明史

列傳第二百〇四 貴州土司

◎貴州土司

貴州は、古の羅施鬼国である。漢代の西南夷牂牁郡・武陵郡などの傍郡の地であった。元代に八番・順元などの諸軍民宣慰使司を置き、これを羈縻した。明の太祖が陳友諒を平定した後、兵威は遠くに振るい、思南宣慰・思州宣撫が率先して帰順したので、即時に旧官のまま世襲してこれを守らせた。これは至正二十五年のことであった。洪武五年に至り、貴州宣慰の靄翠と宋蒙古歹及び普定府女総管の適爾らが相次いで帰順したので、皆に原官を世襲させた。帝は中原北伐に忙しく、未だ南荒の経営に手が回らなかった。また田仁智らが毎年職貢を修めて最も恭順であったので、衛指揮僉事の顧成に城を築かせて守らせ、賦税は自ら輸納するに任せ、郡県は設置しなかった。

永楽十一年、思南と思州が互いに仇殺し合ったので、始めて顧成に兵五万を率いさせてこれを捕らえ、京師に送らせた。そこでその地を八府四州に分け、貴州布政使司を設置し、七十五の長官司をこれに分属させて戸部に属させた。貴州都指揮使を置き、十八衛を統轄させ、七つの長官司をこれに属させて兵部に属させた。府以下には土官を参用した。その土官の朝貢と符信は礼部に属し、承襲は吏部に属し、土兵を領する者は兵部に属した。その後、府は六つに併合され、州は四つに併合され、長官司は分かれたり合わさったりして、改革は一様ではなかった。その地は西は滇・しょくに接し、東は荊・粤に連なる。太祖は『平滇詔書』の中で「靄翠らをことごとく服従させなければ、たとえ雲南を有しても守ることはできない」と言い、既に黔の地を志しており、成祖に至って遂にこれを成し遂げた。しかし貴州の地は皆高山深く、鳥道蠶叢の如く、諸蛮の種類は淫を嗜み殺を好み、叛服常ならず。靄翠が帰順した当初、その隴居部落を討伐するよう請うた。帝は言った、「中国の兵は、外夷が怨みを報いるための道具ではない。」また仁智が入朝した時、帝はこれを諭して言った、「天下の土地を守る臣は皆朝廷の命ずる官吏であり、人民は皆朝廷の赤子である。汝は帰って善くこれを撫で、各々その生を安んぜしめよ。そうすれば汝は長く富貴を享けるであろう。礼は上を敬うより大なるはなく、徳は下を愛するより盛んなるはない。よく敬いよく愛することが、人臣の道である。」二十一年、部臣が貴州の逋賦(滞納租税)について請うた。帝は言った、「蛮方は僻遠の地にあり、来たりて租賦を納めるのは、よく声教に遵うものである。逋負の故は、必ず水旱の災によるものであろう。宜しく蠲免を行うべし。今よりその数を定めて常例とし、寛大に減ずるように。」二十九年、清水江の乱が平定された後、守臣が賊の首魁が宣慰の家に匿われているので、併せて罪にすべきと上言した。帝は言った、「蛮人が鴟張鼠伏するのは、その常態である。再び問うな。」明初の蛮を禦ぐ道は、後世の鑑とすべきものである。

○貴陽 思南(思州附) 鎮遠 銅仁 黎平 安順 都勻 平越 石阡 新添(金築安撫司附)

貴陽府は、旧くは程番長官司であった。洪武初年、貴州宣慰司を置き、四川に隷属させた。永楽十一年に貴州に改隷させた。成化十二年に程番府を置いた。隆慶三年に程番府を貴陽府に移し、宣慰司と同城とし、府は城北を管轄し、司は城南を管轄した。万歴の時、貴陽軍民府に改めた。安撫司一を領し、金築という。長官司十八を領し、貴竹、麻向、本瓜、大華、程番、韋番、方番、洪番、臥龍番、金石番、小龍番、羅番、大龍番、小程番、上馬橋、盧番、盧山、平伐という。その貴州宣慰司の領する長官司九は、水東、中曹、青山、劄佐、龍裏、白納、底寨、乖西、養龍坑という。

蜀漢の時より、済火が諸葛亮の南征に従って功があり、羅甸国王に封ぜられた。後、五十六代を経て宋の普貴に至り、元の阿画に伝わり、代々水西宣慰司の地を領有した。靄翠はその裔であり、後に安氏となった。洪武初年、宣慰の宋蒙古歹と共に帰順し、欽の名を賜り、共に原職を世襲させた。布政使司が設置されると、宣慰司は従前の通りであった。安氏は水西を領し、宋氏は水東を領した。八番の降伏者は皆、その職を世襲させた。六年、詔して靄翠を各宣慰の上位に置いた。靄翠は毎年方物と馬を貢ぎ、帝は錦綺・鈔幣を加えて賜った。十四年、宋欽が死に、妻の劉淑貞がその子の誠に随って入朝し、米三十石・鈔三百錠・衣三襲を賜った。この時、靄翠もまた死に、妻の奢香が代わって襲職した。都督ととくの馬曄は諸羅をことごとく滅ぼし、流官に代えようと欲し、故意に事を構えて香を鞭打ち、兵端を激発させようとした。諸羅は果たして怒り、反乱を企てようとした。劉淑貞がこれを聞き止め、奔走して京師に訴えた。帝は召し出して問うた後、淑貞を帰らせ、香を招かせ、綺鈔を賜った。十七年、奢香は所属を率いて来朝し、併せて曄が変乱を激発させた状況を訴え、且つ西鄙を開くのに尽力し、世々境を保つことを願った。帝は喜び、香に錦綺・珠翠・如意冠・金環・襲衣を賜り、曄を召還してこれを罪した。香は遂に偏橋・水東を開き、烏蒙・烏撒及び容山・草塘などの諸境に通じ、龍場九驛を設けた。二十年、香は馬二十三匹を進め、毎年賦税三万石を輸納することを定めた。子の安的が襲職し、馬を貢いで謝恩した。帝は言った、「安的は水西に居り、最も誠実で謹直である。」礼部に命じてその使者を厚く賞賜させた。二十五年、的が来朝し、三品の服と襲衣・金帯・白金三百両・鈔五十錠を賜った。香はまたその子の婦の奢助及びその部長を遣わして馬六十六匹を貢がせ、詔して香に銀四百両、錦綺・鈔幣を差等をつけて賜った。これより毎年貢献絶えることなく、報施の厚さもまた他の土司の望むところではなかった。二十九年、香が死に、朝廷は使者を遣わしてこれを祭り、的は馬を貢いで謝恩した。

正統七年、水西宣慰の隴富が自ら上言した、「祖父以来、累朝皆金帯を賜わっております。臣は恩を蒙り職を受けましたが、例の如く賜わりたく存じます。」これに従った。この時、宋誠の子の斌は年老いていたので、子の昂に代わらせた。昂が死ぬと、然が代わった。十四年、隴富母子に勅を賜い、その兵を調えて境を保った功を嘉した。隴富は甚だ驕慢であった。天順三年、東苗の乱が起こり、富は時に応じて出兵しなかったが、朝廷が督責する意向があると聞き、馬を進めて謝罪し、勅を賜わってこれを戒めた。富が死に、甥の観が襲職した。観が老い、子の貴栄が襲職した。巡撫の陳儀は西堡獅子孔の平定が、観とその子の貴栄が部衆二万を統率して白石崖を攻め、四十日でこれを陥落させ、家から糧餉を供給し、口に功を言わなかったことによるとして、特に観に正三品の昭勇将軍の誥命を与えた。初め、安氏は代々水西に居住し、苗民四十八族を管轄し、宋氏は代々貴州城の側に居住し、水東・貴竹などの十長官司を管轄し、皆城内に治所を設け、左右に列んでいた。そして安氏が印を掌り、公事がなければ勝手に水西に帰還することはできなかった。この時に至り、総兵官がこれのために請うたので、時に応じてその部を巡歴し、貢賦の調達を促すことを許し、暫く水西に帰還し、印を宣慰の宋然に預けて代理させることを聴した。貴栄が老い、子の佐に襲職させるよう請うたので、命じて貴栄父子に錦纻を賜った。

先に、宋然は貪欲で淫らであり、管轄する陳湖等十二の馬頭が苗民を害して賦役を課し、変乱を激発させた。一方で貴榮は宋然の領地を併せようと欲し、その配下を誘って乱を起こさせた。ここにおいて阿朵等は二万余りの衆を集め、名号を立てて署し、寨堡を攻め落とし、宋然の居た大羊腸を襲撃して占拠し、宋然は僅かに身一つで逃れた。貴榮は急いで状況を上奏し、自らがこれを取り締まらせることを望んだ。折しも阿朵の党がその内情を漏らし、官軍が進討した。貴榮は恐れ、自ら配下を率いて助力した。賊が平定された時、貴榮は既に死んでおり、罪に坐して官爵を追奪され、宋然は斬刑に処せられた。宋然は上奏して、代々爵土を受け、国の厚恩に背いたが、変乱は貴榮から起こり、自身は重い刑罰に陥ったので、分けて釈放を乞うた。これにより末減に従い、土俗に依って粟を納めて罪を贖った。都御史は、貴築・平伐の七つの長官司の地に府県を設立し、全て流官を以て撫理するよう請うたが、巡撫が覆奏して蛮民が望まないとし、遂に取りやめとなった。宋氏もまた衰え、子孫は世官を守り、租を衣とし税を食むのみで、征調に応じるだけとなった。

