明史

列傳第二百〇七 廣西土司三

列傳第二百〇七 廣西土司三

原文列傳第二百〇七 廣西土司三

◎廣西土司三

原文◎廣西土司三

○泗城州、利州、龍州、歸順州、向武州、奉議州、江州、思陵州(廣東瓊州府附)

原文○泗城利州龍州歸順向武奉議江州思陵(廣東瓊州府附)

泗城州は、宋代に設置され、横山寨に隷属した。元代は田州路に属した。その境界は東は東蘭に至り、西は上林長官司に至り、南は田州に至り、北は永寧州に至る。

原文泗城州,宋置,隸橫山寨。元屬田州路。其界東抵東蘭,西抵上林長官司,南抵田州,北抵永寧州。

洪武五年、征南副将軍周徳興が泗城州を攻略し、土官岑善忠が帰順したため、世襲の知州に任じられた。十三年、善忠の子の振が乱を起こし、利州を寇掠したが、広西都司が討伐して平定した。十四年、善忠が方物を貢献した。二十六年、振が人を遣わして馬及び方物を貢献し、詔により鈔錠を賜った。

原文洪武五年,征南副將軍周德興克泗城州,土官岑善忠歸附,授世襲知州。十三年,善忠子振作亂,寇利州,廣西都司討平之。十四年,善忠來貢方物。二十六年,振遣人貢馬及方物,詔賜以鈔錠。

宣徳元年、女土官盧氏が族人岑臺を遣わして馬及び銀器等の物を貢献し、差等に応じて賜与があった。八年、致仕した女土官盧氏が上奏し、襲職する土官岑豹が土兵千五百余人を率いて己を謀害しようとし、また故土官岑瑄の塑像を棄て毀ったのは不孝の所為であり、襲職を任せるのは難しいと訴えた。豹の叔父で利州知州の顔もまた、豹が兵を興して盧氏を謀殺し、州民が被害を受けたと上奏した。都督山雲が上奏した。「豹は実は故土官瑄の甥であり、人々の信服を得ており、襲職すべきである。盧氏は瑄の妻で、豹の伯母であり、初めは借襲し、今は致仕したので、終身を養うために適量の田土を割り当てるのが宜しい。なお、豹に侵掠を恣にしないよう勅を下すことを請う。」兵部は山雲の上奏に従うよう請うた。帝は行人章聡と侯琎に勅を携えさせ、山雲に三司及び巡按と会して豹と盧氏の是非を究明し、公に従って判決するよう諭させた。

原文宣德元年,女土官盧氏遣族人岑臺貢馬及銀器等物,賜賚有差。八年,致仕女土官盧氏奏,襲職土官岑豹率土兵千五百餘人謀害己,又棄毀故土官岑瑄塑像,所為不孝,難俾襲職。豹叔利州知州顏亦奏豹興兵謀殺盧氏,州民被害。都督山雲奏:「豹實故土官瑄侄,人所信服,應襲職。盧氏,瑄妻,豹伯母,初借襲,今致仕,宜量撥田土以贍終身。仍請敕豹無肆侵擾。」兵部請從雲奏。帝命行人章聰、侯琎賫敕,諭雲會三司巡按究豹與盧氏是非,從公判決。

正統元年、豹が人を遣わして入貢した。二年、豹が利州を攻撃し、その叔父顔の妻子と財物を掠奪した。朝廷の官が至って撫諭したが、固く服従せず、兵を増やして守りを拒んだ。山雲がこれを上聞し、兵を発してこれを剿滅するよう請うた。帝は山雲に勅して曰く、「蛮夷が教化に背くのは、罪は確かに容れ難いが、師を興し衆を動かすことは、事もまた容易ではない。更に人を遣わしてこれを諭せ。」五年、顔が豹の侵占及び掠擄の罪を上奏した。頭目黄祖もまた、豹がその弟を殺し、その家を没収したと上奏した。瑄の娘もまた、豹が田地人民を占奪し、その母盧氏を囚禁したと上奏した。帝は再び行人朱升と黄恕に勅を携えさせてこれを諭させ、併せて広西・貴州の総兵官に勅し、自らその地に赴き、速やかに侵掠した所を返還させ、もし服従しなければ、機を見て擒捕するよう命じた。六年、総兵官柳溥が上奏した。「行人黄恕・朱升が広西三司の委官と共に豹に、原占した利州の地を返還するよう諭したところ、豹はその時は面従したが、帰ると、占拠は元の如くであった。今、顔は利州・利甲等の荘をもって泗城・古那等の甲と交換し、利州衙門を開設したいと望んでいる。その請いに従い、附近の官軍を発して顔を送り、彼の地に赴かせて蛮民を撫治させるのが宜しい。もし豹がなおも拒逆するならば、兵を率いて剿捕すべきである。」従った。八年、豹が人を遣わして貢献し、彩幣を賜った。十年、豹が再び顔がその地を占拠していると上奏したので、帝は速やかに議処するよう命じ、因循して辺方の害を遺すことのないようにさせた。

原文正統元年,豹遣人入貢。二年,豹攻利州,掠其叔顏妻子財物。朝廷官至撫諭,負固不服,增兵拒守。雲以聞,乞發兵剿之。帝敕雲曰:「蠻夷梗化,罪固難容,然興師動眾,事亦不易,其更遣人諭之。」五年,顏奏豹侵占及掠擄罪。頭目黃祖亦奏豹殺其弟,籍其家。瑄女亦奏豹占奪田地人民,囚其母盧氏。帝復遣行人朱升、黃恕齋敕諭之,並敕廣西、貴州總兵官親詣其地,令速還所侵掠,如不服,相機擒捕。六年,總兵官柳溥奏:「行人恕、升同廣西三司委官諭豹退還原占利州地,豹時面從,及回,占如故。今顏欲以利州、利甲等莊易泗城、古那等甲,開設利州衙門,宜從其請,發附近官軍送顏赴彼撫治蠻民。倘豹仍拒逆,則率兵剿捕。」從之。八年,豹遣人奉貢,賜彩幣。十年,豹復奏顏占據其地,帝令速予議處,不可因循,貽邊方害。

成化元年、豹が衆四万を集め、上林長官司を攻撃劫掠し、土官岑誌威を殺害し、その境土を占拠した。兵部が言うには、「豹がかくも強獷である以上、兵を調発して擒捕し、明らかに典刑に正すべきである。」従った。間もなく、豹は死んだ。

原文成化元年,豹聚眾四萬,攻劫上林長官司,殺土官岑誌威,據其境土。兵部言:「豹強獷如此,宜調兵擒捕,明正典刑。」從之。未幾,豹死。

弘治三年、土官知州岑応が再び上林長官司及び貴州鎮寧等の処一十八城を占拠した。時に恩城土官岑欽が田州府を攻め奪い、知府岑溥を追放した。応は欽と与党でありながら、後にまた仇敵となり、両家の父子が互いに仇殺し合った。事が上聞され、兵部が上奏した。「欽は連年禍を構え、応はこれに与党し、また上林長官司を占拠し、流毒少なくない。今、天が禍を厭い、手を借りて相い残させているのは、実に地方の幸いである。応が占拠した隣壤及び土官の印信は数が多いので、またこれを勘断して禍の本を除き、併せて応の弟の接に侵地及び印信を返還させてから、初めて承襲を許すべきである。泗城は地広く兵多く、頭目を選び、職銜を量って授け、分轄してその勢いを殺ぐのが宜しい。」詔して総鎮官に区処させた。接が人を遣わして朝正し、彩緞鈔錠を賜った。

原文弘治三年,土官知州岑應復據上林長官司及貴州鎮寧等處一十八城。時恩城土官岑欽攻奪田州府,逐知府岑溥。應與欽黨,既復相仇,兩家父子交相仇殺。事聞,兵部奏:「欽連年構禍,而應黨之,復據上林長官司,流毒不少,今天厭禍,假手相殘,實地方之幸。應所占鄰壤及土官印信數多,亦宜勘斷,以除禍本,並令應弟接退還侵地及印信,乃許承襲。泗城地廣兵多,宜選頭目,量授職銜,分轄以殺其勢。」詔下總鎮官區處。接遣人朝正,賜彩緞鈔錠。

十年、総督鄧廷瓚が上奏した。「接は往年、都勻・府江等の処に従征して功があり、その祖父の罪を少し許し、世職を承襲させ、報効を図らせたい。」廷臣が議した。「印を劫し地を侵すのは、接の祖父の罪ではあるが、再四撫諭しても、接はこれを官に帰そうとせず、急に襲職させれば、その志は益々驕るであろう。これは土官を馭する法ではない。」

原文十年,總督鄧廷瓚奏:「接往年隨征都勻、府江等處有功,乞略其祖父罪,令承襲世職,以圖報效。」廷臣議:「劫印侵地,雖系接祖父罪,然再四撫諭,接不肯歸之於官,遽使襲職,則誌益驕,非馭土官法。」

十二年、田州の土目黄驥が乱を起こし、接を要して声援とし、男婦を殺掠し、倉庫民廬を劫焼し、また府学及び横山驛の印記を劫奪し、遂に興仁を占拠した。十四年、貴州の賊婦米魯が乱を起こし、提督王軾が接に土兵二万を率いさせて砦布河に営させたいと請うた。そこで接に勅し、自ら二ヶ月分の兵糧を準備し、期日を定めて赴調するよう命じた。

原文十二年,田州土目黃驥作亂,要接為聲援,殺掠男婦,劫燒倉庫民廬,又劫府學及橫山驛印記,遂據興仁。十四年,貴州賊婦米魯作亂,提督王軾請調接領土兵二萬營於砦布河,因敕接自備兩月餉,克期赴調。

