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明史
列傳第二百〇二 雲南土司二
◎雲南土司二
○姚安・鶴慶・武定・尋甸・麗江・元江・永昌・新化・威遠・北勝・灣甸・鎮康・大侯・瀾滄衛・麓川
姚安
姚安は、本来漢代の弄棟・蜻蛉の二県の地である。唐代に姚州都督府を置き、民に姚姓が多いことによる。天宝年間、南詔の蒙氏が弄棟府と改めた。宋代、段氏が姚州と改めた。元代に統矢千戸所を立て、天暦年間に姚安路に昇格した。
洪武十五年、雲南を平定し、府に改めた。十六年、姚安の土官自久が乱を起こした。官兵が討伐に向かい、軍は九十九荘に駐屯したが、自久は逃げ去った。翌年、再び品甸を寇した。西平侯沐英が奏上し、土官の高保を姚安府同知に、高惠を姚安州同知に任じた。保と惠は英に従って自久を撃ち、これを平定した。二十年、普定侯陳桓と靖寧侯葉升を命じて雲南に赴かせ諸軍を総制させ、定辺・姚安などの地に営を立て屯田させた。二十六年、保は職を襲うにあたり、その弟を遣わして馬を貢ぎ謝恩した。
宣徳九年、姚安土知府の高賢が使者を遣わして馬を貢いだ。弘治年間、土官の高棟が普安の叛賊と戦い、板橋駅で戦死した。嘉靖三十年、土官の高鵠は元江の変事の際、布政司徐樾が害されたとき、奮身して救いに向かい、その地で死んだ。万暦年間、同知の高金は緬甸征討の功により、四品の服を賜った。所属する大姚県に、鉄索箐という者がいた。本来は倮種である。山険に依り、剽掠を業とし、近隣の郡は皆その害を受けた。弘治年間、少し帰順する者があり、姚安と姚州に分属させた。嘉靖年間になって、専ら姚安に属させた。その渠帥の羅思という者は幻術を持ち、偽印を造って乱を称した。万暦元年、巡撫鄒応龍と総兵官沐昌祚が討伐して平定し、諸郡はようやく安堵した。
鶴慶
鶴慶は、唐代に鶴川と称し、南詔が謀統郡を置いた。元代初期、鶴州を置いた。至元年間、鶴慶府に昇格し、まもなく路に改めた。
洪武年間、大軍が雲南を平定し、兵を分けて三営・万戸砦を抜き、偽参政の宝山帖木児ら六十七人を捕らえた。鶴慶府を置き、土官の高隆に府事を署理させた。十七年、董賜を知府に、高仲を同知に、賜の子の節を安寧知州に、楊権を剣川知州に任じた。賜はその配下を率いて来朝し、馬及び方物を貢ぎ、詔して冠帯並びに織金文綺・布帛・鈔錠を賜った。十八年、賜を雲南前衛世襲指揮僉事に任じた。賜は安寧州の人で、代々酋長であった。大軍が滇に入ると、衆を率いて来降し、さらに軍に従って賊を討ち功績があったので、子の節と共に世襲の知府・知州の命を受けたのである。賜が来朝したとき、父子共に顕栄を受け、仰いで報いる術がない、子は幼く、政治に通じていないので、父子の授かった官を返上し、自らは安寧知州となりたいと願い出た。帝は言った、「お前は辺境を綏靖できるゆえ、官を授けて勲功に報いたのだ。今、尊きを辞して卑しきに居ようとするのは、どうしたことか」。潁国公傅友徳及び諸大臣に議させた。皆、賜は既に功績があるので、その辞任を許すべきでないが、節の官は免じてもよいとした。そこで賜を明威将軍雲南前衛世襲指揮僉事に改任し、諭して言った、「雲南前衛は安寧に密接している。特に爾にこの職を命ずる。爾は遠人を綏輯し、以て辺境を安んぜよ。再び辞するなかれ」。
二十年、剣川土官の楊奴が叛いた。大理衛指揮の鄭祥がこれを討ち、八十余人を斬り、楊奴は逃げた。間もなく、剣川に戻り、再び蛮を集めて乱を起こしたので、祥は再び兵を以て撃ち斬った。二十四年、鶴慶衛を置いた。三十年、鶴慶府を軍民府に改めた。永楽十五年、順州知州の王義が言うには、「聖化に沾うこと三十余年、声教の届くところ、言語次第に通じ、子弟にも俊秀あり、学を建てて教育を請う」。従った。
正統二年、副使の徐訓が奏上した、鶴慶土知府の高倫が弟の純と共に屡々兇悪を逞しくし、士庶を屠戮し、母の楊氏及び叔父の宣と互いに賊害し合っていると。黔国公沐昂に勅して輸款させるよう諭させ、もし強を恃んで服さなければ、即ち軍を調発して擒捕せよとした。五年、再び昂らに勅して言う、「近頃聞くところによれば、土知府高倫の妻劉氏が倫の弟の高昌らと共に、羅羅・麼些の人衆を糾集し、兇暴を肆にしている。事が発覚しても、逮訊に従わない。勅が至り次第、即ち官を委して彼の地に至らせ実情を勘らせ、量りに官軍を調発して首悪を擒捕し、併せて千戸の王蕙及び高宣らを京師に逮送し質問せよ」。八年、鶴慶の民楊仕潔の妻阿夜珠が、倫がその子を謀殺したと告発したので、再び法司に命じて文書を移し勘験させた。やがて大理衛千戸が奏報した、倫が擅かに軍馬を率いて親母を謀害しようとし、またその母が倫の不孝及び私的に民財を徴収し、多く兵器を造り、軍民を殺戮し、支解して梟令するなどの罪を告げていると。そこで黔国公沐晟らに勅して再調査させた。奏上が届くと、倫の犯した罪は皆事実であり、罪は死に応ずると言う。倫は再び屡々訴え、叔父の宣と襲職を争い、また千戸の王蕙と妾を争って娶ったため、仇を挟んで誣陷されたのであると。調査された殺害事件は、皆病死した者及び強盗で逮捕に抵抗した者であると。倫の母の楊もまた訴える、倫に不孝はなく、実に宣らの陥穽によるものであると。再び晟及び御史の厳恭に勅して確実に訪ねさせた。やがて奏上して、倫らは皆誅に伏すべきであるとした。高氏の族人に継ぐべき者なく、帝は流官の中から人を選び、遠蛮を綏撫せよと命じた。そこで瀘州知府の林遒節を抜擢して知府とした。鶴慶が流官に改まるのはここに始まる。
武定
武定は、南詔三十七部の一つである。宋代の淳熙年間、大理の段氏が阿歴を羅武部長とした。三伝して矣格に至り、元世祖の時に当たり、北部土官総管となった。至元七年、武定路に改め、南甸県を置いた。
洪武十四年、雲南が平定されると、武定の女土官商勝が率先して帰順した。十五年、武定軍民府と改め、勝に府事を代行させた。十六年、勝は人を遣わして来朝し、馬を貢いだ。詔して勝に誥命・朝服及び錦幣・鈔錠を賜う。十七年、和曲の土官豆派を以て知州とする。二十一年、内帑を発し、武定・徳昌・会川等の諸処において、馬三千匹を買わせた。宣徳元年、元謀県の故土知県吾忠の子政が来朝した。
正徳二年四月、武定に雹が降り、溪水が漲り堤を決壊して田を損ない、霜露が降りて麦を殺した。七月、武定所属の南甸県を廃し和曲州に改めて隷属させ、石旧県を廃し禄勧州に改めて隷属させた。三年、土知府鳳英は従征の功により、位階を進めて右参政とし、なお知府事を兼ね、金帯の賜与を請うたが、部議は不可とした。帝は英に軍功あるを以て、これを給うた。明年、英は馬を貢いで謝恩し、例の如く賜う。
嘉靖七年、土舎鳳朝文が乱を起こした。同知以下の官吏を殺し、州印を奪い、兵を挙げて尋甸の賊安銓と合流し雲南府を犯し、撫臣がこれを上聞した。時に安銓は未だ平定せず、朝文がまた起こり、滇中大いに擾乱す。詔して右都御史伍文定を兵部尚書とし、雲・貴・川・湖の軍務を提督させ、四鎮の土漢官軍を調発して賊を討たしむ。五月、黔国公沐紹勛が疏を上りて言う、「臣は命を奉じ巡撫等と会同し官軍を調発し、分道して剿撫す。諸賊は抗逆し、遣わした官軍二人を拘留し、調集した各土舎は、また重ねて自ら疑畏す。臣は謹んで便宜を以て榜示し、先ず冠帯を与え、後に奏請して承襲を待つとし、衆は始めて感奮す。二月に進兵し、強賊十余人を撃斬し、賊は武定に奔り帰る。部に勅して臣に方略を授け、便宜行事を得させ、併せて各土舎の往時の罪を宥し、凡そ功ある者は、俱に承襲を許し、その敵愾の気を振るわしむべし」。帝これを納れ、勅を賜い奨励す。賊は既に敗れて帰り、その党は稍々散ず。初め、朝文はその衆を欺き、武定知府鳳詔母子は既に誅戮され、朝廷は武定の蛮衆を尽く剿滅せんとすと謂う。ここに至り、鳳詔が母と共に衆を率いて会城より来たり、蛮民は相顧みて錯愕し、皆鳳詔に投じて降る。朝文は計る所なく、普渡を渡りて走り、官兵が追い及び、またこれを破る。朝文は家奴数人を率い、沾益州を取って通り、東川の湯郎箐に奔り至り、追兵に及ばれ、磔死す。銓の衆は猶盛んで、遁れて尋甸の故巣に拠り、数十の寨を列ねる。官兵は分哨してこれを挟攻し、諸寨は先後に破れ、乃ち力を併せてその必古の老巣を攻め抜く。銓は東川に奔り、芒部に入り、土舎禄慶に捕らえられ、賊平ぐ。この役に、渠賊千余人を生擒し、二千九百余級を斬首し、男女千二百人を俘獲し、蛮党二万有余を撫散し、器械牛馬を奪うこと算なし。捷報聞こえ、銓・朝文は皆梟示し、その産を籍没し、家属は辺境に戍す。
