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明史
列傳第一百九十八 土司
西南の諸蠻は、有虞氏の苗裔、殷の鬼方、西漢の夜郎・靡莫・邛・莋・僰・爨の類なり。巴・夔より以東及び湖・湘・嶺嶤に至るまで、数千里に盤踞し、種類殊別なり。歴代以来、自ら相君長たり。其の王朝に役使せらるる所以を原れば、周武王の時孟津の大会に、庸・蜀・羌・髳・微・盧・彭・濮の諸蠻皆与りしに始まる。及び楚の莊蹻が滇に王たり、秦は五尺道を開き、吏を置き、漢武に沿い及び、都尉県属を置き、仍って自保を令す。此れ即ち土官・土吏の始めなるか。
明に至り、元の故事を踵ぎ、大いに恢拓し、司・郡・州・県を分別し、額を以て賦役を定め、我が驅調に聽しめ、而して法始めて備はる。然れども其の道は羈縻に在り。彼の大姓相擅け、世に威約を積むも、必ず我が爵祿を假り、名號を寵しめて、乃ち統攝し易く、故に奔走して惟命す。然れども調遣日々に繁く、急にして變を生じ、功を恃み過を怙て、侵擾益々深し。故に歴朝の征發は、利害各々半ばす。其の要は撫綏の人を得て、恩威兼ね濟ふに在り。然らば則ち其の死力を得て患ふるに足らざるなり。『實錄』に成化十八年馬平主簿孔性善の言を載す、「谿峒の蠻僚は、常に化に梗くも、亂豈に因無からんや。昔、陳景文令たりし時は、瑤・僮皆差徭に應じ、厥の後撫字方を乖き、始めて仍って反側す。誠に守令人を得て、恩信を示し、禍福を諭さば、亦た當に心を革むべし」と。帝嘉して之を納れど、惜しむらくは實に其の用を究むる能はざりき。此れ蠻を治むるの寶鑒と爲す可し。
嘗て洪武の初めを考ふるに、西南夷來歸する者は、即ち原官を以て之を授く。其の土官の銜號は宣慰司と曰ひ、宣撫司と曰ひ、招討司と曰ひ、安撫司と曰ひ、長官司と曰ふ。勞績の多寡を以て、尊卑の等差を分ち、而して府・州・縣の名も亦た往々之れ有り。襲替は必ず朝命を奉じ、萬里の外に在ると雖も、皆闕に赴き職を受く。天順の末、土官の勘奏を繳呈するを許すと、則ち威柄漸く弛む。成化の中、納粟して振に備ふるを令すと、則ち規取日々に陋し。孝宗は憤りを發して厘革すと雖も、因循して改めず。嘉靖九年始めて舊制を復し、府・州・縣等の官を驗封に隷せしめ、宣慰・招討等の官を武選に隷せしむ。驗封に隷する者は、布政司之を領し、武選に隷する者は、都指揮之を領す。是に於て文武相維ひ、中土に比す。其の間叛服常ならず、誅賞互に見ゆ。茲に其の事跡尤も著しき者に據り、篇に列す。
○湖廣土司
湖南は、古は巫郡・黔中の地なり。其の施州衛と永・保の諸土司の境は、嶽・辰・常德の西に介在し、川東の巴・夔と相接壤し、南は黔陽に通ず。谿峒深阻にして、寇盜に易く、元末滋に甚だし。陳友諒湖・湘の間を據り、利を以て啖ひ、其の兵を資りて用ふ。諸苗も亦た力を盡くし、旁の寨に兵を乞ひて之が驅使を爲す者有り、友諒此を以て益々肆なり。太祖の鄱陽に於て友諒を殲ち、進みて武昌を克つに及び、湖南の諸郡風望んで歸附し、元の時に置ける宣慰・安撫・長官司の屬は、皆先後迎へ降る。太祖は原官を以て之を授く、已にして化に梗く。
洪武三年、慈利安撫使覃垕諸蠻を連構して寇す、征南將軍周德興之を平ぐ。五年、復た鄧愈を征南將軍と命じ、師を率ひて散毛等三十六洞を平げ、而して副將軍吳良復た五開・古州の諸蠻凡そ二百二十三洞を平ぐ。其の民一万五千を籍し、潰散の士卒四千五百餘人を收集し、其の地を平ぐ。未だ幾ばくもせず、五開・五谿の諸蠻亂れ、之を討平す。十八年、五開蠻吳面兒反し、勢獗甚だし。楚王楨に征虜將軍湯和を將とせしめ、九谿諸處の蠻僚を撃斬し、俘獲四萬餘人、諸苗始めて懼る。而して靖・沅・道・澧の間も、十年内亦た尋ひ起り尋ひ滅ぶ。開國の初と雖も、師武臣力、實に太祖の控制の道恩威備はる。
永樂の初め、苗繼絕を告げ、冠帶を襲ぎ、益々銜勒に就く。百年を垂れ、而して五開・銅鼓の間又紛紛として警多し。時に英宗北狩し、中原所在侵擾し、苗勢殊に熾なり。景泰の初め、總兵官宮聚奏す、「蠻賊西は貴州龍裏に至り、東は湖廣沅州に至り、北は武岡に至り、南は播州の境に至る、二十萬を下らず、諸郡邑を圍困焚掠す。臣の領する官軍二萬に及ばず、前後奔赴して平越の圍を解く能はず。急ぎ京邊の軍及び麓川を征する卒十萬を調し來り、以て調遣に資せんことを乞ふ」と。久しくして師征至らず、更に他の帥を易へ、浸淫六七載。天順元年に至り、總督石璞總兵官方瑛を調し、始めて期を克ち征剿す。天堂・小坪・墨溪二百二十七寨を破り、偽の王侯伯等百餘人を擒へ、賊首千四百餘級を斬り、軍人男婦千三百餘口を奪回し、是に於て苗患漸く平ぐ。蓋し貴州に萌發し、而して湖南に蔓銜するは、皆生苗の梗く所なり。諸土司初め動搖無く、而して永・保の諸宣慰は、世に富強を席ひ、每に征伐に遇ふ毎に、輒ち戈を荷ひて前驅を願ひ、國家も亦た之に賴りて撻伐す。故に永・保の兵は號して虓雄と爲す。嘉・隆以還、徵符四出し、而して湖南の土司均しく臂指に備はる。
