明史

列傳第二百五 廣西土司一

◎廣西土司

廣西は瑤・僮が多く住み、萬嶺の中に蟠踞し、三江の險に當たり、六十三山を巢穴とし、三十六源にその腹心を據える。桂林・柳州・慶遠・平樂諸郡縣に散布する者は、所在に蔓衍する。而して田州・泗城の屬は、特に強悍と稱せられる。種類は滋繁にして枚舉に遑あらず。蠻勢の衆は、滇と埒する。今その特に著しい者を篇に列す。その叛服常ならず、沿革殊なる致しを觀れば、以て中國の德威を覘い、夷情の順逆を知り、邊を籌る者の一助と爲す。

○廣西土司一△桂林柳州慶遠平樂梧州潯州南寧

桂林は、秦に郡を置き、漢は始安、唐は桂州、天寶に建陵と改め、宋は靜江府、元は靜江路。明初、桂林府を改めて廣西布政使司の治所と爲し、內地に屬し、土司に列すべからず。然れども廣西は唯だ桂林と平樂・潯州・梧州は土官を設けずして、瑤・僮なき地なし。桂林の古田、平樂の府江、潯州の藤峽、梧州の岑溪は、皆大征を煩わして後に克ち、卒く草薙禽獮すること能わず、防を設け戍を置き、世世患いと爲る。是もまた略すべからざるなり。

洪武七年、永・道・桂陽諸州の蠻が竊發し、金吾右衛指揮同知陸齡に命じて兵を率い討平せしむ。二十二年、富川縣の逃吏首賜が苗賊盤大孝等を糾合して亂を爲し、知縣徐元善等を殺し、往來劫掠す。廣西都指揮韓觀、千戶廖春等を遣わしてこれを討たしめ、大孝等二百餘人を擒殺す。觀、因りて言う「靈亭鄉は乃ち瑤蠻の出入する地、征剿年有りと雖も、未だ盡く殄滅せず、宜しく桂林等衛の贏余軍士を以て、千戶所を置きてこれを鎮むべし」と。詔してその請に從う。二十七年、全州灌陽等縣平川諸源の瑤民、聚衆して亂を爲す。湖廣・廣西二都司に命じて兵を發しこれを討たしめ、千四百餘人を擒殺し、諸瑤奔竄遁去す。灌陽守禦千戶所を置く。初め、灌陽縣は湖廣に隷す。廣西平川等三十六源の瑤賊亂を爲し、縣治を攻擊するに因り、詔して寶慶衛指揮孫宗に總兵させて討平せしむ。縣丞李原慶、因りて奏す灌陽は湖廣より遠く、廣西に隷すること近しと。遂に灌陽を以て桂林府千戶所に隷せしめ、廣西都指揮同知陶瑾に命じて兵を領し城を築きてこれを守らしむ。

永樂二年、總兵韓觀奏す「潯・桂・柳三郡の蠻寇黃田等累ねて劫掠を行い、人畜を殺擄す。已に都指揮朱輝を調べて追剿せしめ、斬獲頗る多し。尋いで官を遣わし敕を賫して撫安するを蒙る。その黃田等の瑤は皆已に化に向かい、悉く擄える所の人畜を歸す」と。帝、觀に命じ、復業する者は善く撫恤せしむ。宣德六年、都督ととく山雲奏す「廣西左・右兩江に土官衙門大小四十九處を設く。蠻性無常にして、仇殺絶えず。朝廷每たび臣に命じて巡按御史三司官とともに理斷せしむ。諸處皆瘴鄉に縁り、兼ねて蠱毒有り。三年の間、官を彼に遣わすに、死者凡そ十七人、事竟に完からず。今衆議と同じくす。凡そ土官衙門の軍務重事は、徑ちその處に詣る。その餘の爭論詞訟は、近き衛に就いてこれを理す」と。報じて可とす。

景泰五年、廣西古丁等洞の賊首藍伽・韋萬山等、蠻類を糾合し、南寧・上林・武緣諸處を劫掠す。鎮守副總兵陳旺以て聞こえしむ。詔して總督馬昂等に剿捕せしむ。初め、桂林・古田の僮種甚だ繁く、最強なる者は韋・閉・白と曰い、而して皆韋に併さる。賊首韋朝威、古田に據り、縣官會城に竄る。典史を遣わし縣に入り撫諭せしむに、これを烹て食らう。弘治間、大征し、副總兵馬俊・參議馬鉉を殺す。正德初再び征し、通判・知縣・指揮等の官を殺す。嘉靖初、又これを征し、指揮舒松等を殺す。時に韋銀豹その從父朝猛とともに洛容縣を攻陷し、古田に據り、その地を分かち上・下六里と爲す。銀豹出でて掠むるに、下六里の人を挾みて行い、而上六里はこれ與からず。四十五年、提督吳桂芳その閑に因り、典史廖元を遣わし上六里に入り撫諭せしむ。諸僮復業する者二千人、銀豹勢孤にして降を請う。久しくして復た猖獗し、嘗てその五子を挾み鳳皇・連水二寨に據り、昭平知縣魏文端を襲殺す。更に永福より桂林に入り布政司の庫を劫い、署事參政黎民衷を殺し、城を縋りて去る。官軍追い及ばず。久しくして、臨桂・永福各縣の兵群起して賊を捕え、始めて賊黨扶嫩・土婆顯等三十餘人を各山寨中に得る。

時に首惡未だ獲ず。隆慶三年、朝議廣西に專ら巡撫を設け、江西按察使殷正茂を推して僉都御史と爲し往かしむ。正茂至り、賊を剿するを奏請し、土漢の兵十萬を合し、衆議を集む。時に八寨逆を助く。衆議先ず八寨を剿すべしとし、敕書にも亦た先ず八寨を平げ、徐に古田を圖るの語有り。正茂獨り然らずと謂い、先ず榜を給して八寨を諭す。八寨命を聽く。然る後に兵を分かち七哨と爲し、總兵俞大猷を以てこれを統べ、副總兵門崇文、參將王世科・黃應甲、都司董龍・魯國賢、遊擊丁山等をして各々一哨を領せしめ、復た土兵を分かち二隊と爲し、更番して道を清め、必ず先ず數里を清めて而る後行く。その巢に至るに及び、營を合してこれを攻め、七千四百六十餘級を斬り、朝猛を生擒し、軍に梟す。男女千餘口を俘獲す。銀豹窮蹙し、己に肖る者を擇び首を斬りて獻ず。捷聞こゆ。既にして銀豹を生縛しその子扶枝膠とともに京師に送り、これを斬る。古田平ぐ。乃ち八寨と龍哈・咘咳を併せて十寨と爲し、長官司を立て、黃昌等を以て長官及び土舍と爲し、守禦の調度を聽かしむ。更に古田縣を升して永寧州と爲す。已にして永寧の僮韋狼要その黨黃銀成と隙有り、相仇殺し、常安巡檢窮めこれを治せんと欲す。狼要遂に右江荔浦山灣の諸僮とともに亂を稱す。指揮徐民瞻に命じて兵を將いこれを捕えしむ。民瞻伏兵して狼要を執う。諸瑤大いに訌く。總制殷正茂・巡撫郭應聘乃ち檄をして田州・向武・都康諸土兵を征し、參將王瑞に屬して進剿せしめ、廖金鑒・廖金盞・韋銀花・韋狼化等を斬る。萬歷六年、總制淩雲翼・巡撫吳文華大いに河池・咘咳諸瑤を征し、四萬八百餘級を斬首し、嶺表悉く平ぐ。