十六年、土知府瞿氏に命じて印を掌らしむ。初め、府印は洪武以来俱に土官が掌る。正徳年間、有司が議して流官の同知に与えんとし、土知府の職は専ら巡捕・征糧のみとす。鳳詔の死に及び、瞿氏は母として子の官を襲ぎ、その管轄する四十七馬頭阿臺等、数度にわたり印を瞿氏に属せしむることを請う。吏部が覆言す、旧例に係る、宜しくその請いの如くすべしと。これに従う。
四十二年、瞿氏老いて、鳳詔の妻索林を挙げて自らに代わらしむ。索林が襲ぐに及び、遂に姑に事える礼を失う。瞿氏大いに恚り、乃ち異姓の児継祖を収めて鳳氏の宗に入れ、その甥婿貴州水西の土舎安国亨・四川建昌の土官鳳氏の兵力を挟み、索林を廃し、継祖を嗣がしめんと欲す。成らず、乃ち疏を具して自ら索林に囚禁されしと称し、継祖をして闕に詣でてこれを告げしむ。継祖帰り、朝命を受けて職を襲ぐと詐称し、目兵を駆りて府印を逼奪す。索林は印を抱きて会城に奔る。撫按官これを諭解す。索林は武定に帰り、事を視ること故の如くし、而してまた継祖をして瞿氏の所に留まることを聴す。ここにおいて婦姑の嫌隙益々甚だし。索林は継祖を誅せんと謀るも、事泄れ、継祖は遂に大いに兵を発して府を囲み、和曲・禄勧等の州県を行劫し、調至の土官王心一等の兵を殺傷す。索林はまた印を抱きて雲南に走る。巡撫曹忭が命を下して印を収め、その左右の鄭竤を逮えて獄に繫ぎ、瞿氏に暫く府事を理めしむ。継祖を赦し、その自新を責む。
四十四年、府通判一員を添設す。四十五年、武定の新城を築き成る。巡撫呂光洵が鄭竤を遣わして府に回らせ復業せしむ。鄭竤とは、前に索林のために継祖を謀殺せんとせし者なり。継祖はこれを捕らえて殺し、衆を糾合して新城を攻む。臨安通判胡文顯が百戸李鰲・土舎王徳隆を督して往き援け、鶏渓子の隘に至り、伏兵に遇い、鰲及び徳隆俱に死す。僉事張澤が尋甸の兵二千余を督して馳せ救うも、また敗れ、澤及び千戸劉裕は捕らえらる。鎮巡官が諸道の兵を促して並進し、継祖を東山寨に逼り、これを囲む。継祖懼れ、澤及び索林を携えて照姑に走る。已にして、また澤を殺す。官軍の追撃急なり、直勒より江を渡り、四川に趨り、東川の婦家阿科等に依る。巡按劉思問が状を以て聞こえ、雲南・四川に勅して兵を会して賊を討たしむ。
初め、継祖が東川に走りし時、土官鳳氏これと通ず。已にして滇・蜀の官軍と土舎禄紹先等の兵が皆会するを見て、乃ち継祖に背き、卒七千人を発して来援し、継祖は益々窮す。賊帥者色が紹先の営に赴き降り、継祖を斬って献ず。姚県の土官高継先がまたその余党を擒え、姚安府同知高欽及びその弟鈞、謀主趙士傑等は皆誅せらる。守臣が流官を改設するを議すも、猶鳳氏を絶たんと欲せず、索林の支属鳳歴の子思堯に経歴を授け、荘百余を給う。鳳歴は知府を得ざるを以て怨望し、陰に四川七州及び水西宣慰安国亨と結び謀りて乱を作らんとす。流官知府劉宗寅が遣わしてこれを諭すも聴かず、遂に衆を聚めて思堯を知府と称し、夜に府城を襲う。城中厳備して入ること能わず、退きて魯墟に屯す。宗寅は夜に兵を出し、その営を砍ち、賊潰え、馬刺山に追い至り、鳳歴を擒え、誅せらる。
万暦三十五年、継祖の甥阿克は久しく金沙江の外に徙り居たり。賊党鄭挙等が阿克を誘いて乱を起こし、陰に江外の会川諸蛮と結び、直ちに武定を陥し、大いに劫掠す。連ねて元謀・羅次等の諸城を破り、府印を索む。時に流官知府は印を携えて会城にあり、得ること能わず。賊は印無きを以て号召し難く、推官を劫い、冠帯・印信を請う。鎮撫は兵未だ集まらざるを以て懼れ、人を差して府印をこれに授く。賊は武定に退き入り、阿克を立てて知府とす。鎮撫は土兵を調集し、五路に分かれて進剿し、武定・元謀・羅次・禄豊・嵩明等の州県を克復し、阿克及びその党を擒えて京師に至り、市で磔く。武定平ぎ、遂に悉く流官を置く。
尋甸
尋甸は、古の滇国の地であり、獛刺蠻がここに居住し、仲紥溢源部と号した。後に烏蠻の裔である斯丁に奪われ、斯丁部と号した。蒙氏はこれを尋甸とし、段氏に至り、仁徳部と改めた。元の初め、仁徳萬戸を置き、後に府と改めた。洪武十五年、雲南を平定し、仁徳の土官阿孔らが馬及び方物を貢ぎ、尋甸軍民府と改めた。十六年、土官安陽が来朝し、馬及び虎皮、氈衫等の物を貢ぎ、詔して衣服、錦綺、鈔錠を賜う。十七年、尋甸の土官沙琛を以て知府と為す。二十三年、木密関守禦千戸所を尋甸の甸頭易龍駅に置き、また屯田所を甸頭裏果馬裏に置き、連絡して耕種し、以て辺備と為す。是れより後、土官は皆期を按じて入貢す。
成化十二年、兵部奏す、土官の舍人安宣が衆を聚めて殺掠すと。鎮守官に命じ、相機に撫捕せしむ。十四年、土知府安晟死す、兄弟襲職を争い、遂に流官を改めて置く。嘉靖六年、安銓乱を作す、乃ち土舍の失職する者なり、嵩明、木密、楊林等の処を侵掠す。巡撫傅習、守巡官に檄してこれを討たしむ、大いに敗れ、賊遂に尋甸、嵩明を陥とし、指揮王升、唐功等を殺し、知府馬性魯城を棄てて走る。時に武定の鳳朝文叛し、銓これと合す、久しくして伏誅す、事は前伝に詳し。
麗江
麗江は、南詔蒙氏麗水節度を置く。宋の時、麽些蠻の蒙醋これに拠る。元の初め、茶罕章宣慰司を置く。至元中、改めて麗江路軍民総管府を置き、後に宣撫司と改む。洪武十五年、麗江府を置く。十六年、蠻長木德来朝し馬を貢ぎ、木德を以て知府と為し、羅克を蘭州知州と為す。十八年、巨津の土酋阿奴聰叛し、石門関を劫い、千戸浦泉戦死す。吉安侯陸仲亨、指揮李栄、鄭祥を率いてこれを討ち、賊戦いに敗れ、山谷に遁れ、捕獲してこれを誅す。時に木德従征し、また西平侯沐英に従い景東、定辺に征し、皆功有り、世襲を予う。二十四年、木德死し、子の初襲職すべし。初め巨津州石門関を守り、西番と境を接す。既に職を襲い、英請う、初の弟の虧を以て千夫長と為し、代わって石門を守らしむと、これに従う。二十六年十月、西平侯沐春奏す、麗江の土民毎歳白金七百六十両を輸す、皆麽些洞の産する所なり、民馬を以て金に易え、真偽に諳しまず、請う令して馬を以て代わりて輸せしむと、これに従う。三十年、麗江軍民府と改む、春の請いに従うなり。永楽十六年、検校龐文郁言う、本府及び宝山、巨津、通安、蘭州の四州帰化日久しく、請う学校を建てんと、これに従う。
宣徳五年、麗江府奏す、浪滄江寨の蠻者保等衆を聚めて劫掠すと。黔国公沐晟官を委して撫諭す、服せず、部議再び招撫を行わんとす。已にして、蘭州土官羅牙等奏す、者保命を拒ぐ、請う兵を発してこれを討たんと。帝命ず、黔国公及び雲南三司相機に行い、細故に縁りて蠻民を激変せしむること勿からんと。正統五年、知府木森に誥命を賜い、大中大夫資治少尹を加授す、麓川を征するの功を以てす。成化十一年、知府木嵚奏す、鶴慶の千夫長趙賢屡々群賊を糾い境を越えて殺掠す、乞う旁衛の官軍を調べて擒剿せしめんと、命じて守臣に移知し計畫せしむ。嘉靖三十九年、知府木高殿工の銀二千八百両を進めて助け、詔して文職三品の服色を加え、誥命を給う。四十年また木植の銀二千八百両を進め、詔して一級を進め、亜中大夫を授け、誥命を給う。
万暦三十一年、巡按御史宋興祖奏す、「税使内監楊榮、麗江の土官に責めて地を退け、採るを聴かんと欲す。窃に惟うに、麗江は太祖より木氏に世官を令し、石門を守りて以て西域を絶ち、鉄橋を守りて以て吐蕃を断つ、滇南これに藉りて屏藩と為す。今地を退けて採るを聴かしむれば、必ず遠蠻の心を失わん。即ち諭を聴かしむるも、已に国家に歳々吐蕃の防有らしむ。倘しくは聴かざれば、豈に独り国体を傷つくのみならんや」と。疏上り、事寝す。
