明史

列傳第二百 四川土司二

◎四川土司二

○播州宣慰司、永寧宣撫司、酉陽宣撫司、石砫宣撫司

播州宣慰司

遵義府は即ち播州なり。秦の時は夜郎且蘭の地。漢代は牂牁に属す。唐の貞観年中、播州と改む。乾符初め、南詔播州を陥とす。太原の楊端募に応じて其の城を復し、播人の懐服する所となり、五代を歴て、子孫世々其の地を有つ。宋の大観年中、楊文貴土を納れ、遵義軍を置く。元の世祖楊邦憲に宣慰使を授け、其の子漢英に賽因不花の名を賜い、播国公に封ず。

洪武四年しょくを平げ、使いを遣わして之を諭す。五年、播州宣慰使楊鏗、同知羅琛、総管何嬰、蛮夷総管鄭瑚等、相率いて来帰し、方物を貢ぎ、元の授くる所の金牌・銀印・銅章を納む。詔して鏗に衣幣を賜い、仍播州宣慰使司を置き、鏗・琛皆旧職に仍る。安撫司二を領す、曰く草塘、曰く黄平。長官司六、曰く真州、曰く播州、曰く余慶、曰く白泥、曰く容山、曰く重安。嬰等を以て長官と為す。七年、中書省奏す、「播州の土地既に版図に入る、当に其の貢賦を収むべし、歳に糧二千五百石を納めて軍儲と為すべし」と。帝其の率先して来帰するを以て、田税は随いて入る所に従い、必ずしも額を以てすべからず。已にして、復た播州黄平宣撫司を置く。播州江渡の蛮黄安乱を作し、貴州衛指揮張岱之を討平す。八年、鏗其の弟锜を遣わして来貢し、衣幣を賜う。是より、毎三歳に一たび入貢す。十四年使いを遣わし勅を齎して鏗を諭す、「比聞く、爾浮言を聴き、疑貳を生ずと。今大軍南征し、多く戦騎を用う、宜しく兵二万・馬三千を率いて先鋒と為し、庶く爾の誠を表すべし」と。十五年播州沙溪に城し、官兵一千人・土兵二千人を以て之を戍らしむ。播州宣慰司を改めて貴州に隷し、黄平衛を改めて千戸所と為す。十七年、鏗の子震京に卒す、命じて有司に其の喪を帰らしむ。二十年鏗を征して入朝せしめ、馬十匹を貢ぐ。帝土を守り身を保つの道を以て諭し、鈔五百錠を賜う。二十一年、播州宣慰使司並びに所属の宣撫司官、各其の子を遣わして来朝し、太学に入るを請う。帝国子監官に勅して善く之を訓導せしむ。

永楽四年播州の荒田の租を免じ、重安長官司を設け、播州宣慰司に隷し、張佛保を以て長官と為す。佛保嘗て重安蛮民を招輯し向化せしむる故なり。七年、宣慰使楊升草塘・黄平・重安の管轄する当科・葛雍等十二寨の蛮人の来帰を招諭す。宣徳三年、升万寿節を賀するに後期す。礼部議して半賞を与うべしとす。帝道遠きを以て、其の賜を奪うこと勿れと。七年、草塘所属の谷𠎭等四十一寨の蛮乱を作し、総兵陳懷之を剿撫し、旋って定まる。

正統十四年、宣慰使楊綱老疾あり、其の子輝を以て代わらしむ。景泰三年、輝奏す、「湖・貴の管轄する臻・剖・五坌等の苗賊、草塘・江渡諸苗の黄龍・韋保等と糾合し、人民を殺掠し、屡撫して復叛す。兵を調発して征剿を乞い、以て民患を靖めん」と。帝総督王来・総兵梁缶等に命じ、四川巡撫と会同して之を剿がしむ。七年、輝の兵を調発して銅鼓・五開の叛苗を征し、勅を賜い賞を頒つ。

成化十年、播州の賊賫果等の屡歳にわたり患いを為すを以て、川・貴の鎮巡官を勅責す。正統末、苗蛮衆を聚めて辺を寇す。土官同知羅宏奏す、輝疾あり、乞うらくは其の子愛を以て代わらしめんと。帝愛に職を襲わしむるを命じ、仍愛に勅して即ち兵を率いて総兵官に従い賊を剿がしむ。是に先立ち、輝奏す、所属の夭壩幹地五十三寨及び重安の管轄する湾溪等の寨、屡苗蛮に占拠せられ、湖・貴に兵を会して之を征せしむるを乞うと。輝の言う如く命ず。部議して愛年幼を以て、請うらくは仍輝を起して暫く軍事を理めしむ。又輝の独任に難きを以て、宜しく都御史張瓚に勅して親しく播州に至り督理せしめ、輝等を励まして威武を振揚し、以て征調に備えしむべし。其の機宜は悉く瓚の裁処を聴かしむとす。

十二年、瓚諸軍及び輝を督して湾溪・夭壩幹地諸苗を攻め敗り、凡そ山寨十六を破り、首四百九十六級を斬り、男婦九千八百余口を撫す。事兵部に下る。苗就撫する者多きを以て、宜しく量りて処分すべしとす。瓚安寧宣撫司を設け、並びに懐遠・宣化の二長官司、靖南・龍場の二堡を建つるを議し、輝に命じて其の役を董ましむ。輝兵民五千余を調し、治所を立て、所属の黄平諸長官に委ね、分ちて城垣を甓す。将に竣らんとす。輝因りて奏す、「各寨の苗蛮、近く頗る懼るるを知る。但だ大軍還るの後、虞無きを保し難し。播州向に操守土兵一千五百人を設く。今懐遠・靖南・夭漂・龍場に各二百人を撥守し、宣化に百人、安寧に六百人とす。其の家属宜しく之を同居に徙し、固守の計と為すべし。其の工の未だ畢らざる者は、宜しく臣が子愛に之を董ましめ、而して臣の致仕するを聴くこと故の如くすべし」と。詔して之に従う。時に湾溪既に安寧宣撫を立てしに、爛土諸蛮其の逼るを悪み、遂に賫果等を引いて夭漂・靖南の城堡を攻め陥とし、安寧を囲む。愛新に襲い、力支ふる能わず、川・貴の二鎮に援を求む。兵部奏して輝を起し再び兵を統して之を剿がしめ、又川・貴の兵を勅して助けしむ。十五年、貴州巡撫陳儼奏す、「苗賊賫果転た横なり。川・湖等の官軍五万五千を調発し、期を剋して貴州に会し、儼の節制を聴かしむるを乞う」と。兵部言う、「賊は四川に作るに、而して貴州の守臣自ら諸軍を節制せんと欲す。恐らくは功を邀うるの人之を主る有らん。且つ師五万を興し、半年を以て計れば、須らく軍儲十三万五千石、山路険峻にして、輸運の夫須らく二十七万众、況んや天将に暑く、瘴癘虞るべし」と。帝其の奏を然りとす。

