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明史
列傳第二百〇七 廣西土司三
◎廣西土司三
○泗城州、利州、龍州、歸順州、向武州、奉議州、江州、思陵州(廣東瓊州府附)
泗城州は、宋代に設置され、横山寨に隷属した。元代は田州路に属した。その境界は東は東蘭に至り、西は上林長官司に至り、南は田州に至り、北は永寧州に至る。
洪武五年、征南副将軍周徳興が泗城州を攻略し、土官岑善忠が帰順したため、世襲の知州に任じられた。十三年、善忠の子の振が乱を起こし、利州を寇掠したが、広西都司が討伐して平定した。十四年、善忠が方物を貢献した。二十六年、振が人を遣わして馬及び方物を貢献し、詔により鈔錠を賜った。
宣徳元年、女土官盧氏が族人岑臺を遣わして馬及び銀器等の物を貢献し、差等に応じて賜与があった。八年、致仕した女土官盧氏が上奏し、襲職する土官岑豹が土兵千五百余人を率いて己を謀害しようとし、また故土官岑瑄の塑像を棄て毀ったのは不孝の所為であり、襲職を任せるのは難しいと訴えた。豹の叔父で利州知州の顔もまた、豹が兵を興して盧氏を謀殺し、州民が被害を受けたと上奏した。都督山雲が上奏した。「豹は実は故土官瑄の甥であり、人々の信服を得ており、襲職すべきである。盧氏は瑄の妻で、豹の伯母であり、初めは借襲し、今は致仕したので、終身を養うために適量の田土を割り当てるのが宜しい。なお、豹に侵掠を恣にしないよう勅を下すことを請う。」兵部は山雲の上奏に従うよう請うた。帝は行人章聡と侯琎に勅を携えさせ、山雲に三司及び巡按と会して豹と盧氏の是非を究明し、公に従って判決するよう諭させた。
正統元年、豹が人を遣わして入貢した。二年、豹が利州を攻撃し、その叔父顔の妻子と財物を掠奪した。朝廷の官が至って撫諭したが、固く服従せず、兵を増やして守りを拒んだ。山雲がこれを上聞し、兵を発してこれを剿滅するよう請うた。帝は山雲に勅して曰く、「蛮夷が教化に背くのは、罪は確かに容れ難いが、師を興し衆を動かすことは、事もまた容易ではない。更に人を遣わしてこれを諭せ。」五年、顔が豹の侵占及び掠擄の罪を上奏した。頭目黄祖もまた、豹がその弟を殺し、その家を没収したと上奏した。瑄の娘もまた、豹が田地人民を占奪し、その母盧氏を囚禁したと上奏した。帝は再び行人朱升と黄恕に勅を携えさせてこれを諭させ、併せて広西・貴州の総兵官に勅し、自らその地に赴き、速やかに侵掠した所を返還させ、もし服従しなければ、機を見て擒捕するよう命じた。六年、総兵官柳溥が上奏した。「行人黄恕・朱升が広西三司の委官と共に豹に、原占した利州の地を返還するよう諭したところ、豹はその時は面従したが、帰ると、占拠は元の如くであった。今、顔は利州・利甲等の荘をもって泗城・古那等の甲と交換し、利州衙門を開設したいと望んでいる。その請いに従い、附近の官軍を発して顔を送り、彼の地に赴かせて蛮民を撫治させるのが宜しい。もし豹がなおも拒逆するならば、兵を率いて剿捕すべきである。」従った。八年、豹が人を遣わして貢献し、彩幣を賜った。十年、豹が再び顔がその地を占拠していると上奏したので、帝は速やかに議処するよう命じ、因循して辺方の害を遺すことのないようにさせた。
成化元年、豹が衆四万を集め、上林長官司を攻撃劫掠し、土官岑誌威を殺害し、その境土を占拠した。兵部が言うには、「豹がかくも強獷である以上、兵を調発して擒捕し、明らかに典刑に正すべきである。」従った。間もなく、豹は死んだ。
弘治三年、土官知州岑応が再び上林長官司及び貴州鎮寧等の処一十八城を占拠した。時に恩城土官岑欽が田州府を攻め奪い、知府岑溥を追放した。応は欽と与党でありながら、後にまた仇敵となり、両家の父子が互いに仇殺し合った。事が上聞され、兵部が上奏した。「欽は連年禍を構え、応はこれに与党し、また上林長官司を占拠し、流毒少なくない。今、天が禍を厭い、手を借りて相い残させているのは、実に地方の幸いである。応が占拠した隣壤及び土官の印信は数が多いので、またこれを勘断して禍の本を除き、併せて応の弟の接に侵地及び印信を返還させてから、初めて承襲を許すべきである。泗城は地広く兵多く、頭目を選び、職銜を量って授け、分轄してその勢いを殺ぐのが宜しい。」詔して総鎮官に区処させた。接が人を遣わして朝正し、彩緞鈔錠を賜った。
十年、総督鄧廷瓚が上奏した。「接は往年、都勻・府江等の処に従征して功があり、その祖父の罪を少し許し、世職を承襲させ、報効を図らせたい。」廷臣が議した。「印を劫し地を侵すのは、接の祖父の罪ではあるが、再四撫諭しても、接はこれを官に帰そうとせず、急に襲職させれば、その志は益々驕るであろう。これは土官を馭する法ではない。」
十二年、田州の土目黄驥が乱を起こし、接を要して声援とし、男婦を殺掠し、倉庫民廬を劫焼し、また府学及び横山驛の印記を劫奪し、遂に興仁を占拠した。十四年、貴州の賊婦米魯が乱を起こし、提督王軾が接に土兵二万を率いさせて砦布河に営させたいと請うた。そこで接に勅し、自ら二ヶ月分の兵糧を準備し、期日を定めて赴調するよう命じた。