十八年、泗城土官の族人岑九仙が上奏した。「始祖岑彭以来、世襲の土官であった。豹の子の応に至って欽の禍いに罹り、子孫滅亡殆んど尽き、その弟の接が、衆に推されて印を護り、累ねて労勚を著わした。襲職を命じ、蛮衆を掌轄させたい。」兵部尚書劉大夏等が議した。「豹は叛臣の余孽であり、子の応はまた自ら滅亡を取った。今の接という者は、人皆梁接と称して伝え、応の親枝ではなく、また岑九仙がどのような逃亡者か知れず、冒して奏擾している。臣大夏は先に両広におり、岑氏の譜を見た。岑の始祖木納罕は元の至正年間に、田州知府の祖伯顏と一時に官を受けた。今、九仙は妄りに漢の岑彭の世次を引き合いに出し、聖聴を塵瀆している。その罪を治めることを請う。その岑接が襲職すべきか否かは、前に既に鎮巡官に勘奏させており、岑九仙は蛮人であるから深く究め難いとしても、またその奸を破るために摘発すべきである。」従った。

原文十八年,泗城土官族人岑九仙奏:「自始祖岑彭以來,世襲土官。至豹子應罹欽之禍,子孫滅亡殆盡,其弟接,眾推護印,累著勞勚,乞令襲職,俾掌轄蠻眾。」兵部尚書劉大夏等議:「豹乃叛臣余孽,子應復自取滅亡。今接者,人皆傳稱為梁接,非應親枝,又不知岑九仙是何逋逃,冒為奏擾。臣大夏先在兩廣,見岑氏譜。岑之始祖木納罕於元至正年間,與田州知府之祖伯顏,一時受官。今九仙妄援漢岑彭世次,塵瀆聖聽,請治其罪。其岑接應襲與否,前已令鎮巡官勘奏,岑九仙雖蠻人難以深究,亦當摘發以破其奸。」從之。

正徳十二年、泗城及び程県が各々官族を遣わして来貢した。時期に遅れたため、賞は半減された。泗城の貢は厚かったので、なお全額を与えた。

原文正德十二年,泗城及程縣各遣官族來貢。後期,賞減半。泗城貢厚,仍全給之。

嘉靖二年、田州の岑猛が兵を率いて泗城を攻撃し、六寨を抜き、州城に迫ってこれを攻略した。接が軍門に急を告げ、猛が故なくして寨を攻めたと訴えた。猛は、接は岑氏の後裔ではなく、その祖業すでを占拠しているので、侵された地を得たいと言った。詔して勘処させた。

原文嘉靖二年,田州岑猛率兵攻泗城,拔六寨,進薄州城,克之。接告急軍門,言猛無故攻寨。猛言接非岑氏後,據其祖業,欲得所侵地。詔下勘處。

十六年、田州の盧蘇が乱を起こす。泗城の土舎岑施が兵を率いて岑邦佐を迎え入れる。兵敗れ、迎え入れることができず。二十七年、詔して土舎施に襲替を許し、京師への赴任を免じる。これはかつて調に応じて出兵し功労があったためである。隆慶二年、泗城の蛮族黄豹・黄豸らが貴州程番府の麻向・大華などの司を占拠し、しばしば出没して掠奪を行ったため、官軍がこれを討伐し、豹らは逃走した。

原文十六年,田州盧蘇作亂。泗城土舍岑施以兵納岑邦佐。兵敗,弗克納。二十七年詔土舍施襲替,免赴京,以嘗聽調有勞也。隆慶二年,泗城蠻黃豹、黃豸等據貴州程番府麻向、大華等司,時出擄掠,官軍剿之,豹等遁去。

万暦二年、泗城の土官岑承勛らが馬及び香炉などを貢ぐ。四十一年、土官岑雲漢が方物を貢ぐ。初め、雲漢は紹勛の嫡子であったが、紹勛は庶子の雷漢を寵愛し、頭目黄瑪らがこれに加担して禍を煽り、ついに焼き討ちし兵を挙げるに至った。雲漢は母を欺いて印を出させ、弟を抱えて逃亡した。巡撫・按察使がこれを上奏した。朝廷の議は、紹勛の罪を赦して大倫を保ち、雷漢・黄瑪らを拘束して騒乱を鎮め、雲漢は寛大に処して官職を削り、罪を戴いて管事させることを請うた。詔してこれを認める。天啓二年、巡撫何士晋が雲漢の知州職を復し、都司職の官銜を若干加えて、土兵を率いて貴州を救援させることを請うた。これに従う。

原文萬歷二年,泗城土官岑承勛等貢馬及香爐等物。四十一年,土官岑雲漢貢方物。初,雲漢乃紹勛嫡嗣,紹勛寵庶孽雷漢,頭目黃瑪等從中煽禍,以至焚劫稱兵。雲漢紿母出印,扶弟以奔,撫按以聞。廷議請釋紹勛罪以存大倫,權雷漢、黃瑪等以息囂孽,雲漢從寬削銜,戴罪管事。詔可。天啟二年,巡撫何士晉請復雲漢知州職,量加都司職銜,令率土兵援黔。從之。

泗城は広大に延び広がり、兵力も強く、慶遠の諸州と互いに勢力を争った。その悪行は豹から応、接へと三代にわたって続いた。県を一つ領し、程県という。長官司を二つ領し、安隆及び上林という。

原文泗城延袤頗廣,兵力亦勁,與慶遠諸州互相雄長。其流惡自豹而應而接,且三世。領縣一,曰程縣;長官司二,曰安隆,曰上林。

程県は泗城州の東北にあり、旧号は程醜荘という。明初に帰順し、泗城州に隷属した。洪武二十一年に県に改められ、編戸一里を置く。後に慶遠府に改属し、まもなく再び泗城州に隷属し、流官の知県を設置した。正統年間、岑豹に逼迫され、官を棄てて遁走し、典史が印を預かったが、やがてこれもまた害に遭った。豹は遂にその印を奪い、県治を占拠した。事が上聞され、たびたび官を遣わしてこれを諭したが、岑応・岑接の代を通じて凡そ七十余年、服従しなかった。嘉靖二年、接が諸土官に攻め殺されると、督府が官を遣わして審問し、県印を回収して官庫に収めた。後には荒れた土地のみが残った。泗城・南丹・那地はいずれもこれを得ようとし、時に兵を治めて互いに攻撃したという。

原文程縣在泗城州之東北,舊號程醜莊。明初歸附,隸泗城州。洪武二十一年改為縣,編戶一里。後改屬慶遠府,尋復隸泗城州,設流官知縣。正統間,為岑豹所逼,棄官遁去,典史攝印,旋亦罹害。豹遂奪其印,據縣治。事聞,屢遣官諭之,歷岑應、岑接凡七十餘年不服。嘉靖二年,接為諸土官攻殺,督府遣官按問,得縣印,貯於官,後僅存荒土。泗城、南丹、那地俱欲得之,時治兵相攻雲。

安隆長官司は、東は泗城に接し、西は雲南に接し、南は上林長官司に接し、北は貴州宣慰司に接する。元の泗城州の地である。洪武元年、泗城州の土官岑善忠が次男の子得に安隆峒を領させた。三十年、子得が来朝し、馬を貢ぐ。治所を設置する。永楽元年に安隆長官司を設置し、子得を長官としてその民衆を撫育させた。十二年、馬を貢ぎ、鈔幣を賜り、世襲を許された。

原文安隆長官司,東抵泗城,西抵雲南,南抵上林長官司,北抵貴州宣慰司,元泗城州地也。洪武元年,泗城州土官岑善忠以次子子得領安隆峒。三十年,子得來朝,貢馬。設治所。永樂元年設安隆長官事,以子得為長官,撫其眾。十二年貢馬,賜鈔幣,予世襲。

上林長官司は、東北はともに泗城の境に接し、西は安隆長官司に接し、南は雲南に接する。宋・元の代は上林峒と号し、泗城州に属した。明興びてこれを因襲した。永楽年間に実際に長官司を設置し、泗城州の土官岑善忠の三男子成を長官としてその民を撫育させた。永楽四年、子成が子の保を遣わして方物を貢ぎ、鈔幣を賜り、これより後は貢賜が絶えなかった。成化元年、泗城の岑豹が上林を攻撃掠奪し、長官の誌威を殺し、その一族を滅ぼし、印を奪い、その境土を占拠した。兵部が文書を移して豹の罪を議し、依然として地と印を上林に給することを定めた。弘治三年、上林長官司が頭目を遣わして入貢したが、礼部が期限を過ぎて到着したとして、半賞を与えた。まもなく泗城の岑応が再び上林長官司を奪い占拠したが、正徳・嘉靖・隆慶・万暦の間も朝貢は時折届いた。

原文上林長官司,東北俱抵泗城界,西抵安隆長官司,南抵雲南。宋、元號上林峒,屬泗城州,明興因焉。永樂實置長官司,以泗城州土官岑善忠三子子成為長官,撫其民。永樂四年,子成遣子保貢方物,賜鈔幣,自是貢賜不絕。成化元年,泗城岑豹攻劫上林,殺長官誌威,滅其族,劫印,占其境上。兵部移文議豹罪,仍以地與印給上林。弘治三年,上林長官司遣頭目入貢,禮部以過期至,給半賞。既而泗城岑應復奪據上林長官司,然正、嘉、隆、萬間朝貢猶時至。

利州は、漢代は交阯に属し、阪麗荘と号した。宋が利州を建て、横山寨に隷属させ、元もこれを因襲した。土官も岑姓で、洪武初年に帰順した。知州を授け、流官の吏目を補佐とし、直隷布政司に属した。宣徳二年、利州知州岑顔が頭目羅向を遣わして馬を貢ぐ。正統元年、泗城の岑豹が利州の地を侵し占拠し、併せて顔の妻子と財物を掠奪した。総兵官山雲がこれを上奏し、帝は鎮守・巡按官にこれを撫諭するよう命じた。四年、顔が族人岑忻を遣わして銀器と方物を貢ぐ。五年、顔が上奏して言うには、「本州の地二十五甲を、豹が兵を興して攻め占領し、母の覃は囚われ、妻子と財物は掠奪され、累次勅を奉じて撫諭したが、猖獗として服従しない」。帝は行人黄恕・朱升を遣わし勅を下して豹を諭した。事は前伝に詳しい。七年、豹が再び顔と相仇殺し、帝は総兵官呉亮に恩威を宣布させ、双方に兵を罷めさせたが、豹はついに顔とその子得を殺し、州印を奪って去った。そこで流官の判官に州事を執らせた。数十年の間、たびたび諸司が勘奏し、檄を移して督追したが、岑応・岑接の二代を通じて依然として元のままだった。嘉靖二年、泗城に帰併された。