三十八年、知府木増、蠻を征するの軍興に以て、餉銀二万余両を助け、北勝の土舍高光裕の例に比し、加級を乞う。部覆して三品の服色を賜う、巡按御史その違越を劾し、請う新恩を奪わんと、これに従う。四十七年、増復た銀一万を輸して遼餉を助く。泰昌元年、増の功を録し、白金表裏を賞し、その子の懿及び舍目各々銀幣を賞すること差有り。天啓二年、増病を以て告げ、左参政を加授して致仕す。五年、特ち増に誥命を給い、以てその忠を旌す。雲南諸土官、詩書を知り礼を好み義を守るは、麗江の木氏を以て首と為すと云う。
元江
元江は、古の西南夷の極辺の境、恵籠甸と曰い、また因遠部と名づく。南詔蒙氏以て銀生節度に属し、白蠻の蘇、張、周、段等十姓を徙してこれを戍らしむ。また威遠等の処を開き、威遠睒を置く。後和泥その地を侵拠す。宋の時、儂智高の党ここに竄居す、和泥また羅槃甸を開きてここに居す、後麽些、徒蠻、阿僰諸部に拠らる。元の時内附す。至元中、元江萬戸府を置く。後に威遠に於いて更に元江路を置き、羅槃、馬籠等十二部を領し、臨安、広西、元江等処宣慰司に属す。
洪武十五年、元江府と改む。十七年、土官那直来朝し象を貢ぎ、那直を以て元江知府と為し、襲衣冠帯を賜う。十八年、因遠羅必甸長官司を置きこれに隷し、土酋白文玉を以て副長官と為す。二十年、經歷楊大用を遣わし元江等府に往きて兵を練らしむ、時に百夷屡々辺患と為す、帝兵を発してこれを平らがんと欲する故なり。二十六年、元江府儒学を置く。二十七年、知府那栄及び白文玉等来朝し貢ぐ。
永楽三年、栄復た入朝し貢ぐ。帝厚く賜予を加え、遂に元江軍民府と改め、これに印信を給う。栄請う、躬ら兵及び饋運を率い、往きて八百を攻まんと、帝これを嘉労す。元江府また奏す、石屏州の洛夾橋、毎歳江水沖壊す、只だ本府に令して修理せしむ、民堪えず、乞う石屏州に命じ協治せしめんと、これに従う。九年、那栄頭目人等を率いて来朝し、馬及び金銀器を貢ぎ、賜予例の如し。十二年、故土知府那直の子那邦方物を入貢す。
宣徳五年、黔国公沐晟奏す、元江土知府那忠、賊の刀正、刀龍等にその廨宇及び經歷の印信を焚かると。今刀龍、刀洽を獲て京に赴かしむ、乞う永楽の故事の如く、遼東に発して安置し、以て辺夷を警めんと、これに従う。礼部に命じ印を鋳してこれを給う。正統元年、因遠羅必甸長官司人を遣わして来朝し馬を貢ぐ。正徳二年、那端を以て土知府を襲わしむ。
嘉靖二十五年、土舎那鑑がその甥の土知府那憲を殺害し、その印を奪い、併せて因遠駅の印記を収めた。巡撫応大猷がこれを上聞し、命じて鎮巡官に兵を発してこれを討伐させた。二十九年、那鑑は恐れをなし、密かに交蛮の武文淵と謀って乱を企てた。撫按官胡奎・林応箕、総兵官沐朝弼がこれを上聞し、副使李維・参政胡堯時に兵を督させてこれを討伐するよう請うた。制可された。那鑑はますます兵を放って村寨を攻撃掠奪した。沐朝弼と巡撫石簡は武定・北勝・亦佐などの土・漢兵を調達し、五哨に分けた。兵の調達が済むと、朝弼と石簡は臨安に駐屯し、各部を分けて進軍させた。木龍寨を破り、甘莊を降し、賊の勢いは次第に逼迫した。那鑑は経歴張維及び生儒数人を南羨の監督王養浩のもとに遣わして降伏を乞うた。時に左布政徐樾が糧秣を督するため南羨に至っており、徐樾は迂闊で暗愚であり、張維の言葉を聞いて、那鑑が誠に策尽きたと思い、翌日に那鑑が自ら縛られて城を出て降伏するよう約した。左右は皆、夷の詐りは信じられぬと言ったが、徐樾は聞き入れず、期日通り自ら百人を率いて城下に赴き降伏を受けようとした。那鑑は象馬と夷兵を放って突出させてこれを衝かせ、徐樾と左右は皆死んだ。巡按趙炳然がこれを上聞し、併せて朝弼・石簡及び養浩等の失事の罪を弾劾した。帝は勅を下して厳しく責め、石簡の職を剥奪し、養浩等はそれぞれ俸給を停止し、期限を定めて賊を捕らえ罪を贖わせた。朝弼と石簡は五哨の兵を督して集め、元江を囲んで陣を布いた。南羨哨に命じて兵を督し江を渡って城を攻めさせ、路通哨・甘莊哨からそれぞれ精兵二千を選んでこれを補助させた。那鑑は二哨の精兵が悉く南羨に帰したと知り、密かに兵象を遣わして虚に乗じて路通哨を衝かせた。官兵は賊の来襲を予期せず、慌てて営を焼いて逃走した。監督郝維嶽は甘莊哨に奔り込んだが、甘庄もまた大いに潰え、督哨李維もまた逃げ去り、ただ南羨のみが城に迫って軍を布いた。武定の女土官瞿氏・寧州の土舎祿紹先・広南儂兵の頭目陸友仁は皆、那鑑が主君を殺し嫡子の地位を奪ったことを恨み、誓って死んでも退かなかった。督哨王養浩はこれに激賞して激励し、翌日鬨の声を上げて城を攻めると、賊は大敗し、門を閉じて出て来なかった。官兵はこれを包囲し、那鑑は降伏を乞うた。官兵は徐樾の敗北を戒めとして、応じなかった。城中では家屋を壊して炊事し、米一斗に銀三四銭した。時に瘴毒が発生し、大軍は再び撤退し、秋の末に征伐することを期し、朝弼が事を上聞した。帝は二哨の失事に関する諸臣の罪を定め、撫臣に行って瞿氏・祿紹先・陸友仁等に厚く賞を与えさせ、朝弼に勅して新たな撫臣鮑象賢とともに兵を集めて賊を討たせた。
三十二年、象賢が鎮に至り、土・漢兵七万人を調達集結し、広く糧食輸送を集め、期限を定めて哨を分けて元江に進軍討伐し、必ず取る計画を立てた。那鑑は恐れ、毒を仰いで死んだ。象賢は百戸汪輔に檄を飛ばして城に入らせ、その衆を慰撫諭示させ、その賊首及び土官那憲を殺害した阿捉、布政徐樾を殺害した光龍・光色等を捕らえ、皆斬首して献上させた。那鑑の子の恕は占領していた那旂・封鑾等の村寨を返還し、併せて掠奪した鎮沅府の印を出し、象十二頭を納め、累年の滞納租税を納めた。象賢は官民に那氏で立つべき者を推挙させ、衆は前土官那端の従孫の従仁を推挙した。象賢はその状況を上疏して述べ、恕を廃し、その死罪を赦し、従仁に暫くその衆を統率させるよう請うた。汪輔に千戸の職を加えること、これに従った。万暦十三年、元江土舎那恕が車裏を招降した功績により、祖職を世襲することを許し、銀幣を賞賜した。長官司一を領す、因遠羅必甸という。
永昌
永昌は、古の哀牢国である。漢武帝の時、不韋県を置いた。後漢は瀾滄郡を置き、まもなく永昌郡と改めた。唐は姚州に属し、後に南詔蒙氏に占拠され、段氏・高氏の時代を経て皆永昌府であった。元初、永昌に三千戸所を立て、大理万戸府に隷属させた。至元年間に永昌州を置き、まもなく府とし、大理路に隷属させ、金歯等処宣撫司を治所に置いた。洪武十五年、雲南を平定し、金歯衛を立てた。元の雲南右丞観音保を以て金歯指揮使とし、姓名を李観と賜った。十六年、永昌州土官申保が来朝し、詔して錦二匹・織金文綺二匹・衣一襲及び鈒花銀帯・靴襪を賜った。十七年、申保を以て永昌府同知とした。四月、金歯土官段惠が把事及びその子弟を遣わして来貢し、綺帛・鈔を差等ありて賜った。施甸長官司を置き、土酋阿幹を以て副長官とし、冠帯を賜った。
十八年、金歯衛指揮使司を置いた。二十年、使者を遣わして金歯衛指揮儲傑・厳武・李観に諭して言った、「金歯は遠く辺境にあり、土民は礼法を遵ばない。そち指揮李観は事を処するに寛厚で、その名は蛮中に広まり、諸蛮に愛されている。しかしその部下は多く功を恃んで放恣に振る舞い、軍律に背くことがある。故に特に儲傑・厳武を命じてこれを補佐させる。李観の寛は、遠方を安撫するに足る。儲傑・厳武の厳は、部下を統御するに足る。勅が至り次第、諸軍を整え練兵し、外変に備えよ」。
二十三年、永昌府を廃止し、金歯衛を軍民指揮使司に改めた。時に西平侯沐英が言上した、永昌の居民は少ない、府と衛を合わせて軍民使司とするのが宜しい、これに従った。鳳溪長官司を置き、永昌府通判阿鳳を以て長官とした。二十四年、永平衛を置いた。永楽元年、金歯土官百戸汪用に鈔一百錠・彩幣四表裏を賜った。西平侯沐晟が汪用を遣わして罕的法を招安したため、これを賞したのである。洪熙元年、金歯軍民指揮使司及び騰沖守禦千戸所等の土官が馬を貢ぎ、鈔幣を賜った。