十八年、泗城土官の族人岑九仙が上奏した。「始祖岑彭以来、世襲の土官であった。豹の子の応に至って欽の禍いに罹り、子孫滅亡殆んど尽き、その弟の接が、衆に推されて印を護り、累ねて労勚を著わした。襲職を命じ、蛮衆を掌轄させたい。」兵部尚書劉大夏等が議した。「豹は叛臣の余孽であり、子の応はまた自ら滅亡を取った。今の接という者は、人皆梁接と称して伝え、応の親枝ではなく、また岑九仙がどのような逃亡者か知れず、冒して奏擾している。臣大夏は先に両広におり、岑氏の譜を見た。岑の始祖木納罕は元の至正年間に、田州知府の祖伯顏と一時に官を受けた。今、九仙は妄りに漢の岑彭の世次を引き合いに出し、聖聴を塵瀆している。その罪を治めることを請う。その岑接が襲職すべきか否かは、前に既に鎮巡官に勘奏させており、岑九仙は蛮人であるから深く究め難いとしても、またその奸を破るために摘発すべきである。」従った。
正徳十二年、泗城及び程県が各々官族を遣わして来貢した。時期に遅れたため、賞は半減された。泗城の貢は厚かったので、なお全額を与えた。
嘉靖二年、田州の岑猛が兵を率いて泗城を攻撃し、六寨を抜き、州城に迫ってこれを攻略した。接が軍門に急を告げ、猛が故なくして寨を攻めたと訴えた。猛は、接は岑氏の後裔ではなく、その祖業を占拠しているので、侵された地を得たいと言った。詔して勘処させた。
十六年、田州の盧蘇が乱を起こす。泗城の土舎岑施が兵を率いて岑邦佐を迎え入れる。兵敗れ、迎え入れることができず。二十七年、詔して土舎施に襲替を許し、京師への赴任を免じる。これはかつて調に応じて出兵し功労があったためである。隆慶二年、泗城の蛮族黄豹・黄豸らが貴州程番府の麻向・大華などの司を占拠し、しばしば出没して掠奪を行ったため、官軍がこれを討伐し、豹らは逃走した。
万暦二年、泗城の土官岑承勛らが馬及び香炉などを貢ぐ。四十一年、土官岑雲漢が方物を貢ぐ。初め、雲漢は紹勛の嫡子であったが、紹勛は庶子の雷漢を寵愛し、頭目黄瑪らがこれに加担して禍を煽り、ついに焼き討ちし兵を挙げるに至った。雲漢は母を欺いて印を出させ、弟を抱えて逃亡した。巡撫・按察使がこれを上奏した。朝廷の議は、紹勛の罪を赦して大倫を保ち、雷漢・黄瑪らを拘束して騒乱を鎮め、雲漢は寛大に処して官職を削り、罪を戴いて管事させることを請うた。詔してこれを認める。天啓二年、巡撫何士晋が雲漢の知州職を復し、都司職の官銜を若干加えて、土兵を率いて貴州を救援させることを請うた。これに従う。
泗城は広大に延び広がり、兵力も強く、慶遠の諸州と互いに勢力を争った。その悪行は豹から応、接へと三代にわたって続いた。県を一つ領し、程県という。長官司を二つ領し、安隆及び上林という。
程県は泗城州の東北にあり、旧号は程醜荘という。明初に帰順し、泗城州に隷属した。洪武二十一年に県に改められ、編戸一里を置く。後に慶遠府に改属し、まもなく再び泗城州に隷属し、流官の知県を設置した。正統年間、岑豹に逼迫され、官を棄てて遁走し、典史が印を預かったが、やがてこれもまた害に遭った。豹は遂にその印を奪い、県治を占拠した。事が上聞され、たびたび官を遣わしてこれを諭したが、岑応・岑接の代を通じて凡そ七十余年、服従しなかった。嘉靖二年、接が諸土官に攻め殺されると、督府が官を遣わして審問し、県印を回収して官庫に収めた。後には荒れた土地のみが残った。泗城・南丹・那地はいずれもこれを得ようとし、時に兵を治めて互いに攻撃したという。
安隆長官司は、東は泗城に接し、西は雲南に接し、南は上林長官司に接し、北は貴州宣慰司に接する。元の泗城州の地である。洪武元年、泗城州の土官岑善忠が次男の子得に安隆峒を領させた。三十年、子得が来朝し、馬を貢ぐ。治所を設置する。永楽元年に安隆長官司を設置し、子得を長官としてその民衆を撫育させた。十二年、馬を貢ぎ、鈔幣を賜り、世襲を許された。
上林長官司は、東北はともに泗城の境に接し、西は安隆長官司に接し、南は雲南に接する。宋・元の代は上林峒と号し、泗城州に属した。明興びてこれを因襲した。永楽年間に実際に長官司を設置し、泗城州の土官岑善忠の三男子成を長官としてその民を撫育させた。永楽四年、子成が子の保を遣わして方物を貢ぎ、鈔幣を賜り、これより後は貢賜が絶えなかった。成化元年、泗城の岑豹が上林を攻撃掠奪し、長官の誌威を殺し、その一族を滅ぼし、印を奪い、その境土を占拠した。兵部が文書を移して豹の罪を議し、依然として地と印を上林に給することを定めた。弘治三年、上林長官司が頭目を遣わして入貢したが、礼部が期限を過ぎて到着したとして、半賞を与えた。まもなく泗城の岑応が再び上林長官司を奪い占拠したが、正徳・嘉靖・隆慶・万暦の間も朝貢は時折届いた。
