後世の法が古に勝り、しばしば改めて益々精密になるものは、暦法が最も著しい。『唐志』は天は動く物であり、久しければ則ち差謬を生ずるので、その法を屡々変えてこれを求めざるを得ない、と謂う。この説はもっともらしいが、そうではない。『易』に曰く、「天地の道は、貞観なり」と。蓋し天の運行は至って健やかで、確然として常があり、本来古今の異なることはない。その歳差・盈縮・遅疾などの諸運行が、古には無く今にあるのは、その数が甚だ微かで、積もり久しくなって初めて著しくなるからである。古人は気づかず、後人が知るのであって、天の運行の誤りではない。もし天が果たして久しく動いて差謬を生ずるならば、必ずや錯綜乱れて典拠となるものがなくなり、どうしてこれを修正して益々精密にすることができようか。伝志に書かれた、歳がその次を失い、日度が運行を失う事柄が、近代に見られないことからも、明らかであろう。天の運行度数は多岐にわたり、人の知力は有限である。尋尺の儀表を持ち、穹蒼を仰いで測って、どうして悉く遺漏なく洞察できようか。ただ古今の人の心と思慮を合わせ、事を継いで増補修正して、初めて符合するのである。故に一成不易の法と為すことはできないのである。
黄帝から秦に至るまで、暦は凡そ六たび改まる。漢は凡そ四たび改まる。魏から隋に至るまで、十五たび改まる。唐から五代に至るまで、十五たび改まる。宋は十七たび改まる。金から元に至るまで、五たび改まる。ただ明の『大統暦』は、実は即ち元の『授時暦』であり、これを承用すること二百七十余年、未だ憲法を改めなかった。成化以後、交食は往々にして験せず、暦を改めんと議する者紛紛たり。俞正己・冷守中の如き妄作を知らざる者は論ずるに及ばず、華湘・周濂・李之藻・刑雲路の輩は頗る見る所あり。鄭世子載堉は『律暦融通』を撰し、『聖寿万年暦』を進め、その説は南都御史何瑭に本づき、深く『授時暦』の意を得て、その及ばざるを補うことができた。台官は旧聞に泥み、当事者は改作を憚り、共に阻まれて行われなかった。崇禎中、西洋の新法を用いんと議し、閣臣徐光啓・光禄卿李天経に命じて先後してその事を管掌させ、『暦書』一百三十余巻を成し、古人の未だ発せざる所を多く発した。時に布衣魏文魁が上疏してこれを排し、詔して両局を立てて検証させた。累年校測するに、新法のみが精密であったが、然し未だ頒行に及ばなかった。これによって観れば、暦は固より久しく行なって差のないものはなく、どうして時につれて随時修正し、天に合わんと求めないことができようか。
今、諸家の論説を採り、暦法に裨益あるものを、篇端に著す。而して『大統暦』は則ち立法の本源を述べ、以て『元志』の未備を補う。『回回暦』は終始欽天監に隷属し、『大統暦』と参用されたので、亦附録する。
▲暦法沿革
永楽に順天に遷都すれども、仍お応天の冬夏昼夜時刻を用い、正統十四年に至って初めて順天の数に改用す。その冬、景帝即位す。天文生馬軾が奏す、昼夜時刻は改むべからずと。廷臣を下して集議せしむ。監正許惇等言う、「前監正彭徳清が測験して得たるに、北京の北極出地は四十度、南京より七度余り高く、冬至の昼は三十八刻、夏至の昼は六十二刻なり。奏して準じられて『大暦』に改め入れ、永く定式と為す。軾の言は誕妄にして、聴くに足らず」と。帝曰く、「太陽出入の度数は、四方の中を用うべし。今京師は堯の幽都の地に在り、どうして準と為すべけんや。此れより後、暦を造るには、仍お洪武帝・永楽帝の旧制を用いよ」と。
十五年、礼部員外郎の鄭善夫が言う、「日月の交食は、日食が最も測り難い。月食の分数は、ただ距交の遠近を論ずるだけで、別に四時の加減はなく、また月は小さく暗虚は大きく、八方の見るところ皆同じである。もし太陽が月に掩われると、太陽は大きく月は小さく、太陽は上にあり月は下にあり、太陽は遠く月は近い。太陽の運行には四時の異なりがあり、月の運行には九道の分けがある。故に南北で観測が異なり、時刻もまた異なる。必ず地に拠って表を定め、時に因って合致を求めねばならない。例えば正徳九年八月辛卯の日食は、暦官が八分六十七秒と報じたが、閩・広の地では遂に食既に至った。時刻分秒がどうして同じでありえようか。今は交食に按じて暦元を改めるべきであり、時刻分秒は必ず奇零を剖析して詳尽にすべきである。そうでなければ、歳月を積むにつれて、躔離朓朒がまた合致しなくなる」と。返答がなかった。十六年、南京戸科給事中の楽頀、工部主事の華湘が暦法に通じているとして、ともに光禄少卿に抜擢され、監事を管掌した。