宣徳五年、金歯軍民指揮司に騰沖州を設け、土知州一員を置いた。時に騰沖守禦所土官副千戸張銘が言上した、その地は極めて辺境に遠く、麓川宣慰思任発がしばしば侵擾するので、州治を設けることを乞う、と。帝はこれに従い、即ち張銘を以て騰沖知州とした。八年、騰沖州に庫扛関・庫刀関・庫勒関・古湧二関を置いた。先に、騰沖州が上奏した、本州は麓川・緬甸諸処に通じ、人民の逃散移徙する者が多く、差発貢納に支障を来たしている。旧来の四百夫長は騰沖千戸所に隷属し、その庫扛関等五箇所は、皆軍民が兼ねて守っていた。今、四百夫は既に本州に隷属し、ただ州民のみがこれを守っている。五箇所に巡検司を置き、土軍の尹黒・張保・李輔・郭節等を巡検とすることを乞う、と。正統二年、定員外としてこれを廃止した。嘉靖元年、永昌軍民府を再設置した。州一・県二を領す。その長官司二、施甸・鳳溪という。
新化
新化は、もと馬龍・他郎の二甸であり、阿僰諸部の蛮がこれを占拠していた。元の憲宗の時に内附し、二千戸所を立て、寧州万戸府に隷属させた。至元年間に、馬龍等甸の管民官を他郎甸に併せ、司を置き、元江路に隷属させた。洪武初年に、馬龍他郎甸長官司と改名し、直隷雲南布政司とした。後に新化州に昇格した。十七年に普賜を馬龍他郎甸副長官とした。宣徳八年、故長官普賜の弟である土舎普寧らが来朝し、馬を貢ぎ、鈔幣を賜った。八月、黔国公沐晟が奏上したところによれば、摩沙勒寨の万夫長刀甕およびその弟刀眷が蛮兵を糾合して馬龍他郎甸長官司の衙門を侵占し、人民を殺掠したので、都督同知沐昂を派遣して討伐するよう請うた。帝は人を遣わして撫諭するよう命じ、ただ刀甕を捕らえるだけで、平民を擾乱してはならないとした。正統二年、沐晟らは刀甕が招撫に服さないと奏上し、付近の官軍・土兵を調発し、都督沐昂に剿捕させようと請うた。帝は蛮衆の仇殺はその本性であるから、引き続き撫諭すべきであるとし、事は遂に完遂しなかった。その地には馬龍などの山があり、摩沙勒江の右岸にある。両岸は峡のように狭く、地勢は極めて険しいため、州に改めてこれを鎮めた。
威遠
威遠は、唐の南詔の銀生府の地であり、もとは濮落雑蛮の居住地であった。大理の時、百夷に占拠された。元の至元年間に、威遠州を置いた。洪武十五年、雲南平定後、威遠蛮棚府を威遠州に改めた。三十五年、土官刀算党を威遠知州とした。永楽二年、刀算党が車裏に捕らえられ、その地を奪われたので、西平侯に命じて諭させると、刀算党と侵奪した地を返還した。三年、刀算党が象・馬・方物を進貢して謝し、勅諭・金字紅牌を下賜し、金帯・織金文綺・襲衣および銀鈔・錦幣を賜った。二十二年、土官刀慶罕らが来朝し、馬および方物を貢ぎ、刀慶罕に鈔八十錠、紵絲・羅紗を賜い、頭目以下にもそれぞれ加賜があった。
宣徳三年、刀慶罕が頭目招剛・刀著中らを遣わして来貢し、賜与は例のごとく、勅および織金紵絲・紗羅を携えて賜り、さらに信符・勘合底簿を与えた。八年、威遠州が奏上したところによれば、その地は車裏と境を接し、累次各土官の劫掠を受け、播孟は実に要衝に当たるので、巡検司を置き、把事劉禧を巡検とするよう乞うた。これを従った。
正統二年、土知州刀蓋罕が人を遣わして馬および銀器を貢ぎ、彩幣などを賜い、併せて新たな信符を与えた。正統六年、威遠土知州刀蓋罕に金牌を与え、麓川の叛寇を合兵して剿討するよう命じ、捷報を聞いた。勅して曰く、「叛寇思任発が爾の境土を侵し、爾を脅迫して逆に従わせた。爾の母招曩猛は大義を守り、朝廷に忠を効し、悉く金資を出し、頭目に分け与えた。爾母子はみずから甲冑を着け、勇を奮って賊を殺し、その頭目派罕を斬り、余賊を追って江を渡り、溺死数千、斬首数百を得、その戦艦・戦象を得、なお兵を留めて賊の占拠する江口の地を守った。忠義卓然として、深く嘉尚に値する。今特に爾を正五品に昇進し、奉政大夫・修正庶尹を授け、爾の母を太宜人に封じ、ともに誥命・銀帯および彩幣表裏を賜い、爾母子の勲労に報いる。陶孟・刀孟経らにも賜与に差等がある。爾はますます忠義を勉め、朕の懐いに副うべし」。
当時西南諸部は多く互いに仇殺し、与えられた金牌・信符は焼失して残っていなかった。景泰六年、刀蓋罕・随乃吾らが来朝貢したので、その管轄する本州の人民を統治させ、再び金牌・信符・織金文綺を与え、勅諭を賜って帰した。成化元年、威遠州土舎刀朔罕が頭目刀昔思を遣わして象・馬および金銀器を貢ぎ、賜与は例のごとくであった。その風俗は勇健で、男女は険しい所を飛ぶように走る。境内に河があり、水を汲んで炭の上に練ると即ち塩となる。秤斗がなく、簍で多少を量る。
北勝
北勝は、唐の貞元年間に、南詔の異牟尋が初めてその地を開き、北方睒と名付け、瀰河白蛮および羅落・麽些諸蛮を移住させてその地を充実させ、成偈睒と号し、また善巨郡と改名した。宋の時、大理段氏が成紀鎮に改めた。元初、内附した。至元年間に、施州を置き、まもなく北勝州に改めた。後に府となり、麗江路軍民宣撫司に隷属した。洪武十五年州に改め、鶴慶府に隷属し、後に瀾滄衛に属した。永楽五年、土官百夫長楊克即牙旧が来朝して馬を貢ぎ、鈔幣を賜った。宣徳四年、土判官高琳の子高瑛が方物を貢ぎ、父の職を襲うことを請うた。十年、土知府高瑛が来朝貢し、鈔幣を賜った。正統七年、北勝州を直隷雲南布政司とし、流官の吏目一員を設けたのは、州の蛮が瀾滄衛の官軍の侵漁に苦しんでいたためである。
万暦四十八年、北勝州土同知高世懋が死に、異母弟の世昌が襲職した。その族の甥の高蘭が世昌は奸生であると妄称し、官に訴訟したが、聞き入れられなかった。世昌は逼迫を恐れ、麗江に走って避けた。まもなく瀾滄に戻り、客舎に宿泊したところ、高蘭が包囲して火を放ち、その家の七十余人を殺し、その祖父の墓を暴き、自ら欽授把総と称し、大いに掠奪した。麗江知府木増が討伐を請い、法紀を軽んじ、尾大不掉となり、治めなければ隠憂があると述べた。上官はその義を嘉し、木増にその部を率いて進剿させ、高蘭を捕らえて梟首した。
湾甸
湾甸は、蛮名を細睒という。元の中統初年に内附し、鎮康路に属した。洪武十七年湾甸県を置いた。永楽元年三月湾甸長官司を設けたのは、西平侯沐晟が麓川に近く、地広く人稠であると奏上したためである。まもなくまた湾甸州に改め、土官刀景発を知州とし、印章・金牌を与え、併せて流官の吏目一員を置いた。四年、帝は湾甸の道里が険遠であるため、毎年の朝貢を、今後は三年に一貢とし、これを令とした。慶賀・謝恩の類は、この例に拘らない。六年、刀景発が人を遣わして来朝し、馬および方物を貢ぎ、鈔幣を賜った。七年、刀景発の子景懸らが来朝し、馬を貢ぎ、賜与は例のごとくであった。宣徳八年、土官刀景項の弟景辦法に兄の職を継がせた。州には流官の吏目一員がいた。州は木邦・順寧に隣接し、日々侵削された。成化五年、湾甸州土官舎人景拙法が使者刀胡猛らを遣わして来朝し、象・馬および金銀器を貢ぎ、宴を賜い、衣服・彩幣に差等があった。
万暦十一年、土官景宗真が弟の宗材を率いて木邦の叛賊罕虔を導き姚関に寇し、景宗真は陣中に死に、景宗材を擒えて斬った。景真の子は幼かったので、死罪を免じ、州判官に降格した。後に猛廷瑞討伐に従って功があり、旧職に復した。湾甸の地は瘴気が多い。黒泉があり、漲る時、飛鳥がこれを過ぎれば即ち墜ちる。
鎮康
鎮康は、蛮名を石睒といい、もとは黒僰の居住地であった。元の中統初年に内附し、至元十三年に鎮康路軍民総管府を立て、三甸を管轄した。洪武十五年に鎮康府と改め、十七年に州に改めた。永楽二年に官を遣わして信符及び金字紅牌を鎮康州に頒布した。七年に湾甸同知の曩光を以て知州とした。初め、鎮康の地は湾甸に隷属していたが、曩光が役所の増設を請うたので、この命があったのである。九年に中官徐亮が西南蛮に使いした際、曩光が道を阻んだので、詔を下してこれを責めた。この時、人を遣わして来朝し謝罪した。十四年、鎮康州長官司が人を遣わして馬を貢ぎ、鈔幣を賜った。二十一年、知府刀孟広が来朝し、馬を貢いだ。宣徳三年に鎮康州の土目刀門淵らに差等を以て鈔幣を賜った。成化五年、知州刀門戛が使者を遣わして馬及び金銀器を貢ぎ、例に従って賜与し、その妻にも及んだ。