利州は、漢代は交阯に属し、阪麗荘と号した。宋が利州を建て、横山寨に隷属させ、元もこれを因襲した。土官も岑姓で、洪武初年に帰順した。知州を授け、流官の吏目を補佐とし、直隷布政司に属した。宣徳二年、利州知州岑顔が頭目羅向を遣わして馬を貢ぐ。正統元年、泗城の岑豹が利州の地を侵し占拠し、併せて顔の妻子と財物を掠奪した。総兵官山雲がこれを上奏し、帝は鎮守・巡按官にこれを撫諭するよう命じた。四年、顔が族人岑忻を遣わして銀器と方物を貢ぐ。五年、顔が上奏して言うには、「本州の地二十五甲を、豹が兵を興して攻め占領し、母の覃は囚われ、妻子と財物は掠奪され、累次勅を奉じて撫諭したが、猖獗として服従しない」。帝は行人黄恕・朱升を遣わし勅を下して豹を諭した。事は前伝に詳しい。七年、豹が再び顔と相仇殺し、帝は総兵官呉亮に恩威を宣布させ、双方に兵を罷めさせたが、豹はついに顔とその子得を殺し、州印を奪って去った。そこで流官の判官に州事を執らせた。数十年の間、たびたび諸司が勘奏し、檄を移して督追したが、岑応・岑接の二代を通じて依然として元のままだった。嘉靖二年、泗城に帰併された。
龍州は、古くは百粤の地である。漢代は交阯に属した。宋が龍州を設置し、太平寨に隷属させた。元の大徳年間、州を昇格して万戸府とした。洪武二年、龍州の土官趙帖堅が使者を遣わし表を奉り、方物を貢ぐ。詔して帖堅を龍州知州とし、世襲を許す。八年、広西布政司に改属させた。時に帖堅が言うには、「地は交阯に臨み、守る関隘二十七ヶ所あり、急報があれば太平に申報し、総司に達する必要があるが、返報が下るまでには既に旬月を経て、事機を誤る恐れがある。奉議・泗城の二州の例に倣い、広西に隷属させるのが便宜である」。これに従う。十六年、帖堅は孝慈皇后の喪に際し、慰問の表を上し、馬及び方物を貢ぎ、綺帛・鈔錠を差等を付けて賜う。
二十一年、帖堅が病み、子がなく、その従子の宗寿に代わって州事を署理させた。帖堅が卒すると、宗寿が襲職した。鄭国公常茂が罪により龍州に謫居した。帖堅の妻黄氏に二人の娘があり、一人は太平州の土官李円泰の妻となり、茂はもう一人を妾とした。時に宗寿は襲職したが、帖堅の妻は依然として土官の印を保持し、茂・円泰とともに州事を専断し、しばしば宗寿を陵逼した。ちょうど茂が病没すると、その閽者の趙観海らもまた宗寿を侮るに至った。宗寿はそこで把事らと謀り、計略をもって土官の印を奪い取り、上奏して茂は既に死んだと述べ、併せて観海らを械にかけて京師に送った。ここにおいて帖堅の妻は恐れおののき、人を遣わして宗寿が掠奪したと告発し、また円泰と謀って茂の妾とその奴婢を劫略して太平州に赴き、また趙氏の祖父以来の官誥などの物をことごとく掠奪し、さらに龍州の地をも併せ取ろうとした。そこで自ら京師に至り、宗寿は実は従子であって襲職すべきでないと告発し、宗寿もまた上章して状況を述べた。帝はそこで詔して宗寿を問わず、吏に帖堅の妻と円泰の罪を議させたが、後に遠方の蛮族であるとしてともにこれを釈放した。
久しくして、またある者が茂が龍州に匿われて死んでおらず、以前宗寿が言ったことは全て虚妄であると告発した。そこで詔して右軍都督府に宗寿及び龍州の官民に榜諭させ、言うには、「昔、鄭国公常茂に罪があり、上は開平王の功績を重んじ、急に法に置くに忍びず、龍州に安置した。土官趙帖堅が没すると、その妻が茂と婚姻を結び、諸蛮を誘い合わせ、ほしいままに道に背く行為を行った。帖堅の甥宗寿が襲職し、黄氏と互いに告訴し合い、茂は既に死んだと述べた。上は功臣の子であることを憫み、二人の告訴の罪を赦した。今、ある者が言うには茂は実は死んでおらず、宗寿らはその状況を知っているという。既に散騎舎人を遣わし宗寿に茂を捕らえるよう諭したが、使者を引き延ばして久しく復命せず、その意図は測りがたい。特に命じて爾ら宗寿らに榜諭して知らしめる。もし茂が果たして生存しているならば、京師に送致して罪を贖わせよ。もし茂が果たして死んでいるならば、宗寿もまた自ら大小の頭目を率いて京師に至り、その由縁を詳細に陳述すべきである」。
広西布政司が言上するには、宗寿はたびたび詔を下して京師に赴くよう命じたが、命令を拒んで出てこず、また南丹・奉議などの蛮族が教化に背いていると述べた。帝は再び致仕した兵部尚書唐鐸を派遣して宗寿を諭させたが、ついに従わなかった。詔を下して湖広・江西所属の衛所の馬歩官軍六万余りを発し、それぞれ三月分の食糧を持たせ、秋の初めにすべて広西に赴くよう期日を定めた。都督楊文に征南将軍の印を佩かせ、総兵官とし、都指揮韓観を左将軍、都督僉事宋晟を右将軍、劉真を参将とし、京衛の馬歩軍三万人を率いて広西に至り、合流して龍州及び奉議・南丹・向武などの州の叛蛮を討伐させた。軍が行くに際し、帝は文を撰して使者を遣わし、岳鎮海瀆を祭らせ、また礼部尚書任亨泰・監察御史厳震直を安南に派遣し、龍州の趙宗寿を討つ理由を諭し、陳日焜に辺境を慎んで守り、逆賊を助けず、逃亡者を受け入れぬよう命じた。人を遣わして楊文に諭し、南寧衛の兵千人を徴発させ、江陰侯呉高にこれを率いさせ、柳州衛の兵千人を徴発させ、安陸侯呉傑にこれを率いさせ、皆に功を立てて自ら罪を贖うよう命じた。また楊文らに詔を下し、もし兵が龍州に至り、宗寿が自ら来て会い、趙茂が既に死んだ経緯を詳しく陳述すれば、その罪を赦すと伝えよ。もし偽って人を遣わして来たならば、進軍してこれを討てと。既にして、唐鐸が京師に戻り、宗寿が罪に伏して来朝し、兵を罷めて征伐しないよう乞うたと述べた。詔を下して楊文に奉議へ軍を移させ、なお唐鐸を軍中に派遣して軍事に参与させた。宗寿は耆民の農裏ら六十九人とともに来朝して罪を謝し、地方の産物を貢いだ。