時に安萬鐘が襲職すべきであったが、驕慢で放縦、法を守らなかった。漢民の張純、土目の烏掛等が彼を導いて遊猟し、酒に酣になると、人を射て戯れることさえあった。また嘗て左右の者を鞭打ち、その者らに殺された。子がなく、その従弟の萬鎰が襲職すべきであったが、鎰は賊が未だ捕らえられていないことを理由に辞した。烏掛等は遂に疎族の幼子の普者を萬鐘の弟と偽り萬鈞と称して襲職を申請し、承勘官がその賄賂を受け取ったため、暫く萬鐘の妻の奢播に事を摂行させた。萬鎰は立たなかったことを悔い、烏掛がその謀を主導したことを恨み、兵を以て烏掛を襲撃した。烏掛もまた兵を起こして仇殺し合い、皆萬鐘の死を口実とした。巡按御史がその状況を上奏し、萬鎰が襲職すべきであるが、烏掛と互いに誣告し合っているので、各々宥して贖罪させ、萬鐘を殺した者は梟首し、張純等を戍辺させ、賄賂を受けた者も罰して処置すべきとし、詔はこれに従った。間もなく、鎰が死に、子の阿寫が幼かったため、萬銓に借襲させた。萬銓は阿向を平定するのに助力した功績があり、提督尚書の伍文定がそのために請うた。萬銓もまた自らその功を述べ、参政の官銜を加え、蟒衣を賜わることを乞うた。帝は応分の服を賜わるよう命じた。後に阿寫が成長し、職を襲い、名を仁と改めた。間もなく死に、子の國亨が襲職した。國亨は淫虐で、事を以て萬銓の子の信を殺した。信の兄の智とその母は安順州に別居しており、これを聞き、國亨の謀反を告げた。巡撫の王諍は急いで兵を発して國亨を誅するよう請うた。智は遂に総兵の安大朝に策を授け、且つ兵糧数万を輸送することを約束した。師が陸広河に至ると、智の兵糧は到着しなかった。諍は人を遣わして國亨を諭し、大朝に進むなと止めさせた。兵は既に河を渡り、國亨に敗れた。國亨は大誅を恐れ、使者を遣わして哀願の言葉で降伏を乞うたが、朝廷はこれを許さなかった。巡撫の阮文中が到着し、諸々の反逆者を捕らえるよう檄を飛ばし、密かに使者を遣わして國亨に語らせ、速やかに諸奸徒を出頭させ、地を割いて安智母子を処置し、費やした兵糧を返還すれば、朝廷は汝を不死で遇するとした。ここにおいて國亨は悉く命令に従い、帝は果たして誅さずに赦し、國亨の子の民に襲職させた。國亨の事件は隆慶四年に起こり、萬暦五年に至ってようやく終結した。國亨は既に任を革められた後、日々人を京に遣わして賄賂を納め、復職の地歩を築こうとした。十三年、播州宣慰の楊應龍が大木を献上して飛魚服を賜わると、國亨もまた大木を進上するよう請い、播州の例に倣って冠帯誥封を還給することを乞うた。既にして木は結局届かず、木商に罪をなすりつけた。上は怒り、賜わったものを奪うよう命じた。國亨は補貢して欺かないことを明らかにするよう請い、上はなおその請いの通りにした。

萬暦二十六年、國亨の子の疆臣が職を襲った。折しも播州の楊応龍が反逆し、疆臣もまた安定を殺害した事件で有司に取り調べられていた。科臣にその逆節が次第に芽生えていると上言する者があったが、詔は問わず、賊を殺して功を立てることを許した。疆臣は上奏して「播州の賊勢が正に盛んであり、臣の心は未だ明らかにならない」と称した。上は再び優詔を以てこれに報いた。巡撫の郭子章は疆臣に、応龍平定後に播州が侵した水西の烏江の地六百里を返還して功に酬いると約束した。ここにおいて疆臣の兵は沙溪から入った。水西が賊を助けているという風説があり、総督の李化龍が檄を以て詰問すると、疆臣は遂に賊二十余人を捕らえ、配下を率いて落濛関を奪い、大水田に至り、桃溪荘を焼いた。応龍は誅殺された。初め、応龍の祖父は内難により水西に逃れ、客死した。宣慰の萬銓がこれを利用し、水煙・天旺の地を要求し、遺体を還葬することを許したが、その地は遂に水西に占拠された。播州が平定されると、その地を遵義・平越の二府に分け、それぞれ蜀・黔に隷属させ、渭河の中心を以て境界とした。総督の王象乾が化龍に代わり、疆臣に侵した播州の地を返還するよう命じた。子章は上奏して言うには、「侵地は萬銓の時に始まり、疆臣によるものではない。安氏は楊相が喪乱の時に迫って取り、応龍が平定された日に擅取したのではない。且つ臣は嘗てその土地を分与することを許した。今、その故地を奪い返すのは、臣に疆臣に謝する面目がなく、罷免を願う」と。象乾は上疏して言うには、「疆臣が番を征し、応龍の子の惟棟を殲滅したのは事実ではなく、首功は推して知るべし。仮装敗走して陣を棄て、薬を送り往来したことは、君を欺き逆を助けた跡が既に明らかである。侵地を返還させ、既往を咎めないのは、既に国家の寛大に属する。若しその挟迫に因ってこれを与えれば、彼は恩とせず、我が方は弱さを示すことになる。疆臣に既に功がなければ、地を与えないことが、正に撫臣の信を全うすることになる。宜しく撫臣を留め臣を罷免し、以て重臣が取るに足らぬ苗と噂し合う者の戒めとすべし」と。ここにおいて清疆の議は累年決まらなかった。兵部は両省の巡按御史に勘報を責めたが、南北の言官が相次いで上章して象乾が功を貪り釁を起こしたと誹謗した。科臣の呂邦耀はまた子章が賄賂を受け取って奸を放任したと弾劾し、子章はますます辞任を求めた。象乾は疆臣の遣わした入京行賄の人と金を押収し、朝廷に上聞した。然るに議者は多く疆臣に与し、尚書の蕭大亨は遂に巡按の李時華の上疏を支持し、「播州征討の役に、水西は仮道したのみならず、また兵を助けた。況や土司に失い、土司に得るのであり、播州は固より糧を輸し、水西もまた賦を納める。土地の故を以て小を字くの仁を傷つけるべからず、地は疆臣に帰すべし」と論じた。ここにおいて疆臣は官を増し秩を進められ、その母は祭を賜わり、水西の尾大不掉の患いは、ここにおいて制御し難くなったのである。

三十六年、疆臣が死に、弟の堯臣が襲封した。四十一年、烏撒の土舍が安效良を追放しようと謀り、堯臣は印璽を追うことを名目として、数万の兵を率いて長駆して雲南に入り、直ちに沾益州に迫り、通過した地で焼き掠めを行い、極めて惨毒を尽くした。朝廷は越境して勝手に兵を動かしたことを以て堯臣に罪を加えようとしていたが、堯臣が死んだ。子の位は幼く、その妻の奢社輝に事を摂行させた。社輝は永寧宣撫奢崇明の妹である。崇明の子の寅は粗暴で、社輝と土地を争い、互いに恨み合った。而して安邦彦という者は、位の叔父であり、平素から異心を抱き、密かに崇明と結んだ。崇明が反乱を起こすに及んで、水西に兵を調達し、邦彦は遂に位を脅してこれに応じて叛き、位は幼弱で制することができなかった。邦彦は更に元の宣慰土舍の宋万化を招いて助けとし、兵を率いて畢節に向かい、これを陥落させ、兵を分けて安順・平壩・沾益を破った。而して万化もまた苗仲九股を率いて龍裏を陥落させ、遂に貴陽を包囲し、自ら羅甸王と称した。時に天啓二年二月である。巡撫李枟はちょうど交代を受けたばかりで、変事を聞き、巡按御史の史永安と共に力を尽くして防ぎ守った。賊は攻撃しても陥落させられず、則ち崖沿いに柵を設け、城中の出入りを断った。鎮将の張彦芳が兵二万を将いて救援に赴いたが、龍裏で隔てられて進めなかった。貴州総兵の楊愈懋・推官の郭象儀は賊と江門で戦って死んだ。外援が既に絶たれ、攻撃は益々急となり、城中の食糧は尽き、人々は互いに食い合い、而して防ぎ守ることに余力を遺さなかった。朝廷は遼東の急務に忙しく、これを省みなかった。已にして、王三善を巡撫に任じ、慌ただしく兵糧を調達し、将兵を大いに集め、兵を二道に分けて進軍させた。三日で龍頭営に到着し、屡々賊兵を破り、遂に龍裏を奪取した。邦彦は新巡撫が自ら数十万の大兵を率いると聞き、大いに懼れ、遂に退いて龍洞に駐屯した。前鋒の楊明楷が烏羅兵を率いて安邦俊を撃ち殺し、遂に勝に乗じて貴陽城下に到着し、先ず五騎を以て伝呼して言うには、「新巡撫が到着した」と。城中は挙げて歓呼して更生を喜んだ。貴陽は十余月包囲され、城中の軍民男女四十万は、この時に至って餓死してほとんど尽き、僅かに二百人余りを残すのみであった。詳細は『李枟』及び『三善伝』の中にある。

