明史

列傳第二百九 外國二 安南

安南

安南は、古の交阯の地である。唐以前はすべて中国に隷属していた。五代の時に、初めて土人の曲承美が窃拠した。宋の初め、丁部領を交阯郡王に封じ、三伝して大臣の黎桓にさんさんだつされた。黎氏もまた三伝して大臣の李公蘊に簒奪された。李氏は八伝し、子がなく、その婿の陳日炬に伝えた。元の時、しばしばその国を破った。

洪武元年、王日煃は廖永忠が両広を平定したと聞き、使者を遣わして帰順しようとしたが、梁王が雲南にいたため果たせなかった。十二月、太祖は漢陽知府易済に命じてこれを招諭させた。日煃は少中大夫同時敏、正大夫段悌・黎安世らを遣わし、奉表して来朝し、方物を貢いだ。翌年六月に京師に到着した。帝は喜び、宴を賜い、侍読学士張以寧・典簿牛諒を遣わして安南国王に封じ、駝紐塗金銀印を賜った。詔して曰く、「それ安南国王陳日煃よ、惟れ乃が祖父は、境を南陲に守り、中国に藩と称し、臣職を恭しく克くし、以て永世に封ぜらる。朕は天地の霊に荷い、華夏を粛清し、書を馳せて往き報ず。卿即ち表を奉じて臣と称し、専使をして来賀せしめ、前人の訓に法り、遐壤の民を安んず。この勤誠を眷み、深く嘉尚すべし。是を用い使を遣わし印を齎し、仍って爾を安南国王に封ず。於戲!広きを視て同仁にし、哲王の盛典に効わんことを思う。爵は五等を超え、奕葉の遺芳を承けしむ。益々令猷を茂くし、永く藩輔たるべし。欽哉」。日煃に大統暦・織金文綺紗羅四十匹を賜い、同時敏以下にもすべて賜物があった。

以寧らが到着すると、日煃は先に卒し、甥の日熞が嗣位していた。その臣阮汝亮を遣わして来迎させ、誥印を請うたが、以寧らは与えなかった。日熞はそこでまた杜舜欽らを遣わして朝廷に命を請わせ、以寧は安南に駐在して命を待った。時に安南と占城が兵を構えていたので、帝は翰林編修羅復仁・兵部主事張福に命じて罷兵を諭させ、両国とも詔を奉じた。翌年、舜欽らが至り哀を告げた。帝は素服で西華門に御し引見し、そこで編修王廉を遣わして祭らせ、賻として白金五十両・帛五十匹を賜った。別に吏部主事林唐臣を遣わして日熞を王に封じ、金印及び織金文綺紗羅四十匹を賜った。廉が既に出発した後、帝は漢の馬援が銅柱を立てて南蛮を鎮めた功績が甚だ偉大であったとして、廉に命じて就いてこれを祀らせた。まもなく科挙の詔をその国に頒布し、かつ嶽瀆の神号を更定したこと及び沙漠を廓清したことを、二度官を遣わして詔告した。日熞は上大夫阮兼・中大夫莫季龍・下大夫黎元普らを遣わして謝恩し、方物を貢いだ。兼は道中で卒したので、詔してその王及び使臣に賜物を与え、兼の柩を帰国させた。ほどなく、復仁らが還り、その贐を却けて受けなかったと述べたので、帝はこれを嘉し、季龍らに加賜した。

四年春、使者を遣わして象を貢ぎ、沙漠平定を賀した。また使者を以寧らに随行させて来朝させた。その冬、日熞は伯父叔明に逼られて死んだ。叔明は罪を恐れ、象及び方物を貢いだ。翌年京に至り、礼官が署表が日熞の名でないのを見て、詰問して実情を得、詔してこれを却けた。叔明はまた朝貢して謝罪し、かつ封を請うた。その使者はひたすら日熞が実は病死し、叔明は外に遜避していたが、国人に推戴されたと述べた。帝は国人に日熞の喪に服させ、叔明には姑く前王の印をもって視事させた。七年、叔明は使者を遣わして謝恩し、自ら年老いたと称し、弟の煓に摂政を命ずることを乞うた。これに従った。煓は使者を遣わして謝恩し、貢期を請うた。詔して三年に一貢とし、新王は世ごとに見えることとした。まもなくまた使者を遣わして貢いだので、帝は所司に命じて諭して却けさせ、かつ使者は三四人を過ぎず、貢物は厚くないことを定めた。

十年、煓は占城を侵し、敗れて没した。弟の煒が代わって立ち、使者を遣わして哀を告げたので、中官陳能を遣わして祭らせた。時に安南は強さを恃み、占城を滅ぼそうとしたが、かえって喪敗を招いた。帝は官を遣わして前王叔明に兵端を構えて禍を遺すなと諭した。叔明が実は国事を主導していたからである。叔明は方物を貢いで謝罪した。広西思明の土官が安南が国境を犯したと訴え、安南もまた思明が辺境を擾乱したと訴えた。帝は檄を移してその奸誑の罪を数え、守臣に命じてその使を納れさせなかった。煓は恐れ、使者を遣わして謝罪し、頻年にわたり奄豎・金銀・紫金盤・黄金酒尊・象馬の類を貢いだ。帝は助教楊盤を遣わして使いさせ、雲南の軍餉を供給するよう命じた。煓は直ちに五千石を臨安に輸送した。二十一年、帝はまた礼部郎中邢文偉に命じて敕及び幣を齎し往き賜わらせた。煓は使者を遣わして謝し、また象を進めた。帝はその頻繁さと、かつ貢物が奢侈であるとして、命じてなお三歳に一貢とし、犀象を進めないこととした。

時に国相黎季犛が権柄を窃み、その主煓を廃し、まもなくこれをしいし、叔明の子日焜を立てて国事を主させ、なお煓の名を仮って入貢した。朝廷は知らずしてこれを納れたが、数年を経て初めて気づき、広西の守臣に命じてその使を絶たせた。季犛は恐れ、二十七年に使者を広東より遣わして入貢した。帝は怒り、官を遣わして詰責し、その貢を却けた。季犛はますます恐れ、翌年また詭詞をもって入貢した。帝はその弑逆しいぎゃくを悪んだが、師を労して遠征することを欲せず、そこでこれを納れた。大軍がまさに龍州の趙宗寿を討とうとしていたので、礼部尚書任亨泰・御史厳震直に命じて日焜に諭し、自ら疑うなからしめた。季犛はこの言葉を聞き、やや自ら安んじた。帝はまた刑部尚書楊靖を遣わして米八万石を輸送して龍州の軍に餉を与えるよう諭させた。季犛は一万石を輸送し、金千両・銀二万両を餽り、龍州の陸路は険しいので、憑祥洞まで運ぶことを請うた。靖は許さず、二万石を沲海江に輸送するよう命じた。江は龍州から半日の距離であった。靖はそこで言上した、「日焜は年幼く、国事はすべて季犛父子が決しており、このように観望することを敢えてしている」。時に帝は宗寿が帰順したため、兵を移して向武の諸蛮を征し、そこで靖に命じて二万石を輸送して軍に給し、その餽った金銀は免じた。翌年、季犛は前王叔明の訃を告げた。帝は叔明が本来簒弑した者であるとして、弔祭すれば乱を奨励することになるとし、行わずに止め、檄を移してこれを知らせた。

思明の土官黄広成が言上した、「元が思明総管府を設置して以来、管轄する左江の州県は、東は上思州、南は銅柱を境界としていた。元が交阯を征した時、銅柱から百里を去ったところに永平寨万戸府を立て、兵を遣わして戍守させ、交人にその軍を給させた。元末の喪乱に、交人が永平を攻め破り、銅柱を越えること二百余里、思明所属の丘温・如嶅・慶遠・淵・脱などの五県の地を侵奪し、近ごろまた任尚書に告げて思明洞登地に駅を置かせた。臣はかつて具奏し、楊尚書を遣わして勘実されることを蒙った。安南に命じて五県の地を臣に還し、なお銅柱を画して境界とせしめられたい」。帝は行人陳誠・呂讓を遣わして往き諭させたが、季犛は固執して従わなかった。誠は自ら書を作って日焜を諭したが、季犛は書を貽して争い、かつ日焜の書として戸部に移した。誠らが復命すると、帝はその終に肯んで還さないことを知り、乃ち曰く、「蛮夷の相争うは、古よりこれあり。彼は頑なさを恃み、必ず禍を招くであろう。姑くこれを俟とう」。建文元年、季犛は日焜を弑し、その子顒を立てた。また顒を弑し、その弟[上安下火]を立てたが、まだ襁褓の中にあり、またこれを弑した。大いに陳氏の宗族を殺戮して自ら立ち、姓名を胡一元と改め、その子蒼を胡𡗨と名付け、帝舜の裔たる胡公の後裔であると称し、国号を大虞と僭称し、年号を元聖とした。まもなく自ら太上皇と称し、位を𡗨に伝えた。朝廷はこれを知らなかった。

成祖が大統を継ぐと、使者を遣わして即位の詔をその国に告げさせた。永楽元年、胡𡗨は自ら安南国事を権理することを称し、使者を遣わして表を奉じて朝貢し、言うには、「高皇帝の時、安南王陳日煃が率先して誠を尽くしたが、不幸にも早く亡くなり、後嗣が絶えた。臣は陳氏の甥であり、衆に推されて国事を権理し、今に至ること四年である。天恩を賜って封爵を授けられれば、臣は死んでも二心はない」と。事は礼部に下され、部臣はこれを疑い、使者を遣わして実情を探るよう請うた。そこで行人楊渤らに命じて勅を携え、その陪臣・父老を諭し、陳氏の継嗣の有無、胡𡗨が推戴されたことの誠偽を、ことごとく実状を以て奏聞させた。胡𡗨の使者に賜物を与えて帰国させ、さらに行人呂譲・丘智を遣わして絨錦・文綺・紗羅を賜った。やがて胡𡗨の使者が楊渤らに随って還り、陪臣・父老の上った表を進呈したが、それは胡𡗨が帝を欺いたのと同じ内容で、直ちに胡𡗨に封爵を賜ることを乞うた。帝は礼部郎中夏止善に命じて安南国王に封じた。胡𡗨は使者を遣わして謝恩したが、帝はその国中を依然として自らのものとしていた。