原文利州,漢屬交阯,號阪麗莊。宋建利州,隸橫山寨,元因焉。土官亦岑姓,洪武初歸附。授知州,以流官吏目佐之,直隸布政司。宣德二年,利州知州岑顏遣頭目羅向貢馬。正統元年,泗城岑豹侵據利州地,並掠顏妻子財物。總兵官山雲以聞,帝敕鎮、巡官撫諭之。四年,顏遣族人岑忻貢銀器方物。五年,顏奏:「本州地二十五甲,被豹興兵攻占,母覃被囚,妻財被掠,累奉敕撫諭,猖獗不服。」帝遣行人黃恕、朱升敕諭豹,事具前傳。七年,豹復與顏相仇殺,帝敕總兵官吳亮宣布恩威,令各罷兵,而豹終殺顏及其子得,奪州印去,遂以流官判州事。數十年間,屢經諸司勘奏,移檄督追,歷岑應、岑接二世如故。嘉靖二年歸並泗城。

龍州は、古くは百粤の地である。漢代は交阯に属した。宋が龍州を設置し、太平寨に隷属させた。元の大徳年間、州を昇格して万戸府とした。洪武二年、龍州の土官趙帖堅が使者を遣わし表を奉り、方物を貢ぐ。詔して帖堅を龍州知州とし、世襲を許す。八年、広西布政司に改属させた。時に帖堅が言うには、「地は交阯に臨み、守る関隘二十七ヶ所あり、急報があれば太平に申報し、総司に達する必要があるが、返報が下るまでには既に旬月を経て、事機を誤る恐れがある。奉議・泗城の二州の例に倣い、広西に隷属させるのが便宜である」。これに従う。十六年、帖堅は孝慈皇后の喪に際し、慰問の表を上し、馬及び方物を貢ぎ、綺帛・鈔錠を差等を付けて賜う。

原文龍州,古百粵地。漢屬交阯。宋置龍州,隸太平寨。元大德中,升州為萬戶府。洪武二年,龍州土官趙帖堅遣使奉表,貢方物。詔以帖堅為龍州知州,世襲。八年改隸廣西布政司。時帖堅言:「地臨交阯,所守關隘二十七處,有警須申報太平,達總司,比報下,已涉旬月,恐誤事機,乞依奉議、泗城二州,隸廣西便。」從之。十六年,帖堅以孝慈皇后喪,上慰表,貢馬及方物,賜綺帛鈔錠有差。

二十一年、帖堅が病み、子がなく、その従子の宗寿に代わって州事を署理させた。帖堅が卒すると、宗寿が襲職した。鄭国公常茂が罪により龍州に謫居した。帖堅の妻黄氏に二人の娘があり、一人は太平州の土官李円泰の妻となり、茂はもう一人を妾とした。時に宗寿は襲職したが、帖堅の妻は依然として土官の印を保持し、茂・円泰とともに州事を専断し、しばしば宗寿を陵逼した。ちょうど茂が病没すると、その閽者の趙観海らもまた宗寿を侮るに至った。宗寿はそこで把事らと謀り、計略をもって土官の印を奪い取り、上奏して茂は既に死んだと述べ、併せて観海らを械にかけて京師に送った。ここにおいて帖堅の妻は恐れおののき、人を遣わして宗寿が掠奪したと告発し、また円泰と謀って茂の妾とその奴婢を劫略して太平州に赴き、また趙氏の祖父以来の官誥などの物をことごとく掠奪し、さらに龍州の地をも併せ取ろうとした。そこで自ら京師に至り、宗寿は実は従子であって襲職すべきでないと告発し、宗寿もまた上章して状況を述べた。帝はそこで詔して宗寿を問わず、吏に帖堅の妻と円泰の罪を議させたが、後に遠方の蛮族であるとしてともにこれを釈放した。

原文二十一年,帖堅病,無子,以其從子宗壽代署州事。帖堅卒,宗壽襲。鄭國公常茂以罪謫居龍州。帖堅妻黃氏有二女,一為太平州土官李圓泰妻,茂納其一為妾。時宗壽雖襲職,帖堅妻猶持土官印,與茂、圓泰專擅州事,數陵逼宗壽。會茂以病卒,其閽者趙觀海等亦肆侮宗壽。宗壽乃與把事等以計取土官印,上奏,言茂已死,並械觀海等至京。於是帖堅妻惶懼,使人告宗壽擄掠,又與圓泰謀劫茂妾並其奴婢往太平州,又盡掠趙氏祖父官誥諸物,又欲並取龍州之地。乃自至京,告宗壽實從子,不應襲,宗壽亦上章言狀。帝乃詔宗壽勿問,下吏議帖堅妻與圓泰罪,既而以遠蠻俱釋之。

久しくして、またある者が茂が龍州に匿われて死んでおらず、以前宗寿が言ったことは全て虚妄であると告発した。そこで詔して右軍都督府に宗寿及び龍州の官民に榜諭させ、言うには、「昔、鄭国公常茂に罪があり、上は開平王の功績を重んじ、急に法に置くに忍びず、龍州に安置した。土官趙帖堅が没すると、その妻が茂と婚姻を結び、諸蛮を誘い合わせ、ほしいままに道に背く行為を行った。帖堅の甥宗寿が襲職し、黄氏と互いに告訴し合い、茂は既に死んだと述べた。上は功臣の子であることを憫み、二人の告訴の罪を赦した。今、ある者が言うには茂は実は死んでおらず、宗寿らはその状況を知っているという。既に散騎舎人を遣わし宗寿に茂を捕らえるよう諭したが、使者を引き延ばして久しく復命せず、その意図は測りがたい。特に命じて爾ら宗寿らに榜諭して知らしめる。もし茂が果たして生存しているならば、京師に送致して罪を贖わせよ。もし茂が果たして死んでいるならば、宗寿もまた自ら大小の頭目を率いて京師に至り、その由縁を詳細に陳述すべきである」。

原文久之,復有人告茂匿龍州未死,前宗壽所言皆妄。遂詔右軍都督府榜諭宗壽及龍州官民,言:「昔鄭國公常茂有罪,上以開平王之功,不忍遽置於法,安置龍州。土官趙帖堅故,其妻與茂結為婚姻,誘合諸蠻,肆為不道。帖堅侄宗壽襲職,與黃氏互相告訐,言茂已死。上以功臣子,猶加憐憫,釋二人告訐罪。今有人言茂實未死,宗壽等知狀。已遣散騎舍人諭宗壽捕茂,延玩使者久不復命,其意莫測。特命榜諭爾宗壽等知之,如茂果存,則送至京師以贖罪,如茂果死,宗壽亦宜親率大小頭目至京,具陳其由。」

広西布政司が言上するには、宗寿はたびたび詔を下して京師に赴くよう命じたが、命令を拒んで出てこず、また南丹・奉議などの蛮族が教化に背いていると述べた。帝は再び致仕した兵部尚書唐鐸を派遣して宗寿を諭させたが、ついに従わなかった。詔を下して湖広・江西所属の衛所の馬歩官軍六万余りを発し、それぞれ三月分の食糧を持たせ、秋の初めにすべて広西に赴くよう期日を定めた。都督楊文に征南将軍の印を佩かせ、総兵官とし、都指揮韓観を左将軍、都督僉事宋晟を右将軍、劉真を参将とし、京衛の馬歩軍三万人を率いて広西に至り、合流して龍州及び奉議・南丹・向武などの州の叛蛮を討伐させた。軍が行くに際し、帝は文を撰して使者を遣わし、岳鎮海瀆を祭らせ、また礼部尚書任亨泰・監察御史厳震直を安南に派遣し、龍州の趙宗寿を討つ理由を諭し、陳日焜に辺境を慎んで守り、逆賊を助けず、逃亡者を受け入れぬよう命じた。人を遣わして楊文に諭し、南寧衛の兵千人を徴発させ、江陰侯呉高にこれを率いさせ、柳州衛の兵千人を徴発させ、安陸侯呉傑にこれを率いさせ、皆に功を立てて自ら罪を贖うよう命じた。また楊文らに詔を下し、もし兵が龍州に至り、宗寿が自ら来て会い、趙茂が既に死んだ経緯を詳しく陳述すれば、その罪を赦すと伝えよ。もし偽って人を遣わして来たならば、進軍してこれを討てと。既にして、唐鐸が京師に戻り、宗寿が罪に伏して来朝し、兵を罷めて征伐しないよう乞うたと述べた。詔を下して楊文に奉議へ軍を移させ、なお唐鐸を軍中に派遣して軍事に参与させた。宗寿は耆民の農裏ら六十九人とともに来朝して罪を謝し、地方の産物を貢いだ。

原文廣西布政司言宗壽屢詔赴京,拒命不出,又言南丹、奉議等蠻梗化。帝復命致仕兵部尚書唐鐸往諭宗壽,訖不從命。詔發湖廣、江西所屬衛所馬步官軍六萬餘,各賫三月糧,期以秋初俱赴廣西。命都督楊文佩征南將軍印,為總兵官,都指揮韓觀為左將軍,都督僉事宋晟為右將軍,劉真為參將,率京衛馬步軍三萬人至廣西,會討龍州及奉議、南丹、向武等州叛蠻。師行,帝撰文遣使祭嶽鎮海瀆,復遣禮部尚書任亨泰、監察御史嚴震直使安南,諭以討龍州趙宗壽之故,令陳日焜慎守邊境,毋助逆,勿納叛。遣人諭文調南寧衛兵千人,江陰侯吳高領之,柳州衛兵千人,安陸侯吳傑領之,皆令其建功自贖。又詔文等,如兵至龍州,宗壽親來見,具陳茂已死之由,則宥其罪。若詐遣人來,則進兵討之。既,鐸還京,言宗壽伏罪來朝,乞罷兵勿征。詔文移兵於奉議,仍命鐸至軍參軍事。宗壽偕耆民農裏等六十九人來朝謝罪,貢方物。