柳州は唐の貞觀中に置き、明初馬平に治を移す。所属州二、縣十。內屬千餘年、唯だ上林縣尚お土官たり。而して賓・象・融・羅諸瑤蠻蟠結して寇と爲り、城外五里即ち賊巢、軍民至るに地無くして田す可し。後屢征剿を加え、各峒隘に土巡檢を置き、稍く寧かなりと稱す。

洪武二年、中書省臣言う「廣西諸峒平げたりと雖も、宜しくその人を內地に遷すべし。邊患無かる可し」と。帝曰く「溪洞蠻僚雜處す。その人禮義を知らず、これに順えば則ち服し、これに逆えば則ち變ず。未だ輕く動かすべからず。唯だ兵を以て要害を分守し、以てこれを鎮服し、日に漸く教化せしめ、數年後、良民と爲る可し。何ぞ必ずしも遷さんや」と。

永楽七年、柳州道村寨の蛮族韋布党らが乱を起こし、都指揮周誼が兵を率いて討伐しこれを捕らえた。布党を斬首し、その首を寨に梟すことを命じた。広西の洞蛮韋父、融州羅城洞蛮潘父旂が各々衆を集めて乱を起こし、柳州等衛の官軍が捕らえて斬った。九年、賓州遷江県、象州武仙県古逢等洞の蛮僚が乱を起こした。詔を下し柳州、南寧、桂林等衛の兵を発してこれを討たせた。十四年、融州の瑶民が乱を起こし、官軍が討伐平定した。十七年、象州の土吏覃仁用が言上した。その父景安は、故元の時に常に本州の巡検を務め、兵僮二百人がいたが、今は皆民となっている。これを収集して軍としたいと請うた。帝は許さなかった。十九年、融県の蛮賊五百余人が群れをなして剽掠し、広西参政耿文彬が民兵を率いて桂林衛指揮と会しこれを平定した。柳州等府上林等県の僮民梁公竦ら六千戸、男女三万三千余口、及び羅城県の土酋韋公、成乾ら三百余戸が復業した。初め、韋公らが乱を唱えると、僮民多くは山谷に亡命し、これと結んだ。事が聞こえ、御史王煜らを派遣して招撫復業させ、この時までに皆至り、なお籍に隷して民となった。

宣徳初め、蛮寇覃公旺が乱を起こし、思恩県の大・小富龍三十余峒を占拠し、険阻を固守して官軍を拒んだ。総兵官顧興祖らが兵を督して分道攻撃し、公旺及びその徒党千五十余人を斬った。捷報が至り、帝は言った。「蛮民もまた朕の赤子である。千数に至るまで殺すのは、脅従して罪なき者がないわけではあるまい。以後は恩信を示し、撫慰してこれを降すべきである。賈琮が交州を戍したようなことができよう。」元年、柳州の僮首韋敬暁らが帰附した。二年、広西三司が奏上した。「柳慶等府の賊首韋万黄、韋朝伝らが衆を聚めて劫殺し、民の害となっている。」興祖に進兵してこれを剿平するよう勅した。

懐遠は柳州に属する邑で、右江の上流にあり、傍ら靖綏、黎平に近く、諸瑶が窃かに占拠すること久しかった。隆慶の時、古田を大征した際、懐遠知県馬希武は隙に乗じて城を築かんと欲し、諸瑶を召し役務に就かせ、犒労を約して与えなかった。諸瑶は遂に繩坡頭、板江の諸峒と合し、官吏を殺して反した。総制殷正茂が朝廷に請い、総兵官李錫、参将王世科に兵を統率させ進討させた。官兵が板江に至ると、瑶賊は皆険阻に拠って死守した。正茂は諸瑶が永順の鉤刀手及び狼兵のみを畏れることを知り、三道の兵数万人に檄を飛ばし太平、河裏の諸村を撃ち、これを大破し、連続して数寨を抜き、賊首栄才富、吳金田らを斬り、前後捕斬すること凡そ三千余、俘獲した男女及び牛馬は数え切れなかった。事が聞こえ、兵防を設けることを議し、万石、宜良、丹陽を土巡検司に改め、土兵五百人を屯し、耕しながら守らせた。

万暦元年、洛容知県邵廷臣が養親のため帰り、主簿謝漳が県事を行った。上元の夜に当たり、単騎で山中を巡檄した。僮蛮韋朝義が上油、古底の諸僮を率いて夜半に出て掠奪し、漳を逐い、城まで追い、漳を殺し、県印を奪って去った。この夜、指揮朱昌胤、土巡検韋顕忠が共に兵を提げて決戦し、首級三十一を斬り、兵校文斌が朝義を捕らえ、県印を奪還した。守巡官がこれを上聞した。乃ち総兵李錫、参将王瑞、康仁らにこれを剿討させ、上油、古底の諸寨を破り、覃金狼ら二千八百三十余級を斬り、二百二十余人を俘虜とし、牛馬器械はこれに相応した。後、残党の僮黄朝貴が再び融県の瑶と合し、万を号し、富福鎮に入らんと欲すると声言した。王世科が再び兵を引いてこれを撃ち、五十余人を斬った。初め洛容は万山の中にあり、城は小さく雉堞がなく、県官は皆府城に寓居していた。知県余涵が白龍巖に城を遷すことを請うたが、果たせず、この時謝漳は遂に難に及んだのである。

また韋王朋という者は、馬平の僮である。初め馬平を平定した時、営堡を建て、土舎韋誌隆に兵を提げてその地に屯させた。王朋は堡兵を仇の如く視し、常に東欧、大産の諸蛮を率いて営堡を要挟した。兵備周浩が千総を派遣して撫でようとしたが、遂に千総を殺し、村落を劫略した。総兵王尚父がこれを剿平した。

慶遠は、秦の象郡、漢の交阯、日南二郡の界で、後に蛮に陥った。唐になって始めて粵州を置き、天宝初めに龍水郡と改め、嶺南道に属し、乾符中に宜州と改めた。宋は慶遠軍節度に昇格し、鹹淳初めに慶遠府と改めた。元は慶元路であった。洪武元年、仍って慶遠府と改めた。時に征南将軍楊文が既に広西を平定し、二年、行省の臣が言った。「慶遠府の地は八番溪洞に接し、管轄する南丹、宜山等の処は、宋、元皆その土酋の安撫使を用いてこれを統治した。天兵が広西に下ると、安撫使莫天護が率先して帰附した。宋、元の制の如く、これを録用してその民を統治させるべきである。そうすれば蛮情は服し易く、守兵を減らすことができる。」帝はこれに従い、詔して慶遠府を慶遠南丹軍民安撫司と改め、安撫使、同知、副使、経歴、知事各一員を置き、天護を同知とし、王毅を副使とした。三年、行省の臣が言った。「慶遠は故府である。今安撫司となっているが、その地は皆深山曠野であり、その民は皆安撫莫天護の族である。天護は素より庸弱で、宗族の強者は動もすれば跋扈をほしいままにし、河池県丞蓋讓を殺すに至り、諸蛮と相煽って乱を為す。これは豈に姑息して将来に禍を胎すべきであろうか。安撫司を罷め、仍って府を設け衛を置き、その地を守らせたい。」許可が下った。乃ち莫天護を京に赴かせることを命じた。七年、広西土官莫金に文綺六匹を賜い、南丹州を置き、慶遠府に隷属させ、莫金を以て知州とした。八年、那地県土官羅貌が来朝し、貌を以て県事を知らせた。