二十二年、愛の兄宣撫楊友愛を訐奏す。帝刑部侍郎何喬新に命じて往き勘せしむ。二十三年、喬新奏す、「輝在世の日、其の庶子友を溺愛し、承襲せしめんと欲し、長官張淵之に阿順す。安撫宋韜謂う、楊氏の家法、嗣を立つるに嫡を以てす、愛立つべしと。輝已むを得ず愛を立て、又地を割きて以て友に授けんと欲し、淵と謀る。因りて夭壩幹は乃ち本州懐遠の故地、生苗の占拠する所なるを以て、兵を請うて之を取らんとす。容山長官韓瑄土民安輯日久きを以て、征すべからずとす。淵輝と計りて瑄を執し、杖殺す。前巡撫張瓚輝の賂を受け、其の地に安寧宣撫司を設け、冒りて友を以て宣撫に任ず。輝券を立て、所有の金玉・服用・庄田を以て諸子を召し均分せしむ。輝没し、淵乃ち友と潜かに愛を刺すを謀る。淵の弟深も亦謀に与る。果たさず。友遂に愛の居処器用朝廷に僭擬し、又唐府に通じ、密書往来し、私に兵法・天文を習い、軌に謀らざるを奏す。事皆誣なり」と。帝淵・深を斬らしむるを命ず。愛讒を信じ兄を薄くし、友公に因りて擅に殺し、且つ嫡を謀り、官錢を盗むを以て、皆罪有りとす。愛贖して復任せしめ、友保寧に遷して羈管し、仍喬新に勅して宜しきに従い処治せしむ。

弘治元年重安守禦千戸所を増設し、播州に命じて歳に土兵一千を調発し戍守を助けしむ。七年、苗を平ぐるの功を以て、勅を賜い愛を労う。十四年、播州の兵五千を調発し貴州の賊婦米魯等を征す。

正徳二年、播州宣慰使楊斌を四川按察使に昇進させ、なお宣慰の事務を掌らせた。旧制では、土官に功績があれば衣帯を賜り、あるいは部衆を表彰賞賜するが、方面の官職に列することはなかった。斌は狡猾で横暴であり、両司の節制を受けず、安撫羅忠らにそそのかして普安等を平定した戦功を上奏させ、劉瑾に多額の賄賂を贈ってこれを得た。一年余り後、巡按御史の俞緇が授けるべきでないと上言したため、これを取り消し、もとの職に戻した。初め、楊友が保寧に編置された後、楊愛はますます勝手に振る舞い、重税を課して宦官に賄賂を贈り、友がかつて居住した凱裏の地からの徴収は特に苛酷であった。同知の楊才は安寧に居住し、これに乗じて収奪が特に甚だしく、諸苗は憤慨怨嗟した。凱裏の民は友のために官職復帰を上奏したが、得られず、ひそかに保寧に入り、友を連れ戻し、徒党を糾合して乱を起こし、播州を攻撃し、愛の居宅及び公私の官舎をほぼ焼き尽くし、ついに楊才を殺害し、多くの殺戮を行った。愛はたびたび朝廷に上奏し、帝は鎮巡官に命じて兵を調発し征討させた。ちょうど友が死んだため、出兵を遅らせた。やがて鎮巡官が上言した、「友の子の楊弘は過ちを悔い改めて自新し、かつよく撫育統御するので、蛮衆はその約束に従うことを願っている。以前に友のために焼き殺された者は、すでにすべて土俗に従って賠償し、かつ官に侵奪したものを返還した。楊弘に冠帯を授けて土舍とし、播州の経歴司と協力して諸蛮を撫育させることを乞う。その家の者で保寧に置かれた者は依然として帰属させ、播州の管轄に属させる。また楊斌に諭して楊弘と協調和合させ、再び事端を起こさせないようにすることを。」返答は許可であった。間もなく、播州安撫の宋淮が上奏した、「貴州の凱口爛土の苗は凱裏草塘の諸寨と婚姻し、ひそかに結託し、苗を誘い出して乱を起こそうとしている。楊斌に勅書を賜り、毎年辺境を巡視し、湖広の鎮巡官と会合して鎮撫処置させることを乞う。」部の議では、土官にこれまで勅書を領して出巡した例はない。楊斌は土衆を撫育綏靖し、親族と和睦して、朝廷の優待の意に副うべきであると諭した。そこで致仕した宣慰の楊愛を昭毅将軍に任じ、誥命を与え、麒麟服を賜った。この時、楊斌はまたその父のために官階進級と服色を請い、礼科がこれを退けた。服色は威儀に関わるもので、仮りに与えることはできないと。兵部は楊愛がかつて賊を剿滅した功績があるとして、すべてこれを許した。楊斌はまたその子の楊相のために入学を請い、ともに冠帯を賜ることを得た。

十二年、播州安撫の羅忠・宋淮らが上奏した、「楊斌に父の喪があり、文臣の例に倣って喪に服したいと願っているが、辺防が重要であるため、引き続き印を掌り事務を処理させることを乞う。」初め、楊弘が凱裏に帰った後、重安の土舎馮綸らと怨恨があった。楊弘が卒すると、綸らは苗蛮を誘ってこれを攻撃し、互いに仇殺し、貴州の境を侵犯した。巡撫の鄒文盛が状況を上言し、かつ四川に文書を移して、官を会合させて鎮撫処置するよう請うたが、一年を過ぎても返答がなかった。文盛はそこで参議の蔡潮を播州に入らせ、致仕した楊斌を督してこれを鎮撫平定させた。そこで上言した、「安寧宣撫を復活させ、楊弘の子弟にこれを世襲させるべきである。楊斌はまだ衰えておらず、依然として起用して任事させ、諸蛮寨を制御させるべきである。蔡潮には蛮を鎮撫した功労があるので、適宜昇進させるべきである。」兵部が議した、「安寧はすでに廃止されており復活できない。楊斌の子がすでに代わっているので、起用することもできない。土官の応襲の可否は四川に属し、貴州が専断できることではない。文盛の請いは実行困難であるが、功績は否定できない。」十六年、楊斌に蟒衣玉帯を賜った。