貴陽の包囲が既に解かれると、邦彦は遠く陸広河の外に逃れた。三善は使者を遣わして社輝母子に邦彦を縛って降伏するよう諭した。大軍の到着する者は日増しに多くなり、三善は敵から糧食を調達しようとした。又、諸軍は賊を過小評価し、楊明楷は三十里外に営を置いた。邦彦は再び諸苗を糾合して来攻し、官軍は敗れ、明楷は捕らえられた。邦彦の勢いは再び盛んとなり、衆を合わせて再び貴陽を包囲しようとした。三善は兵を三路に分けてこれを防ぎ、生苗の砦二百余りを破り、万化等を生け捕りにし、その蓄積数万を焼いた。龍裏・定番の四路は共に通じ、諸苗で叛いた者は相次いで降伏した。邦彦は気勢を削がれて出撃できず、鴨池・陸広等の要地に塹壕を掘り兵を駐屯させ、自ら守る計略を立てた。時に奢崇明は蜀兵に敗れ、策が尽きて水西に投じ、邦彦と合流した。

三年、三善は兵を督して大方の賊の巣窟を攻め、土司の何中尉等を生け捕りにし、進んで紅崖に営を置いた。連続して天臺・水脚等の七つの屯を破り、その天険を奪取した。別将もまた羊耳で賊を破り、鴨池河まで追撃し、その戦象を奪った。遂に深く紅鳥岡まで入り、諸苗は奔り潰れた。三善は兵を率いて直ちに大方に入り、奢社輝・安位はその巣窟を焼き、火灼堡に逃げ込み、邦彦は織金に奔った。位は遂に人を遣わして鎮遠に赴き、総督の楊述中に降伏を請うた。これを許し、崇明父子を捕らえて自ら贖罪させるよう命じ、一意に撫育を主とした。而して三善は邦彦をも併せて献上するよう責め、併せて討伐を用いるべきだとし、議論が合わなかった。往復の間に既に数ヶ月が過ぎ、邦彦は兵を増やして備えることができた。三善は糧食が続かず、大方を焼き、貴州に還ったが、途中で賊に遭遇し、三善は害された。邦彦は数万の衆を率いて追撃し、総理の魯欽は力を尽くしてこれを防ぎ、数日間大戦したが、大軍に糧食がなく、夜に乗じて皆潰走し、欽は自刎した。賊は諸堡を焼き掠め、苗兵もまた逆に加担し、貴陽の三十里外では薪刈りも行えず、城中は再び大いに震駭した。初め、大方は東は播州に倚り、北は藺州に倚り、互いに犄角の勢いを成していた。後に播州・藺州が既に平定されると、賊は唯だ烏撒を頼みとして援けとし、而して畢節は四夷の交通する処であった。三善が貴陽の陸広から大方に深く入ること百七十里は、皆羅鬼の巣窟であり、地利を失って陥落したのである。天啓年間、朱燮元が蜀の総督となり、建議して雲南兵を沾益から出させ、安效良の応援を阻み、兵を天生橋・尋甸等の処に分けて、その逃走を絶ち;蜀兵を畢節に臨ませ、その交通の路を扼し、而して別に龍場巖の後から出て、その険を奪い;貴州兵を普定から思臘河を渡らせ、直ちに邦彦の巣窟に向かい、陸広・鴨池からその虚を衝き;広西兵を泗城から出させ、分かれて道を進み策応させ;然る後に大軍を遵義から鼓行して前進させる、と。間もなく憂いにより去り、未だ用いられなかった。総督の閔夢得がこれを継いだが、亦た貴州から大方に至る路が険しく、賊は唯だ畢節一路のみを恃んで外に通じていることを以て、我が兵は永寧から始めるべきであり、永寧から普市へ、普市から摩泥へ、摩泥から赤水へ、百五十里は皆平坦な道である。赤水には城郭があり頼りとして守ることができ、営を結んで進んで逼迫させるべきである。四十里で白巖、六十里で層臺、また六十里で畢節である。畢節から大方は六十里に満たず、賊は必ず力を併せて来防するであろうから、重兵を以てこれを扼し、その四方に走る路を断ち、然る後に遵義・貴陽から期日を定めて進軍すべきだ、としたが、亦た果たして用いられなかった。及んでこの時、貴州の事態が切迫し、詔して燮元を起用して貴州・雲南・四川・広西の総督とした。ここにおいて燮元は再び貴州に臨んだ。時に崇禎元年である。

奢崇明は自ら大梁王と号し、安邦彦は自ら四裔大長老と号し、その部衆は悉く元帥と号した。力を尽くして永寧に向かい、先ず赤水を犯した。燮元は守将に意を授けて偽って敗退し、深く誘い込み、賊が既に永寧に到着したと推し量り、別将の林兆鼎を三岔から入れ、王国禎を陸広から入れ、劉養鯤を遵義から入れさせた。邦彦は兵を分けて四方に応じ、力及ばず。羅乾象がまた奇兵を以てその背後を回り、急撃すると、賊は大いに驚き潰走し、崇明・邦彦は共に首を斬られた。邦彦の乱は七年にして誅殺された。燮元は乃ち檄を移して安位に、その罪を赦し、帰順を許すと伝えた。位は稚児で決断できず、その部下は潰走兵を合わせて来て抵抗しようと謀った。燮元はその要害を扼し、四方から重ねて攻撃し、首級一万余りを斬った。また案内者を得て、直ちに窖に隠した粟を発して食とし、賊は益々飢えた。また人を大方に遣わしてその家屋を焼かせると、位は大いに恐れ、遂に四十八の目を率いて出降した。燮元は上奏してこれを許すよう請い、許可の返答があった。而して以前に邦彦を助けた元の宣慰宋万化の子の嗣殷も、この時に至って始めて剿滅された。乃ち宋氏の洪辺十二馬頭の地を以て開州を置き、城を建て官を設けた。燮元はまた兵を遣わして擺金五洞の諸叛苗を平定し、水西の勢いは益々孤立した。十年、安位が死に、後嗣がなく、族属が継承を争った。朝廷の議論はその疲弊に乗じて郡県としようとした。燮元は上奏して急ぐべきではないとし、乃ち土目に檄を伝え、威徳を以て諭すと、諸苗は争って土地を納め印璽を献じた。貴陽がようやく定まり、而して明もまた間もなく滅亡した。

思南は、即ち唐の思州である。宋の宣和年間、番部の田祐恭が内附し、世々その地を有した。元は宣慰司に改めた。明の洪武初年、二つの宣慰に分け、湖広に属させた。永楽十一年に思南府を置き、長官司四つを領した:水徳江・蛮夷・沿河祐溪・朗溪という。思州は長官司四つを領した:都坪峨異溪・都素・施溪・黄道溪という。

初めに、太祖が兵を起こして偽漢を平定し、湖南の地を攻略した時、思南宣慰使田仁智が都事楊琛を遣わして帰順し、併せて元が授けた宣慰の誥命を納めた。帝は率先して帰順したことを以て、そのまま思南道宣慰使とし、三品の銀印を与え、併せて楊琛を宣撫使に任じた。思州宣撫使田仁厚もまた都事林憲・萬戸張思温を遣わし、鎮遠・古州の軍民二府、婺川・功水・常寧等十県、龍泉・瑞溪・沿河等三十四州を献上した。ここにおいて命じて思州宣撫を思南鎮西等処宣慰使司と改め、仁厚を宣慰使とし、ともに毎年朝貢して絶えなかった。

洪武二年、仁厚が死に、子の弘正が襲封した。帝は思南の土官が代々荒服の地に居住し、未だ朝廷に詣でたことがないとして、詔してその部長を率いて入朝するよう命じた。九年、仁智が入覲し、織金の文綺を加賜され、併せて上を敬い下を愛し爵禄を保守する道を諭された。仁智は辞して帰る途中、九江の龍城駅で病没した。有司がこれを上聞すると、官を遣わして祭奠を行い、併せて勅して柩を思南に送還させた。この時、思州の田弘正がその弟の弘道等と来朝したので、帝は礼部に命じて皆優遇して賜物を与えさせた。十一年、仁智の子の大雅が襲封し、表を奉って恩を謝した。思南に命じて各洞の弩手二千人を召集し、征調に備えさせた。十四年、大雅が入朝した。十八年、思州の諸洞の蛮が乱を起こしたので、信国公湯和等に命じてこれを討たせた。この時、賊寇は出没して常ならず、官軍が来ると聞けば、直ちに山谷に逃げ込み、退けばまた出て掠奪した。湯和等の軍がその地に到着すると、蛮人が驚いて潰走するのを恐れ、軍士に命じて諸洞に分かれて屯し柵を立て、蛮人と雑居して耕作させ、疑いを持たせないようにした。久しくして、計略をもってその首魁を捕らえ、残党は悉く平定し、兵を留めて鎮守させた。二十年、思南宣慰司を鎮遠に移した。大雅が来朝して恩を謝した。思州宣慰使の弘正が死に、子の田琛が襲封した。三十年、大雅の母の楊氏が来朝した。