思明の管轄する禄州・西平州・永平寨が侵奪されたので、帝は返還を諭したが、聞き入れなかった。占城が安南の侵掠を訴えたので、詔を下して修好するよう命じた。胡𡗨は表向きは命に従うと言いながら、侵掠は以前のままで、さらに印章を授けて属国とし、天朝の賜物を奪い取ろうとした。帝はこれを憎み、ちょうど使者を遣わして厳しく責めようとしたところ、かつての陪臣裴伯耆が宮廷に至って難を告げ、言うには、「臣の祖父・父は皆執政大夫であり、国のために死んだ。臣の母は陳氏の近族である。故に臣は幼くして国王に仕え、五品の官となり、後に武節侯陳渴真に属して裨将となった。洪武の末、陳渴真に代わって東海で寇を防いだ。ところが賊臣黎季犛父子が主君を弑し位を簒奪し、忠良を屠戮し、滅ぼされた一族は百十を数え、臣の兄弟妻子も害に遭った。人を遣わして臣を捕らえ、誅戮して醢にしようとした。臣は軍を棄てて逃れ、山谷に潜伏し、宮廷に至って肝胆を披瀝しようと思い、数年転々として、ようやく天日を仰いだ。窃かに思うに、季犛は故経略使黎国髦の子で、代々陳氏に仕え、寵栄を忝なく受け、その子の蒼もまた貴任に預かった。一朝にして簒奪し、姓を改め名を易え、僭号して元号を改め、朝命に恭しくない。忠臣良士は疾首痛心し、弔伐の師を興し、継絶の義を隆くし、奸凶を蕩除し、再び陳氏の後を立てられることを願う。臣は死んでも朽ちない。敢えて申包胥の忠を倣い、闕下に哀鳴する。惟れ皇帝の垂察を願う」と。帝は奏を得て感動し、役所に命じて衣食を給させた。ちょうど老撾が陳天平を送り届け、言うには、「臣天平は、前王陳日烜の孫、陳奣の子、陳日煃の弟である。黎賊は陳族をことごとく滅ぼし、臣は外州に逃れて免れた。臣の僚佐が忠義に激し、臣を主に推して賊を討とうとした。ちょうど軍を招集しようと議していたところ、賊兵が迫り、倉皇として出走し、巌谷に逃れ伏し、万死一生の思いで老撾に到達した。恭しく聞くに皇帝陛下が大統に入られたと。臣には依帰すべき所がある。万里を匍匐し、明庭に哀愬する。陳氏の後裔は臣ただ一人のみ、臣はこの賊と不倶戴天である。伏して聖慈の垂憐を祈り、迅かに六師を発し、天討を顕わすために用いられんことを」と。帝はますます感動し、役所に命じて賓館に住まわせた。

胡𡗨がちょうど使者を遣わして正旦を賀したので、帝は陳天平を見せると、皆愕然として拝し、泣く者もいた。裴伯耆が大義を以て使者を責めると、惶恐して答えることができなかった。帝は侍臣に諭して言った、「胡𡗨父子の悖逆は、鬼神の許さぬところであるのに、国中の臣民は共に欺蔽している。一国皆罪人である。朕はどうして容れられようか」と。

三年、御史李琦・行人王枢に命じて勅を携えさせ胡𡗨を責め、簒弑の実状を詳しく奏聞させるように命じた。雲南寧遠州がまた胡𡗨が七寨を侵奪し、その婿・娘を掠奪したと訴えた。胡𡗨はその臣阮景真を李琦らに従わせて入朝させ謝罪し、ただ僭号改元したことはないと言い、陳天平を迎えて主君として奉じ、さらに禄州・寧遠の地を返還することを請うた。帝はその詐りを疑わず、これを許した。行人聶聡に命じて勅を携え諭しに行かせ、言うには、「もし真に陳天平を迎え還し、君礼を以て事えれば、そなたを上公に封じ、大郡を以て封じよう」と。胡𡗨はまた阮景真を聶聡らに従わせて返答させ、陳天平を迎えると言った。聶聡は胡𡗨が誠実で信頼できると力説したので、帝は陳天平を帰国させ、広西左・右副将軍黄中・呂毅に命じて兵五千を率いて護送させた。

四年、陳天平が辞去する際、帝は厚く賜物を与え、胡𡗨を順化郡公に封じ、所属する州県をすべて食邑とするよう勅した。三月、黄中らが陳天平を護衛して鶏陵関に入り、芹站に至らんとした時、胡𡗨が伏兵を置いて陳天平を邀撃して殺害し、黄中らは敗れて還った。帝は大いに怒り、成国公朱能らを召して謀り、討伐を決意した。七月、朱能に征夷将軍印を佩かせて総兵官とし、西平侯沐晟に征夷副将軍印を佩かせて左副将軍とし、新城侯張輔を右副将軍とし、豊城侯李彬・雲陽伯陳旭を左・右参将とし、師を督して南征させた。朱能は龍州に至って病没したので、張輔が代わってその軍を率いた。安南の坡壘関に入り、檄を伝えて胡一元父子の二十の大罪を数え、国人に陳氏の子孫を輔立する意を諭した。軍は芹站に駐屯し、そこで昌江に浮橋を造って渡った。前鋒は富良江の北岸の嘉林県に到達し、張輔は芹站から西の別道を取って北江府新福県に至り、斥候が沐晟・李彬の軍も雲南から白鶴に至ったと知らせたので、驃騎将軍朱栄を遣わして合流させた。当時、張輔らは分道して進軍し、到る所で勝利した。賊は江沿いに柵を巡らし、多邦隘に土城を増築し、城柵は九百里余り連なり、江北の民二百余万を大いに徴発して守らせた。諸江の海口には皆木樁を打ち込み、居城の東都は守備を厳重にし、水陸の兵は七百萬と号し、持久して官軍を疲れさせようとした。張輔らはそこで営を三帯州箇招市の江口に移し、戦艦を建造した。帝は賊が師を緩ませて瘴癘を待つことを慮り、張輔らに必ず来年の春に賊を滅ぼすよう勅した。十二月、沐晟は洮江の北岸に駐屯し、多邦城と対峙した。張輔は陳旭を遣わして洮江州を攻撃させ、浮橋を造って軍を渡らせ、遂に共に城下に到達し、これを攻め落とした。賊が恃むところはこの城のみで、既に破られると、胆を裂かれた。大軍は富良江に沿って南下し、遂に東都を擣いた。賊は城を棄てて逃げ、大軍は入ってこれを占拠し、西都に迫った。賊は大いに宮室を焼き、舟に乗って海に入った。郡県は相次いで降伏し、抗拒する者は直ちに撃破した。士民が上書して黎氏の罪悪を陳べることは、日に百数を数えた。

五年正月、木丸江で黎季犛を大破し、詔を宣して陳氏の子孫を訪求した。そこで耆老千百二十余人が軍門に至り、言うには、「陳氏は黎賊に殺し尽くされ、継ぐ者はない。安南は本来中国の地である。乞うらくは依然として職方に属し、内郡と同じにされんことを」と。張輔らはこれを奏聞した。まもなく富良江で賊を大破し、黎季犛父子は数隻の舟で遁走した。諸軍は水陸並行して追撃し、茶籠県に駐屯し、黎季犛が乂安に走ったことを知ると、挙厥江に沿って追撃し、日南州奇羅海口に至り、柳升に命じて海に出て追撃させた。賊は数度敗れ、軍を成すことができなかった。五月、高望山で黎季犛及び偽太子を捕らえ、安南はことごとく平定された。群臣は耆老の言うように、郡県を設置するよう請うた。

六月朔日(一日)、詔を天下に告げ、安南を交阯と改め、三司を設置した。都督ととく僉事呂毅に都司事を掌らせ、黄中をその副とし、前工部侍郎張顕宗・福建布政司左参政王平を左・右布政使とし、前河南按察使阮友彰を按察使とし、裴伯耆に右参議を授け、また尚書黄福に布政・按察の二司事を兼掌させた。交州・北江・諒江・三江・建平・新安・建昌・奉化・清化・鎮蛮・諒山・新平・演州・乂安・順化の十五府を設け、三十六州を分轄し、百八十一県を管轄させた。また太原・宣化・嘉興・帰化・広威の五州を設け、直隷布政司とし、二十九県を分轄させた。その他の要害には、ことごとく衛所を設けてこれを制御した。そこで有司に命じ、陳氏の諸王で弑された者にはことごとく贈謚を賜い、祠を建て塚を治め、各二十戸の灑掃戸を置かせた。宗族で被害を受けた者には官を贈り、軍民で死亡して野ざらしになっていた者を埋葬させた。官に在る者はそのまま旧職に留め、新たに任命された者とともに治めさせた。黎氏の苛政は一切免除し、刑に遭っていた者はすべて放免した。高年碩徳の者を礼遇した。鰥寡孤独で訴えるところのない者には養済院を設けた。才徳を抱く俊秀は丁寧に京師へ送らせた。また詔して山林の隠逸・明経博学・賢良方正・孝弟力田・聰明正直・廉能幹済・練達吏事・精通書算・明習兵法及び容貌魁岸・言語便利・膂力勇敢・陰陽術数・医薬方脈の諸人を訪求し、ことごとく礼を以て敦致し、京師へ送って録用させた。ここにおいて張輔らは先後して九千余人を奏挙した。九月、季犛・蒼父子が俘虜として闕下に至り、偽将相の胡杜らとともにことごとく吏に属せしめられた。蒼の弟の衛国大王澄と子の芮を赦し、所司に衣食を給させた。