二十八年、都指揮韓観が兵を率いて宜山等県の蛮寇二千八百余人を捕獲し、偽大王韋召、偽万戸趙成秀、韋公旺らを斬り、首を京師に伝送した。時に嶺南は盛暑で、官軍多くは瘴気に病み、帝は観に班師を命じた。南丹土官莫金が叛き、帝は征南将軍楊文に命じ、龍州平定後、師を移して南丹、奉議等の処を討たせた。龍州の趙宗寿が来朝して罪を謝し、方物を貢いだ。大軍が奉議に進征し、参将劉真を調して分道南丹を攻撃させ、これを破り、莫金を執りその衆を俘虜とした。後、宝慶衛指揮孫宗らを派遣して分兵して巴蘭等の寨を撃たせると、蛮僚は懼れ、寨を焚いて遁走し、官兵が追捕してこれを斬り、蛮地は悉く平定した。詔して南丹、奉議、慶遠の三衛を置き、官軍を以てこれを守らせた。

二十九年、広西布政司が言った。「新設の南丹等三衛及び富川千戸所は、歳用の軍餉二十余万石で、有司の徴収するものはこれを給するに足りない。」帝は皆屯田を置き、耕種を与えることを命じた。尋いで中使を桂林等府に派遣し牛を市い南丹、奉議諸衛の軍士に給した。都指揮姜旺、童勝が兵を率いて思恩県鎮寧等の村洞に抵ると、叛蛮三千余人を殺獲し、一千一百余戸を降し、故宋の銅印一つを得て来上した。

永楽二年、慶遠府が言上した。「忻城・宜山の二県の洞蛮陳公宣らが出没して寇賊となり、剿捕を請う。」帝は都指揮朱輝に親しく往きて撫諭することを命じた。公宣らは相率いて帰附し、凡そ千三十五戸であった。荔波県の民覃真保が上言した。「県は洪武より今に至るまで、人民は安んじて生業に従う。ただ八十二洞の瑶民のみは編籍に属していない。今、朝廷が恩を加えて撫綏することを聞き、皆民となることを願うが、自ら達する由がない。使を遣わして招撫を乞う。」そこで右軍都督府に命じて都督韓観に移文し、人を遣わして撫諭させた。民となることを願う者には、量りて賜賚を与え、その徭役を三年間免除した。

宣徳五年、総兵官山雲が慶遠の蛮寇を討ち、首級七千四百を斬り、これを平定した。九年、雲が奏上した。「思恩県の蛮賊覃公砦らが累年乱を為す。今、都指揮彭義らに委ねて兵を率いさせて剿捕し、賊首梁公成・潘通天らを斬って梟首した。なお官軍を督して余党を捜捕する。」帝は勅を賜って慰労した。また奏上した。「慶遠・郁林等の州県の蛮寇が出没する。必ず剿除すべきであるが、兵力が不足している。」帝は広東都司に命じて附近の衛所の精鋭士卒千五百人を調発し、都指揮一員に委ねて広西に赴かせ、雲の調用に従わせた。十年、南丹の土官莫禎が来朝し、馬を貢ぎ、彩幣を賜った。正統四年、莫禎が奏上した。「本府の管轄する東蘭等の三州は、土官が治め、歴年を経て以来、地方は寧靖である。宜山等の六県は、流官が治めるが、溪峒の諸蛮が時を定めず出没する。その由来を推せば、皆、流官が附近の良民を撫字することはできても、溪峒の諸蛮で険を恃んで悪を為す者を、その出没を鈐制することができないためである。毎度軍を調発して剿捕すると、各県の居民で諸蛮と結納する者が、また先んじて軍情を漏泄し、賊をして潜かに遁走せしめる。また招撫を聞くと、偽って順向するふりをし、なお劫掠をほしいままにする。これによって兵連禍結して寧歳がない。臣はひそかに良民の害を受けることを忍びず、願わくは臣に本州の土官知府を授け、流官には府事を総理させ、臣は専ら蛮賊に備え、務めて積年害を為す者を擒捕殄絶したい。その余は則ち編伍して冊を造り、調用に従わせる。巌険に拠る者は、平地に拘集し、恃むところなからしめる。名望ある者を選んで頭目と為し、意を加えて撫恤し、生業を督励する。各村寨には皆社学を置き、漸く風化せしめる。三五十里ごとに一堡を設け、土兵に守備させ、凡そ寇乱あれば、即ち衆を率いて剿殺する。もし賊が除かれず、地方が靖まらなければ、臣の誑罔の罪を究められたい。」帝はその奏を覧て、即ち総兵官柳溥に勅して言った。「蛮をもって蛮を攻むるは、古に成説あり。今、莫禎の奏上する所、意甚だ嘉すべし。彼果たして能く効力し、我が辺費を省くならば、朝廷豈に一官を惜しまんや。爾、その酌むべし。」

弘治九年、総督鄧廷瓚が言上した。「広西の瑶・僮は数多く、土民は数少ない。兼ねて各衛の軍士は十のうち八九を亡う。凡そ征調あるときは、全く土兵に倚る。東蘭土知州韋祖鋐の子一人に命じ、土兵数千を率いさせて古田・蘭麻等の処に田を撥ちて耕守させ、古田が平定を俟って、長官司を改設してこれを授けたい。」廷議は、古田は省治に密邇し、その間の土地は多く良民の世業である。もし祖鋐の子を土官とすれば、数年之後には、良民の田税は皆我が有に非ざることを恐れる。長官司を設けようとするならば、只だ土民の中より選補すべきであるとした。廷瓚はまた言上した。「慶遠府天河県は旧く十八里であったが、後漸く僮賊に占拠され、残民八里を余すのみである。請う、分かちて一長官司を設けてこれを治めたい。」部議は永安長官司を増設し、土人韋万妙らを正・副長官に授け、併せて流官の吏目一員を置いた。この年、忻城県の流官を裁し、土官知県に留めて県事を掌らせた。これも廷瓚の奏に従ったのである。十二年、韋祖鋐が兵五千を率いて思恩の岑浚を助け田州を攻め、男女八百余人を殺掠し、これを駆りて水に溺れ死なしむるもの算なし。副総兵欧磐が田州に詣でると、兵は乃ち解けた。

嘉靖二十七年、那地州の土官羅廷鳳は調に応じて功労があり、命じて襲替させ、京に赴くことを免じた。四十二年、瑶平定の功を録し、東蘭州・那地州の土官に職を授けた。

慶遠は州四を領す。河池は、弘治中に県より州に昇格し、流官に改めた。その東蘭・那地・南丹は皆土官である。県五、忻城は土官。また長官司二、永安・永順と曰う。

東蘭州は、府城の西南四百二十里にある。宋の時に韋君朝という者あり、文蘭峒に居て蛮長となり、子の宴鬧に伝えた。崇寧五年に内附し、因って蘭州を置き、宴鬧に知州事を以てせしめ、その官を世襲させた。元は東蘭州と改め、韋氏は世襲して旧の如し。洪武十二年、土官韋富撓が家人韋錢保を遣わして闕下に詣で、元の授けたる印を上け、方物を貢いだ。錢保は富撓の名を匿し、己の名を以て上けた。因って錢保を以て東蘭州知州とした。既にして錢保は征斂暴急にして、民命に堪えず、富撓を擁して乱を為した。広西都司がこれを討平し、錢保を執ってその罪を正し、仍ってその地を韋氏に帰した。