宗寿が死に、子の景升が襲封した。景升が死に、後継者がいなかったので、叔父の仁政が襲封した。仁政から二代を経て趙源となり、源が死に子がなかった。思恩の土官岑浚が兵を率いて田州を攻めて帰る途中、龍州を襲撃し、その印を奪い、故知府源の妻岑氏を娶った。詔を下して鎮巡官に賊を剿滅させ、また源の後継者を立てることを議させた。源の庶兄の趙浦に二人の子があり、趙相が年長で当に立つべきであった。相の弟の趙楷は望みを抱かぬわけにはいかず、岑氏と謀り、下僕の韋隊の子である韋璋を遺腹の子と偽って称えた。岑氏は兄の子の岑猛がちょうど兵力に雄であるのを恃み、趙楷は遂に上奏して言うには、韋璋は実は源の子であり、当に立つべきであるが、趙相に簒奪されたと。事は督府に下って調査されたが、決着しなかった。韋璋は鎮守太監傅倫の舎人に賄賂を贈り、偽って詔があると称し、檄を飛ばして岑猛に二万の兵を調達させ、韋璋を龍州に入れた。左江は大いに震動し、趙相は印を持って況村に奔った。都御史楊旦が韋璋を討伐し、岑猛がこれを殺したので、趙相はようやく帰還した。趙相に二人の子があり、長子は趙燧、次子は趙宝であった。趙相は枝指であり、趙宝もまた枝指であったので、趙相はひどくこれを愛し、「私に似ているから立つべきである」と言った。岑猛はそこで趙宝を連れ去り、髪を剃って奴隷とした。

原文宗壽死,子景升襲。景升死,無嗣,以叔仁政襲。仁政再傳為趙源,源死無子。思恩土官岑浚率兵攻田州回,劫龍州,奪其印,納故知府源妻岑氏。詔下鎮巡官剿賊,而議立為源後者。以源庶兄浦有二子,相居長當立。相弟楷不能無望,則謀於岑氏,以仆韋隊子璋詭雲遺腹。岑氏恃兄子猛方兵雄,楷遂奏言,璋實源子,當立,為相所篡。事下督府勘,未決。璋賂鎮守太監傅倫舍人,詭稱有詔,檄猛調二萬兵,納璋入龍州。左江大震,相挈印奔況村。都御史楊旦討璋,猛殺之,相乃歸。相二子,長燧,次寶。相枝拇,寶亦枝拇,相絕愛之,曰:「肖我當立。」猛乃以寶去,髡為奴。

嘉靖元年、趙相が死に、州人は趙燧を立てた。趙楷がこれを弑しいし、州人はその族弟の趙暖を立てた。時に王守仁が両広を提督し、幕客の岑伯高が権勢を振るっていた。趙楷は岑伯高に賄賂を贈り、趙暖は趙氏の子孫ではなく、当に立つべきは趙楷であると述べさせた。上思州知州の黄熊兆を派遣してこれを調査させた。熊兆は伯高に与し、趙楷が当に立つべきであると言い、州の印を趙楷に与えた。趙楷は遂に趙暖を殺し、龍州は大いに乱れた。州の目把の黄安らは密かに田州へ赴き趙宝を買い求めた。趙宝は当時、奴隷として楊布の家に十三年いたので、黄安らは百金を費やしてこれを買い得た。督府にこれを報告すると、都御史林富は趙楷の勢力が既に伸長しているとして、急いで対峙すべきでないと言い、そこで趙楷に職務を代行させ、趙宝が成長するのを待って譲らせることにした。趙楷は戻ると、たびたび趙宝を謀殺しようとした。林富は趙楷を諭し、印を趙宝に返すよう命じた。趙宝は五千金で謝礼し、さらに肥沃な田三十一村を加えた。趙楷は、趙宝が弱くて容易に対処できると考え、厚利を求めて徐々に図る方が良いとして、遂に命令に従った。趙楷はまた韋璋の子の韋応を求め養育し、趙宝の所へ往来させた。趙宝の妻の黄氏は、思明府の土官黄朝の娘であったが、趙宝に背き韋応と通じた。韋応はそこで州の目把らと厚く結び、またたびたび人を遣わして向武州と友好を結び、兵を乞うて護衛とした。趙宝は日々に荒淫で悍ましく、狡知な男子の王良を宮刑にして門番とした。趙楷は王良が趙宝を恨んでいることを知り、内応するよう煽ったので、王良はこれを承諾した。趙楷は千人を率いて夜に趙宝の寝所の門に至り王良を呼ぶと、王良が門を開いて趙楷の兵を入れ、趙宝を寝所で捕らえ、これを斬り、他の盗賊の仕業として報告した。韋応は千人ほどの兵で州を占拠し、併せて黄朝と結んで自らを援護した。

原文嘉靖元年,相死,州人立燧。楷弒之,州人立其族弟暖。時王守仁提督兩廣,幕客岑伯高用事,楷賂伯高,言暖非趙氏裔,當立者楷也。遣上思州知州黃熊兆核之。熊兆黨伯高,言楷當立,以州印畀楷。楷遂殺暖,龍州大亂。州目黃安等潛往田州購寶。寶時為奴楊布家十三年矣,安等行百金購得之。言之督府,都御史林富謂楷勢已張,毋持之急,乃令楷攝職,俟寶長讓之。楷復,時時謀殺寶。富諭楷,令以印還寶,寶謝以五千金,益以腴田三十一村。楷計寶弱易與,不如邀厚利而徐圖之,遂聽命。楷復求韋璋之子應育之,令往來寶所。寶妻黃氏,思明府土官黃朝女也,貳於寶而與應通。應乃厚結州目,又數遣人與向武州締好,乞兵為衛。寶日荒悍,刑狡男子王良為閽。楷知良恨寶,激使內應,良許之。楷以千人夜至寶寢門呼良,良開門納楷兵,執寶寢所,斬之,以他盜聞。應以兵千人據州,並結朝自援。

都御史蔡経は副使翁万達に命じてこれを謀らせた。万達は、趙楷は狡猾で詐りに長いので、速やかに図ることはできないと言った。韋応は愚かで思慮が浅いので、旦夕のうちに擒らえることができ、その中堅を断てば、その後順次に捕らえることができると述べ、督撫はこれを良しとした。万達が行部して太平に至ると、人を遣わして別件で黄朝を召し出し、計略を諭し、韋応は当に死すべきであると論じ、趙楷は才勇があるので、正に龍州の一面を担当させるのに藉りるべきであると言った。時に趙楷のことを言う者は、故意に取り合わなかったので、州人は大いに騒いだ。万達はますます趙楷を厚遇し、趙楷はこれを信じ、遂に精兵千人を統率して万達のもとに至り状況を述べ、併せて三十一村の地を献上した。万達は趙楷及び州の目把の鄧瑀らを召し入れて会見し、壮士を伏せてこれを脅し、「汝の罪は大きい、自ら計らうべきである。誠に死ねば、なお汝の子のために一官を留めることができる」と言った。趙楷は自ら生きる道はないと悟り、そこで手紙を書いてその党に諭して言うには、「既にこのようになった以上、乱を起こしても益はない、我が子を善く補佐して趙氏を存続させよ」と。万達は直ちに趙楷を杖打ち、これを打ち殺し、趙楷の書状をもってその州人を諭した。時に趙楷の子の匡時は生後四年であったので、これを立てると、一州はすべて平定した。そこで十三村を龍州に返還し、十八村を崇善県に隷属させ、ここにおいて龍州の趙氏はなおも襲封を得た。

原文都御史蔡經屬副使翁萬達謀之。萬達謂楷狙詐,未可速圖。韋應巽懦寡慮,可旦夕擒,斷其中堅,然後可次第獲,督撫善之。萬達行部至太平,使人以他事召朝,諭之計,論應當死,言楷才勇,正須藉為龍州當一面耳。時諸言楷事者,故不為理,州人大嘩。萬達愈厚楷,楷信之,遂統精兵千人詣萬達言狀,並以三十一村地獻。萬達召楷及州目鄧瑀等入見,伏壯士劫之,曰:「汝罪大,宜自為計。誠死,尚可為爾子留一官。」楷自分無生理,乃手書諭其黨曰:「業已如此,亂無益也,可善輔我子以存趙。」萬達即杖楷,斃之,以楷書諭其州人。時楷子匡時,生四年矣,立之,一州悉定。乃以十三村還龍州,十八村隸崇善縣,於是龍州趙氏仍得襲。

帰順州は、旧くは峒であり、鎮安府に隷属していた。永楽年間、鎮安知府の岑誌綱がその第二子の岑永綱に分けて峒の事務を領させ、子の岑瑛に伝え、たびたび兵を率いて報効した。弘治九年、総督の鄧廷瓚が言上するには、「鎮安府の帰順峒は、旧くは州の治所であり、洪武初年に裁革された。今その峒主の岑瑛はたびたび官のために労を効している。州治を設け、土官知州を授けることを乞う。出兵する時は常に土兵五千を備えさせ、なお毎年土兵二千を率いて梧州に赴き調遣を受けるようにせよ」と。詔はこれに従い、流官の吏目一員を増設した。岑瑛が死に、子の岑璋が襲封した。また岑璋の上奏に従い、本州を布政司に改めて隷属させた。

原文歸順州,舊為峒,隸鎮安府。永樂間,鎮安知府岑誌綱分其第二子岑永綱領峒事,傳子瑛,屢率兵報效。弘治九年,總督鄧廷瓚言:「鎮安府之歸順峒,舊為州治,洪武初裁革。今其峒主岑瑛每效勞於官,乞設州治,授以土官知州。凡出兵令備土兵五千,仍歲領土兵二千赴梧州聽調。」詔從之,增設流官吏目一員。瑛死,子璋襲。復從璋奏,以本州改隸布政司。