嘉靖元年、播州儒学に『四書集註』を賜った。宣慰楊相の上奏に従ったのである。楊弘が死んだ後、その弟の楊張が職を襲うことを求めたが得られず、たびたび辺境を侵犯し、白泥司の印信を奪い、また楊相と兵を構えた。守臣は凱裏を貴州に改属させ、楊張を土知州としてこれを和解させるよう請うた。兵部が議した、「楊張は父兄の悪を習い、幸いにも罪を免れている。敢えて公然と印信を執って要挟するとは、川・貴の守臣に命じてその前後の財産争いや殺人などの諸罪を審理し、法に照らして処置すべきである。もし楊張が過ちを悔いて実情を申し出、奪った印を返還すれば、なお一官を量って授け、賊を討伐するよう調遣に従って自ら功を立てさせることもできる。もしも終わりまで悔い改めなければ、必ず誅殺して法を侮る戒めとすべきである。」その後、ついに楊張に宣撫を襲うことを許し、安寧を凱裏と改め、貴州に属させた。初め、楊相の祖父・父はいずれも嫡子と庶子の争いがあり、数世代にわたって禍いを招いた。この時、楊相はまた庶子の楊煦を寵愛した。嫡子の楊烈の母の張氏は、非常に悍ましく、楊烈とともに兵を盗んで楊相を追放し、楊相は逃走し、水西で客死した。楊烈は父の屍体を求めると、宣慰の安万銓が水煙・天旺の旧地を要求して挟み、その後で屍体を与えようとした。楊烈は表向きこれを承諾した。楊相の喪が戻ると、楊烈は約束の地を与えず、ついに水西と禍難を構え、またその長官の王黻を殺害した。これは嘉靖二十三年のことであった。楊烈が代襲した後、ついに王黻の与党の李保と兵を治めて互いに攻撃し、十年近くに及んだ。総督の馮嶽が総兵の石邦憲を調発して討伐平定させた。真州の苗の盧阿項もまた久しく乱を称していたが、邦憲は兵七千でこれを撃破した。賊が播州に援軍を求めたという情報があったが、邦憲は言った、「我らは今まさに水西の兵を調発し、楊烈が逆賊を助けた罪を声高に言いふらしている。楊烈に人を救う暇があろうか。」やがて阿項父子を擒え、四百余人を斬り捕らえた。初め、嘉靖初年、凱裏を貴州に分属させることを議したが、その後、また播州の地の多くが貴州の境内にあるため、ともに思石兵備に改属させた。真州の賊が平定され、地方が安靖になると、播州の人は不便であると考えた。川・貴の守臣の意見が分かれて決まらず、総督に命じて会勘させた。総督が上奏し、依然として播州を四川に帰属させ、貴州の思石兵備は引き続き播・酉・平・邑の諸土司の事を兼制することとし、返答は許可であった。

隆慶五年、楊烈が死に、子の応龍が襲職を請うたので、職を与えることを命じた。万暦元年、応龍に宣慰使の勅書を与えた。八年、故宣慰楊烈に祭葬を賜った。応龍の請いに従ったのである。十四年、応龍が大木七十本を献上した。材質が優れていたため、飛魚服を賜り、またその祖の楊斌が蟒衣を賜った例を引き合いに出した。部の議では、楊斌には軍功があり、かつ特別の恩典であったので、比べることはできないとした。帝は都指揮使の官銜をもって応龍に授けることを命じた。

十八年、貴州巡撫の葉夢熊が応龍の凶悪な諸事を疏で論じ、巡按の陳効が応龍の二十四大罪を列挙した。当時はちょうど松潘を防禦するため、播州の土兵を調発して協守させており、四川巡按の李化龍は暫く勘問を免じ、応龍に罪を戴いて功を立てることを図らせるよう疏を上請した。これにより、川・貴の撫按が疏で弁論し、蜀にある者は応龍に勘問すべき罪はないとし、黔にある者は蜀には応龍を私的に親しむ心があるとした。そこで給事中の張希臯らは、事柄が重大であり、両省の利害は漫然と無関係ではありえないとして、公平に会勘させ、既成の心構えに固執しないよう乞うた。十九年、夢熊が主導して議し、播州の管轄する五司を改土帰流し、すべて重慶に属させようとしたが、化龍の意見とまた対立した。化龍はそこで嫌疑を避けて斥退を求めた。そもそも応龍は元来雄猜で、兵を恃み殺戮を好み、管轄する五司七姓はすべて叛離していた。寵妾の田氏が妻の張氏を殺害し、その母にも及んだ。妻の叔父の張時照と配下の何恩・宋世臣らが変事を上告し、応龍の謀反を告げた。夢熊は兵を発してこれを剿滅するよう請うたが、蜀中の士大夫は皆、蜀は三方が播州に隣接し、属する裔族は十倍百倍の数に及び、皆その弾圧にあり、かつ兵はぎょう勇で、たびたび征調されて功績があり、剪除することは長策ではないと言った。このため、蜀の撫按はともに撫育を主張した。朝議は勘問を命じたが、応龍は蜀に赴くことを願い、黔には赴かなかった。

二十年、応龍は重慶に赴き対簿し、法に坐して斬に当たるも、二万金を以て贖うことを請う。御史張鶴鳴がまさに駁問せんとするに、倭が大いに朝鮮に入り、天下の兵を征するに会し、応龍は因みに奏して弁じ、且つ五千の兵を将いて倭を征し自ら贖わんことを願う。詔してこれを釈す。兵はすでに啓行すれども、尋いで罷むるを報ず。巡撫王継光至り、厳しく提勘して結ばんとすれども、応龍は抗して出でず。張時照ら復た闕下に詣りて奏す。継光の用兵の議遂に決す。二十一年、継光重慶に至り、総兵劉承嗣らと兵を分かち三道より婁山関に進み、白石口に屯す。応龍は佯り降を約し、而して苗兵を統べて関を据え衝撃す。承嗣の兵敗れ、殺傷大半に及ぶ。会に継光論ぜられて罷められ、即ち兵を撤し、委棄する輜重略ね尽くす。黔師協剿すれども、亦た功無し。時に四川新撫譚希忠は貴州鎮・撫と再び剿を議し、御史薛継茂は撫を主とす。応龍は上書して自ら白し、その党を遣わし金を携えて京に入り間を行い、原奏何恩を執りて綦江県に詣らしむ。

二十二年、兵部侍郎刑玠を以て貴州を総督せしむ。二十三年、玠蜀に至り、永寧・酉陽は皆応龍の姻媾なるを察し、而して黄平・白泥は久しく仇讐たり、宜しくその枝党を剪くべしとす。乃ち応龍に檄し、以て不死を待つべしと謂う。会に水西宣慰安疆臣が父国亨の恤典を請うに、兵部尚書石星手劄を以て疆臣に示し、応龍を趣して吏に就きて貰うを得しむ。疆臣は劄を奉じて播に至り応龍を招く。時に七姓は応龍の出でて罪を除かるるを恐れ、而して四方の亡命その間に竄匿し、又た龍の反を幸い、因みに以て利と為す。駅伝の文移、輒ち中より阻む。玠は重慶知府王士琦に檄し綦江に詣り、応龍を趣して安穏に聴勘せしむ。応龍は弟兆龍をして安穏に至らしめ、郵舎を治め、糒を儲え叩頭して郊迎し、餼牽を致すこと礼の如くし、言う「応龍は渠魁を縛し、松坎に待罪す。敢えて安穏に至らざるは、安穏の仇民の不測の禍に堕するを恐るるなり。幸いに松坎に至りて事を受くことを請う」と。士琦曰く「松坎も亦た曩に奏勘の地なり」と。即ち単騎にして往く。応龍果たして面縛して道傍にあり、泣いて死罪を請い、願わくは罪人を執り、罰金を献じ、自ら安国亨に比するを得んとす。国亨は、曩に亦た訐せられて罪を懼れ界を出でざりし者なり、故に応龍これを引く。士琦は玠に為に請う。これを許す。応龍乃ち黄元ら十二人を縛して献ず。案験し、応龍の斬に抵るも、贖を論じ、四万金を輸して采木を助けしめ、仍た職を革し、子朝棟を以て代えしむ。次子可棟は府に羈して贖を追う。黄元らは重慶市に斬る。総督以て聞す。時に倭気未だ靖まらず、兵部は応龍を緩め、東方の事にせんと欲す。朝廷も亦た応龍の向に積労有るを以て、その奏を可とし、松坎に同知を設けて治めしめ、士琦を以て川東兵備副使と為しこれを弾治せしむ。応龍は寛を得て、益々怙終して悛わず。尋いで可棟重慶に死す。益々痛恨す。喪の帰るを促すも得ず、復た檄して贖を完うす。大言して曰く「吾が子活けば、銀即ち至らん」と。兵を擁して千余の僧を駆り招魂して去る。土目を分遣し、関を署し険に据う。諸苗を厚く撫し、その健者を名づけて硬手と為す。州人稍々殷厚なる者は、その資を没入して以て苗を養う。苗人咸た死力を出ださんことを願う。