那地州は、府城の西南二百四十里にある。宋の熙寧初め、土人羅世念が来降し、世職を授かった。崇寧五年、諸蛮が土を納れ、遂に地・那の二州を置き、羅氏に世々地州を知らせた。大観中、地州を分かって孚州を置いた。元は仍って地・那の二州とした。洪武元年、土官羅黄貌が帰附し、詔して那を地に併せ、那地州と為し、印を予け、黄貌に世襲の土知州を授け、流官の吏目を以てこれを佐えしめた。

南丹州は、宋の開宝初め、土官莫洪胭が内附した。元豊三年に南丹州を置き、諸蛮を管轄し、歴世承襲した。元の至正末、莫国麒が土を納れ、慶遠南丹溪洞安撫使に命ぜられた。明の洪武初め、安撫使莫天譲が帰附した。七年に州を置き、莫金に知州を授け、世襲させ、流官の吏目を以てこれを佐えしめた。金は叛を以て誅せられ、州を廃して衛を置いた。後、その地は瘴多いを以て、これを賓州に遷した。既にして蛮民が乱を為し、復た土官知州を置き、金の子莫祿を以てこれとした。

忻城は、宋の慶暦年間に県を置き、宜州に隷した。元は土官莫保を八仙屯千戸とした。洪武初め、流官知県を設け、管兵官を罷め、その屯兵を籍して民と為し、莫氏は遂に忻城界に徙居した。宣徳・正統の後、瑶・僮が狂悻し、知県蘇寬は職に任ぜず。瑶老韋公泰らが莫保の孫誠敬を挙げて土官と為し、寛が上官に請い、具に奏して、世襲の知県を得た。ここより邑に二令あり、権は相統せず、流官は空印を握り、府城に僦居するのみであった。弘治年間、総督鄧廷瓚が流官を革することを奏し、土人韋保が内官となり、陰にこれを主として、始めて独り土官を任じた。

永順司、永安司は、旧来は宜山県であった。正統六年、蛮民の不穏により、役人が制御できず、耆老の黄祖記が思恩の土官岑瑛と結託し、その地を思恩に割譲しようと図り、知県朱斌備に相談した。当時、岑瑛は両江で勢力を振るい、大将の多くが彼を支持し、斌備もまた自らの地盤を固めようとしたため、上奏してその地を思恩に改属させた。土民は服従せず、韋万秀が土地回復を名目に乱を起こした。成化二十二年、覃召管らが再び乱を起こし、たびたび征討しても鎮まらなかった。弘治元年、役人を派遣して慰撫すると、民衆は以前の土地を取り戻し、別に長官司を立てることを願った。都御史鄧廷瓚が上奏し、永順・永安の二司を設置し、それぞれ長官一人、副長官一人を設け、鄧文茂ら四人をこれに任じた。いずれも宜山の洛口・洛東などの里の者である。これにより宜山東南は一百八十四村の地を、宜山西南は一百二十四村の地を放棄した。論者は、忻城は唐・宋以来内属して二百余年を経たのに、一旦これを蛮に棄てたのは失策であると言う。

平楽は、初めは県であったが、元の大徳年間に平楽府と改められ、明もこれを踏襲した。洪武二十一年、広西都指揮使が言上した。「平楽府富川県の霊亭山・破紙山などの洞の瑶二千余人が、内地を占拠して耕作し、集まって略奪し、住民が悩まされ、恭城・賀県及び湖広道州・永明などの県の民も被害を受けている。衛兵を調発して捕らえようとすると、すぐに巌谷に逃げ隠れ、兵が退くと再び跳梁する。臣らは秋の収穫時に、配下の兵を率いて永州・道州などの軍と合流し、賊の境に陣を並べて要害を扼し、彼らの植えた穀物を収奪したい。彼らに食糧がなければ、自ずから窮するはずであり、機に乗じて捕らえ殺せば、後患を絶てよう」。これに従った。二十九年、富川県を富川千戸所に移した。当時、富川千戸所が矮石城に新設され、典史が言上した。「県治に城壁がなく、蛮寇が密かに起こることを恐れ、守備の拠点がない。城内に移すのが便利である」。これに従った。弘治九年、総督鄧廷瓚が言上した。「平楽府の昭平堡は梧州・平楽の間にあり、瑶・僮がしばしば出没して害をなす。上林の土知県黄瓊・帰徳の土知州黄通に命じ、それぞれ子弟一人を選び、土兵各千人を率いてその地に駐屯させたい。さらに城壁を築き、長官司の役所を設けて統轄させ、平楽県仙回峒の閑田を割いて耕作させよ。冠帯千夫長の龍彪は昭平巡検に改任し、哨船三十隻を造り、府江を往来して巡哨させ、流官の選任は停止せよ」。廷議では、昭平堡は内地であり、土官を増やすと後患を残す恐れがあるとした。況んや府江一帯には近頃按察司副使一員を設けて兵備を整えているので、土官を派遣する必要はなく、ただ毎年各々土兵一千人を出して調遣に従わせるだけでよいとした。詔はこの議に従った。

府江には両崖三洞の諸僮がおり、皆荔浦に属し、延々千余里にわたり、その間に巣窟の洞が絡み合い、瑶・僮の窟穴となっている。江上の諸賊はこれを党援と頼み、日々府江の酋長楊公満らとともに荔浦・平楽及び峰門・南源を掠め、永安知州楊惟執を捕らえ、指揮の胡翰・千戸の周濂・土舎の岑文及び兵民を数え切れないほど殺した。また遷江の北三、来賓の北五は、いずれも右江の僮であり、時には東欧・西裏及び三都・五都の諸賊と相倚り附き、馬が多く人も強勁で、俗に劃馬賊と号した。常に兵を陳べて嶺東を走り、三水・清遠などの県を掠め、帰りに南寧・平南・武宣・来賓・藤・貴に入り、府庫を劫掠した。やがて来賓所の千戸黄元挙を劫い、土吏の黄勝とその子四人、兵七十余人を殺し、また明経の諸生王朝経・周松・李茂・姜集らを殺し、白昼に劫殺し、道には行人が絶えた。隆慶六年、巡撫郭応聘・総督殷正茂が討伐を請うた。詔して総兵官李錫に軍を督して進剿させ、東蘭・龍英・泗城・南丹・帰順の諸土兵を調発し、土吏の韋文明らにこれを統率させ、古西・巌口・筍山・古造及び両峰・黄洞などの寨を攻め、賊の渠魁を斬獲し、残党は仙回・古帯などの山に逃げ込み、捜索捕獲してほぼ尽きた。そこで北三・北五に檄を移し、帰降を促した。洞老の韋法真が捕らえられた来賓・遷江の民蒙演らとともに軍門に赴き降伏を乞うたので、これを許し、善後の六策を定めて上奏した。初め、荔浦の峰門・南源、修仁の麗壁、永安の古眉の諸巡司は、諸僮に奪われていた。この時、土巡検に改めることを議し、才武ある者を推挙選択し、冠帯を与えて管事させ、三年間称職であれば初めて世襲させることとした。

万暦六年、北山蛮の譚公柄が毒弩を恃み、行旅を傷つけることをほしいままにし、一度に出るごとに十百を群れなした。黄勝を殺した後、再び党を集めて三千人で屳鳳山・亀鼈塘より出て、河塘の韋宋武とともに江辺に寨を結んだ。時に義寧・永寧・永福の諸僮が群れをなして起こり、互いに殺掠し、道路が通じなくなった。ちょうど咘咳寨の藍公潺が土吏の黄如金を捕らえ、その司を奪った。巡撫呉文華は守巡道の呉善・陳俊に檄を飛ばし、永順白山兵及び狼兵を徴発してこれを剿討させ、横山・咘咳などの巣窟を平定した。諸瑶は侵奪した土地と捕らえた生口を返還し、賦を納めて良民となることを願い、そこで軍を返した。