△施州(施南宣撫司 散毛宣撫司 忠建宣撫司 容美宣撫司)永順軍民宣慰使司 保靖州軍民宣慰使司
施州
施州は、隋は清江郡と爲し、施州と改む。明初仍って之れに依る。洪武十四年施州衛軍民指揮使司を改置し、湖廣都司に属す。軍民千戶所一を領す:大田と曰ふ。宣撫司三を領す:施南と曰ひ、散毛と曰ひ、忠建と曰ふ。安撫司八を領す:東鄉五路と曰ひ、忠路と曰ひ、忠孝と曰ひ、金峒と曰ひ、龍潭と曰ひ、大旺と曰ひ、忠峒と曰ひ、高羅と曰ふ。長官司七を領す:搖把峒と曰ひ、上愛茶峒と曰ひ、下愛茶峒と曰ひ、劍南と曰ひ、木冊と曰ひ、鎮南と曰ひ、唐崖と曰ふ。蠻夷長官司五を領す:鎮遠と曰ひ、隆奉と曰ひ、西泙と曰ひ、東流と曰ひ、臘壁峒と曰ふ。又た容美宣撫司と曰ふ者有り、亦た境内に在り、長官司四を領す:椒山瑪瑙と曰ひ、五峰石寶と曰ひ、石梁下峒と曰ひ、水盡源通塔平と曰ふ。
初めに、太祖が呉王の位に即いた時、甲辰(1364年)六月、湖広の安定宣撫使向思明が長官の硬徹律らを遣わし、元が授けた宣撫の勅印を持参して来朝し、改めて授けるよう請うた。そこで命じて依然として安定等処宣撫司二つを置き、思明とその弟思勝をそれに任じた。また、懐徳軍民宣撫司一つを置き、向大旺をそれに任じ、統軍元帥二つを置き、南木、潘仲玉をそれに任じた。抽欄、不用、黄石の三洞には、それぞれ長官一人を置き、没葉、大蟲、硬徹律をそれに任じた。簳坪洞には元帥府一つを設け、向顕祖をそれに任じた。梅梓、麻寮の二洞には、それぞれ長官一人を置き、向思明、唐漢明をそれに任じた。皆、新たに降伏した者である。丙午(1366年)二月、容美洞宣撫使田光宝が弟の光受らを遣わし、元が授けた宣撫の勅印を持参して来朝した。光宝を四川行省参政、容美洞等処軍民宣撫司事を行わせ、依然として安撫元帥を置いてこれを治めさせた。併せて太平、台宜、麻寮等十寨の長官司を立てた。
洪武四年(1371年)、宣寧侯曹良臣が兵を率いて桑植を取ると、容美洞の元施南道宣慰使覃大勝の弟大旺、副宣慰覃大興、光宝の子答谷らが皆来朝し、元が授けた金虎符を納めた。施州宣慰司を従三品とし、東郷諸長官司を正六品とするよう命じ、流官を参用させた。五年、忠建元帥墨池がその子驢吾を遣わし、配下の溪洞元帥阿巨らを率いて帰順し、元が授けた金虎符及び銀印、銅章、誥勅を納めた。忠建長官司及び沿辺溪洞長官司を置き、墨池らを長官とした。二月、容美宣撫田光宝が再び子の答谷を遣わして来朝した。征南将軍鄧愈が散毛、柿谿、赤谿、安福等三十九峒を平定し、散毛宣慰司都元帥覃野旺が偽夏(明玉珍)の授けた印を上呈した。
十四年(1381年)、江夏侯周徳興が軍を移して水尽源、通塔平、散毛諸峒を討ち、施州衛軍民指揮使司を置いた。十五年、施南宣撫司を置き、施州衛に隷属させた。十七年、散毛沿辺安撫司安撫覃野旺の子起剌が来朝し、本司僉事に任ずるよう命じた。景川侯曹震が言上した。「散毛等洞の蛮はしばしば寇掠して民の患いとなっている。すでに施州衛及び施南宣撫覃大勝に命じてこれを招撫させたが、もし頑なに抵抗するならば、兵を発して討つことを請う。」
二十二年(1389年)、忠建宣撫田思進の子忠孝に父の職を代行させるよう命じた。当時、思進は八十余歳で、致仕を請うたため、この命があったのである。翌年、涼国公藍玉が散毛洞を攻略し、剌惹長官覃大旺ら一万余人を捕らえた。大田軍民千戸所を置き、施州衛に隷属させた。藍玉が奏上したところによれば、散毛、鎮南、大旺、施南等洞の蛮は叛服常なく、黔江、施州衛の兵は距離が遠く、応援が難しい。今、散毛の地は大水田と連なっているので、千戸所を置いて守備させるのが適当である。そこで散毛を大田と改め、千戸の石山らに土兵一千五百人を率いさせ、所を置いてこれを鎮撫させた。当時、忠建、施南の叛蛮が龍孔に寨を結んでいたので、藍玉は指揮徐玉に兵を率いさせてこれを攻撃し、宣撫覃大勝を捕らえ、残りの蛮は退走した。藍玉はさらに兵を分けて捜索し、男女一千八百余人を殺害・捕獲し、大勝とその徒党八百二十人を檻送して京師に送った。大勝を市で磔刑に処し、残りは開元に戍辺させ、衣服と食糧を与えて送り出した。