岑璋は智略に富んでいた。田州の岑猛は不法により譴責を受け、都御史の姚鏌が兵を挙げてこれを討伐しようとした。岑璋は岑猛の妻の父であった。姚鏌は岑璋が岑猛に与することを憂慮し、都指揮の沈希儀を召して謀った。希儀は平素から岑璋の娘が寵を失い、岑猛を恨んでいることを知っており、また部下の千戸の趙臣が平素から岑璋と親善であることを知っていた。希儀はそこで趙臣を使い、岑璋に岑猛を図るよう言わせると、岑璋は命令を受けた。時に岑猛の子の邦彦が工堯隘を守っていた。岑璋は偽って兵千人を派遣して邦彦を助け、「天兵が至れば、姻党の故に、かつて爾とともに禍を受けることになろう。今精兵を発するのは、幸いに努力して堅く守れ」と言った。邦彦は喜んでこれを受け入れた。岑璋は人を遣わして希儀に報告して言うには、「謹んで千人をもって内応します」と。時に田州兵は必死で防戦し、諸将で隘を担当するのを利とする者はいなかったが、希儀のみが兵を率いてこれを担当した。三合戦うことを約し、帰順兵が大呼して「敗れた!」と言うと、田州兵は驚いて潰走し、希儀は兵を指揮してこれに乗じ、数千級を斬首し、邦彦はそこで死んだ。岑猛は敗報を聞き、自ら縊死しようとした。しかし岑璋は先に別館を築き、人を遣わして岑猛を請うていた。時に岑猛は慌てふためいてどうすべきか分からず、遂に印を持って岑璋に従い、帰順へ走らせた。岑璋は偽って岑猛のために奏文を草し、岑猛に促して印を出させて実封した。岑璋は既に岑猛の印の所在を知ると、そこで岑猛を毒殺し、その首を斬り、併せて府の印を函に入れ、間道を馳せて軍門に至った。讒言によって阻まれ、ついに功績として論じられなかった。

原文璋多智略。田州岑猛以不法獲譴,都御史姚鏌將舉兵討之。璋,猛婦翁也。鏌慮璋黨猛,召都指揮沈希儀謀。希儀雅知璋女失寵,恨猛,又知部下千戶趙臣雅善璋。希儀因使趙臣語璋圖猛,璋受命。時猛子邦彥守工堯隘,璋詐遣兵千人助邦彥,言:「天兵至,以姻黨故,且與爾同禍。今發精兵來,幸努力堅守。」邦彥欣納之。璋遣人報希儀曰:「謹以千人內應矣。」時田州兵殊死拒戰,諸將莫利當隘者,希儀獨引兵當之。約戰三合,歸順兵大呼曰:「敗矣!」田州兵驚潰,希儀麾兵乘之,斬首數千級,邦彥死焉。猛聞敗,欲自經。而璋先已築別館,使人請猛。時猛倉皇不知所出,遂挈印從璋,使走歸順。璋詭為猛草奏,促猛出印實封之。璋既知猛印所在,乃鴆殺猛,斬其首,並府印函之,間道馳軍門。為讒言所阻,竟不論功。

岑璋が死に、次子の岑瓛が襲封した。嘉靖四年、提督の盛応期は、岑瓛が先に岑猛を助けて逆に泗城を攻撃したが、自ら新たにすることを許し、賊を討伐して出兵し自ら罪を贖わせた。これに従った。十四年、四州の盧蘇が叛き、岑瓛を糾合して鎮安府を攻撃した。岑瓛は鎮安を破り、併せて岑真宝の父母の墳墓を暴いた。事が聞こえると、冠帯を剥奪し、功を立てて罪を贖うことを許した。岑瓛は後に交阯征伐に従い、軍中で卒した。子の岑代が襲封し、万暦年間に貢馬の期限に違反したため、半額の賞賜を与えられた。

原文璋死,次子瓛襲。嘉靖四年,提督盛應期以瓛先助猛逆攻泗城,許自新,出兵討賊自贖。從之。十四年,四州盧蘇叛,糾瓛攻鎮安府。瓛破鎮安,並發岑真寶父母墳墓。事聞,革冠帶,許立功贖。瓛後從征交阯,卒於軍。子代襲,萬歷間以貢馬違限,給半賞。

向武州は、宋代に設置され、横山寨に隷属した。元代には田州路に隷した。その境界は東北は田州に至り、西は鎮安に至り、南は鎮遠に至る。洪武二年七月、土官の黄世鉄が使者を遣わして馬及び方物を貢献した。詔して世鉄を向武州知州とし、世襲を許した。二十一年、広西布政司が言うには、向武州の叛蛮が教化に背いている。時に都督楊文が征南将軍の印を佩び、龍州・奉議等の処を討ち、また命を受けて軍を向武に移した。文は右副将軍韓観に調を分けて進め都康・向武・富労の諸州県を討たせ、世鉄を斬った。兵部尚書唐鐸の言により、向武州守禦千戸所を置いた。

原文向武州,宋置,隸橫山寨。元隸田州路。其界東北抵田州,西抵鎮安,南抵鎮遠。洪武二年七月,土官黃世鐵遣使貢馬及方物。詔以世鐵為向武州知州,許世襲。二十一年,廣西布政司言向武州叛蠻梗化。時都督楊文佩征南將軍印,討龍州、奉議等處,復奉命移師向武。文調右副將軍韓觀分兵進討都康、向武、富勞諸州縣,斬世鐵。以兵部尚書唐鐸言,置向武州守禦千戶所。

永楽二年、土官知州黄彧が頭目羅以得を遣わして馬を貢ぎ、鈔幣を賜った。宣徳四年、故土官知州黄謙昌の子宗蔭が馬を貢ぎ、鈔を賜った。嘉靖四年、田州の岑猛が叛き、向武の土官が兵をもって猛を助けた。提督盛応期が大征を議し、向武に檄を飛ばして出兵して賊を討たせ、功をもって罪を贖わせた。十六年、田州の盧蘇が叛き、鎮安の土官岑真宝が兵をもって岑邦佐を迎え入れ、蘇は向武に援助を求めた。時に土官黄仲金は真宝を怨み、遂に合兵して鎮安を破った。事が聞こえ、仲金の冠帯を革めた。二十七年、仲金が調に応じて労があったため、詔して原職を承襲することを許し、京に赴くことを免じた。四十二年、また瑶寇を剿平した功により、仲金に四品の服を加えた。

原文永樂二年,土官知州黃彧遣頭目羅以得貢馬,賜鈔幣。宣德四年,故土官知州黃謙昌子宗蔭貢馬,賜鈔。嘉靖四年,田州岑猛叛,向武土官以兵助猛。提督盛應期議大征,檄向武出兵討賊,以功贖罪。十六年,田州盧蘇叛,鎮安土官岑真寶以兵納岑邦佐,蘇求助於向武。時土官黃仲金怨真寶,遂與合兵,破鎮安。事聞,革仲金冠帶。二十七年,以仲金聽調有勞,詔許承襲原職,免赴京。四十二年,又以剿平瑤寇功,加仲金四品服。

向武は一県を領し、富労と曰い、元代に置かれた。洪武年間、蛮僚に占拠された。建文時に再び置き、仍って向武州に隷した。永楽初め、武林を省いてこれに併せた。土官もまた黄氏が世襲した。

原文向武領縣一,曰富勞,元置。洪武間,為蠻僚所據。建文時復置,仍隸向武州。永樂初,省武林入焉。土官亦黃氏世襲。

奉議州は、宋代に設置された。初め静江軍に属し、後に広西経略安撫司に属した。元代は広西両江道宣慰司に属した。洪武初め、土官黄誌威は旧より田州府総管であり、帰順した。二年、詔してその子世鉄を向武州知州に授け、世襲させた。三年、誌威が入朝して貢献した。六年、奉議等の州百十七箇所の人民を招撫し、皆が服した。帝は誌威の功を嘉し、安州・侯州・陽県をこれに属させることを命じた。七年、誌威を奉議州知州兼守禦とし、直隷広西行省とした。二十六年、奉議州知州黄嗣隆が人を遣わして馬及び方物を貢ぎ、鈔錠を賜った。

原文奉議州,宋置。初屬靜江軍,後屬廣西經略安撫司。元屬廣西兩江道宣慰司。洪武初,土官黃誌威舊為田州府總管,來歸附。二年詔授其子世鐵為向武州知州,世襲。三年,誌威入朝貢。六年招撫奉議等州百十七處人民,皆款服。帝嘉誌威功,命以安州、侯州、陽縣屬之。七年以誌威為奉議州知州兼守禦,直隸廣西行省。二十六年,奉議州知州黃嗣隆遣人貢馬及方物,賜以鈔錠。

二十八年、広西布政司が言うには、奉議・南丹等の処の蛮人が教化に背いている。時に都督楊文が龍州を討ち、罪に伏したが、帝は兵を奉議に移して賊を剿討することを命じ、使者を遣わして文等に諭した、「近く聞くに、奉議・両江の溪峒等の処は、林木陰翳し、蛇虺毒を草莽の中に遺し、雨過ぎて、毒を溪澗に流し、これを飲めば人をして死なしむ。師その地に入り、行営駐劄するに、山溪の水泉を飲むことなかれ、恐らく余毒人を傷わん。宜しく井を鑿ちて以て飲むべし、爾等其れ慎んでこれを察せよ。」文は広西都司及び護衛の官軍二万人を発し、田州・泗城等の土兵三万八千九百人を調して従征させた。師は奉議州に至り、蛮寇は官軍の至るを聞き、悉く山林に竄入し、険に拠りて自ら固めた。文は諸将を督して兵を分けてこれを捕え、また参将劉真等を調して兵を領し分道して南丹の叛寇を攻めさせた。初め、文等は師を奉議州の東南に駐め、兵を分けて賊党を追捕し、かつ人を遣わしてその脅従者を招降した。賊は皆廬舎を焚き、山谷に走り、険阻に憑りて柵を立て自ら固めた。文は将士を督して屡々これを攻破し、賊衆は潰散した。左副将軍韓観等は遂に兵を分けて都康・向武・富労・上林の諸州県を追討し、その更吾・蓮花・大藤峡等の寨を破り、向武の土官黄世鉄並びにその党一万八千三百余人を斬り、蛮民で復業する者六百四十八戸を招降し、象州武山県に徙うつ置し、蛮寇は遂に平らげられた。時に兵部尚書致仕の唐鐸が軍事に参議し、朝廷が嘗て征剿畢日のち、衛を置いてこれを守らしむることを命じた。乃ち諸将と会して形勢を相度し、奉議等の衛並びに向武・河池・懐集・武仙・賀県等の処の守禦千戸所を置き、官軍を設けて鎮守させた。詔してその言に従った。

