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明史
列伝第二百一 雲南土司一
◎雲南土司
明の洪武十四年、大軍が滇に至り、梁王は逃れて死に、ここに雲南府を置いた。ここより、諸郡は順次に帰順し、累世に及び、規制はことごとく定まった。統べてこれを稽えるに、大理・臨安以下、元江・永昌以上は、皆府の治所である。孟艮・孟定等の処は則ち司と為り、新化・北勝等の処は則ち州と為り、或いは流官を設け、或いは土職を仍用した。今、諸府州を概ね土司に列するのは、その始めに従うのである。蓋し滇省の所属は、多く蛮夷雑処の地であり、即ち正印が流官であっても、必ず土司を以てこれを補佐せしめる。而して土司の名目は淆雑にして、縷析し難く、故にこれを府州に系し、以てその管轄する所を括る。而して土司の事跡については、ただその治乱興亡に関わる大綱を拾い載せ、以て控馭する者に識る所の鑑とせしめる。
○雲南土司一
雲南 大理 臨安 楚雄 澄江 景東 広南 広西 鎮沅 永寧 順寧 蒙化 孟艮 孟定(耿馬安撫司附) 曲靖
雲南
雲南は、滇国である。漢の武帝の時に始めて益州郡を置く。蜀漢は雲南郡を置く。隋は昆州を置き、唐もこれを仍用した。後に南詔の蒙氏に拠られ、鄯闡府と改めた。鄭・趙・楊の三氏を経て、大理の段氏に至り、高智升に鄯闡牧を領せしめ、遂にその地を世襲せしめた。元の初め、鄯闡万戸府を置く。既に中慶路に改置し、子の忽哥を雲南王に封じてこれを鎮めさせ、仍お段氏の子孫を録してその土を守らせた。忽哥死し、その子が嗣いで封ぜられ梁王と為った。
洪武六年、翰林待制王祎等を遣わし詔を齎して梁王を諭すも、久しく留めて遣わさず、遂に害に遇う。八年、復た湖広行省参政呉雲を遣わして往かしむるも、中途で梁の使者に害せられる。十四年、征南将軍傅友徳・藍玉・沐英が師を率いて雲南城に至り、梁王は滇池に赴いて死に、その地を平定す。中慶路を雲南府と改め、都指揮使司を置き、都督僉事馮誠に命じて司事を署せしむ。二月、詔を下して雲南諸郡の蛮を諭す。十五年、友徳等が兵を分けて諸蛮の未だ服さざる寨を攻むるに、土官楊苴が隙に乗じて乱を起こし、蛮衆二十余万を集めて雲南城を攻む。時に城中食少なく、士卒多く病み、寇至るや、都督謝熊・馮誠等が城に拠り固守す。賊攻める能わず、遂に遠く営して久困の計と為す。時に沐英は方に師を烏撒に駐め、これを聞き、驍騎を将いて還り救う。曲靖に至り、卒を遣わし潜かに入りて城中に報ぜしむるも、賊の得る所と為り、これを欺いて曰く「総兵官三十万の衆を領して至れり」と。賊衆驚愕し、営を抜きて宵遁し、安寧・羅次・邵甸・富民・普寧・大理・江川等の処に走り、復た険に拠り柵を樹て、謀りて再び寇せんとす。英、将士を分調してこれを剿降し、首級六万余を斬り、生擒四千余人、諸部悉く定まる。二十五年、英卒す。その子春に命じて西平侯を襲封せしめ、仍お雲南を鎮めしむ。
英が雲南を平らげてより、鎮に在ること十年、恩威蛮僥に著わる。一片の楮を下す毎に、諸番部は威儀を具えて郭を出で叩迎し、盥ぎて後に啓きて曰く「これ令旨なり」と。沐氏も亦皆功名を以てその家を世にすることが出来た。大征伐有る毎に、輒ち征南将軍の印をこれに授け、沐氏未だ行間に在らざること無し。数伝して西平の裔孫侯を襲うべく、守臣これに争い、謂う「滇人は黔国公の有るを知り、西平侯を知らざるなり」と。孝宗是れと以為い、これを許す。ここより、遂に公爵を以て印を佩き、故事と為る。諸土司の進止予奪は、皆諮稟す。及んで承平久しく、文網周密に、凡事必ず太監・巡撫・按察使・三司と会議して後に行い、動もすれば掣肘多く、土官の子孫承襲に積もりて二三十年職を得ざる者有り。土官復た令に慢り法を玩び、忌憚する所無し。その罪大悪極を待ちて、然る後に兵を興して征剿し、致して軍民日く困み、地方日く壊る。大学士楊一清等、武定の安銓の乱に因り、痛切にこれを陳う。黔国公沐紹勛も亦以て言う。旨を得て允行すと雖も、亦更革すること能わず。馴せて神宗の世に至り、朝廷惰俞し、封疆敗壊日甚一日。緬・莽の叛は、皆土官の失職者の導く所なり。稍々膚功を奏すと雖も、而して滇南の喪敗は、卒に土官沙定洲の禍に由る。
沙定洲は、王弄山長官司沙源の子なり。源は驍勇にして将材有り、万暦中、数え征調に従い功有り、巡撫王弄副長官の事を委ねる。継いて建水征討の功を以て、安南長官司の廃地をこれに畀う。後に東川・水西・馬龍山等の処を征し、全雲南会城、首功と称せられ、累ね加えて宣撫使に至り、時に沙兵と号す。定洲は、その仲子なり。
崇禎中、元謀土知州吾必奎叛す。総兵官沐天波これを剿ぎ、定洲を調べて従征せしむ。定洲行きたらず、怨言を出す。奸徒饒希之・余錫朋の者、天波の金を逋りて償うこと無きに会す。錫朋常に土司の家に出入りし、黔府の富盛を誇る。定洲心動き、陰に都司阮韻嘉諸人と結び内応と為す。既に定洲城に入り辞行す。天波は家諱の日の為め視事せず、定洲噪ぎて入り、その府を焚劫す。天波変を聞き、小竇より遁る。時に寧州土司祿永命城に在り、方に巷戦して賊を拒ぐ。従官周鼎天波を止め、留まって賊を討たんことを請う。天波は鼎が定洲に為り己を誘うを疑い、これを殺す。その母妻は皆城北に走り自焚死す。定洲は黔府に拠り、会城に盤踞す。巡撫呉兆元を劫し、代わって天波に替わり滇を鎮めしむるを題請せしめ、檄を州県に伝え、全滇震動す。祿永命と石屏州の龍在田は俱にその部を引いて去る。