右江十寨は、隆慶年間、総督殷正茂が古田を撃破した際、すぐに檄を飛ばして八寨に帰降を促し、死罪を免じた。ここにおいて寨老の樊公懸・韋公良らが相次いで軍門に謁見し、十寨合わせて一百二十八村、村を取り囲んで居住する二千一百二十余家あり、皆賦を受けることを請うと述べた。右江兵備の鄭一龍・参将の王世科は、十寨が既に民となることを請うた以上、十家を単位として賦米一石とすべきだと言った。村ごとに一甲長を立て、寨ごとに一洞老を立て、賦徴収の計画とした。そして思古・周安・落紅・古卯・龍哈を合わせて一州とし、向武の土官黄九疇に属させ、羅墨・古缽・古憑・都北・咘咳を合わせて一州とし、那地の土官黄旸に属させ、いずれも土知州とした。やがて思恩守備を周安堡に移したが、布政使が不便であるとし、総制は議して八寨を長官司とし、兵八千人を黄旸に属せしめて長官とし、黄昌・韋富にはいずれも冠帯を与えて土舎とし、また各々兵二百を率いて守備させた。久しくして、十寨が再び党を集めて乱を起こし、民の田産を占拠し、白昼に都市に入って剽掠し、甚だしきは城を攻め庫を劫い、官民を殺害した。総制劉堯誨・巡撫張任が急ぎ兵を統率して進剿し、一万六千九百余を斬首し、器仗三千二百、牛馬二百三十九を獲た。帝は諸土吏の功を昇賞し、また八寨を三鎮に分け、各々一城を建て、東蘭州の韋応鯤・韋顕能及び田州の黄馮克を土巡検とし、兵一千人を留めて戍守させた。三里に二堡を増築し、楊渡水を境界とし、田を墾いて屯種し、南丹衛に給し、慶遠・賓州への通路を開き、思恩・三里の連絡を絶やさないようにした。ここにおいて右江十寨は再び安輯し賦を納めた。

三十二年、桂林・平楽の瑶・僮が険阻に拠って乱をほしいままにし、知県張士毅を殺し、毎月のように焚掠を繰り返した。総督応槚は総兵官顧寰に檄を飛ばし兵を督して進剿させ、四百八十四を擒斬し、男女三百四十を俘獲し、牛馬器械を多く獲た。守臣が捷報を奏上し、併せて僉事茅坤・参将王寵・都指揮鐘坤秀・参政張謙・百戸呉通らの功績を上奏したので、各々昇進・蔭官の差等があった。

平楽は桂州・梧州に界し、西北は楚に近く、清湘・九嶷の山々が鬱蒼と絡み合う。東南は梧州に入り、渓谷や林藪の地には多く瑤族が盤踞する。数度の大征討の後、山を切り開き道を通し、周行に広げ、また楼船を増設し、校塁を修繕したので、住民や旅人も皆安らぎ、瑤・僮も次第に文治に馴染むようになった。

梧州は、漢代の蒼梧郡である。元の至元年間に梧州路を置いた。洪武元年、征南将軍廖永忠・参政朱亮祖らが広東を平定した後、兵を率いて梧州の境に至った。元の達魯花赤拜住が官吏父老を率いて迎えて降伏し、亮祖は滕州に兵を駐屯させた。ここにおいて潯州・貴州などの州県が順次降伏帰附した。二年に南流県を郁林州に、普寧県を容州に併合し、藤県・容県も皆梧州府に隷属させた。四年に梧州守禦千戸所を置き、二十三年に容県守禦千戸所を置いた。

広西全省で蒼梧一道のみに土司がなく、瑤族の患いも少ない。万暦初年、岑渓に潘積善という者がおり、平天王と僭称し、六十三山・六山・七山などの瑤・僮と結び山に拠って寇賊となり、住民は討伐を請うた。折しも大軍が羅旁を征討して手が回らず、総制淩雲翼が禍福を説く檄を飛ばすと、積善は帰降して賦税を納めることを願い出たので、その死罪を赦し、かつその子を入学させた。議する者は、七山は蒼梧・藤県の要地、六山は容県・北流の要衝、北科は六十三山の咽喉、懐集は賀県諸村の出入り口であるという。そこで五大営を立て、各営六百人、合わせて三千人とし、参将及び三十の屯堡を設けて治めた。しかし懐集の瑤賊は、正徳年間に既に十五寨を雄拠し、二百余里を巡り、州県の患いとなっていた。官軍は屡々討伐したが、帰降しても、依然として蟠踞し、しばしば諸峒の蛮族と結んで劫掠し、百戸朱裳及び把総羅定朝を殺害したので、村民はこれを恐れ、東西に逃げ隠れた。都御史呉善が総兵戚継光に檄を飛ばし、羅定・泗城・都康などの土司から兵を徴発し、五道に分け、参将戴応麟らに命じて金鶏・松柏などの寨を撃ち、渠魁を斬り、四百余人を撫した。時に郁林の瑤族もまた桀驁で、屡々諸生瑤を糾合して諸村寨を破り、興業県に侵入寇掠した。兵巡道副使王原相が総制に報告し、兵を調べて撃破し、諸瑤は悉く平定された。

潯州は、江を潯江といい、東城門を潯陽という。郡名はこれに取る。洪武八年、潯州大藤峡の瑤賊がひそかに発動し、柳州衛の官軍がこれを擒捕した。二十年、知府沈信が言うには、「府の境は柳・象・梧・藤などの州に接続し、山渓険峻で、瑤賊が出没して常ならず。近ごろ広西布政司参議楊敬恭が大亨・老鼠・羅碌山の生瑤に殺害され、官軍がこれを討ったが、賊は巌に登り樹に攀じ、猿狖の如く敏捷で、追襲しても及ばない。もし長く兵を駐屯させれば、瘴癘が時に発生し、兵は多く疾疫にかかり、また進取し難く、兵が退けば再び出て患いとなる。臣は考えるに、桂平・平南の二県には、旧来附いた瑤民がおり、皆弓弩に熟達し、険阻を慣れ歩んでいる。もしその少壮千余人を選び、その差徭を免じ、軍器衣装を与え、各々村寨に団結させ烽火を置き、官兵と相呼応し、協同して捕逐させれば、これを殲滅することができよう。」帝は、蛮夷が教化に背くのは昔から当然であり、ただその防禦を謹んで患いとならぬようにすべきであるとした。もし寇掠を止めなければ、その時に兵を発して討てばよく、何ぞ団寨など必要があろうか。

永楽三年、総兵韓観が桂平県の蛮民が乱を起こしたと奏上し、兵を発して剿捕することを請うた。帝は暫くこれを撫するよう命じ、兵を用いるなと命じた。宣徳四年、総兵山雲が潯・柳二州の寇賊を討ち、従う寇賊二千四百八十人を併せて誅し、境上に梟首した。七年、雲が桂平等県の蛮寇覃公専らの首級数を斬獲したと奏上した。帝は左右を顧みて言った、「蛮寇が我が良民を害するのは、譬えば蟊賊が禾稼を害するが如く、除かざるを得ない。しかし殺し過ぎるのも忍びない。彼らが自ら滅亡を取るとはいえ、朕は天地の心を以て心としている。」九年、雲が潯州などの蛮寇が良民を劫掠したと奏上し、指揮田真が兵を率いて大藤峡などで、前後九十六級を斬首し、掠められた男女二百三人を帰した。

