明史

列傳第一百九十七 流賊 李自成 張獻忠

盗賊の禍は、歴代常に有りしも、明末の李自成・張獻忠に至りて極まれり。史冊に載する所、斯くの如き酷きものは未だ有らざるなり。永楽中、唐賽兒山東に乱を倡く。其の後瑕に乗じて兵を弄び、頻りに窃発を見るも、然れども皆旋踵にして撲滅せらる。惟だ武宗の世、流寇蔓延し、幾くんか宗社を危うくすと雖も、而して卒に掃除せらる。莊烈帝は励精として為す有り、武宗を視るや何ぞ啻に天壤の隔たるのみならんや、而るに顧みて天下を失ふ、何ぞや。明興ること百年、朝廷の綱紀既に肅し、天下の風俗未だ澆薄ならず。孝宗賢能を選挙し、中外に布列し、斯の民と休養生息すること十餘年、仁澤深くして人心固く、元氣盛んにして國脈安し。武宗の童昏たるを以てすと雖も、亟に稗政を行ひ、中官幸夫、左右を濁亂すと雖も、而して本根未だ盡く拔かれず、宰輔亦多く老成なり。迨び盜賊四起するに及び、王瓊獨り中樞を典し、陸完・彭澤閫帥を分任し、委寄既に專らにして、旁撓絕えて少く、以て故に危うくして亡びず。莊烈帝は神宗・熹宗の後に承けり。神宗は怠荒にして政を棄て、熹宗は閹人に暱近し、元氣盡く澌え、國脈垂れんとして絕えんとす。向使ひ熹宗の禦宇復た數載延びなば、則ち天下の亡ぶること再傳せずしてならんとす。

莊烈帝の統を繼ぎし時、臣僚の党局既に成り、草野の物力既に耗え、國家の法令既に壞れ、邊疆の搶攘既に甚だし。莊烈帝は銳意更始し、名實を治核せんとすと雖も、而して人才の賢否、議論の是非、政事の得失、軍機の成敗、未だ能く灼然として中に見ることを得ず、外に搖がざるを得ず。且つ性多く疑ひて察を任じ、剛を好みて氣を尚ぶ。察を任ずれば則ち苛刻にして恩寡く、氣を尚ぶれば則ち急遽にして措く所を失ふ。夫れ群盜山に滿ち、四方鼎沸するに當りて、政柄を委ぬる者は庸ならざれば即ち佞なり。剿撫兩端にして、茫として成算無し。内外の大臣過を救ふに給はず、人皆規利自全の心を懷く。言語戇直にして、事弊に切中する者は、率皆摧折せられて去る。其の任じて閫帥と為す者は、事權中制せられ、功過償ふる莫し。一方を敗れば即ち一將を戮し、一城を隳せば即ち一吏を殺す。賞罰太だ明にして以て罰すること能はざるに至り、制馭過ぎて嚴にして以て制すること能はざるに至る。加之天災流行し、饑饉洊臻し、政繁く賦重く、外訌内叛す。譬へば一人の身の、元氣羸然として、疽毒併發するが如し。其の症固より已に甚だ危し。而して醫は則ち良否錯雜して進み、劑は則ち寒熱互ひに投ず。病膏肓に入りて救ふ可き無し。亡びずして何をか待たん。是の故に明の亡ぶるは、流賊に亡び、而して其の亡びを致す本は、流賊に在らず。嗚呼、莊烈帝は亡國の君に非ずして、亡國の運に當り、又た救亡の術に乏しく、徒らに其の焦勞瞀亂し、孑然として上に立つこと十有七年なるを見る。而して帷幄に良・平の謀を聞かず、行間に李・郭の將を見ず、卒に宗社の顛覆を致し、徒らに身を以て殉ず。悲しきかな。

唐賽兒以下より、本末竟へ易からず。事は賊を剿ぐ諸臣の傳に具はれり。獨り天下を亡ぼす者を志し、李自成・張獻忠の傳を立てん。

李自成

李自成は米脂の人、世々懷遠堡李繼遷寨に居る。父は守忠、子無く、華山に禱る。神の告げて曰く「破軍星を以て汝が子と為さん」と。已にして自成を生む。幼くして邑の大姓艾氏に羊を牧り、長ずるに及び、銀川の驛卒に充つ。騎射に善くし、鬥很無賴にして、數へて法を犯す。知縣晏子賓之を捕へ、將に諸を死に置かんとす。脫して屠と為る。天啓末、魏忠賢の党喬應甲陝西巡撫と為り、硃童蒙延綏巡撫と為り、貪黷にして盜を詰めず。盜是より始まる。

崇禎元年、陝西大饑す。延綏餉を缺き、固原の兵州庫を劫ふ。白水の賊王二、府谷の賊王嘉胤、宜川の賊王左掛・飛山虎・大紅狼等、一時に並び起る。安塞の馬賊高迎祥なる者有り、自成の舅なり。饑民の王大樑と衆を聚めて之に應ず。迎祥自ら闖王と稱し、大樑自ら大梁王と稱す。二年春、詔して楊鶴を以て三邊總督と為し、之を捕へしむ。參政劉應遇王二・王大樑を撃ち斬り、參政洪承疇王左掛を撃破す。賊稍々懼る。會す京師戒嚴す。山西巡撫耿如𣏌勤王の兵嘩して西し、延綏總兵吳自勉・甘肅巡撫梅之煥の勤王兵も亦潰え、群盜と合す。延綏巡撫張夢鯨恚死す。承疇之に代はる。故總兵杜文煥を召して延綏・固原の兵を督せしめ、便宜に賊を剿がしむ。

三年、王左掛・王子順・苗美等戰屢敗れ、降を乞ふ。而して王嘉胤延安・慶陽の間を掠め、楊鶴之を撫すも聽かず。神木より河を渡り山西を犯す。是の時、秦地の征する所を新餉・均輸・間架と曰ひ、其の目日増し、吏緣りて奸を為し、民大いに困す。給事中劉懋の議に以て、驛站を裁す。山・陝の遊民驛糈に仰ぐ者、食ふを得る所無く、俱に賊に從ひ、賊轉た盛んなり。兵部郎中李繼貞奏して曰く「延民饑え、將に盡く盜と為らんとす。請ふ帑金十萬を以て之を振はん」と。帝聽かず。而して嘉胤已に黃甫川・清水・木瓜の三堡を襲ひ破り、府谷・河曲を陷る。又た神一元・不沾泥・可天飛・郝臨庵・紅軍友・點燈子・李老柴・混天猴・獨行狼諸賊有り。在る所蜂起し、或は秦を掠め、或は東に入り晉し、城堡を屠陷す。官兵東西に奔撃す。賊或は降り或は死し、旋滅旋熾す。延安の賊張獻忠亦衆を聚めて十八寨を據り、八大王と稱す。

四年、孤山副將曹文詔賊を河曲に破る。王嘉胤遁去す。已にして復た岳陽より突き出で澤・潞を犯す。左右の者に殺さる。其の党共に王自用號紫金梁なる者を推して魁と為す。自用群賊老回回・曹操・八金剛・掃地王・射塌天・閻正虎・滿天星・破甲錐・刑紅狼・上天老・蠍子塊・過天星・混世王等及び迎祥・獻忠を結び、合せて三十六營、衆二十餘萬、山西に聚まる。自成乃ち兄子の過と與に迎祥に從ひ往き、獻忠等と合し、號して闖將と曰ふ。未だ名有らず。楊鶴賊を撫する效無くして逮はらる。洪承疇鶴に代はり、張福臻承疇に代はり、諸將曹文詔・楊嘉謨を督して賊を剿がしむ。向ふ所克捷し、陝地略定す。而して山西の賊大いに盛んにして、甯鄉・石樓・稷山・聞喜・河津の間を剽掠す。

五年、賊分道四出し、連ねて大寧・隰州・澤州・壽陽諸州縣を陷れ、全晉震動す。乃ち巡撫宋統殷を罷め、許鼎臣を以て之に代へ、宣大總督張宗衡と分ちて諸將を督せしむ。宗衡は虎在威・駕人龍・左良玉等の兵八千人を督し、平陽に駐り、平陽・澤・潞四十一州縣を以て責む。鼎臣は張應昌・頗希牧・艾萬年の兵七千人を督し、汾州に駐り、汾・太・沁遼三十八州縣を以て責む。賊亦轉た磨盤山に入り、衆を分かちて三と為す。閻正虎は交城・文水を據りて太原を窺ひ、邢紅狼・上天龍は吳城を據りて汾州を窺ひ、自用・獻忠は沁州・武鄉を突き、遼州を陷る。