永楽八年、大雅が死に、子の宗鼎が襲封した。初め、宗鼎は凶暴で、その副使の黄禧と怨みを結び、互いに奏上して弾劾し合うことが累年続いた。朝廷は田氏が代々その地を守り、また先に帰順したことを考慮し、曲げて保全し、黄禧を辰州知府に改任した。間もなく、思州宣慰使の田琛が宗鼎と沙坑の地を争って怨みを生じた。黄禧はそこで田琛と結び、宗鼎を謀り、兵を構えた。田琛は自ら天主と称し、黄禧を大将として、兵を率いて思南を攻撃した。宗鼎は家族を連れて逃走し、田琛はその弟を殺し、その墳墓を暴き、併せてその母の屍を辱めた。宗鼎は朝廷に訴え出た。朝廷はたびたび田琛・黄禧に赴闕して自ら弁明するよう勅したが、皆命令を拒んで来ず、密かに奸人を教坊司に入れ、隙を窺って変事を起こそうとした。事が発覚すると、行人の蔣廷瓚を遣わして召喚し、鎮遠侯顧成に命じて兵でその境を圧迫させ、田琛・黄禧を捕らえて械に繋いで京師に送らせた。二人は皆罪を認めた。田琛の妻の冉氏は特に強悍で、人を遣わして臺羅等の寨の苗の普亮を招誘して乱を起こさせ、朝廷が田琛を還して招撫に当たらせ、死罪を免れさせようと企んだ。帝はこれを聞いて彼らを拘禁した。

宗鼎が窮迫して帰順してきたことを以て、減刑を得させ、復職を命じて思南に還した。しかし宗鼎は必ず怨みに報い、禍根を絶やそうとした。帝は宗鼎が幸いに禍を免れたのに、自ら懲りず、却って忿りを逞しくするとして、彼もまた留め置いた。宗鼎が誹謗の言葉を口にし、その祖母の密事を暴いて、黄禧と姦通したことが実は禍の根源であると言った。祖母もまた宗鼎が実母を縊殺し人倫を瀆したことを暴いた。帝は刑部に命じてその罪を正させ、戸部尚書夏原吉に諭して言った、「田琛と宗鼎は分かれて思州・思南を治め、皆民の害となった。田琛は道に外れ、既にその罪を正した。宗鼎は倫理を滅ぼし、その罪は赦すことができない。その思州・思南の三十九長官司の地は、郡県に改め、貴州布政使司を設けて総轄させよ。」顧成に命じて臺羅諸寨を剿討させた。顧成は苗賊の普亮を斬り、思州はここに平定された。十二年、遂にその地を八府四州に分け、貴州を内地とした。これより始まる。両宣慰司は廃され、田氏はここに滅亡した。

正統初年、蛮夷長官司が土官衙門の婚姻は皆土俗に従っていると奏上し、恩命を頒布するよう乞うた。帝は土司が旧俗を踏襲し、姻戚関係を結んでいることは、既に累次の赦宥によって論じないこととしたが、今後は悉く朝廷の礼法に依るべきであり、違反する者はこれを罪するとした。景泰年間、思南府が府の四面は皆山で、関隘五箇所あるが城がなく守ることができないと奏上し、付近の土軍を発して修築するよう乞うた。巡撫の王来に命じてこれを経画させた。

鎮遠は、もと豎眼大田溪洞であった。元の初め、鎮遠沿辺溪洞招討使を置き、後に鎮遠府と改めた。洪武五年に州と改め、湖広に隷属させた。永楽十一年に再び府と改め、貴州に属させた。長官司二つを領した。遍橋と邛水十五洞である。県二つを領した。鎮遠県は即ち金容金達・楊溪公俄の二長官司の地であり、施秉県は即ち施秉長官司の地である。洪武二十年、土官の趙士能が来朝し、馬を貢いだ。三十年、鎮遠鬼長箐等処の苗民が乱を起こし、指揮の萬継・百戸の呉彬が戦死した。都指揮の許能が兵を率いて偏橋衛の軍と合流し、これを撃破した。賊衆は散走した。永楽初年、鎮遠長官の何惠が言うには、「毎年清浪・焦溪・鎮遠の三橋を修治するのに、工費が甚だ大きい。管轄する臨溪の部民は皆佯・儣・㑤・佬であり、力が役務に堪えず、軍民に参助させるよう命じてほしい。」これに従った。

宣徳初年、鎮遠邛水奥洞の蛮苗の章奴が清浪道中を劫掠し、思州都坪峨異溪長官司に捕らえられた。その父の苗銀総がこれを奪い取り、兵を集めて思州を攻撃しようとした。そこで赤溪洞長官の楊通諒を遣わして鎮撫させたが、銀総は伏兵を置いて楊通諒を殺害し、また埂洞を掠奪した。総兵官の蕭授に命じて辰・沅諸衛の兵一万四千人を調発してこれを剿討させ、清浪衛で合流させた。指揮の張名が銀総を討ち、奥洞を攻克し、その党類を尽く殺し、銀総は逃亡した。正統三年、鎮遠州を廃し、鎮遠・施秉の二長官司を鎮遠府に隷属させた。十二年、巡按御史の虞禎が奏上して言うには、「貴州の蛮賊は出没し、撫すれば従わず、捕えれば得られず、策を設けなければ統制し難い。臣が観るに清水江等処は、峭壁層崖で、僅かに一つの径路が出入りに通じるのみで、彼らは険阻を恃んで悪事を働く。もし江外の山口を尽く閉塞し、江内の山口及び津渡に俱に関堡を設け、兵を屯して守禦し、また寨長で才幹ある者を選んで弁事官とすれば、おそらく手落ちはないでしょう。」これに従った。十四年、偏橋衛を救済するよう命じた。苗寇に殺掠され、自存できないため、有司が請うたので、これに従った。

天順七年、鎮守湖広太監の郭閔が奏上して言うには、「貴州洪江の賊苗の蟲蝦等が二千余人を糾合し、偽って王侯を称し、鎮遠の屯寨を攻撃劫掠している。撫諭しても服従せず、合兵して進討するよう請う。」総兵官の李震・李安等に命じて分道より進入させた。賊は退いて平坤寨に守り、官兵は清水江まで追撃し、蟲蝦を捕らえ、併せて賊首の飛天侯・苗老底・額頭等六百四十余人を斬り、また黎平の赤溪湳洞を回復し、賊は平定された。弘治十年、鎮遠金容金達長官司を鎮遠州と改め、流官を設置した。この時、土官の碖父子が罪により死に、土人が流官を得ることを望んだので、守臣がこれを上聞し、許可された。

万暦の末、邛水長官司の楊光春は貪暴にして、土目彭必信はこれに助けて箕斂す。苗は堪えず、将に上訴して流官を改設せんとす。光春と必信は遂に謀反を謀り、官兵諸苗を剿滅せんと欲すと言い、金を斂めて贖うべしとし、金五百余を得たり。都御史何起鳴はこれを詗知し、光春を捕えて獄に下し、瘐死せしむ。ここにおいて毎四戸壮兵一人を択び、四哨を立て、兵たらざる者は糗糧魚塩を佐け、土吏何文奎等を簡びてこれを掌らしむ。必信は復た諸苗の金を醵し、朝に訴えて言う、巴也・梁止諸寨乱を為すも、指揮使陶效忠は問わず、反って土官楊光春の金を索めてこれを殺す。旧例を改めて新法を用い、便ならずと。書上るや、意自ら得たりとして、帰りて知府王一麟に謁す。一麟はこれを縛して獄に下し、諸苗に檄して言う、「汝ら十五洞の苦しむところは、兵餉月米三斗の過甚なるのみ。然れども歳に白虫鋪の米を与え、毎洞月八斗、他に平溪駅の剩余征銀両に於いて、皆餉を足し得べし。我汝らのためにこれを通ず、必ずしも必信に誣わるることなかれ」と。苗皆悦服す。乃ち必信を坐して罪す。時に土舎楊載清なる者あり、推官を襲ぐべく、嘗て貴州郷試に中りしを以て、本衛に於いて俸級を加えてこれを優異す。

天啓五年、巡撫傅宗龍奏す、「苗寇披猖し、地方害を受け、偏沅撫臣に勅して偏橋に移鎮せしめ、復た沅に回らしめず、凡そ思・石・偏・鎮等の処にて兵万余を練り、平時は以て苗を剿り、大征には即ち統べて督臣の後勁と為し、庶幾くば苗患寧ぎて西賊の気も亦漸く奪わるべし」と。報じて可とす。

銅仁は、元は銅人大小江等処軍民長官司なり。洪武初、銅仁長官司と改む。永楽十一年銅仁府を置く。万暦二十六年始めて銅仁長官司を改めて県治と為す。長官司五を領す。曰く省溪、曰く提溪、曰く大万山、曰く烏羅、曰く平頭著可。烏羅は、本永楽時に分置する貴州八府の一なり。所属に朗溪長官司・答意長官司・治古長官司あり、而して平頭著可長官司も亦これに隷す。