二十四年、応龍は余慶を残し、大阡・都壩を掠め、草塘・余慶二司及び興隆・都勻各衛を焚劫す。又たその党を遣わし黄平を囲み、重安長官の家を戮し、勢い復た大いに熾んず。二十五年、江津及び南川を流劫し、合江に臨み、その仇袁子升を索め、城より縋り下し、これを磔く。時に兵備王士琦は征倭に調され、応龍は益々苗兵を統べ、大いに貴州洪頭・高坪・新村諸屯を掠む。已にして、又た湖広四十八屯を侵し、駅站を阻塞す。原奏の仇民宋世臣・羅承恩らが家を挈きて偏橋衛に匿るるを詗い、襲い破る。大いに城中を索し、その父母を戮し、その妻女を淫し、備え極めて惨酷なり。

二十七年、貴州巡撫江東之は都司楊国柱に令し卒三千を部して応龍を剿ぎ、三百落を奪う。賊は佯り北し、師を誘いて殲す。国柱ら尽く死す。東之罷められ、郭子章を以て代え、而して李化龍を起して川・湖・貴州諸軍事を節制せしめ、東征の諸将劉綎・麻貴・陳璘・董一元を調して南征せしむ。時に応龍は大兵未だ集まらざるに乗じ、兵を勒して綦江を犯す。城中新たに募る兵三千に満たず、賊兵八万奄至す。遊撃張良ちょうりょう賢巷戦して死し、綦江陥る。応龍は城中の人を尽く殺し、屍を投じて江を蔽い、水赤となる。益々九股生苗及び黒脚苗らを結びて助けと為し、官壩に屯し、声は蜀を窺う。已にして、遂に東坡・爛橋を焚き、楚・黔の路梗まる。

二十八年、応龍は五道並びに出で、竜泉司を破る。時に総督李化龍は已に移り駐して重慶にあり、兵を征して大いに集まる。遂に二月十二日に誓師し、八路に分かれて進む。毎路約三万人、官兵三、土司七、旗鼓甲仗森列し、苗大いに驚く。総兵劉綎その前鋒を破り、楊朝棟僅かに身を以て免る。賊胆落つ。遂に連ねて桑木・烏江・河渡の三関を克ち、天都・三百落諸囤を奪う。賊連敗し、乃ち隙に乗じて突き烏江を犯し、詐りて水西隴澄の会哨と称し、永順兵を誘い、橋を断ち、将卒を淹死すること算無し。尋いで綎は九盤を破り、婁山関に入る。関は賊の前門たり、万峰天に插さり、中一線を通ず。綎は間道より藤を攀じ柵を毀ちて入り、陥る。四月の朔、師は白石に屯す。応龍は諸苗を率いて決死戦す。綎は親しく騎を勒して中堅を沖き、両翼を分かちて夾撃し、これを敗る。奔るを追いて養馬城に至り、連ねて龍爪・海雲の険囤を破り、海龍囤に圧す。賊の倚る天険にして、飛鳥騰猿も逾えられざる者と謂う。時に偏沅師は已に青蛇囤を破り、安疆臣も亦た落濛関を奪い、大水田に至り、桃溪荘を焚く。賊は勢い急なるを見て、父子相い抱きて哭し、囤に上り死守す。毎路投降の文を以て師を緩めんとす。総兵呉広は崖門関に入り、水牛塘に営し、賊と力戦すること三日、これを却く。賊は詭りて婦人を令し囤上に表を拝して痛哭せしめ云く「田氏且に降らん」と。復た応龍の薬を仰いで死せりと為して広に報ず。広は軽信して兵を按ず。已にして、賊の詐りなるを覗い、益々兵を厲して攻め、二関を焼き、賊の樵汲の路を奪う。八路の師は大いに海龍囤に集まり、遂に長囲を築き、更番して叠攻す。賊は必ず死すべきを知る。会に化龍は父の喪を聞く。詔して縗墨を以て師を視せしむ。化龍は賊の前に囤険にして越えられざるを念い、馬孔英に令し兵を率いて並力してその後を攻めしむ。天雨を苦しむ。将士は泥淖中に馳せて苦戦す。六月四日、天忽ち霽ゆ。綎は士卒に先んじ、土城を克つ。応龍は益々迫り、金を散じて死士を募り拒戦すれども、応ずる者無し。起ちて刀を提げて壘を巡る。四面の火光天を燭するを見て、大兵は已に囤に登り、土城を破りて入る。応龍は倉皇として愛妾二と共に室を闔いて縊り、且つ自ら焚く。呉広はその子朝棟を獲る。急ぎ応龍の屍を覓い、焰中より出す。賊平ぐ。師を出だすより賊を滅ぼすに至るまで、百十有四日、八路共に斬級二万余、生け捕り朝棟ら百余り。化龍は露布を以て聞し、闕下に俘を献じ、応龍の屍を剉き、朝棟・兆龍らを市に磔く。播州は唐より楊氏に入り、二十九世を伝え、八百余年、応龍に至りて亡ぶ。三十一年、播州の余逆呉洪・盧文秀ら叛く。総兵李応祥らこれを討ち平ぐ。播地を分かちて二と為し、蜀に属する者は遵義府と曰い、黔に属する者は平越府と為す。