永楽二年(1404年)、散毛、施南の二長官司を再設置した。先に、洪武初年、諸土司の長官で降って来た者は、皆原官のままとした。蛮苗呉面児の乱により、諸土司の地は多く荒廃し、長官も世襲が停止された。この時、故土官の子覃友諒らが蛮民を招き戻したことを理由に、依然として治所を設けるよう請うた。その戸数が少ないため、長官司に降格し、大田軍民千戸所に隷属させた。友諒を散毛長官とし、覃添富を施南長官とした。四年、施南、散毛を再び宣撫司に改めたのは、友諒、添富が来朝したためである。田応虎を龍潭安撫とした。当時、応虎が来朝し、その祖父・父は宋、元以来、皆安撫であったが、蛮乱以来その地が散毛に併合され隔絶して治め難いので、旧に復するよう請うた。これに従った。当時、高羅安撫田大民が言上し、蛮民四百余戸を招き戻したので、原職の治所に戻すよう請うた。木冊長官田谷佐、唐崖長官覃忠孝もまた、父祖が代々安撫であったが、洪武時に大軍が蜀を平定した際、民が驚いて離散し、治所が廃された。今、谷佐らが三百余戸を招集したので、襲職を請うた。これを許した。五年、鎮南長官覃興らが来朝し、世職であると称し、洪武中に廃止されたが、今、蛮民三百戸を招き戻したので、旧に復するよう請うた。既に五峰石宝長官張再武も襲職を請うた。これに従った。同時に、東郷五路安撫を設け、覃忠をそれに任じ、施南に隷属させた。石梁下峒、椒山瑪瑙、水尽源通塔平の三長官司を設け、向潮文、劉再貴、唐思文をそれに任じ、容美に隷属させた。既に忠路、忠孝、金峒の三安撫司を再設置し、施州衛に隷属させ、覃英、田大英、覃添貴をそれに任じた。皆、洪武年間の蛮乱で民が離散し、その治所が廃されたが、今、忠らが故官の子・甥として来朝し、再設置を奏請したため、全てこれに従い、それぞれ印章と冠帯を賜った。
宣徳二年(1427年)、剣南長官司を設け、忠路安撫に隷属させた。揺把峒、上愛下愛二茶峒の三長官司及び鎮辺、隆奉の二蛮夷官司を設け、皆東郷五路安撫に隷属させた。東流、臘壁峒の二蛮夷官司を設け、散毛宣撫に隷属させた。石関峒長官司、西泙蛮夷官司を設け、金峒安撫に隷属させた。皆、その酋長をそれに任じた。先に、忠路安撫司等がそれぞれ奏上したところによれば、前元の故土官の子孫である牟酋蛮らが、それぞれ蛮民を擁して久しく谿洞を占拠していたが、今、招撫に応じたので、官司を設け、職事を授けるよう請うた。兵部がこれを上聞すると、帝は蛮を統御するにはその情に順うべきであり、授ける諸司には等級があるべきであるとした。兵部が議して、四百戸以上の者は長官司を設け、四百戸以下の者は蛮夷官司を設けることとした。元土官の子孫には量を酌んで職を授け、招いた官司の管轄に従わせることにした。皆これに従った。三年に一度の朝貢を旧例通りとするよう命じた。九年、木冊長官田谷佐が奏上した。「高羅安撫が常に勢いに倚って陵轢し、我が土地人民を侵奪している。すでに朝廷の裁決を受けたが、しかし彼の宿怨は未だ平らかでなく、再び害を加える恐れがある。直接施州衛に隷属させてほしい。」これに従った。正統三年(1438年)、散毛宣撫覃友諒の子瑄に試職を命じた。初め、友諒は罪により檻送されて京師へ向かったが、途中で逃げ隠れ、後に官軍に捕らえられ、獄死した。この時、本司がその子が蛮民に信服されているとして襲職を請うた。帝は友諒の罪が重く革職すべきであるが、ただ蛮の故に法を曲げて恩を信じ、瑄に試職を命じて後の効果を図らせた。景泰二年(1451年)、礼部が奏上した。「散毛宣撫司副使黄縉瑄が親兄を謀殺しようとした。律に照らせば斬刑に当たる。その妻譚氏が子の忠らを遣わして馬を貢ぎ罪を贖おうとしている。しかし縉瑄の罪は重く、法により赦すことはできない。宜しく鈔を与えて馬の代価とすべきである。」これに従った。天順元年(1457年)、容美宣撫田潮美が老病を理由に、子の保富に職を代行させるよう請うた。これに従った。五年、礼部が奏上した。「施州木冊長官司の土舎譚文寿が兇暴で、併せて不法な誹謗の言葉を作り、刑に当たる罪である。今、その母向氏が馬を進めて贖おうとしているが、従うべきではないと思われる。」帝は鈔百錠を与えてその母を慰め、その子は依然として禁錮するよう命じた。
成化二年、搖把洞長官の向麥答踵が奏上した。「隣近の洗羅峒長が、本洞の土兵が両広に征調されたのを知り、村寨が空虚なのを窺い、土蛮を煽動誘引して攻撃掠奪した。官軍を調発して征剿鎮治することを乞う。」五年、礼部が奏上した。「容美宣撫司の田保富らが、人を遣わして方物を進貢したが数に満たず、使者が侵奪した恐れがある。賞賜を停止し、なお所司に移文して知らせるべきである。」施州等衛八安撫司が各々奏上した。成化五年の朝覲で進上した馬は、既に辺衛に交付して騎乗教練に充てたが、諸衛が馬を受け取った文書が届かず、虚偽詐称の恐れがある。実情を勘案して賞を与えるべきである。いずれも従われた。弘治二年、木冊長官の田賢及び容美致仕の田保富が各々馬を進上し、土人譚敬保らの罪を贖おうとした。刑部が言う。「蛮民が馬を納めて罪を贖うのは、軽い者は許容できるが、重い者は赦し難い。按臣に下して審査させるべきである。」八年、容美宣撫が馬及び香を貢いだ。礼部は香が数に満たず、馬は多く途中で斃れ、また文書の検証もないとして、半賞を与えるよう命じた。九年、金峒安撫の覃彦龍が奏上した。「境内に杉木が産出し、かつて金三千を売却して庫に貯蔵した。今、彦龍は年老い、子はただ一人である。死後、土人が争奪することを恐れる。部に解送することを乞う。」工部が議して、貢典に該当しないとして退けた。