宣徳五年、烏羅知府厳律己言う、「所属治古・答意二長官石各野等衆を聚めて出没し銅仁・平頭・甕橋諸処に及び、蛮賊石鶏娘並びに筸子坪長官呉畢郎等を誘脅して共に乱を為す。招撫するも従わず。縁るに其の地は鎮溪・酉陽諸蛮と境を接し、相煽いで乱を為すを恐る。官軍・土軍を調べて要地に分据し、其の糧道を絶ち、且つ捕え且つ撫すべし。事平の後、宜しく衛所巡司を置きてこれを守るべし」と。事聞こえ、総兵官蕭授及び鎮巡諸司に議せしむ。ここにおいて授二十四堡を築き、其の地を環らしてこれを守る。兵力分かれ、卒に扞禦し難し。賊四出して劫掠し、清浪衛鎮撫葉受を殺し、勢い益々獗なり。七年、巡按御史以て聞こえ、且つ言う、生苗の地は三百余里に過ぎず、別に良将を遣わし諸軍を督して殄滅すべしと。授言う、「残苗呉不爾等は筸子坪に遁入し、生苗龍不登等を結びて湖広五寨及び白崖諸寨を攻劫し、患い滋し甚だし。宜しく川・湖・貴州接境の諸官軍・土兵をして分路並力攻剿せしめ、庶幾くば辺患を除くべし」と。これに従う。既に授に勅諭を降し、言う、「暴師久しく、恐らくは蹉跌して蛮の羞と為さん。或いは撫し或いは剿す、朕成功を観ん。中より制せず」と。

八年、授奏して言う、「臣命を受け諸軍を統率して賊巣を進攻し、新郎等寨を破り、前後賊首呉不跳等二百十二人を生擒し、呉不爾・王老虎・龍安軸等五百九十余級を斬り、皆梟して徇し、余党悉く平ぐ。掠われし軍民男婦九十八口を還し、悉く其の親に給す。賊の婦女幼弱一千六百余口を獲て、以て従征将士に給す」と。並びに呉不跳等を械して京師に献ず。帝顧みて侍臣に謂いて曰く、「蛮苗は乱を好み、自ら滅亡を取る。然れども朕の心に於いて、惻然たること無き能わず」と。授は威南荒に服し、前後凡そ二十余年。

正統三年烏羅府を革す。所属治古・答意二長官司は、乱後残民幾無く、亦並びにこれを革し、烏羅・平頭著可を以て銅仁に隷し、朗溪を以て思南に隷す。巡按御史の請に従うなり。景泰七年、平頭著可長官司奏す、其の地多く蛮賊の侵害を受く、土城を立て固守を乞うと。これに従う。成化十一年、総兵官李震奏す、「烏羅苗人石全州、妄りに元末明氏の子孫を称し、僭って明王と称し、衆を糾いて執銀等処に於いて乱を作し、隣洞多くこれに応ず。官軍を調べて往剿するに因り、石全州は已に就擒すれども、諸苗の攻劫未だ已まず」と。鎮巡官に命じて策を設け撫捕せしむ。未幾くにして平ぐ。嘉靖二十二年、平頭苗賊龍桑科乱を作し、流劫して湖広桂陽の間に及び、甚だ獗なり。帝諸苗の再叛を以て、乱を激せし者を責め、都御史万鏜を起して往きてこれを討たしむ。明年、鏜奏す、叛苗は以て次第に殄滅す。惟だ龍母叟は降るも、然れども其の罪大なり、宜しく重典に置くべしと。遼東に安置を命ず。未幾くにして龍子賢復た叛く。二十六年、湖貴巡按御史奏す、官軍賊を討つに力めずと。降旨して切責す。三十九年、総兵官石邦憲これを剿り、首悪龍老羅等を擒え、遂に平ぐ。

黎平は、元の潭溪の地なり。洪武初、仍く各長官司。永楽十一年黎平・新化二府を改置す。宣徳十年新化を併せて黎平に入る。長官司十三を領す。曰く潭溪、曰く八舟、曰く洪舟泊裏、曰く曹滴洞、曰く古州、曰く西山陽洞、曰く湖耳、曰く亮寨、曰く欧陽、曰く新化、曰く中林驗洞、曰く赤溪湳洞、曰く龍裏。

初め、洪武三年、辰州衛指揮劉宣武兵を率いて湖耳・潭溪・新化・万平江・欧陽諸洞を招降す。ここにおいて諸洞長官皆来朝し、元の授くる所の印勅を納む。帝命じて皆其の原官に仍らしめ、以て洞民を轄し、辰州衛に隷せしむ。既に龍裏長官司を龍裏衛と改め、又五開衛を増立して以てこれを鎮め、思州に隷す。二十九年、清水江蛮金牌黄乱を為す。都司兵を発してこれを捕う。金牌黄遁去す。其の党五百余人を捕獲し、械して京に至る。其の脅従を以て、死を宥し、遠衛に戍す。既にして言有り、金牌黄宣慰の家に匿ると。詔して問うこと勿れと。三十年、古州洞蛮林寛なる者、自ら小師と号し、衆を聚めて乱を為し、龍裏を攻む。千戸呉得・鎮撫井孚力戦してこれに死す。寛遂に新化を犯し、突きて平茶に至る。千戸紀達壮士を率いてこれを撃つ。達陣に突きて数人を殺し、槍を以て一人を横に挑ぎてこれを擲ち、流矢臂に中る。達矢を抜きて復た戦う。賊驚いて曰く、「是れ平茶の紀蒙か」と。遁去す。蛮は官を蒙と称す。已にして、復た熾んず。湖広都指揮使斉譲を平羌将軍と為し、兵五万を統べてこれを征せしむ。既にして譲の逗遛を以て、楊文をしてこれに代わらしむ。又楚王楨・湘王柏を命じて各其の護衛兵を率いて進討せしめ、銅鼓衛に城す。未幾くにして譲寛等を擒え、械して京に入れ、これを誅す。三十一年復た其の余党を平げ、並びに三十岡等処洞蛮二千九百人を俘獲して以て帰り、遂に班師す。

永楽五年、寨長の韋萬木が来朝し、自ら統べる四十七寨を陳述し、官の設置を請うた。これにより西山陽洞長官司を設け、萬木を屯長とした。宣徳六年、永従蛮夷長官司を永従県に改め、流官を置いたのは、土官の李瑛が後継ぎを絶やしたためである。また思州の新溪など十一寨を割いて黎平の赤溪湳洞長官司に隷属させた。正統四年、計砂の苗賊苗金蟲らが洪江の生苗を糾合し、偽って統千侯・統万侯の名号を立て、四方に出て劫掠し、都督の蕭授に命じて兵を調発しこれを剿討させた。賊首の苗総牌らは都督の呉亮に討たれ、洪江の生苗は遂に軍門に詣でて降った。授はこれを諭して帰し、千戸の尹勝に命じて苗金蟲を誘い捕らえ、斬って示しにした。

景泰五年、巡撫の王永寿は苗賊の蒙能が龍裏・新化・銅鼓の諸城を攻囲したため、兵を調発して剿討を請うた。時に賊は龍裏を取って巣穴とせんとし、亮寨・銅鼓・羅囲堡の諸城を攻め破り、都指揮の汪迪は賊に殺された。朝議は南和伯の方瑛を平蛮将軍とし、湖広の諸軍を統率させてこれを討たせた。蒙能は賊衆三万を糾合して出て平溪衛を攻め、瑛は指揮の鄭泰らを遣わして火槍で攻撃し、賊三千人を斃し、能もまた死んだ。しかし能の党の李珍らはなお苗衆を煽惑し、官軍は計略をもってこれを生け捕り、銅鼓・藕洞を克復し、連ねて鬼板など一百六十余寨を破り、覃洞・上隆の諸苗は悉く降った。

天順元年、鎮守太監の阮讓が言うには、「東苗は貴州の諸苗の首魁であり、険阻に拠って固く守り、僭称して王を号し、他種を脅迫する。東苗が平定されれば諸苗は服する。臣は方瑛と会して計議し、併せて師期を請う。」そこで四川・湖広の諸宣慰・宣撫に諭を頒ち、会師して賊を討たせた。三年、軍務を督理する都御史の白圭は、谷種山箐が東苗の羽翼であるから、先ずこれを剿討すべきとし、これにより瑛とともに青崖に進み、総兵の李貴に命じて牛皮箐に進ませ、参将の劉玉に谷種に進ませ、参将の李震に鬼山に進ませた。向かうところ皆捷し、水車壩など一百十七寨を克した。諸将はまた青崖に合兵し、石門山を攻め、擺傷など三十九寨を克した。なお兵を四路に分け、董農・竹蓋・甲底など四百三十七寨を進攻した。賊首の幹把猪は六美山に退いて守った。合兵して大いに進み、五千余級を斬り、幹把猪を生け捕り、京師に送って誅した。先に、麻城の人李添保が賦役を逃れて苗中に入り、偽って唐の後裔と称し、衆万余を聚め、僭って王を称し、武烈と建元した。故賊首蒙能の子聰を総兵官に任じ、銀印と勅書を与え、兵を放って剽掠させ、遠近を震動させた。ここに至り李震に敗れ、余賊は大いに潰えた。添保は僅かに身をもって免れ、潜かに鬼池及び絞洞の諸寨に入り、また諸苗を煽って中林・龍裏を劫攻したが、これも震に擒えられ、誅された。

万暦二十八年、皮林の逆苗呉国佐・石纂太らが乱を起こした。国佐はもと洪州司特洞寨の苗で、頗る書を読み知り、嘗て永従に学び生員となり、平素より桀黠であり、皮林の諸苗は推服した。叛人呉大栄の妾を娶ったため、黎平府に拘束され、遂に反した。自ら天皇上将と称し、表向きは撫に従うふりをして陰に播賊と通じた。纂太もまた自ら太保と称し、百戸の黄鐘ら百余人を殺し、国佐と合兵して上黄堡を囲んだ。参将の黄沖霄がこれを討つも敗績した。守備の張世忠を殺し、五開を焼き、永従県を破り、中潮所を囲んだ。総兵の陳良比・陳璘が湖広・貴州の兵を合わせて進討したが、またも失利し、国佐はますます横暴になった。二十九年、巡撫の江鐸に命じて兵を会し七路に分けて進剿させた。苗は険阻に拠って出ず。陳璘は潜かに師を率いて隘を奪い、火を放ってその巣を焼いた。国佐は逃れたが、これを擒え、纂太もまた他の将に誘い縛られ、皆誅された。