その日躔を議するに曰く、「古暦『六経』に見ゆるもの、灼然として考ふべきは日躔及び中星に如かず。而して推歩家に達する者鮮し。蓋し夏時・周正の異を知らざるに由るなり。大抵夏暦は節気を主とし、周暦は中気を主とす。何承天は正月甲子夜半合朔雨水を以て上元と為す。進みて夏朔に乖き、退きて周正に非ず。故に近代『月令』・『小正』を推する者は、皆古に合はざるなり。嘗て新法の歳差を以て、上りて『堯典』の中星を考ふれば、則ち所謂四仲月は、蓋し節気の始より中気の終に至るまで、三十日内の中星のみ。後世の二分二至に執する者は、是れ亦誤れり。」
その候極を議するに曰く、「漢より斉・梁に至るまで、皆紐星即ち不動の処と謂ふ。惟だ祖〓恆之の測知するに、紐星極を去ること一度余り有り。唐より宋に至るまで、又紐星極を去ること三度余りを測る。『元志』は三度に従ふ。蓋し説未だ有らざるなり。新法は紐星を測らず、日景を以て之を験す。正方案の上に、周天度内に権へに一度を指して北極と為し、此の度より右旋し、数へて六十七度四十一分に至り、夏至日躔の所在と為す。復た百十五度二十一分に至り、冬至日躔の所在と為す。左旋するも、数へ亦之の如し。四処並びに中心五処、各々一針を識す。二至日の午中に、案を直立し南に向ひて景を取り、三針の景を合はせ、然る後に縄を縣け中綿を界取り、又方十字を以て之を界し、横界の上に距る極出地度分を視れば、即ち極出地度分なり。」
その漏刻の議論においては、言うには、「日月が帯食して出入りし、五星が晨昏に伏見するのは、暦家が法を設けること悉く日影と漏刻を基準とするからである。そして日影と漏刻は、地勢の南北、北極の高下によって異なる。元人は燕に都し、その《授時暦》の七曜出没の早晏、四時昼夜の永短は、皆大都の漏刻を基準とした。国初、金陵に都し、《大統暦》の漏刻は南京に移り改められ、冬至夏至で三刻余りの差があった。今、交食の分秒、南北東西の等差及び五星の定伏定見を推算するのに、皆元人の旧法に因りながら、ただその漏刻のみを改めた。これによって互いに舛誤を生じるのである。故に新法の漏刻は、元の旧に照らし従う。」
その日食の議論においては、言うには、「日道と月道が相交わる処に二つあり、もし正しく交点で会えば、食既となる。もしただ交点の前後近くにあるならば、食するも既とならない。これが天の交限である。また人の交限があり、仮に中国で食既となっても、太陽の直下では、欠ける所が半分に過ぎず、化外の地では、交わるも食しない。地を易えて反対に見ても、同様である。何故か。太陽を大きな赤い丸とし、月を小さな黒い丸とし、共に一つの縄に懸ける。太陽が上で月が下にあれば、その下から正しく望めば、黒丸は必ず赤丸を掩い、食既の如く見える。傍らから見れば遠近の差があり、食分に多寡が生じる。春分以後、太陽は赤道の北側を運行し、交点の外側では偏って多く、内側では偏って少ない。秋分以後、太陽は赤道の南側を運行し、交点の外側では偏って少なく、内側では偏って多い。故に南北差がある。冬至以後、太陽は黄道の東側を運行し、午前では偏って多く、午後では偏って少ない。夏至以後、太陽は黄道の西側を運行し、午前では偏って少なく、午後では偏って多い。故に東西差がある。日中に仰ぎ見れば高く、旦暮に平らに見れば低い。これが距午差である。中天前の食は早く見え、中天後の食は遅く見える。故に時差がある。凡そこれらの諸差は、太陽にのみあり、月には無い。故に交食を推算するのは、太陽が特に難しい。九服の変異を推算しようとすれば、必ず各々その処に拠り、日影の短長を考へ、北極の高下を測り、ようやく得ることができる。《暦経》が推定する数値は、ただ燕都で見えるものを言うに過ぎない。旧く云う、『月が内道を行けば、食多く験あり。月が外道を行けば、食多く験なし。』また云う、『天の交限は、内道に属するといえども、もし人の交限の外にあれば、外道に類し、日も食しない。』この説は一見もっともらしいが、未だ尽きていない。仮に夏至前後、寅卯酉戌の間に日食があれば、人が東北・西北に向かって観れば、外道の食分が内道よりも反って多くなる。太陽の体は月より大きく、月はこれを尽く掩うことができない。あるいは食既に遇っても、日光が四方に溢れ、形は金環の如くなる。故に太陽には十分食する理は無い。既に食既となっても、ただ九分八十秒に止まる。《授時暦》の日食は、陽曆限六度、定法六十、陰曆限八度、定法八十。各々その限度を置き、その定法で除せば、皆十分を得る。今、その定法の下に各々一数を加えて限度を除すれば、九分八十余秒を得る。」