正徳四年、容美宣撫並びに椒山瑪瑙長官司が遣わした通事の劉思朝らが京に赴き進貢したが、沿道の駅伝で多く需索し、偵事に発覚した。魯橋以北で計千余金に及んだ。部臣がこれを上聞すると、帝は遠蛮であるとしてこれを宥した。散毛宣撫並びに五峰石宝、水尽源通塔平長官司が入貢が期限に遅れた。部が半賞を議し、従われた。九年、大田千戸所千戸の冉霖の子舜卿を指揮僉事に任じた。自ら川寇討伐の功を陳述したためである。十一年、容美宣撫の田秀は幼子を寵愛し、兄の白俚俾を追放して幼子に襲職させようとした。白俚俾はこれを恨み、父と弟を賊殺した。事が上聞され、鎮巡官に下して検証処断させ、磔刑に処した。土官の唐勝富、張世英らが白俚俾のために弁明を奏上したが、罪もまた連座すべきであった。詔して、蛮僚は異類であり、全てを法で縛るのは難しいとして、その連座を免じ、戒飭した。十五年、容美宣撫司同知の田世瑛が奏上した。鎮南軍民府の古印を獲得した。始祖の田始進に開熙二年に頒給されたものである。宣撫司を軍民府に改めて昇格することを乞う。礼部が議した。宣撫を開設し、印を頒給して久しい。変更すべきでない。古印は上納すべきである。従われた。
嘉靖七年、容美宣撫司、龍潭安撫司が毎回の朝貢で大抵千人を率い、通過地で擾乱害悪を及ぼした。鳳陽巡撫の唐龍がこれを上聞した。礼部が旧制を按ずるに、進貢は百人を超えず、京に赴くのは二十人を超えない。所司に命じて申し飭めるべきである。忠孝安撫司の把事の田春ら数十人が入貢を称し、関文を偽造し、駅伝を騒擾した。応天巡撫がこれを上聞した。兵部が議した。土司が定例に違反して入貢し、かつ通過地で横暴に需索する。他の憂いがある恐れがある。厳しく禁諭すべきである。二十六年、臘壁峒等長官司が入貢した。礼部が印文を検証したところ詐偽であった。詔してその賞を革め、併せて按臣に下して勘問させた。
三十三年、詔して湖広川貴総督に容美十四司を節制させる。初め、容美土官の田世爵は土官の向元楫と累世仇敵であった。元楫が幼いと、世爵は偽って和好を講じ、娘を嫁がせ、その産を奪おうと謀り、よって元楫を姦通で誣告した。有司は変乱を激化させることを恐れ、元楫を自ら捕らえるよう命じ、獄に下して死罪と論じた。世爵は遂に兵を起こし、向氏をことごとく俘虜とし、併せてその土地を没収し、全て官に没入した。久しくして、撫按がその謀略を知り、元楫と対質するよう責めたが、世爵は出頭せず、密かに羅峒土舎の黄中らと謀叛を図った。ここにおいて湖広巡按御史の周如鬥が、荊南道分巡を施州衛に移し、以て制御を便ならしめ、広西清浪等の戍軍を調発し、以て行伍を充実させることを請うた。上疏が督臣の馮嶽らに下って議され、嶽らが言う。「施州は地勢が孤懸しており、久しく居することはできない。戍軍もまた一時に集めることはできない。荊瞿守備を施州に移し、九永守備を九谿に移し、上荊南道に巡歴を備えさせるべきである。世爵の驕横に至っては、有司が摂治できず、ただ元楫を長く拘束するのは何のためか。督臣に容美を節制する権限を与え、世爵の抗違の罪を問うべきである。もし悔い改めなければ、即ち法をもって縛るべきである。」従われた。
時に龍潭安撫の黄俊は平素より貪暴で、支羅洞寨を占拠し、些細な恨みで人を殺し、獄に繋がれた。ちょうど白草番が反逆すると、俊の子の中が功を立てて父の罪を贖うことを請い、已むことなくまた自ら副指揮となることを求めて、当事者に賄賂して許させた。俊は出獄してますます驕横となり、乃ち中及び群盗の李仲実らと、四川の雲陽、奉節の間で恣に行い、副使の熊逵らが計略を以て俊と仲実を擒らえた。俊は獄中で死に、中は自ら縛られて出降し、余党の譚景雷らを捕らえて自らを贖った。帝は命じて俊を追戮し、梟示し、仲実らを斬罪と論じ、中を戍辺に貶謫し、而して功有る者を賞した。三十五年、容美宣撫の田九霄に襲職を命じ、紅紵衣一襲を賜うた。浙江の黄宗山で倭を撃破した功による。