天波は楚雄に走る。金滄副使楊畏知は調に奉じて城中に駐し、天波に謂いて曰く「公何ぞ永昌に走らず、楚をして備えを得せしめ、而して公は彼に在りて掎角し、首尾これを牽制せしむるは、上策なり」と。天波これに従う。定洲楚雄に至るも、城閉じて入るを得ず、乃ち去る。その党王翔・李日芳等を遣わし、大理・蒙化を攻め陥す。畏知は間を乗じて城外の居民を檄して尽く城に入らしめ、陴を築き隍を浚い、土・漢の兵を調べてこれを守る。定洲は祿永命等各々固守するを聞き、永昌に至るを敢えず、畏知がその帰路を截つを恐れ、急ぎ兵を還して楚雄を攻む。畏知は城楼に坐す。賊巨砲を発してこれを撃つ。煙焰城櫓を籠む。衆は畏知既に死せりと謂うも、而して畏知は端坐して自ら如し。賊相驚いて神と謂う。畏知は賊の間を伺い、輒ち奇兵を出して賊を殺すこと甚だ衆し。賊引き去り、石屏を攻めて下らず、還って寧州を攻め、祿永命戦死す。賊は計りて迤東稍々定まるを以て、乃ち復た楚雄を攻む。兵を分かって七十二営と為し、城を環らして濠を掘り、久困の計と為す。
ちょうど張献忠が死ぬと、その部将孫可望が余衆を率いて遵義より黔に入り、黔国公焦夫人の弟と称して復讐に来たと称した。民は久しく沙兵に苦しめられていたので、その来るを喜び、迎えた。定洲は楚雄の包囲を解き、草泥関において迎え撃ったが大敗し、阿迷に逃れた。可望は曲靖及び交水を破り、ともにこれを屠った。かくて陸涼・宜良より雲南城に入り、李定国を分遣して迤東の諸府を巡行させた。一方可望は自ら兵を率いて西に出、畏知が啓明橋で防いだが、敗れて捕らえられた。可望はその名を聞き、殺さず、語って曰く「我と爾と共に賊を討つは如何」と。畏知は三事を以て要請した。「献忠の偽号を用いず、百姓を殺さず、婦女を掠め奪わず、我爾に従わん」と。可望は皆これを許した。即ち矢を折って誓いを交わし、畏知の言う如く天波に書を以て諭し、天波もまた来て帰順した。しかし李定国が臨安を巡行した時は、定洲の部目李阿楚が力戦して防いだ。定国は地に穴を穿って砲を据え、砲発して城陥ち、遂に入城した。城中の官民を城外の白場に駆り出して殺し、凡そ七万八千余人に及び、斬獲はこれに含まれない。当時皆、定国が臨安を破れば必ず阿迷を襲い、定洲を取るだろうと思ったが、ただ臨安の子女を掠めて回っただけで、過ぎ行く所屠滅しない所はなかった。迤西は畏知が軍中にいたので、保全を得た。
初め定洲は帰り、洱革龍に屯兵し、かつ安南の援けを借りて自らを固めていた。ちょうど可望と定国が不和となり、その罪を声高に言い、百回杖打ち、定洲を取って自ら贖うことを責めた。定国が既に至ると、定洲の土目楊嘉方が定洲を迎えてその営で宴を催していた。定国はこれを探知し、兵を率いて営を囲み、数日相拒して、ようやく出て降った。かくて定洲及びその妻万氏ら数百人を械にかけて雲南に連れ戻し、その皮を市中で剥いだ。可望は遂に滇を占拠し、天波はついに走って死に、緬甸に至った。
大理
大理は、唐の葉榆県の境である。麟徳初年、姚州都督府を置く。開元末、蒙詔の皮羅閣がここに都を建て、南詔と為し、太和城に治めた。閣羅鳳に至り、大蒙国と号し、異牟尋は大礼国と改めた。その後、鄭買賜・趙善政・楊幹貞が互いに簒奪し、五代晋の時に至り、段思平これを得て、更に大理国と号した。元の憲宗が雲南を取り、大理に至ると、段智興が降附したので、乃ち都元帥を設け、智興を摩訶羅嵯に封じ、八方を管領させた。また劉時中を宣撫使とし、智興と共にその民を安輯させた。段氏は大理を有し、十世伝わって宝に至った。太祖が江南に基を開いたと聞き、その叔段真を会川より遣わして表を奉じて帰順した。洪武十四年、征南将軍傅友徳が雲南を克つと、段明を宣慰使に授けた。明は都使張元亨を遣わして征南将軍に書を贈りて曰く「大理は乃ち唐の交綏の外国、鄯闡は実に宋の斧画の余邦、営屯を列ね難く、徒らに兵甲を労す。唐・宋の故事に依り、我が蒙・段を寛め、正朔を奉じ、華篆を佩き、比年一小貢、三年一大貢せんことを請う」と。友徳怒り、その使を辱めた。明は再び書を贈りて曰く「漢武は戦を習い、僅かに益州を置く。元祖は親征し、只だ鄯闡に縁る。班師を賜わらんことを乞う」と。友徳答書して曰く「大明は龍淮甸に飛び、区宇を混一す。漢・唐の小智を陋しみ、宋・元の浅図を卑しむ。大兵の至る所、神龍陣を助け、天地符に応ず。汝が段氏は蒙氏に武を接ぎ、運は已に元代に絶え、寛延して今に至る。我が師は已に梁王を殲し、汝が世仇に報ゆ、降らざるは何を待つ」と。
十五年、征南左将軍藍玉・右将軍沐英が師を率いて大理を攻めた。大理城は点蒼山に倚り、西は洱河に臨んで堅固であった。王師の至るを聞き、衆を聚めて下関を扼した。下関とは、南詔皮羅閣の築いた龍尾関で、極めて険しいと号された。玉らは品甸に至り、定遠侯王弼に兵を以て洱水の東より上関に趨らせ、掎角の勢いと為し、自ら衆を率いて下関に抵り、攻具を造った。都督胡海洋を石門の間道より遣わして夜に河を渡り、点蒼山の後ろに出て回り、木に攀じ崖に援じて上り、旗幟を立てた。昧爽、軍が下関に抵った者はこれを見て、皆躍り上がって歓噪し、蛮衆は驚き乱れた。英は士卒に先んじ、策を馬に打って河を渡り、水は馬の腹に没したが、将士これに従い、遂に関を斬って入った。蛮兵潰え、その城を抜き、酋長段世は就擒した。世と明は皆段宝の子である。京師に至り、帝伝えて諭して曰く「爾が父宝は曾て降表有り、朕は廃するに忍びず」と。長子に名を帰仁と賜い、永昌衛鎮撫を授け、次子に名を帰義と賜い、雁門鎮撫を授けた。大理悉く定まり、因って大理路を大理府と改め、衛を置き、指揮使司を設けた。