六年の春、官兵共に力を進めて撃つ。自用懼れて、故錦衣僉事張道浚に降るを乞う。約未だ定まらず、陽和の兵之を襲う。賊怒り、約を敗りて去る。会に総兵官曹文詔、陝西の兵を率いて至り、諸将猛如虎・虎大威・頗希牧・艾萬年・張應昌等とともに合剿し、屡戦して皆大いに克ち、前後混世王・滿天星・姬關鎖・翻山動・掌世王・顯道神等を殺し、自用・獻忠・老回回・蠍子塊・掃地王諸賊を破る。其の後、自用又た川将鄧玘の射殺す所となり、山西の三大盗俱に敗る。初め、賊の澤州を破るや、其の衆を分かち、南に太行を踰え、濟源・清化・修武を掠め、懷慶を囲む。官軍之を撃つと、賊遁走す。別賊復た西山に闌入し、順德・真定の間を大いに掠む。大名道盧象升力戦して賊を劫す。賊邢臺摩天嶺より西下し、武安に抵り、総兵左良玉を敗り、河北三府焚劫殆ど遍し。潞王上疏して急を告げ、兼ねて鳳・泗の陵寢を衛るを請う。詔して特に総兵倪寵・王朴を遣わし、京営の兵六千人を率い、諸将とともに進ましむ。賊之を聞き、河内より太行に走らんと欲す。文詔邀撃して之を敢えて進ませず。賊の山西に敗るる者も、亦た河北に奔りて合営し、迎祥・自成・獻忠・曹操・老回回等俱に至る。京兵其の後を蹙め、左良玉・湯九州等其の前を扼し、青店・石岡・石坡・牛尾・柳泉・猛虎村に連戦し、屡々之を敗る。賊逸せんと欲すれども、河に阻まれて大いに困す。賊素より文詔・道浚を畏る。道浚先に事に坐して戍に遣わされ、文詔秦・晉・河北に転戦し、賊に遇うや輒ち大いに克つ。御史復た其の驕倨を劾し、大同総兵に調して去らしむ。賊遂に詭辞して降を乞い、監軍太監楊進朝之を信じ、為に奏に入る。会に天寒くして河氷合い、賊突如として毛家寨より策馬して徑ちに渡る。河南の諸軍河を扼する者無く、賊遂に連ねて澠池・伊陽・盧氏の三県を陥す。河南巡撫玄默諸将を率いて盛兵して之を待つと、賊盧氏の山中に竄入し、間道より直ちに内郷に走り、鄖陽を掠め、又た分かれて南陽・汝寧を掠め、棗陽・當陽に入り、湖廣を逼る。巡撫唐暉兵を斂めて境を守る。歸・巴・夷陵等の処を犯し、夔州を破り、廣元を攻め、四川を逼り、所在急を告ぐ。

七年の春、特に関を設けて山・陝・河南・湖廣・四川の総督とし、専ら賊を辦ぜしめ、延綏巡撫陳奇瑜を以て之と為し、盧象升を以て鄖陽を撫治せしむ。奇瑜の賊を延水関に破りて威名有り、而して象升戦陣を歴て兵を知るが故なり。ここにおいて奇瑜均州より入り、象升とともに進み、師烏林関に次ぎ、賊数千級を斬る。賊漢南に走る。奇瑜湖廣は憂うるに足らずとし、兵を引いて西に撃つ。始め、賊澠池より河を渡り、高迎祥最も強く、自成之に属す。及び河南に入ると、自成兄の子過と李牟・俞彬・白廣恩・李雙喜・顧君恩・高傑等を結んで自ら一軍と為す。過・傑は戦を善くし、君恩は謀を善くす。及び奇瑜の兵至ると、獻忠等商・雒に奔り、自成等興安の車箱峽に陷る。会に大雨両月、馬芻に乏しく多く死に、弓矢皆脫す。自成君恩の計を用い、奇瑜の左右を賄い、詐降す。奇瑜意賊を軽んじ、之を許し、諸将に檄して兵を按じ殺すこと無からしめ、過ぐる所の州県に糗を具えて傳送せしむ。賊甫かに棧を渡るや、即ち大いに噪ぎ、過ぐる所の七州県を尽く屠る。而して略陽の賊数万も亦た来会し、賊勢愈々張る。奇瑜坐して籍を削られ、而して自成の名始めて著し。已にして、洪承疇奇瑜に代わり、李喬陝西を巡撫し、吳甡山西を巡撫す。大学士溫體仁甡に謂いて曰く、「流賊は癬疥の疾、憂うる勿れ」と。未だ幾ばくもせず、西寧兵変す。承疇甫かに命を受け東すと、変を聞きて遽かに返る。迎祥・自成遂に鞏昌・平涼・臨洮・鳳翔諸府数十州県に入る。賀人龍・張天禮の軍を敗り、固原道陸夢龍を殺す。隴州を囲むこと四十余日、承疇総兵左光先に檄して人龍と合撃せしめ、大いに之を破る。会に朝廷も亦た・楚・晉・しょくの兵四道より陝に入るを命じ、迎祥・自成遂に終南山に竄入す。已にして東に出で、陳州・靈寶・汜水・滎陽けいようを陷す。左良玉将に至らんとするを聞き、壁を梅山・溱水の間に移す。部賊上蔡を抜き、汝寧の郛を焼く。乃ち承疇を命じて関を出で賊を追わしめ、山東巡撫硃大典と力を併せて撃たしむ。賊之を偵知す。

八年正月、大いに滎陽に会す。老回回・曹操・革裏眼・左金王・改世王・射塌天・橫天王・混十萬・過天星・九條龍・順天王及び迎祥・獻忠、合わせて十三家七十二營、敵を拒ぐを議し、未だ決せず。自成進みて曰く、「一夫すら猶奮う、況んや十萬の衆をや。官兵は能く為すこと無し。宜しく兵を分かち向かう所を定め、利鈍は天に聴くべし」と。皆曰く「善し」と。乃ち議す、革裏眼・左金王は川・湖の兵に当たり、橫天王・混十萬は陝兵に当たり、曹操・過天星は河上を扼し、迎祥・獻忠及び自成等は東方を略し、老回回・九條龍は往来して策応す。陝兵鋭し、益すに謝塌天・改世王を以てす。破る所の城邑は、子女玉帛惟だ均し。衆自成の言の如し。是に先立ち、南京兵部尚書呂維祺賊の南犯を懼れ、鳳陽の陵寢に防を加うるを請うも、報いず。及び迎祥・獻忠東下し、江北兵単なり。固始・霍丘俱に失守す。賊寿州を燔き、潁州を陷し、知州尹夢鰲・州判趙士寬戦死し、故尚書張鶴鳴を殺す。勝に乗じて鳳陽を陷し、皇陵を焚き、留守署正硃國相等皆戦死す。事聞こえ、帝素服して哭し、官を遣わして廟に告ぐ。漕運都御史楊一鵬を逮えて市に棄ち、硃大典を以て之に代え、大いに兵を徴して賊を討たしむ。賊乃ち大いに幟に書して曰く古元真龍皇帝、楽を合して大いに飲む。自成獻忠に皇陵監の小閹にして鼓吹を善くする者を求むるも、獻忠與えず。自成怒り、迎祥とともに西に趨りて歸德に赴き、曹操・過天星と合し、復た陝西に入る。獻忠独り東下して廬州に赴く。

承疇方に馳せて汝州に至り、諸将左良玉・湯九州・尤世威・徐來朝・陳永福・鄧玘・張應昌を命じて湖廣・河南・鄖陽諸の関隘を分扼せしめ、曹文詔を召して中軍と為す。文詔未だ至らず、玘兵乱に以て死す。迎祥・自成終南山より出で、富平・寧州を大いに掠む。老回回・獻忠・曹操・蠍子塊・過天星諸賊、承疇の関を出づるを聞き、先後皆陝西に走り、西安・平涼・鳳翔諸郡を焚掠す。承疇亟に還り救い、諸将を分遣して老回回等を撃たしめ、副総兵劉成功・艾萬年を令して迎祥・自成を寧州に撃たしむ。萬年中伏して戦死し、文詔怒り、復た之を撃つも、亦た中伏して戦死す。群賊勝に乗じて地を掠め、火西安城中を照らす。承疇力めて之を涇陽・三原の間に禦し、決死戦し、賊過ぐるを得ず。獻忠・老回回等は他道より転じて突きて硃陽関に至り、関を守る将徐來臣軍潰えて死に、尤世威箭に中りて遁る。ここにおいて群賊皆関を出で、十三營に分かれて東犯し、而して迎祥・自成独り陝西に留まる。

時に盧象升は既に湖広巡撫に改められ、直隸・河南・山東・四川・湖広の諸軍務を総理していた。詔して承疇に関中を督せしめ、象升に關外を督せしむ。賊もまた兵を分け、迎祥は武功・扶風以西を略し、自成は富平・固州以東を略す。承疇、将を遣わして自成を追わしめ、小勝を得て、醴泉に至る。賊将高傑、自成の妻邢氏と私通し、誅を懼れ、彼女を挟んで来降す。承疇自ら自成を追い、渭南・臨潼にて大戦し、自成大敗して東に走る。迎祥もまた屡敗し、東に華陰南原を踰え、嶺を絶ち、自成とともに硃陽関を出て、献忠と合す。冬十一月、群賊閿郷に迫る。左良玉・祖寬これを防ぐも克たず、遂に陝州を陥とし、進んで雒陽を攻む。河南巡撫陳必謙、良玉・寬を督して雒陽を援けしめ、献忠は嵩・汝に走る。迎祥・自成は偃師・鞏県に走り、魯山・葉県を略し、光州を陥とす。象升、確山にてこれを撃破す。

九年春、迎祥・自成廬州を攻むるも抜かず。含山・和州を陥とし、知州黎弘業及び在籍の御史馬如蛟等を殺す。また滁州を攻む。知州劉大鞏・太僕卿李覚斯堅守して下らざるも、象升自ら祖寬・羅岱・楊世恩等を督して来援し、硃龍橋に戦いて賊大敗し、屍水を咽ばせて流れず。北に寿州を攻む。故御史方震孺堅守す。折れて西し、帰徳に入るも、辺将祖大楽これを破る。密・登封に走り、故総兵湯九州戦死す。分道して南陽・裕州を犯す。必謙南陽を援け、象升裕を援け、大楽等に賊を撃たしめ、迎祥・自成の精鋭を殆ど尽く殺す。賊また兵を分けて再び陝に入る。迎祥は鄖・襄より興安・漢中に趨り、自成は南山を踰えて商・雒を経、延綏に走り、鞏昌北境を犯す。諸将左光先・曹変蛟これを破り、自成は環県に走る。未だ幾ばくもせず、官軍羅家山に敗れ、士馬器仗を尽く亡い、総兵官俞沖霄捕らえらる。自成勢を復た振るい、進んで綏徳を囲み、東に河を渡らんと欲すも、山西兵これを遏む。また西に米脂を掠り、知県辺大綬を呼びて曰く、「此れ吾が故郷なり、我が父老を虐げることなかれ」と。金を遺わし、文廟を修めしむ。将に榆林を襲わんとす。河水驟かに長じ、賊多く溺死す。乃ち道を改め、韓城より西す。時に象升及び大楽・寬等は皆京師を援けんと入る。孫伝庭新たに陝西巡撫を除せられ、鋭意賊を滅さんとす。秋七月、迎祥を盩啡に擒え、闕下に献俘し、磔死せしむ。ここに於て賊党乃ち共に自成為闖王と推す。是の月、階・徽を犯す。未だ幾ばくもせず、〓・隴を出で、鳳翔を犯し、渭河を渡る。