宗寿が死に、子の景升が襲封した。景升が死に、後継者がいなかったので、叔父の仁政が襲封した。仁政から二代を経て趙源となり、源が死に子がなかった。思恩の土官岑浚が兵を率いて田州を攻めて帰る途中、龍州を襲撃し、その印を奪い、故知府源の妻岑氏を娶った。詔を下して鎮巡官に賊を剿滅させ、また源の後継者を立てることを議させた。源の庶兄の趙浦に二人の子があり、趙相が年長で当に立つべきであった。相の弟の趙楷は望みを抱かぬわけにはいかず、岑氏と謀り、下僕の韋隊の子である韋璋を遺腹の子と偽って称えた。岑氏は兄の子の岑猛がちょうど兵力に雄であるのを恃み、趙楷は遂に上奏して言うには、韋璋は実は源の子であり、当に立つべきであるが、趙相に簒奪されたと。事は督府に下って調査されたが、決着しなかった。韋璋は鎮守太監傅倫の舎人に賄賂を贈り、偽って詔があると称し、檄を飛ばして岑猛に二万の兵を調達させ、韋璋を龍州に入れた。左江は大いに震動し、趙相は印を持って況村に奔った。都御史楊旦が韋璋を討伐し、岑猛がこれを殺したので、趙相はようやく帰還した。趙相に二人の子があり、長子は趙燧、次子は趙宝であった。趙相は枝指であり、趙宝もまた枝指であったので、趙相はひどくこれを愛し、「私に似ているから立つべきである」と言った。岑猛はそこで趙宝を連れ去り、髪を剃って奴隷とした。
嘉靖元年、趙相が死に、州人は趙燧を立てた。趙楷がこれを弑し、州人はその族弟の趙暖を立てた。時に王守仁が両広を提督し、幕客の岑伯高が権勢を振るっていた。趙楷は岑伯高に賄賂を贈り、趙暖は趙氏の子孫ではなく、当に立つべきは趙楷であると述べさせた。上思州知州の黄熊兆を派遣してこれを調査させた。熊兆は伯高に与し、趙楷が当に立つべきであると言い、州の印を趙楷に与えた。趙楷は遂に趙暖を殺し、龍州は大いに乱れた。州の目把の黄安らは密かに田州へ赴き趙宝を買い求めた。趙宝は当時、奴隷として楊布の家に十三年いたので、黄安らは百金を費やしてこれを買い得た。督府にこれを報告すると、都御史林富は趙楷の勢力が既に伸長しているとして、急いで対峙すべきでないと言い、そこで趙楷に職務を代行させ、趙宝が成長するのを待って譲らせることにした。趙楷は戻ると、たびたび趙宝を謀殺しようとした。林富は趙楷を諭し、印を趙宝に返すよう命じた。趙宝は五千金で謝礼し、さらに肥沃な田三十一村を加えた。趙楷は、趙宝が弱くて容易に対処できると考え、厚利を求めて徐々に図る方が良いとして、遂に命令に従った。趙楷はまた韋璋の子の韋応を求め養育し、趙宝の所へ往来させた。趙宝の妻の黄氏は、思明府の土官黄朝の娘であったが、趙宝に背き韋応と通じた。韋応はそこで州の目把らと厚く結び、またたびたび人を遣わして向武州と友好を結び、兵を乞うて護衛とした。趙宝は日々に荒淫で悍ましく、狡知な男子の王良を宮刑にして門番とした。趙楷は王良が趙宝を恨んでいることを知り、内応するよう煽ったので、王良はこれを承諾した。趙楷は千人を率いて夜に趙宝の寝所の門に至り王良を呼ぶと、王良が門を開いて趙楷の兵を入れ、趙宝を寝所で捕らえ、これを斬り、他の盗賊の仕業として報告した。韋応は千人ほどの兵で州を占拠し、併せて黄朝と結んで自らを援護した。
都御史蔡経は副使翁万達に命じてこれを謀らせた。万達は、趙楷は狡猾で詐りに長いので、速やかに図ることはできないと言った。韋応は愚かで思慮が浅いので、旦夕のうちに擒らえることができ、その中堅を断てば、その後順次に捕らえることができると述べ、督撫はこれを良しとした。万達が行部して太平に至ると、人を遣わして別件で黄朝を召し出し、計略を諭し、韋応は当に死すべきであると論じ、趙楷は才勇があるので、正に龍州の一面を担当させるのに藉りるべきであると言った。時に趙楷のことを言う者は、故意に取り合わなかったので、州人は大いに騒いだ。万達はますます趙楷を厚遇し、趙楷はこれを信じ、遂に精兵千人を統率して万達のもとに至り状況を述べ、併せて三十一村の地を献上した。万達は趙楷及び州の目把の鄧瑀らを召し入れて会見し、壮士を伏せてこれを脅し、「汝の罪は大きい、自ら計らうべきである。誠に死ねば、なお汝の子のために一官を留めることができる」と言った。趙楷は自ら生きる道はないと悟り、そこで手紙を書いてその党に諭して言うには、「既にこのようになった以上、乱を起こしても益はない、我が子を善く補佐して趙氏を存続させよ」と。万達は直ちに趙楷を杖打ち、これを打ち殺し、趙楷の書状をもってその州人を諭した。時に趙楷の子の匡時は生後四年であったので、これを立てると、一州はすべて平定した。そこで十三村を龍州に返還し、十八村を崇善県に隷属させ、ここにおいて龍州の趙氏はなおも襲封を得た。