正統元年、兵部尚書王驥が奏上した、「桂平大藤峡などの蛮寇が、郷村を攻撃劫掠している。そこで広東官軍二千人を調発したが、今や既に一年を過ぎ、軍器衣装が損壊している。貴州諸軍の例の如く、践更を与えるべきである。」従った。二年、山雲が奏上した、「潯州府平南等県の耆民が言うには、『大藤峡などの山では、瑤寇が時を定めず出没し、居民を劫掠し、行旅を阻絶している。近山の荒田は、賊に占拠耕作され、左・右両江では、人多くして食少なく、その狼兵は元来勇猛で、賊に憚られている。もし頭目を選任し、近山の荒田を屯種させ、賊の出没する路を断てば、数年を経ずして賊徒は坐して困窮し、地方は寧靖となろう。』臣は既に巡按諸司と会同計議し、田州等府の族目土兵を量り撥ち、分界して耕守させ、即ち土官都指揮黄竑にこれを統領させた。賊の出没に遇えば、協同して剿殺する。」従った。七年、瑤賊藍受貳らが居所の大藤峡の山険を恃み、大信等山の山老・山丁数百人を糾集し、年を逐って殺掠した。千戸満智らが誘い出して十人を殺害したので、帝はこれを梟首し、家口は有功の家に給賜するよう命じた。十一年、大藤峡の蛮賊が郷村を流劫し、諸県を侵犯したので、巡按万節がこれを上聞した。景泰七年、大藤峡の賊が荔浦などの賊と糾合し、県治を劫掠し、居民を殺擄したので、総兵柳溥らにこれを剿討するよう命じた。

天順五年、鎮守広東中官阮隨が奏上した、「大藤峡の瑤賊が両広に出没し、累年悪事を働き、近来ますます甚だしい。常に会兵して剿捕するが、地裏が遼遠であり、かつ両広の軍馬は互いに統属せず、容易に成功し難い。宜しく大挙してその巣穴を搗き、庶幾く民患を絶つべきである。」そこで都督僉事顔彪に征夷将軍の印を佩かせ、南京・江西及び直隸九江等衛の官軍一万を調発してこれに隷属させた。六年、彪が奏上した、「臣が軍を率いて大藤峡に進剿し、七百二十一寨を攻め破り、三千二百七十一級を斬首し、掠められた男女五百余口を奪回した。」帝はこれを敕して賞した。

七年、大藤峡の賊が夜に梧州城に入った。時に総兵官泰寧侯陳涇が城中に兵を駐め、太監朱祥・巡按呉璘・副使周璹・僉事董応軫・参議陸禎・都指揮杜衡・土官都指揮岑瑛らと会して兵を調発することを議した。夜半、賊が梯子をかけて城に上り、涇らは気づかず、遂に府治に入り、庫を劫いて囚人を放ち、軍民を数え切れぬほど殺害し、城中を大掠し、副使周璹を人質に執り、訓導任璩を殺害した。涇らは倉卒にして計なく、ただ兵を擁して自衛するのみで、随軍の器械並びに備賞の銀物は、皆賊の有するところとなった。布政使宋欽は時に致仕して家居していたが、挺身して出て、大義を以て賊を諭したが、害された。黎明、賊は官軍がもし動けば周副使を殺すと声言した。涇らは乃ち人を遣わして賊と講解し、晡時に至り、これを出城させた。賊が既に出たので、乃ち璹を放ち還した。時に官軍は数千、賊は僅かに七百に過ぎなかった。都指揮邢斌の奏が至り、帝は言った、「梧州は蕞爾たる小城にて、総兵・鎮守・巡按・三司が皆重兵を擁して城中に駐屯しながら、乃ち小賊に蔑視されるとは、況んや大敵に遇えばどうなるか!爾ら兵部は即ち議処して行え。」

八年、国子監生の封登が上奏した。「潯州の夾江の諸山は、含岈嶻嶪として、峡の中に大藤が斗の如くあり、両崖に延び亘り、その勢いは徒杠の如し。蛮衆は蟻の如く渡り、大藤峡と号し、最も険悪にして、地も亦た最高なり。藤峡の巔に登れば、数百里皆歴歴として目前にあり、軍旅の聚散往来は、顧盼の間に尽くすべし。諸蛮はこれに倚りて奥区と為す。桂平の大宣郷崇姜里は前庭と為り、象州の東郷・武宣の北郷は後戸と為り、藤県の五屯はその左を障り、貴県の龍山はその右を据え、両臂の如し。峡北の巌峒は百を以て計り、仙人関・九層崖は極めて険峻なり。峡以南に牛腸・大岵の諸村あり、皆江に縁りて寨を立つ。藤峡・府江の間は力山と為り、力山の険は藤峡に倍す。又南は則ち府江と為り、その中に冥巌奥谷多く、絶壁層崖、十歩九折、足を失えば身を隕す。中に瑤人を産し、藍・胡・侯・槃の四姓は渠魁と為る。力山には又た僮人あり、善く毒薬弩矢を傅え、中人して立たずして斃れざるは無し。四姓の瑤も亦たこれを憚る。景泰以来、嘯聚して万人に至り、城を隳し吏を殺す。而して修仁・荔浦・平楽・力山の諸瑤これに応じ、その勢い益々張る。渠長の侯大狗は嘗て千金を懸けて購うも、得ること能わず。郁林・博白・新会・信宜・興安・馬平・来賓も亦た煽動し、至る所丘墟と為り、民の害と為る。乞うらくは良将を選び、多く官軍・狼兵を調べて急ぎ賊を滅すべし。」と。聞くに報う。

成化元年、編修の丘浚が両広の用兵機宜を条上した。兵部尚書の王竑が奏言した。「峡賊の乱を称すること日久しく、皆守臣が招撫を以て功と為すに由り、大患を醸し、大創せざれば止まざるなり。」と。因って浙江参政の韓雍に文武の才あるを薦む。命じて雍を以て僉都御史と為し、都督同知の趙輔を征夷将軍と為し、和勇を遊撃将軍と為し、師を率いてこれを討たしむ。時に大藤峡の賊三千余、平南県を陥とし、典史の周誠を殺し、その妻子を擄い、並びに県印を劫う。又た藤県城に入り、官庫を掠め、県印を劫い、鎮守総兵の欧信以て聞かしむ。ここにおいて総兵官趙輔、軍を率いて至り、奏言した。「大藤蛮賊は修仁・荔浦を以て羽翼と為す。今大軍境に圧す、宜しく先ずこれを剿ぐべし。」と。乃ち諸軍十六万人を合し、五道に分かれて進み、先ず修仁を破り、窮追して力山に至り、生擒千二百余人、斬首七千三百余級。

