聴き、以て協剿の期を候わしむ。而るに适、重兵を握り、潜かに覬覦を蓄え、遂に龜城府使明璉と挙兵して内叛し、直ちに京城を犯す。晚、余兵を収めて其の後を躡い、京輔の官兵と表裏より夾攻し、賊皆首を授く。而して西辺の軍実及び列鎮の儲偫は是の役に罄く。
毛鎮は全遼淪没の後、孤軍東渡し、海上に寄寓し、遼民を招集すること前後数十万、亦た小邦の仰藉する所なり。顧みるに封疆多故、土瘠く民貧しく、内には本国の軍需を供し、外には鎮兵の待哺を済し、生穀有限、支給実に難し。遼民は饑餒に迫られ、村落に散布し、強者は攫奪し、弱者は丐乞す。小邦の兵民は撓乱に堪えず、郷邑を抛棄し、転徙して内地に入る。遼民は食を逐い、亦た随いて入る。昌・義より以南、安・肅より以北、客居六七、主居三四。向にこの情形を具奏し、兵部の題覆処分既に定まるを見る。何ぞ敢えて再び干せん。
韓潤及び弟の潭は逆賊明璉の子姪に係り、亡命潜逃し、因而来寇を勾引す。賊既に国を叛きて去る。制命は已に臣に在らず。尹義立は曾て判書を任じ、本より議政に非ず。頃年、毛鎮の接伴官に差され、任使に称せず、職を褫かれて家に帰る。並びに怨叛の事無し。毛鎮は王仲保等の訴えに拠るも、都て実事無し。意、必ず讒邪の臣有り、督撫を欺妄し、以て其の交搆の計を售る者有らん。
毛帥(毛文龍)は久しく海外に鎮し、臣(袁崇煥)はこれと周旋すること既に十年に近し。糧秣は将に尽きんとし、彼此ともに困窮すれども、情誼の殷なること、実に少しも損ずるところなし。且つその須弥島への遷移は、直ちに累重を保護するため、便を以て芻薪に就かんとす。一進一退は兵家の常事なり。訛言噂沓するも、本より介意せず。窃かに部撫の移咨を見るに、「其の逼処を虞る」と曰い、「其の民を駆り、其の帥を駆る」と曰い、甚だしきは「兵を布きて防ぎ、属国携貳す」の語あり、海外の情事を未だ悉く諒ぜざるが如し。臣の遼民を刷するを請うは、力足らずして済わざるに因り、初めより逼処を慮うに及ばず。臣は方に毛鎮と同心一力し、功を立てて主に報いんとす、豈に一毫の猜防の意あらんや。
帝(崇禎帝)答えて曰く、「王(朝鮮国王)は東鎮(毛文龍)と和協し、中朝を愛戴す。忠貞の忱、言表に溢る。鎮軍久しく懸り、鮮・遼雑処す。久客は主を累わし、生寡くして食多し。微なる王の言なくば、朕かくの如く万里の外を坐照せざるべし。然れども毛帥は中朝に在りては牽制の師たり、王国に在りては則ち唇歯の形なり。海上の芻輓は、已に該部に区画を令し、期を刻して運済せしむ。逃難の辺民も亦た毛帥に悉心計処せしめ、重ねて王の累いとなさしめず。伝訛の言、未だ介懐に足らず。力を併せ心を一にせよ、王其れこれを勉めよ。」
七年(天啓七年)三月、兵部は文龍の掲を上言す。「麗官・麗人、敵を招きて鉄山を攻め、我が兵千人を傷つけ、麗兵六万を殺し、糧百余万を焚く。敵遂に兵を移して麗を攻む。」と。帝は文龍に勅し、速やかに相機応援せしむ。登撫李嵩奏す。「朝鮮の叛臣韓潤等、敵を引きて安州に入る。節度使南以興自ら焚死す。中国の援兵都司王三桂等俱に陣没す。」と。既にして復た奏す。「義州及び郭山・凌漢・山城俱に破れ、平壌・黄州は戦わずして自潰す。敵兵直ちに中和に抵り、遊騎黄・鳳の間に出入し、又た分かれて雲従に向かい、毛帥を攻掠す。国王及び士民、江華に遷りて以て難を避く。」と。時に大清兵の至る所輒ち下り、朝鮮の列城風望んで奔潰す。乃ち使を遣わして倧(仁祖李倧)を諭す。倧款を輸す。遂に班師す。九月、倧兵を被るの情形を奏す。時に熹宗崩じ、莊烈帝(崇禎帝)位を嗣ぐ。優詔を以て励勉す。
六年(崇禎六年)六月、倧総兵黄龍に書を遺わし言う。「文龍の旧将孔有徳・耿仲明、士卒二万を率いて大清に投順し、朝鮮に向かい糧を徴す。本国は有徳等曩に皮島に在りて本国の患いとなせしを以て、故にこれに応ぜず。」と。龍以て聞かす。
朝鮮は明に在りては、雖も属国と称すれども、域内に異なることなし。故に朝貢絡繹し、錫賚便蕃にして、殆ど書くに勝えず。止むを得ず其の治乱に関わるものを篇に著す。至りて国の風土物産は、則ち前史に具載す。茲に復た録せず。