帰順州は、旧くは峒であり、鎮安府に隷属していた。永楽年間、鎮安知府の岑誌綱がその第二子の岑永綱に分けて峒の事務を領させ、子の岑瑛に伝え、たびたび兵を率いて報効した。弘治九年、総督の鄧廷瓚が言上するには、「鎮安府の帰順峒は、旧くは州の治所であり、洪武初年に裁革された。今その峒主の岑瑛はたびたび官のために労を効している。州治を設け、土官知州を授けることを乞う。出兵する時は常に土兵五千を備えさせ、なお毎年土兵二千を率いて梧州に赴き調遣を受けるようにせよ」と。詔はこれに従い、流官の吏目一員を増設した。岑瑛が死に、子の岑璋が襲封した。また岑璋の上奏に従い、本州を布政司に改めて隷属させた。
岑璋は智略に富んでいた。田州の岑猛は不法により譴責を受け、都御史の姚鏌が兵を挙げてこれを討伐しようとした。岑璋は岑猛の妻の父であった。姚鏌は岑璋が岑猛に与することを憂慮し、都指揮の沈希儀を召して謀った。希儀は平素から岑璋の娘が寵を失い、岑猛を恨んでいることを知っており、また部下の千戸の趙臣が平素から岑璋と親善であることを知っていた。希儀はそこで趙臣を使い、岑璋に岑猛を図るよう言わせると、岑璋は命令を受けた。時に岑猛の子の邦彦が工堯隘を守っていた。岑璋は偽って兵千人を派遣して邦彦を助け、「天兵が至れば、姻党の故に、かつて爾とともに禍を受けることになろう。今精兵を発するのは、幸いに努力して堅く守れ」と言った。邦彦は喜んでこれを受け入れた。岑璋は人を遣わして希儀に報告して言うには、「謹んで千人をもって内応します」と。時に田州兵は必死で防戦し、諸将で隘を担当するのを利とする者はいなかったが、希儀のみが兵を率いてこれを担当した。三合戦うことを約し、帰順兵が大呼して「敗れた!」と言うと、田州兵は驚いて潰走し、希儀は兵を指揮してこれに乗じ、数千級を斬首し、邦彦はそこで死んだ。岑猛は敗報を聞き、自ら縊死しようとした。しかし岑璋は先に別館を築き、人を遣わして岑猛を請うていた。時に岑猛は慌てふためいてどうすべきか分からず、遂に印を持って岑璋に従い、帰順へ走らせた。岑璋は偽って岑猛のために奏文を草し、岑猛に促して印を出させて実封した。岑璋は既に岑猛の印の所在を知ると、そこで岑猛を毒殺し、その首を斬り、併せて府の印を函に入れ、間道を馳せて軍門に至った。讒言によって阻まれ、ついに功績として論じられなかった。
岑璋が死に、次子の岑瓛が襲封した。嘉靖四年、提督の盛応期は、岑瓛が先に岑猛を助けて逆に泗城を攻撃したが、自ら新たにすることを許し、賊を討伐して出兵し自ら罪を贖わせた。これに従った。十四年、四州の盧蘇が叛き、岑瓛を糾合して鎮安府を攻撃した。岑瓛は鎮安を破り、併せて岑真宝の父母の墳墓を暴いた。事が聞こえると、冠帯を剥奪し、功を立てて罪を贖うことを許した。岑瓛は後に交阯征伐に従い、軍中で卒した。子の岑代が襲封し、万暦年間に貢馬の期限に違反したため、半額の賞賜を与えられた。
向武州は、宋代に設置され、横山寨に隷属した。元代には田州路に隷した。その境界は東北は田州に至り、西は鎮安に至り、南は鎮遠に至る。洪武二年七月、土官の黄世鉄が使者を遣わして馬及び方物を貢献した。詔して世鉄を向武州知州とし、世襲を許した。二十一年、広西布政司が言うには、向武州の叛蛮が教化に背いている。時に都督楊文が征南将軍の印を佩び、龍州・奉議等の処を討ち、また命を受けて軍を向武に移した。文は右副将軍韓観に調を分けて進め都康・向武・富労の諸州県を討たせ、世鉄を斬った。兵部尚書唐鐸の言により、向武州守禦千戸所を置いた。
永楽二年、土官知州黄彧が頭目羅以得を遣わして馬を貢ぎ、鈔幣を賜った。宣徳四年、故土官知州黄謙昌の子宗蔭が馬を貢ぎ、鈔を賜った。嘉靖四年、田州の岑猛が叛き、向武の土官が兵をもって猛を助けた。提督盛応期が大征を議し、向武に檄を飛ばして出兵して賊を討たせ、功をもって罪を贖わせた。十六年、田州の盧蘇が叛き、鎮安の土官岑真宝が兵をもって岑邦佐を迎え入れ、蘇は向武に援助を求めた。時に土官黄仲金は真宝を怨み、遂に合兵して鎮安を破った。事が聞こえ、仲金の冠帯を革めた。二十七年、仲金が調に応じて労があったため、詔して原職を承襲することを許し、京に赴くことを免じた。四十二年、また瑶寇を剿平した功により、仲金に四品の服を加えた。
向武は一県を領し、富労と曰い、元代に置かれた。洪武年間、蛮僚に占拠された。建文時に再び置き、仍って向武州に隷した。永楽初め、武林を省いてこれに併せた。土官もまた黄氏が世襲した。
奉議州は、宋代に設置された。初め静江軍に属し、後に広西経略安撫司に属した。元代は広西両江道宣慰司に属した。洪武初め、土官黄誌威は旧より田州府総管であり、帰順した。二年、詔してその子世鉄を向武州知州に授け、世襲させた。三年、誌威が入朝して貢献した。六年、奉議等の州百十七箇所の人民を招撫し、皆が服した。帝は誌威の功を嘉し、安州・侯州・陽県をこれに属させることを命じた。七年、誌威を奉議州知州兼守禦とし、直隷広西行省とした。二十六年、奉議州知州黄嗣隆が人を遣わして馬及び方物を貢ぎ、鈔錠を賜った。