十六年、品甸の土酋杜惠が来朝し、千夫長に命じた。六安侯王誌・安慶侯仇成・鳳翔侯張龍に命じて兵を督し雲南品甸に往き、城池を繕い、屯堡を立て、郵伝を置き、人民を安輯させた。十七年、土官阿これを鄧川知州とし、阿散を太和府正千夫長とし、李朱を副千夫長とし、楊奴を雲南県丞とした。十九年、雲南洱海衛指揮使司を置き、頼鎮を指揮僉事とした。洱海は、本品甸である。兵燹の後、人民流亡し、室廬再び存する者無し。鎮至り、城池を復し、譙楼を建て、廬舍市裏を治め、屯堡・堤防・斥堠を修め、また白塩井を開き、民始めて安輯した。二十年、景川侯曹震及び四川都司に詔して精兵二万五千人を選び、軍器農具を与え、即ち雲南品甸に屯種させ、征討を俟たしめた。永楽以後、雲南の諸土官州県は、率い按期に入貢し、馬及び方物を進め、朝廷の賜予は制の如し。嘉靖元年、十二関長官司を一泡江の西に改めた。巡撫何孟春の奏に従ったのである。
臨安
臨安は、古の句町国である。漢は県を置く。唐は羈縻牁州の地と為す。天宝末、南詔蒙氏ここに通海郡を置く。元の時内附し、阿僰部万戸府を置く。至元中、臨安路と改め、臨安・広西・元江等処宣慰司に属す。洪武十四年、征南将軍雲南を下し、宣徳侯金朝興を遣わして分道臨安を取らしむ。元の右丞兀卜台・元帥完者都及び土官楊政降り、路を府と改め、宣慰司を廃し、臨安衛指揮使司を置く。十七年、土官和寧を阿迷知州とし、弄甥を寧州知州とし、陸羨を蒙自知県とし、普少を納婁茶甸副長官とす。俱に来朝貢し、因って誥敕冠帯を与えてこれを命ず。十八年、臨安府千戸納速丁等来朝し、人に賜うこと米十石。
永楽九年、溪処甸長官司副長官自恩来朝し、馬及び金銀器を貢し、賜賚例の如し。自恩因り言う「本司は歳に海<貝巴>七万九千八百索を納む、土の産する所に非ず、鈔銀を準じて便ならんことを乞う」と。戸部は洪武中の定額を以てし、準じて折輸するは難しとす。帝曰く「無きに有りを取るは、適に民を厲するに以てす、況んや彼遠夷は、尤も当に寛恤すべく、其れこれを除かん」と。
宣徳五年、宦官雲仙が雲南より還り、東山口巡検司を設置することを奏上し、故土官の後裔普覚を巡検とした。八年、虧容甸長官司が奏上した、「河底は洪武年間より官が渡船を設置し、路は車裏・八百に通ず。近年軍民に国境を逃れ出て使者と詐称し、強いて乗船を迫り、往々にして被害を受け、また河沿いには時に劫盗が出没す。乞うらくは巡検司を置き、故把事袁凱の子瑀を巡検とせられんことを。」これを従う。嘉靖元年、寧州に流官知州を復設し、州事を掌らしめ、土知州禄氏は専ら巡捕を職とす。寧州は旧より流官を設置せしが、正徳初年、土官禄俸がひそかに劉瑾に賄賂してこれを罷めしむ。ここにおいて弥勒州十八寨の強賊と交通して乱を為し、官軍に捕え誅せられ、その子禄世爵また罪によりて死を論ぜらる。撫按が流官を仍び設置することを請う、これを従う。初め、臨安阿迷州の土官普柱は、洪武年間に土知州たり。後に流官を設置し、その後裔覚を録して東山巡検とす、既にして他事によりて廃す。正徳二年、広西維摩・王弄山が阿迷と接壤し、盗賊出没するにより、仍び普覚の後裔納に前職を継がしむ。
普維藩なる者は、寧州禄氏と兵を構え、師団殲滅せらる。維藩の子名声、幼くして官に養育され、既に長ずるに及び、有司その父の職を継がしむ。名声は旧部を收拾し、攻戦に勇み、奢安の討伐に従い功あり、仍び土知州を授けらる、漸く驕恣となる。崇禎五年、御史趙洪範が部を按ずるに、名声は出迎せず。已にして戈甲旗幟を出だし数里に列ねる。洪範大いに怒り、巡撫王伉と謀り、討伐を請う、旨を得る。官軍進みて州城を囲む、名声恐れ、人をして降を約せしむるも、ひそかに重賄を以て元謀土官吾必奎に援を求む。時に官軍は既に必奎を征に随うべく調す、必奎は名声と戦い、兵始めて合するや、佯り敗走す。官軍望見し、ここにおいて大いに潰え、布政使周士昌戦死す。朝廷は釁を起こせる罪を以て伉を責め、逮治し、而して名声は撫に就く。然れども驕恣ますます甚だしく、当事者頗る患いと為す。已にして広西知府張継孟が道すがら阿迷に出で、計を以てこれを毒殺す。必奎名声の死を聞き、ここにおいて反し、連ねて武定・禄豊・楚雄諸城を陥とす。寧州土官禄永命・石屏州土目龍在田は、俱に必奎・名声と従征して著名たり、ここに至り、黔国公沐天波が檄を飛ばし兵を統べしめ、合して必奎を剿擒す。名声の妻万氏、本は江西寄籍の女、淫にして狡し。名声の死後、王弄山副長官沙源の子定洲に改嫁す。名声に子曰く服遠、万氏と分かち寨に居る、定洲は服遠を誘い殺し、その地を併せんとす。天波は定洲に必奎を取らしめんと檄す、定洲は行かんと欲せず、ここにおいて反す、詳しくは前伝にあり。
臨安は州四、県四を領す。その長官司九あり、曰く納楼茶甸、曰く教化三部、曰く溪処甸、曰く左能寨、曰く王弄山、曰く虧容甸、曰く思陀甸、曰く落恐甸、曰く安南、その地は皆郡の東南に在り。西平侯安南を征するに、この地を取って道とす。蓮花灘の外は即ち交荒の外なり、而して臨安に南面の憂いなきは、諸甸これを備えとなすが故なり。但だ地多く瘴気あり、流官入るを欲せず、諸長官もまた代襲を請わず、自ら相い冠帯し、日々に干戈を尋ぬ。納楼部内に鉱場三あり、曰く中場・鵝黄・摩訶。封閉已久しく、亡命多くこれを窃取す。その安南長官司は、本は阿僰蛮の居る所、旧名褒古、後に名づけて舎資とす。元は舎資千戸所と為す。地交址に近きを以て、安南と改め、臨安路に属す。正徳八年、蒙自の土舎禄祥が父の職を争襲し、その嫡兄禄仁を鴆殺し、安南長官司土舎那代これに兵を以て助け、ここにおいて乱を称す、守臣これを討平す。事聞こえ、蒙自土官を革し、長官司を改めて新安守禦千戸所と為し、臨安衛中所の官軍を調してこれを戍らしむ。