鎮康は後には木邦・順寧にも侵削された。隆慶年間、知州悶坎は、罕虔が娘を娶らせたため、これに附き緬甸に帰した。坎は敗死し、その弟悶恩は義に帰した。恩が死ぬと、子の悶枳が襲い、木邦の思礼がこれを誘って緬甸に帰させようとしたが従わなかった。天啓二年、木邦の兵が喳哩江を占拠したので、枳は姚関に奔り、守備が官を遣わしてこれを慰撫したので、ようやく退いた。
大侯
大侯は、蛮名を孟祐といい、百夷の居住地であった。元の中統初年に内附し、麓川路に属した。洪武二十四年に大侯長官司を置いた。永楽二年に信符・金字紅牌を給付した。三年、大侯長官司長官刀奉偶が子の刀奉董を遣わして馬及び銀器を貢ぎ、鈔幣を賜った。六年、長官刀奉偶が弟の不納狂を遣わして来貢し、例に従って賜与した。
宣徳四年に大侯長官司を大侯州に昇格させ、土官刀奉漢を以て知州とした。時に刀奉漢が奏上して言うには、「大侯の蛮民で復業する者が多く、歳ごとに差発銀二百五十両を納めている。湾甸・鎮康の二長官司は民が少なく、歳ごとに差発銀各百両を納めているが、永楽中に共に州に昇格した。どうか二州の例に倣ってほしい。」帝が吏部に諭して言うには、「大侯の民に復業が多いのは、その長官がよく撫綏したからである。官秩を増してこれを表彰すべきである。」故にこの命があったのである。八年、大侯州が入貢したので、内官雲仙を遣わしてこれを慰撫し、併せて錦綺を差等を以て賜った。
正統三年、土官刀奉漢の子刀奉送が来貢したので、勅を齎し、併せて織金文綺・絨錦等の諸物を賜り、刀奉漢及びその妻に賜った。初め、奉漢が把事傅永瑤を来朝させ、馬を貢ぎ、木邦宣慰罕門法と共に土兵十万を起こし、協同して麓川を征剿したいと奏し、民心を安んずるために金牌・信符を賜りたいと請うた。特にこれを賜り、また勅を下して嘉奨した。七年、刀奉漢の子刀奉送に大侯知州を襲うことを命じ、冠帯・印章・彩段表裏を賜った。これは奉送がよく土兵を率いて麓川討伐を助けたからである。十一年、大侯知州奉外法らが銀器・象馬を貢ぎ、彩幣・衣服を差等を以て賜った。十二年、勅を下して大侯州の奉敬法・刀奉送ら及びその妻に彩幣を賜り、来使に命じてこれを齎らせた。
万暦年間、土目奉学が順寧知府猛廷瑞に婿入りした。後に巡撫陳用賓が廷瑞と奉学が謀反したと誣奏したので、廷瑞は奉学の首を斬って献上した。奉学の兄の赦は大侯を守って従前の如くであった。子の奉先はその族舍の猛麻・奉恭と争って殺し合い、命令に抗した。翌年にこれを討ち平らげ、雲州と改め、流官を置いた。
瀾滄
瀾滄は、元では北勝州の地であった。洪武中、鶴慶府に属した。二十八年に瀾滄衛を置いた。二十九年に州の南に城を築き、今の衛司を置いた。北勝・浪渠・永寧の三州を管轄した。永楽四年に永寧州を昇格させて府とした。正統七年に北勝州を直隷布政司とし、今の衛はただ一州を管轄するのみとなった。弘治十一年、福建布政の李韶が以前雲南参議を務め、土俗の事情に通じていたので、上疏して四事を言上した。一つには、瀾滄衛と北勝州は同一の城にあり、地域が広遠で、四川の建昌西番・野番と通じている。近年、西番の土舍章輗らが山険を恃み、野番千余家を招き服して庄戸とし、遂に各番が頑なになり、動輒人を殺すに至り、州官には兵がなく禁止できない。衛官は軍政を大いに廃し、恬然として意を用いない。また姚安府・大羅衛・賓川州の地方には賊の巣窟が六七あり、軍民が被害を受けている。瀾滄衛城に兵備副使を添設し、姚安・大羅・賓川・鶴麗・大理・洱海・景東の諸府州衛所を皆これに属させよと請うた。野番に対しては流民法を用いて撫し、賊巣に対しては保甲法を立ててこれを治め、朝夕これを経理すれば、内外の寇患は皆除くことができるであろう。よってその議に従い、瀾滄城に兵備副使一員を設けた。
麓川 平緬
麓川・平緬は、元の時は皆緬甸に属した。緬甸は、古くは朱波の地である。宋の寧宗の時、緬甸・波斯等の国が白象を進貢し、緬甸の名はここに始まる。緬甸は雲南の西南にあり、最も辺鄙で遠い。八百国・占城と境を接する。城郭・室屋があり、人々は皆楼居し、地は象馬を産する。元の時は最も強盛であった。元は嘗て使者を遣わしてこれを招き、初めて入貢した。
洪武六年に使者田儼・程鬥南・張祎・錢允恭を遣わし、詔を齎して往き諭した。安南に至り、二年留まり、道が阻まれて通じなかった。詔を下してこれを召還したが、ただ儼のみが還り、その余は皆道中で卒した。十五年、大軍が雲南を下し、進んで大理を以てし、金歯を下した。平緬は金歯と土地相接しており、土蛮の思倫発はこれを聞いて懼れ、遂に降った。よって平緬宣慰使司を置き、倫発を以て宣慰使とした。十七年八月、倫発は刀令孟を遣わして方物を献じ、併せて元から授かった宣慰使司の印を上った。詔を下して平緬宣慰使を平緬軍民宣慰使司と改め、併せて倫発に朝服・冠帯及び織金文綺・鈔錠を賜った。まもなく平緬軍民宣慰使司を麓川平緬軍民宣慰使司と改めた。麓川と平緬は境を連ね、元の時は両路を分置してその部を統治していたが、この時は倫発が使者を遣わして貢いだので、麓川の地を兼ねて統べることを命じた。
十八年、倫発が反し、衆を率いて景東を寇した。都督馮誠が兵を率いてこれを撃ったが、時に大霧に遭い、突然寇に遇い、利を得ず、千戸王升が戦死した。
二十年、西平侯沐英らに勅諭して曰く、「近く御史李原名が平緬より帰り、蛮情の詭譎なるを知る。必ず辺患とならん。符到る次第、直ちに金歯・楚雄・品甸及び瀾滄江の中道に於いて、壘を葺き池を深くし、以て営柵を固くし、多く火銃を置きて守備とせよ。寇来たらば、軽々しく戦うことなかれ。又、往年人百夷に至るや、多く其の財貨を貪り、事理を顧みず、諸蛮の笑いを貽す。今より継ぎて一人も平緬に往くことを許さず、即ち文移も亦慎んで之に答うべし。忽せざるべし」と。明年、倫発は群蛮を誘いて馬龍他郎甸の摩沙勒寨を寇す。英は都督寧正を遣わして之を撃破し、首千五百余級を斬る。倫発は其の衆を悉く挙げ、号三十万、象百余を以て定辺を寇し、摩沙勒の役に報いんと欲す。新附の諸蛮皆力を尽くす。英は師三万を選び急ぎ趨り至る。賊は象陣を列ねて搏戦す。英は弩を列ねて注射し、陣を突きて大呼す。象多く傷つき、其の蛮も亦多く矢に中りて斃る。蛮気稍く縮む。次日、英は将士を率い、益々火槍・神機箭を置き、更番に射る。象奔り、賊大いに敗る。其の寨を搗ち、首三万余級を斬り、降卒万余人。象の死者半ば、生け捕り三十七。倫発遁走す。捷を以て聞す。帝は使いを遣わし英に諭し、師を移して景東に逼り屯田し、壘を固くして大軍の集まるを待ち、軽々しく其の降を受くることなからしむ。
二十二年、倫発は把事招綱等を遣わし来たりて言う、「往時の逆謀は、皆把事刀廝郎・刀廝養の為す所なり。死を貸し、願わくば貢賦を輸す」と。雲南の守臣以て聞す。乃ち通政司經歷楊大用を遣わし、勅を賫して往き思倫発に諭し、臣礼を修め、前日の兵費を悉く償わしめ、庶くは問罪の師を免れしむ。倫発命を聴き、遂に象・馬・白金・方物を以て入貢謝罪す。大用並びに叛首刀廝郎等一百三十七人を献ぜしむ。平緬遂に平ぐ。是より、三年毎に朝貢す。二十七年、倫発来朝し、馬・象・方物を貢ぐ。已にして、京衛千戸郭均英を遣わし往きて思倫発に公服・襆頭・金帯・象笏を賜う。