二十八年、広西布政司が言うには、奉議・南丹等の処の蛮人が教化に背いている。時に都督楊文が龍州を討ち、罪に伏したが、帝は兵を奉議に移して賊を剿討することを命じ、使者を遣わして文等に諭した、「近く聞くに、奉議・両江の溪峒等の処は、林木陰翳し、蛇虺毒を草莽の中に遺し、雨過ぎて、毒を溪澗に流し、これを飲めば人をして死なしむ。師その地に入り、行営駐劄するに、山溪の水泉を飲むことなかれ、恐らく余毒人を傷わん。宜しく井を鑿ちて以て飲むべし、爾等其れ慎んでこれを察せよ。」文は広西都司及び護衛の官軍二万人を発し、田州・泗城等の土兵三万八千九百人を調して従征させた。師は奉議州に至り、蛮寇は官軍の至るを聞き、悉く山林に竄入し、険に拠りて自ら固めた。文は諸将を督して兵を分けてこれを捕え、また参将劉真等を調して兵を領し分道して南丹の叛寇を攻めさせた。初め、文等は師を奉議州の東南に駐め、兵を分けて賊党を追捕し、かつ人を遣わしてその脅従者を招降した。賊は皆廬舎を焚き、山谷に走り、険阻に憑りて柵を立て自ら固めた。文は将士を督して屡々これを攻破し、賊衆は潰散した。左副将軍韓観等は遂に兵を分けて都康・向武・富労・上林の諸州県を追討し、その更吾・蓮花・大藤峡等の寨を破り、向武の土官黄世鉄並びにその党一万八千三百余人を斬り、蛮民で復業する者六百四十八戸を招降し、象州武山県に徙置し、蛮寇は遂に平らげられた。時に兵部尚書致仕の唐鐸が軍事に参議し、朝廷が嘗て征剿畢日のち、衛を置いてこれを守らしむることを命じた。乃ち諸将と会して形勢を相度し、奉議等の衛並びに向武・河池・懐集・武仙・賀県等の処の守禦千戸所を置き、官軍を設けて鎮守させた。詔してその言に従った。
宣徳二年、州事を署する土官黄宗蔭が頭目を遣わして馬を貢いだ。正統五年、宗蔭が科斂劫殺し、甚だしきはその母を害さんと欲した。母はこれを避け、母の侍者を殺して怒りを泄らし、母によって告発された。僉事鄧義がその事を奏し、帝は総兵官柳溥及び三司に命じて按験して奏聞させた。嘉靖四年、田州の岑猛が叛き、奉議の土官が嘗て猛を助けて泗城州を攻めた。ここに至り提督盛応期が言うには、その自新を許し、出兵して賊を討たせ、功をもって罪を贖わせた。後に土官知州が死ぬと、皆土判官をもって州事を掌らせた。論ずる者は奉議を弾丸の地とし、三面田州に交迫され、独り南界は鎮安のみで、その勢い甚だ蹙っているという。明初に衛を置き、官を銓するは宋・元の故事の如く、蓋し田州と鎮安とを中断し、以てその謀を伐たんと欲したのである。
江州の境界は、東は忠州に至り、西は龍州に至り、南は思明に至り、北は太平府に至る。その州は宋代に設置され、古万寨に隷した。元代は思明路に属した。明初、土官黄威慶が帰順した。世襲の知州を授け、流官の吏目を設けてこれを補佐させ、直隷布政司とした。嘉靖四十二年、瑶・僮を平定した功により、江州の土官の子黄恩が暫く本職を署することを準じた。一県を領し、羅白と曰う。洪武初め、土官梁敬賓が帰順し、世襲の知県を授かった。敬賓が死に、子の復昌が襲った。永楽年間、交阯に従征して陥落し、子の福裏が襲った。
思陵州は、宋代に設置され、永平寨に属した。元代は思明路に属した。洪武初め、省いて思明府に併せた。二十一年、再び思陵州を置いた。二十七年、土官韋延寿が馬及び方物を貢いだ。宣徳四年、印を護る土官韋昌が来朝し、馬を貢ぎ、鈔幣を賜った。正統年間、貢賜は制の如くであった。その境界は東は忠州に至り、西北は思明に至り、南は交阯に至る。
瓊州は、環海中に居する。漢の武帝が南粤を平らげ、始めて珠崖・儋耳の二郡を置いた。晋・隋・唐・宋を歴て叛服一ならず、事は前史に具わる。元代は改めて瓊州路を置き、海北海南道宣慰司に属した。天暦初め、乾寧軍民安撫司と改めた。洪武元年、征南将軍廖永忠が広東を平らげ、乾寧安撫司を瓊州府と改め、崖州吉陽軍・儋州万安軍を俱に州とし、南建州を定安県としてこれに隷せしめた。
六年、儋州宜倫県の民陳昆六等が乱を起こし、州城を攻め陥とした。広東指揮使司が奏言した、「近く儋州の山賊乱し、已に兵を調べて剿討した。その儋・万の二州は、山深く地曠らかで、宜しく兵衛を設けてこれを鎮むべし。」詔して儋・万の二州守禦千戸所を置いた。七年、儋州の黎人符均勝等が乱を起こし、海南衛指揮張仁が兵を率いて討ち平らげた。また海南の羅屯等洞の黎人が乱を起こし、千戸周旺等が討ち平らげた。澄邁県の賊王官舎が乱を起こし、典史彭禎が民兵を領して捕斬した。十五年、万・崖の二州の民陳鼎叔等が乱を起こし、陵水県を陥としたが、海南衛の官軍に撃敗され、藤橋に追い至り、鼎叔等三百余人を斬り、余党悉く平らげられた。十七年、儋州宜倫県の黎民唐那虎等が乱を起こし、海南衛指揮張信が兵を発してこれを討った。那虎及びその党鄭銀等は敗れて遁れ、信は追ってこれを擒え、京師に送った。知州魏世吉が賄を受け、銀を放ち去らせた。帝は兵部に謂って曰く、「知州は賊を捕える能わず、及び官軍の捕え至るに反ってこれを放つのか。」力士を遣わして即ちその州にて世吉を杖ち、放った者を捕えることを責めた。