楚雄
楚雄、昔は威楚と為す。元憲宗は威楚万戸府を置く。至元の後、威楚開南路宣撫司を置く。洪武十五年、南雄侯趙庸その地を取る。十七年、土官高政を以て楚雄府同知と為し、阿魯を定辺県丞と為す。永楽元年、楚雄府言う、「所属の蛮民、礼義を知らず。惟だ僰種は賦性温良にして、書を読み字を識る者あり。府州は已に嘗て学を設け教養す、その県学は未だ設けず。県の轄する六里、僰人過半す、学を立て官を置き訓誨せられんことを請う。」これを従う。
宣徳五年、故土知府高政の女に同知を襲わしむ。政は初め同知たり、永楽中に来朝し、時に仁宗監国たり、その勤誠を嘉し、知府に昇し、子孫は仍び同知を襲う。政卒し、子無く、妻襲う。また卒し、その女知府を襲わんことを奏乞す。帝曰く、「皇考に成命あり。」と。同知を襲わしむ。
八年、南安州瑯井土巡検李保を州判官に昇す。郷老の言に、「本州は俱に羅舞・和泥・烏蛮の雑類、稟性頑獷にして、土官の管束無きを以て、多く流移に致し、差役賦税、俱に理め難し。衆嘗て保を推して州事を署せしむるに、撫綏得宜にして、民皆向服し、流移復帰す、乞うらくは本州土官を授けられんことを。」と。吏部言う、「南安は旧に土官無く、その請いに従い難し。」と。帝は治は民情に順うに在りと為し、これを従う。九年、黔国公沐晟等奏上す、「楚雄所属の黒石江及び泥坎村銀場に、軍民鉱を盗み、千百群を為し、兵を執り攘奪す。楚雄県の賊首者些が武定の賊者惟等を糾合し、軍民を劫掠し、巡検張禎を殺す。また定辺県阿苴裏諸処の強賊、衆を聚めて景東等衛を抄掠す。大理・蒙化・楚雄・姚州皆盗賊出没す。」と。帝は晟等を責め、三年を期として、諸乱を為す者を討靖せしむ。
嘉靖四十三年、楚雄の叛蛮阿方等兵を起こし、先ず易門所を攻め、流劫して習峨・昆陽・新化各州県に及び、王を僭称し、土官王一心・王行道を約して援と為す。一心後悔し、軍門に詣り賊を討ち自ら効せんことを請う。巡撫呂光洵これを許し、数百人を招降す。官軍は道を分かち進み、賊党を擒獲す。勝に乗じて大・小木址二寨を攻め、これを克ち、阿方の首を斬り、余賊悉く平ぐ。
澄江
澄江、唐は南寧・昆二州の地たり。天宝末、蛮に没し、号して羅伽甸と曰う。宋の時、大理段氏は号して羅伽部とす。元は羅伽万戸府を置く。至元中、澄江路と改む。洪武十五年、雲南平ぎ、澄江帰附し、澄江府と改む。地は滇省の中に居り、山川明秀、蚕衣耕食、民は業に安んず。郡に近き羅羅、性は頑狠なれども、然れども上官を恭敬す。官至れば、争いて迎えて家に到り、羊を刲き豕を撃ち、所有を罄くして以てこれに供し、婦女皆出でて羅拜す、故に諸府の中に独り安静と号すという。
景東
景東は、古くは柘南であり、漢代にはまだその地を有していなかった。唐代に南詔の蒙氏が初めて銀生府を置き、後に金歯白蛮に占拠された。元の中統三年に討伐して平定し、その部を威楚万戸に隷属させた。至元年間に開南州を置いた。洪武十五年に雲南を平定し、景東は先に帰順した。土官の俄陶が馬百六十匹、銀三千一百両、馴象二頭を献上した。詔して景東府を置き、俄陶に知府事を任じ、文綺の襲衣を賜った。十八年、百夷の思倫発が反乱し、十余万の衆を率いて景東の北吉寨を攻撃した。俄陶が衆を率いて防禦したが、敗北し、その民千余家を率いて大理府の白崖川に避難した。事が聞こえ、帝はその忠誠を嘉し、通政司経歴の楊大用を遣わして白金と文綺を賜った。二十三年、沐英が思倫発を討伐平定し、景東の地を回復した。そこで景東は百夷の要衝であるから、衛を置くべきであると上奏した。錦衣衛僉事の胡常をしてこれを守らせ、俄陶は従前の職に留まった。二十四年、帝は景東が雲南の要害であり、かつ肥沃な田が多いため、白崖川の軍士を調発して屯守させた。二十六年、洱海衛指揮同知の頼鎮に命じて景東を守らせた。これは沐春の請いに従ったものである。
宣徳五年に孟緬長官司を置いた。当時、景東が奏上したところによれば、管轄する孟緬、孟梳は地方が遠く、しばしば外寇の侵擾を受ける。孟梳を孟緬に併せて長官司を設け、把事の姜嵩を長官に授け、景東に隷属させ、毎年の貢銀を五十両増やすことを乞うた。六年、大侯の土知州刀奉漢が孟緬の地を侵して占拠したため、黔国公沐晟に勅して官を遣わし撫諭させた。
正統年間、思任発が反乱し、官軍が麓川を征討した際、知府の陶瓚が従軍して功績があり、大中大夫に進階した。弘治十五年正月、景東衛で雲霧が暗く、昼夜の区別がつかないことが七日間続いた。巡撫の陳金がこれを上奏した。命じて廷臣に考察を議わせ、天変に謝罪させた。南京刑部、都察院が旨を承り、文武官千二百員を考覈して罷免した。嘉靖年間、者東甸が乱を称し、景東府の印を奪って去った。土舎の陶金が追撃してその頭目を斬り、印を奪い返した。
景東部は皆僰種であり、性質は淳朴で、弩射を習い、象を用いて戦う。歴代の鉄索、米魯、那鑑、安銓、鳳継祖らに対する諸役において、皆その兵と戦象を徴発した。天啓六年、貴州水西の安邦彦が反乱し、二十万の衆を率いて雲南境内に入り、馬龍後山に至り、省城から十五里のところに迫った。総兵官が景東の土舎陶明卿に命じ、兵を率いて道の左に伏せさせた。賊が分かれて道から並び至り、官兵がこれを防禦した。賊は戦いを拒み、勢い甚だ鋭かった。明卿は象陣を以て左翼から沖き出て横撃し、賊は潰走し、十余里を追撃した。巡撫が功績を上奏し、明卿を第一に推挙した。景東は毎回二千の兵を徴発する際、必ず千余りを自ら進んで出し、兵士への糧秣の費用は、公の財に頼ったことはなく、土司の中で最も恭順であると称された。その府治の東に邦泰山があり、頗る険峻で、土官の陶姓が代々居住している。
