『宋史』が君子と小人を論じ、陰陽に象を取るのは、その説は当たっている。しかし小人は世に常にあるもので、一概に奸の名を被せることはできない。必ずやその者が権柄を窃み弄び、禍乱を構え結び、宗廟を動揺させ、忠良を屠り害し、心跡ともに悪く、終身陰賊たる者に限り、初めて悪名を加えて敢えて辞さないのである。有明一代、巨奸大悪は多く寺人・内豎より出で、外廷の諸臣に求めれば、蓋しまた少ない。太祖の開国之初に当たり、胡惟庸は凶狡にして自らほしいままにし、遂に叛逆の罪に坐して誅死した。陳瑛は成祖の時に在り、刻酷を以てその奸私を助け、君に逢い君を長じ、善類を荼毒した。これらが遭遇したのは、皆英武明断の君であったが、禍心を包蔵し、久しうして方に敗れた。もし庸主に遇えば、その悪を為すこと言うに勝えようか。その後、権は内豎に帰し、奸を懐き寵を固めんとする徒は、これに依附結納し、禍は縉紳に流れた。ただ世宗の朝に、閹宦は跡を斂め、而して嚴嵩父子は悪を助け、貪得にして厭うこと無し。莊烈帝は手ずから逆党を除いたが、周延儒・溫體仁は私を懐き党を植え、国を誤り邦を覆した。南都の末造は、本より言うに足るもの無く、馬士英は庸瑣の鄙夫、饕残にして悪を恣にする。この数人者は、内に閹尹を依るべくも無く、而して外に群邪と相ひ比し、国事を恤れず、職として乱階と為った。その心跡を究めれば、殆ど巳・檜と同じ科に将ちせんとする。ああ畏るべし。『奸臣傳』を作る。
胡惟庸
楊憲が誅せられて以来、帝は惟庸を才有りとし、寵任した。惟庸もまた自ら励み、嘗て曲謹を以て上意に当たり、寵遇日々に盛んとなり、数年にわたり独り相たり、生殺黜陟も、あるいは奏上せずに径行した。内外諸司の上封事は、必ず先ず取って閲し、己を害するものは、輒ち匿して以て聞かせず。四方の躁進の徒及び功臣武夫で失職した者は、争ってその門に走り、金帛・名馬・玩好を饋遺すること、数え勝えず。大将軍徐達は深くその奸を疾み、従容として帝に言上した。惟庸は遂に達の閽者福寿を誘いて達を図らせたが、福寿に発覚された。御史中丞劉基もまた嘗てその短を言った。久しうして基が病むと、帝は惟庸に医を挟ませて視させ、遂に毒を以て中てさせた。基が死ぬと、益々忌憚無くなった。太師李善長と相結び、兄の娘をその従子佑に妻せしめた。学士呉伯宗が惟庸を劾すと、危禍を得ること幾かった。ここより、勢い益々熾んになった。その定遠の旧宅の井中に、忽ち石筍が生じ、水を数尺出し、諛う者は争って符瑞を引き、またその祖父三世の塚上に、皆夜火光天を燭す有りと言った。惟庸は益々喜び自ら負うところ有り、異謀有りとなった。
吉安侯陸仲亨は陝西より帰り、擅かに乗伝した。帝は怒ってこれを責め、「中原は兵燹の余り、民始めて復業し、戸を籍し馬を買うこと、艱苦殊に甚だしい。もし皆爾が為す所に效えば、民たとえ子女を尽く鬻ぐも、給うること能わざるべし」と言った。代県に盗を捕えよと責めた。平涼侯費聚は命を受けて蘇州軍民を撫したが、日々酒色を嗜んだ。帝は怒り、西北に往き蒙古を招降せよと責め、功無く、また切にこれを責めた。二人は大いに懼れた。惟庸は陰に権利を以て二人を脅し誘い、二人は素より戇勇であり、惟庸が用事するを見て、密かに相往来した。嘗て惟庸の家に過ぎて飲み、酒酣に及んで、惟庸は左右を屏いて言った、「吾等の為す所多く不法なり、一旦事覚ゆれば、如何せん」と。二人は益々惶懼し、惟庸は乃ち己が意を告げ、外に在って軍馬を収集せしめよと令した。また嘗て陳寧と省中に坐し、天下の軍馬籍を閲し、都督毛驤に令して衛士劉遇賢及び亡命の魏文進等を取って心膂と為らしめ、「吾は爾を用うる所有り」と言った。太僕寺丞李存義は、善長の弟で、惟庸の婿李佑の父であるが、惟庸は陰に善長を説かしめた。善長は既に老いて、強く拒む能わず、初めは許さず、已にしてその間に依違した。惟庸は益々以て事成る可しと為し、乃ち明州衛指揮林賢を遣わし下海して倭を招き、期会を約した。また元の故臣封績を遣わし書を致して元の嗣君に称臣し、兵を請いて外応と為らしめんとした。事は皆未だ発せず。時に惟庸の子が市に馳馬し、車下に墜死したので、惟庸は挽車者を殺した。帝は怒り、その死を償えと命じた。惟庸は金帛を以てその家に給せんことを請うたが、許されず。惟庸は懼れ、乃ち御史大夫陳寧・中丞涂節等と謀り事を起こし、陰に四方及び武臣で己に従う者に告げた。
陳寧
陳寧は茶陵の人である。元末に鎮江の小吏と為り、軍に従って集慶に至り、軍帥の家に館し、軍帥に代わって上書言事した。太祖之を覧めて善しと称し、檄文を試みに召すと、詞意雄偉、乃ち用いて行省掾吏と為した。時に方に四征し、羽書帝午すれども、寧は酬答整暇、事留滞無く、太祖益々之を才とした。淮安が款を納れるに、命を受けてその兵を徴し、高郵に抵り、呉人に獲られた。寧は抗論して屈せず、釈放されて還り、広徳知府に擢げられた。時に大旱有り、民租の免を乞うたが、許されず。寧は自ら詣って太祖に奏して曰く、「民饑え此の如きに、猶租を征して已まず、是れ張士誠の為に民を駆るなり」と。太祖は壮として之を聴いた。
陳瑛
瑛は天性残忍にして、帝の寵任を受け、益々深刻に務め、専ら搏撃を以て能と為す。事に蒞るや、即ち言う、「陛下は天に応じ人に順い、万姓服従す。然るに廷臣に命に順わず、建文に効死する者有り。侍郎黄観・少卿廖升・修撰王叔英・紀善周是修・按察使王良・知県顔伯瑁等の如きは、その心叛逆に異ならず。追戮を請う」と。帝曰く、「朕奸臣を誅するも、斉・黄数輩に過ぎず。後二十九人中、張紞・王鈍・鄭賜・黄福・尹昌隆の如きは、皆宥して用う。況んや汝の言う所、この数に与からざる者有らば、問う勿れ」と。後、瑛方孝孺等の獄詞を閲し、遂に観・叔英等の家を簿し、その妻女を給配す。疏族・外親連染せざる莫し。胡閏の獄、籍する所数百家、号冤の声天に徹す。両列の御史皆泣きを掩う。瑛もまた色惨として、人に謂いて曰く、「叛逆を以てこの輩を処せざれば、則ち吾等無名と為らん」と。ここにおいて諸忠臣遺種無し。
瑛都御史と為ること数年、論劾する所の勲戚・大臣十余人、皆陰に帝の指を希う。その他の劾する所、順昌伯王佐・都督陳俊・指揮王恕・都督曹遠・指揮房昭・僉都御史俞士吉・大理少卿袁復・御史車舒・都督王瑞・指揮林泉・牛諒・通政司参議賀銀等、先後また数十人、俱に罪を得たり。帝は奸を発する能きと為し、寵任す。然れどもまたその残刻なるを知り、奏する讞は尽く従わず。中書舎人芮善の弟夫婦、盗に殺さる。心その親族を疑い、官に訟う。刑部験するに盗に非ず、これを放つ。善、帝に白して刑部が故に盗を出すとす。帝、御史を命じて鞫治せしむ。果たして盗に非ず。瑛因りて善の妄奏を劾し、獄に下すべしとす。帝曰く、「兄弟は同気、賊を得て惟ちその逸るるを恐る。善に何の罪か有らん、問う勿れ」と。車裏宣慰使刀暹答、威遠州の地を侵し、その知州刀算党を執いて帰る。帝、使を遣わしてこれを諭す。刀暹答懼れ、地及び執る所の知州を帰し、弟刀臘等を遣わして方物を貢ぎ謝罪す。瑛、先ず刀臘を法司に下し、且つ刀暹答を逮治すべしと請う。帝曰く、「蛮僚の性、稍々相得ざれば則ち相仇い、改めれば已む。今罪に服してまたこれを治めば、何を以て服せざる者を処せん」と。遂に赦して問わず。嘉興県知県李鑒、廷見して謝罪す。帝故を問う。瑛言う、「鑒は奸党姚瑄を籍す。瑄の弟亨は連坐すべし。然るに鑒は亨を釈して籍せず。罪すべし」と。鑒言う、「都察院の文は只だ瑄を籍するのみ。亨の名有らず」と。帝曰く、「院文に名無くして籍せざるは、慎重を失わざるなり」と。鑒免るるを得たり。戸部の人材高文雅、時政を言い、因りて建文の事に及び、辞意率直なり。帝、議してこれを行わしむるを命ず。瑛、文雅の狂妄を劾し、法を置くを請う。帝曰く、「草野の人何ぞ忌諱を知らん。その言に采るべき有れば、何ぞ直なるを以てしてこれを廃せん。瑛は刻薄にして、朕を助けて善を為す者に非ず」と。文雅を吏部に付し、材を量りて官を授けしむ。海運の糧漂没す。瑛、官軍の罪を治め、これを償わしむるを責むるを請う。帝曰く、「海濤険悪、官軍溺死を免るるは幸いなり」と。悉く釈して問わず。瑛の奸険附会、一意苛刻、皆この類なり。
帝が北巡し、皇太子が国政を監理した。陳瑛が言うには、兵部主事の李貞が皂隸の葉転ら四人から金を受け取ったというので、李貞を獄に下すよう請うた。ほどなく、李貞の妻が登聞鼓を打ち鳴らして冤罪を訴えた。皇太子は六部大臣に命じて朝廷で審問させたが、辰の刻から午の刻まで、李貞らは来ず、ただ葉転だけが到着した。訊問すると、李貞は自白せず、拷問に耐えかねて死に、三皂隸も皆三日前に笞打ちで死んだということで、李貞は実際には金を受け取っていなかった。先に、袁綱と覃珩の両御史がともに兵部に赴き皂隸を要求し、李貞は急に応じる術がなく、両御史はこれを恨み、この獄を起こしたのである。ここにおいて刑科給事中の耿通らが、陳瑛および袁綱・覃珩が朋党を組んで奸をなし、事実を蒙蔽し、無辜を擅に殺したと上言し、陳瑛を罪に処すよう請うた。皇太子は言った、「陳瑛は大臣である。おそらく下の者に欺かれ、察知できなかったのだろう」と。問わずに置き、袁綱・覃珩を枷をはめて拘束し、その罪状を帝の行在所に奏上した。また、学官が事に坐して謫され太学の膳夫に充てられた者がいたが、皇太子が法司に命じて役務を改めさせると、陳瑛がこれを阻んで実行させず、中允の劉子春らがさらに陳瑛が命令を妨げ自ら恣に振る舞うと弾劾した。皇太子は陳瑛に言った、「卿の心遣いは刻薄で、政体をわきまえず、まったく大臣の道ではない」と。当時、皇太子は陳瑛を深く憎んでいたが、帝が寵愛任用しているため、どうすることもできなかった。久しくして、帝も次第に陳瑛を疎んじるようになった。九年の春、陳瑛は罪を得て獄に下され死に、天下の人はこれを快とした。