隆慶元年、吏科給事中の朱絵らが言う。湖広施州衛忠路安撫の覃大寧が一日に五度上奏し、言葉多く実情に合わず、究治を請う。都察院が議する。金峒安撫の上舎覃璧が印を争って相殺し、及び磁峒は四川に轄すべきでない。ともに撫按官に下して勘報させる。四年、覃璧が乱を起こし、官軍を傷つけた。撫按が失事の諸臣の罪を治めることを請う。兵部が言う。「本衛は境外に孤懸し、事は倉卒に起こった。寛大に赦し、以て後の功を責めるべきである。」帝はこれを然とし、所司に相機して剿撫することを命じた。五年、巡撫の劉愨が覃璧平定を以て、五事を条議した。「一、川東の所轄たる巫山、建始、黔江、万県を上荊道に改属させることを請う。一、荊州は施州衛から遠く、巡歴に不便である。夷陵の西に傅友德が開いた蜀を取った旧道、百里荒と名付くものがあり、衛に至るのは僅か五百余里である。巴東の石砫司巡検、施州衛の州門駅、三会駅を併せて近地に移し、以て閭井を連絡せしめることを請う。而して百里荒及び東卜壟に仍び哨堡を創建し、千戸一員に命じ、班軍百人を督して戍守せしめる。一、施州衛は延袤頗る広く、物産最も豊かである。衛官が削り取り、民が夷地に逃れて乱を為すに致す。通判を裁撤して同知を設置し、民蛮を撫治し、徭賦を均平にし、額外の横索をなさしめざるべきである。一、金峒の世官は急に絶やすべきでない。覃勝の罪を赦し、安撫を降格して峒長とし、支羅所百戸の提調を聴かしめる。一、施州の所轄十四司の応襲官舎は、必ず先ず道院に白状して、始めて事務を執ることを許す。擅立名号する者は、厳しく治めることを請う。併せて兵巡道に毎年施州を経歴せしめ、予め行って各官舎を調集し奨諭し、学に赴かせて教化を観せしめる。」俱に従われた。
万暦十一年、湖広撫按が奏上した。「施州衛施南等宣撫司各官は、仍び鎮筸参将の節制を聴き、敕書に載入し、以て事権を一にする。」従われた。
崇禎十二年、容美宣撫田元が上疏して言う、「六月の間、谷賊が再び叛き、撫治両臣が土兵を調用した。臣は直ちに行糧と戦馬を供出し、土兵七千を直ちに派遣し、副長官陳一聖らに率いさせて先発させた。悍軍の鄧維昌らは征調を恐れ、遂に譚正賓と結び七十二村を糾合し、銀一万七千両を集め、巴東知県蔡文升に賄賂を贈り、民を軍に従わせるという文書を上報させ、忠義を阻み辺境の紛争を引き起こした」。帝は撫按に命じてその事実を調査させた。当時、中原には寇賊が充満し、時事は日に日に非なるものとなり、たとえ土司の征調が至らなくとも、もはや問うことはできなかった。
永順軍民宣慰使司
永順は、漢の武陵郡、隋の辰州、唐の溪州の地である。宋の初めに永順州となった。嘉祐年間、溪州刺史彭仕羲が叛き、大軍を臨めると、仕羲は降伏した。熙寧年間、下溪州城を築き、会溪と名を賜った。元の時、彭万潜が自ら永順等処軍民安撫司と改めた。洪武五年、永順宣慰使順徳汪倫と堂厓安撫使月直が人を遣わして、彼らが受けていた偽夏の印を上呈した。詔して文綺と襲衣を賜った。遂に永順等処軍民宣慰使司を設置し、湖広都指揮使司に隷属させた。州三つを領し、南渭、施溶、上谿という。長官司六つ、臘惹洞、麦著黄洞、驢遅洞、施溶溪、白崖洞、田家洞という。九年、永順宣慰彭添保がその弟義保らを遣わして馬と方物を貢ぎ、衣幣を差等を付けて賜った。これより、三年ごとに一度入貢するようになった。永楽十六年、宣慰彭源の子仲が土官部長六百六十七人を率いて馬を貢いだ。
宣徳元年、礼部が永順宣慰彭仲の子英が朝正に遅れたことを以て、その罪を請うた。帝は遠方の者には風濤や疾病の障りがないとは限らないとして、なお例のごとく賜与した。総兵官蕭綬が奏上する、「酉陽の宋農裏、石提洞の軍民が臘惹洞長謀古賞らに連年攻撃掠奪され、また後渓に及び、招撫に従わない。兵を調べてこれを討伐することを乞う」。謀古賞らは恐れ、人馬を罰して罪を贖うことを願い、兵を罷めた。正統元年、彭仲の子世雄に職を襲わせることを命じた。天順二年、世雄に諭して土兵を調発し、貴州の東苗を会剿させた。
成化三年、兵部尚書程信が永順兵を調発して都掌蛮を征討することを請うた。十三年、苗征討の功により、宣慰彭顕英に散官一階を進めることを命じ、なお勅を賜って労をねぎらった。十五年、永順の賦を免じた。弘治七年、貴州が平苗の功を奏上し、宣慰彭世麒らが功労に関与したことを以て、世麒が升職を乞うた。兵部は例に非ずとし、世麒の階を昭勇将軍に進め、なお勅を賜って褒賞することを請うた。これに従った。八年、世麒が馬を進めて恩に謝した。十四年、世麒が北辺に警報があることを以て、土兵一万を率いて延綏に赴き、賊討伐を助けることを請うた。兵部が議して不可とし、勅を賜って諭し褒め、併せて奏事人に路費鈔千貫を賜い、その明年の朝覲を免じた。これは、ちょうど賊婦米魯征討の調発に応じていたためである。