二年、趙輔・韓雍等が奏した。「元年十一月、師は潯州に次ぐ。謀りて深く入りてその巣を覆さんとす。遂に総兵官欧信等を調べて兵を五哨に分ち、道を山北に取りて進ましむ。臣及び指揮の白全は兵を八哨に分ち、直ちに潯州に抵り、以て山南を搗く。復た参将の孫震に命じて兵を二哨に分ち、水路より入らしむ。別に指揮の潘鐸等を遣わして兵を以て諸山の隘口を分守せしめ、期を十二月朔日に克ち、水陸並びに進み、腹背交えて攻む。賊は師の至るを知り、先ず妻子銭米を桂州横石塘等の処に移し蔵匿す。乃ち山南の各寨に於て、柵を立て自ら固くし、木石鏢槍薬弩を用い、険に憑りて拒守す。官軍は団牌・扒山虎等の器を用い、魚貫として進む。士は殊死に戦い、一日の間に、山南・石門・林峒・沙田・古営の諸巣を攻め破り、積聚を焚き、賊は皆奔潰す。復た兵を督して追躡し、山を剣ぎ路を開き、直ちに横石塘及び九層楼等の山に抵る。賊は已に険に据え柵を数重に立て、復た木石・槍弩を用いて拒守す。臣等多く疑兵を設け、賊を誘いて木石を抛擲すること幾くんぞ尽くさんとし、別に壮士を賊の備えざる処に遣わし、高山の絶頂に、炮を挙げて号と為す。諸軍は木に縁り蘿を攀じ、蟻附して上り、四面夾攻し、連日鏖戦し、賊は支うる能わず。賊寨三百二十四所を破り、斬首三千二百七級、生擒七百八十二人、賊婦女二千七百十八人を獲、戦溺死する者は勝て計うべからず。已に大藤峡を改めて断藤峡と為し、石に刻みてこれを紀し、以て天討を昭かにす。」と。捷報を聞き、帝は勅を降して褒諭し、仍て輔に勅して長策を計議し、永く後患を絶たしむ。未だ幾ばくもあらざるに、雍が奏するに、断藤峡の残賊侯鄭昂等七百余人、夜に潯州府城に入り、軍営城楼を焚き、百戸所の印三顆を奪い、男婦数十人を殺掠す。旋ちにして参将の孫震・指揮の張英が軍を率いて撃ち賊魁を斬り、余党は仍て巣に奔り入る。既にして雍は又た奏した。「諸瑤の性は、官吏を見るを憚り、流官を以て摂すれば、終に乱を靖め難し。請うらくは武宣県東郷等の巡検司を改設し、土人の李升等を以て副巡検と為し、峡内に武靖州を設け、上隆州知州の岑鐸を以て知州事と為し、土人の覃仲英を世襲の土官吏目と為すべし。」と。然れども府江の東西両岸、大・小桐江・洛口と断藤峡・朦朧・三黄等の処、村巣接壤し、路道崎嶇、衆を聚めて劫掠し、終に除く能わず。

正徳十一年、総督の陳金復た両広の官軍土兵を督調し、六大哨に分ち、按察使の宗璽、布政使の吴廷挙、副総兵の房閏、鎮守太監の傅倫、参将の牛桓、都指揮の魯宗貫・王瑛これを将い、水陸並びに進み、七千五百六十余級を斬る。金は諸蛮は魚塩の利のみと謂い、乃ちこれと約し、商船峡に入る者は、船の大小を計り、これに魚塩を与う。蛮は水濱に就きて受け去り、榷税の如く然り、梗と為ることを得ず。蛮は初め利を得て約を聴き、道頗る通ず。金はこの法久しうすべしとし、峡の名を永通に易う。諸蛮は此に縁りて忌憚無く、大肆に掠奪し、稍々愜わざれば、即ちこれを殺す。因循して猖獗し、江路断たる。時に総督の王守仁、田州を定めて還る。両江の父老、道を遮りて峡賊の阻害の状を言う。守仁は上疏して討つを請い、報可す。守仁は湖南の兵を率いて南寧に至り、日を約して兵を会す。寇は湖兵将に至らんと聞き、皆逃匿す。守仁は故らに諸兵を散遣する状を為し、寇弛みて備えを為さず、乃ち官軍に命じて突進せしめ、連ねて油⿰石窄・石壁・大皮等の寨を破り、賊は断藤峡に奔り、復た追撃してこれを破る。賊は横石江を渡りて奔り、溺死六百余人、俘斬甚だ衆く、賊潰散す。遂に兵を移して仙台・花相・白竹・古陶・羅鳳の諸処に至り、賊は支えず、永安の力山に奔り入る。官軍は次第にこれを破り、擒斬三千余、俘獲算うるに遑あらず。八寨平ぎ、両江悉く定まる。守仁は遂に土官岑猛の子邦佐を以て武靖知州と為し、遺孽を靖ましむ。

邦佐は衆をまとめることができず、かつ賊の賄賂を得ることを貪り、峽北の賊は再び猖獗となった。侯勝海という者を首領とし、指揮の潘翰臣がこれを誘い殺したところ、勝海の弟公丁が衆を集めて城下で騒ぎ立てた。僉事の鄔閲と参議の孫継祖が都御史の潘旦に言上し、これを討つことを請うた。参将の沈希儀は、春になって江水が漲り、順流に下って初めて賊を破ることができるとすべきであると考えたが、聞き入れられなかった。閲と継祖は千人を率いて往き撃ったが、賊は逃げ、一人の病弱な賊を斬って帰還した。漫然と賊が退いたと述べ、堡を置くことを請うた。堡が完成すると、閲は土目(土官の目付)の黄貴と韋香に三百人を率いて往き守備させた。初め、貴と香は勝海の田畑と屋敷を利していたため、翰臣を説いて勝海を殺させたのであり、この時守備に赴き、遂に勝海の田畑と屋敷を奪った。ここにおいて諸瑤(ヤオ族)は皆憤り、邦佐もまた密かに彼らに与したため、公丁は遂に二千余人を嘯聚し、夜に乗じて堡城を陥落させ、守備兵二百人を殺し、貴と香は逃れて難を免れた。巡按がこれを上聞すると、閲と継祖を罷免し、旦もまた交代して去り、侍郎の蔡経に命じて兵を督しこれを討たせた。時に朝議で安南を征討しようとしたため、事は遂に中止となった。公丁らはますます横暴となり、時折出没して殺戮掠奪を行った。久しくして、経は安遠侯の柳珣と会し決計して兵を発し、兵事を副使の翁萬達に委ねた。萬達は百戸の許雄が賊と通じている様子を察知し、これを詰問した。雄は恐れ、自ら効力を請うた。萬達は公丁を庇うふりをし、公丁を告訴した数人を捕らえて拘束した。公丁は果たして人を遣わして自ら陳述させたので、萬達は偽ってこれを許し、また雄に命じて借金と偽って賄賂を贈らせた。公丁は喜び、ますます雄を信じた。時に萬達が他の郡を巡察したため、事を参議の田汝成に委ねた。汝成は雄を召して戒め、雄は公丁を欺いて汝成のもとに赴かせ自ら陳述させ、堡城襲撃の事は他の瑤によるものだと述べさせた。汝成もまた慰めて帰した。そして密かに城中の住民で賊に害を受けた家に意を授け、公丁を殴らせた。市中は皆騒ぎ立ち、遊撃(巡察吏)が公丁を逮捕し獄に繋いだ。雄を遣わしてその徒党に諭して言わせた。「堡城襲撃の事は公丁が諸瑤に罪をなすりつけたというが、果たしてそうか。」諸瑤は遂に事は公丁によるものだと述べ、論罪に従い、与党しようとはしなかった。そこで檻車で公丁を軍門に送り、処刑した。汝成はこれにより経に言上し、首悪が既に誅殺された以上、勢いに乗じて進兵し賊を討つべきであると述べた。そこで副総兵の張経と都指揮の高乾に命じて左右二軍を分将させ、萬達と副使の梁廷振がこれを監し、副使の蕭畹が功績を記録し、参政の林士元と汝成が兵糧を監督した。