十年、涇陽・三原を犯す。蠍於塊・過天星俱に来会す。伝庭、変蛟を督して連戦七日、皆克ち、蠍子塊降る。自成と過天星は秦州に奔る。蜀に入り、寧羌を陥とし、七盤関を破り、広元を陥とす。総兵官侯良柱戦死し、遂に連ねて昭化・剣州・梓潼・江油・黎雅・青川等の州県を陥とす。剣州知州徐尚卿・吏目李英俊・昭化知県王時化・郫県主簿張応奇・金堂典史潘夢科皆死す。進んで成都を攻むるも、七日にして克たず。巡撫王維章、賊を避けたる罪に坐せらる。

十一年春、官軍賊を梓潼に敗り、自成は白水に奔り、食尽きる。承疇・伝庭潼関原に合撃し、大いにこれを破る。自成その卒を尽く亡い、独り劉宗敏・田見秀等十八騎とともに囲みを潰し、商・洛の山中に竄伏す。其の年、献忠降り、自成の勢い益々衰ゆ。承疇は薊遼総督に改められ、伝庭は保定総督に改めらる。伝庭は疾を以て辞し、逮われて獄に下る。二人去りて、自成稍々安んずるを得。総理熊文燦方に撫を主とし、諜者或いは自成の死を報ずるも、益々これを寛ぐ。

十二年夏、献忠穀城に反す。自成大いに喜び、出でて衆を収め、衆復た大いに集まる。陝西総督鄭崇儉兵を発してこれを囲み、令して曰く「囲師必ず缺くべし」と。自成乃ち缺より走り、武関を突き、往きて献忠に依る。献忠これを図らんと欲すも、覚られて遁れ去る。楊嗣昌夷陵に師を督し、檄をして降らしめんとす。自成は謾語を出す。官軍、自成を巴西・魚復の諸山中に囲む。自成大いに困し、自経せんと欲すも、養子双喜諫めて止む。賊将多く出でて降る。劉宗敏は藍田の鍛工なり、最もぎょう勇にして、亦降らんと欲す。自成とともに歩みて叢祠に入り、顧みて歎じて曰く、「人言う我が天子たるべきと、何ぞ之を卜わざる、吉ならずば、我が頭を断ちて降れ」と。宗敏諾い、三たび卜い三たび吉なり。宗敏還りて、その両妻を殺し、自成に謂いて曰く、「吾れ死して君に従わん」と。軍中の壮士之を聞き、亦多く妻子を殺して従わんと願う者あり。自成乃ち輜重を尽く焚き、軽騎にて鄖・均より河南に走る。河南大旱し、斛穀万銭、饑民自成に従う者数万。遂に南陽より出で、宜陽を攻め、知県唐啓泰を殺す。永寧を攻め、知県武大烈を殺し、万安王采𨮫を戕す。偃師を攻め、知県徐日泰賊を罵りて死す。時に十三年十二月なり。

自成人となり高顴深く、鴟目曷鼻、声豺の如し。性猜忍にして、日々人を殺し足を斮き心を剖くを戯れと為す。過ぐる所、民皆塢堡を保ちて下らず。杞県の挙人李信は、逆案中の尚書李精白の子なり。嘗て粟を出して饑民を振い、民之に徳して曰く「李公子我を活かす」と。会うに繩伎の紅娘子反し、信を擄い、強いて身を委ぬ。信逃げ帰るも、官賊と以為い、獄中に囚う。紅娘子来りて救い、饑民これに応じ、共に信を出す。盧氏の挙人牛金星、磨勘せられて斥けられ、密かに自成の軍に入りて主謀と為る。潜かに帰るも、事泄れて斬に坐す。已にして末減を得る。二人俱に往きて自成に投ず。自成大いに喜び、信の名を改めて岩と曰う。金星また卜者の宋献策を薦む。長さ三尺余、上に讖記して云く「十八子、神器を主る」と。自成大いに悦ぶ。岩因りて説いて曰く「天下を取るには人心を本とすべし。請う人を殺さず、天下の心を収めよ」と。自成これに従い、屠戮減ず。また掠めたる財物を散じて饑民を振い、民餉を受くる者、岩・自成を弁ぜず、雑えて呼びて曰く「李公子我を活かす」と。岩また謡詞を造りて曰く「闖王を迎えれば、糧を納れず」と。児童をして歌わしめて相煽がしめ、自成に従う者日々衆し。

十四年正月河南を攻む。営卒賊に勾き、城遂に陥ち、福王常洵害に遇う。自成の兵王の血を汋ぎ、鹿醢を雑えてこれを嘗め、「福禄酒」と名づく。王世子由崧裸にして逃る。自成、王邸の金を発して饑民を振い、遂に移って開封を攻む。時に張献忠もまた襄陽を陥とし、襄王翊銘を戕す。開封に王たるは周王恭枵、賊の至るを聞き、急ぎ庫金を発して死士を募り、巡撫都御史高名衡等とともに堅く守る。自成七晝夜攻めて解き去り、密県を屠る。賊魁羅汝才・土寇袁時中皆自成に帰す。時中の衆二十万、号して小袁営と曰う。汝才は即ち曹操、献忠とともに降りて復た叛き去りし者なり。

李自成は初め高迎祥の副将であったが、この時勢い大いに盛んとなる。帝は元尚書の傅宗龍を陝西総督とし、専ら李自成を討たせ、別に保定総督の楊文岳に命じて合流させた。宗龍は関中に急ぎ入り、巡撫の汪喬年と兵を調えたが、兵は既に出し尽くしていたので、河南の大将李国奇・賀人龍の兵を檄して麾下に属させ、急ぎ関を出た。文岳は虎大威の軍を率いて共に新蔡に至り、李自成と遭遇した。人龍の兵が先に奔り、国奇・大威もこれに続き、宗龍・文岳は親軍を以て塁を築き自らを固めた。夜、文岳の兵は潰れて陳州に奔り、宗龍は賊と数日対峙したが、食糧が尽き、包囲を突破して走ったが、捕らえられて死んだ。李自成は葉県を陥とし、副将劉国能を殺し、遂に左良玉を郾城に包囲した。喬年が宗龍に代わって総督となり、関を出て襄城に駐屯した。李自成は精鋭を尽くしてこれを攻め、喬年と副将李万慶は共に死んだ。李自成は諸生百九十人を鼻削ぎ・足切りにした。遂に勝ちに乗じて南陽・鄧州など十四城を陥とし、再び開封を包囲した。巡撫の高名衡・総兵の陳永福が力強くこれを防ぎ、李自成の目に矢を射当て、大砲で上天龍らを殺したので、李自成はますます怒った。

李自成は城を攻める毎に、古来の雲梯・衝車の法を用いず、専ら屋根瓦を取らせ、一つの瓦を得れば即ち帰営して寝させ、後れた者は必ず斬った。瓦を取り終わると、即ち穴を穿って城壁を掘った。初めは僅かに一人が通れるだけだったが、次第に百十人まで広がり、順次土を運び出した。三五歩ごとに一本の土柱を残し、大きな縄を結びつけた。穿ち終わると、万人が縄を引いて一斉に叫び、柱が折れて城が崩れた。名衡は城上に横穴を穿ち、その下に音がするのを聞きつけると、毒や汚物を注ぎ込み、多くが死んだ。賊は即ち城の壊れた所で火攻めの法を用い、薬を甕に詰め、火を燃やして薬を発火させ、当たる者は悉く糜爛粉砕され、これを「放迸」と称した。

十五年正月、城は半分崩れ、賊は放迸法を用いてこれを攻め、鉄騎数千が馳せ騒ぎ、城が崩れるのを待って擁入しようとした。城はもと宋の汴都で、金人が重ねて築いたものである。厚さ数丈、土は堅く、火は外に向かって撃ち出され、賊騎は多く殲滅され、李自成は驚いて去った。南進して西華を陥とし、間もなく陳州を屠り、副使の関永傑・知州の侯君擢は皆賊を罵って死んだ。帰徳・睢州・寧陵・太康など数十の郡県は、悉く破壊された。商丘知県の梁以樟は傷ついて死にかけたが蘇生し、全家は滅ぼされた。已にして、再び開封を攻め、長囲を築いて持久の計を立てた。詔して孫伝庭を起用して総督とし、元尚書の侯恂を釈放して督師を命じ、左良玉を召して開封を救援させた。良玉は朱仙鎮に至り、大敗して襄陽に奔った。諸軍は皆黄河の北に屯し、進もうとしなかった。開封の食糧は尽きた。山東総兵の劉沢清も詔に奉じて至った。伝庭は開封の危急を知り、西安で諸将を大いに集め、急ぎ関を出て来援した。未だ至らぬうち、名衡らは朱家寨口の黄河を決壊させて賊を水攻めにすることを議決し、賊もまた馬家口の黄河を決壊させて城を水攻めにしようとした。秋九月癸未、天は大雨となり、二つの口は共に決壊し、声は雷の如く、北門から流入し、東南門を穿って流出し、渦水に注いだ。城中の百万戸は皆水没し、脱出できたのは周王・妃・世子及び巡撫・按察使以下二万人に満たなかった。賊もまた一万余りが流れ死に、そこで営を抜いて西南へ去った。