永寧宣撫司

永寧は、唐代の藺州の地である。宋代には滬州の江安・合江二県の境であった。元代に永寧路を置き、筠連州及び騰川県を管轄し、後に永寧宣撫司と改めた。

洪武四年に蜀を平定し、永寧は内附し、永寧衛を置いた。六年、筠連州の滕大寨の蛮族編張らが叛き、雲南兵と詐称し、湖南の長寧などの州県を占拠したので、成都衛指揮の袁洪に討伐を命じた。洪は兵を率いて叙州慶符県に至り、清平関を攻め落とし、偽千戸の李文質らを生け捕りにした。編張は逃げ去り、再び兵を率いて江安などの県を犯した。洪はこれを追撃し、またその衆を破り、その九つの寨を焼き、編張の子の偽鎮撫張寿を捕らえた。編張は溪洞に逃げ隠れ、残党は雲南に散じた。帝はこれを聞き、洪に勅諭して言う、「南蛮は叛服常ならず、罪とすに足らず。既にその俘虜を獲たれば、宜しく軍に編入すべし。且つ境上に駐屯し、必ず兵をもってこれを震駭し、天威を詟かしめ、後患を遺すなかれ」と。間もなく、張は再び衆を集めて滕大寨を占拠したので、洪は兵を移して討ち破った。小芒部まで追撃し、張は逃げ去り、遂に花寨を取得し、阿普らを生け捕りにした。ここにおいて、張は再び出でることを敢えず、その寨は悉く平定された。ここにおいて筠連州を県に降格し、叙州に属させ、九姓長官司を永寧安撫司に隷属させた。

七年、永寧等処軍民安撫司を宣撫使司に昇格させ、秩は正三品とした。八年、禄照を宣撫使とした。十七年、永寧宣撫使禄照が馬を貢ぎ、詔して鈔幣・冠服を賜い、三年に一度の貢納を例の如く定めた。十八年、禄照は弟の阿居を遣わして朝貢し、近年の賦馬は皆既に納めたが、糧のみは数通りにできないと奏した。大軍の南征に縁り、蛮民は驚き逃散し、耕種は時を失い、加うるに兵後の疾疫で死亡する者多く、故に輸納が及ばないという。命じてこれを免除した。二十三年、永寧宣撫が言うには、管轄地の水路に一百九十の灘があり、その江門大灘には八十二箇所あり、皆石がその流れを塞いでいると。詔して景川侯曹震に往きてこれを疏鑿させた。二十四年、震は瀘州に至り巡視し、枝河が永寧に通じるのを確認し、ここにおいて石を穿ち崖を削り、以て漕運を通じさせた。

二十六年、禄照の子の阿聶に職を襲封させた。先に、禄照は事に坐して京師に逮送されたが、冤罪が晴れ、帰途で卒した。その子の阿聶と弟の智は皆太学に在ったので、ここにおいて庶母の奢尾に司事を署理させた。この時、奢尾が入朝し、阿聶に襲封させることを請うたので、これに従った。永楽四年、永寧の荒田の租を免除した。

宣徳八年、故宣撫阿聶の妻の奢蘇が朝貢した。九年、宣撫奢蘇が奏上して言う、「生員・儒生は皆土僚であり、朝廷の授けた官は言語が通じず、訓誨し難い。永寧の監生李源は資質厚く学に通じているので、雲南鶴慶府の例の如く、儒学訓導に授けられたい」と。詔してこれに従った。景泰二年、永寧宣撫司税課局の鈔を減免した。苗賊が窃発し、客商の通路が阻害されたためで、布政司の請いに従ったのである。

成化元年、山都掌大壩等寨の蛮賊が分かれて江安などの県を劫略し、兵部がこれを上奏した。二年、国子学録の黄明善が奏上して言う、「四川の山都掌蛮は屡年出没し、良民を殺掠している。景泰元年に招撫したがまた叛き、天順六年に撫綏したがまた反した。近く総兵の李安が永寧宣撫の奢貴に命じて大壩に赴き招撫させたが、また効果がなかった。恐らくは釁端を開いて已むことがないであろう。宜しく大兵の集まるに及び、早く定計を為し、辺患を醸成すべからず」と。三年、明善はまた言う、「宋代に多剛県蛮が寇した時、白芀子の兵を用いてこれを破った。白芀子とは、即ち今の民壮である。多剛県とは、即ち今の都掌多剛寨である。前代に郷兵を用いて明らかな効果があった。宜しく急ぎ民壮を募り、以て官軍を助くべし。都掌の水稻は十月に熟する。宜しく兵を督して先んじてその田禾を取れば、則ち三月の内に蛮は必ず飢えるであろう。軍は宜しく三路に分くべし。南は金鵝池より大壩を攻め、中は戎県より箐前を攻め、北は高県より都掌を攻める。小寨が破れれば、大寨は自ずから抜ける。また大壩の南百余里は芒部、西南二百里は烏蒙である。二府の土官に命じてその険要を遮断させよ。更に火器を用いて下より上へ、風に順って熱を延べれば、寨は必ず攻め落とせよう。且つ土兵を征調するには、処置を適宜に得るべく、民壮を募集するには、賞罰必ず信あるべし」と。詔して総兵官にこれを参酌して用いさせた。時に総督尚書の程信もまた奏上して言う、「都掌の地勢は険要であり、必ず土兵が道案内をせねばならない。東川・芒部・烏蒙・烏撒諸府の兵を勅命し、併せて速やかに湖広永順・保靖の兵を調発し、以て征遣に備えられたい」と。また南京の戦馬一千を応用することを請うた。皆許された。四年、信が奏上して言う、「永寧宣撫の奢貴が運道を開通させ、賊首を擒獲した。宜しく璽書を降してこれを褒賞すべし」と。これに従った。

十六年、白羅羅の羿子が都掌大壩蛮と相攻撃した。礼部侍郎の周洪謨が言う、「臣は叙州の人であり、叙州の蛮情を知る。戎・珙・筠・高諸県は、前代には皆土官であったが、国朝になって始めて流官に代えた。言語性情が習熟せず、変乱を激発させた。洪・永・宣・正の四朝、四度将を命じて征伐したが、服するに随い叛いた。景泰初年、益々蔓延し、今に至るまで禍根となっている。臣が以前嘗て言ったように、仍って土官を立ててこれを治め、久遠の計とすべきである。ところが都御史の汪浩が辺功を僥倖し、保挙した土官及び寨主二百余人を誣殺したので、諸蛮は怨み骨髓に入り、転じて劫掠をほしいままにした。及び尚書の程信が大兵を統率して、辛うじてこれを克服したのである。臣は謂う、今に及び蛮人の情に順い、その衆の推服する者を選び、大寨主となることを許し、世襲せしめれば、庶幾く相安ずるであろうと。また言う、「白羅羅とは、伝えられるところでは広西の流蛮であり、数千の衆があり、統属がない。景泰年中、戎・珙の苗を糾合し、長寧九県を攻め破った。今また都掌を侵擾している。その居住する所は、崖険しく箐深く、既に剪滅し難いが、亦た長官司を立ててこれを治めるべきである。地は芒部に近いので、宜しく即時にこれに隷属させるべし。羿子とは、永寧宣撫の管轄である。而して永寧は雲南・貴州の要衝であり、南は赤水・畢節に跨ること六七百里、一の柔弱な婦人が以て数万の強梁の衆を制しているので、故に毎度劫掠をほしいままにするのである。臣は以為う、宣撫の土僚は、仍って宣撫の奢貴にこれを治めさせるべし。その南境の寨蛮で赤水・畢節の要路に近い者は、宜しく二つの長官司を立て、仍って永寧宣撫に隷属させるべし。夫れ土官は職有りて俸無く、国儲を損なわず、辺備に益あり」と。これに従った。二十五年、永寧宣撫司の女土官の奢祿が大木を献上し、誥命を給すること例の如くとした。