嘉靖十八年二月、両軍は斉しく出発した。左軍三万五千人は六道に分かれ、紫荊、石門、梅嶺、木昴、藤沖、大坑などの巣窟を攻撃した。右軍一万六千人も四道に分かれ、碧灘、羅淥上・中・下洞などの巣窟を攻撃した。南北から挟撃し、賊は大いに窮し、遂に衆を擁して林峒に奔り東へ向かった。王良輔がこれを邀撃し、中ほどで断ち切り、賊は再び西へ奔った。諸軍が合撃し、大いにこれを破り、千二百級を斬首し、羅運山まで追撃してさらに百余級を斬った。平南県には小田、羅応、古陶、古思などの諸瑤もまた険阻に拠って安靖ではなかった。萬達らは兵を移してこれを剿討し、賊党二百余人を招降し、江南の胡姓諸瑤で帰順した者もまた千余人に及び、藤峡は再び平定された。

隆慶三年、右江の諸瑤・僮(チワン族)が再び乱を起こした。巡撫の郭応聘は兵糧を給して剿除することを請うた。給事中の梁問孟は賊党が多く、全て滅ぼすことはできないとして、守臣に熟慮させるべきであると述べた。兵部は言上した。「府江は正徳十二年に都御史の陳金が征討して以来、ほぼ六十年を経ている。そして右江の北三、北五などの巣窟は、元来懲創を加えられておらず、人口が日に日に増え、遂に猖獗を極めている。近ごろ古田を大征した際、各巣窟は皆威を畏れて収まっていたが、ただ府江・右江だけが険阻を恃んで乱を起こしている。もし再びこれを放置すれば、八寨や懐遠を招撫した成果を固めることができないばかりか、古田に離反の兆しを生じさせる恐れもある。剿討するのが妥当である。ただし兵は万全を期すべきであり、科臣(梁問孟)が慮るところをそのまま提督の殷正茂と巡撫の郭応聘らに伝え、適宜実行させるべきである。」応聘は遂に総兵官の李錫らに檄を飛ばし兵を率いて往き討たせ、勝利を報告した。南寧は、唐代の邕州である。元代は邕州路であった。泰定年間に南寧路と改称された。洪武二年、潭州衛指揮同知の丘広を総兵官とし、宝慶衛指揮僉事の胡海と広西衛指揮僉事の左君弼を副将として命じ、兵を率いて左江上思州の蛮賊黄龍冠らを討たせた。龍冠は英傑とも名乗り、時に衆万余を聚め、郁林州を寇した。知州の趙鑒と同知の王彬が民丁を集めて防ぎ守ったため、賊は半月にわたって包囲したが陥落させられなかった。海北などの衛の官軍が来援し、賊は夜に遁走した。上思州の境まで追撃してこれを破り、賊は逃げ戻り、なおも結聚を解かなかった。事が上聞され、故に広らに討伐を命じたのである。広らの兵が上思州に至ると、賊は防戦したが撃破され、従賊の黄権らが生け捕られた。英傑は十萬山に逃げたが、官軍が追いついてこれを斬り、上思州は平定された。

三年、南寧と柳州の二衛を設置した。時に広西省の臣が言上した。「広西の地は雲南・交阯に接し、治める所は皆溪洞の苗蛮であり、性質は狼戾で多くは叛く。府衛の兵は靖江から数百里も遠く離れており、急に警報があっても援け合うのは難しい。衛を立て兵を置いて鎮撫することを乞う。」また言上した。「広海の風俗は元来獷戾で、動もすれば仇殺し合う。これは郡県にこれを統御する兵がないためである。近ごろ盗賊が郁林を寇した際、同知が民兵を集めて防ぎ守り、潯州の経歴の徐成祖もまた民兵千余で賊を破った。これは土兵(地元の兵)が決して用いることができないわけではない証左である。辺境の郡県に命じて民丁の壮健な者をまとめ、衣甲と器械を備え付け、官司に籍を置かせ、有事には賊を捕らえ、無事には農に務めさせることを乞う。」詔はこれに従った。そこで衛を設置し、守備兵を増やし、王彬や徐成祖ら功績ある者を賞した。

五年、宣化で盗賊が起こり、南寧府を劫掠した。詔を下し広西の官軍を発してこれを討平させた。初め、南寧衛指揮僉事の左君弼が籍の無い民を軍に編入し、また配下の者を山に入って木材を伐採させることを放任したため、民は多く擾乱し、遂に結託して盗賊となったのである。この時に至り討平され、大都督府に命じて君弼の罪を糾明させた。

南寧はかつて邕管と称し、牂牁がその西北に聳え、交阯がその西南に踞り、三十六洞が錯雑して地を居とし、延袤千里に及び、横山と永平は特に要害であった。唐代から宋代にわたり、牙を建て帥を置き、桂州などと同等であった。また郡の地は夷曠(平坦で広大)であり、数万の軍勢を宿営させることができた。成化の時、田州を征討し及び安南を経略するに当たり、皆この地に節を止めた。後に瑤蛮が安靖でなくなると、往々にして狼兵(広西の土着兵)に頼り、急な時には前駆とし、緩やかな時には檄を飛ばして守禦に当たらせた。諸瑤は次第に驕恣となり、法で全て縛ることはできなくなった。邕の事を議する者は、重鎮を開き、邕州督府の旧制を復すべきであると説いた。南寧は四州を管轄する。新寧州と横州は流官(朝廷派遣官)が治める。上思州と下雷州は土官(土着首長)が治める。県は三つ、宣化県、隆化県、永淳県である。

帰德州は、宋代の熙寧年間に設置された。元代は田州路に属した。洪武二年、土官の黄隍城が帰順し、知州に任じられ、流官の吏目がこれを補佐した。

果化州は、宋代に初めて設置された。元代は田州路に属した。洪武二年、土官の趙栄が帰順し、世襲の知州に任じられ、流官の吏目がこれを補佐した。洪熙元年、果化州の土官趙英は一族の趙誠らを遣わして馬と方物を貢納した。弘治年間、州は帰德州と共に田州に侵削され、それにより南寧に改めて隷属させられた。

上思州は、唐代に初めて設置された。元代は思明路に属し、洪武の初め、土官の黄中栄が内附し、知州を授けられたが、子孫は叛服常ならず。弘治十八年に流官に改め、南寧府に属した。正徳六年、土目黄錙が衆を集めて城を攻め、都御史林廷選がこれを捕らえ、獄に下した。後に、獄を脱して再び叛き、官軍がこれを防ぐと、詐降して州城を攻め破ったが、再び捕獲され、誅せられた。嘉靖元年、都御史張嵿が言うには、「上思州は本来土官であったが、後に流官に改めたため、土人の乱を招いた。旧に復し、良き土吏を選んで任ずべきである」と。議して然りとし、仍て土官に襲封させた。

下雷州は、宋代に設置された。明初、印を失い、廃されて峒となり、湖潤寨に在り、鎮安府に属した。峒長許永通は調に奉じて功があり、冠帯を給された。世烈、国仁が相継いで峒事を襲った。嘉靖十四年に旧印を獲た。国仁及びその子宗蔭は屡々戦功を立てた。四十三年に南寧府に改属した。万暦十八年、地が交南に逼るを以て、奏して州に昇格させ、印を頒ち、宗蔭の子応珪を土判官に授け、流官の吏目を以てこれを補佐させた。