六年六月、張輔らは軍を整えて京師に還り、交阯の地図を上呈した。東西千七百六十里、南北二千八百里。人民三百十二万有余を安撫し、蛮人二百八万七千五百有余を獲、象・馬・牛二十三万五千九百有余、米粟千三百六十万石、船八千六百七十余艘、軍器二百五十三万九千八百を獲た。ここにおいて大いに封賞を行い、張輔は英国公に進み、沐晟は黔国公に進み、その余はそれぞれ差等を以て叙賚された。

当時、中朝が置いた官吏は、寛厚を務めて新たに造った地を安輯しようとしたが、蛮人は自ら同類でないとして、たびたび相驚恐した。陳氏の故官で簡定という者は、先に降伏し、京師に遣わされようとしたが、その党の陳希葛とともに逃れ去り、化州の偽官鄧悉・阮帥らと謀乱を図った。簡定はついに大号を僭称し、元号を興慶とし、国号を大越とした。乂安・化州の山中に出没し、大軍が還るのを待ち、ただちに出て盤灘鹹子関を攻め、三江府往来の孔道を扼し、交州の近境を寇した。慈廉・威蛮・上洪・天堂・応平・石室の諸州県は皆これに呼応し、守将はたびたび討伐に出たが、皆功がなかった。事が聞こえ、沐晟を征夷将軍とし、雲南・貴州・四川の軍四万人を統率させ、雲南より征討させた。そして使者を遣わし、勅を齎して降伏を招き、世官を与えるとした。賊は応じず、沐晟は生厥江で戦い、大敗し、呂毅及び参賛尚書劉儁がこれに死した。

七年、敗報が聞こえ、さらに南畿・浙江・江西・福建・湖広・広東・広西の軍四万七千人を発し、英国公張輔に従ってこれを征討させた。張輔は賊が江海に依拠し、陸師に不利であるとして、北江仙游に駐屯し、大いに戦艦を造り、また寇に遭って逃亡した者を撫した。ついに慈廉・広威の諸営柵を連破した。その党の鄧景異が南策州盧渡江太平橋を扼しているのを偵知し、そこで進軍して鹹子関に至った。偽金吾将軍阮世毎は衆二万を率い、対岸に寨柵を立て、船六百余艘を列ね、東南に木樁を樹てて防禦した。時は八月、西北風急なり、張輔は陳旭・朱広・俞譲・方政らの舟を督して斉しく進み、砲矢飆発し、三千級を斬首し、偽監門将軍潘低ら二百余人を生擒し、船四百余艘を獲た。ついに進撃して鄧景異を撃ち、鄧景異は先に逃走し、ここにおいて交州・北江・諒江・新安・建昌・鎮蛮の諸府を平定した。鄧景異を太平海口に追撃して破り、その党の范必栗を獲た。

当時、阮帥らは簡定を推して太上皇とし、別に陳季拡を立てて帝とし、元号を重光とした。そこで使者を遣わし、自ら前安南王の孫と称し、封爵を求めた。張輔はこれを叱して斬り、黄江・阿江・大安海口より福成江に至り、転じて神投海口に入り、賊の樹てた木樁柵をことごとく除去した。十余日で清化に抵り、水陸ともに畢会した。簡定はすでに演州に奔り、陳季拡は乂安に走り、阮帥・鄧景異らもまた散亡した。ここにおいて軍を駐め、余党を捕えた。簡定は美良県吉利柵に走り、張輔らは窮追してこれに及んだ。簡定は山中に走入り、大索したが得られず、ついにこれを包囲し、その偽将相の陳希葛・阮汝勵・阮晏らとともにことごとく就擒した。

先に、賊党の阮師檜が王を僭称し、偽金吾上将軍杜元措らとともに東潮州安老県の宜陽社を占拠し、衆二万余人を擁していた。八年正月、張輔が進撃し、四千五百余級を斬首し、その党の范支・陳原卿・阮人柱ら二千余人を擒え、ことごとく斬り、京観を築いた。張輔は将に班師せんとして言う、「陳季拡及びその党の阮帥・胡具・鄧景異らはなお演州・乂安に在り、清化に逼っている。しかも鄧鎔は神投福成江口を塞ぎ、清化の要路を占拠し、乂安の諸処に出没している。もし諸軍がことごとく還れば、恐らく沐晟の兵は少なくて敵わないであろう。都督江浩、都指揮の俞譲・花英・師祐らの軍を留め、沐晟を佐けて守禦させてほしい」。これに従った。五月、沐晟は陳季拡を虞江に追撃し、賊は柵を棄てて遁走した。古霊県及び会潮・霊長海口に追撃し、三千余級を斬首し、偽将軍黎弄を獲た。陳季拡は大いに窮し、表を奉って降伏を乞うた。帝は心にその詐りを知りながら、しばらくこれを許し、詔して交阯布政使を授け、阮帥・胡具・鄧景異・鄧鎔を並びに都指揮とし、陳原樽を右参政とし、潘季祐を按察副使とした。詔が下った後、賊に悔い改める心のないことを思い、九年に再び張輔に命じて軍二万四千を督し、沐晟の軍と合してこれを討たせた。賊は月常江を占拠し、木樁を四十余丈樹て、両岸に柵を二三里置き、船三百余艘を列ね、山の右に伏兵を設けた。秋、張輔・沐晟らは水陸並進し、阮帥・胡具・鄧景異・鄧鎔らが来て拒んだ。張輔は朱広らに命じて艦を連ねて木樁を抜き進ませ、自ら方政らを率いて歩隊でその伏兵を剿滅し、水陸夾攻した。賊は大敗し、阮帥らは皆散走した。偽将軍の鄧宗稷・黎徳彝・阮忠・阮軒らを生擒し、船百二十艘を獲た。張輔はそこで水軍を督して陳季拡を剿討し、石室・福安の諸州県に聞くところ、偽龍虎将軍黎蕊らが鋭江の浮橋を断ち、生厥江の交州後衛の道路を阻んでいるので、ついにこれを征討した。黎蕊及び范慷が来て拒み、黎蕊は矢に中って死んだ。偽将軍阮陁を斬り、偽将軍楊汝梅・防禦使馮翕を獲、千五百級を斬首し、余賊を追殺して殆ど尽くした。范慷及び杜箇旦・鄧明・阮思瑊らもまた就擒した。

十年、輔は督方政らを率いて賊船を神投海にて撃ち、これを大いに破り、偽将軍陳磊・鄧汝戯らを生け捕りにした。阮帥らは遠く逃れ、追撃も及ばなかった。輔の軍は乂安土黄に至り、偽少保潘季祐らが降伏を請い、偽官十七人を率いて謁見に上った。輔は制を承けて季祐に按察副使を授け、乂安府の事を署理させた。ここにおいて偽将軍・観察・安撫・招討諸使の陳敏・阮士勤・陳全勖・陳全敏らが相次いで降った。

翌年、輔及び晟は軍を合わせて順州に至った。阮帥らは愛子江に伏兵を設け、かつ昆伝山の険に拠り、象陣を列べて敵を迎え撃った。諸軍はこれを大いに破り、偽将軍潘径・阮徐ら五十六人を生け捕りにし、愛母江まで追撃した。賊は潰散し、鄧鎔の弟である偽侯鉄及び将軍潘魯・潘勤らはことごとく降った。翌年の春、進軍して政和に至った。賊帥の胡同が降り、偽大将軍景異が党与の黎蟾ら七百人を率いて暹蛮の昆蒲柵に逃れたと述べた。そこで羅蒙江に進み、騎馬を捨てて歩行し、到着する頃には賊は既に逃げ去っていた。叱蒲捺柵まで追うと、またも逃げ去った。昏夜に二十余里を行き、更鼓の声を聞くと、輔は政らを率いて枚を銜み疾走し、黎明に叱蒲幹柵に到着した。江北の賊はなおも南岸に寨を構えていた。官軍は江を渡ってこれを包囲し、矢が景異の脇に当たり、これを生け捕りにした。鎔及びその弟鈗は逃げ走ったが、追撃してこれを捕らえ、その衆をことごとく獲た。別将の朱広は偽大将軍阮帥を暹蛮に追い、暹人関の諸山を大いに捜索し、帥及び季拡らの家族を捕獲した。帥は南霊州に逃れ、土官の阮茶彙に依った。指揮の薛聚が追撃して帥を捕獲し、茶彙を斬った。

初め、鄧鎔が捕らえられた時、季拡は乂安の竹排山に逃れた。輔は都指揮の師祐を遣わしてこれを襲撃させると、老撾に逃げ走った。祐はその跡を追い、老撾は官軍がその地を蹂躙することを恐れ、自ら縛して献上することを請うた。輔は檄を飛ばしてこれを索め、祐に深入りを命じ、三関を攻克し、金陵箇に抵ると、賊党はことごとく奔り、ついに季拡及びその弟である偽相国驩国王季揝を獲て、他の賊はことごとく平定した。翌年二月、輔・晟らは軍を返して京に入った。四月、再び輔に征夷将軍の印を佩かせて命じ、出鎮させた。十四年に召還された。翌年、豊城侯李彬に命じて代わりに鎮守させた。