帝は簒奪によって天下を得、臣下を統御するに多く重典を用いた。陳瑛は率先して風旨を受け、誣罔して陥れ排斥した者は数えきれなかった。一時、臣下の多くがその行いをまね、紀綱・馬麟・丁玨・秦政学・趙緯・李芳らは、皆、傾險をもって知られた。紀綱は『佞幸伝』にある。
馬麟ら
馬麟は、鞏県の人である。洪武末年に工科給事中となり、建文の時に罪に坐して雲南に謫され吏となった。成祖が即位すると、建文朝で罷免された官をすべて復し、馬麟は召還された。まもなく兵科都給事中に進んだ。馬麟には他に建白はなく、専ら他人の過失を暴くことを能とした。帝も久しくしてこれを厭い、馬麟らに諭して言った、「奏牘の一字の誤りにまで喋喋するのは、煩瑣に過ぎる。誤謬があれば即座に改正し、必ずしも奏聞するには及ばない」と。馬麟らが言うには、「奏内に臣と称さない者があれば、これを赦すべきではない」と。帝は言った、「彼らも偶々脱漏したのだ。言官は軍国の大務を陳べるべきで、細事は略してもよい」と。久しくして、右通政に抜擢された。帝がある日侍臣を顧みて言った、「四方から頻りに水旱の災が奏上される。朕は甚だ安らかでない」と。馬麟は急ぎ進み出て言った、「水旱は天の数であり、堯や湯も免れなかった。一二の郡にあるに過ぎず、害にはならない」と。帝は言った、「『洪範』に恒雨・恒暘は皆、人事に本づくと言う。天の数に委せてよいのか。お前のこの言葉は、学ばないからだ」と。馬麟は慚じて退いた。馬麟は言路にあり、諸司を糾弾して一日も空けることがなかった。かつて兵部の事を署理したが、わずか一日で、早くも過失があり、人に奏上され、これより少しは慎むようになった。通政の職に八年居り、官のまま卒した。
丁玨は、山陽の人である。永楽四年、里社で賽神を行ったが、衆を聚めて不軌を謀ると誣告し、これに坐して死んだ者は数十人に及んだ。法司はこれにより丁玨を忠と称え、特に刑科給事中に抜擢した。百官の些細な過失を伺い察し、すぐに上聞した。官に十年居り、貪黷で廉恥を顧みなかった。母の喪に服して喪期が終わらないうちに、起復して職務に就き、すぐに衆に随って大祀の斎宮に入り、さらに慶成宴に与り、御史の俞信らに弾劾され、大不敬の罪に論じられて死に当たるとされた。帝は言った、「朕は平素よりその奸邪を疑っていた。もしその言うところを悉く行えば、廷臣に一人でも免れる者があろうか」と。そこで辺境に戍らせるため謫した。
趙緯は初め大興の教諭となり、燕兵が起こると、城守に功労があった。礼科給事中に抜擢されたが、罪に坐して思南宣慰司教授に謫された。永楽七年、原官に復し、朝廷の士の過失を捃摭することに務めた。久しくして、浙江副使に遷った。後に朝廷に入ると、仁宗はその名を見て言った、「この者まだいるのか。これは蛇蠍と異ならない」と。そこで嘉興典史に謫した。
厳嵩
厳嵩、字は惟中、分宜の人である。身長が高く痩せており、眉目は粗く、声は大きかった。弘治十八年の進士に挙げられ、庶吉士に改められ、編修を授かった。病を理由に移って帰郷し、鈐山で十年間読書し、詩や古文辞をなし、頗る清誉があった。朝廷に還り、久しくして侍講に進み、南京翰林院事を署理した。召されて国子祭酒となった。嘉靖七年に礼部右侍郎を歴任し、世宗の命を奉じて顕陵に祭告し、還って言った、「臣が恭しく宝冊を上し、神床を奉安した時、皆、時に応じて雨が晴れました。また、石は棗陽に産し、群鸛が集まって巡り、碑が漢江に入ると、河水が驟然と漲りました。輔臣に命じて文を撰し石に刻ませ、天の眷顧を紀念させてください」と。帝は大いに喜び、これに従った。吏部左侍郎に遷り、南京礼部尚書に進み、吏部に改めた。
南京に五年居り、万寿節を賀するために京師に至った。時に廷議で『宋史』を改修することになり、輔臣が厳嵩を留めて礼部尚書兼翰林学士としてその事を総轄させるよう請うた。夏言が内閣に入ると、厳嵩に命じて部事を還って掌らせた。帝が献皇帝を明堂に祀り、上帝に配祀しようとした。既にして、また宗と称して太廟に入れようとした。厳嵩は群臣と議してこれを沮んだが、帝は悦ばず、『明堂或問』を著して廷臣に示した。厳嵩は惶恐し、以前の説をことごとく改め、礼儀を条画して甚だ備わっていた。礼が成ると、金幣を賜った。ここより、ますます諂媚して悦ばせることに務めた。帝が皇天上帝の尊号・宝冊を上し、尋ねて高皇帝の尊諡聖号を加えて配祀すると、厳嵩は慶雲が現れたと奏上し、群臣の朝賀を受けられるよう請うた。また『慶雲賦』・『大礼告成頌』を作って奏上すると、帝は喜び、史館に付すよう命じた。尋ねて太子太保を加えられ、承天に従幸し、賞賜は輔臣と等しかった。
厳嵩は帰るにつれて日に日に驕った。諸宗藩が恤みを請い封を乞うと、賄賂を挟んで取った。子の世蕃もまたしばしば諸曹に関説した。南北の給事中・御史が貪污の大臣を交章して論じ、皆、厳嵩を筆頭に挙げた。厳嵩は弾劾されるたびに、急いで帝に誠を帰し、事はすぐに収まった。帝が事を厳嵩に諮ると、条対は平々で奇もなく、帝は必ず故に賞賛し、言者を諷して止めさせようとした。厳嵩の科第は夏言より先であったが、位はその下にあった。初め夏言に倚り、謹んでこれに事え、かつて酒宴を設けて夏言を招き、自らその邸に詣でたが、夏言は辞して会わなかった。厳嵩は席を設け、用意した啓を展げ、跪いて読んだ。夏言は厳嵩が実際に己より下だと思い、疑わなかった。帝は道教を奉じ、かつて香葉冠を着用し、それに因んで沈水香の冠を五つ刻み、夏言らに賜った。夏言は詔を奉じず、帝は甚だ怒った。厳嵩は召対の際にこれを冠し、軽紗で覆った。帝はこれを見て、ますます内々に厳嵩を親しんだ。厳嵩は遂に夏言を傾け、これを排斥した。夏言が去ると、醮祀の青詞は、厳嵩でなければ帝の意に当たる者はなかった。
二十一年八月、武英殿大学士に拝され、文淵閣に入り直し、なお礼部の事を掌った。時に厳嵩は六十余歳であった。精爽溢れて発し、少壮と異ならず。朝夕西苑の板房に直し、一度も帰って洗沐せず、帝はますます厳嵩が勤勉であると言った。久しくして、部事を解くことを請い、遂に専ら西苑に直した。帝はかつて厳嵩に銀記を賜い、文に「忠勤敏達」と曰う。尋いで太子太傅を加う。翟鑾の資序は厳嵩の上に在り、帝の待遇は厳嵩の如くならず。厳嵩は言官に諷してこれを論ぜしめ、翟鑾は罪を得て去る。吏部尚書許贊・礼部尚書張璧、同じく内閣に入るも、皆票擬の事を預かり聞かず、政事は一に厳嵩に帰す。許贊は嘗て歎じて曰く、「何ぞ我が吏部を奪い、我をして傍らに人を睨ましむる」と。厳嵩は同列に厚きを示さんと欲し、且つ言者の意を塞がんとし、因って夏言の短を顕わさんとし、乃ち請う、凡そ宣召有るは、成国公朱希忠・京山侯崔元及び許贊・張璧と偕に入ることを乞い、祖宗の朝の蹇義・夏原吉・三楊の故事の如くせんと。帝は聴かず、然れども心ますます厳嵩を喜び、累進して吏部尚書・謹身殿大学士・少傅兼太子太師と為す。
厳嵩には他に才略無く、唯一意に上に媚び、権を窃み利を罔る。帝は英察にして自信、果たして刑戮し、頗る己が短を護る。厳嵩は故に事に因って帝の怒りを激し、人を戕害して以て其の私を成すことを得たり。張経・李天寵・王忬の死は、厳嵩皆力有り。前後厳嵩・世蕃を劾する者、謝瑜・葉経・童漢臣・趙錦・王宗茂・何維柏・王曄・陳塏・厲汝進・沈煉・徐学詩・楊継盛・周鈇・吳時來・張翀・董伝策、皆譴責せらる。葉経・沈煉は他の過ちを用いて之を死に置き、楊継盛は張経の疏尾に附して之を殺す。他の喜悦せざる者は、遷除考察を仮りて以て斥く者甚だ多く、皆嘗て跡有ること無し。
俺答が都城に迫り、慢書を以て貢を求む。帝は厳嵩と李本及び礼部尚書徐階を召して西苑に対入せしむ。厳嵩は規画する所無く、之を礼部に委ぬ。帝は悉く徐階の言を用い、稍々厳嵩を軽んず。厳嵩は復た間を以て帝の怒りを激し、司業趙貞吉を杖して之を謫す。兵部尚書丁汝夔は厳嵩の指を受け、諸将を趣して戦わしむることを敢えず。寇退き、帝は丁汝夔を殺さんと欲す。厳嵩は其の己を引き出すを懼れ、丁汝夔に謂ひて曰く、「我在り、慮る毋れ」と。丁汝夔は臨死に至り始めて厳嵩に紿かれたるを知る。