原文二十八年,廣西布政司言,奉議、南丹等處蠻人梗化。時都督楊文討龍州,伏罪,帝命移兵奉議剿賊,遣使諭文等:「近聞奉議、兩江溪峒等處,林木陰翳,蛇虺遺毒草莽中,雨過,流毒溪澗,飲之令人死。師入其地,行營駐劄,勿飲山溪水泉,恐余毒傷人。宜鑿井以飲,爾等其慎察之。」文發廣西都司及護衛官軍二萬人,調田州、泗城等土兵三萬八千九百人從征。師至奉議州,蠻寇聞官軍至,悉竄入山林,據險自固。文督諸將分兵捕之,復調參將劉真等領兵分道攻南丹叛寇。初,文等駐師奉議州之東南,分兵追捕賊黨,且遣人招降其脅從者。賊皆焚廬舍,走山谷,憑險阻立柵自固。文督將士屢攻破之,賊眾潰散。左副將軍韓觀等遂分兵追討都康、向武、富勞、上林諸州縣,破其更吾、蓮花、大藤峽等寨,斬向武土官黃世鐵並其黨萬八千三百餘人,招降蠻民復業者六百四十八戶,徙置象州武山縣,蠻寇遂平。時兵部尚書致仕唐鐸參議軍事,以朝廷嘗命征剿畢日,置衛守之。乃會諸將相度形勢,置奉議等衛並向武、河池、懷集、武仙、賀縣等處守禦千戶所,設官軍鎮守。詔從其言。

宣徳二年、州事を署する土官黄宗蔭が頭目を遣わして馬を貢いだ。正統五年、宗蔭が科斂劫殺し、甚だしきはその母を害さんと欲した。母はこれを避け、母の侍者を殺して怒りを泄らし、母によって告発された。僉事鄧義がその事を奏し、帝は総兵官柳溥及び三司に命じて按験して奏聞させた。嘉靖四年、田州の岑猛が叛き、奉議の土官が嘗て猛を助けて泗城州を攻めた。ここに至り提督盛応期が言うには、その自新を許し、出兵して賊を討たせ、功をもって罪を贖わせた。後に土官知州が死ぬと、皆土判官をもって州事を掌らせた。論ずる者は奉議を弾丸の地とし、三面田州に交迫され、独り南界は鎮安のみで、その勢い甚だ蹙っているという。明初に衛を置き、官を銓するは宋・元の故事の如く、蓋し田州と鎮安とを中断し、以てその謀を伐たんと欲したのである。

原文宣德二年,署州事土官黃宗蔭遣頭目貢馬。正統五年,宗蔭科斂劫殺,甚且欲戕其母。母避之,殺母侍者以泄怒,為母所告。僉事鄧義奏其事,帝敕總兵官柳溥及三司按驗以聞。嘉靖四年,田州岑猛叛,奉議土官嘗助猛攻泗城州。至是提督盛應期言,許其自新,令出兵討賊,以功贖罪。後土官知州死,皆以土判官掌州事。論者以奉議彈丸地,三面交迫田州,獨南界鎮安,其勢甚蹙。明初置衛,銓官如宋、元故事,蓋欲中斷田、鎮,以伐其謀雲。

江州の境界は、東は忠州に至り、西は龍州に至り、南は思明に至り、北は太平府に至る。その州は宋代に設置され、古万寨に隷した。元代は思明路に属した。明初、土官黄威慶が帰順した。世襲の知州を授け、流官の吏目を設けてこれを補佐させ、直隷布政司とした。嘉靖四十二年、瑶・僮を平定した功により、江州の土官の子黄恩が暫く本職を署することを準じた。一県を領し、羅白と曰う。洪武初め、土官梁敬賓が帰順し、世襲の知県を授かった。敬賓が死に、子の復昌が襲った。永楽年間、交阯に従征して陥落し、子の福裏が襲った。

原文江州界,東抵忠州,西抵龍州,南抵思明,北抵太平府。其州宋置,隸古萬寨。元屬思明路。明初,土官黃威慶歸附。授世襲知州,設流官吏目以佐之,直隸布政司。嘉靖四十二年,以平瑤、僮功,準江州土官子黃恩暫署本職。領縣一,曰羅白。洪武初,土官梁敬賓歸附,授世襲知縣。敬賓死,子復昌襲。永樂間,從征交阯被陷,子福裏襲。

思陵州は、宋代に設置され、永平寨に属した。元代は思明路に属した。洪武初め、省いて思明府に併せた。二十一年、再び思陵州を置いた。二十七年、土官韋延寿が馬及び方物を貢いだ。宣徳四年、印を護る土官韋昌が来朝し、馬を貢ぎ、鈔幣を賜った。正統年間、貢賜は制の如くであった。その境界は東は忠州に至り、西北は思明に至り、南は交阯に至る。

原文思陵州,宋置,屬永平寨。元屬思明路。洪武初,省入思明府。二十一年復置思陵州。二十七年,土官韋延壽貢馬及方物。宣德四年,護印土官韋昌來朝,貢馬,賜鈔幣。正統間,貢賜如制。其界東至忠州,西北至思明,南至交阯。

瓊州は、環海中に居する。漢の武帝が南粤を平らげ、始めて珠崖・儋耳の二郡を置いた。晋・隋・唐・宋を歴て叛服一ならず、事は前史に具わる。元代は改めて瓊州路を置き、海北海南道宣慰司に属した。天暦初め、乾寧軍民安撫司と改めた。洪武元年、征南将軍廖永忠が広東を平らげ、乾寧安撫司を瓊州府と改め、崖州吉陽軍・儋州万安軍を俱に州とし、南建州を定安県としてこれに隷せしめた。

原文瓊州,居環海中。漢武帝平南粵,始置珠崖、儋耳二郡。歷晉、隋、唐、宋叛服不一,事具前史。元改置瓊州路,屬海北海南道宣慰司。天歷初,改乾寧軍民安撫司。洪武元年,征南將軍廖永忠平廣東,改乾寧安撫司為瓊州府,以崖州吉陽軍、儋州萬安軍俱為州,南建州為定安縣隸焉。

六年、儋州宜倫県の民陳昆六等が乱を起こし、州城を攻め陥とした。広東指揮使司が奏言した、「近く儋州の山賊乱し、已に兵を調べて剿討した。その儋・万の二州は、山深く地曠らかで、宜しく兵衛を設けてこれを鎮むべし。」詔して儋・万の二州守禦千戸所を置いた。七年、儋州の黎人符均勝等が乱を起こし、海南衛指揮張仁が兵を率いて討ち平らげた。また海南の羅屯等洞の黎人が乱を起こし、千戸周旺等が討ち平らげた。澄邁県の賊王官舎が乱を起こし、典史彭禎が民兵を領して捕斬した。十五年、万・崖の二州の民陳鼎叔等が乱を起こし、陵水県を陥としたが、海南衛の官軍に撃敗され、藤橋に追い至り、鼎叔等三百余人を斬り、余党悉く平らげられた。十七年、儋州宜倫県の黎民唐那虎等が乱を起こし、海南衛指揮張信が兵を発してこれを討った。那虎及びその党鄭銀等は敗れて遁れ、信は追ってこれを擒え、京師に送った。知州魏世吉が賄を受け、銀を放ち去らせた。帝は兵部に謂って曰く、「知州は賊を捕える能わず、及び官軍の捕え至るに反ってこれを放つのか。」力士を遣わして即ちその州にて世吉を杖ち、放った者を捕えることを責めた。

原文六年,儋州宜倫縣民陳昆六等作亂,攻陷州城。廣東指揮使司奏言:「近儋州山賊亂,已調兵剿。其儋、萬二州,山深地曠,宜設兵衛鎮之。」詔置儋、萬二州守禦千戶所。七年,儋州黎人符均勝等作亂,海南衛指揮張仁率兵討平之。又海南羅屯等洞黎人作亂,千戶周旺等討平之。澄邁縣賊王官舍亂,典史彭禎領民兵捕斬之。十五年,萬、崖二州民陳鼎叔等作亂,陷陵水縣,為海南衛官軍擊敗,追至藤橋,斬鼎叔等三百餘人,余黨悉平。十七年,儋州宜倫縣黎民唐那虎等亂,海南衛指揮張信發兵討之。那虎及其黨鄭銀等敗遁,信追擒之,送京師。知州魏世吉受賄,縱銀去。帝謂兵部曰:「知州不能捕賊,及官軍捕至而反縱之乎?」命遣力士即其州杖世吉,責捕所縱者。

永楽三年、広東都司が言うには、「瓊州所属の七県八洞の生黎八千五百人、崖州抱有等十八村一千余戸は、皆すでに教化に帰したが、ただ羅活諸洞の生黎はまだ帰附していない。」帝は通判劉銘に命じて勅を携えさせてこれを撫諭させた。御史汪俊民が言うには、「瓊州は周囲皆海であり、中に大・小五指、黎母等の山があり、皆生熟黎人の居住地である。近年軍民で黎洞に逃げ込む者がおり、甚だしきは生黎を誘引して、住民を侵擾する。朝廷はたびたび招諭の使者を遣わしたが、黎の性質は頑固で残忍であり、信従する様子が見られない。また山水は険悪で、風気も異なり、その瘴毒に罹れば、全活できる者は稀である。近く宜倫県の熟黎峒首王賢祐を訪ねたところ、かつて命を受けて黎民を招諭し、帰化する者が多かった。請う、なお賢祐に詔を下し、官職を適宜授け、未服の者を招諭させ、諸峒を戒め約束させて、逃亡者を受け入れさせないようにせよ。その熟黎については産物に応じて納税させ、全ての徭役ようえきを免除せよ。その生黎で帰化する者は三年間免税とせよ。峒首については招いた民の数の多少に応じて職を授けよ。このようにすれば、おそらく黎人は順服するであろう。」これに従った。知県潘隆本を遣わして勅を携えさせて撫諭させた。