広南
広南は、宋代には特磨道と称した。土酋は儂姓で、智高の子孫である。元の至元年間に広南西路宣撫司を立てた。初めは路城等五州を管轄したが、後に安寧、富の二州のみを管轄した。洪武十五年に帰順し、広南府と改め、土官の儂郎金を同知とした。十八年、郎金が来朝し、錦綺と鈔錠を賜った。二十八年、都指揮同知の王俊が命を受け、雲南後衛の官軍を率いて広南に至り、城を築き衛を建てた。郎金の父貞佑は自ら安んぜず、衆を結んで山寨を拠り守りを拒んだ。俊が人を遣わして招いたが、服従せず、時に草莽に伏して劫掠し、官軍の進退を窺った。俊は指揮の欧慶らを遣わし分兵して各寨を攻撃させ、自らは貞佑を攻め取った。また兵をもって間道を扼し、その救援を絶った。諸寨は悉く破られ、衆は潰え、貞佑は窮迫して捕らえられ、械に繋がれて京師に送られた。郎金を降格して府通判とした。
永楽六年、富州の土知州沈弦経が入貢し、仁孝皇后の喪に当たり、弦経は香幣を奉じて致祭した。宣徳元年、土官の儂郎挙が来朝し、馬を貢いだ。正統六年、広南の賊阿羅、阿思らが劫掠し、総兵官の沐昂らに命じてこれを招撫させた。当時、富州の土官沈政と郎挙が互いに糾弾し合い衆を糾合して土地を侵したため、帝は昂らに調査処置させた。七年、昂は二人の叛逆に実跡がなく、隙があるために互いに妄りに上奏したと奏上した。兵部は政らの罪を治めるよう請うたが、帝は蛮人であるとしてこれを宥した。政と挙は仇殺し合うこと既に十余年で、当時麓川征討中であったため、兵威を憚って敢えて動かなかった。間もなく、郎挙は従征の功により同知に昇進し、死んで嗣子がなく、四門の舎目が共に儂文挙を推挙して事を署理させた。文挙は屡々戦功を立て、万暦七年に実授で同知となった。子の応祖は三郷征討に従軍し、自ら賊首を捕らえ、詔して銀百両を賞賜された。播州の役では、その兵三千を徴発して尋甸の叛目を討ち、皆功績があり、四品の服を賜った。
儂氏は文挙が四門の舎目の推擁の力によって職を授けられて以来、後に儂氏が襲替する際は必ずこれに依った。土官の政務は四門から出て、租税は僅かに十分の一を取るのみであった。道は険しく瘴気が多いため、知府はその地に至らず、印は臨安の指揮一人に署理させた。指揮が出ると、印を一室に封じ、入って取る時は必ず瘟癘による死亡があった。万暦末、知府の廖鉉は、瘴気を避けて臨安に滞在し、印を同知の儂仕英の子添寿に預けた。添寿が死ぬと、家奴が印と経歴司の印を窃んで逃げ、後にその族叔の儂仕祥に印を帰した。当時、仕英の親弟の仕獬は例によって襲職する資格があったが、仕祥に印を要求した。仕祥が与えなかったため、遂に地を泗城の土官岑接に献じ、連婚して兵を構え、仕獬の家を滅ぼした。仕祥が死ぬと、子の琳が府印を接に送り、経歴司の印はまた琳の弟の瓊が所有した。巡撫の王懋中が兵を調発して問責に向かわせた。瓊は恐れ、印を通判の周憲に返し、接もまた府印を出して官に献じた。当時、兵が境に至ったばかりであったが、直ちに帰還させた。廷議は鉉の擅離の罪と守巡の失撫の罪を治めようとしたが、瓊と接は既に服したので問わないこととし、詔してこれを許可した。間もなく、儂紹湯兄弟が襲職を争い、各々交阯の兵と象を糾合し、焼き掠めて一空にした。
広西
広西は、隋代は牂州に属し、後に東僰、烏蛮等の部族が居住した。唐代は黔州都督府に隷属した。後に師宗、弥勒の二部が次第に盛んになり、蒙氏、段氏も皆これを制することができなかった。元の憲宗の時に初めて内属した。至元十二年に二部を籍して軍とし、広西路を置いた。洪武十四年に帰順し、土官の普德に府事を署理させた。二十年、普德及び弥勒知州の赤善、師宗知州の阿のが各々人を遣わして馬を貢ぎ、詔して文綺と鈔錠を賜った。二十四年、布政使の張紞が奏上した。「維摩、雲龍、永寧、浪渠、越順等の州県の蛮民は頑悪で、政教に従わず、兵を置いて戍守し、これを制御すべきである。」この後、朝貢と賜与は制度の通りに行われた。
正統六年、総兵官の沐昂が奏上したところによれば、師宗州及び広南府の賊阿羅、阿思が糾合して乱を為し、昂らに命じて招諭させたが、間もなく平定した。成化年間、土知府の昂貴が罪を犯し、その職を革め、弥勒州に安置した。そこで流官を置き、初めて土城を築いた。嘉靖元年に雲南弥勒州十八寨守禦千戸所を設けた。その部衆は掠奪を好み、紀律がなく、水西、烏撒に用兵するに至って、初めてこれを徴調した。崇禎年間、巡按御史の傅宗龍が雲南より貴州に入るに当たり、普兵を招いて従軍させた。当時、雲南で最も沙普兵と称され、また昂兵とも言った。
鎮沅
鎮沅は、古くは濮・洛雑の蛮族が居住した地であり、『元史』では和泥・昔樸の二蛮と称している。唐代は南詔蒙氏の銀生府の地であった。その後、金歯僰蛮がこれを占拠した。元代には威遠蛮棚府となり、元江路総管に属した。洪武十五年、総管刀平が兄の那直とともに帰順し、千夫長に任じられた。建文四年に鎮沅州を設置し、刀平を知州とした。永楽三年、刀平はその子を率いて来朝し、地方の産物を貢ぎ、紙幣や文綺を賜った。八百征討に従軍し、また石崖・者達寨の外部を攻撃した。整線が降伏し、地方の産物を貢いだ。府に昇格し、刀平を知府とし、経歴・知事を各一名設置した。貢賜はいずれも定例に従った。成化十七年、地方が平定されていないため、鎮沅の諸土官の朝覲を免除した。正統元年に再び免除した。
嘉靖年間、安銓征討に際し、鎮沅の兵千人を徴発し、刀寧息にこれを率いさせた。さらにその子の刀仁を徴発し、やはり兵千人を率いて那鑒を征討し、魚復寨を攻略した。初め、鎮沅の印は那氏に奪われていたが、この時に印を得て献上したので、これを給付するよう命じた。長官司を一つ管轄する。禄谷寨といい、永楽十年に設置された。