交人はもとより乱を好んだ。中官の馬騏が採辦のために至り、境内の珍宝を大いに索めると、人情は騒動し、傑黠な者がこれを煽動した。大軍が帰還したばかりで、即ち並び起って乱を為した。陸那の阮貞、順州の黎核・潘強と土官同知の陳可論・判官の阮昭・千戸の陳忷・南霊州判官の阮擬・左平知県の范伯高・県丞の武萬・百戸の陳已律らが一時に並び反した。彬は皆将を遣わして討ち滅ぼしたが、反する者はなお止まなかった。やがて俄楽巡検の黎利、四忙の故知県車綿の子である三、乂安知府の潘僚、南霊州千戸の陳順慶、乂安衛百戸の陳直誠も、機に乗じて乱を起こした。その他の奸宄、范軟は俄楽に起ち、武貢・黄汝典は偈江に起ち、儂文歴は丘温に起ち、陳木果は武定に起ち、阮特は快州に起ち、吳巨來は善誓に起ち、鄭公證・黎姪は同利に起ち、陶強は善才に起ち、丁宗老は大湾に起ち、范玉は安老に起ち、皆自ら官爵を署し、将吏を殺し、廬舎を焼いた。楊恭・阮多という者あり、皆自ら王と称し、その党の韋五・譚興邦・阮嘉を太師・平章と称し、群寇と相倚り、而して潘僚・范玉は特に猖獗であった。僚は、故乂安知府季祐の子であり、父の職を嗣いだが、馬騏の虐げに耐えられず、遂に反した。土官指揮の路文律・千戸の陳苔らがこれに従った。玉は塗山寺の僧であったが、天が印剣を降したと自称し、遂に僭って羅平王と称し、紀元を永寧とし、范善・吳中・黎行・陶承らと乱を為し、相国・司空しくう・大将軍に署し、城邑を攻掠した。彬は東西に征剿し、日も暇あらず。中朝は賊が久しく未だ平らかでないことを以て、十八年に栄昌伯陳智を左参将に任じ、これを助けさせた。また勅を降して彬を責めて曰く、「叛寇の潘僚・黎利・車三・儂文歴らは今に至るまで未だ獲ず、兵はいつか息み、民はいつか安んずるを得ん。宜しく広く方略を為し、速やかに蕩平を奏すべし」と。彬は惶恐し、諸将を督して追剿させた。翌年の秋、賊はことごとく破滅したが、ただ黎利を得ることができなかった。

利は初め陳季擴に仕えて金吾将軍となり、後に帰正し、用いられて清化府俄楽県巡検となったが、邑邑として志を得ず。大軍が帰還するに及んで、遂に反し、僭って平定王と称し、弟の石を相国とし、その党の段莽・范柳・范晏らと兵を放って恣に掠奪した。官軍がこれを討つと、晏らを生け捕りにし、利は逃げ去った。久しくして、出て可藍柵を占拠し行劫した。諸将の方政・師祐が剿伐してその偽将軍阮箇立らを獲ると、利は老撾に逃げ匿れた。政らが帰還するに及んで、利は潜み出て、玉局巡検を殺した。已にして、再び出て磊江を掠め、追撃する毎に輒ち逃げ去った。群盗が尽く滅びるに及んで、利は益々深く匿れた。杉が上奏して言うには、「利は老撾に窜し、老撾は官軍の入るなからんことを請い、当にその部の兵を尽く発して利を捕らえんとす。今久しく遣わさず、情は測るべからず」と。帝は老撾が賊を匿っていると疑い、彬に命じてその使臣を京に送り詰問させると、老撾は乃ち利を追い出した。

二十年春、彬が卒す。詔して智に彬に代わらしむ。二十一年、智は利を寧化州車来県に追い、これを破った。利は再び遠くに窜した。翌年の秋、智が上奏するには、利は初め老撾に逃れ、後に逐われて瑰県に帰った。官軍が進撃すると、その頭目の范仰らは既に男婦千六百人を率いて降り、利は撫を求め、その部を率いて来帰することを願うと雖も、ただ俄楽に出でず、軍器を造り未だ已まず、必ず進兵すべしと。奏が至るに、会して仁宗践祚に因りて大赦天下し、因って智に善くこれを撫することを勅した。而して利は既に茶籠州を寇し、方政の軍を破り、指揮の伍雲を殺した。

利が未だ叛さざりし時、鎮守中官の山壽と善し。ここに至り壽が朝に還ると、力を尽くして利は己と相信ず、今往きて諭せば必ず来帰すと述べた。帝曰く、「此の賊は狡詐なり。若しこれに紿かされば、則ちその勢い益々熾んにして、制し易からず」と。壽は頭を叩きて言うには、「臣の往きて諭すに、而して利来らざれば、臣まさに万死すべし」と。帝はこれを頷き、壽を遣わして勅を齎し利に清化知府を授け、慰諭すること甚だ至った。勅が降りたばかりで、利は既に清化を寇し、都指揮の陳忠を殺した。利は勅を得て、降る意なく、即ち撫を借りて守臣を愚弄し、佯りて秋涼を俟って官に赴かんと言いながら、寇掠已まず。

時に洪熙と改元し、将軍印を鋳造して辺境の将に分かち頒つ。陳智は征夷副将軍印を得、また安平伯李安を派遣してこれを補佐せしむ。陳智は平素より将略なく、賊を憚り、撫を借りて中朝を愚弄し、かつ方政と相迕い、遂に兵を頓して進まず。賊はますます忌憚なく、再び茶籠を囲む。陳智らは坐視して救わず。七月を閲し、城中の糧尽き、巡按御史これを聞く。奏が至るに及び仁宗崩ず。宣宗初めて即位し、勅を下して陳智及び三司の官を責む。陳智ら意とせず、茶籠遂に陥ち、知州琴彭これに死す。尚書布按二司を掌る陳洽言す、「黎利は降を乞うと雖も、内に携貳あり、既に茶籠を陥とし、復た玉麻の土官・老撾の酋長と結び、これと悪を同じくす。始め秋涼を俟つと言い、今秋已に過ぎ、復た参政梁汝笏と怨み有りと言い、茶籠州を改めて授けられんことを乞い、かつ逆党の潘僚・路文律らを遣わして嘉興・広威諸州に往き徒衆を招集し、勢日ならず滋蔓す。命じて総兵者に速やかに行き剿滅せしむるを乞う」と。奏上り、勅を降して切責し、来春に賊を平らげんことを期す。陳智始めて懼れ、方政とともに可留関に薄し、敗れて還り、茶籠に至りてまた敗る。方政は勇にして謀寡く、陳智は懦にして忌多く、素より相能わず、しかも山寿は専ら招撫に務め、兵を擁して乂安にあり救わず、ここをもって屡敗す。

宣徳元年春、事聞こえ、また勅を降して切責す。時に渠魁未だ平らず、しかも小寇蜂起す。美留の潘可利は逆を助け、宣化の周荘・太原の黄菴らは雲南寧遠州の紅衣賊と結び大いに掠む。帝は沐晟に勅して寧遠を剿せしめ、また西南諸衛の軍一万五千・弩手三千を発して交阯に赴かしめ、かつ老撾に勅して叛人を容るべからずとす。四月、成山侯王通を征夷将軍と為し、都督馬瑛を参将と為し、往きて黎利を討たしむ。陳智・方政の職を削り、事官に充つ。王通未だ至らざるに、賊清化を犯す。方政は出戦せず、都指揮王演これを撃ち破る。詔して大いに交阯の罪人を赦し、黎利・潘僚降るもまた職を授け、金銀・香貨の採辦を停め、もって賊を弭がんことを冀う。しかるに賊に悛心なし。方政は諸軍を督して進討す。李安及び都指揮于瓚・謝鳳・薛聚・朱広ら先ず奔る。方政ここより敗れ、ともに事官に謫せられ、功を立てて罪を贖わしむ。未だ幾ばくもなく、陳智は都指揮袁亮を遣わし賊の黎善を広威州に撃たしむ。河を渡らんと欲す。土官何加伉に伏有りと言う。袁亮従わず、指揮陶森・銭輔らを遣わして河を渡らしむ。伏に中りともに死し、袁亮もまた執わる。黎善遂に兵を三道に分かち交州を犯す。その下関を攻むる者は都督陳濬に敗れ、辺江小門を攻むる者は李安に敗れ、黎善夜に走る。

王通これを聞き、また兵を三道に分かち出撃す。馬瑛は賊を清威に破り、石室に至り王通と会し、ともに応平寧橋に至る。士卒泥濘の中を行き、伏兵に遇い大敗す。尚書陳洽ここに死し、王通もまた脇に中りて還る。黎利は乂安に在りてこれを聞き、鼓行して清潭に至り、北江を攻め、進んで東関を囲む。王通は素より戦功なく、父の王真が事に死せるをもって封ぜらる。朝廷その庸劣を知らず、誤ってこれを用う。一戦にして敗れ、心胆皆喪い、挙動乖張し、朝命を奉ぜず、擅に清化以南の地を賊に与え、官吏軍民を尽く撤して東関に還る。ただ清化知州羅通従わず、黎利兵を移してこれを攻むるも下さず。賊は兵万人を分かち隘留関を囲む。百戸万琮奮撃し、すなわち退く。帝、王通の敗るるを聞き大いに駭き、安遠侯柳升を総兵官と為し、保定伯梁銘これを副え、師を督して赴討せしめ、また沐晟を征南将軍と為し、興安伯徐亨・新寧伯譚忠を左・右副将軍と為し、雲南より進兵せしむ。両軍合わせて七万余人。また王通に勅して固守し、柳升を俟たしむ。