大将軍仇鸞は、始め曾銑に劾せられ、厳嵩に倚りて曾銑を傾け、遂に父子と約す。已にして仇鸞は寇を挟んで帝の重きを得、厳嵩はなお児子の如く之を蓄い、浸いに相悪む。厳嵩は密疏を以て仇鸞を毀つ。帝は聴かず、而して頗る仇鸞の陳ぶる所の厳嵩父子の過ちを納れ、稍々之を疎んず。厳嵩は当に入直すべく、召されざること数たび矣。厳嵩は徐階・李本の西内に入るを見、即ち与に俱に入らんとす。西華門に至るに、門者は詔旨に非ざるを以て之を格む。厳嵩は第に還り、父子対ひて泣く。時に陸炳は錦衣を掌り、仇鸞と寵を争う。厳嵩は乃ち陸炳を結び共に仇鸞を図る。会うに仇鸞病み死す。陸炳は仇鸞の陰事を訐り、帝は之を追戮す。ここに於いて益々厳嵩を信任し、乗する所の龍舟を遣わして海子を過ぎ厳嵩を召し、載せて西内に直すこと故の如し。世蕃は尋いで工部左侍郎に遷る。倭寇江南に寇す。趙文華を用いて軍情を督察せしむ。大いに賄賂を納れて以て厳嵩に遣わし、寇乱を致すこと益々甚だし。及び胡宗憲が汪直・徐海を誘降するに、趙文華乃ち言ふ、「臣と胡宗憲の策は、臣が師厳嵩の授くる所なり」と。遂に命じて厳嵩に尚書の俸を兼ねて支へしめ謝せしめず。是より褒賜は皆謝せず。
帝は嘗て厳嵩の直廬の隘きを以て、小殿の材を撤して営室と為し、花木を其中に植え、朝夕御膳・法酒を賜ふ。厳嵩は年八十、肩輿を以て禁苑に入ることを聴す。帝は十八年に章聖太后を葬りて後より、即ち朝を視ず。二十年の宮婢の変より、即ち西苑の万寿宮に移居し、大内に入らず。大臣は謁見を得ること稀なり。惟だ厳嵩独り顧問を承け、御札一日或は数下す。同列と雖も聞くことを獲ず。故に厳嵩は志を逞うするを得たり。然れども帝は甚だ厳嵩を親礼すと雖も、亦た其の言を尽く信ぜず、間一たび独断を取るか、或は故に異同を示し、以て其の勢を殺離せんと欲す。厳嵩父子独り帝の窾要を得、救解せんと欲する所あれば、厳嵩は必ず帝の意に順ひて痛く之を詆り、而して婉曲に解釋して以て帝の忍びざる所に中る。即ち排陷せんと欲する者は、必ず先ず其の善を称し、而して微言を以て之に中り、或は帝の恥と諱とする所に触る。是を以て帝の喜怒を移すこと、往々にして失わず。士大夫は輻湊して厳嵩に附く。時に文選郎中万寀・職方郎中方祥等を称して厳嵩の文武管家と為す。尚書呉鵬・欧陽必進・高燿・許論の輩は、皆惴惴として厳嵩に事ふ。
厳嵩は権を握ること久しく、遍く私人を引いて要地に居らしむ。帝も亦た浸いに之を厭い、而して漸く徐階を親しむ。会うに徐階の厚くする所の呉時來・張翀・董伝策各疏を上りて厳嵩を論ず。厳嵩は因りて密かに主使者を究むることを請い、詔獄に下し、窮治して引く所無し。帝は乃ち問わず、而して厳嵩を慰留す。然れども心能く動かざる無く、徐階は因りて間を得て厳嵩を傾く。吏部尚書欠く。厳嵩は力を尽くして欧陽必進を援けて之と為す。甫む三月にして即ち斥去せらる。趙文華は旨に忤いて譴責を獲、厳嵩も亦た救う能わず。詔有りて二王は婚邸第に就かしむ。厳嵩は力を尽くして内に留まることを請う。帝は悦ばず、厳嵩も亦た力を以て持する能わず。厳嵩は警敏と雖も、能く意に先んじて帝の指を揣る。然れども帝の下す手詔は、語多くして暁くべからず。惟だ世蕃一覧して了然たり。答語中らざる無し。及び厳嵩の妻欧陽氏死す。世蕃は当に喪を護りて帰るべし。厳嵩は留まって京邸に侍ることを請う。帝は之を許す。然れども是より直所に入りて厳嵩に代わり票擬することを得ず。而して日々家に淫楽を縱す。厳嵩は詔を受くるも多く答うる能わず。使を遣わして持して世蕃に問わしむ。其の方女楽に耽るに値い、時に答えず。中使相継いで厳嵩を促す。厳嵩は已むを得ず自ら之を為す。往々にして旨を失う。進むる所の青詞は、又多く他人の手を仮りて能く工ならず。此れを経て積りて帝の歓を失う。会うに万寿宮火す。厳嵩は暫く南城離宮に徙ることを請う。南城は、英宗が太上皇と為りし時に居りし所なり。帝は悦ばず。而して徐階が万寿宮を営むこと甚だ旨に称す。帝は益々徐階を親しみ、顧問多くは厳嵩に及ばず。即ち厳嵩に及ぶも、祠祀のみなり。厳嵩は懼れ、酒を置きて徐階を要し、家人をして羅拝せしめ、觴を挙げて属して曰く、「厳嵩は旦夕に且つ死せん。此の曹は惟だ公の乳哺を之れにす」と。徐階は謝して敢えず。
間もなく、帝は方士藍道行の言葉を聞き入れ、厳嵩を罷免する意向を抱いた。御史鄒応龍が内侍の家で雨宿りをしている時にこのことを知り、上疏して厳嵩父子の不法を極論し、言うには、「臣の言が事実でなければ、臣の首を斬って厳嵩・世蕃に謝罪させてください」と。帝は厳嵩を慰める旨を下したが、厳嵩が世蕃を溺愛し、眷顧と信頼に背いたとして、致仕を命じ、駅馬で帰郷させ、役所に毎年米百石を給するよう命じ、世蕃を法廷に下した。厳嵩は世蕃の罪を許し、かつ理解を求めたが、帝は聞き入れなかった。法司が世蕃とその子の錦衣衛指揮の厳鵠・厳鴻、および食客の羅龍文を上奏して辺境遠方に流刑とするよう論じた。詔はこれに従い、特に厳鴻を許して平民とし、厳嵩に仕えさせ、その奴僕の厳年を獄に閉じ込め、応龍を通政司参議に抜擢した。これは四十一年五月のことであった。龍文は中書の官にあり、結託して不正な利益を図り、厳年が最も狡猾で悪辣であり、士大夫が競って萼山先生と称した者である。
世蕃は、首が短く体は肥え、片目が不自由で、父の任官により官途に入った。京師の外城を築造した功労により、太常卿から工部左侍郎に進み、なお尚宝司の事務を掌った。剽悍で陰険残忍、父の寵愛を頼みに、権利を招き寄せて飽くことを知らなかった。しかし国典に通じ、時務に明るかった。かつて天下の才は、己と陸炳・楊博の三人だけだと言った。炳が死ぬと、ますます自負した。厳嵩は老いて昏く、かつ朝夕西内に直しており、諸司が事を報告すると、常に「東楼に質せよ」と言った。東楼は世蕃の別号である。朝政は一切世蕃に委ねられ、九卿以下は十日間も面会できず、あるいは夕暮れまで待たされて追い返された。士大夫は側目して息をひそめ、不肖の輩はその門に奔走し、贈り物の箱が道に連なった。世蕃は内外の官職の豊かさや貧しさ、険しさや易しさ、要求する賄賂の多寡に精通しており、毫髪も隠せなかった。その京師の邸宅は、三四坊に連なり、水を堰き止めて数十畝の池とし、珍禽奇樹を並べ、日々賓客を抱えて娯楽にふけり、たとえ高官や父の友人であっても、酒で虐め、困憊させずにはおかなかった。母の喪中も同様であった。古い尊彝・奇器・書画を好み、趙文華・鄢懋卿・胡宗憲の類は、赴任先から必ず車で運ばせ、あるいは富豪から取り立て、必ず手に入れてからやんだ。応龍に弾劾されて雷州に流刑となったが、到着せずに戻り、ますます大規模に園亭を造営した。その監工の奴僕が袁州推官郭諫臣を見ても、起立しなかった。御史林潤はかつて懋卿を弾劾したことがあり、報復を恐れ、諫臣と謀ってその罪を暴き、かつ楊継盛・沈錬を冤殺した状況に及んだ。世蕃は喜び、その徒党に言った、「恐れるな、獄は解かれるだろう」と。法司の黄光升らが判決文の草案を徐階に見せると、階は言った、「諸公は彼を生かしたいのか」と。皆が言った、「必ず死なせたい」と。階は言った、「それでは、かえって彼を生かすことになる。楊・沈の獄は、厳嵩が皆巧みに上意を得たものである。今これを明らかにすれば、それは上(皇帝)の過ちを顕わすことになる。必ずこのようにすれば、諸君も測り知れぬことになり、厳公子はゆっくりした馬で都門を出ることになるだろう」と。自らその草稿を削り改め、ただ龍文が汪直と姻戚関係にあったことを取り上げ、世蕃に官職を請うために賄賂を贈り交通したこととした。世蕃が彭孔の言葉を用い、南昌の倉庫の地に王気があるとして、それを取って邸宅を造り、その規模は王者に擬していた。また、宗人の典楧と結んで非常の事を陰に窺い、多くの亡命者を集めた。龍文はまた汪直の残党五百人を招き、世蕃が外に逃れて日本に投じることを謀り、先に派遣された世蕃の班頭の牛信も、自ら山海衛で軍務を捨てて北へ走り、外兵を誘致して共に呼応しようとした。即日、光升らに急いで上奏文を書かせた。世蕃はこれを聞き、驚いて言った、「死んだ」と。遂に市で斬られた。その家財を没収すると、黄金およそ三万両余、白金二百万両余、その他の珍宝・服飾・玩物の価値はまた数百万に上った。
趙文華 ら
趙文華は、慈谿の人である。嘉靖八年の進士。刑部主事に任じられた。考査により左遷され東平州同知となった。久しくして、累進して通政使に至った。性格はへつらい狡猾で、及第する前に国子監にいた時、厳嵩が祭酒であり、その才能を認めた。後に朝廷に仕え、厳嵩が日に日に貴幸となると、遂に互いに結んで父子となった。厳嵩は自らの過失悪事が多いことを考え、私的な者を通政使に置き、弾劾の上疏が来れば、事前に策を講じることができるとして、文華をその職に就かせた。文華は自ら帝に取り入ろうと、百華仙酒を献上し、詭弁して言った、「臣の師である厳嵩がこれを服用して長寿です」と。帝は飲んで甘美に思い、手ずから勅を下して厳嵩に問わせた。厳嵩は驚いて言った、「文華はどうしてこのようなことをしたのか」と。そして婉曲に上奏した、「臣は平生薬餌に近づかず、犬馬の寿命がどうしてこうなったか誠に分かりません」と。厳嵩は文華が先に自分に告げなかったことを恨み、直廬に召し出して罵り責めた。文華は跪いて泣き、久しく起き上がれなかった。徐階・李本がこれを見て和解させ、やっと去らせた。厳嵩が休暇で帰宅した時、九卿が謁見に来たが、厳嵩はなお文華を怒り、従吏に命じて押し出させた。文華は大いに困り、厳嵩の妻に多額の賄賂を贈った。厳嵩の妻は文華に、厳嵩が帰宅した時、別室に隠れて待ち、酒が酣になった頃に、厳嵩の妻が和解を取り持ち、文華がすぐに出てきて拝礼するよう教えた。厳嵩はようやく以前のように彼を扱った。京師の外城を築造する建議により、工部右侍郎の官を加えられた。