永寧
永寧は、昔は楼頭夾の地で、吐蕃に接し、また答藍とも称した。唐代は南詔に属し、後に麽些蛮が占拠した。元憲宗の時に内附し、至元年間に答藍管民官を設置し、まもなく永寧州に改め、北勝府に隷属させた。洪武年間に雲南を平定した時は、鶴慶府に属した。二十九年、瀾滄衛に改属させた。十二月、土賊の卜百如加が軍民を劫掠殺害したので、前軍都督僉事何福が指揮の李栄らを派遣してこれを討伐した。その子の阿沙は革失瓦都寨に逃げ込んだ。官軍は三日分の食糧を持ち、深く追撃したが、大雨に遭い、兵士は飢え疲れ、引き返した。
永楽四年に四つの長官司を設置し、永寧土官に隷属させ、土酋の張首らを長官とし、各々印章を与え、冠帯と彩幣を賜った。まもなく永寧を府に昇格させ、布政司に隷属させ、土知州の各吉八合を知府に昇任させ、彼に勅書を持たせて大西番に派遣し、蛮衆を慰撫させた。宣徳四年、永寧蛮寨の矢不剌非が四川塩井衛の土官馬剌非と結託して各吉八合を殺害したが、官軍がこれを鎮撫平定した。卜撒に知府を継承させたが、またも矢不剌非に殺害された。その後、卜撒の弟の南八に継承させたが、馬剌非がまた永寧の節卜・上・下の三村を占拠し、南八を追い出し、夜白・尖住・促卜瓦の諸寨を大いに掠奪した。事が上聞され、帝は都督同知沐昂に兵を率いさせて禍福を説かせ、併せて四川行都司に檄を移して塩井衛に命じ、馬剌非に占拠した村寨を返還させるよう諭させた。正統二年、馬剌非は南八に攻撃され、烏節等の寨を陥落させられ、南八もまた馬剌非が殺害したと訴えた。詔により鎮巡官が審問し、各々侵奪した土地を返還させ、ようやく事態は収まった。
永寧の境界は、東は四川塩井衛まで十五里、西は麗江宝山州まで、南は浪渠州まで、北は西番までである。四つの長官司を管轄する。剌次和、瓦魯之、革甸、香羅という。
順寧
順寧府は、本来蒲蛮の地で、慶甸と称した。宋代以前は中国と通じず、蒙氏・段氏といえども統治できなかった。元代の泰定年間に初めて内附した。天暦初年に順寧府と慶甸県を設置したが、後に県は府に併合された。洪武十五年、順寧が帰順し、土酋の阿悦貢に府事を代行させた。十七年、阿日貢を順寧知府に任命した。二十三年、土酋の猛丘と土知府の子の丘らが、徴税を納めず、互いに仇殺し合った。大理衛指揮の鄭祥が蒙化の賊を征討し、軍を移して甸頭に至り、その寨を攻め落とした。猛丘が降伏して税を納めることを請うたので、引き返した。猛丘が死ぬと、把事の阿羅らが再び兵を起こして互いに攻撃し合った。二十九年、西平侯沐春が鄭祥と指揮の李栄らを派遣し、分道して進軍討伐し、阿羅らを捕らえて誅殺した。その後、貢賜は制度通りに行われた。
順寧は大侯と境を接していた。万暦年間、大侯の土舎の奉赦・奉学兄弟は仲が悪かった。奉学は妻の父である土知府の猛廷瑞を頼り、兄の赦と日々兵を交えた。巡撫の陳用賓が参将の李先著と副使の邵以仁に檄を飛ばし、調査処理させた。以仁は廷瑞を急襲して捕らえ、それにより順寧を流官に改めるよう請うた。先著は檄を受け、討伐すべきでないと強く主張したが、誹謗の言葉をかけられ、捕らえられて獄死した。しかし廷瑞には実際に謀反の意図はなく、参将の吳顯忠がその富を窺い、悪事を助けたと誣告し、金を要求したが応じなかったので、巡按の張応揚に讒言し、それが巡撫の陳用賓に伝わった。廷瑞は大いに恐れ、やむなく奉学を斬って献上した。顯忠はますますその陰事を誣告し、謀反の様子をでっち上げ、撫按が共同で上奏し、大規模な討伐の旨を得た。廷瑞は出て、印と子を献上して命令を待ったが、聞き入れられなかった。顯忠は兵を率いてその寨に入り、猛氏十八代の蓄財数百万をことごとく奪い、廷瑞を会城に誘い出して捕らえ、朝廷に勝利を報告した。これにより配下の十三寨はことごとく憤慨し、初めて兵を集めて反乱を起こしたが、官軍がこれを悉く討伐し、その子も殺した。以仁は右都御史に超擢され、子に蔭官が与えられた。まもなく大辟の罪に坐し、獄に繋がれ、応揚も病死した。人々はこれを天道という。
順寧の付近に猛猛・猛撒・猛緬があり、いわゆる三猛である。猛猛が最も強く、部落は一万人おり、しばしば二猛と争った。その地は田が少なく竹林が多く、射猟を業としていた。猛緬は地は広いが、人は柔弱であった。部長は冠帯を賜り、最も忠順であった。猛撒は微弱で、後に耿馬に分割編入された。
蒙化
蒙化は、唐代は姚州都督府に属した。蒙氏の時、細奴邏が城を築いてここに居住し、蒙舍詔と号した。段氏は開南県に改めた。元代は州となり、大理に属した。洪武十七年、土酋の左禾を蒙化州判官とし、施生を正千夫長とした。二十三年、西平侯沐英は蒙化に所属する蛮の火頭の字青らが教化に反抗して服従しないため、衛を設置するよう請うた。指揮僉事の李聚に命じて蒙化を守備させた。賊の高天惠が乱を起こしたが、大理衛指揮使の鄭祥がこれを捕らえて斬り、首を雲南に伝送した。
永楽九年、土知州の左禾と正千夫長の阿束が来朝し、馬を貢ぎ、例に従って賜与を受けた。その後、左伽が麓川征討に従軍し、大侯で戦い、功績第一となり、臨安知府に進級し、州の事務を執掌した。正統年間、州を府に昇格させ、左伽を知府とし、世襲させた。管轄する江内の諸蛮は性質が柔和で、かなり従順であったが、江外の数派は勇悍をもって称された。毎回征調に応じる際は、多くは野戦を行い、行伍を整えなかった。