二年春、黎利交州を犯す。王通と戦い、偽太監黎祕及び太尉・司徒しと・司空等の官を斬り、首級万を獲る。黎利は胆を破り奔遁す。諸将は勢いに乗じてこれを追うことを請う。王通は逗留すること三日。賊その怯なるを知り、復た寨を立て濠を濬い、四出して剽掠す。三月、また三万三千人を発し、柳升・沐晟に従いて征討せしむ。賊は兵を分かち丘温を囲む。都指揮孫聚力これを拒ぐ。先に、賊は昌江を大軍往来の要道と為し、衆八万余人を発して来攻す。都指揮李任ら力これを拒ぎ、賊を殺すこと甚だ衆し。九月を閲し、諸将は観望して救わず。賊は柳升の大軍の至るを懼れ、攻むること益々力む。夏四月、城陥ち、李任これに死す。時に賊は交州を囲むこと久しく、王通は城を閉じて敢えて出でず。賊はますますこれを易し、書を致して和を請う。王通はこれを許さんと欲し、衆を集めて議す。按察使楊時習曰く、「命を奉じて賊を討つ。これと和し、しかも擅に師を退く、何をもって罪を逃れん」と。王通怒り、厲声これを叱す。衆敢えて言わず。遂に黎利の書を聞こゆ。

柳升は命を奉ずること久しく、諸軍の集まるを俟ち、九月に始めて隘留関に抵る。黎利は既に王通と成言有り、乃ち詭りて陳氏に後有りと称し、大小の頭目を率いて書を具し柳升の軍に詣り、兵を罷め、陳氏の裔を立てんことを乞う。柳升は封を啓かず、使を遣わして奏聞す。未だ幾ばくもなく、柳升は進みて倒馬坡に薄し、陥没し、後軍相継いで尽く歿す。王通聞き、懼ること甚だし。大いに軍民官吏を集め、下哨河に出で、壇を立てて黎利と盟誓し、師を退くことを約す。遂に官を遣わし賊使とともに表及び方物を奉り進献す。沐晟の軍は水尾に至り、船を造り将に進まんとす。王通既に和を議すと聞き、また引き退く。賊これに乗じ、大いに敗る。

鴻臚寺、賊の柳升に与うる書を進む。略言す、「高皇帝龍飛し、安南首めて朝貢し、特に褒賞を蒙り、玉章を錫う。後に黎賊篡弒し、太宗皇帝師を興して討ち滅ぼし、陳氏の子孫を求む。陳族は禍を避けて方に遠く竄く、故に訪求するに従うこと無し。今に遺嗣の陳暠有り、身を潜めて老撾に二十年、本国の人民は先王の遺沢を忘れず、已にこれを訪い得たり。もし蒙くば黼宸に転達し、太宗皇帝の絶を継ぐ明詔に循い、その爵土を還さば、独り陳氏一宗のみならず、実に蛮邦億万の生民の幸いなり」と。帝書を得てこれを頷く。明日、陳暠の表もまた至る。「臣暠、先王陳暊の三世の嫡孫なり」と称す。その詞は黎利の書と略同じ。帝、心にその詐なるを知る。これに藉りて兵を息まんと欲し、遂にその言を納る。

初め、帝位を嗣ぎ、楊士奇・楊栄と交阯の事を語り、即ちこれを棄てんと欲す。ここに至り、表をもって廷臣に示し、兵を罷め民を息ますの意を諭す。楊士奇・楊栄力これを賛す。ただ蹇義・夏原吉は不可とす。然れども帝の意已に決す。廷臣敢えて争わず。十一月朔、礼部左侍郎李琦・工部右侍郎羅汝敬を正使と為し、右通政黄驥・鴻臚卿徐永達を副使と為し、詔を齎し安南人民を撫諭し、その罪を尽く赦し、これと新たにし、陳氏の後人の実を具して以て聞こえしむるを令す。因りて黎利に勅し、滅を興し絶を継ぐの意を以てし、かつ王通及び三司の官に諭し、軍民を尽く撤して北還せしむ。詔未だ至らざるに、王通は已に交阯を棄て、陸路より広西に還り、中官の山寿・馬騏及び三司の守令は、水路より欽州に還る。凡そ還り得る者はただ八万六千人に止まり、賊に殺され及び拘留せらるる者は勝計すべからず。天下挙って王通の地を棄て民を殃すを疾む。しかるに帝怒らず。

三年の夏、通らが京師に至ると、文武の諸臣がその罪を合わせて奏上し、朝廷で審問してことごとく服罪した。そこで陳智・馬瑛・方政・山壽・馬騏及び布政使弋謙とともに、死罪を論じて獄に下し、その家を籍没した。帝は終に誅殺せず、長く拘禁して処決を待つばかりであった。騏は恣に虐政を振るって変乱を激発させたので、罪は特に重く、謙は実に無罪であったが、皆同じく論じられた。当時の議論はこれを非とした。廷臣はまた沐晟・徐亨・譚忠の逗留及び喪師辱国の罪を弾劾したが、帝は問わなかった。

琦らが還朝すると、利は使を遣わして表を奉り謝恩し、詭りに暠が正月に物故し、陳氏の子孫は絶え、国人が利を推してその国を守らせたと述べ、謹んで朝命を俟つと言った。帝もまたその詐りを知っていたが、急いで封じることを欲せず、再び汝敬・永達を遣わして利及びその下の者に諭し、陳氏を訪ね求め、併せて官吏人民及びその眷属をことごとく還すよう命じた。明年の春、汝敬らが還ると、利はまた陳氏に遺種無しと述べ、別に命を請うた。これにより方物及び代身の金人を貢いだ。また言うには、「臣が九歳の娘は乱に遭って離散し、後に馬騏が連れ帰って宮婢に充てたことを知りました。臣は児女の私情に勝えず、冒昧に請います」と。帝は心中、陳氏に仮に後嗣があっても、利は必ず言わないと知っていたが、利を封ずるに名目が無いため、再び琦・汝敬に命じて勅諭し、再び訪ね求めさせ、かつ利の娘が病死したことを告げさせた。

五年の春、琦らが還ると、利は使を遣わして金銀器・方物を貢ぎ、再び飾った言葉を以て奏上を具し、併せて頭目耆老の奏請を具して、利に国政を摂行させよと請うた。使臣が帰ると、帝はまた陳氏の裔を訪ね、中国の遺民を還す二事を以てこれを諭したが、言葉は甚だ堅くはなかった。明年の夏、利は使を遣わして謝罪し、二事について飾った言葉で答え、再び頭目耆老の奏を進め、相変わらず利のために封を乞うた。帝はついにこれを許し、礼部右侍郎章敞・右通政徐琦に勅印を齎持させ、利に安南国事を権署することを命じた。利は使を遣わして表及び金銀器・方物を齎持させ、敞らに随って入貢した。七年二月に京師に達し、帰る際には、利及び使臣に皆賜物があった。明年八月に来貢し、兵部侍郎徐琦らにその使と偕に行かせ、順天保民の道を諭した。この年、利は卒した。

利は勅命を受けたとはいえ、その国に居ては帝を称し、紀元を順天とし、東・西の二都を建て、十三道に分けた。曰く山南・京北・山西・海陽・安邦・諒山・太原・明光・諒化・清華・乂安・順化・広南。各々承政司・憲察司・総兵使司を設け、中国の三司に擬した。東都は交州府にあり、西都は清華府にあった。百官を置き、学校を設け、経義・詩賦の二科を以て士を取った。彬彬として華風有り。僭位六年、私諡して太祖とす。

子の麟が継いだ。麟は一名を龍という。ここよりその君長は皆二名有り、一名を以て天朝に奏し、貢献は常制の如く絶えなかった。麟は使を遣わして訃を告げ、侍郎章敞・行人侯璡に命じて麟に国事を権署することを勅した。明年、使を遣わして入貢謝恩した。

正統元年四月、宣宗の賓天に因り、使を遣わして進香した。また英宗の登極及び太皇太后・皇太后の位号を尊上することに因り、併せて使を遣わして表賀し、方物を貢いだ。閏六月に再び貢いだ。帝は陳氏の宗支既に絶えたことを以て、麟を正位させようとし、廷議に下すと、皆宜しきことと為す。そこで兵部右侍郎李郁・左通政柰亨に勅印を齎持させ、麟を安南国王に封じた。明年、使を遣わして入貢謝恩した。時に安南思郎州の土官が広西の安平・思陵の二州を攻掠し、二峒二十一村を占拠した。帝は給事中湯鼐・行人高寅に命じて麟に侵地を還すよう勅した。麟は命に従い、使を遣わして謝罪したが、安平・思陵の土官が思郎を侵掠したことを訴えた。帝は守臣に厳しく戒飭させた。七年、安南の貢使が還る際、皮弁冠服・金織襲衣を齎持させてその王に賜うた。この歳、麟は卒し、私諡して太宗とす。改元すること二:紹平六年、大寶三年。

子の濬が継いだ。一名を基隆といい、使を遣わして訃を告げた。光禄少卿宋傑・兵科都給事中薛謙に命じて節を持ち冊封し国王と為した。濬は将を遣わして占城を侵占し、新州港を奪い、その王摩訶賁該を擄いて帰った。帝は新王摩訶貴来を立て、安南の使に勅し、濬にその故王を帰すよう諭した。濬は詔を奉ぜず、侵掠して人口は三万三千余に至り、占城は入訴した。

景泰元年、勅を賜い濬を戒めたが、終に詔を奉ぜず。四年、使を遣わして皇太子冊立を賀した。天順元年、使を遣わして入貢し、袞冕を賜うことを乞い、朝鮮の例の如くせんとしたが、従わなかった。その使者は土物を以て書籍・薬材と易えることを乞うたので、従った。二年、使を遣わして英宗の復辟を賀した。三年十月、その庶兄の諒山王琮がこれを弑して自立した。濬の改元すること二:大利十一年、延寧六年。私諡して仁宗とす。琮は一名を宜民といい、位を篡すること九月、改元して天与とし、国人に誅せられ、厲徳侯に貶され、濬の弟の灝が継いだ。灝は一名を思誠という。