万暦元年、四川巡撫曾省吾が奏上した、「都蛮が叛逆し、兵を発して征討するに当たり、土官奢効忠はまず調に在るが、しかし貴州土官安国亨と仇を有す。併せて総兵官劉顯に節制させ、復讐を口実として妄りに騒動を起こすことなからしむるを請う」と。これに従う。初め、烏撒は永寧・烏蒙・水西・沾益の諸土官と境を接し、また世戚として親厚であった。既にして安国亨が安信を殺すと、信の兄安智は永寧宣撫奢効忠と結んで仇を報い、互いに攻撃し合う。而して安国亨の部下の吏目は安智と親戚関係にあり、国亨に殺されることを恐れ、因って安路墨に投ず。墨は詐って土知府安承祖と称し、京に赴き代わりに上奏する。已にして国亨もまたその子安民に陳訴させ、奢効忠と共に川貴巡撫において審理を受けることを命ぜられる。議して蛮俗に照らし牛を罰して罪を贖わしむると報じ、可とされる。効忠死す、妻世統は子無く、妾世続は幼子崇周有り。世統は嫡として印を奪わんとし、互いに仇殺す。奏報の間、総兵郭成・参将馬呈文はその所有を利し、遽かに兵千余を発し、深く落紅に深入す。奢氏九世の積みし所、捜掠して一空とす。世続もまた兵を発してその後を尾う。効忠の弟沙卜は出でて拒戦し、且つ水西の兵を邀えて仇を報いんとす。成の兵敗績す、乃ち沙卜を世統に檄して取るも、統応ぜず、復た把総三人を殺し、苗兵万余を聚め、永寧を攻めて怨を泄らさんと欲す。巡按は成等が利を邀えて釁を起こしたことを劾し、逮うべきとす。而して二土婦に冠帯を与え、仍く地を分けて各その所属を管せしめ、その宣撫司の印は奢崇周の成立を俟ち、襲職して事を理するに赴かしむるを議す。報じて可とす。十四年、奢崇周職を代わる、未幾死す。

奢崇明は、効忠の親弟尽忠の子なり。幼くして孤、世統に依りて養育されること十三年。是に至り、之を永寧に送る、世続は之に氈馬を遺し、印を出して之に給するを許す。事既に定まるも、諸奸の閻宗伝等は自ら昔世統に従い世続を逐い、沙卜を殺したことを以て、崇明の立つは必ず前の恨みを復すを懼れ、遂に水西に附き、阿利を立てて自らを固めんとす。安疆臣は其の間に陰陽し、蛮兵四方に出で、屯堡を焚劫し、官兵之を禁ずる能わず。総督以て聞こゆ、朝議奢崇明に暫く宣撫事を管せしめ、崇明が夙恨を蠲きて人心を収めんことを冀う。而して閻宗伝等は永寧・普市・麾尼を攻掠すること旧の如し。崇明承襲すること幾一載、世続の印竟に与えず、且つ印を以て私に安疆臣の妻弟阿利にす。巡撫は都司張神武を遣わし世続を執り印を索む、世続は印は鎮雄の隴澄の処に在りと言う。隴澄とは、水西の安堯臣なり。隴氏垂絶せんとし、堯臣入り贅す、遂に隴姓を冒し、隴澄と称す。播州・叙州の功を叙するに、澄もまた与かる、中朝は其の堯臣たるを知らず。堯臣は外に播功を恃み、内に水西を仗り、鎮雄を据えて永寧を制せんとする心あり。蜀の撫按は堯臣が隴氏の種ならずとし、鎮雄を授くる意無し。堯臣は是を以て両端を懐き、陰に世続を助く。世続が阿利に授けられば、則ち己が鎮雄を据うること益々堅からんことを意とす。又朝廷は兵を厭い、宗伝・阿利等方に驛騒す、己は臥して隴氏を取るべしと。而して閻宗伝等は焚掠する毎に、必ず鎮雄の兵と称し、以て諸部を怖れしむ。川南道梅国楼の俘えし蛮醜の言うに、鎮雄は将魯大功を遣わし兵五営を督して大壩に屯し、水西の兵は已に馬鈴堡を渡り、永寧を攻むるを約し、普市遂に潰え、宗伝等は空城を以て棄て去ると。奢崇明また言う、堯臣の遣わす目把彭月政・魯仲賢の六大営は逆を助けて退かず、声言して将に叙南に抵り、永寧・滬州を攻めんとすと。ここにおいて総兵侯国弼等、皆悪を堯臣に帰す。都司張神武等の俘えし喚者・朗者は、皆鎮雄の土目、堯臣もまた解すること能わず。

黔中の撫按は西南多事、兵食俱に詘くを以て、鎮雄を取る意無し。堯臣因って普市・摩尼の諸焚掠を、皆蜀将に帰す。議者は遂に貪功起釁を以て、蜀将の罪と為す。四川巡撫喬璧星言う、「堯臣狡謀、鎮雄を篡せんと欲し、蘭地に垂涎すること年有り。宗伝の背逆は鎮雄を恃み、猶鎮雄の水西を恃むが如し。水西の疆臣は兵を助けず、臣已に其の状を得たり、宜しく逆孽未だ成らざるに乗じ、貴州の撫按に兵を調えて臣と会剿せしむべし。倘し堯臣旧の如く悪を稔らさば、臣即ち師を移して之を撃ち、摧かざる虺の復た蛇と為り、窒がざる罅の復た河と為る毋からしむべし」と。疏上るも、廷議敢えて決して師を用うる者無し。久しくして、阿利死し、印も亦出づ、蜀中の堯臣を逐わんとする論、卒に解くべからず。時に播州清疆の議方に沸騰し、黔・蜀各紛紛たり。是に至り、永寧の兵を議すること又聚訟の如し。時に朝廷は已に一意兵を休めんとす。三十五年、奢世続を釈し、閻宗伝等の罪を赦し、隴氏の子孫を訪求して鎮雄の後と為すを命ず。併せて安疆臣に堯臣を約束して本土司に帰らしめ、遥かに職銜を授くるを聴き、隴職を冒襲するを許さず。ここにおいて宗伝降り、堯臣避けて去らんことを請い、黔督遂に師を撤せんことを請う。旧制、永寧衛は黔に隷し、土司は蜀に隷す。水・蘭交攻してより、軍民激変し、奢崇明立つと雖も、而行勘未だ報ぜず。摩尼・普市の千戸張大策等復た永寧宣撫を土より流に改めんことを請う。兵部言う、故無くして流に改むるは、崇明を何の地に置くやと、速やかに前勘の諸案を完うせしむるを命ず。ここにおいて蜀撫は張大策を以て城池を失守せる罪に擬し、斬に応ず、黔撫は張神武を以て擅に兵を劫掠せる罪に擬し、罪亦斬に応ずとす。策は黔人、武は蜀人なり。ここより両情皆平らかならず、諸臣自ら相構訟し、復た紛結して解けず。会して奢崇明の子奢寅と水西の已故土官の妻奢社輝と地を争う、安の兵馬は奢の十倍、而して奢の兵精し、両相持す。蜀・黔の撫按之を制する能わず、以て状を聞こゆ。四十八年、黔撫張鶴鳴は赤水衛白撒の屯する所の地を永寧に占拠せられしを以て、宜しく清還すべしとし、皆勘を待ちて未だ決せず。