官軍がしばしば敗れた後、趙文華は賊が容易に平定できないことを知り、責任を委ねて去ろうとした。ちょうど川兵が周浦で賊を破り、俞大猷が海洋で賊を破ったので、趙文華は水陸ともに成功し、江南は平穏になったと上言し、還朝を請うた。帝は喜び、これを許した。還朝するやいなや、敗報が続いて届き、帝はその虚妄を疑い、しばしば厳嵩に詰問した。厳嵩は曲げて弁解したが、帝の心は終に解けなかった。ちょうど吏部尚書李默が選人に策試を出し、その中に「漢武は四夷を征して、海内は虚耗した。唐憲は淮・蔡を復したが、晩年の業績は終わらなかった」とあった。趙文華はこれを誹謗と弾劾し、李默は罪を得て死んだ。帝はこれによって趙文華を忠とし、工部尚書に進め、かつ太子太保を加えた。この時、厳嵩は年老いて、一旦死んだ後の禍を慮り、趙文華の文学を推薦し、青詞を供奉し、内閣に直すにふさわしいとした。帝は許さなかった。そして東南の警報が続いて至り、部議で再び大臣を遣わして師を督させることとなり、すでに兵部侍郎沈良材を命じていたが、厳嵩は趙文華に自ら行くことを請わせ、帝に江南の人が首を長くして趙文華を待ち望んでいると言った。帝はもっともだと思い、右副都御史を兼ね、江南・浙江諸軍事を総督することを命じた。この時、胡宗憲は先に趙文華の推薦で楊宜に代わって総督となっていたが、趙文華が再び出ると、胡宗憲は趙文華を頼って厳嵩に通じようと、諂い奉ること至らざるところがなかった。趙文華はもとより兵を知らず、また胡宗憲に頼り、二人の交わりは甚だ歓んだ。やがて胡宗憲が徐海を平定し、陳東を捕虜にすると、趙文華は大勝を上聞し、功を上天に帰した。帝は大いに喜び、郊廟社稷に祭告し、趙文華に少保を加え、子に錦衣千戸の蔭官を与えた。召還して朝に帰ると、趙文華は功を元輔厳嵩に推し、昇進と蔭官を辞したが、帝は優詔を下して許さなかった。
趙文華は寵貴を得てから、志は日に驕り、中貴や厳世蕃に仕えることが次第に以前のようではなくなり、諸人はこれを恨んだ。帝はかつて使者を遣わして趙文華に賜物を与えたが、ちょうど彼が酔っており、拝跪の礼が整わなかった。帝は聞いてその不敬を憎んだ。また方士の薬を進上したことがあり、帝がそれを服し尽くすと、小璫を遣わしてもう一度求めさせたが、応じなかった。西苑に新閣を造営したが、時に間に合わず完成しなかった。帝がある日高い所に登ると、西長安街に高い棟が見え、誰の宅かと問うた。左右が「趙尚書の新宅です」と言うと、傍らの一人が「工部の大木の半分は趙文華が宅を作るのに使われており、どうして新閣を営む暇がありましょう」と言った。帝はますます憤った。ちょうど三殿が火災に遭い、帝が正陽門楼を建てようとして、完成を厳しく責めたが、趙文華は急に間に合わせることができなかった。帝は積もる怒りがあり、かつ彼が連年師を視て賄賂を貪り功を求めた様子を聞き、彼を追い出そうと思い、厳嵩に諭して言った。「門楼の材木調達が遅い。趙文華は以前のようではないようだ。」厳嵩はまだ帝の意を知らず、力を尽くして覆い隠し、かつ「趙文華は暑さの中を南征し、それによって病を得ました。侍郎一人を増やして大工事を専ら督させるべきです」と言った。帝はこれに従った。趙文華はそこで上章して病を称し、十日か一月の休暇を賜り静養することを請うた。帝は手ずから批して言った。「大工事がちょうど始まったところで、司空(工部尚書)はその職である。趙文華に既に病があるなら、郷里に帰って休養せよ。」制が下ると、朝中こぞって互いに祝った。
帝は趙文華を追放したが、まだその罪を尽くしていないと思い、言官に攻撃する者がいないので、帝の怒りは泄れるところがなかった。ちょうどその子の錦衣千戸趙懌思が、斎祀で封章を停止する日に、父を見送るための休暇を請うたので、帝は大いに怒り、趙文華を庶民に落とし、その子を辺境の衛所に戍らせた。礼科が糾弾を失ったことを理由に、陳状を求めさせた。そこで都給事中謝江以下六人は、ともに廷杖を受け官籍を削られた。趙文華はもとより臌脹の病を患っており、譴責に遭って舟中に臥せり、気がふさぎ自ら慰めることもできず、ある夜、手でその腹を撫でると、腹が裂け、臓腑が出て、そこで死んだ。後に給事中羅嘉賓らが軍餉を審査すると、趙文華が侵盗したものは十万四千にのぼった。詔がありその家から徴収することとなったが、万暦十一年になってもまだ半分にも達せず、有司が恩詔を援用して免除を請うた。神宗は許さず、その子趙慎思を煙瘴の地に戍らせた。
鄢懋卿は豊城の人である。行人より御史に抜擢され、しばしば遷って大理少卿となった。三十五年、左僉都御史に転じた。まもなく左副都御史に進んだ。鄢懋卿は才をもって自ら任じ、厳嵩が政権を握るのを見て深くこれに附き、厳嵩父子に親しまれた。ちょうど戸部が両浙・両淮・長蘆・河東の塩政が振るわないとして、大臣一人を遣わして総理することを請うたので、厳嵩は鄢懋卿を用いた。旧制では、大臣が塩政を理めるに、四つの運司を総べる者はなかった。ここに至って鄢懋卿は天下の利権をことごとく握り、厳氏父子を頼り、至るところで権力を売り賄賂を受け、監司や郡邑の吏は膝行して平伏した。
懋卿は性来奢侈で、文錦で厠床を覆い、白金で溺器を飾るに至った。常に厳氏や諸権貴に贈り物をし、数え切れないほどであった。巡察の際には、常に妻を伴い、五彩の輿を造らせ、十二人の女子に担がせ、道行く人々を驚かせた。淳安知県の海瑞と慈谿知県の霍与瑕は、抗逆したため罷免された。御史の林潤はかつて懋卿が属吏に要求し、巨万の賄賂を受け、民の訴訟を濫りに受け、富人に賄賂を強要し、盛大な宴会を開いて一日千金を費やし、無辜の者を虐殺して怨嗟が道に満ち、淮商に苛斂を課して激変を招きかねない、との五つの大罪を弾劾した。帝はこれを問わなかった。四十年、刑部右侍郎として召された。両淮の余塩は、毎年銀六十万両を徴収していたが、懋卿はこれを百万両に増やした。懋卿が去ると、巡塩御史の徐爌がその弊害を極言したため、六十万両の旧額に戻された。嵩が失脚すると、御史の鄭洛が懋卿と大理卿の万寀が結託して奸を働き財貨を貪ったと弾劾し、二人はともに落職した。その後、万寀が厳氏の銀八万両を隠し、懋卿がそのうち二万両を騙し取ったことが露見し、二人は相次いで辺境に流された。
当時、厳氏の党与として弾劾された者は、前兵部右侍郎柏郷の魏謙吉、工部左侍郎南昌の劉伯躍、南京刑部右侍郎徳安の何遷、右副都御史信陽の董威、僉都御史万安の張雨、応天府尹祥符の孟淮、南京光禄卿南昌の胡植、南京光禄少卿武進の白啓常、右諭徳蘭谿の唐汝楫、南京太常卿で国子監事を掌る新城の王材、太僕丞新喩の張春、および嵩の女婿で広西副使の袁応枢ら数十人に上り、それぞれ罷免・左遷された。胡植は嵩と同郷で、かつて嵩に楊継盛を殺すよう勧めた。白啓常は礼部郎官の時、喪を隠して光禄に転じ、王材、唐汝楫とともに世蕃の狎客となった。啓常は粉墨を顔に塗って笑いを供するに至った。また王材と汝楫はともに嵩の寝室に出入りし、請託を取り次いだため、特に人々に憎まれたという。
周延儒
五年正月、叛将の李九成らが登州を陥とし、元化を囚えた。侍郎の劉宇烈が軍を監視して功績がなく、言路は皆、延儒が宇烈を庇っていると指弾した。ここにおいて給事中の孫三傑、馮元飆、御史の余応桂、衛景瑗、尹明翼、路振飛、呉執御、王道純、王象雲らが、しばしば延儒を弾劾した。応桂はさらに延儒が大盗の神一魁から賄賂を受け取ったと述べた。また、監視宦官の鄧希詔と総督の曹文衡が互いに告発し合い、その言葉は延儒に及んだ。給事中の李春旺も延儒が去るべきだと論じた。延儒はたびたび上疏して弁明し、帝は慰留したが、心は動かざるを得なかった。やがて延儒が于泰に時政四事を上奏させると、宣府太監の王坤が体仁の指図を受け、直接に延儒が于泰を庇っていると弾劾した。給事中の傅朝佑が宦官が首輔を弾劾すべきでなく、朝廷を軽んじ、邪な者が結託している疑いがあると述べ、副都御史の王志道もこれを言った。帝は怒り、志道の官籍を削ったが、延儒は救うことができなかった。体仁は各所でそそのかし、給事中の陳賛化に延儒を弾劾させた。「武弁の李元功らに昵懇で、名を借りて利を貪っている。陛下が特恩をもって刑を停めたのを、元功は延儒の功績だとして、獄囚に謝礼を要求した。また延儒は陛下を羲皇上人と称し、その言葉は叛逆的である。」帝は怒り、元功を詔獄に下し、さらに賛化がその言葉をどこから得たかを厳しく詰問した。賛化は上林典簿の姚孫渠と給事中の李世祺から得たと答え、副使の張鳳翼も延儒の発言を詳しく述べた。帝はますます怒った。錦衣衛指揮の王世盛が元功を拷問したが、何も自白しなかった。獄が上奏されると、世盛を五階級降格とし、その事を徹底的に究明させた。延儒は体仁が援護してくれるのを期待したが、体仁はついに応じず、かえって密かに延儒と親しい者を罷免したため、延儒は大いに窮した。六年六月、病気を理由に帰郷を請い、白金と彩緞を賜り、行人が護送した。体仁が遂に首輔となった。