初め、琮が濬を弑し、游湖して溺死したと奏上した。天朝は知らず、将に官を遣わして弔祭せんとした。琮は天使が至ってその実情を覚られることを恐れ、礼は溺死者を弔わぬと言い、敢えて天使を煩わせずと述べたので、帝は即座にこれを止めた。使者は濬に子無しと言い、琮を封ずることを請うた。通政参議尹旻・礼科給事中王に命じて往き封ぜしめた。未だ境に入らず、琮既に誅せられ、灝が嗣位したことを聞き、即座に却って還った。灝は連続して使を遣わし朝貢して封を請うた。礼官はその詐りを疑い、広西の守臣に命じて覈実して奏請させよと請うたので、従った。使臣は言うには、「礼は、生には封有り、死には祭有り。今濬の死既に白し、祭を賜わんことを請う」と。そこで行人を命じて往き祭らせた。六年二月、侍読学士銭溥・給事中王豫に命じて灝を国王に封じた。

憲宗が践阼すると、尚宝卿淩信・行人邵震に命じて王及び妃に綵幣を賜うた。灝は使を遣わして来貢し、因りて冕服を請うたが、従わず、ただ皮弁冠服及び紗帽犀帯を賜うた。成化元年八月、英宗の賓天に因り、使を遣わして進香し、裕陵に赴き礼を行わしめた。

灝は雄桀で、自ら国富兵強を負い、輒ち大に坐す。四年、広西の憑祥を侵して占拠した。帝は聞き、守臣に謹んで備えよと命じた。七年、占城を破り、その王盤羅茶全を執り、三年を過ぎてまたこれを破り、その王盤羅茶悦を執り、遂にその国を交南州と改め、兵を設けて戍守した。安南の貢道は、故より広西よりす。時に雲南の鎮守中官銭能が貪恣で、指揮郭景を遣わして勅を齎りその貨を取らせた。灝は素より雲南を窺わんと欲し、遂に広西龍州の罪人を解送することを口実とし、景に随って雲南を仮道して入京し、夫六百余を索め、かつ兵を発してその後に継がせたので、雲南は大いに擾った。兵部は言うに、雲南は貢道に非ず、龍州の罪人は広西に解すべく、必ずしも京師に赴かずと。そこで守臣に檄を以て諭させ、かつ辺備を厳にせしめた。

黎灝は憑祥を手に入れると、占城を滅ぼし、ついで広東の瓊州・雷州を侵し、珠池を盗んだ。広西の龍州・右平、雲南の臨安・広南・鎮安も、しばしば警報を伝えた。詔して守臣にこれを詰問させると、いつも詭弁で答えた。朝廷は姑息に務め、たびたび勅諭を下したが、厳しい言葉はなかった。黎灝はますます侮り玩んで畏れるところなく、言うには、「占城王盤羅茶全が化州道を侵し、その弟盤羅茶悦に弑せられ、ついで自立した。封を受けようとしたとき、また子の茶質苔に弑せられた。その国は自ら乱れたのであって、臣たる黎灝の罪ではない」と。朝廷はその詐りを知りながら、詰問できず、ただその国土を返還するよう勧告した。黎灝は奏上して言うには、「占城は肥沃な土地ではなく、家には蓄えが少なく、野には桑麻が絶え、山には金宝の収穫がなく、海には魚塩の利に乏しく、ただ象牙・犀角・烏木・沉香を産するのみである。その地を得ても住むことができず、その民を得ても使うことができず、その貨物を得ても富むに足りない。これが臣が占城を侵奪しなかった理由である。明の詔が臣にその国土を回復させようとされるなら、朝使を派遣して郊圻を画定し、両国の辺境を休息させてくださるよう乞う。臣は至願に堪えない」と。当時、占城はすでに久しく安南に占拠されていたが、その言葉はこのように虚誕であった。

先に、安南が入貢するとき、多く私物を携え、憑祥・龍州を経由し、人夫の転運が乏しいと、しばしば争いを起こした。ちょうど皇太子冊立を賀する使節を派遣することになり、詔してこれを禁じ戒めた。十五年冬、黎灝は兵八百余人を派遣し、雲南蒙自の境界を越え、盗賊を捕らえると称し、勝手に営を結び室を築いて居住した。守臣が力をもってこれを止めたので、ようやく退いた。黎灝は占城を破ると、志意はますます広がり、自ら兵九万を督し、山を開いて三道とし、哀牢を攻め破り、老撾を侵し、またこれを大破し、宣慰刀板雅・蘭・掌父子三人を殺し、その末子怕雅賽は八百に逃れて難を免れた。黎灝はさらに糧を積み兵を練り、車里に偽勅を頒ち、その兵を徴発して八百を合攻しようとした。将士で暴死する者が数千に及び、みな雷霆に撃たれたと言った。八百はその帰路を遮り、襲撃して一万余人を殺し、黎灝はようやく引き返した。帝は廷議を下し、広西布政司に黎灝に兵を収めさせるよう檄を飛ばし、雲南・両広の守臣に辺備を戒めるだけでよいとした。やがて黎灝は老撾を侵していないと言い、かつ八百の疆宇がどこにあるか知らないと述べ、言葉は甚だ誑誕であった。帝はまた慰諭したが、ついに命に従わなかった。十七年秋、満剌加もまた侵されたと告げ、帝は勅使を遣わし隣国と和睦し国を保つよう諭させた。まもなく、使臣が入貢し、暹羅・爪哇の例のように冠帯を賜わることを請うた。これを許したが、例とはしなかった。

孝宗が践祚すると、侍読劉戩を命じてその国に詔諭させた。その使臣が来貢したが、大喪のため引奏を免じた。弘治三年、当時占城王古来は天朝の力によって国に還ることができたが、また安南に侵されていると訴えた。兵部尚書馬文升は安南の使臣を召して言った、「帰って爾が主に諭せ、それぞれ疆土を保って太平を享けよ。さもなければ、朝廷一旦赫然として震怒し、天兵が境に迫れば、永楽朝の事のようになる。爾が主は悔いなきや」と。安南はこれより畏れるところがあった。

十年、黎灝卒す。私諡して聖宗という。その改元は二つ、光順十年、洪徳二十八年。子の黎暉が継ぎ、一名を鏳といい、使を遣わして訃を告げ、行人徐鈺を派遣して祭らせた。まもなく黎暉に皮弁服・金犀帯を賜う。その使臣が言うには、国主は王封を受けながら、賜わる服が臣下と区別がないので、改めて賜わることを乞うと。礼官が言うには、「安南は名は王といえども、実は中国の臣である。嗣王が新たに立つときは、必ず皮弁冠服を賜い、一国を主宰する尊厳を失わないようにし、また一品の常服を賜い、中国に臣事する義を忘れないようにさせる。今の請いは、祖制を紊乱するもので、許すべからず。しかしこれは使臣の罪ではなく、通事が導いて妄奏させたのであり、懲らしめるべきである」と。帝は特にこれを宥した。十七年、黎暉卒す。私諡して憲宗という。その改元を景統という。子の黎𣽲が継ぎ、一名を敬甫といい、七月にして卒す。私諡して肅宗という。弟の黎誼が継ぎ、一名を璿という。

武宗が践祚すると、修撰倫文敍・給事中張弘至を命じてその国に詔諭させた。黎誼もまた使を遣わして訃を告げ、官を命じて常儀のように致祭させた。正徳元年、冊立して王とした。黎誼は母方の一族である阮种・阮伯勝兄弟を寵任し、威虐を恣にし、宗親を屠戮し、祖母を毒殺した。阮种らは寵を恃み権を窃み、四年に黎誼を逼って自殺させ、その弟黎伯勝を擁立し、黎誼を貶して厲愍王とした。国人の黎広らが討ち誅し、黎灝の孫黎晭を立て、黎誼の諡を改めて威穆帝とした。黎誼は在位四年、改元して端慶という。黎晭は一名を瀅といい、七年に封を受け、多く不義を行った。

十一年、社堂焼香官陳暠と二子の陳昺・陳昇が乱を起こし、黎晭を殺して自立した。詭って前王陳氏の後裔であると言い、なお大虞皇帝と称し、改元して応天とし、黎晭を貶して霊隠王とした。黎晭の臣で都力士の莫登庸は初め陳暠に附いていたが、後に黎氏の大臣阮弘裕らと兵を起こしてこれを討った。陳暠は敗走し、陳昺とその党の陳璲らを捕らえた。陳暠と陳昇は諒山道に奔り、長寧・太原・清節の三府を拠って自保した。莫登庸らはそこで共に黎晭の兄黎灝の子黎譓を立て、黎晭の諡を改めて襄翼帝とした。黎晭は在位七年、改元して洪順という。黎譓は封を請おうとしたが、国乱のため果たせなかった。莫登庸に功があったので、武川伯に封じ、水陸諸軍を総べさせた。すでに兵権を握ると、ひそかに異志を蓄えた。黎氏の臣鄭綏は、黎譓が徒らに虚位を擁するのみとして、別にその族子の黎酉榜を立て、兵を発して都城を攻めた。黎譓は出走し、莫登庸は鄭綏の兵を撃破し、黎酉榜を捕らえて殺し、ますます功を恃んで専恣となり、ついで黎譓の母を逼って妻とし、黎譓を迎え帰し、自ら太傅仁国公となった。十六年、兵を率いて陳暠を攻め、陳暠は敗走して死んだ。