安順は、普里部蛮の居住地である。元の世祖は普定府を置き、成宗の時に普定路に改め、また普安路とし、ともに雲南に属した。洪武初年に普定府とし、十六年に安順州に改め、四川に隷属させた。正統三年に貴州に属するよう改めた。万暦年中に安順軍民府に改め、普安などの州をこれに属させた。普安は、もと軍民府であり、初め雲南に隷属し、まもなく廃して衛とした。永楽年間に州に改め、初めて貴州に隷属し、長官司二つを領した。寧谷と西堡である。

洪武五年、普定府の女総管適爾とその弟の阿甕が来朝し、遂に適爾を知府に命じ、世襲を許した。六年に普定府の流官二員を設けた。十四年に普定を城した。十五年、普定軍民知府の者額が来朝し、米と衣鈔を賜り、その部衆を諭し、子弟あれば皆国学に入れるよう命じた。十六年、者額は弟の阿昌及び八十一砦長の阿窩らを遣わして来朝した。二十年に詔して普定・安順などの州の六長官を征して京に赴かせ、銀二十万をもって糴備に充てるよう命じ、普定侯の陳桓らに諸軍を率いさせ普安に駐屯して屯田させた。明年、越州の叛苗阿資が衆を率いて普安を寇し、府治を焼き、大いに剽掠した。征南将軍の傅友徳がこれを撃ち走らせ、旦に軍門に詣でて降ったので、遂に軍民府を指揮使司に改めた。二十三年、西平侯の沐英が奏上して普安の百夫長密即が叛き、屯田官軍及び駅丞試百戸を殺したと報告した。指揮の張泰を調発して盤江の木窄関でこれを討たせたが、官軍は失利した。さらに指揮の蔣文を調発し烏撒・畢節・永寧の三衛軍を統率させてこれを剿討し、ようやく遁走させた。二十六年、普定西堡長官司の阿德及び諸寨長が乱を起こし、貴州都指揮の顧成に命じてこれを討平させた。二十八年、成は西堡の土官阿傍を討平した。三十一年、西堡の滄浪寨長の必莫者が衆を聚めて乱を起こし、阿革傍らもまた三千余人を糾合して悪を助けた。成は皆これを撃ち斬り、その地は悉く平定された。

永楽元年、故普安安撫の者昌の子の慈長が言うには、「建文の時に父がこの職に任じていたので、襲ぐべきであるが、吏部がこれを罷めた。本境は地広く民稠密で、糧三千余石を輸納している。乞う、前職のまま報效させられたい。」命じてなお安撫を与えた。十三年に普安安撫司を普安州に改めた。十四年、慈長が営長の地を占めんと謀り、かつ民人の妻を強いて妾とし、その夫を殺し、その子を閹した。事が聞こえ、布政司の孟驥に命じて状を按じさせた。慈長は兵万余を糾合して驥を囲んだが、驥は計略をもってこれを擒え、京師に逮送し、獄中で死んだ。

天順四年、西堡の蛮賊が衆を聚めて焚劫し、貴州を鎮守する内官の鄭忠・右副総兵の李貴は、四川・雲南の都司官兵二万、並びに貴州宣慰の安隴富の兵二万を調発して進剿を請うた。阿果に至り、賊首の楚得隆らを擒え、二百余級を斬首した。余賊は白石崖に奔り、さらに七百余級を斬り、その巣を焼いて還った。十年、安順の土知州張承祖と所属の寧谷寨長官の顧鐘が地を争い仇殺した。巡撫に下して究治させ、各々馬を貢いで罪を贖うよう命じた。

成化十四年、貴州総兵の呉経が奏上して、西堡の獅子孔洞などの苗が乱を起こし、先に雲南の軍八千を調発して防守を助けさせたが、雲南に警報があると聞くので、沅州・清浪の諸軍に改めて調発し応援を乞うた。十五年、経は奏上して既に賊首の阿屯・堅婁らを擒斬し、捷を以て聞かせた。

弘治十一年、普安州の土判官隆暢の妻米魯が反した。米魯は、沾益州の土知州安民の娘で、暢に嫁いだが離縁され、実家に住んでいた。暢は老いて、前妻の子の礼が襲職したが、父子は仲が悪かった。米魯は営長の阿保と私通し、阿保に命じて礼に自分を迎えさせるよう説かせた。礼は阿保と共に彼女を娶った。暢はこれを聞いて怒り、直ちに礼を殺し、阿保の寨を破壊した。阿保は米魯を擁し、その子阿鮓らと共に暢を攻め、暢は雲南に逃れた。時に東寧伯焦俊が総兵官であり、巡撫の錢鉞と共にこれを和解させた。米魯は途中で暢を毒殺し、遂に阿保と共に寨を占拠して反した。暢の妾に適烏という者がおり、二人の子を産み、別に南安に住んでいた。米魯は彼らも皆殺しにしようとし、寨を築いてその城を包囲した。また別に普安に三つの寨を築き、阿鮓らに守備させた。自らの居る寨を承天と名付け、自ら無敵天王と号し、出入りには黄い旗を立て、官兵はこれを制することができず、鎮巡官が朝廷に上奏した。十衛及び諸土兵一万三千人を発して分道進撃させ、安民に賊を討って自ら罪を贖うよう責めた。安民はそこで查剌寨で阿保父子を攻め斬り、米魯は逃亡した。焦俊らは安民に米魯を差し出すよう責めたが、安民は密かに米魯に兵五百を援助し、適烏とその二人の子を襲撃して殺害させ、別の寨を占拠して殺戮略奪を行い、また自ら女土官として襲職することを請願した。鎮巡官は皆米魯から賄賂を受け取り、米魯を赦すよう請願した。厳しい詔勅で厳しく責め、必ず米魯を捕らえるまでやめないよう命じた。貴州副使の劉福は密かに米魯に賄賂を要求し、故意に軍を緩めた。賊はますます勢いを増し、官兵は阿馬坡で敗れ、都指揮の呉遠が捕らえられ、普安は陥落寸前となった。帝は南京戸部尚書の王軾、巡撫の陳金、都指揮の李政に命じて進剿させ、二十余りの寨を破った。米魯は馬尾籠に逃げ込んだが、官兵に包囲され、捕らえられて誅殺された。安民は自ら弁明し、赦免を得た。正徳元年、暢の一族の婦人適擦が土判官を襲職し、京に赴いて朝貢した。帝はこれを嘉した。ある説では適擦も暢の妾であったという。

西堡の阿得、獅子孔の阿江の二種族は、いずれも革僚である。初め滄浪六寨を占拠し、常賦を供さなかった。土官の温愷は罪を恐れて自縊し、その子の廷玉が賦役免除を請願したが、許されなかった。征討に向かったが、その寨長の乜呂らに殺された。六年、廷玉の弟の廷瑞が守臣に訴え、ちょうど乜呂が死んだので、指揮の楊仁がその衆を慰撫した。巡撫の蕭翀が彼らに賦を納めさせ、用兵を免じるよう請願し、従った。

都勻は、元代には都雲といった。洪武十九年に都勻安撫司を設置した。二十九年に軍民指揮使司に改め、四川に属した。永楽十一年に貴州に改めて隷属させた。弘治七年に府を設置し、州二つを管轄した。麻哈州と独山州であり、これは合江洲陳蒙爛土長官司の地である。県一つを管轄した。清平県であり、これは清平長官司の地である。長官司八つを管轄した。府に直属するものは、都勻長官司、平浪長官司、邦水長官司、平州六洞長官司である。独山州に属するものは、九名九姓長官司、豊寧長官司である。麻哈州に属するものは、楽平長官司、平定長官司である。洪武二十二年、都督の何福が都勻の叛苗を討つことを上奏し、四千七百余級を斬首し、六千三百九十余人を擒獲し、降伏した寨洞百五十二箇所を収めた。二十三年に都勻衛を築城し、指揮同知の董庸に守備させた。二十五年、九名九姓蛮が乱を起こし、何福に命じてこれを平定させた。二十八年、豊寧三藍等の寨が乱を起こし、顧成に命じてこれを平定させた。二十九年、平浪蛮が土官の王応名を殺害し、都指揮の程暹がこれを平定した。応名の妻の呉氏が九歳の子阿童を連れて訴え出たので、詔して襲職を許した。永楽四年、鎮遠侯の顧成が合江州十五寨を招諭して帰順させた。

宣徳元年、平浪の賊の紀那、阿魯らが副長官の地を占拠し、葉果諸寨を殺掠し、招諭に従わなかった。詔して蕭授にこれを平定させた。七年、陳蒙爛土副長官の張勉が上奏した。管轄地が衛から遠く、地は古州の生苗に連なり、広西の僚洞に近いため、化従寨長の韋翁同らが乱を煽り、堡を設置し、併せて泗城州の土兵一千を調発して鎮守するよう請願した。従った。九年、翁同が下高の大刀蛮と結び、広西の賊韋万良らと合流して恣に殺掠を行った。指揮の陳原が討伐して万良ら三人を捕らえ、翁同は遂に帰順したが、落昌、蔡郎等四十寨はなおも衆を集めて抵抗した。総兵の蕭授が指揮の顧勇を派遣して進討させ、これを平定した。