初め延儒は郷里に隠居し、盛んに東林党と交遊し、姚希孟・羅喻義と親しかった。既に錢謙益を陥れた後、遂に東林党を仇敵視した。会試を主催した時、取った士人張溥・馬世奇らは、また皆東林党であった。この時帰朝して、勢いを失い、内心慚じた。而して體仁はますます横暴となり、五年を経てようやく去った。去った後、張至發・薛國觀が相次いで国政を執り、楊嗣昌らと共に妬み嫉むことで知られた。一時の正人鄭三俊・劉宗周・黃道周らは、皆罪を得た。溥らはこれを憂い、延儒に説いて言った、「公がもし再び宰相となれば、以前の轍を改め、重ねて賢者の名声を得ることができましょう」。延儒はその通りだと思った。溥の友吳昌時が近侍の宦官と取り引きし、馮銓もまた謀略を助けた。時に帝もまた延儒をかなり思い、而して國觀がちょうど失脚した。十四年二月、詔を下して延儒を起用した。九月に京に至り、再び首輔となった。まもなく少師兼太子太師を加えられ、吏部尚書・中極殿大學士に進んだ。
延儒は召喚されると、溥らは数件の事を以て彼に約束させた。延儒は慨然として言った、「私は思い切ってこれを行い、諸公に謝罪しよう」。朝廷に入ると、體仁一派の弊政をことごとく覆した。まず漕糧・白糧の滞納戸の赦免を請い、民間の累積した未納租税を免除し、兵乱で荒廃した年や土地については、当年の両税を減免した。蘇州・松江・常州・嘉興・湖州の諸府が大水害に見舞われたので、来年の夏麦で漕糧に代えることを許した。戍罪以下の者を赦し、皆家に還ることを得させた。また連座で処分された挙人の資格を回復し、科挙の合格者数を広げ、また言事のために左遷・流謫された諸臣李清らを召還した。帝は皆喜んでこれに従った。延儒はまた言った、「老成で名望と徳行のある者は、軽々しく棄てるべきではない」。そこで鄭三俊が吏部尚書となり、劉宗周が都察院を掌り、范景文が工部尚書となり、倪元璐が兵部を補佐し、皆廃官の身分から起用された。その他の李邦華・張國維・徐石麒・張瑋・金光辰らは、九卿の列に満ちた。獄中の傅宗龍らを釈放し、故人となった文震孟・姚希孟らに官を追贈した。朝廷内外は一致して賢者と称賛した。かつて宴席に侍した時、帝が黃道周について語り、当時道周はちょうど辰州に流謫されていた。延儒は言った、「道周は気質が少し偏っているが、学問と節操は共に用いることができます」。蔣德璟が道周の流刑地を近い場所に移すことを請うた。延儒は言った、「上(陛下)が用いたいならば、そのまま用いればよいのです。どうして流刑地を移す必要がありましょう」。帝は即日、道周の官を復した。このように事に因って釈放・救済したのである。
帝は延儒を特に重んじて礼遇し、かつて年の初めに東に向かって彼に揖礼をし、言った、「朕は天下を以て先生に任せる」。因って諸閣臣にも及んだ。しかし延儒は実に凡庸で才能・方略がなく、且つ性貪欲であった。辺境で軍が敗れ、李自成が河南を蹂躙し、張獻忠が楚・蜀を破り、天下が大いに乱れた時、延儒は少しも謀略を立てなかった。侯恂・範志完を用いて督師とし、皆事を敗ったが、延儒は憂色を示さなかった。而して門下の客盛順・董廷獻はこれに乗じて奸利を貪った。また文選郎吳昌時及び給事中曹良直・廖國遴・楊枝起・曾應遴らを信用した。
昌時は嘉興の人である。幹才があり、かなり東林党のために奔走した。しかし人となりは貪欲で傲慢であり、廠衛と通じ、朝官を操り、同僚は皆彼を嫉んだ。行人司副熊開元が朝廷で延儒の収賄の状況を弾劾し、帝の怒りに触れ、給事中薑埰と共に朝廷で杖罰を受け、詔獄に下された。左都御史宗周・僉都御史光辰は開元・埰を救おうとして罷免され、尚書石麒もまた宗周らを救おうとして罷免されたが、延儒は皆救わず、朝廷の議論は皆延儒を咎めた。時に昌時が年例によって言路(諫官)十人を外任に出したので、言路は大いに騒然となった。掌科給事中吳麟徵・掌道御史祁彪佳が昌時が勢威を頼んで権力を弄ぶことを弾劾し、延儒はかなり不安を感じた。
初め、延儒が廠衛の偵察活動を廃止するよう上奏すると、都人は大いに喜んだ。不肖の朝士は賄賂を通じるようになり、而して廠衛は権力を失い、皆延儒を怨んだ。また同官の陳演を軽んじたので、演は骨髄に徹して恨んだ。錦衣衛を掌る者駱養性は、延儒が推薦した者であるが、養性は狡猾で残忍で延儒に背き、宦官と結託して、延儒の陰事を探った。十六年四月、大清兵が山東を攻略し、近畿に還って来ると、帝は非常に憂慮した。大學士吳甡は流賊討伐の命を受けたばかりであり、延儒は已むなく自ら視師を請うた。帝は大いに喜び、手詔を下し、召虎・裴度に譬えて賞賛し、章服・白金・文綺・上駟を賜い、金帛を給して軍を賞した。延儒は通州に駐屯して敢えて戦わず、ただ幕下の客と酒を飲み娯楽にふけり、而して日々勝報の上奏文を書き上げ、帝は毎度璽書を賜って褒賞激励した。大清兵が去ったのを探知すると、敵が退いたと上言し、兵部に将吏の功罪を議するよう下命することを請うた。朝廷に帰ると、勅諭を返納し、帝は即座にこれを蔵めて保管させ、勲労を記録させた。功を論じ、太師を加え、子に中書舍人の官蔭を与え、銀幣・蟒服を賜った。延儒は太師を辞退し、許された。数日後、養性及び宦官が探った軍中の事をことごとく暴露した。帝は乃ち大いに怒り、府部の諸臣に諭して延儒の蒙蔽と責任転嫁を責め、事多く言うに忍びず、公議によって審議するよう命じた。陳演らが公的に上疏して彼を救おうとしたが、延儒は藁の上に座して罪を待ち、自ら辺境への流刑を請うた。帝はなお温かい言葉を下し、「卿は国に報いる誠意を尽くし、終始変わることがない」と言い、駅馬を利用して帰郷することを許し、路費として百金を賜い、保全し優礼する意を示した。廷臣の議が上ると、帝はまた延儒は功多く罪少ないと諭し、議を免ずるよう命じた。延儒は遂に帰郷した。
去った後、給事中郝絅が奸臣を除くよう上疏し、延儒を指した。帝は聞き入れなかった。山東僉事雷縯祚が範志完を糾弾し、また延儒にも及んだ。やがて御史蔣拱宸が吳昌時が巨万の賄賂を私したことを弾劾し、大抵延儒に連座し、而してその中で昌時が宦官李端・王裕民と通じ、機密を漏洩し、多額の賄賂が入ると、すぐに温旨を予測して人に告げたと述べた。給事中曹良直もまた延儒の十大罪を弾劾した。帝は非常に怒り、中左門に出御し、自ら昌時を審問し、その脛骨を折ったが、何も自白せず、怒りは解けず、拱宸が面と向かって彼が内廷と通じていることを告発し、帝が調査して跡があるのを知ると、乃ち獄に下して死罪とし、初めて延儒を誅する意を抱いた。初め、薛國觀が死を賜った時、昌時がもたらしたと言った。その門人魏藻德が新たに内閣に入り寵愛を受け、昌時を甚だ恨み、因って陳演と共に延儒を排斥し、養性もまた流言を飛ばした。帝は遂に延儒の官職をことごとく削るよう命じ、緹騎を遣わして逮捕し京師に送らせた。時に旧輔王應熊が召喚され、延儒は帝の怒りが甚だしいことを知り、途中で滞在し、應熊が先に入るのを待ち、彼に取りなしてくれることを期待した。帝はこれを知り、應熊が京に着くと、帰郷を命じた。延儒が到着すると、正陽門外の古廟に安置し、上疏して哀れみを乞うたが、許されなかった。法司が流刑を請うたが、同官が救いを請うても、皆許されなかった。冬十二月、昌時が市で斬首され、延儒に自尽を命じ、その家を没収した。
溫體仁
溫體仁、字は長卿、烏程の人。萬曆二十六年の進士。庶起士に改められ、編修を授かり、累進して禮部侍郎となった。崇禎初年に尚書に遷り、詹事府事を協理した。人となりは外見は謹厳だが内に猛鷙であり、謀略は深く骨に徹する。