正徳元年、世麒が従征して功があったことを以て、紅織金麒麟服を賜い、世麒が馬を進めて恩に謝した。二年、馬を進めて中宮冊立を賀し、命じて例のごとく賞を与えた。五年、永順と保靖が地を争って相攻撃し、累年決せず、朝廷に訴えた。各々米三百石を罰することを命じた。六年、四川の賊藍廷瑞、鄢本恕ら及びその党二十八人が両川で乱を倡え、烏合の衆十余万人、王号を僭称し、四十八営を置き、城を攻め吏を殺し、黔・楚に毒を流した。総制尚書洪鐘らがこれを討ったが、勝てなかった。やがて官軍に阻まれ、食糧が乏しくなり、偽って撫に応じるふりをし、掠奪を自らの意のままに行った。廷瑞は娘を永順の土舎彭世麟に嫁がせて結婚させ、兵を緩めさせようとした。世麟は偽ってこれを許し、因って期日を約した。廷瑞、本恕及び王金珠ら二十八人皆来会し、世麟が伏兵を置いてこれを捕らえた。残賊は潰れて河を渡り、官兵が追撃包囲し、捕斬及び溺死者七百余人。総制、巡撫が捷報を奏聞し、賞賚に差等を付けた。論ずる者はこの役を以て世麟を首功と為すという。七年、賊劉三等が遂平より東臯へ向かい、宣慰彭明輔及び都指揮曹鵬らが土軍を以てこれを追撃した。賊は倉卒に河を渡り、溺死者二千人、斬首八十余級。巡撫李士実がこれを奏聞した。永順宣慰に格別に加賞することを命じ、なお明輔に誥命を与えた。
十年、致仕宣慰彭世麒が大木三十本、次なるもの二百本を献上し、親しく督運して京に至った。子の明輔の進めたものもこれと同じであった。勅を賜って褒め諭し、進奏人に鈔千貫を賞賜した。十三年、世麒が大楠木四百七十本を献上し、子の明輔もまた大木を進めて営建に備えた。詔して世麒を都指揮使に昇進させ、蟒衣三襲を賞賜し、なお致仕させる。明輔に正三品散官を授け、飛魚服三襲を賞賜し、勅を賜って奨励し、なお鎮巡官に命じて宴労させた。当時、政権は権幸の手にあり、恩沢は全て請託によるものであった。ここにおいて郴州の民が世麒の賊征討時の号令厳明を称え、その土官彭芳らもまた世麒の功を称え、蟒衣玉帯を乞うた。兵部が格例により不可とし、遂に止んだ。世麒は賞を辞し、坊を立てることを請い、表労と名を賜った。時に保靖両宣慰が両江口を争う議論があり、言葉が明輔に連なり、主管者が逮治を議した。明輔は蛮民に命じてその従征の功を奏上させ、香炉山の応得の升賞を全て辞退し、以て逮治の辱めを贖おうとした。部議は全てこれを止めた。
嘉靖六年、岑猛を擒えた功を論じ、応襲宣慰彭宗漢の京への赴きを免じ、宗漢の父明輔、祖父世麒に銀幣を加賜した。二十一年、巡撫陸傑が言う、「酉陽と永順が采木をめぐって仇殺し、保靖がまたその間に煽動し、大いに地方の患いとなっている」。乃ち川・湖の撫臣に命じて撫戢させ、兵端を醸さぬようにした。この年、永順の秋糧を免じた。
三十三年冬、永順土兵を調発して蘇・松において倭賊を協剿させた。明年、永順宣慰彭翼南が兵三千を統率し、致仕宣慰彭明輔が兵二千を統率し、共に松江で会した。時に保靖兵が石塘湾で賊を破った。永順兵が邀撃し、賊は王江涇へ奔り、大いに潰えた。保靖兵が最も功績が大きく、永順がこれに次いだ。帝が勅を降して奨励し、各々銀幣を賜い、翼南に三品服を賜った。
先に、永順兵が新場の倭を剿討した時、倭は敢えて出撃せず、保靖兵が誘いに乗って急ぎ先に入り、永順土官田菑、田豊らもまた争って入り、賊に包囲され、皆死んだ。議する者は皆、督撫の経略が適宜を失い、永順兵をして再戦再北させたと言った。王江涇の戦いにおいては、保靖がこれを掎し、永順がこれを角し、斬獲一千九百余級、倭は気を奪われ、これは東南の戦功第一というべきものであった。時に功を邀える者が賞を行おうとし、翼南は遂に昭毅将軍を授けられた。已にして、右参政に昇進させ宣慰事を管掌させ、明輔と共に銀幣の賜いを受けた。時に保・永二宣慰は倭を破った後、兵が驕り、過ぎ行く所皆劫掠し、江に沿って上下苦しんだ。御史が究治を請うた。部議は土兵が新たに功があり、急に罰を加えれば遠方の人心を失うとして、宜しく諭責すべきであるとした。併せて浙・直に命じて郷勇を訓練させ、嗣いで軽々しく土兵を調発せぬようにした。
四十二年、大木を献上した功により再び賞を論じ、明輔に都指揮使を加え、蟒衣を賜い、その子で宣慰司事を掌る右参政彭翼南を右布政使とし、飛魚服を賜い、なお勅を賜って奨励した。四十四年、永順が再び大木を献上し、詔して明輔、翼南に二品服を加賜した。