二十八年、緬国王使い来たりて言う、百夷屡兵を以て其の境を侵奪すと。明年、緬使復来り訴う。帝は行人李思聰等を遣わし緬国及び百夷に使わす。思倫発詔を聞き、俯伏謝罪し、兵を罷めんことを願う。適に其の部長刀幹孟叛す。思聰は朝廷の威徳を聴き其の部衆に諭す。叛する者稍く退く。思倫発は使者に倚りて其の下を服せんと欲し、強いて之を留め、象・馬・金宝を以て賂とす。思聰諭して却く。帰り其の山川・人物・風俗・道路の詳しきを述べ、『百夷伝紀』を為して進む。帝之を褒む。初め、平緬の俗は仏を好まず。僧雲南より至り、因果応報の説を善くす。倫発之を信ず。又、金歯の戍卒其の境に逃れ入り、火硫・火炮の具を為す能くす。倫発其の技能を喜び、俾くは金帯を系げ、僧と諸部長の上に位せしむ。刀幹孟等服せず、遂に其の属と叛し、騰沖を攻む。倫発は其の家を率いて雲南に走る。西平侯沐春は遣わして京師に送る。帝之を憫み、春を征南将軍と為し、何福・徐凱を副将軍と為し、雲南・四川諸衛の兵を率い往きて刀幹孟を討たしむ。並びに倫発を遣わし帰し、潞江上に駐まり、其の部衆を招諭せしむ。倫発に黄金百両・白金百五十両・鈔五百錠を賜う。又春に勅して曰く、「思倫発窮して我に帰す。兵を以て送還すべし。若し雲南に至らば、先ず人を遣わし往きて幹孟に諭し、終を怙みて臣とせざることなからしめ、必ず帰りて主とせよ。倘し従わざれば、則ち罪を声して之を討て」と。
時に幹孟は既に倫発を逐い、亦朝廷の兵を加うるを懼れ、乃ち人を詣らしめて西平侯に請い入貢す。春以て聞す。三十一年奏す、「幹孟は朝廷の威を仮りて忽都を拒がんと欲す。其の言う入貢は、未だ信ずべからず」と。帝は人を遣わし春に諭して曰く、「遠蛮の詭詐誠に之有り。姑く其の請に従い、其の宜しきを審度し、事機を失うことなかれ」と。春は兵を以て倫発を金歯に送り、人をして刀幹孟に諭さしむ。幹孟従わず。左軍都督何福・瞿能等を遣わし、兵五千を将いて之を討たしむ。高良公山を逾え、直ちに南甸を搗ち、之を大破し、刀名孟を殺し、斬獲甚だ衆し。兵を回して景罕寨を撃つ。寨は高きに憑り険に据え、堅く守りて下らず。官軍糧械倶に尽き、賊勢益々張る。福は使いをして春に急を告げしむ。春は五百騎を率いて往き救い、夜に乗じて潞江に至り、詰旦に渡る。騎を率いて馳せ躪り、塵を揚げて天を蔽う。賊大軍の至るを意いせず、驚懼し、遂に之を破る。勝に乗じて崆峒寨を撃つ。賊夜に潰ゆ。幹孟は人を遣わし降を乞う。事聞こゆ。朝廷其の狡詐を以て、春に命じて変を俟ちて之を討たしむ。春尋いで病卒す。幹孟竟に降らず。又都督何福を命じ往きて討たしむ。未幾、幹孟を擒えて帰る。倫発始めて平緬に還る。年を逾えて卒す。
永楽元年、思倫発の子散朋来朝し、馬を貢ぐ。絨錦・織金文綺・紗羅並びに傔従に鈔を賜うこと差有り。二年、内官張勤等を遣わし頒賜して麓川に至らしむ。麓川・平緬・木邦・孟養倶に人を遣わし来たり貢ぐ。各之に鈔幣を賜う。時に麓川平緬宣慰使思行発の遣わす所の頭目刀門頼、孟養・木邦の数其の地を侵すを訴う。礼部請う、孟養・木邦の朝貢使を法司に付し、其の罪を正さんと。帝謂う、蛮衆の攻奪は常事なり。一二人を執えて之を罪すは、以て其の俗を革うるに足らず。且つ曲直未だ明らかならず、遽に其の使を罪するは、遠人の心を失うと。西平侯に命じて之を諭さしめ、員外郎左緝を遣わし八百国に使わし、並びに麓川平緬宣慰に冠帯・襲衣を賜わしむ。
五年、麓川平緬の隷する孟外の頭目刀発孟来朝し、象及び金器を貢ぎ、散朋も亦馬を貢ぐ。各鈔幣を賜う。六年、思行発は馬・方物を貢ぎて謝し、金牌・信符を賜う。黔国公沐晟言う、「麓川・平緬の隷する孟外・陶孟の土官刀発孟の地、頭目刀薛孟の侵め据うる所と為る。命じて思行発に諭し刀薛孟をして侵地を帰せしめんことを請う」と。之に従う。七年、行発来たり貢ぐ。中官雲仙等を遣わし勅を賫し、金織文綺・紗羅を賜う。麓川に至り、行発は郊迎の礼を失う。仙之を責む。行発惶懼し、九年に刀門奈を遣わし来たり貢ぎ謝罪す。帝之を貸し、仍命じて其の使を宴労し、並びに行発に文錦・金織纻絲紗羅を賜わしむ。
十一年、行発請う、其の弟思任発を以て職に代えんと。之に従う。任発は頭目刀弄発を遣わし、象六・馬百匹及び金銀器皿等の物を貢ぎて恩を謝す。二十年、任発は使いを遣わし表を奉じて来たり貢ぎ、並びに南甸州を侵すの罪を謝す。中官雲仙を遣わし賫賜し並びに勅して之を戒む。洪熙元年、内官段忠・徐亮を遣わし即位の詔を以て麓川に諭す。宣徳元年、使いを遣わし西南夷に諭し、麓川に錦綺を賜うこと差有り。其の職貢を勤めて修むるを以てなり。時に麓川・木邦界を争い、各朝に訴う。就きて使者をして諭解せしめ、俾くは分に安んじて侵越することなからしむ。黔国公沐晟奏す、麓川の所属する思陀甸の火頭曲比乱を為す。兵を発して討たんことを請う。帝命じて姑く之を撫でしむ。麓川平緬宣慰司の轄する大店地に駅丞一員を置き、土人刀捧怯を以て之と為す。宣慰刀暗発の奏に従うなり。
三年、雲南三司が奏上したところによれば、麓川宣慰使思任発が南甸州の地を奪い、兵を発して罪を問うことを請うた。帝は沐晟に三司・巡撫とともに詳細に計議して奏聞するよう命じた。思任発に対しては、境を保ち民を安んじ、隣接する疆域を侵し悪逆に陥って罪咎を増やすことのないよう勅諭した。沐晟は、思任発が南甸・騰沖を侵奪した罪は赦すべからずとして、官軍五万および諸土兵を発して討つことを請うた。帝は、交阯・四川で用兵中であり、民の労苦が未だ息んでいないことを理由に、再び招諭すべきであるとした。やむを得ない場合は、雲南の土官軍および木邦宣慰などの諸蛮兵を調発してこれを剿討せよと命じた。八年、内官の雲仙を遣わし、勅書を麓川に齎らせ、思任発に幣物を賜り、木邦と争地して抗殺することなきよう諭した。
正統元年、麓川平緬軍民宣慰司の未納差発銀二千五百両を免除した。思任発が、その地が木邦に侵され、百姓が希少で、納めることができないと奏上したためである。部(戸部)は不可と主張したが、帝は特にこれを免除した。初め、洪武年間、雲南を平定した際、百夷部長の思倫発のみが未だ服従せず、後に頭目の刀幹孟に追逐され、京に赴いて陳訴した。宣慰に任じられ、麓川に戻って居住した。その地を分けて、孟養・木邦・孟定の三府を設け、雲南に隷属させた。また、潞江・幹崖・大侯・湾甸の四長官司を設け、金歯に隷属させた。永楽元年、孟養・木邦を宣慰司に昇格させた。孟養宣慰の刀木旦が隣境と仇殺して死ぬと、緬甸が機に乗じてその地を併せた。間もなく、緬甸宣慰の新加斯もまた木邦宣慰に殺された。この時、思倫発は既に死んでおり、子の思行発が襲い、これも死んだ。次子の思任発が麓川宣慰を襲い、狡猾さは父兄より甚だしく、差発の金銀を時を以て納めず、朝廷は少し寛容に扱った。折しも緬甸が危うくなると、思任発はその地を侵奪占有し、遂にその旧地をことごとく回復せんと欲し、兵を挙げて辺境を擾乱し、孟定府および湾甸等の州を侵し、人民を殺掠した。そして南甸知州の刀貢罕もまた、麓川がその管轄する羅卜思荘等二百七十八村を奪ったと奏上した。ここにおいて沐晟は奏上した、「思任発は連年累次、孟定・南甸・幹崖・騰沖・潞江・金歯等の地を侵し、自ら頭目の刀珍罕・土官の早亨等を立てて暴を助け、叛逆の形跡既に著しい。近くまた金歯にまで侵し来たり、その勢い甚だ猖獗である。既に諸衛の馬歩官軍を金歯に遣わして守禦させたが、大兵を調発して進討を乞う」。朝廷は将を選ぶことを命じ、廷臣が右都督の方政・都督僉事の張栄を挙げて雲南に赴かせ、鎮守右都督の沐昂と協同して兵を率いてこれを討たせた。思任発はちょうど貢を修めて師の緩むことを期待していたが、沐晟は急にその降伏を信じ、江を渡る意思がなかった。思任発はそこで万余りの衆を遣わして潞江を奪い、江に沿って船三百艘を造り、雲龍を取らんとし、また甸順・江東等の処の軍余を殺し尽くした。帝は賊勢日増すを以て、沐晟らが寇を弄び患を養うことを責めた。方政もまた軍中に至り、出戦しようとしたが、沐晟は許さなかった。方政が舟を造って師を渡そうとしたが、沐晟はまたも許さなかった。方政は憤りに耐えず、独り麾下を率いて賊将の緬簡と戦い、賊の旧大寨を破った。賊は景罕に奔り、指揮の唐清がまたこれを撃破した。さらに高黎共山下まで追撃し、合わせて三千余級を斬った。乗勝して深く入り、思任発を上江に追い詰めた。上江は賊の重地である。方政は遠征攻撃で甚だ疲弊し、沐晟に援軍を求めたが、沐晟はその節制に違いて江を渡ったことを怒り、派遣しなかった。久しくして、少兵を以て赴いたが、夾象石に至り、また進まなかった。方政は空泥まで追撃し、沐晟が救わぬと知り、賊が象陣を出して衝撃し、軍は殲滅され、方政はそこで戦死した。沐晟は敗報を聞き、そこで増軍を請うた。帝は使者を遣わしてその状況を責め、なお湖広官軍三万一千五百人・貴州一万人・四川八千五百人を調発し、呉亮・馬翔にこれを統率させ、雲南に至らせて沐晟の節制に従わせ、なお沐晟に糧糒を予め籌画するよう勅した。しかし沐晟は罪を懼れ、急死した。