成化十七年、巡撫が地方が未だ平穏でないと上奏し、蒙化土官の翌年の朝貢を免除した。正統元年に詔して再び免除した。万暦四十八年、雲龍土知州の段龍が死に、子の嘉龍が立ったが、養子の進忠が嘉龍を殺して継承を争い、流動して掠奪殺戮を行った。官軍が進軍討伐し、進忠は間道から大理に向かおうとしたが、官軍がこれを捕らえて誅殺し、流官を設置して改め、段氏に世襲の吏目一人を授けた。
孟艮
孟艮は、蛮名を孟掯といい、古来より中国と通じなかった。永楽三年に帰順し、孟艮府を設置し、雲南都司に隷属させ、土酋の刀哀を知府とし、印綬・誥命・冠帯を授けた。時に刀哀は人を遣わして来朝し、治所の設置を請い、毎年差発の黄金六十両を納めることを定めた。六年、土知府の刀交は弟の刀哈哄を遣わして象及び金銀器を貢いだ。礼部が言うには、「刀交はかつて兵を構えて隣境を攻撃掠奪し、詐譎で誠実でない。その貢を退けるべきである。」帝は言った、「蛮夷が悔悟して来朝するならば、過去の事は責めに足らない。」と。命じて鈔及び絨錦・綺帛を賜う。この後、貢献と恩賜はすべて例の通りとした。宣徳六年、内官の楊琳に命じて彩幣を齎し孟艮知府の刀光に賜う。正統年間、孟艮の地は多く木邦に併合された。景泰年間、入貢した知府の名は慶馬辣といったが、刀氏とどのような関係にあるかは分からない。
孟艮は姚関の東南二千里外にあり、沃野千里、最も殷富である。地には虎が多く、農民は樹の梢に草楼を結んで作物を守る。雲南知府の趙混一がかつてその境に入ったが、待遇の礼が疎慢であったため、後には再び至る者はなかった。
孟定(耿馬安撫司を附す)
孟定は、蛮名を景麻という。至元年間に孟定路軍民総管府を立て、二甸を領し、大理・金歯等処宣慰司に隷属した。洪武十五年、土酋の刀名扛が来朝し、方物を貢いだ。綺帛・鈔幣を賜い、孟定府を設置し、刀渾立を知府とした。永楽二年、孟定土官の刀景発が人を遣わして馬を貢いだ。鈔・羅綺を賜う。使者を遣わして印誥・冠帯・襲衣を賜い、さらに信符・金字紅牌を頒布した。四年、帝は孟定が道里険遠で毎年の朝貢が不便であるとして、今後は三年に一度の貢とし、慶賀・謝恩の場合は例に拘わらないと命じた。
初め、孟璉と孟定はともに麓川の地であり、その土目はもと同等の夷であり、互いに隷属することを嫌った。後に孟璉を雲南に隷属させると、多く互いに土地を侵し仇殺した。宣徳六年、土知府の罕顔法がこれを言上したため、黔国公沐晟に勅して官を遣わし撫諭させ、それぞれ侵掠したものを返還させた。正統年間、麓川が叛くと、孟定知府の刀祿孟は遁走した。木邦土官の罕葛は従征して功があり、総督の王驥が奏上して孟定の土地を食むことを命じた。嘉靖年間、木邦の罕烈が地を占拠し印を奪い、土舎の罕慶にこれを守らせ、耿馬と名付けた。その地の収入はすべて木邦に帰した。万暦十二年、官兵が隴川を取って孟定の故地を平定し、罕葛の後裔を知府とした。十五年、孟定府の印を頒布した。崇禎末年、孟定は叛き、緬甸に降った。その地は、姚関より南へ八日の行程にあり、西は隴川に接し、東は孟璉に連なり、南は木邦、北は鎮康である。土地は瘠せて人稀で、馬援城がある。安撫司を一つ領す、耿馬という。万暦十二年に設置し、們罕を安撫使とした。孟定と喳哩江を隔てる。孟定は南に居り、耿馬は北に居る。罕が死ぬと、弟の們罕金が印を護り、たびたび朝貢した。時に木邦の思礼が乱を起こし、湾甸・鎮康を侵し、罕金を頼みとして声援とした。天啓二年、緬人が猛乃・孟艮を攻めると、罕金はこれを救おうとした。緬は兵を移して金を攻め、金は厚く賂して、ようやく解いた。後に木邦の罕正と難を構えて絶えなかったという。
曲靖
曲靖は、隋の恭州・協州の二州の地である。唐は南寧州を置き、恭州を曲州と改め、協州を分けて靖州を置いた。至元初年、磨弥部万戸を置き、後に曲靖路宣慰司と改めた。
洪武十四年、征南将軍が雲南を下すと、元の曲靖宣慰司征行元帥の張麟・行省平章の劉輝らが来降した。十五年、曲靖千戸所を曲靖軍民指揮使司と改め、曲靖軍民府を置いた。十六年、沾益州土官の安索叔・安磁らが馬及び羅羅の刀甲・氈衫・虎皮を貢いだ。詔して磁に冠帯・綺羅衣各一襲並びに文綺・鈔錠を賜う。羅雄州土酋の納居が来朝し、鈔幣を賜う。十七年、亦佐県土酋の安伯が乱を起こし、西平侯沐英が兵を発して討ち降した。
二十年、越州土酋の阿資と羅雄州の営長発束らが叛いた。阿資は、土官龍海の子である。越州は、蛮では苦麻部と呼ぶ。元末、龍海がここに居り、所属はすべて羅羅斯種であった。王師が南征した時、英はその地の湯池山に兵を駐めた。龍海は降り、そこで子を入朝させた。詔して龍海を知州とした。まもなく乱を起こしたため、英がこれを擒らえ、遼東に徙し、蓋州に至って病死した。阿資がその職を継ぎ、ますます桀驁となり、ここに至って叛いた。帝は英に命じ征南将軍傅友徳と会して進討させた。道すがら平夷を過ぎ、その山が険悪で兵を駐めて屯守すべきであるとして、遂にその山民を卑午村に遷して住まわせ、神策衛千戸の劉成らに千人を将いてその地に堡を置かせ、後に平夷千戸所とした。阿資らは衆を率いて普安を寇し、府治を焼き、大いに剽掠した。友徳が兵を率いてこれを撃ち、その営長を斬った。二十二年、友徳らが進攻すると、土官の普旦が来降した。阿資は退いて普安に屯し、崖壁を倚りて寨とした。友徳が精兵をもってこれを迫ると、蛮衆は皆壁に縁り崖を攀じ、墜死するもの数え切れず、生擒一千三百余人、馬畜を獲ること甚だ多かった。阿資は遁れて越州に還り、さらに追撃してこれを破り、その党五十余人を斬った。阿資は窮迫して降伏を請うた。初め、阿資が遁れた時、言い放った、「国家には万軍の勇があるが、我が地には万山の険がある。どうして我が輩をことごとく滅ぼせようか。」と。英はそこで越州・馬龍の二衛を置きその険要を扼し、さらに兵を分けて追捕することを請い、ここに至って遂に降った。