先に、馬守応(老回回と称す)・賀一龍(革裏眼と称す)・賀錦(左金王と称す)・劉希堯(争世王と称す)・藺養成(乱世王と称す)という者がおり、皆李自成に附き、当時「革左五営」と号した。李自成は乃ち西進して伝庭の兵を迎え撃ち、南陽で遭遇し、伝庭の軍は潰走し、河南人の所謂「柿園の敗」である。この時、清兵が南侵し、京師は危急を告げており、朝廷は賊を討つ暇がなかった。李自成は乃ち群賊を収め、連営五百余里、再び南陽を屠り、汝寧を進攻した。総兵の虎大威は砲に当たって死に、楊文岳は殺された。李自成は乃ち崇王の朱由樻を脅して従軍させ、遂に確山・信陽・泌陽を経て襄陽に向かった。左良玉は風を望んで南走し、李自成は襄陽に入った。属城及び徳安諸州県に分かれて攻め従わせ、皆下し、再び夷陵・荊門州を破った。李自成自ら荊州を攻め、湘陰王の朱儼𨥠は害に遇い、献陵の木柵を焼き、宮殿を穿ち毀した。

十六年春、承天を陥とした。献陵を発掘しようとした時、山谷を震わす声があり、恐れて止めた。傍らに潜山・京山・雲夢・黄陂・孝感等の州県を掠め、皆下した。先鋒は漢陽に迫り、良玉は九江に走った。鄖陽を攻めたが、撫治都御史の徐起元及び王光恩が力守して下さなかった。光恩は、賊から帰順した者である。

李自成は自ら奉天倡義大元帥と号し、羅汝才を代天撫民威徳大将軍と号した。その衆を分け、標営は兵百隊を領し、先・後・左・右の各営は各々兵三十余隊を領した。標営は白旗に黒い大旗、李自成独り白いたてがみの大旗に銀の仏塔(飾り);左営の旗は白、右は緋、前は黒、後は黄で、大旗もその色に従う。五営は順序に従って昼夜交替で直し、順次休息し、巡邏は厳重であった。逃げる者を「落草」と言い、磔にした。男子十五歳以上四十歳以下を収めて兵とした。精兵一人に対し、秣を主る者・器械を掌る者・炊事を執る者十人を配した。軍令では白金を蔵することを許さず、城邑を過ぎる時は家屋に住むことを許さず、妻子の外は他の婦人を携えることを許さなかった。起居は悉く単層の布幕を用いた。綿甲は百層の厚さがあり、矢や砲は貫けなかった。一兵に副馬三四匹、冬は則ち茵褥でその蹄を敷いた。人の腹を剖いて馬槽とし馬を飼うと、馬は人を見ると、鋸の牙の如く噛みつこうとする虎豹のようであった。軍が止まると、即ち出て騎射を競い、「站隊」と言った。夜の四鼓(午前二時頃)、寝床で食事をして命令を待った。過ぎ行く崇岡峻坂でも、馬を騰らせて直上した。水は黄河のみを畏れたが、淮・泗・涇・渭のような川では、則ち万众が馬背に足を跳ね上げ、或いは鬣を抱き尾に縋り、風を呼んで渡り、馬蹄が塞がれると、水は流れなくなった。臨陣には、馬三万を列ね、「三堵牆」と名付けた。前者が後ろを顧みれば、後者がこれを殺した。戦って久しく勝たない時は、馬兵が偽って敗走し官兵を誘い、歩卒の長槍三万が飛ぶ如く撃刺し、馬兵が戻って撃てば、大勝しないことはなかった。城を攻め、迎えて降る者は殺さず、一日守れば十の三を殺し、二日で十の七を殺し、三日で屠った。人を殺す時は、束ねた屍を燎とし、「打亮」と言った。城が陥ちそうになると、歩兵万人が城壁の下を環状に囲み、馬兵が巡邏し、一人も免れる者はなかった。張献忠でさえも、その残忍さに及ばなかった。諸営は獲たものを比べ、馬・騾は上賞、弓・矢・鉛・銃はこれに次ぎ、幣帛はまたこれに次ぎ、珠玉は下とした。

李自成は酒色を好まず、脱穀した粗末な米を、その部下と共に甘苦を共にした。汝才は妻妾数十人、衣服は絹織物を着け、帳下に女楽数部を置き、厚く自らを養ったが、李自成は嘗てこれを嗤い鄙しんだ。汝才の衆は数十万、山西の挙人吉珪を謀主として用いた。李自成は攻撃に長け、汝才は戦闘に長け、両人は左右の手のように互いを必要とした。李自成が宛・葉を下し、梁・宋を克つと、兵は強く士は附き、専断の心を抱くようになり、ただ汝才のみを忌んだ。そこで汝才と親しい賀一龍を宴に召し、これを縛り、朝に二十騎を以て汝才を帳中で斬り、その衆を悉く併せた。

李自成は中州に在った時、略取した城は輒ちこれを焼き毀した。漢江を渡り、荊・襄を根本とすべく謀り、襄陽を襄京と改称し、襄王の宮殿を修繕してここに住んだ。禹州を均平府と改称し、承天府を揚武州と改称し、他の府県も多く変更した。

牛金星は官爵の名号を創設し、大規模に官署を設置することを教えた。自成に子はなく、兄の子の過と妻の弟の高一功が左右に交互に居り、親信として政事を用いた。田見秀・劉宗敏を権将軍とし、李岩・賀錦・劉希堯らを制将軍とし、張鼐・党守素らを威武将軍とし、谷可成・任維栄らを果毅将軍とし、合わせて五営二十二将とした。また上相・左輔・右弼・六政府侍郎・郎中・従事などの官を置いた。要地には防禦使を設け、府の長官を尹、州を牧、県を令と称した。崇王由樻を襄陽伯に、邵陵王在城を棗陽伯に、保寧王紹圮を宣城伯に、粛寧王術〈木受〉を順義伯に封じた。張国紳を上相とし、牛金星を左輔とし、来儀を右弼とした。国紳は安定の人で、かつて参政の官にあった。降った後、文翔鳳の妻鄧氏を献じて自成に媚びた。自成は彼が同類を傷つけることを憎み、彼を殺し、鄧氏をその家に帰した。六政府侍郎には石首の喻上猷・江陵の蕭応坤・招遠の楊永裕・米脂の李振声・江陵の鄧岩忠・西安の姚錫胤を任じ、まもなく宣城の丘之陶を以て振声に代えて兵政府侍郎とした。その他偽職を受けた者は甚だ多く、全てを記載しない。

高一功・馮雄に襄陽を守らせ、任継光に荊州を守らせ、藺養成・牛万才に夷陵を守らせ、王文曜に澧州を守らせ、白旺に安陸を守らせ、蕭雲林に荊門を守らせ、謝応龍に漢川を守らせ、周鳳梧に禹州を守らせた。ここにおいて河南・湖広・江北の諸賊はみな命令を聴かざるはなかった。自成は汝才・一龍を殺した後、さらに養成を襲撃して殺し、守応の兵を奪い、杞県で袁時中を撃ち殺した。献忠はちょうど武昌を占拠していたが、自成は使者を遣わして祝賀し、かつ脅して言った、「老回回は既に降り、曹操らは誅殺され、次は汝の番だ」。献忠は大いに恐れ、南に入って長沙に赴いた。この時、十三家七十二営の諸大賊は、降伏するか死ぬかしてほとんど尽き、ただ自成と献忠のみが残り、しかも自成が特に強勢であったので、遂に自ら新順王と称した。牛金星らを集めて軍の進む方向を議した。金星はまず河北を取って、直ちに京師に向かうことを請うた。楊永裕は金陵を下し、燕都の糧道を断つことを請うた。従事の顧君恩が言うには、「金陵は下流に位置し、事は成就しても、緩慢に過ぎる。直ちに京師に向かえば、勝たなければ退いて安んずる所がなく、急進に過ぎる。関中は大王の故郷の地であり、百二の山河、天下の三分の二を得て、まずこれを取り、基業を建立すべきである。それから三辺を傍らに攻略し、その兵力を資として、山西を攻め取り、後に京師に向かえば、進んで戦い退いて守るに、万全にして失うことがないであろう」。自成はこれに従った。

伝庭が柿園で敗れて陝西に帰った後、大いに兵を整え、火車二万両を造り、壮士を募り、白広恩・高傑に将とさせ、賊が飢えるのを待って撃とうとした。朝廷の議論は日に日に督戦を促し、やむを得ず関を出た。牛成虎・盧光祖を前鋒とし、霊宝から洛に入らせた。高傑を中軍とし、檄を飛ばして広恩に新安から来て合流させた。河南の将陳永福は新灘を守り、四川の将秦翼明は商・洛から出て、犄角の勢いとした。前鋒は澠池で賊を破り、宝豊に至り、再びその城を抜いた。郟に駐屯した。自成は一万騎を率いて還って戦い、また大敗し、ほとんど捕らえられそうになった。ちょうど大雨が降り、道がぬかるみ、糧車が進まなかった。自成は軽騎を汝州に出して、糧道を遮断させた。伝庭はそこで軍を三つに分け、広恩に大道から行かせ、高傑に親随を率いて間道から糧を迎えさせ、永福に営を守らせた。伝庭が既に行くと、永福の兵も争って出発し、禁じることができず、遂に賊に追跡された。南陽に至り、伝庭は還って戦い、賊は五重の陣を布いたが、官軍はその三重を破った。やがて少し退却し、火車は奔り、騎兵も大いに奔った。賊は鉄騎を放ってこれを踏ませ、伝庭は大敗した。自成は空の陣営を出て追撃し、一日夜に四百里を越え、官軍の死者は四万余人、兵器輜重を数十万失った。伝庭は河北に奔り、転じて潼関に向かい、気勢は敗れて沮喪し再び振るわなかった。