亡何、御史毛九華は体仁を劾し、家に居る時、商人の木を抑買して、商人の訴うる所となり、崔呈秀に賂して免る。又た杭州に逆祠を建つるに困り、詩を作りて魏忠賢を頌す。帝、浙江巡撫に下して核実せしむ。明年の春、御史任賛化もまた体仁を劾し、娼を娶り・金を受け・人の産を奪う等諸の不法の事。帝、其の語褻なるを怒り、一秩を貶して外に調す。体仁は罷めを乞い、因り言う「比来謙益の故を以て、臣を排撃する者百出す。而して一人として臣を左袒する者無く、臣の孤立なること見るべし」と。帝再び内閣九卿を召して之を質し、体仁と九華・賛化と詰辯良久し、二人は皆謙益の死党なりと言う。帝心然りと為し、独り大学士韓爌等を内殿に召し、諸臣は国を憂えず、惟だ私を挟みて相攻むるを諭し、当に重く法を以て縄すべしと。体仁は復た力を求めて去り以て帝に要し、帝は優詔を以て慰答す。已にして、給事中祖重曄・南京給事中錢允鯨・南京御史沈希詔相継いで体仁の熱中会推を論じ、言者を劫して以て党と為すと、帝皆聴かず。法司、千秋の獄を上り、謙益は自ら発する事前に在り、坐すに宜しからずと言う。詔して再び勘せしむ。体仁は復た疏を上り獄詞は皆謙益の手に出づと。ここに於いて刑部尚書喬允升、左都御史曹於汴、大理寺卿康新民、太僕寺卿蔣允儀、府丞魏光緒、給事中陶崇道、御史呉甡・樊尚璟・劉廷佐、各疏を上り言う「臣等雑治千秋、観聴する者数千人、一手一口の能く掩う所に非ず。体仁顧みて岡を欺きて勝を求む」と。体仁は於汴等の詞直なるを見て、乃ち復た深く千秋の事を論ぜず、惟だ於汴等の党護を詆するのみ。謙益は杖を坐して贖を論じ、而して九華の論ずる所の体仁の璫に媚びる詩も、亦ついに左験無し。是の時に当たり、体仁は私憾を以て諸大臣を撐拒し、輾転して肯て詘せず。帝は体仁の孤立を謂い、益々之に響く。未だ幾ばくもなく、延儒は内閣に入る。其の明年六月、遂に体仁を以て礼部尚書兼東閣大学士と為すを命ず。
体仁は既に延儒の力を藉りて輔政を得、勢益々張る。逾年、吏部尚書王永光去り、其の郷人閔洪学を用いて之に代え、凡そ異己の者は、率ね部論を以て罷め、而して体仁は陰に其事を護る。又た御史史褷・高捷及び侍郎唐世済・副都御史張捷等を用いて腹心と為し、延儒の己の上に居るを忌み、並びに之を傾けんと思う。初め、帝は袁崇煥を殺し、事は錢龍錫に牽き、死を論ず。体仁と延儒・永光之を主とし、将に大獄を興さんとすれども、梁廷棟は敢えて任せずして止む、事は詳しく龍錫伝に在り。龍錫の死を減じて獄を出づるに比し、延儒は言う帝の盛怒は解救殊に難しと、体仁は則ち佯りて曰く「帝は固より甚だ怒らず」と。龍錫を善とする者は、因りて延儒を薄し。其の後太監王坤・給事中陳賛化先後に延儒を劾し、体仁は黙して助と為し、延儒は遂に免じて帰る。始めに延儒と同く内閣に入る者何如寵、錢象坤は歳を逾えて政を致して去り、無何、如寵も亦去る。延儒既に罷まり、廷臣は体仁の国に当たるを悪み、帝を勧めて復た如寵を召す。如寵は屡辞し、給事中黄紹傑言う「君子小人並び立たず、如寵が瞻顧して前らずば、則ち体仁は宜しく自処を思うべし」と。帝は為に紹傑を外に謫し、如寵は終に辞して入らず、体仁は遂に首輔と為る。
体仁は帝の殊寵を荷い、益々忮横にし、而して中阻深し。推薦せんと欲する所は、陰に人に発端せしめ、己は其の後に承る。排陷せんと欲すれば、故に寛仮を為し、中上の忌む所に中り、激して自ら怒らしむ。帝は往往之に為して移り、初め嘗て跡有ること無し。姚希孟は講官と為り、才望を以て詹事に遷る。体仁は其の逼るを悪み、乃ち冒籍武生の事を以て、希孟の一官を奪い、南院を掌せしめて去らしむ。礼部侍郎羅喻義、故に嘗て基命・謙益と同く閣臣を推挙し、物望有り。会す進講章の中に「左右未だ人を得ず」の語有り、体仁は之を去らんと欲し、喻義は執して不可とす。体仁は因り自ら劾す「日講進規の例は簡に従う、喻義は駁改して従わず、臣の表率能わざるに由る」と。帝は吏部に議せしめ、洪学等は因りて謂う「聖聡は天亶なり、何ぞ喻義の多言を俟たん」と。喻義は遂に罷めて帰る。時に魏忠賢の遺党は日に体仁の逆案を翻さんことを望み、東林を攻む。会す吏部尚書・左都御史缺け、体仁は陰に侍郎張捷に使いて逆案の呂純如を挙げて以て帝を嘗む。言者大いに嘩き、帝も亦甚だ之を悪む。捷は気沮み、体仁は敢えて言わず、乃ち謝升・唐世済を薦めて之を為す。世済は尋いで逆案の霍維華を薦めて罪を得て去る。維華の薦めも、亦体仁の之を主とす、体仁は是より敢えて訟言して逆党を用いず、而して愈々諸の己に附かざる者を側目す。
文震孟は『春秋』を講じて帝の意に適い、内閣入りを命ぜられた。体仁はこれを阻むことができず、自らの党である張至発を推挙して間を入れ、日々震孟の短所を窺い、ついに給事中許譽卿の事を用いて、これを追い払った。初め、秦・楚に賊が起こり、五省総督を設置する議があり、兵部侍郎彭汝楠・汪慶百が行くべきであったが、恐れて敢えて赴かず、体仁は二人を庇い、その議を廃した。賊が鳳陽を犯すと、南京兵部尚書呂維祺らが議し、淮撫・操江に移鎮を命じたが、体仁はまた退けて用いなかった。やがて賊が大挙して至り、皇陵を焼いた。譽卿が言うには、「体仁は賄賂を受け私を庇い、要地に憂いを残し、皇陵を孤注とし、原廟を震撼させた。国を誤ることこれより大なるはない」と。体仁はもとより譽卿を忌んでおり、上疏を見てますます恨んだ。ちょうど謝升が北缺を求めて譽卿を弾劾し、体仁は旨を擬して降格・転任としたが、故意にその言葉を重くした。帝は果たして官籍削除を命じ、震孟は力爭し、大学士何吾騶が助けて言上した。体仁は震孟の言葉をあばき、言官の罷免・左遷を至栄と謂うのは、朝廷の賞罰を以て懲罰・勧奨に足らざるとなすもので、理に悖り法を蔑ろにするものだと奏した。帝はついに震孟を追放し、吾騶も罷免した。震孟が去った後、体仁の恨みは解けなかった。庶起士鄭鄤は震孟とともに建言し、親しくしていた。その母方の伯叔父である大学士呉宗達が政を謝して帰った。体仁は鄤を弾劾し、乩仙の判詞を偽り、父振先に迫って母を杖たせたとし、その言葉は宗達から出たという。帝は激怒し、鄤を獄に下した。その後体仁は既に去っていたが、帝の鄤に対する怒りは甚だしく、証拠を待たず、磔刑に処して死に至らしめた。滋陽知県成德は震孟の門人で、剛直のために巡按御史禹好善に逆らい、誣告されて弾劾され、震孟はこれを不平とした。体仁は徳を弾劾し、杖罰の上で辺境に戍らせた。
体仁は数年輔政し、朝廷の士多くが怨みを抱くことを思い、恣肆を敢えず、廉潔・謹慎をもって上に結びつき、賄賂は門を入れなかった。しかし当時、流賊が畿輔を蹂躙し、中原を擾し、辺境の警報が雑沓し、民の生計は日に困窮したが、一つの策も建てず、ただ日々善類と仇をなした。誠意伯劉孔昭が倪元璐を弾劾し、給事中陳啓新が黄景昉を弾劾したのは、皆体仁の指図を受けたものである。礼部侍郎陳子壮はかつて面と向かって体仁を責め、まもなく宗藩の事を議して帝の意に逆らい、ついに獄に下され官籍を削られた。彼が引き立てて同列とした者は、皆凡庸な人材で、ただその位を充たすのみであり、かつ己の長所を形づくることを借りて、上寵を固めた。帝が兵糧の事を訪ねるたびに、ついで辞退して言うには、「臣は夙に文章をもって禁林に待罪し、上がその駑鈍なるを知らず、この位に抜擢されました。盗賊は日に衆く、誠に万死も責を塞ぐに足りません。顧みるに臣は愚かで無知、ただ票擬して欺かざるのみです。兵糧の事は、ただ聖明の裁決にあります」と。その帝の意旨を窺う者を誹る者がいたが、体仁は言うには、「臣の票擬は多く要領を得ず、毎に御筆の批改を経て、頌服し将順するに暇あらず、どうして上旨を窺うことができましょう」と。帝はこれを朴忠と以為し、ますます親信した。
体仁が輔政して以来、同官は病免や物故でない者は、すなわち他の事で去った。ただ体仁のみが八年在位し、官は少師兼太子太師に至り、吏部尚書・中極殿大学士に進み、階は左柱国、兼ねて尚書の俸を支給され、恩礼の優渥なること比類なきものがあった。しかし体仁は専ら刻薄・厳格に務め、帝の意に迎合した。帝は皇陵の変に際し、子壮の言に従い、詔を下して獄中の諸臣を寛恤し、吏部は百余りの名を上奏した。体仁はこれを吝しみ、帝に言上し、わずか十余りを釈放したのみであった。秋決に囚人を論じるに、帝は再三諮問したが、体仁は少しも平反しなかった。陝西華亭知県徐兆麟が任に就いてわずか七日、城陥落を以て死罪と論ぜられ、帝は頗る疑った。体仁は救わず、ついに棄市に処した。帝は兵糧を憂えて急いだが、体仁はただ衆に俸を捐じて馬を助け城を修めることを唱えたのみであった。上った密揭は、帝はおおむね許可した。
体仁は自ら排擠する者多いことを思い、怨みが己に帰することを恐れ、密勿の地は宣洩すべからずと唱え、凡そ閣揭は皆発せず、かつ閣中に存録せず、跡を滅ぼさんことを冀い、以て故に中傷した人は、廷臣は尽く知ることができなかった。国政を執ること既に久しく、弾劾する者の上奏文は数え切れず、劉宗周がその十二罪・六奸を弾劾し、皆指実があった。宗藩では唐王聿鍵、勲臣では撫寧侯朱国弼、布衣では何儒顕・楊光先らも、皆これを論じ、光先に至っては棺を輿に載せて命を待った。帝は皆省みず、ますます孤立と以為し、毎に言者を斥責して慰め、ついには杖死する者さえあった。庶起士張溥・知県張采らが復社を倡え、東林と相応和した。体仁は推官周之夔及び奸人陸文声の上奏を因み、大獄を起こさんとした。厳旨を以て察治し、提学御史倪元珙・海道副使馮元颺が風指に承けず、皆降格・左遷した。最後にまた張漢儒が銭謙益・瞿式耜の郷里における不法の事を上奏した。体仁はもと謙益を仇とし、旨を擬して二人を詔獄に逮え厳しく訊問させた。謙益らは甚だ危うく、司礼太監曹化淳に求解した。漢儒はこれを偵知し、体仁に告げた。体仁は密かに帝に奏し、併せて化淳の罪を坐せんことを請うた。帝は化淳に示すと、化淳は懼れ、自ら案治を請い、ついに漢儒らの奸状及び体仁の密謀を尽く得た。獄が上ると、帝は始めて体仁に党のあることを悟った。ちょうど国弼が再び体仁を弾劾し、帝は漢儒らに立枷の刑で死に至らしめることを命じた。体仁は乃ち佯って疾を引き、帝は必ず慰留するだろうと意図した。及んで旨を得て竟に帰郷を許されると、体仁は食事中で、匙と箸を落とした。時に十年六月であった。一年余りして卒し、帝は猶これを惜しみ、太傅を贈り、文忠と諡した。