原文永樂三年,廣東都司言:「瓊州所屬七縣八洞生黎八千五百人,崖州抱有等十八村一千餘戶,俱已向化,惟羅活諸洞生黎尚未歸附。」帝命遣通判劉銘賫敕撫諭之。御史汪俊民言:「瓊州周圍皆海,中有大、小五指,黎母等山,皆生熟黎人所居。比歲軍民有逃入黎洞者,甚且引誘生黎,侵擾居民。朝廷屢使招諭,黎性頑狠,未見信從。又山水峻惡,風氣亦異,罹其瘴毒,鮮能全活。近訪宜倫縣熟黎峒首王賢祐、嘗奉命招諭黎民,歸化者多。請仍詔賢祐,量授以官,俾招諭未服,戒約諸峒,無納逋逃。其熟黎則令隨產納稅,悉免差徭;其生黎歸化者,免稅三年;峒首則量所招民數多寡授以職。如此庶幾黎人順服。」從之。遣知縣潘隆本賫敕撫諭。

四年、瓊州属県の生黎峒首羅顕・許誌広・陳忠等三十三人が来朝した。初め生黎の多くが教化に帰していなかったため、劉銘を遣わして招撫した。この時までに教化に帰した者は一万余戸に及び、羅顕等は劉銘に従って来朝し、かつ劉銘にその衆を撫することを乞うた。帝はついに劉銘を瓊州知府に任じ、専ら黎撫を職務とさせ、なお羅顕等を知県・県丞・巡検等の官に任じ、冠帯と鈔幣を賜って帰還させた。ここに至って諸黎は感悦し、相次いで来帰した。瓊山・臨高等県の生黎峒首王罰・鐘異・王琳等が来朝し、主簿・巡検に任じた。六年、劉銘はまた土黎峒首王賢祐・王恵・王存礼等を率いて来朝し、馬を貢いだ。賢祐を儋州同知に、王恵・王存礼を万寧県主簿に任じた。八年、文昌県斬脚寨の黎首周振生等が来帰し、鈔幣を賜い、なお諸峒を招くために往かせた。九年、臨高県典史王寄扶が命を受けて招き至らせた生黎二千余戸があり、また峒首王乃等を来朝させた。寄扶を県主簿に任じ、かつ王乃等に鈔を賜った。十一年、瓊山県東洋都の民周孔洙が包黎等村の黎人王観巧等二百三十戸を招諭し、籍に附して民となることを願った。これに従った。臨高の民黄茂が命を受けて深峒・那呆等二十四峒の生黎を招撫し、黎首王聚・符喜等を率いて来朝し馬を貢ぎ、黎民で来帰した者は四百戸余りであった。前後で撫した諸黎を総計すると、合わせて千六百七十箇所、戸三万有余りであり、これらは皆もと朝廷の謀略によるものである。

原文四年,瓊州屬縣生黎峒首羅顯、許誌廣、陳忠等三十三人來朝。初以生黎多未向化,遣銘招撫。至是向化者萬餘戶,顯等從銘來朝,且乞以銘撫其眾。帝遂授銘瓊州知府,專職撫黎,仍授顯等知縣、縣丞、巡檢等官,賜冠帶鈔幣,遣還。自是諸黎感悅,相繼來歸。瓊山、臨高諸縣生黎峒首王罰、鐘異、王琳等來朝,命為主簿、巡檢。六年,銘復率土黎峒首王賢祐、王惠、王存禮等來朝,貢馬。命賢祐為儋州同知,惠、存禮為萬寧縣主簿。八年,文昌縣斬腳寨黎首周振生等來歸,賜以鈔幣,俾仍往招諸峒。九年,臨高縣典史王寄扶奉命招至生黎二千餘戶,而以峒首王乃等來朝。命寄扶為縣主簿,並賜王乃等鈔。十一年,瓊山縣東洋都民周孔洙招諭包黎等村黎人王觀巧等二百三十戶,願附籍為民。從之。臨高民黃茂奉命招撫深峒、那呆等二十四峒生黎,率黎首王聚、符喜等來朝貢馬,黎民來歸者戶四百有奇。通計前後所撫諸黎共千六百七十處,戶三萬有奇,蓋皆本廟算雲。

十四年、王賢祐が生黎峒首王撒・黎仏金等を率いて来朝貢献し、帝はこれを嘉して受け入れた。礼部に命じて言うには、「黎人は遠く海南にあり、義を慕って来帰する。もし朝貢が頻繁であれば、慰撫の意ではない。今後生黎の土官・峒首は皆三年に一度の貢とし、これを令として定めよ。」十六年、感恩土知県楼吉祿が峒首を率いて馬を貢いだ。十九年、寧遠土県丞邢京が峒首羅淋を率いて朝貢した。時に崖州の民が私怨をもって互いに戦闘し、衛将は漁利を得ようと欲し、兵を発してこれを剿討しようとした。瓊州知州王伯貞がこれに反対し、言うには、「彼らは自ら仇殺しているだけであって、城邑を寇略し良民を殺害するような悪事はなく、官軍を煩わすに足りない。」衛将は従わず、伯貞は寧遠県丞黄童を遣わして視察させた。果たして仇殺であり、数人を逮捕処罰すると、黎人はついに安堵した。

原文十四年,王賢祐率生黎峒首王撒、黎佛金等來朝貢,帝嘉納之。命禮部曰:「黎人遠處海南,慕義來歸,若朝貢頻繁,非存撫意。自今生黎土官峒首俱三年一貢,著為令。」十六年,感恩土知縣樓吉祿率峒首貢馬。十九年,寧遠土縣丞邢京率峒首羅淋朝貢。時崖州民以私忿相戰鬥,衛將利漁所欲,發兵剿之。瓊州知州王伯貞執不可,曰:「彼自相仇殺耳,非有寇城邑殺良民之惡,不足煩官軍。」衛將不從,伯貞乃遣寧遠縣丞黃童按視。果仇殺,逮治數人,黎人遂安。

宣徳元年、楽会土主簿王存礼等が黎首黎寧及び万州の黎民張初等を遣わして来貢し、帝は尚書胡濙に言うには、「黎人は海島に居住し、礼儀を知らず、叛服常ならず。かつては専ら官を設けて撫綏した。今来朝したならば、賞賜を加えるべきである。」九月、澄邁県の黎王観珠・瓊山県の黎王観政等が衆を集めて瓊山土知県許誌広を殺し、郷村を流劫し、人畜を殺掠した。広東三司に命じて実情を調査討伐させた。二年、指揮王瑀等が黎賊を追捕し、兵は金鶏嶺に至り、賊は衆を率いて敵対したが、これを撃破し、賊首王観政及び従賊二百六十二人を生け捕りにし、二百六十七級を斬首した。残党は潰走し、山中に奔り入った。招撫して復業した黎は八百十二戸であり、捷報を奏聞し、観政等を械送して京師に至らせた。帝は尚書蹇義に言うには、「蛮の性質は馴らし難いとはいえ、変乱に至るには必ず何か刺激があるはずである。撫黎諸官を厳しく戒め、寛大にこれを統御すべきである。もし事を生じて変乱を刺激すれば、国には常刑がある。」

原文宣德元年,樂會土主簿王存禮等遣黎首黎寧及萬州黎民張初等來貢,帝謂尚書胡濙曰:「黎人居海島,不識禮儀,叛服不常,昔專設官撫綏,今來朝,當加賚之。」九月,澄邁縣黎王觀珠、瓊山縣黎王觀政等聚眾殺瓊山土知縣許誌廣,流劫鄉村,殺掠人畜,命廣東三司勘實討之。二年,指揮王瑀等追捕黎賊,兵至金雞嶺,賊率眾拒敵,敗之,生擒賊首王觀政及從賊二百六十二人,斬首二百六十七級,余眾潰,奔走入山,招撫復業黎八百一十二戶,以捷聞,械送觀政等至京。帝謂尚書蹇義曰:「蠻性雖難馴,然至為變,必有激。宜嚴戒撫黎諸官,寬以馭之,若生事激變,國有常刑。」

正統九年、崖州守禦千戸陳政は黎賊が出没すると聞き、副千戸洪瑜とともに軍を率いて賊を捜索捕獲しようとしたが、かえって熟黎の村を包囲した。黎首が出て会見すると、陳政等はすぐにこれを殺した。また軍旗孫得等十五人に命じてその廬舎を焼き、その妻子数人を殺し、その財物を掠奪した。各黎は激怒して変乱を起こし、陳政及び官軍百人は皆殺害された。巡按御史趙忠がこれを奏聞し、洪瑜は変乱を刺激した律により斬刑に処せられた。

原文正統九年,崖州守禦千戶陳政聞黎賊出沒,偕副千戶洪瑜領軍搜捕賊,乃圍熟黎村,黎首出見,政等輒殺之。又令軍旗孫得等十五人焚其廬舍,殺其妻孥數人,擄其財物。各黎激變,政及官軍百人,皆為所殺。巡按御史趙忠以聞,坐瑜激變律斬。

景泰三年、万州判官王琥に勅して言うには、「そなたの祖父が能く黎人を招撫したゆえ、特に土官を授けた。そなたも父の志を継承し、すでに数年を経ている。ここに特に勅を降してそなたに付し、管轄する村峒の黎人を撫諭し、各々生業に安んじ、別の峒の生黎の行いを模倣してはならない。その官軍もまた勝手に村峒に入り、擾害して変乱を刺激してはならない。」

原文景泰三年敕萬州判官王琥曰:「以爾祖父能招撫黎人,特授土官。爾能繼承父誌,亦既有年。茲特降敕付爾,撫諭該管村峒黎人,各安生業,不得仿效別峒生黎所為。其官軍亦不得擅入村峒,擾害激變。」