冬十月、自成は潼関を陥とし、伝庭は死に、遂に華陰・渭南・華・商・臨潼を連破した。西安を攻撃し、守将の王根子が東門を開いて賊を迎え入れた。自成は秦王存枢を捕らえて権将軍とし、永寿王誼曈を制将軍とした。巡撫馮師孔以下死者十余人、布政使陸之祺らはともに降った。自成は三日間大いに掠奪し、後に禁止を下令した。西安を長安ちょうあんと改称し、西京と称した。顧君恩に女楽一部を賜い、関に入る策を賞した。大いに民を動員し、長安城を修築し、馳道を開いた。自成は三日ごとに自ら教場に赴いて射術を検閲し、百姓は黄龍の纛を見ると、みな地に伏して万歳を叫んだ。諸将の白広恩・高汝利・左光先・梁甫は先に逃亡した後、皆降った。陳永福はかつて自成の目を射当てたため、山の頂に保って下りようとせず、自成は矢を折って誓いを立て、彼を招くと、これも降った。ただ高傑のみは、自成の妻を窃んで延安に走り、李過に追われ、東に折れて宜川を渡り、蒲津を断って守った。

自成の兵の至るところ風靡したので、米脂に赴いて墓を祭った。以前に軍によって発掘され、遺骸は焼き棄てられていたので、土を築いて封じた。その宗族を求め、金を贈り爵を封じて去った。延安府を天保府と改称し、米脂を天保県とし、清澗を天波府と改称した。鳳翔は下らず、これを屠った。初め、自成が陝西に入った時、故郷であるからとて侵暴することはないと自ら言ったが、一月も経たぬうちに掠奪は以前の如くであった。また士大夫は必ず己に附かないと考え、諸薦紳をことごとく索き出し、搒掠して金を徴収し、死者は一つの穴に埋めた。榆林はもとより死守し、李過らは陥とすことができず、自成は大いに兵を発して攻め陥とした。副使の都任、総兵の王世国・尤世威らは、ともに屈せずして死んだ。勝に乗じて寧夏を取り、慶陽を屠り、韓王亶脊を捕らえた。移って蘭州を攻め、甘粛巡撫林日端らもまた死んだ。進んで西寧を陥とし、ここにおいて粛州・山丹・永昌・鎮番・庄浪は皆降り、陝西の地はすべて自成に帰した。また賊を遣わして河を渡らせ、平陽を陥とし、宗室三百余人を殺した。高傑は沢州に奔った。詔して余応桂を三辺総督とし、辺兵を収めて賊を剿討させたが、しかし全陝は既に陥没し、応桂は進むことができなかった。

十七年正月庚寅朔、自成は西安において王を称し、国号を大順と僭称し、元号を永昌と改め、名を自晟と改めた。その曾祖以下を追尊し、諡号を加え、李継遷を太祖とした。天佑殿大学士を設け、牛金星をこれに任じた。六政府尚書を増設し、弘文館・文諭院・諫議・直指使・従政・統会・尚契司・験馬寺・知政使・書写房などの官を設けた。乾州の宋企郊を吏政尚書とし、平湖の陸之祺を戸政尚書とし、真寧の鞏焴を礼政尚書とし、帰安の張嶙然を兵政尚書とした。五等爵を復活し、大いに功臣を封じ、侯は劉宗敏以下九人、伯は劉体純以下七十二人、子は三十人、男は五十五人とした。軍制を定めた。一騎でも列を乱す者は斬り、馬が田畑に飛び込む者は斬った。歩兵四十万、馬兵六十万を籍録した。兵政侍郎の楊王休が都肄を務め、横門を出て渭橋に至り、金鼓は地を動かした。弘文館学士の李化鱗らに檄文を起草させて遠近に馳せ諭し、乗輿を指弾した。この日、大風霾が起こり、黄霧が四方に充塞した。事が聞こえ、帝は大いに驚き、廷臣を召して議した。大学士李建泰が督師を請うたので、帝はこれを許した。

時に山西は平陽陥落後、河津・稷山・滎河も皆陥ち、他の府県は多く風に望んで款を送った。二月、自成は河を渡り、汾州を破り、河曲・静楽を巡り、太原を攻め、晋王求桂を執り、巡撫蔡懋德はこれに死す。北に忻・代を巡り、寧武総兵周遇吉は戦死す。自成は先に遊兵を遣わして故関に入り、大名・真定を掠めて北に進む。自ら賊衆を率いて辺境に沿って東に犯し、大同を陥とし、巡撫衛景瑗・総兵朱三楽は死す。自成は代王伝烴を殺し、代藩の宗室は殆ど尽きる。宣府を犯し、総兵姜瓖は迎えて降り、巡撫朱之馮は死す。遂に陽和を犯し、柳溝より居庸に逼り、総兵官唐通・太監杜之秩は迎えて降る。

三月十三日、昌平を焚き、総兵官李守鑅は死す。初め、賊は京師の虚実を偵かんと欲し、往々陰に人を遣わして重貨を輦し、都市に賈販せしめ、又た部院の諸掾吏に充て、機密を探刺せしむ。朝廷に謀議有れば、数千里を立って馳報す。昌平に抵るに及んで、兵部は騎を発して賊を探るも、賊は輒ち之を勾いて降らしめ、一人も還る者無し。賊の遊騎は平則門に至るも、京師は猶知らず。十七日、帝は群臣を召して問うも、対する者無く、泣く者有り。俄かに賊は九門を環攻し、門外に先に設けたる三大営は、悉く賊に降る。京師は久しく餉乏しく、陴に乗ずる者少なく、内侍を以て益す。内侍は専ら城守の事を守り、百司敢えて問わず。

十八日、賊の攻撃益々急なり、自成は彰義門外に駐まり、降賊の太監杜勳を遣わして縋り入らせ帝に見え、禅位を求む。帝怒り、之を叱して下がらしめ、親征を詔す。日暮れて、太監曹化淳は彰義門を啓き、賊は尽く入る。帝は宮を出で、煤山に登り、烽火天に徹するを望み、嘆息して曰く「我が民を苦しむのみ」と。徘徊すること久しく、乾清宮に帰り、太子及び永王・定王を戚臣周奎・田弘遇の第に送ることを令し、長公主を剣撃し、皇后を促して自尽せしむ。十九日丁未、天未だ明けず、皇城守らず、鐘を鳴らして百官を集むるも、至る者無し。乃ち復た煤山に登り、衣襟に書して遺詔と為し、帛を以て山亭に自縊す。帝遂に崩ず。太監王承恩は側に縊る。

自成は毰笠縹衣、烏駁馬に乗り、承天門に入る。偽丞相牛金星、尚書宋企郊・喻上猷、侍郎黎志升・張嶙然等は騎にて従う。皇極殿に登り、御座に据わり、帝后を大索することを下令し、百官に三日の朝見を期す。文臣は范景文より、勳戚は劉文炳以下、節に殉ずる者四十余人。宮女魏氏は河に投じ、従う者二百余人。象房の象は皆哀吼して涙を流す。太子は周奎の家に投ずるも、入るを得ず、二王も亦匿るる能わず、先後に擁せられ至り、皆屈せず、自成は之を宮中に羈す。長公主は絶えて復た蘇り、舁せられ至り、賊の劉宗敏に療治せしむ。

已にして、乃ち帝后の崩ずるを知り、自成は宮扉を以て載せ出だすことを命じ、柳棺に盛り、東華門外に置く。百姓の過ぐる者は皆掩泣す。三日を越えて己酉、味爽、成国公朱純臣・大学士魏藻德は文武百官を率いて入賀し、皆素服して殿前に坐す。自成は出でず、群賊争って戯れ侮り、椎背・脱帽を為し、或いは足を挙げて頸に加え、相笑楽す。百官は懾伏して敢えて動かず。太監王德化は諸臣を叱して曰く「国亡び君喪えり、若曹先帝を殯むるを思わず、乃ち此に在るか」と。因りて哭し、内侍数十人皆哭し、藻徳等も亦哭す。顧君恩は以て自成に告げ、帝后を改殮し、兗冕禕翟を用い、葦廠雲を加う。大学士陳演は進むるを勧むるも、許さず。太子を宋王に封ず。刑部・錦衣衛の繫囚を放つ。

自成は自ら西安に居り、官吏を建置し、是に至りて益々官制を尽く改む。六部を六政府と曰い、司官を従事と曰い、六科を諫議と曰い、十三道を直指使と曰い、翰林院を弘文館と曰い、太僕寺を験馬寺と曰い、巡撫を節度使と曰い、兵備を防禦使と曰い、知府州県を尹・牧・令と曰う。朝官を召見し、自成は南嚮に坐し、金星・宗敏・企郊等は左右雑坐し、次を以て名を呼び、三等に分けて職を授く。四品以下の少詹事梁紹陽・楊観光等より、偽命に汚れざる者無く、三品以上は独り故侍郎侯恂を用う。其の余の勳戚・文武諸臣奎・純臣・演・藻徳等、合わせて八百余人を、宗敏等の営中に送り、拷掠して賕賂を責め、肉を灼き脛を折るに至り、諸の惨毒を備う。藻徳は馬世奇の家人に遇い、泣いて曰く「吾若が主と為る能わず、今死を求むるも得ず」と。賊は又た排甲を編み、五家に一賊を養わしめ、大いに淫掠を縦し、民は毒に勝えず、縊死相望む。諸の勳戚大臣の金を徴し、金足れば輒ち之を殺す。太廟の神主を焚き、太祖の主を帝王廟に遷す。