その月食の議論においては、言うには、「暗虚とは、影である。影が月を蔽うには、早晚高低の異が無く、四時九服の殊れが無い。譬えば暗室に一つの黒丸を懸け、その左に燭を燃やし、その右に一つの白丸を懸ける。もし燭光が黒丸に蔽われれば、白丸はその光を受けない。人が四旁から観ても、見える所に違いは無い。故に月食には時差の説は無い。《紀元暦》が妄りに時差を立て、《授時暦》がこれを因ったのは、誤りである。」
書が上ると、礼部尚書范謙が奏上して言う、「歳差の法は、虞喜以来、代々に差法の議論があるが、ついに統一の規程がない。それを求める方法は、およそ三つある。月令の中星を考証し、二至の日影を測定し、交食の分秒を検証することである。衡管で考証し、圭表で測定し、漏刻で検証する、これもまたほぼ得るところである。暦家は周天三百六十五度四分度の一をもって七政の運行を記し、また度を百分に分け、分を百秒に分ける、密であると言えよう。しかし渾象の体は径わずか数尺、周天の度を配するに、毎度は指許にも及ばず、どこに分秒を置くことができようか。圭表の立てるものは数尺を超えず、刻漏の籌は数寸を越えない。天の高くかつ広大なるに、寸の物をもってこれを求め、その微細な誤りもないようにしようとするのは、また難しくないか。故にその差が分秒の間にあるときは、検証する方法がなく、一度を超えて初めて管窺することができるのである。これが古今の智巧を尽くしても、その変化を尽くせない所以であろうか。即ち世子の言うように、『大統』『授時』二暦を比較すれば、古を考証すれば気差三日、今を推せば時差九刻である。時差九刻は、亥子の間にあれば一日を移し、晦朔の交わりにあれば一月を移す、これは近くで検証できる。もし前に移れば、生明は二日の夕方となり、後に移れば、生明は四日の夕方となる。今はまだここまで至っていないようである。その書は欽天監に発して参訂測験させるべきである。世子は暦学に心を留め、古今に博通しているので、褒賞と諭旨を賜うべきである」。これに従う。
河南僉事邢雲路が上書して言う、「暦を治める要は、観象・測景・候時・籌策の四事に過ぎるものはない。今丙申年の日至を、臣は乙未日の未正一刻と測得したが、『大統』は申正二刻と推して、九刻の差がある。また今年の立春・夏至・立冬は皆ちょうど子半の交わりに当たる。臣は立春を乙亥と推するが、『大統』は丙子と推す。夏至を壬辰と推するが、『大統』は癸巳と推す。立冬を己酉と推するが、『大統』は庚戌と推す。いずれも一日隔たっている。もし元日が子半に当たれば、履端を月窮に退け、朝賀の大礼は月正二日となるであろう。これは細かな事柄であろうか。閏八月朔の日食は、『大統』は初虧を巳正二刻と推し、食はほとんど既に近いが、臣が候うところでは初虧は巳正一刻で、食は七分余りに止まる。『大統』は実に天より二刻ほど後れており、則ち閏応及び転応・交応を各々増減すべきである」。欽天監は雲路の上疏を見て、これを甚だ憎んだ。監正張応候が奏上して誹謗し、その僭越妄言で世を惑わすと言う。礼部尚書范謙は乃ち言う、「暦は国家の大事であり、士大夫の講求すべきところで、暦士の私すべきものではない。律例の禁ずる所は、妄言して妖祥を説く者である。監官は成法に拘泥して守り、天に合うように修改することができない。幸いその人があるので、和衷して事に当たるべきで、嫉妬すべきではない。雲路を以て欽天監事を提叔させ、官属を督率して、精魂を込めて測候させ、以て巨典を成すことを乞う」。議が上るも、返答がない。