崇禎末、福王が南京に立つと、尚書顧錫疇の議により、その贈官・諡号を削り、天下は快とした。まもなく給事中戴英の言を用い、初めの如くに復した。体仁は前に死んだが、その推薦した張至発・薛国観の徒は、皆体仁に倣い、賢を蔽い党を植え、国事は日に悪化し、以て亡ぶに至った。
馬士英(阮大鋮)
流賊が皖に迫ると、大鋮は南京に避居し、遊侠を多く招き寄せて兵談・剣術を論じ、辺境の才幹として召されることを望んだ。無錫の顧杲・呉県の楊廷枢・蕪湖の沈士柱・余姚の黄宗羲・鄞県の万泰らは、皆復社の名士で、ちょうど南京に集まって講学しており、大鋮を甚だ憎み、『留都防乱掲』を作ってこれを追放しようとした。大鋮は恐れ、門を閉ざして客を謝絶し、ただ士英とだけ深く結びついた。周延儒が内召されると、大鋮は金銭を車に積んで維揚でこれを迎え、汚名をそそいでもらうよう求めた。延儒は言った、「我がこのたびの行きは、誤って東林党に推されたのだ。お前の名は逆案にある、それでよいのか?」大鋮はしばらく沈吟して言った、「瑤草はどうか?」瑤草は士英の別字である。延儒はこれを承諾した。十五年六月、鳳陽総督高鬥光が五城を失った罪で逮捕処分された。礼部侍郎王錫兗が士英の才を推薦し、延儒が内々にこれを支持したので、ついに兵部右侍郎兼右僉都御史に起用され、廬州・鳳陽等処の軍務を総督することとなった。
永城の人劉超は、天啓年間に安邦彦征討の功績により、累進して四川遵義総兵官に至ったが、罪に坐して免官され、幾度も復官を図ったが果たせなかった。李自成が開封を包囲すると、劉超は土寇を募って協同撃退することを請い、そこで保定総兵官に任用され、兵を率いて救援に向かうよう命じられた。劉超は恐れて進まず、家に滞在し、私怨から御史魏景琦ら三家を殺害し、ついに城を占拠して反乱を起こした。巡撫王漢がこれを討伐したが、殺害された。帝はそこで士英に命じ、太監盧九徳・河南総兵官陳永福とともに進軍討伐させた。翌年四月、その城を包囲し、連戦して賊軍を幾度も挫き、長囲を築いて包囲した。劉超が貴州で官にあった時、士英と面識があり、旧交を頼りに降伏を乞うた。士英は偽ってこれを許し、劉超が出て会いに来たが、佩刀を外そうとしなかった。士英は笑って言った、「お前が既に朝廷に帰順したなら、これを用いることがあろうか?」と手ずからその刀を解かせた。やがて、ひそかにその親信を遠ざけ、ついに縛り上げた。朝廷に捕虜を献上し、磔刑に処して死に至らしめた。当時、流賊が充満し、士英は防衛して幾度か功績を挙げた。
十七年三月、京師が陥落し、帝が崩御すると、南京の諸大臣は変報を聞き、慌ただしく君主擁立を協議した。そして福王由崧と潞王常淓はともに賊を避けて淮安に至っており、倫序(皇位継承順序)は福王に属すべきであった。諸大臣は、福王が立つと、「妖書」や「挺撃」、「移宮」などの事件を追って怨まれるかもしれないと慮り、潞王が立てば後患がなく、しかも功績を邀えることができると考えた。ひそかにこれを主導したのは、免職中の礼部侍郎銭謙益であり、強くその意見を主張したのは兵部侍郎呂大器であり、右都御史張慎言・詹事姜曰広も皆これに同意した。前山東按察使僉事雷縯祚・礼部員外郎周鑣が往来して遊説した。当時、士英は廬州・鳳陽で軍を督いており、ただ一人これに反対し、密かに操江誠意伯劉孔昭、総兵高傑・劉沢清・黄得功・劉良佐らと結び、そして公的に参賛機務兵部尚書史可法に書簡を送り、倫序・親賢の点で福王に及ぶ者なしと述べた。可法は決断しかねていた。廷臣が集まって協議すると、吏科給事中李沾が士英の意を探り、大器を面と向かって論破した。士英もまた自ら廬州・鳳陽から兵を擁して福王を迎え、江上に至らせたので、諸大臣はもはや敢えて言えなくなった。王が擁立されたのは、士英の力によるものであった。
王が監国となった時、廷推で閣臣を推挙すると、劉孔昭が腕まくりしてその地位を得ようとしたが、可法が勲臣には入閣の前例なしと退けた。孔昭はそこで公然と訴えて言った、「私が駄目なら、士英がどうして駄目なのか?」そこで士英を東閣大学士兼兵部尚書・都察院右副都御史に進め、可法及び戸部尚書高弘図とともに任命し、士英は依然として鳳陽で軍を督することとした。士英は大いに憤慨し、高傑・劉沢清らに上疏させて可法を淮安・揚州に督師させるよう促し、一方で士英は留まって輔政し、依然として兵部を掌り、その権勢は朝廷内外を震わせた。まもなく定策の功を論じ、太子太師を加えられ、錦衣衛指揮僉事の世襲職を授けられた。九月、江北における歴年の戦功を叙勲し、少傅兼太子太師・建極殿大学士を加えられ、子への世襲職は前の通りとした。十二月、少師に進んだ。翌年、太保に進んだ。この時、中原の郡県はことごとく失われ、高傑は睢州で死に、諸鎮は権力が等しく統制がなかった。左良玉は上流に兵を擁し、跋扈して異心を抱いていた。そして士英は人となり貪欲で卑しく遠大な謀略がなく、また大鋮を引き立てて用い、日々報復に務め、権勢を招き利益を貪り、ついに滅亡に至った。
初めに、史可法・高弘図及び姜曰広・張慎言らは皆、徳望高く在職し、順次に海内の人望を引き入れようとしたが、馬士英は必ず阮大鋮を起用しようとした。詔を下して人材を広く求めさせたが、ただ逆案に名を連ねた者は軽々しく議するべからずとあった。士英は孔昭及び侯爵の湯国祚・伯爵の趙之龍らに命じて慎言を攻撃させて去らせ、大鋮が兵事に通じていると推薦した。初め、大鋮は南京にいて、守備太監の韓賛周と親密であった。京師が陥落すると、宦官たちは皆南へ逃れ、大鋮は賛周を通じて彼らと広く結び、宦官たちに、東林党がかつて鄭貴妃や福王を危うくしたことを語り、王に詳しく伝えさせて、密かに可法らを陥れようとした。宦官たちは口を極めて大鋮の才能を称え、士英もまた、大鋮が山中から書を寄こして策定に参画したと述べ、彼が魏忠賢に附いて賛導したという実跡がないことを弁明した。そこで大鋮に冠帯して陛見することを命じた。大鋮は守江策を上奏し、三要・両合・十四隙の疏を陳べ、また自ら孤忠にして陥れられたことを弁明し、孫慎行・魏大中・左光斗を痛烈に誹謗し、かつ大中を大逆と指弾した。ここにおいて大学士の姜曰広・侍郎の呂大器・懐遠侯の常延齢らが一様に、大鋮は逆案の巨魁であるから召し出すべからずと上言した。士英は大鋮のために上奏して弁明し、曰広・大器を激しく攻撃し、さらに宗室の朱統昚・建安王朱統鏤らを募らせ、連続して上疏して交々攻撃させた。そして、大学士の高弘図が御史の時に東林を誹謗したことがあるから、必ずや自分に与するだろうと思い、「弘図は元より臣を知る者である」と言った。弘図は言うには、先帝が欽定した逆案の書は、擅かに改めるべからずと。士英はこれと争い、弘図はこれにより罷免を請うた。士英の意はやや挫け、一月余り逡巡した後、安遠侯の柳祚昌の推薦により、中旨をもって大鋮を兵部添注右侍郎として起用した。左都御史の劉宗周が言うには、「魏大中を殺したのは魏忠賢であるが、大鋮はその主使者である。仮に才能が用に足るとしても、臣は党邪害正の才が、終には世道を害することを憂慮する。大鋮の進退は、実に江左の興亡にかかわる。成命を取りやめられたい。」旨を下して厳しく責めた。間もなく、大鋮は右僉都御史を兼ね、江防を巡閲した。まもなく左侍郎に転じた。明年二月、本部尚書兼右副都御史に進み、依然として江防を巡閲した。
呂大器・姜曰広・劉宗周・高弘図・徐石麒は皆、士英と齟齬をきたし、先後に罷免されて帰郷した。士英は独り大権を握り、内には宦官の田成らを頼り、外には勲臣の劉孔昭・朱国弼・柳祚昌、鎮将の劉沢清・劉良佐らと結び、ひたすら大鋮の計に従った。逆案中の楊維垣・虞廷陛・郭如暗・周昌晋・虞大復・徐復陽・陳以瑞・吳孔嘉を悉く起用し、死者には皆、贈官と撫恤を与え、張捷・唐世済らと同等に扱った。張孫振・袁弘勳・劉光斗の如きは皆、先朝に罪を得た者であったが、再び言路に置いて爪牙とした。朝政は濁乱し、賄賂が公然と行われた。四方からの警報が頻繁に届くが、士英は中枢を掌りながら、少しも籌画せず、日々に正人を除き凶党を引き入れることを務めとした。