時に賊党は已に保定を陥とし、李建泰は降り、畿内の府県悉く附く。山東・河南には遍く官吏を設け、至る所に違う者無し。淮に及んで、巡撫路振飛は兵を発して之を拒ぎ、乃ち去る。自成は真に天命を得たりと謂い、金星は賊衆を率いて三表を以て進むるを勧め、乃ち之に従い、登極の儀を撰ばしめ、吉日を諏ぶ。自成の御座に升るに及んで、忽ち白衣の人長さ数丈なるを見、手に剣を持ち怒視し、座下の龍の爪鬣俱に動く。自成は恐れ、亟に下る。金璽及び永昌銭を鋳るも、皆ならず。山海関総兵呉三桂の兵起るを聞き、乃ち陝西に帰らんと謀る。

初め、三桂は詔を奉じて入援し、山海関に至り、京師陥つるや、猶豫して進まず。自成は其の父襄を劫し、書を作りて之を招く。三桂は降らんと欲す。灤州に至り、愛姫陳沅が劉宗敏に掠め去られたるを聞き、憤り甚だしく、疾く山海に帰り、賊将を襲い破る。自成は怒り、自ら賊十余万を部し、呉襄を軍中に執り、東に山海関を攻め、別将を以て一片石より関外を越えしむ。三桂は懼れ、我が大清に降るを乞う。四月二十二日、自成の兵二十万、関内に陣し、北山より海に亙る。我が兵は賊に対し陣を置き、三桂は右翼の末に居り、鋭卒を悉くして搏戦し、賊数千人を殺す。賊も亦力闘し、囲み開きて復た合す。戦うこと良久しく、我が兵は三桂の陣の右より突出し、賊の中堅を沖ぎ、万馬奔躍し、飛矢雨の如く墮ち、天大風、沙石飛走し、賊を撃つこと雹の如し。自成は方に太子を挟み高岡に登り戦を観る。我が兵なるを知り、急ぎ馬を策して岡を下り走る。我が兵は奔を追うこと四十里、賊衆大いに潰え、自ら相践踏し死する者算無く、僵屍野に遍く、溝水尽く赤し。自成は永平に奔り、我が兵は之を逐う。三桂は先駆けて永平に至る。自成は呉襄を殺し、奔り還って京師に至る。

時に牛金星は居守し、諸の降人往きて謁し、門生の礼を執ること甚だ恭し。金星曰く「訛言方に起らんとす、諸君宜しく簡出すべし」と。是より降者は始めて懼れ、多く竄伏す。自成の至るに及び、拷索の金及び宮中の帑蔵・器皿を悉く鎔かし餅と為し、毎餅千金、数万餅に約し、騾車に載せて西安に帰す。二十九日丙戌、武英殿に於いて僭に帝号し、七代を追尊して皆帝后と為し、妻高氏を立てて皇后と為す。自成は冠冕を被り、仗を列ねて朝を受く。金星は郊天の礼を行うに代る。是の夕、宮殿及び九門の城楼を焚く。詰旦、太子・二王を挟み西に走り、而して偽将軍左光先・谷可成をして殿ならしむ。

五月二日、我が大清兵が京師に入城し、百姓を安んじ集めることを命じ、帝と后の喪を発し、諡号を議し、将を遣わして三桂とともに自成を追撃した。時に福王は既に南京で監国しており、大学士史可法が師を督して賊を討った。自成は定州に至り、我が兵がこれを追撃し、戦いを交え、谷可成を斬り、左光先は足を傷つけ、賊はこれを背負って逃げた。自成は西へ真定に走り、さらに多くの兵を発して攻めてきたが、我が兵は再びこれを撃った。自成は流れ矢に当たり重傷を負い、西へ故関を越え、山西に入った。ちょうど我が兵が東へ返ったので、自成は潰散した兵を鳩合し、平陽へ走った。

李岩は、かつて自成に殺さずして人心を収めることを勧めた者である。京師を陥落させた後、懿安皇后を保護して自尽させた。また、士大夫に対してのみ拷掠を加えず、金星らはこれを大いに忌んだ。定州での敗北後、河南の州県は多く反正し、自成が諸将を召集して議したところ、李岩は兵を率いて行くことを請うた。金星は密かに自成に告げて言った、「李岩は雄武にして大略あり、長く人下にいる者ではない。河南は李岩の故郷である。大兵を仮に与えれば、必ず制御できなくなる。十八子の讖は、李岩のことではあるまいか」と。そこでその謀反を願うと讒言した。自成は金星に命じて李岩と酒を飲ませ、これを殺した。賊の衆は皆、解体した。

自成は西安に帰り、再び賊を遣わして漢中を陥落させ、総兵趙光遠を降し、保寧を攻略した。時に献忠が兵をもってこれを拒んだので、引き返した。八月、祖禰廟が完成し、祭祀に行こうとしたが、突然寒慄して礼を成すことができなかった。自成は初め李岩の言葉により、偽って仁義を行っていたが、李岩が死に、また屡々敗北した後は、再び強情で自らを恃み、偽尚書の張第元、耿始然はいずれも些細なことで死罪となった。銅鏌を制し、官吏が賄賂の罪に坐すれば、即座に鏌で斬った。民が一羽の鶏を盗んだ者も死罪とした。西の人々は大いに恐れた。

順治二年二月、我が兵が潼関を攻めると、偽伯の馬世耀が六十万の衆をもって迎え戦い、敗死した。潼関が破れ、自成は遂に西安を捨て、龍駒寨から武岡へ走り、襄陽に入り、再び武昌へ走った。我が兵は二道から追撃し、鄧州、承天、徳安、武昌で連続してこれを追い詰め、賊の老営まで窮追し、八度にわたって大破した。この時、左良玉が東下し、武昌は空虛で人がいなかった。自成は五十余日駐屯し、賊衆は尚ほ五十余万、江夏を瑞符県と改称した。やがて我が兵に追われ、部衆は多く降るか、あるいは逃散した。自成は咸寧、蒲圻へ走り、通城に至り、九宮山に逃げ込んだ。秋九月、自成は李過に寨を守らせ、自ら二十騎を率いて山中で食糧を略奪中、村民に包囲され脱出できず、遂に縊死した。あるいは言う、村民がちょうど堡を築いていたところ、賊が少ないのを見て、争って前に出てこれを撃ち、人馬ともに泥濘の中に陥り、自成は脳を鋤で打たれて死んだ。その衣を剥ぐと、龍衣と金印を得、片目が潰れていたので、村民は大いに驚き、自成であると言った。時に我が兵は自成を知る者を遣わしてその屍を検証させたが、朽ちて判別できなかった。自成の二人の従父である偽趙侯、偽襄南侯及び自成の妻妾二人、金印一つを捕獲した。また、偽汝侯劉宗敏、偽総兵左光先、偽軍師宋献策を捕獲した。ここにおいて軍中で自成の従父及び宗敏を斬った。牛金星、宋企郊らは皆遁走した。

自成の兄の子である李過は名を錦と改め、諸賊の将帥とともに高氏を奉じて総督何騰蛟に降った。時に唐王が閩に立ち、錦に赤心の名を賜い、高氏を忠義夫人に封じ、その軍を忠貞営と号し、騰蛟の麾下に隷属させた。永明王の時、赤心は興国侯に封ぜられ、やがて死んだ。

張献忠

張献忠は、延安衛柳樹澗の人で、李自成と同年に生まれた。成長して延綏鎮に隷属して兵士となったが、法を犯して斬に当たり、主将の陳洪范がその状貌を奇異に思い、総兵官王威に請うて釈放させたので、逃げ去った。

崇禎三年、陝西の賊が大いに起こり、王嘉胤が府穀を占拠し、河曲を陥落させた。献忠は米脂十八寨をもってこれに応じ、自ら八大王と称した。翌年、嘉胤が死に、その党の王自用が再び三十六営の衆を集め、献忠及び高迎祥、羅汝才、馬守応らは皆その渠帥となった。その冬、洪承疇が総督となると、献忠及び汝才は皆帰順した。やがて叛いて山西に入り、群賊とともに焚掠した。まもなく河北を擾し、またともに黄河を渡った。ここより、陝西、河南、湖広、四川、江北の数千里の地は、皆蹂躙された。この時、賊の渠帥は衆を率いるも専らの主なく、官軍に遇えば、各自が戦い、勝てば争って進み、敗れれば山谷に逃げ込み互いに顧みなかった。官軍が賊に遇って追撃しても、どの賊を追っているか分からなかった。賊は或いは分かれ或いは合し、東西に奔突し、勢いは日増しに強盛となった。