三十八年、監が推した十一月壬寅朔の日食の分秒及び虧円の候を、職方郎範守己が上疏してその誤りを駁す。礼官は因って博く暦学を知る者を求め、監官と昼夜推測させ、暦法の誤差が無いようにすることを請う。ここに於いて五官正周子愚が言う、「大西洋より帰化した遠臣龐迪峨・熊三撥らは、彼の国の暦法を携えており、多くは中国の典籍に備わっていないものである。洪武中に西域暦法を訳した例に倣い、暦を知る儒臣を選んで監官を率い、諸書を尽く訳させ、以て典籍の欠を補うことを乞う」。先に、大西洋人利瑪竇が土物を進貢し、迪峨・三撥及び能華同・鄧玉函・湯若望らが先後に至り、皆天文暦法を精究していた。礼部は因って奏上する、「暦法に精通する者は、雲路・守己の如きは時に推されるところであり、京卿に改授し、共に暦事を理めさせることを請う。翰林院検討徐光啓・南京工部員外郎李之藻もまた皆暦理に精魂を込めており、迪峨・三撥らと共に西洋法を訳させ、雲路らに参訂修改させることができる。然るに暦法の疎密は、交食に顕著でないものはなく、暦を修めようと議するには、必ず測験を重ねねばならない。司に勅して儀器を修治させ、以て事に従いやすくすることを乞う」。上疏が入るも、留中される。未だ幾ばくもせず雲路・之藻は皆京に召され、暦事に参与する。雲路はその学ぶ所に拠り、之藻は則ち西法を宗とする。
四十一年、之藻は既に南京太僕少卿に改銜し、西洋暦法を奏上し、大略に台監の推算する日月交食の時刻虧分の謬りを述べる。そして力を込めて迪峨・三撥及び華民・陽瑪諾らを推薦し、言う、「その論ずる所の天文暦数は、中国の昔の賢人も及ばないものがあり、ただその数を論ずるだけでなく、またその所以然の理を明らかにすることができる。その製する窺天・窺日の器は、種々精絶である。今迪峨らは年齢衰えに向かう、礼部に勅して局を開き、その暦法を取り、訳し出して書を成すことを乞う」。礼科姚永濟もまた以て言う。時に庶務は因循し、未だ局を開く暇がなかった。
時に巡按四御史馬如蛟が資県の諸生冷守中が暦学に精しいと推薦し、その呈した暦書を局に送った。光啓は力めてその謬りを駁し、併せて翌年四月の四川の食時刻を予推し、臨時に比測せしめた。四年正月、光啓は『暦書』二十四巻を進めた。夏四月戊午、夜望月食あり、光啓は分秒時刻方位を予推した。奏して言う、「日食は地に随って同じからず、則ち地緯度を用いてその食分の多少を算し、地経度を用いてその加時の早晏を算す。月食の分秒は、海内並びに同じく、只だ地経度を用いて先後の時刻を推求す。臣は輿地図より約略推歩し、各布政司の月食初虧の度分を開載す。蓋し食分の多少は既に天下皆同じければ、則ち余率は類推すべく、日食の経緯各々殊なるが如く、必ずしも詳備を須いざるなり。又月体は十五分、則ち尽く暗虚に入るも亦十五分に止まるのみ。今二十六分六十六秒と推するは、蓋し暗虚の体は月より大にして、若し食時に去交稍遠ければ、即ち月体は全く暗虚に入ること能わず、只だ月体に従ってその分数を論ず。今夕の食は、極めて交に近く、故に月は暗虚に十五分入りて方に食既となり、更に一十一分有奇を進みて、乃ち生光を得、故に二十六分有奇となる。『回回暦』の推する所の十八分四十七秒の如きは、略々この法と同じきなり」。已にして四川より報じて冷守中の推する所の月食は実に二時差あり、而して新法は密かに合すと。
光啓はまた『暦書』二十一卷を進めた。冬十月辛丑朔日食あり、新法は予め順天において食二分一十二秒を見、応天以南は食せず、大漢以北は食既とし、例に京師の見食三分に及ばざれば救護せず。光啓言う、
月食は夜に在り、加時の早晚は、若し定拠無くんば測り難し。惟だ日食は晷に按じて時を定め、遷就すべからず。故に暦法の疏密、此れを的症と為す。臣等新法を纂輯し、漸次就緒すれども、而して向うに交食を生ずるは期尚遠く、此時監臣と共に見ざれば、成暦の後に至りて、将に何を以て徴信せん。且つ是の食の必ず測俟すべきは、更に説有り。
旧法は食正中に在れば、則ち時差無し。今此の食は既に日中に在り、而して新法に仍って時差有るは、蓋し七政の運行は皆黄道に依り、赤道に由らざるなり。旧法の所謂中は乃ち道の午中にして、黄道の正中に非ざるなり。黄赤二道の中、独り冬夏至の加時正午にて、乃ち同度を得。今十月朔は冬至より度数尚遠く、両中の差、二十三度有奇、豈に加時午に近きを因りて、加減せざるべけんや。適に此の日に際し、又た此の時に値う、足らく以て時差の正術を験すべく、一なり。