万暦二十五年、東事(朝鮮の役)が急を告げ、永順の兵一万人を調発して援軍に赴かせた。宣慰使彭元錦は自ら衣糧を準備して調令に従うと請うたが、後に言葉を濁し、要挟の形跡があったので、これを罷免する命が下った。三十八年、元錦に都指揮の官位を賜い、蟒衣一襲を与え、妻の汪氏を夫人に封じた。四十七年、永順が貢馬を期限に遅れたため、賞賜を減じた。兵部が言うには、「先に宣慰使元錦の兵三千人を遼東救援に調発したが、半年を経て、関門に至った者は僅か七百余人に過ぎない」と。主兵者を追究する命が下った。四十八年、元錦を都督僉事に進めた。先に、元錦は兵三千人を調発するだけでは功を立てるに足りないとして、一万の兵をもって往くことを願い出た。朝廷はその忠を嘉し、恩を加えて厚く遇した。後に檄を発して八千を調発したところ、僅か三千で責任を果たしたとし、また上疏して病と称したため、巡撫に弾劾され、詔旨により厳しく責められた。元錦は已むなく出発し、兵は通州の北に到着したが、三路の軍が敗北し損害を被ったと聞き、遂に大いに潰走した。ここにおいて巡撫徐兆魁が言うには、「永順の兵八千を調発し、費用は十万を超えた。今、奔潰してしまい、虚しく費やしただけで益がない」と。これを罷免した。
保靖州軍民宣慰使司
保靖は、唐の溪州の地であり、宋は保静州を置き、元は保靖州安撫司とした。明の太祖が初めに挙兵した時、安撫使彭世雄がその配下を率いて帰附したので、命じて依然として保靖安撫使とした。洪武元年、保靖安撫使彭萬里が子の徳勝を遣わして表を奉り馬及び方物を貢いだ。詔して安撫司を保靖宣慰司に昇格させ、萬里をこれに任じ、湖広都指揮使司に隷属させた。これより以後、朝貢は制度通りに行われた。
永楽元年、保靖の族属である大虫可宜らが互いに仇殺したため、御史劉従政を遣わし勅を齎してこれを撫諭させた。三年、辰州衛指揮龔能らが筸子坪など三十五寨の生苗(未帰順の苗族)廖彪らを招諭し、それぞれ子を遣わして入貢させた。これにより筸子坪長官司を設け、彪をこれに任じ、保靖に隷属させた。九年、宣慰使彭勇烈が人を遣わして来貢した。十二年、筸子坪の賊徒呉者泥が自ら苗王と称し、蛮民の苗金龍らと乱を為したが、総兵梁福がこれを平定した。間もなく、者泥の子呉擔竹が再び苗の呉亜麻を誘い、貴州の答意などの蛮と結んで叛き、都督蕭授がこれを斬って平定した。二十一年、宣慰使彭薬哈俾が人を遣わして馬を貢いだ。
宣徳元年、宣慰使彭大虫可宜が子の順を遣わして来貢した。四年、兵部が奏上した。「保靖には旧来二つの宣慰使がおり、一人は人に殺され、一人は人を殺して死に当たる罪となった。その同知以下の官は皆欠員である。流官を改めてこれを治めることを請う。」帝は蛮の性質は馴らし難く、流官は土俗に通じていないとして、都督蕭授に命じ、衆人の推服する者を選んで奏聞させた。正統十四年、保靖宣慰使が族人の彭南木答らと互いに上奏して訴えあったが、後に講和し、米を納めて誣奏の罪を贖うことを願い出たので、これを許した。
景泰七年、保靖の土兵を調発し銅鼓・五開・黎平の諸蛮の協同征剿に当たらせる命が下り、先に賞を頒ってこれを犒労した。天順二年、宣慰使彭舎怕俾に勅して直ちに兵を選んで進討させた。三年、保靖が夏の災害を奏上した。成化二年、保靖宣慰使彭顕宗が蛮征討に功があったため、命じて誥命を与えた。三年、再び保靖の兵を調発して都掌蛮を征討させた。五年、保靖宣慰使ら諸土司の成化二年分の税糧八百五十三石を免じた。これは、たびたび広西及び荊・襄・貴州に征調されて功があったためである。七年、顕宗が老いて職務に堪えられなくなったので、命じてその子の仕瓏に代わらせた。十三年、苗平定の功により、顕宗・仕瓏ともに官位一階を進めた。十五年、災害により保靖の租賦を免除した。仁瓏(仕瓏か)が奏上した。両江口長官彭勝祖が定例に違反して進貢したと。下部臣に議させたところ、逮捕審問すべきであるとし、鎮巡官に命じてこれを諭させた。
弘治十二年、永順宣慰使司が奏上した。仕瓏が擅に兵を率いて長官彭世英を攻撃し、仇殺すること多年、禍を構えて止まず、兵を発して征剿を乞うと。部(兵部)が覆奏した。たびたび審問を行ったが返答がない。鎮巡官に速やかに調査して奏聞するよう諭すべきであると。これを従った。十四年、保靖宣慰使らがちょうど征調に応じているため、翌年の朝覲を免除した。これは当時、貴州の賊婦米魯を征討する役務があったためである。初め、保靖安撫使彭萬里が洪武元年に帰附し、その地に保靖宣慰司を設け、萬里に宣慰使を授け、白崖・大別・大江・小江など二十八村寨を管轄させた。萬里が卒すると、子の勇烈が嗣いだ。勇烈が卒すると、子の薬哈俾が嗣いだが、幼年であった。萬里の弟麦谷踵の子大虫可宜が、土人に唆して自分を副宣慰とするよう上奏させ、司の事務を共同で処理することとし、薬哈俾を殺してその十四寨を占拠した。事が発覚し、逮捕審問され、獄中で死に、副宣慰は廃止されたが、占拠した寨は元のままだった。その後、勇烈の弟勇傑が嗣ぎ、子の南木杵、孫の顕宗、曾孫の仕瓏に伝わった。一方、大虫可宜の子の忠、忠の子の武、武の子の勝祖及びその子の世英とは、代々仇敵の関係となった。武は正統年間に従征して功があり、両江口長官を授けられた。勝祖は成化年間にやはり功により前職を授けられ、ともに宣慰司に随って事務を処理したが、印と官署はなかった。