この時、思任発の兵はますます横暴となり、景東を犯し、孟定を剽掠し、大侯知州の刀奉漢ら千余人を殺し、孟頼諸寨を破り、孟璉長官司等の諸処は皆これに降った。思任発はなおも人を遣わし、象馬金銀を以て貢を修め、また番書を雲南総兵官に送り、謂うには、「初めは潞江安撫司の線旧法が相邀えて仇を報いたためであり、その後、線旧法が己を入寇と誣いたため、大軍が境を圧するに至り、惶恐して地無し。今、使を遣わして罪を謝し、導奏を乞わんと欲す」と。帝は勅を降し、その罪を赦すことを許した。時に刑部侍郎の何文淵が上疏して麓川征討軍を罷めることを請い、命が下って廷臣に議させた。ここにおいて行在兵部尚書の王驥および英国公の張輔らは、皆「麓川は恩に背き悪を恃み、必ず誅すべきところであり、更に将を選び兵を練り、以て天討を昭らかにすべし。もし思任発が早く自ら禍を悔い、軍門に縛し詣でば、生を全うする恩は、上裁に取る」と為した。帝はこれを然りとした。已にして侍講の劉球がまた兵を息めることを何文淵の議の如く請うた。部(兵部)が覆奏して、麓川征討は既に成命ありとし、奏聞に報じた。
六年、定西伯の蒋貴を平蛮将軍とし、都督の李安・劉聚をその副とし、兵部尚書の王驥に雲南軍務を総督させ、諸道の兵十五万を大会してこれを討った。時に思任発は賊将の刀令道ら十二人を遣わし、衆三万余人、象八十頭を率いて大侯州に抵り、景東・威遠を奪わんとした。一方、王驥が金歯に抵らんとすると、思任発は人を遣わして降伏を乞い、王驥はこれを受け、密かに諸将に分道して入るよう命じた。右参将の冉保は東路より細甸・湾甸水寨を攻め、鎮康に入り、孟定に向かった。王驥と蒋貴は中路より上江に至り、騰沖で会した。左参将の宮聚は下江より夾象石を占拠した。期日に至り、合攻した。賊は厳しく拒守し、銃弩飛石、雨の如く交えて下った。翌日、風に乗じてその柵を焚き、火は夜を徹して息まなかった。官軍は力戦し、上江寨を抜き、刀放戛父子を斬り、刀孟項を擒え、前後五万余を斬馘し、捷を以て奏聞した。
七年、王驥は兵を率いて下江を渡り、高黎貢山の道を通った。騰沖に至り、都督李安に兵を留めて守備させた。驥は南甸から羅卜思莊に至り、前軍は杉木籠に達した。時に思任発は二万余りの衆を率いて高山に拠り、堅固な寨を立て、七つの営を連環させ、首尾相応じた。驥は宮聚・劉聚を遣わして左右の翼とし、嶺を縁って上らせ、驥は中軍を率いて横撃し、賊は逃げた。軍は馬鞍山に進み、賊の寨を攻めた。寨は両面が江に臨んで切り立っており、周囲三十里に柵を立て塹を開き、軍は進めず、賊は間道からひそかに兵を出して馬鞍山の背後に出た。驥は中軍に動くなと戒め、指揮方瑛に精騎六千を率いて賊の寨に突入させ、数百級を斬首し、さらに象陣を誘って破った。そして東路から進む者は、木邦の人馬と合流し、孟通の諸寨を招降した。元江同知杜凱らもまた車裏及び大侯の蛮兵五万を率い、孟璉長官司を招降し、さらに烏木弄・戛邦などの寨を攻め破り、二千三百余級を斬首した。麓川に集結し、西峨渡を守り、木邦との連絡を通じた。百方から包囲攻撃し、さらに火を放ってその営を焼き、賊の死者は数え切れなかった。任発父子三人は妻子数人を連れ、間道から江を渡り、孟養に奔った。原給の虎符・金牌・信符・宣慰司の印及び掠奪した騰沖千戸等の印三十二を捜索して獲得した。麓川は平定された。捷報が聞こえ、還師を命じた。時に任発は敗走して孟蒙に至り、また木邦宣慰に撃たれ、金沙江を追い越えて孟広に走った。緬甸宣慰卜剌當もまた兵を起こしてこれを攻めた。帝は木邦・緬甸が命に従い任発を擒らえて献ずるならば、すなわち麓川の地を与えると命じた。間もなく、任発は緬人に擒らえられ、緬人は彼を人質にして地を求めた。その子思機発は窮困し、来朝して謝罪することを乞い、先にその弟招賽を遣わして入貢させた。帝は雲南に送還して安置するよう命じた。機発は大軍の帰還を窺い、回復を図り、麓川に拠って出兵し侵擾した。ここにおいて再び王驥・蔣貴らに大軍を統率させて麓川を再征させた。驥は師を率いて金歯に至り、機発は頭目刀籠肘を遣わし、その子を伴って軍門に至り降伏を求めた。驥は人を緬甸に遣わして任発を要求したが、緬は偽って諾し遣わさなかった。驥は騰沖に至り、蔣貴・沐昂と五つの営に分かれて進み、緬人もまた衆を集めて待った。驥は大軍を乗じて攻めようとしたが、その衆の盛んなるを見て、容易に抜けず、また一つの麓川の敵を増やすことを恐れ、そこで師を犒うと宣言し、蔣貴に命じてひそかにその舟数百艘を焼かせ、師を進めてこれに迫った。緬甸は以前の詔を固執し、必ず地を与えてから任発を出すとし、さらに詭計をもって機発が仇を招いたと弁解した。驥はそこで者藍に急行し、機発の巣窟を攻め、これを破った。機発は脱走し、その妻子部衆を俘虜とし、隴川宣慰司を立てて帰還した。時に思機発はひそかに孟養に拠り、固く守って服従せず、自ら安んじていた。
十一年、緬甸は初めて任発及びその妻子三十二人を献じて雲南に至った。任発は道中で食を絶ち、死に瀕した。千戸王政がこれを斬り、首を函に入れて京師に送った。その子機発はたびたび降伏を乞い、頭目刀孟永らを遣わして朝貢を修め、金銀を献じた。朝廷が兵を調発して征討し、地なくして死を逃れ、余生を貸してほしいと、言葉は甚だ哀れであった。帝はその貢を受け、ついで総兵官沐斌及び参賛軍務侍郎楊寧らに勅し、朝廷がすでに思機発を不死に貸した以上、善後の長策を経画して奏聞するよう命じ、また勅を賜って思機発を諭した。十二年、総兵官黔国公沐斌が奏上した。「臣は千戸明庸を遣わし勅を齎して思機発を招諭したが、遣わした弟招賽が未だ帰らず、疑懼して出て来ようとしない。近く緬甸は機発がその牛馬・金銀を掠奪したため、進兵して攻め取ろうとしている。臣らは議して人を分遣し木邦・緬甸の諸宣慰司に諭し、蛮兵を集め、期日を定めて江を渡り、分道して機発を討たせようと思う。臣らは官軍一万人を率いて騰沖に駐屯し、その勢いを助ける。賊は四面に敵を受け、必ず擒らえられるであろう。」これを従った。すでに、機発の弟招賽を頭目に授け、冠帯・月糧・房屋を与え、錦衣衛に隷属させ、その従人はみな馴象所で供役させるよう命じた。先に、招賽は雲南に安置されていたが、その党に乱を称そうとする者がいたため、招賽を京師に来させ、かつ機発を招き寄せることを期待したのである。帝はすでに雲南に出兵して機発を剿討するよう命じ、沐斌らが騰沖に至ると、諸軍を督して追捕したが、機発は終に出ず、ひそかに孟養に隠れ、その徒を遣わして来貢した。恩赦を以て許したが、また至らなかった。斌は春の瘴気が起こり、江が漲って渡れず、糧も乏しいため、兵を引いて還った。帝は斌の師が出て功なく、再び兵部尚書靖遠伯王驥に軍務を総督させ、都督同知宮聚に平蛮将軍の印を佩かせ、南京・雲南・湖広・四川・貴州の官軍・土軍十三万人を率いてこれを討たせた。ここに至り、驥は凡そ三たび麓川を征したのである。帝は密かに驥に諭して言った。「万一思機発が遠く遁れるならば、まず刀変蛮を擒らえ、その巣穴を平らげよ。あるいは緬地に遁れ込めば、緬人が党して蔽うも、また機に乗じてこれを擒らえよ。これによって蛮衆に懼れを知らしめ、大軍が徒に出ることをさせないように。」また斌に勅諭し、軍事はすべて驥と会議して行うよう命じた。また木邦・緬甸・南甸・幹崖・隴川等の宣慰司罕蓋発らに勅諭し、各々兵を整え船を備え、糧を積んで調度を待つよう命じた。