本方の地の経度、未だ真率を得ざれば、則ち加時定め難く、その法は必ず交食時に測験数回して、乃ち較勘すべし。今此の食は新術に依りて測候すれば、その加時の刻分、或いは後れて未だ合わざるも、当に前に記したる地経度分を取り、斟酌して改定すべく、此れ以て裡差の真率を求むべく、二なり。
時差の一法、只だ中に加減無きを知るのみにして、中に黄赤の分かるるを知らず、今一たび目見すれば、人人加時の黄道に因るを知り、此れに因りて彼を推し、他の術皆然り、足らく以て学習の甚だ易きを知るに足り、三なり。
即ち分数甚だ少なきも、宜しく詳かに測候を加え、以て顕験を求むべし。帝は其の言を是とす。期に至り、光啓は監臣を率いて予め日晷を点じ、壺漏を調え、測高の儀器を用いて食甚の日晷高度を測る。又た密室中に斜めに一隙を開き、窺筒・遠鏡を置きて以て虧円を測り、昼日体分板・分數図板を以て食分を定む。その時刻・高度悉く合すれども、惟だ食甚の分数未だ二分に及ばず。ここに於いて光啓言う、「今食甚の度分密合すれば、則ち経度裡差は已に更に定むる煩い無し。独り食分未だ合わず。原推する者は蓋し太陽の光大にして、能く月魄を減ずれば、必ず食四五分以上に及びて、乃ち原推と相合するを得るなり。然れども此の測は、密室窺筒を用うる故に、能く此の分数を得たり。倘し只だ目力を憑み、或いは水盆に照映せば、則ち眩耀定まらず、少なきは尚ほ此れに止まらざるを恐るるなり」。
時に満城の布衣魏文魁あり、『曆元』・『曆測』の二書を著し、其の子象乾をして『曆元』を朝廷に進めしむ、通政司これを局に送り考驗す。光啓、極論すべき七事を摘む。其一、歳実は漢以来、代々減差あり、『授時』に到りて二十四分二十五秒と減ず。郭法に依れば百年に一を消し、今は二十一秒有奇と為すべし。然るに『曆元』は趙知微の三十六秒を用い、翻覆して驟かに加ふ。其一、弧背より弦矢を求むるには、密率を用ふべし。今『曆測』中に猶ほ径一囲三の法を用い、弧矢の真数に合せず。其一、盈縮の限は、冬夏至に在らず、宜しく冬夏至後六度に在るべし。今日躔を考ふるに、春分より夏至に至り、夏至より秋分に至る、此の両限の中、日の時刻分相等からず。又立春より立夏に至り、立秋より立冬に至る、此の両限の中、日の時刻分亦相等からず。測量して見るべし。其一、太陰最高は疾を得、最低は遅を得と云ひ、且つ圭表を以て測りて之を得とす、是れ非なり。太陰の遅疾は入転内の事にて、表測の高下は入交内の事なり、豈に混推を容れんや。而して月行転周の上に在り、又た左旋す、故に最高は西に行きて極めて遅く、最低は東に行きて乃ち極めて疾し、旧法は正に相反す。其一、日食正午に時差無しと云ふ、是れ非なり。時差は距を言ふ、赤道の午中に距するに非ず、乃ち黄道限東西各九十度の中に距するなり。黄道限の中、午前後二十余度に距する者有り、但だ午正に依りて加減するのみにて、焉んぞ必ず合せん。其一、交食の定限は、陰曆八度、陽曆六度と云ふ、是れ非なり。日食は、陰曆は十七度と当り、陽曆は八度と当るべし。月食は則ち陰陽曆ともに十二度なり。其一、『曆測』に云く、「宋文帝元嘉六年十一月己丑朔、日食尽さずして鉤の如く、昼に星見ゆ。今『授時』を以て之を推すに、止だ六分九十六秒を食す、郭曆舛れり」と。夫れ月食は天下皆同じく、日食は九服各異なり。南宋は金陵に都し、郭曆は燕地に造る、北極出地八度差し、時に十一月に在れば則ち食差は二分弱を得べく、其の「尽さずして鉤の如し」と云ふは、九分左右に当るべし。郭曆は七分弱を推得し、乃ち密合す、舛れりと非ず。本局今に日食の分数を定むるに、首に交を言ひ、次に地を言ひ、次に時に言ふ、一も闕くべからず。已にして文魁反覆論難し、光啓更に前説を申し、『學曆濁辨』を著す。
五年九月十五日、月食す、監推初虧は卯初一刻に在り、光啓等は卯初三刻に在りと推し、回回科は辰初初刻に在りと推す。三法異同し、奉じて詰問を致す。期に至り測候すれども、陰雲見えず、徴驗すべき無し。光啓三法不同の故を具し陳べ、言ふ。