天啓元年、崇明は馬歩兵二万を調発して遼東を援けんことを請う、これに従う。崇明と子の寅は久しく異志を蓄え、兵を調発して遼東を援けることに藉口し、その婿の樊龍・部党の張彤らを遣わし、兵を率いて重慶に至り、久しく駐屯して発たず。巡撫徐可求は重慶に移鎮し、永寧の兵を促す。樊龍らは行糧を増すを名として機に乗じて反し、巡撫・道・府・総兵などの官二十余員を殺し、ついに重慶を占拠す。兵を分かち合江・納溪を攻め、滬州を破り、遵義を陥とし、興文知県張振德これに死す。興文はもと九絲蛮の地なり。進んで成都を囲み、偽って大梁と号し、布政使朱燮元・周著、按察使林宰は門を分かち固守す。石砫土司の女官秦良玉は弟の民屏・甥の翼明らを遣わし、兵四千を発し、道を倍して兼行し、密かに重慶を渡り、南坪関に営す。良玉は自ら精兵六千を統べ、江に沿って上り成都に趨る。諸々の援兵もまた漸く集まる。時に寅は城を攻むること急にして、密かに劉勲らを内応として納るるも、事覚えて誅せらる。また雲梯及び旱船を造り、昼夜城に迫るも、城中もまた砲石をもってこれを撃ち毀つ。百日相持つうち、賊将羅乾象が人を遣わして款を輸し、願わくば賊を殺して自ら効わんとす。この夜、乾象は火を放ちて営を焚き、賊兵乱れ、崇明父子は倉皇として奔り、銭帛穀米は山積みに委棄され、窮民これによりて活くを得たり。乾象はここにおいてその党の胡汝高等を率いて来降す。時に燮元はすでに巡撫を授けられ、川卒を率いて崇明を追い、江安・新都・遵義諸郡邑は皆復す。時に二年三月なり。樊龍は余衆数万を収め、重慶の険塞を占拠す。燮元は良玉らを督して二郎関を奪わしめ、総兵杜文煥は仏図関を破り、諸将は重慶に迫って軍す。奢寅は賊党の周鼎らを遣わし分道して来援す、鼎敗走し、合江の民に縛せらる。官軍は平茶・酉陽・石砫の三土司と合して重慶を囲み、城中食乏し。燮元はここにおいて計をもって樊龍を擒え、これを殺し、張彤もまた乱兵に殺され、生け捕りに龍の子友邦及びその党の張国用・石永高等三十余人、ついに重慶を復す。

時に安邦彦は貴州に反し、崇明は遥かにこれに倚りて声援とす。三年、川師は遵義を復し、進んで永寧を攻め、土地坎にて奢寅に遇い、兵を率いて搏戦す。大兵奮撃し、これを敗る。寅は創を被りて遁れ、樊虎もまた戦死す。進んでその城を克ち、賊二万を降す。進んで紅崖・天臺諸々の囤寨を抜き、降る者日に至る。崇明の勢い益々蹙り、水西に救いを求め、邦彦は十六営を遣わし河を渡ってこれを援く。羅乾象急ぎ蘭州を破り、九鳳楼を焚き、その巣を覆す。崇明踉蹌として走り、水西に投ず。邦彦と合兵し、分かれて遵義・永寧を犯す。川師はこれを芝麻塘に敗り、賊は青山に遁れ入る。諸将は渭河に逼り、鏖いて龍場陣に入り、崇明の妻安氏及び奢崇輝らを獲、斬獲万計に及ぶ。蘭州平ぐ。総督朱燮元は赤水河を以て界とし、河東の龍場は黔に属し、河西の赤水・永寧は蜀に属せしむることを請う。永寧に道・府を設け、遵義・建武と声勢を聯絡せしむ。未だ幾ばくもせず、貴州巡撫王三善は邦彦に襲われて死し、崇明の勢い再び張り、将に春を逾えて大いに挙り永寧を寇せんとす。会に奢寅はその下の者に殺され、また燮元もまた父喪により去り、崇明・邦彦は誅を稽えらる。崇明は大梁王と称し、邦彦は四裔大長老と号し、諸々元帥と称する者数え勝えず、合兵十余万、先ず赤水を犯さんと規す。崇禎初め、燮元を起して総督貴・湖・雲・川・広諸軍務とし、大いに会師す。燮元は計を定めて賊を誘い深く永寧に向かわしめ、五峰山桃紅壩にてこれを邀え、総兵侯良柱に命じて大いにこれを敗らしめ、崇明・邦彦皆首を授く。この役は、蜀・黔数十年の巨憝を掃蕩し、前後皆燮元の功なりという。

酉陽宣撫司

酉陽は、漢の武陵郡酉陽県の地、宋は酉陽州なり。元は懐徳府に属す。洪武五年、酉陽軍民宣慰司冉如彪は弟の如喜を遣わして来朝貢す。酉陽州を置き、如彪を以て知州とす。八年に宣撫司に改め、仍って冉如彪を以て使とす。平茶・邑梅・麻兎・石耶の四洞長官司を置き、楊底綱・楊金奉・冉徳原・楊隆を以てこれに当たらしめ、毎三年一たび入貢す。石耶は親しく京に至ること能わず、命じて酉陽に附せしむ。二十七年、平茶洞署長官楊再勝は、兄の子正賢及び洞長楊通保らを謀殺せんとす。正賢らこれを覚り、京師に逃れ至り、その事を訴え、かつ再勝が景川侯と謀反すと言う。帝は命じて再勝を逮えこれを鞫く、再勝辞服し、族誅に当たり、正賢もまた縁坐すべきなり。帝は再勝を誅し、正賢を釈し、長官を襲わしむ。酉陽宣撫冉興邦は職を襲うことを以て来朝し、命じて渝州に改めて隷せしむ。

永楽三年、指揮丁能・杜福は亞堅等十一寨の生苗一百三十六戸を撫諭し、各々その子を遣わして入朝せしめ、命じて酉陽宣撫司に隷せしむ。四年、酉陽の荒田租を免ず。五年、興邦は部長の龔俊らを遣わして方物を貢し、並びに儒学を立てしめし恩を謝す。

景泰七年、宣撫僉事冉廷璋の兵を調発し、五開・銅鼓の叛苗を征し、勅諭を賜い賞賚す。天順十三年、宣撫冉雲に散官一階を進めることを命ず、叛苗を討ち助け及び石全州を擒えたる功によるなり。