十四年、驥は諸将を率いて騰沖から会師し、幹崖から舟を造り、南牙山に至って舟を捨て陸行し、沙壩に抵り、再び舟を造って金沙江に至った。機発は西岸に柵を埋めて拒守した。大軍は流れに順って下り管屯に至ると、ちょうど木邦・緬甸両宣慰の兵十余万も沿江の両岸に列し、緬甸は舟二百余を備えて浮橋とし師を渡らせ、力を合わせてその柵寨を攻め破り、積穀四十万余石を得た。軍は飽き、鋭気は倍増した。賊は衆を率いて鬼哭山に至り、両峰の上に大寨を築き、二つの寨を両翼として築き、さらに七つの小寨を築き、百余里に綿亘した。官軍は分道して並進し、すべてこれを攻め抜き、斬獲は数え切れず、思機発・思卜発はまた奔って遁れた。
時に王師は孟養を越えて孟那に至った。孟養は金沙江の西にあり、麓川から千余里離れており、諸部はみな震駭して言った。「古より、漢人に金沙江を渡る者なし。今、王師ここに至るは、真に天威なり。」驥は兵を還したが、その部衆は再び任発の少子思祿を擁して孟養の地に拠り乱を起こした。驥らは師が老いたことを慮り、賊は滅ぼしがたいと度り、そこで思祿と約し、土目が諸蛮を部勒することを許し、孟養に居ることを従前の如くとし、石を金沙江に立てて境界とし、誓って言った「石爛れ江枯れなば、爾ら乃ち渡るを得ん」。思祿もまた懼れ、命を聴き、そこで師を班した。捷報が聞こえ、帝は廟に告げた。
景泰元年、雲南総兵官沐璘が奏上した。「緬甸宣慰はすでに思機発を擒らえ、また思卜発を孟養に放ち帰そうとしている。恐らくは緬人が再びこれを奇貨として挟むであろう。緩やかにし、その自ら献ずるに任せる方がよい。」これを従った。五年、緬人は旧地を要求し、左参将胡誌らは銀戛等処の地方を与えると諭し、そこで思機発及びその妻子六人を金沙江村に送り、誌らは檻車に乗せて京師に送った。南寧伯毛福寿がこれを奏聞し、そこで思機発を京師で誅した。七年、任発の子思卜発が奏上した。「臣の父兄は法を犯したが、時に臣は幼く無知であった。今、父兄の為したるが如くすることを敢えず、甚だ朝廷の法を畏れ、謹んで差発銀五百両・象三・馬六及び方物等を備え、使人を遣わして入貢する。惟れ天皇帝主哀憐したまえ。」これにより勅を賜って戒諭し、並びに思卜発とその妻に錦幣を賜い、その使者に鈔幣を差等して与えた。
成化元年、総兵官沐瓚らが思任発の孫思命発を京師に至らせ、これは逆賊の遺孽であり留めておくべからずとし、沿海の登州衛に安置し、月に米二石を給することを請うた。これに従う。麓川は滅亡す。先に、麓川が初めて平定された時、その地を分けて隴川宣撫使司を立て、これにより恭項を宣撫使とした。恭項は、もと麓川の部長であり、まず帰順して効力し功あり、これにより麓川の故地に宣撫を開設することを命じた。既にして、頭目曩渙らがまた来帰し、賊を捕らえて自ら効力を願う。帝は本土を守るに還ることを命じ、功あれば即ち叙勲を加える。諸凡来帰する者はこの例に準ず。遂に刀歪孟を本司の同知とし、刀落曩を副使とし、隴帚を僉事とし、ともに冠帯を賜い、宣撫恭項の請いに従う。恭項の子恭立が来貢し、給賜は例の如くし、並びに恭立を長史に授く。未だ幾ばくもせず、隴川宣撫が印を失い、再給を請う。帝は恭項を責めて、国威を宣揚できず、かえって印を失い、罪は宥すべからざるも、姑く寛大に頒給する。時に板蹇が者藍寨を拠り、隴川を侵擾す。百夫長刀門線・刀木立が進兵してこれを囲み、板蹇ら二十三人を斬る。命じて有功の者に皆冠帯把事を賜い、並びに織金文綺を賚う。
正統十一年、木邦宣慰罕蓋発が来たりて麓川の故地を求む。有司は既に隴川宣撫司を設け、官を建てて分掌し、孟止の地をこれに与えたるを以て、報じて可とす。十二年、恭項に勅諭して言う、「比者、総兵が奏するに、爾と百夫長刀木立と相仇殺し、人民怨みを懐き、爾が父子を謀害せんと欲す。今爾を雲南に遷し、俾くも失所せず、且つ官を遣わして爾が家属を完聚せしむ。その憫恤を体し、疑懼なきべし」。既にして総兵官言う、「隴川の乱を致すは、皆な恭項が暴に無辜を殺し、蛮人を刻虐するに由る。同知刀歪孟は蛮衆の信服する所、乞うらくは項を別衛に安置し、刀歪孟を以て代えん」。帝は恭項の来帰を以て、法を屈してこれを宥し、曲靖に安置することを命じ、並びに勅を遣わして往諭せしむ。
景泰七年、隴川宣撫多外悶が人を遣わして象・馬及び金銀器皿・方物を貢ぐ。例の如く彩幣・襲衣を賜う。仍って勅を賫してこれを賜うことを命じ、多外悶が初めて朝貢を修むる故なり。成化十九年、隴川宣撫司の多歪孟の子亨法を以て職を代わらしむ。初め、隴川は木邦と相隣接し、地を争い仇殺し、兵を構えて息まず。嘉靖中、土舍多鯨が兄を刃して自ら襲い、鎮巡官に下して按問せしめ、辜に伏し、職を兄の子多參に還す。詔してその罪を貰い、並びに木邦の罕孟に戒めて復た鯨に党して職を争うこと毋からしむ。
万暦初め、緬甸の莽瑞体叛し、来たりて隴川宣撫多士寧を招く。士寧従わず。その記室嶽鳳は、江西撫州の人、黠にして智多く、隴川に商う。士寧これを信任し、妹を以て妻とす。鳳は曲く士寧に媚び、陰にその権を奪い、三宣六慰の各土舍罕抜らと歃血して盟し、士寧を誘いて擺古に往かしめ、緬酋に帰附せしむ。陰にその子曩烏をして士寧を鴆し、並びにその妻女を殺さしめ、印を奪って緬に投じ、緬の偽命を受け、士寧に代わって宣撫となる。瑞体死し、子応裏嗣ぐに及び、鳳父子これに臣服す。官軍を誘いて敗り、士寧の母胡氏及び親族六百余人を応裏に献じ、尽くこれを殺す。多氏の宗、幾くんぞ尽きんとす。初め、鳳の緬に附するや、瑞体のために諸部を招き、中国に拒み、官軍を傷つけ、逆勢浸く成る。緬深くこれに倚る。久しくして、緬の恃むに足らざるを以てす。而して鄧川土知州何鈺は、鳳の友婿なり。初め人をして鳳を招かしむ。鳳は使を執って緬に献ず。これに及び、鈺復た百方に開示し、これと盟誓す。時に官軍も亦大いに集まり、諸将劉綎・鄧子龍各々勁師を率いて至り、壁を四面に環らす。鳳懼れ、乃ち妻子及び部曲をして来降せしむ。綎は責めて金牌・符印及び蛮莫・猛密の地を献ぜしむ。乃ち鳳の妻子を隴川に還すを名として、兵を分かち沙木籠山に趨り、先ずその険を占め、而して自ら大兵を領して馳せて隴川に入る。鳳、脱するに可なる無きを度り、遂に軍門に詣りて降る。綎復た兵を率いて緬に進む。緬の将先ず遁れ、少兵を隴川に留む。綎これを攻む。鳳の子曩烏も亦降る。綎乃ち鳳父子を携えて蛮莫を攻め往く。蛮莫の賊、鳳の降るを知り、馳せて応裏に報じ、兵を発して隴川を図る。綎、機に乗じて掩殺す。賊窘し、降を乞い、緬人及び象馬を縛して来献す。遂に孟養の賊を招撫す。賊将、象に乗って走らんとす。追いてこれを獲る。復た師を移して孟璉を囲み、その魁を生擒す。隴川平ぐ。俘を朝に献ず。帝、これがために郊廟に告謝す。時は万暦十二年九月なり。逾年、復た隴川宣撫司及び孟定府の印を鋳、孟密安撫を宣撫司に升む。安撫司二を添設し、曰く蛮莫、曰く耿馬。長官司二、曰く孟璉、曰く孟養。千戸所二、一は姚関に居り、一は孟淋砦に居り、皆なこれを鎮安と名づく。並びに印記を鋳し、大将の行署を蛮莫に建つ。雲南巡撫劉世曾の議に従うなり。ここに於いて、多士寧の子思順、隴川宣撫使を襲ぐ。
二十九年、莽応裏分道して入犯す。一は遮放・芒市に入り、一は臘撒蛮顙に入り、一は杉木籠に入り、並びに隴川より出づ。多思順敵せず、猛卯に奔る。緬、初め猛卯同知多俺を以て嚮導とし、東路を寇す。これに至り、大軍木邦の罕欽を遣わして多俺を擒えこれを殺す。未だ幾ばくもせず、思順死す。蛮莫の思正、喪に乗じて隴川を襲い、その妻罕氏を拠る。三十五年、思順の子安民、守将の賂を索むるを以て、叛して緬に入る。已にして緬、撫を聴き、安民を遣わして帰らしむ。安民久しく蛮湾に拠り、桀驁甚だし。永騰参将周会を署す。二指揮を遣わしてこれを襲うも、敗績す。王師亟に討つ。その族人その弟多安靖を挟みてこれを誅し以て献ず。時に安靖尚ほ幼く、勢孤し。詔してその長ずるを俟ちてこれに印を与う。安民の弟安邦治も亦緬に附し、後に蛮莫に寄居す。その地に馬安・摩黎・羅木等の山あり、極めて険峻なり。麓川の恃みて巣穴と為す所なり。