時刻の加減は、盈縮・遅疾の両差に由る。而して盈縮差は、旧法は冬夏至に起り、新法は最高に起る、最高に行分有り、惟だ宋の紹興年間に夏至と同度なり。郭守敬此の後百年、去離一度有奇、故に未だ覚えず。今最高は夏至後六度に在り。此れ両法の盈縮差の同じからざる所なり。遅疾差は、旧法は只だ一転周を用ひ、新法は之を自行輪と謂ふ。自行の外、又た両次輪有り。此れ両法の遅疾差の所以同じからざるなり。『回回曆』に至りて又た異なるは、或は四応に由り、或は裡差に由る、臣実に其の故を未だ曉らず。総じて、三傢俱に本法に依り推歩し、法を変へて遷就する能はざるなり。
将来に講求すべき者二端有り。一に曰く食分の多寡。日食の時は、陽晶晃耀し、毎に先づ食して後に見ゆ。月食の時は、遊気紛侵し、毎に先づ見えて後に食す。其の差一分以上に至る。今実分を灼かに見んと欲すれば、近く造れる窺筒有り、日食の時、密室の中に其の光景を取り、尺素の上に映照し、初虧より復円に至るまで。分数真確にして、書然として爽はず。月食は以て仰ぎ観るに二体離合の際、鄞鄂著明なり。目測と迥に異なり。此れ分を定むる法なり。一に曰く加時の早晚。時を定むるの術は、壺漏は古法と為し、輪鐘は新法と為す、然れども日星に端を求むるに若かず、昼は則ち日を用ひ、夜は則ち任せて一星を用ふ。皆器械を以て経緯度数を測り取り、推算して之を得。此れ時を定むる法なり。二法既に立てば、則ち諸術の疏密、毫末も遁るる莫し。
古今の月食は、諸史載せず。日食は、漢より隋に至るまで、凡そ二百九十三、而して晦に食する者七十七、晦前一日の者三、初二日の者三、其の疏此の如し。唐より五代に至るまで凡そ一百一十、而して晦に食する者一、初二日の者一、初三日の者一、稍く密なり。宋は凡そ一百四十八、晦食する者無く、更に密なり。猶ほ食すべしと推して食せざる者一有り。加時差四五刻に至る者に至りては、其の時に当り已然り。知るべし、高速無窮の事は、必ず時を積み世を累ね、仍ほ稍く其の端兒を見る。故に漢より今に至るまで千七百歳、法を立つる者十有三家、而して守敬最も優れりと為すも、尚ほ刻の差無きに能はず、而して況んや旧法を沿習する者をや、何ぞ能く其の精密を現さんや。
是の年、光啓又た『曆書』三千巻を進む。明年冬十月、光啓病を以て曆務を辞し、山東参政李天経を以て之に代ふ。月を踰て光啓卒す。七年、魏文魁上言す、曆官の推す所の交食節気皆是れに非ずと。是に於て魁を命じて京に入り測驗せしむ。是の時曆を言ふ者四家、『大統』・『回回』の外、別に西洋を立てて西局と為し、文魁を東局と為す。言人人殊なり、紛として聚訟するが若し。
李天経が『暦書』を進呈した、凡そ二十九巻、併せて星屏一具、全て故輔徐光啓が督率して西洋人に造らせたものである。天経は予め五星の凌犯会合行度を推算し、言う、「閏八月二十四日、木星が積屍の気を犯す。九月初四日の昏初、火星と土星が同度となる。初七日の卯正、金星と土星が同度となる。十一日の昏初、金星と火星が同度となる。旧法で火星と土星の同度を推算すると、初七日となり、これは後天三日である。金星と火星の同度は初三となり、これは先天八日である」。而して魏文魁は言う、天経の報告する木星が積屍を犯すことは合わないと。天経はまた言う、「臣は閏八月二十五日夜及び九月初一日夜、同僚の陳六韋等と共に、窺管を用いて測り、積屍が数十の小星に囲まれて集まっているのを見、木星と積屍が、共に管中に納まるのを見た。蓋し窺管の円径は一寸余り、両星の相距が三十分以内のものであって、初めて同時に見ることができる。例えば觜宿の三星は相距二十七分であるから、同時に見ることはできない。而して文魁はただ臆測の計算に拠り、実測を経ていない。彼の言うところによれば初二日に木星は既に柳宿の前にあるというが、それ以前にどうして鬼宿を越えて飛び渡ることができようか」。天経はまた木星の退行・順行を推算し、二度鬼宿を経過する、その度分晷刻を、已にして皆験証された、ここにおいて文魁の説は退けられた。
天経はまた『暦書』三十二巻を進呈し、併せて日晷・星晷・窺筒等の諸儀器を献じた。崇禎八年四月、また『乙亥丙子七政行度暦』及び『参訂暦法条議』二十六則を上奏した。