弘治初年、勝祖は年老い、世英には官職がなく、仕瓏がその地を奪うことを恐れ、先例に援って世襲を求め、奏上して実態調査が行われたが、仕瓏がしばしばこれを妨げたため、仇恨がますます深まり、両家の管轄する土人もそれぞれ党派を分けて仇殺した。永順宣慰使彭世麒は勝祖の女を娶り、またこれを支持したため、互いに攻撃し合い、上訴する寧日がなかった。弘治十年、巡撫沈暉が奏上して言った。世英に粟を納入させて父の職を嗣がせ、これによって紛争を鎮めようとしたが、仕瓏の上奏による非難は止まなかった。この時、勅して世英を貴州征討に従軍させようとしたが、兵部の移文に「両江口長官司」の文字があったため、仕瓏は世英が官署を設けることになり、自分の統制に従わなくなるのではないかと疑い、再びこれを奏上した。ここにおいて巡撫閻仲宇・巡按王約らが、前後の章奏を兵部・都察院に下して議するよう請うた。議して言うには、「世英に占拠している小江七寨を仕瓏に返還させ、大江七寨のみを管轄させ、仕瓏の統制に従わせる。その原居地である両江口は要害の地であるので、清水溪堡の官兵を調発してこれを守らせる。そして世英を沱埠に移転させ、争いの端を絶つ。以後、土官の応襲子弟は、悉く入学させ、漸次風化に染まり、頑冥な性質を改めさせる。もし入学しない者は、承襲を認めない。世麒は世英に与しているので、法により処罰すべきであるが、湖広に従征して頗る忠勤を効いているので、既に功をもって贖うことを許す旨がある。仕瓏・世英をともに逮捕審問し、勝祖は常例に照らして発遣する」と。奏上し、これを従った。弘治十六年六月の事である。
正徳十四年、保靖の両江口土舎彭恵は、既に祖父の大虫可宜が彭薬哈俾と代々仇敵であったが、この時に至り宣慰彭九霄と再び怨みを結んだ。永順宣慰彭明輔は彼と姻戚関係にあり、兵力を貸して助け、ついに九霄と互いに仇討ち殺し合いを繰り返し、数年止まず、死者は五百余人に及び、前後して上奏して訴え出た文書は累計八十余通に及んだ。守巡官は恵を獄に繋いだが、明輔は衆を率いて彼を奪い去り、やがて再び捕らえて繋いだ。事が聞こえ、詔して都御史呉廷挙に調査処置させた。廷挙はそこで鎮巡に議させ、恵の罪は誅すべきであるが、土蛮は法で完全に縛るのは難しく、宜しく恵を辰・常の城中に移し置き、九霄に価を出させて両江口の旧地と交換させるべきであるとした。なお文官で左遷された者二人を首領官とし、以て彼らを勧導させる。数年後に心を改めて教化に帰したならば、勅を請うて褒賞し諭し、なお首領に抜擢して用いる。兵部に下して議させたところ、恵を内陸に移せば後患を残す恐れがあるとして、廷挙に再議させた。ここにおいて廷挙らは再び請うて、大江の右岸の五寨を保靖に帰属させ、大江の左岸の二寨を辰州に属させ、大剌巡検司を設置し、流官一人を以てこれを主管させることとした。恵は移転を免じ、依然として沱埠に居住し、土舎の名目で巡検事を協理させる。部の覆奏は廷挙の言う通りであった。
嘉靖六年、岑猛を擒らえた功により九霄を湖広参政に進め、銀幣を賜う。長子の虎臣は戦死し、指揮僉事を追贈され、次子の良臣が職を襲う時、京に赴くことを免じた。二十六年、保靖の秋糧を免ず。三十三年、詔して宣慰彭藎臣に命じ、配下の三千人を率いて蘇州・松江に赴き倭を征討させた。翌年、石塘湾で倭に遭遇し、大戦してこれを破った。賊は北に走って平望に至り、諸軍はこれを王江涇で追撃し、大いにこれを破った。功を記録し、保靖を首功とし、勅して藎臣に銀幣及び三品の服を賜い、兵を統率してさらに賊を撃たせた。先に、都司李経が保靖兵を率いて倭を新場まで追撃したが、倭二千人は伏して出ず、保靖土舎彭翅が軍を率いて偵察したところ、伏兵に遭い、配下と共に皆死んだ。翅に一官を追贈し、併せて棺と殮の具を賜うた。この時に至り、王江涇の勝利により、藎臣を昭毅将軍に進めた。既にしてまた保靖土兵六千を総督の軍前に赴かせたのは、胡宗憲の請いに従ったものである。時に既に趙文華・宗憲の功を叙し、さらに藎臣に右参政を加え、宣慰司事を管掌させ、なお銀幣を賞賜した。
万暦四十七年、保靖兵五千を徴発し、宣慰彭象乾に命じて自ら統率して遼東を救援させた。四十八年、象乾に指揮使を加える。象乾は涿州に至って病み、夜中に兵が逃散する者三千余人、部臣がこれを上奏した。帝は厳しい旨を以て統兵者を責め、併せて監軍道に命じて沿道で招撫させた。翌年、象乾は病んで行けず、その子・甥を遣わして親兵を率いさせて関門を出て、渾河で戦い、全軍尽く歿した。天啓二年、象乾を都督僉事に進め、彭象周・彭緄・彭天祐に各々都司僉書を追贈した。渾河の戦いで一門が戦いに殉じたことを以て、その義烈は諸土司の筆頭と称された。