永楽三年、広東都司が言うには、「瓊州所属の七県八洞の生黎八千五百人、崖州抱有等十八村一千余戸は、皆すでに教化に帰したが、ただ羅活諸洞の生黎はまだ帰附していない。」帝は通判劉銘に命じて勅を携えさせてこれを撫諭させた。御史汪俊民が言うには、「瓊州は周囲皆海であり、中に大・小五指、黎母等の山があり、皆生熟黎人の居住地である。近年軍民で黎洞に逃げ込む者がおり、甚だしきは生黎を誘引して、住民を侵擾する。朝廷はたびたび招諭の使者を遣わしたが、黎の性質は頑固で残忍であり、信従する様子が見られない。また山水は険悪で、風気も異なり、その瘴毒に罹れば、全活できる者は稀である。近く宜倫県の熟黎峒首王賢祐を訪ねたところ、かつて命を受けて黎民を招諭し、帰化する者が多かった。請う、なお賢祐に詔を下し、官職を適宜授け、未服の者を招諭させ、諸峒を戒め約束させて、逃亡者を受け入れさせないようにせよ。その熟黎については産物に応じて納税させ、全ての徭役を免除せよ。その生黎で帰化する者は三年間免税とせよ。峒首については招いた民の数の多少に応じて職を授けよ。このようにすれば、おそらく黎人は順服するであろう。」これに従った。知県潘隆本を遣わして勅を携えさせて撫諭させた。
四年、瓊州属県の生黎峒首羅顕・許誌広・陳忠等三十三人が来朝した。初め生黎の多くが教化に帰していなかったため、劉銘を遣わして招撫した。この時までに教化に帰した者は一万余戸に及び、羅顕等は劉銘に従って来朝し、かつ劉銘にその衆を撫することを乞うた。帝はついに劉銘を瓊州知府に任じ、専ら黎撫を職務とさせ、なお羅顕等を知県・県丞・巡検等の官に任じ、冠帯と鈔幣を賜って帰還させた。ここに至って諸黎は感悦し、相次いで来帰した。瓊山・臨高等県の生黎峒首王罰・鐘異・王琳等が来朝し、主簿・巡検に任じた。六年、劉銘はまた土黎峒首王賢祐・王恵・王存礼等を率いて来朝し、馬を貢いだ。賢祐を儋州同知に、王恵・王存礼を万寧県主簿に任じた。八年、文昌県斬脚寨の黎首周振生等が来帰し、鈔幣を賜い、なお諸峒を招くために往かせた。九年、臨高県典史王寄扶が命を受けて招き至らせた生黎二千余戸があり、また峒首王乃等を来朝させた。寄扶を県主簿に任じ、かつ王乃等に鈔を賜った。十一年、瓊山県東洋都の民周孔洙が包黎等村の黎人王観巧等二百三十戸を招諭し、籍に附して民となることを願った。これに従った。臨高の民黄茂が命を受けて深峒・那呆等二十四峒の生黎を招撫し、黎首王聚・符喜等を率いて来朝し馬を貢ぎ、黎民で来帰した者は四百戸余りであった。前後で撫した諸黎を総計すると、合わせて千六百七十箇所、戸三万有余りであり、これらは皆もと朝廷の謀略によるものである。
十四年、王賢祐が生黎峒首王撒・黎仏金等を率いて来朝貢献し、帝はこれを嘉して受け入れた。礼部に命じて言うには、「黎人は遠く海南にあり、義を慕って来帰する。もし朝貢が頻繁であれば、慰撫の意ではない。今後生黎の土官・峒首は皆三年に一度の貢とし、これを令として定めよ。」十六年、感恩土知県楼吉祿が峒首を率いて馬を貢いだ。十九年、寧遠土県丞邢京が峒首羅淋を率いて朝貢した。時に崖州の民が私怨をもって互いに戦闘し、衛将は漁利を得ようと欲し、兵を発してこれを剿討しようとした。瓊州知州王伯貞がこれに反対し、言うには、「彼らは自ら仇殺しているだけであって、城邑を寇略し良民を殺害するような悪事はなく、官軍を煩わすに足りない。」衛将は従わず、伯貞は寧遠県丞黄童を遣わして視察させた。果たして仇殺であり、数人を逮捕処罰すると、黎人はついに安堵した。
宣徳元年、楽会土主簿王存礼等が黎首黎寧及び万州の黎民張初等を遣わして来貢し、帝は尚書胡濙に言うには、「黎人は海島に居住し、礼儀を知らず、叛服常ならず。かつては専ら官を設けて撫綏した。今来朝したならば、賞賜を加えるべきである。」九月、澄邁県の黎王観珠・瓊山県の黎王観政等が衆を集めて瓊山土知県許誌広を殺し、郷村を流劫し、人畜を殺掠した。広東三司に命じて実情を調査討伐させた。二年、指揮王瑀等が黎賊を追捕し、兵は金鶏嶺に至り、賊は衆を率いて敵対したが、これを撃破し、賊首王観政及び従賊二百六十二人を生け捕りにし、二百六十七級を斬首した。残党は潰走し、山中に奔り入った。招撫して復業した黎は八百十二戸であり、捷報を奏聞し、観政等を械送して京師に至らせた。帝は尚書蹇義に言うには、「蛮の性質は馴らし難いとはいえ、変乱に至るには必ず何か刺激があるはずである。撫黎諸官を厳しく戒め、寛大にこれを統御すべきである。もし事を生じて変乱を刺激すれば、国には常刑がある。」
正統九年、崖州守禦千戸陳政は黎賊が出没すると聞き、副千戸洪瑜とともに軍を率いて賊を捜索捕獲しようとしたが、かえって熟黎の村を包囲した。黎首が出て会見すると、陳政等はすぐにこれを殺した。また軍旗孫得等十五人に命じてその廬舎を焼き、その妻子数人を殺し、その財物を掠奪した。各黎は激怒して変乱を起こし、陳政及び官軍百人は皆殺害された。巡按御史趙忠がこれを奏聞し、洪瑜は変乱を刺激した律により斬刑に処せられた。