八年、十三家が滎陽で会し、官軍に敵することを議した。守応は北へ渡ろうとしたが、献忠がこれを嗤ったので、守応は怒り、李自成が和解させ、ようやく議が定まった。献忠は初め高迎祥とともに起ちて賊となり、自成は迎祥の偏裨に過ぎず、献忠と並ぶことを敢えてしなかった。ここに至って遂に互角となり、ともに東へ掠め、連続して河南、江北の諸県を破り、皇陵を焼いた。やがて迎祥、自成は西へ去った。献忠は単独で東へ向かい、廬州、舒城を囲んだが、いずれも落とせなかった。桐城を攻め、廬江を陥落させ、巣、無為、潜山、太湖、宿松の諸城を屠り、応天巡撫張国維がこれを防いだ。献忠は英、霍から逃げ、麻城を通り、守応らと合流して関中に入り、鳳翔で迎祥と会した。やがて、再び商、洛から出て、霊宝に駐屯し、迎祥を待った。迎祥が到着すると、合兵して再び東へ向かった。総兵官左良玉、祖寛がこれを撃ち、献忠と迎祥は分かれて逃げた。寛は献忠を追撃し、嵩県及び九皋山で戦い、三戦三勝し、多くを俘斬した。献忠は憤り、再び迎祥の衆と合して戦い返したが、また大敗した。迎祥はまもなく自成とともに陝西に入り、守応、汝才ら諸賊は、それぞれ鄖陽、商、洛の山中に盤踞し、救援できず、献忠も山中に逃げ込んだ。

翌年の秋、総督盧象升が去り、苗胙土が湖広巡撫となったが、兵事に慣れていなかった。ここにおいて献忠は均州から、守応は新野から、蠍子塊は唐県から、ともに襄陽を犯し、衆は二十余万であった。総兵秦翼明は兵が寡少で防げず、湖広は震動した。献忠は汝才、守応及び闖塌天ら諸賊を糾合し、流れに沿って東下し、江北の賊賀一龍、賀錦らと合流し、烽火は淮、揚に達した。南京兵部尚書范景文、操江都御史黄道直、総兵官楊禦蕃が分汛して固守し、安池道副使史可法が自ら兵を率いて賊の衝に当たった。賊は間道から安慶を犯し、百里に連なる陣営を張り、巡撫国維が警報を発した。詔により左良玉、馬爌、劉良佐が合兵してこれを救援し、遂に賊を大破した。賊は潜山の天王古寨に逃げ、国維は良玉に山を捜索するよう檄を飛ばしたが、良玉は応ぜず、まもなく北へ去った。賊は乃ち再び太湖から出て、蘄、黄を連ね、酆家店で官軍を破り、参将程龍、陳于王ら四十余人を殺した。時に総兵官牟文綬が良佐とともに来援し、再び賊を破った。賊は皆逃げ、献忠は湖広に入った。この時、河南、湖広の賊十五家の中で、献忠が最も狡黠で驍勍であり、次は汝才であった。献忠はかつて偽って官兵となり、宛城を欺こうとしたが、良玉がちょうど到着し、献忠は慌てて逃げ、前鋒の羅岱がその額に射当て、良玉の馬が追いつき、刃が献忠の面を掠め、馬が疾走して免れた。ちょうど熊文燦が総理となり、檄を発して賊を撫でようとした。闖塌天は、本名を劉国能といい、献忠と不和があり、文燦のもとに赴いて降った。献忠は傷が重く戦えず、大いに恐れた。

十一年の春、陳洪範が熊文燦の麾下に隷して総兵となっていることを偵知し、大いに喜び、間者を遣わして重幣を齎し洪範に献じて曰く、「献忠は公の大恩を蒙り、死を免れたるが、公はこれを忘れたるか。願わくば率いる所の部を降して以て自ら効せん」と。洪範もまた喜び、文燦に告げて、その降を受けしむ。巡按御史林銘球・分巡道王瑞栴は左良玉と謀り、献忠の至るを俟ってこれを執らんとす。文燦はこれを許さず。献忠は遂に穀城を拠り、十万人の兵糧を請う。文燦は敢えて決せず。時に群賊は皆南陽に聚まり、傍らの州県を屠掠す。文燦は裕州に赴き、益々大いに檄を発して賊を撫す。汝才は戦いに敗れて太和山監軍太監李継改に降を乞う。明年、射塌天・混十萬・過天星・関索・王光恩ら十三家の渠帥、先後ともに降る。陝西総督洪承疇・巡撫孫伝庭はまた大いに李自成を破り、自成は崤・函の山中に竄る。朝廷は皆賊の撲滅殆んど尽きたりと謂う。

献忠は穀城に在り、卒を訓練し甲仗を治め、言う者は頗るその反せんとするを疑う。帝は兵部尚書楊嗣昌の言を信じ、文燦は能く賊を弁ずと謂い、復た憂えず。夏五月、献忠は叛き、知県阮之鈿を殺し、穀城を隳し、房県を陥とし、汝才の兵と合し、知県郝景春を殺す。十三家の降賊一時に並び叛き、惟だ王光恩のみ従わず。献忠は房県を去り、左良玉これを追撃す。羅岱は前鋒となりて羅犬英山に至り、岱は伏に中りて死し、良玉大いに敗る。

嗣昌は既に大学士を拝し、乃ち自ら督師を請う。帝は大いに悦ぶ。十月の朔、嗣昌は襄陽に至り、諸将を集めて進兵を議す。時に群賊は大いに掠め、賀一龍・賀錦は随・応・麻・黄を犯し、官軍と相持す。汝才及び過天星は漳・房・興・遠に竄伏し、献忠は湖広・四川の界に踞り、将に西を犯せんとす。嗣昌は東略の稍緩やかなるを視て、乃ち輜重を襄陽に宿し、濠を浚い城を築き甚だ固くし、良玉に専ら献忠を剿げしむ。

十三年閏正月、良玉は賊を枸坪関に撃ち、献忠は遁ぐ。瑪瑙山に追い至る。賊は山に拠りて敵に拒ぐ。良玉は先ず登り、賀人龍・李国奇は夾撃し、大いにこれを破り、首千三百余級を斬り、献忠の妻妾を擒う。湖広の将張応元・汪之鳳はこれを水右壩に追い破る。川将張令・方国安はまた岔渓に邀え撃つ。献忠は柯家坪に奔る。張令は北に逐い深入し、囲まれ、応元・之鳳これを援け、復た賊を破る。献忠は千余騎を率いて興・帰の山中に竄れ、勢い大いに蹙まる。

初め、良玉の進兵するや、嗣昌と議合わず。献忠は間者を遣わして良玉を説き、良玉は乃ち囲みて攻めず。献忠は因りて山民と塩・芻・米・酷を市い、潰散を収め、旗を掩い鼓を息め、益々西に走りて白羊山に至る。時に汝才及び過天星は寧昌より大昌・巫山を窺い、江を渡らんと欲す。官兵に扼せらる。献忠至り、遂にこれと合す。献忠は累敗すれども、気益々盛んにして、江岸に馬を立て、前進せざる者あれば、輒ちこれを戮す。賊は死闘を争い、官軍は退走す。賊は畢く渡り、万頃山に屯し、帰・巫大いに震う。已にして汝才・過天星は開県を犯して利あらず。汝才は東に走り、過天星はまた開県を軼てて西す。諸将は往復して追逐す。献忠は乃ち衆を悉くして楚兵を土地嶺に攻め、副将汪之鳳戦死す。遂に大昌を陥とし、進みて開県に屯す。張令戦死し、石砫の女土司秦良玉もまた敗る。汝才はまた東より至り、献忠と転じて達州に趨る。川撫邵捷春は退きて涪江を扼す。賊は北に剣州を陥とし、将に漢中に入らんとす。総兵官趙光遠・賀人龍は陽平・百丈の険を守る。賊は過ぐるを得ず、乃ち復た巴西に走る。涪江の師潰え、捷春は死を論ぜらる。献忠は綿州を屠り、成都を越え、滬州を陥とし、北に渡りて永川に隠れ、漢川・徳陽に走り、巴州に入る。また巴より達州に走り、復た開県に至る。

先に、嗣昌は賊の川に入るを聞き、進みて重慶に駐す。監軍万元吉曰く、「賊あるいは東に突かん、備え無きべからず。宜しく中軍を分かち間道より梓潼に出で、帰路を扼すべし」と。嗣昌は聴かず、諸将をして尽く滬州に赴きて賊を追わしめんと擬す。

十四年正月、総兵猛如虎・参将劉士傑はこれを開県の黄陵城に追う。賊は還り戦い、官軍大いに敗れ、士傑及び遊撃郭開ら皆死す。献忠は果たして東に出で、汝才に鄖撫袁継咸の兵を拒がしめ、自ら軽騎を率い、一日夜三百里を馳せ、督師の使者を道に殺し、軍符を取り、襄陽城を紿いて陥とす。献忠は襄王翊銘を縛して堂下に置き、これに酒を属けて曰く、「我は王の頭を借り、楊嗣昌をして藩を陷れたるを以て誅せしめんと欲す。王其れ努力してこの酒を尽くせ」と。遂にこれを殺し、並びに鄖襄道張克儉・推官鄺曰広を殺し、復たその失いし妻妾を得る。また去り、樊城・当陽・郟を陥とす。汝才と合して光州に入り、商城・羅山・息県・信陽・固始を残す。軍を分かちて茶山・応城を犯し、随州を陥とす。偽りに張良ちょうりょう玉の幟を張り、泌陽に入る。再び応山を攻め、克たずして去る。鄖陽を攻む。守将王光恩力戦し、始めて解く。また鄖西を抜く。群盗附く者万計、遂に東に地を略す。献忠は瑪瑙山の敗より、心に良玉を畏る。及び屡勝し、驕色あり。秋八月、良玉はこれを信陽に追撃し、大いにこれを破り、賊衆数万を降す。献忠は股を傷つき、夜に乗じて東に奔る。良玉急ぎこれを追う。会うに大雨、江溢れて道絶え、官軍進む能わず。献忠は走りて免る。已にして、復た商城に出で、将に英山に向かわんとす。また副将王允成に破られ、衆は道に散じ且つ尽き、従騎僅かに数十に止まる。時に汝才は既に先に自成と合し、献忠は遂に自成に投ず。自成は部曲を以てこれに遇う。従わず。自成はこれを殺さんと欲す。汝才諫めて曰く、「これを留めて漢南を擾らしめ、官軍の兵力を分かたしむべし」と。乃ち陰に献忠に五百騎を与え、遁れ去らしむ。道すがら土賊一斗穀・瓦罐子らを糾合し、衆復た盛んとなる。然れども猶佯りに自成を推す。先に、賊営の革・左の二賀は含・巣・潜の諸県を陥とし、西に献忠と合わんと欲すれども、湖広の官兵に沮まれて達せず。及び汴の囲み急なるとき、督師丁啓睿及び左良玉は皆往きて汴を援く。献忠は間を乗じて亳州を陥とし、英・霍の山中に入り、革・左・二賀と相見え、皆大いに喜ぶ。