嘉靖元年、莫登庸は自ら安興王と称し、黎譓を弑さんと謀った。黎譓の母が告げたので、その臣杜温潤とともに間道を行って難を免れ、清華に居住した。莫登庸はその庶弟の黎懬を立て、海東長慶府に遷居させた。世宗が践祚すると、編修孫承恩・給事中俞敦を命じてその国に詔諭させた。龍州に至り、その国が大乱し、道が通じないと聞き、引き返した。四年夏、黎譓は使を遣わし間道を通じて貢を通じ、併せて封を請うたが、莫登庸に阻まれた。明年春、莫登庸は欽州判官唐清を賄賂し、黎懬のために封を求めた。総督張嵿が唐清を逮捕すると、獄中で死んだ。六年、莫登庸はその党の范嘉謨に命じて偽って黎懬の禅位の詔を作らせ、その位を簒い、改元して明徳とし、子の莫方瀛を皇太子に立てた。まもなく黎懬を毒殺し、諡して恭皇帝とした。一年余りして、使を遣わして来貢したが、諒山城に至り、攻撃されて還った。九年、莫登庸は莫方瀛に位を禅じ、自ら太上皇と称し、都齋・海陽に移居し、莫方瀛の外援となり、大誥五十九条を作り、国中に頒った。莫方瀛は改元して大正とした。その年九月、黎譓は清華で卒し、国は亡んだ。

十五年冬、皇子が生まれ、詔を安南に頒布すべきであった。礼官夏言が言うには、「安南は二十年も朝貢せず、両広の守臣は黎譓・黎懬ともに黎晭の立てるべき嫡子ではなく、莫登庸・陳暠はともに彼の国の簒逆の臣であるから、官を派遣して尋問し、罪人の主たる名を求めるべきである。かつての使者はすでに道が阻まれて通じなかったので、今は使命を暫く停止すべきである」と。帝は安南の叛逆が明白であるとして、急ぎ官を派遣して調査すべきとし、夏言に命じて兵部と会議して征討を議させた。夏言および本兵張瓚らは力説して、逆臣が主君を簒し国を奪い、朝貢を修めないのは、決して征討すべきであると述べた。先に錦衣官二人を派遣してその実情を確かめ、両広・雲南の守臣に命じて兵を整え糧食を蓄積させ、出師の時期を待つよう乞うた。制はこれを許可した。そこで千戸陶鳳儀・鄭璽らを命じて分かれて広西・雲南に赴かせ、罪人の主たる名を詰問させ、四川・貴州・湖広・福建・江西の守臣に命じて、兵糧を準備し、征調を待たせた。戸部侍郎唐冑が上疏し、用兵の七つの不可を力陳し、その言葉はその伝中に詳しい。末文に「安南は乱れているとはいえ、なお頻りに表箋を奉り、方物を備え、関門を叩いて入貢を求めた。守臣はその姓名が合わないとして、これを拒んだ。これは彼らが貢ぎたくてもできなかったのであり、固執して貢がないのではない」とある。章は兵部に下され、兵部もこれを然りとし、調査官の帰還を待ってさらに議するよう命じた。

十六年、安南の黎寧が国人鄭惟僚らを京に派遣し、登庸の簒殺の状況を詳しく陳述し、「寧はすなわち譓の子である。譓が卒すると、国人は寧を立てて世孫とし、権をもって国事を主とした。たびたび辺臣に書を馳せて難を告げたが、ことごとく登庸に遮られ殺された。師を興して罪を問い、急いで国賊を除かれることを乞う」と言った。時に厳嵩が礼部を掌り、その言葉は尽く信じるに足らずとし、これを拘束して調査官の回奏を待つよう請うた。帝はこれに従った。まもなく鳳儀らを召還し、礼・兵二部に命じて廷臣と会議させ、登庸の十大罪を列挙し、宸断を大いに振るい、期日を定めて征伐すべきことを請うた。そこで右都御史毛伯温を家から起用して軍務を参賛させ、戸部侍郎胡璉・高公韶に先に雲南・貴州・両広に馳せて軍糧を調度させ、都督僉事江桓・牛桓を左・右副総兵とし、軍を督して征討させ、その大将は後の命を待たせた。兵部はさらに詔を奉り、用兵の機宜十二事を条陳した。ただ侍郎潘珍のみが不可を主張し、抗疏して切諫した。帝は怒り、その職を剥奪した。両広総督潘旦もまた馳疏して前命の停止を請い、「朝廷がまさに問罪の師を興そうとしているのに、登庸はすでに求貢の使節がある。よってこれに乗じて許し、戒厳して変を観察し、彼の国の自ら定まるのを待つべきである」と言った。厳嵩・張瓚は帝の意向を窺い、力説して赦すべからずとし、かつ黎寧は清都において回復を図っているのに、潘旦は彼の国がすでに定まったと言い、上表して貢を求めるのは決して許すべからずと述べた。潘旦の上疏はそこで取り上げられなかった。五月、伯温が京に至り、上方略六事を奏上し、潘旦は共に事を為すに足らずとして、これを更迭するよう請うた。優詔で褒め答えた。兵部の議が上ると、帝の意向は忽然として中変し、黎寧の真偽は未だ審らかでないとして、三方の守臣に適宜に撫剿するよう命じ、参賛・督餉の大臣はともに暫く停止し、潘旦は更迭して張経をこれに代えた。時に御史徐九皐・給事中謝廷𦶜が修省を理由に陳言し、また征南の師を罷めるよう請うた。

八月、雲南巡撫汪文盛が登庸の間諜を捕らえ、その撰した偽の大誥を上聞した。帝は震怒し、守臣に命じてなお前詔に従って征討するよう命じた。時に文盛は黎氏の旧臣武文淵を招き納れてその進兵地図を得、登庸は必ず破れるべしと言い、遂にこれを朝廷に上った。広東按臣余光が言うには、「莫氏が黎氏を簒したのは、黎氏が陳氏を簒したのと同じで、深く較べるに足らない。ただその朝廷に礼を尽くさぬ罪を問い、称臣して貢を修めるよう責めるべきで、遠征して中国を疲弊させる必要はない。臣はすでに使者を派遣して宣諭した。彼らがもし帰順して来るならば、よってこれに乗じて撫納すべきである」と。帝は余光が軽率であるとして、俸禄を一年間剥奪した。文盛はすなわち檄を安南に伝え、登庸が身を束ねて帰順し、輿図を籍に上るならば、死なずに済ませると伝えた。ここにおいて登庸父子は使者を派遣して表を奉り降伏を乞い、かつ牒を文盛および黔国公沐朝輔に投じ、黎氏の衰乱、陳暠の叛逆、己と方瀛の功績、国人の帰附したことを詳しく述べ、所有する土地はすでに一統志に載せてあるとして、その罪を赦し、制に従って貢を修めるよう乞うた。朝輔らは十七年三月にこれを奏聞した。一方、黎寧は前詔を受けて、天朝がついにその降伏を受け入れることを恐れ、本国の簒殺の始末および軍馬の数、水陸の進兵道里を備えて上った。ことごとく兵部に下され、廷臣を集めて議した。皆が言うには、莫氏の罪は赦すべからず、急いで進師すべきである。原推の咸寧侯仇鸞を総督軍務とし、伯温をなお参賛とするよう請うた。帝はこれに従った。張経が上言して、「安南への進兵の道は六つあり、兵は三十万を用いるべきで、一年の兵糧は百六十万を用い、船を造り、馬を買い、兵器を造り、軍を犒賞する諸費用はさらに七十余万を要する。ましてや我が大衆を調発し、炎熱の海を渡れば、彼らと労逸の勢いが異なり、審らかに処置せざるを得ない」と。疏がちょうど上ると、欽州知州林希元がまた登庸が攻め取れる状況を力陳した。兵部は決断できず、再び廷議を請うた。議が上ると、帝は悦ばず、「朕は卿士大夫の私議を聞くに、皆が師を興すべからずと言っている。爾らは邦政を職掌としながら、漫然として主張がなく、ことごとくこれを会議に委ねている。すでに心を協わせて国を謀らないのであれば、やめてしまえ。仇鸞・毛伯温は別に任用する」と言った。

十八年、皇太子を冊立し、詔を安南に頒布すべきであった。特に黄綰を起用して礼部尚書とし、学士張治をその副使として、その国に赴かせようとした。命令が下ったばかりの時、方瀛が使者を派遣して表を上り降伏し、併せてその土地・戸口を籍に上り、天朝の処分に従うと言った。府五十三、州四十九、県百七十六に及んだ。帝はこれを受け入れ、礼・兵二部に協議を下した。七月になっても、黄綰はまだ出発せず、旨に逆らったとして落職し、遂に使命は停止された。初め、征討の議は夏言から発せられた。帝はすでに黄綰を責め、そこで怒りを発して言うには、「安南のことは、もともと一人が唱え、衆が皆これに従った。そこで上を謗り言を聞き計を用い、共に侮慢の言葉を作った。この国は棄てるべきか討つべきか、定議あるべきである。兵部は即時に集議して奏聞せよ」と。ここにおいて張瓚および廷臣は惶懼し、前詔の通り、なお仇鸞・毛伯温を南征させるよう請うた。もし登庸父子が手を束ねて帰順し、異心がなければ、死なずに済ませるとした。帝はこれに従った。登庸はこれを聞き、大いに喜んだ。