恒星に関する議四つ:一に曰く、恒星の本行、即ち所謂歳差は、黄道極から起算すべきである。蓋し各星の赤極からの距度分は、古今同じではない。その赤道内外からの距離も、古今同じではない。而して黄極からの距離或いは黄道内外からの距離は、則ち皆終古一つの如し、これによって日月五星が皆黄道に依って行くことを知る。その恒星の本行は、黄極から起算して、歳差の率とすべきである。二に曰く、古今の各宿の度は同じではない。蓋し恒星は黄道極を極とする故に、各宿の距星の行度は、赤道極に対して時近く時遠し。行きて漸く極に近づけば、即ち赤道から出る距星を通る線は漸く密となり、その本宿の赤道弧は則ち較小となる。漸く極から遠ざかれば、即ち距星を通る線は漸く疏となり、その本宿の赤道弧は則ち較大となる。これは二道二極が同じでない縁によるもので、距星に異なる行いがあるのでもなく、また距星に易位があるのでもない。例えば觜宿の距星は、漢代に測れば参宿から二度、唐代に測れば一度、宋代崇寧に測れば半度、元代郭守敬は五分と測った。今測れば、分無しと云うのみならず、且つ参宿に二十四分侵入している、一つの証左ではないか。三に曰く、夜中に星を測って時刻を定める。蓋し太陽は赤道に依って左行し、毎十五度で一小時となる。今任意に一星の子午圏からの前後度分を測り、又本星の経行と太陽の経行を調べて加減し、太陽の子午圏からの距度分を得、因って之を真時刻に変える。四に曰く、宋代に定めた十二宮次が、某宿の度にあることは、今は某宿の度に定めることができない。蓋し恒星に本行があり、宿度が既に右に移った故である。
太陽に関する議四つ:一に、太陽の盈縮の限界は、冬・夏の二至ではなく、所謂最高及び最高の沖(反対点)である。この限界は年年右行し、今已に二至の後六度余りを過ぎている。二に曰く、圭表をもって冬夏の二至を測るのは、法として善くない。蓋し二至の前後は、太陽の南北の行度が甚だ微かであり、一丈の表を計れば、その一日の影の差は一分三十秒を過ぎず、則ち一秒は六刻余りに相当し、もし測りて二三秒違えば、即ち二十刻近く違うことになり、どうして正確なものが得られようか。今の法は独り春分・秋分を用いる、蓋しこの時太陽は一日に南北に二十四分行き、一日の影の差は一寸二分であり、即ち測りて一二秒違っても、算して一刻に満たず、二至に較べて最も密である。三に曰く、日の出入分は、順天府から起算すべきである。蓋し諸方の北極出地が同じでないので、晨昏の時刻も亦之に因って異なる。『大統暦』は応天府に依って算するので、上は昼夜の長短、日月の東刃西帯食(部分食)に、推する所準ならず。今天に依って改定する。四に曰く、平節気は、上天の真の節気ではない。蓋し旧法の気策(一節気の長さ)は、歳周の二十四分の一である。然し太陽の行きには盈縮があり、平分することはできない。もし平分すれば、則ち春分は後天二日、秋分は先天二日となる。今悉く改定する。
この時、新法の書器ともに完成し、屡々交食・凌犯を測って皆密かに符合したが、ただ魏文魁らが多方陰に撓み、内官が実にこれを左右した。この故に帝の意決することができず、天経に監局と共に虚心に詳しく究め、必ず書を一つにするよう諭した。この年、天経が水星の伏見及び木星の所在の度を推すと、皆『大統』と各々異なり、而して新法が合致した。また八月二十七日寅正二刻に、木・火・月の三曜が同じく張六度にあると推し、而して『大統』は木を張四度、火・月を張三度と推した。期日に至り、果たして同じく張六度にあった。九年正月十五日辛酉、暁に月食を望む。天経及び『大統』・『回回』・東局、各々頂いて虧円食甚の分秒時刻を推した。天経は期日に雲に掩われて見難いことを恐れ、乃ち裏差に按じ、河南・山西に見える時刻を推し、官を遣わして分行して測験するよう奏した。その日、天経は羅雅谷・湯若望・大理評事王応遴・礼臣李焻及び監局の守登・文魁らと共に台に赴き測験し、惟だ天経の推したもののみが合致した。已にして、河南からの報告は尽く原推と合致し、山西は則ち食時に雲に掩われて考験する由無かった。
帝は月食を測験するに、新法が近いとされたが、ただ十五日が雨水であるのに、天経は十三日を雨水としたので、再び奏上して明らかにするよう命じた。天経が覆奏して言うには:
節気には二法があると諭す:一つは平節気、一つは定節気である。平節気とは、一歳の実を以て、二十四に平らかに分け、毎に十五日余りを得て、一節気とする。故に歳前の冬至より起算すれば、必ず六十日八十七刻余りを越えて雨水となる。旧法の推す十五日子正一刻というのはこれである。定節気とは、三百六十を周天度とし、また二十四に平らかに分け、毎に十五度を得て、一節気とする。歳前の冬至より起算すれば、五十九日二刻余りを歴て、而して太陽が六十度を行き満ちて雨水となる。新法の推す十三日卯初二刻八分というのはこれである。太陽の行きには盈縮があり、法を用いて加減しなければ、必ず天に合わず、どうして歳実を平らかに分けて節気とできようか。春分を以てこれを証すれば、その理更に明らかである。分とは、黄赤相交わる点で、太陽がここに行き至れば、乃ち昼夜平らかに分かれる。旧法は二月十四日の下に、昼五十刻・夜五十刻と注するのはこれである。夫れ十四日に昼夜既に平らかに分かれたなら、則ち新法が十四日を春分と推すのは天に合い、而して旧法が十六日と推すのは、天より二日後れている。春分を知れば、則ち秋分及び各節気を知り、而して雨水について疑うことはない。
已にして天経は春分の期に臨み、毎日午時に台に赴き午正の太陽高度を測った。二月十四日は高さ五十度八分、十五日は高さ五十度三十分。末に天経は乃ち言う:
京師の北極出地三十九度五十五分ならば、則ち赤道の高さは応に五十度五分であるべきで、春分の日太陽は正に赤道上に当たり、その午正の高度は赤道の高度と等しい。これを過ぎれば則ち太陽の高度は必ず漸く多くなる。今、十四日に測った高度に、地半経差二分を加えれば、赤道より既に五分多い。蓋し原推では春分は卯正二五分弱にあり、この時毎日の緯行は二十四分弱、時差は二十一刻五分ならば、則ち緯行は応に五分強を加えるべきである。十五日に至っては、地半径を併せて較べれば赤道高度より既に三十分まで多く、況んや十六日においてをや。是れ春分は応に十四日に在るべきで、十六日に在るべきではない。秋分もまた同じである。また『節気図』を出して曰く:
内規の三百六十五度四分の一は、日の度なり。外規の三百六十度は、天の度なり。冬至より起算し、九十一日三十一刻六分を経て始めて春分に至るは、日を以て限界と為す故に、天に在りては既に二度余を超えたり。また二百七十三日九十三刻十九分を経て即ち秋分に交わるも、亦た日を以て限界と為すなり、天に在りては二度余に及ばず。豈に旧法の春分は毎に天に後るること二日、秋分は天に先んずること二日に非ずや。
明の制を按ずるに、暦官は皆世業なり、成化・弘治の間は尚お能く修改の議を建つ、万暦以後は則ち皆己を専らにし残を守るのみ。其の暦官に非ずして暦を知る者は、鄭世子の外、唐順之・周述学・陳壤・袁黄・雷宗皆著述有り。唐順之は未だ成書無く、其の議論は周述学の『暦宗通議』・『暦宗中経』に散見す。袁黄は『暦法新書』を著し、其の天地人三元は、則ち陳壤に本づく。而して雷宗も亦た『合壁連珠暦法』を著し、皆回回暦を会通して『授時』に入る、鄭世子の精微の如くには能わざるも、其の中西の暦理に於ても、亦た発明する所有り。邢雲路の『古今律暦考』は、或いは言う魏文魁の手に出づと、文魁の学は本より浅陋、其の疏する所の『授時』が皆其の旨を得ざるも怪しむに足らず。
西洋人の中土に来る者は、皆自ら甌羅巴人と称す。其の暦法は回回と同じく、而して精密を加う。嘗て前代を考うるに、遠国の人暦法を言う者は多く西域に在り、而して東南北には聞こえず。唐の『九執律』、元の『万年暦』、及び洪武年間に訳する所の『回回暦』、皆西域なり。蓋し堯が羲・和の仲叔に命じて四方に宅せしむ、羲仲・羲叔・和叔は則ち隅夷・南交・朔方を以て限界と為す、独り和仲は只だ「西に宅す」と曰い、而して地を以て限らず、豈に当時声教の西に被る者遠きに非ずや。週末に至り、疇人の子弟分散す。西域・天方諸国は、西陲に接壤し、回回の如く東南に大海の阻み有り、又極北の厳寒の畏れ無ければ、則ち書器を抱いて西征する、勢固より便なり。甌羅巴は回回の西に在り、其の風俗相類し、而して奇を好み新を喜び勝を競う習い之に過ぐ。故に暦法は回回と同源なりと雖も、世々増修し、遂に回回の及ぶ所に非ず、亦た其の好勝の慾之を為すなり。羲・和既に其の守を失い、古籍の見るべき者は、僅かに『周髀』の範囲有り、亦た其の源流の自る所を知るべし。旁らに捜採を以て千百年の墜緒を継ぐは、亦た礼を野に求むるの意なり、故に備えて論ず。