成化十四年、陳蒙爛土長官司の張鏞が上奏した。「夭壩幹の賊首賫果が侵掠し、侵された大陳、大步等の寨に一つの司を設置し、安寧宣撫司に隷属させてほしい。」また豊寧長官司の楊泰も、峰峒の陸光翁らが爛土に集まって乱を起こしたと上奏した。先に、宣慰の楊輝が夭壩幹を平定した後、直ちに湾渓に安寧宣撫司を設置した。爛土の諸苗はこれが己を圧迫するのを憎み、この時果らは既に夭漂を攻め落とし、遂に豊寧を包囲した。時に楊輝は既に致仕しており、子の愛が襲職していたが、力が及ばず、川、貴二鎮に救援を求めた。各鎮が上奏して聞かせたので、命じてなおも楊輝を起用し、兵を合わせて討伐させた。十六年、張鏞はまた賫果が九姓、豊寧及び荔波の賊一万人を糾合し、攻撃略奪がますます激しくなったと上奏した。帝は諸守臣が賊を侮っていると責めた。そこで巡撫の謝杲が言上した。「天順四年以来、諸苗が舟溪等を攻撃し、今日に至るまで平定されていない。」そこで鎮守太監の張成、総兵の呉経に命じて機を見て剿撫させた。二十年、爛土の苗賊の龍洛道が密かに王を称し、都勻、清平諸衛を犯すと声言した。豊寧長官の楊泰は土目楊和と不和であり、広西泗城州の農民九千人を誘い、銕坑等百余りの寨で殺掠を行った。ここにおいて苗の患いはますます盛んとなった。弘治二年、苗賊七千人が楊安堡を攻囲し、都指揮の劉英が兵を率いて偵察したが、包囲された。鎮巡官に命じて救援に向かわせ、ようやく脱出できた。五年、鎮遠侯の顧溥に命じて官兵八万人を率いさせ、巡撫の鄧廷瓚に軍務を提督させ、太監の江徳に諸軍を監させ、征討に向かわせた。七年、諸軍が分道進剿し、熟苗に命じて賊に詐降し、賊を誘い込んで伏兵でこれを捕らえ、直ちにその巣窟を突き、凡そ百十余りの寨を破り、勝利を報告した。ここにおいて都勻府及び独山、麻哈二州を開設した。

正徳三年、都勻長官司の呉欽がその一族の呉敏と襲職を争って仇殺し、鎮巡官がこれを上奏し、言上した。「欽の祖父の頼は洪武年間に功を立てて長官となり、陣没した。子の琮は幼く、弟の貴がこれを代理した。琮が成長すると、なおも襲職し、欽に至るまで三代伝わった。敏は貴の縁故を以て妄りに争うことはできない。」詔してこれを認可した。

嘉靖十五年、平浪の叛苗王聰が凱口屯を攻め奪い、参将李佑らを捕らえた。初め、王阿向の先世は土官であったが、王仲武の先人に奪われ、阿向に至り、仲武と印を争って乱を煽った。総兵楊仁・巡撫陳克宅がこれを平定し、阿向らを斬り、その党を悉く追い払い、その地を都勻府に属させ、名を滅苗鎮と改めた。仲武は諸苗が生業を失ったのを利用し、密かに招き戻し、やがて賦役を課して取り立てた。諸苗は怨みに耐えかね、遂に阿向の残党王聰・王佑を主に推した。巡按楊春芳が李佑らを遣わして慰撫諭告させると、賊は佑らを人質とし、土田と官印を返還することを乞い、そうして初めて佑を釈放した。春芳がこれを上聞すると、詔して巡撫に官軍三万人を調発して屯の下に集結させた。屯はもとより極めて険阻で、その要害の処には弩楼を設け、石を積んで防備とした。これを攻めること三月にして陥とせず、さらに宣慰安万銓の兵を調発して合剿させた。万銓は力戦して賊を破り、聰らは皆誅せられ、前後二百六十余級を斬首し、百五十余の苗寨を降し、男女二万余口を得た。捷報が聞こえ、功を叙し賞賚に差等があった。また黒苗で夭漂という者がおり、湖広・貴州・四川・広西の境界に在り、者亜と鼎足をなして居た。万暦六年、夭漂が内附を請うた。都御史が指揮郭懐恩及び長官金篆を遣わして様子を問わせたが、者亜に阻まれたため、遠く丹彰の間道から夭漂に通じた。時に苗坪・党銀らもまた者亜に阻まれて通じ得ず、都御史王緝が使者を遣わして者亜の部長阿鬥を責めた。鬥は帰附して平定に属したいと願ったが、緝は、鬥はもと養善牌部であるのに、何故平定に属しようとするのか、必ず他に謀りごとがあると言った。下吏に命じて按問させると、果たして実情を得た。すなわち平定に赴き諸蒙の兵を借りて養善を襲おうとしたのであり、皆内地の奸人夭金貴らが導いたのであった。遂に金貴を罪に治め、者亜を依然として養善に属させ、路はようやく通じた。ここにおいて苗坪・夭漂は皆貢賦を奉じ、編氓に比することを請い、その地を帰化と名付け、都勻府に隷属させた。凡そ使命の往来には、生歯以上の者は悉く跪拝して迎送し、夾騶して従い行き、前に蘆笙を吹き、蛮歌を唱え、呼び導きながら馳せた。事が聞こえ、帝はこれを嘉した。七年、者亜・阿鬥は反逆の罪により誅せられ、ここにおいて楽平吏目を廃し、麻哈州州判一員を増設し、楽平司に居住させ、養鵝・者亜・羊腸の諸苗をこれに属させた。

初め、者亜・阿鬥が反逆した時、答幹寨の阿其がこれに応じた。鬥が誅せられると、阿其はたびたび逆らった。十四年、土舎呉楠・王国聘は阿其の測り難さが禍いして己に及ぶことを慮り、答幹・鶏賈・甲多の諸寨を蒙詔に属させ、宣威営を立て、歳ごとに賦を輸納することを請うた。ただ阿其のみは服従せず、者亜の残党を引き連れて宣威営を囲み大いに騒ぎ立てて言うには、「これは我が地である、誰がお前にここに営することを命じたのか」と。蒙詔が常に秋税を徴収すると、阿其は使者の来るのを見計らい、血をもって門に衅ぎ、通じさせなかった。平素より傘を張り鼓角を鳴らし、龍鳳の器に絵を描き、遂に鶏賈・甲多・仰枯の諸苗と牛酒を撃って誓いを立て、帰化を劫略し、官兵も敢えて近づかなかった。独山の土吏蒙天眷は兵を進めて剿滅することを願い出た。そこで人を遣わして偽りに言わせた。漢はすでに蒙詔を罷免し、宣威営の地を阿其に返還し、朝夕のうちに兵を撤去すると。阿其は自ら楽邦牛場に馳せて偵察し、言うところが人々同じであったので、遂に守備を緩めた。天眷が急に攻め入り、阿其を斬り、鶏賈・甲多は皆降った。蒙詔に属するものは、答幹・鶏賈・甲多の外に、塘蛙・当井・斗坡など十七寨があった。小橋の熟苗龍木恰が寨事を視ることとなり、年老いて子の俸が襲ったが、糧を頒つ者が恰に及ばず、恰はしばしば俸の有するものを奪って養いとした。俸が官に訴えると、官は恰を逮捕して問いただしたが、罪に問うたのではない。恰はたちまち漢使を鎖し、やがてこれを追いやって言うには、「速やかに去れ、これは我が家の事である、再来すれば我は烏鶏の諸寨をもって漢の辺境を踏みにじるであろう」と。官は計略をもってこれを擒らえ、獄中で死んだ。間もなく、龍化龍羊山の苗が川苗を引き連れて乱を起こし、言うには、「漢は故なく苗を殺す、苗は請うてこれに報いん」と。官軍は戦って利あらず。やがて都司蔡兆吉が招諭して降るよう命じ、死なずして遇することを約束すると、ここにおいて諸苗は皆散り、俸は以前の如く事を視ることとなった。

四十三年、平州長官楊進雄は凶悪で、土人はこれを苦しめた。雄に子がなく、兄の継祿の子珂を後嗣としたが、やがて子の治安が生まれると、珂を疎んじた。珂は雄を怨み、雄は珂の財産を奪い、その父とともにこれを追い出した。珂は頗る民心を得たので、遂に乱を起こし、唐宿坉に拠り、雄を攻めた。雄は敗走し、その家を屠った。各々上疏して互いに奏劾し、詔して推問させた。都御史趙釴は雄の不法を以て、これを獄に逮え、独山の土酋蒙継武に檄を飛ばして珂に帰順を諭させ、改土帰流を許してこれを安んじようとした。治安はこの方策が不便と考え、密かに六洞をもって継武に賂し兵を借りることを約した。継武は兵を発して珂を攻め、平州を回復し、珂は広西の泗城に走った。継武はここにおいて六洞の地に屯田し、六洞の民は服従せず、再び珂を助け、継武と相攻撃した。珂は再び平州に拠った。巡撫呉嶽がその父継祿を招降すると、六洞はようやく安んじた。