十九年、伯温らが広西に到着し、檄を伝えて降伏を容れ罪を赦す旨を諭した。時に方瀛はすでに卒し、登庸は即時に使者を派遣して降伏を請うた。十一月、甥の文明および部目四十二人を率いて鎮南関に入り、囚人のように髪を乱し裸足で歩き、壇上に匍匐して叩頭し、降表を進めた。伯温は詔を称してこれを赦した。再び軍門に詣でて匍匐して再拝し、土地軍民の籍を上り、正朔を奉じ、永く藩臣となることを請うた。伯温らは威徳を宣示し、帰国して命を待つよう命じた。疏が聞こえると、帝は大いに喜び、安南国を削って安南都統使司とし、登庸に都統使を授け、秩は従二品、銀印を与えた。旧来の僭称した制度はことごとく除去し、その十三道を十三宣撫司に改め、各々宣撫・同知・副使・僉事を設け、都統の黜陟に従わせた。広西は毎年大統暦を与え、なお三年に一度の貢を常例とした。さらに黎寧の真偽を確かめ、もし果たして黎氏の後裔であれば、その拠る四府を割いてその祭祀を奉ぜしめ、そうでなければやめよと命じた。制が下ると、登庸は悚然として畏れ謹み、命を受けた。

二十二年、登庸卒し、方瀛の子福海嗣ぎ、宣撫同知阮典敬等を遣わして来朝す。二十五年、福海卒し、子宏瀷嗣ぐ。初め、登庸は石室の人阮敬を義子と為し、西寧侯に封ず。敬は女有りて方瀛の次子敬典に嫁し、因りて方瀛の妻武氏と通じ、兵柄を専らにするを得たり。宏瀷立つ、方五歳、敬益々専恣にして事を用う。登庸の次子正中及び文明は之を避けて都齋に居り、其の同輩の阮如桂、范子儀等も亦た田里に避居す。敬兵を挙げて都齋を逼り、正中、如桂、子儀等之を禦ぐも、勝たず。正中、文明は家属を率いて欽州に奔り、子儀は残卒を収めて海東に遁る。敬は詭りて宏瀷の歿せるを称し、正中を迎え立てんと為すを詞として、欽州を犯すも、参将俞大猷に敗れ、誅死す。宏瀷初め立つ時、使者黎光賁を遣わして来貢す、南寧に至り、守臣以て聞く。礼官其の国内乱し、名分未だ定まらずと為し、来使を止めて進ましめず、而して守臣に令して当に立つべき者を覈せしむ。三十年に至り事白く、命して宏瀷に都統使を授け、関に赴きて牒を領せしむ。会に部目黎伯と黎寧の臣鄭檢と兵を合して来攻し、宏瀷海陽に奔り、赴くに克わず。光賁等南寧に留まること且つ十五年、其の偕に来たる使者人物故すること大半なり。宏瀷守臣に祈りて代わりて請わしむ、詔して入京を許し、其の都統の告身は、仍お宏瀷の関に赴くを俟って則ち給す。四十三年、宏瀷卒し、子茂洽嗣ぐ。萬曆元年都統使を授く。三年使者を遣わして謝恩し、即位を賀し、方物を進め、又た累年欠けたる所の貢を補う。

時に莫氏漸く衰え、黎氏復興し、互いに兵を搆え、其の国益々多故なり。始め黎寧の清華に据わるや、仍お僭帝号し、嘉靖九年を以て元和と改元す。四年居りて、登庸に攻められ、占城の界に竄る。国人其の弟憲を立て、光照と改元す。十五年寧の在る所を廉知し、迎えて清華に帰し、後に漆馬江に遷る。寧卒し、其の臣鄭檢寧の子寵を立つ。寵卒し、子無く、国人共に黎暉の四世孫維邦を立つ。維邦卒し、檢の子松其の子維潭を立て、世に清華に居り、自ら一国を為す。

萬曆十九年、維潭漸く強く、兵を挙げて茂洽を攻め、茂洽敗れて嘉林県に奔る。明年の冬、松土人を誘いて内応せしめ、茂洽を襲い殺し、其の都統使の印を奪い、親党多く害に遇う。莫敦讓なる者有り、防城に奔って難を告ぐ、総督陳蕖以て聞く。松復た敦讓を擒にし、勢益々張る。茂洽の子敬恭と宗人履遜等は広西思陵州に奔り、莫履機は欽州に奔る。独り莫敬邦衆十余万有り、京北道より起ち、黎党の范拔萃、范百祿諸軍を撃ち走らせ、敦讓復た帰るを得しむ。衆乃ち敬邦を推して都統を署し、諸の流寓思陵、欽州の者悉く還る。黎兵南策州を攻め、敬邦殺され、莫氏の勢益々衰う。敬恭、敬用は諒山高平に屯し、敬璋は東海新安に屯し、黎兵の追索を懼れ、龍州、憑祥の界に竄り至り、土官に令して状を列ねて当事に告げしむ。維潭も亦た関を叩いて貢を通ずるを求め、国王の金印を識す。

二十一年、広西巡撫陳大科等上言す、「蛮邦の易姓は弈棋の如く、当に彼の叛服を以て順逆と為すべからず、止だ彼の我に叛き我に服するを以て順逆と為すべし。今維潭恢復を図る雖も、而して茂洽固より天朝の外臣なり、安んぞ命を請わずして𢵧然として之を戮せんや。窃かに謂う、黎氏の擅興の罪は問わざるべからず。莫氏の孑遺の緒も亦た存せざるべからず。倘し先朝の故事の如く、黎氏の納款を聴き、而して仍お莫氏を存し、諸れの漆馬江に比し、亦た其の祀を翦らずば、計に於いて便なりと。」廷議其の言の如し。明年、大科方に官を遣わして往き察せしむるに、敬用即ち使者を遣わして軍門を叩き難を告げ、且つ兵を乞う。明年の秋、維潭も亦た使者を遣わして罪を謝し、款を求む。時に大科已に両広総督と為り、広西巡撫戴燿と並び以て左江副使楊寅秋に属す、寅秋窃かに計りて曰く、「黎を拒まず、亦た莫を棄てず、吾が策定まれり。」両たび官を遣わして往き問わしむるに、敬恭等の高平に居らんと願うを以て告げ来たり、而して維潭の款を求むるの使も亦た数至る。寅秋乃ち之と期し、具に督撫に報ず。会に敬璋衆を率いて永安に赴き、黎氏の兵に撃ち敗れられ、海東、新安の地尽く失う、是に於いて款議益々決す。

時に維潭恢復の名を図り、登庸を以て自ら処するを欲せず、束身して関に入るの意無し。寅秋復た官を遣わして之を諭す、其の使者来たりて約の如く報ずるも、期に至りて忽ち関吏に言いて曰く、「士卒饑病し、款儀未だ備わらず。且つ莫氏は吾が讎なり、之を高平に棲ますは、未だ命を聞かざるなり。」遂に中宵遁去す。大科等疏を以て聞き、其の臣鄭松の権を専らにするに由る所と謂う。維潭復た使者を遣わして関を叩き、己が遁れざるを白す。大科等再び官を遣わして之を諭す、維潭命を聴く。

二十五年使者を遣わして期を請い、寅秋四月を以て示す。期に届き、維潭関外に至り、訳者六事を以て之を詰む。首に茂洽を擅殺するを、曰く、「復讎急にして、命を請うに遑あらず。」次に維潭の宗派を、曰く、「世孫なり、祖暉、天朝曾て命を錫う。」次に鄭松を、曰く、「此れ黎氏の世臣、黎氏を乱すに非ざるなり。」然らば則ち何ぞ宵遁するや、曰く、「儀物の戒めざるを以てするなり、遁るるに非ざるなり。」何ぞ以て王章を用うるや、曰く、「権に倣いて之を為す、立銷す。」惟だ高平を割きて莫氏を居らしむるは、猶お相持して絶えず。復た之を諭して曰く、「均しく貢臣なり、黎昔は漆馬江に棲むべく、莫独り高平に棲ますべからざるや。」乃ち命を聴く。之に款関の儀節を授け、俾く之を習わしむ。維潭其の下を率いて関に入り御幄を謁し、一に登庸の旧儀の如し。退きて寅秋を謁し、賓主の礼を用いんことを請うも、従わず、四拝礼を成して退く。安南復た定まる。詔して維潭に都統使を授け、暦を頒ち貢を奉ぜしむ、一に莫氏の故事の如し。是に先立ち、黎利及び登庸の代身の金人を進るるは、皆囚首して面縛す、維潭は恢復の名正しきを以て、独立して容を肅し、当事其の倨なるを嫌い、改製を令す、乃ち俯伏の状を為し、其の背に鐫りて曰く、「安南黎氏世孫、臣黎維潭蒲伏して天門に至らず、恭しく代身の金人を進め、罪を悔いて恩を乞う。」是より、安南復た黎氏有と為り、而して莫氏は但だ高平一郡を保つのみ。

二十七年、維潭卒し、子維新嗣ぎ、鄭松其の柄を専らにする。会に叛酋潘彦乱を搆うるに、維新と松清化に移り保つ。三十四年使者を遣わして入貢し、命して都統使を授く。時に莫氏の宗党多く海隅に竄処し、往々僭って公侯伯の名号を称し、辺境を侵軼す、維新も亦た制すること能わず。守臣檄を以て問い、数たび兵を発して夾剿す、時に応じて破滅する雖も、而して辺方頗る其の害を受く。維新卒し、子維祺嗣ぐ。天啓四年、兵を発して莫敬寛を撃ち、之を克ち、其の長子を殺し、其の妻妾及び少子を掠めて以て帰る。敬寛と次子山中に逃れ入り、復た高平に回り、勢益々弱し。然れども明の世に迄るまで、二姓分かれて据わり、終に一に帰すること能わずと云う。

安南の都会は交州に在り、即ち唐の都護の治する所なり。其の疆域は東は海に距り、西は老撾に接し、南は海を渡れば即ち占城、北は広西の思明、南寧、雲南の臨安、元江に連る。土膏腴、気候熱く、穀歳二稔。人性獷悍。驩、演の二州は文学多く、交、愛の二州は倜儻の士多く、他方に較べて異なり。

註釋