景泰三年、万州判官王琥に勅して言うには、「そなたの祖父が能く黎人を招撫したゆえ、特に土官を授けた。そなたも父の志を継承し、すでに数年を経ている。ここに特に勅を降してそなたに付し、管轄する村峒の黎人を撫諭し、各々生業に安んじ、別の峒の生黎の行いを模倣してはならない。その官軍もまた勝手に村峒に入り、擾害して変乱を刺激してはならない。」
天順五年、両広巡撫葉盛に勅し、海南の賊五百余が城池を占拠しているので、速やかに瓊州に馳せ至り、機に応じて撫捕し、蔓延させないようにせよ。
弘治二年、崖州故土官陳迪の孫、冠帯舎人陳崇祐が朝貢した。その能く黎人の逃亡者を復業させる者を撫することを厚く賜った。十五年、黎賊符南蛇が反乱し、鎮兵がこれを討ったが、平定できなかった。戸部主事馮颙が上奏して言うには、「府治は大海の南にある。五指山峒があり、黎人が雑居する。外に三州・十県・一衛・十一所がある。永楽年間、土官州県を置いてこれを統治し、黎民は以前のように安堵していた。成化年間、黎人が乱を起こし、三度征討した。将領が功を貪り、無辜を殺戮した。弘治年間に至り、知府張桓・余浚が貪残で苛斂を行い、大いに黎人の心を失い、今日の南蛇の禍を醸成した。臣はもと土人であり、事勢をよく知っている。請う、なお元来設置された応襲土官の子舎を調査し、各々土兵を集めさせれば、数万を得ることができ、鎮巡官の節制に従わせよ。首悪符南蛇を擒らえることのできる者があれば、その祖職を復させる。蛮をもって蛮を攻めれば、数ヶ月で功績を奏上できるであろう。」詔してこれに従った。
嘉靖十九年、総督蔡経は崖・万二州の黎岐が叛乱し、城邑を攻め逼っていることを以て、参将一員を設け、瓊州に駐劄して分守させることを請うた。二十八年、崖州の賊首那燕等が衆四千人を集めて乱を起こし、詔して両広官軍九千を発してこれを剿討させた。給事鄭廷鵠が言うには、
瓊州の諸黎は山峒に盤居し、州県はかえってその外を環繞している。その地勢は彼高くして我低く、その土壌は彼膏腴にして我鹹鹵、その形勢は彼集まりて我散ず。故に郡を開いて以来千六百余年、黎の害に遭わぬ年はないが、今日ほど甚だしいことはなかった。今日の黎患は、九千の兵では処理できず、必ず狼土官兵を添調し、兼ねて打手を召募し、数万の衆を集め、一気に四面から攻撃して、はじめてこれを克服できるであろう。
かつて黎の患を剿除することを考うるに、その大挙は二つあり。元の至元辛卯(1291年)には、その穴を空しくし、五指山に石を勒した。その時は屯田府を建て、定安・会同の二県を立てたが、惜しむらくはその経略尽きず、故に得たる所旋ため失う。嘉靖庚子(1540年)には、また大いに師徒を渡し、巣岡を攻毀し、至らざる処なし。ここにおいて議する者、徳霞の地勢平衍なるを以て、城を建て邑を立て、新民を招きて耕守せしめんと擬す。業に行われんとし、中道にして廃し、旋ため賊の資と為り、以て復た今日あるに至る。謹んで三事を条す。
一、崖黎は三面郡県に接し、惟だ東面は郎温・嶺脚の二峒岐賊に連なり、実に万州陵水の衝に当たる。崖賊攻撃を受くれば、必ず二峒を借りて東より訌れ、以て我が兵勢を分かたんとす。計らく須らく先ず奇兵を分かちて二峒を攻め、大兵を以て径ちに崖賊を搗くべし。彼此自救に暇あらず、相い顧みる能わず、則ち殲滅期して待つべし。伝聞するに賊首那燕はすでに凡陽に入り岐賊を構集すと。これは必ず多方我を誤らしめ、且つ訛言を以て揺惑し、諸部の逆を助くる心を堅くせんとす。宜しく慰安を開示し、以て狐疑の党を解くべし。
一、隋・唐の郡県は、輿図に考うべく、今多く黎中に陥入す。蕩平の後は悉く恢復すべく、併せて徳霞・千家・羅活等の膏腴の地を尽く州県に還し、屯田を設立し、且つ耕し且つ守るべし。なお羅活・磨斬より路を開き、以て定安に達し、徳霞より溪水に沿いて以て昌化に達すべし。道路四達し、井邑相い望み、徒に奸を懾し萌を銷すのみならず、王路益々開拓せん。
一、軍威既に振るう、宜しく参将府を徳霞に建て、各州県に便宜行事を許し、以て人心を鎮安すべし。その新附の民の中に異志ある者は、或いはこれを海北地方に遷して屯田せしめ、或いは附近の衛所の戎籍に編入し、漢の潳山蛮を徙す故事の如くすべし。また仁明慈恵の長を択び、久任して安輯すれば、則ち瓊人は万世の利を受くべし。
疏を下して兵部に議せしむ。詔して悉く行うを允す。
二十九年、総兵官陳圭・総督欧陽必進等、兵を督して進剿し、賊五千三百八十級を斬り、一千四十九人を俘え、牛羊器械はこれに倍し、三百七十六人を招撫す。捷聞す。帝その功を嘉し、圭・必進に禄米蔭襲を賜うこと差あり。
万暦十四年、長田峒の黎出でて掠め、兵備道兵を遣わしてこれを執戮す。草子坡の諸黎衆を召して来たり報復し、長沙営に戦い、黎首百余級を斬る。ここにおいて黄村・田尾の諸峒の黎皆出でて降る。
瓊州の黎人は、五指山中に居る者を生黎と為し、州人と交わらず。その外を熟黎と為し、州地に雑耕す。元の姓は黎、後に多く王及び符と為す。熟黎の産は、半ば湖広・福建の奸民亡命、及び南・恩・藤・梧・高・化の征夫、その土を利し、占居し、各々酋首と称す。成化間、副使塗棐計を設けて犁掃し、漸く編差に就く。弘治間、符南蛇の乱、郡を連ねて震驚す。その小醜侵突、時にして息むこと無しという。