平越は、古くは黎峨裏である。元代は平月長官司であった。洪武十四年に衛を置いた。十七年に軍民指揮使司と改め、四川に属した。万暦年中に初めて府を置き、貴州に属させた。州一を領し、黄平という。すなわち黄平安撫司の地である。県四を領す。平越・湄潭・甕安(すなわち甕水・草塘の二長官司の地)・余慶(すなわち白泥・余慶の二長官司の地)である。長官司一を領し、揚義という。初め、洪武八年、貴州の江力・江松・剌回の四十余寨の苗把具・播共桶らが苗・僚二千を連結して乱を起こし、平越安撫司が兵の援けを乞うたので、指揮同知胡汝に命じてこれを討たせた。九年、黄平の蛮僚都麻堰が乱を起こし、宣撫司がこれを捕らえようとしたが成らず、千戸所が兵をもってこれを討ったが、また敗れた。ここにおいて重慶諸衛に合撃を命じ、大いにこれを破り、その地を平定した。十九年、平越衛の麻哈の苗楊孟らが乱を起こし、傅友徳に命じてこれを平定させた。時に麻哈長官宋成は陣没し、その子に命じて襲封させた。二十二年、察隴・牛場・乾溪の苗が乱を起こし、傅友徳がこれを平定した。二十三年、延安侯唐勝宗に命じて黄平・平越・鎮遠・貴州の諸処に往き軍士を訓練させ、屯田を提督し、機に乗じて寇を剿滅させた。

正統の末、鎮遠の蛮苗金台が順天王と偽称し、播州の苗と相煽って乱を起こし、遂に平越・新添等の衛を包囲した。半年の間、城中の糧食は尽き、官兵の逃げた者は九千余人に及び、貴州の東路は閉ざされた。時に王驥が麓川を征伐し、班師してその地を過ぎたが、顧みなかった。景泰元年、保定伯梁缶に平蛮将軍の印を佩かせて督師し進剿させ、大いにこれを破り、八十余の寨を平定し、賊首王阿同らを擒え、平越諸衛の包囲はようやく解けた。二年、都御史王来が奏上したところによれば、貴州の苗韋同烈が興隆の截洞に衆を集め、再び平越・清平等の衛を攻撃した。梁缶は沅州より兵を発し東路より、都督方瑛は西路より、興隆で合兵してこれを撃破し、同烈は香炉山に退いて守った。瑛は龍場より、都督陳友は万潮山より、都督毛福寿は重安江より、黎樹・翁満等三百余の寨を攻め破り、三千余級を斬り、袞水等二百余の寨を招撫し、香炉山の下で合兵した。衆は同烈を縛って降り、械に載せて京師に送った。五年、副総兵李貴が奏上したところによれば、黎従等の寨の賊首阿拿・王阿傍・苗金虎らが苗王と偽号し、銅鼓の諸賊と相応じ、兵を加えることを乞うた。七年、巡撫蒋琳が奏上したところによれば、平越において苗賊を剿り、四百余級を斬った。その阿傍らは車碗寨に拠り、なお清平・平越の地方で乱を為し、指揮王杞を殺し、香炉山を占拠し、偏橋を掠奪した。

正徳十一年、巡撫秦金にこれを剿討するよう命じた。初め、黔・楚の境において、群苗が嘯聚し、寨を連ねて相望んだ。而して香炉山は周囲四十里、高さ数百尋、四面は険しく絶え、その上は平坦で、以前より叛苗の巣窟であった。阿傍らがこれを占拠し、諸寨の苗を糾合して乱を起こした。巡撫鄒文盛・総兵官李昂らが漢兵・土兵を分けて五隊とし、その前柵を陥した。密かに人を遣わして崖を攀じ登らせ先に登らせ、賊の路を守る者を殺し、衆は蟻のように付いて登り、賊の巣窟を焼き、阿傍を擒えた。残賊はなお堅く守って下らなかった。参将洛忠らが詭計を用いて招撫すると言い、山の後ろよりこれを撃ち、殲滅した。遂に師を移して龍頭・黎・蘭等の寨をことごとく破り、賊は遂に平定された。

天啓四年、凱里の土司楊世慰が叛き、安邦彦の兵と合流し平茶の群苗と共に旧怨を晴らしに来て、再び香炉山を窺い、四衛を揺るがし、糧運を梗塞させた。総督楊述中が檄を飛ばして総兵魯欽に清平に馳せ至り、機に応じて進剿させ、副使顔欲章らを後援として調遣した。欽は将領を督して巌頭を攻め破り、朗溪司の田景祥を分遣して平茶の賊の援軍を遮断させた。薬弩及び砲を用いて賊衆を殺傷し、賊は夜に乗じて遠く遁走した。これより後、再び炉山を窺うことはなく、四衛は安泰を得た。

石阡は、本来思州の地である。永楽十一年に府を置き、貴州に隷属させ、四つの長官司を管轄した:石阡、苗民、葛彰葛商、龍泉坪という。宣徳六年、葛彰葛商長官の安民が奏上した:「以前、官鈔で糧食を買い入れ備蓄し、蛮民に守視させました。溪洞は険しく僻遠で、支用する所がなく、歳月が経てば腐爛することを恐れ、賠納は実に困難です。どうかこれを以て有司の祭祀や過使の廩給の用に充てることを請います。」これを許した。万暦年中、龍泉坪を県に改めた。

新添衛は、かつての麦新の地である。宋の時に麦新の地を平定し、乃ち新添と改めた。元は新添葛蛮安撫司を置いた。洪武四年に長官司を置いた。二十三年に衛に改めた。二十九年に新添衛軍民指揮使司を置き、五つの長官司を管轄した:新添、小平伐、把平寨、丹平、丹行という。洪武五年春、新添安撫の宋亦憐真の子の仁が来朝した。その秋、平伐・蘆山・山木等の砦の長が来降した。七年、平伐・谷霞・谷浪等の苗が的敖諸寨を攻撃劫掠したので、指揮僉事の張岱がこれを討った。岱は谷峽・剌向関を攻めてこれを破り、的敖まで追撃し、大いにこれを破り、的令・的若を擒えて還り、蛮は大いに恐れた。

永楽二年に丹行・丹平の二長官司を置いた。宣徳元年、新添の土舎宋誌道が洞蛮を糾合して掠奪をほしいままにしたので、蕭授がこれを討ち擒えた。九年、丹行の土舎羅朝が寨長の卜長・逃民の羅阿記らを煽動誘惑して臥龍番長官龍保の地を侵占し、また猱平寨を攻めて焼き掠奪した。時に苗民は平素より指揮李政を憚っていたので、尚書王驥が因って政を派遣して撫諭させることを奏した。景泰二年、苗賊で新添で行劫し、西廬に集結する者がおり、官軍がこれを破って上聞した。成化九年、旱災のため新添衛の糧税を免除した。

万暦三十四年、貴州巡撫郭子章が貴州の苗を討ち平らげ、苗長の呉老喬・阿倫・阿皆ら十二人を斬獲し、男女を多く招降した。先に、東西二路の苗で仲家と名乗る者は、貴龍・平新の間に盤踞し、諸苗の渠帥であった。水硍山に在りて銅仁・思・石の間に介する者は、山苗と曰い、紅苗の羽翼であり、黔は平播の後、財力が尽き果てたことを窺って、漢を軽んずる心があり、一年中掠奪する日がないことを知った。子章がこれを討つことを奏し、機に応じて進兵するよう命じられた。子章は乃ち総兵陳璘・参政洪澄源に官軍五千を率いさせ、さらに土兵五千を加えて、水硍山を攻撃させた。監軍布政の趙健が宣慰の土兵一万人を率い、遊撃劉嶽らにこれを督させた。両路が会師するに及び、皆九十余日でこれを陥した。二寇が既に平定された後、専ら総兵陳璘に漢・土兵五千を率いさせて新添に営を移し、東路の苗を進攻させ、一月と経たずにまたその六箐を陥し、諸苗はことごとく平定された。

金築安撫司は、洪武四年、故元の安撫密定が来朝して馬を貢ぎ、詔して文綺三匹を賜い、金築長官司を置き、秩は正六品とし、四川行省に隷属させ、密定を長官とし、世襲させた。十四年、密定を労う勅を下した:「西南の諸部は帰附したとはいえ、暫く入貢するのみである。爾密定は真っ先に馬五百匹を献じて征討を助け、その誠は嘉すべきである。故に特使を遣わして往き諭し、班師の日に至って、爾の功を重ねて労う。」金築長官司を安撫司に昇格させ、仍び密定を安撫使とし、世襲を許した。十六年、密定が使いを遣わして方物を貢いだ。十八年、密定が弟の保珠を遣わして来貢した。二十九年、金築安撫司を貴州軍民指揮使司に隷属させた。永楽初年、金築安撫の得垛が来朝し、絨錦文綺を賜った。洪熙・宣徳の改元の際、皆馬を貢いだ。十年、直隷貴州布政司とした。正統五年、安撫の金鏞が馬を貢いだ。成化・弘治・隆慶の時に歴朝貢した。万暦四十年、吏部が巡撫胡桂芳の上奏を覆した:「金築安撫の土舎金大章が土を改めて流とし、官を設け治を建て、欽定の州名を賜り、印信を鋳造して与え、州判を流官に改めることを乞う。大章に土知州を授け、四品の服色を与え、管事は許さない。子孫は承襲し、州を貴陽府に隷属させる。」遂に金築安撫司を広順州に改めた。