明年合攻し、舒城・六安を陥とし、民を掠めて軍を益す。廬州を陥とし、知府鄭履祥死す。無為・廬江を陥とし、巣湖にて水師を習う。太監盧九徳は総兵官黄得功・劉良佐の兵を以て夾山に戦い、敗績し、江南大いに震う。鳳陽総督高鬥光・安慶巡撫鄭二陽は逮治せられ、詔して馬士英を起して鬥光に代わらしむ。この秋、得功・良佐は賊を潜山に大いに破り、献忠の腹心の婦豎は尽く蘄水に走る。革・左の二賀は北に自成に投ず。已にして、献忠はまた襲い太湖を陥とす。会うに良玉は自成を避けて東下し、湖広の兵を尽く撤して自ら従う。献忠これを聞き、また襲い黄梅を陥とす。

十六年の春、連戦して広済・蘄州・蘄水を陥落させた。黄州に入ると、黄州の民は皆逃げ去ったので、婦女を駆り立てて城壁を削らせ、やがて彼女らを殺して塹壕を埋めた。麻城の人湯志は、大姓の奴僕であったが、諸生六十人を殺し、城を挙げて賊に降った。献忠は麻城を州に改めた。さらに西進して漢陽を陥落させ、全軍を率いて鴨蛋洲から渡江し、武昌を陥落させて楚王華奎を捕らえ、籠に入れて江に沈め、楚の宗室をことごとく殺した。二十歳以下十五歳以上の男子を選んで兵士とし、残りは皆殺した。鸚鵡洲から道士洑に至るまで、浮かぶ死体が江を覆い、一ヶ月余り経つと人の脂が数寸も厚く積もり、魚や鱉は食べられなくなった。献忠はついに僭号を称し、武昌を天授府と改め、江夏を上江県とした。楚王の邸宅を占拠し、西王之宝を鋳造し、偽りの尚書・都督ととく・巡撫などの官を設け、科挙を開いて士人を登用した。興国州の柯・陳両姓の土官が勇猛であると聞き、これを招いて降した。黄鶴楼に詩を題した。命令を下して楚王邸の金を発して飢民を救済させた。蘄・黄など二十一の州県がことごとく帰附した。

時に李自成は襄陽におり、これを聞いて嫉みかつ怒り、書を送って譴責した。左良玉の軍が再び西上し、偽りの官吏は多く捕らえられ殺された。献忠は恐れ、そこで衆を率いて岳州・長沙へと向かった。ここにおいて監軍道の王〓質・沔陽知州の章曠・武昌の生員程天一・白雲寨の長易道三が皆挙兵して賊を討ち、蘄・黄・漢陽の三府はいずれも正統に復帰した。献忠はついに咸寧・蒲圻を陥落させ、岳州に迫った。沅撫の李乾徳・総兵の孔希貴らが城陵磯に拠って防戦し、三度戦って三度勝利し、その前鋒を殲滅した。献忠は怒り、百方並びに進撃し、乾徳らは支えきれず、皆逃走し、岳州は陥落した。献忠は洞庭湖を渡ろうとし、神に占ったが、吉兆でなく、卦を投げつけて罵った。渡ろうとした時、大風が起こり、献忠は怒り、千艘もの大船をつなぎ、婦女を乗せて焼き、水面の光は夜も昼のようであった。騎兵で長沙に迫り、巡按の劉熙祚は吉王・恵王を奉じて衡州に逃れ、総兵の尹先民は降伏し、長沙は陥落した。まもなく衡州を破り、吉王・恵王・桂王は皆永州に逃れた。そこで桂王府の材木を解体し、長沙まで運んで偽りの宮殿を造り、自らは永州で三王を追撃した。熙祚は中軍に命じて三王を護衛して広西に入らせ、自身は永州に入って死守したが、城が陥落して殺害された。さらに宝慶・常徳を陥落させ、故督師楊嗣昌の祖墓を暴き、その屍を斬って血を見せた。道州を攻め、守備の沈至緒が戦死し、その娘が再戦して父の屍を奪い返し、城は全きを得た。ついに東進して江西を犯し、吉安・袁州・建昌・撫州・永新・安福・万載・南豊などの府県を陥落させた。広東は大いに震駭し、南雄・韶州に属する城の官民は皆逃げ去った。賊の中に呉・越を取る計略を献じる者がいたが、献忠は左良玉がいるのを恐れ、聞き入れず、四川に入ることを決策した。

十七年の春、夔州を陥落させ、万県に至ったが、水かさが増したため、三月間留まって駐屯した。やがて涪州を破り、守道の劉麟長・総兵の曾英の軍を破った。進んで仏図関を陥落させた。重慶を破り、瑞王常浩は害に遇った。この日、雲ひとつないのに雷鳴が起こり、賊の中に震える者がいた。献忠は怒り、巨砲を発射して天と争った。ついに進んで成都を陥落させ、蜀王至澍は妃・夫人以下を率いて井戸に身を投げ、巡撫の龍文光は殺害された。この時、我が大清兵はすでに京師を平定し、李自成は西安に逃れ帰っていた。南京の諸臣は福王を尊んで擁立し、故大学士の王応熊に川・湖の軍事を督させたが、兵力は弱く、賊を討つことができなかった。献忠はついに大西国王と僭号し、元号を大順と改め、冬十一月庚寅の日、偽位に即き、蜀王府を宮殿とし、成都を西京と名付けた。汪兆麟を左丞相とし、厳錫命を右丞相とした。六部五軍都督府などの官を設け、王国麟・江鼎鎮・龔完敬らを尚書とした。養子の孫可望・艾能奇・劉文秀・李定国らを皆将軍とし、張姓を賜い、諸府州県を分かって巡行させ、ことごとく陥落させた。保寧・順慶は先に李自成に降り、官吏が置かれていたが、献忠はこれを悉く追い払った。李自成は兵を発して攻撃したが、陥落させられず、ついに全蜀を占有した。ただ遵義一郡及び黎州土司の馬金のみが降らずに抵抗した。

献忠は黄い顔に長身で虎のような顎を持ち、人は黄虎と呼んだ。性質は狡猾で、殺戮を好み、一日でも人を殺さないと、ふさぎ込んで楽しまなかった。偽って科挙を開いて士人を集め、青羊宮に集めてことごとく殺し、筆硯が丘塚のようになった。成都の民を中園に穴埋めにした。各衛所の軍籍の兵士九十八万人を殺した。また四将軍を派遣して各府県を分かって屠殺させ、草殺と名付けた。偽官が朝会で拝伏すると、数十頭の獒犬を呼んで殿下に下らせ、獒犬が嗅いだ者を引き出して斬り、天殺と名付けた。また生皮剥ぎの法を創始し、皮が剥がれないうちに先に絶命すると、刑吏は死罪に処せられた。将卒は人を殺した数の多少で功績の順位を定め、合わせて男女六万余りを殺した。賊将の中には忍びかねて首を吊る者もいた。偽都督の張君用・王明ら数十人は、皆人を殺した数が少ないという罪で、皮を剥がれて死に、その家族も皆殺しにされた。川中の士大夫を脅して偽職を受けさせ、叙州布政使の尹伸・広元給事中の呉宇英は屈せずに死んだ。諸官職を受けた者も、後ほどやはり皆殺害された。その残酷で非道な行為は、枚挙にいとまがない。また法術を用いて錦江の流れを変え、干上がらせて掘り下げ、数丈の深さに金銀財宝を億万単位で埋め、それから堤防を決壊させて流し戻し、水蔵と名付け、「後世の者のために残さない」と言った。この時、曾英・李占春・于大海・王祥・楊展・曹勲らが義兵を挙げて蜂起したため、献忠の誅殺はますます苛烈を極めた。川中の民が尽きると、ついに西安を窺うことを謀った。

順治三年、献忠は成都の宮殿や家屋をことごとく焼き払い、その城を平らげ、衆を率いて川北に出て、さらに川兵を皆殺しにしようとした。偽将の劉進忠はもと川兵を統率していたが、これを聞き、一軍を率いて逃亡した。ちょうど我が大清兵が漢中に到着し、進忠が来奔して、郷導となることを請うた。塩亭の境界に至った時、大霧が立ち込めた。献忠が夜明けに行軍中、鳳凰坡で突然我が軍と遭遇し、矢に当たって馬から墜ち、柴の下に伏せた。ここにおいて我が兵は献忠を捕らえ出し、斬り殺した。

川中は献忠の乱に遭って以来、各城の内には雑木が両手を合わせるほどに茂り、犬は人肉を食らうこと猛獣の虎豹のようで、人を噛み殺すとすぐに捨て去り、食べ尽くすことはなかった。民は深山に逃れ、草を衣とし長く食べ物がなく、全身に毛が生えていた。献忠が誅殺された後、賊党の可望・能奇・文秀・定国らは潰走して川南に入り、曾英・李乾徳らを殺し、後には皆永明王に降った。