英らは陸涼が西南の要地であるとして、衛を設けて屯守することを請うた。命じて洱海衛指揮僉事の滕聚に古魯昌に城を築かせ、陸涼衛指揮使司を置いた。英はまた言う、「曲靖指揮千戸の哈剌不花は、もと元の陸涼守禦千戸である。今陸涼に衛を置くに当たり、本衛に調して鎮守させるのが宜しい。これによって後患を絶つであろう。」と。詔してこれに従う。帝は平夷が特に要衝に当たり、四面すべて諸蛮の部落であるとして、開国公常升を遣わし辰陽で民間の丁壮五千人を集め、右軍都督僉事の王成に統率させ、平夷千戸所を即時に改めて衛を置いた。二十三年、越州衛を置く。二十四年、越州衛を陸涼州に徙す。英の言うところ、雲南の諸蛮は皆降ったが、ただ阿資だけが険に恃みてたびたび叛くので、衛軍を徙して守禦させるのが宜しい、による。まもなく、阿資がまた叛いた。都督僉事の何福を平羌将軍に命じ、師を率いて進討させ、たびたび賊衆を破った。連月淫雨が続き水が溢れ、阿資は援絶し、その衆とともに降った。福は曠地を選んで柵を列ね、その衆を置いた。西南に木蓉菁があり、賊が常に出没する所であるため、さらに普安衛の官軍を調して寧越堡を置いてこれを鎮めたが、しかし阿資は終に悔い改めなかった。
二十七年、阿資がまた反した。西平侯沐春及び福が兵を率いて越州城北に営し、壮士を岐路に伏せさせ、兵をもって挑戦した。蛮兵は衆を悉く出し、伏兵が起きて大いにこれを破り、阿資は身を脱して遁れた。初め、曲靖土軍千戸の阿保・張琳の守る地は、越州と接壤し、部衆は多く互いに貿易していた。春は人を遣わして阿保らと結び、阿資の所在及びその経行地を覗わせ、星の如く守堡を列ねてその糧道を絶ち、賊はますます困窮した。二十八年、福は潜かに兵を引いて赤窩鋪に屯し、百戸の張忠らを遣わして賊の巣を搗き、阿資を擒らえて斬り、その党を俘虜し、越州はここに平定された。この後より以後、諸土官は期を定めて朝貢し、西南は晏然となった。
正統二年、曲靖軍民知府晏毅が四事を言上した。第一、土官の承襲は、あるいは子孫、あるいは兄弟、あるいは妻が夫を継ぎ、あるいは妾が嫡を継ぐなど、いずれも予め定められた順序がなく、襲職の際に争奪を生じ、仇殺が連年続く。どうか該部に命じて文書を移し所司に、予め順序を定めて冊を作り、土官に事故があれば、その順序に従って職を襲わせられたい。第二、陣亡した者の子孫を憐れむことを請う。第三、雲南の官の俸給を、すべて四川の例の通りにすることを請う。第四、戸口と田地を均しくすることを請う。事は所司に下り、議して施行された。毅はさらに沾益州松韶に巡検を設置することを請い、これに従った。
嘉靖年間、羅雄知州の者浚が営長を殺し、その妻を奪い、子の継栄を生んだ。少し成長するとすぐに刀を持って浚を追い払った。浚は彼を死に追いやろうとしたが、その母の故をもって忍びなかった。浚が致仕を請うと、継栄を代わりに襲職させた。継栄はついに浚を追放した。浚はこれを鎮巡官に訴え、浚を迎え帰すことを命じられた。継栄は表面上これに従ったが、実は監禁を加えた。万暦九年、羅雄の兵を徴発して緬甸を征討した。継栄は出発しようとしたが、浚を残しておくのは難儀だと恐れ、ついに浚を弑した。時に沾益土知州安世鼎が死に、妻の安素儀が州事を署理し、また兵を率いて徴発に赴いた。継栄はこれと合営し、通じ、かつ沾益の兵力を頼りとして助けとした。軍は越州を過ぎ、土官資氏の家に留まり、淫楽して進まなかった。知州の越応奎が兵備に報告し、彼を捕らえようとした。継栄は逃走し、ついに衆を集めて反した。陸涼の鴨子塘、陡陂などの諸寨を攻め破り、赤龍山に石城を築き、龍潭を険として拠り、広さ六十里。己の居所を「龍楼鳳閣」と名付け、群寨を巡らせ、諸軍士の妻女をその中に実らせた。十三年、巡撫劉世曾はついに諸道に檄を飛ばして進兵させた。ちょうど劉綎が緬甸を破り官を解かれて帰還したところ、世曾は兵を綎に属させた。綎はついに馳せて普鲊営に赴き、直ちに赤龍寨を搗き、賊の渠帥を斬った。継栄は遁走した。綎はさらに三寨を連破し、その衆一万七千人を降し、追撃して阿拝江に至り、継栄を斬り、賊を平定した。世曾は城を築き、流官を改めて設置することを請い、ついに何倓をもって知州とし、者継仁をもって巡検とした。間もなく、蛮寇の必大が反し、継仁を殺し、倓を捕らえた。参将蔡兆吉らが討伐して平定し、ついに羅雄州を羅平と改称し、千戸所を設置して定雄と称した。
時に沾益の安素儀に子がなく、烏撒土官の子安紹慶を嗣とした。慶が死に、孫の安遠が襲職した。土婦の設科が乱を起こし、安遠を追放し、衆を糾合して沾益の諸堡站を焚掠し、平夷衛を陥落させた。天啓三年、官兵が設科を擒え、これを誅した。五年、安辺が沾益を拠り、水西に従って叛した。事は『烏撒伝』に詳しい。
初め、越州の阿資が罪に坐して誅せられ、永楽年間にその子の禄寧をもって土県丞とし、亦佐の沙氏と土地を分けて居住させた。その地は南北一百二十里、士馬精強で、征調の銀は三千八百両に至った。
曲靖境内に交水があり、平夷衛より二舍の距離で、黔と接壤し、滇師が上六衛に出るには必ず通る道である。天啓初年、水西に用兵があり、撫臣が議した。「曲靖は全滇の鎖鑰であり、交水は黔・滇の要衝に当たり、厄塞の要地である。平夷右所は宜しく交水に移置し、険を去って城を築き、平夷衛と相望み、互いに声援とすべきである。便である。」と。奏聞して許可された。