初め、挙朝して逆案を以て大鋮を攻撃したので、大鋮は甚だ恨んだ。北都で賊に従った諸臣の中に、清流に附会する者がいるのを見て、因みに言い出した、「彼らが逆案を攻撃するなら、我らは順案を作ってこれに対抗しよう」と。李自成の偽国号が順であったからである。士英はこれにより、賊に従った光時亨らを疏で糾弾した。時亨の名は東林に連なっていたので、特に重く弾劾したのである。大鋮はまた、顧杲及び左光斗の弟の光先を誣告して捕らえ獄に下し、周鑣・雷縯祚を弾劾して殺害させた。時に狂僧の大悲が、言葉が常軌を逸していたので、総督京営戎政の趙之龍に捕らえられた。大鋮はこれに乗じて東林党及び平素から気に入らない者を誅殺しようと企み、因みに十八羅漢・五十三参の名簿を作り、史可法・高弘図・姜曰広らの姓名を書き、大悲の袖の中に入れた。海内の人望は、備え列ねられない者はなかった。錢謙益は先に既に上疏して士英を称揚し、かつ大鋮の冤罪を訴えて和解を図っていたが、大鋮の恨みは解けず、彼もまた名簿に列ね、事を窮めて処断しようとした。獄の供述は詭秘で、朝士は皆自ら危うく感じたが、士英は大獄を起こすことを望まず、そこで大悲を妖言の律に照らして斬刑に処することで止めた。
張縉彦は本兵として真っ先に賊に従い、賊が敗れると、縉彦は河南へ逃げ帰り、自ら義勇を集めて諸城を回復したと言い、即座に原官を授け、河北・山西・河南軍務を総督し、便宜を行わせた。その他の大僚で賊に降った者は、賄賂を納めれば、直ちにその官を復した。諸々の白丁や下級役人が多額の賄賂を納めれば、直ちに大帥にのし上がった。都人の言葉に、「職方は狗の如く賤しく、都督は街に満ちて走る」と。その刑賞の倒乱はこのような有様であった。大清兵が宿遷・邳州に迫ったが、間もなく引き揚げた。史可法がこれを報告すると、士英は大笑いして止まず、座客の楊士聰がその訳を尋ねた。士英は言った、「貴殿は本当にこのような事があったとお思いか? これは史公の妙用である。年の暮れとなり、河防の将吏は功績を叙すべきであり、軍資の消耗は稽算すべきである。これは特に功績を叙し、稽算するための口実に過ぎぬ。」侍講の衛胤文が給事中を兼ね、高傑の軍を監していた。傑が死ぬと、胤文は士英の意を窺い、可法の督師は冗長であると論じた。士英は即座に胤文を兵部右侍郎に抜擢し、傑の営の将士を総督させてその権を分かち、可法はますます施すことができなくなった。
先に、左良玉は監国の詔書を受け取ったが、拝礼しようとせず、袁継咸が強いて、ようやく礼に則って開読した。そして承天守備の何志孔・巡按御史の黄澍をして入朝して賀せしめ、陰に朝廷の動静を窺わせた。澍は良玉の勢いを頼み、陛見の際に、面と向かって士英の奸貪不法を数え上げ、かつかつて張献忠の偽兵部尚書の周文江から重賄を受け、彼のために参将に題授したので、罪は斬に当たると言った。志孔もまた士英が上を蔑ろにし私を行う諸罪を論じた。司礼太監の韓賛周が志孔を叱って退かせ、士英は跪いて処分を乞うた。澍は笏を挙げて直ちにその背を打ち、「奸臣と共に死なんことを願う」と言った。士英は大声で号泣し、王は長く首を振ってものを言わず、賛周は即座に志孔を拘えて命を待った。王は澍の言葉により心を動かされ、夜に賛周に諭し、士英に位を避けさせようとした。士英は仮に病を理由に引退しようとしたが、福邸の旧宦官の田成らに賄賂を贈って王に向かって泣かせて言わせた、「上は馬公なくしては立つことができなかった。馬公を追い払えば、天下は上が恩を背いたと議論するでしょう。かつ馬公が去れば、誰が上を顧みましょうか」と。王は黙然とし、即座に士英を慰留した。士英もまた良玉を恐れ、志孔を釈放することを請い、澍を速やかに湖広に還すことを命じた。故都督で錦衣衛を掌った劉僑という者は、かつて戍に遣られ、周文江が張献忠に賄賂を贈り、偽命を受けて錦衣指揮使となった。良玉が蘄・黄を回復すると、僑は髪を剃って逃げ去り、澍が彼を厳しく追及した。ところが士英は僑の賄賂を受け取り、澍を告発させ、遂に僑の官を復し、澍の職を削った。まもなく楚府中尉の上言により、澍を逮捕した。良玉は部将に命じて騒がせ、南京に下って糧秣を求め、因みに澍を保救しようとした。袁継咸が上疏して澍に代わって申し開きをしたので、士英は已むを得ず、逮捕を免じた。澍は遂に良玉の軍中に匿れ、良玉と士英はこれにより隙を生じた。偽太子の獄が起こると、良玉は遂にこれを兵端の口実とした。
太子が来た時、識者はその偽りを指摘したが、都下の士民は騒然としてこれを真実とした。時にまた童氏という者がおり、自ら王妃と称し、これもまた獄に下された。督撫・鎮将が相次いで上疏して太子及び童妃の事を争った。王は急いで獄中の供述を出し、内外に広く示したが、衆論はますます喧しく、士英らが朋党を組んで奸をなすものとし、王を導いて倫理を滅ぼしたと謂う。澍は良玉の軍中にあり、日夜太子の冤状を言い、兵を引いて君側の悪を除くことを請うた。良玉もまた上疏して太子を全うすることを請い、士英らを奸臣として斥けた。また士英がその兵糧を削ったことを以て、大いに恨み、檄を遠近に移し、士英の罪を声高に言った。さらに上疏して言う、「先帝の変より以来、士英は災いに乗じて権を擅にし、事々に難題を為す。逆案は先帝の手定めしところ、士英はまずこれを覆す。《三朝要典》は先帝の手で焼かれたもの、士英はまたこれを修める。越其傑は貪婪で流刑に処せられた者を濫りに節鉞を授ける。張孫振は贓汙で絞罪に当たる者を、急に京卿に抜擢する。その他の袁弘勳・楊文〓・劉泌・王燧・黄鼎らは、或いは行い狗彘の如く、或いは罪叛逆に等しく、皆これらを用いて要路に就かせる。己れは首輔となり、腹心の阮大鋮を用いて添注尚書とする。また死士を募って皇城に伏せ、詭りて禁軍と名付け、動もすれば曰く廃立は我に由ると。陛下即位の初め、恭倹明仁であられたのに、士英は百方誑惑し、優童艶女を進めて盛徳を傷損す。また大鋮を引用し、睚眥の怨みで人を殺し、雷縯祚・周鑣らの如きは、鍛錬周内し、株連蔓引す。その甚だしきは、三案を借りて題とし、凡そ生平快意ならざる人を、一網打尽にせんとす。天下の士民をして、重足して解体せしむ。目下皇太子至る、授受分明なり。大鋮は一手に握って識認の方拱乾を抹殺し、朋謀の劉正宗を信じ、忍びて十七年の嗣君を以て、諸れを幽囚に付す。凡そ血気ある者は、皆な寸磔に士英・大鋮らをして、以て先帝に謝せんと欲す。乞うらくは直ちに市朝に肆し、首を伝えて憤りを抒べしめよ」。疏が上ると、遂に兵を引いて東に向かった。士英は懼れ、乃ち阮大鋮・朱大典・黄得功・劉孔昭らを遣わして良玉を防がせ、江北の劉良佐らの兵を撤して、これに従って西に向かわせた。時に大清兵日に南下し、大理少卿姚思孝、御史喬可聘・成友謙は江北の兵を撤すことなく、急ぎ淮・揚を守ることを請うた。士英は厲声して叱りて曰く、「汝ら東林の徒は、なお防江に藉口し、左逆をして侵犯に入らしめんと欲するか。北兵至れば、なお款を議すべし。左逆至れば、則ち汝らは高官、我君臣独り死するのみ」。力めて思孝らの議を排し、淮・揚の備禦は益々弱し。会に良玉死し、その子夢庚郡県を連ねて陥し、兵を率いて採石に至る。得功らと相持つ、大鋮・孔昭は方に虚しく捷音を張り、以て爵賞を邀うるに、大清兵は已に揚州を破り、京城に逼る。
五月三日、王は太平に出奔し、得功の軍に奔る。孔昭は関を斬って遁走す。明日、士英は王の母妃を奉じ、黔兵四百人を衛兵として、浙江に走る。広徳州を経るに、知州趙景和その詐りを疑い、門を閉ざして拒み守る。士英は攻め破り、景和を執って殺し、大いに掠めて去る。杭州に走り、守臣は総兵府を以て母妃の行宮とす。数日ならずして、大鋮・大典・方国安皆倉皇として至る、則ち得功は已に兵敗れて死し、王は擒えられ、翌日、潞王に監国を請うも受けず。未幾、大兵至り、王は衆を率いて降り、尋いで母妃とともに北去す。これ即ち大器らの議い欲して立てんとした者なり。
杭州既に降る、士英は監国魯王に謁せんと欲すも、魯王の諸臣力めてこれを拒む。大鋮は朱大典に投ずるも金華にて、亦た士民に逐われ、大典は乃ちこれを厳州総兵方国安の軍に送る。士英は国安の同郷なり、先ずその軍中に在り。大鋮は髯を掀げ掌を指し、日に兵を談じ、国安は甚だ喜ぶ。而して士英は南渡の壊れたること、半ばは大鋮に由るに、己れは悪名に居るを、頗る以て恨みとす。已にして、我が兵は士英・国安を撃ち破る。間もなく、士英・国安は衆を率いて銭塘を渡り、杭州を窺う、大兵これを撃ち破り、江に溺れて死する者算なし。士英は残兵を擁して閩に入らんと欲すも、唐王は罪大なりとして許さず。明年、大兵は巣湖の賊を討ち、士英は長興伯呉日生とともに擒え獲られ、詔してともにこれを斬る。事は国史に具わる。大鋮は謝三賓・宋之晋・蘇壮らとともに江幹に赴き乞降し、大兵に従って仙霞関を攻め、石上に僵仆して死す。而して野乗には士英は台州の山寺に遁れて僧となり、我が兵に捜索され獲られ、大鋮・国安は先後に降り、尋いで唐王は順昌に走る。我が大兵至り、龍扛を捜索し、士英・大鋮・国安父子の王に出関を請いて内応せんとする疏を得、遂に士英・国安を延平城下に駢斬す。大鋮は方に山を遊び、自ら石に触れて死し、仍って屍を戮すと云う。