弘治七年、宣撫冉舜臣は貴州の叛苗を征したる功を以て、職を升らんことを乞う。兵部は例に非ずとし、舜臣の階を明威将軍に進め、勅を賜いこれを褒むることを請う。十二年、舜臣は宋農寨蛮賊が諸寨洞蛮を糾脅し、殺掠焚劫すと奏し、剿捕を乞う。保靖・永順の二宣慰もまた奏し、邑梅副長官楊勝剛父子が酉陽を謀り据え、俊倍洞長楊広震らと結び、宋農・後溪諸蛮を号召し、兵を聚めて殺掠すと、併せて討たんことを請う。兵部議うに、酉陽の溪洞連絡し、煽動し易く、宜しく即時に撲滅すべく、鎮巡官に行い機宜を酌ましむることを請う。十四年、酉陽の兵五千を調発し、貴州の賊婦米魯を協剿せしむ。

正徳三年、酉陽宣撫司護印舎人冉廷璽及び邑梅長官司は奏し、湖広鎮溪所の洞苗が衆を聚めて攻劫し、兵を請いて剿捕せんとす。八年、宣撫冉元は大木二十を献じ、男の維翰が職を襲い京に赴くことを免ぜんことを乞う、これに従う。二十年、元は再び大木二十を献じ、詔して量りに服色を加えて酬賞す。

万暦十七年、宣撫冉維屏は大木二十を献じ、価は三千を逾ゆ。工部議うに、応に従三品の服を加え、以て土官の誠を輸するを勧むべし、これに従う。四十六年、酉陽の兵四千を調発し、宣撫冉躍龍に命じてこれを将い遼東を援けしむ。四十七年、躍龍は子の天胤及び文光らを遣わし兵を率いて遼陽に赴かしめ、虎皮・黄山等の処に三載駐屯し、奉集の囲みを解く。再び瀋陽を援け、渾河に利あらずして、冉見龍戦没し、死者千余人。撤して遼陽を守り、また降敵の火を放つに因り、冉文煥ら戦没し、死者七百余人。兵部尚書張鶴鳴言う、「躍龍は子弟を遣わし万里勤王し、見龍は既に身を殺して国に殉じ、躍龍はまた自ら金二千両を捐て、軍器を山海関に運び、困を振い魂を招く、忠義嘉むべし。臣が貴州に在りし時、躍龍もまた自ら餉を捐て紅苗を征し、屡々奇功を建つ。今また辺に節を著す、宜しく優恤を加え、以て諸辺を風せしむべし」。

天啓元年、躍龍に宣慰使を授け、妻舒氏と共に誥命を賜い、なお陣歿した千七百余家を撫恤した。二年、奢崇明が叛くと、躍龍は援軍を率いて重慶を包囲した。崇明が誅せられた後、その土舎冉紹文も功績があった。四年、躍龍は東西に赴き調に応じて命を尽くしたことを理由に、弟の見龍及び諸々の陣歿者のために賞賜と撫恤を請うた。命は所司に下された。崇禎九年、宣慰使冉天麟が上疏して言う、「庶子の天胤が偽りの詔旨を借りて臣の爵位と土地を奪おうと謀り、果たせず、勝手に兵を起こして殺害した」。これを撫按に下して調査させた。当時蜀は盗賊を憂えており、大吏は自らのことで手一杯で、土官の事柄は多く放置されたという。

石砫宣撫司

石砫は、石潼関と砫薄関によって名付けられた。後周は施州を置いた。唐は青江郡と改めた。宋末、石砫安撫司を置いた。元は石砫軍民府と改め、まもなく安撫司に戻した。

洪武七年、石砫安撫使馬克用がその子付徳と同知陳世顕を遣わして入朝し、産物を貢納した。八年、石砫安撫司を宣撫司に改め、重慶府に隷属させた。十六年、石砫溪の蛮が施州を寇し、黔江守禦の官軍がこれを撃破した。十八年、石砫宣撫同知陳世顕が子の興潮らを遣わして表を奉り産物を貢納し、来年の正旦を賀した。二十四年、石砫宣撫同知陳興潮とその子文義に白金百両を賜うた。散毛洞征討に従軍して功績があったためである。

宣徳五年、宣撫馬応仁の子鎮を宣撫に任じる命を下した。初め、応仁は罪があり死に当たったが、許されて流刑に減じられた。この時、帝はその祖父克用がかつて先朝に尽力したことを思い、その子孫の良き者を求めて用いるよう命じた。故にこの命があったのである。

成化十八年、四川巡撫孫仁が上奏した、「三月内に盗賊三百人が石砫に入り、宣撫馬澄及び隷卒二十余人を殺し、焼き掠めて去った。石砫の地が酆都に隣接し、互いに銀場を争って告訴し合い、有司がこれを区処しなかったため、仇殺に至った」。有司に賊を捕らえるよう責める命を下した。孫仁が上奏した、「石砫は毎年鉛課五千一百三十斤を納めていたが、正統以後は停止されていた。隣境の軍民が課税を徴収する口実で、機に乗じて窃取し、禍の端を醸成した。その課を除き、その洞を閉鎖し、なお忠州臨江巡検司を酆都南賓里の姜池に移し、防衛を便利にすべきである」。これに従った。この年、馬徽を宣撫に任じる命を下した。

万暦二十二年、石砫の女土官覃氏が宣撫の職務を行った。土吏馬邦聘がその印を奪おうと謀り、その党の馬鬥斛・鬥霖らと共に、数千の衆を集めて覃氏を包囲し、公私の廬舎八十余所に放火して焼き、殺戮略奪して一空にした。覃氏が上書して言う、「臣はかつて疊・茂に従軍し、大雪山で賊を撃ち、首を斬り賊を捕らえ、いずれも功績を挙げ、たびたび上官の賞賛を受けた。今、邦聘は理由なく孤児寡婦を殺害した。臣は一旅の兵を出して彼と勝負を争えないわけではないが、朝廷の命令でないことを誠に恐れ、敢えてしなかった。今、叛人がここにいる。先年の楚金洞舎覃碧が謀反を企てた事例に倣い、邦聘と共に役人のもとに赴くことを願う」。二十三年、四川の巡撫・按察使にその獄を審理させたが、事は決せられなかった。折しも楊応龍が播州で反逆すると、覃氏は応龍と姻戚関係にあり、また鬥斛も応龍と結んだため、両家は形勢を観望し、獄は遂に解かれた。覃氏は知略に富んだが、性は淫らで、故に応龍と通じた。長子の千乗は愛されず、次子の千駟を寵愛し、応龍を頼りにできると考え、その娘を千駟の妻に聘した。千駟は播州に入り、応龍と共に反逆した。千乗は馬氏の爵を襲い、徴発に応じて酉陽の冉禦龍と共に応龍を征討した。応龍は敗れた。千駟は誅殺され、千乗は従前通り宣撫となった。千乗が卒すると、妻の秦良玉は功績により夫人に封ぜられ、独自の伝がある。