天順五年、両広巡撫葉盛に勅し、海南の賊五百余が城池を占拠しているので、速やかに瓊州に馳せ至り、機に応じて撫捕し、蔓延させないようにせよ。

原文天順五年敕兩廣巡撫葉盛,以海南賊五百餘占據城池,可馳至瓊,相機撫捕,勿使滋蔓。

弘治二年、崖州故土官陳迪の孫、冠帯舎人陳崇祐が朝貢した。その能く黎人の逃亡者を復業させる者を撫することを厚く賜った。十五年、黎賊符南蛇が反乱し、鎮兵がこれを討ったが、平定できなかった。戸部主事馮颙が上奏して言うには、「府治は大海の南にある。五指山峒があり、黎人が雑居する。外に三州・十県・一衛・十一所がある。永楽年間、土官州県を置いてこれを統治し、黎民は以前のように安堵していた。成化年間、黎人が乱を起こし、三度征討した。将領が功を貪り、無辜を殺戮した。弘治年間に至り、知府張桓・余浚が貪残で苛斂を行い、大いに黎人の心を失い、今日の南蛇の禍を醸成した。臣はもと土人であり、事勢をよく知っている。請う、なお元来設置された応襲土官の子舎を調査し、各々土兵を集めさせれば、数万を得ることができ、鎮巡官の節制に従わせよ。首悪符南蛇を擒らえることのできる者があれば、その祖職を復させる。蛮をもって蛮を攻めれば、数ヶ月で功績を奏上できるであろう。」詔してこれに従った。

原文弘治二年,崖州故土官陳迪孫、冠帶舍人陳崇祐朝貢。以其能撫黎人之逋逃復業者,厚賜之。十五年,黎賊符南蛇反,鎮兵討之,不下。戶部主事馮颙奏:「府治在大海南。有五指山峒,黎人雜居。外有三州、十縣、一衛、十一所。永樂間,置土官州縣以統之,黎民安堵如故。成化間,黎人作亂,三度征討。將領貪功,殺戮無辜。迨弘治間,知府張桓、余浚貪殘苛斂,大失黎心,釀成今日南蛇之禍。臣本土人,頗知事勢,乞仍考原設應襲土官子舍,使各集土兵,可得數萬,聽鎮巡官節制。有能擒首惡符南蛇者,復其祖職。以蠻攻蠻,不數月可奏績矣。」詔從之。

嘉靖十九年、総督蔡経は崖・万二州の黎岐が叛乱し、城邑を攻め逼っていることを以て、参将一員を設け、瓊州に駐劄して分守させることを請うた。二十八年、崖州の賊首那燕等が衆四千人を集めて乱を起こし、詔して両広官軍九千を発してこれを剿討させた。給事鄭廷鵠が言うには、

原文嘉靖十九年,總督蔡經以崖、萬二州黎岐叛亂,攻逼城邑,請設參將一員,駐劄瓊州分守。二十八年,崖州賊首那燕等聚眾四千人為亂,詔發兩廣官軍九千剿之。給事鄭廷鵠言:

瓊州の諸黎は山峒に盤居し、州県はかえってその外を環繞している。その地勢は彼高くして我低く、その土壌は彼膏腴にして我鹹鹵、その形勢は彼集まりて我散ず。故に郡を開いて以来千六百余年、黎の害に遭わぬ年はないが、今日ほど甚だしいことはなかった。今日の黎患は、九千の兵では処理できず、必ず狼土官兵を添調し、兼ねて打手を召募し、数万の衆を集め、一気に四面から攻撃して、はじめてこれを克服できるであろう。

原文瓊州諸黎盤居山峒,而州縣反環其外。其地彼高而我下,其土彼膏腴而我鹹鹵,其勢彼聚而我散。故自開郡來千六百餘年,無歲不遭黎害,然無如今日甚矣。今日黎患,非九千兵可辦,必添調狼土官兵,兼召募打手,集數萬眾,一鼓而四面攻之,然後可克。

かつて黎の患を剿除することを考うるに、その大挙は二つあり。元の至元辛卯(1291年)には、その穴を空しくし、五指山に石を勒した。その時は屯田府を建て、定安・会同の二県を立てたが、惜しむらくはその経略尽きず、故に得たる所旋ままため失う。嘉靖庚子(1540年)には、また大いに師徒ただを渡し、巣岡を攻毀し、至らざる処なし。ここにおいて議する者、徳霞の地勢平衍なるを以て、城を建て邑を立て、新民を招きて耕守せしめんと擬す。業に行われんとし、中道にして廃し、旋ため賊の資と為り、以て復た今日あるに至る。謹んで三事を条す。

原文嘗考剿除黎患,其大舉有二。元至元辛卯,曾空其穴,勒石五指山。其時雖建屯田府,立定安、會同二縣,惜其經略未盡,故所得旋失。嘉靖庚子,又嘗大渡師徒,攻毀巢岡,無處不至。於是議者謂德霞地勢平衍,擬建城立邑,招新民耕守。業已舉行,中道而廢,旋為賊資,以至復有今日。謹條三事:

一、崖黎は三面郡県に接し、惟だ東面は郎温・嶺脚の二峒岐賊に連なり、実に万州陵水の衝に当たる。崖賊攻撃を受くれば、必ず二峒を借りて東より訌みだれ、以て我が兵勢を分かたんとす。計らく須らく先ず奇兵を分かちて二峒を攻め、大兵を以て径ただちに崖賊を搗くべし。彼此自救に暇あらず、相い顧みる能わず、則ち殲滅期して待つべし。伝聞するに賊首那燕はすでに凡陽に入り岐賊を構集すと。これは必ず多方我を誤らしめ、且つ訛言を以て揺惑し、諸部の逆を助くる心を堅くせんとす。宜しく慰安を開示し、以て狐疑の党を解くべし。

原文一,崖黎三面郡縣,惟東面連郎溫、嶺腳二峒岐賊,實當萬州陵水之沖。崖賊被攻,必借二峒東訌以分我兵勢。計須先分奇兵攻二峒,而以大兵徑搗崖賊。彼此自救不暇,莫能相顧,則殲滅可期。傳聞賊首那燕已入凡陽構集岐賊。此必多方誤我,且訛言搖惑,以堅諸部助逆之心。宜開示慰安,以解狐疑之黨。

一、隋・唐の郡県は、輿図に考うべく、今多く黎中に陥入す。蕩平の後は悉く恢復すべく、併せて徳霞・千家・羅活等の膏腴の地を尽く州県に還し、屯田を設立し、且つ耕し且つ守るべし。なお羅活・磨斬より路を開き、以て定安に達し、徳霞より溪水に沿いて以て昌化に達すべし。道路四達し、井邑相い望み、徒に奸を懾し萌を銷けすのみならず、王路益々開拓せん。

原文一,隋、唐郡縣,輿圖可考,今多陷入黎中。蕩平後悉宜恢復,並以德霞、千家、羅活等膏腴之地盡還州縣,設立屯田,且耕且守。仍由羅活、磨斬開路,以達定安,由德霞沿溪水以達昌化。道路四達,井邑相望,非徒懾奸銷萌,而王路益開拓矣。

一、軍威既に振るう、宜しく参将府を徳霞に建て、各州県に便宜行事を許し、以て人心を鎮安すべし。その新附の民の中に異志ある者は、或いはこれを海北地方に遷して屯田せしめ、或いは附近の衛所の戎籍に編入し、漢の潳山蛮を徙す故事の如くすべし。また仁明慈恵の長を択び、久任して安輯すれば、則ち瓊人は万世の利を受くべし。

原文一,軍威既振,宜建參將府於德霞,各州縣許以便宜行事,以鎮安人心。其新附之民中有異志者,或遷之海北地方屯田,或編入附近衛所戎籍,如漢徙潳山蠻故事。又擇仁明慈惠之長,久任而安輯之,則瓊人受萬世利矣。

疏を下して兵部に議せしむ。詔して悉く行うを允す。

原文疏下兵部議,詔悉允行。

二十九年、総兵官陳圭・総督欧陽必進等、兵を督して進剿し、賊五千三百八十級を斬り、一千四十九人を俘え、牛羊器械はこれに倍し、三百七十六人を招撫す。捷聞す。帝その功を嘉し、圭・必進に禄米蔭襲を賜うこと差あり。

原文二十九年,總兵官陳圭、總督歐陽必進等督兵進剿,斬賊五千三百八十級,俘一千四十九人,奪牛羊器械倍之,招撫三百七十六人。捷聞,帝嘉其功,賜圭、必進祿米蔭襲有差。

万暦十四年、長田峒の黎出でて掠め、兵備道兵を遣わしてこれを執戮す。草子坡の諸黎衆を召して来たり報復し、長沙営に戦い、黎首百余級を斬る。ここにおいて黄村・田尾の諸峒の黎皆出でて降る。

原文萬歷十四年,長田峒黎出掠,兵備道遣兵執戮之。草子坡諸黎召眾來報復,戰於長沙營,斬黎首百餘級,於是黃村、田尾諸峒黎皆出降。

瓊州の黎人は、五指山中に居る者を生黎と為し、州人と交わらず。その外を熟黎と為し、州地に雑耕す。元の姓は黎、後に多く王及び符と為す。熟黎の産は、半ば湖広・福建の奸民亡命、及び南・恩・藤・梧・高・化の征夫、その土を利し、占居し、各々酋首と称す。成化間、副使塗棐計を設けて犁掃し、漸く編差に就く。弘治間、符南蛇の乱、郡を連ねて震驚す。その小醜侵突、時にして息やむこと無しという。

原文瓊州黎人,居五指山中者為生黎,不與州人交。其外為熟黎,雜耕州地。原姓黎,後多姓王及符。熟黎之產,半為湖廣、福建奸民亡命,及南、恩、藤、梧、高、化之征夫,利其土,占居之,各稱酋首。成化間,副使塗棐設計犁掃,漸就編差。弘治間,符南蛇之亂,連郡震驚,其小醜侵突,無時而息雲。